里山に小型で凶暴な熊が現れる訳

 各地で熊による人的被害が止まることなく、益々増えている。10月29日現在12名の方が熊による危害で命をなくされている。過去最多の尊い人命が失われていて、これからも増え続ける勢いである。どうしてこんなにも人的被害が増えているのか、動物の生態に詳しい専門家たちはそれぞれ分析して原因をあげている。しかし、どうも今までの理由だけでは説明がつかない状況が起きているとしか考えられない。これまでの熊に対する常識や定説では、どうにも解らない不思議なことが起き続けていて、新たな分析が必要になっている。

 そんな状況の中で、大型野生動物の生態に精通している専門家が、新たな分析をして定説を覆すような分析をしたのである。今まで、原則として熊は人を恐れていて、出会うことを避けていると見られていた。思いがけず出会ったり、子熊を育てている雌の親熊が人間に出会ったりした場合に、人を襲うことがあると分析していた。だから、熊鈴、ホイッスル、爆竹、花火などを鳴らして、人間の存在を熊に知らせることで熊との出会いを避けられると分析していた。しかし、そんな熊だけでなく敢えて人間を襲う熊が出現したというのだ。

 人間を恐れずに敢えて襲う熊というのは、里に追いやられてしまった個体だという。奥山に住む熊の好物である食糧は木の実であるが、そこにテリトリーを持つ熊というのは、大きくて強い熊で縄張り競争に勝った個体である。この奥山に住む熊は、豊富な食糧があるので、敢えて里山に降りなくても良いし、人間を怖い存在だと認識し、出会うことを避けている。奥山まで登山したり山菜採りをしたりしている人は体験して知っているが、人間が熊のテリトリーに近づくと、唸り声を出して人間が近寄らないように威嚇するのである。

 ところが、縄張り競争に負けたひ弱な熊は、奥山に住むことを許されず、里山まで降りて食べ物を探すしかなくなる。あまりにも個体数が増え過ぎたので、テリトリーを持たない熊が増えて、里山の木の実は足りなくなる。空腹に耐えきれなくなった熊は、野生動物を食べるか家畜を襲うことでしか空腹を満たせなくなる。または、畑の野菜や果樹を食べるようになる。そうすると、人間と出会う頻度は飛躍的に増える。ゴミ置き場を漁ることもあるし、人家に入ることもあろう。人間の食べ物を一度食べると、その味を忘れられなくなる。

 人間は恐ろしいものだという遺伝記憶は、銃で撃たれるという体験もないから、怖さが子孫に伝わらなくなり、人間の姿を見ても逃げなくなる。ましてや、人間と一度出会って闘って勝った経験をした熊は、人間は獲物だという認識をすることもあろう。最近の里山に住む熊は、人間を獲物にしたような痕跡が多く見られる。襲った人間をひきずって行き、自分のテリトリーに確保しているような痕跡があると言われている。里山に住む熊は、奥山に住む熊とは明らかに違い、小型であり食べ物が不十分で飢えの為に痩せているという特徴がある。

 熊による人的被害のある事故は、おしなべて民家の近くか里山で起きている。登山口近くの登山道で人身被害があるが、奥山の登山道では殆ど起きていない。知床半島の羅臼岳で起きた不幸な人的被害の事件は、登山口に近い登山道で起きている。奥山にテリトリーを持ち、食糧が足りている大きくて強い熊は、人間を襲う必要がないのである。生きていくにはどうしても食べ物が必要なので、里山に住む熊は人家近くに出没して人間を襲ってしまうのであろう。個体数が許容範囲以上に増え過ぎてしまった故に、凶暴な飢えた熊が出現したのだ。

 里山に住んでいて、食料が不足して人家近くに時折現れる小型で凶暴な熊は、今までのような常識は通じない。熊鈴、ホイッスル、ラジオ、爆竹などでは逃げない。出会ったときには後ろを向かずに熊の目をじっと見つめたままで、後ずさりして遠ざかるということをしても、襲われる怖れがある。熊が襲ってきたら、腹ばいになり首を手で覆い、攻撃をやり過ごすしかない。しかし、一度人間を獲物にした体験を持つ熊は、引きずって自分のテリトリーに運ぶかもしれない。それ故に、熊の人的被害を防ぐには、里山に住む飢えた熊をすべて駆除するしか、他に方法がないのである。熊との共生なんて、ありえない時代になったと言える。

孤育てor共育てかで子の幸福度が決まる

 孤育てという言葉が、ネット上で最近は使用されているケースが多い。子どもが孤独という意味ではなくて、親が単独で子育てをしているケースで使われる。勿論、ひとり親家庭もその範疇に入るが、どちらかというとこの孤育てというのは、父親もいるけれど母親だけが子育てを担当している場合に用いられる。つまり、家庭にお父さんがいるけれど子育てに対する協力が得られず、お母さんが子育てに孤軍奮闘している時に孤育てと呼ぶ。そうではなくて、父親が子育てに積極的に協力していて、夫婦が協力している場合に共育てと呼ぶ。

 それぞれの家庭において、様々な事情があるのは当然である。夫が単身赴任をせざるを得ない場合も多いし、ハードな勤務状況の故に家庭不在にならざるを得ないケースもあろう。だとしても、母親だけで子育てするというのは、その負担はあまりにも大きいと言わざるを得ない。どんなに素晴らしい能力をもち、安定したメンタルを持った母親でも、孤育てというのは、母親にもそして子どもにも悪い影響を与えるのは防げない。共育てならば、母親の身体的負担も少ないし、精神的な安定を持てるが、孤育ては辛いものがあろう。

 孤育てによる子どもへの悪い影響というは、世間の人が考えている以上に大きい。何故かというと、母親が孤育てしている時の精神面での不安や怖れが、子どもにダイレクトに伝わってしまうからである。つまり、母親の不安が子どもに対してもろに伝播して、子どもの不安が強くなってしまうのである。ましてや、子どもというのは豊かな母性愛(無条件の愛)をたっぷりと注がれてから、父性愛(条件付きの愛)でしっかりと躾をすることで健全な育成が可能となる。どちらか一方が欠けても、子どもは健やかに育ちにくい。

 今、青少年が不登校やひきこもりになるケースが非常に多くなっている。その根底になっているのが、子どもたちの生きづらさである。それは、根底に愛着(アタッチメント)の不完全さを抱えているからである。問題行動を起こしている子どものほぼ100%と言っていいほど、不安定の愛着が根底にある。問題ある殆どの子どもが不安型の愛着、または愛着障害と言っても差し支えなく、それが二次的な症状としてメンタルの不全さを起している。そうなってしまっている原因の多くが孤育てにあると言っても過言ではない。

 離婚してのひとり親による孤育ての場合よりも、ふたり親なのに母親だけが孤育てをせざるを得ないケースのほうが、問題が起きやすい。それも、父親が家庭にいるのにも関わらず子育てに携わるのを拒否しているか、もしくは子育てから逃避している時にこそ問題が起きると言える。何故なら、父親がのっぴきならない理由で子育てに関われない時は、母親は覚悟を決めて孤育てに取り組める。ところが、子育てに協力することが出来るのにも関わらず、子育てから逃げている父親が家庭内にいることが、母親の心を疲弊させるのである。

 孤育てをしている母親は、まさに孤独感があり家庭内で孤立している。こうなると、子どもだけが自分と繋がるたった一人の絆である。しかし、幼い子どもは相談相手にならないし、悩みを打ち明けることもできない。ましてや、子育ての悩みは自分だけで解決するしかないのだ。家庭内に父親がいるにも関わらず相談相手にならないのだ。特に、父親が発達障害であるケースは最悪だ。まるで、話を聞こうとしないし、会話が嚙み合わないばかりか、とんでもない反応をする。子どもに悪影響を与える言動を繰り返すから、困る存在である。

 孤育ては、子どもを不幸にし、共育ては幸福感を持つ健全な子どもを育成できる。だから、父親は仕事をある程度犠牲にしてでも、共育てをすべきなのである。自分の趣味や遊びを、子育て期間は我慢すべきだと考える。何故なら、母親はすべてを犠牲にして子育てに専念するのだから、父親だって自己犠牲が必要だ。この世の中で、一番尊くて価値のあることは、次世代を担っていく優秀な子孫を育成することだ。この世の中で一番価値があるのは仕事だと思っているなら、それは完全な間違いだ。だからこそ、共育てに力を注ぎ、孤育てにならないように、父親たるものは最善の努力をすべきなのである。

『アストリッドとラファエル』は最高のドラマ

 NHKでは海外の人気ドラマを輸入して放映するケースが少なくないが、『アストリッドとラファエル』というドラマはフランスで作成された推理ものである。以前はNHKの地上波で放映されていたみたいだが、現在はNHKのBS4Kで鑑賞できる。最初は単なる刑事ものだと思っていたのだが、その予想は見事に覆された。それは良い意味でのまったくの想定外であり、びっくりすると同時に鑑賞できる喜びに浸ることが出来た。推理ドラマではあるものの、深淵なるヒューマンドラマでもあったのだ。

 主人公のアストリッドは、警察署の犯罪資料局に在籍する女性事務員であり、もう一人の主人公ラファエルは優秀な女性刑事である。日本でいうところの警視庁捜査第一課(殺人事件を扱う課)の係長といった役割である。アストリッドはフランス警察全体の過去の犯罪資料を扱う保管庫で、文書の管理係をしている。アストリッドは深刻な自閉症(ASD)を抱えていて、コミュニケーション障害があり、対人恐怖症があるので対人対応力に乏しい。偶然にもそのアストリッドとラファエルがとある事件を通じて出会い、交流が始まるのである。

 アストリッドは、母親が自分を捨てて逃げたという体験から見捨てられ不安が強く、重い愛着障害を抱えている。それ故に、強いHSP(神経過敏)を抱えて聴覚過敏で悩まされている。幼児期から強烈な不安を抱えていて、その傷つきやすさから、何度もトラウマを受けて積み重なり、複雑性PTSDを発症してしまい、二次的症状としてASDとコミュニケーション障害を起したと考えられる。見事な人物描写であると言える。ここまで深く人間の裏側までも描き出したドラマや映画は経験したことがない。素晴らしいヒューマンドラマである。

 アストリッドの記憶力は途方もない能力を秘めている。犯罪資料局にある過去の犯罪資料を全て読んでいて、必要な書類がどこにあるのかを特定でき、いつでもすぐに取り出せるようにファイリングしている。ある程度の資料の内容や犯罪の容疑者・関係者はすべて記憶している。ASDの人に備わっている能力であることが多いのだが、ギフテッドと呼ばれる天才なのである。おそらく、彼女の視野に入ったものはすべて画像として記憶され、いつでもその情報が引き出せる。あらゆる芸術にも精通していて、その感性は極めて豊かである。

 一方、女性敏腕刑事のラファエルは、想像力や柔軟思考性に優れていて、発想力にも秀でている。つまり、アストリッドとラファエルは正反対の能力を持っていると言えよう。本来は文書係だから、アストリッドは捜査には加われない。しかし、アストリッドの高い能力を認めて捜査に協力を求め、ラファエルと二人三脚で難事件を次から次へと解決していくのである。それも迷宮入りになっていた難事件までも見事に解き明かす。アストリッドの感覚は敏感過ぎるほど研ぎ澄まされている。その優れた感覚と記憶力で解決に導くのである。

 推理ドラマとして超一流なのであるが、二人の魂の成長を描く人間ドラマでもある。ラファエル刑事はASDのアストリッドとの触れ合いを通じて、精神障がい者との友情を育むことの喜びを知る。アストリッドはASDである自分の特性を受け入れてくれるラファエルに、生まれて初めての友情を抱く。それぞれの感性の違いを認め受け入れることで、人間としての成長を成し遂げていく感動のドラマなのだ。そして、びっくりするのがアストリッドの演技力である。ASDの言動の特徴を見事に演じている。そのリアリティは、見るものを勘違いさせるほど素晴らしい。

 日本でもASDなどの発達障害や知的障害を持つ人々を描いたドラマや映画は存在する。しかし、こんなにもASDの人物が生き生きとして社会に貢献しながら活躍していく物語を見たことがない。勿論、アストリッドも捜査をする経過において悩み苦しむことがあるし、酷く傷つくこともある。それでも、アストリッドは自分が社会に役に立つ喜びを抱きながら、ラファエルに協力することを続ける。このドラマを観た多くの精神障がい者や発達障がい者に勇気を与えてくれるだろう。また、障がい者に対する偏見が少しでも少なくなることと、障がい者の社会参加が進んでいくことを願わずにはいられない。

エディプスコンプレックスが自立を阻む

 エディプスコンプレックスという心理学用語を、最近の精神医学界隈では使用することが少なくなってきた。マザーコンプレックスという用語も使わなくなっているので、その対語であるエディプスコンプレックスも話題に登らなくなったのも当然だ。マザコンというのは、母親に対するコンプレックスであり、エディプスコンプレックスというのは父親に対するそれである。ファザコンという用語もあるのに、どうしてエディプスコンプレックスというのかというと、ファザコンよりも強烈で敵対心がある言葉だからだろう。

 ファザコンというのは、どちらかというと女の子が父親に持つ憧れや依存心を意味する。エディプスコンプレックスというのは、男の子が父親に対して殺意までも持つような敵対心を抱えたコンプレックスを言う。どうしてエディプスと言うのかというと、ギリシャ神話であるオイディプス王(エディプス王)の悲劇から名づけられた。その神話とは、オイディプス王子が父親の王様のお妃である母親に横恋慕して、父親を殺して王様になり、母親を自分の妃にしたという悲劇からの命名だという。

 男の子というのは、思春期を迎えると父親が克服すべきライバルでもあり、潜在意識で好意を持つ母親の恋敵と思い込むケースが少なくない。ましてや、人生でも成功者であり厳格な性格を持つ父親なら、殺したいほど憎むケースも多い。特に、自分のように人生の成功者たりえるように、子どもを見下して支配して強く干渉するようなら、その支配から逃れるには殺すしかないと思い込むこともあろう。逆に、父親の支配から逃れないと諦め屈服するようなら、父親の操り人形のようになり、精神的に自立出来なくなることも少なくない。

 実はこういう親子関係に陥り、自立が出来なくて依存関係を継続してしまう若者が増えているのである。父親を憎みながらも屈服してしまうという無念さとつらく苦しい葛藤に、子どもは悩み苦しむ。特に完璧さや潔癖さを求めていて、それを自分の子にも要求し続ける父親に育てられると、子どもは逃げ場がなくなる。父親の見えない圧力に押し潰されることが少なくない。完全無欠な父親は、子どもにとって乗り越えられないあまりにも強大な存在であり、逃げることも闘うことも出来ない場合は、子どもは自立できなくなり閉じこもる。

 子どもは、本来は父親を乗り越えて自立していく。父親を潜在意識下で殺して存在を消してでも克服していくのである。それなのに、何もかも完璧でスキがなく強過ぎる父親では、逆に返り討ちになってしまい、乗り越えられる筈がない。だから、父親は子どもの前で完璧な父親を演じてはならないし、あまりにも強い圧力を掛け続けてはならないのである。時には、だらしなく不完全な父親を演じることも必要である。お酒を飲んでグズグズになったり、情けないような姿も見せたりすることで、子どもは安心して父親を乗り越えられるのだ。

 さらに、完璧な大人の姿だけではなくて、時にはインナーチャイルドを発揮して天真爛漫で無邪気な父親の言動も見せなくてはならない。インナーチャイルドをけっして見せない親に育てられると、子どもがインナーチャイルドを出してはいけなんだと思い込む。そうすると、本当の自分をさらけ出せなくて、自分らしさを楽しめなくなってしまう。これも、精神的な自立を阻む要因になってしまう。人間が大人になっても遊び心を失わない為には、インナーチャイルドを慈しむ心が必要なのである。

 このように子育ての中で父親が果たす役割は、想像している以上に大きい。子どもは父親の後ろ姿を注目していて、模倣をしながら成長していくし、その父親を乗り越えて自立していくのである。だからこそ、父親はエディプスコンプレックスを子どもが乗り越えられるような配慮をしなくてはならないのである。そして、父親たるものは、インナーチャイルドを発揮する姿を、子どもに時折見せなくてはならない。そうしないと、健全に子どもは自立できないばかりか社会に適応せず、不登校やひきこもりになってしまうこともある。父親は子育てに対して、もっと積極的にそして真摯に取り組んでいかねばならない。

※イスキアの郷しらかわでは、父親が対象の子育て講座を実施しています。不登校のお子さんがいて悩んでいらっしゃる家庭へのサポートを長年体験してきて、お父さんの役割がとても重要だと認識しています。父親講座と子育て悩み相談を随時開催しています。個別開催も可能ですからご相談ください。

不登校はただ寄り添うだけで良いのか

 不登校のお子さんを持つ保護者の方は、不安でいっぱいだと思われる。専門家の医師、カウセラー、セラピストに相談しても、ただ寄り添い見守っているだけで良い、と言われることが殆どであろう。けっして登校を促したり一歩踏み出すように勧めたりしないようにと助言されることが多い。それだけでは、何も変わらないし解決しない。それでも、保護者はただ寄り添い見守っているだけで良いのだろうか。助言通りにしていると、子どもの状況は益々悪化するだけのように思うのだけど、それでも何もしないというのは辛いものがある。

 不登校の状況をまずは認めてあげなさい、その状況を受け入れなさいと助言する専門家が多い。それはひきこもりの状況にある青少年のケースも同じである。何らかのアクションを起こしたいと思うのが親として当然なのであるが、専門家は押しなべて何もするなと助言することが殆どである。無理に登校させるようなことはしないようにとか、学力が低下するのを防ぐために勉強をするように仕向けないとか、まるで腫れ物にでも触るような態度で接するように指導されることが多いのである。本当にそれで良いのだろうか。

 不登校の子どもたちは好きなことに没頭することが多い。好きなアニメ番組を見たりコミックに嵌まったりすることが日課になる。インターネットに嵌まってしまうことも少なくない。外出することもなく、部屋に閉じこもってしまう子どもが多い。それでも、無理に外出させることを強要してはならないと助言する専門家も多い。本人がその気になるまで待つしかないと助言されるのであるが、本当にそれで良くなるのであろうか。親として、何もしなくて良いのであろうか。子どもが自分で解決して歩みだすことが出来るのか不安で仕方ない。

 また、学校に行けないなら転校するとか、フリースクールを選択する保護者も少なくない。また、環境が変われば学校に行けるのではないかと思うのも当然であろう。不登校になっているのは、学校の環境が子どもに合わないせいだと思うのである。学友からの虐めやからかい、仲間外れの仕打ち、教師の不適切指導、というようなことが原因で学校に行けなくなったと、親は想像している事が多い。確かに、そういう事もあるのだが、それは原因ではなくて単なるきっかけでしかないのである。それを保護者も当事者も認識できていない。

 不幸なことに、このことを医療専門家やカウンセラー等の支援者さえ認識していないケースが多い。だから、保護者からは何のアクションを起こさず、ただ寄り添うだけで良いというアドバイスになるのである。それでは、保護者はどうすれば良いのだろうか。または、不登校になる本当の原因は何だろうか。子どもが学校に行けなくなるのは、不安や恐怖感からである。不登校になる子どもの殆どがHSC(ハイリーセンシティブチルドレン)なのである。そして、例外はあるにしても、家庭に何らかの問題を抱えていることが多いのだ。

 不登校になる子どもの殆どがHSCであり、得体の知れない不安を抱えているケースが多いのである。そして、心的外傷をいくつも抱えているので、偏桃体が肥大化しているケースが多く、それ故にDLPFC(背外側前頭前野脳)や海馬が萎縮しているのである。その根底には、家族どうしの安定したアタッチメントが形成されていないという問題がある。つまり、子どもが不安型のアタッチメントなので、傷付きやすさや生きづらさを抱えているのである。DLPFCや海馬の萎縮によって、正常な判断力や認知能力、記憶力が低下していて、成績も悪くなっているのだ。

 不登校の子どもに何もアクションをしないと、脳の器質的異常は益々進んでしまい、固定化してしまいかねない。したがって、保護者は寄り添うだけで良いというアドバイスは間違っているのだ。先ずは、偏桃体の肥大化の原因である不安や恐怖を取り除いてあげなくてはならない。心理的安全性を担保する『安全基地』や『安全な居場所』を確保する必要がある。つまり、ただ寄り添うだけでなく、子どもが安心や安全に思えるようにしなくてはならないのだ。その為には、子どもを変えようとはせず、まずは親自身が変わらなければならない。

※親が急に子どもに対してアクションを起こさなくなると、子どもは見捨てられたと勘違いしやすいのです。今までの対応が拙かった事を心から謝罪し、どんなことがあっても命をかけてあなたを守るし、見捨てないことを事あるごとに宣言することも必要です。具体的には、子どもに対して干渉や介入をし過ぎないことと、コントロールや支配を止めることも肝要です。言葉だけでなく、態度や表情も安心できるようにすることが必要です。子どもを『あるがままにまるごと愛する』ようにする子育て直しが求められているのです。

逆転しない正義とアンパンマン

 やなせたかし氏夫婦を描いた朝ドラ『あんぱん』は、今月末にて放映が終わる。とても面白いドラマであったし、時々素晴らしい台詞が散りばめられていて、多くの気付きや学びをさせてもらった。感謝の気持ちでいっぱいである。そんな珠玉の言葉がたくさんある中で、一番に印象に残ったのが『逆転しない正義』という言葉である。アンパンマンが誕生したのも、この逆転しない正義を追い求めた結果でもある。やなせたかし氏夫婦が、太平洋戦争によって人生が翻弄されて、正義という言葉に惑わされて行きついた境地なのかもしれない。

 正義という言葉は、時には暴走するし、周りの人々を傷つけることもある。勿論、正義という言葉に翻弄されて自分自身を傷つけることも少なくない。やなせたかし夫婦も、この正義という言葉に縛られ支配され、自分自身が苦しめられた経験を持つ。だからこそ、どんな時代であろうとも、どんな政治体制にあろうとも、絶対に逆転しない正義とは何かということを求め続けたのであろう。戦争という国家の極限状態に陥ると、正義という名のもとに為政者や権力者にとって都合の良い誤った解釈が横行する。

 ロシアによるウクライナ侵攻やパレスチナガザ地区へのイスラエルによる侵攻も、正義は我にありという誤ったプロパガンダによる影響である。正義というものが、ひとりでに暴走することがあり、為政者や権力者に都合良く拡大解釈されるので、その定義が揺れ動くのであろう。それだけ正義という言葉が危うい証左だと言える。しかし、それでも逆転しないというか普遍的に過ちのない正義は存在すると信じていたのがやなせたかし夫婦であった。その普遍的な正義を追求して生まれたのがアンパンマンである。

 アンパンマンはカッコよくないし、スーパーヒーローではない。どんな敵にも一発で倒してしまう必殺技や強力な武器を持たない。そして、どんな悪者であっても生命を奪わないし、徹底的にやっつけることはしない。ウルトラマンやマジンガーZのように、周りの建物や自然を破壊するようなことはしない。そして、お腹を空かした人に自分の顔(あんぱん)を食べさせるという、それまでのアニメのヒーローにはなかった救い方をする。この究極の自己犠牲を伴った正義を貫き通すのがアンパンマンなのである。

 自分は安全で命の危険のない場所に居て、兵士に命令して殺戮をさせたり自爆を強いるような指導者とは対極にあるのがアンパンマンである。自分の生命を削ったり賭したりすることがあるのが正義だということを、ゆなせたかし氏は朝ドラでも言っていた。世界各国のトップ指導者(為政者)たちは、正義は我にあると声高々に宣言する。でも、それは自分が権力を握り維持したいが為に利用している正義である。どんなに正義を振りかざしても、他国の市民の命を奪うことは、許されない筈である。これが逆転しない正義だ。

 逆転しない正義とは、どんな真理に基づいたものであろうか。それは、簡単に言えば形而上学に基づいた正義であろう。神の哲学である形而上学を根底にした正義であるなら、逆転することは絶対にない。アインシュタインが原子爆弾の製造に加担してしまったことを、戦後に悔やんで形而上学に傾倒したのは有名な話である。何度も日本にやってきて、原爆の被害者に心から詫びた。どんな理由があるにしても、科学を殺りく兵器の開発に利用してはならないと自分を戒めたのである。この形而上学に基づいた正義こそが求められるのだ。

 形而上学とは神の哲学であり、宇宙全体における普遍的な真理・法理である。慈愛・博愛・慈悲に基づく関係性重視の真理であり、全体最適と自己組織化を追求したパラダイムでもある。アンパンマンは、他の誰をも所有したり支配したりしない。力で誰かをコントロールしたり無理に何かをさせたりもしない。どんな相手をも尊重して、その考え方・生き方を認め受け容れる。これが人間本来の生き方である。やなせたかし氏夫婦は、その考え方を子どものうちから身に付けてほしいとアンパンマンに託したのだ。逆転しない正義を実践してもらう為に。

森のイスキアはビジネスにはそぐわない

 森のイスキアの佐藤初女さんに憧れて、自分も同じような活動をしたいと願っている人はとても多い。素晴らしいことだとは思うし、何とかその願いをかなえてあげたいと思ってサポートをしている。しかし、そのための研修や相談をさせてもらっているのであるが、何となく違和感を覚えることが多い。心身を病んだ人たちを救いたいという理念は素晴らしいのであるが、その活動に対する動機や想いというものに全面的に共感したいとは思わないのである。それは、森のイスキアをビジネスとして捉えている一面があるからである。

 人々を救うための社会貢献活動が、経営的にも担保されることで継続されるというメリットがあるのは当然である。だから、ビジネス面での採算が取れるというのは悪いことではない。しかし、森のイスキアの活動をビジネスとして成り立つように運営していくのは、極めて難しいのである。何故なら、佐藤初女さんのように自己犠牲の精神を発揮して人を救う活動を継続していくのは、採算などを考えたら絶対に不可能だと断言できるからだ。それぐらいに、森のイスキアはビジネスには不適なのである。

 ところが、森のイスキアの佐藤初女さんに憧れて活動を目指している人々は、何となくこの活動をビジネス的にも成功すると思い込んでいる節がある。だから、現在の勤務や経営活動を辞めてでも、森のイスキアの活動にシフトしたいと思うのではなかろうか。または、現在の仕事の傍らに森のイスキアを副業として、成り立たせようと考えるのかもしれない。佐藤初女さんの活動は、そんな生易しいものではない。自分の『いのち』を削るような覚悟で取り組んでいかなければならない活動、それが森のイスキアなのである。

 採算とか、損得、または利害を考慮して森のイスキアの活動をしたとしても、何の成果をも上げられる訳がない。よく目につくのは、佐藤初女さんのおむすびを広めたいからと、おむすびの講習会を盛んに開催している人達がいる。このおむすび講習会については、佐藤初女さんも苦々しく思っていたに違いない。ある時、佐藤初女さんに、おむすび講習会を開きたいけどいいですかと問い合わせた人がいたらしい。佐藤初女さんは、許可を出す立場にはないと大人の対応をしたのだが、「何のためにするの?」と不思議がっていたらしい。

 佐藤初女さんにとっておむすびは特別な意味を持っていたが、多くの人に食べてもらうとか世に広める事が目標ではなかった筈である。初女さんのおむすびは、ひとつの重要な癒しのツールではあったが、おむすびだけで人々を癒したわけではない。おむすびだけが世間で注目されて、おむすびによって奇跡を起こしていたというように誤解されていたのは、初女さんにとって不本意であったろう。ましてや、おむすびの握り方を学ぶことで多くの人々の心身を癒し救えるのではと期待させるような活動は望まなかった筈だ。

 初女さんの森のイスキアの活動を、ビジネスのひとつとして利用することは、初女さんは望まなかったに違いない。何故なら、初女さんは形而上学に基づいた理念を実践していたからである。おむすび講習会に参加する際に、どう考えてもあり得ない5,000円という参加費を徴収するやり方は、初女さんは許せなかったであろう。米や梅干しを持参してもらい、会場利用費だけを皆で負担するなら、せいぜい一人500円~1,000円で済む筈だ。この講習会で講師自身の収益を得るようなやり方は、形而上学としては認められないのだ。

 森のイスキアの活動について研修したいとやってくる方が、おしなべてその資格がないとは言いきれない。中には、自分のビジネスや生活を犠牲にしてでも、活動を開始したいと強い信念を持つ人もいる。そういう方には、生活にゆとりが出来た時、または活動の為の資金を充分に蓄えて、家族に迷惑をかけることなく活動に専念できるようになってからでも遅くないですよ、と優しく諭して励ましている。『いのち』を賭けて実践する活動であるからこそ、自分自身の心を整えてメンタライジング機能を習得してから活動してもらいたいのだ。中途半端な気持ちで取り組んでもらっても、人々を救えっこないのだから。

※今までは、研修・見学を希望する方々には無条件で、すべて受け入れてました。しかし、実際に研修をしてみて感じたのは、自分自身が癒されたくてやってくる人が多いという情けない事実です。自分自身の心が整っていないのに、他人の心を癒すことは絶対に無理なのです。ましてや、森のイスキアというブランドをビジネスに利用するのはもってのほかなのです。『いのち』を削る覚悟で、初女さんの活動を継承したいと思う方だけに、研修の受講をお奨めしています。

学歴と教養が高いほど毒親になる

 毒親と聞くと、虐待、暴力、ネグレクトをするような親というイメージが強い。確かに、このような行為を子どもに対して常時行うような親を毒親と呼ぶ。しかし、毒親はこういった親だけではない。愛情がたっぷりの普通の家庭で子どもを幸せそうに育てているような親が、子どもにとっては大変な毒親だというケースが少なくないのである。そんな恵まれた環境で育った子どもは、幸福な一生を送ると思われている。しかし、そんな家庭で育っても、強烈な生きづらさと傷付きやすさを抱えて、不幸な人生を歩む青少年が多いのである。

 勿論、すべての普通の家庭で毒親になる訳ではない。しかし、現代における普通の家庭において、意識していないのに毒親になってしまうケースが非常に多いことに驚く。それも、高学歴で教養があり、コミュニケーション力やイマジネーション力が高い親ほど毒親になってしまう確率が高くなる傾向がある。そして、そんな親に育てられた子どもは、小学生高学年、または思春期を迎える時期に、不登校やひきこもりになりやすい。中には、気分障害やパニック障害、PTSD、摂食障害、依存症などに苦しむ青少年が多くなっている。

 こういう毒親たちに共通しているのが、自分が毒親だということをまったく認識していないことである。そして、子どもたちも同じく自分の親が毒親だから苦しんでいるということを気付いていないのである。親子のどちらかが、毒親なんだと気付けば、変化したり反抗したりして乗り越えることも可能なのだが、まったく気付かないので生きづらさや傷付きやすさを抱えたままに人生を送ることになる。中には、この傷付きやすさやトラウマを抱えやすいことから複雑性PTSDになり、二次的症状として発達障害を抱えてしまうことも多い。

 この普通の家庭に生まれる毒親たちは、高学歴・高能力なので人生における成功者が多い。司法における判事・検事・弁護士、医師、教授、教師、経営者など経済的にも裕福な親が殆どである。そして、自分が人生の成功者たるが故に、子どもにも社会の勝者にさせたいのだと強く思うのであろう。子どもに高学歴を求め、特に著名校への進学と安定的な職業に就かせたいと願うのである。子どももまた、親の期待に応えようと頑張り過ぎて、それが重荷になって自滅してしまうことも少なくない。親の操り人形は、破滅しやすいのである。

 このごく普通の家庭における毒親は、子どもを支配したこともないし制御しようとしたこともないと言い張る。子どもに暴力や暴言で従わせようとしたことも一切ないと言い切る。確かに、世間一般で言うような毒親のような仕打ちを子どもにしたことはない。しかし、コミュニケーション力とイマジネーション力が高過ぎるが故に、子どもに対して必要以上に口出し手出しをしてしまうのである。つまり、過干渉と過介入である。一番悪いのが、先取りである。ついつい、転ばぬ先の杖を子どもに強いてしまうのである。

 子どもが自ら気付いて判断して決断し、実行して自ら責任を取るのを、親はじっと寄り添って口出し手出しをせず見守ることが、子育ての極意である。ところが、想像力の高い親はついつい先取りをしてしまう。子どもが自己組織化するのを待てず、次はこうするだよ、こう言いたいんだよね、このようにすると上手く行くんだったよね、と事ある度に助け船を出してしまう。それでは、主体性、自発性、自主性、責任性、進化性、自己犠牲性などの大事な自己組織性が身に付く筈がない。ましてや、我が子の優秀さを自慢し、やがて著名大学や立派な職業に就くんだと周りの人に言いふらして、子どもにプレッシャーをかけるのだ。

 子どもがどんな進路を目指すのか、どんな生き方をするのかは、子ども自身が決めるべきである。けっして親が子どもの進路を決めてはならない。無言の圧力をかけて、子どもに立派な職業に就くことを強いてはならない。自分と同じ道を歩くことを強要してはならない。教養が高くて高学歴の親ほど、子どもを社会における成功者にさせたいと強く思い、有形無形の圧力を掛け続けるのである。その圧力に屈して親の言うとおりの進路を目指す子どもは、思春期にその重さに押しつぶされるのである。メンタルを病んでしまうのは当然である。こういう毒親に育てられる不幸な子どもが急増している。

※イスキアの郷しらかわでは、こんな毒親に育てられてメンタルを病んで不登校・ひきこもりになってしまった数多くの青少年をサポートしてきました。殆どの親たちは自分が毒親だと気付いていません。子どもにそのことを伝えても、親の悪口を言われたと勘違いして反発します。共依存の関係になっているからです。だから、こういう親子を支援する際には、一切毒親だとは告げずに、時間をかけて当事者たちに気付いもらう努力を続けるだけなのです。気付いた親だけがこの地獄から抜け出せます

父性愛のような母性愛こそ危険

 父性愛と母性愛の適切な子どもへのかけ方についてのブログは何度も書いてきたが、未だに母性愛のかけ方について誤解をしているケースは少なくない。特に、父性愛的な母性愛を充分にかけ続けることが正しいのだと思い込んでいる母親が多いのは情けない。父性愛を根底にした母性愛は、とても危険だという認識はないようだ。だから、これだけ不登校やひきこもりが多いし、メンタル疾患で苦しむ青少年が多いのだ。少年たちの自殺も過去最高を更新している。この要因のひとつが、父性愛的な母性愛によるものであろう。

 父性愛のような母性愛とは、普通の家庭において愛情たっぷりに育てられたにも関わらず、子どもが強烈な生きづらさを抱えてしまうような愛情のかけ方である。または、絶対的な自尊感情や自己肯定感が育たず、傷付きやすい子どもに育ってしまう愛情のかけ方である。愛情不足とか虐待・ネグレクトによって、生きづらさや傷付きやすさを抱えてしまうと考える人が殆どであるが、実際はたっぷりと愛情がかけられたのに強烈な自己否定感を持ってしまう子どもがいる。それは、愛情のかけ方が過干渉や過介入の子育てだからである。

 過干渉や過介入の子育ては、親子共々にその異常さに気付かないことが多い。子ども自身が、親からたっぷりと愛情をかけられて育ったと思っているし、親も正しい育児をしたと思い込んでいる。ところが、子どもは思春期を迎える頃に生きづらさと傷付きやすさを抱えて、次第に社会への不適合を起こしてしまうのである。各種の依存症、パニック障害、うつなどの気分障害、PTSD、妄想性障害、摂食障害、統合失調症などの精神疾患になってしまうことが多い。中には、薬物依存や反社的行動を取ってしまうケースも少なくない。

 父性愛のような母性愛とはどういうものか、具体的にあげてみたい。父性愛とは条件付きの愛情と言って、しつけ、指導、良い子に育てようとする支配的・制御的な愛情と言える。時には、罰を加えたり褒美を与えたりして、親の望むように子どもを立派に育てる為の愛情と捉えられている。一方、母性愛とは無条件の愛と言われていて、『あるがままにまるごと我が子を愛する』愛情のことを言う。どんなことをしても許し受け容れて、我が子をありのままに愛する、慈悲・博愛・慈愛のような愛情を注ぐことである。

 父性愛が悪い訳ではない。父性愛だって必要である。例えば、危ないことを避けること、汚濁・不潔なものから遠ざける事、人を傷つけたり貶めたりするようなことを叱ることは必要である。挨拶・礼儀・片付け・掃除・清潔などの人間として最低限のマナー・エチケットは厳しく躾けなくてはならない。それ以外のことは、なるべく子どもが自ら気付き学び判断し決断し、自発的に行動できるようにそっと寄り添い見守ることが肝要である。だから、親は子どもに対して、手出し口出しを極力避けなくてはならないのだ。

 特に、子どもが思うであろう心情を先取りをして言ってはならないし、口に出したい言葉や行動したいことを先取りして言ってしまうことは、絶対にしてはならない。ましてや、子どもの行動がまどろっこしいと思い、ついつい親が肩代わりしてやってしまうことは絶対に避けるべきことである。こういうことをしてしまうと、子どもは自己組織化しない。つまり、自主性、自発性、主体性、責任性、進化性などが育たないし、絶対的自己肯定感が育まれないのだ。このような子どもは友達から仲間外れにされるだけでなく、虐めに遭ってしまう。

 虐待やネグレクトを経験してないから、子どもは愛着障害になんかならないと思うかもしれないが、過干渉や過介入、支配的・制御的子育てをされた子どもは、間違いなく愛着障害になってしまうのである。つまり、父性愛のような母性愛とは、この過干渉や過介入、支配的・制御的な愛情のことである。想像した以上に、このように育てられた子どもは多い。そして、メンタル疾患や各種の精神障害に苦しんでいるのは、こうやって育てられた青少年である。親子共にその養育の間違いに気付かないから、その苦しみから抜け出せないのである。このように父性愛のように母性愛を注ぐ親は、間違いなく『毒親』なのである。

※イスキアの郷しらかわの支援活動を長年してきましたが、その殆どのクライアントが父性愛のような母性愛で育てられた方々です。摂食障害、妄想性障害、うつ病、双極性障害、薬物依存、パニック障害、PTSD、C-PTSD、原因不明の疼痛、PMS、顎関節症、ASD、ADHD、などで苦しんでいる方々は、この父性愛的な母性愛で育児する「毒親」によって育てられたのです。この事実に気付いて、その支配・制御から離脱できた人だけが回復できるのです。

ゴルフの上達は量子力学的思考で実現

 ゴルフは非常に奥の深いスポーツであると言えよう。その技術は、他のスポーツにはないほどの複雑さを要求される。だから、ゴルフ愛好者のレベルはピンからキリまで多層に渡る。そして、それぞれのレベルで楽しめる。それはそれで良いだろうと思えるが、せっかく取り組んだスポーツなのだから、ある程度の技術レベルまでは達したいと思うのも至極当然である。とは言いながら、ある程度のレベルまで到達できるのは、ほんの一握りしかいない。ベストスコアが70代というゴルファーは僅か3.6%だと言われている。

 ゴルフを上達するのが難しいのは何故かと言うと、それはメンタルスポーツだからと言える。精神的な安定と自分自身に対する信頼がないと、持っている技術力を発揮できない。メンタル面をしっかりと鍛えて有効に活用出来たら、70代のスコアが出せる程の上達が見込める。それでは、メンタル面というか精神力をプレーにどう生かせば良いのだろうか。プロゴルファーのメンタルコーチは、最近増えてきている。しかし、アマチュアゴルファーのメンタルコーチは殆どいない。メンタル面は自己育成をするしかないのである。

 それでは、ゴルフをするうえでメンタル面をどのようにプレーに生かせばよいのであろうか。メンタル面を鍛えたり向上させたりするのは、プロのメンタルコーチでも難しい。アマチュアが自分ひとりでメンタルを整えるというのは非常に難しい。しかし、けっして不可能ではない。量子力学的思考をして練習したりラウンドしたりすれば、ゴルフは飛躍的な上達が可能になる。量子力学的思考というのは、具体的にどういうことかというと、思考が現実を創り出しているという考え方のことである。

 量子物理学の実験で明らかになった驚きの事実がある。人間が思考をする前に、行動を既に始めているという事実である。人間がまず思考をしてから、その思考に基づいた行動が始まると考えられている。しかし、アクションが始まってから思考が遅れてやってくることが、脳科学(脳波)の実験で判明したのである。そんな馬鹿なと思うかもしれないが、これが真実だという。ということは、私たちの行動は自分がすべてコントロールしているかと思いきや、無意識で行動を起こしてから後追いでその行動の思考が起きているというのである。

 ということは、ゴルフもしかりである。このようにスイングしようとかパッティングをしようと考えながら、アクションを制御しているものだと思っていたが、実は既に行動が始まっているところに思考が遅れてやってくるということになる。この事実は、私たちを奈落の底に落とし込むくらいに衝撃を与える。つまりゴルフのアクションであるスイングやパッティングは、意識して実行しているのではなくて、無意識で実行してしまっていて、後から申し訳程度にそのように身体を動かしたんだと思わせているだけなのである。

 だから、自分の意識とはまったく別のスイングやパッティングをしてしまうことがよくあるのだ。つまりは、ゴルフのアクションをする時にあまりにも考え過ぎてしまうと、思ったようなスイングが出来ないということになる。先ずは、ボールを運ぶ場所と距離を特定する。そして、それを実現するための身体の動きのイメージを脳内に作り上げる。そのうえで、実際にスイングの際には、何も考えずに無意識で只クラブを振るだけにする。そうすれば、身体(筋肉と骨格)がイメージ通りに勝手に動いて、狙った処にボールを運ぶことができるのだ。

 これが量子力学的思考のゴルフの上達法である。実際にこの量子力学的思考を実践して実績を残した女子プロがいた。アニカ・ソレンスタムという稀代の名プロである。女子プロの世界では好敵手がいないと、男子プロのトーナメントにも出場した経験も持つ。彼女は、プレーの前にアクションのイメージを作り終わったら、スイングやパットをする場所1m四方に入ると、何も考えず無意識でプレーを実践した。当然、イメージした通りのプレーをした。正確無比のスイングとパッティングをして、数々のビッグタイトルと賞金女王を手にしたのだ。

※日本の女子プロの中で、最強だったと言われるのは岡本綾子プロだと思われます。彼女もまた、量子力学的思考を活用して、アメリカツアーで数々の優勝を成し遂げました。当人は、量子力学的思考とは思っていもいなかっでしょうが、先日の女子プロトーナメントの解説をしていて、同じようなことを言ってました。無意識(潜在意識)の世界を制した者だけが、世界のトップになれるのです。これはゴルフの世界だけではなく、他のスポーツにも当てはまります。