君が心をくれたから

フジTV系列で放映している月9の今度の新ドラマは、『君が心をくれたから』というシリアスな恋愛物語である。永野芽郁と山田裕貴が主演する青春ドラマで、若者向けの物語だと思われるが、初回を見た限りではなかなか良くできた脚本である。ヒロインは母親から虐待を受けて育った愛着障害の女性で、強烈な自己否定感に苦しんでいる。男性の主人公は、色覚障害者の花火師見習いで、厳格な父親から一人前として認められていない。どちらの二人とも、生きづらさを抱えている現代の若者を象徴しているような青春ドラマだ。

ヒロインの女性は、母親から受けた虐待を受けた体験が、強烈なトラウマとして残っていて、今でもフラッシュバックして苦しめている。パティシエになりたいと都会に出て修行を積んでいたが、ミスを繰り返してはどこの店でも挫折を繰り返して、心が折れてしまっている。それが奇跡のような出来事を通して、自分自身を取り戻すというファンタジー物語らしいが、2回目以降どのように進展していくのか楽しみである。そして、しばらくぶりでTV主題歌を担当するのが宇多田ヒカルで、書き下ろしの珠玉のバラードである。

毒親からの虐待によってトラウマ化してしまい、大人になってもまだ苦しんでいる人は少なくない。乳幼児期から虐待やネグレクトを何度も繰り返して受けて育った子どもは、殆どが愛着障害を抱えることになる。そして、何度も心的外傷を受けることにより、複雑性PTSDという難治性の精神疾患を抱えてしまう。そして、この疾患を抱えてしまうと、どういう訳か自閉症スペクトラム障害(ASD)という発達障害を二次的症状として起こしてしまう。このドラマで描かれているヒロインもまた、同じような疾患と障害を抱えている。

このドラマの脚本家は、どうしてこのような精神疾患のことを知ったのか不思議だが、誰か知っているモデルがいたのかもしれない。見事な脚本だと思う。現代は、障害者に対してある意味冷たくて残酷な部分がある。発達障害の子どもに対して、学校でいじめをしたり無視をしたりする心無い子どもがいる。また、職場においても発達障害者に対して、まるでゲームを楽しんでいるかのようにパワハラやモラハラを仕掛けるバカ社員や上司がいる。障害者が生きづらい世の中である。このドラマは、このような社会の闇をも描いている。

愛着障害を抱えることで強烈な自己否定感を持ってしまい、複雑性PTSDになりASDという発達障害を起こしてしまうと、非常に治りにくい。医学的アプローチでは、治すことが極めて困難である。根底に愛着障害があることから、傷付いて歪んだ愛着を癒すことでしか心を癒せないからである。ましてや複雑性PTSDは、通常のカウンセリングによるトラウマ暴露療法をしてしまうと、逆に症状を深刻化しかねない。精神分析をして本人に原因を軽率に伝えてしまうと、自分を益々否定してしまい症状が悪化しかねない難しさがある。

毒親からの虐待やネグレクトを受けて育ち、複雑性PTSDという難治性の精神疾患を抱えてしまった人を、唯一癒すことが出来る方法がある。無条件の愛である母性愛を受けずに育って傷付いた愛着を抱える人を癒せるのは、あるがままにまるごと愛してくれる存在しかない。勿論、普通の医療機関や障害者サポート施設では無理だ。何故かと言うと、自分だけを愛してほしいと思う利用者に、無条件の愛を独占して注ぐことは不可能だからだ。けっして揺らぐことのない愛と絆を提供してくれる、絶対的な安全基地が必要なのである。

臨時的ではあったとしても、誰しもこの絶対的な安全基地になれる訳ではない。自己マスタリーを実現していて、豊かなホスピタリティーが発揮できて、メンタリーゼーション能力に長けている人物である。ましてや、愛着障害を抱えている利用者は『試し行動』をして、支援者が自分を見捨てないかどうかを、わざと嫌われる言動を繰り返し試すのである。こういった試し行動にも揺るがず、まるごとありのままに利用者を愛し続けられる支援者なんて、そうざらには居ないであろう。君が心をくれたからというドラマが、どうやってお互いの傷付いた心を癒していくのか注目したい。

※愛着障害を抱えた様々な心身の不調を抱えていた方々の安全基地として機能して、心を癒して差し上げていたのが、今は亡き森のイスキアの佐藤初女さんです。彼女のようになりたいと思う方々は多いのですが、それだけの資質と能力、そして人間性と哲学を兼ね備える人は、残念ながら居ません。佐藤初女さんに近づきたいという高い志を持った方を、私は支援しております。

何故女性だけが韓流ドラマにはまるのか

 女性は韓流ドラマが大好きである。男性でも韓流ドラマが好きだという人がいるが、ごくまれである。韓流ドラマにはまっているという男性はあまりいないが、女性は韓流ドラマにはまりやすい。一度韓流ドラマにはまってしまうと、ずっとはまり続けることが多い。次から次へと韓流ドラマをエアチェックしまくって、連続ドラマを見続けてしまう。どうして、韓流ドラマにはまるのは女性だけなのだろうか。そこには、何かの法則らしきものがあるのだろうか。還流ドラマ好きが高じて、韓国に旅行する女性も多いと聞く。

 日本の連続ドラマは、殆どが10話で完了する。大河ドラマや朝ドラ以外のドラマは、10話完結のドラマであるが、韓国で作られるドラマは30話~50話完結という長期間に渡る連続ドラマが実に多い。つまり1年間、または半年間に渡り放映されるのである。それも15分間や30分ではなくて、一話が1時間や1時間半という長さの連続ドラマなのである。そんな長いドラマを飽きもせず見られるのは、やはり女性特有の集中力のなせるわざなのかもしれない。連続ドラマに集中できないのは、男性特有の飽きっぽさかもしれない。

 それにしても、女性だけがそんな韓流ドラマにはまるのは、他にも理由があるのではないかと思われる。それは、韓流ドラマで描かれるのは恋愛ストーリーだからということも挙げられる。歴史ものにしても社会派ドラマにしても、その伏線として恋愛が必ずと言っていいほど描かれる。どちらかというと、恋愛が主でその脇役として社会的テーマや史実が盛り込まれているといっても過言ではない。あまりにも恋愛の部分が多いので、日本の男性は飽きやすいが、日本の女性にとってはそこが魅力なのではないかと推測される。

 何故、韓流ドラマに女性だけがはまってしまうのかを、心理学的にもっと詳しく考察してみたい。韓流ドラマを男性が見ていて詰まらないと思うのか、または飽きてしまうのかを先ずは明らかにするとしよう。韓流ドラマは、何となく結末を予想できるケースが多い。男性の脳は、どちらかというと合理性を追求しやすいし、論理的な考察をしがちなのである。韓流ドラマは実際にはあり得ないような設定が多いし、強引な展開をさせてしまうことが多い。つまり、男性は現実とあまりにもかけ離れた筋書きに嘘っぽさを感じて、感情移入できない。

 一方、女性の脳は、どちらかというと感情的な部分を大切にするし、ロマンチックな展開を求める傾向にある。言い換えると、韓流ドラマに自分では果たすことのできない夢を託しているのではなかろうか。自分の現実があまりにも夢とかけ離れているので、韓流ドラマの世界においてだけでも、理想を実現した気分を味わいたいのではないかと思うのである。韓流ドラマにはまる女性は、リアルの世界において果たせないロマンを韓流ドラマの世界で果たした気分になっているような気がする。つまり、女性の共感力が高いので、韓流ドラマに感情移入が可能なのだ。

 韓国の事情はよく知らないが、どのドラマを観るかという選択肢は女性が握っているのではあるまいか。そして、韓流ドラマは女性の視聴者をかなり意識して作成されているように思える。台詞やストーリー展開が、あまりにも女性が好みそうな作りになっている。そして、日本でも女性向けに作られた韓流ドラマなのだから、女性が大好きになるのであろう。男性にしてみると、強引でご都合主義で展開されるストーリーにリアリティを感じないものだから、韓流ドラマが好きになれないのだと思われる。

 日本人の高齢男性は、時代劇をこよなく愛する。水戸黄門や大岡越前のような勧善懲悪ものが大好きだ。心理学的に言うと、結末が分かっていて悪がやっつけられる展開が、安心して観ていられるのだろう。日本人の若い男性は、このような結末が予想できる時代劇を好まない。心理学的に考察すると、高齢男性は不安から保守的になっているし、変化を好まないのである。韓流ドラマにも、保守的で大胆な変化をしない傾向がある。日本の若い女性も中高年の女性も、自分でも気付かない強い不安感を持っていて、観ていて安心できる韓流ドラマにはまるのかもしれない。『不安の時代』が韓流ドラマ人気を支えているとも言える。

僕らは奇跡でできている

一昨日から放映開始された『僕らは奇跡でできている』が実に面白い。関西テレビが作成したTVドラマであるが、とてもよく出来た物語である。午後9時からのゴールデンタイムの時間に民放テレビの初主演だそうだが、高橋一生という役者はどんな役をしても、奥行きの深い演技を見せてくれる。一生ファンにとってはたまらない魅力を感じることだろう。まだ初回なのでよく解らないが、明らかに主人公は発達障害かもしくは自閉症スペクトラムだと思われる。グッドドクターもそうだったが、フジ系列はなかなかやるものだ。

京都大学大学院卒業の主人公は、動物行動学の大学講師をしている。発達障害であるが故に、頓珍漢な会話や行動をして周りの人々を振り回す。歯に衣を着せぬ言動は、時には相手の痛いところをえぐり抜く。しかるに、その言動がやがて相手がしがみついている古くて低劣な価値観を壊して、新しくて高潔な価値観へといざなう。グッドドクターというTVドラマが描きたかったテーマと似通っている。もう一人発達障害であろう子どもが登場して、高橋一生演じる主人公と心を交わせる。お互いに成長する姿も見せてくれるだろう。

この『僕らは奇跡でできている』というドラマは、これからどんな展開を見せるか楽しみである。このドラマでイソップ童話の『ウサギとカメ』の物語を題材に取り上げていた。カメが寝ているウサギに、どうして声をかけずに追い越して先にゴールしたのか?と問うシーンが印象的だ。高橋一生はこんなふうに答える。カメは勝ち負けなんてどうでもよく、ただひたすら前に進むことが楽しいんだ。一方、ウサギは勝つことに執着していると。そして、榮倉奈々演じるヒロインに、「あなたはウサギだ」と言い放つ。榮倉奈々は、「自分はウサギではない」と反論するものの、自分の今までの行動に疑問を持つことになる。

発達障害や自閉症スペクトラムの方々が主人公として描かれるドラマは、これからも増えてくるに違いない。何故なら、現代の子どもたちの3割以上が発達障害だと言われているのである。当然、学校でも職場でも発達障害の方々との付き合いが出てくる。そのような発達障害の方々との交流において、自分たちよりも劣った存在として見下したりいじめたりするような社会であってはならない。ましてや、単に自分たちが支援すべき存在として、一方的にお世話するというような思いあがった気持ちで付き合うのも無礼である。

この『僕らは奇跡でできている』や『グッドドクター』などのTVドラマにより、彼らの素晴らしい能力や心の清らかさを素直に感じ取り、謙虚に自分の至らなさを気付かせてもらいたいものである。それが、彼らの『個性』を受容し、生かすことにもなろう。今まで多くの発達障害の方々と職場や地域で交流させてもらったが、多くの気付きや学びを彼らから受け取ってきた。そして、思いあがった自分や嫌らしい自分を叩きのめしてくれた。彼らがこの社会に存在している理由のひとつが、我々に大切な何かを教示してくれる為ではないだろうか。お互いに自己成長するには、違う個性を持った人との出会いが必要だ。

僕らは奇跡でできているというドラマの題名から類推するに、これから自然界における我々人間も含めた生き物が、この地球(宇宙)によって奇跡的に生かされているということもテーマになるのかとも思う。出来たら、最先端の物理学や分子生物学の観点からも、描いてほしいものだと期待している。特に、動物行動学という最先端の学問であれば、生物界におけるシステム論として描くのはどうだろうか。すべての生き物はシステムによって生かされているし、我々人間もシステムに基づいて生命が維持されている。当然、奇跡とも言えるような自己組織化やオートポイエーシスによって存在しているのである。

このドラマに原作はなく、橋部敦子さんのオリジナル脚本だという。どんな展開になるのか楽しみであるが、単なるラプストリーではなさそうである。この世界では人間も含めたすべての万物の存在そのものが奇跡であるし、すべてがある一定の法則によってその存在が認められている。そして、現代はその一定の法則に反するような生き方によって様々な問題が表れている。その法則の中の最も重要なものが、全体最適であり関係性である。障害者の人たちも含めた人類すべてが、幸福で豊かな社会を築くため、お互いに豊かな関係性を保ち支え合って生きることが肝要である。どこかの大統領や首相のように、自分たちだけの部分最適や個別最適を目指すことの愚かさも、このドラマで描いてほしいものである。僕たちは奇跡でできているというドラマから目を離せない。

「万引き家族」が示す家族のあり方

「万引き家族」という映画が、カンヌ映画祭で最優秀のパルムドール賞を受賞したのは至極当然であると思った。なかなか鑑賞する機会がなかったが、ようやく昨日観る機会を得たのだが、実に素晴らしい映画だった。是枝監督は、家族の本来のあり方について観る者に考えさせる映画を作り、世に問い続けている。今回の万引き家族という映画も、家族について深く考えさせられる映画だった。万引きというセンセーショナルな題材を扱うが故に、賛否両論があるようだが、間違いなく世界に誇る傑作だと確信した。

福山雅治が演じた血縁のない親子愛の映画「そして父になる」、そして、三姉妹家族とそこに加わる血のつながらない妹との交流を描いた「海街diary」と、家族のあり方を是枝監督は描き続けている。何故も、こんなにも是枝監督は『家族』を描き続けているのであろうか。それは想像するに、現代の家族というコミュニティが家族本来の機能を失っていて、機能不全家族に陥ってしまっているからに他ならない。そして、その悲しい実態を巧妙に伏線として描きながら、血のつながらない家族の深い絆を描いて、あるべき家族像を示そうとしているのではないだろうか。

この映画は単なる貧困を描いている訳ではない。確かに底辺の生活者を描いてはいるものの、生活苦のために万引きをしている悲惨な家族がいるなんてことを社会に訴えたい訳でもないし、政治の無策を糾弾しているのでもない。そんなふうに感想を述べている映画評価もあるが、まったくの勘違いである。まるっきり想像力の働かない人たちである。是枝監督は貧困家庭を題材にしているが、万引きをするしかないほど貧しいが故に『絆』が強まっている家族を描き、経済的に豊かでありながら関係性の貧しい家族をそれぞれに対比させているのである。

この主人公たちの家族は、血縁がまるっきりない関係である。しかし、血が繋がっていないからこそ、深い絆で結ばれている。伏線として、実際には血が繋がっていると思われる三家族が描かれている。ある風俗店で働く若い女性の育った家庭は、裕福であるがその家族の関係性は希薄化していて、その若い女性は愛の感じられない家庭を捨ててしまっている。その風俗店にやって来る若い男性は発音障害を持っているが、明らかに愛着障害と想像させるから、機能不全家庭に育ったのであろう。ある虐待を受けている少女の家庭は、母親もまた夫から暴力を受けていて、家庭内暴力の機能不全家族である。

是枝監督は、現代の家族というコミュニティがあまりにも機能不全に陥っていて、その原因が関係性の希薄化にあると認識していると思われる。何故関係性が劣悪化しているかというと、血縁があるからこそ家族どうしが、お互いの生き方に介入し過ぎているからではないだろうか。こうなってほしいという気持ちが強すぎて、相手を支配しようとしている。一人の人間としての尊厳を認めないから、関係性が悪化しているのである。夫婦間や親子間で、暴力で相手を支配する愚かさを描いている。関係性がなくなってしまっている機能不全家族と、お互いの生き方に介入しない絆の深い家族の姿を対比させている。

貧しいが故に万引きする家族の関係性は、とても豊かであり温かい。血が繋がらないせいなのか、家族に何も求めない。けっして相手を支配しようとしないし制御しようともしない。愛を求めず、無償の愛を与えるだけである。だからこそ、相手を愛しく思い合い、けっして離れようとしない。そして、家族の秘密を共有して他言しないと誓い合うのである。さらには、血のつながらない家族を守るために自己犠牲も厭わない姿は、感動を呼び込むのである。ここに理想の愛が溢れる家族の姿があるのだ。

この家族の関係性を豊かにしているものは何かというと、共通言語であろう。この理想の家族はお互いの話を傾聴し、気持ちを理解しようと努力している。お互いに心を開いた本音での対話が繰り広げられる。だからこそ、家族どうしが解りあえるし、お互いの信頼関係が生まれるのである。是枝監督が描き出しているこの家族の豊かな関係性を示す名シーンがある。花火大会の花火を家族全員が軒下から見上げるシーンである。実際に花火が見えないのにも関わらず、皆が同じ方向を見上げている。その笑顔が素晴らしい。家族というのは、本来こういうものなんだろうなとほのぼのとさせられる。機能不全家族を癒すのは、共通言語による開かれた対話であり共有体験であると、観る人に気付かせてくれる素晴らしい映画である。

落語「厩火事」にみる夫婦愛

古典落語に「厩家事」という、夫婦愛を描いた名作がある。夫婦愛とはこうありたいものだという噺ではあるが、ユーモアを交えたほのぼのとした物語に仕立ててある。妻を愛する気持ちが夫にあるのか確認したいという人は参考になるだろうし、夫とはこういう時こそ妻への愛情が試されるということを心得るべきであろう。

髪結いをしているお崎が、仲人のだんなのところへ相談にやってくる。亭主の八五郎とは所帯を持ってかれこれ八年になるが、このところ毎日夫婦喧嘩に明け暮れている。お崎は八五郎よりも七つも違う姉さん女房である。何故二人が夫婦喧嘩を繰り返しているかというと、この亭主は同じ髪結いで、今でいう共稼ぎなのだが、近ごろ酒びたりで仕事もろくろくせずに、遊びまわっているという。女房一人が苦労して働いているというのに、仕事が長引いて少しでも帰りが遅いと、変にかんぐって当たり散らして暴力まで奮い、始末に負えないと訴える。

お崎はそんなだらしない亭主に対して、もういいかげん愛想が尽きたから別れたいというのだ。仲人であるだんなが「女房に稼がせて自分一人酒をのんで遊んでいるような奴は、しょせん縁がないんだから別れちまえ」と突き放すと、お崎はうって変わって、そんなに言わなくてもいいじゃありませんかと、亭主をかばい始めた。あんな優しい人は他にはいないと、逆にノロケまで言いだす始末。呆れただんなは、それじゃ一つ、八五郎の料簡を試してみろと、参考に二つの話を聞かせる。

昔、唐(もろこし)に孔子(こうし)という偉い学者がいた。その孔子が旅に出ている間に、廐から火が出て、可愛がっていた白馬が焼け死んでしまった。どんなお叱りを受けるかと青くなった使用人一同に、帰った孔子は、馬のことは一言も聞かず、「家の者に、怪我はなかったか?」と聞いたという。これほど家来を大切に思って下さるご主人のためなら命は要らないと、家来たちは感服したという話。

麹町(こうじまち)に、さる殿さまがいた。お崎「猿の殿さまで?」だんな「猿じゃねえ。名前が言えないから、さる殿さまだ」その方が大変瀬戸物に凝って、それを客に出して見せるのに、奥様が運ぶ途中、あやまって二階から足をすべらせた。殿さま、真っ青になって、「皿は大丈夫か。皿皿皿・・・」と、息もつかず三十六回。あとで奥さまの実家から、妻よりも皿を大切にするような不人情な家に、かわいい娘はやっておかれないと離縁され、一生寂しく独身で暮らしたという話。

だんな「おまえの亭主が孔子さまか麹町か、何か大切にしている物をわざと壊して確かめてみな。麹町の方なら望みはねえから別れておしまい」帰宅したお崎、たまたま亭主が、さる殿さまよりはだいぶ安物だが、同じく瀬戸物の茶碗を大事にしているのを思い出す。台所の踏み板をわざとずらして置いて、帰宅した亭主の前で、それを持ち出すと、台所で踏み板を踏み込んでわざと転ぶ。それを見た八五郎「……おい、だから言わねえこっちゃねえ。どこも、けがはなかったか?」お崎「まあうれしい。猿じゃなくてモロコシだよ」八五郎「なんでえ、そのモロコシてえのは」お崎「おまえさん、やっぱりあたしの体が大事かい?」八五郎「当たり前よ。おめえが手にけがでもしてみねえ、あしたっから、遊んでて酒を飲めねえ」

この噺は夫婦愛の在り方を、深く考えさせてくれる。さて、この噺を聞いて、世の中の夫たる者、どんなふうに思うであろうか。この八五郎という亭主は、結局は自分中心じゃないか。自分が楽をして酒を飲みたいから、妻に対していたわるような言葉を発しただけじゃないか。なんのことはない、この亭主はもろこしの孔子ではなくて、やはり麹町の殿様と同じだな、と思うのならば、この夫は亭主失格だと言わざるを得ない。こんなふうに思う亭主ならば、妻への深い愛情はないから即刻別離したほうがよい。

一方、この噺を聞いて、自分の夫がこんなふうに解釈したのならば、亭主は妻への愛情があると思って良いだろう。この八五郎は、本当は女房のお崎の身体のことを心から心配するほど愛しているのだが、女房のお崎から「あたしの体のことを心配してくれるのかい」と言われて、あまりにも図星に言われ恥ずかしくて、照れ隠しに「遊んで酒を飲めねえ」と言ったのだと解釈するような亭主ならば、妻を愛しているに違いない。何故ならば、心理学的に分析すると、人間は物語の主人公に対して、自分の心情を投影しやすいものなのである。試しに、この噺を夫に聞かせて、どう解釈するのか聞いてみるとよい。でも、自分の夫が前者の解釈をするかもしれないのではと、怖くて聞けないかもしれない(苦笑)

運慶展(国立博物館)

国立博物館で運慶展が開催されていました。なかなか行けなくてようやく鑑賞することができました。運慶作の仏像がこんなにも多く集められたのは、最初で最後かと思われます。

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国宝 願成就院所蔵 毘沙門天立像

美術鑑定の技術も向上して、X線撮影によって仏像内部の状況も鮮明に解明することが出来て、運慶作と言っても間違いないという仏像が増えています。

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重要文化財 浄楽寺所蔵 阿弥陀如来三尊像

運慶がどうしてこんなにも人気があるのかといいますと、仏師としてのその技術の確かさもありますが、仏像そのものの魅力だと思われます。なにしろ、仏像の表情が独特でありまして、なんとも言えないリアリティーを感じます。まるで、生きているかのような生き生きとした表情は見る者を圧倒します。さらには、立像の肢体全体の姿勢が魅力的です。肢体が微妙に傾いて、下肢がその傾きをいかにも支えているように変化しています。そのバランスが絶妙に取れていて、抜群の安定性を感じさせます。

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重要文化財 浄楽寺所蔵 毘沙門天立像

運慶の仏像の魅力は、なんと言っても微妙な顔の表情だと思います。なんとも言えない憂いを含んだ表情、または悲しみや慈しみを心の奥底に湛え、見る者の共感を取り込むような、作像する際の感性の発揮はすごいと思います。

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国宝 興福寺所蔵 無著菩薩像

仏像というのは、私たち見る者の心を反映すると言われています。ですから、見る者の心の在りようによってどのようにも変化するとも言えます。悲しみを心に湛えている人は、悲しみの表情に見え、怒りの感情を我慢している人は、憤りの表情を見るようになります。そして、その感情を仏像がまるごと受け容れてくれて、共感するとともに癒してくれるのです。運慶作の仏像は、まさにそんな仏像だから、多くの人々を魅了しているのかもしれません。

 

 

『君の名は。』で描く量子力学の世界

新海誠の大ヒット作映画『君の名は。』がBDとDVDで発売され、販売とレンタルでも評判になっている。映画の公開当初は、面白くないと酷評する人と絶大な評価をする人で二極化していた。しかし、最初は映画の意図が解らなかった人も、その魅力を知ることになり、絶大な人気を博した。それが、今度はBDとDVDでも観られるようになり、また『君の名は。』ブームが再現したという。映画で2回鑑賞して大ファンになった自分も、また観て見たい誘惑にかられている。それだけ、この映画の魅力にはまってしまった一人でもある。映画のストーリーも良いし、この映画にベストマッチしている音楽も最高である。なにしろ、描いている世界観が実にいいのだ。

新海誠監督は、この映画で何を描きたかったのであろうか。映画を観た時に、これは量子力学の世界を描いていると直感した。新海監督もある雑誌のインタビューで、まさしく量子力学の世界を描こうとしたと明かしている。単なるラブストーリーを描いたのではなく、時間軸と次元の無限性をも表現したかったと見るべきなのかもしれない。この現実は実体ではなくて、すべては「むすび」という関係性で成り立っているということ、さらには我々が実体だと思っているこの現実や過去もまた私たちの意識が作り出しているに過ぎないということを言いたかったと思われる。人間や宇宙の根源に関わる問題を、この映画で描き出そうとしたのではないだろうか。

この映画のテーマは「むすび」である。このむすびというのは、漢字表記では産霊(むすび)となる。誕生や生成、合体や統合も意味するし、出会いも含まれるであろう。巫女である祖母の一葉は、むすびは出会いや別れも意味すると説明している。彗星が分れたのもむすびであるし、あらたに産まれた隕石もまたむすびなのであろう。この物語の地方では黄昏時のことを「かたわれどき」と呼んでいる。たそがれとは「誰そ彼」から出た言葉であり、薄暗闇で誰か解らないという意味だと言われている。しかし実は「自分と他人の区別がつかない時間」をも意味しているのではあるまいか。元々、我々は『自他一如』であり、相手と自分は一つである。この「かたわれどき」に私たちは他人との区別がなくなり、元々ひとつであったものが再び交わるひとときを、このように表しているように思う。

「むすび」とは、関係性とも読み解くことが出来ると思われる。量子物理学においては、素粒子どうしの関係性によって、物体が成り立つし、人間の意識によってそれが変化するということが実験によって確認されている。宇宙そのものも、システムという関係性により成り立っているし、我々の社会もまた関係性により成立していて、全体最適を目指している。関係性がなければ、我々人間そのものが、この宇宙には存在しえない。したがって、この映画でいう「むすび」が、すべての生き物だけでなく物質の根源だと捉えることができよう。新海誠は、この映画で「むすび」という言葉を使って、我々に関係性の重要性を示したかったのではあるまいか。

現代は、関係性が希薄化していると言える。身勝手で自己中心的な人間が増えているせいか、自分の損得を考えるあまり、他人への思いやりにかけるきらいがある。自分の利益だけを考え、利他の心が忘れ去られている。当然、相手との関係性は悪化して、家族、会社、地域、国家などのコミュニティが崩壊しつつあると言われている。人々は人間本来の生き方である、良好な関係性と全体最適性を求める人生観を忘れ去っているように思える。しかし、人間の潜在意識は関係性の大切さをけっして忘れていない。だからこそ、深層無意識においては、他人との関係性を求めているのである。関係性の大切さを切々と説いているこの「君の名は。」という映画に、人々はこんなにも熱狂するのであろう。

この世界は多元宇宙によって複雑にからみ合っていて、時空間が交わり合うことで、質量を持たない素粒子どうしが、時空の違う世界に存在するであろう質量を保証する素粒子との関係性によって物質が存在するのではないかと考えられている。前世での出会いは、今世でもまた出会い、来世でも時空間を超えて出会う。それは、「むすび」という関係性によって保証されていると言える。映画では、巨大隕石によって街と人々が消滅してしまった過去が、書き換えられるというあり得ない世界も描かれていた。このことは、私たちの悲しくて辛い過去さえも、実は実体ではなく我々の意識が作り出したものだから、変容させられるということを表現しているのである。我々の集合意識が作り出したこの世界の現実は、私たちの意識によって、過去であっても変化していくということだ。我々の集合意識は常に世界全体の幸福と平和を願うことこそが求められるということである。

ごめん、愛してる

「ごめん、愛してる」は韓流ドラマのリメイク版らしい。反韓感情が盛り上がっているこの時期ということもあって、視聴率はいまいちらしいが、実に感動的な人間ドラマに仕上がっている。韓流ドラマらしくご都合主義的な筋書きではあるが、純愛や家族愛をけれんみなく描いていて、好感が持てる。何よりも素晴らしいのは、単なる恋愛や家族の絆をテーマにした物語ではなく、人間哲学を主題にしているという点である。主人公がドラマの中で自問自答をする「俺は何の為、誰の為に生まれてきたんだ?」という台詞に共感を得る。人間にとって永遠のテーマである、自分が生まれてきた意味や生きる目的を熱く語るドラマには、なかなかお目にかかれないからである。

 

今時の若者は、自分の生まれてきた意味や生きる目的について深く考える機会に恵まれないこともあり、避けて通ってきたのではなかろうか。深く考え過ぎて悩み苦しみ、メンタルを病んでしまう若者にもたまに出会うが、こういう難しいテーマよりも面白おかしく生きたいと考える若者のほうが多いように思う。そんな七面倒なことを考えるより、ゲームに興じて、お笑いやバラエティ番組にうつつを抜かしていたほうが、人生は楽しいと考える輩が多いことだろう。人生の目的についてブログを書くと、人生の目的なんてなくても生きられると平気でコメントを入れてくる愚か者がいる。確かに生きる目的なんてなくても、生きられるのは当たり前である。

 

生きる目的のある人生と、目的のない人生ではとんでなく大きな違いが出てくることを知らないから、そんな馬鹿げたことを平気で言うのであろう。実に情けないし、可哀想なことである。明治維新よりも前に生きた若者たちは、生きる目的について深く考える機会を持てたし、悩み苦しんできた。本来、青春とか思春期というのは、そういうことを悩み苦しむ時期なのである。日本人は、生きる目的を持たないから、実に薄っぺらな人間に成り下がってしまった。考えてみるがいい、目的のない人生というのは、海図のない航路に船出したようなものである。行先がないのだからいずれ迷い、難破するのは当然である。

 

「ごめん、愛してる」の主人公リョウは、自分を産み捨てた実の母親を憎み、仕返しをしようと企み、実母の家族に近づく。憎しみ恨みで凝り固まったリョウは生きる目的もないから、マフィアという裏社会で暴力的で刹那的な人生を歩んできた。そして、実の母親に名乗れず蔑まれながらも、自分の母と弟との関わりあいを持つうちに、自分の生まれてきた本当の意味を知ることになる。自分の命を捨てても、誰かの為に役に立つ喜びを知るのである。自分の幸福や豊かさの為だけに生きることの愚かさ、そして悲しさをも認識するのである。

 

主人公リョウが面倒を見ている知的障害の母とその子が出てくる。池脇千鶴がその母親を好演している。実に純粋な人間であり、嫌みなところがこれっぽっちもない。自分のことよりも、周りの人々の幸福を願い、他人のために尽くすことを喜びとしている。こういうピュアな心を持った人を見ると実に嬉しくなる。自分もこうありたいと強く思うが、出来ないもどかしさと恥ずかしさを感じる。主人公のリョウも、このような純粋な親子に出会ったことで、生まれてきた意味や何のために生きるのかということを考えるきっかけになった気がする。

 

次週はいよいよこのドラマは最終回を迎える。韓国では、冬ソナを超える視聴率だったという。儒教のお国柄ということもあり、こういう人間ドラマが好まれるのかもしれないが、韓国のテレビ界もなかなかやるではないか。主人公リョウが果たしてどんな結末を迎えるのか興味深いが、悲劇の主人公となるのは間違いないであろう。ただし、このドラマを単なるお涙頂戴の純愛ドラマとしてだけ見るのではなく、自分が生まれてきた意味や生きる目的を考えるきっかけにしてほしいと強く思う。自分が誰のために生きるのか、何のために生きるのかを教えてくれる素晴らしい物語に出会ったことを幸せに思いたい。