メンタルを病んでしまい、ひきこもりの状況になってしまった方たちが、元気になり社会復帰するための支援をさせてもらっていて、常に気を付けていたことがある。それは、不安型の愛着スタイルや愛着障害を抱えた方々は、支援者に依存しやすい傾向があるということである。すべてのひきこもりの方々がそうだとは言えないが、安全と絆を提供してくれる『安全基地』を持たないひきこもりの人たちにとって、支援者は唯一の安心できる味方なので、どうしても依存しやすいのだ。支援者は、依存されないようにと距離を保つのである。
また、精神科の医師、カウンセラー、セラピストたちもまた、要支援者から依存されないようにと、距離感を持って接するのが基本となる。世の中の母親たちも、子どもから依存されないようにと、普段から気を付けて子育てをするよう心掛けている。母親というのは、子どもを甘やかし過ぎると駄目になると、姑や夫から口酸っぱく言われるものだから、甘やかすということに神経質になりやすい。親が子どもを甘やかし過ぎたり、支援者が要支援者に対して甘やかしの態度を取ったり、依存させてしまうことは悪いことなのだろうか。
児童養護施設で、利用者に対する支援の業務を行う職員の方たちも、利用者から依存されないように細心の注意を払う。親から虐待やネグレクトを受け続けてきた児童たちに取っては、養母さんたちはまさしく親の代わりであるから、甘えたいし依存したくなるのも当然である。幼稚園や小学校の担任教師たちも、甘えてきたり依存しようとしたりする子どもたちとは、距離感を持って接しようとする。施設の管理職や上司からは、子どもたちに依存の気持ちを芽生えさせると、自立できなくなると釘を刺されているからだ。
子どもが親に依存すると自立出来なくなるというのは、本当であろうか。支援者が依存させるような態度を取ると、要支援者は依存してしまい自立が出来なくなるのであろうか。子育てにおいて、甘やかしてはいけない、過保護に育ててはならない、依存させると子どもは自立できなくなるというのは、本当に正しい子育てなのであろうか。何か子どもが大変な事件を起こすと、親が過保護だったとか甘やかし過ぎたと非難され、自立できないのは当然だと言われる。本当に、依存させてしまうと自立が阻害されるのであろうか。
子どもの発達段階において、特に3歳頃までは母性愛がたっぷりと注がれることが必要だということは、最近になり認識されるようになってきた。母性愛と言うのは、あるがままにまるごと子どもを愛する事であり、無条件の愛のことである。先ずは母性愛をたっぷりと注ぎ続けて、子どもの不安や恐怖感を完全に払拭させてから、条件付きの愛である父性愛をかけるのである。この順序を間違って最初に父性愛を注いだり、父性愛と母性愛を同時にかけたりすると、絶対的な自己肯定感が持てず、不安型の愛着スタイルを抱えてしまうのだ。
不安型愛着スタイルや愛着障害を根底に抱えていて、メンタルを病んでしまいひきこもりの状況に追い込まれた方々は、頼れる存在がない。どこにも居場所がないし、安全基地と言える存在がないのだ。ある程度の年齢になれば、自分で何とか自立しようともがき苦しむ。しかし、得体の知れない不安や恐怖感は拭い去ることが出来ず、誰にも甘えられないし頼れないから、怖くて社会に出て行くことが難しい。大人になったのであるから、甘えることなんて出来ないし依存することは絶対に避けなければならないと思い込んでいる。しかし、不安型愛着スタイルや愛着障害を癒すには、もう一度幼児期からの子育てをやり直すしかないのだ。
不安型愛着スタイルを抱えてしまいメンタルを病んでいる人の母親が、もう一度最初からまるごとあるがままの愛を注いでくれて、育児のやり直しをしてくれたなら、病んだメンタルは癒される。しかし、それはいろんな意味で非常に難しい。だとすれば、誰かが母親に代わって、要支援者の臨時の安全基地になり、母性愛のようなまるごとあるがままの愛を注ぎ続け、とことんまで甘えさせることが必要だ。それはある意味、過保護にして依存させるということでもある。人間と言うのは、とことんまで依存し尽してしまうと、ひとりでに自立するものである。そして、何かあるといつも温かく受け容れてくれる場所があれば、自立し続けられる。森のイスキアの佐藤初女さんのような存在が、誰にも欲しいのだ。
※複雑性PTSDのように、長い期間に渡り心的外傷を何度も何度も受け続けてメンタルを病んでしまった方は、元々愛着に問題を抱えています。親から無条件の愛である母性愛を受けられず育ち、元々心が折れやすいのです。安心して甘えて依存できる安全基地がありませんので、いつも得体の知れない不安を抱えて生きています。このような状況を乗り越えるには、臨時的にも甘えて依存できる、森のイスキアの佐藤初女さんのような存在が必要です。佐藤初女さんのような『お母さん』が、不安の時代と言われる今の日本にこそ必要なのです。