カスハラに対応できる職員を育てる

 カスタマーハラスメントによってメンタルが傷ついている社員・職員が急増している。企業にとっても由々しき大問題になっている。カスハラによって休職や離職に追い込まれてしまうケースも少なくないし、理不尽なカスハラにより営業に悪影響が出ている例も多い。カスハラ対策が企業や行政組織にとって喫緊の課題となっている。カスハラに関する法整備も必要不可欠であろう。だとしても、カスハラの定義をどうするのかという課題もあり、すぐに法整備が出来ることは期待できない。故に、自衛策をどう取るのかが問われている。

 カスハラ対策を企業・組織全体で取り組もうという機運が高まっている。それだけ、カスハラは深刻な問題となっている認識なのであろう。特に、顧客と直接対応する窓口部門やクレーム対応部門の社員にとっては、カスハラは避けては通れない大問題なのである。それにしても、顧客だからと言いながら無理難題を押し付けたり理不尽な要求を突きつけたりする、非常識なクレーマーには困ったものである。常識が通じないし、論理的にいくら説明しても聞く耳を持たないのだから、始末に負えない。切れてしまうことも多い。

 カスハラをするような人間について、若干の心理的考察をしてみたい。カスハラを自分ではしている自覚がない。どちらかと言うと、社会を代表してクレームをしてあげていて、正義の味方気取りをしていることが多い。実は、こういう人間は自分が所属しているコミュニティの中では、誰にも相手されず孤立していることが殆どである。つまり、誰にも好かれず愛されず孤独感でいっぱいなのである。いつも自分の主張が認められず評価されず、相手にされないのだ。それでいて、自分を過大評価していて、社会が悪いと思い込んでいる。

 それにしても、カスハラの被害を受けてしまう人は実に気の毒である。カスハラを受けないで済ませたり、カスハラを受けても軽く受け流せたりする方法はないものだろうか。不思議なことに、カスハラを受けやすい人と受けにくい人がいるのである。または、カスハラ事案が起きても、重大な問題になることなく済ませてしまう人と、全社・全組織の大問題まで発展させてしまう人がいることに注目したい。特定の職員だけがカスハラを受けて、メンタルが傷付いてしまい、離職や休職に追い込まれてしまう傾向が明らかに存在する。

 カスハラを何故受けやすいのか、その事案をより深刻なものにしてしまうのか、その訳が判明すれば、カスハラ予防やカスハラを受けてもダメージを小さくする方策が取れる筈である。カスハラをする人間と言うのは、あくまでも自分が優位に立てると思う場合、または相手にマウント出来ると確信した時に、カスハラを大々的に実施するし、より問題をおおげさに拡大させる。無意識的に、相手が自分よりも弱いと見下しているのであろう。その証拠に、圧倒的にカスハラを受けるのは若くてか弱い女性が多い。

 それで、カスハラ対策として一番手っ取り早い方法は、カスハラ対応職員を配置することである。ある程度の役職以上で経験と知識が豊富で、メンタライジング能力に長けていて、コミュニケーション能力が極めて高い人が適任である。傾聴と共感能力が高く、それでいて自己肯定感が高くて、どんなに責められても挫けない人である。また、寛容性と受容性も高く、それでいて相手の要求に屈せずに、毅然とした態度を取り続けられる人である。私も病院勤めと会社勤めをしていた際には、クレーム担当として問題を処理していた。反社の人物からのクレームを何度も受けたが、一度も訴訟案件に発展したことはなかった。

 カスハラ対応専門職員を配置出来ない場合は、カスハラを受けないように、または受けても軽く受け流せる社員に育てる研修をすることが必要だ。社員すべてが、上記のような能力を身に付けるというのは不可能ではあるが、少しでもカスハラ対応職員のような各種能力と人間力を身に付ける努力は求められる。少なくても絶対的な自己肯定感を持てるように、自我と自己の統合(自己マスタリー)を確立することが最低条件であろう。企業や組織というものは、職員に対して自己マスタリーを実現させる教育をしてあげたいものである。

※イスキアの郷しらかわでは、カスハラ対応社員を育成する研修、メンター養成講座、自己マスタリー研修など各種の社員研修を実施しています。リーズナブルな価格での講師派遣もいたします。気兼ねなくお問い合わせください。

ひきこもりには外部支援者が必要

 我が子や孫がひきこもりまたは不登校になってしまい、心を痛めている家族はどれほどの数か、想像も付かないくらいに多くなっている。20年以上前の時代には、考えられなかったと言える。とは言いながら、不登校やひきこもりは皆無ではなかった筈である。目立たなかったというか、社会的に認識される状況になかったからだと思われる。どうして現代は不登校やひきこもりが多くなったのかというと、あまりにも生きづらい世の中になったからだと主張する人が多い。学校も職場も、あまりにも不寛容な社会だからという。

 確かに、そういう側面があるのは承知している。しかし、不寛容で受容性の低い社会だからひきこもりや不登校が増えたというのは、正しくない。すべてが学校や職場のせいならば、殆どの人々がひきこもりや不登校になる筈だ。しかし、大多数の人々は、不登校やひきこもりにならずに、たとえ生きづらくても社会に適応している。ということは、ひきこもりや不登校になる人々が、不寛容で受容性が低く生きづらいと強く感じ過ぎているからではなかろうか。当人の生きづらさは、考え方や認知の偏りによって起きているのではないか。

 さて、今までひきこもりや不登校のクライアントを支援して感じるのだが、当人の力だけでひきこもりが解決するということはなかった。そして、家族の手厚いサポートがあったとしても、解決することは期待できない。第三者の適切で温かい支援があってこそ、ひきこもりが解決に向かったという例は数多くある。つまり、ひきこもりを当人と家族だけで解決しようと行動しても、効果は限定的であり、殆どが社会復帰は叶わないのである。何故かと言うと、ひきこもりの原因は本人にあるし、その原因を作ったのが家族だからである。

 ひきこもりや不登校の親や親族は、原因は学校のいじめや不適切指導にあると思っているし、職場でのパワハラやセクハラが原因だと思い込んでいるケースが多い。確かに、それらがひきこもりや不登校のきっかけになったのは間違いない。しかし、いじめ、不適切指導が不登校の真の原因ではないし、パワハラ、セクハラ、フキハラが休職や退職の原因ではない。ひきこもりは心理的安全性が担保されず、不安感や恐怖感が異常に高まり、安全と絆である『安全基地』が確立されていないことから起きるのである。

 この安全基地が形成されないというのは、世間でよく言われている安全な居場所がないとの同義語ともとれる。もっと詳しく言うと、絶対的な自己肯定感が確立されていなくて、いつも得体の知れない不安に苛まれていて、自分を守ってくれる守護神がなくて頼れる存在がないという状態である。本来は、乳幼児期の発達段階において、あるがままにまるごと愛されるという体験を十分過ぎるほど受けて、どんなことがあっても甘えられて、何かあればいつでも否定せずに真剣に聞き入り共感してくれるなら、安全基地は形成されるのだ。

 ところが、この安全基地という存在がないから、いじめや不適切指導、または職場でのパワハラ・セクハラ・フキハラを誰にも言えず、助けを求めることも出来ず、一人で悩み苦しみ自分を責めてしまうのであろう。ひきこもりや不登校の人たちに共通しているのは、孤立していて孤独感でいっぱいだということである。そうなってしまったのは、当人の責任ではない。絶対的な自己肯定感は、自分で努力したからと言って確立されるものではない。あるがままにまるごと愛されるという体験が少なくて、介入や干渉をあまりにも強く受けて育てられた子どもは、強い自己否定感を持ち不安なるのだ。

 ひきこもりや不登校の子どもの親は、あまりにも良い子を育てなくてはならないという固定観念に縛られている。子どもというのは、生まれつき自己組織化する能力とオートポイエーシスの機能を持っている。それらの機能を発揮する為には、豊かな愛着と関係性が必要であるし、なるべく干渉しない子育てが求められる。強い干渉と介入をしたり、ダブルバインドのコミュニケーションで『良い子』を演じさせたりした為に、子どもがひきこもりになったのである。そんな親子だから、どちらも自分の間違いに気付かないのである。その間違いを自ら気付いて、自分から変革しようという思いを抱かせてくれる外部の支援者が必要なのである。

※外部の支援者というのは、メンタライゼーション能力に長けていて、傾聴と共感をするだけで介入と干渉をまったくせず、助言や指導は勿論、診断や治療をまったく実施しない人物が適切なのです。しかしながら、現実にはそんな人物は稀有であることは当然です。今まで、たった一人だけ存在していました。それは森のイスキアの佐藤初女さんです。そんな第二第三の佐藤初女さんを産み出そうとしているのが、イスキアの郷しらかわです。

頑張り過ぎているお母さんへ

 不登校やひきこもり、または様々な障害を抱えた子どもの支援を長い期間やって来て、そのお母さん方の大変なご苦労を目の当たりにしてきた。一人で頑張り過ぎるくらい努力してきても、なかなか効果が見られず心が何度も折れそうになりながらも、懸命に子どもの為にと苦労されてきたお母さんたちをサポートしてきた。支援の力が足りなかったのか改善が見られず、自分の無力さに打ちひしがれることも経験した。まだまだ人間としての修行が足りなかったかもしれないし、お母さん方の頑張りに遅れを取ったことに悔やむばかりだ。

 問題を抱えているお子さんのお母さん方をサポートしてきて解ったことがある。それは、お母さんたちはおしなべて、とても頑張り過ぎているという事実である。世の中には、社会を賑わしているような毒母も確かに存在する。しかし、それはごく少数でしかない。多くのお母さんたちは、頑張り過ぎるくらい努力しているし、とても悩み苦しんでいるという事実がある。子どものことを何よりも優先して、自分を犠牲にして無理して我慢しているという姿がある。そして、不思議なことに1人で頑張っていることが多く、孤独感を抱えている。

 問題を抱えている子どもを抱えているお母さんに共通しているのは、孤立しているという事実である。勿論、お父さんもいるしお母さんの実父母や養父母がいたとしても、孤軍奮闘しているケースが多い。中にはお父さんも一緒に悩んでいる例もなくはないが、それでもどこか他人事にしか思えていないように感じるし、どちらかというと子どもの問題に対して腰が引けている。殆どのケースで、お父さんは蚊帳の外にいるか、もしくはお父さんが明らかに発達障害を抱えていて、お母さんがカサンドラ症候群になっている場合が多い。

 日本という国では、家庭における父親の存在が非常に希薄になっているケースが多い。そして、子育てにおける父としての責任を果たしていないのである。その割には、妻の子育てに対して父親は批判的な言動をするし、自分だけが子どもの理解者であるような振る舞いをするのである。厳格な父親を終始一貫演じて、厳しい躾をしてくれるなら有難い。しかし、妙に理解ある父親を演じたり、子どもに嫌われたくないと子どもの機嫌取りをしたりする。母親の苦労を台無しにしたり躾の邪魔をしたりするのだ。子どもにおもねる親は最低だ。

 すべての日本の父親が、こんな酷いお父さんだと言うつもりはない。問題を抱えている子どもの父親は、おしなべてこんな調子であるから、お母さんたちが余計に苦労しているし、頑張り過ぎてしまうのである。そして、誰にも旦那の悪口を言えず、子どもの困り事を一人で抱えて相談できずに悩み続けている。お茶をしたりランチしたりするママ友は沢山いるけど、子どもの深刻な問題を相談できない場合が多いし、ママ友たちも同じような悩みを抱えているのだから、適切なアドバイスがもらえる訳もないのである。

 問題ある子どもさんを抱えて頑張り過ぎているお母さんたちは、どちらかというと男性脳を持っていることが多い。極めて論理的思考をする傾向があり、客観的合理性の考え方をしやすい。だから、問題を分析するのが得意である。そして、批判的な思考をしやすいので、子どもが問題を抱えた原因は夫にあるとか、教師や学友などにあると結論付ける傾向がある。子どもの周りの環境に問題があると批判するだけに終始してしまうと、例えそれが事実だとしても何も変わらない。分析や批判するだけで子どもの問題は解決しないのである。

 頑張り過ぎているお母さんはまったくの孤立無援に置かれているし、心理的安全を保証してくれる存在はない。だからこそ、お母さんにそっと寄り添い心理的安全を保証してくれる第三者が必要なのである。安全と絆のアタッチメント形成をサポートする存在がいれば、お母さんは安心して自分自身を振り返り安定した心理を獲得して、お母さん自身が自ら変わり、問題ある子どもを安定させることが出来る。お母さんが不安を払拭し安定して、豊かな愛情を子どもに注ぎ続ければ、子どもの精神は見事に安定してくるのである。

※イスキアの郷しらかわは、問題を抱えている子どもを育てるのに頑張り過ぎているお母さんを、個人的にサポートするのは事情があり止めてしまいました。しかし、親身になってサポートしてくれる第三者を養成する活動をしています。子ども食堂や子どもの居場所を設置運営している方々の研修を受け入れています。これから、子どもの健全育成のための母親サポートをしている方々、またはこれからそういう活動をしたいと思っている方たちの研修を実施しています。

わいせつ教師は絶対に許せない

 教師による性被害の報告が増加している。今まで、泣き寝入りをしていたり、子どもが性被害だと認識できなかったりしたケースもあったが、現在は性被害だという社会の認識も広がったことにより、性被害の報告がしやすくなったのであろう。それにしても、これだけ日本の教育界に性被害が蔓延していたとは驚きである。イスキアの郷しらかわで過去にサポートしていた不登校やひきこもりの方々の中にも、高い割合で教師による性被害者がいらしたので、やっぱりそうかという思いが強い。

 どうして、こんなにも教育現場において性被害が多いのであろうか。または、わいせつ教師がこんなにも多いのかと不思議に思う人も多いに違いない。以前は、『聖職者』と呼ばれて世間からリスペクトされていた教師が、こんなにも不祥事を起こしてしまうとは、信じられない思いである。それにしても、教師とはどんな時も子どもたちの味方であり、子どもを正しい道に導く存在でもあり、子どもたちの見本となるべきなのに、地に墜ちたものである。子どもに対してわいせつ行為をする教師は、絶対に許せない。

 教師以外でも、わいせつ行為をする人間は存在する。だとしても、教師が子どもに対してわいせつ行為を行うのは、絶対に許せないのである。何故かと言うと、子どもは先生に対して「嫌だ」と言えないからである。先生は子どもに対して常に優位な立場にあり、子どもたちは先生には逆らえないのである。そんな状況にあるのを利用して、か弱い立場にある子どもにわいせつ行為を行うというのは、鬼畜にも劣る卑劣な行為である。ましてや、子どもは逃げることも闘うことも出来ない状況に追い込まれて、シャットダウン化してしまうのだ。

 どういうことかと言うと、人間の副交感神経は殆どが迷走神経である。その迷走神経には、腹側迷走神経と背側迷走神経の二つあることが、最新の医学研究により判明した。その腹側迷走神経は、安心、休息、免疫を活性化させる。ところが、背側迷走神経は回避や逃避も出来ず闘う事もできない危機的状況に追い込まれると、心身の遮断が起きて考えることもできず、身体が凍り付いて動けなくなるのである。つまり、わいせつ教師のほうでは児童生徒が拒否もせず逃げもしないから、同意したと勘違いしているが、まったく違うのである。

 この『遮断・凍り付き』の状況になってしまうと、身体が硬直して動けなくなるし、何も考えられず「嫌だ」と声も出せなくなるのである。逃げもせず嫌だと拒否もしないから、自分に好意を抱いているのだとわいせつ教師は勘違いする。こうして、罪悪感を抱くこともなく非業の性行為に及ぶ。そして、拒否されないからと複数回の性的行為に及ぶケースも少なくない。かくして、性被害児童生徒たちは恐怖のどん底に落とされて、怖くて誰にも訴えられない。さらに、逃避できず拒否できない自分が悪いからだと、自分を責めてしまうのである。

 大人になった女性が、上司や権力者・著名人から無理にレイプされた際にも、遮断・凍り付きが起きて、拒否や逃避が出来なくなる。そして、拒否や逃避が出来なかった自分が悪いからだと、自分を責めるだけでなく、警察に訴えることも躊躇ってしまうのである。そして、このあまりにも悲惨な出来事をなかったこととして、右脳の奥底にトラウマの記憶として仕舞い込む。教師から性被害を受けた児童生徒も、同じように右脳の奥底に強烈なトラウマとして仕舞い込み、なかったこととして永久に現れないように重い蓋をするのだ。

 右脳の奥底深くに仕舞い込んでないことにしてしまったトラウマは、同じような場面に出くわすと、表出してしまうことがある。これがフラッシュバックであり、圧倒的な恐怖感で苦しめられる。性行為そのものだけでなくても男性が怖くて、触れられるのも怖いと思う女性もいる。教師による性被害は、当該児童生徒を大人になってもなお苦しめることになるのである。つまり、わいせつ教師による鬼畜のような性被害は、人の一生を台無しにしてしまう、絶対に許せない行為なのである。万死に値する罪だと言えよう。死をもって償うほどの重罪だと言っても過言でない。文科省の初期研修に、迷走神経による遮断・凍り付きの学びを含めるべきだ。

引きこもりを乗り越える方法

 引きこもりの状況に追い込まれてしまうと、この状況から抜け出すのは容易でない。だから、8050問題と呼ばれる社会的な大きな問題にもなっているし、内閣府の調査によると146万人にも及ぶという。なんと50人に1人が引きこもりだというのだから、驚きの調査結果である。さらに、引きこもりになる人は増加の一途だと言われている。深刻なのは、引きこもりは若者だけでなく、中高年者にも多いと言う事実である。そして、一旦引きこもりになってしまうと、その状況が長期間に及ぶことから、支える家族にとっても深刻だ。

 引きこもりになるきっかけはそれぞれ人によって違うし、どうして引きこもりになったのか当人にも解らないケースも少なくない。そして、引きこもりになった本当の原因が、当人にも家族にも認識できていないのである。勿論、人生における大きな挫折や仕事での失敗や躓き、職場でのいじめやネグレクトが原因だと思っている場合も多いが、それは本当の原因ではない。大切な人を失ってしまった心的外傷により引きこもりになったと思う人もいるが、けっしてそれが原因でもない。引きこもりの本当の原因を認識していないのである。

 引きこもりの本当の原因は、外的原因ではなくてあくまでも内的原因なのである。つまり、外的な事故・事件や現象によって引きこもりになったのではなくて、あくまでも本人の内因にそもそもの原因があるのだ。外的な事件・事故は単なるきっかけであり、引きこもりになった本当の原因は本人が抱えている精神的な偏りや拘りにあるのだ。抱えている一番深刻な精神的偏りとは、強い自己否定感である。自己肯定感が極めて低いのである。そして、その原因は親との豊かな愛着が形成されていないことが根底にあるのだ。

 親との豊かな愛着が形成されておらず、極めて劣悪な愛着となっている。愛着障害と言っても過言ではない。引きこもりになっている人は、殆どが愛着障害であり自己肯定感が極めて低いのである。さらにHSP(神経学的過敏症&心理社会学的過敏症)があり、いつも不安や恐怖感に支配されている。その不安も、特定の不安だけでなく、得体の知れない不安に苛まれることが多い。特定の不安であれば、その不安を消すための努力ができるのであるが、得体の知れない不安は、対象が不明なので対応し切れないのである。

 このように、引きこもりの本当の原因が愛着障害にあって、極めて強い自己否定感とHSPが根底に存在することで、強い不安を抱いて引きこもりになると言える。普通の人なら心的外傷にならない程度の事件・事故が強烈なトラウマとなってしまい、それが積み重なり複雑性のPTSDのような症状を起こすと考えられる。小さい頃からの積み重なった心的外傷が、ボディーブローのように心を蝕んでしまい、引きこもりを選択するしかなくなるのだ。根底にある愛着障害を癒すことが出来なければ、引きこもりは解消できないことになる。

 愛着障害は親との不健全で歪んだ愛着によって起きるのであるから、親が変わらなければ愛着障害は癒すことが出来ない。親が劇的に変わって、乳幼児期からの子育てをやり直すことで、愛着障害は解消される。しかし、現実的には引きこもりの親はどうして良いのか解らないことが多い。子どもとの健全な愛着を形成するのを自ら阻害したとは、気付くことはあるまい。ましてや、8050問題と言われているように親が高齢になれば、親が自ら変わることは難しい。自分自身が自ら変わるしか方法がないが、極めて難しいと言えよう。

 結論から言うと、引きこもりは親が変わらなくても乗り越えることは可能である。その際に、心理的安全性を提供してくれる『安全基地』は必須である。安全と絆を提供してくれる安全基地が存在して、その安全基地がいつもそっと寄り添い、傾聴と共感をしてくれるならば、引きこもりは解消できるのである。そして、引きこもりの当人は根底に愛着障害があり、HSPと自己否定感が強いという認識も必要である。そして、安全基地の全面的協力の元で、認知行動療法やナラティブアプローチ療法、またはオープンダイアローグ療法を駆使して、愛着障害を癒すことで、引きこもりを解消できるのである。勿論、安全基地には誰もがなれる訳ではない。森のイスキアの佐藤初女さんのような特別な方しか、安全基地にはなれないのである。

※引きこもりを乗り越えるために必要な安全基地になれるのは、森のイスキアの佐藤初女さんのような、広い心と形而上学に基づく高い使命感を持った、メンタライゼーション能力の高い人だけです。しかし、佐藤初女さんは既に亡くなられています。それで、イスキアの郷しらかわでは、佐藤初女さんを継承しようと高い志を持った方々をサポートしていて、第二、第三の佐藤初女さんを目指す方たちの研修を提供しています。

#引きこもり

#森のイスキアと佐藤初女さん

行政による少子化対策は効果がない訳

 国が少子化対策の財源を、健康保険料に追加徴収する案が示されて、猛反発をされている。少子化対策費を国民から医療保険税として徴収するのは、増税というそしりを受けたくないという姑息な魂胆があるからである。そもそも、行政による少子化対策が実際に効果を表しているのかの検証もされていない。何等かの少子化対策をしないと、高齢になった国民を支える労働者人口が不足してしまい、財政規律が保てなくなるからと必死になっているのであろう。しかし、行政による様々な少子化対策の効果は殆どなく、少子化の傾向は止まらない。

 行政による少子化対策とは、主に出産費用や育児費用に対する援助金、産み育てる保育所の充実、育児休暇取得をしやすい環境と支援制度、男性が育児に参加しやすい労働環境の整備などが実施されている。確かに、こういった少子化対策はある程度の効果はあるが、大きな成果を産みだしていない。ということは、本当の少子化の原因を政府は把握していないということになろう。政府だけではなく、県や市町村の行政も少子化の本当の原因を把握していないし、多くの国民も認識しているとは到底思えない。だから少子化は止まらないのだ。

 少子化の本当の原因は、経済的な理由や産み育てられる環境が不整備だからということではない。そもそも、子どもを産みたくないと55%以上の若者たちが思っているのだ。どんなに経済的に余裕があっても、育児環境が整えられても、若者たちが子どもを産もうとしないのでは、少子化対策は無駄になる。どうして若者たちは子どもを産まないのか。それは自分自身が、心から十分な幸福感を味わうような子育てをされなかったからである。だから、自分と同じように不幸感を持つ子どもを、この世に送り出したくないと思うのは当然だ。

 そんなことはない、十二分に幸福な思いをさせて育てて来た筈だと思う両親は多いかもしれない。また、愛情をたっぷりと注いで育てたと認識している親は少なくない。それは、あくまでも親の感じ方であって子どもの感じ方は別である。愛情をたっぷりと注いできたと思っているのは、無条件の愛ではなくて条件付きの愛である。多くの子どもたちは、親にあまりにも支配され干渉され過ぎて、自分らしく自由に生きられず、生きづらいと感じていたのではなかろうか。そして、自分のことをまるごと愛することが出来なくなったのである。

 自分のことをまるごと愛せる人間でなければ、他人を心から愛することが出来ない。その証拠に非婚化が進んでいて、若い世代の離婚も急激に進んでいる。そもそも恋愛も出来ない若者なのだから、結婚も出産も無理なのだ。どんな自分でも大好きだと言える、絶対的な自己肯定感が育っていないのである。ましてや、自分の両親の結婚生活が幸福だと感じられないのだから、結婚したいと思わないのは当然である。特に、母親が家事や育児に1人で苦労していた姿を間近に見ていた娘が、あんな苦しみを味わいたくないと思うのは当たり前だ。

 ましてや、自己中で身勝手で妻に対する思いやりのかけらもないような横暴な父親の言動を身近に見ていた娘が、男性に対して恋愛感情さえも湧かないのは当然ではなかろうか。さらに、母親がまるごとありのままに父親から愛されて満たされていなければ、我が子を無条件で愛することは難しい。子どもはありのままにまるごと愛されなければ、絶対的な自己肯定感が確立されないであろう。自尊感情が根底にあってこそ、自分をまるごと愛せるし、相手をありのままに愛せる。非婚化や少子化が起きている根底には、自己肯定感が欠如した若者が増えていることが影響しているのは間違いない。

 非婚化や少子化が若者たちの間で急激に進んでいるのは、経済的な理由や環境のせいではなく、若者たち自身の自己肯定感が育っていないからである。それは学校教育のせいではなく、家庭教育が間違っているからである。行政の責任ではないとは言いながら、価値観や思想の教育を怠ってきた学校教育にもその責任の一端はあるとも言える。子どもたちに正しく豊かな母性愛と父性愛を注ぐ家庭教育をしないと、非婚化と少子化が益々進んでしまうであろう。日本という国家の存亡に関わる重要課題なのに、その原因を正しく把握していないというのは困ったものである。行政を担う政治家と行政職は、正しい見識を持ってほしいものである。

京アニ放火殺人事件の犯人は怪物か

 京都アニメに放火して、殺人罪として起訴された青葉信二被告は、一審判決で死刑を宣告された。青葉被告は死刑判決を不服として控訴した。あまりにも残酷なこの事件を起こした青葉被告は人間ではなく、とんでもない怪物だとするSNSの書き込みが多い。あんなにも多数の犠牲者を出しながら、反省の言葉なく自分の正当性しか主張せず、犠牲者に対する謝罪の気持ちもないのは、モンスターとしか思えないという主張をする人も多い。普通の感覚を持っている良識ある人にとっては、怪物にしか見えないのであろう。

 確かに、常人には理解できない行動である。いくら酷い虐待や仕打ちを親から受けたとしても、最終的には自己責任だと言う人もあろう。社会的にいくら恵まれなかったとしても、そういう生き方を選んだのは自分自身だから、親や社会のせいにすべきではないという主張も見られる。おそらく、死刑判決も妥当なのだから、控訴なんてしないで刑に服して欲しいと思っている国民が殆どであろう。被害者やその家族と遺族の心情を思うと、被告には極刑で償ってもらいたいという気持ちになるのは当然かもしれない。

 このような残虐な事件を起こす犯人に共通しているのは、そのあまりにも悲惨な家庭環境である。親との愛着関係において、殆どが問題のあった犯人だ。端的に言えば、親からあるがままにまるごと愛されて育ち、親との関係がとても良好な人間が、凶悪な事件を起こすことはない。ただし、一見すると経済的に裕福で両親の愛情をたっぷりと受けながらも、凶悪事件を起こすケースもある。しかし、それは条件付きの愛情であり、過干渉や過介入を受け続けて育てられた場合であり、無条件の愛情を受けた訳ではないと言える。

 青葉被告は、まさしく無条件の愛は勿論、条件付きの愛さえもまったく注がられることなく育った。そればかりではなく、父親から酷い虐待を受け、四六時中殴る蹴るの暴力を受け続けて育ったとの供述が得られている。ろくな稼ぎをしない青木被告の父親を見かねて、妻がミシンの営業で大きな実績を収めた。それが気に入らないと妻と子に八つ当たりして暴力を奮ったとされている。青葉被告の母親は、家を出るしかなくなり離婚する。この事件も、青葉被告の心に深い影を落とすことになった。その後、父親の暴力はエスカレートしたのである。

 親からの愛情をまったく受けられず育った人間が、まともに育つ筈がない。ましてや、大好きな母親さえも自分を見捨てたと思い込まされて育った人間が、人を信頼出来ないのは当たり前である。同じように親からの愛情をまったく受けられず、父親から酷い虐待を受けて育った人物がいる。大阪大学付属池田小学校の殺傷事件を起こした宅間守死刑囚である。連続幼女誘拐殺人事件を起こした宮崎勤死刑囚もまた、親との愛着が形成されなかった。秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大死刑囚も酷い教育虐待を受けて、歪んだ愛着を抱えていた。いずれも愛着障害と言ってもよい。

 このように、悲惨な家庭環境と養育環境があって凶悪事件を起こした犯人を列挙すれば、きりがない。他にも、沢山の凶悪事件を起こした犯人がいるが、似たり寄ったりの養育を受けている。ただし、養育環境が悲惨で愛着障害を抱えると、凶悪事件の犯人になってしまうかというと、けっしてそうではない。社会に対する憎しみを持ち攻撃的になるケースと、自分を責めて自身の存在を消してしまおうとする人がいる。どちらになるかは紙一重なのである。青葉信二被告のように虐待やネグレクトを受けて育った人物は、親に対する憎しみを社会に転化する危険があるのは間違いない。

 青葉信二被告は、けっして怪物ではない。極めて稀なモンスターだと決めつけて、滅多に産まれることがない特別な存在だと思ってほしくない。彼のような愛着障害の人物は他にも沢山存在するし、同じような凶悪犯罪を起こしかねない人間は大勢いるのだ。だからこそ、彼のような存在を産み出さないように、正しい子育てや教育をする世の中に変革しなければならないのである。母性愛と父性愛を正しく注げるような社会を構築しなければならない。我が子をあるがままにまるごと愛せる母親と、しっかりと正しい父性愛を発揮できる父親が子どもには必要なのである。二度とこのような酷い愛着障害の子を産み出さない為に。

育てにくい子を育て直す

 育てにくい子は発達障害グレーゾーンと不安型愛着スタイルがあるということを、まずは親が認識する必要がある。そして、お母さんだけに子育てを任せないで、父親や祖父母にも育児・教育の役割分担をしてもらうことが肝要である。特に、父親には正しい父性愛を注いでもらう必要がある。何故なら、母親が母性愛に専念できないからだ。母親が母性愛と父性愛を同時進行的に注いでしまうと、育てにくさは解消できない。もし、父親が子育てに非協力的であれば、何度も誠意を持って説得すべきだ。それでも駄目なら、別居をするしかない。

 世の中の父親の多くは、ともすると子どもに嫌われたくないと、子どもにおもねるような態度を取りがちだ。だから、子どもの味方のふりをする傾向がある。自分自身も発達障害グレーゾーンである父親は、精神的に幼稚で自分が嫌われたくなくて、面倒なことを避けたがる。子どもと正面から対峙して、例え自分が嫌われても正論を子どもに伝えなくてはならない。それを父親がしてくれるから、母親は安心して子どもをあるがままにまるごと愛することが出来る。母性愛だけをたっぷりと注ぐ子育てが、すべての出発点である。

 育てにくい子どもは発達障害グレーゾーンであり、当人も生きづらさを抱えている。そして、いつも不安や恐怖感を抱えている。自分が嫌われてひとりぼっちになってしまうのではないか、大切な人から見捨てられるのではないか、という不安を抱えている。だから、無意識下で自分が嫌われたり叱られたりすることを敢えて実行して、相手を試すのである。これがいわゆる試し行動である。だから、保護者はそのことを理解して、どんなことがあってもけっして揺るがない愛情を注ぐ必要があるのだ。試し行動に惑わされないことだ。

 育てにくい子を持つお母さんは、心身共に疲れ切ってしまい心が折れてしまっている。そんな状況に子どもが試し行動を、これでもかこれでもかと何度も起こしてくる。夫やその他の家族の子育て協力がないケースでは、相談する相手もなくて、孤軍奮闘をしがちである。ついつい試し行動を感情的に叱ってしまう。これでは逆効果になってしまう。なにしろ、育てにくい子どもは、不安型愛着スタイルをも抱えているから、安全で安心な居場所がないのである。安全と絆を提供してくれる『安全基地』がないので、いつも不安を抱えているのだ。

 育てにくい子どもを育て直すのは、並大抵のことではない。育てにくい子どもというのは、実は人間本来の生き方を実践しているからである。自由な生き方を望んでいるのだ。どういうことかというと、人間は元々自己組織化する働きがあり、オートポイエーシス(自己産生)という機能を生まれつき保持している。そしてこの自己組織化とオートポイエーシスの機能は、周りの人間から強く干渉や介入をされてしまうと、低下するばかりか無くなってしまうのである。そして、家族との愛着関係が希薄化してしまうと、益々自己組織化とオートポイエーシスの機能が働かなくなるのだ。

 育て直しにおいて、同じ轍を踏んではならない。育てにくい子というのは、愛着関係が薄くなり干渉を受け過ぎて、自己組織化とオートポイエーシスの機能が低下している。社会常識や親にとっての常識を、子どもに無理に押し付けてはならない。育てにくい子は、誰にも束縛されず自由気ままに生きたいのである。まずは、育てにくい子というのが特別なギフトを与えられた素晴らしい存在なのだということを、両親は認識しなくてはならない。そのうえで、子どもの尊厳を認め受け容れ、あるがままにまるごと愛することから始めなければならない。

 育てにくい子が生まれてくる本当の理由は、親に深い気付きや学びを授けたいからである。その学びというのは、人間とは本来あるがまま自由に自分らしく生きる存在だということである。お母さん自身が、有形無形の過干渉をされてしまいあまりにも良い子で育ち、自分らしく生きることが制限されてしまい、生きづらい生き方をさせられてしまったのだ。そのことを、育てにくい子を育て直しすることで、深く学ぶことが出来て、自分が人間本来の生き方に変わるチャンスをもらっているのである。育てにくい我が子をぎゅっと抱きしめて「お母さんにギフトをくれてありがとう」という言葉を何度もかけてあげれば、子は変わる。親が変われば、子は必ず変わる。

※育てにくい子を持つお母さんにこそ、安全と絆を提供してくれる『安全基地』が必要です。イスキアの郷しらかわでは、個別支援はしないと方針変換をしましたが、メールによる簡易な相談には応じます。安全基地にはなれませんが、困った時の相談相手にはなりますので、問い合わせフォームからご相談ください。

育てにくい子になってしまった訳

 世の中の多くのお母さんが持つ共通の悩み、それは『どうしてこの子はこんなにも育てにくい子になってしまったのだろう?』である。愛情をたっぷりとかけて、何不自由のない幸福な生活が出来るようにと、せっせと世話を焼いて育てたのに、何故こんなにも育てにくい子どもになったのだろうと悩んでいるのである。幼児期の頃には、あんなにも素直で良い子だったのに、小学生の頃からどういう訳か手のかかる子になってしまい、しまいにはことごとく親の言うことを、まったく聞かないか守らない子になってしまったのである。

 中学生から高校生になった子どもは、何を考えているのか解らず、突拍子のような言動をして母親を困惑させてしまっている。ごく普通の子育てをしてきたつもりなのに、どうしてこんなにも育てにくい子どもになってしまったのか、訳が分からず途方に暮れてしまっているお母さんが実に多いのである。そして、このような場合共通しているのは、お父さんは困っていないし、大変なことだという認識がないのである。それだけでなく、この育てにくい子どもの味方をする始末で、許せないのは躾の邪魔をしてしまうことである。

 世の中の多くのお母さんたちは、自分が育てられたと同じように我が子を育て上げるのが常である。自分自身がまともに育ち、どちらかというと良い子だと評価を受けて育ってきた。両親からも、そして社会的にもある程度の良い評価を得られているし、何も問題なく普通に生活を営めている。自分と同じように愛情をかけて我が子を育てたつもりなのに、どうしてこんなにも育てづらいのか訳が解らない。原因さえ解れば手の打ちようもあるし、何とか対策や改善策が見つかればと探求をするけれど、解決策は見つからない。

 とても育てにくいとお母さんが感じるのは当然で、ことごとくお母さんの常識や社会的常識と違うことを子どもは平気でしてしまうのである。勉強や片付けは後回しにして、ゲーム・コミック等にはまってしまう。ひとつひとつの動作が遅くて手際が悪く、いつも夜遅くまで起きている。朝はひとりで目覚めることが出来ず何度も起こされてようやく目覚め、朝の準備も出来ず忘れ物も多い。学校からの宿題・課題はいつもぎりぎりか、期限を過ぎるのが常。なにしろ勉強は後回しで、自分の好きな事だけに熱中する始末。

 育てにくい子どもになってしまった原因は、元々その子の遺伝子にあるかもしれない。現代の医学の急激な発達に伴い、乳児死亡率は飛躍的に低下した。一昔前には、遺伝子にエラーがあり脳機能の障害がありながらも産まれてきた子どもは、当時の医療水準では助けるのが難しく、死産または早逝していた。ところが、周産期医療の発達と小児科医療の水準向上により、脳の器質的な障害があっても助かるようになったのである。これは、喜ばしいことであるが、一方では社会に適応しにくい子どもさえ、生存が可能になったのである。

 こうして医学の発達により生き延びてきた子どもたちを、ごく普通の子どもだと思って子育てをしてしまうと、持って生まれてきた少し変わった気質や性格を、益々強化させてしまうのである。こうして、発達障害グレーゾーンと呼ばれる育てにくい子どもが、増えてきているのである。ここで注目すべきは、親はとても育てにくい子どもだと感じてしまうのだが、当の本人は自分が育てられにくいという認識はなく、生きづらいというように感じているという点である。そして、自己組織化やオートポイエーシスの機能が働かなくなっているのである。

 育てにくい我が子が、発達障害のグレーゾーンであるという認識を親が持たないが故に、お母さんは子育てに心身ともに疲れ切ってしまうのだ。ましてや、こういうケースのお父さんは自分自身も発達障害グレーゾーンであるから、子育てを苦手にしているので逃避してしまう。当然、子育ての役割の殆どが母親の分担となる。さらに不幸なのは、母親があるがままにまるごと愛する母性愛だけでなく、躾の愛としての父性愛まで注がなくてはならない点である。こうなると、母親は育てにくい子に対して、さらに強い過干渉と過介入を繰り返すことになる。益々、発達障害グレーゾーンは強化されてしまい、不安型愛着スタイルを抱えることになる。育てにくさが益々増大してしまうのである。

※次回のブログでは、育てにくい子をどのように育てればいいのかをお伝えします。

甘えて依存するのは悪いこと?

 メンタルを病んでしまい、ひきこもりの状況になってしまった方たちが、元気になり社会復帰するための支援をさせてもらっていて、常に気を付けていたことがある。それは、不安型の愛着スタイルや愛着障害を抱えた方々は、支援者に依存しやすい傾向があるということである。すべてのひきこもりの方々がそうだとは言えないが、安全と絆を提供してくれる『安全基地』を持たないひきこもりの人たちにとって、支援者は唯一の安心できる味方なので、どうしても依存しやすいのだ。支援者は、依存されないようにと距離を保つのである。

 また、精神科の医師、カウンセラー、セラピストたちもまた、要支援者から依存されないようにと、距離感を持って接するのが基本となる。世の中の母親たちも、子どもから依存されないようにと、普段から気を付けて子育てをするよう心掛けている。母親というのは、子どもを甘やかし過ぎると駄目になると、姑や夫から口酸っぱく言われるものだから、甘やかすということに神経質になりやすい。親が子どもを甘やかし過ぎたり、支援者が要支援者に対して甘やかしの態度を取ったり、依存させてしまうことは悪いことなのだろうか。

 児童養護施設で、利用者に対する支援の業務を行う職員の方たちも、利用者から依存されないように細心の注意を払う。親から虐待やネグレクトを受け続けてきた児童たちに取っては、養母さんたちはまさしく親の代わりであるから、甘えたいし依存したくなるのも当然である。幼稚園や小学校の担任教師たちも、甘えてきたり依存しようとしたりする子どもたちとは、距離感を持って接しようとする。施設の管理職や上司からは、子どもたちに依存の気持ちを芽生えさせると、自立できなくなると釘を刺されているからだ。

 子どもが親に依存すると自立出来なくなるというのは、本当であろうか。支援者が依存させるような態度を取ると、要支援者は依存してしまい自立が出来なくなるのであろうか。子育てにおいて、甘やかしてはいけない、過保護に育ててはならない、依存させると子どもは自立できなくなるというのは、本当に正しい子育てなのであろうか。何か子どもが大変な事件を起こすと、親が過保護だったとか甘やかし過ぎたと非難され、自立できないのは当然だと言われる。本当に、依存させてしまうと自立が阻害されるのであろうか。

 子どもの発達段階において、特に3歳頃までは母性愛がたっぷりと注がれることが必要だということは、最近になり認識されるようになってきた。母性愛と言うのは、あるがままにまるごと子どもを愛する事であり、無条件の愛のことである。先ずは母性愛をたっぷりと注ぎ続けて、子どもの不安や恐怖感を完全に払拭させてから、条件付きの愛である父性愛をかけるのである。この順序を間違って最初に父性愛を注いだり、父性愛と母性愛を同時にかけたりすると、絶対的な自己肯定感が持てず、不安型の愛着スタイルを抱えてしまうのだ。

 不安型愛着スタイルや愛着障害を根底に抱えていて、メンタルを病んでしまいひきこもりの状況に追い込まれた方々は、頼れる存在がない。どこにも居場所がないし、安全基地と言える存在がないのだ。ある程度の年齢になれば、自分で何とか自立しようともがき苦しむ。しかし、得体の知れない不安や恐怖感は拭い去ることが出来ず、誰にも甘えられないし頼れないから、怖くて社会に出て行くことが難しい。大人になったのであるから、甘えることなんて出来ないし依存することは絶対に避けなければならないと思い込んでいる。しかし、不安型愛着スタイルや愛着障害を癒すには、もう一度幼児期からの子育てをやり直すしかないのだ。

 不安型愛着スタイルを抱えてしまいメンタルを病んでいる人の母親が、もう一度最初からまるごとあるがままの愛を注いでくれて、育児のやり直しをしてくれたなら、病んだメンタルは癒される。しかし、それはいろんな意味で非常に難しい。だとすれば、誰かが母親に代わって、要支援者の臨時の安全基地になり、母性愛のようなまるごとあるがままの愛を注ぎ続け、とことんまで甘えさせることが必要だ。それはある意味、過保護にして依存させるということでもある。人間と言うのは、とことんまで依存し尽してしまうと、ひとりでに自立するものである。そして、何かあるといつも温かく受け容れてくれる場所があれば、自立し続けられる。森のイスキアの佐藤初女さんのような存在が、誰にも欲しいのだ。

※複雑性PTSDのように、長い期間に渡り心的外傷を何度も何度も受け続けてメンタルを病んでしまった方は、元々愛着に問題を抱えています。親から無条件の愛である母性愛を受けられず育ち、元々心が折れやすいのです。安心して甘えて依存できる安全基地がありませんので、いつも得体の知れない不安を抱えて生きています。このような状況を乗り越えるには、臨時的にも甘えて依存できる、森のイスキアの佐藤初女さんのような存在が必要です。佐藤初女さんのような『お母さん』が、不安の時代と言われる今の日本にこそ必要なのです。