初等教育にこそ形而上学が必要

 日本の教育において、哲学教育が軽視されてしまった歴史がある。学校教育においても、そして家庭教育においても哲学がなくなってしまったと言っても過言ではない。そして、その哲学の中でも、とりわけ形而上学がまったく欠落してしまったのである。子どもが正常な発達を遂げるために、ましてや精神の発達段階において、形而上学が果たす役割は極めて大きい。それなのに、日本の教育には形而上学が全く不要だと、敢えて除外されてしまったのである。それ故に、日本の子どもたちに正しい価値観が育たなかったのである。

 正しい価値観を持たないのは、子どもたちだけではない。70代以下の大人はおしなべて正しい価値観や哲学を持ち得ていないのである。正しい価値観は、倫理や道徳を学ぶことで確立されるものだと思っている人が多いが、それは間違いである。倫理や道徳の教育を受けたとしても正しい価値観や哲学が身に付くことはない。何故かと言うと、学校で教える道徳や倫理の価値観は、人間が正しく生きる上で役に立つものだとは言えない。この道徳や倫理の価値観は、為政者や権力者にとって都合の良い偽のそれで、真理を捉えていない。

 江戸時代までは、神や仏が示す正しい価値観を教える形而上学を教えていた。それが、明治維新になり、欧米列強に対抗するために富国強兵を推し進めることになり、近代教育を取り入れた。この明治政府が仕入れた近代教育というのが、問題であった。近代教育の基本となるのは、客観的合理性に基づく教育であり、すべては科学的な根拠に真理を求めていた。科学的に証明できないものは真実ではないという考え方が支配的になってしまった。科学的に証明の出来ない形而上学を排除したのは、言わずもがなであった。

 客観的合理性を重視すぎる近代教育を強引に導入したのは、明治維新政府の元勲大久保利通であり、それに猛烈に反対したのは西郷隆盛であった。近代教育を導入すれば、国を滅ぼしてしまうと西郷は主張した。形而上学を排除してしまうことの危険を、西郷は心得ていたのであろう。この予想は見事に的中した。形而上学を排除して、客観的合理性だけを追求した日本の教育は、日本の子どもから自己組織化を喪失させて、責任性や主体性を発揮出来なくさせてしまった。身勝手で、自分さえ良ければいいという自己中心的人間を大量に生み出してしまった。

 客観的合理性の近代教育を否定するつもりはない。科学的な根拠に基づく考え方は、学問をするうえで必要不可欠である。しかし。あまりにも客観的合理性を追求し過ぎて、形而上学的な価値観をまるっきり否定してしまうと、科学技術が暴走してしまう危険がある。アインシュタインは、科学が正しく発達するには、形而上学が必要だと説いた。原子爆弾の製造に異を唱えずに賛成する文書に署名してしまったアインシュタインは、一生後悔した。科学の進化と利用において、形而上学が欠如すると科学は暴走して、殺戮の道具を産みだしてしまうと悔やんだのである。

 形而上学とは、人間にとって何が大切なのか、何を目的に生きるのかを、神や仏、または宇宙意思がどう示しているのかを学び取ることである。そして、人間の力ではどうしようも出来ない、偉大なる自然や宇宙の営みを実感・体感することである。人間を超越した存在があり、その前では人間がいかに無力であるのかを認識し、すべてをその偉大なる存在に任せるという潔さを持つことでもある。神とか仏というのは、常に全体最適や全体幸福を求めているのであるから、宇宙の一部である人間は、その全体最適のために貢献すべき存在であると認識すべきである。

 幼児教育や初等教育においては、そんな難しいことを幼い子どもには理解できないと思うかもしれない。しかし、そんなことは杞憂でしかない。幼い子どもこそ形而上学が大好きなのである。欧米においては、日曜に教会に行き神父さんや牧師さんの話に、子どもたちは聞き入る。江戸時代以前は、僧侶たちは寺子屋で子どもたちに説法を行った。家庭教育において形而上学を、子どもに語って聞かせるのは父親の役目だ。幼児教育や初等教育の段階から、形而上学をしっかりと教育して、正しい価値観を身に付けさせなければならない。子どもたちは、目を輝かせて全体最適や社会貢献の話を聴くに違いない。

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