森のイスキアはビジネスにはそぐわない

 森のイスキアの佐藤初女さんに憧れて、自分も同じような活動をしたいと願っている人はとても多い。素晴らしいことだとは思うし、何とかその願いをかなえてあげたいと思ってサポートをしている。しかし、そのための研修や相談をさせてもらっているのであるが、何となく違和感を覚えることが多い。心身を病んだ人たちを救いたいという理念は素晴らしいのであるが、その活動に対する動機や想いというものに全面的に共感したいとは思わないのである。それは、森のイスキアをビジネスとして捉えている一面があるからである。

 人々を救うための社会貢献活動が、経営的にも担保されることで継続されるというメリットがあるのは当然である。だから、ビジネス面での採算が取れるというのは悪いことではない。しかし、森のイスキアの活動をビジネスとして成り立つように運営していくのは、極めて難しいのである。何故なら、佐藤初女さんのように自己犠牲の精神を発揮して人を救う活動を継続していくのは、採算などを考えたら絶対に不可能だと断言できるからだ。それぐらいに、森のイスキアはビジネスには不適なのである。

 ところが、森のイスキアの佐藤初女さんに憧れて活動を目指している人々は、何となくこの活動をビジネス的にも成功すると思い込んでいる節がある。だから、現在の勤務や経営活動を辞めてでも、森のイスキアの活動にシフトしたいと思うのではなかろうか。または、現在の仕事の傍らに森のイスキアを副業として、成り立たせようと考えるのかもしれない。佐藤初女さんの活動は、そんな生易しいものではない。自分の『いのち』を削るような覚悟で取り組んでいかなければならない活動、それが森のイスキアなのである。

 採算とか、損得、または利害を考慮して森のイスキアの活動をしたとしても、何の成果をも上げられる訳がない。よく目につくのは、佐藤初女さんのおむすびを広めたいからと、おむすびの講習会を盛んに開催している人達がいる。このおむすび講習会については、佐藤初女さんも苦々しく思っていたに違いない。ある時、佐藤初女さんに、おむすび講習会を開きたいけどいいですかと問い合わせた人がいたらしい。佐藤初女さんは、許可を出す立場にはないと大人の対応をしたのだが、「何のためにするの?」と不思議がっていたらしい。

 佐藤初女さんにとっておむすびは特別な意味を持っていたが、多くの人に食べてもらうとか世に広める事が目標ではなかった筈である。初女さんのおむすびは、ひとつの重要な癒しのツールではあったが、おむすびだけで人々を癒したわけではない。おむすびだけが世間で注目されて、おむすびによって奇跡を起こしていたというように誤解されていたのは、初女さんにとって不本意であったろう。ましてや、おむすびの握り方を学ぶことで多くの人々の心身を癒し救えるのではと期待させるような活動は望まなかった筈だ。

 初女さんの森のイスキアの活動を、ビジネスのひとつとして利用することは、初女さんは望まなかったに違いない。何故なら、初女さんは形而上学に基づいた理念を実践していたからである。おむすび講習会に参加する際に、どう考えてもあり得ない5,000円という参加費を徴収するやり方は、初女さんは許せなかったであろう。米や梅干しを持参してもらい、会場利用費だけを皆で負担するなら、せいぜい一人500円~1,000円で済む筈だ。この講習会で講師自身の収益を得るようなやり方は、形而上学としては認められないのだ。

 森のイスキアの活動について研修したいとやってくる方が、おしなべてその資格がないとは言いきれない。中には、自分のビジネスや生活を犠牲にしてでも、活動を開始したいと強い信念を持つ人もいる。そういう方には、生活にゆとりが出来た時、または活動の為の資金を充分に蓄えて、家族に迷惑をかけることなく活動に専念できるようになってからでも遅くないですよ、と優しく諭して励ましている。『いのち』を賭けて実践する活動であるからこそ、自分自身の心を整えてメンタライジング機能を習得してから活動してもらいたいのだ。中途半端な気持ちで取り組んでもらっても、人々を救えっこないのだから。

※今までは、研修・見学を希望する方々には無条件で、すべて受け入れてました。しかし、実際に研修をしてみて感じたのは、自分自身が癒されたくてやってくる人が多いという情けない事実です。自分自身の心が整っていないのに、他人の心を癒すことは絶対に無理なのです。ましてや、森のイスキアというブランドをビジネスに利用するのはもってのほかなのです。『いのち』を削る覚悟で、初女さんの活動を継承したいと思う方だけに、研修の受講をお奨めしています。

学歴と教養が高いほど毒親になる

 毒親と聞くと、虐待、暴力、ネグレクトをするような親というイメージが強い。確かに、このような行為を子どもに対して常時行うような親を毒親と呼ぶ。しかし、毒親はこういった親だけではない。愛情がたっぷりの普通の家庭で子どもを幸せそうに育てているような親が、子どもにとっては大変な毒親だというケースが少なくないのである。そんな恵まれた環境で育った子どもは、幸福な一生を送ると思われている。しかし、そんな家庭で育っても、強烈な生きづらさと傷付きやすさを抱えて、不幸な人生を歩む青少年が多いのである。

 勿論、すべての普通の家庭で毒親になる訳ではない。しかし、現代における普通の家庭において、意識していないのに毒親になってしまうケースが非常に多いことに驚く。それも、高学歴で教養があり、コミュニケーション力やイマジネーション力が高い親ほど毒親になってしまう確率が高くなる傾向がある。そして、そんな親に育てられた子どもは、小学生高学年、または思春期を迎える時期に、不登校やひきこもりになりやすい。中には、気分障害やパニック障害、PTSD、摂食障害、依存症などに苦しむ青少年が多くなっている。

 こういう毒親たちに共通しているのが、自分が毒親だということをまったく認識していないことである。そして、子どもたちも同じく自分の親が毒親だから苦しんでいるということを気付いていないのである。親子のどちらかが、毒親なんだと気付けば、変化したり反抗したりして乗り越えることも可能なのだが、まったく気付かないので生きづらさや傷付きやすさを抱えたままに人生を送ることになる。中には、この傷付きやすさやトラウマを抱えやすいことから複雑性PTSDになり、二次的症状として発達障害を抱えてしまうことも多い。

 この普通の家庭に生まれる毒親たちは、高学歴・高能力なので人生における成功者が多い。司法における判事・検事・弁護士、医師、教授、教師、経営者など経済的にも裕福な親が殆どである。そして、自分が人生の成功者たるが故に、子どもにも社会の勝者にさせたいのだと強く思うのであろう。子どもに高学歴を求め、特に著名校への進学と安定的な職業に就かせたいと願うのである。子どももまた、親の期待に応えようと頑張り過ぎて、それが重荷になって自滅してしまうことも少なくない。親の操り人形は、破滅しやすいのである。

 このごく普通の家庭における毒親は、子どもを支配したこともないし制御しようとしたこともないと言い張る。子どもに暴力や暴言で従わせようとしたことも一切ないと言い切る。確かに、世間一般で言うような毒親のような仕打ちを子どもにしたことはない。しかし、コミュニケーション力とイマジネーション力が高過ぎるが故に、子どもに対して必要以上に口出し手出しをしてしまうのである。つまり、過干渉と過介入である。一番悪いのが、先取りである。ついつい、転ばぬ先の杖を子どもに強いてしまうのである。

 子どもが自ら気付いて判断して決断し、実行して自ら責任を取るのを、親はじっと寄り添って口出し手出しをせず見守ることが、子育ての極意である。ところが、想像力の高い親はついつい先取りをしてしまう。子どもが自己組織化するのを待てず、次はこうするだよ、こう言いたいんだよね、このようにすると上手く行くんだったよね、と事ある度に助け船を出してしまう。それでは、主体性、自発性、自主性、責任性、進化性、自己犠牲性などの大事な自己組織性が身に付く筈がない。ましてや、我が子の優秀さを自慢し、やがて著名大学や立派な職業に就くんだと周りの人に言いふらして、子どもにプレッシャーをかけるのだ。

 子どもがどんな進路を目指すのか、どんな生き方をするのかは、子ども自身が決めるべきである。けっして親が子どもの進路を決めてはならない。無言の圧力をかけて、子どもに立派な職業に就くことを強いてはならない。自分と同じ道を歩くことを強要してはならない。教養が高くて高学歴の親ほど、子どもを社会における成功者にさせたいと強く思い、有形無形の圧力を掛け続けるのである。その圧力に屈して親の言うとおりの進路を目指す子どもは、思春期にその重さに押しつぶされるのである。メンタルを病んでしまうのは当然である。こういう毒親に育てられる不幸な子どもが急増している。

※イスキアの郷しらかわでは、こんな毒親に育てられてメンタルを病んで不登校・ひきこもりになってしまった数多くの青少年をサポートしてきました。殆どの親たちは自分が毒親だと気付いていません。子どもにそのことを伝えても、親の悪口を言われたと勘違いして反発します。共依存の関係になっているからです。だから、こういう親子を支援する際には、一切毒親だとは告げずに、時間をかけて当事者たちに気付いもらう努力を続けるだけなのです。気付いた親だけがこの地獄から抜け出せます

父性愛のような母性愛こそ危険

 父性愛と母性愛の適切な子どもへのかけ方についてのブログは何度も書いてきたが、未だに母性愛のかけ方について誤解をしているケースは少なくない。特に、父性愛的な母性愛を充分にかけ続けることが正しいのだと思い込んでいる母親が多いのは情けない。父性愛を根底にした母性愛は、とても危険だという認識はないようだ。だから、これだけ不登校やひきこもりが多いし、メンタル疾患で苦しむ青少年が多いのだ。少年たちの自殺も過去最高を更新している。この要因のひとつが、父性愛的な母性愛によるものであろう。

 父性愛のような母性愛とは、普通の家庭において愛情たっぷりに育てられたにも関わらず、子どもが強烈な生きづらさを抱えてしまうような愛情のかけ方である。または、絶対的な自尊感情や自己肯定感が育たず、傷付きやすい子どもに育ってしまう愛情のかけ方である。愛情不足とか虐待・ネグレクトによって、生きづらさや傷付きやすさを抱えてしまうと考える人が殆どであるが、実際はたっぷりと愛情がかけられたのに強烈な自己否定感を持ってしまう子どもがいる。それは、愛情のかけ方が過干渉や過介入の子育てだからである。

 過干渉や過介入の子育ては、親子共々にその異常さに気付かないことが多い。子ども自身が、親からたっぷりと愛情をかけられて育ったと思っているし、親も正しい育児をしたと思い込んでいる。ところが、子どもは思春期を迎える頃に生きづらさと傷付きやすさを抱えて、次第に社会への不適合を起こしてしまうのである。各種の依存症、パニック障害、うつなどの気分障害、PTSD、妄想性障害、摂食障害、統合失調症などの精神疾患になってしまうことが多い。中には、薬物依存や反社的行動を取ってしまうケースも少なくない。

 父性愛のような母性愛とはどういうものか、具体的にあげてみたい。父性愛とは条件付きの愛情と言って、しつけ、指導、良い子に育てようとする支配的・制御的な愛情と言える。時には、罰を加えたり褒美を与えたりして、親の望むように子どもを立派に育てる為の愛情と捉えられている。一方、母性愛とは無条件の愛と言われていて、『あるがままにまるごと我が子を愛する』愛情のことを言う。どんなことをしても許し受け容れて、我が子をありのままに愛する、慈悲・博愛・慈愛のような愛情を注ぐことである。

 父性愛が悪い訳ではない。父性愛だって必要である。例えば、危ないことを避けること、汚濁・不潔なものから遠ざける事、人を傷つけたり貶めたりするようなことを叱ることは必要である。挨拶・礼儀・片付け・掃除・清潔などの人間として最低限のマナー・エチケットは厳しく躾けなくてはならない。それ以外のことは、なるべく子どもが自ら気付き学び判断し決断し、自発的に行動できるようにそっと寄り添い見守ることが肝要である。だから、親は子どもに対して、手出し口出しを極力避けなくてはならないのだ。

 特に、子どもが思うであろう心情を先取りをして言ってはならないし、口に出したい言葉や行動したいことを先取りして言ってしまうことは、絶対にしてはならない。ましてや、子どもの行動がまどろっこしいと思い、ついつい親が肩代わりしてやってしまうことは絶対に避けるべきことである。こういうことをしてしまうと、子どもは自己組織化しない。つまり、自主性、自発性、主体性、責任性、進化性などが育たないし、絶対的自己肯定感が育まれないのだ。このような子どもは友達から仲間外れにされるだけでなく、虐めに遭ってしまう。

 虐待やネグレクトを経験してないから、子どもは愛着障害になんかならないと思うかもしれないが、過干渉や過介入、支配的・制御的子育てをされた子どもは、間違いなく愛着障害になってしまうのである。つまり、父性愛のような母性愛とは、この過干渉や過介入、支配的・制御的な愛情のことである。想像した以上に、このように育てられた子どもは多い。そして、メンタル疾患や各種の精神障害に苦しんでいるのは、こうやって育てられた青少年である。親子共にその養育の間違いに気付かないから、その苦しみから抜け出せないのである。このように父性愛のように母性愛を注ぐ親は、間違いなく『毒親』なのである。

※イスキアの郷しらかわの支援活動を長年してきましたが、その殆どのクライアントが父性愛のような母性愛で育てられた方々です。摂食障害、妄想性障害、うつ病、双極性障害、薬物依存、パニック障害、PTSD、C-PTSD、原因不明の疼痛、PMS、顎関節症、ASD、ADHD、などで苦しんでいる方々は、この父性愛的な母性愛で育児する「毒親」によって育てられたのです。この事実に気付いて、その支配・制御から離脱できた人だけが回復できるのです。

ゴルフの上達は量子力学的思考で実現

 ゴルフは非常に奥の深いスポーツであると言えよう。その技術は、他のスポーツにはないほどの複雑さを要求される。だから、ゴルフ愛好者のレベルはピンからキリまで多層に渡る。そして、それぞれのレベルで楽しめる。それはそれで良いだろうと思えるが、せっかく取り組んだスポーツなのだから、ある程度の技術レベルまでは達したいと思うのも至極当然である。とは言いながら、ある程度のレベルまで到達できるのは、ほんの一握りしかいない。ベストスコアが70代というゴルファーは僅か3.6%だと言われている。

 ゴルフを上達するのが難しいのは何故かと言うと、それはメンタルスポーツだからと言える。精神的な安定と自分自身に対する信頼がないと、持っている技術力を発揮できない。メンタル面をしっかりと鍛えて有効に活用出来たら、70代のスコアが出せる程の上達が見込める。それでは、メンタル面というか精神力をプレーにどう生かせば良いのだろうか。プロゴルファーのメンタルコーチは、最近増えてきている。しかし、アマチュアゴルファーのメンタルコーチは殆どいない。メンタル面は自己育成をするしかないのである。

 それでは、ゴルフをするうえでメンタル面をどのようにプレーに生かせばよいのであろうか。メンタル面を鍛えたり向上させたりするのは、プロのメンタルコーチでも難しい。アマチュアが自分ひとりでメンタルを整えるというのは非常に難しい。しかし、けっして不可能ではない。量子力学的思考をして練習したりラウンドしたりすれば、ゴルフは飛躍的な上達が可能になる。量子力学的思考というのは、具体的にどういうことかというと、思考が現実を創り出しているという考え方のことである。

 量子物理学の実験で明らかになった驚きの事実がある。人間が思考をする前に、行動を既に始めているという事実である。人間がまず思考をしてから、その思考に基づいた行動が始まると考えられている。しかし、アクションが始まってから思考が遅れてやってくることが、脳科学(脳波)の実験で判明したのである。そんな馬鹿なと思うかもしれないが、これが真実だという。ということは、私たちの行動は自分がすべてコントロールしているかと思いきや、無意識で行動を起こしてから後追いでその行動の思考が起きているというのである。

 ということは、ゴルフもしかりである。このようにスイングしようとかパッティングをしようと考えながら、アクションを制御しているものだと思っていたが、実は既に行動が始まっているところに思考が遅れてやってくるということになる。この事実は、私たちを奈落の底に落とし込むくらいに衝撃を与える。つまりゴルフのアクションであるスイングやパッティングは、意識して実行しているのではなくて、無意識で実行してしまっていて、後から申し訳程度にそのように身体を動かしたんだと思わせているだけなのである。

 だから、自分の意識とはまったく別のスイングやパッティングをしてしまうことがよくあるのだ。つまりは、ゴルフのアクションをする時にあまりにも考え過ぎてしまうと、思ったようなスイングが出来ないということになる。先ずは、ボールを運ぶ場所と距離を特定する。そして、それを実現するための身体の動きのイメージを脳内に作り上げる。そのうえで、実際にスイングの際には、何も考えずに無意識で只クラブを振るだけにする。そうすれば、身体(筋肉と骨格)がイメージ通りに勝手に動いて、狙った処にボールを運ぶことができるのだ。

 これが量子力学的思考のゴルフの上達法である。実際にこの量子力学的思考を実践して実績を残した女子プロがいた。アニカ・ソレンスタムという稀代の名プロである。女子プロの世界では好敵手がいないと、男子プロのトーナメントにも出場した経験も持つ。彼女は、プレーの前にアクションのイメージを作り終わったら、スイングやパットをする場所1m四方に入ると、何も考えず無意識でプレーを実践した。当然、イメージした通りのプレーをした。正確無比のスイングとパッティングをして、数々のビッグタイトルと賞金女王を手にしたのだ。

※日本の女子プロの中で、最強だったと言われるのは岡本綾子プロだと思われます。彼女もまた、量子力学的思考を活用して、アメリカツアーで数々の優勝を成し遂げました。当人は、量子力学的思考とは思っていもいなかっでしょうが、先日の女子プロトーナメントの解説をしていて、同じようなことを言ってました。無意識(潜在意識)の世界を制した者だけが、世界のトップになれるのです。これはゴルフの世界だけではなく、他のスポーツにも当てはまります。

メンタルを病む責任は本人にない

 前回のブログでは、メンタルを病む原因は心ではなくて脳の器質的障害によるものだと解説した。まだ一般社会の中で、特に職場や学校においては心の病気だという認識が強くて、本人の気質や性格、または認知傾向や価値観に問題があるから、メンタル疾患になるのだという捉え方をする人が多いようである。心配しているようなそぶりを周りがするが、自分で病気を引き寄せている、そんな見方をされるから余計に当事者は辛いし、益々症状が悪化しやすい。しかし、メンタル疾患を発症する人に、その責任はないと断言できる。

 メンタル疾患を抱えている人はの殆どは、保護者や本人に関係する周りの人々のせいでメンタル疾患に陥ったのである。精神の病気になった責任は、当事者には殆どないと言い切れる。何故なら、メンタル疾患にならざるを得ないような育てられ方と周りの環境によって、発症したと言えるからである。まずは、精神疾患になってしまうような育成環境についてだが、親があまりにも熱心過ぎる育児をするケース、その反対に育児放棄したり虐待したりする正反対のケースとがある。どちらも精神的な障害を抱えやすいということは間違いない。

 まずは、虐待やネグレクトを受けた場合である。このケースでは、ほぼ100%精神的な障害を抱えてしまう。よしんば、その後児童相談所や児童福祉施設で温かく育てられたとしても、その時に抱えたトラウマは生涯に渡り当事者を苦しめる。脳の器質的障害はある程度改善されたとしても不安は完全に払拭されず、HSCを抱えるが故に傷付きやすい人格を持ち続け、乗り越えることが難しい。優しい保育士さんたちや親切な里親に育てられたとしても、トラウマを乗り越えるレベルまで回復するのは極めて困難だと言える。

 親があまりにも熱心過ぎる養育をしたケースであるが、これは過干渉や過介入の養育とも言える。立派に育てたいとか、将来に渡りエリートの人生を歩ませたいと親が強く意識して、過度の期待を掛け続けて、子どもをコントロールし過ぎた育て方をした場合である。このケースにおいては、子どもは親からの無条件の愛情ではなくて条件付きの愛情を受けてしまうので、自己肯定感が育たないばかりか、虐待児と同じようにHSCを抱えてしまう。完璧さを求められるし、学業成績が悪いと否定されがちになり、見捨てられる不安を抱えてしまう。

 どちらのケースにおいても、HSCからHSPに移行して、得体の知れない不安を抱えてしまう。そうすると、周りの子どもたちからからかいを受けたり、虐めの対象になったりするから、何度もトラウマを抱えてしまうことになる。教師からの不適切指導も受けやすい。それが例え小さなトラウマだったとしても、次第に積み重なっていき複雑性のPTSDになっていき、二次的な症状として発達障害や気分障害を起こしてしまうのである。勿論、生まれつきの発達障害もあるが、それが益々強化されてしまうのである。

 また多いのが、両親の不仲による悪影響である。特に子ども脳に深刻な影響を与えるのが、両親の喧嘩である。子どもの前で怒鳴り合う事を続けると、100%子どもの脳は致命的な器質的な障害を受ける。偏桃体が肥大化してコルチゾールが過大分泌することで、DLPFC(背外側前頭前野脳)と海馬が破壊される。例え怒鳴り合いまで発展しなくても、お互いの愚痴や悪口を子どもに聞かせ続けると、同様の障害が起きる。離婚の危機を迎えると、子どもは自分が犠牲になり、離婚を防ぐために無意識で問題行動を起こしてしまうのだ。

 前述したような家庭に育った子どもは、不安型のアタッチメントを抱えてしまい、オキシトシンホルモンレセプターが異常に少ない脳になる。得体の知れない不安を常時抱えていて、睡眠障害を起こして脳の破壊を招き、メンタル疾患を発症してしまうのである。不登校やひきこもりに追い込まれてしまう子どもも少なくない。何度も心的外傷を受けて、複雑性PTSDになり、発達障害や重篤な気分障害、または妄想性障害や各種依存症までも発症する恐れもある。こうなってしまうと、医学的アプローチも効果なく、長期間に渡る社会からの離脱が起きる。こうなってしまう責任は、当事者にはないのである。

※メンタル疾患の当事者が、低劣な価値観しか持ち得ず、正しい生きる目的を設定できないこともメンタルを病むひとつの要因ではありますが、これも本人の責任ではありません。父親が高い価値観や哲学・思想を子どもに伝えなかったからです。特に「神の哲学」である形而上学を子どもに語っていないから、高い価値観を持ち得ず正しい目的を設定できなかったのです。これも当事者の責任ではありません。

メンタルを病んでしまう本当の原因

 メンタル疾患が年々増加の一途を辿っている。代表的な気分障害である、うつ病や双極性障害(躁鬱病)の患者さんは、あまりにも増え続けていて社会問題にもなっている。そして、最近は単なるうつ病だと診断されてきたのに、実は双極性障害だったということが判明するケースが非常に多いことが注目されている。うつ病というのは誤診であって、別の心療内科で双極性障害だという確定診断がつく例が極めて多いのである。躁うつ病は、一昔なら珍しい精神疾患だったのに、現代では想像している以上に増加しているのである。

 双極性障害は、重篤な精神疾患である。治療が難しいということもあるし、完治を迎えることが少なく、寛解さえも難しい。そして、より重篤な精神疾患である統合失調症も増えていることに戦慄を覚える。どうして、こんなにも難治性の精神疾患が増えてきているのであろうか。そして、一昔前のうつ病であれば、投薬治療によって症状がかなり抑えることが可能だったのに、現代のうつ病は投薬や各種精神療法を駆使しても、寛解しにくくなっている。つまり、メンタル疾患は年々増えているし、難治化しているのである。

 そして、とても増加しているメンタル疾患がもうひとつある。複雑性PTSDという精神疾患が増えているのである。単純性のPTSDやパニック障害が増えていることもあるが、複雑性PTSDだけが異常に増加しているのである。複雑性PTSDというのは、トラウマ(心的外傷)を何度も積み重なって起きる疾患で、単純性のPTSDよりも治癒しにくい。今までのカウンセリングや精神療法では、良くならないばかりか却って重症化させてしまうことも多く、二次的症状としてより深刻な疾患を発症させるリスクもあるという。

 今までの精神療法やカウンセリングは、過去のトラウマを聞き出して、そのトラウマを今は安全なものとして俯瞰できるように、右脳の記憶から左脳の記憶に移し替えをすることで、症状を緩和させていた。ところが、複雑性PTSDに限っては、下手にトラウマを暴露させてしまうと、その恐怖に耐えきれなくてさらなる深刻な二次的症状を引き起こすケースが非常に多いことが判明したのである。ASDやADHDなどの発達障害の症状や、双極性障害を起こすことが多くみられる。複雑性PTSDとは、怖い精神疾患なのである。

 そして、複雑性PTSDによる二次的症状として、うつ病、双極性障害、統合失調症型パーソナリティ障害、妄想性障害、発達障害などの深刻なメンタル疾患や障害が起きていると考えられる専門家が増えてきた。それでは、何故に複雑性PTSDを発症してしまうのであろうか。いくら心的外傷を受けるような出来事を体験したと言っても、すべての人がトラウマ化する訳ではない。特別にトラウマを積み重ねやすい人と、まるっきり平気で受け流せる人がいるのだ。苦しくて悲しくて怖い体験をトラウマ化しやすい人が複雑性PTSDになる。

 このトラウマを積み重ねて複雑性PTSDになりやすい人は、HSCやHSPの気質を持っている。特に聴覚過敏が強い傾向を持つ。聴覚神経が肥大化している。そして、脳の器質障害をも起こしている事が判明してきた。DLPFC(背外側前頭前野脳)と海馬が壊れて萎縮している事が解ったのである。一方では、偏桃体が肥大化していることも知られている。何故そんなことが起きているのかというと、不安、恐怖、苦しみ、怒りなどの強いマイナス感情が常に起きていると、偏桃体が異常興奮を起こしてコルチゾールが過大に分泌される。そうすると、偏桃体が肥大化すると共にDLPFCと海馬が破壊されてしまうのだ。

 この海馬は記憶を司る大切な脳なので、記憶力や認知が正常に働かなくなるばかりか、記憶を変更してしまう。また、DLPFCはワーキングメモリー機能、正常判断や倫理観を司っているので、一時記憶や臨時的計算や判断が出来なくなるばかりか、反倫理行動や依存行動を取ってしまう危険もある。DLPFCと海馬が正常に働かないと、不安・恐怖・怒りを鎮めることが出来ず、メンタル疾患はさらに重症化して固定化してしまうのである。投薬治療も効果がなくなる。HSCやHSPになってしまう原因は安定したアタッチメント(愛着)が形成されず、不安型のアタッチメントを抱えてしまうからなのである。

※このように、今まではメンタル疾患はその人の性格や気質によって起きる心の病気だと考えられていましたが、まったく違っていて脳の器質的変化によってもたらされているということが判明しました。そして、複雑性PTSDが基礎疾患にあって、二次的症状としてうつ病や双極性障害などの気分障害が起きていて、幻聴・幻覚を起こす統合失調症性パーソナリティ障害や妄想性障害が起きるケースが多いのです。さらには、二次的症状として発達障害も起きる例が多いこと解りました。

自分と他者、そして自他一如

 自分と言う言葉を私たちは何気なく普段から使っている。特に、自分と言う言葉そのものの深い意味を考える人は殆どいないことであろう。ましてや、自分と他者との関わり合いや繋がり、そして自分と他者とは本来どうあるべきかということを考える人間なんてそうはいない筈である。そもそも自分と言うのは「私」のことであろう。しかし、私という言葉と自分という言葉から受けるニュアンスは大きく違っているように思われる。自分という言葉は、自ずを分けると書く。つまり自ずと、他者とか社会とを分けるという意味なのであろう。

 全国の中には、私のことをわざわざ「自分」と呼ぶ地域や組織が存在する。何となく私と言わずにわざわざ「自分」と呼ぶことに、違和感を覚える人も多いように思える。軍隊における従順な部下が上官に「自分は〇〇であります」と返答するみたいに使いそうな一人称である。転じて、体育会系の上下関係において、目下の部員が上級生に対して、一人称を「自分」と言うケースが多いようである。いずれにしても、フォーマルな場面においては、自分と呼ぶ一人称は、あまり使用しないのが一般的である。

 さて、私のことを自分と呼ぶ人間の性格分析をしてみよう。他者と自分は違うという意識が強そうであり、自分はこうであるとか、こうしたいとかいう自己主張が強い傾向が見える。他者や社会のみんなとは、自分は一線を画しているという意識が強いように感じる。したがって、自分と他者を分けて認識してほしいし、自分だけを特別視してほしいという意識が強いのではないかと見られる。そういう意味では、自分と他者の間には大きな隔たりがあり、他者を受容したり寛容したりする気持ちが極めて少ないように思える。

 自分と他者は別だという社会的認識が広がっている中で、仏教では自分と他者は本来ひとつのものだという考え方がある。『自他一如』という仏教用語がある。簡単に説明するのは、非常に難しい。肉体的には自分と他者は別のものではあるが、精神的な部分では繋がっていてひとつのものだという考え方である。精神的な部分というのは、顕在意識ではなくて潜在意識ということである。つまり、無意識の部分で自分と他者は本来ひとつであるという考え方である。だからこそ、人間は自他一如を意識した生き方が求められるという教えである。

 いくら無意識の世界だとはいえ、自分と他者がひとつだなんてどうやっても認識できないと思う人は多いかもしれない。そんなことはあり得ないと思う事であろう。我々人間の無意識(潜在意識)という領域は、脳の中でどのくらいの範囲かというと、驚くことに約11%が顕在意識で、9割前後は潜在意識だというのだ。そして、有名な心理学者のカール・グスタフ・ユングは、この9割の潜在意識の領域においては、集合無意識というものがあり、自分と他者はこの集合無意識によって繋がっていてひとつだと主張しているのである。

 果たして、集合無意識というものが存在するのかと疑う人が多いかもしれないが、虫の知らせとかあり得ないようなメールの同時送信を経験している人は多いことであろう。何故か急に思い出したり気になって仕方ない人から電話が来たり出会ったりするのは、全くの偶然ではない。すべて、シンクロニシティ(共時性)と呼ばれる魂どうしの結びつきによって起きているとユングは説いている。自分と他者は、ひとつの魂の集合体から生まれてきた存在なのだから、潜在意識で繋がっていて、自他一如という存在なのである。

 だからこそ、他者を傷つけることは自分に対する攻撃となる。他者に対する深い思いやりは、自分への思いやりにもなる。自分と他者が一つなんかじゃなくて、別の存在だと考えるから、学校や職場でいじめや虐待が起きるし、世界で闘争や戦争が起きる。どこかの政治家は、自国民ファーストなんてとんでもない主張をしてしまう。自国民も他国民もないのだ。世界のすべての国民が幸福にならなければ、私の幸福は実現できないのだ。そんな当たり前の真理さえも知らないような政治家を我々は選んではならない。自他一如を深く認識して、他者への慈悲を持って生きて行くことが当たり前の社会の実現が望まれる。

寝たきり老人がいるのは日本だけ

 寝たきり老人ゼロ作戦という厚労省のスローガンで始まった在宅医療を充実させる政策は、見事に失敗した。同時に始まった厚労省の介護保険制度が、皮肉にも寝たきり老人を大量に生み出してしまったのである。所詮、机上の空論を論議するしか能のない厚労省キャリア官僚の読みの甘さがこんな悲惨な結果を招いたと言っても過言ではない。現在、寝たきり老人(要介護5)の比率は全人口の6.1%にもなる。ということは、人口比率で割り出した寝たきり老人は248万人であるし、隠れ寝たきり老人を含めると300万人を優に超える。

 この寝たきり老人の割合と数は、ぶっちぎりの世界一位である。欧米や他の先進国ばかりでなく、発展途上国においても寝たきり老人は殆ど存在しない。どうして、日本だけがこんなにも寝たきり老人が多いのか、実に不思議な現象なのである。他の国では寝たきり老人が極めて少ない。どうして日本に寝たきり老人が多いのか、明らかにしたい。そのうえで、このままの高齢者政策で良いのか、それとも抜本的な対策が必要なのを論じたい。そうすれば、日本の財政もどうにか出来そうだし、社会保険料の負担軽減にも繋がる筈である。

 300万人の寝たきり老人の介護費用は国と都道府県と市町村、介護保険料、そして自己負担料金で負担している。行政で負担しているというが、財源は消費税だとされているから、すべての介護費用は国民が負担しているということになる。300万人分の寝たきり老人の介護費用と医療費を国民が負担しているのだから、社会保険料負担と税負担の割合が多いのは当然である。収入の半分以上が社会保険と税金で持って行かれてしまうのだから、豊かさを実感できないのは当然である。その原因の一端が寝たきり老人が多いせいなのである。

 さて、どうして日本だけが寝たきり老人が多いのであろうか。欧米の寝たきり老人がほぼゼロなのに、日本にだけ寝たきり老人が多いのはまったく理解不能なことである。それは、日本の医療保険制度と介護保険制度における決定的な間違いがあるからだと断言できる。それだけではなく、医療機関と介護施設においての高齢者に対する医療が根本的な誤謬を犯しているからである。それは、医学における哲学と言えるような領域ではあるが、何のために医療を行うのか、誰のための医療なのかという根本原則に反しているとも言える。

 寝たきり老人で、これ以上の回復が見込みのない患者に対して、過剰な医療措置を行わないのが欧米の医療である。つまり、医療の質や量を優先にはしないで、あくまでもその患者さんや要介護者さんが本当に望むものを提供するだけなのである。そこには延命措置に対する考え方の大きな差異が存在する。人間が尊厳を持ち続けられて、当事者が生きる喜びを待ち続けられるかどうかが大切だとするのが、欧米の医療や介護なのである。勿論、それには当事者のリビングウィルの意思表示も必要だが、家族が納得することが求められる。

 日本では、何となくというか可哀想だから延命措置を続けるという考え方が多いが、欧米においてはまったく違う視点から延命措置を選択する。当事者がどちらを選択するか、またはどちらのほうが当事者が真の幸福を得られるのかが重要なのである。医療関係者や家族は、それらの選択肢を持たないという立場だ。そういう人間の尊厳についての説明も、懇切に家族に納得の行くまでするのが当然だ。そして、当事者が望む、または望むであろう最善の策を実施する。だから、点滴や胃婁など寝たきり老人に対する過剰な医療はしないのである。

 感情論で言えば、そんな可哀想で残酷なことをしたくないと思うのが家族であろうが、それは当事者にとっては非常に残酷だと言える。生きられるのに生きる権利を取り上げることは、家族や医療関係者は出来ないと主張する人がいるかもしれない。しかし、生きる幸福感がなく苦痛や悲しみを長く続けさせることこそ、当事者の望むところではない筈だ。どこかの政党が延命治療は100%自己負担にすべきだと言っていたが、それは間違いだ。国がそんな残酷な制度を作って人々の考えを変えさせるのはあまりにも乱暴だ。生きる意味、生きる目的などを当事者と家族が、寝たきりにならない元気なうちに深く話し合って決めるべき事なのである。

命短し恋せよ乙女

 命短し恋せよ乙女♪という歌い出しで始まるのは、ゴンドラの唄という名曲である。最初は松井須磨子が劇中歌として披露したと伝えられる。その後はあまり流行しなかったが、黒澤明監督の映画『生きる』で主人公の志村喬が歌ったことがきっかけで、多くの著名な歌手がカバーして世に広く知られることになった。胃癌を告知され余命いくばくもない初老の志村喬が、夜も更けて誰もいなくなった公園のブランコに乗ってアカペラで寂しく歌うゴンドラの唄のシーンは、観る人をぞっとさせる。こんなにも悲しく聞こえる歌は他にない。

 そんな有名な歌であるゴンドラの唄は、けだし永遠に歌い継がれる名曲だと思う。そして、乙女たちへの応援歌でもあり、若い女性が人生を生きるうえでの現代に通じる大切な教えでもあると思う。何故かと言うと、若い女性たちの多くが恋愛に対してあまりにも消極的でもあり、臆病なのではないかと思うからである。現代の若い女性にこそ、このゴンドラの唄を聞かせてやりたいと強く思う。そして、是非にも恋愛を経験してほしいと願うのである。結婚してほしいとか、子どもを産み育ててほしいと望む訳ではなく、ただ恋をしてほしいのだ。

 勿論、乙女だけではない。妙齢の女性でも、ご高齢の女性であっても、燃えるような恋をしてほしいのである。何故かと言うと、人間と言う生き物は恋をすることで多くの気付きや学びを得られるし、人としての大きな成長を遂げられるからである。恋愛を経験していない人間は、人として一人前でないなどと極端なことを言うつもりはない。しかし、燃えたぎるように熱烈な恋愛を経験した人とそうでない人の間には決定的な違いがあるのは間違いない。そして、相手の何もかも許し受け入れて統合の実現をするには恋愛が最適なのである。

 恋愛を経験しなければ統合の実現が不可能かと言うと、けっしてそうではない。恋愛の経験がなくても様々な統合が実現出来る。だとしても、それは非常に難しい。男性性と女性性の統合、または本能と理性の統合、自己(エコ)と自我(エゴ)の統合は、特別な人を除けば恋愛によって実現の可能性が高くなるということは確かである。特別な人というのは、例えば厳しい山岳修行や敢えて苦難困難の道を歩んで悟りを啓いた人という意味である。特に女性はそういう体験をすることが少ないので、恋愛経験が統合の後押しをするという意味だ。

 恋愛というのは、自分の愛欲を満たすためにするようなエゴ丸出しの恋ではない。お互いの幸せや心の豊かさを実現するような互恵的恋愛のことである。身勝手で自己中の恋愛なら、何も学べないし成長もない。勿論、統合なんて到底及ばない。特に、性の営みにおいて自己満足だけを求めるだけで、相手の深い悦びを実現しようと努力しないなら、男性性と女性性の統合なんて実現する訳がない。、自分の悦びを犠牲にしても、相手の満足を限りなく高めようと精進するならば、真の統合が近づくであろう。これが自他一如の実感にもつながる。

 このような素晴らしい体験が出来る恋愛を、初めから避けたいとか、心から求めることをしないというのは、実にもったいないことではないだろうか。男性と女性は、いろんな意味で大きく違っている。価値観や考え方しかり、使うコミュケーション手法も、そして、行動規範も違っている。だからこそ、その違いをお互いに深く認識して、相手の違いを受け入れて許すことで、相互理解が深まり統合に向かうことが可能になるのだ。そのような大切な経験を、最初から望まないとか避けたいとか思うのは、考えられない損失なのである。

 とは言いながら、世の中の乙女の多くは魅力的な男がいないじゃないかと主張するかもしれない。確かに、それも一理ある。自分の事しか考えず、相手の女性の幸福や尊厳を認めず、自分に従属させようとするような男性に魅力を感じる訳がない。そういう意味では、価値観が低すぎる男性が多すぎるから、女性が恋に陥らないのかもしれない。個別最適ではなくて、全体最適を目指すために限りなく努力するような男性が多くなれば、恋する乙女も増加するに違いない。そういう意味では、恋する乙女を増やすには男性の高い価値観構築が必要だと言えよう。

偽情報によって政治が捻じ曲げられる

 インターネット上の情報を見ていると、陰謀サイドによって善良な国民が騙されているという記事がこれでもかとアップされていて、それを信じた人々がさらに拡散している。SNS、YouTube、ライブ配信などに多くの陰謀論者がこれでもかというくらいに情報を開示している。殆どの陰謀情報が、科学的に正しいという根拠に基づいた情報を掲載しているし、社会的にも著名な人が、その情報を肯定しているのだと主張している。そして、写真や動画も数多く添付されている。これを見た誰もが正しいと思わせてしまう情報なのである。

 これらの情報は、驚くことに陰謀を働いている組織や企業内に、実際に所属していたという人物からのリーク情報だとも主張している。各種のワクチンに関する陰謀情報、子どもを誘拐して性的虐待をしたり脳の松果体を採取したりしているという驚くような陰謀情報などが流され続けている。それだけではない、政界や芸能界で活動している人々の殆どがゴムマスクを被っている偽者だと主張している。王室や皇室の人々も偽者であるとも言っている。それが真実だと言わんばかりに、証拠の写真や動画を大量に掲載している。

 陰謀があると信じて、その陰謀の情報を積極的にネット上に拡散している人を陰謀論者と呼んでいる。陰謀を拡散すれば、陰謀サイドにいる人たちに圧力をかけて、陰謀を少しでもくい止められると考え、まるで正義の味方だと言わんばかりに頑張っている人が多い。その為に、陰謀論者たちは少しでも新しい陰謀の情報を仕入れたいとネットサーフィンに余念がないし、陰謀論者どうしが親近感を持ち仲間として認識し合っている。ネットで仕入れる情報にはアルゴリズムが働き、フィルターバブル機能により情報の極端な偏りが起きてしまう。

 GoogleやYahooの検索サイトで情報収集するのであれば、偏った情報にはなりにくい。ところがYouTubeやSNSによる情報収集をすると、エコーチェンバー機能とフィルターバブル機能により、フェイクニュースに騙される可能性が高い。自分たちは正しいのだと思い込むことにより、真実の情報から余計に遠ざかってしまうのである。自分たちの受ける情報に恣意的な偏りはないのか、フェイクニュースではないのかと、常に謙虚でニュートラルな心というものが必要である。最初から色眼鏡をかけてSNSの情報を信じてはならないのだ。

 これらの陰謀論の偽情報が、それを妄信する人たちの間だけで留まっているのなら、まだ許されるのであるが、これが政治に影響を与えるというならば看過できない大問題である。兵庫県知事選挙では陰謀論も含めたフェイクニュースが広まってしまい、誤った情報によって落選してしまった候補者がいた。その反動で、とんでもない人物が当選してしまうという事態を引き起こしてしまった。米国の大統領選挙においても陰謀論の偽情報が影響して、トランプ氏が当選した。クリントン氏やハリス氏は偽の陰謀論情報で沈んでしまった。

 東京都議選においても偽の陰謀論情報が影響して、選挙結果が予想と反した結果になった事例が多数ある。国政選挙においても、陰謀論情報によって国民は騙されて振り回されている。今度は参議院選挙においても、陰謀論のフェイクニュース情報が拡散しているのである。フェイクニュースによって国の政治が捻じ曲げられようとしているのだ。SNSやYouTubeの情報は、正しいかどうかのチェック機能はまったく働いていない。だから、フェイクニュースでもその情報が止めどなく拡散してしまい、その情報を信じた人々は投票行動を変えてしまうのだ。

 謙虚で素直に物事を正しい判断力を持って洞察すれば、YouTubeやSNSの情報をまるごと信じるようなことをする筈がない。ところが、元々不安や恐怖感を抱えている人たちは、陰謀論を簡単に信じ込まされてしまうのである。何故なら、正常な判断をすることを可能にする前頭前野脳と海馬が萎縮しているか破壊されているからである。この部分の脳が正常に働かないと、不安を掻き立てるような嘘を信じてしまうのである。故に、陰謀論のネット情報をずっと見続けていて、依存状態になっているのである。ネット依存症の若者たちは、益々不安が増大してしまい、不登校やひきこもりに陥るのである。

※世界の人々を不安や恐怖に陥れて、心身の病気を抱えてしまう人々を大量に生み出して、国民を駄目にしているのが陰謀論者たちです。ネットに依存させて、不登校やひきこもりの若者、メンタル疾患の人々を大量に創出しています。しかし、陰謀論者にその根本原因はないし責任はないのです。彼らもまた騙されているに過ぎないのです。言わば被害者なのです。多くの人々を不幸にしてしまうフェイクニュースを垂れ流すのは、もう止めませんか。