精神科医療で誤診が多い訳

 精神科や心療内科を受診して、確定診断をされてカウンセリングや投薬治療を受けているメンタル疾患の患者さんは多い。職場や学校で精神的に悩んでいる人に対して、関わる人々は精神科の受診を勧めるし、当人自ら精神科や心療内科の診断を望む例もある。かくして、近くにある精神科クリニックを頼ることになる。ところが、精神科医の診療レベルは、他の診療科医師とは違い、かなりばらつきがあると言える。精神科医を最初から希望する研修医が少ないし、どちらかというと優秀な研修医は他科に行く傾向がある。

 精神科医を目指す研修医が少ないのは、一昔前までだった。現在は、精神科医を医学部入学前から希望していた学生も増えてきたし、優秀な研修医も多くなりつつある。しかし、以前は優秀な精神科医が少なかったのは、医療関係者なら誰でも知っている。勿論、優秀な精神科医も存在していたが一握りであり、大学の研究室に残った医師か著名な大学病院に在籍した医師たちである。精神科単独の病院の勤務医や精神科医院の医師に、レベルのばらつきがあったのは当然であろう。そんな精神科医だから、誤診があったのかもしれない。

 精神科は、とても難しい診療科であると言える。他の科であれば、診断技術が年々著しく向上しているし、検査機械や診断機器の開発がものすごい速度で進んでいる。ましてや、最近はAI診断技術も進んでいるし、薬品の開発も著しい。ところが、精神科だけは医療技術の進歩から取り残されているのである。検査機械や診断機器の開発もまったく進んでいないのである。血液検査や尿検査などで、確定診断ができる訳ではない。X線検査やCT検査で異常を発見できる訳ではない。問診や心理検査、脳波検査などで診断するしかない。

 一応、ICDやDMSという国際診断基準やガイドラインは存在しているが、最新のICD10やDMS5の診断基準を用いているのは先進的な医師だけで、依然として使い慣れたICD9やDMSⅣに頼っている精神科医が多い。ましてや、問診やカウンセリングにはそんなに時間をかけていないし、簡単な問診と質問だけで確定診断をしてしまい、安易に精神薬を処方する医師が多いのも事実である。最新の医学理論に疎い開業医はあまりにも多い。ましてや、精神薬は殆どがモノアミン仮説によって開発されていて、科学的根拠が極めて怪しい。

 こんな精神医学の状況なのだから、誤診が起きるのは仕方ない事であろう。気の毒なのは患者さんである。患者さんは藁にもすがる思いで精神科医を訪ねたのに、まさかエリートである医師が誤診をしようとも思わないであろう。食べログのように、医院の評判が詳しくネット上に掲載されている訳ではない。知人に精神科医の評判を聞けないのだから、殆どの人が行き当たりばったりでクリニックを訪ねることになる。どちらかというと、外れを引いてしまう割合が多いのも事実である。そんな患者さんは実に気の毒である。

 精神医学界は、古い医学理論に固執するケースが多い。昔の精神医学理論なんか、現代の複雑な児童心理や発達心理においては使い物にならない。昔ながらのカウンセリング学や精神分析学だって、現代の病理に対しては、歯が立たないケースが多い。それなのに、旧来の精神分析手法を使ってしまい、訳の分からない分析結果を患者さん当人や家族に宣告してしまう。それが間違っている診断だとしたら、大変なことになる。故に精神の患者さんは激増しているし、治療により完治することも少ない。寛解して医療から離脱できるケースも殆どない。

 確かに、病状や育成歴、家族との問診から導き出された診断と病因だとしても、安易に当人とその親に告げるのはあまりにも残酷ではなかろうか。ましてや、その診断が間違っていたとしたら、患者さんとそのご家族の人生を台無しにしてしまう危険だってある。その間違った診断のせいで、学業を諦めたり仕事を失ってしまう患者さんだっているのだ。誤診のおかげで人生を狂わされてしまったり、人生を無駄に過ごさせられたりした患者さんを多く眼にしてきたのも事実である。精神科医の確定診断をそのまま鵜呑みにするのは危険がある。出来れば、大学病院などの専門医のセカンドオピニオンの受診をお勧めしたい。

HSPを癒せばひきこもりから回復

 HSPで苦しんでいる人は多い。ハイリーセンシティブパーソンというのは、精神疾患ではないから医学的な治療対象とはならない。ましてや、HSPによって多少の生きづらさがあったとしても、社会生活が大きな影響を受ける訳ではないと、軽視される傾向がある。HSPを治してくれたり軽減させてくれたりする処もないので、我慢している人が多い。日本人のうち、どれくらいの割合でHSPを抱えているのかというと、おそらく男性で3割、女性だと5割以上の人がHSPを抱えている筈である。

 HSPの影響を社会では過小評価している傾向がある。ところが、HSPの影響は想像以上に多大であり、深刻なメンタル疾患や精神障害の根源なっているということを知らない人が多い。うつ病などの気分障害は勿論のこと、パーソナリティ障害、パニック障害、PTSD、適応障害、ASDなどを発症する人は殆どがHSPである。メンタル面の影響だけではない。身体疾患を起こす根本原因にもなっている。原因不明の各所の身体的痛みやしびれ、線維筋痛症、膠原病、PMSやPMDDなどで苦しむ人々もHSPを抱えているケースが多い。

 社会生活にも多大な影響を与えている。不登校の子どもたちはHSCであるし、ひきこもりをしている若者たちはHSPを抱えている。休職に追い込まれている人や、職場でパワハラやモラハラで苦しんでいる人たちも殆どがHSPを抱えている。HSPというのは、聴覚過敏を初めとして様々な感覚過敏を起こしてしまう。様々な場面で不安感や恐怖感を持ちやすい。それ故に、人と関わり合うことに怖れを感じてしまい、コミュニケーション障害を起こしやすい。なにしろ、得体の知れない不安を常に持ってしまうから厄介である。

 何か特定の事に対する不安なら、対応することも可能であるが、何だか分からないけど不安だと言うのはどうしようもない。ましてや、これから起きるであろう不安は、前に進めない。だから、HSPから不登校やひきこもりになりやすいのである。HSPは神経伝達回路(システム)の異常によって起きると考えられている。HSPは脳内ホルモンのうち、オキシトシンホルモンとセロトニンホルモンの分泌が極めて少ない。そして、交感神経活性化でいつも緊張しているので、コルチゾール(副腎皮質ホルモン)が過剰に分泌され続けてしまう。

 コルチゾールが過剰分泌され続けると、大脳辺縁系の偏桃体が肥大化すると共に、海馬と前頭前野が萎縮する。記憶力や判断力が正常に働かなくなり、妄想や幻想が起きやすいし、実際には起きていない怖い記憶が作られてしまうこともある。現実とバーチャルの境目がなくなるのである。作られた偽の記憶に苦しめられるのである。妄想性の障害や妄想性のパーソナリティ障害は、こうやって発症してしまうのである。HSPというものが、いかに深刻な症状をもたらすかということが解るであろう。

 不登校やひきこもりが、根底にHSPがあって起きるのだから、HSPを癒すことが出来ればひきこもりも解決できると言える。それでは、どうすればHSPを癒すことが出来るのだろうか。HSPが神経伝達回路(システム)の異常によって起きて、オキシトシンH.とセロトニンH.の不足が原因であるのだから、これらのホルモンが正常に分泌されるようにすればよい。オキシトシンH.の不足は、アタッチメントの未形成によって起きている。また、セロトニンH.の不足も同じ理由である。それ故に、アタッチメントの再形成が重要なポイントとなる。

 アタッチメントを再形成すればひきこもり・不登校は解決する。以前は、アタッチメントは『愛着』と訳されていて、親からの愛情不足によって起きるとされていた。親との愛着を再形成しないと愛着障害は改善しないとされていた。しかし、最新の発達心理では、親じゃなくてもアタッチメントを再形成できることが判明した。第三者からの支援により、アタッチメントが再形成できるのである。その支援者とは、誰でもいい訳ではない。試し行動にも動じず、安定した精神状態と正しく高邁な思想・価値観を持ち、完全な自己マスタリーを実現した人物でないと、アタッチメントの再形成を手助けできない。利害・損得を考えず、どんな苦難・困難にも挫けず、慈悲深くて溢れる愛情を注げる人物にしか出来ない役割である。

 ※アタッチメントを再形成してHSPを癒す方法を、イスキアの郷しらかわではメールや電話にて、もっと詳しくお伝えしています。オキシトシンタッチやソフトなソマティックケアのやり方、HSPを癒すNTA療法のこと、オープンダイアローグ療法のこと、ナラティブアプローチ療法のやり方、いろいろなHSPの癒し方を伝えています。問い合わせフォームからどうぞ。

発達障害グレーゾーンを癒す方法

 発達障害は遺伝子の先天的異常によるものだから、どんな治療をしても治らない障害だという認識を誰もが持っている。ある程度は社会に適応できたとしても、学校や職場における周りの人々とのコミュニケーションに苦労することも多い。当人との関わり方において周りの人々が戸惑うことも多いが、それ以上に本人が生きづらさを抱えることも少なくない。そんな発達障害を持つ人の中でも、症状が軽くて学力や能力が高いけど、コミュニケーションだけが難しく感じる発達障害グレーゾーンと呼ばれる人ならば、治る可能性がある。

 勿論、完治と言うレベルまでは難しいけれど、ある程度まで症状が緩和することが出来ると言えよう。その治療法とは、医療機関におけるものではなくて、神経伝達回路を緩やかに改善する整体である。別の言い方をすれば、神経伝達調整(NTA)と呼ぶ治療方法である。どうしてこのNTAと略される神経伝達調整という治療法が有効なのかと言うと、発達障害グレーゾーンのそもそもの原因がHPSによるものからである。HSPとは略称であり、ハイリーセンシティブパーソンという症状のことである。

 HSPは、環境感受性あるいはその気質・性格的指標である感覚処理感受性が極めて高い人たちということである。神経学的過敏が影響して、心理社会学的過敏も起こしやすい。特に聴覚過敏が顕著であることが多い。その他に、接触性過敏や嗅覚過敏、視覚過敏も起こしてしまうケースもある。これらの神経学的過敏が強いために、コミュニケーション障害を起こしてしまうことが多い。このHSPが起きてしまう根底には、得体の知れない強い不安や恐怖感がある。そして、この不安や恐怖感はアタッチメント未形成によって起きている。

 いずれにしても、HSPが強く影響して発達障害グレーゾーンになっているとすれば、このHSPを癒すことが出来れば、得体の知れない不安や恐怖感を払拭することが可能になる。NTA療法をすることで、HSPが改善される可能性は高い。何故、NTA療法がHSPの改善に役立つのかと言うと、HSPになっている原因である神経伝達回路の異常をNTA療法が正常化してくれるからではないかと思われる。HSPは、神経伝達回路が過剰反応を起こして発症している。その過剰反応を適度に抑えてくれるのがNTA療法であると言えよう。

 不安や恐怖感というのは、脳の偏桃体過剰反応によって起きると言われている。HSPによって、通常なら感じない不安や恐怖感が強く感じ過ぎてしまい、偏桃体が刺激され続けることでコルチゾールが過剰に分泌される。また、ノルアドレナリンやドーパミンも多すぎるほど分泌される。逆に幸福ホルモンと呼ばれるセロトニン、そして安心ホルモンと呼ばれるオキシトシンの分泌が少なくなる。偏桃体が肥大化すると共に、海馬や前頭前野脳が萎縮するとも言われている。こうなると、記憶力も低下すると同時に正常な判断が出来なくなる。

 これらの脳内ホルモンの分泌異常を、神経伝達回路の調整(NTA療法)により改善するのではないかと推測される。NTA療法は、アーユルヴェーダ、ホメオパシー、頭蓋骨仙骨療法、波動理論などの代替医療のエッセンスも取り入れながら、微弱電流装置を駆使しながら神経伝達回路の異常を修正してくれる。つまり、得体の知れない強烈な不安や恐怖感を和らげてくれるし、HSPの症状も緩和してくれるのである。だから、発達障害グレーゾーンの症状が改善されるのではないかと思われる

 それでは、NTA療法の施術をしてくれる整体師ならば、誰でも発達障害グレーゾーンの症状改善をしてくれるのかというと、それを断言することは難しい。何故ならば、このNTA療法の施術者の熟練度やマスタリー度合いによって、現れる効果が違ってくると推測されるからである。施術者が豊かで良質な波動エネルギーを受け取って、その波動エネルギーをクライアントに減衰することなく、受け渡してくれるならば効果は高くなる。この波動エネルギーの受け渡しに長けている施術者を選びたい。そうすれば、発達障害グレーゾーンをかなりの良いレベルまで癒してくれることだろう。

※波動エネルギーとは、天または宇宙、そして大地からもたらさられる自然由来のパワーのことで『気』とも言えるものです。この波動エネルギー(気)を天と地から受け取って、人々に授けるレベルの施術者になる為には、私利私欲を無くし徳を積んで人格を磨き高めること、様々な修行を積んで学びを深めることが必要でしょう。気功の達人と言われる『大周天』や密教における『阿闍梨(大阿闍梨)』のようなレベルになるということではないかと思われます。

老いては妻に従い

 『老いては子に従い』という、誰でも知っている格言がある。老人になったら、子どもの助言や指導に素直に従うことで、苦難や困難避けたり乗り越えたりして、平穏な老後を送ることが出来るよという教えであろう。または、子どもの言うことに逆らってばかりしていると、嫌われたり見離されたりすることもあろう。高齢になればなるほど、若い人の意見に従うというのは、当然だと思われる。好々爺という言葉があるくらいだ。そして、高齢になった夫は、子どもだけでなく『老いては妻に従い』ということを心掛けるべきである。

 そんなことは出来かねる。今さら、妻に従うなんてことなんか出来っこないと思われる高齢男性が多いかもしれない。中には、世間をあまり知らない妻だから自分がすべてをリードして大事なことを決定して来たのだから、妻に従うなんて到底できないという夫もいるかもしれない。しかし、家庭が円満で平和で過ごせる場になる為には、老いては妻に従いを実践することが求められる。フルタイムで仕事をしている時ならば、家にいることも少なかった夫だから、何とか我慢していた妻という夫婦形態だから何とか保てていたのである。

 ところが、完全にリタイアして毎日がホリデーで家にいる夫に、朝昼晩の三食を提供して他の家事もすべて妻が負担するようなケースは、夫は妻に従う夫婦形態を取るべきだろう。今までは、夫が家庭内に不在になる時間が多かったから、何とか過ごせていたのである。ところが、趣味やスポーツもせず外出もせず家庭内に居て、テレビを鑑賞するかゲームをしているかという状況では、妻のストレスは相当に高まるに違いない。しかも、妻の主張や指導にまったく従わず、頑固な態度を取り続けたとしたら、離婚になっても仕方ないと言える。

 ところが、このように頑固で自分を変えようとしない夫というのは、離婚するなんてことは絶対に無いと思い込んでいる。したがって、自分に悪いことは何もないし、まさか自分が妻から嫌われているなんて思いもしない。突然三行半を突きつけられたとしても、自分に非があるとは考えられないであろう。自分が何故に離婚をさせられるのか、思い当たることはまったくないに違いない。妻を欺いたことはないし、裏切ったこともないから、自分は良い夫だと思っているであろう。しかし、妻は長年に渡り、我慢に我慢を重ねてきたのである。

 妻の本当の気持ちをまったく知らないのは、夫だけである。知らないのではなくて、知ろうとしなかったと言ってよいだろう。夫にとっては普通なのであろうが、傾聴と共感をしない人間とは一緒に暮らせないと思う妻が多い。これだけ家族の為に一所懸命に汗水たらして稼いできたのだから、リタイア後ぐらいのんびりと好き勝手に暮らさせてくれと思う夫が多いかもしれない。しかし、それは間違いである。妻にしてみれば、夫の横暴さとモラハラやフキハラに我慢してきたのだから、老後ぐらい妻に従ってほしいのである。

 捉え方というか認識の違いだから、何とも仕方ないのだが、老後を迎えるまでの夫婦の過ごし方をどのように認識するかどうかで、まったく違った老後を迎えることになりそうである。夫の現役時代は自分の生き方を犠牲にして尽してきたのだから、リタイア後くらいは妻は好きに生きたいと思うであろう。そして、少しぐらいは家事を分担してほしいし、自分の身の周りぐらい自分でしてほしいと思うに違いない。一方、夫は身を粉にして働いてきたのだから、リタイア後はボーっとして何もせずに好きなことをして暮らしたいと思うし、妻に気兼ねして生きるなんてまっぴらごめんだと思うであろう。

 どちらも正しい考え方だというか、そう思うのは当然ではなかろうか。だとしても、老後を幸福な気持ちで平穏に暮らしたいのであれば、夫はやはり妻に従って生きた方が良い。会社勤めの時は、上司や同僚・部下にあれだけ気を遣ってきたのだから、妻に傾聴し共感しようと思えばできない訳ではない。そして、妻を喜ばせたり幸せな気分にしたりすることも、ちょっと努力すれば可能だ。だとしたら、ここは妻に従っているポーズだけでもいいから、妻の言動に共感して誉めてあげることを心掛けてみたらどうだろうか。たまには料理したり買い物したりするのも楽しいし、掃除や洗濯だって妻より上手になり優越感や達成感を持つのもまた嬉しいものだ。

物分かりの良い人を演じなくても良い

 日本人特有のパーソナリティとして、多数派に属したいとか穏健な言動をして良い人に思われたいという傾向がある。そして、争いごとを好まないし敵を作らないという生き方を志す人が多い。『和を以て貴しと為す』と最古の憲法で主張した聖徳太子に習い、協調性や合意性を重んじる日本人が殆どであろう。これは、団体や企業という組織の中で生きて行くうえでは、必要不可欠な価値観であるに違いない。例え、違った意見であっても上司や経営幹部の主張に逆らうことはしないし、自分の意見はあえて主張しない社員が多い。

 日本人という民族は、あまり争いごとを好まず、競い合うことも避けることが多い。そして、組織の中でも家庭の中でも、物分かりの良い人を演じてしまう傾向が強い。嫌われることを避けたいというのか、どちらかというと周りの人たちにおもねることで無用な軋轢を避けたいという思いが強いのであろう。つまり、周りから『良い人』だと思われたいし、組織の中で無難に生き抜くために必要な処世術なのかもしれない。とは言いながら、自分を失くしてまで相手に合わせてしまい、物分かりの良い人を演じなくてもいいような気がする。

 何故、物分かりの良い人を演じなくてもいいのかというと、あまりにも自分の本当の感情を押し殺してしまうと、自分らしさを失ってしまうからである。人間は、生まれつき自由でありたいと思う生き物である。何故ならば、人間は本来自己組織化をする働きをする。つまり、主体性・自発性・自主性・責任性・連帯性・自己犠牲性・発展性・進化性を持つのだ。それなのに、他人にあまりにも迎合し過ぎて、自分を主張することを止めてしまうと、自己組織化をする働きを失ってしまう危険性が高まってしまうのである。

 また、あまりにも自分の感情を出さないようにしようとして抑圧してしまうと、脳がそのような状況をとても嫌がってしまい、ストレスが高まってしまい脳の異常を起こしてしまうのである。特に、怒りや憎しみの感情を出すことが出来ず我慢を重ねて行くと、偏桃体が肥大化してしまい、海馬が委縮してしまうのである。偏桃体が肥大化して働き過ぎると、ステロイドホルモンが増加してしまい、自律神経が乱れてしまうと共に、睡眠障害が起きやすい。また、海馬と前頭前野脳の機能が低下して、認知症になるリスクが高まる。

 物分かりの良い人を演じ過ぎてしまう危険を示してきたが、日本人と言うのはどうしても相手に合わせてしまう傾向が強い。確かに、職場や公的な場所においては、ある程度の常識的な言動は必要であるが、家庭や仲間の中では物分かりの良い人を演じなくても良いのではなかろうか。特に、親に対しては自分の感情を閉じ込めなくてもいいし、子どもに対しても物分かりの良い親を演じなくても良い。特に避けたいのは、子どもに対して必要以上におもねることである。こんな子育てをすると、子どもが感情を吐露するのが苦手になる。

 家庭内においては、本来は家族相手には気兼ねする必要もなく、自由に発言して良い場所である。いろんな感情を持つ場合、それを相手に素直に、そして正直に伝えても良いのである。そして、伝えられた相手はその素直な感情に共感すべきであることは言うまでもない。そして、それがどんな感情の表現であったとしても、寛容と受容の態度を取らなくてはならない。そうしないと、家族の関係性を良好なものに出来ないのである。家族の良好な関係性があってこそ、安全基地としての機能を保てるのである。

 安全基地というのは、家族が心理的安全性を持てる居場所である。家庭の中では、物分かりの良い人を演じなくても良い関係性が保てる環境が求められる。その為には、やはり父親が重要な役割を果たす。あまりにもパーフェクトな人格を見せ感情を押し殺して、物分かりの良い人物を演じ続けてしまうと、家族は逆に安心感を持てなくなってしまう。時には人間臭くて、マイナスの感情を吐露することも必要であるし、弱音を吐くことだってあっていい。家族が心理的安全性(安全基地)を保つ為には、自分らしく生きてもいいんだよという態度のメッセージを、家庭における主人公が見せ続ける必要がある。

※子どもというのは、家庭内で伸び伸びと育ち、あるがままの自分をさらけ出し、感情を豊かに表現できなければならないのです。家庭内であまりにも良い子を演じさせてしまい、自分らしさを失わせてしまうと、外で良い子でなくなり悪いことをしたり他の子を虐めたりするのです。子どもはどこかで息抜きが必要であり、そのための安全な居場所が必要なのです。親があるがままに生きるというお手本を、家庭内で見せたいものです

レスポンシブルドリンキングの勧め

 レスポンシブルドリンキングという言葉を知っているだろうか。ようやく日本でも提唱されるようになってきたが、まだまだ欧米の認知度から比べると、日本人は知らない人のほうが圧倒的に多い。と言うのは日本では、飲酒上の失敗を大目に見るという風土があるからに違いない。自己責任を重んじる欧米の人たちは総じて、酒を飲んでの不適切な行動に対して厳しい。日本はどちらかというと、飲酒しての不適切行動を、お酒が起こしたことだからと寛容に見ることが多い。そういう理由から、レスポンシブルドリンキングという考え方が浸透しなかったと思われる。

 しかしながら、飲酒のうえで起こしてしまう迷惑行為や不法行為は、けっして許容できないことである。酔っ払いが公道で喚き散らしたり、通行人に言いがかりや女性に絡んだりする姿は、実にみっともない行為で許せない。また、飲酒運転で交通事故を起こす行為は後を絶たず、死亡事故まで起こすに至っては言語道断である。政治家、行政マン、または警察職員・教職員まで飲酒しての不適切行動をしてしまう事例は少なくない。レスポンシブルドリンキングとは、例え酔ったとしても不適切行動をしないような飲酒のことである。

 レスポンシブルドリンキングの程度を遵守できない日本人は、なんと多いことか。お酒を適度な程度までしか飲まないというのは、非常に難しいことである。アルコールを摂取すると前頭前野脳が麻痺してしまい、偏桃体が暴走してしまうので、歯止めが効かなくなり欲望が暴走しやすい。ましてや、飲酒はドーパミンを大量に放出してしまうので、覚せい剤を摂取した時と同じような倫理観の欠如をもたらしてしまう。いずれにしても、飲酒によって煩悩の肥大化と暴走を起こすのだから、いかに適量までに飲酒量を抑えるかは至難の業。

 そんな事情を考慮して、レスポンシブルドリンキングを推奨しようとする醸造メーカーが現れたのである。それも、日本を代表するような巨大ビールメーカーである。それはアサヒビールという、売り上げが増加しているし経営状況も増収増益を続けている優良企業である。アサヒビールは2020年から『スマートドリンキング』という造語を用いて、レスポンシブルドリンキングを推し進めている。社内に、レスポンシブルドリンキング部という部署を9月1日に設置し、『スマドリ』をキャンペーンワードにして推進に取り組んでいる。

 今までのアルコール醸造メーカーは、プロダクトアウトの考え方が強いマーケット戦略であった。アサヒビールの社長松山一雄氏は、一般消費者であるエンドユーザーを顧客と捉える考え方が社内にないことに愕然としたらしい。当時のアサヒビールにとっての顧客は、お酒の問屋・販売店・飲食店であったという。これでは、市民目線のドリンク、市民が求める飲料を企画開発するのは難しいと感じた。勿論、消費者の健康を推進するとか、消費者の幸福を実現するアルコール飲料を企画開発するなんて視点がなかったのは当然である。

 世の中では飲酒することが当たり前だという風潮が根強く残っている。宴会に参加して、アルコールを飲まないと付き合いが悪いなあと批判されてしまう。ようやく最近になって、ソバーキュリアス(敢えて飲まないと言う生き方を志す人)という語句が市民権を得られるようになってきた。飲めない人、または飲まない人の理解が進んできた。これから、ソバーキュリアスを目指す人は激増していくに違いない。サステナブルな社会を目指して行くのであれば、レスポンシブルドリンキングがもっと推進されるべきと確信している。

 アサヒビルビールが「責任ある飲酒」レスポンシブルドリンキングを推進していく為に、ノンアルコールドリンクや低アルコールドリンクの開発に力を注いでいる。今までもノンアルコールビールが販売されていたが、ちっとも美味しくなかったしビールとはけっして呼べないしろものだった。ところが、アサヒゼロは本当のビールと遜色ないし、アサヒのビアリーは0.5%のアルコール度ながら、ビールを飲んだ気分にさせてくれる。実際にビールを醸造して、わざわざアルコール分を抜くという手間暇を惜しまない製法をしている。無責任な飲酒を避けるレスポンシブルドリンキングを他の醸造メーカーにも推進してほしいものだ。

酒は百薬の長という格言はウソ

 お酒が好きな人は、酒は百薬の長だという格言を信じているというか、信じたい気持ちが強いに違いない。古来より、ずっと言われ続けてきたこの酒は百薬の長だという格言は医学的にも正しいことだと信じられてきた。ところが、最新の医学研究によると怪しいという研究結果があるという。飲み過ぎは健康に害があるのは当然だが、適量のアルコール摂取なら非飲酒者よりも長生きするという統計調査結果が公にされてきた。ところが、この調査結果はバイアスがかけられていて、実際は少量飲酒者でも長生きする訳ではないという。

 そんな筈はないと思うお酒好きの方も沢山いるとは思うが、飲酒者よりも非飲酒者のほうが健康で長生きするというのは、医学的にも間違いないと証明されている。ましてや、最新の医学研究では飲酒者のほうが非飲酒者よりも認知症になりやすいという研究結果も明らかになっている。そして、非飲酒者よりも飲酒者は頭頚部の癌になる確率が、なんと5倍にもなるという統計調査も明らかになっている。そもそも、酒は百薬の長という格言は、古代中国の政府による酒税の徴収を増加させるキャンペーンワードだったいうのだ。

 こんないい加減で科学的根拠もない格言に、我々はどうして騙されていきたのであろうか。それは、やはり日本の政府もお酒の売り上げによる税収が貴重だったということもあるだろうし、アルコール製造販売企業と酒類小売店、飲食店への篤い配慮があったのではないかと推測される。ましてや、行政、政治家、医学関係者にも酒好きが多いので、お酒が毒だと思いたくなったのだろう。医学的なエビデンスだって、それを扱う者によってバイアスがかかってしまい、大きく捻じ曲げられてしまうケースは、他にも例がたくさんある。

 いずれにしても、酒は百薬の長という格言はまったくのデマだったということが判明した。しかし、今でも適度な飲酒は健康に良いのだと信じている人は少なくないし、毎日習慣的に飲酒している人も多い。中には、大量飲酒によって肝障害やアルコール依存になって、取り返しのつかない健康被害や生活破綻を起こしている例も多い。飲酒運転による交通事故で、被害者を死亡させてしまうケースも多くある。お酒で身を持ち崩してしまう輩も少なくない。ということは、お酒は百害あって一利なしの、リスクが高いものだと認識すべきだ。

 このような適量の飲酒でも健康被害をもたらすというエビデンスの公表を受けて、日本の酒造メーカーでも、適正な飲酒やノンアルコール飲料を推奨する動きをしているところもある。アサヒビールでは、スマートドリンキングというキャンペーンを始めた。ノンアルコール飲料や低濃度アルコールのお酒を薦めている。勿論、そういうノンアルコールのビールやカクテル、低アルコールの飲料を次から次へと開発して販売している。しかも、本格的な醸造によるノンアルコールビールなので、味も本物のビールに遜色ない出来だ。

 最近では、お酒を飲めるのに敢えて飲まない生き方であるソバーキュリアスを志向する人も増えてきたし、お酒が苦手だと一切飲まない人も増えてきた。さらには飲酒による不適切な行動を防止するというレスポンシブルドリンキングという考え方も外国では定着しつつある。アサヒビールは、そのような世界的な潮流をいち早く取り入れて、スマートドリンキングをマーケットの戦略にしたというのは、素晴らしい英断だと言えよう。アサヒビールの現社長である松山一雄氏は、それまでのプロダクトアウト一辺倒であったマーケット戦略を、大胆にマーケットインに大変革したのである。

 勿論、マーケットインの戦略偏向だけが正しい訳ではなく、自社の強みを生かした開発企画だって必要なのは言うまでもない。しかし、これからの酒造メーカーは、市民の健康をどのように守るのかとか、レスポンシブルドリンキングにどう対応するのかを考慮した市場戦略を練るべきである。お酒というのは毎日習慣的にしかも大量に飲むのは、健康を損ねるだけでなく社会的な損失を招くし、SDG’s上においても勧められる行動ではない。元々、お祭りや特別な日に嗜む程度に飲むのが、『大人のたしなみ』のお酒だった筈だ。特別なハレの日にだけ、最上級のお酒をほんの少しだけ飲むのがお洒落な大人飲みと言えるだろう。

自己組織化するならボランティア

 現代日本人に一番欠けているものは何か?と問われたらば、本当の智慧がある人ならば間違いなく自己組織化能力だと答えるであろう。自己組織化の能力とは、主体性、自主性、自発性、自己犠牲性、連帯性、進化性という、人間が人間らしく生きる為には必要不可欠な能力の事である。あまりにも家庭教育と学校教育の両方において、干渉や介入を強く受けて育った影響もあり、現代人にはこの自己組織化能力があまり身に付いていないのである。だから、自分で判断し決断し自ら行動し、リスクとコストを怖れずチャレンジするのがとても苦手なのだ。

 自己組織化の働きが育つ為には、まずは無条件の愛である母性愛をたっぷりとこれでもかと注いでから、条件付きの愛である父性愛を注ぐことが肝要である。乳幼児期に、子どもをあるがままにまるごと愛して、たっぷりと依存させることが大事である。依存させることは悪いことだと思いがちだが、そんなことはない。依存が中途半端だから自立出来ないのだ。安心して依存して、依存して、依存し切ってしまえば、子どもは不安なく自立出来るのである。こうして育った子どもは、自然と自己組織化の能力が発達するのである。

 さて、子どもが大きくなっても自己組織化能力が発達せずに育ち、自立が出来ずに困っているという親に相談をよく受ける。こういうケースは、対応が非常に難しい。乳幼児期の子育てからやり直しが出来るならいいのだが、現実的には不可能だと言ってもよい。となれば、本人がどうにかするしかない。しかし、本人の努力だけではどうしようもない。企業や団体の中で働いているだけでは、自己組織化が起きにくい。組織の中で働く際は、逆に自己組織化を阻害されるような事が起きやすい。当事者意識を喪失してしまうのだ。

 ましてや、自己組織化の能力が育っていない社員・職員に対する上司や同僚からの風当たりは強い。低い評価ばかりではなく、批判や否定をされることも少なくない。「お前、使えねえ奴だなあ」と面と向かって言われることがあるかもしれない。日々ルーチン作業だけをしているなら、気付かれないかもしれないが、対面サービス業や対応力を必要とする業務においては、辛く当たられることもあろう。そうすると、自己否定感も強くなるし、自己組織化能力が高くなるどころか、逆に低くなるのも当然である。

 自己組織化能力が低い人は、家庭においても家事育児の能力が極めて低いので、批判されることが多いし、信頼されず無用の人だと疎外されてしまう事が少なくない。パートナーにも恵まれず、孤独感を味わうことになる。そもそも、自己組織化能力が育っていないと、恋人を自ら作ろうと努力しないし、異性から相手にされない。こういう状況になってしまうと、自己組織化能力が自ら育てるとは不可能かというと、けっしてそうではない。自己組織化能力や当事者能力が、大人になってから身に付くというケースは、まったくない訳ではない。

 どのような努力や研修・修練をすれば、自己組織化能力が育つのかと言うと、社会貢献活動にせっせと勤しむことである。何故、社会貢献活動が自己組織化能力を高めてくれるのかと言うと、ボランティアの4原則と呼ばれるその特徴にある。ボランティアをした経験があるなら、ボランティア活動をする場合に守るべき4原則を知っていよう。➀主体性、自主性、自発性➁連帯性、関係性➂無償性、自己責任性➃発展性、進化性、革新性という4つが、ボランティアの4原則である。つまり、自己組織化とはこの4原則そのものなのである。

 自己組織化とはそもそも分子生物学や量子物理学の研究であきらかにされてきた概念である。人体の細胞やそれぞれの組織に、自己組織化する働きがあることも判明している。だとすれば、人間にはそもそも自己組織化する働きが生まれつき備わっていると結論付けられる。つまり、人間は自己組織化することが定められていて、ボランティア活動的な行動をするのが当たり前だということだ。人間が人間らしく生きる為には、ボランティア活動をすることで、本来の自己組織化能力を手に入れるだけでなく、益々高められるということなのだ。老若男女問わず、誰もが社会貢献活動に邁進してくれることを願う。

交際経験のない若者が増えた訳

 アンケートで交際経験(恋愛経験)がない20代の若者が、3割以上もいるということが明らかになったという。女性の3割近くの20代女性は付き合い経験が一度もなく、4割以上の20代男性が、デート経験を一度もしたことがないという。そして、6割以上の20代若者が特定のパートナーがいないというとんでもない実態が明らかになった。どうして恋愛相手がいないのかと問うと、そのようなチャンスがなかったという若者が多いが、中には時間とお金の無駄遣いだから、恋愛したくないと嘯く若者も結構いるらしい。

 少子化が社会問題化になり、結婚できない若者がいるのは経済的貧困のせいだとか、政府の少子化対策に原因があると思っている大人たちが多いが、どうやらそれ以前の問題がありそうだ。非正規労働者や労働分配の問題とか、産み育てる環境が整備されていないことが原因ではなくて、そもそも若者たちが恋愛しようとしていないし、結婚しようとしていないから少子化が起きているのだ。だから、行政府による少子化対策は的外れであり、効果が出る訳がないのだ。若者本人が恋愛や結婚をしたがらないのだから、どうしようもないのだ。

 それでは、どうして若者たちは交際をしたがらないのだろうか。または、若者たちは交際しようと願いながらも、実際に恋愛に踏み切れないでいるのであろうか。一昔ならば、若者の殆どが恋愛の対象者を求めるのが普通だった。中には結婚を望まない若者が居たが、ごく少数であった。今のようなスマホも持たされず、SNSはなかったが、学生たちはサークルや同好会などでの異性との出会いを求めていた。今から40年以上も前は、出会いの為に合同ハイキングや合コンに多くの学生がせっせと参加していたのである。

 昔の学生たちは、ごく普通に異性との出会いを求め、出来たら交際に持ち込みたいと真剣に願っていたものである。そして、やがては交際から結婚することを夢見たものである。現代の若者は、画一的な人生プランを持ちたくないということもあろうが、異性との交際や結婚を望む人が少なくなってしまったようである。または、異性と交際したいと思うが、一歩踏み出す勇気がないという若者も多そうである。または、異性との交際にまで持ち込むまでの複雑なプロセスが面倒だと思い、避けてしまうのではなかろうか。

 それにしても、こんなにも多くの若者が恋愛に対して消極的になったり、交際を拒否したりするのは、若者たちがメンタルに何かの問題を抱えているからとしか思えない。そのメンタルの問題とは、おそらく自己肯定感が育っていないということではないかと見られる。絶対的な自尊感情が育っていないと、何事にも臆病になって新たなことにチャレンジできなくなってしまうのである。恋愛というのは、自分のすべてを相手にさらけ出すということでもある。自分の恥ずかしいことや嫌らしいことさえも、相手に見せることになるのである。

 絶対的な自己肯定感を持つことが出来れば、あるがままの自分を愛せるし、相手をあるがままにまるごと愛することが可能になる。自分の恥ずかしいマイナスの自己や醜い自己さえも愛することが出来なければ、相手にマイナスの自己を見せることが出来ない。交際すれば、どうしたって自分のマイナスの自己を知られることになる。または、相手のマイナスの自己さえも受け容れて許すことが必要になる。そういう覚悟がなければ、交際や恋愛は出来ないのである。一旦お付き合いしたとしても、長続きはしない。

 さて、絶対的な自己肯定感を持てないから、恋愛や交際が出来ないということであるが、どうしてそんな状況に追い込まれてしまったのであろうか。間違いなく言えることは、親との関係性にその根本的原因があると言える。親が、乳幼児期の子どもをまるごとあるがままに、これでもかというくらいに愛し続けないと、絶対的な自己肯定感は確立できない。どちらかというと、若者たちの親たちは子どもを立派に育てようと思い過ぎて、幼児期の時から我が子に強過ぎる干渉と介入を繰り返してしまった。それ故に、現代の若者たちは不安型愛着スタイルアタッチメント欠損)を抱えてしまったのである。だから、恋愛や交際に踏み切れなくなってしまったのだ。

ボーっとしている時間が大切な訳

 NHKのTV番組『チコちゃんに叱られる』で、ゲストが質問の答を間違うと、「ボーっとして生きているんじゃないよ!」とチコちゃんに叱られる。お決まりのパターンであるが、ボーっとして生きていることが、いかにもいけないことだと視聴者に思わせてしまうに違いない。ボーっとして生きるということは、時間を浪費しているようなイメージを持たせるし、何も生み出さないからと、絶対にやってはならないことだと多くの人々が思っている。しかし、このボーっとしている時間こそが、脳の発達に必要不可欠で大切なのである。

 このボーっとしている時間がないと、大脳は正常な発達をしないし、豊かな心も育たないと言われる。確かに、四六時中ボーっとしていて何もしないと言うのは、避けたいことである。しかし、時には何もしなくて何も考えずに、ボーっとしている時間を持つのは大切なことである。ボーっとするのは、脳を休めるためではない。実は、ボーっとしている時間でも、脳は大切な機能を発揮しているのである。そして、ボーっとしているように見えていながら、大脳の発達をさせているということが、脳科学の研究により判明してきたのである。

 一生懸命に、難しい勉強したり厳しい仕事をしたりしている際は、左脳と右脳を思いっきり機能させている。右脳と左脳を繋ぐ脳梁を使って情報交換をしながら、上手く情報処理を実行している。脳梁を太くさせて、その機能を発達させるには左脳と右脳の両方を同時に働かせ、難しい作業をする必要がある。いろんなことを考えながら身体も同時に動かすと、右脳と左脳を同時に働かせて脳梁の機能が向上する。これも人間の成長には、必要な事である。それ以上に脳の進化に必要なのが、ボーっとしながら過ごす時間である。

 右脳も左脳も、ボーっとしている時に情報や感情を整理し直すらしい。また、情報の再ファイル化をして連携化したり、必要な情報と不要な情報に整理し直したり、大切な情報を自分にとって直ぐに活用できるようにしたりしていると言われている。脳は、睡眠中も同じようにその日に起きたり学んだりしたことを整理整頓すると考えられている。ボーっとしている時というのは、無心とか無我になることと同じと考えられている。つまり、座禅をしていることと同じ行為だと思われる。何も考えず何もせず何も願わない時間なのである。

 座禅とは、何も考えずに只ひたすら座ることである。座禅は、悟りを得る為にする行為だと思われがちだが、実は何かをする為に座禅をすると、心を動かし脳を働かせてしまう。だからこそ、何も思わないのが座禅なのである。無心や無我の境地に至らないと、脳は本来の働きをしないし、進化しないのである。無心になって初めて潜在意識が顕在意識を凌駕するのではなかろうか。人間の無意識の領域は約9割近くに及ぶと言われている。その無意識の領域をほんの少しでも活性化できたとしたら、超人の働きができるのだ。

 ボーっとしているというのは、何もしないし何も考えないという瞑想にも通じる。これは、写経、読経、ヨガ、滝行、山岳修行などのマインドフルネスにも言えることかもしれない。ひとつのことに専心するということは、邪念を追い払う事でもある。勿論、ボーっとしている時間もまた、人に対する怒りや憎しみの感情や妬み嫉みを捨てることである。ボーっとしている時間を過ごしていると、何も考えていない筈なのに、過ごし終わった後に驚くほどの抜本的な問題解決策が見つかることもある。

 子育て中の親たちは、子どもがボーっとしていたら安易に注意すべきではない。それは、脳の整理と成長の為に必要な無意識の行動なのである。それを見た親が、ボーっとしている時間を子どもから取り上げてしまったら、大切な大脳の進化発展を止めてしまい、将来不幸になるかもしれないのだ。子どもにとっては特にこのボーっとしている時間が必要不可欠なのだと心得たい。ボーっとしている子どもを見たら、ああこの子は脳の大事なトレーニングをしているんだと、温かく見守ってほしい。やがて、大天才になるかもしれないのであるから。