行政による少子化対策は効果がない訳

 国が少子化対策の財源を、健康保険料に追加徴収する案が示されて、猛反発をされている。少子化対策費を国民から医療保険税として徴収するのは、増税というそしりを受けたくないという姑息な魂胆があるからである。そもそも、行政による少子化対策が実際に効果を表しているのかの検証もされていない。何等かの少子化対策をしないと、高齢になった国民を支える労働者人口が不足してしまい、財政規律が保てなくなるからと必死になっているのであろう。しかし、行政による様々な少子化対策の効果は殆どなく、少子化の傾向は止まらない。

 行政による少子化対策とは、主に出産費用や育児費用に対する援助金、産み育てる保育所の充実、育児休暇取得をしやすい環境と支援制度、男性が育児に参加しやすい労働環境の整備などが実施されている。確かに、こういった少子化対策はある程度の効果はあるが、大きな成果を産みだしていない。ということは、本当の少子化の原因を政府は把握していないということになろう。政府だけではなく、県や市町村の行政も少子化の本当の原因を把握していないし、多くの国民も認識しているとは到底思えない。だから少子化は止まらないのだ。

 少子化の本当の原因は、経済的な理由や産み育てられる環境が不整備だからということではない。そもそも、子どもを産みたくないと55%以上の若者たちが思っているのだ。どんなに経済的に余裕があっても、育児環境が整えられても、若者たちが子どもを産もうとしないのでは、少子化対策は無駄になる。どうして若者たちは子どもを産まないのか。それは自分自身が、心から十分な幸福感を味わうような子育てをされなかったからである。だから、自分と同じように不幸感を持つ子どもを、この世に送り出したくないと思うのは当然だ。

 そんなことはない、十二分に幸福な思いをさせて育てて来た筈だと思う両親は多いかもしれない。また、愛情をたっぷりと注いで育てたと認識している親は少なくない。それは、あくまでも親の感じ方であって子どもの感じ方は別である。愛情をたっぷりと注いできたと思っているのは、無条件の愛ではなくて条件付きの愛である。多くの子どもたちは、親にあまりにも支配され干渉され過ぎて、自分らしく自由に生きられず、生きづらいと感じていたのではなかろうか。そして、自分のことをまるごと愛することが出来なくなったのである。

 自分のことをまるごと愛せる人間でなければ、他人を心から愛することが出来ない。その証拠に非婚化が進んでいて、若い世代の離婚も急激に進んでいる。そもそも恋愛も出来ない若者なのだから、結婚も出産も無理なのだ。どんな自分でも大好きだと言える、絶対的な自己肯定感が育っていないのである。ましてや、自分の両親の結婚生活が幸福だと感じられないのだから、結婚したいと思わないのは当然である。特に、母親が家事や育児に1人で苦労していた姿を間近に見ていた娘が、あんな苦しみを味わいたくないと思うのは当たり前だ。

 ましてや、自己中で身勝手で妻に対する思いやりのかけらもないような横暴な父親の言動を身近に見ていた娘が、男性に対して恋愛感情さえも湧かないのは当然ではなかろうか。さらに、母親がまるごとありのままに父親から愛されて満たされていなければ、我が子を無条件で愛することは難しい。子どもはありのままにまるごと愛されなければ、絶対的な自己肯定感が確立されないであろう。自尊感情が根底にあってこそ、自分をまるごと愛せるし、相手をありのままに愛せる。非婚化や少子化が起きている根底には、自己肯定感が欠如した若者が増えていることが影響しているのは間違いない。

 非婚化や少子化が若者たちの間で急激に進んでいるのは、経済的な理由や環境のせいではなく、若者たち自身の自己肯定感が育っていないからである。それは学校教育のせいではなく、家庭教育が間違っているからである。行政の責任ではないとは言いながら、価値観や思想の教育を怠ってきた学校教育にもその責任の一端はあるとも言える。子どもたちに正しく豊かな母性愛と父性愛を注ぐ家庭教育をしないと、非婚化と少子化が益々進んでしまうであろう。日本という国家の存亡に関わる重要課題なのに、その原因を正しく把握していないというのは困ったものである。行政を担う政治家と行政職は、正しい見識を持ってほしいものである。

佐藤初女さんが人々を癒せた訳

 天国に召されてしまった森のイスキアの佐藤初女さんは、数多くの病める人々を癒した。こんなにも多くの人々の悩み苦しみを聞いて、そっと寄り添い勇気と元気を与えてくれた人は他にいない。どうして、佐藤初女さんは、どうしてこんなにも多くの人々の心身を癒せたのであろうか。その訳は、佐藤初女さんが専門家でなかったからだと言えば、それはおかしいと思う人がいるかもしれない。心身の病気になった人を治せるのは、その道の専門家にしか出来ないと思うであろう。でも、初女さんは専門家でなかった故に癒せたのである。

 どうして、人々の心身を癒すことが出来たのかと言うと、初女さんは医療の専門家じゃないから、診断や分析をしなかったし、治そうとしなかったからである。医療の専門家というのは、まず患者に対する問診や検査をして、分析して診断する。その診断に基づき診療計画を立てて、最善の投薬や治療をする。メンタルの疾患であれば、投薬だけでなく、カウンセリングや精神療法、各種療法を駆使して患者を治すのである。患者の精神を健全にしようとして、ドクターはカウンセラーやセラピストと協力しながら、治療をするのである。

 初女さんは、森のイスキアを訪れる心身を病んだ方々を、無理に治そうとはしなかったのである。勿論、医療の専門家でない初女さんだから、精神分析やカウンセリングもしなかったし、診断をする筈もなかった。治療計画なんて立てようもないし、実際に治療をしようともしなかったのである。それなのに、森のイスキアを訪れた多くのクライアントは、心身を癒されて元気になり、社会に復帰していったのである。初女さんは、クライアントに寄り添い、ただ話を聞くだけで無理に問い質したり助言をしたりすることはなかったのである。

 佐藤初女さんがクライアントの心身を癒して、勇気と元気を引き出せたのは、奇跡のおむすびや心の籠った食事のお陰だと思っている人が多い。確かに、それもひとつの重要な要因ではあるものの、単なるツールに過ぎない。同じようなおむすびや料理を提供したとしても、初女さんという存在がなければ、あれだけ多くのクライアントを元気にすることは出来なかったであろう。それだけ初女さんという存在は大きかったのである。彼女は、科学の専門家でもないのに、人体と精神の科学的な仕組みを上手に活用していたのである。

 どういうことかというと、まずは人体や精神がひとつのシステムだということを、初女さんは認識していたとしか思えないのである。人体は一つの全体であり、その人体を構成する要素どうしのネットワークがある。このネットワークシステムは、各々の構成要素どうしが『関係性』を持っており、それ故に『自己組織化』の働きがあるし、オートポイエーシス(自己産生)の機能を発揮できる。つまり、人間という生き物はひとつの完全なるシステムであり、このシステムのネットワークがエラーを起こして、心身の病気が起きるのである。

 そして、関係性が劣化したりお互いの互恵的つながりが破綻をしたりしてしまうと、自己組織化が働かず、自己成長や自己進化が止まってしまうだけでなく、後退してしまうのである。これが心身の病気という状態である。こうなってしまった人間に、治そうとしてこうしなさいああしなさいと指示をしたり強要したりすると、自己組織化が阻害され、さらに悪化してしまうのである。診断をして分析をして原因を特定して、その原因を無理やりに外的な力でつぶそうとすると、症状が改善することはないし、別の症状さえ起きてしまうのである。

 佐藤初女さんは、そのことを直感的・経験的に知っていたからこそ、クライアントの話に耳を傾け共感するだけだったのである。そして、心の籠った食事を提供してクライアントとの関係性を深めることに傾注したのである。クライアントが例え間違った考えを持ち誤った行動をしていても、その誤謬を指摘することも直させることもしなかった。ただ、クライアントが自分で気づき自ら治す力があるということを見抜き、信頼したのである。そして、見事にクライアントは自らを癒すことができたのである。自らの病気を自らの力で治した経験がある初女さんだからこそ可能なのだ。第二第三の佐藤初女さんが出てくれることを祈るだけである。

※イスキアの郷しらかわでは、佐藤初女さんを目指そうとする方々をサポートしています。どうやって、佐藤初女さんが多くの人々を癒すことが出来たのか、佐藤初女さんのような活動をするには、どうすれば良いのかの講義と研修を開催しています。極めて科学的な根拠を示しながら、納得の行くまで説明をしています。システム思考、オープンダイアローグ、ナラティブアプローチなどの最新の科学的な療法と、最新医学のポリヴェーガル理論なども伝えています。佐藤初女さんは、そういった最新の療法を誰にも習いもせず、自然と実施していました。問い合わせ・申し込みのフォームから申し込みください。直接、お電話をいただいても結構です。(プロフィールの名刺に電話番号とLINEアカウントが記載されています)

京アニ放火殺人事件の犯人は怪物か

 京都アニメに放火して、殺人罪として起訴された青葉信二被告は、一審判決で死刑を宣告された。青葉被告は死刑判決を不服として控訴した。あまりにも残酷なこの事件を起こした青葉被告は人間ではなく、とんでもない怪物だとするSNSの書き込みが多い。あんなにも多数の犠牲者を出しながら、反省の言葉なく自分の正当性しか主張せず、犠牲者に対する謝罪の気持ちもないのは、モンスターとしか思えないという主張をする人も多い。普通の感覚を持っている良識ある人にとっては、怪物にしか見えないのであろう。

 確かに、常人には理解できない行動である。いくら酷い虐待や仕打ちを親から受けたとしても、最終的には自己責任だと言う人もあろう。社会的にいくら恵まれなかったとしても、そういう生き方を選んだのは自分自身だから、親や社会のせいにすべきではないという主張も見られる。おそらく、死刑判決も妥当なのだから、控訴なんてしないで刑に服して欲しいと思っている国民が殆どであろう。被害者やその家族と遺族の心情を思うと、被告には極刑で償ってもらいたいという気持ちになるのは当然かもしれない。

 このような残虐な事件を起こす犯人に共通しているのは、そのあまりにも悲惨な家庭環境である。親との愛着関係において、殆どが問題のあった犯人だ。端的に言えば、親からあるがままにまるごと愛されて育ち、親との関係がとても良好な人間が、凶悪な事件を起こすことはない。ただし、一見すると経済的に裕福で両親の愛情をたっぷりと受けながらも、凶悪事件を起こすケースもある。しかし、それは条件付きの愛情であり、過干渉や過介入を受け続けて育てられた場合であり、無条件の愛情を受けた訳ではないと言える。

 青葉被告は、まさしく無条件の愛は勿論、条件付きの愛さえもまったく注がられることなく育った。そればかりではなく、父親から酷い虐待を受け、四六時中殴る蹴るの暴力を受け続けて育ったとの供述が得られている。ろくな稼ぎをしない青木被告の父親を見かねて、妻がミシンの営業で大きな実績を収めた。それが気に入らないと妻と子に八つ当たりして暴力を奮ったとされている。青葉被告の母親は、家を出るしかなくなり離婚する。この事件も、青葉被告の心に深い影を落とすことになった。その後、父親の暴力はエスカレートしたのである。

 親からの愛情をまったく受けられず育った人間が、まともに育つ筈がない。ましてや、大好きな母親さえも自分を見捨てたと思い込まされて育った人間が、人を信頼出来ないのは当たり前である。同じように親からの愛情をまったく受けられず、父親から酷い虐待を受けて育った人物がいる。大阪大学付属池田小学校の殺傷事件を起こした宅間守死刑囚である。連続幼女誘拐殺人事件を起こした宮崎勤死刑囚もまた、親との愛着が形成されなかった。秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大死刑囚も酷い教育虐待を受けて、歪んだ愛着を抱えていた。いずれも愛着障害と言ってもよい。

 このように、悲惨な家庭環境と養育環境があって凶悪事件を起こした犯人を列挙すれば、きりがない。他にも、沢山の凶悪事件を起こした犯人がいるが、似たり寄ったりの養育を受けている。ただし、養育環境が悲惨で愛着障害を抱えると、凶悪事件の犯人になってしまうかというと、けっしてそうではない。社会に対する憎しみを持ち攻撃的になるケースと、自分を責めて自身の存在を消してしまおうとする人がいる。どちらになるかは紙一重なのである。青葉信二被告のように虐待やネグレクトを受けて育った人物は、親に対する憎しみを社会に転化する危険があるのは間違いない。

 青葉信二被告は、けっして怪物ではない。極めて稀なモンスターだと決めつけて、滅多に産まれることがない特別な存在だと思ってほしくない。彼のような愛着障害の人物は他にも沢山存在するし、同じような凶悪犯罪を起こしかねない人間は大勢いるのだ。だからこそ、彼のような存在を産み出さないように、正しい子育てや教育をする世の中に変革しなければならないのである。母性愛と父性愛を正しく注げるような社会を構築しなければならない。我が子をあるがままにまるごと愛せる母親と、しっかりと正しい父性愛を発揮できる父親が子どもには必要なのである。二度とこのような酷い愛着障害の子を産み出さない為に。

真実はあきらかにすべきか否か

 真実は明らかにすべきなのか?と問われれば、当然真実は明らかにしなければならないと殆どの人が答えるであろう。すべての国民・市民は真実を知る権利があるし、それを社会に対して明らかにする義務があると考えるのは当然だ。しかし、すべての真実を明らかにしなければならないかというと、それは原則としてという文言を付け加えるべきであろう。ましてや、世の中には真実を語る人とか真実ユーチューバーと呼ばれる人物が存在するが、そこで語られる真実というものは、科学的にも実証されていないから、注意が必要だ。

 真実というと簡単に信じてしまう人が多い。自分でも確認せずに、TVや新聞で報道されたりネットで配信されたりすると、妄信してしまう人が少なくない。特に、ネット上において陰謀論だとして、真実はこうだと配信されると信じてしまう人が多い。その確認されていない『真実』は簡単に拡散されてしまい、益々その『真実』はいかにも本当のことだと思い込まされてしまうのである。米国議会が暴徒に襲われて多くの犠牲者を出してしまった事件も、陰謀論によっていかにも『真実』だと思わされた人々が起こしたのである。

 これは真実だからと言われても、妄信してしまうのは危険である。ましてや、いくら真実だと言われても、深く洞察すればそれが嘘だと解る筈である。嘘なのに真実だと勘違いしてしまい、嘘を拡散したら大変なことになる。もしかすると、その嘘を信じた第三者の人生を台無しにすることだってある。陰謀論を信じてしまう人と言うのは、元々HSPの傾向にある人なので、不安や恐怖感が元々強い人である。トラウマを抱えやすい人なのに、益々その傾向が強くなり、PTSDやパニック障害を起こしやすくなる。不幸になることもある。

 陰謀論などで言われていることが、よしんば真実だとしよう。そのケースならば、人々を覚醒させてあげたのだから、良いことをしたことになると思う人も多いことであろう。陰謀論を拡散している人々は、自分が社会に対してすごく良いことをしているという自負もあろう。ところが、これもまた良し悪しなのである。例え真実であったとしても、人々を恐怖に陥れたり、結果として社会の分断を招いたりするような情報ならば、それは悪影響を与えるに過ぎない。お互いの関係性を損なわせることは、絶対に避けなければならない。

 今、米国ではトランプを信奉する人々と反トランプ派の人々との対立というか断絶が酷いレベルで起こり、強烈な敵対が進んでいる。これもQアノンの情報操作が強く影響していると言われている。陰謀論を妄信している人々が、トランプはその陰謀をたくらむ人々を駆逐してくれると固く信じているらしい。それがあの米国議会乱入事件を起こしたとも言われているのである。そして、さらにお互いの非難合戦はエスカレートして、国民の分断に発展している。同じ国民どうしが、暴力を用いてまで反発するというのは異常である。

 この世の中は、ひとつのシステムによって成立しているし、システムが世の中を予定調和や全体最適に導いている。これは、宇宙全体もそうであるし、ひとつひとつのコミュニティも同じだ。家族という共同体も、市町村や法人というコミュニティだって例外はない。これらのシステムの中のそれぞれの構成要素が、自己組織化という機能やオートポイエーシス(自己産生)という正常な働きを発揮するには、良好な『関係性』が根底にあらねばならない。この関係性が破綻すると、全体最適や全体幸福は実現せず、コミュニティは崩壊してしまうのである。システムである企業の破綻や家族崩壊も、すべては関係性の悪化によって起きるのだ。

 国家もひとつのシステムである。その構成要素である一人一人の国民どうしの関係性が悪化すると、内乱とか内戦が起きるのだ。地球もひとつのシステムであり、国どうしの関係性悪化により戦争が起きる。だからこそ、真実の情報だったとしても、国民の断絶や国どうしの関係性悪化を惹起するような情報を拡散することには、慎重であらねばならないのだ。陰謀論は、国民の分断を誘発させるリスクを持つ。だからこそ、陰謀論の拡散には慎重な態度が必要だし、真実かどうかの徹底的検証も必要なのである。真実だと思い込むのも危険である。真実を明らかにすることが、正義ではないケースがあるとも言えよう。

※イスキアの郷しらかわでは、心身を病んだ方々を個別サポートしていました。心身を病んだ方々に本当の疾患名と真実の原因を伝えてしまうと、家族の関係性を損なってしまい、症状の悪化を招いてしまうので、あえて真実を明らかにしない選択をすべきだということも学びました。そうした方が、クライアントが幸福になるし治癒するからです。本当だからと、疾患名や原因を安易に告げるべきではないのです。妄想性の障害の方に、それは妄想だと告げると益々頑なになり心を閉ざすので、敢えてその妄想に付き合うことも必要なのです。

育てにくい子を育て直す

 育てにくい子は発達障害グレーゾーンと不安型愛着スタイルがあるということを、まずは親が認識する必要がある。そして、お母さんだけに子育てを任せないで、父親や祖父母にも育児・教育の役割分担をしてもらうことが肝要である。特に、父親には正しい父性愛を注いでもらう必要がある。何故なら、母親が母性愛に専念できないからだ。母親が母性愛と父性愛を同時進行的に注いでしまうと、育てにくさは解消できない。もし、父親が子育てに非協力的であれば、何度も誠意を持って説得すべきだ。それでも駄目なら、別居をするしかない。

 世の中の父親の多くは、ともすると子どもに嫌われたくないと、子どもにおもねるような態度を取りがちだ。だから、子どもの味方のふりをする傾向がある。自分自身も発達障害グレーゾーンである父親は、精神的に幼稚で自分が嫌われたくなくて、面倒なことを避けたがる。子どもと正面から対峙して、例え自分が嫌われても正論を子どもに伝えなくてはならない。それを父親がしてくれるから、母親は安心して子どもをあるがままにまるごと愛することが出来る。母性愛だけをたっぷりと注ぐ子育てが、すべての出発点である。

 育てにくい子どもは発達障害グレーゾーンであり、当人も生きづらさを抱えている。そして、いつも不安や恐怖感を抱えている。自分が嫌われてひとりぼっちになってしまうのではないか、大切な人から見捨てられるのではないか、という不安を抱えている。だから、無意識下で自分が嫌われたり叱られたりすることを敢えて実行して、相手を試すのである。これがいわゆる試し行動である。だから、保護者はそのことを理解して、どんなことがあってもけっして揺るがない愛情を注ぐ必要があるのだ。試し行動に惑わされないことだ。

 育てにくい子を持つお母さんは、心身共に疲れ切ってしまい心が折れてしまっている。そんな状況に子どもが試し行動を、これでもかこれでもかと何度も起こしてくる。夫やその他の家族の子育て協力がないケースでは、相談する相手もなくて、孤軍奮闘をしがちである。ついつい試し行動を感情的に叱ってしまう。これでは逆効果になってしまう。なにしろ、育てにくい子どもは、不安型愛着スタイルをも抱えているから、安全で安心な居場所がないのである。安全と絆を提供してくれる『安全基地』がないので、いつも不安を抱えているのだ。

 育てにくい子どもを育て直すのは、並大抵のことではない。育てにくい子どもというのは、実は人間本来の生き方を実践しているからである。自由な生き方を望んでいるのだ。どういうことかというと、人間は元々自己組織化する働きがあり、オートポイエーシス(自己産生)という機能を生まれつき保持している。そしてこの自己組織化とオートポイエーシスの機能は、周りの人間から強く干渉や介入をされてしまうと、低下するばかりか無くなってしまうのである。そして、家族との愛着関係が希薄化してしまうと、益々自己組織化とオートポイエーシスの機能が働かなくなるのだ。

 育て直しにおいて、同じ轍を踏んではならない。育てにくい子というのは、愛着関係が薄くなり干渉を受け過ぎて、自己組織化とオートポイエーシスの機能が低下している。社会常識や親にとっての常識を、子どもに無理に押し付けてはならない。育てにくい子は、誰にも束縛されず自由気ままに生きたいのである。まずは、育てにくい子というのが特別なギフトを与えられた素晴らしい存在なのだということを、両親は認識しなくてはならない。そのうえで、子どもの尊厳を認め受け容れ、あるがままにまるごと愛することから始めなければならない。

 育てにくい子が生まれてくる本当の理由は、親に深い気付きや学びを授けたいからである。その学びというのは、人間とは本来あるがまま自由に自分らしく生きる存在だということである。お母さん自身が、有形無形の過干渉をされてしまいあまりにも良い子で育ち、自分らしく生きることが制限されてしまい、生きづらい生き方をさせられてしまったのだ。そのことを、育てにくい子を育て直しすることで、深く学ぶことが出来て、自分が人間本来の生き方に変わるチャンスをもらっているのである。育てにくい我が子をぎゅっと抱きしめて「お母さんにギフトをくれてありがとう」という言葉を何度もかけてあげれば、子は変わる。親が変われば、子は必ず変わる。

※育てにくい子を持つお母さんにこそ、安全と絆を提供してくれる『安全基地』が必要です。イスキアの郷しらかわでは、個別支援はしないと方針変換をしましたが、メールによる簡易な相談には応じます。安全基地にはなれませんが、困った時の相談相手にはなりますので、問い合わせフォームからご相談ください。

育てにくい子になってしまった訳

 世の中の多くのお母さんが持つ共通の悩み、それは『どうしてこの子はこんなにも育てにくい子になってしまったのだろう?』である。愛情をたっぷりとかけて、何不自由のない幸福な生活が出来るようにと、せっせと世話を焼いて育てたのに、何故こんなにも育てにくい子どもになったのだろうと悩んでいるのである。幼児期の頃には、あんなにも素直で良い子だったのに、小学生の頃からどういう訳か手のかかる子になってしまい、しまいにはことごとく親の言うことを、まったく聞かないか守らない子になってしまったのである。

 中学生から高校生になった子どもは、何を考えているのか解らず、突拍子のような言動をして母親を困惑させてしまっている。ごく普通の子育てをしてきたつもりなのに、どうしてこんなにも育てにくい子どもになってしまったのか、訳が分からず途方に暮れてしまっているお母さんが実に多いのである。そして、このような場合共通しているのは、お父さんは困っていないし、大変なことだという認識がないのである。それだけでなく、この育てにくい子どもの味方をする始末で、許せないのは躾の邪魔をしてしまうことである。

 世の中の多くのお母さんたちは、自分が育てられたと同じように我が子を育て上げるのが常である。自分自身がまともに育ち、どちらかというと良い子だと評価を受けて育ってきた。両親からも、そして社会的にもある程度の良い評価を得られているし、何も問題なく普通に生活を営めている。自分と同じように愛情をかけて我が子を育てたつもりなのに、どうしてこんなにも育てづらいのか訳が解らない。原因さえ解れば手の打ちようもあるし、何とか対策や改善策が見つかればと探求をするけれど、解決策は見つからない。

 とても育てにくいとお母さんが感じるのは当然で、ことごとくお母さんの常識や社会的常識と違うことを子どもは平気でしてしまうのである。勉強や片付けは後回しにして、ゲーム・コミック等にはまってしまう。ひとつひとつの動作が遅くて手際が悪く、いつも夜遅くまで起きている。朝はひとりで目覚めることが出来ず何度も起こされてようやく目覚め、朝の準備も出来ず忘れ物も多い。学校からの宿題・課題はいつもぎりぎりか、期限を過ぎるのが常。なにしろ勉強は後回しで、自分の好きな事だけに熱中する始末。

 育てにくい子どもになってしまった原因は、元々その子の遺伝子にあるかもしれない。現代の医学の急激な発達に伴い、乳児死亡率は飛躍的に低下した。一昔前には、遺伝子にエラーがあり脳機能の障害がありながらも産まれてきた子どもは、当時の医療水準では助けるのが難しく、死産または早逝していた。ところが、周産期医療の発達と小児科医療の水準向上により、脳の器質的な障害があっても助かるようになったのである。これは、喜ばしいことであるが、一方では社会に適応しにくい子どもさえ、生存が可能になったのである。

 こうして医学の発達により生き延びてきた子どもたちを、ごく普通の子どもだと思って子育てをしてしまうと、持って生まれてきた少し変わった気質や性格を、益々強化させてしまうのである。こうして、発達障害グレーゾーンと呼ばれる育てにくい子どもが、増えてきているのである。ここで注目すべきは、親はとても育てにくい子どもだと感じてしまうのだが、当の本人は自分が育てられにくいという認識はなく、生きづらいというように感じているという点である。そして、自己組織化やオートポイエーシスの機能が働かなくなっているのである。

 育てにくい我が子が、発達障害のグレーゾーンであるという認識を親が持たないが故に、お母さんは子育てに心身ともに疲れ切ってしまうのだ。ましてや、こういうケースのお父さんは自分自身も発達障害グレーゾーンであるから、子育てを苦手にしているので逃避してしまう。当然、子育ての役割の殆どが母親の分担となる。さらに不幸なのは、母親があるがままにまるごと愛する母性愛だけでなく、躾の愛としての父性愛まで注がなくてはならない点である。こうなると、母親は育てにくい子に対して、さらに強い過干渉と過介入を繰り返すことになる。益々、発達障害グレーゾーンは強化されてしまい、不安型愛着スタイルを抱えることになる。育てにくさが益々増大してしまうのである。

※次回のブログでは、育てにくい子をどのように育てればいいのかをお伝えします。

君が心をくれたから

フジTV系列で放映している月9の今度の新ドラマは、『君が心をくれたから』というシリアスな恋愛物語である。永野芽郁と山田裕貴が主演する青春ドラマで、若者向けの物語だと思われるが、初回を見た限りではなかなか良くできた脚本である。ヒロインは母親から虐待を受けて育った愛着障害の女性で、強烈な自己否定感に苦しんでいる。男性の主人公は、色覚障害者の花火師見習いで、厳格な父親から一人前として認められていない。どちらの二人とも、生きづらさを抱えている現代の若者を象徴しているような青春ドラマだ。

ヒロインの女性は、母親から受けた虐待を受けた体験が、強烈なトラウマとして残っていて、今でもフラッシュバックして苦しめている。パティシエになりたいと都会に出て修行を積んでいたが、ミスを繰り返してはどこの店でも挫折を繰り返して、心が折れてしまっている。それが奇跡のような出来事を通して、自分自身を取り戻すというファンタジー物語らしいが、2回目以降どのように進展していくのか楽しみである。そして、しばらくぶりでTV主題歌を担当するのが宇多田ヒカルで、書き下ろしの珠玉のバラードである。

毒親からの虐待によってトラウマ化してしまい、大人になってもまだ苦しんでいる人は少なくない。乳幼児期から虐待やネグレクトを何度も繰り返して受けて育った子どもは、殆どが愛着障害を抱えることになる。そして、何度も心的外傷を受けることにより、複雑性PTSDという難治性の精神疾患を抱えてしまう。そして、この疾患を抱えてしまうと、どういう訳か自閉症スペクトラム障害(ASD)という発達障害を二次的症状として起こしてしまう。このドラマで描かれているヒロインもまた、同じような疾患と障害を抱えている。

このドラマの脚本家は、どうしてこのような精神疾患のことを知ったのか不思議だが、誰か知っているモデルがいたのかもしれない。見事な脚本だと思う。現代は、障害者に対してある意味冷たくて残酷な部分がある。発達障害の子どもに対して、学校でいじめをしたり無視をしたりする心無い子どもがいる。また、職場においても発達障害者に対して、まるでゲームを楽しんでいるかのようにパワハラやモラハラを仕掛けるバカ社員や上司がいる。障害者が生きづらい世の中である。このドラマは、このような社会の闇をも描いている。

愛着障害を抱えることで強烈な自己否定感を持ってしまい、複雑性PTSDになりASDという発達障害を起こしてしまうと、非常に治りにくい。医学的アプローチでは、治すことが極めて困難である。根底に愛着障害があることから、傷付いて歪んだ愛着を癒すことでしか心を癒せないからである。ましてや複雑性PTSDは、通常のカウンセリングによるトラウマ暴露療法をしてしまうと、逆に症状を深刻化しかねない。精神分析をして本人に原因を軽率に伝えてしまうと、自分を益々否定してしまい症状が悪化しかねない難しさがある。

毒親からの虐待やネグレクトを受けて育ち、複雑性PTSDという難治性の精神疾患を抱えてしまった人を、唯一癒すことが出来る方法がある。無条件の愛である母性愛を受けずに育って傷付いた愛着を抱える人を癒せるのは、あるがままにまるごと愛してくれる存在しかない。勿論、普通の医療機関や障害者サポート施設では無理だ。何故かと言うと、自分だけを愛してほしいと思う利用者に、無条件の愛を独占して注ぐことは不可能だからだ。けっして揺らぐことのない愛と絆を提供してくれる、絶対的な安全基地が必要なのである。

臨時的ではあったとしても、誰しもこの絶対的な安全基地になれる訳ではない。自己マスタリーを実現していて、豊かなホスピタリティーが発揮できて、メンタリーゼーション能力に長けている人物である。ましてや、愛着障害を抱えている利用者は『試し行動』をして、支援者が自分を見捨てないかどうかを、わざと嫌われる言動を繰り返し試すのである。こういった試し行動にも揺るがず、まるごとありのままに利用者を愛し続けられる支援者なんて、そうざらには居ないであろう。君が心をくれたからというドラマが、どうやってお互いの傷付いた心を癒していくのか注目したい。

※愛着障害を抱えた様々な心身の不調を抱えていた方々の安全基地として機能して、心を癒して差し上げていたのが、今は亡き森のイスキアの佐藤初女さんです。彼女のようになりたいと思う方々は多いのですが、それだけの資質と能力、そして人間性と哲学を兼ね備える人は、残念ながら居ません。佐藤初女さんに近づきたいという高い志を持った方を、私は支援しております。

結婚と出産を望まない女性たち

 韓国では非婚主義を実践する女性が急増しているという。日本においても、マスコミは取り上げていないが、非婚主義と出産しないことを貫く女性が増えている。婚姻をしたとしても、敢えて出産しないという女性も少なくない。対外的に宣言はしないものの、絶対に出産はしたくないと心に決めている女性が多いのである。少子化が社会的大問題になっていて、経済的な理由や育児に対する負担や不安が多いという理由から、出産を選ばないと思われているが、実はそもそも結婚と妊娠を望まない女性が多くて少子化が起きているのだ。

 その証拠に、様々な出産に対する経済的支援や産み育てられる環境改善策を政府行政が進めているのにも関わらず、一向に少子化が改善できていない。どんなに出産や育児に対する支援策を実施したとしても、そもそも婚姻や出産を女性が望まないのだから、少子化が止まらないのは当然である。婚姻を望まず、頑なに出産を拒む女性がいるというのは、一昔前には考えられないことだった。どうして、そんな状況が解らなかったのかと不思議に思うだろうが、誰もがそんな女性がいるとは、予想もしなかったからである。

 それでは、どうして婚姻を望まないばかりか出産を拒んでしまうのであろうか。世の中の中高年者にとっては、まったく理解できないことである。ましてや、自分が大事に育てた娘が、結婚や出産を敢えて望まないとは、想像も出来ないに違いない。適齢期になれば結婚をしたいと望むだろうし、子どもを産み育てたいと我が子が願うだろうと、親なら誰しも思うに違いない。出産を望まない女性がいないという前提があるから、アンケートによる統計調査をすることもない。調べようともしないから、出産を望まない理由も解らないままだ。

 結婚を望まない女性が徐々に増加しているのは、周知の事実である。その理由は、いろいろと挙げられているが、自分の描いたライフプランに結婚と言うステップがないからだと思われる。仕事などを優先する人生を全うしたいという女性には、結婚がその大きな障壁になると予想するから独身を通すのかもしれない。仕事と家庭を両立させるのは、論理的には可能であるが、海外勤務や転勤を繰り返すキャリア志向の女性には、極めて両立は難しい。また、夫と子どものために自分の夢を諦めたくないと思う女性が増えてきたように思う。

 これらの理由以外に、女性が結婚と出産を望まない深刻な訳があることを認識している人は少ない。その深刻な理由とは、不安定な『愛着』のまま成長してしまったことによる影響である。酷いケースは『愛着障害』であり、そこまででなくても、愛着に問題を抱えた女性は、結婚したがらないし出産を望まないのである。不安定な愛着の中でも、不安型愛着スタイルという障害を持つ人は、病識もないことから自分でも異常だと気付かない。愛着に問題を抱えている人たちは、自尊感情を持てないが故に、子を産み育てるのを無意識下で拒んでしまうのである。

 自尊感情、または絶対的な自己肯定感を持てないと、自らの遺伝子を後世に残したいと思えないのである。どういうことかというと、自分をまるごとありのままに愛せない人は、自分の分身をこの世に残したくないのである。夫婦としての良好な関係性を構築することが不得意だった両親を持つと、子は愛着に問題を抱えやすい。そして、三歳頃までの乳幼児期に、ありのままにまるごと愛されるという経験をしていない。無条件の愛情である母性愛を与えられなかった人は、絶対的な自己肯定感が確立されていないので、愛着が不安定であり、自分でも安定した恋愛関係を築けないのだ。

 親からあるがままにまるごと愛されて育った人は、豊かな愛着が確立されるので、絶対的な自己肯定感が確立される。自分に対する寛容と受容があり、自分のことが大好きでどんな自分でも愛せる。こういう安定した愛着を持つ女性は、安定した愛着を持つ男性に巡り会えて、幸福で愛が溢れるような家庭を築ける。ところが、親から所有・支配されて制御を受け続け、指示や命令を受け続けて育った女性は、自己組織化が起きない。自己組織化が出来ずに育った人間は、オートポイエーシス(自己産生)が働かず、子孫を残そうとしないのである。少子化の本当の原因は、愛着障害にあると言えよう。

※親から支配されコントロールされて育った人は、結婚したがらないし出産を望まないようになることが多いものだと、イスキアの活動から得た実感があります。そして、毒親からの支配を逃れるために、一刻も早く家を出たいからと、しょうもない男と結婚をしてしまうケースが多く、結婚生活はやがて破綻してしまいます。自分と同じように苦しむ子どもを産みたくないと思うのも当然です。また、このような不安型愛着スタイルの女性は、ダメンズと何度もめぐり逢い、その度にトラウマを蓄積してしまうのです。

 

あるがままに生きるとは

今年の抱負を『縄文人の生き方を目指す』と宣言したが、それは『あるがままに生きる』という意味でもある。このあるがままに生きるというのは、言葉では簡単に言えるものの、実践するのは非常に難しいことだと言える。人間と言うのは、自分に関わる人や周りの人々に対して、常に気を使って生きているからだ。あるがままの自分をさらけ出したら、自分が嫌われてしまうのではないか、ひんしゅくを買ってしまうのではないかと、臆病になってしまうのだ。ある意味『いい人』を無意識で演じてしまう傾向があると言える。

殆どの人たちは、あるがままに生きるという意味を、はき違えているような気がする。あるがままに生きるというと、多くの人々は我儘で身勝手で自己中の自分をさらけ出して自由に生きるという意味で使っているように感じる。確かに、人は誰にも遠慮せずに自由な生き方をしたいものだ。好き勝手な生き方が出来たら、どんなにか楽しいだろうと思うであろう。しかし、それは本当の意味でのあるがままの生き方ではない。それでは、あるがままの生き方とは不自由な生き方なのかというと、そうではない。

あるがままに生きるという本当の意味は、まったく別の意味であり、我儘で身勝手な生き方のことではない。人間は、社会で生きるには社会通念や社会常識に添うことが求められる。社会常識や通念に反する言動をすると、社会から糾弾されるし排除されることもある。社会における倫理や道徳に反する行為も許されない。人間は常識や倫理観に縛られてしまうことが多い。しかし、この常識とか道徳ほど、人間や宇宙の法理・真理に反することが少なくないのである。人間本来の正しい生き方と反する常識や道徳観念が存在するのである。

人間社会における常識とか倫理観というのは、形而上学的に見てみると正しいとは言えないことがたくさんある。何故かと言うと、時の権力者、利権・特権を持つ者にとって都合の良いように捻じ曲げられた常識や道徳が作られた歴史があるからだ。為政者、富を持つ者、利権を保有する者たちは、市民たちが自分たちに歯向かないように、自分たちの権利を奪われないように、巧妙に倫理・道徳、または常識として社会に定着させてきたのである。仏教における教義さえも、権力者に有利なものに改ざんしてきたのである。

一般市民たちは、宇宙や人間の法理・真理に反する常識や道徳、または似非宗教の教義に従わせられてきたのである。だから、心ある人間は生きづらさを感じたし、まともな人間ほど社会に適応出来ないという状況が起きてしまったのである。あるがままに生きるというのは、法理・真理にそぐわない誤った常識や倫理観に操られず、形而上学やシステム思考に従って、自分の信ずる価値観に基づいて粛々と生きるという意味である。間違った常識や倫理観に基づいて作られてしまった自分の固定観念や既成概念を打ち破るという意味でもある。

人は小さい頃からずっと教え育てられたようにしか、物事を判断できなくなるものである。それが正しい価値観に基づいた考え方ならいいのだが、間違った価値観を一度身に付けてしまうと、その間違った考え方から抜け出せなくなってしまう。そうすると、人間本来の生き方が出来なくなってしまい、間違った固定観念や既成概念に支配された生き方しか出来なくなるのだ。これがメンタルモデルというもので、このメンタルモデルが邪魔をしてしまい、あるがままに生きることが難しくなる。固定観念や既成概念を打ち破るのが困難になるのである。

人間というものは、間違った常識や倫理観で生きたほうが、ある意味楽なのである。社会の常識や倫理観に逆らった生き方は、周りの人々から批判を受けやすい。自分らしくあるがままに生きるのは、勇気のいることでもある。あるがままに生きるというのは、魂が喜ぶ生き方とも言えよう。顕在意識と潜在意識が統合される生き方とも言えるかもしれない。人間は、本来誰にも所有されず支配されず、誰にも制御されずに自分らしく生きることが必要だ。これが本当の自由だ。それが実現出来てこそ、自己組織化が起きるしオートポイエーシスの機能も働く。そして、自己進化や自己成長が実現できる。今年こそ、あるがままに生きられるようになりたいと思う。

縄文人的暮らしを目指したい

 新たな年の2024年を迎えるにあたり、今年の抱負を考えていた。今年は70歳を迎えることになるのだが、自分がこの年齢になるとは想像も出来なかった。いろんな経験をしてきたものだとつくづく思う。仕事にも精一杯努力してきたつもりだが、ボランティア活動やNPO活動にも邁進してきた。勿論、家事や育児も、人よりは頑張ってきたつもりだ。仕事、家庭、地域活動と三位一体の活動をバランス良くやってきたという自負を持っている。イスキアの活動も昨年から方針転換をした。さて今年からはどのように生きようか。

 以前から思っていたことだが、縄文人の暮らしに憧れていたことから、彼らのように生きて行けたらいいなと漠然とした思いがあった。勿論、狩猟や採取を中心にした生活を、現代で出来る筈もないが、縄文人のように互恵的共存関係を基本とした平和で心穏やかな暮らしを望んでいる人は想像以上に多いに違いない。縄文人と同じ暮らしは不可能だとしても、彼らのような価値観を基本にした生活は出来そうだ。現代の価値観は、あまりにも損得や利害にシフトしているが故に、心の豊かさを失っている。そんな暮らしを見直したいものだ。

 縄文人が争いのない平和で心豊かな社会を、13,000年もの長い期間に渡り続けていたのは周知の事実である。全世界を見渡しても、縄文時代と同じ時期に戦争や略奪のまったくない平和な生活をしていた文明は存在しない。ましてや、あの時代に高福祉で共存共生のコミュニティを築いていたというのだから驚きだ。縄文人の人骨は各地から発掘されているが、武器による傷がある人骨は全く発見されていない。20代の先天性小児まひの女性の人骨が発掘されたが、一人では生活出来ない筈だから、誰かが生活支援をしていたに違いにない。

 このように、今では考えられないような、素晴らしい価値観に基づいた暮らしをしていたということが尊敬に値する。縄文人は、自分の損得や利害を第一に優先するようなことはせず、全体最適を目指していたし、将来の子孫が幸福な暮らしが出来るようにと、努力したことが判明している。未来の子孫が木の実を豊かに採取できるようにと、せっせと樹木を植えたのである。感覚的に知っていたのであろうが、洪水を防ぐために里山に樹木を植えて治水対策をしたのだ。魚貝類を子孫が豊かに採取できるようにと、豊かな海を守るための広葉樹を植林した。環境保護も含めて、SDG’sを実践していたのである。

 縄文人は、個別最適や個人最適を自分の生き方の中心には据えることなく、全体最適や関係性重視の価値観に基づいて生きていた。だからこそ、縄文人は老若男女すべて、自己組織化を進めることが可能だった。彼らのすべてが、主体性、自発性、自主性、自己犠牲性、責任性、進化性を豊かに発揮できたのである。それ故に、あれほど素晴らしい文化が花を開いたと言えよう。火焔土器を代表とした縄文式土器は、他に類を見ない見事なデザイン性を発揮している。弥生式土器と比較すると、その美しさは際立っていて素晴らしい。

 私有財産を持つと、貧富の差が表出して親族間や一族内での軋轢や争いごとが起きることを縄文人は知っていたのであろう。だから、物を個人所有することをしなかった。そして、縄文人は物だけでなく『人』の所有や支配をもしなかったし、我が子の個人所有もしなかったという。生まれた子どもは、地域の一族みんなで愛情をかけて育てた。夫婦とか親子という所属関係もなかったから、家族という概念もなかったと見られる。縄文時代は女性中心社会の社会だったから、特定の男性と一緒に暮らすことはなく、男性は通い夫(つま)だったと思われる。

 縄文人は、独占欲を持たなかったから、お互いに特定の異性を独占することはなかったであろう。特定の異性を愛することはあったと思うが、現代のように愛情がなくなった伴侶と暮らし続ける仮面夫婦のような関係は絶対に無かった筈だ。占有関係がないからこそ、相手をコントロールしたり縛り付けたりせず、お互いがリスペクトし合えるような関係を続けられたに違いない。そういう意味では、理想の男女関係にあったから、少子化もなくて子孫繁栄もしただろう。現代にも有効な少子化対策のヒントがありそうだ。縄文人は、レムリア人にも通じるのではと考える人も大勢いる。縄文人のような智慧と価値観を生かして暮らしたいものだと、新年を迎えて切に思う。縄文人の細胞記憶を呼び起こしたいものだ。