優しいだけの男は女性を幸せにできない

「男は強くなければ生きていけない。優しくなければ生きる資格がない」と言ったのは、レイモンド・チャンドラーの小説に登場する主人公のフィリップ・マーロウ探偵である。20代の頃にこのマーロウ探偵の台詞を読んだ時、すーっと心に染み込んでしまい、こういう男になりたいと思った。男はタフでなければ、か弱き存在を守れないし、限りなく優しい気持ちがなければ、女性の気持ちに寄り添えない。最近の女性は、優しい男を求める傾向がある。ところが、優しいだけの男では、女性を幸せにはできないということを知らない人が多いのである。

 

男も女も優しいほうがいいに決まっている。でも、優しさだっていろいろある。芯の強さを根底に持った優しさならいいけど、優柔不断的な優しさは不安を与えるだけだ。相手の言いなりになるのが優しさだと思っている男もいる。ましてや、自分が嫌われることを避けるために、周りに迎合するような優しさを発揮する男性もいる。何のことはない、自分のしっかりした価値観や哲学がないのだ。だから、少しぐらい強く女性に言われると、例え自分の考えと違っても言いなりになってしまう。これが優しさだと勘違いしている男が多いのだ。

 

女性は、優しいだけの男性を求めてはいない。やはり、強さを持った男でないと女を幸せにはできない。その強さというのは、肉体的な強さや精神的なタフさだけではない。どんなことがあってもぶれない精神性である。そして、いざとなったら自分を犠牲にしてでも、愛する女性を守ってくれる強さである。強大な敵に出会った時に、愛する女性を見捨てて、我先に逃げてしまうような男性は駄目なのである。苦難困難に立ち向かっても、けっして逃げずに乗り越える強い精神力も必要である。

 

ところが、若い女性は見かけだけの優しさを持つ男に惹かれてしまう傾向がある。何を言っても「いいよ、いいよ」と女性の主張に従う男を選ぶ。例え自分の意見に合わなくても、相手の言いなりになるような男と付き合いたがる。こういう優しさというのは、まったくのまがい物である。自分を女性に気に入ってもらおうと我慢をして、優しそうに見せるだけなのである。こういう男性は、結婚した途端に豹変する。あれ程優しい態度を取っていたのに、自分の思い通りに妻をコントロールしようとして、不機嫌な態度を見せるし横暴にもなる。

 

離婚する夫婦が激増している。熟年離婚も増えているが、若い子育て世代の夫婦もあっさりと別れるケースが増えている。子はかすがいと言われているが、子どもがいても離婚を踏み止まる理由にはならないらしい。離婚の申し立ては、以前は夫からしていたものだ。ところが最近は、夫のほうからでなくて、妻側から離婚を申し出るケースがすごく多いらしい。その離婚の理由は、表向きは性格の不一致となっているが、実は見せかけの優しさだったと気付いたのだろう。そんな夫だから見切りをつけたとのだと思われる。

 

真の優しさとは、ただ単に優しい言葉をかけたり物腰の柔らかい態度をしたりすることではない。自己主張せずに、反論せずに相手に迎合することでもない。自分の確固たる信念は曲げることなく、駄目なものは駄目だと相手に厳しく接することも時には必要だ。例え自分が嫌われても、相手のためになるなら苦言を呈することも大切だ。そのような強さを兼ね備えた優しさが必要なのである。そういう強さに裏打ちされた優しさこそが、安全安心を相手の心に提供することが出来る。

 

子どもや女性の中には、いつも得体の知れない不安を抱えている人が相当数いる。そういう不安を払拭してくれる絶対的な守護神としての『安全基地』が存在しないと、安心して社会に踏み出していけない。子どもが不登校になるのは、安全基地の存在がないからである。父親がどんな場合にも身を挺して我が子を守るという気概を見せないと、子どもは安心して学校に行けなくなる。家庭内で安全基地としての機能を夫が発揮してくれなければ、妻は不安を抱えてしまう。その不安が子どもにも伝わり、子どもはいつも不安を覚えながら生きる。母と子は、お互いに不安を増幅させてしまうのである。これでは、子どもはやがてひきこもりになる。男は優しいだけでは家族を幸せにはできないのだ。

私の家政夫ナギサさんとおじ恋

TBS系の火曜ドラマ枠で放映されていた『私の家政夫ナギサさん』が面白かった。視聴率は他のドラマと比較しても、ダントツの高さを誇っていたようである。「わたナギ」と略されていて、絶大の人気を誇っていたという。元々はコミックが原作のTVドラマ化だ。家事が出来ないが仕事のできる女性MR(薬品会社の営業職)が、妹から無理やり家政夫を派遣されてしまう。片づけられない女性の元にやってきた家政夫は、50歳の独身おじさん。最初は疎ましく思ったが、あまりにも完璧な掃除・片付け・料理に惚れ込むという物語が展開する。

 

そして、その家政夫のナギサさんはおじさんながらとても魅力的で、優しいお母さんといった具合。当のナギサさんも、お母さんになりたくて一流企業のMRを辞職して、家政夫になったという。深い思いやりがあって、主人公の心身を癒してくれるナギサさんに、次第に惹かれていくというドラマである。紆余曲折を経ながらも、最後にはマギサさんも主人公の女性を好きになって結ばれるという、ハッピーエンドでドラマは幕を閉じる。それにしても20歳以上も年の離れたおじさんに恋をするという、実際にはあり得ない物語である。

 

しかしながら、実際にはあり得ないことだと思っていたが、現実に多く起きていることだというから驚きだ。最近、パパ活とかじじ活という言葉がネット上で躍っているが、これは単なる恋愛ではなくて、それなりの対価を支払って相手と付き合う出会い系サイトである。しかし、恋愛の対象としてパパのような年齢の男性や年上のおじさんを選ぶ女性が増えているらしいのである。そういうTVドラマや女性向けの漫画が多いという。まさしくナギサさんのような優しいおじさまに恋をする時代なんだと、認識を改めなくてはならない。

 

恋愛対象とするなら、同年代かせめて10歳上くらいが限度だと思っていた。お金や地位・名誉のある中年や芸能人ならいざ知らず、ごく普通のおじさんに恋をするなどというのは考えられない。何故、こんなことが起きるのであろうかと考えてみた。もしかすると、ナギサさんのようにお母さんの代わりを求めているのかもしれないし、優しいお父さんを欲しているような気がする。つまり、現実の父親や母親があまりにも自分の理想とする親像ではないので、その代替対象としているのではないかとも思われる。

 

しかし、一時的な恋愛や癒しの対象、または結婚するまでの繋ぎ役なのではなくて、本当に一人の男性・人間として恋をして、結婚を望んでいるのである。つまり、若い男性にはない何かの魅力がおじさんにはあり、そういう人と一生を添い遂げようとするのだから、一時的な感情ではなく本気なのである。だとしても、20歳以上年上のおじさんに恋をして一緒に暮らしたいと言うのだから、女性側に何か事情があるとしか思えない。同年代の異性では物足りなく思うのか、若い男の精神的な未熟さに我慢できないのだろうか。

 

あくまでも個人的分析だと断ったうえだが、おじさんに恋焦がれてしまう女性は、もしかすると不安定な愛着を抱えているのかもしれない。母親から豊かな母性愛を注がれなかったか、またはダブルバインドで育てられたのかもしれない。親から過干渉を受け、支配されてコントロールを受けて育ったのであろう。だからこそ、あるがままの自分をまるごと愛してくれる、安定した愛着を持つおじさんに惹かれるに違いない。慈母観音のような包容力があるおじさんに恋をするのは、愛着障害だからであろう。そして、そのようなおじさんだからこそ、安全基地として機能してくれて、不安定な愛着が癒されるに違いない。

 

私もあらゆる家事をほぼ完璧にこなせるし、和洋中の殆どの料理だって出来る。手前味噌だが、レストランよりも美味しい料理だと評価されている。簡単な日曜大工もこなすし、電気設備・給排水設備の修理もする。庭仕事や剪定、草刈りもする。カウンセラーやセラピストとしても実績があり、話題が豊富で話し相手にすれば退屈させない。ナギサさんのような家政夫として、立派に勤まるような気がする。とは言いながら、独身でもないし65歳の高齢なので、残念ながらナギサさんとは違い、恋愛や結婚の対象にならないのは確かだ。(笑)

機能不全家族になる本当の原因

機能不全家族が増えているという。そして、それが原因で家庭崩壊に陥っているケースも少なくない。家族というコミュニティがその健全なる機能を失っているのだから、家庭が様々な問題を起こして、家庭崩壊を起こすのはにべもないことだ。機能不全家族に陥る原因は、ひとつには家族がアルコール・ギャンブル・薬物・ゲームなどの依存症に陥っているせいで起きていると考えられている。また、親が自殺したり離別したり、再婚を繰り返すということも原因だと言われている。勿論、家庭内暴力や虐待も要因のひとつだと言える。

 

これらの機能不全家族の原因だと考えられているものは、本当の原因ではないような気がする。家族が様々な問題やトラブルを起こすのは、そもそも家族という形態が脆弱であり、家族の関係性が希薄化もしくは劣悪化しているからではなかろうか。特に親子の関係性が非常に悪いというのが特徴であり、その根底にあるのが両親の不仲である。機能不全家族の親たちは、クレーマー、モンスターペアレンツ、アダルトチルドレン、毒親と呼ばれるような人が多い。その中で、子どもに対してもそうだが夫婦間でも、共依存や過干渉が起きている。

 

そして、これらの機能不全家族の家庭では、実に多くの問題やトラブルが起きている。問題が起きていないように見えても、実は家庭内に実に深刻な問題を内包していることが非常に多い。子どもが不登校やひきこもりになっているケースも、一見するとごく普通な家庭に見えていながら、実は機能不全家族であることが殆どである。そして、子どもが深刻な摂食障害、ギャンブル依存やゲーム依存、さらには薬物依存などに陥ることもある。または、妻や子がパニック障害、PTSD、うつ病、各種メンタル疾患を発症する例が多い。

 

それでは、どうして家族の関係性が希薄化したり劣悪化したりしているのであろうか。そしてその関係性が悪化すると、どうして機能不全家族になるのか。その原因は、システム論から考察すると明らかに出来る。家族というコミュニティはひとつのシステムであると考えられる。家族ひとりひとりがそのシステムの構成要素である。システムの構成要素である家族ひとりひとりは、お互いにいたわり合い支え合う関係性が求められる。そして、それぞれの家族は、個別最適ではなくて全体最適を目指すことが必要不可欠なのである。

 

つまり、家族というシステムは、良好な関係性と全体最適を目指すという価値観を共有しないと、システムエラーを起こしてしまうのである。システムエラーとは機能不全家族になるということであり、家庭崩壊という結果を招いてしまうという意味である。機能不全家族は、家族それぞれがばらばらであり、個別最適を優先しがちである。あまりにも自分の幸福や豊かさを実現しようとしてしまい、全体最適である家族全員の幸福実現を二の次にしてしまうと、システムエラーを起こしてしまうのである。

 

システムの構成要素である家族それぞれが、何故に良好な関係性を結べず全体最適を目指せないのかというと、それは家族間における安定した愛着が結べていないからに違いない。親子間で良好な愛着が結ばれていれば、常に自分よりも先に家族の幸福や豊かさを優先する。夫婦間でも同様である。親どうしの関係性が悪いと、親子の愛着も傷ついてしまうことが多い。愛は連鎖して循環する。夫婦間の愛情が滞ってしまうと、子どもに対して豊かな愛情を注ぐことができなくなる。特に、母親からの無条件の愛である母性愛が不足してしまう。そうなると子どもは自尊感情を持てず、愛着障害に陥ってしまうのである。

 

親子も夫婦も良好な愛着が結ばれていないと、機能不全家族になってしまう。そうすると深刻な問題が起き続け、いずれ家庭崩壊を起こしてしまう。だから、家族間の傷ついた愛着や不安定な愛着を、一刻も早く修復しなければならないのである。そのためには、システム思考を家族全員が共有することが肝要である。全体最適と関係性重視の価値観に基づいた思考と行動が必要である。このシステム思考に基づいた言動を、家族全員がお互いに続けていくと、愛着は修復されて家族というコミュニティは再生する。機能不全家族が解消されるには、これしか方法がない。

 

※自分の家庭は機能不全家族だというふうに感じましたら、「イスキアの郷しらかわ」にご相談ください。システム思考とはどういうものなのか、システム思考で生きるにはどうしたらいいのかをレクチャーいたします。家庭崩壊を防ぐ手立てを一緒に考えますし、その支援をさせてもらいます。問い合わせフォームからご相談ください。

コロナ離婚を避けるためには

コロナ離婚が急増しているという。コロナ離婚というのは、新型コロナウィルス感染症によって自宅待機やテレワークを強いられた夫のあまりにも酷い言動に、妻が耐え切れなくて決意する離婚のことを言うらしい。普段夫は仕事で昼間は会社に出掛けているから、家庭では土日しか在宅していない。ところが、毎日来る日も来る日も在宅している夫の態度が、うざったくて辟易するのだという。会社に行って仕事が出来ないというストレスも夫にあるのだろうが、妻に対する言動や態度が度を越しているということだと思われる。

新型コロナウィルス感染症は、社会生活に大きな制限や影響を与えている。生命をも危うくさせられるほどの大変なパンデミックを起こしているが、家族の絆にも影響を与えて、家族崩壊さえも起こすほどの事態を引き起こしているとは驚きだ。外出制限は、経済に深刻な影響を与えている。夜間営業の飲食店や居酒屋が営業制限を受けた影響で、家庭内での夕食や飲酒が増えたとみられる。当然、家族内の対話や触れ合いが多くなる。そのお陰で、家族の絆が深まって関係性が良好になると思っていたが、逆に家族の関係性が壊れるとは想定外だ。

それにしても、自宅待機や自宅ワークを強いられて、さらにはギャンブルや飲み会にも行けなくてイライラするのは理解できるが、その捌け口を妻や子に求めるというのは許せない。奥さんだって、学校にも行けず自宅にいる子どもの面倒を見るために外出できずストレスが溜まる。それでも、奥様方は普段は作らなくてもいい昼食やおやつを作って、家族のために苦労しているのだ。少しぐらい家事育児に協力してくれてもいい筈だ。ゲームやTVにうつつを抜かして協力せず横暴な態度をされたら、妻だってキレてしまうのは当然だ。

コロナ離婚と呼ばれているが、この感染症騒ぎがあったから離婚になった訳ではないように思われる。今までも、我慢できないような夫の言動が積み重なっていたに違いない。身勝手で自己中で、妻の気持ちにまったく共感できない夫。妻がどんなに悲しくて苦しい思いをしていても、それを察知してくれない。悩みを打ち明けても、それに共感してくれないばかりか、自分のほうに原因があるのではと責められる。それでも何とか忍耐を続けていたのに、今回のコロナ感染症騒ぎで毎日昼間も一緒にいることで、夫との離別意思が決定的になったのではあるまいか。

イスキアの活動をしていると、こういう夫を持つ妻から相談を受けることが多い。本日もゴルフ練習場である妙齢の女性から、あまりにも酷い夫の言動により、全身のあちこちに原因不明の痛みやしびれが起きているとの相談があった。どうしたらいいのかとの質問に、まずは傾聴して共感してくれる人に、たっぷりと夫に対する愚痴を聞いてもらうことだと助言した。それを何度もすると、夫の言動によっていかに自分が傷つけられているかという事実を、俯瞰するし客観視できるようになる。そうすれば、ストレスが軽減できるようになる。

それだけでは来る日も来る日も痛めつけられる精神は、穏やかにはならないだろう。毎日をどのように過ごしたらいいでしょうかとの問いに、私は「宇宙人と暮らしているんだ」と思うようにしてはどうかとアドバイスをした。同じ人間だから、日本人なんだから話が通じるに違いないと思うことがそもそも間違いなのだと認識すべきだ。夫なのだから自分の気持ちは解ってくれるものだと思うことがそもそも間違っているのである。夫は、人間の姿かたちをしている宇宙人なのだから、所詮自分の言葉を理解できないし、共感なんてしない生き物だと思うのである。

もし、コロナ離婚を言い出された夫がこのブログを読んでいたら、こうすれば離婚を食い止められる。妻の話をまずは黙って聴くことだ。謙虚に素直な気持ちで、心から謝ることだ。そして、妻の話に共感するだけでいい。アドバイスや忠告はしなくていいし、分析したり批判したりすることをしてはいけない。妻の気持ちを自分のことのように聞いて、妻と同じ感情を素直に吐露しなくてはならない。そして、辛くて悲しんでいる妻を何も言わずぎゅっと抱きしめてあげるとよい。痛い場所やしびれがないかどうかを聞いて、その箇所を優しくさすってあげるだけでいい。そうすれば、妻の心も徐々に和らいで許してくれるかもしれない。夫が優しく妻を愛すれば、妻は必ず応えてくれる筈だ。

コロナによる自宅待機でDVが増加?

ヨーロッパでは、新型コロナウィルス感染症が爆発的に増加している。その沈静化のために厳しい外出制限の措置が取られ、自宅待機が長期化しているという。その影響なのか、DVが多発していて、深刻な状況になっているのだという。外出制限のために職場に行けず、自宅での待機を強いられた父親が、ストレスが限度に達してしまい、妻子にDVを働いてしまうという構図らしい。または、ストレスが溜まった母親が子どもに対してDVをしてしまう例もある。弱い立場の者が犠牲者になってしまうのは世の常ではあるが、あまりにも悲惨である。

家庭内暴力というのは、体力や権力の強い者が弱者に対して働くケースが殆どである。たまに、ひきこもりの子どもが親に対して暴力を振るう例もあるが、その際もどちらかというと力の弱い母親が対象になることが多い。DVは、自分に対して反抗しない相手に対して行なう卑怯な行為なのである。今後の日本でも外出制限や外出規制が厳格化し長期化するに伴い、DVや虐待が急増するかもしれない。そんな不幸が起きないようにと願っているが、その可能性は高いと予想される。何故なら日本人は、基本的にストレス解消が不得意だからだ。

日本でもDVが起きる可能性が高くなる理由が他にもある。それは、家族の関係性が良好だと言えない家庭が多いからである。仮面夫婦を演じているケースが多いし、父親と子どもとの信頼関係が危うい家庭が多い。したがって、良好な家族の絆が結ばれていないし、家族の関係性が劣化・希薄化しているケースが少なくない。自宅待機が長引くと、お互いに対する思いやりがなくなるので、言い争いも起きるし、暴言や暴力に発展することも多くなるであろう。家族の関係性が悪いから、DVが起きるのである。

新型コロナウィルス感染症が起きて、学校や幼稚園が休校・休園になってしまった。そのおかげで、子どもたちも家庭に自宅待機となってしまった。当初、子どもたちが外出するのは好ましくないという捉え方をしてしまった。確かに、学校が休みだからと言っても自由に外出するのは良くないと考えるのも当然だ。買い物、映画、旅行、ゲームセンターなどに行くのは好ましくないだろう。ところが、公園に行って遊んでいる子どもがいると、各市町村の教育委員会に苦情を申し立てた人がいたらしい。それで、一時は公園に行けない子どもがいたのだ。

そんな可哀そうな子どもがいると教育委員会に訴えて、改めて文科省から通達があり、公園に子どもたちが行くのは問題ないことになった。公園に多くの子どもたちが喜んで遊ぶ姿が見られるようになった。子どもたちがどこにも出かけられなくなったら、ストレスが溜まるばかりである。我が家の孫たちは、毎日午前と午後の二回公園に連れて行き、十分に遊ばせた。時には、登山にも連れて行った。おかげで、ストレス解消が充分にできて、心身共に健康に過ごせた。大人だって、ストレス解消が必要であろう。

テレワークが可能であれば、外出するのは難しい。自宅でパソコンに向かって、仕事をしなければならない。テレワークが困難で、外出制限をされて自宅待機している大人が、自宅でTVやビデオ鑑賞で過ごすのは、あまり良いストレス解消ではない。スポーツジムや屋内運動施設でスポーツをするのも、感染の危険性が高いので好ましくない。公共交通機関を利用して遠くの公園や里山などに行くのは、感染の危険性がある。しかし、自家用車やレンタカーを利用して自然のフィールドに出て、トレッキングやキャンプをするのは構わないだろう。

普段、家族との触れ合いや対話がなくて、家族の関係性が希薄化したり劣化したりしているのであれば、この自宅待機を積極的に活用してはどうだろうか。郊外の公園や里山、キャンプ場に行って、家族でバーベキューやキャンプ、ハイキングをしてみるのも良い。豊かな自然の中で、夫婦・親子の触れ合いを楽しんで、ストレス解消をしてみてはどうだろうか。その際大人は、普段の嫌なことや辛いことを何もかも忘れて、童心に帰って思いっきりはしゃぎ回ることを勧める。そうすれば、家族の絆も深まってストレスフリーになり、DVや虐待も起きないに違いない。

熟年離婚は益々増えてくる

熟年離婚が急増している。夫が定年するまで待つという妻、子どもが自立するまで我慢するという妻が多い中、それまでも待てないと、40歳代から50歳代で離婚を決断する妻も少なくない。夫のほうから離婚を切り出すケースもあるが、圧倒的に多いのは妻からの申し出のほうである。そして、妻から離婚を切り出された夫は、離婚の原因について自分ではまったく心当たりがないというのである。一方妻のほうはというと、長年に渡り我慢に我慢を積み重ねてきて、もうこれ以上は無理だと決断しているという。

夫のほうは、身を粉にして働き、家族のために自分を犠牲にして努力してきたと思っている。連日の残業や顧客接待で深夜まで働き、土曜日曜だって接待ゴルフや休日残業で頑張ってきたと自負している。家族サービスだって不十分ながらしてきたし、家族のために持ち家やマンションを購入してあげた。経済的には、不自由な思いをさせたことはないと思っている。こんなにも家族の為に粉骨砕身働いてきたのに、離婚したいなんて、考えられない裏切りではないかと思う。妻を裏切るような行為をした覚えもないのである。

でも、妻は数えきれない不満を抱えている。妻をまるで家政婦やベビーシッターかのように扱う夫には、もう我慢がならないのだ。何時もではないが、時折妻を自分の所有者、支配者のようにふるまう夫。身勝手で、自己中の夫。モラハラやパワハラを平気で繰り返す夫。それを全く意識していないから、反省することもないし、改善することはない。経済的なこともあるから何とか我慢し続けてきたけれど、もはや一緒に生活する必要もないし、これからの人生を一緒に歩むという選択肢はないのだ。

家事や育児を分担してくれる夫がいない訳ではない。しかし、圧倒的に妻の負担が大きい。いくらパートやアルバイトだからと言っても、働いていることに変わりはない。それなのに、自分の仕事を最優先に考えていて、妻の仕事に理解を示さないし、非協力的である。子どもの教育の問題やトラブルが起きると、仕事に逃げてしまい妻任せにしてしまう。自分にとって損か得になるかで行動し、自分の評価や名誉ばかりを考え、妻に対する思いやりやいたわりの気持ちが感じられない。妻の気持ちを解ろうとしない夫に愛想尽かしをするのは当然だ。

とは言いながら、優しくない訳ではない。誕生日やクリスマスイブにはプレゼントをしてくれるし、嫌々ながらも買い物に付き合ってくれる。評判のレストランにも連れて行ってくれるし、旅行に誘ってくれることもある。しかし、自分の都合に無理に合わせようとするし、好きな処に行くけれど、妻の行きたい処は行きたがらない。なにしろ、自分の思い通りにならないと、とたんに機嫌悪くなる。妻から不適切な行動を指摘されると、黙り込んで不機嫌な表情をする。そうすると、妻は自分が不機嫌させてしまったと自分を責めてしまう。

妻は、夫が嫌いになって離婚しようとしている訳ではない。妻の気持ちに共感してくれようとしない夫に我慢がならないのだ。そして、黙って話を聞いてほしいだけなのに、トラブルの原因が妻にもあると指摘したうえに、解決法をくどくどと述べる、その傲慢な態度が気に入らないだけなのだ。何かというと、見下したような態度をとる夫には辟易している。結婚してから築いた財産はすべて折半できるし、婚姻後に積んだ夫の年金は自分が半分受け取れることが解ったから、経済的にも困らないと知った。人手不足で引く手あまたの社会だから、パートなら高齢でも雇ってくれる。離婚しても、経済面での不安がないから、決断するのだろう。

妻が熟年離婚しようしていないのか、気になって仕方ない夫がいるかもしれない。熟年離婚をしたくなかったら、夫は心を入れ替える必要がある。今までのように、妻の話をまるで聞かないような態度は改めなくてはならない。妻の話に耳を傾けて聞き、批判・否定せず妻の気持ちに共感することから始めることだ。妻とのスキンシップも含めた触れ合いを心がけると共に、妻の気持ちを自分のことのように感じることが求められる。そして、何よりも妻の主体性や自主性を重んじ、妻を支配したり制御したりしてはならない。人間としての尊厳を妻に対しても認めてあげることだ。まずは、家事の分担から見直してみてはどうだろうか。

家族葬には大きな落とし穴がある

都会だけでなく、地方でも家族葬をするケースが多くなっている。全体でも8割以上の遺族が家族葬を執り行うらしいし、都会だと9割を超える方々が家族葬だと思われる。高齢者である故人の友だちは既に鬼籍に入っている人も多く、故人も残された家族に負担をかけたくないと家族葬で良いと言い残すことが、その理由であろう。確かに、家族葬のほうが負担も少なく、義理で弔問する人たちにとってもありがたい。余計なコストをかけて葬儀を行うより、家族だけでじっくり故人を見送りたいという気持ちも理解できる。

しかし、この家族葬には大きな落とし穴や危険性が内在しているということを、認識している人は極めて少ない。その落とし穴とは、故人ロスが起きる危険性が高まるということである。夫をなくした方がまさしく『夫ロス』で長く苦しまれているので、支援したケースがいくつかある。そういう夫ロスを起こすケースでは、例外なく家族葬をしていたのである。そして、単なる家族葬だけでなく、親しくしていた故人の友達にさえも訃報を知らせることなく、密かに葬儀を執り行っていた。焼香のための弔問も遠慮してもらっていたのである。

愛する人をあの世に送りだすというのは、非常に辛いことである。特に、長年に渡りずっと寄り添っていた配偶者を突然失うというのは、大きな悲しみが襲う。そして、その悲しみと孤独感は長く心を支配しがちである。だとしても、徐々に悲しみが癒えてくるものであるが、たまに悲しみがなくならないケースがある。それがどういう訳か、家族葬の場合であり、しかも通知を出さないで弔問をお断りしているケースなのである。遺族の負担は少なくて済むし、義理で弔問しなければならない人は有難いが、悲しみが癒えないのは困る。

どうして家族葬だと悲しみが癒えないのか、脳科学的に洞察を試みた。悲しみが癒えない理由は様々であるが、一番は最愛の人の死を受け入れられないことである。死んでしまってこの世にもう存在しないのだと頭では解っていても、実感できないのである。この実感できないという意味は、亡くなって悲しくて辛い記憶を右脳に閉じ込めてしまっているということだ。辛くて悲しくてどうしようもない感情と共にある記憶は右脳に存在しがちだ。それを徐々に左脳の記憶に移し替えていく。これは意識してするものではなくて、時間が経過する中で自然と最愛の人を喪失した記憶を左脳に移動させる。そうすると悲しみが癒えるのだ。

辛い記憶を右脳から左脳に移し替えると、何故悲しみやトラウマが和らぐのかというと、右脳の記憶は自分のマイナスの感情とごちゃまぜにあるからだ。そうすると、記憶を思い出す度に、辛くてどうしようもない感情に押し流されてしまい、冷静な判断や認知が出来なくなるのである。ところが、左脳に移し替えた記憶は、自分の辛い記憶を客観的に俯瞰して眺められる。あの時、私はとても辛かったんだよと、第三者的にコメントできて、冷静に記憶を振り返ることが可能になり、悲しみが癒えるのである。

この辛い記憶を右脳から左脳に移し替えるのを支援するのが、カウンセリングである。カウンセラーやセラピストは、クライアントの辛い記憶を否定することなく共感してくれる。何度も辛い記憶を話して共感してもらうと、右脳の記憶がいつの間にか左脳に移し替えられて、悲しみやトラウマが癒されるのである。葬儀にいらした弔問客と故人の思い出話や亡くなった時の話をすることで、カウンセリングと同じ効果が得られる。それも次から次へと訪れる故人と親しかった人との対話が、悲しみを癒すのに必要なのである。家族葬にして通知もせず、弔問客がなくて故人の話ができないと悲しみやトラウマがずっと残るだろう。

生前に故人と関わった人々に訃報の知らせをして、通夜や葬儀に弔問にきてもらい、さらには精進落としにも参加してもらい、故人の思い出話や亡くなった経過などを話すのは、遺族としては辛いものである。しかし、長年に渡りこのような慣習が作られてきたのには、深い意味がある。遺族の深い悲しみを癒すのに、こういうしきたりが必要だったのである。元々、通夜と葬儀をすることに長い時間をかけるのは、遺族の悲しみを癒す効果があるからと言われている。葬儀や弔問を簡素化してしまうのは、遺族の悲しみがいつまでも続き、ずっと癒せなくなる危険性が高い。したがって、故人ロス症候群を防ぐ為にも、従来のような葬儀・告別式をすることを勧めたいと考える。

パワハラ上司をやっつけるには

パワハラを平気で繰り返すような上司に仕えるかどうかは、宮仕えの身では上司を選ぶことが出来ないから、もしそんな上司に仕えることになったら最悪である。人事異動を申し出ても、余程の理由がない限り希望が叶うことはない。ましてや、パワハラを認定してもらうには、相当なリスクを負担する覚悟が必要だ。パワハラと認定されたとしても、それからずっと睨まれるし、恨みを買う場合もあろう。ましてや、パワハラをするような上司は粘着タイプが多いから、逆恨みをして仕返しされるかもしれない。

ということであれば、次の人事異動まで我慢するしかないのであろうか。それなら、上司か自分のどちらかが異動するまでの数年間を忍耐の一念でやり過ごすしかないのであろうか。それは、辛い数年間になるし、メンタルを病んでしまうかもしれない。どうにかして、パワハラ上司を何とかやりこめる方法はないのだろうか。職場の総務・人事部門に訴えるのは出来ないから、水戸黄門のように悪を懲らしめてくれる存在はないだろうか。そんな役員や経営者がいたら有難いが、パワハラ上司は上の人に取り入るのが上手いので難しい。

パワハラ上司というのは、役員や経営者に上手に媚びへつらい、部下には厳しい態度で臨むケースが多い。歯の浮くようなおべっかをつかうことを平気でするし、懇親会になると役員や経営者べったりで酒を注いでは気に入られようと必死だ。そんな姿を見せられると、役員や経営者だってパワハラ上司を快く思うことだろう。こんなパワハラ上司は、完全な人格障害である。自分よりも出来そうな部下は、徹底して苛め抜くし、ちょっとしたミスも許さず貶める。何かと権力を盾にして、自分の立場を危うくするような部下を虐める。

このような自己愛性のパーソナリティ障害者は、権力闘争が巧みだし、あることないことを上役に進言しては、部下の出世を阻もうとする。少しでも反抗したり自分よりも目立とうとしたり、名誉を傷つけられたりすれば、激怒して意地悪をする。始末に負えないのである。このようなパーソナリティ障害の人は、歴史上の有名人でいうと、ヒットラーやムッソリーニと同じ人格を持つ。ヒットラーは政敵を卑怯な手を使って葬ったのである。だから、パワハラ上司と戦って勝つという確信がなければ、争わないのが賢明だ。

それでは、毎日我慢すればよいのかというと、それも辛いものだ。ひとつだけ、パワハラ上司と対峙する方法がある。自己愛性パーソナリティ障害の人物は、実は小心者である。だから、自分の資格や地位、または名誉を求めるのである。小人物ほど、自分を大きく見せたいのである。必要以上に大きい車を乗りたがるし、出世や昇給に異常にこだわる。そして、自分の噂や悪口に過剰反応をする。いつも自分の評価を気にしたがるのである。自分が嫌われることを異常に避けたがる。この辺のことが、付け入る隙になるのだ。

先ずは、パワハラをされている現状をつぶさに記録することである。出来る事ならば、録音データとして残すことを勧める。何月何日の何時にどこどこの場所で、言われたことを一言一句違わずに記録する。感情的なことや感想は記録せず、あくまでも客観的な事実だけを記録する。そして、可能ならば同じようにパワハラを受けている人とタッグを組んで、記録を残すとよい。それらの録音データやらもろもろを集めたら、少し大変だがデータを日時順と共に、パワハラの系統別に集計しておくとよい。その記録書をパワハラ上司が偶然見つけられるような処に、しまい忘れたように出しておくのもよい。見つけたら、小心者のパワハラ上司は二度とパワハラをしないに違いない。

これらの行動は、パワハラ事案をある程度集計するまで絶対に内密にしなければならない。信頼できる同僚しか味方にしないことも大事だ。万が一にも裏切られたら、とんでもないことになる。慎重にことを進めるようにしたい。パワハラの集計データを上役に見せる時には、絶対に勝てる見込みがなければしてはならないであろう。根回しを十分にして、勝てると確信してから開示したい。さらに、「あまりにもパワハラ事案が酷いので、しかるべきところ(例えば法務局の人権擁護委員会)に訴えたいという人もいるみたいで困っています」というような柔らかい言葉で訴えるのがよいと思われる。まずはデータの収集をすることから始めることを勧めたい。

女が男を捨てる『男捨離』

三行半(みくだりはん)は、今や男性からではなくて女性から突きつける時代らしい。そもそも三行半とは、江戸時代に女性が再婚する為に必要だった離婚証明書という性格を持ち、男性が別れる妻に書くものであったらしい。だから離婚をするという宣言書ではないから、女性から三行半を書くことはあり得ない。とは言いながら、ここ数年では離婚を切り出すのは、圧倒的に女性が多いということだ。現在は男性から離婚を言い出すのは僅か3割弱で、女性から離婚を申し立てるケースは実に7割近くの高率に上るという。つまり、離婚の3分の2は女性から言い出すということだ。

NHKTVの情報番組では、これらの事実を受けて特集を組んでいた。ショッキングな題名が付いていて、男を捨てるという意味で『男捨離』という言葉が最近とみに使われているという。自ら申し出た離婚を経てシングルマザーの生活をしている数人の女性がインタビューに応えていたが、おしなべて離婚して良かったという感想を述べている。ある女性は共働き家庭においての家事育児の負担があまりにも妻だけに偏り過ぎていて、我慢できなかったと主張していた。専業主婦の一人は、専業主婦なのだから家事・育児を妻がするのは当然であり、養われているのだから家事は妻の役割だという態度が許せなかったという。

一方、突然離婚を言い出された男性は、まったく離婚の原因に心当たりがないという。ギャンブルや不倫をしている訳でもないし、真面目に働いて浪費することもないから、どうして離婚を言い出されたか理解できないという。離婚する理由を確認すると、やはり妻側として家事・育児の負担が自分に偏り過ぎていることと、自分の話を聞いてくれないことが我慢できないと主張するらしい。特に、否定せずに黙って聞くという傾聴の態度がないし、妻の話に共感してくれないのが不満だという。妻は、別に助言や解決策を求めている訳ではなく、ただ黙って頷くか相槌を打ってくれるだけでいいというのだ。

男性と女性の感性はまったく違うということが、夫はまったく理解していないらしい。特に高学歴で教養が高い男性ほど、傾聴と共感が出来ないという。さらに驚きなのは、高学歴で高収入の男性が結婚して子どもが生まれた途端に、離婚を言い出される例があるという。まるで、種馬として利用されたのではないかとしか思えないと、愚痴る男性もいる。高収入な故に、高額の養育費を要求されるのだ。まさか、種馬として利用する為に結婚までするなんて考えられないが、結構このようなケースが増えているという。

このように、実に様々な離婚のケースがあり、妻のほうから離婚を申し出る場合が急増しているのは間違いなさそうだ。男性にとってはあまりにも衝撃的な言葉、『男捨離』が、これからも増え続けそうである。ただでさえ結婚できない男性が多いこの社会で、折角苦労して伴侶になるべき人と巡り合い結婚できたのに、簡単に男捨離されてしまうなんて、由々しき大問題である。それも離婚を言い出されるのは、30代が一番多いらしい。離婚した妻の方も、幼い子どもを抱えたシングルマザーのケースが多いということだ。離婚出来たとしても、経済的な課題を抱えることになりそうである。

男性のほうが離婚の原因だとすれば、離婚されないようにするにはどうすれば良いのだろうか。女性の心を、深く理解するしかないであろう。女性は、デリケートな心情を持つ。感性も豊かである。一方男性は鈍感なところがある。特に、相手の気持ちに共感し、その気持ちになり切って、相手を心から思いやることが苦手である。慈愛とか慈悲という心を発揮できないから、子育てや家事を自ら分担する気持ちが起きないのであろう。慈悲というのは、相手の悲しみを我がことのように悲しむという意味である。この慈悲の心を持つことが肝要だということであろう。

高学歴で教養が高い男性が離婚を切り出されやすいというのは、近代教育の悪い影響だと思われる。客観的合理性の教育を受けているが故に、人の悲しみや苦しみに共感しにくくなってしまうのであろう。相手の悲しみに対して客観的なり過ぎて、自分の悲しみとしてとらえることが出来ないのではないかと思われる。家事育児で苦労している妻に、感謝と慰労の言葉をかけてあげられる夫になりたいし、出来得る限り家事育児の分担を自ら進んで果たせる夫になりたいものである。慈しみの心を惜しげもなく発揮できる、大人の男性になるということである。そうすれば、男捨離なんて言葉は死語になってしまうと確信している。