発達障害がこんなにも激増している訳

 発達障害の子どもが年々激増している。以前なら発達障害の子どもは、ほんの数%しかいなかったのに、いまや30%の割合で存在すると思われる。特に男の子にはその傾向が強く、約半数に発達の凸凹があると推測される。それほどまでに発達障害の子どもが増えたのは何故であろうか。発達障害というと、様々な障害があげられる。自閉症スペクトラム障害(ASD)、アスペルガー症候群、ADHD、各種の学習障害(LD)がよく知られている。それぞれ、先天的な脳の機能障害であり、子育ての仕方が悪くて起きるのではないというのが定説である。

 とは言いながら、発達障害の子どもを実際に支援している人々は、先天的な脳の機能障害だけに原因を特定するには無理があると思っている。勿論、先天的な異常があり、育てにくさがある為に強化されたとも考えれるが、それだけではないように思える。後天的に症状が現れたりする発達障害のケースもある。どちらかというと後者のケースが多いような気がする。そのうえで、誤解や批判を受ける覚悟で言えば、発達障害の多くのケースでは、親の育て方によって症状が強化・固定化されているとしか思えないのである。

 遺伝的な脳器質の異常で起きる発達障害は、確かにある。しかし、大多数の発達障害は後天的な要因によって起きていると推測される。どういうメカニズムと要因によるのかというと、誕生後の対応による影響があると推測される。赤ちゃんが生まれると産声をあげる。あの赤ちゃんの第一声は、胎内から外に出てから肺呼吸を始める時の苦しさからだと推測されている。でも、その苦しさからの泣き声だけではない気がする。胎内で母親から守られている環境から、母体と切り離される大きな不安と恐怖から泣くのではないかと思われる。

 今でこそ誕生後すぐに母親の胸に抱かされるようになったが、以前はすぐに引き離されて新生児室にて育てられた。この誕生後すぐに母親の胸に抱かれて、ずっと母親の傍に置かれて母乳で育てられたら、赤ちゃんの不安や怖れは払拭される。母親にずっと抱かれることが続けば、オキシトシンという安心ホルモンが十分に分泌され、オキシトシンレセプターが大量に形成される。ところが、何らかの理由で母親と引き離されてしまい、スキンシップが不十分だとオキシトシンホルモンが分泌されず、レセプターも未形成のままになる。

 このオキシトシンレセプターが不足することで、赤ちゃんの不安や恐怖感が増大してしまい、HSCになってしまうのである。このHSCによる影響で、脳にも甚大な被害を与えてしまう。不安に苛まれ偏桃体が肥大化すると共に、前頭前野脳、とりわけDLPFCと呼ばれる背外側前頭前野脳の機能低下を産むのである。また、25野脳にも機能低下が起きるのではなかろうか。こうして、脳の壊滅的な器質的変化が起きてしまい、発達の凸凹と育てにくさの症状が起きると考えたほうが、論理的である。さらには、二次的な症状も起きるのである。

 HSCによる聴覚過敏が強く出て、周りの音や話し声が雑音にしか聞こえなくなり、周りの人の声が聞けなくなってしまい、ASDのような症状を起こすのである。さらには、あまりにも不安や恐怖が強く感じて、何気ない言葉や態度に酷く傷付いてトラウマ化してしまい、何度もトラウマを積み重ねられて、複雑性のPTSDを起こすのである。このC-PTSDの二次的症状として、ASDのような症状が出てしまうとも考えられる。母親も同じように子育ての不安を抱えているので、子どもの不安と共鳴して増幅してしまうと考えられる。

 HSCによる聴覚過敏などと並行した育てにくさがあり、親は子どもに対して必要以上に干渉と介入を繰り返してしまう。つまり、子どもが本来持つ自己組織化する働きが育つのを待てなくて、ついつい子どもに支配的な態度をしてしまうのである。それも、こうしないと将来とんでもない不都合や不具合が起きると、恐怖を与えて指導教育をしてしまうと、不安や怖れが益々強くなり、HSCが強化されてしまい、発達障害の症状が強化される。それでなくても、主体性・自発性・自主性・責任性・発展性・自己犠牲性が乏しい子どもなのに、益々この自己組織化が阻害されることになる。このようにして、発達障害は激増しているのである。

※イスキアの郷しらかわでは発達障害の青少年を長年に渡りサポートしてきました。その経験から実感しているのは、以前のような発達障害は一定程度存在していますが、二次的症状としての後天性の発達障害が異常に増えているということです。不登校やひきこもりになっている方は、二次的な発達障害を抱えていることが多いのです。そして、この二次的な後天性の発達障害は、適切なケアにより症状が緩和されます。

甘えていいんだよ

 世の中には、間違った子育ての理論が横行していて、それを信じて教育した為にとんでもない子育てをしているケースが多々ある。その最たるものは、子どもを甘えさせ過ぎて育てると、依存性が高くなり自立できない子どもになってしまうという間違った教育論である。この教育の理論に毒された親たちは、子どもに甘え過ぎないよう、依存させないようにと、厳しく育てるという大変な誤謬を犯すことなる。そして、そのように育てられた子どもは、やがて自尊心が育たないばかりか、自己の確立は出来なくなり、臆病な大人になるのだ。

 この間違った子育て論は、どのようにして広まったのであろうか。または、誰がこんなとんでもない子育て論を考え出したのであろうか。おそらくは、明治維新以降の近代国家へと変貌を遂げる頃に、富国強兵策の一環としての教育理論だ。為政者にとって都合の良い国民を育てる為の教育制度として提唱されたものではないかと考えられる。つまり、明治維新後に欧米から近代教育制度を取り入れて、子どもを甘えさせずに依存させることなく育てることで、為政者にとって支配しやすく従順な国民を輩出しようとしたのではなかろうか。

 我が子をとことん甘えさせると甘えっ子になってしまうと、殆どの日本人が思っている。また、あまりにも子どもを親に依存させてしまうと、依存性のパーソナリティを持つ大人になってしまうと考えている。実は、まったく逆の結果になってしまうということを、殆どの親が知らないのである。人間という生き物は、極めてか弱い生き物であり、乳幼児期は誰かの庇護の元でしか生きられない。したがって、乳幼児期の子どもは親にしっかり守られているという安心感がないと、不安で一杯になってしまうのである。

 三つ子の魂百までもという諺がある。三歳ころまでの子育てがこそが、健全な大人に育つために大切だという戒めである。この三歳の頃までに、徹底して甘えさせて依存させてあげないと、子どもは深刻な不安感や恐怖感を抱えてしまい、やがて思春期を迎える頃になると、社会に適応できなくなることも少なくない。大き過ぎる不安や恐怖感から、HSP(ハイリィセンシティブパーソン)になってしまい、二次的症状として発達障害やパニック障害、PTSD、気分障害などを発症しやすい。不登校やひきこもりになってしまうことも多い。

 不登校やひきこもり、社会に対する適応障害などを起こす子どもは、親が過保護にしたからだとか甘やかし過ぎたからだと言われることが多い。また、犯罪をした青少年を、さも家庭の事情を知っているかのように、親が過保護で育てた、または甘やかしたからとんでない若者にしたと批判する。しかし、それは完全な間違いである。中途半端に甘えさせて依存させたからであり、どちらかというと「良い子」に育てようと、厳しい干渉と介入をし過ぎたからである。甘えさせるのと干渉とはまったく違うのである。

 乳幼児期に、子どもをありのままにまるごと愛するということを徹底して実行して、なるべく干渉を避けて、子ども自身の判断・決断・実行を自らができるようにそっと見守る姿勢が大事だ。その為には、どんなことがあっても親が敢然と子どもを守る、けっして見捨てないし否定しないということをコミットして実行することが肝要だ。そうすることで、子どもは安心して社会に出て行くことが可能だし、精神的にも経済的にも自立できる。子どもが自我の確立をして、その後自我と自己の統合をするには、このような発達段階を踏む必要がある。

 この世の中には、ひきこもりの青年たちが思った以上に多い。その青年たちは押しなべて、親に心から甘えることが出来なかった若者である。中途半端には甘えさせたが、十分に甘えることが出来なかったし、甘え下手なのである。無理して、自立したかのように見せて、親の期待に応えるべく良い子を演じてきたに過ぎない。豊かな愛情をかけ過ぎて、子どもが駄目になることはない。厳しい干渉や介入をし過ぎて、子どもが自立出来ずに社会不適応を起こすケースが非常に多い。親自身が甘えて育ってないから、甘えさせることも出来ないのである。もう一度徹底して甘えさせる子育てをし直したら、親子共に癒されるに違いない。

※ひきこもりの青少年をずっと支援させてもらってきました。その際に、「私に、徹底して甘えていいんだからね、依存してもいいんだよ」と伝えています。「どんなことがあっても見捨てないからね」とも伝えます。そして、甘え下手で甘えさせ下手の親も同じように支援します。そうすることで、ひきこもりの青少年たちは、十分に甘えることが出来て、安全基地を得ることで安心して社会に巣立っていくことが出来るのです。大人になってからでも遅くはありません。甘え過ぎるくらい甘えさせることで、人間は自立に向かって進み出せます。

御上先生のようなキャリア官僚に期待

 TBSテレビの新ドラマ『御上先生』が熱い。文部科学省に在籍する国家公務員総合職、いわゆるキャリア官僚が民間高校に出向するという、通常ならあり得ない設定で展開する物語である。松坂桃李がその主人公を演じている。その私立高校とは、東京大学の合格者を多数輩出している名門の私立高校である。高校3年生のクラス担任として赴任するのであるが、問題ある生徒や先生に反発する生徒たちをどう指導教育していくのか、期待が高まる。それにしても、御上先生のような高い志を持つキャリア官僚は実際にいるのだろうか。

 私たちが想像するキャリア官僚像とは、上司に媚びへつらい政治家のご機嫌取りをして、他のキャリア官僚とひたすら出世競争をする人たちというイメージを持っていた。一般職の官僚たちを見下しているし、建前は国民のためにと言いながら、ひたすら上級国民を目指しているような官僚であるように思い込んでいた。もしかすると、そういうキャリア官僚もいるだろうが、大多数のキャリア官僚は高い価値観を持って、国民の福祉向上と幸福を追求しようとひたすら頑張っているのかもしれないと思い直したのである。

 まさに、御上先生は官僚のお手本になりうる高い価値観を持って、子どもたち本位の教育制度に改革しようと奮闘努力をしている。こんな官僚が増えてくれれば、日本の教育制度の改革も進むという期待が持てる。しかし、残念ながら出世するようなキャリア官僚たちは、上司である官僚幹部や族議員の顔色を窺い、自分の主義主張さえ抑え込んで上司や政治家に忖度してしまうのである。それは、自己保身からすることなのだが、本来の公僕としての役割とはかけ離れている。憲法で規定している、国民に奉仕する役割を忘れているのである。

 キャリア官僚というのは、本来の業務以外の役割が与えられている。それは、政治家が国会での質問に対する答弁用原稿を作成するという役割が与えられている。官僚がすべき仕事ではないのに、この仕事の負担があまりにも大きく、官僚に多大なストレスを与えている。この業務は上級官僚だけのものではない。県の職員も市町村の職員でも、首長の答弁用原稿の作成も命じられている。時間に追われるので、深夜まで及ぶ時間外の業務なので、身体的負担も大きい。自分で作成する能力がない政治家の為に、余計な仕事を命じられるのである。

 そんな余計な業務や、政治家や上司に対するあまりにも過ぎる忖度までしなければ、組織の中で生きて行くのが難しい割に、得られるものが少ない官僚の人気が著しく低下している。昔は、天下りが許されていて、その報酬をも含めると生涯所得が、大企業に勤務した社員のそれと遜色なかったが、天下りが制限されている現代では、官僚を志す若者が減ったのは当たり前だと思う人が多い。しかし、キャリア官僚を志すほどの学業優秀な人間が、所得の多い少ないで進路を決めるというのは、実に情けないことである。

 御上先生というのは、そんな損得や利害でキャリア官僚になった訳ではない。あくまでも、国民の豊かさと幸福をどうしたら実現できるのかということを真剣に考えているキャリア官僚である。つまり、官僚たるものはこうあるべきだという理想像を描いている。勿論、御上先生の価値観と正反対の自利を追求する、低劣な価値観を持ったキャリア官僚も登場する。文科省におけるキャリア官僚は、全国の教職員の指導と管理も間接的に実践している。日本の学校教育の将来像をどうするかのビジョンも作成しているのである。

 日本の教育には問題や課題が山積みとなっている。青少年たちの不登校やひきこもりが増えているし、小中高生の自殺が急増している。教職員の不祥事や不適切指導があまりにも多いし、教員がメンタル疾患を抱えて自死を選ぶケースも多々ある。これだけ多くの問題が次から次へと起きるというのは、教員としての資質がそもそもない人を教職として採用した側に瑕疵があるのは間違いない。性被害事件を起こすような問題教師を現場に配置するとか、校長・副校長の管理職に不適格者を登用するというのは、あり得ないことである。御上先生のような文科省のキャリア官僚に、抜本的な教育改革を実行してもらうしかない。

物分かりの良い人を演じなくても良い

 日本人特有のパーソナリティとして、多数派に属したいとか穏健な言動をして良い人に思われたいという傾向がある。そして、争いごとを好まないし敵を作らないという生き方を志す人が多い。『和を以て貴しと為す』と最古の憲法で主張した聖徳太子に習い、協調性や合意性を重んじる日本人が殆どであろう。これは、団体や企業という組織の中で生きて行くうえでは、必要不可欠な価値観であるに違いない。例え、違った意見であっても上司や経営幹部の主張に逆らうことはしないし、自分の意見はあえて主張しない社員が多い。

 日本人という民族は、あまり争いごとを好まず、競い合うことも避けることが多い。そして、組織の中でも家庭の中でも、物分かりの良い人を演じてしまう傾向が強い。嫌われることを避けたいというのか、どちらかというと周りの人たちにおもねることで無用な軋轢を避けたいという思いが強いのであろう。つまり、周りから『良い人』だと思われたいし、組織の中で無難に生き抜くために必要な処世術なのかもしれない。とは言いながら、自分を失くしてまで相手に合わせてしまい、物分かりの良い人を演じなくてもいいような気がする。

 何故、物分かりの良い人を演じなくてもいいのかというと、あまりにも自分の本当の感情を押し殺してしまうと、自分らしさを失ってしまうからである。人間は、生まれつき自由でありたいと思う生き物である。何故ならば、人間は本来自己組織化をする働きをする。つまり、主体性・自発性・自主性・責任性・連帯性・自己犠牲性・発展性・進化性を持つのだ。それなのに、他人にあまりにも迎合し過ぎて、自分を主張することを止めてしまうと、自己組織化をする働きを失ってしまう危険性が高まってしまうのである。

 また、あまりにも自分の感情を出さないようにしようとして抑圧してしまうと、脳がそのような状況をとても嫌がってしまい、ストレスが高まってしまい脳の異常を起こしてしまうのである。特に、怒りや憎しみの感情を出すことが出来ず我慢を重ねて行くと、偏桃体が肥大化してしまい、海馬が委縮してしまうのである。偏桃体が肥大化して働き過ぎると、ステロイドホルモンが増加してしまい、自律神経が乱れてしまうと共に、睡眠障害が起きやすい。また、海馬と前頭前野脳の機能が低下して、認知症になるリスクが高まる。

 物分かりの良い人を演じ過ぎてしまう危険を示してきたが、日本人と言うのはどうしても相手に合わせてしまう傾向が強い。確かに、職場や公的な場所においては、ある程度の常識的な言動は必要であるが、家庭や仲間の中では物分かりの良い人を演じなくても良いのではなかろうか。特に、親に対しては自分の感情を閉じ込めなくてもいいし、子どもに対しても物分かりの良い親を演じなくても良い。特に避けたいのは、子どもに対して必要以上におもねることである。こんな子育てをすると、子どもが感情を吐露するのが苦手になる。

 家庭内においては、本来は家族相手には気兼ねする必要もなく、自由に発言して良い場所である。いろんな感情を持つ場合、それを相手に素直に、そして正直に伝えても良いのである。そして、伝えられた相手はその素直な感情に共感すべきであることは言うまでもない。そして、それがどんな感情の表現であったとしても、寛容と受容の態度を取らなくてはならない。そうしないと、家族の関係性を良好なものに出来ないのである。家族の良好な関係性があってこそ、安全基地としての機能を保てるのである。

 安全基地というのは、家族が心理的安全性を持てる居場所である。家庭の中では、物分かりの良い人を演じなくても良い関係性が保てる環境が求められる。その為には、やはり父親が重要な役割を果たす。あまりにもパーフェクトな人格を見せ感情を押し殺して、物分かりの良い人物を演じ続けてしまうと、家族は逆に安心感を持てなくなってしまう。時には人間臭くて、マイナスの感情を吐露することも必要であるし、弱音を吐くことだってあっていい。家族が心理的安全性(安全基地)を保つ為には、自分らしく生きてもいいんだよという態度のメッセージを、家庭における主人公が見せ続ける必要がある。

※子どもというのは、家庭内で伸び伸びと育ち、あるがままの自分をさらけ出し、感情を豊かに表現できなければならないのです。家庭内であまりにも良い子を演じさせてしまい、自分らしさを失わせてしまうと、外で良い子でなくなり悪いことをしたり他の子を虐めたりするのです。子どもはどこかで息抜きが必要であり、そのための安全な居場所が必要なのです。親があるがままに生きるというお手本を、家庭内で見せたいものです

子どもに是非見せたいアニメ『働く細胞』

 TV東京系列で放映されて、その後NHKのEテレでも放映されている『働く細胞』というアニメをご覧なったことがあるだろうか。コミック連載当初より人気があり、単行本になっても人気が衰えず、テレビでもアニメ化されて放映されたらしい。子どもたちにも人気があるのは当然だが、大人が鑑賞しても面白いし為になる内容である。子どもたちは、このアニメに引き込まれるみたいである。孫たちもこのアニメが大好きで、録画して何度も鑑賞して喜んでいる。どうして、このアニメは子どもたちに人気になっているのであろうか?

 このアニメが人気になっている理由は、しっかりした科学的根拠に基づいた内容になっているし、人間の根源的な機能である自己組織化を描いているからであろう。どういうことかというと、人体というネットワークシステムには、自己組織化と呼ぶ人間本来の機能が備わっている。自己組織化というのは、主体性、自主性、自発性、自己犠牲性、自己成長性、自己進化性、連帯性という、人体が本来持っている機能のことである。この自己組織化が機能しなくなると、人体は病気になるし老化や劣化が進んでしまう、大切な機能である。

 少し前の人体生理学においては、すべての細胞は脳や神経系統からの指示によって働いていると考えられていた。つまり、それぞれの細胞は勝手に機能しているのではなく、何らかの指示命令系統によって、上手く作用しているものだと考えられていた。ところが、人体生理学や分子生物学の研究が進んだことにより、まったく違った作用機序になっていることが判明したのである。すべての細胞は、それぞれが自ら自己組織化していて、誰にも指示されることなく、全体最適の為に自らが機能しているということが解ったのである。

 その事実を、『働く細胞』というアニメは、自ら自己組織化している細胞の姿を、見事に描き切っているのである。主人公である擬人化した赤血球細胞とそれを助ける白血球細胞が、人体という全体が健康で正常に機能する為に、時には自己犠牲を払うのを厭わずに、献身的に働く姿を描いている。このアニメは、すごい人気が出ていることから、永野芽郁と佐藤健の共演で、実写映画化までされるという。子どもたちが自己組織化という概念を理解しているとは到底思えないが、本能的に自己組織化したいと望んでいるのではなかろうか。

 細胞も含めて、全体を組織しているすべての構成要素は、自己組織化する働きを持っている。この自己組織化の機能が正常働くためには、良好な関係性を保持しているということが絶対必要条件である。働く細胞というアニメでは、細胞どうしの良好な関係性が大事だと訴えている。関係性&ネットワークが劣化してしまうと、人体が破綻してしまうということも描写されている。人体もそうなのだが、人間社会でも関係性が劣化してしまうと、全体最適の機能が働かなくなってしまう。働く細胞は、そのことも暗示しているのである。

 子どもというのは、哲学的な物語が大好きである。人は何故生きるのか、何のために生まれてきたのかを問う話に引き込まれる。人間は生まれつき哲学的な話に憧れるものだ。特に純真な子どもは、人間のあるべき姿を無意識で追い求めているのである。それが大人になるにつれて、純真さを失うと共に本来の生きるべき道をも失ってしまう。全体最適を目指して生きることを忘れてしまい、個別最適(自分最適)を目指すようになる。子どもは、働く細胞のような全体最適の話や関係性重視の思想に憧れるのである。

 働く細胞というアニメを、子どもたちが大好きになるのは、自己組織化や全体最適を説いているからだ。鬼滅の刃というアニメに純真な子どもたちが熱狂するのも、同じ理由からである。アニメ働く細胞を好む大人もまた、全体最適や関係性重視の価値観を持っているのであり、自己組織化の機能を発揮している人間である。子どもたちが健全なる正しい価値観を持って成長する為にも、アニメ『働く細胞』を是非鑑賞させたいものだ。そして、大人も一緒に観ながら自己組織化の機能を発揮することの大切さを共有したいものである。実写映画化された『働く細胞』が公開されたら、孫と一緒に見に行こうと思う。

カスハラに対応できる職員を育てる

 カスタマーハラスメントによってメンタルが傷ついている社員・職員が急増している。企業にとっても由々しき大問題になっている。カスハラによって休職や離職に追い込まれてしまうケースも少なくないし、理不尽なカスハラにより営業に悪影響が出ている例も多い。カスハラ対策が企業や行政組織にとって喫緊の課題となっている。カスハラに関する法整備も必要不可欠であろう。だとしても、カスハラの定義をどうするのかという課題もあり、すぐに法整備が出来ることは期待できない。故に、自衛策をどう取るのかが問われている。

 カスハラ対策を企業・組織全体で取り組もうという機運が高まっている。それだけ、カスハラは深刻な問題となっている認識なのであろう。特に、顧客と直接対応する窓口部門やクレーム対応部門の社員にとっては、カスハラは避けては通れない大問題なのである。それにしても、顧客だからと言いながら無理難題を押し付けたり理不尽な要求を突きつけたりする、非常識なクレーマーには困ったものである。常識が通じないし、論理的にいくら説明しても聞く耳を持たないのだから、始末に負えない。切れてしまうことも多い。

 カスハラをするような人間について、若干の心理的考察をしてみたい。カスハラを自分ではしている自覚がない。どちらかと言うと、社会を代表してクレームをしてあげていて、正義の味方気取りをしていることが多い。実は、こういう人間は自分が所属しているコミュニティの中では、誰にも相手されず孤立していることが殆どである。つまり、誰にも好かれず愛されず孤独感でいっぱいなのである。いつも自分の主張が認められず評価されず、相手にされないのだ。それでいて、自分を過大評価していて、社会が悪いと思い込んでいる。

 それにしても、カスハラの被害を受けてしまう人は実に気の毒である。カスハラを受けないで済ませたり、カスハラを受けても軽く受け流せたりする方法はないものだろうか。不思議なことに、カスハラを受けやすい人と受けにくい人がいるのである。または、カスハラ事案が起きても、重大な問題になることなく済ませてしまう人と、全社・全組織の大問題まで発展させてしまう人がいることに注目したい。特定の職員だけがカスハラを受けて、メンタルが傷付いてしまい、離職や休職に追い込まれてしまう傾向が明らかに存在する。

 カスハラを何故受けやすいのか、その事案をより深刻なものにしてしまうのか、その訳が判明すれば、カスハラ予防やカスハラを受けてもダメージを小さくする方策が取れる筈である。カスハラをする人間と言うのは、あくまでも自分が優位に立てると思う場合、または相手にマウント出来ると確信した時に、カスハラを大々的に実施するし、より問題をおおげさに拡大させる。無意識的に、相手が自分よりも弱いと見下しているのであろう。その証拠に、圧倒的にカスハラを受けるのは若くてか弱い女性が多い。

 それで、カスハラ対策として一番手っ取り早い方法は、カスハラ対応職員を配置することである。ある程度の役職以上で経験と知識が豊富で、メンタライジング能力に長けていて、コミュニケーション能力が極めて高い人が適任である。傾聴と共感能力が高く、それでいて自己肯定感が高くて、どんなに責められても挫けない人である。また、寛容性と受容性も高く、それでいて相手の要求に屈せずに、毅然とした態度を取り続けられる人である。私も病院勤めと会社勤めをしていた際には、クレーム担当として問題を処理していた。反社の人物からのクレームを何度も受けたが、一度も訴訟案件に発展したことはなかった。

 カスハラ対応専門職員を配置出来ない場合は、カスハラを受けないように、または受けても軽く受け流せる社員に育てる研修をすることが必要だ。社員すべてが、上記のような能力を身に付けるというのは不可能ではあるが、少しでもカスハラ対応職員のような各種能力と人間力を身に付ける努力は求められる。少なくても絶対的な自己肯定感を持てるように、自我と自己の統合(自己マスタリー)を確立することが最低条件であろう。企業や組織というものは、職員に対して自己マスタリーを実現させる教育をしてあげたいものである。

※イスキアの郷しらかわでは、カスハラ対応社員を育成する研修、メンター養成講座、自己マスタリー研修など各種の社員研修を実施しています。リーズナブルな価格での講師派遣もいたします。気兼ねなくお問い合わせください。

ひきこもりには外部支援者が必要

 我が子や孫がひきこもりまたは不登校になってしまい、心を痛めている家族はどれほどの数か、想像も付かないくらいに多くなっている。20年以上前の時代には、考えられなかったと言える。とは言いながら、不登校やひきこもりは皆無ではなかった筈である。目立たなかったというか、社会的に認識される状況になかったからだと思われる。どうして現代は不登校やひきこもりが多くなったのかというと、あまりにも生きづらい世の中になったからだと主張する人が多い。学校も職場も、あまりにも不寛容な社会だからという。

 確かに、そういう側面があるのは承知している。しかし、不寛容で受容性の低い社会だからひきこもりや不登校が増えたというのは、正しくない。すべてが学校や職場のせいならば、殆どの人々がひきこもりや不登校になる筈だ。しかし、大多数の人々は、不登校やひきこもりにならずに、たとえ生きづらくても社会に適応している。ということは、ひきこもりや不登校になる人々が、不寛容で受容性が低く生きづらいと強く感じ過ぎているからではなかろうか。当人の生きづらさは、考え方や認知の偏りによって起きているのではないか。

 さて、今までひきこもりや不登校のクライアントを支援して感じるのだが、当人の力だけでひきこもりが解決するということはなかった。そして、家族の手厚いサポートがあったとしても、解決することは期待できない。第三者の適切で温かい支援があってこそ、ひきこもりが解決に向かったという例は数多くある。つまり、ひきこもりを当人と家族だけで解決しようと行動しても、効果は限定的であり、殆どが社会復帰は叶わないのである。何故かと言うと、ひきこもりの原因は本人にあるし、その原因を作ったのが家族だからである。

 ひきこもりや不登校の親や親族は、原因は学校のいじめや不適切指導にあると思っているし、職場でのパワハラやセクハラが原因だと思い込んでいるケースが多い。確かに、それらがひきこもりや不登校のきっかけになったのは間違いない。しかし、いじめ、不適切指導が不登校の真の原因ではないし、パワハラ、セクハラ、フキハラが休職や退職の原因ではない。ひきこもりは心理的安全性が担保されず、不安感や恐怖感が異常に高まり、安全と絆である『安全基地』が確立されていないことから起きるのである。

 この安全基地が形成されないというのは、世間でよく言われている安全な居場所がないとの同義語ともとれる。もっと詳しく言うと、絶対的な自己肯定感が確立されていなくて、いつも得体の知れない不安に苛まれていて、自分を守ってくれる守護神がなくて頼れる存在がないという状態である。本来は、乳幼児期の発達段階において、あるがままにまるごと愛されるという体験を十分過ぎるほど受けて、どんなことがあっても甘えられて、何かあればいつでも否定せずに真剣に聞き入り共感してくれるなら、安全基地は形成されるのだ。

 ところが、この安全基地という存在がないから、いじめや不適切指導、または職場でのパワハラ・セクハラ・フキハラを誰にも言えず、助けを求めることも出来ず、一人で悩み苦しみ自分を責めてしまうのであろう。ひきこもりや不登校の人たちに共通しているのは、孤立していて孤独感でいっぱいだということである。そうなってしまったのは、当人の責任ではない。絶対的な自己肯定感は、自分で努力したからと言って確立されるものではない。あるがままにまるごと愛されるという体験が少なくて、介入や干渉をあまりにも強く受けて育てられた子どもは、強い自己否定感を持ち不安なるのだ。

 ひきこもりや不登校の子どもの親は、あまりにも良い子を育てなくてはならないという固定観念に縛られている。子どもというのは、生まれつき自己組織化する能力とオートポイエーシスの機能を持っている。それらの機能を発揮する為には、豊かな愛着と関係性が必要であるし、なるべく干渉しない子育てが求められる。強い干渉と介入をしたり、ダブルバインドのコミュニケーションで『良い子』を演じさせたりした為に、子どもがひきこもりになったのである。そんな親子だから、どちらも自分の間違いに気付かないのである。その間違いを自ら気付いて、自分から変革しようという思いを抱かせてくれる外部の支援者が必要なのである。

※外部の支援者というのは、メンタライゼーション能力に長けていて、傾聴と共感をするだけで介入と干渉をまったくせず、助言や指導は勿論、診断や治療をまったく実施しない人物が適切なのです。しかしながら、現実にはそんな人物は稀有であることは当然です。今まで、たった一人だけ存在していました。それは森のイスキアの佐藤初女さんです。そんな第二第三の佐藤初女さんを産み出そうとしているのが、イスキアの郷しらかわです。

頑張り過ぎているお母さんへ

 不登校やひきこもり、または様々な障害を抱えた子どもの支援を長い期間やって来て、そのお母さん方の大変なご苦労を目の当たりにしてきた。一人で頑張り過ぎるくらい努力してきても、なかなか効果が見られず心が何度も折れそうになりながらも、懸命に子どもの為にと苦労されてきたお母さんたちをサポートしてきた。支援の力が足りなかったのか改善が見られず、自分の無力さに打ちひしがれることも経験した。まだまだ人間としての修行が足りなかったかもしれないし、お母さん方の頑張りに遅れを取ったことに悔やむばかりだ。

 問題を抱えているお子さんのお母さん方をサポートしてきて解ったことがある。それは、お母さんたちはおしなべて、とても頑張り過ぎているという事実である。世の中には、社会を賑わしているような毒母も確かに存在する。しかし、それはごく少数でしかない。多くのお母さんたちは、頑張り過ぎるくらい努力しているし、とても悩み苦しんでいるという事実がある。子どものことを何よりも優先して、自分を犠牲にして無理して我慢しているという姿がある。そして、不思議なことに1人で頑張っていることが多く、孤独感を抱えている。

 問題を抱えている子どもを抱えているお母さんに共通しているのは、孤立しているという事実である。勿論、お父さんもいるしお母さんの実父母や養父母がいたとしても、孤軍奮闘しているケースが多い。中にはお父さんも一緒に悩んでいる例もなくはないが、それでもどこか他人事にしか思えていないように感じるし、どちらかというと子どもの問題に対して腰が引けている。殆どのケースで、お父さんは蚊帳の外にいるか、もしくはお父さんが明らかに発達障害を抱えていて、お母さんがカサンドラ症候群になっている場合が多い。

 日本という国では、家庭における父親の存在が非常に希薄になっているケースが多い。そして、子育てにおける父としての責任を果たしていないのである。その割には、妻の子育てに対して父親は批判的な言動をするし、自分だけが子どもの理解者であるような振る舞いをするのである。厳格な父親を終始一貫演じて、厳しい躾をしてくれるなら有難い。しかし、妙に理解ある父親を演じたり、子どもに嫌われたくないと子どもの機嫌取りをしたりする。母親の苦労を台無しにしたり躾の邪魔をしたりするのだ。子どもにおもねる親は最低だ。

 すべての日本の父親が、こんな酷いお父さんだと言うつもりはない。問題を抱えている子どもの父親は、おしなべてこんな調子であるから、お母さんたちが余計に苦労しているし、頑張り過ぎてしまうのである。そして、誰にも旦那の悪口を言えず、子どもの困り事を一人で抱えて相談できずに悩み続けている。お茶をしたりランチしたりするママ友は沢山いるけど、子どもの深刻な問題を相談できない場合が多いし、ママ友たちも同じような悩みを抱えているのだから、適切なアドバイスがもらえる訳もないのである。

 問題ある子どもさんを抱えて頑張り過ぎているお母さんたちは、どちらかというと男性脳を持っていることが多い。極めて論理的思考をする傾向があり、客観的合理性の考え方をしやすい。だから、問題を分析するのが得意である。そして、批判的な思考をしやすいので、子どもが問題を抱えた原因は夫にあるとか、教師や学友などにあると結論付ける傾向がある。子どもの周りの環境に問題があると批判するだけに終始してしまうと、例えそれが事実だとしても何も変わらない。分析や批判するだけで子どもの問題は解決しないのである。

 頑張り過ぎているお母さんはまったくの孤立無援に置かれているし、心理的安全を保証してくれる存在はない。だからこそ、お母さんにそっと寄り添い心理的安全を保証してくれる第三者が必要なのである。安全と絆のアタッチメント形成をサポートする存在がいれば、お母さんは安心して自分自身を振り返り安定した心理を獲得して、お母さん自身が自ら変わり、問題ある子どもを安定させることが出来る。お母さんが不安を払拭し安定して、豊かな愛情を子どもに注ぎ続ければ、子どもの精神は見事に安定してくるのである。

※イスキアの郷しらかわは、問題を抱えている子どもを育てるのに頑張り過ぎているお母さんを、個人的にサポートするのは事情があり止めてしまいました。しかし、親身になってサポートしてくれる第三者を養成する活動をしています。子ども食堂や子どもの居場所を設置運営している方々の研修を受け入れています。これから、子どもの健全育成のための母親サポートをしている方々、またはこれからそういう活動をしたいと思っている方たちの研修を実施しています。

わいせつ教師は絶対に許せない

 教師による性被害の報告が増加している。今まで、泣き寝入りをしていたり、子どもが性被害だと認識できなかったりしたケースもあったが、現在は性被害だという社会の認識も広がったことにより、性被害の報告がしやすくなったのであろう。それにしても、これだけ日本の教育界に性被害が蔓延していたとは驚きである。イスキアの郷しらかわで過去にサポートしていた不登校やひきこもりの方々の中にも、高い割合で教師による性被害者がいらしたので、やっぱりそうかという思いが強い。

 どうして、こんなにも教育現場において性被害が多いのであろうか。または、わいせつ教師がこんなにも多いのかと不思議に思う人も多いに違いない。以前は、『聖職者』と呼ばれて世間からリスペクトされていた教師が、こんなにも不祥事を起こしてしまうとは、信じられない思いである。それにしても、教師とはどんな時も子どもたちの味方であり、子どもを正しい道に導く存在でもあり、子どもたちの見本となるべきなのに、地に墜ちたものである。子どもに対してわいせつ行為をする教師は、絶対に許せない。

 教師以外でも、わいせつ行為をする人間は存在する。だとしても、教師が子どもに対してわいせつ行為を行うのは、絶対に許せないのである。何故かと言うと、子どもは先生に対して「嫌だ」と言えないからである。先生は子どもに対して常に優位な立場にあり、子どもたちは先生には逆らえないのである。そんな状況にあるのを利用して、か弱い立場にある子どもにわいせつ行為を行うというのは、鬼畜にも劣る卑劣な行為である。ましてや、子どもは逃げることも闘うことも出来ない状況に追い込まれて、シャットダウン化してしまうのだ。

 どういうことかと言うと、人間の副交感神経は殆どが迷走神経である。その迷走神経には、腹側迷走神経と背側迷走神経の二つあることが、最新の医学研究により判明した。その腹側迷走神経は、安心、休息、免疫を活性化させる。ところが、背側迷走神経は回避や逃避も出来ず闘う事もできない危機的状況に追い込まれると、心身の遮断が起きて考えることもできず、身体が凍り付いて動けなくなるのである。つまり、わいせつ教師のほうでは児童生徒が拒否もせず逃げもしないから、同意したと勘違いしているが、まったく違うのである。

 この『遮断・凍り付き』の状況になってしまうと、身体が硬直して動けなくなるし、何も考えられず「嫌だ」と声も出せなくなるのである。逃げもせず嫌だと拒否もしないから、自分に好意を抱いているのだとわいせつ教師は勘違いする。こうして、罪悪感を抱くこともなく非業の性行為に及ぶ。そして、拒否されないからと複数回の性的行為に及ぶケースも少なくない。かくして、性被害児童生徒たちは恐怖のどん底に落とされて、怖くて誰にも訴えられない。さらに、逃避できず拒否できない自分が悪いからだと、自分を責めてしまうのである。

 大人になった女性が、上司や権力者・著名人から無理にレイプされた際にも、遮断・凍り付きが起きて、拒否や逃避が出来なくなる。そして、拒否や逃避が出来なかった自分が悪いからだと、自分を責めるだけでなく、警察に訴えることも躊躇ってしまうのである。そして、このあまりにも悲惨な出来事をなかったこととして、右脳の奥底にトラウマの記憶として仕舞い込む。教師から性被害を受けた児童生徒も、同じように右脳の奥底に強烈なトラウマとして仕舞い込み、なかったこととして永久に現れないように重い蓋をするのだ。

 右脳の奥底深くに仕舞い込んでないことにしてしまったトラウマは、同じような場面に出くわすと、表出してしまうことがある。これがフラッシュバックであり、圧倒的な恐怖感で苦しめられる。性行為そのものだけでなくても男性が怖くて、触れられるのも怖いと思う女性もいる。教師による性被害は、当該児童生徒を大人になってもなお苦しめることになるのである。つまり、わいせつ教師による鬼畜のような性被害は、人の一生を台無しにしてしまう、絶対に許せない行為なのである。万死に値する罪だと言えよう。死をもって償うほどの重罪だと言っても過言でない。文科省の初期研修に、迷走神経による遮断・凍り付きの学びを含めるべきだ。

引きこもりを乗り越える方法

 引きこもりの状況に追い込まれてしまうと、この状況から抜け出すのは容易でない。だから、8050問題と呼ばれる社会的な大きな問題にもなっているし、内閣府の調査によると146万人にも及ぶという。なんと50人に1人が引きこもりだというのだから、驚きの調査結果である。さらに、引きこもりになる人は増加の一途だと言われている。深刻なのは、引きこもりは若者だけでなく、中高年者にも多いと言う事実である。そして、一旦引きこもりになってしまうと、その状況が長期間に及ぶことから、支える家族にとっても深刻だ。

 引きこもりになるきっかけはそれぞれ人によって違うし、どうして引きこもりになったのか当人にも解らないケースも少なくない。そして、引きこもりになった本当の原因が、当人にも家族にも認識できていないのである。勿論、人生における大きな挫折や仕事での失敗や躓き、職場でのいじめやネグレクトが原因だと思っている場合も多いが、それは本当の原因ではない。大切な人を失ってしまった心的外傷により引きこもりになったと思う人もいるが、けっしてそれが原因でもない。引きこもりの本当の原因を認識していないのである。

 引きこもりの本当の原因は、外的原因ではなくてあくまでも内的原因なのである。つまり、外的な事故・事件や現象によって引きこもりになったのではなくて、あくまでも本人の内因にそもそもの原因があるのだ。外的な事件・事故は単なるきっかけであり、引きこもりになった本当の原因は本人が抱えている精神的な偏りや拘りにあるのだ。抱えている一番深刻な精神的偏りとは、強い自己否定感である。自己肯定感が極めて低いのである。そして、その原因は親との豊かな愛着が形成されていないことが根底にあるのだ。

 親との豊かな愛着が形成されておらず、極めて劣悪な愛着となっている。愛着障害と言っても過言ではない。引きこもりになっている人は、殆どが愛着障害であり自己肯定感が極めて低いのである。さらにHSP(神経学的過敏症&心理社会学的過敏症)があり、いつも不安や恐怖感に支配されている。その不安も、特定の不安だけでなく、得体の知れない不安に苛まれることが多い。特定の不安であれば、その不安を消すための努力ができるのであるが、得体の知れない不安は、対象が不明なので対応し切れないのである。

 このように、引きこもりの本当の原因が愛着障害にあって、極めて強い自己否定感とHSPが根底に存在することで、強い不安を抱いて引きこもりになると言える。普通の人なら心的外傷にならない程度の事件・事故が強烈なトラウマとなってしまい、それが積み重なり複雑性のPTSDのような症状を起こすと考えられる。小さい頃からの積み重なった心的外傷が、ボディーブローのように心を蝕んでしまい、引きこもりを選択するしかなくなるのだ。根底にある愛着障害を癒すことが出来なければ、引きこもりは解消できないことになる。

 愛着障害は親との不健全で歪んだ愛着によって起きるのであるから、親が変わらなければ愛着障害は癒すことが出来ない。親が劇的に変わって、乳幼児期からの子育てをやり直すことで、愛着障害は解消される。しかし、現実的には引きこもりの親はどうして良いのか解らないことが多い。子どもとの健全な愛着を形成するのを自ら阻害したとは、気付くことはあるまい。ましてや、8050問題と言われているように親が高齢になれば、親が自ら変わることは難しい。自分自身が自ら変わるしか方法がないが、極めて難しいと言えよう。

 結論から言うと、引きこもりは親が変わらなくても乗り越えることは可能である。その際に、心理的安全性を提供してくれる『安全基地』は必須である。安全と絆を提供してくれる安全基地が存在して、その安全基地がいつもそっと寄り添い、傾聴と共感をしてくれるならば、引きこもりは解消できるのである。そして、引きこもりの当人は根底に愛着障害があり、HSPと自己否定感が強いという認識も必要である。そして、安全基地の全面的協力の元で、認知行動療法やナラティブアプローチ療法、またはオープンダイアローグ療法を駆使して、愛着障害を癒すことで、引きこもりを解消できるのである。勿論、安全基地には誰もがなれる訳ではない。森のイスキアの佐藤初女さんのような特別な方しか、安全基地にはなれないのである。

※引きこもりを乗り越えるために必要な安全基地になれるのは、森のイスキアの佐藤初女さんのような、広い心と形而上学に基づく高い使命感を持った、メンタライゼーション能力の高い人だけです。しかし、佐藤初女さんは既に亡くなられています。それで、イスキアの郷しらかわでは、佐藤初女さんを継承しようと高い志を持った方々をサポートしていて、第二、第三の佐藤初女さんを目指す方たちの研修を提供しています。

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