フランクルの死生観と人生観に学ぶ

 ヴィクトール・E・フランクルというオーストリア生まれのユダヤ人をご存じだろうか。フランクルという名前だけでピンと来る人は少ないかもしれないが、『夜と霧』というベストセラーを著した人物だと言えば思い出す人がいるかもしれない。彼は、ナチスドイツに捕まり迫害を受け、アウシュビッツなどの複数の捕虜収容所に入れられながら、奇跡的に生き延びた精神科医である。両親と兄弟、そして愛する妻も捕虜収容所で命を落とすという悲惨な目に遭い死の淵に立たされながら、どうにかこうにかしながら命を永らえた人物である。

 そのフランクルは、精神科医としても華々しい実績を残し、多くの自殺願望者を救った功績も素晴らしいが、彼の残した精神科領域の研究結果と著した医学書も目を見張るものが多数ある。さらに、彼の提唱した『ロゴセラピー』と呼ばれる精神療法は、今も多くのメンタル疾患で苦しむ人々を救っている。メンタルを病んでしまうそもそもの要因は、生まれてきた意味や正しい生きる目的を見出すことが出来ないからだと提唱した。生きる意味や目的を探り出すことでしか、生きるエネルギーを高めることが出来ないのだと説いていた。

 そんな彼は、独特の人生観というか死生観を持っていたと伝えられている。フランクルは、どう生きるかというのは、どう死ぬかということと分けて考えることはできないと言う。晩年の彼は、自分は死ぬことが恐いと思うことは一切ないと言い切っていた。何故なら、その年代・時代にやるべきことを精一杯やり遂げてきた思いがあるから、悔いがないと言うのだ。明日、死を迎えたとしても後悔することはないとまで言っている。そして、死んだ後も自分が生きた証は残存して、その生き様(功績)を見て感化される人がいれば、私の死は意味を持つだろうと確信していた。

 つまり、自分が生きている間に世の中に示した自分の書いた書物、講演、診療禄、会話、手紙、後ろ姿などすべてが残る。それが後世に生きる人々を、悩み苦しみから救い幸福になる手助けになったとしたら、自分の肉体が滅んだとしても、自分はこの世にしっかりと生きていることになるんだと言っているのである。そして、それは後世に残る小説や論文などというだいそれたことをした人だけでなく、市井にひっそりと生きた人であったとしても、その人を良き思い出として偲ぶ人がいるのなら、生きていると言えるに違いないと断言する。

 人間はどう生きるべきかを、ずっと考えて考えて考え抜いてきた人物、それがフランクルである。それは、どう死ぬかということをずっと考えてきたとも言えよう。何故、そんな風に考えたかというと、やはりアウシュビッツ捕虜収容所時代の辛くて苦しい生活があったからであろう。ガス室に送られて死ぬのは、明日は我が身かもしれないという極限状況に、長い期間に渡り置かれてきたにも関わらず、フランクルはけっして自分を見失わずにいた。取り乱してしまい喚いて銃殺されてしまった人もいた中で、冷静でいられたのである。

 何故、自分を見失ってしまう人と冷静でいられた人がいたのかを、フランクルは実に客観的な目で観察していた。取り乱すような人は、生活態度も乱れて礼儀作法がなっていなく、碌な挨拶も出来ないので人々から嫌われていた人であった。生活態度がしっかりとしていて礼儀正しく身だしなみも良く、誰からも好かれるような性格の人は、けっして取り乱さなかったと名著『夜と霧』に記している。そして、健康を保てて労働力としても活用され、生き残ることが出来たのは、けっして取り乱さなかった人々だったと言うのだ。

 何度もガス室に送られそうになったフランクルであるが、何度も『見えない力』に引っ張られる体験をしながら奇跡的に生き残った。彼は、『見えない何か』によって、生かされたに違いないとまで言っている。何故、生き残ったかというと、いつか戦いが終了した後に、ここでの体験や研究結果を書物として刊行し、多くの人々を救わなければならない使命(尊いミッション)を負っていたからだと断言する。だからこそ、生きる意味や目的をしっかりと持てなくなった時に、人間は心身を病んでしまうのだと主張するのである。フランクルの死後も、彼の残した功績で救われている人が大勢いる。

毒親の連鎖を断ち切る勇気

 毒親の定義は、はっきりしていない。医療用語でもないし、社会学や発達心理学においても、定義されている訳でない。世間一般で毒親だと思われているのは、虐待やネグレクトを平気でしてしまうような場合であろう。英語ではポイズンマザーと呼ばれることが多い。子どもと多くの時間を過ごし、ずっと一人で育児する母親のほうが毒親と呼ばれることが多い。虐待やネグレクトなんて一切しないから毒親ではないと思うような親でも、実は子どもから見たら立派な毒親だというケースは、想像以上に多いことを世間は認知してないようだ。

 自分自身が母親になっても、自分の母親が毒親だったという認識を持てない人も少なくない。実は、自分が毒親育ちだと認識していない母親こそが問題で、知らず知らずのうちに同じように自分自身が毒親になってしまっているのである。つまり、毒親が世代間連鎖をしてしまっているのだ。何代にも渡って毒親の連鎖が続いている家族もあるから、とても深刻である。この負の連鎖を何代も続いてしまい、断ち切れないというのは社会的悲劇でもある。こんな負の連鎖をいち早く断ち切らなければ、永遠に毒親を再生産してしまう。

 自分の育てられ方が異常だったと認識する為には、その後の大切な出会いや学びが必要であろう。自分が毒親だったと気付くことが出来る為には、毒親に育ててられなかったパートナーとの出会いが必要と思われる。包容力があり心からの優しさが溢れており、まるごとあるがままに自分を愛してくれるようなパートナーと出会えたら、自分の異常さに気付けることだろう。そういうパートナーは、親から十分な愛情を注がれて育ったのである。無条件の愛に包まれて育った人は、高い寛容性と受容性を持つから、妻を心から安心させてくれる。

 毒親に育てられた人は、両価型の愛着障害を抱えやすい。甘えたいのに甘えられないし、いつも見捨てられ不安を抱えていて、周りの人々を試し行動で惑わす。なかなか信頼関係を築けないことが多い。しかし、毒親から早く独立したいと思い、安易にパートナーを選んでしまい、結婚に至るケースも結構ある。その相手は、愛着障害を抱えていて、二次的症状として発達障害であることが多い。その場合、カサンドラ症候群で苦しむし、愛着障害が癒されないので、自分もまた毒親になってしまうのである。

 不安型の愛着スタイルの人と結婚しても、毒親にならないケースもある。それは、自分が毒親に育てられたということを自ら気付き、親との精神的分離を成し遂げた場合である。自分の親が毒親であり、その為に生きづらい生き方を強いられたばかりか、不安型の愛着スタイルを抱えていることを悟り、自らが乗り越えたいと強く思えばそれが叶う。このままでは自分も毒親になって、子どもを苦しめることになると気付けば、毒親にならないのである。そうすれば、毒親の世代間連鎖が自分の代で止められるのである。

 そうすれば、不安型の愛着スタイルor愛着障害も世代間連鎖しやすいので、その負の連鎖を断ち切ることが可能になる。毒親だけでなく愛着障害の世代間連鎖を止められたら、その後に続く子孫の繁栄と幸福を実現することが出来るのだから、自分の努力が多くの人々の不幸せを防ぐことが出来るという事になる。これは、大きな社会貢献だと言えよう。とは言いながら、自分の親が毒親だと気付くまでが大変なのである。満たされない愛ゆえに、生きづらさとメンタルの不調を抱えて苦しむ。それを乗り越えることこそが、困難を伴う。

 この毒親の負の連鎖を断ち切るのは、自分一人の努力だけでは極めて難しい。自分の子育てがおかしいということ、つまりは自分が毒親だということを認識できにくいのである。ところが、自分が毒親だと気付かせてくれる存在がある。それが、我が子である。子どもは、毒親に育てられると生きづらさを抱えて、不安型の愛着スタイルになると共にHSPを起こす。中には、不登校になるケースもある。だから、もし我が子が問題行動を起こしたとしたら、自分が毒親だと思うことだ。我が子は自分自身を犠牲にして、母親に大きな気付きや学びを与え、変革へのチャンスを与えてくれるのだ。我が子を愛するなら、毒親の連鎖を断ち切る勇気を持とう。

いじめを防ぐよりいじめに負けないメンタルを

 学校教育現場でのいじめは、こんなにも社会的に問題化されているのにも関わらず、一向になくならない。なくならない処かより巧妙な手口を使って、益々増えている。現代では、SNSやグループトークの機能を使って、陰湿ないじめをするようになっている。裏サイトを作って、大人にばれないように工夫しているので、なかなか明らかにされない。いじめを苦にして、学校に行けなくなる児童生徒も増えているし、自ら命を絶つという悲劇も起きている。いじめをきっかけにしてメンタル疾患を発症しているケースも少なくない。

 いじめがなくならない要因のひとつが、学校関係者のいじめ対策の不徹底だと言われている。いじめを見つけても知らんぷりを決め込む、いじめを訴えても取り上げてもくれない、いじめの対応はおざなり、これではいじめがなくならないのは当然であろう。いじめが存在すると、学校管理者の評定が下がるのだから、いじめがなかったことにしたいのは当然である。自分たちの無能ぶりを知られたくないのであろう。学校管理者は、いじめを他人事としか思えないのだ。いじめに対応する優しい先生は、メンタルを病んで休職・退職する。

 いじめをなくすこと、または学校においての自浄作用が働くことは、まったく期待できない。いじめをなくすことが出来ないとなれば、いじめに自力で対抗するしか方法がない。しかし、いじめを個人の力で止めるなんてことは、絶対に不可能だと考える人が殆どであろう。当然である。昔からいじめっ子は存在した。昔のいじめは陰湿でなかったし、過激さはなかったから、いじめが問題になることはなかったというのも正しい。だとしても、いじめをなくすというパワーが働かないなら、いじめの個人対応しか方法がないのである。

 いじめの個人対応というのは、どういう方法があるのか。いじめのパワーに対して、パワーでの真っ向勝負を挑んでも、さらなる深刻ないじめを産んでしまう。力を力で封じ込めるのは得策ではない。だとすれば、いじめを受けないようにするか、またはいじめを上手にかわすしかないと言える。それで、誤解のないように伝えなければならないが、いじめの対象者になるのは特定の個性を持っていると言える。どちらかというと、『変わった人』と見做されるケースが多いし、とても心優しくて反抗が出来ない子どもが多い。

 この変わった人というのは、集団の中で排除の対象者になりやすい。または、心優しくて歯向かってこない人なら、いじめをする子どもも安心していじめやすい。そして、いつもおどおどしたり、自信のなさそうな態度をしたりする子どもがいじめの対象者になりやすい。いじめをする子どもは、愛着障害を抱えている。愛情不足で育っているのである。だからこそ、自分が誰にも知られないように隠し通している『心の弱さ』を見せている子どもに対して攻撃性を現すのである。いじめに対して過剰反応を見せる子どもが愉快に見えるのだ。

 実は、いじめを受ける対象者もまた愛着障害なのである。いじめというのは、攻撃型の愛着障害の子どもが、非攻撃型の愛着障害の子どもに対して行う暴力と言える。どちらかというと、ネグレクトや虐待を受けている攻撃型の愛着障害者は、過干渉や過介入を受けて育ち、自己肯定感の低い非攻撃型の『不安型の愛着スタイル』の子どもに対しいじめを実行しているのである。家庭においていじめを受けた子どもと過干渉を受けた子どもの対抗の縮図が学校のいじめなのである。とすれば、どちらも救われなければならないのだが、学校は自浄能力を発揮できないので、非攻撃型の不安型愛着スカタイルの子どもを救うしかない。

 いじめを受けている子どもがいじめを受けないようにする為、またはいじめを受けても受け流せるメンタルを持つ為には、不安型の愛着スタイルを癒すしかない。それを実現するには、まずは親が変わるしかない。どんなことがあっても、命を懸けて父親が子どもを守るという態度を見せることだ。母親が学校に行っても取り合ってくれないが、父親が行けば学校管理者の態度は一変する。教育基本法や憲法の基本的人権をかざし、論理的に学校管理者をその気にさせることが必要だ。そして、そのような父親の行動をみて、子どもは安心するし、母親も安堵する。さらに、干渉と介入を避けて、母性愛(無条件の愛)を注ぎ続けることだ。『あるがままにまるごと愛する』ことを、2年くらい続ければ子どもは強くてしなやかなメンタル(自己肯定感)を身に付けられる。

場面緘黙症を起こす本当の訳

 場面緘黙症(ばめんかんもくしょう)という症状を抱える子どもたちが増えている。そういうメンタル障害があることさえ認識している人も少なく、保護者も我が子の病名を医師から告げられて、初めて知るらしい。すべての場面で、黙り込んでしまうのではなくて、極めて緊張するような特定の場面で、身体が固まってしまい言葉が発声できなくなるメンタル障害である。例えば、大勢の人前で発表したり、見知らぬ人々の前で話したりすることが、出来なくなってしまう障害である。酷くなると、一切の他人とは話せなくなってしまう。

 一昔前は、そのような子どもは皆無であったのに、20年前くらいから少しずつ増え始めて、ここ数年は異常に増えてしまい、教育現場でも対応に困っているという。また、場面緘黙症と不登校がリンクしていて、不登校の子どものうち場面緘黙症を診断されているケースが激増している。場面緘黙症に対しては薬物治療が適応でないし、カウンセリングやセラピーによる効果が限定的でもあるから、完治する例は極めて少ない。そもそも、場面緘黙症の子どもに対して、カウンセリングはしにくいのだから、当然であろう。

 どうして、こんなにも場面緘黙症の子どもが増えてしまったのであろうか。場面緘黙症になる原因は、医学的には完全に解明されていない。原因が特定されていないのだから、治療も難しい。医師から当事者にいろいろと問診することさえ難しいから、原因特定や治療計画が不可能なのは当然である。元々当事者はコミュニケーションが苦手であるのだから、自分のことを説明しにくいし、自分の気持ちや感情を言語化することが出来ないのも当然である。場面緘黙症の子どもは、人と関わるのが苦手なので、けっして心を開かない筈である。

 場面緘黙症の子どもは、不安や恐怖心をいつも抱えている。HSPと言っても良いくらいに、感覚過敏が強い。心理社会学的過敏もあるから、対面での対話が苦手になる。この不安や恐怖心というのは、自己肯定感や自尊感情がないからである。そうなったのは、アタッチメント(愛着)が不安定だからだと言える。愛着障害と言っても良いであろう。愛着障害と言っても、ネグレクトや虐待を受けた訳ではない。ただし、親があまりにも『良い子』に育てたいという意識が強く、干渉と介入をし過ぎた為に起きた不安定型の愛着だと言えよう。

 不安定の愛着(愛着障害)になるのは、ネグレクトや虐待をされた子どもだけではない。愛情不足なんて思えない程、たっぷりと愛情を注いで育てたのに愛着障害を起すことが少なくない。それは、愛情の掛け方に問題があるからだと思われる。安定した愛着を結ぶためには、0歳~3歳までは先ずは無条件の愛をこれでもかと注ぎ続けることが求められる。条件付きの愛(躾)を同時進行的に注いではならない。あるがままにまるごと我が子を愛するということを徹底して行わなければならない。なるべく、介入や干渉を避けることが肝要だ。

 無条件の愛を母性愛という。母性愛をたっぷりと注いで、子どもの自己組織化の能力を高めてから、条件付きの愛である父性愛を注ぐという順序が大切である。そして、0~3歳までは母性愛だけを注ぐことに専念して、汚いとか危険なこととかをする時にだけ注意指導をするようにするべきである。そして、なるべく子どもが自らじっくり考えて決断し、主体的にしかも自発的に行動をし始めるのを、そっと見守ることが肝要である。けっして、親がこうするんだよとかこうしたいんでしょと先取りしてはならないし、このように言うんだよという指示も避けなくてはならない。先取りや先読みを親がしてしまうと、場面緘黙症を起こしやすい。

 場面緘黙症の親は、比較的教養と学歴が高くてコミュニケーション能力が高い傾向がある。だから余計に、先取りをしやすく先読みし、子どもが言うべきことを先に言ってしまう傾向が強い。そして、母親も不安感や恐怖感を持つケースが多い。何故なら、父親が絶対的な守護神しての機能を果たしていないからである。父親は、単なる父性愛を注ぐだけでなく、子どもと妻をどんな時も自分の命を賭してでも守り抜くという決意を持ち、常に言葉に出して妻子に伝えなくてはならない。勿論、守護神としての行動も必要だ。そうすれば、子どもと母親は心から安心する。愛着障害にもならないし、場面緘黙症にもならない。

コミュニケーションが苦手な子どもになる訳

 コミュニケーションが苦手な子どもが、異常な程増加している。子どもの時のコミュニケーション障害が若者になっても継続し、大学や職場においても継続しているケースが少なくない。コミュニケーションが苦手な子どもは、学校でいじめに遭ったり不適切指導の対象になったりするので、不登校になってしまう例も多い。友達も出来にくいので、不登校からひきこもりになってしまう一因にもなっていて、コミュニケーション障害は大きな社会問題にもなってきている。どうして、こんなにもコミュニケーション障害が増えたのだろうか。

 コミュニケーションが苦手な子どもは、場面緘黙症や対人恐怖症を併発することが多い。コミュニケーション障害が根底にあると、見知らぬ人と会うことがとても不安になるし、外に出ることが恐くなる。読み書きは出来るし、試験は乗り越えられる。大学や就職の面接試験は、何度もトレーニングをするので擦り抜けられる。コミュニケーションが苦手な若者だって、同じ場面を何度も訓練して、予想質問を完璧にこなせるようになれば、面接試験をクリアしてしまう。しかし、実際に仕事をするようになれば、たちまち馬脚を現す。

 決まり切ったやり方をするだけの定型の仕事なら、コミュニケーション障害を抱える若者でも問題なくこなせる。しかし、その仕事にイレギュラーの追加業務が発生したり、突発的な問題が発生したりすれば、コミュニケーションの苦手な社員はもうお手上げだ。一流大学を卒業して、優秀な成績で入社してきたエリート社員が、実際は使い物にならないポンコツだったというケースが多い。こういう社員は、すぐに辞職するが、自分で退社手続きさえできないので、退職代行にすべてお任せになる。実に困った事態である。

 コミュニケーション障害の子どもや若者が、こんなにも増えてしまったのは何故なのだろうか。その根底には、自己肯定感や自尊感情の欠落が存在する。不安や恐怖感が自分を支配しているので、言葉にして発声することが出来ないのである。それは、小さい頃から言葉を発する度に叱られ批判・否定をされるような体験を何度も積み重ねたからである。元々、言葉を発するのが遅い為に、保護者が言葉を先取したり代替コミュニケーションをしてもらったりする影響も、おおいにある。次第に言葉を発するのが嫌になるのも当然である。

 このように、不安や恐怖心がMAXになっている心を持つのは、HSPの影響であろう。自己肯定感や自尊感情を持てないのは、愛着障害のせいであると思われる。そして、HSPと愛着障害が根底にあると、心が傷つきやすくなる。安定型の愛着を持つ人なら心が傷つくような出来事にはならないのに、安易に傷ついてしまう体験になってしまう。そして、その心の傷がトラウマになっていく。そして、このトラウマが積み重なっていき、複雑性PTSDを抱えているが故に、コミュニケーション障害が起きていると考えられる。

 複雑性PTSDは実に複雑であるし、症状も様々である。症状がごく弱い人なら、複雑なコミュニケーションが不必要な業務をこなすことが出来る。複雑性PTSDの症状が強い人は、二次的な症状として様々なメンタル症状を起こす。双極性障害や統合失調症と誤診されるし、単なるうつ病として誤った治療を受けている人も多い。複雑性PTSDによるコミュニケーション障害の強い人は、不登校やひきこもりの状況が固定化されることも少なくない。コミュニケーション障害だと認識され、次から次へと転職して退職を繰り返し、複雑性PTSDが強化されることにもなる。

 何故コミュニケーションが苦手な子どもが増えているのか、結論を言えば愛着障害とHSPによる影響で、自己肯定感や自尊感情を持てないからである。その為に、不安と恐怖心がMAXになっているので、言葉を発するのが恐いのである。こんな子どもに育てようと思う保護者はいない。しかし、実際はコミュニケーションが苦手な子どもを育ててしまっている。『良い子に育てよう』という意識が強過ぎるのではなかろうか。その意識が強いので、あまりにも子どもに対して干渉や介入をしてしまうことで、愛着障害になるのであろう。子どもが本来持っている自己組織化をする能力を高める子育てに、大転換しなくてはならない。

不登校を乗り越えるのは父親の役割

 前回のブログで不登校が起きる要因には、父親に大きな責任があると論じた。とすれば、父親が我が子の不登校に真剣に向かい、自分の今までの行動を謙虚に振り返り反省し、ドラスティックに言動や思想哲学を変化させたら、見事に不登校を乗り越えることが出来ると言える。親が変われば子が変わると言うのは、本当である。不登校の当事者のお母さん方は、自分の責任を認めていくら変わろうと努力しても、限界がある。でも、父親が変われば子どもは見事に変わる。不登校を乗り越えるには、父親の果たす役割が重大なのである。

 不登校の真の原因は、愛着障害にある。当事者が愛着障害を抱えることで、不安や怖れがMAXになり、HSPを抱えてしまう。また、絶対的な自己肯定感や自尊感情が育っていないし、傷つきやすい子どもになっている。深刻なHSPにより、ちょっとしたことでも傷つく。普通の子なら何とも感じないし傷つくこともないが、自己肯定感が育っていないHSPの子どもは容易に傷つきトラウマを抱えてしまう。そのトラウマが積み重なり溜まりに溜まって限界まで到達すると、複雑性PTSDを発症してしまう。

 複雑性PTSDを抱えた子どもは、元々持っていた発達の凸凹が強化されるし、様々なメンタル障害を発症してしまう。ポリヴェーガル理論における迷走神経の遮断・フリーズが起きて、身体の緊張・硬直が起きるので、トラウマは固定化と深刻化してしまう。こうなってしまうと、投薬治療やカウンセリング・セラピーを受けても容易には回復しない。複雑性PTSDはいくら対症療法をしたとしても、限界がある。ましてや、今までの精神分析療法やトラウマの暴露療法をすれば、二次的被害が起きてしまい余計に悪化するのである。

 子どもが大きな不安や恐怖感を抱える原因は、愛着障害にあるものの、それだけではない。自分にどんなことがあっても、どんなことをやらかしても、自分のことをけっして見捨てない保護者がいること。どんなに強大な敵がやってきたとしても、自分のことを絶対に守り続けてくれる保護者が居るという安心感が必要である。それは母親には無理であり、強い父親がその役割を果たさなければならない。自分の命を賭してでも、敢然と敵に向かい怯むことなく、子どもと妻を絶対に守るという強い決意と行動が必要不可欠なのである。

 子どもはこのような強い守護神の元で、安心して外に出ることが可能になる。そして、このような強い夫を持つことで、妻は安心して子どもに無償の愛を注ぎ続けられるのである。このように強くて頼りになる父親を持った子どもは、どんなに酷いいじめや不適切指導に遭ったとしても、平気なのである。そもそも、このように絶対的肯定感や自尊感情を持つ子どもに対して、いじめなんて出来ないのである。自分よりも強いメンタルを持ち、大きく輝くオーラを持つ相手を攻撃するなんて、いじめっ子には怖くて出来ないのが当然だ。

 子育ての責任は母親だけが負うものではない。父親も率先して子育てに参加すべきだ。子育ては父親が中心なってすべきだし、子育ての最終責任は父親が負うべきなのである。子育ての大半を母親に任せたとしても、すべての責任は自分が取ると宣言して母親を安心して子育てに邁進できる環境を整えるのが、父親の役目である。夫が妻をまるごとありのままに愛することが出来てこそ、母親は子どもを無条件の愛で包み込むことが出来るのだ。そんな父親であれば、子どもと妻は安心して暮らせる。健全な愛着が育つし、HSPも和らぐ。

 ところが世の中の父親は、まったく正反対なのである。子育てにはまったく関わらないばかりか、リスク(責任)とコスト(犠牲)をまったく負担しない。不登校になったのは母親のせいだと言わんばかりに、実に冷たい目で批判的に眺めている。妻や子を守ろうとする気概は見えないし、問題から逃げ回っている。これでは不登校を乗り越えるなんて出来っこない。父親は子どもと妻に対して自分の非を認めて、今までの言動を謝罪すべきだ。そのうえで、心を入れ替えて言動を180度転換して、妻と子どもの守護神に徹するようにしなくてはならない。自分最優先ではなくて、家族中心の家庭を作るために誠心誠意で尽くすことが求められる。そうすれば、子どもは不登校から必ず乗り越えられる。

不登校の真の原因と深刻化は父親に責任

 不登校とひきこもりの保護者の中で、SNS等で我が子についての悩み苦しみを打ち明けているのはお母さんであり、お父さんが悩み苦しみを吐露するケースは皆無である。男性は、そもそも弱音を吐かない生き物だから当然だという意見もあろうが、果たして父親がSNSで子育ての悩みを発信しないのは、それだけの理由だろうか。SNSでの不登校の悩み発信をしたり、医療機関やカウンセリングに相談したりするのは、お母さんだけのケースが殆どである。不登校やひきこもりの家庭において、父親の影が薄いのはどうしてであろうか。

 不登校の子どものことを心から心配して、いろんな解決策を模索したり、医療機関や不登校児童の支援組織を探したりするのは、殆どがお母さんである。子どものことで、自分の育て方が悪かったのではなかろうか、自分がこのような不登校の状況を招いたのではと、自分自身を責めるのは母親だけであり、父親は自分自身を顧みることはまったくない。父親は仕事が忙しくて、母親に子育てを任せっきりにしているので、母親が子育ての方法が悪いから不登校になったと思い込み、妻を暗に責めるケースが殆どである。

 勿論、父親が不登校やひきこもりの原因を作っているのだと言うつもりはないが、そもそもの要因を作った責任が父親にあるのは間違いない。不登校やひきこもりの家庭における共通問題なのは、父母の夫婦関係がよろしくないことだ。不登校とひきこもりの家庭において、当事者の両親の人間関係が親密、もしくはラブラブな状態にあるというのは殆どない。どちらかというと、最悪の関係にあってコミュニケーションが上手くいっていないケースが多い。夫婦関係が破綻に近い場合が多く、母親が離婚を模索している例が少なくない。

 子どもというのは、お父さんもお母さんのことも大好きである。その両親の仲がよろしくないことは、どんなに隠していても子どもには伝わっている。もし、両親の不仲が最悪で、離婚の危機にあるなら、子どもは無意識で問題行動を起こして、離婚の危機を回避させようとする。子どもは自己犠牲を払ってでも、両親の関係を修復させようとするのだ。そんな自己犠牲による不登校やひきこもりを起しても、結果は最悪となる。お互いに、責任が相手にあると思い込み、問題を解決に向かわせないばかりか、逆に関係をこじらせるのである。

 子どもが不登校やひきこもりになるそもそもの原因は、母親の子育ての誤りにあると思っている人が多い。それは、正しくない。そして、不登校の子どもは様々な発達の凸凹を抱えているケースが少なくない。ASD(自閉スペクトラム症)、ADHD、アスペルガー症候群などを起している。生まれつき脳の神経伝達回路に異常があり、育てにくさを抱えているケースも多い。その育てにくさや育児の困難さがあるのだから、母親だけのワンオペで育てることがそもそも無理なのである。夫婦が共に支え合わなければ健全な育成は叶わない。

 不登校の子どもたちは強烈な不安や怖れを抱いている。その原因は、親との安定したアタッチメントが形成されていないからである。アタッチメントとは『愛着』とも訳されるので、不安定なアタッチメントは愛着障害とも言える。愛着障害を抱えるが故に、不安や怖れが常に子どもの心を支配している。心が傷付けられるような体験がトラウマとして積み重ねられる。そして、そのトラウマの積み重ねが心の限界を越えてしまうと、複雑性PTSDとして先鋭化してしまい、その二次的症状として発達の凸凹が強化されてしまうのである。

 親との安定した愛着が形成されない原因は、『あるがままにまるごと愛される』という経験を0歳~3歳の間に積んでいないからである。どちらかというと、無条件の愛である母性愛よりも父性愛が強い子育ての影響がある。つまり、過干渉や過介入の子育てをされてしまうと、子どもは不安を抱えてしまうし、自分は愛されているという実感を持てないのである。絶対的な自己肯定感や自尊感情が育まれない。しかも、父親が自分を犠牲にしても守ってくれるという実感を子どもと母親が持てないと、母子は共に不安になる。父親が家族に対して絶対的な守護神としての役割を果たさないと、子どもと母親が強烈な不安を抱えてしまい、不登校の深刻化と固定化が起きるのである。

安易で激しい筋トレはケガと老化を招く

 健康志向の高まりから、トレーニングジムに通ったり筋トレ用のグッズを利用して自主トレをしたりする人たちが急増している。また、ボディビルダーのジムに通って、筋肉隆々の身体を手にしたいと、激しいトレーニングに汗を流している人も少なくない。スポーツ選手もパワートレーニングと称して、瞬発力を高める訓練をする人たちも増えている。相撲の力士たちやプロの野球選手たちも、こぞって筋トレに励んで強靭でパワーを発揮できる筋肉を作り上げている。そのお陰なのか、日本人の選手たちも世界で活躍している。

 ところが、そのせいで多くのプロスポーツ選手たちには、皮肉にも故障が続出しているという現実に苦しんでいる。肉体の限界に挑むようなプロスポーツの世界では、怪我や故障は避けられないものだと思っている指導者も少なくない。瞬発力のパワーが出るような筋肉を作れば、怪我に繋がってしまうことは、トレーナーなら既に認知している筈だ。それでも、そのギリギリのところで怪我をしないパワーの出る筋肉を作り上げるというのは、それこそ薄氷を踏むような思いでトレーナーは筋トレをさせるしかないのだろう。

 大相撲はパワー全盛の時代を迎えたので、筋肉をこれでもかというように大きくさせた力士が多くなっている。しかし、その代償として怪我に悩ませられる力士が異常に多くなった。殆どの力士はどこかの故障を抱えて、テーピングだらけの姿で相撲を取る。プロ野球選手は怪我が多いので、故障者リストに入る選手が急増している。プロゴルファーは、殆どの選手が怪我や腰痛等を抱えながらプレーしている。怪我とか痛みがまったくないというプロスポーツ選手を探すのは、至難の業である。これも行き過ぎた筋トレのせいであろう。

 こんなパワー筋肉全盛の世界で、ウェイトトレーニングをまったくさせないのに世界のトップアスリートを生み出しているトレーナーがいたのである。それは、MLBドジャースの山本由伸投手の球団トレーナーをしている矢田修氏である。彼の理論は独特であり、筋トレをさせないしパワーを酷使させないという特別な理論である。欧米のアスリート界隈においては、ムキムキの筋肉をハードなウェイトトレーニングによって作り出す手法が主流となっている。日本のアスリート界でも、その流れに乗り遅れないようにと筋トレをしている。

 山本由伸の身体は、スマートであり筋肉ムキムキの体形をしていない。そして、けっして力感のある投球フォームではないし、パワーを込めた投げ方をしている訳ではない。それなのに、ストレートは150キロ台後半のスピードであり、スプリットであっても150キロ近くのスピードがある。流れるようなスムーズな一連の投げ方は、毎回同じであるし球種によって変わらないから、打者はタイミングがとりにくい。あの筋肉の使い方、回転軸のしっかりした体幹の使い方こそ、矢田修トレーナーの指導によるものなのである。

 上半身のパワーをあまり使わずに、下半身のキレや体幹を軸にした反転で溜めた力を一気に開放する回転スピードによって、あのスピードと球のスピンの多さが生まれていると言える。スポーツの基本は、スピードをどのように生み出すかにかかっている。縦と横に動くスピードを上げるにはパワーが必要であるが、回転スピードを上げるにはそんなにパワーを必要としない。それも、体幹を固定したうえでムチのように体にからみつくように手足が動けば、とてつもないスピードが実現する。山本由伸のスピードはこうして生まれたのであろう。

 ウェイトトレーニングによって作られた筋肉は、とてつもないパワーを生み出す。しかし、それは諸刃の剣であり、無理に作られた固い筋肉は脆い。断裂しやすいし、疲労しやすい。酸化しやすい筋肉は老化する。山本由伸の筋肉は多少の無理をさせても壊れない。中0日登板が可能になり、WシリーズでのMVPを受賞した。怪我もしにくい。我々のようなアマチュアスポーツを楽しむシニアは、ウェイトトレーニングをしてはならない。若い人も同じだ。長い期間に渡りスポーツを楽しみたいのなら、筋トレは絶対に避けたいものである。体幹トレーニングや平衡感覚を磨くトレーニングをしたいものである。

素粒子と友達になればゴルフが上達する

 ゴルフ熱が再燃していて、大きな経済効果を上げているらしい。どうしてかというと、コロナ禍が一段落したということもあるが、若い人たちにもゴルフの人気が高まっているからだという。また、爆発的に増えているのが女性ゴルファーらしい。若いレディースゴルファーは勿論のこと、60代から70代のシニアレディが始めるケースも多いと言われている。それこそ、多くの老若男女の方々がゴルフに勤しむのは、ゴルフファンとして嬉しくなる。しかし、ゴルフほど難しいスポーツは他にない。上達するのは至難の業である。

 何故、ゴルフが難しいのかというと、それはメンタルスポーツだからであろう。他のスポーツにおいてもメンタルが影響を及ぼすことは少なくない。どんなに技術があっても、高度な戦略を駆使できても、メンタルが乱れたらまともなプレーは出来なくなる。特に、ゴルフというスポーツはメンタルがプレーの良し悪しに直結してしまう。どんなに技術や経験があってもメンタルが乱れたら、ゴルフのプレーは台無しになる。それは、どんなに上級者であっても、トッププロゴルファーでもメンタルがプレーに左右してしまう。

 それじゃ、どんなにフィジカルトレーニングを積んでも、初心者がゴルフの力量を上げるのは無理じゃないのかと思うかもしれない。確かに、上達するには技術面と同時にメンタル面での訓練も必要だと言える。それでは、どんなメンタルトレーニングをすれば上達することが出来るのだろうか。単なるメンタルコーチでは、上達は叶わないであろう。今どきのプロゴルファーだってメンタルコーチに指導を仰いでいる。しかし、いざ試合となるとメンタル面が安定せずに、自滅してしまうケースが多い。それだけメンタル面が不安定なのだ。

 それでは、ゴルフが上達するにはどんなメンタルトレーニングが良いのであろうか。最新の科学的なゴルフトレーニングの理論で考えると、『素粒子』を利用すると上達するのが確実だと言える。素粒子というと、量子物理学とか量子力学における、量子のことである。素粒子とは、物質を組成する最小単位とみなされている。物質とは、生物や鉱物などすべての『もの』のことを言うので、人間の細胞も素粒子で作られている。ゴルフクラブやボール、フェアウェイやグリーン、ホールもまた素粒子で組成されている。

 量子力学を学んだ人なら、素粒子そのものは本来質量を持たず、実体がないことを知っている。素粒子どうしの関係性が深まり協力し合って初めて実体化する。素粒子どうしが繋がってお互いに支え合うことで、目指すことが現実化するということだ。つまり、ゴルフをする人間、ゴルフクラブ、ゴルフボール、芝生、ホールカップなどすべて同じ素粒子で成り立っている。とすれば、そもそもすべて同類であり、お互いに繋がり合って協力し合うことで、目指すことが実現するということになる。お互いに友達になり親しくなれば、ゴルフは飛躍的に上手くなる。

 さらに付け加えると、最先端の脳科学とシステムダイナミクスを駆使すると、ゴルフはさらにレベルアップすることになる。素粒子は自分のために利用しようとすると、願うように実現しなくなる。つまり、ゴルフが上達しないし上手くいかない。自分が、周りからの賞賛や尊敬を得たいとゴルフをプレーすると、失敗するのである。脳科学やシステムダイナミクスに基づいて行動しないと、上手くいかない。自分の損得や利害をモチベーションにして行動すると失敗する。周りの人々の豊かさや幸福を目指して行動すると成功するのである。

 自分自身の細胞を組成する素粒子と、ゴルフに関係するすべての環境とアイテムを組成する素粒子が友達になる感覚を持てたら、ゴルフがびっくりするほど上達するし上手くいくようになる。そして、個別最適(個人最適)目指してゴルフのトレーニングするのではなくて、全体最適や全体幸福を目指して訓練を積んだら、飛躍的にゴルフは上達できる。プレーもすべて思ったように成功するようになる。自分の心を支配する不安から解放されるからである。もし、このようなことを指導できるメンタルコーチに出会えたなら、ゴルフだけでなく人生も好転すること間違いない。

※いくら練習を積んでもゴルフが上手にならないとか、技術的にも体力的にも問題ないのに、プレーすると上手くいかないと悩んでいるゴルファーがいたら、ご相談ください。プロゴルファーでスランプに悩んでいたり、頻繁に怪我や痛みが起きてプレーが思うように出来なかったりして苦しんでいるなら、ご相談ください。ゴルフ以外のスポーツのメンタルコーチもいたします。すべて、ボランティアでサポートしていますので、料金は発生しませんので、まずは問い合わせをしてみてください。

V・E・フランクルのロゴセラピーが人々を救う

 ヴィクトール・E・フランクルという精神医学者&心理学者をご存じであろうか。精神科医としての認知よりも、あの悪名高きアウシュビッツから奇跡の生還を果たして、名著「夜と霧」を著した人物として世間に広く知られている。でも、精神医学者&心理学者としての功績も大きいし、ロゴセラピーという効果の高い心理療法の考案者としても名高い。夜と霧だけでなく、他にも数々の精神医学の専門書も書いていて、その研究成果は多大なものがある。そして、多くの自殺志願者を救ったという功績は、他の精神科医の追随を許さない程大きい。

 どんなに著名な精神医学者であろうとも、実際に臨床での経験や実績がなければ、いくら論理的に正しいと言っても、信頼するにあたらない。いくら科学的な根拠があると力説して、論理的にも正しいと主張したとしても、実績がなければただの空論でしかない。フランクルの提唱したロゴセラピーは、エビデンスに乏しいとか、あまりにも宗教的であり違和感を覚えるというような批判にさらされることが多いが、実際に多くの自殺志願者を救っているという点において、信頼に値する正しい理論だと言える。

 ヴィクトール・E・フランクルは、オーストリアに生まれたユダヤ人である。ヒットラー率いるナチスにとって、ユダヤ人はゲルマン民族の人々から搾取をしている守銭奴という敵である。一人残らず根絶やしにしなければならないと、ドイツやオーストリアに住むユダヤ人を違法措置で捕虜にした。ユダヤ人はアウシュビッツに代表される強制捕虜収容所に連れて行き、ガス室に送り殺戮した。フランクルもその一人であった。彼の両親、妻、兄もまた強制捕虜収容所に送られ、命を落とした。フランクル一人だけが奇跡的に生き残った。

 フランクルは、収容されながら何度も死と隣り合わせの体験をするが、奇跡的に命を長らえることが出来る経験をする。助かった要因について、奇跡の生還を遂げた後に述懐している。ひとつは、どんなに危機的状況に遭おうとしても、けっして自分を見失わず精神的な安寧を保ち続けられたせいだと言っている。そして、どんな目に遭おうとも生き延びて、収容されながら書き留めた原稿を世に発表しなければならないという使命を持っていたからだという。つまり生き延びる意味と目的を持ち続けたからこそ、助かったと言うのである。

 この生きる意味と目的を持つことの大切さを認識したことが、その後のロゴセラピーという理論の根拠になったと言えよう。自らが実証したとも言えるし、その後も自殺志願者を救うのに役立ったと言えよう。ロゴセラピーというのは、生きる意味や目的を持つことで、苦難や困難にも打ち勝ってストレスにも負けない心を持つことになり、メンタル疾患を回復させる療法である。勿論、それだけでメンタル疾患が完全治癒をする訳ではないが、回復へのプロセスに欠かせないのが正しい思想哲学であるのは間違いない。

 今まで、多くのメンタルを病んで不登校やひきこもりになってしまった方々をサポートしてきたが、その人たちのすべてが正しい思想哲学を持っていなかったし、生きる意味や目的を認識していなかったのだ。つまり、そもそもメンタルを病んでしまう重要なファクターが、正しい思想哲学を持てていないからだとも言える。それでは、思想哲学を持って生きる意味や目的を持てればそれでいいのかというとそうではない。その意味や目的というのは、特に形而上学に基づいた正しい人生の意味と目的なのである。

 その生きる意味や目的が、自分や家族の豊かさとか幸福というのであれば、それは間違いである。あくまでも世のため人のために貢献するというものであり、全体最適を目指すものでなければならない。個別最適の生きる意味や目的では、人々の心を救う効果はない。フランクルは、人智を越えた見えない力を持つ存在(神や宇宙意思)によって助けられたと語っている。つまり、全体最適&全体幸福を願うような生きる意味や目的を持つことが、ロゴセラピーの基本と言える。さらに言えば正しい目的を持つには、形而上学が必要なのである。