社会問題化している孤立と孤独死

 3組に1組の夫婦が離婚するような時代を迎えて、高齢者の孤独死が急増していて社会問題化しているという。離婚している高齢者だけではなく、死別して一人で生活している老人も多くて、やはり孤独死を迎えている。元々子どもが居ない、または同居しないということを選択する子どもが多くなっている影響もあろう。そして、親しくしている友だちもないし、ご近所との付き合いもないことから、孤独死が誰にも知られず放置されているケースも少なくない。人生の最期を一人で迎えるなんて、不幸極まりないことである。

 結婚をしたがらない若者が多いし、結婚しても子どもを持たない若夫婦も増えている。このままで推移していくと、孤立と孤独死がこれから益々増えて行くのは間違いない。なんと世知辛い世の中であろうか。自分で孤独を選択したのだから仕方ないと言えるが、結婚したがらない若者や子どもを産まない夫婦が、老後の未来をしっかりと見据えての判断とは思えないのである。今が良ければいいじゃないかと思うのかもしれないが、これからは長生きが普通の時代だからこそ、老後の長い生活のことも考えてライフプランを立てるべきだ。

 老後のライフプランは、経済的に余裕があるから心配ないと豪語する人もいる。有料老人ホームや介護付きのリゾートマンションの為の貯蓄もしているから、まったく心配していないという人もいるだろう。確かに、ある程度の豊かな暮らしは出来るし、入居者どうしや介護を担う職員との触れ合いもあろう。その関係性があれば、寂しい思いなんてすることもないと考えるのも至極当然である。しかし、老人ホームや介護施設での生活は、同じ境遇どうしの付き合いだから、同じ日常の繰り返しで退屈極まりなく、孤独感を拭えない。

 元々リアルな人づきあいが苦手で、SNSなどのネットワーク上の繋がり合いだけしかしたがらない人も増えてきている。現実の職場では必要最低限の付き合いに限定して、プライベートな付き合いを拒否している人も増えているという。何故に、現実社会での深い付き合いを避けているかと言うと、他人との付き合いが煩わしいとか関係性が捻じれた場合に困るからという理由が多いらしい。それは、元々不安や怖れが強い気質を持つからと思われる。HSP(ハイリィセンシティブパーソン)のせいかもしれない。

 HSPとは、神経学的過敏から心理社会的過敏までも持つ気質を持った人ということで、人一倍繊細な感受性を持つが故に、強烈な生きづらさを抱えた人である。HSPになるそもそもの原因は、幼少期の極端な育てられ方にあり、良好なアタッチメントが欠落しているケースが殆どである。安全基地(安全と絆)が確立されていなくて、心理的安全性が欠如していることが多いのも特徴である。だからこそ、他人がパーソナリティスペースに入り込むことに対して不安や怖れを感じるので、深い関係性を築くのが非常に苦手なのでる。

 そんな深い関係性なんて必要ないし、いつでもブロックできるネット上の友達で十分だと思ってしまっている人も少なくない。これでは、人間として進化や成長するうえで、大きなマイナス要素となってしまうことを認識してほしい。人が本当の自分や自分の本質を認識する為には、他人との深い関わり合いが必要である。何故なら、人間とは他人との違いを認めてこそ、自分と言うものが初めて理解できるし、他人の心も解ることが出来るのだ。人間が人間として、深く気付き学ぶためには、人との関わり合いが必要不可欠なのである。だから、人は多様性を持つのだ。己を知らずして他人の理解なんて不可能だ。

 人間という生き物は、単独では生きて行けない。助け合わないと生きることが出来ないのである。ましてや、人間と言う生物(あらゆる生物も含めて)は、自己組織化する。主体性と自発性・成長性と進化性・責任性と自己犠牲性・連帯性という自己組織化能力は、人間どうしのネットワークが根底に無いと育まれない。人間が進化成長してきた歴史においては、ネットワーク化(組織化)が必要不可欠だったのである。つまり、人間と言う生物が完全なる人間という存在であり続けるには、『関係性』が何よりも大切だということなのだ。人間は孤立させてはならないし、孤独を求めてはならない所以がここにある。

不運と幸運のどちらになるかは宿命か

 自分の人生は不運続きだと嘆いている人もいれば、何をやっても幸運に巡り合うと喜んでいる人がいる。同じ国に住んで同じように生活している人間なのに、どうしてこんなにも違うのかと、自分の不運を恨んでいる人も少なくない。最近は生まれ育った環境や両親によって、未来の生き方が違ってしまうのだということが盛んに言われて、『親ガチャ』という言葉がネット上で踊っている。確かに、統計上においては親の年収と子どもの年収は、相関関係があるとも言われている。教育を受ける権利が制限されるとも伝えられている。

 親が経済的に貧しくて不運な人生を歩んでいると、子どもは満足な教育を受けられないので、同じように不運な人生を送るとも一般的には言われている。しかし、本当にそうなのであろうか。幸運や不運と言うのは、生まれつき決まってしまうものなのか。確かに、低レベルの教育・初等教育だけしか受けられないと、高収入の職業には就き難い。ましてや、人々が望むような、医師・高等技術者・高級官僚・政治家・法律家などになるのは非常に難しい。いくら努力したとしても難しい現実がある。

 職業や収入が子どものうちに決められてしまうという考え方は、お隣の韓国や中国においても支配的であり、だからこそ教育に熱心なお国柄になってしまっている。それでは、経済的に裕福でなくて、優秀な学業成績を収めなくて、立派と言われている職業に就けなかった人間は不幸・不運なのであろうか。それは一概に言えないのではなかろうか。高級外車や高級ブランドを手に入れて、都心のタワマンに住んでいる人々がすべて幸運・幸福なのかというと、けっしてそうではない。幸福だと絶対に思えないような人々も少なくない。

 それはどういう人なのかと言うと、こんな人々である。仕事においても大きな成功を収めて、幸せそうな家庭も築いたのに、大病をしてしまい早逝する人、重篤なメンタル疾患になった人、若くして認知症になった人、詐欺師に騙されて財産を失った人、事故を起こして半身不随になった人、子どもが不登校やひきこもりになった人やDVに苦しむ人、人から恨まれて殺害された人、そんな人々が身近にも沢山存在する。上野の飲食店経営者夫婦だって、経営者的には成功したが命を落としてしまった。本人には、そうなった要因がないのだろうか。

 例え経済的に裕福でないにしても、家族がお互いに支え合っていて愛情たっぷり注がれている家族が存在する。家族みんなが心身共に健康で、事故にも合わずに、毎日笑顔で暮らす家庭も多くあることを知っている。不幸や幸運になるのは、すべて宿命なのだろうか。親ガチャと言われているように、とんでもない親の元に生まれてしまえば、不幸で不運な人生を送るしかなくなってしまうのか。ある程度は、親の影響を受けてしまうのは、やむを得ないような気がする。しかし、すべての不運や幸運が宿命により決まるというのは言い過ぎのような気がする。

 それでは、不運や幸運というのは何によって決まるのであろうか。思想や哲学で言われているのは、不運や幸運というのはその人の受け取り方であって、どのように受け容れるのかで決まるという考え方である。塞翁が馬という諺は、まさしくそのことを言っている。または、青い鳥という寓話も同じような事である。それは観念論であって、科学的な検証をして得た理論ではない。それでは科学的に真理だと確証されている、幸運を招く方法はないのだろうか。仏教哲学において『空の理論』として確立され、量子力学で証明されている理論は真実を捉えている。

 その理論とは、この世に起きるすべての物質と起きる現象は、我々の意識によって支配されているというものである。つまり、私たちの集合無意識によってどのような世界になるかが規定されているというのだ。つまり、人間の意識が幸運や不運に感じる現象を引き起こしているのである。そして、すべての物質や現象は、ひとつの法則によって支配されている。『全体最適・全体幸福』という法則に則っているし、この世は関係性によって生成されているのである。関係性が損なわれると、物質は崩壊するということであり、個別最適を目指すと破綻するという意味である。つまり、関係性を豊かにする生活や全体最適を目指す生き方をすれば、幸運や幸福になれるということなのである。

アタッチメント欠落による生きづらさ

 日本の精神医学においては、アタッチメントの重要性がなかなか認識されなかったが、ようやく認知されるようになってきた。どうしてかと言うと、米国の若者たちのSNS上でのアタッチメントという言葉が広まり、その情報が日本にも伝わった影響で医療や福祉の世界でも認識されたと思われる。ジョン・ボウルビィという英国生まれの精神医学者が、1950年代に米国においてアタッチメント理論を初めて提唱した。あれから長い期間が過ぎて、ようやく世界的に認識されてきたというのは、精神医学の発展上喜ばしいことである。

 ジョン・ホウルビィは戦中戦後に生まれた孤児や施設の子どもたちの研究をして、虐待や望まない親との離脱をさせられた子どもたちがアタッチメント・ディスオーダーという深刻な障害を抱えてしまうことを提唱した。アタッチメント理論を基にして、エインワースは安全基地という概念も論じた。精神医学界では、アタッチメント・ディスオーダーという疾患名は存在しない。長い期間に渡り精神疾患とは認めらなかったのである。それが、日本の家庭教育における大きな間違いを、延長させてしまったと言えなくもない。

 ようやくアタッチメントの重要性を認識されるようになったのであるが、家庭教育における間違いを指摘するまでには至っていない。母性愛と父性愛のかけ方の誤解や、あまりにも強い干渉や介入がどれほど子どもの心を蝕んでしまっているのかを認識している人は極めて少ない。だから、不登校やひきこもりは益々増えているし、メンタルを病む人が激増しているのである。正しいアタッチメントが育っていないから、特定できない不安や恐怖感を持つ人があまりにも多いし、生きづらさを抱えている若者が急増しているのだ。

 生きづらさを抱えている若者たちは、何故そうなってしまったのか解らないし、抱えている不安や恐怖感の特定も出来ていない。生きづらさと不安や怖れは、アタッチメントが存在しないせいなのである。アタッチメントがないことを認識できるようになって、ようやく自分の育てられ方に問題があったということを知る若者もいるらしい。自分には安全基地がないということを認識できて、安全と絆を求める行動を始められるのだ。安全基地はいくつになっても作ることが可能であると言われているが、実際にはとても難しいのである。

 日本において、アタッチメントの概念が広がらなかった原因は、アタッチメント・ディスオーダーという語句を『愛着障害』として意訳してしまったせいであろう。アタッチメントを愛着と訳したのであるが、愛着というと愛情の有り無しが必要以上に強調されてしまう。ましてや、愛着障害というと虐待やネグレクト、または親からの暴力が原因で起きると勘違いされてしまい、特殊な家庭環境や育成環境でしか起きえないものとして認識されてしまったと思われる。一般家庭においては、愛着障害は起きないものだと思い込んだのである。

 しかし、実際には愛着障害と呼べなくても、同じような強い不安や恐怖感の症状を抱えた子どもたちが増え続けているし、強烈な生きづらさ故に不登校やひきこもりになる若者が増大している。まさしく、適切なアタッチメントが存在しない人々である。それを、『不安型愛着スタイル』と呼んでいる精神科医もおられる。あまりにも躾が厳しくて、親からの干渉や介入が強過ぎてしまい、本当の自分を見失い誰かの操り人形を演じているだけだから、自分らしく生きることが出来なくなっているのである。当然、安全と絆を提供してくれる安全基地は存在しないし、HSPを抱えていて不安に押しつぶされそうになって生きている。

 先日放映されたNHKのドキュメンタリー番組では、アタッチメントはいくつになっても構成され得ると断言していたが、そんなに容易なものではない。アタッチメント・ディスオーダーの人々を長年に渡りサポートしてきたが、安全と絆である安全基地を提供してアタッチメントを確立するのは、非常に難しい。何故なら、アタッチメントを確立していない人間は、他人を信頼しにくいからである。不信感があるばかりか、試し行動をし掛けてくるのである。そういう人々に対して、安全基地となるのは容易ではないし、長期間に渡る支援が必要だということを覚悟しなければならない。

依存症の本当の原因と克服の方法

 大谷選手の元通訳水野一平容疑者が、深刻なギャンブル依存症で600億円を超える借金を抱えているというニュースは社会を驚かせた。それにしても途方も知れない金額をギャンブルに注ぎ込んだものである。2021年からスポーツ賭博を始めたというが、3年足らずのうちに、こんなにも多額の賭け金を賭博によって失ったというのは、前代未聞のことであろう。ギャンブル依存症という精神疾患は、そら恐ろしいものである。アルコールや薬物依存も怖いが、雪だるま式に増えて行く賭け金と負債が、犯罪にまで手を染めさせてしまった。

 依存症には、他にも様々なものがある。アルコール依存症、薬物・麻薬依存症、ニコチン依存症、パチンコ依存症、ネット依存症、ホスト依存症、ゲーム依存症、浮気依存症、セックス依存症、万引き依存症等々、あげたらきりがない。一度これらの依存症に嵌まってしまうと、抜け出すことが難しい。完全に離脱するには、相当な努力・費用・時間が必要だと言われている。しかも、再依存になりやすい傾向もあるので、一旦抜け出せたとしても、再発を繰り返すケースも少なくない。薬物やアルコール依存症はその典型である。

 依存症になってしまう原因は、脳内ホルモンの影響が大きいと言われている。とりわけ快楽ホルモンと呼ばれるドーパミンと脳内麻薬のβ-エンドルフィンが、依存症に引き込むと推測されている。そして、セロトニンホルモンが欠乏しているのも要因らしい。しかし、それだけではなく元々依存症になりやすい人間と、なりにくい人間がいることから、気質や人格にも依存症になる要因があるとも考えられる。さらには、人間が生きて行くうえで拠り所となる価値観・思想に問題があると、依存症になりやすいとも考えられている。

 依存症になってしまう原因は、それだけではない。依存症になる人間には、特別に何かあるような気がする。それは、『満たされない何か』である。最近注目されている英語で言えば『アンメット・ニーズ』である。常日頃から何となく満たされない何かを抱えていると感じていて、心の中に何か空虚な隙間があるように思っている人間は、その満たされない何かを別のもので満たそうとあがき苦しむのではなかろうか。それ故に、何かにとりつかれ依存してしまい、それから離脱できなくなってしまうように思える。

 それでは、その満たされない何かとは、具体的に何なのか。端的に言えば、それは『愛』ではなかろうか。勿論、お金・地位・名誉・評価・ブランド品・高級車だと思っている人もいるだろうが、そういうものを求めてしまうのも、実は愛に満たされていないからなのだ。愛というのは、恋愛における性愛のようなものではない。つまり愛欲とは違うもので、見返りのない無償の愛である。人類愛というか、博愛とか慈愛と呼ばれるものである。プラトンが論じた『アガペ』のような、与えるだけの愛である。

 そういう無償の愛によって満たされることがない人間は、愛を渇望する。例え相思相愛の伴侶や恋人が居たとしても、お互いに無償の愛(アガペ)で包みこむような関係でなく、求め合う愛(エロス)なら、満たされていない心境になり依存症になりやすい。世の中の夫婦や恋人は、このエロスを求め合う関係であることが多い。何故なら、パートナーのうちどちらか一方、または両方が不安型の愛着スタイルを抱えているからである。不安型の愛着スタイルを抱えていると、いつも見捨てられるのではないかという不安に心が支配されている。その不安を打ち消すために、何かの欲望で満たそうと依存症に陥るのであろう。

 不安型の愛着スタイルを持ってしまったのは、親から無償の愛を充分に与えられなかったからである。無償の愛を与えられずに大人になった人は、自分だけへの無償の愛を求める。しかし、無償の愛をたっぷりと注いでくれる相手なんて、おいそれと見つかるものではない。満たされない思いを持ちながら生きることになる。その心の隙間を何かに依存して満たそうとするのである。本物の無償の愛で満たされない限り、依存から解放されることがないのである。つまり、依存症を克服するには、揺るがない無償の愛を注ぎ続けてくれる存在が必要なのである。

イップスの本当の原因と克服の方法NO.2

 元々強大な不安や恐怖感が根底にあって、何度も大きな失敗や取り返しのつかないミスが起きてしまい、これ以上そんな状況が続くと、自分自身を破綻させる危険を防ぐ防衛反応としてイップスが起きるということを説明した。この背側迷走神経の暴走によるシャットダウン化は、メンタル疾患や自己免疫疾患を起こすことも非常に多い。イップスは治療が困難である。非常に治りにくい。プロを辞めるか、スポーツを諦めるしかなくなる。

 イップスやジストニアが治りにくいのは、迷走神経が関係しているからである。自分の意識で何とか改善させることが、極めて難しいのである。一旦、背側迷走神経による心身のシャットダウン化が起きてしまうと、現代の医学ではどうしようもない。この遮断状況を解決しようと、投薬治療やカウンセリング・セラピーを実施したとしても、迷走神経はこれらのアプローチを跳ねのけてしまうのである。しかし、イップスやジストニアを克服するのは不可能ではない。適切で懇切丁寧なサポートをすれば、時間は長くかかるが克服できる。

 どうすれば克服できるのかというと、まずは根底にある不安や恐怖感を持ちやすい気質を改善することが必要である。とは言いながら、この不安や怖れを強く持ち過ぎるという気質は、幼い頃からの育てられ方に起因しているので、解決するのは困難である。両親のどちらかまたは両方が、子どもに対して強い干渉や介入を繰り返しながら育てると、優秀な学業成績を収めるし、運動選手としても成功しやすい。ところが、その代償として自己組織化の能力が低下すると同時に、不安や怖れを人一倍抱きやすい大人になってしまうのである。

 こうしてはいけない、こうすると駄目だ、このようにすると失敗すると、親が子に対してマイナスの未来を示して、それを避けることだけの子育てをすると、子どもは健全に育たない。誉めて認めて育てて、どうすれば上手く行くのか一緒に考えようと、プラス思考的な子育てや指導をすれば、不安や怖れを強く持つことはない。多少の失敗や逃避をしたとしても、または問題行動をしたとしても、強く叱らずに大目にみることが大事である。失敗しても叱らずに、今度は上手く行くよと励まして育てれば、不安や恐怖感を持たない大人になる。

 脳科学的にこのことを検証すると、よく理解できる。安心・快楽ホルモンであるオキシトシンホルモンが関係している。乳幼児期にあまりにも強い介入や干渉(しつけ)を繰り返すと、オキシトシンホルモン受容体が作成されない。無条件の愛である母性愛をたっぷりと注がれて、いつもスキンシップをされて育つと、オキシトシンホルモン受容体が沢山出来て、不安や怖れを感じなくなる。オキシトシンホルモンが沢山取り込まれると、幸福ホルモンであるセロトニンホルモンも分泌され、益々安心感が強くなるのである。

 このように、いつも不安や恐怖感を持つ人というのは、オキシトシンホルモンが不足しているのである。ということは、もう一度小さい頃からの愛情たっぷりの子育てをやり直すことが必要だが、現実的には無理だ。だとすれば、親に代わる誰かが、無条件の愛情を注いで安全と絆を提供するしかない。この安全と絆を提供できる臨時的な『安全基地』が傍にいて、無条件の愛をたっぷりと注いであげれば、時間はかかるけれど不安や恐怖感を持ちやすい気質を改善出来よう。この安全基地の存在は、精神的にも安定していて包み込むような豊かな包容力を持ち、どんなことを言われてもされても揺るがないメンターライゼーション能力を持つ人物であらねばならない。

 イップスを起こす人間は、スランプにも陥りやすい。運動の世界だけでなく、生活の場面でも社会全般においても、スランプを起こしやすい。そうした屈折した心理を抱えているので、精神的に不安定なこともあり、反抗・反発しやすい。そうしたことをされても、けっして見離さずに、寄り添い続ける覚悟が必要である。こうして安全基地が寄り添い、無償の愛を注ぎ続ければ、背側迷走神経のシャットダウンは解けて、不安や怖れを感じなくなり、イップスやジストニアは克服できる。人生におけるスランプも容易に乗り越えられる筈である。

イップスの本当の原因と克服する方法NO.1

 イップスというスポーツ選手が陥ってしまう運動障害を知っているだろうか。元々はゴルフのプロ選手が、グリーン上でのパットを上手く打てなくなってしまった症状をイップスと呼んだのが最初だった。ゴルフではパットだけでなく、他の動作でも起きる深刻な運動障害もイップスと呼ぶようになった。他のスポーツでも、同じような症状を起こすことが解ってきて、やはりイップスと定義された。一度でもイップスの症状が出た人の割合は、習慣的にスポーツをする人のうち約5割もいると言われている。イップスを起こす人は多い。

 一度イップスの症状が起きてしまうと、同じ動作をする度にイップスに陥ってしまう。イップスが酷くなると、まったく身体が動かなくなることもある。イップスが起きる頻度は圧倒的にゴルフや野球が多いと言われているが、スィングやピッチングがまったく出来なくなるケースもある。イップスというのは、初心者や初級者には起きにくい。どちらかというと、上級者や熟練者、またはプロスポーツ選手に起きやすい。イップスの原因は、まだ完全には解明されていない。脳の誤作動によるのではないかと考えられている。

 イップスというのは、不安による筋肉の過緊張によって起きるジストニアの一種ではないかと考えられている。脳は実際に起きた現象を記憶する。特に、大きな失敗や取り返しのつかないようなミスをした強烈な記憶は、脳に深刻なダメージとして残される。そうすると、その記憶を画像としてのイメージを作り出すことが可能になる。失敗した同じ場面に置かれると、また同じことが起きるのではと不安になり、その失敗したイメージが甦ってしまう。脳内に作られた失敗のイメージによって、そのイメージ通りの現実を起こしてしまう。

 何度かその失敗が続いてしまうと、同じ場面で失敗をすることを怖れてしまい、筋肉が過緊張に追い込まれて拘縮する。そうすると、スムーズな動作が出来ないばかりか身体が固まってしまい、一切の動作さえ出来なくなってしまうのである。プロスポーツ選手や熟練者は、成功することが当たり前という前提がある。失敗しても当たり前という初級者には、イップスは起こりにくい。自分で成功をすることが当然だと考えている、または他人から成功を期待される人ほど、プレッシャーやストレスが過大にかかり、イップスが起きるのであろう。

 人間の脳は、起こそうとしてイップスが起きている訳ではない。無意識下で、脳が筋肉に対して誤作動の指示をしてしまうと考えられている。有意識では失敗させず、上手く動作させようと思っていて脳はそのように指示しているのにも関わらず、無意識下の脳はその指示を無視して、筋肉を過緊張にさせてしまうのである。誰でもイップスが起きるのかと言うと、けっしてそうではない。あくまでも、イップスが起きる人とまったく起きない人がいる。不安や恐怖感を強く持ち過ぎてしまう気質を持ってしまう人だけが、起こす傾向にある。

 イップスが起きる本当のメカニズムがどうなっているのかについて検証してみよう。自律神経における迷走神経のメカニズムは、複雑である。人間がどうしようもない不安や恐怖感に陥った時に、自分自身の身体と精神を守る自己防衛反応が起きてしまう。それは迷走神経が勝手に作動してしまうのである。迷走神経の中でも、原始的とも言える背側迷走神経が身体機能の遮断を起こしてしまう。そうすると、筋肉が過緊張状態になってしまい、身体が正常に動かなくなったり、凍り付いたりしてしまうのだ。これは、自分自身の身体と精神が破綻するのを防ぐ防衛反応なのである。

 大きな失敗や取り返しのつかないミスを繰り返してしまうと、自分自身の精神が破綻をしたり、自死に追い込まれてしまったりする。または、自分の地位・名誉や高い評価を失ってしまい、社会から転落してしまうのではないかと勘違いをするのだ。実際には、そんなことは起きなくても、不安や恐怖感の強い人は最悪の結果を予想してしまうのである。その為に、イップスという症状を無意識的に起こして、過酷なプレッシャーやストレスから逃避させてしまうのであろう。かくして、自己防衛反応としてのイップスが起きてしまうのである。

NO.2につづく

わいせつ教師は絶対に許せない

 教師による性被害の報告が増加している。今まで、泣き寝入りをしていたり、子どもが性被害だと認識できなかったりしたケースもあったが、現在は性被害だという社会の認識も広がったことにより、性被害の報告がしやすくなったのであろう。それにしても、これだけ日本の教育界に性被害が蔓延していたとは驚きである。イスキアの郷しらかわで過去にサポートしていた不登校やひきこもりの方々の中にも、高い割合で教師による性被害者がいらしたので、やっぱりそうかという思いが強い。

 どうして、こんなにも教育現場において性被害が多いのであろうか。または、わいせつ教師がこんなにも多いのかと不思議に思う人も多いに違いない。以前は、『聖職者』と呼ばれて世間からリスペクトされていた教師が、こんなにも不祥事を起こしてしまうとは、信じられない思いである。それにしても、教師とはどんな時も子どもたちの味方であり、子どもを正しい道に導く存在でもあり、子どもたちの見本となるべきなのに、地に墜ちたものである。子どもに対してわいせつ行為をする教師は、絶対に許せない。

 教師以外でも、わいせつ行為をする人間は存在する。だとしても、教師が子どもに対してわいせつ行為を行うのは、絶対に許せないのである。何故かと言うと、子どもは先生に対して「嫌だ」と言えないからである。先生は子どもに対して常に優位な立場にあり、子どもたちは先生には逆らえないのである。そんな状況にあるのを利用して、か弱い立場にある子どもにわいせつ行為を行うというのは、鬼畜にも劣る卑劣な行為である。ましてや、子どもは逃げることも闘うことも出来ない状況に追い込まれて、シャットダウン化してしまうのだ。

 どういうことかと言うと、人間の副交感神経は殆どが迷走神経である。その迷走神経には、腹側迷走神経と背側迷走神経の二つあることが、最新の医学研究により判明した。その腹側迷走神経は、安心、休息、免疫を活性化させる。ところが、背側迷走神経は回避や逃避も出来ず闘う事もできない危機的状況に追い込まれると、心身の遮断が起きて考えることもできず、身体が凍り付いて動けなくなるのである。つまり、わいせつ教師のほうでは児童生徒が拒否もせず逃げもしないから、同意したと勘違いしているが、まったく違うのである。

 この『遮断・凍り付き』の状況になってしまうと、身体が硬直して動けなくなるし、何も考えられず「嫌だ」と声も出せなくなるのである。逃げもせず嫌だと拒否もしないから、自分に好意を抱いているのだとわいせつ教師は勘違いする。こうして、罪悪感を抱くこともなく非業の性行為に及ぶ。そして、拒否されないからと複数回の性的行為に及ぶケースも少なくない。かくして、性被害児童生徒たちは恐怖のどん底に落とされて、怖くて誰にも訴えられない。さらに、逃避できず拒否できない自分が悪いからだと、自分を責めてしまうのである。

 大人になった女性が、上司や権力者・著名人から無理にレイプされた際にも、遮断・凍り付きが起きて、拒否や逃避が出来なくなる。そして、拒否や逃避が出来なかった自分が悪いからだと、自分を責めるだけでなく、警察に訴えることも躊躇ってしまうのである。そして、このあまりにも悲惨な出来事をなかったこととして、右脳の奥底にトラウマの記憶として仕舞い込む。教師から性被害を受けた児童生徒も、同じように右脳の奥底に強烈なトラウマとして仕舞い込み、なかったこととして永久に現れないように重い蓋をするのだ。

 右脳の奥底深くに仕舞い込んでないことにしてしまったトラウマは、同じような場面に出くわすと、表出してしまうことがある。これがフラッシュバックであり、圧倒的な恐怖感で苦しめられる。性行為そのものだけでなくても男性が怖くて、触れられるのも怖いと思う女性もいる。教師による性被害は、当該児童生徒を大人になってもなお苦しめることになるのである。つまり、わいせつ教師による鬼畜のような性被害は、人の一生を台無しにしてしまう、絶対に許せない行為なのである。万死に値する罪だと言えよう。死をもって償うほどの重罪だと言っても過言でない。文科省の初期研修に、迷走神経による遮断・凍り付きの学びを含めるべきだ。

引きこもりを乗り越える方法

 引きこもりの状況に追い込まれてしまうと、この状況から抜け出すのは容易でない。だから、8050問題と呼ばれる社会的な大きな問題にもなっているし、内閣府の調査によると146万人にも及ぶという。なんと50人に1人が引きこもりだというのだから、驚きの調査結果である。さらに、引きこもりになる人は増加の一途だと言われている。深刻なのは、引きこもりは若者だけでなく、中高年者にも多いと言う事実である。そして、一旦引きこもりになってしまうと、その状況が長期間に及ぶことから、支える家族にとっても深刻だ。

 引きこもりになるきっかけはそれぞれ人によって違うし、どうして引きこもりになったのか当人にも解らないケースも少なくない。そして、引きこもりになった本当の原因が、当人にも家族にも認識できていないのである。勿論、人生における大きな挫折や仕事での失敗や躓き、職場でのいじめやネグレクトが原因だと思っている場合も多いが、それは本当の原因ではない。大切な人を失ってしまった心的外傷により引きこもりになったと思う人もいるが、けっしてそれが原因でもない。引きこもりの本当の原因を認識していないのである。

 引きこもりの本当の原因は、外的原因ではなくてあくまでも内的原因なのである。つまり、外的な事故・事件や現象によって引きこもりになったのではなくて、あくまでも本人の内因にそもそもの原因があるのだ。外的な事件・事故は単なるきっかけであり、引きこもりになった本当の原因は本人が抱えている精神的な偏りや拘りにあるのだ。抱えている一番深刻な精神的偏りとは、強い自己否定感である。自己肯定感が極めて低いのである。そして、その原因は親との豊かな愛着が形成されていないことが根底にあるのだ。

 親との豊かな愛着が形成されておらず、極めて劣悪な愛着となっている。愛着障害と言っても過言ではない。引きこもりになっている人は、殆どが愛着障害であり自己肯定感が極めて低いのである。さらにHSP(神経学的過敏症&心理社会学的過敏症)があり、いつも不安や恐怖感に支配されている。その不安も、特定の不安だけでなく、得体の知れない不安に苛まれることが多い。特定の不安であれば、その不安を消すための努力ができるのであるが、得体の知れない不安は、対象が不明なので対応し切れないのである。

 このように、引きこもりの本当の原因が愛着障害にあって、極めて強い自己否定感とHSPが根底に存在することで、強い不安を抱いて引きこもりになると言える。普通の人なら心的外傷にならない程度の事件・事故が強烈なトラウマとなってしまい、それが積み重なり複雑性のPTSDのような症状を起こすと考えられる。小さい頃からの積み重なった心的外傷が、ボディーブローのように心を蝕んでしまい、引きこもりを選択するしかなくなるのだ。根底にある愛着障害を癒すことが出来なければ、引きこもりは解消できないことになる。

 愛着障害は親との不健全で歪んだ愛着によって起きるのであるから、親が変わらなければ愛着障害は癒すことが出来ない。親が劇的に変わって、乳幼児期からの子育てをやり直すことで、愛着障害は解消される。しかし、現実的には引きこもりの親はどうして良いのか解らないことが多い。子どもとの健全な愛着を形成するのを自ら阻害したとは、気付くことはあるまい。ましてや、8050問題と言われているように親が高齢になれば、親が自ら変わることは難しい。自分自身が自ら変わるしか方法がないが、極めて難しいと言えよう。

 結論から言うと、引きこもりは親が変わらなくても乗り越えることは可能である。その際に、心理的安全性を提供してくれる『安全基地』は必須である。安全と絆を提供してくれる安全基地が存在して、その安全基地がいつもそっと寄り添い、傾聴と共感をしてくれるならば、引きこもりは解消できるのである。そして、引きこもりの当人は根底に愛着障害があり、HSPと自己否定感が強いという認識も必要である。そして、安全基地の全面的協力の元で、認知行動療法やナラティブアプローチ療法、またはオープンダイアローグ療法を駆使して、愛着障害を癒すことで、引きこもりを解消できるのである。勿論、安全基地には誰もがなれる訳ではない。森のイスキアの佐藤初女さんのような特別な方しか、安全基地にはなれないのである。

※引きこもりを乗り越えるために必要な安全基地になれるのは、森のイスキアの佐藤初女さんのような、広い心と形而上学に基づく高い使命感を持った、メンタライゼーション能力の高い人だけです。しかし、佐藤初女さんは既に亡くなられています。それで、イスキアの郷しらかわでは、佐藤初女さんを継承しようと高い志を持った方々をサポートしていて、第二、第三の佐藤初女さんを目指す方たちの研修を提供しています。

#引きこもり

#森のイスキアと佐藤初女さん

行政による少子化対策は効果がない訳

 国が少子化対策の財源を、健康保険料に追加徴収する案が示されて、猛反発をされている。少子化対策費を国民から医療保険税として徴収するのは、増税というそしりを受けたくないという姑息な魂胆があるからである。そもそも、行政による少子化対策が実際に効果を表しているのかの検証もされていない。何等かの少子化対策をしないと、高齢になった国民を支える労働者人口が不足してしまい、財政規律が保てなくなるからと必死になっているのであろう。しかし、行政による様々な少子化対策の効果は殆どなく、少子化の傾向は止まらない。

 行政による少子化対策とは、主に出産費用や育児費用に対する援助金、産み育てる保育所の充実、育児休暇取得をしやすい環境と支援制度、男性が育児に参加しやすい労働環境の整備などが実施されている。確かに、こういった少子化対策はある程度の効果はあるが、大きな成果を産みだしていない。ということは、本当の少子化の原因を政府は把握していないということになろう。政府だけではなく、県や市町村の行政も少子化の本当の原因を把握していないし、多くの国民も認識しているとは到底思えない。だから少子化は止まらないのだ。

 少子化の本当の原因は、経済的な理由や産み育てられる環境が不整備だからということではない。そもそも、子どもを産みたくないと55%以上の若者たちが思っているのだ。どんなに経済的に余裕があっても、育児環境が整えられても、若者たちが子どもを産もうとしないのでは、少子化対策は無駄になる。どうして若者たちは子どもを産まないのか。それは自分自身が、心から十分な幸福感を味わうような子育てをされなかったからである。だから、自分と同じように不幸感を持つ子どもを、この世に送り出したくないと思うのは当然だ。

 そんなことはない、十二分に幸福な思いをさせて育てて来た筈だと思う両親は多いかもしれない。また、愛情をたっぷりと注いで育てたと認識している親は少なくない。それは、あくまでも親の感じ方であって子どもの感じ方は別である。愛情をたっぷりと注いできたと思っているのは、無条件の愛ではなくて条件付きの愛である。多くの子どもたちは、親にあまりにも支配され干渉され過ぎて、自分らしく自由に生きられず、生きづらいと感じていたのではなかろうか。そして、自分のことをまるごと愛することが出来なくなったのである。

 自分のことをまるごと愛せる人間でなければ、他人を心から愛することが出来ない。その証拠に非婚化が進んでいて、若い世代の離婚も急激に進んでいる。そもそも恋愛も出来ない若者なのだから、結婚も出産も無理なのだ。どんな自分でも大好きだと言える、絶対的な自己肯定感が育っていないのである。ましてや、自分の両親の結婚生活が幸福だと感じられないのだから、結婚したいと思わないのは当然である。特に、母親が家事や育児に1人で苦労していた姿を間近に見ていた娘が、あんな苦しみを味わいたくないと思うのは当たり前だ。

 ましてや、自己中で身勝手で妻に対する思いやりのかけらもないような横暴な父親の言動を身近に見ていた娘が、男性に対して恋愛感情さえも湧かないのは当然ではなかろうか。さらに、母親がまるごとありのままに父親から愛されて満たされていなければ、我が子を無条件で愛することは難しい。子どもはありのままにまるごと愛されなければ、絶対的な自己肯定感が確立されないであろう。自尊感情が根底にあってこそ、自分をまるごと愛せるし、相手をありのままに愛せる。非婚化や少子化が起きている根底には、自己肯定感が欠如した若者が増えていることが影響しているのは間違いない。

 非婚化や少子化が若者たちの間で急激に進んでいるのは、経済的な理由や環境のせいではなく、若者たち自身の自己肯定感が育っていないからである。それは学校教育のせいではなく、家庭教育が間違っているからである。行政の責任ではないとは言いながら、価値観や思想の教育を怠ってきた学校教育にもその責任の一端はあるとも言える。子どもたちに正しく豊かな母性愛と父性愛を注ぐ家庭教育をしないと、非婚化と少子化が益々進んでしまうであろう。日本という国家の存亡に関わる重要課題なのに、その原因を正しく把握していないというのは困ったものである。行政を担う政治家と行政職は、正しい見識を持ってほしいものである。

佐藤初女さんが人々を癒せた訳

 天国に召されてしまった森のイスキアの佐藤初女さんは、数多くの病める人々を癒した。こんなにも多くの人々の悩み苦しみを聞いて、そっと寄り添い勇気と元気を与えてくれた人は他にいない。どうして、佐藤初女さんは、どうしてこんなにも多くの人々の心身を癒せたのであろうか。その訳は、佐藤初女さんが専門家でなかったからだと言えば、それはおかしいと思う人がいるかもしれない。心身の病気になった人を治せるのは、その道の専門家にしか出来ないと思うであろう。でも、初女さんは専門家でなかった故に癒せたのである。

 どうして、人々の心身を癒すことが出来たのかと言うと、初女さんは医療の専門家じゃないから、診断や分析をしなかったし、治そうとしなかったからである。医療の専門家というのは、まず患者に対する問診や検査をして、分析して診断する。その診断に基づき診療計画を立てて、最善の投薬や治療をする。メンタルの疾患であれば、投薬だけでなく、カウンセリングや精神療法、各種療法を駆使して患者を治すのである。患者の精神を健全にしようとして、ドクターはカウンセラーやセラピストと協力しながら、治療をするのである。

 初女さんは、森のイスキアを訪れる心身を病んだ方々を、無理に治そうとはしなかったのである。勿論、医療の専門家でない初女さんだから、精神分析やカウンセリングもしなかったし、診断をする筈もなかった。治療計画なんて立てようもないし、実際に治療をしようともしなかったのである。それなのに、森のイスキアを訪れた多くのクライアントは、心身を癒されて元気になり、社会に復帰していったのである。初女さんは、クライアントに寄り添い、ただ話を聞くだけで無理に問い質したり助言をしたりすることはなかったのである。

 佐藤初女さんがクライアントの心身を癒して、勇気と元気を引き出せたのは、奇跡のおむすびや心の籠った食事のお陰だと思っている人が多い。確かに、それもひとつの重要な要因ではあるものの、単なるツールに過ぎない。同じようなおむすびや料理を提供したとしても、初女さんという存在がなければ、あれだけ多くのクライアントを元気にすることは出来なかったであろう。それだけ初女さんという存在は大きかったのである。彼女は、科学の専門家でもないのに、人体と精神の科学的な仕組みを上手に活用していたのである。

 どういうことかというと、まずは人体や精神がひとつのシステムだということを、初女さんは認識していたとしか思えないのである。人体は一つの全体であり、その人体を構成する要素どうしのネットワークがある。このネットワークシステムは、各々の構成要素どうしが『関係性』を持っており、それ故に『自己組織化』の働きがあるし、オートポイエーシス(自己産生)の機能を発揮できる。つまり、人間という生き物はひとつの完全なるシステムであり、このシステムのネットワークがエラーを起こして、心身の病気が起きるのである。

 そして、関係性が劣化したりお互いの互恵的つながりが破綻をしたりしてしまうと、自己組織化が働かず、自己成長や自己進化が止まってしまうだけでなく、後退してしまうのである。これが心身の病気という状態である。こうなってしまった人間に、治そうとしてこうしなさいああしなさいと指示をしたり強要したりすると、自己組織化が阻害され、さらに悪化してしまうのである。診断をして分析をして原因を特定して、その原因を無理やりに外的な力でつぶそうとすると、症状が改善することはないし、別の症状さえ起きてしまうのである。

 佐藤初女さんは、そのことを直感的・経験的に知っていたからこそ、クライアントの話に耳を傾け共感するだけだったのである。そして、心の籠った食事を提供してクライアントとの関係性を深めることに傾注したのである。クライアントが例え間違った考えを持ち誤った行動をしていても、その誤謬を指摘することも直させることもしなかった。ただ、クライアントが自分で気づき自ら治す力があるということを見抜き、信頼したのである。そして、見事にクライアントは自らを癒すことができたのである。自らの病気を自らの力で治した経験がある初女さんだからこそ可能なのだ。第二第三の佐藤初女さんが出てくれることを祈るだけである。

※イスキアの郷しらかわでは、佐藤初女さんを目指そうとする方々をサポートしています。どうやって、佐藤初女さんが多くの人々を癒すことが出来たのか、佐藤初女さんのような活動をするには、どうすれば良いのかの講義と研修を開催しています。極めて科学的な根拠を示しながら、納得の行くまで説明をしています。システム思考、オープンダイアローグ、ナラティブアプローチなどの最新の科学的な療法と、最新医学のポリヴェーガル理論なども伝えています。佐藤初女さんは、そういった最新の療法を誰にも習いもせず、自然と実施していました。問い合わせ・申し込みのフォームから申し込みください。直接、お電話をいただいても結構です。(プロフィールの名刺に電話番号とLINEアカウントが記載されています)