メンタル障害は何故治らないのか

うつ病、双極性障害、パニック障害、適応障害、不安神経症などのメンタルの障害を起こしてしまっている方が増えている。何故もこんなにメンタルを病んでいる方が増えているかというと、ストレスフルな世の中のせいだとする専門家も多い。職場において、PCなどのIT機器や最新機器の操作で一日の大半を過ごす職員、または対人サービス業における難しいクライアントに対する応対を求められる職員、クレーマーや理不尽な顧客に対応せざるを得ない職員、パワハラやセクハラ・モラハラなどの職場における嫌がらせを常時受けている職員、そういう実に気の毒な社員・職員が多いせいもある。こういう勤務状況はなかなか改善出来ないし、自分の努力だけでは解決し得ない職場であるので仕方ない。

 

さて、メンタル障害を起こしてしまった方たちは、医療機関に足を運び診断を受けて、投薬・注射またはカウンセリングや認知行動療法などの治療を受ける。薬物治療は、緊急避難的な用法においては効果が現れるケースが少なくない。しかし、長期的な薬物投与は、どうしても効果が長続きしないし、副作用が表出するケースが多いという。さらにメンタル障害を起こした方々は不眠症を伴うことが多いのであるが、睡眠導入剤や睡眠薬などは緊急避難的に短期で利用する意味はあるものの、長期投与ではその効果が続かなくなるケースが多いし、副作用や離脱が難しくなる。カウンセリングや認知行動療法もまた、一時的には効果があるものの、完全治癒まで到達する例はなかなか見えにくい。

 

抗うつ剤としてSSRIやSNRIなどの新薬が登場した際には、画期的な抗うつ剤として大きな期待をされた。副作用も少ないとされ、うつ症状の患者さんたちはこれで自分達も救われると喜んだのである。しかし、残念ながらこれらの新型の抗うつ剤も長期投与されてしまうケースが多いし、離脱症状の危険性もあり、一度飲み始めたらずっと飲み続けなければならないという結果を示している。不思議なことに、これらのSSRIやSNRIの新薬が登場して、うつ病の患者さんは減少するどころか、かえって増加しているという皮肉な結果を示しているのである。

 

このように、様々な医療行為を受けることで、寛解や症状の軽減という例はあるものの、完全治癒というケースが極めて少ないというのも不思議である。ここに精神医療の限界というものが見え隠れしているように思えて仕方ない。たまに完全治癒した人の話を聞くことがあるものの、それは一時的な投薬を受けても、長期投薬を中断して、自力で治したというケースが殆どであるというのも不思議なことである。勿論、すべての医療行為を否定するものではないが、医療だけでメンタル障害が治癒することはごく稀であるという事実があるのも確かであろう。精神医療の行為には何が足りないのか、何を足せば完全治癒に向かうことが出来るのか、明らかにしていかなければならない課題が存在していると思われる。

 

これだけ医療が進歩して、新しい薬剤や治療法が提起されているにも関わらず、何故か精神医療分野だけは完全治癒が少ない。完全治癒が難しい分野だとは認識しているが、それにしても治りにくいし、これほど多くの患者さんが増えているというのは解せない。メンタル障害とされる原因も、違うのではないかとも感じられる。メンタル障害を起こす方々に共通しているのは何かというと、確固たる理念が存在しないという点と、何があっても揺るがない自己肯定感がないという点である。つまり『自己マスタリー』が確立されていないという点に注目したい。理念とは正しい真理に基づいている信念のことであり、自己マスタリーとは真の自己確立のことである。この二つがないことで、多くの方がメンタル障害に苦しんでいるのではないかと想像している。

 

正しい理念とは、この宇宙・社会の存在そのものを担保している真理に基づいた信念であり、端的に言うと『システム思考』のことである。全体最適とそれを担保する関係性重視の哲学のことと言い換えられる。自己マスタリーとは、マイナスの自己と呼ばれる低劣な価値観を持った自己を認め受け容れ、そしてそのマイナスの自己を恥じると共に慈しむことが出来る自分を確立することである。言葉では優しいが、自分を完全に否定して消してしまいたいと思い悩む世界に浸ることでもあり、簡単には出来得ない。おそらく、この日本で自己マスタリーを完全にクリアーした人は1割にも満たないはずである。マサチューセッツ工科大学のペーター・シュンゲ上級講師が提唱している理論であるこのシステム思考を身に付け、自己マスタリーに成功すれば、メンタル障害から完全に立ち直ることが可能となるであろう。

自ら命を絶つ前に

大手広告会社の期待の新人社員が自らの命を絶ってしまい、労災認定がされたというショッキングなニュースが流れました。さらに、大企業の薬品会社の新入社員がやはり自殺をして、労災と認定されたという報道がありました。これらの報道は、労災認定をされたということでマスコミが取り上げただけであり、労災認定をされない仕事が原因の自殺は、他にも相当にあると推測されます。なにしろ、統計上明らかになっているだけで、年間3万人近くの方々が自ら命を絶ってしまうこの日本です。おそらくは、仕事上のストレスや疲れから自殺に追い込まれてしまっている方は相当に多い筈です。それにしても、こんなにも豊かで便利な世の中になったにも関わらず、生きにくい社会になっているというのは、理解できないことでもあります。

 

今、職場で心身共に疲れ切ってしまい、他には解決の方法が見つからず、死んでしまうしかこの現状から解放されないと思っていらっしゃる方がいらしたら、ちょっと待ってほしいものです。または、職場での執拗なパワハラやセクハラを受けて、会社は何も対応策をしてくれず、家族との板挟みで会社を辞める訳にも行かず、死んでしまうしかないと思っていらっしゃる方がこの日記を読んでいましたら、早まらないでほしいのです。このような八方塞がりの状況に追い込まれた方々にしてみれば、他には方法がないと思っていらっしゃることでしょう。確かに、もう誰も助けてくれないし解決策は他にないと思うのも当然かもしれません。

 

しかし、もし自殺という道を決断したとしても、あとせめて1週間から10日くらい先延ばし出来ないでしょうか。そして、「イスキアの郷しらかわ」で数日間過ごしてほしいと思います。または、会社を休めないなら土日の2日間でもよいから、しばしの休息を「イスキアの郷しらかわ」で過ごしてみてはどうでしょうか。勿論、しばしの休息で仕事の状況が変化する訳ではありません。しかし、少なくても自分をもう一度見つめ直す時間は必要ですし、何か心境の変化が見られるかもしれません。『四季彩菜工房』という農家民宿で、心尽くしの料理や心優しいもてなしを受けることで、心が癒されるに違いありません。または、辛くて苦しい出来事をありのままに受け容れてくれる相談をしているうちに、何かしらの解決策が見いだせるかもしれないのです。

 

最先端の心理学においては、マインドフルネスという方法が推奨されています。マインドフルネスというのは、ストレスコーピング(解消策)の有効な方法の一つです。ストレスを解決するには大きく分けて2つの方法があります。ひとつは問題焦点型のストレスコーピングで、ストレスの原因をダイレクトに解決するという解消法です。もう一つは情動焦点型のストレスコーピングで、問題そのものは解決できないものの、そのストレスに対する自分の認識や考え方を変えて、ストレスをストレスとして認知しないようにする方法であります。または、ストレスの対する耐性や柔軟な思考が出来るようにするという解消法です。その情動焦点型のストレスコーピングの有効な一つの方策がマインドフルネスです。

 

日本では、古来よりこのマインドフルネスという考え方や方策が実践されてきました。仏教では『唯識』という考え方です。瞑想、座禅、写経、読経、滝行や山岳修行などの苦行難行として実践されてきた歴史があります。マインドフルネスとは、ストレスから完全に開放されるような「何か」に心を奪われることにより、マイナスの思考を停止または手放すことで、本当の自分を取り戻すという方法です。人間は一旦強大なストレスに支配されてしまいますと、そのストレスを考えないようにすることが出来ず、四六時中そのことだけを考えてしまいます。それでは、不眠に追い込まれたりうつ状態になったりして、正しい考え方が出来なくなってしまうのです。これでは、解決策は思いつかなくなるばかりか、生きる気力も失ってしまいます。

 

マインドフルネスをするには、ストレスの原因になっている場所からなるべく離れて、非日常の世界に身を置くことが、まずは求められます。何もかも忘れてしまうには、自然豊かな処で、農業体験や自然体験に勤しむことが有効です。また、自分をまるごと受け容れてくれて許し肯定してくれる環境も必要です。それが、まさしく「イスキアの郷しらかわ」です。一旦思考を停止させて、自分自身をまずは取り戻すことが出来る場所、「イスキアの郷しらかわ」で、しばらく過ごすことでマインドフルネスが実践できます。仕事を休めない方は、週末だけでも何回か訪れてみてはいかがでしょうか。休職をしているなら、数日滞在することで、デトックスが可能になります。自ら命を絶つのは、今一度考え直してみてください。イスキアの郷しらかわで過ごしてみてください。自分の本当の「出口」(グリーンエグジット)がきっと見つけられます。

自己責任論の危うさ

元復興大臣が、自主避難者は自己責任だと言い切っていたが、同じように本音では自己責任だと思っている政治家や官僚たちが実に多い。批判されることを恐れて、口に出してこそいないが、貧困や格差問題も、自己責任だと思っている政治家や官僚、そして富裕層の人々は少なくない。子どもの貧困問題や高齢者の医療・介護問題だって、根本的には自己責任だと考える人は多いに違いない。アリとキリギリスというイソップ寓話を引き合いに出して、生活保護を受給している家庭や国民年金しか受給出来ていない貧困家庭を批判的に見ている富裕層は少なくない。そして、そうなったのは自己責任だから自業自得だろうと思っているのではないだろうか。

 

確かに、そういう見方も出来ない訳ではない。しかし、自己責任という言葉だけで社会的弱者を切り捨てることは出来ないのではあるまいか。何故なら、そのような社会的弱者を作り出したのは、政治や行政にも責任の一旦があるからだ。高福祉社会においては、なまじっか働いて苦労するよりも、国や市町村などによる福祉サービスを受けたほうが経済的には豊かな生活を送れるケースが少なくない。国民年金から2ケ月に1度10万円ほどの年金額が支給されるより、生活保護費を毎月10万円以上支給されたほうが、遥かに豊かな生活が出来る。働けるのに働かないという選択をする国民がいるのも確かである。しかし、それがすべてではないし、働こうとしない国民を作り出してしまった政治と行政の無策にも責任があると思うのである。

 

政治は、世の中に貧困を作り出すようなことをすべきではない。それも、貧困が多世代に渡って連鎖するような社会を作るのは、失政だと言っても過言ではない。江戸時代以前に、過酷な自然災害や飢饉などで人々が飢え、社会不安に陥ったケースが少なくない。ある意味仕方がないという側面もあるが、そういう世情不安が起きるような例でも、政治がしっかりしていれば、何とか乗り切れたという歴史がある。ところが、政治や行政が失敗を繰り返すと、貧困が蔓延化してしまい、一揆やクーデターが起きてしまった歴史がある。世界の歴史を見ても、貧困化が一定の率を越えてしまったときは、革命やクーデターが起きているのである。それは、政治の無策によるものと言っても過言ではない。

 

時の政治家や為政者は、貧困や格差が起きたことに対する自分の責任を回避して、市場経済のせいにしたり市民の無能や無教養が原因だとしたりするが、その主張が的を射てないのは明白である。つまり、自己責任論を展開するのは、政治家や官僚が自分の無能さを社会に対して自ら宣言していると言っても過言ではない。政治の重要な役割のひとつが、社会的弱者を生み出さないようにするのは当然だ。頑張った人が報われるべき社会にすべきだとしても、所得の再分配や富の再配分という機能を政治が果たさないといけない。貧困や格差は、本人の怠惰な性格や生き方、または本人の間違った価値観にあるとする考え方もあろう。しかし、そういった思想哲学の低劣化は、公的教育の貧困さに原因があると言えまいか。

 

江戸時代において、貧困や格差がまるっきりなかったとは言えないが、幸福度という尺度から見たら、その格差は社会的に許せる範囲だったように思える。何故、江戸時代はそんな社会が築けたのかというと、『システム思考』という考え方が浸透していたからではあるまいか。個別最適を目指すのではなく、常に全体最適を目的にしていたのである。当然、全体最適を目指すからには、お互いの関係性をとても大切にしていた。そして、弱者や敗者に対する思いやりというか慈悲の心を最重要視していたのである。特に、社会的強者である武士は、常に弱者に対する配慮を重んじる教育を幼少期から受けていた。つまり、惻隠の情という教育を徹底していたのである。現代における政治家と官僚の役割を果たしていた武士こそ、社会的弱者に対する配慮が必要なのだと教えられたのである。

 

現代の政治家や官僚に、惻隠の情があるかというと、彼らの言動からはあまり感じられないのである。どちらかというと、社会的強者に対する配慮のほうが優先していて、弱者を思いやる政策は不足している。アベノミクスは強者のための経済政策であり、富裕者が益々豊かになる政策である。トリクルダウンが起こり、貧困者にも富のおこぼれが起きると主張しているが、実際には起きていないし、円安は貧困者や年金生活者の生活を圧迫している。自己責任論が彼らの根底にある価値観であるから、惻隠の情があるとはまるっきり思えない。富や所得の再分配のための政策は後回しになっているし、格差は益々広がっているのが実情である。政治家や官僚は、自己責任論をひとまず封印して、江戸時代の武士を見習い、惻隠の情を根本的な価値観にした政策を進めてほしいものである。

怒りの感情を上手に処理する

この世は、とても生きずらい。自分が思っているような理想社会には、ほど遠い。自分を傷つけたり無視したりする人がいる。または、自分を支配し制御しようとする人も多い。どうして、こんなにも人が人をコントロールしたがるのであろうか。それにしても、怒りや憎しみの感情を起こさせる人のなんと多いことだろうか。身勝手で自分のことしか考えない自己中心的な人は、平気で人を傷つけるようなことをする。パワハラやセクハラ、モラハラをしてくるし、わざと人が困るようなことを何度もしてくる。怒りの感情がふつふつと込み上げてくる。しかし、この怒りを当人に返すと、その何倍にも還ってくるし、逆切れするかもしれないので我慢するしかない。生きずらい世の中である。怒りを抑えるしか方法がないのだろうか。

怒りという感情は持ってはいけないと言われている。仏教の教えでは、「憤りの心は燎原の火の如し」と言って、けっして持ってはならないものだと説く。つまり、憤りの心を心の中に燃え盛らせると、燎原(原っぱ)に火をつけたと同じで何もかも焼き尽くすし、その火は自分をも焼き尽くすという。これは脳科学的にも証明されている。怒りの感情は、脳の偏桃体を刺激する。そうすると、偏桃体から副腎にコルチゾールを分泌させるように命令が行く。怒りの感情が起きると、戦闘態勢に入りなさいと脳が指示するのである。コルチゾールという副腎皮質ホルモンは、血圧を上げて脈拍数を増やす。コルチゾールは、脳の海馬に伝わり、記憶系を麻痺させる。恐怖や不安感を失くすようにするためではないかと思われる。脳と身体を臨戦態勢にすることで、体調の変調までさせてしまうのである。

さらに、コルチゾールが海馬を刺激し続けると、海馬が委縮してしまうことが分かっている。海馬というのは、記憶を司る大事な場所。海馬が委縮すると、記憶障害が起きるし、ひどくなると認知症にもなってしまう。コルチゾールによって血圧が上がり脈拍数を上げて、血糖値も上げてしまうと、生活習慣病になってしまう。脳血管障害や心筋梗塞を起こすこともあろう。怒りの感情というのが、どれほど自分の身体を傷つけるということが解る。怒りはメンタルの病気を起こすこともあるし、生活習慣病の元になると言っても過言ではない。怒りは一刻も早く手放さないと、自分の身を焼き尽くすのである。

とは言いながら、怒りを爆発させると人間関係を損なうから解放できないし、我慢するのもよくないとなったら、どうすればいいのだろうか。怒りを手放すにはどうすればいいのかというと、脳内の怒りの感情を上手に処理するしかないのである。怒りの感情は右脳に記憶される。そして、右脳にある怒りの記憶は、忘れようとしても忘れることが出来ないし、時々怒りの記憶が蘇り自分を傷つける。だから右脳から左脳に怒りの記憶を移し替えるのである。そうすれば、第三者的に客観的に怒りの記憶を眺められる。ああ、あの時私は怒りの感情があったんだと、過去のこととして冷静に自分の怒りの記憶を見れるようになる。そうすれば、怒りは偏桃体を刺激しないし、コルチゾールも出ないから海馬を委縮させない。

それでは、怒りの記憶をどのようにして右脳から左脳に移し替えればいいのだろうか。移し替えのコツは、カウンセリングである。右脳にある怒りの感情を誰かに話して、その話を傾聴してもらい否定せず共感してもらうのである。そういうことを何回か繰り返すと、怒りの記憶を右脳から左脳に移し替えられる。日記やブログでもいいが、その際否定されたり馬鹿にされたりすると効果がない。優秀なカウンセラーは、自分のことのように相手の話を聞く。けっして否定したり無視したりせず、相手の身になったように共感するのが、本当のカウンセラーである。『イスキアの郷しらかわ』では、まずはこのようなカウンセリングをしたい。怒りの感情の処理を手伝いするので是非利用してほしい。

 

運命か、それとも自由意志か

我々人間は、運命によって支配されているのであろうか。それとも、自分の運命は自由意志によって、どのようにでも変えられるのであろうか。2000年以上も今まで議論をされ続けてきた問題であるが、結論はまだ出ていない。今までは、観念論や宗教哲学等として考察されてきたのであるが、最近は最先端の科学的手法によって、その真偽が明らかにされようとしている。面白い結論が導かれようとしていることが、実に興味深い。

物理学者、量子力学者、神経学者、脳科学者たちは、運命か自由意志かの検証を続けている。ノーベル物理学賞を受賞したトホーフト博士らは、量子力学や素粒子の観点や神経学の実験などから、実に様々な仮説を唱えている。一部の科学者は、人間は自由意志を使って自分の行動をコントロールしているように見えるが、無意識の意識が行動を起こす10秒前に働いていて、意識している意識に影響を与えているこという実験結果を示し、やはり人間は何らかの見えないものに操られているのではないかと結論付けている。運命に支配されているというのである。

一方、ある量子物理学の博士たちは、素粒子の不確定性原理を用いて、量子力学のあいまいさによって、ある程度人間の意識が物体に影響を及ぼすことが出来ると説いている。つまり、100%ではないにしても、ある程度の部分は人間の意識で運命をも変えられるのではないかという仮説を主張しているのである。いずれにしても、どちらの仮説も、完全に実証されている訳ではない。どちらを信じるかは、本人の選択によるであろう。

ところで、カリフォルニア大学のジョナサン・スクーラー氏は、実に面白い実験を実施した。学生を被験者にして、まず2つのグループに分けた。一方は、人間は運命に支配されているので自由意志で運命を変えることは出来ないというメッセージを長い時間受けたグループである。もうひとつのグループでは、自由意志で人間の人生はどうにでも変えられるし、運命さえも自分の意思により変えることが出来るというメッセージを長い時間見せられたのである。そして、あるダミーの問題を解くように指示を受け、採点の時間がなくなったので自己採点をするようにとの指示を学生たちは受けた。しかも、その問題は超難問であり、殆どの学生が2問くらいしか正解出来ない問題であるし、正解ひとつに付き1ドルを用意した小瓶の中から自由に取ってよいとしたのである。

そうしたら、実に面白い実験結果になったという。自由意志で運命さえも変えられるというメッセージを受け続けた学生は、殆ど誤魔化しをしなかったという。ところが、人間は運命によって支配されているから自由意志は働かないというメッセージを見続けた学生は、正解以上の1ドルコインを手にしてしまったという。つまり、人間は運命に縛られていると思い込んでしまった学生は不正を働き、人間は自由意志によって行動するとした学生は、正義感や倫理観が高くなり不正を働かなかったということらしい。

何故、そんなことになってしまったのかというと、どうせ自分は運命によって支配をされているのだからということで、正しく生きるべきだという倫理観が低下してしまったらしい。または、元々あった欲望の暴走が、運命によって支配されているということを言い訳にして止められなかったという見方をしている。いずれにしても、人間とは自由意志で生きていると思っているほうが、倫理観が高まるし、運命に支配されているから自由意志は働かないという考え方は、人間の道徳観念を著しく低下させるということである。我々はどんな価値観を持って生きるべきかということを如実に示していると言えよう。子どもたちの教育にも、生かしていきたいものである。

 

スピリチュアル依存症

スピリチュアルという言葉が独り歩きしている。しかも、そのスピリチュアルという言葉が心地よく聞こえるのか、それにどっぷりと浸かっている人たちが増えている。そして、このスピリチュアルに心奪われ人は、ウィルスに感染しているかのように、急激に広がりを見せている。以前は、魂だの霊だのと言う人は、どうしても胡散臭く見られていたのに、スピリチュアルという洒落た語感が功を奏したのか、同じことを言っても受け入れられることが多くなった気がする。しかし、それによりとんでもない悪影響を与えつつあるのも事実である。つまり、自分に不遇な境遇が現れると、自分のせいではなくてすべてスピリチュアルな要因にあると思い込んでしまうのである。そして、そのスピリチュアルにすっかり依存してしまって、頑固な態度で聞く耳を持たなくなっている人々が急増しているのである。

この言わばスピリチュアル依存症と呼べるような人々は、一旦信じ込まされてしまうと、他の人の忠告に耳を貸さず、頑なに思い込む傾向にある。何故かというと、自分の不遇がこのスピリチュアルなものに原因があると言われたほうが、心が休まるからである。自分に与えられた苦難や困難が、自分の生き方に問題があったからだと指摘されるよりも、前世からの課題や試練によってもたらされたものだと言われたほうが、耳に心地よいのは当然だ。このようなアドバイスをするスピリチュアルカウンセラーは、自分でも無意識のうちに、このような助言を無責任にしてしまう。具合の悪いことに、自分でもそのように信じ切っているものだから、クライアントに対して自信満々の態度で伝える。それも、様々な小道具や音楽・アロマ等を利用するものだから、深く潜在意識に届く。したがって、疑いもせずすっかり信じ込んでしまうのだ。

このスピリチュアルという呼び方も拙い気がする。スピリチュアルカウンセラーとかスピリチュアル占いとかいうと、怪しげな感じがしない。霊魂カウンセラーなんて呼んだら、いかにも怪訝そうな気がするだろう。このソフトなイメージによって、多くの人が惑わされている。勿論、スピリチュアリティそのものがこの世に存在しないし、そんなのはすべてまやかしである、などという乱暴なことを言うつもりもない。科学的には証明出来なくても、集合無意識ということや、過去世の記憶を持って生まれてくる人間の仕組みを信じていない訳ではない。だとしても、今のスピリチュアルブームは異常であり、誤解している人が多いし、あまりにも依存し過ぎているのは問題と言える。

スピリチュアルブームの火付け役の一人である、元福島大学の教授だった飯田史彦氏は、社会に対して警鐘を鳴らしている。自分の性格・人格・人間性に問題があり様々な苦難困難と巡り合うケースで、真にスピリチュアリティに原因があるケースは、僅か10%以下であると言い切っている。彼はスピリチュアリティにおける特殊な能力を持ち、ボランティアでかなりのクライアントを救っている。その解決事例を通してそのように断言している。彼は、このカウンセリングにおいて一切料金を取っていない。ところが、スピリチュアルを利用してヒーリングをしている人々は、結構法外な料金を請求している。それで商いをして生計を立てているのである。つまり、クライアントを多く取りたいし、逃がしたくないのである。本人には悪気はなくても、こういう人は信用出来ない。

スピリチュアルを商売にしている人々がすべてまやかしであるなどということを言うつもりもない。しかし、すべてのクライアントに対して、これはスピリチュアリティに問題があって、前世の誰それがいたずらをしていると答えているようなカウンセラーは、信用出来ない気がするのである。そして、スピリチュアル依存症の人々を利用してお金を巻き上げるなんて、許せない所業である。自分のつらい境遇すべてに対して、スピリチュアリティを原因にしてしまったら、謙虚に自己を反省しないし、自己成長や自己の確立を遅らせてしまう。自分に起きている苦難困難が、すべてスピリチュアリティに問題があって起きている訳ではないということを認識してほしい。自分の目の前の試練から、スピリチュアリティに逃げないでほしい。そうしないと、本当の解決はやって来ない。スピリチュアル依存症から勇気を持って撤退してほしいものであり、今の自分自身を素直に見つめてほしいと思う。