憤りの心は燎原の火の如し

 憤りの心は燎原の火の如しという格言がある。仏教において、憤り=怒りは煩悩のひとつであり、我が身を滅ぼす悪であるとして、どんな理由があろうとも怒りの感情は捨てなさいと説く。憤りの感情というのは、燎原(原っぱ)の火のようであり、自分が点けたその火に飲み込まれて焼け死んでしまうという意味である。徳川家康も同じような事を遺訓として後世に伝えている。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え、と言い遺している。怒りと言う感情が、どれほど深刻な悪影響を与えるのかという警鐘を鳴らしているのである。

 怒りの感情というものが、どれほど自分自身に対して悪影響を与えるのかということを、科学的・論理的に考察してみたい。まず、怒りや憎しみという感情は、人間の正常な判断力を削いでしまうということを認識すべきである。怒りや憎しみの感情が高まってしまうと、人間はその感情の渦に飲み込まれてしまい、正しい判断力を失うばかりでなく、思いがけない言動に駆られてしまうことが多い。後から冷静になって判断すると、どうしてあんな愚かなことをしてしまったかと反省するのだが、怒りの感情は人間の冷静さを失わせるのである。

 怒りや憎しみの感情がどうして判断能力を奪うのかと言うと、それは脳中枢部である大脳辺縁系の偏桃体の過剰反応によるものと推測されている。本来は理性的判断能力を持つのに、憎しみや怒りの感情があまりにも頻繁に起きてしまうと、偏桃体が暴走してしまい判断能力が機能しなくなるらしい。怒りや憎しみをまったく否定するものではないが、ある程度に留めることが必要なのであろう。怒りや憎しみの感情を持ち続けると、偏桃体の興奮は止まらずに暴走し続ける。そうすると、脳はとんでもない変性を遂げることになる。

 ストレスホルモンの一種で副腎皮質ホルモンのひとつであるコルチゾールが過剰に分泌され続けて、偏桃体が肥大化してしまうのである。そうなると、自律神経のうち交感神経が過剰に活性化すると共に、それが過ぎてしまうと副交感神経まで影響を受けてしまう。迷走神経のうち背側迷走神経が暴走してしまい、心身のフリーズやシャットダウンに陥るのである。また、偏桃体の興奮が収まらず何度も暴走することで肥大化してしまった偏桃体が、海馬や前頭体にまで影響を及ぼして、萎縮させてそれらの機能低下を招いてしまうのである。

 特に、DLPFCと略称で呼ばれる背外側側前頭前野脳の機能が著しくダウンしてしまうことから致命的な悪影響を起こす。DLPFCはフラッシュメモリーのような機能を持つ。一時的な記憶装置と演算を受け持つのだ。DLPFCの機能が低下すると、記憶が飛んだり間違った記憶を作り出すエラーを起こす。また、複雑な判断や理論の統合が上手くいかなくなるばかりか、倫理的な判断が出来なくなるし、他人との良い関係性が作れなくなる怖れがある。海馬は記憶を司るところであり、認知機能に著しい障害を起こしかねない。

 偏桃体を暴走させてしまうのは、怒り憎しみだけではなくて、多大な悲しみ寂しさや不安・恐怖感も同じである。さらには、過大なる痛みやストレスも同じように偏桃体と海馬・前頭前野に悪影響を与えてしまう。偏桃体の過剰な興奮を、本来は前頭前野が鎮めてくれる筈だが、何度も何度も繰り返して憎しみや痛み、そして過大なストレスを与え続けられると、不眠となりやがてはメンタル疾患を抱えてしまうことになる。だからこそ、過大なストレスになってしまう怒りや憎しみは、どんな理由があろうとも持ち続けてはならないのである。

 それでは、どんな理不尽なことをされても、人間は怒り憎しみを持ち続けないように我慢して笑顔でやり過ごせというのか。それでは、問題は解決しない。人間の記憶は、そんなに便利に抑えられるものではない。誰かにその怒りや憎しみを批判されることなく否定されずに傾聴されて共感されたら、怒りや憎しみは和らぎ偏桃体の異常興奮は抑えられる。それだけでは不十分で、「辛かったね苦しかったね」と抱きしめられたり背中を擦られたりすると、視床下部で合成され下垂体からオキシトシンを分泌させることにより扁桃体の興奮を鎮静化することが出来るのである。

縄文人は山登りをしていた!

 縄文時代というと、弥生人が農耕を始める前に、狩猟を中心にして生きていて、言葉もなくて文化もそんなに発達していない時代だと思われていた。したがって、お互いのコミュニケーションも不十分であり、文明なんてある訳がないと思われていたのである。ところが、縄文時代の学術的研究が進み、縄文人の暮らしぶりが判明してくると、高度な文化だけでなく美的な感覚も優れていて、自然の摂理に沿った合理的で環境保護に配慮した生活をしていたことが解ったのである。そして、なんと登山までもしていたということが解ったのだ。

 縄文時代というのは、およそ13,000年も続いたと言われている。それにしても、13,000年間もお互いに戦争や闘争もせず、平和で穏やかな生活をしていたことが、人骨の調査で判明している。狩猟を中心にしていたから、農耕はしなかったとされているが、山への植樹はしていたということが解っている。栗や胡桃などの木の実や果実が実る木々をせっせと植えていたことが解っている。木の実や果実が実る樹木だけを植樹した訳ではない。里山だけでなく、奥山にもせっせと広葉樹を中心に植樹したことが解ったという。

 洪水を防ぐため、豊かで安定した水資源の為にも豊かな広葉樹の森が必要だという事を認識していたらしい。それだけではないのだ。海の河口付近に生息する貝や魚類が豊かに育つ為には、広葉樹の豊かな森が必要だと理解していたと言うから驚きだ。その山からの恵みに感謝もしていたろう。当然、山に住んでいるであろう神々に感謝し、豊かな恵みを得るために山の神々に必死に祈ったに違いない。そんなアニミズムのひとつとして、登山をして神々に感謝をすると共に、自然からの豊かな恵みを得たいと祈ったのは当然である。

 どうして、縄文人が登山をしていたことが解ったかというと、山頂付近から縄文土器が見つかったからである。縄文土器を何のために山頂まで持って行ったかというと、数人の登山者(祈る人)が山頂で煮炊きをしたと思われる。神に供えたのだろうし、食料を煮炊きして食べたのではなかろうか。そして、便利なようにその山頂に備え付けて、定期的な祈りのために、その縄文土器を共有したと思われる。どこの山頂でそれらの縄文土器が見つかったのかというと、百名山の甲斐駒ヶ岳や日光男体山でも見つかったというから驚きである。

 当時は、登山靴もなく裸足である。機能的な登山服や雨具もない時代に、そんな高山に登ったのだ。途中までバスや車も使えないから、居住区域から延々と歩いたのだ。何日間も要したに違いないし、命がけの登山であったことだろう。そんな危険で大変な思いまでして山に登ったというのは、山頂で神に感謝をして祈る為だったとは言え、縄文人にとってそれが特別な意味を持っていたのは間違いない。弥生時代や古墳時代、大和朝廷から飛鳥時代には登山の形跡は残っていない。山岳修行や仏僧による開山の時代まで登山は休止する。

 高山に登る為には、天候を長期的に予測しなければならない。甲斐駒ヶ岳のような高山で暴風雨に遭ったら、テントもないから命を失くすことになる。勿論、地図はなかったとしても、方位や高度感覚は必要である。そんな登山に関する知識を持っていたというだけでも、知的レベルが高いと断言できる。それにしても、そんな危険まで冒して高山に登ったのは何故であろうか。麓で山の頂上に向かって感謝や祈祷をしても良いではないか。しかし、実際には山頂まで行って祈祷をしたのである。縄文人が高い山頂を目指した理由があるに違いない。

 おそらく、神々が住むのは山頂付近の岩々であると思ったのであろう。麓の森や岩場にも神は住んでいると、縄文人は思っていただろう。しかし、人々が容易に近づけない山の山頂にこそ、偉大なる神がいたと確信していたに違いない。そして、天におわす神に少しでも近い所から祈りたいと思ったのかもしれない。そして、そんな険しい高山に登り祈ることを許されるのは、神に許された人だけだと確信していたからだと思われる。高く険しく危険な山を登れる人は、穢れのない清らかな心身を持つ選ばれた人間だけだという思いもあったであろう。現代にも通じるのであろうが、山に登るのは禊でもあったのだ。

パーソナルはポリティカル

 最近になって、あるTVドラマで使われていて、いい言い方だなあと感心している格言がある。それは、『パーソナルはポリティカル』という言葉である。日本語に無理やり訳せば、個人的なことは政治的なことであるという意味になろう。米国で、1960代に学生運動及びフェミニズムの一環として盛んに唱えられたスローガンとして広まった。男性中心社会こそが女性の権利を奪っていることから、政治的な問題として解決しなければならないという主張だった。さらに、このパーソナルはポリティカルは、広い意味でも使われるようになった。

 広い意味とは、個人的な要因によって起きている問題も実は、政治的に解決されるべきものであるという主張である。TBSテレビの『御上先生』で盛んに言われているのは、広い意味での個人的なことは政治的なことによるという主張である。個人的な問題と捉えられるような家族の問題も、実は政治的な課題として捉えるべきだという主張である。ドラマでも触れていたが、発達障害を抱えた青少年への支援は社会的課題として扱うべきだということも。相対的貧困がG7の中で最下位だし、格差社会が教育の貧困を産み出している。

 小泉政権から安倍政権への時代には、『自己責任』という言葉が社会に対して盛んに発信されていた。経済的貧困や教育的貧困も、すべては自己責任だという主張だった。労働の流動化を図り労働コストを下げないと世界での競争に勝てないからと、非正規労働者を大量に生み出した。金融経済を活性化させて企業の総資産を増やせば、経済成長して国民の生活が豊かになると盛んに喧伝した。異次元の金融の量的緩和をして円安に誘導して、株価を高値に導き大企業の企業価値を高めた。すべての政策が相対的貧困と格差社会を産んだ。

 そもそも政治の役割とは、すべての国民が健康で高福祉の生活を享受できるようにするということであり、その為には行き過ぎた格差社会を作らせないように富の再分配を行うことが必要だ。経済と教育の貧困層を作り出さないことが為政者の使命である。ところが、小泉政権から安倍政権における政策は、皮肉にもことごとくその逆の結果を産み出したのである。時の為政者たちが、自分たちの失政を棚に上げて、すべては自己責任だと強弁するのは、許せない所業である。パーソナルはポリティカルというスローガンとは真逆の主張である。

 現代における他の社会問題にも言及したい。少子化の問題も、政治の無策が起こしたと言っても過言ではない。小中学生の自殺者が史上最多になったこと、不登校やひきこもりが激増している問題、教育格差が広がっていること、ヤングケアラーの問題、不適切指導や性加害を繰り返す教師の急増など、これらの教育の問題は個人の責任ではなくて、政治に責任がある。ところが、政治家はこれらの社会的な問題が起きていることを、自分たちの責任だとは思わず、個人的な問題と考えているのである。だから、本気で解決しようとはしていない。

 また、政治家だけでなくて一般市民もパーソナルの問題だと思い、ポリティカルの問題だと認識していないことがある。例えば、学校や職場におけるいじめやパワハラ、家庭における毒親や虐待などの問題である。さらに、性加害行動やセクハラを何度も繰り返す男がいる。このような問題を起こすのは個人の資質の問題であり、社会的な課題とは思っていない人もあろう。しかし、これもまた社会的に問題があるから、いつまでも無くならないのである。このような問題を起こすような低劣な価値観を持つ人間が存在するのは、教育に問題があるからだ。

 それは家庭の教育に問題があると思いがちだが、社会教育と学校教育にも根源的誤謬があるから、家庭教育に影響して起きている問題なのである。学校教育や社会教育において、本格的な思想・哲学や価値観の教育を避けてきた歴史がある。また、学校教育において形而上学を排除してしまった為に、低劣な価値観しか持てない人間に育ててしまったのである。本来は、全体最適や全体幸福の生き方を教えるべき学校教育と社会教育が、個別最適や個別幸福という低劣な価値観しか教えなかったのだ。自分の損得や利害を優先し、人の為世の為に尽くす生き方を教えなかったのである。この教育の間違いこそが、問題を起こす人間を育てた原因である。パーソナルはポリティカルという典型である。

発達障害がこんなにも激増している訳

 発達障害の子どもが年々激増している。以前なら発達障害の子どもは、ほんの数%しかいなかったのに、いまや30%の割合で存在すると思われる。特に男の子にはその傾向が強く、約半数に発達の凸凹があると推測される。それほどまでに発達障害の子どもが増えたのは何故であろうか。発達障害というと、様々な障害があげられる。自閉症スペクトラム障害(ASD)、アスペルガー症候群、ADHD、各種の学習障害(LD)がよく知られている。それぞれ、先天的な脳の機能障害であり、子育ての仕方が悪くて起きるのではないというのが定説である。

 とは言いながら、発達障害の子どもを実際に支援している人々は、先天的な脳の機能障害だけに原因を特定するには無理があると思っている。勿論、先天的な異常があり、育てにくさがある為に強化されたとも考えれるが、それだけではないように思える。後天的に症状が現れたりする発達障害のケースもある。どちらかというと後者のケースが多いような気がする。そのうえで、誤解や批判を受ける覚悟で言えば、発達障害の多くのケースでは、親の育て方によって症状が強化・固定化されているとしか思えないのである。

 遺伝的な脳器質の異常で起きる発達障害は、確かにある。しかし、大多数の発達障害は後天的な要因によって起きていると推測される。どういうメカニズムと要因によるのかというと、誕生後の対応による影響があると推測される。赤ちゃんが生まれると産声をあげる。あの赤ちゃんの第一声は、胎内から外に出てから肺呼吸を始める時の苦しさからだと推測されている。でも、その苦しさからの泣き声だけではない気がする。胎内で母親から守られている環境から、母体と切り離される大きな不安と恐怖から泣くのではないかと思われる。

 今でこそ誕生後すぐに母親の胸に抱かされるようになったが、以前はすぐに引き離されて新生児室にて育てられた。この誕生後すぐに母親の胸に抱かれて、ずっと母親の傍に置かれて母乳で育てられたら、赤ちゃんの不安や怖れは払拭される。母親にずっと抱かれることが続けば、オキシトシンという安心ホルモンが十分に分泌され、オキシトシンレセプターが大量に形成される。ところが、何らかの理由で母親と引き離されてしまい、スキンシップが不十分だとオキシトシンホルモンが分泌されず、レセプターも未形成のままになる。

 このオキシトシンレセプターが不足することで、赤ちゃんの不安や恐怖感が増大してしまい、HSCになってしまうのである。このHSCによる影響で、脳にも甚大な被害を与えてしまう。不安に苛まれ偏桃体が肥大化すると共に、前頭前野脳、とりわけDLPFCと呼ばれる背外側前頭前野脳の機能低下を産むのである。また、25野脳にも機能低下が起きるのではなかろうか。こうして、脳の壊滅的な器質的変化が起きてしまい、発達の凸凹と育てにくさの症状が起きると考えたほうが、論理的である。さらには、二次的な症状も起きるのである。

 HSCによる聴覚過敏が強く出て、周りの音や話し声が雑音にしか聞こえなくなり、周りの人の声が聞けなくなってしまい、ASDのような症状を起こすのである。さらには、あまりにも不安や恐怖が強く感じて、何気ない言葉や態度に酷く傷付いてトラウマ化してしまい、何度もトラウマを積み重ねられて、複雑性のPTSDを起こすのである。このC-PTSDの二次的症状として、ASDのような症状が出てしまうとも考えられる。母親も同じように子育ての不安を抱えているので、子どもの不安と共鳴して増幅してしまうと考えられる。

 HSCによる聴覚過敏などと並行した育てにくさがあり、親は子どもに対して必要以上に干渉と介入を繰り返してしまう。つまり、子どもが本来持つ自己組織化する働きが育つのを待てなくて、ついつい子どもに支配的な態度をしてしまうのである。それも、こうしないと将来とんでもない不都合や不具合が起きると、恐怖を与えて指導教育をしてしまうと、不安や怖れが益々強くなり、HSCが強化されてしまい、発達障害の症状が強化される。それでなくても、主体性・自発性・自主性・責任性・発展性・自己犠牲性が乏しい子どもなのに、益々この自己組織化が阻害されることになる。このようにして、発達障害は激増しているのである。

※イスキアの郷しらかわでは発達障害の青少年を長年に渡りサポートしてきました。その経験から実感しているのは、以前のような発達障害は一定程度存在していますが、二次的症状としての後天性の発達障害が異常に増えているということです。不登校やひきこもりになっている方は、二次的な発達障害を抱えていることが多いのです。そして、この二次的な後天性の発達障害は、適切なケアにより症状が緩和されます。

問題社員を見分ける採用面接の質問

 国を代表する大企業やメガバンクなどで、驚くような不祥事が起きている。メガバンクの貸金庫の中の現金や貴金属が、ベテラン行員により窃取されていたというニュースには驚いた。採用時の面接は厳しいし、本来はしてはならない身元調査も、厳格に実施している筈だ。それなのに、こんな犯罪に手を染めてしまう社員・行員を採用してしまうなんて、人を見る眼まで企業の人事部社員は失ってしまっているのか。ましてや、役員だって最終面接には立ち会う筈なのに、見落とすとは何という大失態であろうか。


 民間企業だけではない。行政職員である公務員の不祥事だって後を絶たない。子どもを健全に育てる立場にある教職員が、子どもに対して暴言・暴力を振るうニュースは枚挙に暇がない程だ。陰惨な性加害を起こす教師も数多いし、校長などの管理職でさえ性加害事件を起こす始末だ。昇任・昇格試験の杜撰さが際立つ。司法警察官だけでなく、検事・判事の不祥事が多発するに至っては、採用面接での的確な人物判断をできる採用面接者がもはや存在しないということの結論に至る。人の本質を見抜く眼を持つ人がいなくなったということだ。

 このような事態に陥った要因のひとつが、採用時における人権尊重の扱いである。人権をあまりにも意識するあまり、家族構成・家族の職業・出自・政治信条・信仰などを聞いてはならないと自主制限をしてしまう企業や行政が増えたのである。確かに、そういった人権を侵害してしまうかもしれないグレーゾーンの質問は、すぐにSNSで叩かれてしまうので、控え勝ちになるのも仕方ない。本人の能力や主体性・自発性・自主性・責任感・チャレンジ性についての質問なら問題ないが、性格や人格を問うような質問は避ける傾向にある。

 しかしながら、性格・人格・価値観・哲学・内発的動機度・チャレンジ精神などは、職業人としてはとても大切な要素である。それを明らかにして採用しないと、やがて活躍出来ないようなハズレ職員を採用してしまうリスクがある。ましてや、正義感・倫理観・慈愛・慈悲・博愛の心がない者を採用したら、とんでもない悪事を働く職員になってしまう。どうにかして、採用時の試験や面接において、それらの要素を確認したいのである。そういう採用時のチェックがなおざりにされて来たから、とんでもない悪事を働く職員が増えたのである。

 それでは、具体的にどんな質問をすれば人権に抵触せずに、正しい人物像を明らかに出来るのであろうか。その質問は実に簡単であり、この質問に対する応答を確認すれば、不祥事を起こす職員は排除することが可能だ。それは、このような質問をすればよい。「あなたと親や家族との関係性は良いですか?それともあまり良くないと感じていますか?➀とても良い関係性だ➁ありふれた普通の関係性だ➂あまり良い関係性だと言えない、の三択で答えてもらうことで解る。この三つの選択肢で答えてもらえば、問題になる職員は明確になる。

 まず、➀の親との関係性が極めて良好であると答えた人物なら、身元は間違いない。何故なら、家族の関係性がすこぶる良好であるなら、不祥事を起こすことは絶対にしない。➂の親の関係性が良くないという人物は、絶対に採用してはならない。自分の利益の為に平気で嘘をつくし、犯罪をすることに躊躇しない。➁の普通も同じで、採用してはならない。親や家族の関係性がすこぶる良好で、強い絆で繋がっているならば、不祥事を起こせば家族に迷惑が及ぶこと必定である。家族を大切に思う人は、罪を犯すことは絶対にしないものだ。

 もう一つ、出来得るならこんな設問をすればよい。あなたは何の為に働くのか?働くうえで大切にしている価値観は何であるのか?と質問してみればよい。会社や企業の為に働きたい、お金の為に働くと断言し、出世して地位や名誉を得たいと答えるような輩は、採用してはならない。そういう職員は、お金の為に平気で嘘をつくし、仲間を裏切ることに躊躇しない。お金や地位名誉の為なら、法律だって無視する。世の為人の為に働きたい、仕事を通して社会貢献したいという人材を雇えば、絶対に不祥事は起こさない。ただし、本心からそう言っているのかどうかは見極める観察眼が必要だ。

源氏物語は愛着障害のものがたり

 源氏物語というと、あまりにも有名な平安時代の本格長編小説であり、しかも紫式部という女性作家の最初で最後の作品だということで知られている。紫式部という女性がどのような生涯を送ったのか、その小説を書こうと思い立ったモチベーションは何かということが気になる。それ以上に興味が湧くのは、源氏物語に描かれた世界観はどのようにして彼女の心に生まれたのかという点である。主人公である光源氏のあの強烈過ぎるキャラクターとは、どこから着想したのか、何を描きたかったのかが注目されるところである。

 NHKの大河ドラマ「光る君へ」を鑑賞させてもらったが、史実とフィクションを適当に織り交ぜながら、紫式部という女性をとても魅力的に描いていたように思える。勿論、もう一人の主人公である藤原道長も、栄華を極めた権力者という描き方ではなく、悩み多きひとりの男性として描かれていて、好感が持てる描き方だった。ドラマでは、光源氏という主人公と権力の中枢まで上り詰めた藤原道長を、重ね合わせて描いていて、それはそれで面白いアイデアだと感心したが、あまりにも違う境遇なので、あり得ないだろうとも考える。

 とは言いながら、藤原道長たちのように権力を求める飽くなき野望を持つ貴族と、権力や地位を求めながらも果たすことの出来ない苛立ちが異性へと向かう光源氏の根っこは同じではないのかとも思える。何か満たされない思いを政治の中枢に立ち権力を振るうことで満たそうとする藤原貴族、そして満たされない思いを性愛によって昇華させようとする光源氏は、根源とするものは一緒なのではと思えるのである。それはうがち過ぎだと言われそうであるが、権力欲や支配欲と性欲は同じ根源にあるような気がする。

 それにしても、源氏物語に描かれた主人公の光源氏は、稀代の女たらしである。こんなキャラクターを持つ主人公を、どういう心理状態から描こうとしたのであろうか。この源氏物語は、夫を亡くした紫式部が寂しさや悲しみを紛らわせようとして書かれたと伝わっている。その源氏物語が評判を得て、左大臣藤原道長の耳に入り、一条天皇の后である娘の彰子付きの女房として招かれる。一条天皇の寵愛を彰子が得る為に、この源氏物語が利用されたらしい。この源氏物語が、一条天皇と彰子中宮の仲を取り持ったと伝わっている。

 確かに、光源氏が様々な女性との恋物語を展開していくストーリーは、読む人の心をときめかせたに違いない。男女の仲が、魅惑的な恋物語を共通話題にして深まるというのはあり得ることである。それも、不義密通や呪縛による殺人というセンセーショナルなストーリーである。一条天皇と彰子中宮との夜話は盛り上がったに違いない。藤原道長は自身の出世と権力掌握の為に、紫式部と源氏物語を利用したとも言える。とは言いながら、この源氏物語が多くの人々の共感を呼び、大きな感動を与えたのは間違いない。

 という事は、光源氏の気持ちが当時の人々にも共感できたので、フィクションとは言いながら現実にもあり得ると当時の読者が思えたのであろう。つまり、光源氏が母親の愛情に飢えていて、その満たされない思いや生きづらさをエネルギーにして、異性を虜にする原動力になったと読者も感じたのである。権力への飽くなき追求も、母親から愛されなかった思いを政治に反映させたのだと読む人を共感させたのだ。愛着障害による影響が強く出て、あまりにも激しい生き方や行動をさせた人物を紫式部が描き、それが世の中に支持されたのだ。

 愛着障害は、大人になってからも生きづらさや辛くて苦しい人生を強いてしまう。平安時代においても、既に愛着障害によって人生を狂わされた人々が貴族にもいたのだ。愛着障害を抱えた人々の中で、現代の日本においても光源氏のような生き方をしている人物も少なくない。愛着障害が根底にあり、政界での権力闘争でしか自分を表現できないからと、政界でトップに上り詰めた人物もいる。愛着障害を抱えるが故に、性被害の加害者になる人もいるし、リスクある行動をして被害者になってしまうケースもある。源氏物語は愛着障害のものがたりだと言えるし、現代人の生きづらさにも通じる名作だと言えよう。

夫婦の相性が最悪だったと後悔する訳

 ピッタリの相性だと思って結婚したのに、いざ一緒に住んでみると、どういう訳か思い違いだったと後悔する夫婦がなんと多いことだろう。中には、仲睦まじく一生添い遂げるカップルもいない訳ではないが、そんなケースはごく稀である。殆どの夫婦は、こんな筈じゃなかったと後悔する日々を送っている。結婚する前は、この人だったらお互いの価値観や性格は申し分ないからと、結婚に踏み切ったのである。ところが、結婚生活を送るうちに、何でこんなにも相性が悪いのだろうと後悔するようになり、その思いが益々強くなるのだ。

 中には、もう我慢できないと離婚したり別居したりするカップルも少なくないし、そこまですると世間体が悪いと我慢して、家庭内別居や仮面夫婦の日々を送る人が殆どである。どうして、こんなにも相性が悪い結婚相手を選んでしまうのであろうか。どうやら、脳科学的もしくは遺伝子学的に考察すると、敢えて相性の悪い相手と結婚して子孫を設けようとするのが生物としての本能らしい。動物どうしのカップルでも同じことが起きるのであるが、人間の場合はもう少し複雑であると共に、より深刻な相性の悪さを抱え込むらしい。

 それが証拠に、何度も結婚を繰り返してしまう人が多い。一度結婚に失敗したとしたら、二度目はより慎重になる筈である。ところが、二度目も失敗すると、三度目も同じように結婚生活が破綻するのである。こんどこそは上手く行くはずだと思って結婚したら、やはり最悪の相性だったと後悔することになるのだ。離婚する原因は、性格の不一致だとするケースが殆どである。つまり、夫婦の性格は不一致になるのが当たり前なのである。相性が最高で、仲睦まじく過ごして一生を過ごす夫婦なんて、例外中の例外なのである。

 さて、寄りによってどうして相性が最悪の結婚相手を選んでしまうのかを、遺伝子学的と脳科学的に考察する。人間という生物は、より優秀な遺伝子を持ち生命力が誰よりも強い子孫を残すという宿命を負っている。自分の遺伝子を後世に残すには、自然淘汰されず生き残っていくような心身がタフな子孫を産み育てなければならない。社会の荒波にも負けずに、様々な生存競争にも打ち勝つ遺伝子を持つ子孫を作ることが必要なんだと、無意識のうちに認識している。その為には、自分とはまったく違う遺伝子を持つ異性を選ぶのである。

 つまり、自分と同じような遺伝子どうしの異性を選んでしまうと、遺伝子の多様性という面では少々物足りなくて、いざという極限状態が起きた時に生き残れなくなるのである。例えば、精神的に繊細で感受性が強過ぎて神経があまりにも過敏な女性がいたとする。そういう女性が、同じようにセンシティブな男性を選んで結婚したとする。そうすると、子孫はより強いセンシティブなパーソナリティを持つことになり、このあまりにも思いやりがなくて平気で相手を傷つけるような社会では、生きて行けなくなってしまうのである。

 その為に、センシティブな女性はどちらかというと鈍感で空気の読めないような男性を結婚相手に選んでしまうのである。その逆のケースもあろう。精神的にか弱い男性が、物事に動じない強いメンタルを持つ女性に惹かれることもある。だから、昔から『破れ鍋にとじ蓋』という諺があるのだ。自分にない遺伝子を持つ相手を、どうしても選んでしまうのである。特に女性は、出会って僅か数秒で遺伝子の違いを体感するというのである。これが、一目惚れである。そして、結婚してからことごとく意見が違う事に気付くのである。

 こんな最悪の相性を持つ伴侶を選んでしまったら、どうしたら良いのであろうか。離婚するという選択肢もあることにはあるが、違う相手を選び直してもどうせまた相性の悪い相手を選んでしまうのだから、諦めて家庭内別居とか仮面夫婦を演じて過ごすという選択肢もある。それは寂しいと思う人も多いかもしれない。所詮、どのような夫婦も同じようなものなのだから、割り切って過ごすのもありかもしれない。ちょっと親切なお隣のおじさん(おばさん)だと思って生活するも良いし、宇宙人と暮らしていると思えば腹も立たない。どうしても、相思相愛の恋愛をしたいと思うなら、あまり薦められないが伴侶以外の相手しかいないだろう。

善きサマリア人の法

 善意からの行為をして、結果として善意の効果をあげることが出来ず、訴えられてしまうということがたまに起きてしまう。大丈夫だよ、心配いらないよ、良くなるからねと不安を払拭して安心させるために言ってあげた言葉が、効果がなかったのはあなたが悪いからだと責められるというケースは少なくない。だから、余計なことをして恨まれるのが恐いからと、あえて善意の手助けをしない人もいる。この善意からの行為をして、その結果がどうなろうとも善意の行為者は罪を問われないというのを『善きサマリア人の法』という。

 この善きサマリア人の法というのは、イエスキリストが語った話が元になっている。ある人が強盗に遭い、倒れているのを通行する人々は誰も助けようとしない。とあるサマリア人が通りかかり、そのサマリア人だけが被害者の救護に当たったという話である。そこから転じて、救護が必要な人に出会い、救護行為をする中で例え悪い結果を招いたとしても、誠実に懸命な努力(善管注意義務を怠らずにした行為)をしたなら、罪には問われないと規定する法律のことを指すようになった。実際に法制化されている国々も存在する。

 残念ながら日本では法制化されていないが、アメリカやカナダなどでは、法律として制定運用されている。民事的な責任も、刑事上での罪にも問われないと規定されている。日本では、民事的な請求が棄却できるという規定があるものの、刑事訴追までの免責は規定されていない。したがって、日本において救命措置が必要な場面に出遭い、医師の類似行為を民間人が行って、救命措置が成功したとしても、医師法違反になり刑事訴追をされることは免れないということである。理不尽だと思うかもしれないが、法治国家とはそういうものだ。

 善意の行為であり、無償の行為でもあるのだから、許されるべきだと考える人が殆どであろう。しかし、実際には医師法違反として厳しく罰せられる。それが法治国家としては、正しいのである。とは言いながら、減刑はされるだろうし、おそらく執行猶予判決になるのは間違いない。だとしても、前科持ちになってしまうし、SNS上で偽善者じゃないのとか謂れのない批判にさらされることもある。見ず知らずの人の為に、そんなリスクを負ってまで善意の行為をするのは、馬鹿らしいと思うのが当然である。

 善きサマリア人の法は制定されるべきだと主張する法律家が少なくないが、そんな法律が出来てしまうと、逆に名誉や賞賛を得ようとして、とんでもない行動をする人が増えかねないと心配する専門家も存在する。今は、何でもかんでもSNSで発信する時代である。SNSでバズることで得られるCM料欲しさに、知識も乏しいのに医師の真似事をするような人が増えてしまうと心配する人も多い。確かに、善意の行為というのは、純粋に人助けだけをする人だけがする訳ではない。名声を得るために偽善的行動をする人だっているのだ。

 善きサマリア人の法を国の法律として制定しようとすると、本来の意義に反しないようにするために、いろいろな制限を加えなければならないようである。しかし、そんな制限を加えるということは、本来の趣旨に反するような気がする。元々、善良なる市民を守るための法律なのに、偽善者や裏心を持つ人がいるという前提を基に法律を制定するというのは、とても悲しい気持ちにさせられる。元々、キリストだってサマリア人を賞賛する意思もあったが、見て見ぬふりをして通り過ぎる人の悪意について述べたかったに違いない。

 目の前で虐めを見ても、それを見て見ぬふりをしているのは、共犯と同じだと主張する人もいる。公共交通機関の中で、強面の屈強な男性がか弱き女性に絡んでいるのを、傍観するのも許せないと糾弾する人もいる。確かに、それは卑怯な行為だと言える。しかし、自分に攻撃が向かうかもしれないという恐怖に打ち勝てる人は、そんなに多いとは思えない。一人で立ち向かうのは空恐ろしい。こういう場面で、救護をしないと社会的に罰せられる、欧州のような社会通念が望まれる。そして、日本でも勇気を振り絞って善きサマリア人の行動をする人がいたら、一緒に行動をしてくれる人が出てくることを期待したい。

※イスキアの郷しらかわで、心身を病んだ方々の救済活動を実施していると、なかなか結果が出ない方から責められることもないとは言えない。長い期間に渡り心身をやられてしまわれた方は、癒されるのに時間がかかる。ましてや、複雑性PTSDのように何度もトラウマを経験して、ポリヴェーガル理論における背側迷走神経の暴走によりフリーズ・シャットダウン化が起きた方は、一筋縄ではその凍り付き状態から抜け出せない。そして、不安感・恐怖感からHSPになって起きた症状なので、安心させるために大丈夫だよ、良くなるよと不安を取り除けるように声掛けをするから、良くなる傾向がみられずあせって、支援者を責めることもある。それでも、くじけずあきらめず善きサマリア人のように粛々と救助にあたっていきたいと思っている。

甘えていいんだよ

 世の中には、間違った子育ての理論が横行していて、それを信じて教育した為にとんでもない子育てをしているケースが多々ある。その最たるものは、子どもを甘えさせ過ぎて育てると、依存性が高くなり自立できない子どもになってしまうという間違った教育論である。この教育の理論に毒された親たちは、子どもに甘え過ぎないよう、依存させないようにと、厳しく育てるという大変な誤謬を犯すことなる。そして、そのように育てられた子どもは、やがて自尊心が育たないばかりか、自己の確立は出来なくなり、臆病な大人になるのだ。

 この間違った子育て論は、どのようにして広まったのであろうか。または、誰がこんなとんでもない子育て論を考え出したのであろうか。おそらくは、明治維新以降の近代国家へと変貌を遂げる頃に、富国強兵策の一環としての教育理論だ。為政者にとって都合の良い国民を育てる為の教育制度として提唱されたものではないかと考えられる。つまり、明治維新後に欧米から近代教育制度を取り入れて、子どもを甘えさせずに依存させることなく育てることで、為政者にとって支配しやすく従順な国民を輩出しようとしたのではなかろうか。

 我が子をとことん甘えさせると甘えっ子になってしまうと、殆どの日本人が思っている。また、あまりにも子どもを親に依存させてしまうと、依存性のパーソナリティを持つ大人になってしまうと考えている。実は、まったく逆の結果になってしまうということを、殆どの親が知らないのである。人間という生き物は、極めてか弱い生き物であり、乳幼児期は誰かの庇護の元でしか生きられない。したがって、乳幼児期の子どもは親にしっかり守られているという安心感がないと、不安で一杯になってしまうのである。

 三つ子の魂百までもという諺がある。三歳ころまでの子育てがこそが、健全な大人に育つために大切だという戒めである。この三歳の頃までに、徹底して甘えさせて依存させてあげないと、子どもは深刻な不安感や恐怖感を抱えてしまい、やがて思春期を迎える頃になると、社会に適応できなくなることも少なくない。大き過ぎる不安や恐怖感から、HSP(ハイリィセンシティブパーソン)になってしまい、二次的症状として発達障害やパニック障害、PTSD、気分障害などを発症しやすい。不登校やひきこもりになってしまうことも多い。

 不登校やひきこもり、社会に対する適応障害などを起こす子どもは、親が過保護にしたからだとか甘やかし過ぎたからだと言われることが多い。また、犯罪をした青少年を、さも家庭の事情を知っているかのように、親が過保護で育てた、または甘やかしたからとんでない若者にしたと批判する。しかし、それは完全な間違いである。中途半端に甘えさせて依存させたからであり、どちらかというと「良い子」に育てようと、厳しい干渉と介入をし過ぎたからである。甘えさせるのと干渉とはまったく違うのである。

 乳幼児期に、子どもをありのままにまるごと愛するということを徹底して実行して、なるべく干渉を避けて、子ども自身の判断・決断・実行を自らができるようにそっと見守る姿勢が大事だ。その為には、どんなことがあっても親が敢然と子どもを守る、けっして見捨てないし否定しないということをコミットして実行することが肝要だ。そうすることで、子どもは安心して社会に出て行くことが可能だし、精神的にも経済的にも自立できる。子どもが自我の確立をして、その後自我と自己の統合をするには、このような発達段階を踏む必要がある。

 この世の中には、ひきこもりの青年たちが思った以上に多い。その青年たちは押しなべて、親に心から甘えることが出来なかった若者である。中途半端には甘えさせたが、十分に甘えることが出来なかったし、甘え下手なのである。無理して、自立したかのように見せて、親の期待に応えるべく良い子を演じてきたに過ぎない。豊かな愛情をかけ過ぎて、子どもが駄目になることはない。厳しい干渉や介入をし過ぎて、子どもが自立出来ずに社会不適応を起こすケースが非常に多い。親自身が甘えて育ってないから、甘えさせることも出来ないのである。もう一度徹底して甘えさせる子育てをし直したら、親子共に癒されるに違いない。

※ひきこもりの青少年をずっと支援させてもらってきました。その際に、「私に、徹底して甘えていいんだからね、依存してもいいんだよ」と伝えています。「どんなことがあっても見捨てないからね」とも伝えます。そして、甘え下手で甘えさせ下手の親も同じように支援します。そうすることで、ひきこもりの青少年たちは、十分に甘えることが出来て、安全基地を得ることで安心して社会に巣立っていくことが出来るのです。大人になってからでも遅くはありません。甘え過ぎるくらい甘えさせることで、人間は自立に向かって進み出せます。

人間の生と死を決めるミトコンドリア

 ミトコンドリアという名前だけは知っているという人は多いと思われるが、その詳しい機能や役割を正確に認識している人は極めて少ないのではないだろうか。中学校や高校における生物学でミトコンドリアのことを学んだ経験もあるとは思うが、その正確な知識を得た訳ではない筈だ。このミトコンドリアという生物は、まだまだ解らないことが多いし、最近になってようやく解明されてきたことが多いからである。ミトコンドリアの最新の情報においては、人間にとって重要な役割と機能を有している事が判明したのである。

 ミトコンドリアとは、人間を動かしているエネルギーを産出する重要な役割を持っている。人間の生命維持に必要なATPエネルギーを作りだしているので、ミトコンドリアが正常に機能しなくなると人間は生きて行けなくなる。ATPはご存知のように、アデノシン3リン酸のことで、生命体を動かす電気エネルギーを産出する。なんと、その電圧は1ボルトにもなると言われている。そんなすごい働きをすることも驚きだが、その機能をずっと維持継続しているというのだから、偉い働き者なのである。

 最新の生物学研究によって、ミトコンドリアのもっと重要な働きが判明してきた。そもそもなのであるが、ミトコンドリアはひとつの生命体であり、誰にも命令や指示も受けることなく、人間の生命維持をコツコツと自らの意思で進めている。誰からも評価されることなく褒められることもなく。人体の各細胞と同じで、自己組織化する働きがあるということである。内発的動機とも言えるが、主体性、自発性、自主性、責任性、自己犠牲性、成長性、進化性などを持つのだ。電気エネルギーを作るだけではないのである。

 ミトコンドリアが酸素を取り入れてATPの電気エネルギーを作ることにより、活性酸素が増える。そうすると、活性酸素によって不活性化するミトコンドリアが出来ることがあるらしい。この不活性化してしまったミトコンドリアが分裂して、活性化しているミトコンドリアと不活性化したミトコンドリアに分裂する。不活性化しているミトコンドリアは、オートファジー機能が働いて分解されて再利用されるのである。融合と分裂が繰り返され、ミトコンドリアどうしが助け合うのだ。この働きをミトコンドリアダイナミクスと呼んでいる。

 さらに、ミトコンドリアにはこんな働きがあることも判明している。ミトコンドリアには好調に活動しているミトコンドリアと、不調なミトコンドリアがあるのだ。そして、不調なミトコンドリアが増加してしまい、ある基準以上に増えてしまうと、病気になるということも解ってきた。そして、その不調なミトコンドリアの割合が限度以上に増加すると、癌などの死に至る疾病になるのだという。つまり、健康になるのか病気になるのかは、ミトコンドリアが握っているのである。ミトコンドリアは人間の生と死を決めているのである。

 つまり、ミトコンドリアを好調なままに維持できることが可能なら、病気になることもないし老化も防げるということだ。健康で長生きするには、ミトコンドリアを本来の機能を持てるようにすれば良いのである。その為には、活性酸素をなるべく出さないようにする事が求められる。つまり、ミトコンドリアがATPを産生させる際には、酸素だけでなくて水素イオンを過不足なく提供することが必要となる。実は、その水素イオンをミトコンドリアに提供している生命体があるということも判明している。

 それは、ソマチット(ソマチッド)という極小生命体である。このソマチットという生命体は、ミトコンドリアが発生する前の25億年以前から地球上に存在していたらしい。ミトコンドリアが健康で活性化する為には、このソマチットが欠かせないという。そして、このソマチットが活性化の状態にあれば、ミトコンドリアも酸化することもなく、ATPを過不足なく提供できて、人体も健康でいられるということだ。どうやら、このソマチットが劣化してバクテリアのように巨大化すると、免疫が下がって癌などが発症することが判明している。ソマチットとミトコンドリアの良好な共生こそが、人間の生と死に関わっている。

※ミトコンドリアを良好な状態に戻す効果がある食料やサプリが知られていますし、適切な運動があることが解っています。ところが、このソマチットという生命体を健康的な活動をする原始相にする食べ物やサプリは、まだよく解っていません。これからの研究によって、ソマチットをバクテリア相から原始相に復活させるようなものが発見されて利用されるようになると、人間は健康で長生きできることになります。癌などの深刻な病気を抱えている方に、ソマチットを活性化するための様々な方法を、イスキアの郷しらかわでは無償にて個別にお伝えしています。問い合わせフォームからお問い合わせください。