夫婦の相性が最悪だったと後悔する訳

 ピッタリの相性だと思って結婚したのに、いざ一緒に住んでみると、どういう訳か思い違いだったと後悔する夫婦がなんと多いことだろう。中には、仲睦まじく一生添い遂げるカップルもいない訳ではないが、そんなケースはごく稀である。殆どの夫婦は、こんな筈じゃなかったと後悔する日々を送っている。結婚する前は、この人だったらお互いの価値観や性格は申し分ないからと、結婚に踏み切ったのである。ところが、結婚生活を送るうちに、何でこんなにも相性が悪いのだろうと後悔するようになり、その思いが益々強くなるのだ。

 中には、もう我慢できないと離婚したり別居したりするカップルも少なくないし、そこまですると世間体が悪いと我慢して、家庭内別居や仮面夫婦の日々を送る人が殆どである。どうして、こんなにも相性が悪い結婚相手を選んでしまうのであろうか。どうやら、脳科学的もしくは遺伝子学的に考察すると、敢えて相性の悪い相手と結婚して子孫を設けようとするのが生物としての本能らしい。動物どうしのカップルでも同じことが起きるのであるが、人間の場合はもう少し複雑であると共に、より深刻な相性の悪さを抱え込むらしい。

 それが証拠に、何度も結婚を繰り返してしまう人が多い。一度結婚に失敗したとしたら、二度目はより慎重になる筈である。ところが、二度目も失敗すると、三度目も同じように結婚生活が破綻するのである。こんどこそは上手く行くはずだと思って結婚したら、やはり最悪の相性だったと後悔することになるのだ。離婚する原因は、性格の不一致だとするケースが殆どである。つまり、夫婦の性格は不一致になるのが当たり前なのである。相性が最高で、仲睦まじく過ごして一生を過ごす夫婦なんて、例外中の例外なのである。

 さて、寄りによってどうして相性が最悪の結婚相手を選んでしまうのかを、遺伝子学的と脳科学的に考察する。人間という生物は、より優秀な遺伝子を持ち生命力が誰よりも強い子孫を残すという宿命を負っている。自分の遺伝子を後世に残すには、自然淘汰されず生き残っていくような心身がタフな子孫を産み育てなければならない。社会の荒波にも負けずに、様々な生存競争にも打ち勝つ遺伝子を持つ子孫を作ることが必要なんだと、無意識のうちに認識している。その為には、自分とはまったく違う遺伝子を持つ異性を選ぶのである。

 つまり、自分と同じような遺伝子どうしの異性を選んでしまうと、遺伝子の多様性という面では少々物足りなくて、いざという極限状態が起きた時に生き残れなくなるのである。例えば、精神的に繊細で感受性が強過ぎて神経があまりにも過敏な女性がいたとする。そういう女性が、同じようにセンシティブな男性を選んで結婚したとする。そうすると、子孫はより強いセンシティブなパーソナリティを持つことになり、このあまりにも思いやりがなくて平気で相手を傷つけるような社会では、生きて行けなくなってしまうのである。

 その為に、センシティブな女性はどちらかというと鈍感で空気の読めないような男性を結婚相手に選んでしまうのである。その逆のケースもあろう。精神的にか弱い男性が、物事に動じない強いメンタルを持つ女性に惹かれることもある。だから、昔から『破れ鍋にとじ蓋』という諺があるのだ。自分にない遺伝子を持つ相手を、どうしても選んでしまうのである。特に女性は、出会って僅か数秒で遺伝子の違いを体感するというのである。これが、一目惚れである。そして、結婚してからことごとく意見が違う事に気付くのである。

 こんな最悪の相性を持つ伴侶を選んでしまったら、どうしたら良いのであろうか。離婚するという選択肢もあることにはあるが、違う相手を選び直してもどうせまた相性の悪い相手を選んでしまうのだから、諦めて家庭内別居とか仮面夫婦を演じて過ごすという選択肢もある。それは寂しいと思う人も多いかもしれない。所詮、どのような夫婦も同じようなものなのだから、割り切って過ごすのもありかもしれない。ちょっと親切なお隣のおじさん(おばさん)だと思って生活するも良いし、宇宙人と暮らしていると思えば腹も立たない。どうしても、相思相愛の恋愛をしたいと思うなら、あまり薦められないが伴侶以外の相手しかいないだろう。

女の幸せという呪文から解き放て

 男性から、または両親や親族から、女の幸せを求めなさいと説き伏せられることが多くないだろうか。女の幸せを求めることが、世の中の共通価値観だと、小さい頃から思い込まされてきたに違いない。男の幸せを求めなさいと諭されることはないのに、どうして女の幸せだけを追求せよと指示されるのか、とても不思議である。女の幸せという言葉は、いつの間にか当たり前のように私たちの心を支配してしまっている。だから、女の幸せを求めようとしない女性は、社会からは落伍者のような扱いをされるのだ。

 ところで女の幸せというと、どのような生き方を思い浮かべるであろうか。まずは結婚して良妻賢母を全うすることがあげられよう。さらには、自分の欲望を満たす事や自己実現よりも、家庭を守り家族の幸福を実現することが最優先の生き方としてあげられる。つまり、男は外で働いて、女性は家庭を守るという生き方こそが、女性としての幸せだと、子どもたちに言い聞かせて育てたのではないだろうか。だから、息子も娘も女の幸せを実現しようという考え方を知らず知らずのうちに擦りこまれてしまったように思う。

 この女の幸せというワードは、至極当然であり誰もがこの生き方を求めるべきだという価値観を押し付ける。言わばマインドコントロールではないかと気付き始めた人も多いように感じる。だからこそ、社会的な価値観に縛られず、自分らしく生きたいと思う女性も増えて来たし、親からの古い価値観による支配を逃れようとする女性が現れたのではなかろうか。男女共同参画社会の実現を謳いながらも、まだまだ日本における男女の平等性は低いと言わざるを得ない。特に、家庭において果たす男女の役割分担については問題がある。

 家事育児の役割分担における男女の比率が、日本人という国民性もあるからと言えようが、女性の負担割合が極めて大き過ぎるという実態がある。そして、女性は仕事よりも家庭をなによりも大事にすべきだという価値観が、女性だけでなく男性をも支配するのである。だから、女の幸せとは家庭を守り子育てすることを最重要課題として全うし、旦那様の仕事と成功を支えることが女性としての幸福なんだと思い込まされてしまうのだ。男性もそれこそが女の幸せなんだと勘違いすることから、女性の不幸が始まるのだ。

 日本人の多くがというよりも殆どが女の幸せという言葉に違和感を持たないであろう。それが日本人の殆どが持つジェンダーにも繋がっている。そもそも女の幸せなんていう言葉そのものが、女性を家庭に縛り付けるためのプロパガンダであると言えよう。女性の人権を侵害するばかりでなく、女性の社会における活躍を阻害させてしまう言葉を使うべきではないのである。この女の幸せという言葉に惑わされてしまい、本来の自分らしい生き方を諦めてしまった才能ある女性が、どれ程いたかと思うと悔しい限りだ。

 女の幸せという概念を創り上げたのは、誰であろうか?それは、女性自身が創り上げたものではないだろう。女性を見下していて、家庭に縛り付けて夫にとって都合の良い妻であり母であり続けることを望んだ男性が、女の幸せという概念を創造したに違いない。なんと低劣な価値観であろうか。家事育児は女性が担当して、男性が仕事に専念しやすいように、または女性を社会に進出させないようにして、夫が妻を独占しようしたのではないかと思われる。妻は夫から一方的に所有・支配されてコントロールされる存在ではないのだ。

 女の幸せという概念を排除してしまったら、結婚しない女性が増えるし、出産しない女性が増えてしまい、少子化が一層進んでしまうと保守層は反対するに違いない。それはまったく的を射てない考え方だ。女性がもっと社会に進出して活躍して、仕事においても輝き出したとしたら、少子化は止まる。何故なら、人間本来の自分らしい生き方が出来るようになり、自分自身を愛せるようになった女性は、自分の分身をこの世に残したいと思うからだ。ましてや、積極的に家事育児を分担しようとして、社会で活躍する妻をサポートしようとする男性は、女性から見ても魅力的だから、この人の子孫を残したいと思うのである。女の幸せという呪文から解き放たれた社会を実現したいものだ。

老いては妻に従い

 『老いては子に従い』という、誰でも知っている格言がある。老人になったら、子どもの助言や指導に素直に従うことで、苦難や困難避けたり乗り越えたりして、平穏な老後を送ることが出来るよという教えであろう。または、子どもの言うことに逆らってばかりしていると、嫌われたり見離されたりすることもあろう。高齢になればなるほど、若い人の意見に従うというのは、当然だと思われる。好々爺という言葉があるくらいだ。そして、高齢になった夫は、子どもだけでなく『老いては妻に従い』ということを心掛けるべきである。

 そんなことは出来かねる。今さら、妻に従うなんてことなんか出来っこないと思われる高齢男性が多いかもしれない。中には、世間をあまり知らない妻だから自分がすべてをリードして大事なことを決定して来たのだから、妻に従うなんて到底できないという夫もいるかもしれない。しかし、家庭が円満で平和で過ごせる場になる為には、老いては妻に従いを実践することが求められる。フルタイムで仕事をしている時ならば、家にいることも少なかった夫だから、何とか我慢していた妻という夫婦形態だから何とか保てていたのである。

 ところが、完全にリタイアして毎日がホリデーで家にいる夫に、朝昼晩の三食を提供して他の家事もすべて妻が負担するようなケースは、夫は妻に従う夫婦形態を取るべきだろう。今までは、夫が家庭内に不在になる時間が多かったから、何とか過ごせていたのである。ところが、趣味やスポーツもせず外出もせず家庭内に居て、テレビを鑑賞するかゲームをしているかという状況では、妻のストレスは相当に高まるに違いない。しかも、妻の主張や指導にまったく従わず、頑固な態度を取り続けたとしたら、離婚になっても仕方ないと言える。

 ところが、このように頑固で自分を変えようとしない夫というのは、離婚するなんてことは絶対に無いと思い込んでいる。したがって、自分に悪いことは何もないし、まさか自分が妻から嫌われているなんて思いもしない。突然三行半を突きつけられたとしても、自分に非があるとは考えられないであろう。自分が何故に離婚をさせられるのか、思い当たることはまったくないに違いない。妻を欺いたことはないし、裏切ったこともないから、自分は良い夫だと思っているであろう。しかし、妻は長年に渡り、我慢に我慢を重ねてきたのである。

 妻の本当の気持ちをまったく知らないのは、夫だけである。知らないのではなくて、知ろうとしなかったと言ってよいだろう。夫にとっては普通なのであろうが、傾聴と共感をしない人間とは一緒に暮らせないと思う妻が多い。これだけ家族の為に一所懸命に汗水たらして稼いできたのだから、リタイア後ぐらいのんびりと好き勝手に暮らさせてくれと思う夫が多いかもしれない。しかし、それは間違いである。妻にしてみれば、夫の横暴さとモラハラやフキハラに我慢してきたのだから、老後ぐらい妻に従ってほしいのである。

 捉え方というか認識の違いだから、何とも仕方ないのだが、老後を迎えるまでの夫婦の過ごし方をどのように認識するかどうかで、まったく違った老後を迎えることになりそうである。夫の現役時代は自分の生き方を犠牲にして尽してきたのだから、リタイア後くらいは妻は好きに生きたいと思うであろう。そして、少しぐらいは家事を分担してほしいし、自分の身の周りぐらい自分でしてほしいと思うに違いない。一方、夫は身を粉にして働いてきたのだから、リタイア後はボーっとして何もせずに好きなことをして暮らしたいと思うし、妻に気兼ねして生きるなんてまっぴらごめんだと思うであろう。

 どちらも正しい考え方だというか、そう思うのは当然ではなかろうか。だとしても、老後を幸福な気持ちで平穏に暮らしたいのであれば、夫はやはり妻に従って生きた方が良い。会社勤めの時は、上司や同僚・部下にあれだけ気を遣ってきたのだから、妻に傾聴し共感しようと思えばできない訳ではない。そして、妻を喜ばせたり幸せな気分にしたりすることも、ちょっと努力すれば可能だ。だとしたら、ここは妻に従っているポーズだけでもいいから、妻の言動に共感して誉めてあげることを心掛けてみたらどうだろうか。たまには料理したり買い物したりするのも楽しいし、掃除や洗濯だって妻より上手になり優越感や達成感を持つのもまた嬉しいものだ。

物分かりの良い人を演じなくても良い

 日本人特有のパーソナリティとして、多数派に属したいとか穏健な言動をして良い人に思われたいという傾向がある。そして、争いごとを好まないし敵を作らないという生き方を志す人が多い。『和を以て貴しと為す』と最古の憲法で主張した聖徳太子に習い、協調性や合意性を重んじる日本人が殆どであろう。これは、団体や企業という組織の中で生きて行くうえでは、必要不可欠な価値観であるに違いない。例え、違った意見であっても上司や経営幹部の主張に逆らうことはしないし、自分の意見はあえて主張しない社員が多い。

 日本人という民族は、あまり争いごとを好まず、競い合うことも避けることが多い。そして、組織の中でも家庭の中でも、物分かりの良い人を演じてしまう傾向が強い。嫌われることを避けたいというのか、どちらかというと周りの人たちにおもねることで無用な軋轢を避けたいという思いが強いのであろう。つまり、周りから『良い人』だと思われたいし、組織の中で無難に生き抜くために必要な処世術なのかもしれない。とは言いながら、自分を失くしてまで相手に合わせてしまい、物分かりの良い人を演じなくてもいいような気がする。

 何故、物分かりの良い人を演じなくてもいいのかというと、あまりにも自分の本当の感情を押し殺してしまうと、自分らしさを失ってしまうからである。人間は、生まれつき自由でありたいと思う生き物である。何故ならば、人間は本来自己組織化をする働きをする。つまり、主体性・自発性・自主性・責任性・連帯性・自己犠牲性・発展性・進化性を持つのだ。それなのに、他人にあまりにも迎合し過ぎて、自分を主張することを止めてしまうと、自己組織化をする働きを失ってしまう危険性が高まってしまうのである。

 また、あまりにも自分の感情を出さないようにしようとして抑圧してしまうと、脳がそのような状況をとても嫌がってしまい、ストレスが高まってしまい脳の異常を起こしてしまうのである。特に、怒りや憎しみの感情を出すことが出来ず我慢を重ねて行くと、偏桃体が肥大化してしまい、海馬が委縮してしまうのである。偏桃体が肥大化して働き過ぎると、ステロイドホルモンが増加してしまい、自律神経が乱れてしまうと共に、睡眠障害が起きやすい。また、海馬と前頭前野脳の機能が低下して、認知症になるリスクが高まる。

 物分かりの良い人を演じ過ぎてしまう危険を示してきたが、日本人と言うのはどうしても相手に合わせてしまう傾向が強い。確かに、職場や公的な場所においては、ある程度の常識的な言動は必要であるが、家庭や仲間の中では物分かりの良い人を演じなくても良いのではなかろうか。特に、親に対しては自分の感情を閉じ込めなくてもいいし、子どもに対しても物分かりの良い親を演じなくても良い。特に避けたいのは、子どもに対して必要以上におもねることである。こんな子育てをすると、子どもが感情を吐露するのが苦手になる。

 家庭内においては、本来は家族相手には気兼ねする必要もなく、自由に発言して良い場所である。いろんな感情を持つ場合、それを相手に素直に、そして正直に伝えても良いのである。そして、伝えられた相手はその素直な感情に共感すべきであることは言うまでもない。そして、それがどんな感情の表現であったとしても、寛容と受容の態度を取らなくてはならない。そうしないと、家族の関係性を良好なものに出来ないのである。家族の良好な関係性があってこそ、安全基地としての機能を保てるのである。

 安全基地というのは、家族が心理的安全性を持てる居場所である。家庭の中では、物分かりの良い人を演じなくても良い関係性が保てる環境が求められる。その為には、やはり父親が重要な役割を果たす。あまりにもパーフェクトな人格を見せ感情を押し殺して、物分かりの良い人物を演じ続けてしまうと、家族は逆に安心感を持てなくなってしまう。時には人間臭くて、マイナスの感情を吐露することも必要であるし、弱音を吐くことだってあっていい。家族が心理的安全性(安全基地)を保つ為には、自分らしく生きてもいいんだよという態度のメッセージを、家庭における主人公が見せ続ける必要がある。

※子どもというのは、家庭内で伸び伸びと育ち、あるがままの自分をさらけ出し、感情を豊かに表現できなければならないのです。家庭内であまりにも良い子を演じさせてしまい、自分らしさを失わせてしまうと、外で良い子でなくなり悪いことをしたり他の子を虐めたりするのです。子どもはどこかで息抜きが必要であり、そのための安全な居場所が必要なのです。親があるがままに生きるというお手本を、家庭内で見せたいものです

交際経験のない若者が増えた訳

 アンケートで交際経験(恋愛経験)がない20代の若者が、3割以上もいるということが明らかになったという。女性の3割近くの20代女性は付き合い経験が一度もなく、4割以上の20代男性が、デート経験を一度もしたことがないという。そして、6割以上の20代若者が特定のパートナーがいないというとんでもない実態が明らかになった。どうして恋愛相手がいないのかと問うと、そのようなチャンスがなかったという若者が多いが、中には時間とお金の無駄遣いだから、恋愛したくないと嘯く若者も結構いるらしい。

 少子化が社会問題化になり、結婚できない若者がいるのは経済的貧困のせいだとか、政府の少子化対策に原因があると思っている大人たちが多いが、どうやらそれ以前の問題がありそうだ。非正規労働者や労働分配の問題とか、産み育てる環境が整備されていないことが原因ではなくて、そもそも若者たちが恋愛しようとしていないし、結婚しようとしていないから少子化が起きているのだ。だから、行政府による少子化対策は的外れであり、効果が出る訳がないのだ。若者本人が恋愛や結婚をしたがらないのだから、どうしようもないのだ。

 それでは、どうして若者たちは交際をしたがらないのだろうか。または、若者たちは交際しようと願いながらも、実際に恋愛に踏み切れないでいるのであろうか。一昔ならば、若者の殆どが恋愛の対象者を求めるのが普通だった。中には結婚を望まない若者が居たが、ごく少数であった。今のようなスマホも持たされず、SNSはなかったが、学生たちはサークルや同好会などでの異性との出会いを求めていた。今から40年以上も前は、出会いの為に合同ハイキングや合コンに多くの学生がせっせと参加していたのである。

 昔の学生たちは、ごく普通に異性との出会いを求め、出来たら交際に持ち込みたいと真剣に願っていたものである。そして、やがては交際から結婚することを夢見たものである。現代の若者は、画一的な人生プランを持ちたくないということもあろうが、異性との交際や結婚を望む人が少なくなってしまったようである。または、異性と交際したいと思うが、一歩踏み出す勇気がないという若者も多そうである。または、異性との交際にまで持ち込むまでの複雑なプロセスが面倒だと思い、避けてしまうのではなかろうか。

 それにしても、こんなにも多くの若者が恋愛に対して消極的になったり、交際を拒否したりするのは、若者たちがメンタルに何かの問題を抱えているからとしか思えない。そのメンタルの問題とは、おそらく自己肯定感が育っていないということではないかと見られる。絶対的な自尊感情が育っていないと、何事にも臆病になって新たなことにチャレンジできなくなってしまうのである。恋愛というのは、自分のすべてを相手にさらけ出すということでもある。自分の恥ずかしいことや嫌らしいことさえも、相手に見せることになるのである。

 絶対的な自己肯定感を持つことが出来れば、あるがままの自分を愛せるし、相手をあるがままにまるごと愛することが可能になる。自分の恥ずかしいマイナスの自己や醜い自己さえも愛することが出来なければ、相手にマイナスの自己を見せることが出来ない。交際すれば、どうしたって自分のマイナスの自己を知られることになる。または、相手のマイナスの自己さえも受け容れて許すことが必要になる。そういう覚悟がなければ、交際や恋愛は出来ないのである。一旦お付き合いしたとしても、長続きはしない。

 さて、絶対的な自己肯定感を持てないから、恋愛や交際が出来ないということであるが、どうしてそんな状況に追い込まれてしまったのであろうか。間違いなく言えることは、親との関係性にその根本的原因があると言える。親が、乳幼児期の子どもをまるごとあるがままに、これでもかというくらいに愛し続けないと、絶対的な自己肯定感は確立できない。どちらかというと、若者たちの親たちは子どもを立派に育てようと思い過ぎて、幼児期の時から我が子に強過ぎる干渉と介入を繰り返してしまった。それ故に、現代の若者たちは不安型愛着スタイルアタッチメント欠損)を抱えてしまったのである。だから、恋愛や交際に踏み切れなくなってしまったのだ。

ひきこもりには外部支援者が必要

 我が子や孫がひきこもりまたは不登校になってしまい、心を痛めている家族はどれほどの数か、想像も付かないくらいに多くなっている。20年以上前の時代には、考えられなかったと言える。とは言いながら、不登校やひきこもりは皆無ではなかった筈である。目立たなかったというか、社会的に認識される状況になかったからだと思われる。どうして現代は不登校やひきこもりが多くなったのかというと、あまりにも生きづらい世の中になったからだと主張する人が多い。学校も職場も、あまりにも不寛容な社会だからという。

 確かに、そういう側面があるのは承知している。しかし、不寛容で受容性の低い社会だからひきこもりや不登校が増えたというのは、正しくない。すべてが学校や職場のせいならば、殆どの人々がひきこもりや不登校になる筈だ。しかし、大多数の人々は、不登校やひきこもりにならずに、たとえ生きづらくても社会に適応している。ということは、ひきこもりや不登校になる人々が、不寛容で受容性が低く生きづらいと強く感じ過ぎているからではなかろうか。当人の生きづらさは、考え方や認知の偏りによって起きているのではないか。

 さて、今までひきこもりや不登校のクライアントを支援して感じるのだが、当人の力だけでひきこもりが解決するということはなかった。そして、家族の手厚いサポートがあったとしても、解決することは期待できない。第三者の適切で温かい支援があってこそ、ひきこもりが解決に向かったという例は数多くある。つまり、ひきこもりを当人と家族だけで解決しようと行動しても、効果は限定的であり、殆どが社会復帰は叶わないのである。何故かと言うと、ひきこもりの原因は本人にあるし、その原因を作ったのが家族だからである。

 ひきこもりや不登校の親や親族は、原因は学校のいじめや不適切指導にあると思っているし、職場でのパワハラやセクハラが原因だと思い込んでいるケースが多い。確かに、それらがひきこもりや不登校のきっかけになったのは間違いない。しかし、いじめ、不適切指導が不登校の真の原因ではないし、パワハラ、セクハラ、フキハラが休職や退職の原因ではない。ひきこもりは心理的安全性が担保されず、不安感や恐怖感が異常に高まり、安全と絆である『安全基地』が確立されていないことから起きるのである。

 この安全基地が形成されないというのは、世間でよく言われている安全な居場所がないとの同義語ともとれる。もっと詳しく言うと、絶対的な自己肯定感が確立されていなくて、いつも得体の知れない不安に苛まれていて、自分を守ってくれる守護神がなくて頼れる存在がないという状態である。本来は、乳幼児期の発達段階において、あるがままにまるごと愛されるという体験を十分過ぎるほど受けて、どんなことがあっても甘えられて、何かあればいつでも否定せずに真剣に聞き入り共感してくれるなら、安全基地は形成されるのだ。

 ところが、この安全基地という存在がないから、いじめや不適切指導、または職場でのパワハラ・セクハラ・フキハラを誰にも言えず、助けを求めることも出来ず、一人で悩み苦しみ自分を責めてしまうのであろう。ひきこもりや不登校の人たちに共通しているのは、孤立していて孤独感でいっぱいだということである。そうなってしまったのは、当人の責任ではない。絶対的な自己肯定感は、自分で努力したからと言って確立されるものではない。あるがままにまるごと愛されるという体験が少なくて、介入や干渉をあまりにも強く受けて育てられた子どもは、強い自己否定感を持ち不安なるのだ。

 ひきこもりや不登校の子どもの親は、あまりにも良い子を育てなくてはならないという固定観念に縛られている。子どもというのは、生まれつき自己組織化する能力とオートポイエーシスの機能を持っている。それらの機能を発揮する為には、豊かな愛着と関係性が必要であるし、なるべく干渉しない子育てが求められる。強い干渉と介入をしたり、ダブルバインドのコミュニケーションで『良い子』を演じさせたりした為に、子どもがひきこもりになったのである。そんな親子だから、どちらも自分の間違いに気付かないのである。その間違いを自ら気付いて、自分から変革しようという思いを抱かせてくれる外部の支援者が必要なのである。

※外部の支援者というのは、メンタライゼーション能力に長けていて、傾聴と共感をするだけで介入と干渉をまったくせず、助言や指導は勿論、診断や治療をまったく実施しない人物が適切なのです。しかしながら、現実にはそんな人物は稀有であることは当然です。今まで、たった一人だけ存在していました。それは森のイスキアの佐藤初女さんです。そんな第二第三の佐藤初女さんを産み出そうとしているのが、イスキアの郷しらかわです。

不運と幸運のどちらになるかは宿命か

 自分の人生は不運続きだと嘆いている人もいれば、何をやっても幸運に巡り合うと喜んでいる人がいる。同じ国に住んで同じように生活している人間なのに、どうしてこんなにも違うのかと、自分の不運を恨んでいる人も少なくない。最近は生まれ育った環境や両親によって、未来の生き方が違ってしまうのだということが盛んに言われて、『親ガチャ』という言葉がネット上で踊っている。確かに、統計上においては親の年収と子どもの年収は、相関関係があるとも言われている。教育を受ける権利が制限されるとも伝えられている。

 親が経済的に貧しくて不運な人生を歩んでいると、子どもは満足な教育を受けられないので、同じように不運な人生を送るとも一般的には言われている。しかし、本当にそうなのであろうか。幸運や不運と言うのは、生まれつき決まってしまうものなのか。確かに、低レベルの教育・初等教育だけしか受けられないと、高収入の職業には就き難い。ましてや、人々が望むような、医師・高等技術者・高級官僚・政治家・法律家などになるのは非常に難しい。いくら努力したとしても難しい現実がある。

 職業や収入が子どものうちに決められてしまうという考え方は、お隣の韓国や中国においても支配的であり、だからこそ教育に熱心なお国柄になってしまっている。それでは、経済的に裕福でなくて、優秀な学業成績を収めなくて、立派と言われている職業に就けなかった人間は不幸・不運なのであろうか。それは一概に言えないのではなかろうか。高級外車や高級ブランドを手に入れて、都心のタワマンに住んでいる人々がすべて幸運・幸福なのかというと、けっしてそうではない。幸福だと絶対に思えないような人々も少なくない。

 それはどういう人なのかと言うと、こんな人々である。仕事においても大きな成功を収めて、幸せそうな家庭も築いたのに、大病をしてしまい早逝する人、重篤なメンタル疾患になった人、若くして認知症になった人、詐欺師に騙されて財産を失った人、事故を起こして半身不随になった人、子どもが不登校やひきこもりになった人やDVに苦しむ人、人から恨まれて殺害された人、そんな人々が身近にも沢山存在する。上野の飲食店経営者夫婦だって、経営者的には成功したが命を落としてしまった。本人には、そうなった要因がないのだろうか。

 例え経済的に裕福でないにしても、家族がお互いに支え合っていて愛情たっぷり注がれている家族が存在する。家族みんなが心身共に健康で、事故にも合わずに、毎日笑顔で暮らす家庭も多くあることを知っている。不幸や幸運になるのは、すべて宿命なのだろうか。親ガチャと言われているように、とんでもない親の元に生まれてしまえば、不幸で不運な人生を送るしかなくなってしまうのか。ある程度は、親の影響を受けてしまうのは、やむを得ないような気がする。しかし、すべての不運や幸運が宿命により決まるというのは言い過ぎのような気がする。

 それでは、不運や幸運というのは何によって決まるのであろうか。思想や哲学で言われているのは、不運や幸運というのはその人の受け取り方であって、どのように受け容れるのかで決まるという考え方である。塞翁が馬という諺は、まさしくそのことを言っている。または、青い鳥という寓話も同じような事である。それは観念論であって、科学的な検証をして得た理論ではない。それでは科学的に真理だと確証されている、幸運を招く方法はないのだろうか。仏教哲学において『空の理論』として確立され、量子力学で証明されている理論は真実を捉えている。

 その理論とは、この世に起きるすべての物質と起きる現象は、我々の意識によって支配されているというものである。つまり、私たちの集合無意識によってどのような世界になるかが規定されているというのだ。つまり、人間の意識が幸運や不運に感じる現象を引き起こしているのである。そして、すべての物質や現象は、ひとつの法則によって支配されている。『全体最適・全体幸福』という法則に則っているし、この世は関係性によって生成されているのである。関係性が損なわれると、物質は崩壊するということであり、個別最適を目指すと破綻するという意味である。つまり、関係性を豊かにする生活や全体最適を目指す生き方をすれば、幸運や幸福になれるということなのである。

引きこもりを乗り越える方法

 引きこもりの状況に追い込まれてしまうと、この状況から抜け出すのは容易でない。だから、8050問題と呼ばれる社会的な大きな問題にもなっているし、内閣府の調査によると146万人にも及ぶという。なんと50人に1人が引きこもりだというのだから、驚きの調査結果である。さらに、引きこもりになる人は増加の一途だと言われている。深刻なのは、引きこもりは若者だけでなく、中高年者にも多いと言う事実である。そして、一旦引きこもりになってしまうと、その状況が長期間に及ぶことから、支える家族にとっても深刻だ。

 引きこもりになるきっかけはそれぞれ人によって違うし、どうして引きこもりになったのか当人にも解らないケースも少なくない。そして、引きこもりになった本当の原因が、当人にも家族にも認識できていないのである。勿論、人生における大きな挫折や仕事での失敗や躓き、職場でのいじめやネグレクトが原因だと思っている場合も多いが、それは本当の原因ではない。大切な人を失ってしまった心的外傷により引きこもりになったと思う人もいるが、けっしてそれが原因でもない。引きこもりの本当の原因を認識していないのである。

 引きこもりの本当の原因は、外的原因ではなくてあくまでも内的原因なのである。つまり、外的な事故・事件や現象によって引きこもりになったのではなくて、あくまでも本人の内因にそもそもの原因があるのだ。外的な事件・事故は単なるきっかけであり、引きこもりになった本当の原因は本人が抱えている精神的な偏りや拘りにあるのだ。抱えている一番深刻な精神的偏りとは、強い自己否定感である。自己肯定感が極めて低いのである。そして、その原因は親との豊かな愛着が形成されていないことが根底にあるのだ。

 親との豊かな愛着が形成されておらず、極めて劣悪な愛着となっている。愛着障害と言っても過言ではない。引きこもりになっている人は、殆どが愛着障害であり自己肯定感が極めて低いのである。さらにHSP(神経学的過敏症&心理社会学的過敏症)があり、いつも不安や恐怖感に支配されている。その不安も、特定の不安だけでなく、得体の知れない不安に苛まれることが多い。特定の不安であれば、その不安を消すための努力ができるのであるが、得体の知れない不安は、対象が不明なので対応し切れないのである。

 このように、引きこもりの本当の原因が愛着障害にあって、極めて強い自己否定感とHSPが根底に存在することで、強い不安を抱いて引きこもりになると言える。普通の人なら心的外傷にならない程度の事件・事故が強烈なトラウマとなってしまい、それが積み重なり複雑性のPTSDのような症状を起こすと考えられる。小さい頃からの積み重なった心的外傷が、ボディーブローのように心を蝕んでしまい、引きこもりを選択するしかなくなるのだ。根底にある愛着障害を癒すことが出来なければ、引きこもりは解消できないことになる。

 愛着障害は親との不健全で歪んだ愛着によって起きるのであるから、親が変わらなければ愛着障害は癒すことが出来ない。親が劇的に変わって、乳幼児期からの子育てをやり直すことで、愛着障害は解消される。しかし、現実的には引きこもりの親はどうして良いのか解らないことが多い。子どもとの健全な愛着を形成するのを自ら阻害したとは、気付くことはあるまい。ましてや、8050問題と言われているように親が高齢になれば、親が自ら変わることは難しい。自分自身が自ら変わるしか方法がないが、極めて難しいと言えよう。

 結論から言うと、引きこもりは親が変わらなくても乗り越えることは可能である。その際に、心理的安全性を提供してくれる『安全基地』は必須である。安全と絆を提供してくれる安全基地が存在して、その安全基地がいつもそっと寄り添い、傾聴と共感をしてくれるならば、引きこもりは解消できるのである。そして、引きこもりの当人は根底に愛着障害があり、HSPと自己否定感が強いという認識も必要である。そして、安全基地の全面的協力の元で、認知行動療法やナラティブアプローチ療法、またはオープンダイアローグ療法を駆使して、愛着障害を癒すことで、引きこもりを解消できるのである。勿論、安全基地には誰もがなれる訳ではない。森のイスキアの佐藤初女さんのような特別な方しか、安全基地にはなれないのである。

※引きこもりを乗り越えるために必要な安全基地になれるのは、森のイスキアの佐藤初女さんのような、広い心と形而上学に基づく高い使命感を持った、メンタライゼーション能力の高い人だけです。しかし、佐藤初女さんは既に亡くなられています。それで、イスキアの郷しらかわでは、佐藤初女さんを継承しようと高い志を持った方々をサポートしていて、第二、第三の佐藤初女さんを目指す方たちの研修を提供しています。

#引きこもり

#森のイスキアと佐藤初女さん

行政による少子化対策は効果がない訳

 国が少子化対策の財源を、健康保険料に追加徴収する案が示されて、猛反発をされている。少子化対策費を国民から医療保険税として徴収するのは、増税というそしりを受けたくないという姑息な魂胆があるからである。そもそも、行政による少子化対策が実際に効果を表しているのかの検証もされていない。何等かの少子化対策をしないと、高齢になった国民を支える労働者人口が不足してしまい、財政規律が保てなくなるからと必死になっているのであろう。しかし、行政による様々な少子化対策の効果は殆どなく、少子化の傾向は止まらない。

 行政による少子化対策とは、主に出産費用や育児費用に対する援助金、産み育てる保育所の充実、育児休暇取得をしやすい環境と支援制度、男性が育児に参加しやすい労働環境の整備などが実施されている。確かに、こういった少子化対策はある程度の効果はあるが、大きな成果を産みだしていない。ということは、本当の少子化の原因を政府は把握していないということになろう。政府だけではなく、県や市町村の行政も少子化の本当の原因を把握していないし、多くの国民も認識しているとは到底思えない。だから少子化は止まらないのだ。

 少子化の本当の原因は、経済的な理由や産み育てられる環境が不整備だからということではない。そもそも、子どもを産みたくないと55%以上の若者たちが思っているのだ。どんなに経済的に余裕があっても、育児環境が整えられても、若者たちが子どもを産もうとしないのでは、少子化対策は無駄になる。どうして若者たちは子どもを産まないのか。それは自分自身が、心から十分な幸福感を味わうような子育てをされなかったからである。だから、自分と同じように不幸感を持つ子どもを、この世に送り出したくないと思うのは当然だ。

 そんなことはない、十二分に幸福な思いをさせて育てて来た筈だと思う両親は多いかもしれない。また、愛情をたっぷりと注いで育てたと認識している親は少なくない。それは、あくまでも親の感じ方であって子どもの感じ方は別である。愛情をたっぷりと注いできたと思っているのは、無条件の愛ではなくて条件付きの愛である。多くの子どもたちは、親にあまりにも支配され干渉され過ぎて、自分らしく自由に生きられず、生きづらいと感じていたのではなかろうか。そして、自分のことをまるごと愛することが出来なくなったのである。

 自分のことをまるごと愛せる人間でなければ、他人を心から愛することが出来ない。その証拠に非婚化が進んでいて、若い世代の離婚も急激に進んでいる。そもそも恋愛も出来ない若者なのだから、結婚も出産も無理なのだ。どんな自分でも大好きだと言える、絶対的な自己肯定感が育っていないのである。ましてや、自分の両親の結婚生活が幸福だと感じられないのだから、結婚したいと思わないのは当然である。特に、母親が家事や育児に1人で苦労していた姿を間近に見ていた娘が、あんな苦しみを味わいたくないと思うのは当たり前だ。

 ましてや、自己中で身勝手で妻に対する思いやりのかけらもないような横暴な父親の言動を身近に見ていた娘が、男性に対して恋愛感情さえも湧かないのは当然ではなかろうか。さらに、母親がまるごとありのままに父親から愛されて満たされていなければ、我が子を無条件で愛することは難しい。子どもはありのままにまるごと愛されなければ、絶対的な自己肯定感が確立されないであろう。自尊感情が根底にあってこそ、自分をまるごと愛せるし、相手をありのままに愛せる。非婚化や少子化が起きている根底には、自己肯定感が欠如した若者が増えていることが影響しているのは間違いない。

 非婚化や少子化が若者たちの間で急激に進んでいるのは、経済的な理由や環境のせいではなく、若者たち自身の自己肯定感が育っていないからである。それは学校教育のせいではなく、家庭教育が間違っているからである。行政の責任ではないとは言いながら、価値観や思想の教育を怠ってきた学校教育にもその責任の一端はあるとも言える。子どもたちに正しく豊かな母性愛と父性愛を注ぐ家庭教育をしないと、非婚化と少子化が益々進んでしまうであろう。日本という国家の存亡に関わる重要課題なのに、その原因を正しく把握していないというのは困ったものである。行政を担う政治家と行政職は、正しい見識を持ってほしいものである。

京アニ放火殺人事件の犯人は怪物か

 京都アニメに放火して、殺人罪として起訴された青葉信二被告は、一審判決で死刑を宣告された。青葉被告は死刑判決を不服として控訴した。あまりにも残酷なこの事件を起こした青葉被告は人間ではなく、とんでもない怪物だとするSNSの書き込みが多い。あんなにも多数の犠牲者を出しながら、反省の言葉なく自分の正当性しか主張せず、犠牲者に対する謝罪の気持ちもないのは、モンスターとしか思えないという主張をする人も多い。普通の感覚を持っている良識ある人にとっては、怪物にしか見えないのであろう。

 確かに、常人には理解できない行動である。いくら酷い虐待や仕打ちを親から受けたとしても、最終的には自己責任だと言う人もあろう。社会的にいくら恵まれなかったとしても、そういう生き方を選んだのは自分自身だから、親や社会のせいにすべきではないという主張も見られる。おそらく、死刑判決も妥当なのだから、控訴なんてしないで刑に服して欲しいと思っている国民が殆どであろう。被害者やその家族と遺族の心情を思うと、被告には極刑で償ってもらいたいという気持ちになるのは当然かもしれない。

 このような残虐な事件を起こす犯人に共通しているのは、そのあまりにも悲惨な家庭環境である。親との愛着関係において、殆どが問題のあった犯人だ。端的に言えば、親からあるがままにまるごと愛されて育ち、親との関係がとても良好な人間が、凶悪な事件を起こすことはない。ただし、一見すると経済的に裕福で両親の愛情をたっぷりと受けながらも、凶悪事件を起こすケースもある。しかし、それは条件付きの愛情であり、過干渉や過介入を受け続けて育てられた場合であり、無条件の愛情を受けた訳ではないと言える。

 青葉被告は、まさしく無条件の愛は勿論、条件付きの愛さえもまったく注がられることなく育った。そればかりではなく、父親から酷い虐待を受け、四六時中殴る蹴るの暴力を受け続けて育ったとの供述が得られている。ろくな稼ぎをしない青木被告の父親を見かねて、妻がミシンの営業で大きな実績を収めた。それが気に入らないと妻と子に八つ当たりして暴力を奮ったとされている。青葉被告の母親は、家を出るしかなくなり離婚する。この事件も、青葉被告の心に深い影を落とすことになった。その後、父親の暴力はエスカレートしたのである。

 親からの愛情をまったく受けられず育った人間が、まともに育つ筈がない。ましてや、大好きな母親さえも自分を見捨てたと思い込まされて育った人間が、人を信頼出来ないのは当たり前である。同じように親からの愛情をまったく受けられず、父親から酷い虐待を受けて育った人物がいる。大阪大学付属池田小学校の殺傷事件を起こした宅間守死刑囚である。連続幼女誘拐殺人事件を起こした宮崎勤死刑囚もまた、親との愛着が形成されなかった。秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大死刑囚も酷い教育虐待を受けて、歪んだ愛着を抱えていた。いずれも愛着障害と言ってもよい。

 このように、悲惨な家庭環境と養育環境があって凶悪事件を起こした犯人を列挙すれば、きりがない。他にも、沢山の凶悪事件を起こした犯人がいるが、似たり寄ったりの養育を受けている。ただし、養育環境が悲惨で愛着障害を抱えると、凶悪事件の犯人になってしまうかというと、けっしてそうではない。社会に対する憎しみを持ち攻撃的になるケースと、自分を責めて自身の存在を消してしまおうとする人がいる。どちらになるかは紙一重なのである。青葉信二被告のように虐待やネグレクトを受けて育った人物は、親に対する憎しみを社会に転化する危険があるのは間違いない。

 青葉信二被告は、けっして怪物ではない。極めて稀なモンスターだと決めつけて、滅多に産まれることがない特別な存在だと思ってほしくない。彼のような愛着障害の人物は他にも沢山存在するし、同じような凶悪犯罪を起こしかねない人間は大勢いるのだ。だからこそ、彼のような存在を産み出さないように、正しい子育てや教育をする世の中に変革しなければならないのである。母性愛と父性愛を正しく注げるような社会を構築しなければならない。我が子をあるがままにまるごと愛せる母親と、しっかりと正しい父性愛を発揮できる父親が子どもには必要なのである。二度とこのような酷い愛着障害の子を産み出さない為に。