レスポンシブルドリンキングの勧め

 レスポンシブルドリンキングという言葉を知っているだろうか。ようやく日本でも提唱されるようになってきたが、まだまだ欧米の認知度から比べると、日本人は知らない人のほうが圧倒的に多い。と言うのは日本では、飲酒上の失敗を大目に見るという風土があるからに違いない。自己責任を重んじる欧米の人たちは総じて、酒を飲んでの不適切な行動に対して厳しい。日本はどちらかというと、飲酒しての不適切行動を、お酒が起こしたことだからと寛容に見ることが多い。そういう理由から、レスポンシブルドリンキングという考え方が浸透しなかったと思われる。

 しかしながら、飲酒のうえで起こしてしまう迷惑行為や不法行為は、けっして許容できないことである。酔っ払いが公道で喚き散らしたり、通行人に言いがかりや女性に絡んだりする姿は、実にみっともない行為で許せない。また、飲酒運転で交通事故を起こす行為は後を絶たず、死亡事故まで起こすに至っては言語道断である。政治家、行政マン、または警察職員・教職員まで飲酒しての不適切行動をしてしまう事例は少なくない。レスポンシブルドリンキングとは、例え酔ったとしても不適切行動をしないような飲酒のことである。

 レスポンシブルドリンキングの程度を遵守できない日本人は、なんと多いことか。お酒を適度な程度までしか飲まないというのは、非常に難しいことである。アルコールを摂取すると前頭前野脳が麻痺してしまい、偏桃体が暴走してしまうので、歯止めが効かなくなり欲望が暴走しやすい。ましてや、飲酒はドーパミンを大量に放出してしまうので、覚せい剤を摂取した時と同じような倫理観の欠如をもたらしてしまう。いずれにしても、飲酒によって煩悩の肥大化と暴走を起こすのだから、いかに適量までに飲酒量を抑えるかは至難の業。

 そんな事情を考慮して、レスポンシブルドリンキングを推奨しようとする醸造メーカーが現れたのである。それも、日本を代表するような巨大ビールメーカーである。それはアサヒビールという、売り上げが増加しているし経営状況も増収増益を続けている優良企業である。アサヒビールは2020年から『スマートドリンキング』という造語を用いて、レスポンシブルドリンキングを推し進めている。社内に、レスポンシブルドリンキング部という部署を9月1日に設置し、『スマドリ』をキャンペーンワードにして推進に取り組んでいる。

 今までのアルコール醸造メーカーは、プロダクトアウトの考え方が強いマーケット戦略であった。アサヒビールの社長松山一雄氏は、一般消費者であるエンドユーザーを顧客と捉える考え方が社内にないことに愕然としたらしい。当時のアサヒビールにとっての顧客は、お酒の問屋・販売店・飲食店であったという。これでは、市民目線のドリンク、市民が求める飲料を企画開発するのは難しいと感じた。勿論、消費者の健康を推進するとか、消費者の幸福を実現するアルコール飲料を企画開発するなんて視点がなかったのは当然である。

 世の中では飲酒することが当たり前だという風潮が根強く残っている。宴会に参加して、アルコールを飲まないと付き合いが悪いなあと批判されてしまう。ようやく最近になって、ソバーキュリアス(敢えて飲まないと言う生き方を志す人)という語句が市民権を得られるようになってきた。飲めない人、または飲まない人の理解が進んできた。これから、ソバーキュリアスを目指す人は激増していくに違いない。サステナブルな社会を目指して行くのであれば、レスポンシブルドリンキングがもっと推進されるべきと確信している。

 アサヒビルビールが「責任ある飲酒」レスポンシブルドリンキングを推進していく為に、ノンアルコールドリンクや低アルコールドリンクの開発に力を注いでいる。今までもノンアルコールビールが販売されていたが、ちっとも美味しくなかったしビールとはけっして呼べないしろものだった。ところが、アサヒゼロは本当のビールと遜色ないし、アサヒのビアリーは0.5%のアルコール度ながら、ビールを飲んだ気分にさせてくれる。実際にビールを醸造して、わざわざアルコール分を抜くという手間暇を惜しまない製法をしている。無責任な飲酒を避けるレスポンシブルドリンキングを他の醸造メーカーにも推進してほしいものだ。

酒は百薬の長という格言はウソ

 お酒が好きな人は、酒は百薬の長だという格言を信じているというか、信じたい気持ちが強いに違いない。古来より、ずっと言われ続けてきたこの酒は百薬の長だという格言は医学的にも正しいことだと信じられてきた。ところが、最新の医学研究によると怪しいという研究結果があるという。飲み過ぎは健康に害があるのは当然だが、適量のアルコール摂取なら非飲酒者よりも長生きするという統計調査結果が公にされてきた。ところが、この調査結果はバイアスがかけられていて、実際は少量飲酒者でも長生きする訳ではないという。

 そんな筈はないと思うお酒好きの方も沢山いるとは思うが、飲酒者よりも非飲酒者のほうが健康で長生きするというのは、医学的にも間違いないと証明されている。ましてや、最新の医学研究では飲酒者のほうが非飲酒者よりも認知症になりやすいという研究結果も明らかになっている。そして、非飲酒者よりも飲酒者は頭頚部の癌になる確率が、なんと5倍にもなるという統計調査も明らかになっている。そもそも、酒は百薬の長という格言は、古代中国の政府による酒税の徴収を増加させるキャンペーンワードだったいうのだ。

 こんないい加減で科学的根拠もない格言に、我々はどうして騙されていきたのであろうか。それは、やはり日本の政府もお酒の売り上げによる税収が貴重だったということもあるだろうし、アルコール製造販売企業と酒類小売店、飲食店への篤い配慮があったのではないかと推測される。ましてや、行政、政治家、医学関係者にも酒好きが多いので、お酒が毒だと思いたくなったのだろう。医学的なエビデンスだって、それを扱う者によってバイアスがかかってしまい、大きく捻じ曲げられてしまうケースは、他にも例がたくさんある。

 いずれにしても、酒は百薬の長という格言はまったくのデマだったということが判明した。しかし、今でも適度な飲酒は健康に良いのだと信じている人は少なくないし、毎日習慣的に飲酒している人も多い。中には、大量飲酒によって肝障害やアルコール依存になって、取り返しのつかない健康被害や生活破綻を起こしている例も多い。飲酒運転による交通事故で、被害者を死亡させてしまうケースも多くある。お酒で身を持ち崩してしまう輩も少なくない。ということは、お酒は百害あって一利なしの、リスクが高いものだと認識すべきだ。

 このような適量の飲酒でも健康被害をもたらすというエビデンスの公表を受けて、日本の酒造メーカーでも、適正な飲酒やノンアルコール飲料を推奨する動きをしているところもある。アサヒビールでは、スマートドリンキングというキャンペーンを始めた。ノンアルコール飲料や低濃度アルコールのお酒を薦めている。勿論、そういうノンアルコールのビールやカクテル、低アルコールの飲料を次から次へと開発して販売している。しかも、本格的な醸造によるノンアルコールビールなので、味も本物のビールに遜色ない出来だ。

 最近では、お酒を飲めるのに敢えて飲まない生き方であるソバーキュリアスを志向する人も増えてきたし、お酒が苦手だと一切飲まない人も増えてきた。さらには飲酒による不適切な行動を防止するというレスポンシブルドリンキングという考え方も外国では定着しつつある。アサヒビールは、そのような世界的な潮流をいち早く取り入れて、スマートドリンキングをマーケットの戦略にしたというのは、素晴らしい英断だと言えよう。アサヒビールの現社長である松山一雄氏は、それまでのプロダクトアウト一辺倒であったマーケット戦略を、大胆にマーケットインに大変革したのである。

 勿論、マーケットインの戦略偏向だけが正しい訳ではなく、自社の強みを生かした開発企画だって必要なのは言うまでもない。しかし、これからの酒造メーカーは、市民の健康をどのように守るのかとか、レスポンシブルドリンキングにどう対応するのかを考慮した市場戦略を練るべきである。お酒というのは毎日習慣的にしかも大量に飲むのは、健康を損ねるだけでなく社会的な損失を招くし、SDG’s上においても勧められる行動ではない。元々、お祭りや特別な日に嗜む程度に飲むのが、『大人のたしなみ』のお酒だった筈だ。特別なハレの日にだけ、最上級のお酒をほんの少しだけ飲むのがお洒落な大人飲みと言えるだろう。

自己組織化するならボランティア

 現代日本人に一番欠けているものは何か?と問われたらば、本当の智慧がある人ならば間違いなく自己組織化能力だと答えるであろう。自己組織化の能力とは、主体性、自主性、自発性、自己犠牲性、連帯性、進化性という、人間が人間らしく生きる為には必要不可欠な能力の事である。あまりにも家庭教育と学校教育の両方において、干渉や介入を強く受けて育った影響もあり、現代人にはこの自己組織化能力があまり身に付いていないのである。だから、自分で判断し決断し自ら行動し、リスクとコストを怖れずチャレンジするのがとても苦手なのだ。

 自己組織化の働きが育つ為には、まずは無条件の愛である母性愛をたっぷりとこれでもかと注いでから、条件付きの愛である父性愛を注ぐことが肝要である。乳幼児期に、子どもをあるがままにまるごと愛して、たっぷりと依存させることが大事である。依存させることは悪いことだと思いがちだが、そんなことはない。依存が中途半端だから自立出来ないのだ。安心して依存して、依存して、依存し切ってしまえば、子どもは不安なく自立出来るのである。こうして育った子どもは、自然と自己組織化の能力が発達するのである。

 さて、子どもが大きくなっても自己組織化能力が発達せずに育ち、自立が出来ずに困っているという親に相談をよく受ける。こういうケースは、対応が非常に難しい。乳幼児期の子育てからやり直しが出来るならいいのだが、現実的には不可能だと言ってもよい。となれば、本人がどうにかするしかない。しかし、本人の努力だけではどうしようもない。企業や団体の中で働いているだけでは、自己組織化が起きにくい。組織の中で働く際は、逆に自己組織化を阻害されるような事が起きやすい。当事者意識を喪失してしまうのだ。

 ましてや、自己組織化の能力が育っていない社員・職員に対する上司や同僚からの風当たりは強い。低い評価ばかりではなく、批判や否定をされることも少なくない。「お前、使えねえ奴だなあ」と面と向かって言われることがあるかもしれない。日々ルーチン作業だけをしているなら、気付かれないかもしれないが、対面サービス業や対応力を必要とする業務においては、辛く当たられることもあろう。そうすると、自己否定感も強くなるし、自己組織化能力が高くなるどころか、逆に低くなるのも当然である。

 自己組織化能力が低い人は、家庭においても家事育児の能力が極めて低いので、批判されることが多いし、信頼されず無用の人だと疎外されてしまう事が少なくない。パートナーにも恵まれず、孤独感を味わうことになる。そもそも、自己組織化能力が育っていないと、恋人を自ら作ろうと努力しないし、異性から相手にされない。こういう状況になってしまうと、自己組織化能力が自ら育てるとは不可能かというと、けっしてそうではない。自己組織化能力や当事者能力が、大人になってから身に付くというケースは、まったくない訳ではない。

 どのような努力や研修・修練をすれば、自己組織化能力が育つのかと言うと、社会貢献活動にせっせと勤しむことである。何故、社会貢献活動が自己組織化能力を高めてくれるのかと言うと、ボランティアの4原則と呼ばれるその特徴にある。ボランティアをした経験があるなら、ボランティア活動をする場合に守るべき4原則を知っていよう。➀主体性、自主性、自発性➁連帯性、関係性➂無償性、自己責任性➃発展性、進化性、革新性という4つが、ボランティアの4原則である。つまり、自己組織化とはこの4原則そのものなのである。

 自己組織化とはそもそも分子生物学や量子物理学の研究であきらかにされてきた概念である。人体の細胞やそれぞれの組織に、自己組織化する働きがあることも判明している。だとすれば、人間にはそもそも自己組織化する働きが生まれつき備わっていると結論付けられる。つまり、人間は自己組織化することが定められていて、ボランティア活動的な行動をするのが当たり前だということだ。人間が人間らしく生きる為には、ボランティア活動をすることで、本来の自己組織化能力を手に入れるだけでなく、益々高められるということなのだ。老若男女問わず、誰もが社会貢献活動に邁進してくれることを願う。

交際経験のない若者が増えた訳

 アンケートで交際経験(恋愛経験)がない20代の若者が、3割以上もいるということが明らかになったという。女性の3割近くの20代女性は付き合い経験が一度もなく、4割以上の20代男性が、デート経験を一度もしたことがないという。そして、6割以上の20代若者が特定のパートナーがいないというとんでもない実態が明らかになった。どうして恋愛相手がいないのかと問うと、そのようなチャンスがなかったという若者が多いが、中には時間とお金の無駄遣いだから、恋愛したくないと嘯く若者も結構いるらしい。

 少子化が社会問題化になり、結婚できない若者がいるのは経済的貧困のせいだとか、政府の少子化対策に原因があると思っている大人たちが多いが、どうやらそれ以前の問題がありそうだ。非正規労働者や労働分配の問題とか、産み育てる環境が整備されていないことが原因ではなくて、そもそも若者たちが恋愛しようとしていないし、結婚しようとしていないから少子化が起きているのだ。だから、行政府による少子化対策は的外れであり、効果が出る訳がないのだ。若者本人が恋愛や結婚をしたがらないのだから、どうしようもないのだ。

 それでは、どうして若者たちは交際をしたがらないのだろうか。または、若者たちは交際しようと願いながらも、実際に恋愛に踏み切れないでいるのであろうか。一昔ならば、若者の殆どが恋愛の対象者を求めるのが普通だった。中には結婚を望まない若者が居たが、ごく少数であった。今のようなスマホも持たされず、SNSはなかったが、学生たちはサークルや同好会などでの異性との出会いを求めていた。今から40年以上も前は、出会いの為に合同ハイキングや合コンに多くの学生がせっせと参加していたのである。

 昔の学生たちは、ごく普通に異性との出会いを求め、出来たら交際に持ち込みたいと真剣に願っていたものである。そして、やがては交際から結婚することを夢見たものである。現代の若者は、画一的な人生プランを持ちたくないということもあろうが、異性との交際や結婚を望む人が少なくなってしまったようである。または、異性と交際したいと思うが、一歩踏み出す勇気がないという若者も多そうである。または、異性との交際にまで持ち込むまでの複雑なプロセスが面倒だと思い、避けてしまうのではなかろうか。

 それにしても、こんなにも多くの若者が恋愛に対して消極的になったり、交際を拒否したりするのは、若者たちがメンタルに何かの問題を抱えているからとしか思えない。そのメンタルの問題とは、おそらく自己肯定感が育っていないということではないかと見られる。絶対的な自尊感情が育っていないと、何事にも臆病になって新たなことにチャレンジできなくなってしまうのである。恋愛というのは、自分のすべてを相手にさらけ出すということでもある。自分の恥ずかしいことや嫌らしいことさえも、相手に見せることになるのである。

 絶対的な自己肯定感を持つことが出来れば、あるがままの自分を愛せるし、相手をあるがままにまるごと愛することが可能になる。自分の恥ずかしいマイナスの自己や醜い自己さえも愛することが出来なければ、相手にマイナスの自己を見せることが出来ない。交際すれば、どうしたって自分のマイナスの自己を知られることになる。または、相手のマイナスの自己さえも受け容れて許すことが必要になる。そういう覚悟がなければ、交際や恋愛は出来ないのである。一旦お付き合いしたとしても、長続きはしない。

 さて、絶対的な自己肯定感を持てないから、恋愛や交際が出来ないということであるが、どうしてそんな状況に追い込まれてしまったのであろうか。間違いなく言えることは、親との関係性にその根本的原因があると言える。親が、乳幼児期の子どもをまるごとあるがままに、これでもかというくらいに愛し続けないと、絶対的な自己肯定感は確立できない。どちらかというと、若者たちの親たちは子どもを立派に育てようと思い過ぎて、幼児期の時から我が子に強過ぎる干渉と介入を繰り返してしまった。それ故に、現代の若者たちは不安型愛着スタイルアタッチメント欠損)を抱えてしまったのである。だから、恋愛や交際に踏み切れなくなってしまったのだ。

ボーっとしている時間が大切な訳

 NHKのTV番組『チコちゃんに叱られる』で、ゲストが質問の答を間違うと、「ボーっとして生きているんじゃないよ!」とチコちゃんに叱られる。お決まりのパターンであるが、ボーっとして生きていることが、いかにもいけないことだと視聴者に思わせてしまうに違いない。ボーっとして生きるということは、時間を浪費しているようなイメージを持たせるし、何も生み出さないからと、絶対にやってはならないことだと多くの人々が思っている。しかし、このボーっとしている時間こそが、脳の発達に必要不可欠で大切なのである。

 このボーっとしている時間がないと、大脳は正常な発達をしないし、豊かな心も育たないと言われる。確かに、四六時中ボーっとしていて何もしないと言うのは、避けたいことである。しかし、時には何もしなくて何も考えずに、ボーっとしている時間を持つのは大切なことである。ボーっとするのは、脳を休めるためではない。実は、ボーっとしている時間でも、脳は大切な機能を発揮しているのである。そして、ボーっとしているように見えていながら、大脳の発達をさせているということが、脳科学の研究により判明してきたのである。

 一生懸命に、難しい勉強したり厳しい仕事をしたりしている際は、左脳と右脳を思いっきり機能させている。右脳と左脳を繋ぐ脳梁を使って情報交換をしながら、上手く情報処理を実行している。脳梁を太くさせて、その機能を発達させるには左脳と右脳の両方を同時に働かせ、難しい作業をする必要がある。いろんなことを考えながら身体も同時に動かすと、右脳と左脳を同時に働かせて脳梁の機能が向上する。これも人間の成長には、必要な事である。それ以上に脳の進化に必要なのが、ボーっとしながら過ごす時間である。

 右脳も左脳も、ボーっとしている時に情報や感情を整理し直すらしい。また、情報の再ファイル化をして連携化したり、必要な情報と不要な情報に整理し直したり、大切な情報を自分にとって直ぐに活用できるようにしたりしていると言われている。脳は、睡眠中も同じようにその日に起きたり学んだりしたことを整理整頓すると考えられている。ボーっとしている時というのは、無心とか無我になることと同じと考えられている。つまり、座禅をしていることと同じ行為だと思われる。何も考えず何もせず何も願わない時間なのである。

 座禅とは、何も考えずに只ひたすら座ることである。座禅は、悟りを得る為にする行為だと思われがちだが、実は何かをする為に座禅をすると、心を動かし脳を働かせてしまう。だからこそ、何も思わないのが座禅なのである。無心や無我の境地に至らないと、脳は本来の働きをしないし、進化しないのである。無心になって初めて潜在意識が顕在意識を凌駕するのではなかろうか。人間の無意識の領域は約9割近くに及ぶと言われている。その無意識の領域をほんの少しでも活性化できたとしたら、超人の働きができるのだ。

 ボーっとしているというのは、何もしないし何も考えないという瞑想にも通じる。これは、写経、読経、ヨガ、滝行、山岳修行などのマインドフルネスにも言えることかもしれない。ひとつのことに専心するということは、邪念を追い払う事でもある。勿論、ボーっとしている時間もまた、人に対する怒りや憎しみの感情や妬み嫉みを捨てることである。ボーっとしている時間を過ごしていると、何も考えていない筈なのに、過ごし終わった後に驚くほどの抜本的な問題解決策が見つかることもある。

 子育て中の親たちは、子どもがボーっとしていたら安易に注意すべきではない。それは、脳の整理と成長の為に必要な無意識の行動なのである。それを見た親が、ボーっとしている時間を子どもから取り上げてしまったら、大切な大脳の進化発展を止めてしまい、将来不幸になるかもしれないのだ。子どもにとっては特にこのボーっとしている時間が必要不可欠なのだと心得たい。ボーっとしている子どもを見たら、ああこの子は脳の大事なトレーニングをしているんだと、温かく見守ってほしい。やがて、大天才になるかもしれないのであるから。

健康食にすれば病気にはならないのか

 最近の健康ブームもあいまって、自然食志向の人が驚くほど増えている。無農薬や化学肥料を使用しない有機栽培の野菜・果物だけの摂取にこだわり、動物性たんぱく質を一切使用しないヴィーガンの食生活を志す人が想像以上に多くなっている。有機栽培&無農薬の玄米しか食べない人も少なくない。それだけではなく、食品添加物の含まれない加工食品、自然素材の洋服や寝具、自然素材の洗剤やシャンプーリンスしか使わない人も増えてきた。それだけ、病気にならないように予防医学に感心を持つ人が増えてきた証拠かもしれない。

 ところが、それだけ気を遣って生活してきたのに、乳がんや子宮がんになってしまったと嘆いている女性が少なくないのである。元々、自然生活志向の人は圧倒的に女性が多いこともあろうが、そんなにも努力してきたのに、どうしてガンになってしまったのかと、自堕落な生活をして病気になった人よりも元気を失っている女性が多い。勿論、自然生活志向を貫いてきたから、他の病気の発症を防いできたのは確かであろう。しかし、よりによって癌という取り返しのつかない病気になってしまったのか、悔やみきれない気持ちであろう。

 世の中というのは、不思議なものである。暴飲暴食、運動嫌いで好き放題の自堕落な生活をしているにも関わらず、病気にもならずに長生きしている人がいる。一方では、健康に気を遣い、毎日早寝早起きをして、適度な運動をして健康食を続けている人が、ポックリとあの世に行ったり難病や不治の病になったりする。完璧な健康生活を続けている人が長生きしそうなものだが、現実はそうとは限らないのだ。それでは、健康的な生活をしたとしても、すべて無駄なのだろうか。好き勝手に飲み放題食べ放題の自堕落な生活が良いのだろうか。

 健康で長生きするというのは、誰しも願う事なのであろうが、健康的な食生活や生活習慣だけではそれが実現しないということかもしれない。さすれば、もっと健康を保つ為に大事なことは食生活と生活習慣以外に何が必要だというのだろうか。おそらくは、それは『心』というものではなかろうかと思わずにはいられない。何故なら、健康食であるオーガニック&ヴィーガンを志すような方々を見ていると、その目的が自分の健康のためにという考え方が根底にあり、その為にはどんな苦労も厭わないと必死になっている姿が印象的である。

 それが悪いとは思わないが、オーガニック&ヴィーガンな生活を目指している方々は、あまりにも必死になっていて悲壮感さえ感じるのである。そして、完璧な食事と生活を志す姿はある意味で滑稽にも思えるのである。もっと肩の力を抜いて、パーフェクトを目指したとしても、時にはヴィーガンを少し外れた豪華で贅沢な料理を楽しむ余裕があっても良いように感じて仕方ない。オーガニック&ヴィーガンな生活をするのは、自分の為だけでなく社会貢献や全体幸福のための、ひとつの手段だと捉えてもよいのではなかろうか。

 オーガニック&ヴィーガンな生活というそのもの自体を、目的化するというのは如何なものであろうか。健康で長生きするということも、目的にするのは間違いだと思えるのである。健康的な食事をする目的は、身体が健康になる為だけではない。勿論、健康食は健全な心を養うものでもあるが、それも目的ではない。健全な心身を作り上げるのは、それを根底にしての自分の役割を社会に対して果たす為である。それを忘れてしまい、自分自身の為にだけ健康食による健康実現を目指しても、それが実現することはないと断言できる。

 オーガニック&ヴィーガンにあまり拘っていなくても健康を保っている人は、社会の全体幸福や全体最適に貢献しようと努力しているからである。そして、そういう人は人生を謳歌しているし、ストレスやプレッシャーを楽しんでいる。だから、完全な健康食を摂取しなくても、生活習慣が完全な自然志向ではなくても、心身が健全であり続ける。腸内環境が健康であれば、多少の重金属や毒物が含まれた食事を摂取しても、デトックスが可能なのである。人体ネットワークシステムが健全に働いているから、自己組織化が働き心身が健康になるのだ。そういう無理をしない生き方を志すほうが、コストは少ないし理に適っている。

痛みは心からの大事なメッセージ

 痛みは辛く苦しいものだ。抱えている痛みは本人しか解らないし、それが四六時中続いているというのは耐え難い苦しみである。なによりも辛いのは、この痛みがいつまで続くのか解らないということだ。一生に渡ってこの苦しみが続くと言うのなら、途方もない悲しみの渦に巻き込まれてしまいそうだ。この痛みを取ってくれるというのなら、藁にでもすがる思いでどんなこともやってみたいと思うだろう。そして、どうしてこの痛みは出てきてしまったのだろう、どうすれば解放されるのだろうと、心を悩ませている。

 辛い痛みを抱えている人に話を聞くと、自分のこの痛みを一番身近な人がまったく解ってくれないし、何か他人事のように思われていることが感じられて、それが一番辛いと言っている。確かに、心の痛みは何とか共有しようとすれば出来そうだが、身体の痛みはなかなか解り合えない。ましてや、夫婦や親子という関係において、あまり良好な関係に無い場合は、特に身体の痛みに共感しにくいかもしれない。身体の痛みに共感してくれないという『心の痛み』が、益々の痛みの増幅を産み出しているようにも思えて仕方ない。

 身体の痛みを抱えている人が急増している。何らかの痛みを持っていて、普段の生活に影響が出ている人の割合は、おそらく半数を超えていそうな気がする。そして、その割合は女性のほうが遥に高いように感じる。女性の痛みの場合は、原意不明の痛みが多いのが特徴的だ。膠原病、関節リウマチ、線維筋痛症、神経因性疼痛、気象病など原因が特定できない痛みの病気で苦しんでいる女性が多い。どうしてなのか、不思議な事ではあるが、おそらく女性が置かれた環境(人間関係)が大きく影響しているとしか思えない。

 一昔前の医学的な常識として、痛みの原因はこのようなメカニズムで起きていると考えられていた。一つめは、痛みが起きている局部に存する神経細胞が何らかの刺激を受けて痛みが出ているのではないかという見解である。二つ目は、筋肉内に乳酸などが溜まり血管を圧迫して、血流が滞って痛みの原因物質であるプロスタグランディンなどが溜まり、痛みが発症するという見解だ。ところが、この二つだけでは説明できない痛みがあることに注目されている。それは心因性の疼痛であり、この痛みは脳が痛みを感じさせるとも言われている。

 原因不明の痛みとは、この心因性の疼痛が起きる仕組みと同じだと考えられている。何らかの原因で血流障害が起きてしまい、血液を何とか流そうと努力をして、その箇所にバイパス的な毛細血管(モヤモヤ血管)が出来てしまい、そのモヤモヤ血管が痛み神経を刺激して、発症しているという診たてをする医師が増えている。血管造影撮影をすると、痛みが出ている部位に何だか分からないモヤモヤとした毛細血管が写っているらしい。不思議なことに、癌を発症した患者の殆どが、発症する前にこのモヤモヤ血管が出来ていたというのだ。

 痛みの原因や背景を明らかにして、どうして痛みが出ているのかを特定するのは難しい。でも、痛みは自分の心や脳が敢えて起こしているのではないかと考えると、痛みを起こしている本当の意味が少しずつ理解できそうだ。現状において問題を抱えていない人は皆無であろう。それでも、その問題があまりにも大きくて、解決しそうもないという八方塞がりの状況に追い込まれている人は、そんなに多く居ない筈である。現に抱えている困難な状況に、闘う事も出来ず逃げることも許されず、どうやっても乗り越えることは難しいと半ば諦めているケースがあるかと思われる。

 そんな状況が長く続く時に、原因不明の痛みが起きやすいのである。そして、その状況を解決することを諦めて、痛みを放置しておくと取り返しのつかない重病まで発症してしまうのである。ということは、痛みというのは自分自身に対する大事なサインorメッセージなのではなかろうか。今の生き方で良いのか、今の生活を守りたいのか、それとも大胆な変革をしなければならないのか、そろそろ気付きなさいよという自分に対するメッセージだと読み解くことができよう。こういう時こそ、自分の力だけでは解決できないので、誰かに相談すべきだろう。その誰かが解決してくれるとは限らないが、対話を続けているうちに、自分でその『答』を見出すことになろう。

漫画シュリンクで描く精神医学の世界

 コミックの『シュリンク精神科医ヨワイ』がNHK総合でドラマ化されて放映されている。初めて知ったことであるが、こんなにも素敵な精神科医を扱ったコミックが発売されているとはびっくりである。精神科というと、どうしても敷居が高い診療科である。世間でも少しずつ認知されてきたとは言いながら、精神疾患を持っているとカミングアウトすると、特別視されることが少なくない。このドラマでも触れていたが、米国では4人に1人が精神科を受診していて、日本では12人に1人しか精神科の診察を受けていない。

 そのことにより、米国よりも日本の方が精神疾患に罹患している人が少ないのかというと、そうではないとも言えるらしい。なにしろ、自殺する人は圧倒的に日本の方が多いのである。そこから推論できることは、日本でも適切に精神科やカウンセラーのケアを受ければ、自殺者を米国並みに減らせる可能性があるということだ。題名のシュリンクとは、精神疾患の患者の心はいろんな悩み、苦しみ、不安でいっぱいに膨らむ。その大きな膨らみを小さくすることをシュリンクと言い、精神科医を指すスラングになっているらしい。

 とても良くできたドラマであると評価したい。第1回はパニック症がテーマであり、主人公の弱井先生は患者の認知行動療法に親身になり付き合ってくれていた。安易な投薬治療に頼らず、患者に依存させるようなこともせず、本人が自分の力でパニック症を乗り越えられるように温かく寄り添ってくれている。こんな精神科医が日本でも増えてくれば、自殺するような人も多く救えるに違いない。日本の精神科医は、時間をかけて診療をしても報酬が得られないからと、投薬治療に偏るケースが多い。仕方ないが、これでは完治しない。

 シュリンクのドラマで描かれている弱井先生は、患者さんに対して徹底的に寄り添う。日本の精神科医や臨床心理士たちは、患者さんに共感し過ぎて感情移入してしまうと、転移や逆転移が起きる危険性が高まると、敢えて距離感を取るケースが非常に多い。それは、自分を守る為と、患者さんの依存性を高めてしまうのを避ける為に、必要な事だと主張する。しかし、あまりにも距離感を保つことを徹底すると、冷たい態度だと感じてしまい、信頼感や関係性を持ち得ない。これでは、治療効果が高まることは期待できない。

 原作者の七海仁氏は、精神疾患に罹患した家族が精神科を受診する際に、実際に診療所や病院探しに困った経験があると言う。また、複数の精神科医の診療にも立ち会って、精神科医のレベルに疑問を持ったのと、情報提供に問題があると感じて、原作を執筆する原動力になったという。それぞれの精神科医のレベルの差は、非常に大きい。日本の精神医療が、諸外国と比較しても遜色ないレベルだと思っている人は少ない。日本の精神医療のレベルは酷い。だから、精神疾患に一度罹患してしまうと、完治しないのは当たり前で寛解さえ実現する事は稀である。

 この原作者の七海仁氏は、精神科医に多岐に渡るインタビューや取材をして、このシュリンクという物語を構築したと言われている。その際に、取材した精神科医が最新の医学知識を持たなかったせいで、一部にエビデンスが取れていない話が生まれてしまったのは悔やまれる。ポリヴェーガル理論を知らなかった為に、自律神経理論の説明が論理的破綻を起こしている事に気付けなかったのが残念である。パニック症になる原因は、自律神経のアンバランスだという説明で、副交感神経よりも交感神経が優位になり過ぎてしまい、交感神経の暴走でパニック症が起きたという説明である。

 でも、よく考えてみればこれは論理的にあり得ない。交感神経が優位になり過ぎて暴走することは考えられない。副交感神経には2つ存在し、背側迷走神経と腹側迷走神経があり、その背側迷走神経の暴走が起きてしまい、フリーズ化とかシャットダウン化が起きていると考えるのが妥当である。人間は逃走することも適わず、逃避することも出来ない絶体絶命の状況に追い込まれると、背側迷走神経が暴走してしまい凍り付きや遮断が起きてしまうのである。これがパニック症の本当の原因だ。このような最新医学理論にも疎いのが、日本の精神医学界なのである。レベルが低いと言われるのも当然である。

親を人生の目標にしてはならない訳

 前回のブログにおいて、親を尊敬するのは構わないが人生の目標とすることは正しくないと主張させてもらった。その訳について、下記に詳しく述べたい。人間が発達していく段階において、自我の目覚めとその後に自我を克服し乗り越えて、自我と自己の統合としての自己の確立をするという発達形態を取ることは広く知られている。この自我を乗り越える際に、親との関係が特に重要である。思春期における第二反抗期として、正常な自我が発達しているならば、通常は親に大いなる反発を覚えるのである。

 親が自分に対して強く介入したり干渉したりすることを、極めて強く嫌う。自分が進むべき進路は自分自身が判断して決断し、自分で切り拓いて行く年代である。親がこの学校に進むべきだと強く推したり、こういう職業に就くことを願っているなどと言ったりするものなら、反発して逆の道を歩みたくなろう。それでも、何となく親が進める進学や就職に落ち着くのであろうが、親の言うとおりに進路を決めるのは嫌なものである。何故かと言うと、人間には生まれつき自己組織化する働きがあるから、主体的に物事を決めたいのである。

 そんな思春期というのは、エディプスコンプレックスやエレクトラコンプレックスを抱きやすい年代でもある。このエディプスコンプレックスやエレクトラコンプレックスを適切に乗り越えて行けないと、やがて青年期になってから愛着障害などを起こしやすく、恋愛における困った問題を引き起こしかねない。あまりにも偉大で完璧な父親や母親であり、到底乗り越えられない強大な存在であると、これらのコンプレックスは超越出来なくなってしまうのである。だからこそ、父親と母親は、人生の目標にしてはならないのだ。

 今までイスキアの活動をしていて、強くて偉大で何もかも完璧にこなしてしまうような親を持つ子どもは、このエディプスコンプレックスやエレクトラコンプレックスを強く抱いてしまい、愛着障害で苦しむ姿を見てきた。エディプスコンプレックスやエレクトラコンプレックスから、同性の親に対する敵意から殺意までも持ってしまうことがある。同性の親を嫌って、息子は父を娘は母を憎しみ、殺してしまう夢まで見る。それは、ある意味自分の嫌いな自我を相手に見出すせいもある。その自我を仮面で隠して、良い人を演じている親が許せないのだ。

 自分の中に存在する恥ずかしくて卑劣であまりにも愚かな自己を、親の心の裡に発見することで、親を一時的には憎しみこの世から抹消したいと思うのだ。しかし、人間らしくて愚かで時に弱い人間性を垣間見せる親を発見することで、これなら親を乗り越えられると安心して、自我と自己の統合を実現して、自分のマイナスの自己も受け容れられて愛することが出来るようになるのだ。ところが、自我(エゴ)の欠片も感じさせないような立派で完璧な親を演じ切ってしまうと、子どもは親を乗り越えられないばかりか親との同一性を持てなくなるのである。

 医師、法律家、大企業の経営者、大学教授、キャリア官僚、政治家の子どもたちが、親を乗り越えることを諦めて、挫折したり愛着障害を持ったりするケースを、イスキアの活動でいくつも経験してきた。傑出した実績や経歴を持つ親の子どもがすべてそうなる訳ではない。あまりにも厚くて頑丈な仮面(ペルソナ)を被って、けっして闇の部分(シャドウ)を子どもと世間に見せない親であると、子どもが心理的な問題を抱えるのである。だからこそ、人生の目標となる親を演じてはならないのである。

 子どもの立場から見ると、親は乗り越えるものであり、超越が難しい人生の目標にしてはならない理由がここにある。だから、親は子どもの前であまりにも良い人を完璧に演じ切ってはならないのである。時には人間臭くて、情けなくて詰まらない人格や人間性を、子どもに見せなくてはならないのである。インナーチャイルドを心から楽しんでいる姿を、時には見せてあげることで、子どもは気付き学ぶのだ。たまにはペルソナを脱ぎ捨てて、インナーチャイルド全開で人生を謳歌する姿を、子どもに見せることが出来たなら、子どももまた安心してペルソナを外して、自分らしく生きることが出来よう。

人生の目標とする人がいない不幸

 あなたが心底から尊敬していて、自分もあんな人のようになりたいと目指す存在はありますか?と聞かれたら、即座に特定の人物を上げることが出来るだろうか。勿論、人生の師として敬う人物であり、芸人、スター、タレント、スポーツ選手ではない。あくまでも、社会に素晴らしい足跡や実績を残した人物であり、その生き方そのものが尊敬に値するような存在であり、自分も同じような生き方をしたいと強く願うような憧れでもある。残念ながら、多くの人々はそんな人生の目標とする存在を持っていないのではなかろうか。

 私が人生の目標とするのは、ご存じのとおり森のイスキア佐藤初女さんである。佐藤初女さんをリスペクトとして、同じような活動をしてきた。勿論、初女さんの足元にも及ばないが、同じように多くの悩める人の役に立ちたいと実践してきたつもりである。人間という生き物は、誰かの模倣をしながらどう生きればいいのかを学ぶ。野生の動物も、親が見本を見せて生きる術を身に付けて生きていけるのである。乳幼児期は、親の模倣をして生きる。思春期を迎える頃になると、逆に親に反発をして、親の生き方に反する生き方を志す。

 それだからこそ、青年期に入る頃からは人生の師と言える目標とする人物を持つ必要があるのだ。人生における目指すモデルがないと、目標を見失ってしまい無為に生きるようになってしまうのである。現代の若者たちは、人生の目標がいないのではないかと思えて仕方ない。若者だけではない。中高年の人たちも、そして老人たちも人生の目標を持っているとは思えない。特に仕事をリタイアした人たちは、人生の師を持ち得ないケースが多いに違いない。老後を趣味やスポーツなど好きなことだけをして過ごすのは、実にもったいない。

 それでは、どんな人物を人生の師や目標とする人物にすればいいのかというと、その素晴らしい実績とか足跡だけに注目してはならない。結果だけを尊敬するのではなくて、そのように至ったプロセスが何よりも大切であるし、その実践の元になったその人の価値観や思想・哲学こそがリスペクトされる対象であるべきだと思う。ともすると、我々はその尊敬する人物の実績に目を奪われてしまい、その人物の生きる目的や生きる姿勢をついつい忘れがちである。どんな実績を残したかよりも、どう生きたかが大事だとつくづく思う。

 一昔前までは、身近なところにそんな人物がいたものである。例えば、会社の上司や社長とか、学校の恩師、郷土の政治家や経済人で、尊敬すべき人物がいたものである。目標とすべき尊敬する人物が、父親とか母親という人間もたまにいるが、それはどうかと思う。尊敬するのはあり得るが、人生の目標とする人物としては好ましくない。その理由は、次回のブログで詳説するので、今回は割愛したい。昔は身近な存在に、人生の目標にすべき傑出した人物がいたものである。特に、政界よりも経済界に多く輩出していたように思われる。

 松下電器を創業した松下幸之助氏。本田技研工業の創業者本田宗一郎氏。ソニーの創業者井深正氏と盛田昭夫氏。少し遡って日本経済界の父と呼ばれる渋沢栄一氏。皆の実績も素晴らしいが、それを実現させたのは彼らが共通して持つ崇高な価値観である。私益よりも公益を優先させた企業経営は、まさしく社会的企業(ソーシアルビジネス)としての理念を持っていた。だからこそ、彼らに仕えた部下たちもまた、高い思想と経営哲学を持っていた。目の前に圧倒される素晴らしい人格と人間性を持った人物がいたとしたら、人生の目標とせざるを得ないであろう。

 現代の企業家や経営幹部には、傑出した英雄はもはや存在しない。公益よりも会社の私益を最優先にするだけでなく、私利私欲にまみれていて利他の精神なんてまるっきりないに等しい役員と上司だけである。行動規範が利害や損得になっている、低劣な価値観しか持ち得ていないような会社の上司をどうして尊敬出来ようか。人間として尊敬して人生の目標として憧れるのは、崇高な価値観を持った人物でしかないのだ。人生の目標とするような先輩が誰一人いない会社で、どうやって頑張ることができようか。実に不幸な会社人生である。