縄文人的暮らしを目指したい

 新たな年の2024年を迎えるにあたり、今年の抱負を考えていた。今年は70歳を迎えることになるのだが、自分がこの年齢になるとは想像も出来なかった。いろんな経験をしてきたものだとつくづく思う。仕事にも精一杯努力してきたつもりだが、ボランティア活動やNPO活動にも邁進してきた。勿論、家事や育児も、人よりは頑張ってきたつもりだ。仕事、家庭、地域活動と三位一体の活動をバランス良くやってきたという自負を持っている。イスキアの活動も昨年から方針転換をした。さて今年からはどのように生きようか。

 以前から思っていたことだが、縄文人の暮らしに憧れていたことから、彼らのように生きて行けたらいいなと漠然とした思いがあった。勿論、狩猟や採取を中心にした生活を、現代で出来る筈もないが、縄文人のように互恵的共存関係を基本とした平和で心穏やかな暮らしを望んでいる人は想像以上に多いに違いない。縄文人と同じ暮らしは不可能だとしても、彼らのような価値観を基本にした生活は出来そうだ。現代の価値観は、あまりにも損得や利害にシフトしているが故に、心の豊かさを失っている。そんな暮らしを見直したいものだ。

 縄文人が争いのない平和で心豊かな社会を、13,000年もの長い期間に渡り続けていたのは周知の事実である。全世界を見渡しても、縄文時代と同じ時期に戦争や略奪のまったくない平和な生活をしていた文明は存在しない。ましてや、あの時代に高福祉で共存共生のコミュニティを築いていたというのだから驚きだ。縄文人の人骨は各地から発掘されているが、武器による傷がある人骨は全く発見されていない。20代の先天性小児まひの女性の人骨が発掘されたが、一人では生活出来ない筈だから、誰かが生活支援をしていたに違いにない。

 このように、今では考えられないような、素晴らしい価値観に基づいた暮らしをしていたということが尊敬に値する。縄文人は、自分の損得や利害を第一に優先するようなことはせず、全体最適を目指していたし、将来の子孫が幸福な暮らしが出来るようにと、努力したことが判明している。未来の子孫が木の実を豊かに採取できるようにと、せっせと樹木を植えたのである。感覚的に知っていたのであろうが、洪水を防ぐために里山に樹木を植えて治水対策をしたのだ。魚貝類を子孫が豊かに採取できるようにと、豊かな海を守るための広葉樹を植林した。環境保護も含めて、SDG’sを実践していたのである。

 縄文人は、個別最適や個人最適を自分の生き方の中心には据えることなく、全体最適や関係性重視の価値観に基づいて生きていた。だからこそ、縄文人は老若男女すべて、自己組織化を進めることが可能だった。彼らのすべてが、主体性、自発性、自主性、自己犠牲性、責任性、進化性を豊かに発揮できたのである。それ故に、あれほど素晴らしい文化が花を開いたと言えよう。火焔土器を代表とした縄文式土器は、他に類を見ない見事なデザイン性を発揮している。弥生式土器と比較すると、その美しさは際立っていて素晴らしい。

 私有財産を持つと、貧富の差が表出して親族間や一族内での軋轢や争いごとが起きることを縄文人は知っていたのであろう。だから、物を個人所有することをしなかった。そして、縄文人は物だけでなく『人』の所有や支配をもしなかったし、我が子の個人所有もしなかったという。生まれた子どもは、地域の一族みんなで愛情をかけて育てた。夫婦とか親子という所属関係もなかったから、家族という概念もなかったと見られる。縄文時代は女性中心社会の社会だったから、特定の男性と一緒に暮らすことはなく、男性は通い夫(つま)だったと思われる。

 縄文人は、独占欲を持たなかったから、お互いに特定の異性を独占することはなかったであろう。特定の異性を愛することはあったと思うが、現代のように愛情がなくなった伴侶と暮らし続ける仮面夫婦のような関係は絶対に無かった筈だ。占有関係がないからこそ、相手をコントロールしたり縛り付けたりせず、お互いがリスペクトし合えるような関係を続けられたに違いない。そういう意味では、理想の男女関係にあったから、少子化もなくて子孫繁栄もしただろう。現代にも有効な少子化対策のヒントがありそうだ。縄文人は、レムリア人にも通じるのではと考える人も大勢いる。縄文人のような智慧と価値観を生かして暮らしたいものだと、新年を迎えて切に思う。縄文人の細胞記憶を呼び起こしたいものだ。

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