結婚と出産を望まない女性たち

 韓国では非婚主義を実践する女性が急増しているという。日本においても、マスコミは取り上げていないが、非婚主義と出産しないことを貫く女性が増えている。婚姻をしたとしても、敢えて出産しないという女性も少なくない。対外的に宣言はしないものの、絶対に出産はしたくないと心に決めている女性が多いのである。少子化が社会的大問題になっていて、経済的な理由や育児に対する負担や不安が多いという理由から、出産を選ばないと思われているが、実はそもそも結婚と妊娠を望まない女性が多くて少子化が起きているのだ。

 その証拠に、様々な出産に対する経済的支援や産み育てられる環境改善策を政府行政が進めているのにも関わらず、一向に少子化が改善できていない。どんなに出産や育児に対する支援策を実施したとしても、そもそも婚姻や出産を女性が望まないのだから、少子化が止まらないのは当然である。婚姻を望まず、頑なに出産を拒む女性がいるというのは、一昔前には考えられないことだった。どうして、そんな状況が解らなかったのかと不思議に思うだろうが、誰もがそんな女性がいるとは、予想もしなかったからである。

 それでは、どうして婚姻を望まないばかりか出産を拒んでしまうのであろうか。世の中の中高年者にとっては、まったく理解できないことである。ましてや、自分が大事に育てた娘が、結婚や出産を敢えて望まないとは、想像も出来ないに違いない。適齢期になれば結婚をしたいと望むだろうし、子どもを産み育てたいと我が子が願うだろうと、親なら誰しも思うに違いない。出産を望まない女性がいないという前提があるから、アンケートによる統計調査をすることもない。調べようともしないから、出産を望まない理由も解らないままだ。

 結婚を望まない女性が徐々に増加しているのは、周知の事実である。その理由は、いろいろと挙げられているが、自分の描いたライフプランに結婚と言うステップがないからだと思われる。仕事などを優先する人生を全うしたいという女性には、結婚がその大きな障壁になると予想するから独身を通すのかもしれない。仕事と家庭を両立させるのは、論理的には可能であるが、海外勤務や転勤を繰り返すキャリア志向の女性には、極めて両立は難しい。また、夫と子どものために自分の夢を諦めたくないと思う女性が増えてきたように思う。

 これらの理由以外に、女性が結婚と出産を望まない深刻な訳があることを認識している人は少ない。その深刻な理由とは、不安定な『愛着』のまま成長してしまったことによる影響である。酷いケースは『愛着障害』であり、そこまででなくても、愛着に問題を抱えた女性は、結婚したがらないし出産を望まないのである。不安定な愛着の中でも、不安型愛着スタイルという障害を持つ人は、病識もないことから自分でも異常だと気付かない。愛着に問題を抱えている人たちは、自尊感情を持てないが故に、子を産み育てるのを無意識下で拒んでしまうのである。

 自尊感情、または絶対的な自己肯定感を持てないと、自らの遺伝子を後世に残したいと思えないのである。どういうことかというと、自分をまるごとありのままに愛せない人は、自分の分身をこの世に残したくないのである。夫婦としての良好な関係性を構築することが不得意だった両親を持つと、子は愛着に問題を抱えやすい。そして、三歳頃までの乳幼児期に、ありのままにまるごと愛されるという経験をしていない。無条件の愛情である母性愛を与えられなかった人は、絶対的な自己肯定感が確立されていないので、愛着が不安定であり、自分でも安定した恋愛関係を築けないのだ。

 親からあるがままにまるごと愛されて育った人は、豊かな愛着が確立されるので、絶対的な自己肯定感が確立される。自分に対する寛容と受容があり、自分のことが大好きでどんな自分でも愛せる。こういう安定した愛着を持つ女性は、安定した愛着を持つ男性に巡り会えて、幸福で愛が溢れるような家庭を築ける。ところが、親から所有・支配されて制御を受け続け、指示や命令を受け続けて育った女性は、自己組織化が起きない。自己組織化が出来ずに育った人間は、オートポイエーシス(自己産生)が働かず、子孫を残そうとしないのである。少子化の本当の原因は、愛着障害にあると言えよう。

※親から支配されコントロールされて育った人は、結婚したがらないし出産を望まないようになることが多いものだと、イスキアの活動から得た実感があります。そして、毒親からの支配を逃れるために、一刻も早く家を出たいからと、しょうもない男と結婚をしてしまうケースが多く、結婚生活はやがて破綻してしまいます。自分と同じように苦しむ子どもを産みたくないと思うのも当然です。また、このような不安型愛着スタイルの女性は、ダメンズと何度もめぐり逢い、その度にトラウマを蓄積してしまうのです。

 

縄文人的暮らしを目指したい

 新たな年の2024年を迎えるにあたり、今年の抱負を考えていた。今年は70歳を迎えることになるのだが、自分がこの年齢になるとは想像も出来なかった。いろんな経験をしてきたものだとつくづく思う。仕事にも精一杯努力してきたつもりだが、ボランティア活動やNPO活動にも邁進してきた。勿論、家事や育児も、人よりは頑張ってきたつもりだ。仕事、家庭、地域活動と三位一体の活動をバランス良くやってきたという自負を持っている。イスキアの活動も昨年から方針転換をした。さて今年からはどのように生きようか。

 以前から思っていたことだが、縄文人の暮らしに憧れていたことから、彼らのように生きて行けたらいいなと漠然とした思いがあった。勿論、狩猟や採取を中心にした生活を、現代で出来る筈もないが、縄文人のように互恵的共存関係を基本とした平和で心穏やかな暮らしを望んでいる人は想像以上に多いに違いない。縄文人と同じ暮らしは不可能だとしても、彼らのような価値観を基本にした生活は出来そうだ。現代の価値観は、あまりにも損得や利害にシフトしているが故に、心の豊かさを失っている。そんな暮らしを見直したいものだ。

 縄文人が争いのない平和で心豊かな社会を、13,000年もの長い期間に渡り続けていたのは周知の事実である。全世界を見渡しても、縄文時代と同じ時期に戦争や略奪のまったくない平和な生活をしていた文明は存在しない。ましてや、あの時代に高福祉で共存共生のコミュニティを築いていたというのだから驚きだ。縄文人の人骨は各地から発掘されているが、武器による傷がある人骨は全く発見されていない。20代の先天性小児まひの女性の人骨が発掘されたが、一人では生活出来ない筈だから、誰かが生活支援をしていたに違いにない。

 このように、今では考えられないような、素晴らしい価値観に基づいた暮らしをしていたということが尊敬に値する。縄文人は、自分の損得や利害を第一に優先するようなことはせず、全体最適を目指していたし、将来の子孫が幸福な暮らしが出来るようにと、努力したことが判明している。未来の子孫が木の実を豊かに採取できるようにと、せっせと樹木を植えたのである。感覚的に知っていたのであろうが、洪水を防ぐために里山に樹木を植えて治水対策をしたのだ。魚貝類を子孫が豊かに採取できるようにと、豊かな海を守るための広葉樹を植林した。環境保護も含めて、SDG’sを実践していたのである。

 縄文人は、個別最適や個人最適を自分の生き方の中心には据えることなく、全体最適や関係性重視の価値観に基づいて生きていた。だからこそ、縄文人は老若男女すべて、自己組織化を進めることが可能だった。彼らのすべてが、主体性、自発性、自主性、自己犠牲性、責任性、進化性を豊かに発揮できたのである。それ故に、あれほど素晴らしい文化が花を開いたと言えよう。火焔土器を代表とした縄文式土器は、他に類を見ない見事なデザイン性を発揮している。弥生式土器と比較すると、その美しさは際立っていて素晴らしい。

 私有財産を持つと、貧富の差が表出して親族間や一族内での軋轢や争いごとが起きることを縄文人は知っていたのであろう。だから、物を個人所有することをしなかった。そして、縄文人は物だけでなく『人』の所有や支配をもしなかったし、我が子の個人所有もしなかったという。生まれた子どもは、地域の一族みんなで愛情をかけて育てた。夫婦とか親子という所属関係もなかったから、家族という概念もなかったと見られる。縄文時代は女性中心社会の社会だったから、特定の男性と一緒に暮らすことはなく、男性は通い夫(つま)だったと思われる。

 縄文人は、独占欲を持たなかったから、お互いに特定の異性を独占することはなかったであろう。特定の異性を愛することはあったと思うが、現代のように愛情がなくなった伴侶と暮らし続ける仮面夫婦のような関係は絶対に無かった筈だ。占有関係がないからこそ、相手をコントロールしたり縛り付けたりせず、お互いがリスペクトし合えるような関係を続けられたに違いない。そういう意味では、理想の男女関係にあったから、少子化もなくて子孫繁栄もしただろう。現代にも有効な少子化対策のヒントがありそうだ。縄文人は、レムリア人にも通じるのではと考える人も大勢いる。縄文人のような智慧と価値観を生かして暮らしたいものだと、新年を迎えて切に思う。縄文人の細胞記憶を呼び起こしたいものだ。

甘えて依存するのは悪いこと?

 メンタルを病んでしまい、ひきこもりの状況になってしまった方たちが、元気になり社会復帰するための支援をさせてもらっていて、常に気を付けていたことがある。それは、不安型の愛着スタイルや愛着障害を抱えた方々は、支援者に依存しやすい傾向があるということである。すべてのひきこもりの方々がそうだとは言えないが、安全と絆を提供してくれる『安全基地』を持たないひきこもりの人たちにとって、支援者は唯一の安心できる味方なので、どうしても依存しやすいのだ。支援者は、依存されないようにと距離を保つのである。

 また、精神科の医師、カウンセラー、セラピストたちもまた、要支援者から依存されないようにと、距離感を持って接するのが基本となる。世の中の母親たちも、子どもから依存されないようにと、普段から気を付けて子育てをするよう心掛けている。母親というのは、子どもを甘やかし過ぎると駄目になると、姑や夫から口酸っぱく言われるものだから、甘やかすということに神経質になりやすい。親が子どもを甘やかし過ぎたり、支援者が要支援者に対して甘やかしの態度を取ったり、依存させてしまうことは悪いことなのだろうか。

 児童養護施設で、利用者に対する支援の業務を行う職員の方たちも、利用者から依存されないように細心の注意を払う。親から虐待やネグレクトを受け続けてきた児童たちに取っては、養母さんたちはまさしく親の代わりであるから、甘えたいし依存したくなるのも当然である。幼稚園や小学校の担任教師たちも、甘えてきたり依存しようとしたりする子どもたちとは、距離感を持って接しようとする。施設の管理職や上司からは、子どもたちに依存の気持ちを芽生えさせると、自立できなくなると釘を刺されているからだ。

 子どもが親に依存すると自立出来なくなるというのは、本当であろうか。支援者が依存させるような態度を取ると、要支援者は依存してしまい自立が出来なくなるのであろうか。子育てにおいて、甘やかしてはいけない、過保護に育ててはならない、依存させると子どもは自立できなくなるというのは、本当に正しい子育てなのであろうか。何か子どもが大変な事件を起こすと、親が過保護だったとか甘やかし過ぎたと非難され、自立できないのは当然だと言われる。本当に、依存させてしまうと自立が阻害されるのであろうか。

 子どもの発達段階において、特に3歳頃までは母性愛がたっぷりと注がれることが必要だということは、最近になり認識されるようになってきた。母性愛と言うのは、あるがままにまるごと子どもを愛する事であり、無条件の愛のことである。先ずは母性愛をたっぷりと注ぎ続けて、子どもの不安や恐怖感を完全に払拭させてから、条件付きの愛である父性愛をかけるのである。この順序を間違って最初に父性愛を注いだり、父性愛と母性愛を同時にかけたりすると、絶対的な自己肯定感が持てず、不安型の愛着スタイルを抱えてしまうのだ。

 不安型愛着スタイルや愛着障害を根底に抱えていて、メンタルを病んでしまいひきこもりの状況に追い込まれた方々は、頼れる存在がない。どこにも居場所がないし、安全基地と言える存在がないのだ。ある程度の年齢になれば、自分で何とか自立しようともがき苦しむ。しかし、得体の知れない不安や恐怖感は拭い去ることが出来ず、誰にも甘えられないし頼れないから、怖くて社会に出て行くことが難しい。大人になったのであるから、甘えることなんて出来ないし依存することは絶対に避けなければならないと思い込んでいる。しかし、不安型愛着スタイルや愛着障害を癒すには、もう一度幼児期からの子育てをやり直すしかないのだ。

 不安型愛着スタイルを抱えてしまいメンタルを病んでいる人の母親が、もう一度最初からまるごとあるがままの愛を注いでくれて、育児のやり直しをしてくれたなら、病んだメンタルは癒される。しかし、それはいろんな意味で非常に難しい。だとすれば、誰かが母親に代わって、要支援者の臨時の安全基地になり、母性愛のようなまるごとあるがままの愛を注ぎ続け、とことんまで甘えさせることが必要だ。それはある意味、過保護にして依存させるということでもある。人間と言うのは、とことんまで依存し尽してしまうと、ひとりでに自立するものである。そして、何かあるといつも温かく受け容れてくれる場所があれば、自立し続けられる。森のイスキアの佐藤初女さんのような存在が、誰にも欲しいのだ。

※複雑性PTSDのように、長い期間に渡り心的外傷を何度も何度も受け続けてメンタルを病んでしまった方は、元々愛着に問題を抱えています。親から無条件の愛である母性愛を受けられず育ち、元々心が折れやすいのです。安心して甘えて依存できる安全基地がありませんので、いつも得体の知れない不安を抱えて生きています。このような状況を乗り越えるには、臨時的にも甘えて依存できる、森のイスキアの佐藤初女さんのような存在が必要です。佐藤初女さんのような『お母さん』が、不安の時代と言われる今の日本にこそ必要なのです。

寝取られた男が恥の上塗り

 妻が不倫をしたと記者会見して、相手を非難している姿を見ていると、何だか奥さんが可哀そうになってしまう。勿論、特定の伴侶がいるのに不倫をするというのは、道義的に許されることではない。しかし、妻は献身的に尽くしてくれたと、妻を擁護する言葉を連ねながら、一方では相手の男がすべて悪いし、謝罪をしないと言って糾弾している姿を世間に晒しているのは、みっともないような気がする。浮気をした妻や相手の男性を擁護する訳ではないが、寝取られてしまった男性が記者会見までして訴えるのは、実に不思議な光景だ。

 一昔前であれば、自分の伴侶を寝取られた男が、記者会見とか情報発信などをするなんて考えられなかった。自分が悪くないのだから恥じることはない、というのは正論である。逃げ隠れする必要はない。とは言いながら、自分の伴侶が他の男性に恋心を抱くと言うのは、結論から言うと自分よりも浮気相手に魅力があったということである。言い換えれば、相手の男性との恋愛競争に負けたとも言えよう。もし、それがもし自分であったしたら、自分があまりにも惨めであり、人さまの前に寝取られた自分を絶対に晒したくはない。

 昭和22年までは姦通罪という刑法上の不貞の罪があった。江戸時代は、不義密通を働いた妻と浮気相手は死罪になり、夫はその場で両方を切り捨てても罪にはならなかった。なお姦通罪は、女性とその相手だけに適用されて、夫が不義密通をしても罪にはならなかった。江戸時代の不義密通の罪もまた、女性とその姦通相手にだけ適用された。女性だけに適用した不平等の罪だ。これは、男性中心の時代だからであり、財産を子どもに相続させる際に、自分の遺伝子を繋ぐ子どもだけに財産や権力を譲りたいという切実な願いから出来た罪であろう。

 不義密通の罪や姦通罪という法的な縛りがあったというのは、古来より伴侶以外の男性に心を奪われてしまい、身も心も捧げてしまう女性が相当数存在していたという証しであろう。何故、そんな妻たちが沢山いたのかというと、夫たちに魅力がなくなってしまい、夫にときめかなくなってしまったからではなかろうか。または、夫をリスペクトできなくなり、詰まらない人間に見えてきたというか、真実の姿が見えてきたのかもしれない。身勝手で自己中で、妻の心に寄り添えず、自分の損得しか考えない夫に、妻は愛想を尽かしたのだ。

 すべての夫がこんな酷い男だという訳ではないが、妻たちが夫のパワハラ、モラハラ、セクハラに耐えられなくなったケースは多いに違いない。その逆で、妻にときめかなくなった夫もいることだろう。何故、そんなことになったかというと、自分を磨く努力を怠ったからだとも言える。若い頃のスマートな体型を保つ為に節制と運動をし、健康を保つための食生活を心掛ければ、みっともない体型にはならない。また、常に自分を高めようと勉学に勤しみ、魂を磨く努力を怠らなければ、魅力が衰えることはない筈だ。

 自堕落な生活を送り、自分の幸福だけを追求して、仕事が忙しいと家事育児を放棄して、妻への傾聴と共感が出来ない夫を愛することが出来る妻がいる訳がない。そんな夫婦関係であるのだから、婚外恋愛についつい心を奪われるのも仕方ないことであろう。例の寝取られた男の続報だが、実は自分も浮気をしていて、部下にパワハラをしていて、妻にはモラハラとパワハラをしていたのではないかとの報道がされている。そして、寝取った相手も当該の夫に反撃をしている。泥試合の様相を呈している。実に醜い不毛の争いだ。

 結婚当時の魅力を失わない努力を続けるのは当然だが、人間は日々成長していかなければ時代に取り残されるだけでなく、家族からもリスペクトされ続けるのは無理である。身体的にも、精神的にも、そして人間的にも進化を続けることが、輝き続けることの必須条件である。もし、そのような努力を積み重ね、魅力ある男性であり続けることが出来たなら、他の男に寝取られることなんてなかった筈だ。他の男に寝取られたなんてカミングアウトするのは、自分磨きに失敗したんだと宣言しているようなものではないか。こういうのを恥の上塗りと、世間では言うのである。

生きづらさの原因は不安型愛着スタイル

 子どもの頃からずっと生きづらいのであれば、それは不安型愛着スタイルから来るものかもしれない。愛着障害というメンタルのパーソナリティ型がある。小さい頃に虐待やネグレクトを受け続けて育った子どもは愛着障害を抱えてしまい、強烈な生きづらさを持つだけでなく、様々なメンタルの障害を持つし、身体的な病気をも抱えてしまう。そんな虐待やネグレクトを受けた訳ではなく、ごく普通に愛情を持って育てられたのにも関わらず、やはり生きづらさを抱えてしまう事がある。それは、不安型愛着スタイルによるものである。

 両親から愛情をたっぷりと注がれて、十分な教育をされてきたのに何故か不安や恐怖感を抱えていて、学校に行きづらくなったり社会に適応しにくくなったりする人生を送ってしまう子がいる。親からの愛情が不足した為に『愛着』に問題を抱えると言うなら理解できるであろう。ところが、親から有り余るような愛情を受けているのに、愛着に不安を持ってしまうことがある。それは、親からあまりにも強い干渉や介入を受けた場合である。そして、かなり高学歴であり教養・知識が高く、コミュニケーション能力が高い親ほど陥りやすい。

 つまり、聡明な親ほど子どもを不安型愛着スタイルに追い込んでしまうのである。勿論、子どもをわざと不安型愛着スタイルに追い込んで、生きづらさを抱え込ませてしまう親なんて、いる訳がない。子どもを立派に育てて、幸せな人生を送ってほしいと願うのが親である。しかし、その思いが強いばかりに『良い子』に育ってほしいと願い過ぎた時に、取り返しのつかない過ちを犯してしまうのである。子どもに対して、親は過度に期待するものである。だからこそ、知らず知らずのうちに過干渉と過介入をしてしまうのであろう。

 人間には本来自己組織化する働きがある。つまり、生まれながらにして主体性や自主性・自発性、そして自己成長性や進化性を持つので、それらの自己組織性を伸ばしてあげれば、ひとりでに成長して素晴らしい大人になっていく。その自己組織化能力を伸ばすためには、子どもに対して余計なコントロールや支配をしてはならない。自己組織化の能力は、干渉や介入をなるべくせずに、無条件の愛である母性愛をたっぷりと注ぐことにより成長する。逆に父性愛である条件付きの愛やしつけを厳しくし過ぎてしまうと、自己組織化が止まる。

 三つ子の魂百までもという諺通り、子どもは三歳の頃までの育てられ方で、その人の一生が決まってしまうと言っても過言ではない。親が子に対して『あるがままにまるごと愛する』という体験をたっぷりとし続けなければ、子どもは自己組織化しないのである。現代の親たちの多くは、子どもに対して過干渉と過介入を必要以上に繰り返して育てる。そうするとどうなるかというと、自己組織化する能力が育たずに自立できなくなる。そして、不安や恐怖感を必要以上に抱えてしまい、社会に対して上手く適応できなくなるのである。

 幼い子どもというのは、ありのままの自分をまるごと愛してくれて、どんな自分であっても見離さず必ず守ってくれる庇護者がいれば、絶対的な安心感・安全観というものが形成される。少しぐらい親に反発したり反抗したりしても、温かい態度で包んでくれる存在があってこそ、不安感・恐怖感は払拭されて、どんな苦難困難にも向かっていけるようになる。ところが、親から所有され支配され、強くコントロールされて親の思い通りに育てられると、強い不安や恐怖に支配されてしまうし、自立が阻害されてしまう。これが不安型愛着スタイルという状態である。

 不安型愛着スタイルになってしまうと、強烈な生きづらさを抱えてしまうし、苦難困難を乗り越えることが出来なくなる。何故不安型愛着スタイルになるかというと、愛情ホルモンまたは安心ホルモンと呼ばれる、オキシトシンというホルモンが不足するからである。故に、HSP(感覚過敏症)にもなる。自閉症スペクトラム障害やADHDのような症状を呈するケースも多い。自己肯定感が低くて、人の目を気にしやすい。依存性や回避性のパーソナリティを持つことも少なくない。育て方が悪いせいだと親を責めることも出来ない。何故なら親もまた同じように育てられ方をしたからだ。不安型愛着スタイルというのは世代連鎖をするから恐いのである。

摂食障害を乗り越える方法

 摂食障害に苦しんでいる人たちは、想像以上に多いという事実を知らない人が多い。何故かと言うと、摂食障害だということを本人が隠しているケースが多いからである。摂食障害の子どもを抱えている親も、そのことを隠したがる傾向にあるし、医療機関の受診をさせない場合も多い。摂食障害を抱えている子ども自身も、医療機関に行きたがらないし、自分の苦しみを誰にも相談できないのである。一人で過食と嘔吐を繰り返す摂食障害の苦しみを抱え込むことが多い。中には、親にもひた隠しにしている子どもがいる。孤独感を抱えているのだ。

 たとえ、専門の医療機関を受診したとしても、治療が難しいこともあり、症状が改善することはまずない。そもそも摂食障害を起こしている子どもとその親は、摂食障害が深刻な病気であるという認識がないし、起きた原因を特定できていないのである。親たちも、子どもの摂食障害について相談したがらないし、相談されても適切な助言ができる相談機関も少ない。したがって、摂食障害の子どもと親は、この障害は治らないものだと諦めることが多い。子どもだけでなく、親も孤独感を抱えているのである。

 確かに、摂食障害は治りにくい。投薬治療も効果が見られないというか、そもそも投薬治療は適切ではない。カウンセリングやセラピーを受けたとしても、その効果は限定的である。障害を起こした本当の原因を特定できていないのだから、当然であろう。摂食障害の真の原因は、親子関係における問題にある。親子の愛着に問題を抱えているから、摂食障害が起きると言っても過言ではない。『愛着障害』こそが、摂食障害の本当の原因である。だから、摂食障害の子どもだけを治療しても改善しないのである。

 摂食障害が起きているのは、愛着障害に原因があるのだから、親子関係における歪んだ愛着を改善しなければ、摂食障害は治ることはないと言える。障害を起こした子どもの治療も必要だが、親に対する治療こそが求められる。愛着障害は、親の子どもに対する態度が根本的に変わらなければ、癒されない。したがって、親に対する適切なカウンセリングこそが必要なのである。ところが、摂食障害の原因が自分にあるのだということを、親は認識したがらない。ましてや、障害の原因が自分にあると言われたら、反発して聞く耳を持たない。

 摂食障害を起こしている子どもは、自分が愛着障害だということを知らないことが多い。そして、その親もまた子どもとの愛着に問題があるという認識がない。何故なら、愛情不足なんて絶対にないと思うくらいに、子どもに対して愛情を沢山注いできたという自信があるからである。愛情不足なんて絶対にないと思うほど、親たちが子どもに愛情をこれでもかという位に注ぎ続けているのは確かである。それは障害を起こしている親子に共通している事実である。しかし、親が子どもにかけている愛情こそが問題なのである。

 摂食障害を起こしている子どもに対して注がれてきた愛情は、父性愛的な愛情である。無条件の愛である母性愛は、絶対的に不足している。障害を起こしている子どもに注がれてきた愛情は、過介入や過干渉の愛である。それは、本当の愛ではない。偽りの愛情である。親が、無意識のうちに子どもを支配する為、かつ子どもをコントロールする為に注いでいる歪んだ愛である。本来は、親は子どもに対して『あるがままにまるごと愛する』という態度が必要である。そういう母性愛だけを3歳くらいまで注ぎ続けなければならない。それを怠ってきたから愛着障害が起きて、摂食障害という二次障害を起こしたのだ。

 何故、親はそんな間違った愛情を注いだのかというと、実は親もまた愛着障害だからである。だからこそ、親に対する治療が必要なのである。唯一、摂食障害を癒す治療法がある。その治療法とは、『オープンダイアローグ』である。ミラノ型の家族療法であるこのオープンダイアローグは、愛着障害を根本的に治すことが出来る。この療法は歪んでしまった愛着を、本来の豊かな愛着に変えてくれる。しかし残念ながら、このオープンダイアローグ療法を取り入れている医療機関は極めて少ない。精神科の医師やカウンセラーは、是非ともこのオープンダイアローグを学んで実践して、多くの摂食障害者を救ってほしいものである。

LGBTが増えた原因

 LGBTの正しい認識がされてきて、偏見がなくなりつつあり、社会に適応しやすくなってきたのは喜ばしいことである。とは言いながら、LGBTが増えることで社会の生産性が低下してしまうと、本音では受け入れることが出来ない人たちが存在する。特に、政権与党の中でも特に保守的なグループでは、LGBTを社会が受け入れてしまうと、社会秩序が壊れてしまうと本気で思っているようだ。だから、時々本音での発言を思わずしてしまうのかもしれない。LGBTは生産性がないなどと言ってしまうのであろう。

 LGBTの方々の生きづらさや苦しみを思うと、そんな人権を否定するような発言をするべきではない。苦しんでいる人たちの気持ちに共感できないというのは、政治家として失格であろう。社会的弱者や障がい者が生きやすい社会にするのが政治家の務めである筈だ。このような保守的な政治家は、男女の性差に関するジェンダーにも、こだわるケースが多い。自分たちの主張に迎合する科学者を招いて研修会を開催して、LGBTの原因を追究して、イレギュラーとしての存在だと主張したがる。批判的な分析は避けてほしいものだ。

 けっしてLGBTを否定したり批判したりするつもりはないが、LGBTが起きる原因についての考察をすることは必要だと思う。原因を科学的に分析した論文を発表すると、盲目的にバッシングする人たちがいる。確かに、LGBTをあまりにも病的なもの、社会の歪みだとして扱うのは良くないと思う。あくまでも科学的に原因を洞察することは、彼らが自分のことを正しく理解する為にも有効であろう。ただし、彼らが不幸だという前提とした科学的分析は避けねばならない。彼らが抱く生きづらさを少しでも和らげる手助けにしたい。

 LGBTになってしまう原因は、遺伝子の異常によるものだというのが定説である。確かに、DNAが何らかの影響を与えてしまい、LGBTになってしまうことは考えられる。だとしても、すべての原因が遺伝子異常だというのは言い過ぎのような気がする。ただひとつ言えるのは、LGBTの方々は強烈な生きづらさを抱えて生きてきたということだ。勿論、社会が理解してくれないし受け入れてくれないから当然であるが、それだけが生きづらさの原因ではなさそうだ。小さい頃から自分の人生を生きてないという実感があったと思われる。

 そして、LGBTの方たちの多くは自己肯定感が低いという特徴を有していると考えられる。さらに、何をするにしても不安や恐怖感を覚えることが多くて、神経学的過敏の症状を持っているような気がする。特定の音や匂いなどに拒否反応を起こしやすい。さらには、心理社会的過敏も加わり、メンタルを病んでしまい不登校やひきこもりにもなりやすい。そうなってしまうのは、根底に愛着障害を抱えているからではないかとみられる。虐待やネグレクトを受けてそうなっただけでなく、過介入や過干渉を受けて愛着障害になった例もあろう。

 LGBTの方たちのすべてに、愛着障害が根底にあるとは言えないが、乳幼児期の子育てに問題があったのではないかと推測している医療の専門家が多い。LGBTの方たちとその親との関係性が、あまり良くないケースが多いような気がする。親が我が子をあるがままに、まるごと愛するような態度で接して育てていれば、子どもの自己肯定感が育つ筈である。自己肯定感があまり育っていないというのは、やはり愛着に問題があると考えられる。日本の子育てにおいて、良好な愛着が形成されていない為、LGBTが増えている気がする。

 日本の家庭教育において、愛着障害を起こしてしまう子育てがこれからも続くとすれば、LGBTが益々増えてくるに違いない。ましてや、愛着障害を強化してしまう日本の学校教育であるから、LGBTは増え続けるであろうし、不登校やひきこもりも益々増え続けることだろう。日本の家庭教育にしても学校教育にしても、自己否定感を高めてしまう教育をしている。その誤った教育システムが愛着障害を生み出し強化させている。そのことによりLGBTを増やしているのであるから、日本の教育を正しいあり方に正さないといけない。

妻が夫に不満を持つのは何故か

 夫婦の満足度についてのアンケート調査をしたら、驚くような結果になったという。夫が妻に対して満足している割合は69%であるのに対して、妻の夫に対する満足度は49%だというのである。この差は何なのか、どうしてこんなに差があるのであろうか。昔は、夫の方から離婚を切り出すケースが多かったが、現在は妻から離婚を申し立てるほうが圧倒的に多いという。しかも、夫の方では離婚の理由が解らないと主張するケースが殆どだというから驚きだ。ということは、妻の不満を夫はまったく把握していないということになる。

 夫の満足度は現実と相違ないが、妻たちの本心を明らかにしているかというと、そうではないような気がする。というのは、この満足度に対する設問が総体としてのものであり、個別の満足度設問になっていないからである。確かに、全体としてはまあまあ満足という気持ちがあるが、かなり不満な部分が相当あるのではなかろうか。特に、妻の気持ちに共感してくれているか、または妻の話を真剣に聞いてくれるか、さらには妻のことを自分のことのように心配してくれるか、という設問だったら妻はNOと答えるに違いないのである。

 多くの妻たちが抱いている不満は、以上のようなことなのである。とは言いながら、経済的には裕福な暮らしをさせてくれるし、高望みをしても仕方ないという意味で、満足していると答えているのではないかと思うのである。だから、このような設問をすること自体が、まずいのではないだろうか。以前、既婚男女に対してのこんなアンケート結果がある。生まれ変わって、結婚するとしたら今の伴侶と結婚するかどうかを聞いた。男性は約半数が現在の妻と一緒になると答えたのに対して、妻はそれよりも1割以上低い数字になった。

 しかも、20代~30代の妻たちは別の男性と結婚したいと願う割合が低いが、50代~60代になると半数以上の妻たちが別の男性と結婚したいと答えているのである。つまり、夫と長く暮らすほど不満が高まるということになる。若い頃は見えなかった夫の嫌な部分が年齢を重ねると目立ってくるのか、夫が高齢になると身勝手で我が儘になるかであろう。夫婦生活の中で、夫が抱いている不満感よりも妻が抱える不満感が圧倒的に多いということになる。年齢を重ねるとその傾向が強くなるということであろう。熟年離婚が増える要因であろう。

 それでは、何故妻たちは夫に対して不満を持つのか、考察を試みたい。妻たちが持つ不満は、夫の傾聴力と共感力の乏しさに対してである。または、コミュニケーションが成り立たないという不満でもある。どうして妻よりも夫のほうが、コミュニケーション能力が低いのか。夫たちは職場で、コミュニケーション能力やプレゼン能力を発揮して、部下たちを統率管理している筈である。年齢を重ねれば重ねるほど、その能力は高まっているに違いない。それなのに、家庭では妻が夫のコミュニケーション能力が駄目だと感じているのである。

 それは職場での意識と家庭での意識がまるで違っているからであろう。夫たちは職場において、意識を集中してコミュニケーション能力を発揮しているのである。そうしないと、仕事が上手く行かないからである。特に顧客の気持ちを汲み取ろうと必死になるし、上司の意思を把握しないと出世できないのだ。部下の話をよく聞かない男性の上司は多いが、上司の話を聞かない管理職は極めて少ない。それだけ気を張り詰めて職場でコミュニケーション力を発揮している。その反動であろうか、家庭では妻の話を聞こうとしないし、共感しようとしないのだ。

 「世の中の男性なんて、みんな発達障害みたいなものよ」と言った女性がいる。東京大学名誉教授でフェミニストである上野千鶴子女史である。発達障害の夫によって心身の破綻を起こすカサンドラ症候群の方たちに招かれた講演会での発言である。言い得て妙である。気を張り詰めて仕事をしている職場においては大人の発達障害の症状はあまり出ないが、気が緩む家庭においては発達障害の症状が強く出てしまうのだ。当然、傾聴力と共感力が乏しいし、コミュニケーションが上手く行かない。妻の気持ちを解ろうともしないし、身勝手で自己中な夫に愛想を尽かすのは当然なのである。熟年離婚をされるのも仕方ない。

しょうもない男と結婚して後悔する女性

 世の中には、しょうもない男と結婚してしまい、おおいに後悔している女性が相当数いるという。周りから見ると、どうしてそんな駄目男と結婚してしまったのか不思議である。何故結婚したのか、自分でもよく解らない女性もいると思われる。こんなにもしょうもない男だったのかと、結婚してから気付く女性もいるし、駄目な男だとある程度解っていながら仕方なく結婚した人もいるのではないだろうか。どうしてそんなしょうもない男と結婚してしまうのか、駄目男でも暮らしを続けて行くべきなのか止めるべきかを考察してみよう。

 妻から見るとしょうもない男とはどういう性格・人格なのだろうか。自己中心的で利己的であり、損得勘定で動く人間というケースもある。家族の幸せよりも自分の喜びを優先してしまう人だ。または、まともなコミュニケーションが取れない男もいる。人の話を聞かないタイプだ。聞いているようだが、まるっきり聞いていない。自分のこだわりや固定観念によってバイアスをかけているから、自分にとって都合の悪いことは聞こえない。家事や育児を依頼しても、忘れるし無視する。妻の気持ちに共感できないし、心が冷たい男である。

 もっと最悪なしょうもない男は、働くことが嫌いなタイプだ。何かと理由をつけては定職につかない。職を転々として、稼いでこない。ジャンブルやゲームが大好きで、コミックやテレビ・映画に夢中。中には最悪のケースもある。暴力や暴言を操り返し、家族を支配し制御するタイプだ。こんなしょうもない男と結婚したら、毎日が最悪である。妻に見つからないところで子どもに暴力を奮うケースもある。嫌なことがあると黙り込んだり、モノに当たったりする男もいる。壁を叩いたり蹴ったりして、妻子を怖がらせる最低の男もいる。

 中には、立派な職業に就いて高収入で、周りから見たら良い旦那さんに見えるケースもある。大人しくて、優しそうに見えるし、酒・ジャンブル・女には目もくれず、毎日職場と家庭を往復する優良亭主である。しかし、人間的には詰まらないし、異性としての魅力が感じられないタイプである。何故、そんな好きでもない男と結婚したのかと言うと、早く結婚して親から独立したかっただけである。口やかましく支配的な親で、愛情を注いでくれず子どもを制御する、いわゆる毒親から逃れたかったからである。

 しょうもない男と結婚する女性は、実はこういうケースが多いのである。育てられた家庭に居場所がなくて、自分と結婚してくれるのなら、しょうもない男と暮らしたほうがまだましだと思い込む女性は少なくない。温かくて愛情が溢れていて思いやりのある家庭を構築したいと願って、駄目男でも結婚する場合がある。愛情を注いであげれば、男は変わるかもしれないという期待は、脆くも崩れ去る。人間は、そんなに変われるもではない。ましてや、男のほうも親から愛されず育ったケースは、温かい家庭を築くのは無理なのだ。

 さて、このようなしょうもない夫とは今後どう対処したらよいか、悩むところである。暴力や暴言を繰り返すとかギャンブルのはまり仕事もしないという、どうしようもない夫なら一刻も早く別離したほうがよいだろう。どうするか迷うのは、立派な職業に就いて高収入で、周りから見たら良い旦那さんに見えるケースである。ましてや、医師、弁護士、技術者、行政職など安定した高収入が保証されている場合は、なかなか離婚に踏み切れないものである。子どもの未来のために、自分の夫は隣のおじさんや宇宙人だと思い、我慢する選択肢もある。

 しかし、子どものために我慢を続けるとしても、自分の人生を犠牲にするというのは正しい選択肢であろうか。人間は、誰かを心から愛し愛されてこそ生きる喜びを感じるものである。心からリスペクトできる伴侶、そして敬愛してくれるパートナーと一緒に人生を全うしたいと願うものだ。また、そのようなしょうもない夫は、妻が外で働くことを嫌がり、フルタイムで働かせない傾向が強い。しかし、働くことで社会と繋がり貢献をしていくという喜びを得られないというのは辛いものである。しょうもない男と一緒の暮らしを続けるか否か、どちらを選ぶのかは、いろんな要素を熟慮して決めるしかないだろう。

男性が怖くて苦手な女性

 男性が怖くて話をするのも苦手だと言う女性の方が存在する。当然、結婚することも出来ないし、お付き合いさえも避けたがる。職場でも、男性の同僚と話すことも苦手だし、男性の上司とは目を合わせることも出来ないケースもある。男性の野太い声を聞くと、怖くて仕方ないし、怒鳴る声が聞こえると震えが止まらなくなる女性もいる。学校でも、男性の同級生と話せない子どもがいる。どういう訳か解らなく、男性が苦手で怖いのである。男性恐怖症と言っても差し支えない。原因も解らないから、対処する方法もない。

 重症の方は、精神科医や臨床心理士に診断と治療を受けるケースもある。カウンセリングを受けると、乳幼児期の育てられ方に問題があるのではないかと言われることが多い。父親との良好な関係が形成されなかったことが、男性恐怖症になったのではないかと言われることも少なくない。カウンセラーやセラピストというのは、自分も同じような体験をしていることも多く、そのような分析をしてしまうことが多いようである。治療者自身が父親を憎んでいることから、父親が原因だと導くのではないだろうか。

 本当に父親が原因で男性恐怖症になってしまったのであろうか。厳格な父親、いつも怒鳴っていた父親、子どもを所有物のように扱っていた父親、自分を支配してコントロールしようとしていた父親、そんな父親は世の中にたくさん存在する。それだったら、もっと多くの女性が男性恐怖症になる筈だ。怖い父親がすべての原因だとするのには、無理があるように思われる。確かに、あまりにも厳格で暴力的な父親が、男性恐怖症になるひとつの要因だとしても、それだけが原因だと言うのは言い過ぎのような気がする。

 勿論、男性恐怖症になる原因が他にもある。幼児期に大人から性的ないたずらや暴力を受けたことが、深刻なトラウマになってしまって男性恐怖症になることもある。少女期に同様の悲惨な体験をしてもなることがある。大人になってレイプなどの恐怖体験によって男性恐怖症になることも考えられる。しかし、そのような体験をしないのにも関わらず男性恐怖症になるのは、何故であろうか。酷い父親であったから男性恐怖症になったとは言い切れないように思われる。そこに特有のバックグラウンドがあったように思うのである。

 パニック障害やPTSDになりやすい人となりにくい人がいる。同じような恐怖体験をしても、心の傷を残してしまう人と残さない人がいる。または、得体の知れない不安や恐怖に出会ったとしても、まったく平気な人もいればそれがトラウマになってしまう人がいる。その違いは何によるのであろうか。恐怖体験は単なるきっかけであり、本当の原因は別な所にあると見るのが正しいと思われる。必ず男性恐怖症になってしまうと見られる体験がひとつある。それは両親が不仲で、いつも喧嘩をしたり母親が暴力を受け続けたりするのを見ていたという体験である。

 自分が辛い思いや悲しい思いをさせられるとか恐怖体験をするのも、トラウマとなってしまい後々まで自分を苦しめる。それ以上に大きなトラウマとしてずっと苦しめるのは、実は自分自身が体験することではなくて、自分が大切にする人や大好きな人が悲惨な目に遭った体験なのである。つまり、愛する母親が父親である夫から暴言や暴力を受けている体験がトラウマになりやすいということだ。自分自身が虐めや暴力を受けるよりも、同級生が目の前で虐めや不適切指導を受けた記憶のほうがトラウマになりやすいのである。

 家庭内において、母親や兄弟姉妹が父親から虐めや暴力を受けていて、助けてあげられなかったという体験のほうがより大きなトラウマになりやすいと言える。そして、男性が怖い存在として脳に刻み込まれているのである。さらに、母親が夫からまるごとありのままに愛されていなかった故に、我が子に豊かな母性愛を注げることが出来なかったことで、自己肯定感が育たなかったことが大きな影響を与える。つまり、自分を守ってくれる安全基地がないまま大人になると、男性恐怖症になるのである。強すぎる不安や恐怖感を持ち続けることになる。男性恐怖症の本当の原因は、愛着障害にあると言ってもよい。