不登校の真の原因と深刻化は父親に責任

 不登校とひきこもりの保護者の中で、SNS等で我が子についての悩み苦しみを打ち明けているのはお母さんであり、お父さんが悩み苦しみを吐露するケースは皆無である。男性は、そもそも弱音を吐かない生き物だから当然だという意見もあろうが、果たして父親がSNSで子育ての悩みを発信しないのは、それだけの理由だろうか。SNSでの不登校の悩み発信をしたり、医療機関やカウンセリングに相談したりするのは、お母さんだけのケースが殆どである。不登校やひきこもりの家庭において、父親の影が薄いのはどうしてであろうか。

 不登校の子どものことを心から心配して、いろんな解決策を模索したり、医療機関や不登校児童の支援組織を探したりするのは、殆どがお母さんである。子どものことで、自分の育て方が悪かったのではなかろうか、自分がこのような不登校の状況を招いたのではと、自分自身を責めるのは母親だけであり、父親は自分自身を顧みることはまったくない。父親は仕事が忙しくて、母親に子育てを任せっきりにしているので、母親が子育ての方法が悪いから不登校になったと思い込み、妻を暗に責めるケースが殆どである。

 勿論、父親が不登校やひきこもりの原因を作っているのだと言うつもりはないが、そもそもの要因を作った責任が父親にあるのは間違いない。不登校やひきこもりの家庭における共通問題なのは、父母の夫婦関係がよろしくないことだ。不登校とひきこもりの家庭において、当事者の両親の人間関係が親密、もしくはラブラブな状態にあるというのは殆どない。どちらかというと、最悪の関係にあってコミュニケーションが上手くいっていないケースが多い。夫婦関係が破綻に近い場合が多く、母親が離婚を模索している例が少なくない。

 子どもというのは、お父さんもお母さんのことも大好きである。その両親の仲がよろしくないことは、どんなに隠していても子どもには伝わっている。もし、両親の不仲が最悪で、離婚の危機にあるなら、子どもは無意識で問題行動を起こして、離婚の危機を回避させようとする。子どもは自己犠牲を払ってでも、両親の関係を修復させようとするのだ。そんな自己犠牲による不登校やひきこもりを起しても、結果は最悪となる。お互いに、責任が相手にあると思い込み、問題を解決に向かわせないばかりか、逆に関係をこじらせるのである。

 子どもが不登校やひきこもりになるそもそもの原因は、母親の子育ての誤りにあると思っている人が多い。それは、正しくない。そして、不登校の子どもは様々な発達の凸凹を抱えているケースが少なくない。ASD(自閉スペクトラム症)、ADHD、アスペルガー症候群などを起している。生まれつき脳の神経伝達回路に異常があり、育てにくさを抱えているケースも多い。その育てにくさや育児の困難さがあるのだから、母親だけのワンオペで育てることがそもそも無理なのである。夫婦が共に支え合わなければ健全な育成は叶わない。

 不登校の子どもたちは強烈な不安や怖れを抱いている。その原因は、親との安定したアタッチメントが形成されていないからである。アタッチメントとは『愛着』とも訳されるので、不安定なアタッチメントは愛着障害とも言える。愛着障害を抱えるが故に、不安や怖れが常に子どもの心を支配している。心が傷付けられるような体験がトラウマとして積み重ねられる。そして、そのトラウマの積み重ねが心の限界を越えてしまうと、複雑性PTSDとして先鋭化してしまい、その二次的症状として発達の凸凹が強化されてしまうのである。

 親との安定した愛着が形成されない原因は、『あるがままにまるごと愛される』という経験を0歳~3歳の間に積んでいないからである。どちらかというと、無条件の愛である母性愛よりも父性愛が強い子育ての影響がある。つまり、過干渉や過介入の子育てをされてしまうと、子どもは不安を抱えてしまうし、自分は愛されているという実感を持てないのである。絶対的な自己肯定感や自尊感情が育まれない。しかも、父親が自分を犠牲にしても守ってくれるという実感を子どもと母親が持てないと、母子は共に不安になる。父親が家族に対して絶対的な守護神としての役割を果たさないと、子どもと母親が強烈な不安を抱えてしまい、不登校の深刻化と固定化が起きるのである。

孤育てor共育てかで子の幸福度が決まる

 孤育てという言葉が、ネット上で最近は使用されているケースが多い。子どもが孤独という意味ではなくて、親が単独で子育てをしているケースで使われる。勿論、ひとり親家庭もその範疇に入るが、どちらかというとこの孤育てというのは、父親もいるけれど母親だけが子育てを担当している場合に用いられる。つまり、家庭にお父さんがいるけれど子育てに対する協力が得られず、お母さんが子育てに孤軍奮闘している時に孤育てと呼ぶ。そうではなくて、父親が子育てに積極的に協力していて、夫婦が協力している場合に共育てと呼ぶ。

 それぞれの家庭において、様々な事情があるのは当然である。夫が単身赴任をせざるを得ない場合も多いし、ハードな勤務状況の故に家庭不在にならざるを得ないケースもあろう。だとしても、母親だけで子育てするというのは、その負担はあまりにも大きいと言わざるを得ない。どんなに素晴らしい能力をもち、安定したメンタルを持った母親でも、孤育てというのは、母親にもそして子どもにも悪い影響を与えるのは防げない。共育てならば、母親の身体的負担も少ないし、精神的な安定を持てるが、孤育ては辛いものがあろう。

 孤育てによる子どもへの悪い影響というは、世間の人が考えている以上に大きい。何故かというと、母親が孤育てしている時の精神面での不安や怖れが、子どもにダイレクトに伝わってしまうからである。つまり、母親の不安が子どもに対してもろに伝播して、子どもの不安が強くなってしまうのである。ましてや、子どもというのは豊かな母性愛(無条件の愛)をたっぷりと注がれてから、父性愛(条件付きの愛)でしっかりと躾をすることで健全な育成が可能となる。どちらか一方が欠けても、子どもは健やかに育ちにくい。

 今、青少年が不登校やひきこもりになるケースが非常に多くなっている。その根底になっているのが、子どもたちの生きづらさである。それは、根底に愛着(アタッチメント)の不完全さを抱えているからである。問題行動を起こしている子どものほぼ100%と言っていいほど、不安定の愛着が根底にある。問題ある殆どの子どもが不安型の愛着、または愛着障害と言っても差し支えなく、それが二次的な症状としてメンタルの不全さを起している。そうなってしまっている原因の多くが孤育てにあると言っても過言ではない。

 離婚してのひとり親による孤育ての場合よりも、ふたり親なのに母親だけが孤育てをせざるを得ないケースのほうが、問題が起きやすい。それも、父親が家庭にいるのにも関わらず子育てに携わるのを拒否しているか、もしくは子育てから逃避している時にこそ問題が起きると言える。何故なら、父親がのっぴきならない理由で子育てに関われない時は、母親は覚悟を決めて孤育てに取り組める。ところが、子育てに協力することが出来るのにも関わらず、子育てから逃げている父親が家庭内にいることが、母親の心を疲弊させるのである。

 孤育てをしている母親は、まさに孤独感があり家庭内で孤立している。こうなると、子どもだけが自分と繋がるたった一人の絆である。しかし、幼い子どもは相談相手にならないし、悩みを打ち明けることもできない。ましてや、子育ての悩みは自分だけで解決するしかないのだ。家庭内に父親がいるにも関わらず相談相手にならないのだ。特に、父親が発達障害であるケースは最悪だ。まるで、話を聞こうとしないし、会話が嚙み合わないばかりか、とんでもない反応をする。子どもに悪影響を与える言動を繰り返すから、困る存在である。

 孤育ては、子どもを不幸にし、共育ては幸福感を持つ健全な子どもを育成できる。だから、父親は仕事をある程度犠牲にしてでも、共育てをすべきなのである。自分の趣味や遊びを、子育て期間は我慢すべきだと考える。何故なら、母親はすべてを犠牲にして子育てに専念するのだから、父親だって自己犠牲が必要だ。この世の中で、一番尊くて価値のあることは、次世代を担っていく優秀な子孫を育成することだ。この世の中で一番価値があるのは仕事だと思っているなら、それは完全な間違いだ。だからこそ、共育てに力を注ぎ、孤育てにならないように、父親たるものは最善の努力をすべきなのである。

エディプスコンプレックスが自立を阻む

 エディプスコンプレックスという心理学用語を、最近の精神医学界隈では使用することが少なくなってきた。マザーコンプレックスという用語も使わなくなっているので、その対語であるエディプスコンプレックスも話題に登らなくなったのも当然だ。マザコンというのは、母親に対するコンプレックスであり、エディプスコンプレックスというのは父親に対するそれである。ファザコンという用語もあるのに、どうしてエディプスコンプレックスというのかというと、ファザコンよりも強烈で敵対心がある言葉だからだろう。

 ファザコンというのは、どちらかというと女の子が父親に持つ憧れや依存心を意味する。エディプスコンプレックスというのは、男の子が父親に対して殺意までも持つような敵対心を抱えたコンプレックスを言う。どうしてエディプスと言うのかというと、ギリシャ神話であるオイディプス王(エディプス王)の悲劇から名づけられた。その神話とは、オイディプス王子が父親の王様のお妃である母親に横恋慕して、父親を殺して王様になり、母親を自分の妃にしたという悲劇からの命名だという。

 男の子というのは、思春期を迎えると父親が克服すべきライバルでもあり、潜在意識で好意を持つ母親の恋敵と思い込むケースが少なくない。ましてや、人生でも成功者であり厳格な性格を持つ父親なら、殺したいほど憎むケースも多い。特に、自分のように人生の成功者たりえるように、子どもを見下して支配して強く干渉するようなら、その支配から逃れるには殺すしかないと思い込むこともあろう。逆に、父親の支配から逃れないと諦め屈服するようなら、父親の操り人形のようになり、精神的に自立出来なくなることも少なくない。

 実はこういう親子関係に陥り、自立が出来なくて依存関係を継続してしまう若者が増えているのである。父親を憎みながらも屈服してしまうという無念さとつらく苦しい葛藤に、子どもは悩み苦しむ。特に完璧さや潔癖さを求めていて、それを自分の子にも要求し続ける父親に育てられると、子どもは逃げ場がなくなる。父親の見えない圧力に押し潰されることが少なくない。完全無欠な父親は、子どもにとって乗り越えられないあまりにも強大な存在であり、逃げることも闘うことも出来ない場合は、子どもは自立できなくなり閉じこもる。

 子どもは、本来は父親を乗り越えて自立していく。父親を潜在意識下で殺して存在を消してでも克服していくのである。それなのに、何もかも完璧でスキがなく強過ぎる父親では、逆に返り討ちになってしまい、乗り越えられる筈がない。だから、父親は子どもの前で完璧な父親を演じてはならないし、あまりにも強い圧力を掛け続けてはならないのである。時には、だらしなく不完全な父親を演じることも必要である。お酒を飲んでグズグズになったり、情けないような姿も見せたりすることで、子どもは安心して父親を乗り越えられるのだ。

 さらに、完璧な大人の姿だけではなくて、時にはインナーチャイルドを発揮して天真爛漫で無邪気な父親の言動も見せなくてはならない。インナーチャイルドをけっして見せない親に育てられると、子どもがインナーチャイルドを出してはいけなんだと思い込む。そうすると、本当の自分をさらけ出せなくて、自分らしさを楽しめなくなってしまう。これも、精神的な自立を阻む要因になってしまう。人間が大人になっても遊び心を失わない為には、インナーチャイルドを慈しむ心が必要なのである。

 このように子育ての中で父親が果たす役割は、想像している以上に大きい。子どもは父親の後ろ姿を注目していて、模倣をしながら成長していくし、その父親を乗り越えて自立していくのである。だからこそ、父親はエディプスコンプレックスを子どもが乗り越えられるような配慮をしなくてはならないのである。そして、父親たるものは、インナーチャイルドを発揮する姿を、子どもに時折見せなくてはならない。そうしないと、健全に子どもは自立できないばかりか社会に適応せず、不登校やひきこもりになってしまうこともある。父親は子育てに対して、もっと積極的にそして真摯に取り組んでいかねばならない。

※イスキアの郷しらかわでは、父親が対象の子育て講座を実施しています。不登校のお子さんがいて悩んでいらっしゃる家庭へのサポートを長年体験してきて、お父さんの役割がとても重要だと認識しています。父親講座と子育て悩み相談を随時開催しています。個別開催も可能ですからご相談ください。

不登校はただ寄り添うだけで良いのか

 不登校のお子さんを持つ保護者の方は、不安でいっぱいだと思われる。専門家の医師、カウセラー、セラピストに相談しても、ただ寄り添い見守っているだけで良い、と言われることが殆どであろう。けっして登校を促したり一歩踏み出すように勧めたりしないようにと助言されることが多い。それだけでは、何も変わらないし解決しない。それでも、保護者はただ寄り添い見守っているだけで良いのだろうか。助言通りにしていると、子どもの状況は益々悪化するだけのように思うのだけど、それでも何もしないというのは辛いものがある。

 不登校の状況をまずは認めてあげなさい、その状況を受け入れなさいと助言する専門家が多い。それはひきこもりの状況にある青少年のケースも同じである。何らかのアクションを起こしたいと思うのが親として当然なのであるが、専門家は押しなべて何もするなと助言することが殆どである。無理に登校させるようなことはしないようにとか、学力が低下するのを防ぐために勉強をするように仕向けないとか、まるで腫れ物にでも触るような態度で接するように指導されることが多いのである。本当にそれで良いのだろうか。

 不登校の子どもたちは好きなことに没頭することが多い。好きなアニメ番組を見たりコミックに嵌まったりすることが日課になる。インターネットに嵌まってしまうことも少なくない。外出することもなく、部屋に閉じこもってしまう子どもが多い。それでも、無理に外出させることを強要してはならないと助言する専門家も多い。本人がその気になるまで待つしかないと助言されるのであるが、本当にそれで良くなるのであろうか。親として、何もしなくて良いのであろうか。子どもが自分で解決して歩みだすことが出来るのか不安で仕方ない。

 また、学校に行けないなら転校するとか、フリースクールを選択する保護者も少なくない。また、環境が変われば学校に行けるのではないかと思うのも当然であろう。不登校になっているのは、学校の環境が子どもに合わないせいだと思うのである。学友からの虐めやからかい、仲間外れの仕打ち、教師の不適切指導、というようなことが原因で学校に行けなくなったと、親は想像している事が多い。確かに、そういう事もあるのだが、それは原因ではなくて単なるきっかけでしかないのである。それを保護者も当事者も認識できていない。

 不幸なことに、このことを医療専門家やカウンセラー等の支援者さえ認識していないケースが多い。だから、保護者からは何のアクションを起こさず、ただ寄り添うだけで良いというアドバイスになるのである。それでは、保護者はどうすれば良いのだろうか。または、不登校になる本当の原因は何だろうか。子どもが学校に行けなくなるのは、不安や恐怖感からである。不登校になる子どもの殆どがHSC(ハイリーセンシティブチルドレン)なのである。そして、例外はあるにしても、家庭に何らかの問題を抱えていることが多いのだ。

 不登校になる子どもの殆どがHSCであり、得体の知れない不安を抱えているケースが多いのである。そして、心的外傷をいくつも抱えているので、偏桃体が肥大化しているケースが多く、それ故にDLPFC(背外側前頭前野脳)や海馬が萎縮しているのである。その根底には、家族どうしの安定したアタッチメントが形成されていないという問題がある。つまり、子どもが不安型のアタッチメントなので、傷付きやすさや生きづらさを抱えているのである。DLPFCや海馬の萎縮によって、正常な判断力や認知能力、記憶力が低下していて、成績も悪くなっているのだ。

 不登校の子どもに何もアクションをしないと、脳の器質的異常は益々進んでしまい、固定化してしまいかねない。したがって、保護者は寄り添うだけで良いというアドバイスは間違っているのだ。先ずは、偏桃体の肥大化の原因である不安や恐怖を取り除いてあげなくてはならない。心理的安全性を担保する『安全基地』や『安全な居場所』を確保する必要がある。つまり、ただ寄り添うだけでなく、子どもが安心や安全に思えるようにしなくてはならないのだ。その為には、子どもを変えようとはせず、まずは親自身が変わらなければならない。

※親が急に子どもに対してアクションを起こさなくなると、子どもは見捨てられたと勘違いしやすいのです。今までの対応が拙かった事を心から謝罪し、どんなことがあっても命をかけてあなたを守るし、見捨てないことを事あるごとに宣言することも必要です。具体的には、子どもに対して干渉や介入をし過ぎないことと、コントロールや支配を止めることも肝要です。言葉だけでなく、態度や表情も安心できるようにすることが必要です。子どもを『あるがままにまるごと愛する』ようにする子育て直しが求められているのです。

逆転しない正義とアンパンマン

 やなせたかし氏夫婦を描いた朝ドラ『あんぱん』は、今月末にて放映が終わる。とても面白いドラマであったし、時々素晴らしい台詞が散りばめられていて、多くの気付きや学びをさせてもらった。感謝の気持ちでいっぱいである。そんな珠玉の言葉がたくさんある中で、一番に印象に残ったのが『逆転しない正義』という言葉である。アンパンマンが誕生したのも、この逆転しない正義を追い求めた結果でもある。やなせたかし氏夫婦が、太平洋戦争によって人生が翻弄されて、正義という言葉に惑わされて行きついた境地なのかもしれない。

 正義という言葉は、時には暴走するし、周りの人々を傷つけることもある。勿論、正義という言葉に翻弄されて自分自身を傷つけることも少なくない。やなせたかし夫婦も、この正義という言葉に縛られ支配され、自分自身が苦しめられた経験を持つ。だからこそ、どんな時代であろうとも、どんな政治体制にあろうとも、絶対に逆転しない正義とは何かということを求め続けたのであろう。戦争という国家の極限状態に陥ると、正義という名のもとに為政者や権力者にとって都合の良い誤った解釈が横行する。

 ロシアによるウクライナ侵攻やパレスチナガザ地区へのイスラエルによる侵攻も、正義は我にありという誤ったプロパガンダによる影響である。正義というものが、ひとりでに暴走することがあり、為政者や権力者に都合良く拡大解釈されるので、その定義が揺れ動くのであろう。それだけ正義という言葉が危うい証左だと言える。しかし、それでも逆転しないというか普遍的に過ちのない正義は存在すると信じていたのがやなせたかし夫婦であった。その普遍的な正義を追求して生まれたのがアンパンマンである。

 アンパンマンはカッコよくないし、スーパーヒーローではない。どんな敵にも一発で倒してしまう必殺技や強力な武器を持たない。そして、どんな悪者であっても生命を奪わないし、徹底的にやっつけることはしない。ウルトラマンやマジンガーZのように、周りの建物や自然を破壊するようなことはしない。そして、お腹を空かした人に自分の顔(あんぱん)を食べさせるという、それまでのアニメのヒーローにはなかった救い方をする。この究極の自己犠牲を伴った正義を貫き通すのがアンパンマンなのである。

 自分は安全で命の危険のない場所に居て、兵士に命令して殺戮をさせたり自爆を強いるような指導者とは対極にあるのがアンパンマンである。自分の生命を削ったり賭したりすることがあるのが正義だということを、ゆなせたかし氏は朝ドラでも言っていた。世界各国のトップ指導者(為政者)たちは、正義は我にあると声高々に宣言する。でも、それは自分が権力を握り維持したいが為に利用している正義である。どんなに正義を振りかざしても、他国の市民の命を奪うことは、許されない筈である。これが逆転しない正義だ。

 逆転しない正義とは、どんな真理に基づいたものであろうか。それは、簡単に言えば形而上学に基づいた正義であろう。神の哲学である形而上学を根底にした正義であるなら、逆転することは絶対にない。アインシュタインが原子爆弾の製造に加担してしまったことを、戦後に悔やんで形而上学に傾倒したのは有名な話である。何度も日本にやってきて、原爆の被害者に心から詫びた。どんな理由があるにしても、科学を殺りく兵器の開発に利用してはならないと自分を戒めたのである。この形而上学に基づいた正義こそが求められるのだ。

 形而上学とは神の哲学であり、宇宙全体における普遍的な真理・法理である。慈愛・博愛・慈悲に基づく関係性重視の真理であり、全体最適と自己組織化を追求したパラダイムでもある。アンパンマンは、他の誰をも所有したり支配したりしない。力で誰かをコントロールしたり無理に何かをさせたりもしない。どんな相手をも尊重して、その考え方・生き方を認め受け容れる。これが人間本来の生き方である。やなせたかし氏夫婦は、その考え方を子どものうちから身に付けてほしいとアンパンマンに託したのだ。逆転しない正義を実践してもらう為に。

学歴と教養が高いほど毒親になる

 毒親と聞くと、虐待、暴力、ネグレクトをするような親というイメージが強い。確かに、このような行為を子どもに対して常時行うような親を毒親と呼ぶ。しかし、毒親はこういった親だけではない。愛情がたっぷりの普通の家庭で子どもを幸せそうに育てているような親が、子どもにとっては大変な毒親だというケースが少なくないのである。そんな恵まれた環境で育った子どもは、幸福な一生を送ると思われている。しかし、そんな家庭で育っても、強烈な生きづらさと傷付きやすさを抱えて、不幸な人生を歩む青少年が多いのである。

 勿論、すべての普通の家庭で毒親になる訳ではない。しかし、現代における普通の家庭において、意識していないのに毒親になってしまうケースが非常に多いことに驚く。それも、高学歴で教養があり、コミュニケーション力やイマジネーション力が高い親ほど毒親になってしまう確率が高くなる傾向がある。そして、そんな親に育てられた子どもは、小学生高学年、または思春期を迎える時期に、不登校やひきこもりになりやすい。中には、気分障害やパニック障害、PTSD、摂食障害、依存症などに苦しむ青少年が多くなっている。

 こういう毒親たちに共通しているのが、自分が毒親だということをまったく認識していないことである。そして、子どもたちも同じく自分の親が毒親だから苦しんでいるということを気付いていないのである。親子のどちらかが、毒親なんだと気付けば、変化したり反抗したりして乗り越えることも可能なのだが、まったく気付かないので生きづらさや傷付きやすさを抱えたままに人生を送ることになる。中には、この傷付きやすさやトラウマを抱えやすいことから複雑性PTSDになり、二次的症状として発達障害を抱えてしまうことも多い。

 この普通の家庭に生まれる毒親たちは、高学歴・高能力なので人生における成功者が多い。司法における判事・検事・弁護士、医師、教授、教師、経営者など経済的にも裕福な親が殆どである。そして、自分が人生の成功者たるが故に、子どもにも社会の勝者にさせたいのだと強く思うのであろう。子どもに高学歴を求め、特に著名校への進学と安定的な職業に就かせたいと願うのである。子どももまた、親の期待に応えようと頑張り過ぎて、それが重荷になって自滅してしまうことも少なくない。親の操り人形は、破滅しやすいのである。

 このごく普通の家庭における毒親は、子どもを支配したこともないし制御しようとしたこともないと言い張る。子どもに暴力や暴言で従わせようとしたことも一切ないと言い切る。確かに、世間一般で言うような毒親のような仕打ちを子どもにしたことはない。しかし、コミュニケーション力とイマジネーション力が高過ぎるが故に、子どもに対して必要以上に口出し手出しをしてしまうのである。つまり、過干渉と過介入である。一番悪いのが、先取りである。ついつい、転ばぬ先の杖を子どもに強いてしまうのである。

 子どもが自ら気付いて判断して決断し、実行して自ら責任を取るのを、親はじっと寄り添って口出し手出しをせず見守ることが、子育ての極意である。ところが、想像力の高い親はついつい先取りをしてしまう。子どもが自己組織化するのを待てず、次はこうするだよ、こう言いたいんだよね、このようにすると上手く行くんだったよね、と事ある度に助け船を出してしまう。それでは、主体性、自発性、自主性、責任性、進化性、自己犠牲性などの大事な自己組織性が身に付く筈がない。ましてや、我が子の優秀さを自慢し、やがて著名大学や立派な職業に就くんだと周りの人に言いふらして、子どもにプレッシャーをかけるのだ。

 子どもがどんな進路を目指すのか、どんな生き方をするのかは、子ども自身が決めるべきである。けっして親が子どもの進路を決めてはならない。無言の圧力をかけて、子どもに立派な職業に就くことを強いてはならない。自分と同じ道を歩くことを強要してはならない。教養が高くて高学歴の親ほど、子どもを社会における成功者にさせたいと強く思い、有形無形の圧力を掛け続けるのである。その圧力に屈して親の言うとおりの進路を目指す子どもは、思春期にその重さに押しつぶされるのである。メンタルを病んでしまうのは当然である。こういう毒親に育てられる不幸な子どもが急増している。

※イスキアの郷しらかわでは、こんな毒親に育てられてメンタルを病んで不登校・ひきこもりになってしまった数多くの青少年をサポートしてきました。殆どの親たちは自分が毒親だと気付いていません。子どもにそのことを伝えても、親の悪口を言われたと勘違いして反発します。共依存の関係になっているからです。だから、こういう親子を支援する際には、一切毒親だとは告げずに、時間をかけて当事者たちに気付いもらう努力を続けるだけなのです。気付いた親だけがこの地獄から抜け出せます

父性愛のような母性愛こそ危険

 父性愛と母性愛の適切な子どもへのかけ方についてのブログは何度も書いてきたが、未だに母性愛のかけ方について誤解をしているケースは少なくない。特に、父性愛的な母性愛を充分にかけ続けることが正しいのだと思い込んでいる母親が多いのは情けない。父性愛を根底にした母性愛は、とても危険だという認識はないようだ。だから、これだけ不登校やひきこもりが多いし、メンタル疾患で苦しむ青少年が多いのだ。少年たちの自殺も過去最高を更新している。この要因のひとつが、父性愛的な母性愛によるものであろう。

 父性愛のような母性愛とは、普通の家庭において愛情たっぷりに育てられたにも関わらず、子どもが強烈な生きづらさを抱えてしまうような愛情のかけ方である。または、絶対的な自尊感情や自己肯定感が育たず、傷付きやすい子どもに育ってしまう愛情のかけ方である。愛情不足とか虐待・ネグレクトによって、生きづらさや傷付きやすさを抱えてしまうと考える人が殆どであるが、実際はたっぷりと愛情がかけられたのに強烈な自己否定感を持ってしまう子どもがいる。それは、愛情のかけ方が過干渉や過介入の子育てだからである。

 過干渉や過介入の子育ては、親子共々にその異常さに気付かないことが多い。子ども自身が、親からたっぷりと愛情をかけられて育ったと思っているし、親も正しい育児をしたと思い込んでいる。ところが、子どもは思春期を迎える頃に生きづらさと傷付きやすさを抱えて、次第に社会への不適合を起こしてしまうのである。各種の依存症、パニック障害、うつなどの気分障害、PTSD、妄想性障害、摂食障害、統合失調症などの精神疾患になってしまうことが多い。中には、薬物依存や反社的行動を取ってしまうケースも少なくない。

 父性愛のような母性愛とはどういうものか、具体的にあげてみたい。父性愛とは条件付きの愛情と言って、しつけ、指導、良い子に育てようとする支配的・制御的な愛情と言える。時には、罰を加えたり褒美を与えたりして、親の望むように子どもを立派に育てる為の愛情と捉えられている。一方、母性愛とは無条件の愛と言われていて、『あるがままにまるごと我が子を愛する』愛情のことを言う。どんなことをしても許し受け容れて、我が子をありのままに愛する、慈悲・博愛・慈愛のような愛情を注ぐことである。

 父性愛が悪い訳ではない。父性愛だって必要である。例えば、危ないことを避けること、汚濁・不潔なものから遠ざける事、人を傷つけたり貶めたりするようなことを叱ることは必要である。挨拶・礼儀・片付け・掃除・清潔などの人間として最低限のマナー・エチケットは厳しく躾けなくてはならない。それ以外のことは、なるべく子どもが自ら気付き学び判断し決断し、自発的に行動できるようにそっと寄り添い見守ることが肝要である。だから、親は子どもに対して、手出し口出しを極力避けなくてはならないのだ。

 特に、子どもが思うであろう心情を先取りをして言ってはならないし、口に出したい言葉や行動したいことを先取りして言ってしまうことは、絶対にしてはならない。ましてや、子どもの行動がまどろっこしいと思い、ついつい親が肩代わりしてやってしまうことは絶対に避けるべきことである。こういうことをしてしまうと、子どもは自己組織化しない。つまり、自主性、自発性、主体性、責任性、進化性などが育たないし、絶対的自己肯定感が育まれないのだ。このような子どもは友達から仲間外れにされるだけでなく、虐めに遭ってしまう。

 虐待やネグレクトを経験してないから、子どもは愛着障害になんかならないと思うかもしれないが、過干渉や過介入、支配的・制御的子育てをされた子どもは、間違いなく愛着障害になってしまうのである。つまり、父性愛のような母性愛とは、この過干渉や過介入、支配的・制御的な愛情のことである。想像した以上に、このように育てられた子どもは多い。そして、メンタル疾患や各種の精神障害に苦しんでいるのは、こうやって育てられた青少年である。親子共にその養育の間違いに気付かないから、その苦しみから抜け出せないのである。このように父性愛のように母性愛を注ぐ親は、間違いなく『毒親』なのである。

※イスキアの郷しらかわの支援活動を長年してきましたが、その殆どのクライアントが父性愛のような母性愛で育てられた方々です。摂食障害、妄想性障害、うつ病、双極性障害、薬物依存、パニック障害、PTSD、C-PTSD、原因不明の疼痛、PMS、顎関節症、ASD、ADHD、などで苦しんでいる方々は、この父性愛的な母性愛で育児する「毒親」によって育てられたのです。この事実に気付いて、その支配・制御から離脱できた人だけが回復できるのです。

メンタルを病む責任は本人にない

 前回のブログでは、メンタルを病む原因は心ではなくて脳の器質的障害によるものだと解説した。まだ一般社会の中で、特に職場や学校においては心の病気だという認識が強くて、本人の気質や性格、または認知傾向や価値観に問題があるから、メンタル疾患になるのだという捉え方をする人が多いようである。心配しているようなそぶりを周りがするが、自分で病気を引き寄せている、そんな見方をされるから余計に当事者は辛いし、益々症状が悪化しやすい。しかし、メンタル疾患を発症する人に、その責任はないと断言できる。

 メンタル疾患を抱えている人はの殆どは、保護者や本人に関係する周りの人々のせいでメンタル疾患に陥ったのである。精神の病気になった責任は、当事者には殆どないと言い切れる。何故なら、メンタル疾患にならざるを得ないような育てられ方と周りの環境によって、発症したと言えるからである。まずは、精神疾患になってしまうような育成環境についてだが、親があまりにも熱心過ぎる育児をするケース、その反対に育児放棄したり虐待したりする正反対のケースとがある。どちらも精神的な障害を抱えやすいということは間違いない。

 まずは、虐待やネグレクトを受けた場合である。このケースでは、ほぼ100%精神的な障害を抱えてしまう。よしんば、その後児童相談所や児童福祉施設で温かく育てられたとしても、その時に抱えたトラウマは生涯に渡り当事者を苦しめる。脳の器質的障害はある程度改善されたとしても不安は完全に払拭されず、HSCを抱えるが故に傷付きやすい人格を持ち続け、乗り越えることが難しい。優しい保育士さんたちや親切な里親に育てられたとしても、トラウマを乗り越えるレベルまで回復するのは極めて困難だと言える。

 親があまりにも熱心過ぎる養育をしたケースであるが、これは過干渉や過介入の養育とも言える。立派に育てたいとか、将来に渡りエリートの人生を歩ませたいと親が強く意識して、過度の期待を掛け続けて、子どもをコントロールし過ぎた育て方をした場合である。このケースにおいては、子どもは親からの無条件の愛情ではなくて条件付きの愛情を受けてしまうので、自己肯定感が育たないばかりか、虐待児と同じようにHSCを抱えてしまう。完璧さを求められるし、学業成績が悪いと否定されがちになり、見捨てられる不安を抱えてしまう。

 どちらのケースにおいても、HSCからHSPに移行して、得体の知れない不安を抱えてしまう。そうすると、周りの子どもたちからからかいを受けたり、虐めの対象になったりするから、何度もトラウマを抱えてしまうことになる。教師からの不適切指導も受けやすい。それが例え小さなトラウマだったとしても、次第に積み重なっていき複雑性のPTSDになっていき、二次的な症状として発達障害や気分障害を起こしてしまうのである。勿論、生まれつきの発達障害もあるが、それが益々強化されてしまうのである。

 また多いのが、両親の不仲による悪影響である。特に子ども脳に深刻な影響を与えるのが、両親の喧嘩である。子どもの前で怒鳴り合う事を続けると、100%子どもの脳は致命的な器質的な障害を受ける。偏桃体が肥大化してコルチゾールが過大分泌することで、DLPFC(背外側前頭前野脳)と海馬が破壊される。例え怒鳴り合いまで発展しなくても、お互いの愚痴や悪口を子どもに聞かせ続けると、同様の障害が起きる。離婚の危機を迎えると、子どもは自分が犠牲になり、離婚を防ぐために無意識で問題行動を起こしてしまうのだ。

 前述したような家庭に育った子どもは、不安型のアタッチメントを抱えてしまい、オキシトシンホルモンレセプターが異常に少ない脳になる。得体の知れない不安を常時抱えていて、睡眠障害を起こして脳の破壊を招き、メンタル疾患を発症してしまうのである。不登校やひきこもりに追い込まれてしまう子どもも少なくない。何度も心的外傷を受けて、複雑性PTSDになり、発達障害や重篤な気分障害、または妄想性障害や各種依存症までも発症する恐れもある。こうなってしまうと、医学的アプローチも効果なく、長期間に渡る社会からの離脱が起きる。こうなってしまう責任は、当事者にはないのである。

※メンタル疾患の当事者が、低劣な価値観しか持ち得ず、正しい生きる目的を設定できないこともメンタルを病むひとつの要因ではありますが、これも本人の責任ではありません。父親が高い価値観や哲学・思想を子どもに伝えなかったからです。特に「神の哲学」である形而上学を子どもに語っていないから、高い価値観を持ち得ず正しい目的を設定できなかったのです。これも当事者の責任ではありません。

子を産み育てるのは一番尊い行為

 子どもを産み育てることは、とても大変なことである。様々な事情から、敢えて出産しないし育児もしないという選択をする人もいる。勿論、子どもがどうしても授からないというやむを得ない事情の人もいるし、出産に耐えられない体力の為諦めている方もいる。経済的な理由で出産育児を諦めざるを得ないという方もいることを承知している。そういうケースがあることを認識したうえで、敢えて言いたい。出産育児というのは非常に困難ではあるが、一番尊いことであり、とても価値のある行為であるということを。

 この世の中で、人を導き育てるという行為は一番難しいことである。企業において、生産・企画・品質管理・検査・総務・人事等々難しい業務は沢山存在するし、それぞれに尊い仕事である。それでも、一番尊くて難しいのは教育である。人を育てるというのは、企業の発展と存続には欠かせないものであり、教育が上手く機能しないと企業は衰退してしまう。家庭における教育や学校における教育というものが機能しなくなると、社会は発展することを止めて衰退してしまう。政治も経済も成り立たなくなってしまうのである。

 子どもを産み育てるという行為は、とても貴重な行為である。日本人誰もがこの行為を拒絶したと仮定してみよう。そうすれば、日本という国は無くなってしまう。外国人の移民や出稼ぎがあるから大丈夫という意見もあろう。それでも、国家というものは存在するかもしれないが、日本というアイデンテティが無くなるのは確かである。それでも良いと考える人たちがいるかもしれない。しかし、世界に誇りうる日本の伝統的な文化や習慣がなくなるし、縄文時代から脈々と続いてきた『日本人』がなくなるというのは、寂しい限りである。

 子どもを産み育てたいと思う人がその行為をすれば良いのであり、したくない人はそれでいいんじゃないと思う人も少なくない。すべては自由であると。人間に何故生殖という機能を、全能の神は与えられたのであろうか。それは、人間という生き物をこの地球に存在させ続けなければならなかったからである。そして、人間には生まれつきオートポイエーシス(自己産生or自己産出)という尊い機能が与えられたのである。このオートポイエーシスこそが、人間という生物が地球に存在しなければならなかった理由でもあるのだ。

 人間が、産み育てるという行為を通して、多くの気付きや学びを得るというのは、子育てを経験した人なら誰でも知っている。子育ては、親育てでもある。どちらかというと、親にとっての学びのほうが大きい。多くの子どもを育てた人は、人間として大きく成長していることが多い。勿論、子育てをしなければ絶対に成長しないという訳ではない。でも、か弱きものや小さきものに対する慈悲や博愛の心は、子育てによって養われることが多い。子育てを実際に経験しないと学べないことは、非常に多いというのは間違いない。

 日本にも里親制度というものがある。どうしても子どもを産むことが出来ない方は、里親制度を活用してみてはどうだろうか。血を分けた我が子でなければ、母性愛や父性愛が生まれないということはない。実子でなくても母性愛が醸成されていくということは証明されている。昔からよく言われている、産みの親より育ての親というのは科学的な根拠があったのだ。子どもを育てるというのは、大きな社会貢献でもあり、人間としての成長に欠かせないものなのである。そのチャンスを自ら放棄するなんて、もったいないことなのだ。

 生まれつき恋愛することに臆病になる人や不安になる人がいるのも承知している。そんな人たちが結婚まで到達するのは、非常に高いハードルだと思われる。だとしても、恋愛することにチャレンジしてほしいし、結婚することも目指してほしい。勿論、籍を入れないで出産することも可能である。子育てを経験することが、人間に与えられた大きな学びの場であるのは間違いない。出産と育児をすることは、大きな社会貢献でもある。何故ならやがては社会を担うであろう子どもを育てることは、日本という国を発展継続することには欠かせない尊い行為なのである。この世で一番難しくて尊い子育てにチャレンジしてほしい。

青少年の死因第一位が自殺という日本

 15歳~34歳の若者の死因統計調査によると、死因第一位が自殺となっている。先進国の中で唯一日本だけがそんな結果となっているのは、驚くべきことであり悲しい限りである。希望に満ちた世代の筈なのに、将来を悲観しているというのはあまりにも可哀そうである。若者たちにそんな気持ちを抱かせてしまっているのは、我々の責任であると言えよう。勿論、政治家や経済界にも責任があるし、行政の無策ぶりが非難されても仕方ない。若者が未来に対する希望や夢が持てない社会であり、その対策が取れないというのは、実に情けない。

 どうして、こんなにも多くの若者が自殺をしてしまうのであろうか。日本全体の自殺者数は減っているのに、若者たちの自殺者数は増えている。さらに、小中学生の自殺者数も増加している。中高年者の自殺者数はそんなに増えていないのに、青少年の自殺者数が増加しているというのは由々しき大問題である。以前から、日本の社会は生きづらいし閉塞感を覚えているという人が多かったが、その思いが高まり続けていて、自殺率の増加に繋がっているのかもしれない。こんなにも便利で物質的な豊かさを享受できるのに、不思議である。

 さて、どうして若者たちは生きづらさを抱えていて、未来に希望を見いだせなくなっているのであろうか。様々な要因が考えられるが、ひとつの要因として考えられるのが、自己肯定感の欠如であろう。他の先進国と比較しても、図抜けて差異があるのが、青少年の自己肯定感が極めて低い点である。国際統計から見ても、他の欧米諸国やアジアの諸国と比較しても、自尊感情がとても低いという特徴があげられる。どんな部分もすべて含めて自分の事を好きか?という問いに、日本人だけがNOと答えている若者が多いのである。

 日本人の自己肯定感が極めて低いという事実が明らかになったのは、20年も前からである。国際比較調査で、指摘されていたのにも関わらず、文科省は有効な手立てを取れずに改善することも出来ず、却って悪化させてきている。この自己肯定感の低さが、生きづらさや閉塞感に繋がり、自殺率の高さを生み出している一番の要因ではなかろうか。このような憂慮すべき実情を国民に知らせて来なかったマスメディアにも責任があると思うし、文科省の無策ぶりを糾弾してこなかった政治家にも大きな責務があると言える。

 この自己肯定感の欠如は、自殺者数が多いと言う問題に留まらない。少子化の問題にも、自己肯定感が低いということが、極めて強い影響を与えているのは間違いない。この青少年の自己肯定感が極めて低いという事実に、声を大にして訴えて警鐘を鳴らしていた児童精神科医がいた。川崎医療福祉大学の特任教授だった、今は亡き佐々木正美医師である。自閉症スペクトラム症(ASD)などの発達障害の治療に尽力されると共に、多くのお母さんに愛着の大切さを訴えていた。無条件の愛である母性愛のかけ方を丁寧に指導されていた。

 日本の青少年の自己肯定感があまりにも低いので、佐々木正美教授は危機感を持ち、このままでは大変な社会になってしまうと警告を発しておられた。自己肯定感が低いのは、愛着が育っていないからであり、それは本当の母性愛が欠如しているからだと分析されていた。本当の母性愛とは、子どもをあるがままにまるごと愛するという無条件の愛である。0歳~3歳くらいまでは父性愛はあまりかけず、あるがままにまるごと愛するという母性愛だけをかけることが肝要だと説いておられた。この母性愛が少なく愛着が育たたなかったのだ。

 最近になり、愛着障害という概念が取り沙汰されるようになり、誤解されないようにとアタッチメントという原語をそのまま使用する専門家が増えている。良好で安心感をもたらすアタッチメントが形成されていない青少年が、自己肯定感を持てないのである。学校教育において成功体験や好成績を残せば、自己肯定感が育まれると提唱する教育関係者もいるが、完全な間違いである。あくまでも、絶対的な自己肯定感は0歳~3歳の時期に形成される。日本の青少年の自殺率を低下させるため、または少子化を解決するには、安定的アタッチメントの形成による自己肯定感の確立しか、他に方法はないのである。