子を産み育てるのは一番尊い行為

 子どもを産み育てることは、とても大変なことである。様々な事情から、敢えて出産しないし育児もしないという選択をする人もいる。勿論、子どもがどうしても授からないというやむを得ない事情の人もいるし、出産に耐えられない体力の為諦めている方もいる。経済的な理由で出産育児を諦めざるを得ないという方もいることを承知している。そういうケースがあることを認識したうえで、敢えて言いたい。出産育児というのは非常に困難ではあるが、一番尊いことであり、とても価値のある行為であるということを。

 この世の中で、人を導き育てるという行為は一番難しいことである。企業において、生産・企画・品質管理・検査・総務・人事等々難しい業務は沢山存在するし、それぞれに尊い仕事である。それでも、一番尊くて難しいのは教育である。人を育てるというのは、企業の発展と存続には欠かせないものであり、教育が上手く機能しないと企業は衰退してしまう。家庭における教育や学校における教育というものが機能しなくなると、社会は発展することを止めて衰退してしまう。政治も経済も成り立たなくなってしまうのである。

 子どもを産み育てるという行為は、とても貴重な行為である。日本人誰もがこの行為を拒絶したと仮定してみよう。そうすれば、日本という国は無くなってしまう。外国人の移民や出稼ぎがあるから大丈夫という意見もあろう。それでも、国家というものは存在するかもしれないが、日本というアイデンテティが無くなるのは確かである。それでも良いと考える人たちがいるかもしれない。しかし、世界に誇りうる日本の伝統的な文化や習慣がなくなるし、縄文時代から脈々と続いてきた『日本人』がなくなるというのは、寂しい限りである。

 子どもを産み育てたいと思う人がその行為をすれば良いのであり、したくない人はそれでいいんじゃないと思う人も少なくない。すべては自由であると。人間に何故生殖という機能を、全能の神は与えられたのであろうか。それは、人間という生き物をこの地球に存在させ続けなければならなかったからである。そして、人間には生まれつきオートポイエーシス(自己産生or自己産出)という尊い機能が与えられたのである。このオートポイエーシスこそが、人間という生物が地球に存在しなければならなかった理由でもあるのだ。

 人間が、産み育てるという行為を通して、多くの気付きや学びを得るというのは、子育てを経験した人なら誰でも知っている。子育ては、親育てでもある。どちらかというと、親にとっての学びのほうが大きい。多くの子どもを育てた人は、人間として大きく成長していることが多い。勿論、子育てをしなければ絶対に成長しないという訳ではない。でも、か弱きものや小さきものに対する慈悲や博愛の心は、子育てによって養われることが多い。子育てを実際に経験しないと学べないことは、非常に多いというのは間違いない。

 日本にも里親制度というものがある。どうしても子どもを産むことが出来ない方は、里親制度を活用してみてはどうだろうか。血を分けた我が子でなければ、母性愛や父性愛が生まれないということはない。実子でなくても母性愛が醸成されていくということは証明されている。昔からよく言われている、産みの親より育ての親というのは科学的な根拠があったのだ。子どもを育てるというのは、大きな社会貢献でもあり、人間としての成長に欠かせないものなのである。そのチャンスを自ら放棄するなんて、もったいないことなのだ。

 生まれつき恋愛することに臆病になる人や不安になる人がいるのも承知している。そんな人たちが結婚まで到達するのは、非常に高いハードルだと思われる。だとしても、恋愛することにチャレンジしてほしいし、結婚することも目指してほしい。勿論、籍を入れないで出産することも可能である。子育てを経験することが、人間に与えられた大きな学びの場であるのは間違いない。出産と育児をすることは、大きな社会貢献でもある。何故ならやがては社会を担うであろう子どもを育てることは、日本という国を発展継続することには欠かせない尊い行為なのである。この世で一番難しくて尊い子育てにチャレンジしてほしい。

青少年の死因第一位が自殺という日本

 15歳~34歳の若者の死因統計調査によると、死因第一位が自殺となっている。先進国の中で唯一日本だけがそんな結果となっているのは、驚くべきことであり悲しい限りである。希望に満ちた世代の筈なのに、将来を悲観しているというのはあまりにも可哀そうである。若者たちにそんな気持ちを抱かせてしまっているのは、我々の責任であると言えよう。勿論、政治家や経済界にも責任があるし、行政の無策ぶりが非難されても仕方ない。若者が未来に対する希望や夢が持てない社会であり、その対策が取れないというのは、実に情けない。

 どうして、こんなにも多くの若者が自殺をしてしまうのであろうか。日本全体の自殺者数は減っているのに、若者たちの自殺者数は増えている。さらに、小中学生の自殺者数も増加している。中高年者の自殺者数はそんなに増えていないのに、青少年の自殺者数が増加しているというのは由々しき大問題である。以前から、日本の社会は生きづらいし閉塞感を覚えているという人が多かったが、その思いが高まり続けていて、自殺率の増加に繋がっているのかもしれない。こんなにも便利で物質的な豊かさを享受できるのに、不思議である。

 さて、どうして若者たちは生きづらさを抱えていて、未来に希望を見いだせなくなっているのであろうか。様々な要因が考えられるが、ひとつの要因として考えられるのが、自己肯定感の欠如であろう。他の先進国と比較しても、図抜けて差異があるのが、青少年の自己肯定感が極めて低い点である。国際統計から見ても、他の欧米諸国やアジアの諸国と比較しても、自尊感情がとても低いという特徴があげられる。どんな部分もすべて含めて自分の事を好きか?という問いに、日本人だけがNOと答えている若者が多いのである。

 日本人の自己肯定感が極めて低いという事実が明らかになったのは、20年も前からである。国際比較調査で、指摘されていたのにも関わらず、文科省は有効な手立てを取れずに改善することも出来ず、却って悪化させてきている。この自己肯定感の低さが、生きづらさや閉塞感に繋がり、自殺率の高さを生み出している一番の要因ではなかろうか。このような憂慮すべき実情を国民に知らせて来なかったマスメディアにも責任があると思うし、文科省の無策ぶりを糾弾してこなかった政治家にも大きな責務があると言える。

 この自己肯定感の欠如は、自殺者数が多いと言う問題に留まらない。少子化の問題にも、自己肯定感が低いということが、極めて強い影響を与えているのは間違いない。この青少年の自己肯定感が極めて低いという事実に、声を大にして訴えて警鐘を鳴らしていた児童精神科医がいた。川崎医療福祉大学の特任教授だった、今は亡き佐々木正美医師である。自閉症スペクトラム症(ASD)などの発達障害の治療に尽力されると共に、多くのお母さんに愛着の大切さを訴えていた。無条件の愛である母性愛のかけ方を丁寧に指導されていた。

 日本の青少年の自己肯定感があまりにも低いので、佐々木正美教授は危機感を持ち、このままでは大変な社会になってしまうと警告を発しておられた。自己肯定感が低いのは、愛着が育っていないからであり、それは本当の母性愛が欠如しているからだと分析されていた。本当の母性愛とは、子どもをあるがままにまるごと愛するという無条件の愛である。0歳~3歳くらいまでは父性愛はあまりかけず、あるがままにまるごと愛するという母性愛だけをかけることが肝要だと説いておられた。この母性愛が少なく愛着が育たたなかったのだ。

 最近になり、愛着障害という概念が取り沙汰されるようになり、誤解されないようにとアタッチメントという原語をそのまま使用する専門家が増えている。良好で安心感をもたらすアタッチメントが形成されていない青少年が、自己肯定感を持てないのである。学校教育において成功体験や好成績を残せば、自己肯定感が育まれると提唱する教育関係者もいるが、完全な間違いである。あくまでも、絶対的な自己肯定感は0歳~3歳の時期に形成される。日本の青少年の自殺率を低下させるため、または少子化を解決するには、安定的アタッチメントの形成による自己肯定感の確立しか、他に方法はないのである。

教育虐待は何故起きるのか

 東京メトロの東大前駅で刃物を振り回して通行人に傷害を負わした事件で、犯人は自分が教育虐待を受けて不登校になったので、社会に対する恨みを晴らす為に犯行に及んだと供述している。恨みは教育虐待をした親に対して持つのが当然なのに、そんな教育虐待を起こさせる社会が悪いと逆恨みのような理論を展開しているのが注目される。以前にも同じような例が多々ある。滋賀県の看護学生が、医学部に入学させたいと教育虐待を行っていた母親を殺害した例もある。また、佐賀県の青年は父親の暴力や教育虐待から、両親を殺害した。

 こんな悲惨な事件になるのは稀なケースであろうが、同じように教育虐待と言われるような有形無形の圧力を親から掛けられて、精神を病んでしまった青少年は想像以上にいるのではなかろうか。最近は、盛んに教育虐待という言葉が使われるようになったが、以前は教育熱心な親とか、教育ママと呼ばれていた。子どもの幸福を強く願うあまりに、ついつい子どもに対して強い期待を持ってしまい、学業成績や進路に対してあまりにも口出しをする親が増えてしまったように感じる。教育虐待は、子どもに必要なのだろうか。

 教育虐待が盛んに行われているのは、日本だけではない。お隣の韓国や中国でも教育虐待と言われるような過度な家庭教育が実施されている。学歴こそがその後の人生を決定させてしまうような学歴偏重社会においては、教育虐待が起きやすいのかもしれない。日本においても、受けた教育の程度により人生が決定されてしまい、負け組と勝ち組に分けられてしまうような社会だからこそ、教育虐待は起きてしまうのかもしれない。ネット上でも、ある程度の教育熱心な親による強い指導は、子どもに必要だとする意見も少なくない。

 ある程度の教育虐待は、子どもの成長には必要なのであろうか。教育熱心な親のほうが子どもは高学歴になるし、いい学校に行けて高収入になれるから、無放任の親よりは幸福になれると思う人が多いのかもしれない。学習塾に行かせられたり家庭教師を与えられたりしたほうが、やがて幸せな人生を送れると思っている親が多いことだろう。こういう親は、自分が教育虐待をしているという自覚はない。教育格差における負け組にならないようにと、教育成果を上げようと必死になっている。子どもの教育は、親の責任だと思っているからだ。

 緩やかな教育虐待、ある程度の親からの厳しい指示や制限は許されるのか、という問いにはこう答えたい。子どもが危険な目に遭うのを防ぐため、または法を犯す怖れがあるとか、周りの人々を傷つける危険が高い場合は、厳しく指導すべきである。それ以外のケースでは、なるべく指示やコントロールは避けたいものだ。ましてや、子どもの進学・進路については、口出しをすべきではない。子どもがどんな進路を選択しようとも、親はその選択を尊重すべきである。子どもがどんな結果を得ようとも、親はそれを受け入れなくてはならない。

 そんな放任主義のようなことをすれば、子どもは楽な道を歩こうとするし、勉強もせずに堕落してしまうだろうと、とても心配する親がいるのも承知している。それも、その子にとっては大切な学びと経験であるから、親はそっと見守るべきである。ただし、親は子どもの見本になるような後ろ姿を見せることが肝要だ。読書しなさいと叱るのではなく、親が楽し気に本を読む姿を見せるだけだ。子どもにとって有益な絵本や児童書を子ども部屋に配置するのは親の務めだ。勉強もしかり。勉強せよとは言わず、親が喜々として勉学に励む姿を見せるだけで良い。

 教育虐待が起きる本当の原因は、親の生き方や考え方、または思想・哲学が低劣だからだ。親たちが正しく高邁な価値観を持ち、世の為人の為に必死に仕事をして、人生を謳歌しているのであれば、自分を信頼できるし子どもを心から信じることが出来る。そういう親なら、子ども自身が自ら努力することを信じるし、子どもの明るい未来がやってくるのを確信できるから、子どもに期待もしないしプレッシャーをかける必要もない。親は子どもの未来に対する不安や恐怖もないから、微笑みながら子どもに寄り添うだけでよい。勿論、子どもには日常的に正しい哲学を伝えることは必要である。それ以外は何も言うことはない。

何のために生きるのか

 NHK朝ドラ『あんぱん』が面白い。前期の『おむすび』があまりにも詰まらなかったという反動もあるが、朝ドラを鑑賞するのが楽しみになっている。ご存知の通り、漫画『アンパンマン』の作者やなせたかし氏とその妻の物語である。あのアンパンマンの主題歌の歌詞「何のために生まれて、何をして生きるのか」というのは、やなせたかし氏の育ての親である叔父さんが、いつも口癖のように言っていた言葉である。ことあることに、やなせたかし氏と弟に対して、「何のために生まれて、なにをして生きるのか」と問うていたようだ。

 ドラマだから父親代わりの叔父さんを美化して描いているのかもしれないが、それにしても素晴らしい父親であったと思われる。理想の父親像を実践していたようだ。子どもの生き方や将来を、親の都合や思いを一切押し付けることなく、子ども自身が望むように生きることを認めてあげたようである。自分が医院を経営しているのだから、息子たちのどちらかに後を任せたいと思うのが常だ。医師にさせたいと親なら強く思うに違いない。しかし、子どもの進路は子ども自身が選択していいよと、叔父さんは優しい眼差しを向け続けたのだ。

 世の中には、親の思うとおりの生き方をしてほしいと子どもの学校や職業までも押し付ける親さえいる。教育虐待と呼べるような厳しい養育をする親も増えている。子どももまた、親の期待に応えようと必死になって勉強やスポーツに取り組んでいるケースが多い。それがすべて間違っているとは言い切れない。しかし、親が子どもに対してあまりにも指示や指導を強くし過ぎてしまうと、子どもの自主性や自発性、主体性が育たない。つまり、自分で自分の進む道が決められなくなるのだ。自立が阻害されるだけでなく、生きる目的を見失う。

 朝ドラ『あんぱん』のやなせたかしの親代わり役の叔父さんは、二人の甥の進路に対して何も口出しをせず、二人の考えを尊重する。それだけではない、「何のために生まれて、何をして生きるのか」と二人の甥に問い続ける。子どもの教育において、もっとも大事なことは哲学である。何のために生きるのかを子どもに大人が示して、正しい生き方の後ろ姿を見せてあげなければ、子どもたちはどのように生きていいのか解らなくなる。生きる意味や生きる目的を大人が子どもに語らなければ、子どもはどのように生きていいのか迷うだろう。

 やなせたかし氏は、アンパンマンで子どもたちに人間としてどう生きるべきかを問い続けた。けっして強くはないし、悩みや苦しみを抱えるヒーローであるアンパンマンは、自分を犠牲にしてでも困った人々を助け続ける。悪さを働くバイキンマンをパンチで懲らしめるけど、けっして必要以上にダメージを与えることはしない。私利私欲や自己満足の為に生きるのでなく、人々を救いその幸福実現とのために生きることの大切さを教えてくれるアンパンマンは、叔父さんがその原型を作ってくれたのではなかろうか。

 現代の若者たちの死因第一位は、自殺だと言われている。自殺の『きっかけ』は、人様々である。自殺をしてしまう原因については、いろんな見解があろう。若者が未来に希望を見いだせないということであり、そんな失望する社会を作ってしまった我々大人に責任がある。それ以上に我々が若者たちに対して責任を負うべきことは、子どもたちに対して「何のために生きるのか、何をして生きて行くのか」ということをしっかりと伝えて来なかったことにある。生きる意味や目的を子どもに示していないし、正しく生きるための哲学を実践する姿を見せていないのだから、子どもたちが生きるのに迷うのも当然である。

 やなせたかし氏の叔父さんが、何のために誰の為に生きるのか、どのように生きるのかを自分自身の生き方でもってやなせたかし氏に示したからこそ、アンパンマンの物語が生まれたと言えよう。子どものうちは、哲学なんて語って聞かせても理解できないし無駄だと思う人は多いかもしれない。しかし、子どもたちは哲学が大好きである。子どもたちに哲学の話をすると、目を輝かせて聞き入るものである。子どものうちにこそ正しくて高い価値観の話を聞かせてあげなくてはなない。是非にも、何のために生きるのかを子どもたちに伝えてほしい。そうすれば、自殺をする若者を減らせるに違いない。

入社後すぐに退職してしまう本当の原因

 新年度を迎えて、希望に満ちて意気揚々として入社した新卒者が、僅か1日か2日を経過しただけで、退職代行の会社を通して離職してしまう若者が激増しているらしい。退職代行の会社を通しての離職届だから、本当の離職理由も解らず、人事担当者たちは困惑していると言う。離職した当人は、退職代行の担当者に対して、上司や同僚からパワハラまがいの対応を受けてしまい、心が折れてしまったと主張しているとのこと。これだけ、職場のパワハラ・セクハラに厳しくなっているのに、実に不思議である。

 パワハラやモラハラをされたかどうかで、退職するかどうかを決断しているというのならば、益々上司や先輩社員は臆病にならざるを得ない。ちょっと厳し過ぎる指導の言葉をかけたり、批判や否定をしたりすれば、それはパワハラだと認定されてしまう。それでなくても人手不足であり、新卒社員が定着してもらわないと困る。指導教育を担う社員は大変なストレスを抱えてしまう事になる。しかし、辞められるのが恐くて厳しい指導を遠慮すれば、社員の成長が期待できないというパラドックスに陥るのである。

 新入社員がすぐに退職してしまう理由が、果たしてパワハラやモラハラだけなのであろうか。表面的にはその通りなのであるが、パワハラやモラハラで退職した訳ではなく、本当は別な原因があるとしか思えない。何故なら、パワハラやモラハラをする上司なんて以前はどこの職場にも存在していた。パワハラやモラハラに極めて近いような案件は、日常茶飯事で起きていた。それでも退職する社員は殆どいなかった。だとすれば、すぐ離職に追い込まれる原因は雇用側だけでなく、雇用者側にもあるに違いない。

 まず退職代行の会社に離職手続きを依頼するという、離職者のメンタルの弱さに注目したい。自分の気持ちや意見を雇用者側に伝えられないというのは、単なる心の弱さだけではない。社会的なルールやマナーを知らないか、守ろうとしない性格や人格だということであろう。ルールやマナーではないと主張する人もいるかもしれないが、人間として恥ずべき行為だということさえ認識していないのである。社会人として失格であろう。そんな当たり前のことさえ教えられていないということに戦慄を覚える。

 さらに言えば、すぐに離職してしまうような社員は、どんな職場に転職したとしても長続きしない。周りの人々やお世話になった方々に対する気遣いや思いやりを持てないのである。どんな酷い仕打ちを受けたとしても、社会的礼儀は尽くさなければならない。それが社会人として必要な常識なのである。そして、もしパワハラやモラハラを受けたとしたら、後に続く新入社員に同じ思いをさせないよう、再発防止策を企業側に提言するべきである。そんな社会人としての義務を果たさず黙って退職するのは卑怯だ。

 このように、すぐに離職して退職代行に手続きを委託するような社員は、そもそも入社させるべきではないし、それを見抜けなかった企業側に社員選別の能力がなかったという証左である。新入社員の学歴や学力だけに目を奪われてしまい、人間としての本質を見抜けなかったのである。何よりも、人間力や忍耐力、人間関係調整能力などが欠如しているような社員を採用した採用担当者と役員の責任が大きいと言える。採用面接に携わる役職員は、企業内で一番秀でた人間力や人格を持つ人を当てなければならないのだ。そんな基本的な認識を持っていないのは、経営者として落第だ。

 思想哲学、生きる目的、働く目的や使命感を持ち得ない青年が多くなってしまった。学校でもそれを教えないが、家庭で形而上学を語り導けない父親がいる。こんな親がすぐに離職してしまうような社員を生み出したのである。そして、そんな腑抜けのような社員を採用してしまっている企業経営者が増えてしまったのである。一昔前のソニー、本田技研、松下電器では考えられなかった大失態である。これらの会社では、以前は日常的に思想哲学の対話を社員同士が目を輝かして実践していたという。盛田さん、宗一郎さん、幸之助さん等経営者トップが思想哲学を持っていたからである。

発達障害がこんなにも激増している訳

 発達障害の子どもが年々激増している。以前なら発達障害の子どもは、ほんの数%しかいなかったのに、いまや30%の割合で存在すると思われる。特に男の子にはその傾向が強く、約半数に発達の凸凹があると推測される。それほどまでに発達障害の子どもが増えたのは何故であろうか。発達障害というと、様々な障害があげられる。自閉症スペクトラム障害(ASD)、アスペルガー症候群、ADHD、各種の学習障害(LD)がよく知られている。それぞれ、先天的な脳の機能障害であり、子育ての仕方が悪くて起きるのではないというのが定説である。

 とは言いながら、発達障害の子どもを実際に支援している人々は、先天的な脳の機能障害だけに原因を特定するには無理があると思っている。勿論、先天的な異常があり、育てにくさがある為に強化されたとも考えれるが、それだけではないように思える。後天的に症状が現れたりする発達障害のケースもある。どちらかというと後者のケースが多いような気がする。そのうえで、誤解や批判を受ける覚悟で言えば、発達障害の多くのケースでは、親の育て方によって症状が強化・固定化されているとしか思えないのである。

 遺伝的な脳器質の異常で起きる発達障害は、確かにある。しかし、大多数の発達障害は後天的な要因によって起きていると推測される。どういうメカニズムと要因によるのかというと、誕生後の対応による影響があると推測される。赤ちゃんが生まれると産声をあげる。あの赤ちゃんの第一声は、胎内から外に出てから肺呼吸を始める時の苦しさからだと推測されている。でも、その苦しさからの泣き声だけではない気がする。胎内で母親から守られている環境から、母体と切り離される大きな不安と恐怖から泣くのではないかと思われる。

 今でこそ誕生後すぐに母親の胸に抱かされるようになったが、以前はすぐに引き離されて新生児室にて育てられた。この誕生後すぐに母親の胸に抱かれて、ずっと母親の傍に置かれて母乳で育てられたら、赤ちゃんの不安や怖れは払拭される。母親にずっと抱かれることが続けば、オキシトシンという安心ホルモンが十分に分泌され、オキシトシンレセプターが大量に形成される。ところが、何らかの理由で母親と引き離されてしまい、スキンシップが不十分だとオキシトシンホルモンが分泌されず、レセプターも未形成のままになる。

 このオキシトシンレセプターが不足することで、赤ちゃんの不安や恐怖感が増大してしまい、HSCになってしまうのである。このHSCによる影響で、脳にも甚大な被害を与えてしまう。不安に苛まれ偏桃体が肥大化すると共に、前頭前野脳、とりわけDLPFCと呼ばれる背外側前頭前野脳の機能低下を産むのである。また、25野脳にも機能低下が起きるのではなかろうか。こうして、脳の壊滅的な器質的変化が起きてしまい、発達の凸凹と育てにくさの症状が起きると考えたほうが、論理的である。さらには、二次的な症状も起きるのである。

 HSCによる聴覚過敏が強く出て、周りの音や話し声が雑音にしか聞こえなくなり、周りの人の声が聞けなくなってしまい、ASDのような症状を起こすのである。さらには、あまりにも不安や恐怖が強く感じて、何気ない言葉や態度に酷く傷付いてトラウマ化してしまい、何度もトラウマを積み重ねられて、複雑性のPTSDを起こすのである。このC-PTSDの二次的症状として、ASDのような症状が出てしまうとも考えられる。母親も同じように子育ての不安を抱えているので、子どもの不安と共鳴して増幅してしまうと考えられる。

 HSCによる聴覚過敏などと並行した育てにくさがあり、親は子どもに対して必要以上に干渉と介入を繰り返してしまう。つまり、子どもが本来持つ自己組織化する働きが育つのを待てなくて、ついつい子どもに支配的な態度をしてしまうのである。それも、こうしないと将来とんでもない不都合や不具合が起きると、恐怖を与えて指導教育をしてしまうと、不安や怖れが益々強くなり、HSCが強化されてしまい、発達障害の症状が強化される。それでなくても、主体性・自発性・自主性・責任性・発展性・自己犠牲性が乏しい子どもなのに、益々この自己組織化が阻害されることになる。このようにして、発達障害は激増しているのである。

※イスキアの郷しらかわでは発達障害の青少年を長年に渡りサポートしてきました。その経験から実感しているのは、以前のような発達障害は一定程度存在していますが、二次的症状としての後天性の発達障害が異常に増えているということです。不登校やひきこもりになっている方は、二次的な発達障害を抱えていることが多いのです。そして、この二次的な後天性の発達障害は、適切なケアにより症状が緩和されます。

甘えていいんだよ

 世の中には、間違った子育ての理論が横行していて、それを信じて教育した為にとんでもない子育てをしているケースが多々ある。その最たるものは、子どもを甘えさせ過ぎて育てると、依存性が高くなり自立できない子どもになってしまうという間違った教育論である。この教育の理論に毒された親たちは、子どもに甘え過ぎないよう、依存させないようにと、厳しく育てるという大変な誤謬を犯すことなる。そして、そのように育てられた子どもは、やがて自尊心が育たないばかりか、自己の確立は出来なくなり、臆病な大人になるのだ。

 この間違った子育て論は、どのようにして広まったのであろうか。または、誰がこんなとんでもない子育て論を考え出したのであろうか。おそらくは、明治維新以降の近代国家へと変貌を遂げる頃に、富国強兵策の一環としての教育理論だ。為政者にとって都合の良い国民を育てる為の教育制度として提唱されたものではないかと考えられる。つまり、明治維新後に欧米から近代教育制度を取り入れて、子どもを甘えさせずに依存させることなく育てることで、為政者にとって支配しやすく従順な国民を輩出しようとしたのではなかろうか。

 我が子をとことん甘えさせると甘えっ子になってしまうと、殆どの日本人が思っている。また、あまりにも子どもを親に依存させてしまうと、依存性のパーソナリティを持つ大人になってしまうと考えている。実は、まったく逆の結果になってしまうということを、殆どの親が知らないのである。人間という生き物は、極めてか弱い生き物であり、乳幼児期は誰かの庇護の元でしか生きられない。したがって、乳幼児期の子どもは親にしっかり守られているという安心感がないと、不安で一杯になってしまうのである。

 三つ子の魂百までもという諺がある。三歳ころまでの子育てがこそが、健全な大人に育つために大切だという戒めである。この三歳の頃までに、徹底して甘えさせて依存させてあげないと、子どもは深刻な不安感や恐怖感を抱えてしまい、やがて思春期を迎える頃になると、社会に適応できなくなることも少なくない。大き過ぎる不安や恐怖感から、HSP(ハイリィセンシティブパーソン)になってしまい、二次的症状として発達障害やパニック障害、PTSD、気分障害などを発症しやすい。不登校やひきこもりになってしまうことも多い。

 不登校やひきこもり、社会に対する適応障害などを起こす子どもは、親が過保護にしたからだとか甘やかし過ぎたからだと言われることが多い。また、犯罪をした青少年を、さも家庭の事情を知っているかのように、親が過保護で育てた、または甘やかしたからとんでない若者にしたと批判する。しかし、それは完全な間違いである。中途半端に甘えさせて依存させたからであり、どちらかというと「良い子」に育てようと、厳しい干渉と介入をし過ぎたからである。甘えさせるのと干渉とはまったく違うのである。

 乳幼児期に、子どもをありのままにまるごと愛するということを徹底して実行して、なるべく干渉を避けて、子ども自身の判断・決断・実行を自らができるようにそっと見守る姿勢が大事だ。その為には、どんなことがあっても親が敢然と子どもを守る、けっして見捨てないし否定しないということをコミットして実行することが肝要だ。そうすることで、子どもは安心して社会に出て行くことが可能だし、精神的にも経済的にも自立できる。子どもが自我の確立をして、その後自我と自己の統合をするには、このような発達段階を踏む必要がある。

 この世の中には、ひきこもりの青年たちが思った以上に多い。その青年たちは押しなべて、親に心から甘えることが出来なかった若者である。中途半端には甘えさせたが、十分に甘えることが出来なかったし、甘え下手なのである。無理して、自立したかのように見せて、親の期待に応えるべく良い子を演じてきたに過ぎない。豊かな愛情をかけ過ぎて、子どもが駄目になることはない。厳しい干渉や介入をし過ぎて、子どもが自立出来ずに社会不適応を起こすケースが非常に多い。親自身が甘えて育ってないから、甘えさせることも出来ないのである。もう一度徹底して甘えさせる子育てをし直したら、親子共に癒されるに違いない。

※ひきこもりの青少年をずっと支援させてもらってきました。その際に、「私に、徹底して甘えていいんだからね、依存してもいいんだよ」と伝えています。「どんなことがあっても見捨てないからね」とも伝えます。そして、甘え下手で甘えさせ下手の親も同じように支援します。そうすることで、ひきこもりの青少年たちは、十分に甘えることが出来て、安全基地を得ることで安心して社会に巣立っていくことが出来るのです。大人になってからでも遅くはありません。甘え過ぎるくらい甘えさせることで、人間は自立に向かって進み出せます。

御上先生のようなキャリア官僚に期待

 TBSテレビの新ドラマ『御上先生』が熱い。文部科学省に在籍する国家公務員総合職、いわゆるキャリア官僚が民間高校に出向するという、通常ならあり得ない設定で展開する物語である。松坂桃李がその主人公を演じている。その私立高校とは、東京大学の合格者を多数輩出している名門の私立高校である。高校3年生のクラス担任として赴任するのであるが、問題ある生徒や先生に反発する生徒たちをどう指導教育していくのか、期待が高まる。それにしても、御上先生のような高い志を持つキャリア官僚は実際にいるのだろうか。

 私たちが想像するキャリア官僚像とは、上司に媚びへつらい政治家のご機嫌取りをして、他のキャリア官僚とひたすら出世競争をする人たちというイメージを持っていた。一般職の官僚たちを見下しているし、建前は国民のためにと言いながら、ひたすら上級国民を目指しているような官僚であるように思い込んでいた。もしかすると、そういうキャリア官僚もいるだろうが、大多数のキャリア官僚は高い価値観を持って、国民の福祉向上と幸福を追求しようとひたすら頑張っているのかもしれないと思い直したのである。

 まさに、御上先生は官僚のお手本になりうる高い価値観を持って、子どもたち本位の教育制度に改革しようと奮闘努力をしている。こんな官僚が増えてくれれば、日本の教育制度の改革も進むという期待が持てる。しかし、残念ながら出世するようなキャリア官僚たちは、上司である官僚幹部や族議員の顔色を窺い、自分の主義主張さえ抑え込んで上司や政治家に忖度してしまうのである。それは、自己保身からすることなのだが、本来の公僕としての役割とはかけ離れている。憲法で規定している、国民に奉仕する役割を忘れているのである。

 キャリア官僚というのは、本来の業務以外の役割が与えられている。それは、政治家が国会での質問に対する答弁用原稿を作成するという役割が与えられている。官僚がすべき仕事ではないのに、この仕事の負担があまりにも大きく、官僚に多大なストレスを与えている。この業務は上級官僚だけのものではない。県の職員も市町村の職員でも、首長の答弁用原稿の作成も命じられている。時間に追われるので、深夜まで及ぶ時間外の業務なので、身体的負担も大きい。自分で作成する能力がない政治家の為に、余計な仕事を命じられるのである。

 そんな余計な業務や、政治家や上司に対するあまりにも過ぎる忖度までしなければ、組織の中で生きて行くのが難しい割に、得られるものが少ない官僚の人気が著しく低下している。昔は、天下りが許されていて、その報酬をも含めると生涯所得が、大企業に勤務した社員のそれと遜色なかったが、天下りが制限されている現代では、官僚を志す若者が減ったのは当たり前だと思う人が多い。しかし、キャリア官僚を志すほどの学業優秀な人間が、所得の多い少ないで進路を決めるというのは、実に情けないことである。

 御上先生というのは、そんな損得や利害でキャリア官僚になった訳ではない。あくまでも、国民の豊かさと幸福をどうしたら実現できるのかということを真剣に考えているキャリア官僚である。つまり、官僚たるものはこうあるべきだという理想像を描いている。勿論、御上先生の価値観と正反対の自利を追求する、低劣な価値観を持ったキャリア官僚も登場する。文科省におけるキャリア官僚は、全国の教職員の指導と管理も間接的に実践している。日本の学校教育の将来像をどうするかのビジョンも作成しているのである。

 日本の教育には問題や課題が山積みとなっている。青少年たちの不登校やひきこもりが増えているし、小中高生の自殺が急増している。教職員の不祥事や不適切指導があまりにも多いし、教員がメンタル疾患を抱えて自死を選ぶケースも多々ある。これだけ多くの問題が次から次へと起きるというのは、教員としての資質がそもそもない人を教職として採用した側に瑕疵があるのは間違いない。性被害事件を起こすような問題教師を現場に配置するとか、校長・副校長の管理職に不適格者を登用するというのは、あり得ないことである。御上先生のような文科省のキャリア官僚に、抜本的な教育改革を実行してもらうしかない。

物分かりの良い人を演じなくても良い

 日本人特有のパーソナリティとして、多数派に属したいとか穏健な言動をして良い人に思われたいという傾向がある。そして、争いごとを好まないし敵を作らないという生き方を志す人が多い。『和を以て貴しと為す』と最古の憲法で主張した聖徳太子に習い、協調性や合意性を重んじる日本人が殆どであろう。これは、団体や企業という組織の中で生きて行くうえでは、必要不可欠な価値観であるに違いない。例え、違った意見であっても上司や経営幹部の主張に逆らうことはしないし、自分の意見はあえて主張しない社員が多い。

 日本人という民族は、あまり争いごとを好まず、競い合うことも避けることが多い。そして、組織の中でも家庭の中でも、物分かりの良い人を演じてしまう傾向が強い。嫌われることを避けたいというのか、どちらかというと周りの人たちにおもねることで無用な軋轢を避けたいという思いが強いのであろう。つまり、周りから『良い人』だと思われたいし、組織の中で無難に生き抜くために必要な処世術なのかもしれない。とは言いながら、自分を失くしてまで相手に合わせてしまい、物分かりの良い人を演じなくてもいいような気がする。

 何故、物分かりの良い人を演じなくてもいいのかというと、あまりにも自分の本当の感情を押し殺してしまうと、自分らしさを失ってしまうからである。人間は、生まれつき自由でありたいと思う生き物である。何故ならば、人間は本来自己組織化をする働きをする。つまり、主体性・自発性・自主性・責任性・連帯性・自己犠牲性・発展性・進化性を持つのだ。それなのに、他人にあまりにも迎合し過ぎて、自分を主張することを止めてしまうと、自己組織化をする働きを失ってしまう危険性が高まってしまうのである。

 また、あまりにも自分の感情を出さないようにしようとして抑圧してしまうと、脳がそのような状況をとても嫌がってしまい、ストレスが高まってしまい脳の異常を起こしてしまうのである。特に、怒りや憎しみの感情を出すことが出来ず我慢を重ねて行くと、偏桃体が肥大化してしまい、海馬が委縮してしまうのである。偏桃体が肥大化して働き過ぎると、ステロイドホルモンが増加してしまい、自律神経が乱れてしまうと共に、睡眠障害が起きやすい。また、海馬と前頭前野脳の機能が低下して、認知症になるリスクが高まる。

 物分かりの良い人を演じ過ぎてしまう危険を示してきたが、日本人と言うのはどうしても相手に合わせてしまう傾向が強い。確かに、職場や公的な場所においては、ある程度の常識的な言動は必要であるが、家庭や仲間の中では物分かりの良い人を演じなくても良いのではなかろうか。特に、親に対しては自分の感情を閉じ込めなくてもいいし、子どもに対しても物分かりの良い親を演じなくても良い。特に避けたいのは、子どもに対して必要以上におもねることである。こんな子育てをすると、子どもが感情を吐露するのが苦手になる。

 家庭内においては、本来は家族相手には気兼ねする必要もなく、自由に発言して良い場所である。いろんな感情を持つ場合、それを相手に素直に、そして正直に伝えても良いのである。そして、伝えられた相手はその素直な感情に共感すべきであることは言うまでもない。そして、それがどんな感情の表現であったとしても、寛容と受容の態度を取らなくてはならない。そうしないと、家族の関係性を良好なものに出来ないのである。家族の良好な関係性があってこそ、安全基地としての機能を保てるのである。

 安全基地というのは、家族が心理的安全性を持てる居場所である。家庭の中では、物分かりの良い人を演じなくても良い関係性が保てる環境が求められる。その為には、やはり父親が重要な役割を果たす。あまりにもパーフェクトな人格を見せ感情を押し殺して、物分かりの良い人物を演じ続けてしまうと、家族は逆に安心感を持てなくなってしまう。時には人間臭くて、マイナスの感情を吐露することも必要であるし、弱音を吐くことだってあっていい。家族が心理的安全性(安全基地)を保つ為には、自分らしく生きてもいいんだよという態度のメッセージを、家庭における主人公が見せ続ける必要がある。

※子どもというのは、家庭内で伸び伸びと育ち、あるがままの自分をさらけ出し、感情を豊かに表現できなければならないのです。家庭内であまりにも良い子を演じさせてしまい、自分らしさを失わせてしまうと、外で良い子でなくなり悪いことをしたり他の子を虐めたりするのです。子どもはどこかで息抜きが必要であり、そのための安全な居場所が必要なのです。親があるがままに生きるというお手本を、家庭内で見せたいものです

子どもに是非見せたいアニメ『働く細胞』

 TV東京系列で放映されて、その後NHKのEテレでも放映されている『働く細胞』というアニメをご覧なったことがあるだろうか。コミック連載当初より人気があり、単行本になっても人気が衰えず、テレビでもアニメ化されて放映されたらしい。子どもたちにも人気があるのは当然だが、大人が鑑賞しても面白いし為になる内容である。子どもたちは、このアニメに引き込まれるみたいである。孫たちもこのアニメが大好きで、録画して何度も鑑賞して喜んでいる。どうして、このアニメは子どもたちに人気になっているのであろうか?

 このアニメが人気になっている理由は、しっかりした科学的根拠に基づいた内容になっているし、人間の根源的な機能である自己組織化を描いているからであろう。どういうことかというと、人体というネットワークシステムには、自己組織化と呼ぶ人間本来の機能が備わっている。自己組織化というのは、主体性、自主性、自発性、自己犠牲性、自己成長性、自己進化性、連帯性という、人体が本来持っている機能のことである。この自己組織化が機能しなくなると、人体は病気になるし老化や劣化が進んでしまう、大切な機能である。

 少し前の人体生理学においては、すべての細胞は脳や神経系統からの指示によって働いていると考えられていた。つまり、それぞれの細胞は勝手に機能しているのではなく、何らかの指示命令系統によって、上手く作用しているものだと考えられていた。ところが、人体生理学や分子生物学の研究が進んだことにより、まったく違った作用機序になっていることが判明したのである。すべての細胞は、それぞれが自ら自己組織化していて、誰にも指示されることなく、全体最適の為に自らが機能しているということが解ったのである。

 その事実を、『働く細胞』というアニメは、自ら自己組織化している細胞の姿を、見事に描き切っているのである。主人公である擬人化した赤血球細胞とそれを助ける白血球細胞が、人体という全体が健康で正常に機能する為に、時には自己犠牲を払うのを厭わずに、献身的に働く姿を描いている。このアニメは、すごい人気が出ていることから、永野芽郁と佐藤健の共演で、実写映画化までされるという。子どもたちが自己組織化という概念を理解しているとは到底思えないが、本能的に自己組織化したいと望んでいるのではなかろうか。

 細胞も含めて、全体を組織しているすべての構成要素は、自己組織化する働きを持っている。この自己組織化の機能が正常働くためには、良好な関係性を保持しているということが絶対必要条件である。働く細胞というアニメでは、細胞どうしの良好な関係性が大事だと訴えている。関係性&ネットワークが劣化してしまうと、人体が破綻してしまうということも描写されている。人体もそうなのだが、人間社会でも関係性が劣化してしまうと、全体最適の機能が働かなくなってしまう。働く細胞は、そのことも暗示しているのである。

 子どもというのは、哲学的な物語が大好きである。人は何故生きるのか、何のために生まれてきたのかを問う話に引き込まれる。人間は生まれつき哲学的な話に憧れるものだ。特に純真な子どもは、人間のあるべき姿を無意識で追い求めているのである。それが大人になるにつれて、純真さを失うと共に本来の生きるべき道をも失ってしまう。全体最適を目指して生きることを忘れてしまい、個別最適(自分最適)を目指すようになる。子どもは、働く細胞のような全体最適の話や関係性重視の思想に憧れるのである。

 働く細胞というアニメを、子どもたちが大好きになるのは、自己組織化や全体最適を説いているからだ。鬼滅の刃というアニメに純真な子どもたちが熱狂するのも、同じ理由からである。アニメ働く細胞を好む大人もまた、全体最適や関係性重視の価値観を持っているのであり、自己組織化の機能を発揮している人間である。子どもたちが健全なる正しい価値観を持って成長する為にも、アニメ『働く細胞』を是非鑑賞させたいものだ。そして、大人も一緒に観ながら自己組織化の機能を発揮することの大切さを共有したいものである。実写映画化された『働く細胞』が公開されたら、孫と一緒に見に行こうと思う。