引きこもりを乗り越える方法

 引きこもりの状況に追い込まれてしまうと、この状況から抜け出すのは容易でない。だから、8050問題と呼ばれる社会的な大きな問題にもなっているし、内閣府の調査によると146万人にも及ぶという。なんと50人に1人が引きこもりだというのだから、驚きの調査結果である。さらに、引きこもりになる人は増加の一途だと言われている。深刻なのは、引きこもりは若者だけでなく、中高年者にも多いと言う事実である。そして、一旦引きこもりになってしまうと、その状況が長期間に及ぶことから、支える家族にとっても深刻だ。

 引きこもりになるきっかけはそれぞれ人によって違うし、どうして引きこもりになったのか当人にも解らないケースも少なくない。そして、引きこもりになった本当の原因が、当人にも家族にも認識できていないのである。勿論、人生における大きな挫折や仕事での失敗や躓き、職場でのいじめやネグレクトが原因だと思っている場合も多いが、それは本当の原因ではない。大切な人を失ってしまった心的外傷により引きこもりになったと思う人もいるが、けっしてそれが原因でもない。引きこもりの本当の原因を認識していないのである。

 引きこもりの本当の原因は、外的原因ではなくてあくまでも内的原因なのである。つまり、外的な事故・事件や現象によって引きこもりになったのではなくて、あくまでも本人の内因にそもそもの原因があるのだ。外的な事件・事故は単なるきっかけであり、引きこもりになった本当の原因は本人が抱えている精神的な偏りや拘りにあるのだ。抱えている一番深刻な精神的偏りとは、強い自己否定感である。自己肯定感が極めて低いのである。そして、その原因は親との豊かな愛着が形成されていないことが根底にあるのだ。

 親との豊かな愛着が形成されておらず、極めて劣悪な愛着となっている。愛着障害と言っても過言ではない。引きこもりになっている人は、殆どが愛着障害であり自己肯定感が極めて低いのである。さらにHSP(神経学的過敏症&心理社会学的過敏症)があり、いつも不安や恐怖感に支配されている。その不安も、特定の不安だけでなく、得体の知れない不安に苛まれることが多い。特定の不安であれば、その不安を消すための努力ができるのであるが、得体の知れない不安は、対象が不明なので対応し切れないのである。

 このように、引きこもりの本当の原因が愛着障害にあって、極めて強い自己否定感とHSPが根底に存在することで、強い不安を抱いて引きこもりになると言える。普通の人なら心的外傷にならない程度の事件・事故が強烈なトラウマとなってしまい、それが積み重なり複雑性のPTSDのような症状を起こすと考えられる。小さい頃からの積み重なった心的外傷が、ボディーブローのように心を蝕んでしまい、引きこもりを選択するしかなくなるのだ。根底にある愛着障害を癒すことが出来なければ、引きこもりは解消できないことになる。

 愛着障害は親との不健全で歪んだ愛着によって起きるのであるから、親が変わらなければ愛着障害は癒すことが出来ない。親が劇的に変わって、乳幼児期からの子育てをやり直すことで、愛着障害は解消される。しかし、現実的には引きこもりの親はどうして良いのか解らないことが多い。子どもとの健全な愛着を形成するのを自ら阻害したとは、気付くことはあるまい。ましてや、8050問題と言われているように親が高齢になれば、親が自ら変わることは難しい。自分自身が自ら変わるしか方法がないが、極めて難しいと言えよう。

 結論から言うと、引きこもりは親が変わらなくても乗り越えることは可能である。その際に、心理的安全性を提供してくれる『安全基地』は必須である。安全と絆を提供してくれる安全基地が存在して、その安全基地がいつもそっと寄り添い、傾聴と共感をしてくれるならば、引きこもりは解消できるのである。そして、引きこもりの当人は根底に愛着障害があり、HSPと自己否定感が強いという認識も必要である。そして、安全基地の全面的協力の元で、認知行動療法やナラティブアプローチ療法、またはオープンダイアローグ療法を駆使して、愛着障害を癒すことで、引きこもりを解消できるのである。勿論、安全基地には誰もがなれる訳ではない。森のイスキアの佐藤初女さんのような特別な方しか、安全基地にはなれないのである。

※引きこもりを乗り越えるために必要な安全基地になれるのは、森のイスキアの佐藤初女さんのような、広い心と形而上学に基づく高い使命感を持った、メンタライゼーション能力の高い人だけです。しかし、佐藤初女さんは既に亡くなられています。それで、イスキアの郷しらかわでは、佐藤初女さんを継承しようと高い志を持った方々をサポートしていて、第二、第三の佐藤初女さんを目指す方たちの研修を提供しています。

#引きこもり

#森のイスキアと佐藤初女さん

行政による少子化対策は効果がない訳

 国が少子化対策の財源を、健康保険料に追加徴収する案が示されて、猛反発をされている。少子化対策費を国民から医療保険税として徴収するのは、増税というそしりを受けたくないという姑息な魂胆があるからである。そもそも、行政による少子化対策が実際に効果を表しているのかの検証もされていない。何等かの少子化対策をしないと、高齢になった国民を支える労働者人口が不足してしまい、財政規律が保てなくなるからと必死になっているのであろう。しかし、行政による様々な少子化対策の効果は殆どなく、少子化の傾向は止まらない。

 行政による少子化対策とは、主に出産費用や育児費用に対する援助金、産み育てる保育所の充実、育児休暇取得をしやすい環境と支援制度、男性が育児に参加しやすい労働環境の整備などが実施されている。確かに、こういった少子化対策はある程度の効果はあるが、大きな成果を産みだしていない。ということは、本当の少子化の原因を政府は把握していないということになろう。政府だけではなく、県や市町村の行政も少子化の本当の原因を把握していないし、多くの国民も認識しているとは到底思えない。だから少子化は止まらないのだ。

 少子化の本当の原因は、経済的な理由や産み育てられる環境が不整備だからということではない。そもそも、子どもを産みたくないと55%以上の若者たちが思っているのだ。どんなに経済的に余裕があっても、育児環境が整えられても、若者たちが子どもを産もうとしないのでは、少子化対策は無駄になる。どうして若者たちは子どもを産まないのか。それは自分自身が、心から十分な幸福感を味わうような子育てをされなかったからである。だから、自分と同じように不幸感を持つ子どもを、この世に送り出したくないと思うのは当然だ。

 そんなことはない、十二分に幸福な思いをさせて育てて来た筈だと思う両親は多いかもしれない。また、愛情をたっぷりと注いで育てたと認識している親は少なくない。それは、あくまでも親の感じ方であって子どもの感じ方は別である。愛情をたっぷりと注いできたと思っているのは、無条件の愛ではなくて条件付きの愛である。多くの子どもたちは、親にあまりにも支配され干渉され過ぎて、自分らしく自由に生きられず、生きづらいと感じていたのではなかろうか。そして、自分のことをまるごと愛することが出来なくなったのである。

 自分のことをまるごと愛せる人間でなければ、他人を心から愛することが出来ない。その証拠に非婚化が進んでいて、若い世代の離婚も急激に進んでいる。そもそも恋愛も出来ない若者なのだから、結婚も出産も無理なのだ。どんな自分でも大好きだと言える、絶対的な自己肯定感が育っていないのである。ましてや、自分の両親の結婚生活が幸福だと感じられないのだから、結婚したいと思わないのは当然である。特に、母親が家事や育児に1人で苦労していた姿を間近に見ていた娘が、あんな苦しみを味わいたくないと思うのは当たり前だ。

 ましてや、自己中で身勝手で妻に対する思いやりのかけらもないような横暴な父親の言動を身近に見ていた娘が、男性に対して恋愛感情さえも湧かないのは当然ではなかろうか。さらに、母親がまるごとありのままに父親から愛されて満たされていなければ、我が子を無条件で愛することは難しい。子どもはありのままにまるごと愛されなければ、絶対的な自己肯定感が確立されないであろう。自尊感情が根底にあってこそ、自分をまるごと愛せるし、相手をありのままに愛せる。非婚化や少子化が起きている根底には、自己肯定感が欠如した若者が増えていることが影響しているのは間違いない。

 非婚化や少子化が若者たちの間で急激に進んでいるのは、経済的な理由や環境のせいではなく、若者たち自身の自己肯定感が育っていないからである。それは学校教育のせいではなく、家庭教育が間違っているからである。行政の責任ではないとは言いながら、価値観や思想の教育を怠ってきた学校教育にもその責任の一端はあるとも言える。子どもたちに正しく豊かな母性愛と父性愛を注ぐ家庭教育をしないと、非婚化と少子化が益々進んでしまうであろう。日本という国家の存亡に関わる重要課題なのに、その原因を正しく把握していないというのは困ったものである。行政を担う政治家と行政職は、正しい見識を持ってほしいものである。

京アニ放火殺人事件の犯人は怪物か

 京都アニメに放火して、殺人罪として起訴された青葉信二被告は、一審判決で死刑を宣告された。青葉被告は死刑判決を不服として控訴した。あまりにも残酷なこの事件を起こした青葉被告は人間ではなく、とんでもない怪物だとするSNSの書き込みが多い。あんなにも多数の犠牲者を出しながら、反省の言葉なく自分の正当性しか主張せず、犠牲者に対する謝罪の気持ちもないのは、モンスターとしか思えないという主張をする人も多い。普通の感覚を持っている良識ある人にとっては、怪物にしか見えないのであろう。

 確かに、常人には理解できない行動である。いくら酷い虐待や仕打ちを親から受けたとしても、最終的には自己責任だと言う人もあろう。社会的にいくら恵まれなかったとしても、そういう生き方を選んだのは自分自身だから、親や社会のせいにすべきではないという主張も見られる。おそらく、死刑判決も妥当なのだから、控訴なんてしないで刑に服して欲しいと思っている国民が殆どであろう。被害者やその家族と遺族の心情を思うと、被告には極刑で償ってもらいたいという気持ちになるのは当然かもしれない。

 このような残虐な事件を起こす犯人に共通しているのは、そのあまりにも悲惨な家庭環境である。親との愛着関係において、殆どが問題のあった犯人だ。端的に言えば、親からあるがままにまるごと愛されて育ち、親との関係がとても良好な人間が、凶悪な事件を起こすことはない。ただし、一見すると経済的に裕福で両親の愛情をたっぷりと受けながらも、凶悪事件を起こすケースもある。しかし、それは条件付きの愛情であり、過干渉や過介入を受け続けて育てられた場合であり、無条件の愛情を受けた訳ではないと言える。

 青葉被告は、まさしく無条件の愛は勿論、条件付きの愛さえもまったく注がられることなく育った。そればかりではなく、父親から酷い虐待を受け、四六時中殴る蹴るの暴力を受け続けて育ったとの供述が得られている。ろくな稼ぎをしない青木被告の父親を見かねて、妻がミシンの営業で大きな実績を収めた。それが気に入らないと妻と子に八つ当たりして暴力を奮ったとされている。青葉被告の母親は、家を出るしかなくなり離婚する。この事件も、青葉被告の心に深い影を落とすことになった。その後、父親の暴力はエスカレートしたのである。

 親からの愛情をまったく受けられず育った人間が、まともに育つ筈がない。ましてや、大好きな母親さえも自分を見捨てたと思い込まされて育った人間が、人を信頼出来ないのは当たり前である。同じように親からの愛情をまったく受けられず、父親から酷い虐待を受けて育った人物がいる。大阪大学付属池田小学校の殺傷事件を起こした宅間守死刑囚である。連続幼女誘拐殺人事件を起こした宮崎勤死刑囚もまた、親との愛着が形成されなかった。秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大死刑囚も酷い教育虐待を受けて、歪んだ愛着を抱えていた。いずれも愛着障害と言ってもよい。

 このように、悲惨な家庭環境と養育環境があって凶悪事件を起こした犯人を列挙すれば、きりがない。他にも、沢山の凶悪事件を起こした犯人がいるが、似たり寄ったりの養育を受けている。ただし、養育環境が悲惨で愛着障害を抱えると、凶悪事件の犯人になってしまうかというと、けっしてそうではない。社会に対する憎しみを持ち攻撃的になるケースと、自分を責めて自身の存在を消してしまおうとする人がいる。どちらになるかは紙一重なのである。青葉信二被告のように虐待やネグレクトを受けて育った人物は、親に対する憎しみを社会に転化する危険があるのは間違いない。

 青葉信二被告は、けっして怪物ではない。極めて稀なモンスターだと決めつけて、滅多に産まれることがない特別な存在だと思ってほしくない。彼のような愛着障害の人物は他にも沢山存在するし、同じような凶悪犯罪を起こしかねない人間は大勢いるのだ。だからこそ、彼のような存在を産み出さないように、正しい子育てや教育をする世の中に変革しなければならないのである。母性愛と父性愛を正しく注げるような社会を構築しなければならない。我が子をあるがままにまるごと愛せる母親と、しっかりと正しい父性愛を発揮できる父親が子どもには必要なのである。二度とこのような酷い愛着障害の子を産み出さない為に。

育てにくい子を育て直す

 育てにくい子は発達障害グレーゾーンと不安型愛着スタイルがあるということを、まずは親が認識する必要がある。そして、お母さんだけに子育てを任せないで、父親や祖父母にも育児・教育の役割分担をしてもらうことが肝要である。特に、父親には正しい父性愛を注いでもらう必要がある。何故なら、母親が母性愛に専念できないからだ。母親が母性愛と父性愛を同時進行的に注いでしまうと、育てにくさは解消できない。もし、父親が子育てに非協力的であれば、何度も誠意を持って説得すべきだ。それでも駄目なら、別居をするしかない。

 世の中の父親の多くは、ともすると子どもに嫌われたくないと、子どもにおもねるような態度を取りがちだ。だから、子どもの味方のふりをする傾向がある。自分自身も発達障害グレーゾーンである父親は、精神的に幼稚で自分が嫌われたくなくて、面倒なことを避けたがる。子どもと正面から対峙して、例え自分が嫌われても正論を子どもに伝えなくてはならない。それを父親がしてくれるから、母親は安心して子どもをあるがままにまるごと愛することが出来る。母性愛だけをたっぷりと注ぐ子育てが、すべての出発点である。

 育てにくい子どもは発達障害グレーゾーンであり、当人も生きづらさを抱えている。そして、いつも不安や恐怖感を抱えている。自分が嫌われてひとりぼっちになってしまうのではないか、大切な人から見捨てられるのではないか、という不安を抱えている。だから、無意識下で自分が嫌われたり叱られたりすることを敢えて実行して、相手を試すのである。これがいわゆる試し行動である。だから、保護者はそのことを理解して、どんなことがあってもけっして揺るがない愛情を注ぐ必要があるのだ。試し行動に惑わされないことだ。

 育てにくい子を持つお母さんは、心身共に疲れ切ってしまい心が折れてしまっている。そんな状況に子どもが試し行動を、これでもかこれでもかと何度も起こしてくる。夫やその他の家族の子育て協力がないケースでは、相談する相手もなくて、孤軍奮闘をしがちである。ついつい試し行動を感情的に叱ってしまう。これでは逆効果になってしまう。なにしろ、育てにくい子どもは、不安型愛着スタイルをも抱えているから、安全で安心な居場所がないのである。安全と絆を提供してくれる『安全基地』がないので、いつも不安を抱えているのだ。

 育てにくい子どもを育て直すのは、並大抵のことではない。育てにくい子どもというのは、実は人間本来の生き方を実践しているからである。自由な生き方を望んでいるのだ。どういうことかというと、人間は元々自己組織化する働きがあり、オートポイエーシス(自己産生)という機能を生まれつき保持している。そしてこの自己組織化とオートポイエーシスの機能は、周りの人間から強く干渉や介入をされてしまうと、低下するばかりか無くなってしまうのである。そして、家族との愛着関係が希薄化してしまうと、益々自己組織化とオートポイエーシスの機能が働かなくなるのだ。

 育て直しにおいて、同じ轍を踏んではならない。育てにくい子というのは、愛着関係が薄くなり干渉を受け過ぎて、自己組織化とオートポイエーシスの機能が低下している。社会常識や親にとっての常識を、子どもに無理に押し付けてはならない。育てにくい子は、誰にも束縛されず自由気ままに生きたいのである。まずは、育てにくい子というのが特別なギフトを与えられた素晴らしい存在なのだということを、両親は認識しなくてはならない。そのうえで、子どもの尊厳を認め受け容れ、あるがままにまるごと愛することから始めなければならない。

 育てにくい子が生まれてくる本当の理由は、親に深い気付きや学びを授けたいからである。その学びというのは、人間とは本来あるがまま自由に自分らしく生きる存在だということである。お母さん自身が、有形無形の過干渉をされてしまいあまりにも良い子で育ち、自分らしく生きることが制限されてしまい、生きづらい生き方をさせられてしまったのだ。そのことを、育てにくい子を育て直しすることで、深く学ぶことが出来て、自分が人間本来の生き方に変わるチャンスをもらっているのである。育てにくい我が子をぎゅっと抱きしめて「お母さんにギフトをくれてありがとう」という言葉を何度もかけてあげれば、子は変わる。親が変われば、子は必ず変わる。

※育てにくい子を持つお母さんにこそ、安全と絆を提供してくれる『安全基地』が必要です。イスキアの郷しらかわでは、個別支援はしないと方針変換をしましたが、メールによる簡易な相談には応じます。安全基地にはなれませんが、困った時の相談相手にはなりますので、問い合わせフォームからご相談ください。

育てにくい子になってしまった訳

 世の中の多くのお母さんが持つ共通の悩み、それは『どうしてこの子はこんなにも育てにくい子になってしまったのだろう?』である。愛情をたっぷりとかけて、何不自由のない幸福な生活が出来るようにと、せっせと世話を焼いて育てたのに、何故こんなにも育てにくい子どもになったのだろうと悩んでいるのである。幼児期の頃には、あんなにも素直で良い子だったのに、小学生の頃からどういう訳か手のかかる子になってしまい、しまいにはことごとく親の言うことを、まったく聞かないか守らない子になってしまったのである。

 中学生から高校生になった子どもは、何を考えているのか解らず、突拍子のような言動をして母親を困惑させてしまっている。ごく普通の子育てをしてきたつもりなのに、どうしてこんなにも育てにくい子どもになってしまったのか、訳が分からず途方に暮れてしまっているお母さんが実に多いのである。そして、このような場合共通しているのは、お父さんは困っていないし、大変なことだという認識がないのである。それだけでなく、この育てにくい子どもの味方をする始末で、許せないのは躾の邪魔をしてしまうことである。

 世の中の多くのお母さんたちは、自分が育てられたと同じように我が子を育て上げるのが常である。自分自身がまともに育ち、どちらかというと良い子だと評価を受けて育ってきた。両親からも、そして社会的にもある程度の良い評価を得られているし、何も問題なく普通に生活を営めている。自分と同じように愛情をかけて我が子を育てたつもりなのに、どうしてこんなにも育てづらいのか訳が解らない。原因さえ解れば手の打ちようもあるし、何とか対策や改善策が見つかればと探求をするけれど、解決策は見つからない。

 とても育てにくいとお母さんが感じるのは当然で、ことごとくお母さんの常識や社会的常識と違うことを子どもは平気でしてしまうのである。勉強や片付けは後回しにして、ゲーム・コミック等にはまってしまう。ひとつひとつの動作が遅くて手際が悪く、いつも夜遅くまで起きている。朝はひとりで目覚めることが出来ず何度も起こされてようやく目覚め、朝の準備も出来ず忘れ物も多い。学校からの宿題・課題はいつもぎりぎりか、期限を過ぎるのが常。なにしろ勉強は後回しで、自分の好きな事だけに熱中する始末。

 育てにくい子どもになってしまった原因は、元々その子の遺伝子にあるかもしれない。現代の医学の急激な発達に伴い、乳児死亡率は飛躍的に低下した。一昔前には、遺伝子にエラーがあり脳機能の障害がありながらも産まれてきた子どもは、当時の医療水準では助けるのが難しく、死産または早逝していた。ところが、周産期医療の発達と小児科医療の水準向上により、脳の器質的な障害があっても助かるようになったのである。これは、喜ばしいことであるが、一方では社会に適応しにくい子どもさえ、生存が可能になったのである。

 こうして医学の発達により生き延びてきた子どもたちを、ごく普通の子どもだと思って子育てをしてしまうと、持って生まれてきた少し変わった気質や性格を、益々強化させてしまうのである。こうして、発達障害グレーゾーンと呼ばれる育てにくい子どもが、増えてきているのである。ここで注目すべきは、親はとても育てにくい子どもだと感じてしまうのだが、当の本人は自分が育てられにくいという認識はなく、生きづらいというように感じているという点である。そして、自己組織化やオートポイエーシスの機能が働かなくなっているのである。

 育てにくい我が子が、発達障害のグレーゾーンであるという認識を親が持たないが故に、お母さんは子育てに心身ともに疲れ切ってしまうのだ。ましてや、こういうケースのお父さんは自分自身も発達障害グレーゾーンであるから、子育てを苦手にしているので逃避してしまう。当然、子育ての役割の殆どが母親の分担となる。さらに不幸なのは、母親があるがままにまるごと愛する母性愛だけでなく、躾の愛としての父性愛まで注がなくてはならない点である。こうなると、母親は育てにくい子に対して、さらに強い過干渉と過介入を繰り返すことになる。益々、発達障害グレーゾーンは強化されてしまい、不安型愛着スタイルを抱えることになる。育てにくさが益々増大してしまうのである。

※次回のブログでは、育てにくい子をどのように育てればいいのかをお伝えします。

結婚と出産を望まない女性たち

 韓国では非婚主義を実践する女性が急増しているという。日本においても、マスコミは取り上げていないが、非婚主義と出産しないことを貫く女性が増えている。婚姻をしたとしても、敢えて出産しないという女性も少なくない。対外的に宣言はしないものの、絶対に出産はしたくないと心に決めている女性が多いのである。少子化が社会的大問題になっていて、経済的な理由や育児に対する負担や不安が多いという理由から、出産を選ばないと思われているが、実はそもそも結婚と妊娠を望まない女性が多くて少子化が起きているのだ。

 その証拠に、様々な出産に対する経済的支援や産み育てられる環境改善策を政府行政が進めているのにも関わらず、一向に少子化が改善できていない。どんなに出産や育児に対する支援策を実施したとしても、そもそも婚姻や出産を女性が望まないのだから、少子化が止まらないのは当然である。婚姻を望まず、頑なに出産を拒む女性がいるというのは、一昔前には考えられないことだった。どうして、そんな状況が解らなかったのかと不思議に思うだろうが、誰もがそんな女性がいるとは、予想もしなかったからである。

 それでは、どうして婚姻を望まないばかりか出産を拒んでしまうのであろうか。世の中の中高年者にとっては、まったく理解できないことである。ましてや、自分が大事に育てた娘が、結婚や出産を敢えて望まないとは、想像も出来ないに違いない。適齢期になれば結婚をしたいと望むだろうし、子どもを産み育てたいと我が子が願うだろうと、親なら誰しも思うに違いない。出産を望まない女性がいないという前提があるから、アンケートによる統計調査をすることもない。調べようともしないから、出産を望まない理由も解らないままだ。

 結婚を望まない女性が徐々に増加しているのは、周知の事実である。その理由は、いろいろと挙げられているが、自分の描いたライフプランに結婚と言うステップがないからだと思われる。仕事などを優先する人生を全うしたいという女性には、結婚がその大きな障壁になると予想するから独身を通すのかもしれない。仕事と家庭を両立させるのは、論理的には可能であるが、海外勤務や転勤を繰り返すキャリア志向の女性には、極めて両立は難しい。また、夫と子どものために自分の夢を諦めたくないと思う女性が増えてきたように思う。

 これらの理由以外に、女性が結婚と出産を望まない深刻な訳があることを認識している人は少ない。その深刻な理由とは、不安定な『愛着』のまま成長してしまったことによる影響である。酷いケースは『愛着障害』であり、そこまででなくても、愛着に問題を抱えた女性は、結婚したがらないし出産を望まないのである。不安定な愛着の中でも、不安型愛着スタイルという障害を持つ人は、病識もないことから自分でも異常だと気付かない。愛着に問題を抱えている人たちは、自尊感情を持てないが故に、子を産み育てるのを無意識下で拒んでしまうのである。

 自尊感情、または絶対的な自己肯定感を持てないと、自らの遺伝子を後世に残したいと思えないのである。どういうことかというと、自分をまるごとありのままに愛せない人は、自分の分身をこの世に残したくないのである。夫婦としての良好な関係性を構築することが不得意だった両親を持つと、子は愛着に問題を抱えやすい。そして、三歳頃までの乳幼児期に、ありのままにまるごと愛されるという経験をしていない。無条件の愛情である母性愛を与えられなかった人は、絶対的な自己肯定感が確立されていないので、愛着が不安定であり、自分でも安定した恋愛関係を築けないのだ。

 親からあるがままにまるごと愛されて育った人は、豊かな愛着が確立されるので、絶対的な自己肯定感が確立される。自分に対する寛容と受容があり、自分のことが大好きでどんな自分でも愛せる。こういう安定した愛着を持つ女性は、安定した愛着を持つ男性に巡り会えて、幸福で愛が溢れるような家庭を築ける。ところが、親から所有・支配されて制御を受け続け、指示や命令を受け続けて育った女性は、自己組織化が起きない。自己組織化が出来ずに育った人間は、オートポイエーシス(自己産生)が働かず、子孫を残そうとしないのである。少子化の本当の原因は、愛着障害にあると言えよう。

※親から支配されコントロールされて育った人は、結婚したがらないし出産を望まないようになることが多いものだと、イスキアの活動から得た実感があります。そして、毒親からの支配を逃れるために、一刻も早く家を出たいからと、しょうもない男と結婚をしてしまうケースが多く、結婚生活はやがて破綻してしまいます。自分と同じように苦しむ子どもを産みたくないと思うのも当然です。また、このような不安型愛着スタイルの女性は、ダメンズと何度もめぐり逢い、その度にトラウマを蓄積してしまうのです。

 

縄文人的暮らしを目指したい

 新たな年の2024年を迎えるにあたり、今年の抱負を考えていた。今年は70歳を迎えることになるのだが、自分がこの年齢になるとは想像も出来なかった。いろんな経験をしてきたものだとつくづく思う。仕事にも精一杯努力してきたつもりだが、ボランティア活動やNPO活動にも邁進してきた。勿論、家事や育児も、人よりは頑張ってきたつもりだ。仕事、家庭、地域活動と三位一体の活動をバランス良くやってきたという自負を持っている。イスキアの活動も昨年から方針転換をした。さて今年からはどのように生きようか。

 以前から思っていたことだが、縄文人の暮らしに憧れていたことから、彼らのように生きて行けたらいいなと漠然とした思いがあった。勿論、狩猟や採取を中心にした生活を、現代で出来る筈もないが、縄文人のように互恵的共存関係を基本とした平和で心穏やかな暮らしを望んでいる人は想像以上に多いに違いない。縄文人と同じ暮らしは不可能だとしても、彼らのような価値観を基本にした生活は出来そうだ。現代の価値観は、あまりにも損得や利害にシフトしているが故に、心の豊かさを失っている。そんな暮らしを見直したいものだ。

 縄文人が争いのない平和で心豊かな社会を、13,000年もの長い期間に渡り続けていたのは周知の事実である。全世界を見渡しても、縄文時代と同じ時期に戦争や略奪のまったくない平和な生活をしていた文明は存在しない。ましてや、あの時代に高福祉で共存共生のコミュニティを築いていたというのだから驚きだ。縄文人の人骨は各地から発掘されているが、武器による傷がある人骨は全く発見されていない。20代の先天性小児まひの女性の人骨が発掘されたが、一人では生活出来ない筈だから、誰かが生活支援をしていたに違いにない。

 このように、今では考えられないような、素晴らしい価値観に基づいた暮らしをしていたということが尊敬に値する。縄文人は、自分の損得や利害を第一に優先するようなことはせず、全体最適を目指していたし、将来の子孫が幸福な暮らしが出来るようにと、努力したことが判明している。未来の子孫が木の実を豊かに採取できるようにと、せっせと樹木を植えたのである。感覚的に知っていたのであろうが、洪水を防ぐために里山に樹木を植えて治水対策をしたのだ。魚貝類を子孫が豊かに採取できるようにと、豊かな海を守るための広葉樹を植林した。環境保護も含めて、SDG’sを実践していたのである。

 縄文人は、個別最適や個人最適を自分の生き方の中心には据えることなく、全体最適や関係性重視の価値観に基づいて生きていた。だからこそ、縄文人は老若男女すべて、自己組織化を進めることが可能だった。彼らのすべてが、主体性、自発性、自主性、自己犠牲性、責任性、進化性を豊かに発揮できたのである。それ故に、あれほど素晴らしい文化が花を開いたと言えよう。火焔土器を代表とした縄文式土器は、他に類を見ない見事なデザイン性を発揮している。弥生式土器と比較すると、その美しさは際立っていて素晴らしい。

 私有財産を持つと、貧富の差が表出して親族間や一族内での軋轢や争いごとが起きることを縄文人は知っていたのであろう。だから、物を個人所有することをしなかった。そして、縄文人は物だけでなく『人』の所有や支配をもしなかったし、我が子の個人所有もしなかったという。生まれた子どもは、地域の一族みんなで愛情をかけて育てた。夫婦とか親子という所属関係もなかったから、家族という概念もなかったと見られる。縄文時代は女性中心社会の社会だったから、特定の男性と一緒に暮らすことはなく、男性は通い夫(つま)だったと思われる。

 縄文人は、独占欲を持たなかったから、お互いに特定の異性を独占することはなかったであろう。特定の異性を愛することはあったと思うが、現代のように愛情がなくなった伴侶と暮らし続ける仮面夫婦のような関係は絶対に無かった筈だ。占有関係がないからこそ、相手をコントロールしたり縛り付けたりせず、お互いがリスペクトし合えるような関係を続けられたに違いない。そういう意味では、理想の男女関係にあったから、少子化もなくて子孫繁栄もしただろう。現代にも有効な少子化対策のヒントがありそうだ。縄文人は、レムリア人にも通じるのではと考える人も大勢いる。縄文人のような智慧と価値観を生かして暮らしたいものだと、新年を迎えて切に思う。縄文人の細胞記憶を呼び起こしたいものだ。

甘えて依存するのは悪いこと?

 メンタルを病んでしまい、ひきこもりの状況になってしまった方たちが、元気になり社会復帰するための支援をさせてもらっていて、常に気を付けていたことがある。それは、不安型の愛着スタイルや愛着障害を抱えた方々は、支援者に依存しやすい傾向があるということである。すべてのひきこもりの方々がそうだとは言えないが、安全と絆を提供してくれる『安全基地』を持たないひきこもりの人たちにとって、支援者は唯一の安心できる味方なので、どうしても依存しやすいのだ。支援者は、依存されないようにと距離を保つのである。

 また、精神科の医師、カウンセラー、セラピストたちもまた、要支援者から依存されないようにと、距離感を持って接するのが基本となる。世の中の母親たちも、子どもから依存されないようにと、普段から気を付けて子育てをするよう心掛けている。母親というのは、子どもを甘やかし過ぎると駄目になると、姑や夫から口酸っぱく言われるものだから、甘やかすということに神経質になりやすい。親が子どもを甘やかし過ぎたり、支援者が要支援者に対して甘やかしの態度を取ったり、依存させてしまうことは悪いことなのだろうか。

 児童養護施設で、利用者に対する支援の業務を行う職員の方たちも、利用者から依存されないように細心の注意を払う。親から虐待やネグレクトを受け続けてきた児童たちに取っては、養母さんたちはまさしく親の代わりであるから、甘えたいし依存したくなるのも当然である。幼稚園や小学校の担任教師たちも、甘えてきたり依存しようとしたりする子どもたちとは、距離感を持って接しようとする。施設の管理職や上司からは、子どもたちに依存の気持ちを芽生えさせると、自立できなくなると釘を刺されているからだ。

 子どもが親に依存すると自立出来なくなるというのは、本当であろうか。支援者が依存させるような態度を取ると、要支援者は依存してしまい自立が出来なくなるのであろうか。子育てにおいて、甘やかしてはいけない、過保護に育ててはならない、依存させると子どもは自立できなくなるというのは、本当に正しい子育てなのであろうか。何か子どもが大変な事件を起こすと、親が過保護だったとか甘やかし過ぎたと非難され、自立できないのは当然だと言われる。本当に、依存させてしまうと自立が阻害されるのであろうか。

 子どもの発達段階において、特に3歳頃までは母性愛がたっぷりと注がれることが必要だということは、最近になり認識されるようになってきた。母性愛と言うのは、あるがままにまるごと子どもを愛する事であり、無条件の愛のことである。先ずは母性愛をたっぷりと注ぎ続けて、子どもの不安や恐怖感を完全に払拭させてから、条件付きの愛である父性愛をかけるのである。この順序を間違って最初に父性愛を注いだり、父性愛と母性愛を同時にかけたりすると、絶対的な自己肯定感が持てず、不安型の愛着スタイルを抱えてしまうのだ。

 不安型愛着スタイルや愛着障害を根底に抱えていて、メンタルを病んでしまいひきこもりの状況に追い込まれた方々は、頼れる存在がない。どこにも居場所がないし、安全基地と言える存在がないのだ。ある程度の年齢になれば、自分で何とか自立しようともがき苦しむ。しかし、得体の知れない不安や恐怖感は拭い去ることが出来ず、誰にも甘えられないし頼れないから、怖くて社会に出て行くことが難しい。大人になったのであるから、甘えることなんて出来ないし依存することは絶対に避けなければならないと思い込んでいる。しかし、不安型愛着スタイルや愛着障害を癒すには、もう一度幼児期からの子育てをやり直すしかないのだ。

 不安型愛着スタイルを抱えてしまいメンタルを病んでいる人の母親が、もう一度最初からまるごとあるがままの愛を注いでくれて、育児のやり直しをしてくれたなら、病んだメンタルは癒される。しかし、それはいろんな意味で非常に難しい。だとすれば、誰かが母親に代わって、要支援者の臨時の安全基地になり、母性愛のようなまるごとあるがままの愛を注ぎ続け、とことんまで甘えさせることが必要だ。それはある意味、過保護にして依存させるということでもある。人間と言うのは、とことんまで依存し尽してしまうと、ひとりでに自立するものである。そして、何かあるといつも温かく受け容れてくれる場所があれば、自立し続けられる。森のイスキアの佐藤初女さんのような存在が、誰にも欲しいのだ。

※複雑性PTSDのように、長い期間に渡り心的外傷を何度も何度も受け続けてメンタルを病んでしまった方は、元々愛着に問題を抱えています。親から無条件の愛である母性愛を受けられず育ち、元々心が折れやすいのです。安心して甘えて依存できる安全基地がありませんので、いつも得体の知れない不安を抱えて生きています。このような状況を乗り越えるには、臨時的にも甘えて依存できる、森のイスキアの佐藤初女さんのような存在が必要です。佐藤初女さんのような『お母さん』が、不安の時代と言われる今の日本にこそ必要なのです。

寝取られた男が恥の上塗り

 妻が不倫をしたと記者会見して、相手を非難している姿を見ていると、何だか奥さんが可哀そうになってしまう。勿論、特定の伴侶がいるのに不倫をするというのは、道義的に許されることではない。しかし、妻は献身的に尽くしてくれたと、妻を擁護する言葉を連ねながら、一方では相手の男がすべて悪いし、謝罪をしないと言って糾弾している姿を世間に晒しているのは、みっともないような気がする。浮気をした妻や相手の男性を擁護する訳ではないが、寝取られてしまった男性が記者会見までして訴えるのは、実に不思議な光景だ。

 一昔前であれば、自分の伴侶を寝取られた男が、記者会見とか情報発信などをするなんて考えられなかった。自分が悪くないのだから恥じることはない、というのは正論である。逃げ隠れする必要はない。とは言いながら、自分の伴侶が他の男性に恋心を抱くと言うのは、結論から言うと自分よりも浮気相手に魅力があったということである。言い換えれば、相手の男性との恋愛競争に負けたとも言えよう。もし、それがもし自分であったしたら、自分があまりにも惨めであり、人さまの前に寝取られた自分を絶対に晒したくはない。

 昭和22年までは姦通罪という刑法上の不貞の罪があった。江戸時代は、不義密通を働いた妻と浮気相手は死罪になり、夫はその場で両方を切り捨てても罪にはならなかった。なお姦通罪は、女性とその相手だけに適用されて、夫が不義密通をしても罪にはならなかった。江戸時代の不義密通の罪もまた、女性とその姦通相手にだけ適用された。女性だけに適用した不平等の罪だ。これは、男性中心の時代だからであり、財産を子どもに相続させる際に、自分の遺伝子を繋ぐ子どもだけに財産や権力を譲りたいという切実な願いから出来た罪であろう。

 不義密通の罪や姦通罪という法的な縛りがあったというのは、古来より伴侶以外の男性に心を奪われてしまい、身も心も捧げてしまう女性が相当数存在していたという証しであろう。何故、そんな妻たちが沢山いたのかというと、夫たちに魅力がなくなってしまい、夫にときめかなくなってしまったからではなかろうか。または、夫をリスペクトできなくなり、詰まらない人間に見えてきたというか、真実の姿が見えてきたのかもしれない。身勝手で自己中で、妻の心に寄り添えず、自分の損得しか考えない夫に、妻は愛想を尽かしたのだ。

 すべての夫がこんな酷い男だという訳ではないが、妻たちが夫のパワハラ、モラハラ、セクハラに耐えられなくなったケースは多いに違いない。その逆で、妻にときめかなくなった夫もいることだろう。何故、そんなことになったかというと、自分を磨く努力を怠ったからだとも言える。若い頃のスマートな体型を保つ為に節制と運動をし、健康を保つための食生活を心掛ければ、みっともない体型にはならない。また、常に自分を高めようと勉学に勤しみ、魂を磨く努力を怠らなければ、魅力が衰えることはない筈だ。

 自堕落な生活を送り、自分の幸福だけを追求して、仕事が忙しいと家事育児を放棄して、妻への傾聴と共感が出来ない夫を愛することが出来る妻がいる訳がない。そんな夫婦関係であるのだから、婚外恋愛についつい心を奪われるのも仕方ないことであろう。例の寝取られた男の続報だが、実は自分も浮気をしていて、部下にパワハラをしていて、妻にはモラハラとパワハラをしていたのではないかとの報道がされている。そして、寝取った相手も当該の夫に反撃をしている。泥試合の様相を呈している。実に醜い不毛の争いだ。

 結婚当時の魅力を失わない努力を続けるのは当然だが、人間は日々成長していかなければ時代に取り残されるだけでなく、家族からもリスペクトされ続けるのは無理である。身体的にも、精神的にも、そして人間的にも進化を続けることが、輝き続けることの必須条件である。もし、そのような努力を積み重ね、魅力ある男性であり続けることが出来たなら、他の男に寝取られることなんてなかった筈だ。他の男に寝取られたなんてカミングアウトするのは、自分磨きに失敗したんだと宣言しているようなものではないか。こういうのを恥の上塗りと、世間では言うのである。

生きづらさの原因は不安型愛着スタイル

 子どもの頃からずっと生きづらいのであれば、それは不安型愛着スタイルから来るものかもしれない。愛着障害というメンタルのパーソナリティ型がある。小さい頃に虐待やネグレクトを受け続けて育った子どもは愛着障害を抱えてしまい、強烈な生きづらさを持つだけでなく、様々なメンタルの障害を持つし、身体的な病気をも抱えてしまう。そんな虐待やネグレクトを受けた訳ではなく、ごく普通に愛情を持って育てられたのにも関わらず、やはり生きづらさを抱えてしまう事がある。それは、不安型愛着スタイルによるものである。

 両親から愛情をたっぷりと注がれて、十分な教育をされてきたのに何故か不安や恐怖感を抱えていて、学校に行きづらくなったり社会に適応しにくくなったりする人生を送ってしまう子がいる。親からの愛情が不足した為に『愛着』に問題を抱えると言うなら理解できるであろう。ところが、親から有り余るような愛情を受けているのに、愛着に不安を持ってしまうことがある。それは、親からあまりにも強い干渉や介入を受けた場合である。そして、かなり高学歴であり教養・知識が高く、コミュニケーション能力が高い親ほど陥りやすい。

 つまり、聡明な親ほど子どもを不安型愛着スタイルに追い込んでしまうのである。勿論、子どもをわざと不安型愛着スタイルに追い込んで、生きづらさを抱え込ませてしまう親なんて、いる訳がない。子どもを立派に育てて、幸せな人生を送ってほしいと願うのが親である。しかし、その思いが強いばかりに『良い子』に育ってほしいと願い過ぎた時に、取り返しのつかない過ちを犯してしまうのである。子どもに対して、親は過度に期待するものである。だからこそ、知らず知らずのうちに過干渉と過介入をしてしまうのであろう。

 人間には本来自己組織化する働きがある。つまり、生まれながらにして主体性や自主性・自発性、そして自己成長性や進化性を持つので、それらの自己組織性を伸ばしてあげれば、ひとりでに成長して素晴らしい大人になっていく。その自己組織化能力を伸ばすためには、子どもに対して余計なコントロールや支配をしてはならない。自己組織化の能力は、干渉や介入をなるべくせずに、無条件の愛である母性愛をたっぷりと注ぐことにより成長する。逆に父性愛である条件付きの愛やしつけを厳しくし過ぎてしまうと、自己組織化が止まる。

 三つ子の魂百までもという諺通り、子どもは三歳の頃までの育てられ方で、その人の一生が決まってしまうと言っても過言ではない。親が子に対して『あるがままにまるごと愛する』という体験をたっぷりとし続けなければ、子どもは自己組織化しないのである。現代の親たちの多くは、子どもに対して過干渉と過介入を必要以上に繰り返して育てる。そうするとどうなるかというと、自己組織化する能力が育たずに自立できなくなる。そして、不安や恐怖感を必要以上に抱えてしまい、社会に対して上手く適応できなくなるのである。

 幼い子どもというのは、ありのままの自分をまるごと愛してくれて、どんな自分であっても見離さず必ず守ってくれる庇護者がいれば、絶対的な安心感・安全観というものが形成される。少しぐらい親に反発したり反抗したりしても、温かい態度で包んでくれる存在があってこそ、不安感・恐怖感は払拭されて、どんな苦難困難にも向かっていけるようになる。ところが、親から所有され支配され、強くコントロールされて親の思い通りに育てられると、強い不安や恐怖に支配されてしまうし、自立が阻害されてしまう。これが不安型愛着スタイルという状態である。

 不安型愛着スタイルになってしまうと、強烈な生きづらさを抱えてしまうし、苦難困難を乗り越えることが出来なくなる。何故不安型愛着スタイルになるかというと、愛情ホルモンまたは安心ホルモンと呼ばれる、オキシトシンというホルモンが不足するからである。故に、HSP(感覚過敏症)にもなる。自閉症スペクトラム障害やADHDのような症状を呈するケースも多い。自己肯定感が低くて、人の目を気にしやすい。依存性や回避性のパーソナリティを持つことも少なくない。育て方が悪いせいだと親を責めることも出来ない。何故なら親もまた同じように育てられ方をしたからだ。不安型愛着スタイルというのは世代連鎖をするから恐いのである。