日本人特有のパーソナリティとして、多数派に属したいとか穏健な言動をして良い人に思われたいという傾向がある。そして、争いごとを好まないし敵を作らないという生き方を志す人が多い。『和を以て貴しと為す』と最古の憲法で主張した聖徳太子に習い、協調性や合意性を重んじる日本人が殆どであろう。これは、団体や企業という組織の中で生きて行くうえでは、必要不可欠な価値観であるに違いない。例え、違った意見であっても上司や経営幹部の主張に逆らうことはしないし、自分の意見はあえて主張しない社員が多い。
日本人という民族は、あまり争いごとを好まず、競い合うことも避けることが多い。そして、組織の中でも家庭の中でも、物分かりの良い人を演じてしまう傾向が強い。嫌われることを避けたいというのか、どちらかというと周りの人たちにおもねることで無用な軋轢を避けたいという思いが強いのであろう。つまり、周りから『良い人』だと思われたいし、組織の中で無難に生き抜くために必要な処世術なのかもしれない。とは言いながら、自分を失くしてまで相手に合わせてしまい、物分かりの良い人を演じなくてもいいような気がする。
何故、物分かりの良い人を演じなくてもいいのかというと、あまりにも自分の本当の感情を押し殺してしまうと、自分らしさを失ってしまうからである。人間は、生まれつき自由でありたいと思う生き物である。何故ならば、人間は本来自己組織化をする働きをする。つまり、主体性・自発性・自主性・責任性・連帯性・自己犠牲性・発展性・進化性を持つのだ。それなのに、他人にあまりにも迎合し過ぎて、自分を主張することを止めてしまうと、自己組織化をする働きを失ってしまう危険性が高まってしまうのである。
また、あまりにも自分の感情を出さないようにしようとして抑圧してしまうと、脳がそのような状況をとても嫌がってしまい、ストレスが高まってしまい脳の異常を起こしてしまうのである。特に、怒りや憎しみの感情を出すことが出来ず我慢を重ねて行くと、偏桃体が肥大化してしまい、海馬が委縮してしまうのである。偏桃体が肥大化して働き過ぎると、ステロイドホルモンが増加してしまい、自律神経が乱れてしまうと共に、睡眠障害が起きやすい。また、海馬と前頭前野脳の機能が低下して、認知症になるリスクが高まる。
物分かりの良い人を演じ過ぎてしまう危険を示してきたが、日本人と言うのはどうしても相手に合わせてしまう傾向が強い。確かに、職場や公的な場所においては、ある程度の常識的な言動は必要であるが、家庭や仲間の中では物分かりの良い人を演じなくても良いのではなかろうか。特に、親に対しては自分の感情を閉じ込めなくてもいいし、子どもに対しても物分かりの良い親を演じなくても良い。特に避けたいのは、子どもに対して必要以上におもねることである。こんな子育てをすると、子どもが感情を吐露するのが苦手になる。
家庭内においては、本来は家族相手には気兼ねする必要もなく、自由に発言して良い場所である。いろんな感情を持つ場合、それを相手に素直に、そして正直に伝えても良いのである。そして、伝えられた相手はその素直な感情に共感すべきであることは言うまでもない。そして、それがどんな感情の表現であったとしても、寛容と受容の態度を取らなくてはならない。そうしないと、家族の関係性を良好なものに出来ないのである。家族の良好な関係性があってこそ、安全基地としての機能を保てるのである。
安全基地というのは、家族が心理的安全性を持てる居場所である。家庭の中では、物分かりの良い人を演じなくても良い関係性が保てる環境が求められる。その為には、やはり父親が重要な役割を果たす。あまりにもパーフェクトな人格を見せ感情を押し殺して、物分かりの良い人物を演じ続けてしまうと、家族は逆に安心感を持てなくなってしまう。時には人間臭くて、マイナスの感情を吐露することも必要であるし、弱音を吐くことだってあっていい。家族が心理的安全性(安全基地)を保つ為には、自分らしく生きてもいいんだよという態度のメッセージを、家庭における主人公が見せ続ける必要がある。
※子どもというのは、家庭内で伸び伸びと育ち、あるがままの自分をさらけ出し、感情を豊かに表現できなければならないのです。家庭内であまりにも良い子を演じさせてしまい、自分らしさを失わせてしまうと、外で良い子でなくなり悪いことをしたり他の子を虐めたりするのです。子どもはどこかで息抜きが必要であり、そのための安全な居場所が必要なのです。親があるがままに生きるというお手本を、家庭内で見せたいものです。