寝取られた男が恥の上塗り

 妻が不倫をしたと記者会見して、相手を非難している姿を見ていると、何だか奥さんが可哀そうになってしまう。勿論、特定の伴侶がいるのに不倫をするというのは、道義的に許されることではない。しかし、妻は献身的に尽くしてくれたと、妻を擁護する言葉を連ねながら、一方では相手の男がすべて悪いし、謝罪をしないと言って糾弾している姿を世間に晒しているのは、みっともないような気がする。浮気をした妻や相手の男性を擁護する訳ではないが、寝取られてしまった男性が記者会見までして訴えるのは、実に不思議な光景だ。

 一昔前であれば、自分の伴侶を寝取られた男が、記者会見とか情報発信などをするなんて考えられなかった。自分が悪くないのだから恥じることはない、というのは正論である。逃げ隠れする必要はない。とは言いながら、自分の伴侶が他の男性に恋心を抱くと言うのは、結論から言うと自分よりも浮気相手に魅力があったということである。言い換えれば、相手の男性との恋愛競争に負けたとも言えよう。もし、それがもし自分であったしたら、自分があまりにも惨めであり、人さまの前に寝取られた自分を絶対に晒したくはない。

 昭和22年までは姦通罪という刑法上の不貞の罪があった。江戸時代は、不義密通を働いた妻と浮気相手は死罪になり、夫はその場で両方を切り捨てても罪にはならなかった。なお姦通罪は、女性とその相手だけに適用されて、夫が不義密通をしても罪にはならなかった。江戸時代の不義密通の罪もまた、女性とその姦通相手にだけ適用された。女性だけに適用した不平等の罪だ。これは、男性中心の時代だからであり、財産を子どもに相続させる際に、自分の遺伝子を繋ぐ子どもだけに財産や権力を譲りたいという切実な願いから出来た罪であろう。

 不義密通の罪や姦通罪という法的な縛りがあったというのは、古来より伴侶以外の男性に心を奪われてしまい、身も心も捧げてしまう女性が相当数存在していたという証しであろう。何故、そんな妻たちが沢山いたのかというと、夫たちに魅力がなくなってしまい、夫にときめかなくなってしまったからではなかろうか。または、夫をリスペクトできなくなり、詰まらない人間に見えてきたというか、真実の姿が見えてきたのかもしれない。身勝手で自己中で、妻の心に寄り添えず、自分の損得しか考えない夫に、妻は愛想を尽かしたのだ。

 すべての夫がこんな酷い男だという訳ではないが、妻たちが夫のパワハラ、モラハラ、セクハラに耐えられなくなったケースは多いに違いない。その逆で、妻にときめかなくなった夫もいることだろう。何故、そんなことになったかというと、自分を磨く努力を怠ったからだとも言える。若い頃のスマートな体型を保つ為に節制と運動をし、健康を保つための食生活を心掛ければ、みっともない体型にはならない。また、常に自分を高めようと勉学に勤しみ、魂を磨く努力を怠らなければ、魅力が衰えることはない筈だ。

 自堕落な生活を送り、自分の幸福だけを追求して、仕事が忙しいと家事育児を放棄して、妻への傾聴と共感が出来ない夫を愛することが出来る妻がいる訳がない。そんな夫婦関係であるのだから、婚外恋愛についつい心を奪われるのも仕方ないことであろう。例の寝取られた男の続報だが、実は自分も浮気をしていて、部下にパワハラをしていて、妻にはモラハラとパワハラをしていたのではないかとの報道がされている。そして、寝取った相手も当該の夫に反撃をしている。泥試合の様相を呈している。実に醜い不毛の争いだ。

 結婚当時の魅力を失わない努力を続けるのは当然だが、人間は日々成長していかなければ時代に取り残されるだけでなく、家族からもリスペクトされ続けるのは無理である。身体的にも、精神的にも、そして人間的にも進化を続けることが、輝き続けることの必須条件である。もし、そのような努力を積み重ね、魅力ある男性であり続けることが出来たなら、他の男に寝取られることなんてなかった筈だ。他の男に寝取られたなんてカミングアウトするのは、自分磨きに失敗したんだと宣言しているようなものではないか。こういうのを恥の上塗りと、世間では言うのである。

自衛隊の発砲事件を2度と起こさぬには

 自衛隊の射撃訓練場における発砲事件が起きた。事件に遭われた方にとっては不幸な事件であり、犠牲になってしまわれた方の冥福を祈りたい。事件の背景が明らかになりつつあり、どうしてこの事件が起きたかという原因、またはこの事件を防げなかった安全システム上の問題が取り沙汰されている。このような事件が起きる度に、再発防止策が検討され、安全システムの見直しが行われる。しかし、どんなに安全システムの改善を実施しても、このような発砲事件は絶対に無くならないし、これからは益々増えるに違いないだろう。

 何故なら、警察官が拳銃を用いて自らの命を絶ってしまうという事案が、最近多発しているが、この発砲事件の原因は共通しているからである。自衛隊は、他人を殺傷していて、警察官は自分に対する発砲だから、まるっきり違うと思っている人が多いことだろう。政治家や行政組織の管理者たちは、全然違う事案だと捉えているだろうが、実は根っこは同じなのである。これらの発砲事件を起こした当事者たちは、同じような生きづらさを抱えていたのは間違いない。つまり、自己愛性の障害を抱えていたことが容易に推察できる。

 自ら命を絶った警察官も、自動小銃で教官を射殺した自衛官候補生も、自己愛性の障害を抱えていたのではなかろうか。それはどういうことかというと、彼らに共通しているのは、自尊心や自己肯定感の欠如である。人間とは本来、マイナスの自己も含めて、自分をまるごと好きになり愛せることが、心身共に健やかに生きる為には必要不可欠なことである。自分の嫌な自己も含めてすべて愛せるからこそ、他人をも好きになり愛せるのである。勿論、嫌なことや辛いことが起きても、絶対的な自己肯定感が確立していれば、乗り越えられる。

 ところが、絶対的な自尊心や自己肯定感が確立されてないと、辛いことや悲しいこと、自分で乗り越えるのが難しい苦難困難に遭ってしまうと、その課題から回避したり逃避したりしてしまうのである。自分がそんなに辛い目に遭うのなら、この世から自分を抹殺しようとか、自分をそんな目に遭わせる存在を抹殺しようと短絡的発想をしてしまうのである。絶対的な自己肯定感を確立した人は、けっしてそんな気持ちにはならない。乗り越えるための方策を考えるし、その障壁を乗り越えられない筈がないと自信を持ち、向かって行くのだ。

 現代のような不寛容社会、または自己肯定感を育てることが出来ない教育システムの中では、このような自己愛性の障害を持った人々を大量に生み出してしまっているのである。つまり、絶対的な自己肯定感を確立した人は明らかに少数派であり、強い自己否定感を抱えている人が大多数になってしまっている。当然、警察官の中にも多数いるし、自衛官を目指す人たちにも大勢存在している。そういう自己愛性の障害を抱えている人たちが、一瞬で人の命を奪ってしまう拳銃や自動小銃を扱っているのだ。恐ろしい社会である。

 銃所持が許されている米国でも、拳銃やライフル発砲事件が多発している。やはり、自己愛性の障害を持つ人々が起こした事件だと言えよう。絶対的な自己肯定感を持つ人は、自分を心から愛することが出来るし、他人をもまるごと愛することが可能だ。そういう人は、自分自身を自ら傷つけるようなことをしないし、他人を攻撃することもない。何故、絶対的な自己肯定感を持てず自己愛性の障害を抱えてしまうかと言うと、それは教育システムの不備によるものだと言わざるを得ない。教育制度が根本的に間違っているからである。

 人を育てるには、まずは絶対的な自己肯定感を産みだす為に、絶対的な無条件の愛である母性愛が必要である。0歳~3歳の間にたっぷりと母性愛が注がれてから、条件付きの愛である父性愛をかけることが肝要である。ところが、現代の家庭教育においては、あるがままにまるごと愛するという教育プロセスが欠落している。中途半端な母性愛のままに、父性愛である干渉や介入が行われる。しかもそれがこうしちゃ駄目、あれしては行けないと過干渉の育たれ方をされてしまうのだ。これでは人間は自己組織化されないし、自己肯定感なんて育つ筈がない。自己愛性の障害を抱えてしまい大人になり、生きづらい人生を送るのだ。いくら安全システムを見直しても、発砲事件はなくならないのだ。

※学校教育や職場教育においても、自己否定感をさらに強くしてしまう教育が蔓延っている。誉めて育てるということをせずに、子どもや部下をコントロールする育て方をするのだ。それも、これして駄目あれしては行けないと、相手を否定するダメダメ教育をするのである。警察や自衛隊ではその教育傾向が極めて強い。これでは、自己愛性の障害を抱えている人たちのメンタルが壊れてしまうのは当然である。家庭教育も学校教育も、そして職場の教育も、抜本的に見直すことが必要である。

生きづらさの原因は不安型愛着スタイル

 子どもの頃からずっと生きづらいのであれば、それは不安型愛着スタイルから来るものかもしれない。愛着障害というメンタルのパーソナリティ型がある。小さい頃に虐待やネグレクトを受け続けて育った子どもは愛着障害を抱えてしまい、強烈な生きづらさを持つだけでなく、様々なメンタルの障害を持つし、身体的な病気をも抱えてしまう。そんな虐待やネグレクトを受けた訳ではなく、ごく普通に愛情を持って育てられたのにも関わらず、やはり生きづらさを抱えてしまう事がある。それは、不安型愛着スタイルによるものである。

 両親から愛情をたっぷりと注がれて、十分な教育をされてきたのに何故か不安や恐怖感を抱えていて、学校に行きづらくなったり社会に適応しにくくなったりする人生を送ってしまう子がいる。親からの愛情が不足した為に『愛着』に問題を抱えると言うなら理解できるであろう。ところが、親から有り余るような愛情を受けているのに、愛着に不安を持ってしまうことがある。それは、親からあまりにも強い干渉や介入を受けた場合である。そして、かなり高学歴であり教養・知識が高く、コミュニケーション能力が高い親ほど陥りやすい。

 つまり、聡明な親ほど子どもを不安型愛着スタイルに追い込んでしまうのである。勿論、子どもをわざと不安型愛着スタイルに追い込んで、生きづらさを抱え込ませてしまう親なんて、いる訳がない。子どもを立派に育てて、幸せな人生を送ってほしいと願うのが親である。しかし、その思いが強いばかりに『良い子』に育ってほしいと願い過ぎた時に、取り返しのつかない過ちを犯してしまうのである。子どもに対して、親は過度に期待するものである。だからこそ、知らず知らずのうちに過干渉と過介入をしてしまうのであろう。

 人間には本来自己組織化する働きがある。つまり、生まれながらにして主体性や自主性・自発性、そして自己成長性や進化性を持つので、それらの自己組織性を伸ばしてあげれば、ひとりでに成長して素晴らしい大人になっていく。その自己組織化能力を伸ばすためには、子どもに対して余計なコントロールや支配をしてはならない。自己組織化の能力は、干渉や介入をなるべくせずに、無条件の愛である母性愛をたっぷりと注ぐことにより成長する。逆に父性愛である条件付きの愛やしつけを厳しくし過ぎてしまうと、自己組織化が止まる。

 三つ子の魂百までもという諺通り、子どもは三歳の頃までの育てられ方で、その人の一生が決まってしまうと言っても過言ではない。親が子に対して『あるがままにまるごと愛する』という体験をたっぷりとし続けなければ、子どもは自己組織化しないのである。現代の親たちの多くは、子どもに対して過干渉と過介入を必要以上に繰り返して育てる。そうするとどうなるかというと、自己組織化する能力が育たずに自立できなくなる。そして、不安や恐怖感を必要以上に抱えてしまい、社会に対して上手く適応できなくなるのである。

 幼い子どもというのは、ありのままの自分をまるごと愛してくれて、どんな自分であっても見離さず必ず守ってくれる庇護者がいれば、絶対的な安心感・安全観というものが形成される。少しぐらい親に反発したり反抗したりしても、温かい態度で包んでくれる存在があってこそ、不安感・恐怖感は払拭されて、どんな苦難困難にも向かっていけるようになる。ところが、親から所有され支配され、強くコントロールされて親の思い通りに育てられると、強い不安や恐怖に支配されてしまうし、自立が阻害されてしまう。これが不安型愛着スタイルという状態である。

 不安型愛着スタイルになってしまうと、強烈な生きづらさを抱えてしまうし、苦難困難を乗り越えることが出来なくなる。何故不安型愛着スタイルになるかというと、愛情ホルモンまたは安心ホルモンと呼ばれる、オキシトシンというホルモンが不足するからである。故に、HSP(感覚過敏症)にもなる。自閉症スペクトラム障害やADHDのような症状を呈するケースも多い。自己肯定感が低くて、人の目を気にしやすい。依存性や回避性のパーソナリティを持つことも少なくない。育て方が悪いせいだと親を責めることも出来ない。何故なら親もまた同じように育てられ方をしたからだ。不安型愛着スタイルというのは世代連鎖をするから恐いのである。

陰謀論を信じる人はスキゾタイピー

 陰謀論を信じている人は、少なくない。科学的に検証すれば、デマであることが容易に判明するのだが、まったく聞く耳を持たず、陰謀論に固執する。一度でも陰謀論に嵌まってしまうと、抜け出せなくなる。陰謀論を信じている人は、教養がなくて知能が低い人なのかと思うと、そうではない。逆に、高学歴で教養も高くて、知能も高い人が多い。だから、自分の信念が強いこともあり、陰謀論が正しいと思い込みやすい。ユニオンカレッジのジョシュア・ハート心理学准教授は、陰謀論を信じる人たちが特有のメンタルを持つと分析している。

 それはどのようなメンタリティーかというと、『スキゾタイピー』の気質を持つ傾向が強いとしている。スキゾタイピーというのは、統合失調症の傾向があるということであり、完全な統合失調症ではない。幻覚や幻聴はないものの、妄想や幻想にとらわれてしまうことが多いという。そして、インターネットの操作に長けていて、SNSやネットサーフィンを盛んにするから、そういう偽の情報を信じてしまうらしい。そして、厄介なことに情報発信をすることも多く、陰謀論を信じる人々とのネットワークがあるので、広まりやすい。

 スキゾタイピーのパーソナリティというのは、とても厄介である。前述したように、完全な統合失調症ではなくて、ごく普通に仕事をしているし、殆ど周りの人に気付かれることはない。しかし、生きづらさを抱えているし、独特の価値観を持つことから、特定の人との交友しか上手く行かないことが多い。普通の恋愛や結婚はしにくい傾向があるものの、一時的には上手く行くこともある。しかし、長続きせず破綻するケースも少なくない。婚姻関係は続いたとしても、仮面夫婦を演じている例が多い。

 陰謀論を信じる人たちは、スピ系にのめり込む傾向もある。スキゾタイピーの気質は、物事を表面的にありのままに見るよりも、裏の事情や隠された真実を掘り起こしたがる。不信感が異常に強く、他人を信じないばかりか、親族や家族さえも信じないことが少なくない。トランプ元大統領も不信感が強くて、不正選挙が実施されたとずっと主張している。不正選挙だということを信じた陰謀論者のQアノンが、米国議会を襲撃してしまい、大惨事になったのは記憶に新しい。一旦信じ込まされると、正論に耳を傾けなくなる。

 スキゾタイピーのパーソナリティを持つ人々は、精神疾患ではないので医療機関を訪れることは少ない。医学的な治療を受けることもないが、このスキゾタイピーの気質を改善するのは、極めて困難である。イスキアのクライアントにも、このスキゾタイピーの気質を持った人が何人かいたが、そのサポートは困難を極めた。なにしろ、不信感があまりにも強いので、信頼を得て心を開くことがないからである。独特の考え方をしているので、自説を曲げることがなく、一旦信じた理論を手放すことが出来ないのである。

 それでは、このスキゾタイピーの気質を何故持ってしまうのかというと、それは不安型の愛着スタイルを抱えているからだと思われる。HSP(神経学的過敏症)や弱いASD(自閉症スペクトラム症)の傾向もあることが多い。それ故に、陰謀論に嵌まってしまった人が、自分だけの努力だけで抜け出すことは難しい。カウンセリングやセラピーだけで陰謀論を乗り越えることは困難である。まずは、陰謀論を否定するだけでなく、陰謀論を信じる人の気持ちに寄り添うことが肝心である。例え間違っている考え方にも、まずは共感するのである。

 けっして否定することなく傾聴し、共感し続けて行けばいつかは信頼を寄せてくれる。人を信じることが出来るようになると、自然と耳を貸すようになるし、もしかして間違っているかもしれないと自らの過ちに気付き始める。そして、この間違っているドミナントストーリーに気付くと、この誤りの物語を潔く捨てることが出来るのである。音楽療法やボディーケアーを併用するとより効果が高い。そして、新たな正しい物語である『オルタナティブストーリー』を紡ぎ出せて、陰謀論を卒業できると思われる。このようなナラティブアプローチの効果が高い。陰謀論を捨てることが出来れば、生きづらさや不安からも解放されることだろう。

結婚と出産を若者が望まない訳

 少子化が止まらない。岸田内閣は異次元の少子化対策をすると宣言しているが、効果がある抜本的な少子化を防ぐ政策は見えてこない。それは当然である。若者たちはどんなに優遇策を提供しても出産を望まないだろうし、そもそも結婚をしたがらないのである。これではいくら少子化対策をしようと旗振りをしたとしても、若者たちが出産をしようとは思わないであろう。若者たちはそもそも、結婚を望んでいないのである。その原因を明らかにして、この問題を解決しなければ少子化を防げないに違いない。

 結婚できない若者が急増しているらしい。定職につけないし、よしんば定職に就いたとしても非正規労働なので、安定した将来が見込めないから結婚できないと言われている。確かに、安定した職場で余裕のある収入が将来に渡り確保されていないと、結婚に踏み切れないのは当然である。韓国でも、同じ理由から結婚できない男性が急増していると言われている。経済的な理由で結婚できない日本人男性も、相当数いると思われる。しかし、結婚できない、または結婚しようとしない理由は、経済的な問題からだけではないような気がする。

 現代の若者たちは、そもそも特定の恋人を持ちたがらないことが多い。友達はいるが、深く愛し合う特定の相手がいないらしい。つまり、恋愛に対する欲望が希薄なのである。その反動なのか解らないが、SNSでの付き合いには積極的であるし、芸能人に対する熱狂的なファンが多い。リアルな恋人を持ちたがることはないが、偶像的な疑似恋人で満足する傾向が強い。SNS上での疑似恋愛を好む若者は少なくない。性欲の処理は、その手のプロを相手にするか、偶発的な一夜のアバンチュールでまかなってしまうことが多いらしい。

 特定の恋人は持たないが、セフレはいるという状況にある若者が多いと言われる。そのせいなのか、梅毒という古い性感染症が都会を中心に爆発的に増えている。何故、若者は特定の異性と恋愛や結婚が出来ないのか、実に不思議なのであるが、それを解決しなければ少子化対策は徒労に終わるであろう。50代以上の世代には考えられないことであるが、現代の若者は恋愛に対して極めて臆病なのである。何故、若者が特定の相手と恋愛出来ないのかというと、それは絶対的な自尊感情が育っていないからであるに違いない。

 絶対的な自己肯定感が育っていないと、自分に自信が持てない。または、自尊心がないと、自分のことが好きになれない。嫌な部分も含めたすべての自分を心から愛することが出来なければ、他人を愛することは出来ないのである。ましてや、好きな異性に対して自分の本心とありのままの肉体をさらけ出すことは勇気がいる。昔は、好きな人にしか自分をさらけ出せなかったのだが、現代の若者たちは真逆の行動をする。どうでもいい異性に対しては、平気で身を任せる。でも、大好きな相手には本心を見せられないし、身を任せることは考えられない。

 自己肯定感(自尊心)を持っていない現代の若者たちは、特定の異性と恋愛関係になることを避けたがる。ましてや、まる裸の自分をさらけ出すことになる結婚まで漕ぎつけることは、到底かなわないことだ。さらには、結婚して子どもを産むということは、自尊心が育っていなければ選択肢にはならない。自分の遺伝子を持った分身をこの世に誕生させるという行為は、自分のことを心から愛してないと出来ないのである。勿論、欲望のままに行動するような愚かな若者は別であるが、分別があり教養のある若者は、結婚や出産に対して臆病である。

 現代の若者が自尊心を持てないのは、教育が間違っているからである。本来あるべき教育とは、出来うる限り子どもに対して介入や干渉を避けて、自己組織化とオートポイエーシスの能力を育む教育である。学校教育と家庭の育児は、自己否定感を肥大化させる子育てである。家庭においては過干渉をしての『良い子』の子育てであるし、学校においても必要以上に介入して枠にはめようとする。これでは自尊心が育つ訳がない。自分自身を偽って、良い子の仮面を被って生きることを強いられている。心理学でいうペルソナ(偽りの仮面)を被っている生きづらい若者だから、本心をさらけ出すことになる結婚と出産を怖くて選べないのである。

メンタル疾患は何故治りにくいのか

 メンタル疾患になってしまう人は、年々増加しているという。うつ病や双極性障害などの気分障害に陥ってしまう人も多いし、PTSDやパニック障害で苦しんでいる人も少なくない。そして、一旦メンタル疾患になってしまうと、非常に治りにくい。投薬治療の効果も限定的で、症状が少しは軽くなるものの完全治癒は期待できない。カウンセリングや各種セラピーも、その効果が出るまでに時間が掛かることが通例である。メンタル疾患は、何故治りにくいのであろうか。その理由が解れば治療効果の期待できる治療も可能になる筈だ。

 メンタル疾患に対する治療は、その疾患の確定診断をして、その診断に沿って効果の高い治療を選択する。どんな薬が合うのか、どんなセラピーが適切なのかを考慮して、治療を行う。そもそも、診断が間違っているというケースも少なくない。うつ病という診断を下されて長年に渡り投薬治療を受けていたのに、抗うつ剤がどうしても合わなくて、セカンドオピニオンに再診断を受けたら双極性障害だったという症例はいくらでもある。こういう症例の場合、抗うつ剤の投薬によって悪化してしまうケースが多い。これも治りにくい原因の一つだ。

 診断も間違っておらず、適切な治療を行ったとしても、治りにくい症例が多い。適切な投薬をしても、丁寧で心細やかなカウンセリングやセラピーを実施しても、思ったほど効果が出ないケースが少なくない。というよりも、どんなに手を尽くしても治療効果が出ないほうが多いし、完治しないことが殆どなのである。どうしてそんなことが起きるのかというと、自律神経が影響しているからである。自律神経のうち迷走神経が、治癒することを拒んでしまっているのだ。その事実を精神科医やセラピストが認識していないから、治りくいのだ。

 今までの自律神経理論の定説を覆すような斬新な理論であり、今までどうしても判明しにくかったメンタル疾患のシステムが、このポリヴェーガル理論を駆使すると、実に腑に落ちる。身体的な難治性疾患にもこのポリヴェーガル理論を当てはめると、どうして治りにくいのかが解るのだ。今までの自律神経の理論では、交感神経と副交感神経の二つがあって、相反する効果を発揮すると言われていた。ところが、副交感神経には二つがあり、自律神経は全部で三つあることが判明したのだ。

 副交感神経の殆どが迷走神経からなることが解っている。その迷走神経には、腹側迷走神経と背側迷走神経があり、全く違う働きをしてしまうことが解ったのである。交感神経は、いざという緊急事態が起きた際に、戦うかそれとも逃げるという選択肢を持ち、出来うる限り頑張るという働きをする。一方、副交感神経は平穏時というか安息時に働く。つまり、身体や精神を安静の状態にして、免疫力を向上させる働きをする。ところが、戦うことも出来ず逃げることも出来なくなった時に、働く迷走神経がある。それが背側迷走神経である。

 休息時に働くのは、腹側迷走神経である。一方、戦いも逃避も出来ない状況に追い込まれた動物は、背側迷走神経のスイッチが勝手に入ってしまい、シャットダウン(緊急遮断)を起こしてしまうのである。小動物は気絶をしてしまう。肉食動物は基本的に死んでいる動物は食べない。気絶した小動物は死んでいると判断され、猛獣から逃れることが出来る。人間も、それと同じようなことが起きる。戦いも逃避も出来なく、自分の力ではどうしようもない状況になるとシャットダウン(緊急遮断)を起こしてしまうのだ。それも無意識に。

 人間は、絶体絶命の状況に追い込まれると、自分が破滅しない為に、無意識下でメンタルのシャットダウンを起こす。つまり、うつ病、双極性障害、統合失調症、PTSD、パニック障害等のメンタル疾患に陥ってしまうのである。自分自身の生命を守る(自死を防ぐ)ため、最悪の破滅を守るため、やむを得ずにメンタル疾患を起こすのだ。一旦シャットダウンを起こした精神は、自力では復活しない。背側迷走神経が働いてシャットダウンが起きているから、医学的アプローチだけでは治りにくいのだ。ポリヴェーガル理論を駆使して治療する医師やセラピストなら、このシャットダウンを解いて、メンタル疾患を治せるかもしれない。

子どもの嘘とどう向き合うか

 子どもに嘘をつかれたことを経験しない親は、絶対にいない筈である。嘘をつかない子どもなんて絶対にいない。もし、嘘をつかない子どもがいたとしたら、それはそれで問題であろう。何故ならば、人は嘘をつくことで精神的な発達をして行くからである。自我が芽生えて、やがてその自我をもてあまし、自らの自我を批判し糾弾して、やがて自我と自己の統合を実現するのである。プロセスの中で、どうしても自我が嘘をつかせるのであるから、正常な精神発達をするには必要不可欠なことである。自己の確立にはなくてはならないのだ。

 とは言いながら、嘘をつかれる母親は辛い立場を思い知ることになる。子どもは、父親が怖いので、父親には嘘をつきにくい。母親を甘く見ている訳ではないのだが、嘘をつくのは圧倒的に母親に対してである。そして、その嘘は巧妙なものではなくて、すぐにばれてしまう嘘である。その度に母親は子どもをきつく叱るのであるが、学習をせずにまた同じような嘘をつく。何故なら、子どもにいくら正論で訴えても、子どもは一時的には反省しても、またもや嘘をついて母親を困らせる。反省したように見せるのも、また嘘なのである。

 ところで、嘘を何度もつく子どもと、あまり嘘をつかない子どもがいる。同じ兄弟姉妹だとしても、嘘をつかない子と嘘をつく子がいるのは、実に不思議なことである。それは、何がそうさせるのであろうか。そのことが解れば、子どもが嘘をつかないようになるのではあるまいか。よく嘘をつく子どもと嘘をあまりつかない子どもの違いは、どこが違うのかというと、母親との関係性にあるような気がする。それも母親との愛着が安定したものであり、子どもが不安や恐怖を持っていないのなら、嘘をあまりつかないだろう。

 逆に、母親との愛着が不安定なもので、その愛着が傷ついたものだとしたら、子どもはすぐにばれてしまうような嘘をつきたがる。何故、そんなことをするかというと、母親からの自分に対する愛情が本物かどうかを、無意識下で試すということをしてしまうのである。嘘をつくというのは、自分を守るという意味もあるが、すぐにばれるような嘘をつくというのなら、母親を試しているということが疑われる。自分をまるごとあるがままに愛してくれているという実感を持っている子どもであれば、あまり嘘はつかないであろう。

 嘘をつくような子どもに対して、母親はどのように向き合ったらよいのであろうか。嘘をつかれた母親は、ついつい子どもを叱ってしまうのは当然であろう。そして、どうしてこんな嘘をついたのかと、理由を聞きたがるものだ。そして、二度と嘘をついてはならないと、こんこんと諭すに違いない。このような対応は、子どもの心を酷く傷つける。そして、子どもとの信頼関係を益々希薄化させてしまうことだろう。それでなくても不安定な母親と子どもの愛着関係をさらに悪化させてしまうことになるのである。

 子どもの嘘に対して、理詰めで嘘をつくことの愚かさをくどくどと説くのは賢明なことではない。子どもは嘘をつくことで、親の反応を確かめているのである。親が自分に対して、どれだけ愛してくれているのかを測っているのである。だから、理論的に子どもを追い詰めてしまうと、自分は親から愛されていないと感じて、さらなる嘘を重ねて親の注目を惹こうとするのだ。どうすればいいのかと言うと、嘘をつかれた時に、『ああ、この子は自分を見てほしい、関わってほしい』と求めているんだと、子どもを愛おしく思うことが肝心だ。

 そのうえで、この子どもを自分がどれだけ愛しているのか、そして絶対に嫌うことはしないし、手放すことはしないと感じてくれるにはどう対応すれば良いのかを考えることだ。そうすれば、どう対応すればよいのかの正解を見つけられる。自分が子どものことをどれだけ好きかを伝えることが肝要だし、そのうえで大好きな子どもに嘘をつかれることが悲しいと自分の感情を素直に伝えることだ。けっして責めてはならないし、理性的に問い詰めるのは避けたい。その為には、自分自身が安定した愛着を抱えていなければならず、夫からの大きな愛情で包まれていることが必要であろう。

異次元の少子化対策でも効果ない

 岸田内閣は、異次元の少子化対策を実施すると宣言した。このまま日本で少子化が進むと、生産力が激減して国内経済も成り立たなくなるし、日本という国が消滅するとさえ言われている。確かに、少子化が進んでしまえば、働く担い手と税の負担者がいなくなるのだから、国家として存続できなくなるのは当然である。今までも政府や地方行政による少子化対策は各種実施されてきたが、たいした効果を上げていない。そこで岸田内閣は、異次元という語句を用いて、思い切った少子化対策を実施するというのだが、果たして上手く行くのだろうか。

 少子化は国の根幹を揺るがす一大事だということを、多くの日本人は気付いていない。他人事として捉えていて、自分たちの未来が最悪のものになるという危機感がないといえる。それが少子化対策の進まない理由ではない。ましてや、金銭的な補助を増額したとしても、産み育てようという気持ちにはならない。そもそも、若い人たちにとって子を産み育てることが、自分とって必要不可欠なことだという認識がないのである。どちらかというと、出産育児とは大変なことであり、自分たちが大きな犠牲を払うことになるから嫌なのである。

 何故に若者が産み育てようとしないのかというと、世間一般的に言われているように、産み育てる経済的な余裕がないという理由だけではなさそうだ。さらには、働きながら産み育てられる環境が整っていないというのは、大きな阻害要因にはなっていない気がする。何故なら、江戸時代以前にはもっと貧しくて育児環境の悪い農村でも、育児出産をしていたのである。その頃には、児童手当や出産手当もなかったし、子どもが多いからと年貢を少なくしてもらえる優遇制度等もなかったのである。

 経済的な理由や育児環境が整備されていないから、若い夫婦たちは産もうとしない訳ではない。確かに、そういう理由で出産を控える人もいるだろうが少数である。異次元の少子化対策は、効果がないに違いない。今までだって、児童手当を増額したり保育所を増やしたりする対策を取ってきたのである。育児休暇も充実させてきたし、男性への育児休暇取得促進だってやってきたのである。それでも効果がまるで出なかったのは、もっと違う理由で少子化が起きているからである。その原因を明らかにしなければ、少子化対策も徒労になる。

 現代の若い夫婦が子どもを産みたがらない理由を聞いてみると、驚くような答が返ってくる。自分のやりたいことがあり、出産育児によってそれが障害となるから産まないと返答した人がいる。または、出産育児をすると人生を楽しめる時間がなくなると答えた人も少なくない。こういう答をした人は全体から見たら少ないのかもしれないが、このように答えた人は実に正直な人であり、他の人は本心を明らかにしなかっただけではなかろうか。出産育児に大きな価値や喜びを感じていないし、自分たちの楽しい生活が優先なのである。

 何故、子どもを産み育てるということに価値を感じないのであろう。それは、自分たちが幸福で楽しい生活を送るということが最優先の価値観だからである。自分たちが生まれて育ってきた意味は、豊かで幸福な人生を送るためという、実に低劣で恥ずかしい価値観を持っているのである。子を産みその子を立派に育てることは、大変なことである。でも、大きな喜びもある。何故なら、その子が大人になってから、社会に多大な貢献をすることが出来るからである。自分の人生でも大きな社会貢献の足跡を残し、さらには我が子も社会貢献したとしたら、二重の喜びになる。

 さらには、子育てには苦難困難を伴う。この苦難困難を通して、親が大きく成長させられるのである。子育ては親育ちと言われる所以である。子育てをしなくては、人間としての気付きや学びが得られないことが多いのだ。子どもを持たなくても立派な方はいる。しかし、子育てで得られる経験や体験は、何事にも替えられない大きな価値があるのだ。そして、子育てで学んだことが、職場や地域に貢献する糧にもなりうるのだ。このような全体最適の価値観、または全体貢献という意識が日本人には希薄なのではなかろうか。これは日本の学校教育から思想哲学を排除した悪影響に他ならない。少子化対策よりも教育の改革こそが、少子化にとって必要なのである。正しい価値観を教える教育改革しないと、異次元の少子化対策は無駄になる。

信仰を持たない日本人だから騙される

 安倍元総理襲撃事件を発端に、旧統一教会の強引な入会勧誘、マインドコントロールによる寄付、さらには宗教二世の問題までに発展して、大きな社会問題として連日マスコミを賑わすことになった。過去の例では、麻原彰晃教祖のオウム真理教に、多くの若者たちが洗脳されてしまい信者になって、凶悪犯罪に加担したケースもあった。いろんな新興宗教に勧誘されて多額の寄付をする例も少なくなく、どうしてこんなにも簡単に宗教に騙されてしまうのか不思議である。日本人はどうしてこんなにも洗脳されてしまうのだろうか。

 旧統一教会の韓国人代表とその幹部たちは、当初から日本人をターゲットにして、日本人の財産を韓国に吸い上げようと企図していたのではないかと言われている。まさに、宗教を隠れ蓑にしての集金システムを作り上げて、過去の恨みを果たそうとしていたのではないかと主張するアナリストも存在する。オウム真理教、旧統一教会、様々な新興宗教と、何故に日本人というのは、こうも簡単に宗教に取り込まれてしまうのであろうか。それは何故かと言うと、日本人が信仰を持たないからではないかと考えられる。

 日本人が信仰を持っていないと言うと、そんなことはないだろうと思う人も多いことであろう。日本人の殆どが仏教徒だと思っている日本人は多い。しかし、それは完全な間違いである。確かに、日本人が亡くなると仏教寺院の僧侶がやってきてお経をあげて、戒名を与えてくれるし、その後も仏教の年忌で法要を営んでいる。でもそれは仏教徒だからではなく、過去の慣習にならってそうしているだけであり、仏教に帰依している訳ではない。その証拠に、仏教の教義を正確に認識している日本人は皆無だと言っても過言ではない。

 神道を信仰している人やキリスト教の信者がいると主張する人もいるが、神道とは言っても儀式を執り行う時だけの便宜的なものであり、殆どの人が神道を信仰しているとは言えないであろう。カソリックやプロテスタントの敬虔なクリスチャンとして、毎週の休息日に教会に行き、ミサや礼拝をしているのであれば、信仰を持っていると胸を張って言えよう。欧米人のように、小さい頃からキリスト教の信仰に慣れ親しんでいる人々ならば、とんでもない新興宗教に洗脳されて騙されるようなことはないと思われる。

 日本人が信仰を持たなくなったのは、いつ頃からであろうか。江戸時代から明治維新を迎えると、維新政府は国家神道として神道を国教として篤く保護した。仏教と神道が融合した神仏習合を許さず、神仏分離が行われて、廃仏毀釈運動が起きた。寺院が弾圧を受けて激減したのもこの頃で、仏教が廃れたのも明治維新の宗教政策によるものだと言えよう。その後、第二次大戦後にGHQから思想信条に関する教育を徹底的に排除された影響で、仏教的な教えが教育現場から無くなってしまい、日本人は無信仰になったのではなかろうか。

 そんな不幸な歴史があって、日本人が仏教を信仰することがなくなり、神道においても信仰と呼べるような教義や教本も存在しないことから、信仰心が薄らいでしまったと考えられる。人間にとって不幸なのは、生きるべき道しるべを持たないことだ。これだという真理や法則、または思想や哲学を持っていないことである。これでは、人間のあるべき姿や目標を見出すことが出来なくなる。日本人の多くが、何故生きるのかという根本的な目的意識を見失ってしまったが故に、強烈な生きづらさを抱えてしまい、そこに新興宗教が入り込む隙を与えてしまったと言えないだろうか。

 特定の宗教を信仰して、信仰心を持つことが必要だと言いたい訳ではないが、少なくても高潔で正しい思想や哲学を持つことが、生きる目的を確立するには必要であろう。そうしないと、とんでもないまやかしの宗教に洗脳されて騙されてしまう。信仰というのは、何も特定の宗教に入会や入信をしないと持てない訳ではない。自らが信ずる神や仏を信奉し、その教えや指導に帰依して、正しく生きるということである。信仰がないと、人間は生きるべき道を見失いやすい。そうすると、オウム真理教や旧統一教会のようなとんでもない宗教に騙されてしまうのである。日本人は信仰心について、今一度深く考えてみる必要があると思われる。

イスキアの活動方針を転換する決意

 令和5年の新春を迎えて、この新型コロナ感染症などの社会情勢と自分の年齢や環境を考えたときに、今までの活動方針をこのまま続けていくべきかどうかの岐路に立たされたような気がした。今までの活動方針は、ひきこもりや不登校の若者またはメンタルを病んで休職や退職に追い込まれてしまった社会人が社会復帰できるように、様々なサポートをしていくというものであった。しかし、この深刻な感染症は収束の兆しを見せないし、自分の年齢も68歳という高齢になり、今までのようなアクティブな活動が難しくなったのである。

 残された人生を考えた時に、全国の利用者の方々をお迎えしたり、全国各地に赴いたりして出張カウンセリングを続けることが、今の社会にとって一番効果的な活動なのかという疑問にぶつかったのである。それよりも、この社会にイノベーションを効果的に起こす方法が他にあるのではないかと考えついたのである。それは、佐藤初女さんのご遺志をこの社会に敷衍させるにはどうすれば良いかの答でもある。佐藤初女さんのファンは全国各地にいらっしゃる。そして、初女さんと同じような活動をしたいと望んでいるファンも多い。

 佐藤初女さんが心血を注いでいらした活動の輪を、日本全国に広めて行くことが自分の使命なのではないかという考えに落ち着いたのである。その為に、自分として何が出来るのかをこの年末年始にかけて熟慮していた。このイスキアの郷しらかわの活動をしてきて、自分ひとりだけで頑張ったとしても、救える人々は僅かしかいないということも思い知らされた。それよりも、これから森のイスキアと同じ活動をしようとする人たちの支援をして、第二第三の佐藤初女さんが育って行くことをサポートしたいと思ったのである。

 森のイスキアは、佐藤初女さんが亡くなってから休眠状態にある。森のイスキアの扉は閉じたままである。そして、全国においても森のイスキアと同じような活動をしている処は殆どない。あまりにも佐藤初女さんが偉大であったということもあるが、初女さんと同じような活動をするのは、それだけ非常に困難だと言えよう。自分も活動していて、初女さんと同じように心折れた方々を癒すのは、非常に難しいと実感している。自分の生活を殆ど犠牲にする覚悟がなければ、森のイスキアと同じように活動するは不可能だ。

 ましてや、メンタルや身体を病んだ方々は、藁をすがる思いで頼ってくる。依存することもありえるし、転移をしてしまうケースもある。佐藤初女さんは、365日24時間に渡り電話応対をしていらしたし、イスキアの扉はいつも開けていたと聞いている。生きるエネルギーを喪失してしまわれた方は、無意識で相手のエネルギーを奪い取ろうとしてしまう。中には、すぐに効果が出ないからと責める方もいらっしゃる。クライアントからも恨まれることもあるだろうし、自分の無力感を思い知ってサポート者自身が心身を病むことさえある。

 心身を病んだ方々を癒してさしあげるという尊い活動をされている人は、外から眺めている以上に心身を痛めつけられている。自分の活動が上手く行かないことが多いからである。短い期間で成果が出ることが少ない活動だからだ。勿論、癒しの活動が効果をあげて感謝された時の喜びは大きい。しかしながら、それは一時的なことが多いし、心身の病が再発することが少なくない。このような活動は長い期間と多大な労力を要する。気の遠くなるような長い時間をかけて寄り添い支えて行く活動が必要なのだ。

 森のイスキアのような活動を引き継ぐ、第二第三の佐藤初女さんが生まれてこないのは、その活動が想像以上にハードであり自分自身の犠牲が多大なものであるからと言える。自分の生活をすべて捨てるという覚悟がなければ、出来ない活動だと言っても過言ではない。マザーテレサのように、信仰がなければあのような活動は難しい。佐藤初女さんが、信仰を持っていたから出来たとも言える。これから佐藤初女さんのような活動を志す人を、信仰のように支える存在が必要だと思った。故に、イスキアの郷しらかわは、これから佐藤初女さんを目指す方々を支援することにしたのである。見学や研修したい方々を受け入れる準備をしたいと思う。