父原病こそが母原病の根本原因

 母原病という深刻な病気が、子どもの正常な精神発達や人格形成を阻害してしまうということで一時期問題になった。この母原病によって、不登校やひきこもりまで起こしてしまうとまで言われて、世の中の母親たちは言われなきバッシングを受けた歴史がある。最近は、母親に子どもの問題の原因を押し付ける風潮は少なくなってきたものの、子育ての失敗は母親が原因だと思い込んでいる人は思った以上に多い。今でも、子どもの教育問題が起きると、教育はすべてお前に任せていたのだから、お前が責任を取れと嘯く夫がいかに多いことか。

 世の中の父親の多くは、仕事が忙しいからと子育てから逃避してしまう。そして、妻に子育てを任したと宣言して、自分の趣味や娯楽に没頭する夫がすこぶる多いのである。そこまでではなくて、学校行事にも積極的に参加するし、普段は子どもの面倒を見る夫もいるが、子育ての重要な局面になると腰が引ける。そして、母親だけに子育ての責任が押し付けられるのである。したがって、母原病と呼ばれるような子どもの症状は、元々母親に原因があるのではなくて、父親にそもそもの根本的原因があるのではないだろうか。

 母現病というと、母親が子どもにべったりで、子どもに依存してしまい、逆に子どもが母親に依存してしまっている状況で起きると思われている。つまり、母親があまりにも子どもを過保護扱いにしてしまい、子どもが自立できなくしてしまっていると思い込んでいる人がなんと多いことか。そして、主体性・自発性・責任性がない子どもに育てたのは、母親にすべて原因があると勘違いしているのである。しかし、真実はまったく違うのである。確かに、母親が子どもに対してそうしてしまった部分はあるものの、そうさせられたのに違いない。

 母現病になってしまい、依存性が強くて自立できない子どもは、学校でもいじめの対象になったり社会に出ても使えない人間だと蔑まれたりすることも多い。それは、母親が子どもを甘やかし過ぎて過保護状態にして育てた為だと思われている。しかし、実際はそうではない。母親が過保護の子育てをしても、何も問題が起きることはない。どんなに甘やかしても子どもは健やかに育つ。悪いのは、過干渉と過介入の子育てであり、支配したり制御したりする育て方をした場合である。そして、母親が強い不安感や恐怖感を抱えているケースである。

 母親が強い不安や恐怖を抱えて子育てしてしまうのは、父親に原因がある。そして、子どもに対して強い過干渉や過介入を繰り返してしまうのも、父親の行動に根本的な問題があるからである。強い支配され感や所有され感を子どもが持ってしまうのも父親に責任があるのだ。何故かと言うと、父親が本来果たすべき子育ての責任を放棄しているからである。そもそも母親が安心して子育てが出来る為には、何かあればすべての責任を父親が果たすからと宣言して置かなければならない。その宣言を今の父親はしていないのである。

 母親というものは、子育てする際に大きな不安を抱くのが普通である。そういう不安を抱いたとしても、父親が子育てに参加してくれて、最終的な結果責任を父親が果たすと言ってくれたなら、母親の不安が安らぐ。そして、父親である夫がまるごとあるがままに妻を愛してくれたなら、妻は安心して子どもに無条件の愛である母性愛を注げる。条件付きの愛情である父性愛(躾)を父親が担当してくれたなら、母親は子どもをあるがままにまるごと愛せるのである。そうすれば、子どもは安心するし自己組織化が進むので自立できる。

 夫が妻に対する行動において、起こしてしまう大きな過ちがある。夫は、妻を所有したがるし支配をしやすい。自分が思うように妻をコントロールしてしまうのである。意識してそうしている訳ではなくて、無意識下でそうしているのである。自分の思うような言動をした際に、不機嫌な態度をしたり無言になったりする。そうすると、妻は夫を不機嫌してしまったことを悔やみ、自分さえ我慢すればといいと思い込み、夫のご機嫌取りを続けてしまうのである。かくして妻は自由を失い、元気を無くしてしまい、人生を心から楽しめなくなる。このような状況に陥った母親が、子どもをあるがままにまるごと愛せる訳がない。つまり、子どもが母原病になる根底には父原病があると言える。

得体のしれない不安を感じる訳

 不安の時代だと言われる現代は、それ故に生きづらいと感じる人々が想像以上に多いと考えられる。不安から不眠になって不安障害を抱えてしまい、気分障害の精神疾患を抱える人も少なくない状況になっている。この不安は、現在の仕事や学業に対する不安、将来の経済的な不安も問題なのだが、得体のしれない不安はより深刻である。何故なら、具体的な対象に対する不安であれば、何とか解決しようとする対策も取れるが、得体のしれない不安だけはどうしようもないからだ。この得体のしれない不安を抱えている人が非常に多いのである。

 得体のしれない不安ほどやっかいなものはない。何か具体的な不安であれば、対応の仕方も考えられる。しかし、自分の抱えている不安が何なのか、何故こんなに不安なのか、まったく見当が付かないだから、どうにもならないのである。何かに対する恐怖というのは、まだましなのだが、人に説明できない不安は、どうしようもない。ましてや、何故こんな得体のしれない不安を抱えるのか、原因も解らないのだから対処もできない。そして、この得体のしれない不安は、一向に弱まることをしないし、止むことなくずっと続くのである。

 それでは、この得体のしれない不安の正体とそれが起きる原因について分析していきたいと思う。誰しもこの得体のしれない不安を抱えているのかというと、けっしてそうではない。特定の気質や養育環境に置かれた人だけが、この得体のしれない不安を持つことになる。まずは、脳科学的に検証すると、オキシトシンホルモンの分泌が不足しているのは間違いないと考えられる。オキシトシンホルモンが不足してくると、不安や恐怖が湧いてくる。安心ホルモンと呼ばれていて、このホルモンが不足すると安心できないのである。

 それでは、何故このオキシトシンホルモンが不足する人になるのかというと、オキシトシンホルモンのレセプター(受容体)が乳幼児期に作られていないみたいである。どういうことかと言うと、オキシトシンホルモンレセプターは、生まれてから3歳くらいまでに作成されると言われているが、何らかの原因で『愛着』が不安定になると、このレセプターが作られないと言う。このレセプターが作られていないと、いくらオキシトシンホルモンが脳内で作られても、受け取れないからこのホルモンが作用されず不安になってしまうのである。

 愛着が不安定になるのは、養育期に何らかの理由で養育者が居なくなったり変更になったりした場合である。または、ネグレクトや虐待によってもレセプターが作られない。さらには、まるごとあるがままに愛されるという体験が不足しても同様のことが起きる。つまり無条件の愛である母性愛が不足して、過介入や過干渉の子育てをして、子どもが支配され感や所有され感が強くなっても、オキシトシンホルモンレセプターが作られない。そうすると、絶対的な自己肯定感が確立されなくて、いつも強い自己否定感に苛まれる。

 このように自己否定感が強いパーソナリティを持ってしまうと、何をやるにしても不安になりチャレンジする気持ちが失せてしまう。ちょっとした失敗や挫折がトラウマ化しやすい。他人からの評価をとても気にしていて、自分が他人からどう見られているかがいつも気になる。また、オキシトシンホルモンが不足していると、神経が過敏になると共に心理社会的過敏になる。つまり、HSP(ハイリーセンシティブパーソン)になってしまうのである。こういう気質が基になって、なおさら得体のしれない不安に追い込まれるのである。

 得体のしれない不安を持ってしまうのは、自分をまるごと愛してくれて守ってくれる存在が居なくなってしまうのではないかという不安を抱えて、乳幼児期を過ごした人である。この見離され不安や見捨てられ不安は、根強く残ってしまう。得体のしれない不安を抱えている人は、突き詰めていくと見離され不安や見捨てられ不安に行き着くのである。これが得体のしれない不安の正体である。そして、その原因は不安定な『愛着』によるオキシトシンホルモン不足にあるのだ。それでは、この得体のしれない不安は一生改善しないのかというと、そうではない。自分をまるごと愛してくれて守ってくれる安全基地という存在が出来て、穏やかで平和な生活が続けば、やがて得体のしれない不安が解消される。

初等教育にこそ形而上学が必要

 日本の教育において、哲学教育が軽視されてしまった歴史がある。学校教育においても、そして家庭教育においても哲学がなくなってしまったと言っても過言ではない。そして、その哲学の中でも、とりわけ形而上学がまったく欠落してしまったのである。子どもが正常な発達を遂げるために、ましてや精神の発達段階において、形而上学が果たす役割は極めて大きい。それなのに、日本の教育には形而上学が全く不要だと、敢えて除外されてしまったのである。それ故に、日本の子どもたちに正しい価値観が育たなかったのである。

 正しい価値観を持たないのは、子どもたちだけではない。70代以下の大人はおしなべて正しい価値観や哲学を持ち得ていないのである。正しい価値観は、倫理や道徳を学ぶことで確立されるものだと思っている人が多いが、それは間違いである。倫理や道徳の教育を受けたとしても正しい価値観や哲学が身に付くことはない。何故かと言うと、学校で教える道徳や倫理の価値観は、人間が正しく生きる上で役に立つものだとは言えない。この道徳や倫理の価値観は、為政者や権力者にとって都合の良い偽のそれで、真理を捉えていない。

 江戸時代までは、神や仏が示す正しい価値観を教える形而上学を教えていた。それが、明治維新になり、欧米列強に対抗するために富国強兵を推し進めることになり、近代教育を取り入れた。この明治政府が仕入れた近代教育というのが、問題であった。近代教育の基本となるのは、客観的合理性に基づく教育であり、すべては科学的な根拠に真理を求めていた。科学的に証明できないものは真実ではないという考え方が支配的になってしまった。科学的に証明の出来ない形而上学を排除したのは、言わずもがなであった。

 客観的合理性を重視すぎる近代教育を強引に導入したのは、明治維新政府の元勲大久保利通であり、それに猛烈に反対したのは西郷隆盛であった。近代教育を導入すれば、国を滅ぼしてしまうと西郷は主張した。形而上学を排除してしまうことの危険を、西郷は心得ていたのであろう。この予想は見事に的中した。形而上学を排除して、客観的合理性だけを追求した日本の教育は、日本の子どもから自己組織化を喪失させて、責任性や主体性を発揮出来なくさせてしまった。身勝手で、自分さえ良ければいいという自己中心的人間を大量に生み出してしまった。

 客観的合理性の近代教育を否定するつもりはない。科学的な根拠に基づく考え方は、学問をするうえで必要不可欠である。しかし。あまりにも客観的合理性を追求し過ぎて、形而上学的な価値観をまるっきり否定してしまうと、科学技術が暴走してしまう危険がある。アインシュタインは、科学が正しく発達するには、形而上学が必要だと説いた。原子爆弾の製造に異を唱えずに賛成する文書に署名してしまったアインシュタインは、一生後悔した。科学の進化と利用において、形而上学が欠如すると科学は暴走して、殺戮の道具を産みだしてしまうと悔やんだのである。

 形而上学とは、人間にとって何が大切なのか、何を目的に生きるのかを、神や仏、または宇宙意思がどう示しているのかを学び取ることである。そして、人間の力ではどうしようも出来ない、偉大なる自然や宇宙の営みを実感・体感することである。人間を超越した存在があり、その前では人間がいかに無力であるのかを認識し、すべてをその偉大なる存在に任せるという潔さを持つことでもある。神とか仏というのは、常に全体最適や全体幸福を求めているのであるから、宇宙の一部である人間は、その全体最適のために貢献すべき存在であると認識すべきである。

 幼児教育や初等教育においては、そんな難しいことを幼い子どもには理解できないと思うかもしれない。しかし、そんなことは杞憂でしかない。幼い子どもこそ形而上学が大好きなのである。欧米においては、日曜に教会に行き神父さんや牧師さんの話に、子どもたちは聞き入る。江戸時代以前は、僧侶たちは寺子屋で子どもたちに説法を行った。家庭教育において形而上学を、子どもに語って聞かせるのは父親の役目だ。幼児教育や初等教育の段階から、形而上学をしっかりと教育して、正しい価値観を身に付けさせなければならない。子どもたちは、目を輝かせて全体最適や社会貢献の話を聴くに違いない。

広場恐怖症の原因と寛解の方法

 広場恐怖症と呼ばれる精神疾患が注目されている。女子プロゴルファーである菅沼菜々さんがツアーで初優勝して、自分が公共交通機関を利用できない広場恐怖症であることを優勝コメントで発したことでニュースになったからであろう。同じ広場恐怖症で苦しんでいる人々を勇気付けたいと思っているという。広場恐怖症とは、パニック障害のひとつとして捉えられることが多い。広場だけでなく、多くの人々が集まる場所やシチュエーションが苦手で、バス、電車、飛行機、船、エレベーターにも乗れなくなる人もいる。

 元々は普通に交通機関に乗れていたのに、ある時に特定の場所でパニック発作が起きてしまい、また同じ発作が起きるのではないかという恐怖が心を支配するらしい。初優勝した菅沼菜々さんは、公共交通機関に乗れないので、全国各地に父親が運転する車で転戦しているという。したがって、飛行機や船でしか行けないような沖縄や北海道でのツアーには参加できない。この広場恐怖症は、一旦発症してしまうと日時生活に支障を来してしまうし、通勤できないので会社勤めも出来なくなるケースが多い。

 この広場恐怖症が発症する原因は、遺伝的要因が大きいと言われていて、養育環境やストレスによって強化されてしまい発症するのではないかと推測されている。自律神経が何らかのショックによって暴走状態に陥ってしまうのではないかと見る医学研究者が多い。元々強烈な不安を感じやすい気質があり、衝撃的な事件・事故で副交感神経が働かなくなり、交感神経が暴走してしまい、それが固定化しているのではないかと推測されている。今までの医学的常識からすると、こんな診断をしてしまうだろうが、どうも納得できない。

 広場恐怖症が一旦発症してしまうと、予後は良くない。SSRIという抗うつ剤を投与したり、暴露療法や認知行動療法をしたりして、治療をするが効果が出にくい。何年にも渡り治療を受けても、効果が出にくいので社会復帰が遅れてしまうことが多い。それだけこの広場恐怖症という精神疾患が、難治性の疾病だと言えるが、原因や発症システムを見誤っているせいではないだろうか。自律神経のアンバランスや暴走だという見立ては、間違っていないと思われるが、交感神経の暴走というのは少し違うように感じている。

 何故かと言うと、副交感神経が抑えられて交感神経が暴走状態になったと仮定したとして、その暴走が長期化してしまうというのは考えにくい。通常交感神経が優位になってしまい、ずっと暴走のような状態が続いたとしても、交感ホルモンがずっと放出され続けることは考えにくい。なによりも、広場恐怖症は心と身体の遮断やブロックを起こすのである。交感神経とは、真逆の働きをするのである。とすれば、副交感神経である迷走神経のうち、背側迷走神経が暴走してしまい、シャットダウン化が起きたと考えるのが妥当だ。

 広場恐怖症を発症する人は、元々不安や恐怖を感じやすい。ということは、不安神経症的な気質を持ち合わせている。そして、HSPと呼ばれる神経学的過敏と心理社会学的過敏の気質を持つことが多い。さらに、何事にも完璧を求める傾向があるし、人の目を気にし過ぎる傾向があり、誰に聞いても『良い人』だという答えが返ってくるほど、優等生であることが多い。こういう気質こそが、広場恐怖症を発症させてしまう下地となっていると言えよう。そこに過大なストレスがあり、逃避や戦闘も出来ない状況で、想像を絶するような不安・恐怖を感じてしまうと、背側迷走神経が暴走し発症する。

 背側迷走神経が暴走した状況になりシャットダウン化が起きると、身体と心が動かなくなり、まったく行動できなくなってしまうのである。こうなってしまうと、また同じような事が起きてしまうのではないかと不安になり、同じシチュエーションに身を置くことが不可能になる。この背側迷走神経のシャットダウン化を解くためには、カウンセリングや適切なセラピーが有効である。または認知行動療法やオープンダイアローグ療法も効果がある。一番は、『安全基地』となる存在である。安全基地となる存在が、けっして否定せず傾聴と共感を繰り返し、ボディセラピーを実施して身体の緊張を解きほぐし、音楽療法などを併用することで寛解を迎えることが出来よう。時間がかかるが、治るのは不可能ではない。

ソバーキュリアスというお洒落な生き方

 ソバーキュリアスという言葉をご存じであろうか。数年前から使われ出している語句で、比較的新しい言葉である。ひとつの特徴的な生き方と言えるもので、お酒を飲めるのにもかかわらず敢えて飲まないという人生プランである。ただし、絶対に飲まないという頑なとも言える生き方ではなくて、人生の節目に当たるようなお祝い事には、多少のアルコールを嗜むこともある。お酒が嫌いとか飲めないという訳ではないのに、飲まないというのが新しくてお洒落だと言える。昔にはなかった人生における選択肢である。

 お酒好きで晩酌を欠かさないという人には、到底考えられない生き方がソバーキュリアスでもある。好きな人には、お酒がない人生なんて、実に詰まらないに違いない。職場の上司や同僚との飲み会は、無くてはならないものであろうし、友達との飲み会は何よりも楽しいに違いない。酒好きの人間にとっては、お酒を飲まないで集まりに参加するなんて、許せないかもしれない。お酒の場こそが人間関係を円滑にさせてくれるし、酒席を活用することで仕事が上手く行ったという思いがある。お酒の効用は非常に大きいと実感している。

 確かに、お酒の効用は多大なものがある。長い人間の歴史の中で、お酒がもたらしてくれた効用は数限りない。しかし、一方で酒による失敗も同様にある。酒というものが、いかに人生に大きな影響を与えてきたということである。それだけ、お酒というものが人間の歴史に様々な足跡を残してきたと言えよう。そんなお酒を、敢えて飲まないという人が増えてきたらしいのである。ソバーキュリアスという生き方を志す人が、世界中に増えてきたという。どうしてお酒を飲まないという人が増えたのであろうか。

 ちなみに、ソバーキュリアスという生き方を志す人は世界中にいるし、著名人にも多い。日本人では、泉谷しげる、斎藤工、伊達みきお、ロバートの秋山竜次、X JAPANのToshi、京本政樹、森保一らが挙げられる。海外では、ブラッド・ピット、ダニエル・ラドクリフ、アン・ハサウェイ、ヴィクトリア・ベッカム、ナオミ・キャンベル、ナタリー・ポートマン、マドンナ、ジェニファー・ロペスと枚挙に暇がない。しかし、日本人のソバーキュリアスは元々お酒が苦手だという人が多いが、海外の著名人は元々お酒が飲めるのに敢えて飲まないケースが多い。本来のソバーキュリアスとは、後者のことを言う。

 お酒を飲むことのメリットとデメリット、飲まないことによる長所と短所について述べるつもりはない。また、お酒を飲む人を蔑んだりソバーキュリアスの人々だけをリスペクトしたりする訳ではない。何故、著名人や教養・学歴の高き人たちにソバーキュリアスの人が増えたのかについて述べたい。元々、人はお酒を何故飲むのかと言うと、大脳生理学的にはドーパミンという脳内伝達物質が多量に放出されるからである。お酒を飲むと、快楽的になり気が大きくなるのはこのせいだ。そして、このドーパミンというホルモンは習慣性がある。つまり、このドーパミンの作用により、お酒に依存してしまうということである。

 ソバーキュリアスという生き方に目覚めた人々というのは、お酒に依存したり快楽を追い求めたりする生き方が、人間のあるべき生き方とかけ離れていることに気付いたのであろう。お酒を習慣的に飲むことが、精神的自立を阻んでしまい、自己人格の確立が実現できなくなることに気付き始めたのではなかろうか。人間が無意識的にドーパミンを放出させようとしまうのは、どこか満たされない人生を歩んでいるという感覚があると言えよう。自我人格を克服できないと、どうしても欲望(煩悩)に支配された生き方をしてしまうのである。

 欲望に支配されてしまっている自我人格を乗り越えて、自我人格と自己人格を統合させて、全体最適の高い価値観を持つ自己人格を確立するには、お酒を飲む習慣を持っていては難しいと思われる。勿論、100%無理だとは断定できないが、少なくてもドーパミンに支配されているような生き方では無理である。それは、お酒だけでなく煙草やギャンブルに依存していても難しい。アルコール依存症は、本人だけでなく家族を不幸にする。欧米では、アルコール依存症になる人が多く社会問題化している。だからこそ、ソバーキュリアスという生き方に人々が注目し、その生き方がお洒落でカッコいいと、もてはやされているのかもしれない。

教養が高い親ほど子育てに苦労する

 高学歴で教養があり知能が高い親は、子育てにもその能力を発揮して、優秀な子どもを育てることが出来ると思われている。ところが、逆にそういう優秀な親ほど子育てに苦労する例が多いのである。勿論、例外もあるし、立派な子育てをしている教養の高い親もいる。しかし、教養が高いと思われる医師・学者・教師である親が、子育てを苦手だと感じるケースが多いのも事実である。特に、コミュニケーション能力が非常に高い親ほど、子育てに苦難と困難を味わうことになりやすい。そして心が折れてしまうことも多いのである。

 一般的に、知能が高くてコミュニケーション能力にも秀でている親は、子育てが得意だと思われている。子どもを納得させることが出来るし、モチベーションを上げさせることが可能だと想像する人々が多い。ところが、子どもはコミュニケーション能力が高い親に対して、表面的には従順な姿勢を示しながら、本心では反発し反抗していることが多い。だから、親の言うことにハイハイと返答しながら、その場だけは取り繕うが、親が嫌がることを続けるし、親の期待に背く行動をとり続けることが少なくない。

 高学歴で教養があり知能の高い親は、自分が歩んできた道が唯一正しいのだと思い込み、同じような道を子どもにも歩ませようとする。勉学に励むことが大事であり、優秀な成績を残して、著名な大学を卒業して立派な職業に就くことが、子どもの幸福だと信じて疑わないのである。自分もそうやって努力して現在の地位や評価を得たのだから、子どもがそうするのは当たり前だと信じ、子どもに過干渉と過介入を繰り返す。中には、親の言うことに疑問を持つことなく、親の期待通りに歩む子どももいるが、少数である。

 何故、高学歴で教養がありコミュニケーション能力の高い親に、子どもは反発するのであろうか。または、一応従順な姿勢を見せていながら、期待に背く行動をするのであろうか。中には、発達障害グレーゾーンになってしまったり、不安定愛着スタイルを抱えてしまったりする子どもがいる。そして、不登校になったりひきこもりになったりする子どもも少なくないのである。多くの不登校やひきこもりに接してきた自分の経験からすると、そんな親子が非常に多いのも事実である。優秀な親であるが故に、子どもは苦しむのである。

 教養の高い親が言うとおりに信じて、けっして親の指導に疑問を持たずに、立派な職業についたとしても、社会人になってから本人が苦労するケースも多い。アカデミックの世界や医療関係で職に就くとか、または行政職であれば、ちょっと変わった人で使いにくいなと、思われるくらいで済む。ところが、民間企業だとそんな訳には行かない。主体性、自主性、自発性、責任性が持てないし、指示待ちの社員になってしまい、まったく使い物にならない。当然、企業内ではお荷物社員になってしまい、休職から離職するケースが多くなる。

 社会に出れば、事細かく指示したり指導したりしてくれる親は居なくなる。当然、自分で考えて決断して行動しなくてはならない。今まで干渉して介入してくれた親がいない。人間とは本来、自己組織化して自立していかなければ、社会ではひとりでは生きていけない。コミュニケーション能力の極めて高い親の元で、次はこうするのだよ、こうしては駄目なのよと、行動の先取りをして育てられた子どもは、親に依存しているので自立できていない。絶対的な自己肯定感も確立されていないので、苦難困難があるとすぐに挫折してしまう。

 教養があって学歴が高く、知能が高い親は、完璧な親を演じやすい。それに、子どもの前では感情を表出することも少ない。喜びや嬉しさ、悲しさや寂しさも、子どもの前ではあまり見せない。さらには、純粋なインナーチャイルドを子どもの前では、絶対に見せない。非の打ちどころのない親を持った子どもは日々息苦しさを感じる。強烈なエディプスコンプレックスやエレクトラコンプレックスを持ってしまうと、親を超越できないから、精神的な自立が拒まれる。子どもの前で完璧な親を演じ切ってはならず、マイナスの自己をさらけ出すことも必要なのである。

※まずは子どもをあるがままにまるごと愛することが肝要で、無条件の愛である母性愛をたっぷりと注ぐことが必要です。そして、4歳ないし5歳頃から少しずつ父性愛である条件付きの愛である『躾』を始めることが大切です。この順番を間違って、2~3歳ころから過干渉や過介入を繰り返して、子どもを支配してコントロールしようとしてしまうと、子どもは自己組織化せずに、親のロボットみたいな生き方になってしまいます。子どもに良い子を演じさせてしまうような子育てをしてはならないのです。教養があり学歴の高く、知能が高い親は注意が必要です。

溺愛するのは悪いことなのか

 札幌市のホテルで起きた首切断殺人事件が、父と娘の共犯によって起こされた犯行だという衝撃的な報道がされている。そして、母親もこの事件に関わっていたとして逮捕される事態にもなっている。娘ひとりで殺害を実行して、それに父と母が協力をしたのではないかと見られている。さらに、この娘は小学校から不登校になっていて、29歳になった現在はひきこもりだったとも伝えられる。この事件が起きた原因のひとつには、子どもを甘やかし過ぎて育て、溺愛した為だと主張する専門家が多数いるのには驚いた。

 教育評論家や家庭問題のアナリストの中には、こんな時代錯誤とも言えるような見識や理論しか持っていない専門家がいるのである。不登校・ひきこもりが一向に減らずに、改善する兆しがないのも当然である。おそらく、この事件の報道を見た教育関係者や文科省の役人たち、そして政治家たちも同じような原因分析をしたのではないだろうか。精神科医師である父とその妻は、この娘を過保護状態で育てて、溺愛した為に娘を不登校・ひきこもりにさせてしまい、このような凶悪事件を起こさせたのだと結論付けたいのに違いない。

 子どもを溺愛してしまうと、子どもを駄目にしてしまうというのは、教育関係者にとっては定説のようになっている。果たして、それは発達科学において正しいのであろうか。溺愛とは、限度を超えて盲目的に愛を注ぐことだと言える。それは親子関係や恋人関係(夫婦関係)にも用いられる。一般的には、溺愛してしまうとその関係を破綻させてしまうと思われている。溺愛する背景には、親が子どもに依存しているとか、自分自身が愛情に飢えている為に起きると分析されている。溺愛とは、愛に溺れると書く。

 溺愛とは自分を見失ってしまうくらいに対象者を愛してしまう行為ではあるが、果たしてこういう愛し方は間違っているのであろうか。確かに過ぎてしまうのは良くないことではあるが、愛するという行為が悪いことではない。両親や祖父母が、我が子や孫を溺愛するのは、当たり前のことである。溺愛することが悪いことだと決めつけるのは、どうにも納得できない。札幌の首切断事件を起こした娘の両親が、我が子を溺愛していたとは、到底思えない。事件を起こした娘は、逆に両親からの愛情に飢えていたのではなかろうか。

 世の中の親たちの多くは、我が子を深く愛することが出来ないでいる。特に、母性愛と言える無条件の愛を我が子に注ぐのが極めて下手である。条件付きの愛である父性愛を注ぐのは得意なのだが、あるがままにまるごと我が子を愛することが出来ない。何故かと言うと、自分自身がそのような愛情を注がれて育っていないからである。だから、現代の子どもや若者は、絶対的な自己肯定感が確立されていないのである。若者だけではない。中年者から高齢者も同じである。札幌の両親も自己肯定感が確立されていなかったのであろう。

 ましてや、札幌の事件を起こした父親は、正しい形而上学を学んでいなかったのである。形而上学というのは、科学を超越した神の領域の学問である。現代の日本人の殆どが、形而上学という概念を持ち得ていない。札幌の事件を起こした父親が、正しい形而上学を学んでいて、娘に対しても常日頃から形而上学について話していて、形而上学に基づいた行動をしていたとしたら、こんな不幸な事件は起きなかった筈である。勿論、娘が不登校とかひきこもりにもならなかったに違いない。両親が、絶対的な自己肯定感を持ち、形而上学を認識していたら、娘は幸福な人生を歩んだであろう。

 過保護とか溺愛は、けっして悪くないのである。札幌の両親は、良い子に育てようとか、立派に育てようとして、娘に対して過干渉や過介入を繰り返していたに違いない。この過干渉や過介入こそが、子どもを駄目にするのである。溺愛や過保護であったとするならば、干渉や介入はしない筈である。あるがままにまるごと愛するという行為を続けていたら、子どもは自ずと自己組織化するであろうし、絶対的な自己肯定感が確立する。そのうえで、神の哲学である形而上学を学んでいたなら、幸せな生き方が出来たに違いない。溺愛することが悪いと勘違いするような報道は控えてほしものである。

滝と龍と私(自分)

 滝を訪ねてじっくり眺めることが、Awe(オウ)体験として最適だというブログを前回書いた。滝には龍が住んでいて、そこを遊び場にしていて、昇ったりダイビングしたりを繰り返して楽しんでいる姿が想像できる。その龍とは自分の心の裡にあるインナーチャイルドとか抑圧されてない本来の自己ではないかということを記した。そして、龍と自分を重ねることで、自分自身の生き方を深く洞察して、本来の生き方を取り戻せるような気がするのである。そのことを、もう少し掘り下げて考察してみたいと思った。

 龍が滝の周辺で水遊びをしているというのは、昔の人々が想像していたことである。だから滝という漢字に竜が使われているし、龍が冠された滝が全国各地に存在する。龍の住処であるというのも日本各地で共通している認識である。その龍というのは、自由気ままな存在であり、ある時は大暴れして大雨を降らし、大水害を起こすこともある。逆に龍が沈み込んで活動を停止してしまうと、雨が降らなくなり干ばつを起こしてしまうと考えたようである。水害を防ぐために龍を鎮める祭りや、干ばつを終わらせる為の人身御供の儀式をしたのであろう。

 いずれにしても、天変地異や自然の猛威を龍のせいだとしたのは、自然の力というものが人間の力ではどうにもならないものだと認識していたからであろう。自然の猛威の前では、人間なんて無力なのである。だからこそ、人間がコントロールできない水を自由自在にできるのは、龍しかいないものだと認識して、龍神として畏れ敬ったのではなかろうか。そして、その龍神を力で抑える存在として不動明王を奉り、龍を慰める存在として十一面観音菩薩を祀ったのだと想像できる。昔の日本人には、豊かな想像力があったように思う。

 昔の日本人は、滝と龍の関係だけでなく、龍と自分自身の心を重ね合わせたのではないかと思われる。人間の心の中には、穏やかな心と激しい心を両方持ち合わせている。その激しい心というのか、マイナスの感情と言える怒り・憎しみ・妬み・悲しみ・寂しさというようなものを、龍という存在と同化させようと思っていたのではあるまいか。それらのマイナスの感情(自己)を、出さないようにとか周りに感じ取られないように、我慢して無理して暮らしていたように思われる。マイナスの自己を悟られないように生きてきたのだ。

 何故、マイナスの自己を封じ込めたのかというと、そのような激しい感情を周りの人々にぶつけてしまうと、良い関係性を損なうと怖れたからである。しかも、自分の心にはそういう怒り・憎しみ・妬み・悲しみ・寂しさなどのマイナスの感情はないのだと、自分自身に言い聞かせてきたのである。さらには、自分の心の奥底にある無邪気で純真な心であるインナーチャイルドさえも、抑え込んでしまい生きづらい感覚を持っていたように感じる。インナーチャイルドが暴れださないように、逆に落ち込まないようにと気遣っていたのである。

 自分の心の裡にある龍(マイナスの自己やインナーチャイルド)を封じ込めて存在しないことにして生きていると、強烈な生きづらさを感じるだけでなく、自己否定感が強くなり過ぎる。そうなると、いろんなことへの挑戦意欲や苦難困難を乗り越えようとする気力さえも萎えてしまう。嫌なことや辛い出来事が続くと、益々落ち込んでメンタルがやられてしまうこともある。自分の中に存在するマイナスの自己やインナーチャイルドを、まるっきり否定してしまい存在を消そうとしてしまうと、本来の自分を見失い生きる気力を失ってしまう。

 人生に疲れ切ってしまったりメンタルがやられたり人も、滝とそこで無邪気に遊ぶ龍を眺めていると、その龍に自分を重ね合わせることで、自分を取り戻せるのである。抑え込んでしまったマイナスの自己を表出させても大丈夫だよと、滝と龍が教えてくれる。本来の無邪気で純真なインナーチャイルドを、無理に抑え込まなくてもいいんだよと、龍が囁いてくれる。無理したり我慢を繰り返したりすると、本来の自分を見失ってしまい、どう生きていいのか悩み苦しみ、人生の迷宮に迷い混んでしまう。それでも、滝とそこに遊ぶ龍と出会い、しばし龍が自由自在に遊びまわる姿を眺めることで、あるがままに生きていいんだよと悟らせてくれるのである。

※いろんな滝を巡って眺めたとしても、そこに住む龍と誰でも出会えるのかというと、けっしてそうではありません。滝を巡り龍に出会えるかどうかは、その際に同行してくれるガイド役次第だと言えます。龍とコンタクトをして、龍のように伸び伸びと無邪気に生きることの大切さを教えてもらう為には、龍を感じる感覚を鋭くしてくれるブースター役が傍らにいることが必要なのです。イスキアの郷しらかわでは、滝めぐりツアーにはガイド役(ブースター)が同行します。

Awe体験に最適な滝めぐりツアー

 Awe(オウ)体験は、人間が心身共に健康であり続け、精神的に成長し進化して行き、正しい生き方を志す人間形成には必要不可欠なものだと、前回のブログで発信させてもらった。それでは、その大事なAwe体験を実践するには、どんな自然体験が相応しいのかという点を明らかにしたいと思う。昔の修行僧や修験者は、厳しい山岳修行を修めてAwe体験としたようである。しかし、現代人が生命の危険を冒すような山岳修行は難しい。そんな体力や気力を持つのは並大抵のことではない。もっと安全で確実なものはないだろうか。

 過去にAwe体験によって悟りを開いた歴史上の人物は、少なくない。まずは仏教の創始者である、仏陀が挙げられる。恵まれた裕福で安定した環境を自ら捨てて、厳しい修行を続けて涅槃の境地至ったと言われている。その後日本では、弘法大師空海が高知県室戸岬の洞窟に籠り、虚空蔵菩薩真言を100万回唱えて悟りを開いたと伝わる。役行者も厳しい山岳修行で悟りを開いた。天台宗においては、千日回峰行という決死の行を満了して大阿闍梨となる。真言宗では大峰奥駆け修行をやり遂げて悟りを開くと言われている。

 我々のような凡人が、そんな大それた修行を行うべくもないが、多くの人々が滝行をして煩悩からの解放を望むこともある。今でも、大峰山、御嶽、出羽三山、岩木山、七面山などでは修行としての参拝登山が行われている。これらの少しハードな修行をしたとしても、煩悩を完全に滅却して悟りを開くのは極めて難しいし、参加するにはハードルが高いように感じる。不完全ではあっても、危険を伴わずに何度も実行できるAwe体験はないものかと探したら、ようやく見つけることが出来た。滝めぐりツアーによるAwe体験である。

 滝は人気の観光名所であることが多い。何故滝の人気が高いのかというと、水がどどーっと流れ落ちる迫力ある眺めや音に惹かれるのではなかろうか。そして、ほとばしる水のしぶきや細かく漂う霧のような水滴から受けるマイナスイオンも心地よいのだろう。流れ落ちる水の姿から諸行無常を感じたり、滝や流れの音から1/fの揺らぎを体感したりする人もいることだろう。いろんな魅力が滝とその周辺の景色にあると言えよう。そんな魅力ある滝をゆったりとした気分で眺めていると、俗世間の嫌なことも忘れられるかもしれない。

 滝や瀧という漢字を見ていると、水と竜(龍)から出来ていることが解る。滝つぼには竜が住むとも言われている。そのせいか、各地の滝の名所に竜が付けられていることが多い。日光の竜頭の滝、那須塩原の竜化の滝、和歌山県の宝龍の滝、全国各地の龍門滝、水と龍は切っても切れない縁があるように感じられる。古来より、龍は水の化身とも言われている。天竜川や九頭竜川といった竜の名前が冠された川もある。昔から、龍が暴れると水害が起きると信じられてきた。竜神とか竜王、または竜宮として龍を崇め奉ってきた歴史がある。

 龍の化身である水や瀧を畏れると共に崇めてきたのは、人間の力では龍をいさめることが到底及びもつかないことを、身をもって感じていたからに違いない。人智の及ばないことだから、龍をいさめて抑えることが出来るのは人間ではなく、不動明王や十一面観音菩薩ではないかと思い至り、滝の近くに不動明王や観音菩薩を祀ったのではないかと思われる。不動明王の圧倒的な法力によって龍をいさめたり、観音菩薩の慈悲の力によって龍をなだめたりしたのではあるまいか。そういう感覚を日本人は持っていたのであろう。

 滝を眺めながら自分自身の生き方を振り返り、自然と自分の関係性を見つめ直し、どう生きるべきかを問うてみるのは、とても有意義だと思われる。何故かと言うと、水の化身である龍は、自分自身だからだ。自分の心の中にある、時には暴れだしたり塞ぎ込んだりするマイナスの感情や自己が龍であるという見方が出来ないだろうか。または、自分で抑え込んでしまったインナーチャイルドが龍そのものではなかろうか。その龍であるマイナスの自己やインナーチャイルドを、素直に認め受け容れて慈しむことで、慈悲の心を開花させることが出来るような気がする。その時に、傲慢な心を捨て去り、自然と一体化して本来の謙虚な心を取り戻すことが出来るのだと確信する。滝めぐりツアーがAwe体験として最適な理由が、ここにある。

※イスキアの郷しらかわでは、Awe体験としての滝めぐりツアーを実施しています。現在、定期的なツアーはまだ企画していませんが、➀奥日光三大名瀑ツアー(華厳の滝、竜頭の滝、湯滝)➁奥久慈の滝めぐりツアー(月待ちの滝、袋田の滝、生瀬滝)の二つのコースをご案内しています。ガイド料金は頂いていません。交通費は別途必要です。観光ツアーですと、時間に追われてゆっくり眺めることは出来ませんが、格別な珈琲とスィーツをご用意しますので、時間の許す限り滝(自分自身)とじっくり対話してください。問い合わせフォームからお申込みください。

Awe体験が人間の正しい生き方を導く

 Awe体験(オウたいけん)とは、大自然や大宇宙の悠久さや広大さを体感することで、自分自身の存在意義や自らの小ささを感じる体験のこと。このAwe体験は、その人間が生きる上で、とても大切な智慧を授けてくれると言われている。アメリカのジョン・テンプルトン財団の研究によれば、Awe体験をしている人は、見破る力、騙されない思考力を持つようになるという。Awe体験をしていない人は、情熱のある人の話や面白い話には弱く、説得されやすくなる。ものすごく情熱的に話されると、詐欺師でも信じてしまう。

 それに対してAwe体験をしている人は、真実を見破る力があるらしい。インターネット上の嘘の情報やフェイクニュースにも騙されることもなく、陰謀論に嵌まってしまうこともないという。また、カルト宗教に入信してしまうこともないし、怪しい自己啓発セミナーに騙されることもなくなる。さらには、ナダ・トロント大学のステラー博士らの研究では、Awe体験をすると自分の自我(エゴ)を少なくし、謙虚な気持ちを起こすことがわかっている。人間としてとても大事な、社会貢献性を持つということである。

 アメリカ・アリゾナ州立大学のシオタ博士は、Awe体験の効果として①マインドフルネスと同じように、何ごともありのままに受け取ることができる②心と身体をリラックスさせる③好奇心を引き出す④人と心のつながりを作る⑤利他の心を引き出す⑥心身を健康にする⑦創造性を引き出す⑧希望に満ちた状態になる⑨幸福感が高まる⑩嫉妬心など、ネガティブな感情が少なくなる。が起きるとしている。Awe体験によって、単に心が洗われるだとか、気分転換になるだけでなく、具体的に心身ともに良い影響があるとしている。

 中国・広州大学のリー博士らの研究は、Awe体験が「社会性行動」にどのような影響があるかを調べている。Awe体験で未来の時間の感覚を持てるようになり、社会性のある行動が取れるようになるという研究結果を出している。未来の時間感覚を持てるという意味は、自分が存在していない未来さえも、自分が生きている「いま」と同じような感覚で捉えるということである。つまり、自分が生きていない未来に対しても責任を負うということだ。100年後や500年後の未来に思いを馳せ、SDGsを大切にする生き方をするのである。

 カナダ・トロント大学ステラー博士らの研究ではAwe体験を頻繁にしている人は液性免疫を制御するサイトカインの一種であるインターロイキン6の濃度が低く保たれているという結果が出ている。インターロイキン6が長い期間に渡り過剰に産生されると、関節リウマチ等の自己免疫疾患を発症したり、慢性炎症性疾患を起こしたりする。また、癌細胞の増殖や癌転移の促進をしてしまうことも判明している。Awe体験を頻繁にしていると、病気にならないだけでなく、健康な身体を保って長生き出来るということである。

 日本では、古来より僧侶や修験者が山岳修行をしてきた。まさしくAwe体験によって高い人間性や社会性を獲得して、魂の浄化や進化が実現できると経験的に認識していたのであろう。それでは、登山をする人がすべて高い人間性を持ち社会貢献性を持ちうるのかというと、そうではない。単なる自然体験を沢山したからと言って、それがAwe体験になる訳ではない。大自然の雄大さと自分の小ささを実感もせず、傲慢な態度姿勢で、自然を愛でることもせず、山自慢するような登山をする人にとっては、Awe体験にはなり得ない。

 いくら自然体験を積んだとしても、雄大で偉大な自然や宇宙の営みを体感・実感して、それと比較していかにちっぽけな存在としての自分を自覚しなければ、Awe体験にはならない。さらには、広大な自然や宇宙の一部である自分を認識して、自然や宇宙と一体化した感覚を持ち、生かされている自分を自覚することが、Awe体験として必要なのである。その為には、自然の中に身を置いた際に、センスオブワンダー(驚きの感性)持つことが肝要である。そして、このセンスオブワンダーは、小さい頃の豊かな自然体験を通して、傍らの信頼する大人から導かれることが必要である。センスオブワンダーを持つ人間だけが、Awe体験を認識することが許されるのかもしれない。

 

※イスキアの郷しらかわでは、「Awe体験ツアー」をガイドしています。自然の雄大さや偉大さを体感するために、滝めぐりツアーやトレッキングをしながら、センスオブワンダーを持つために必要なことをレクチャーします。参加者の年齢・体力に合わせた自然体験ツアーを企画提案しますので、問い合わせフォームからお申込みください。