母性と父性

母性と父性の違いについて、正確に述べられる人はそんなに多くない筈である。そもそも、母性と父性を勘違いしている人も少なくないし、現在の日本において母性と父性を的確に生かしながら子育てをしている家庭は非常に少ないと思える。母性愛と父性愛を豊かに注いでいる子育てなら、子どもたちも健全に育つし、様々な教育上の問題を起こさないばかりか、家族というコミュニティも一つにまとまって、良好な絆を保ち続けることだろう。逆に母性愛と父性愛を不的確に捉え、しかも豊かに発揮できない家庭では、不登校、ひきこもり、DV等のいろんな家庭内の問題が起こることであろう。それなのに教育問題の研究においても、母性と父性にあまり注目されていないのは実に不思議なことである。

日本の一般的な家族に、母性と父性を意識したことがありますか?と質問したとしたら、おそらく半数以上の家庭はNOと答えるに違いない。そんなこと、両親からも伝えられていなかったし、ましてや学校教育では母性と父性の大切を教えている訳がない。仏教哲学が広く普及していた江戸時代以前は、母性と父性について実に解りやすく教えていたように思う。つまり、仏教哲学においては仏像という偶像を利用して、誰にでも理解できるように伝えてくれていたのだ。観音様は母性を代表する仏像であり、対比しての仏像として弥勒菩薩や勢至菩薩がある。また、父性を表す不動明王に対比して、愛染明王がある。さらには、母性を示す阿弥陀如来に対して、父性の象徴とも言える薬師如来がある。こうして、母性と父性を衆生に解りやすく教示していたに違いない。

そもそも母性と父性というのは何であろうか。父性は条件付の愛であり、母性は無条件の愛と言われている。または、仏教的に言えば母性は慈悲や情であり、父性は智慧や法理であろう。つまりは、互いに相反することであるから、大人であれば両立は可能であるものの、子どもにしたら迷いが生じるのであろう。間違いなく言えることは、子どもに取って先ず必要なのは母性(無条件の愛)であり、それが満たされて初めて父性(条件付の愛)である躾を受け容れることが出来るのである。この順序を間違えると、子どもは一生苦しむことになる。つまり、最初に父性を発揮して育てられた子どもは、自我を克服出来ずに、自己の確立がなかなか出来ずに、真のアイデンティを持てなくなるのである。実は、現代における大多数の人々は、このアイデンティの確立が出来ずに大人になっている。それは、とりもなおさず母性と父性が正しく発揮されずに育てられているという証左でもあろう。

現代の子ども、または若者たちは大きな生きづらさを抱えて生きている。その訳は、やはり母性愛と父性愛を的確にしかも豊かに与えられていないからではなかろうか。どちらかというと、父性愛である条件付きの愛ばかりを受け取り、母性愛をあまり与えられているとは思えない。条件付きの愛である「躾」ばかりを押し付け、子どもを支配し制御しているように感じる。「どんなあなたでも、どんなことがあっても永遠に愛します」というメッセージや意識を注いでいるようには思えないのである。親は子どもを愛しているのは間違いないが、子どもの精神的自由を奪ってまで、自分の思い通りの理想の子ども像を押し付けてはいないだろうか。

 

それでは両親揃っていないと母性と父性を活用した子育てができないかというとそうではない。一人親子育てでも、母性と父性を共に上手に成功している例は少なくない。しかし、それはあくまでも表面上のことであろう。その子どもの心の内面に迫ると、実は多くの問題課題を抱えていて、実に生きづらい人生を送っていることが少なくない。何故なら、そもそも母性と父性というのは相反するものであり、1人の人間の中に両立させたとしても、その母性と父性を受け取る子どもに取っては、どちらの母親が本当の母親なのか、微妙な迷いや不安が生じるのである。やはり、両親またはそれに替わる誰かの一方が母性を演じ、もう片方が父性を演じるほうが、子どもは納得しやすいのだ。子どもの心にしてみれば、1人の人間が両方発揮するというのには相当理解に苦しむことであろう。祖父母、または叔父叔母のどちらかが片方の愛を発揮してもいいし、地域の誰かがその役割を担うことも考えられる。

両親が揃っていても、母性と父性がうまく発揮できていなのは何故かというと、一番問題があるのは父親であろう。父親が正しい父性(条件付の愛)を発揮出来ていないからである。子どもに気に入られようと、妙に子どもにおもねるというかご機嫌取りに終始して、本来の正しいしつけが出来ていないのである。当然、母親は安心して母性を発揮出来ずに、しつけである父性を最初から発揮する羽目になる。さらに、子どもに対して思想哲学を教えるのは、やはり父性(法理)であるから父親である男性の役目であろう。しかし、自分自身のしっかりした哲学を持ちえていない父親であるから、情けないことに世の中の理(ことわり)を教えられないのである。母親は、子どもに対してしっかりした思想や哲学を教えられる父親だと確信できたら、安心して無条件の愛である母性愛だけを発揮できるのである。さらに言えば、夫が妻に対して無条件の愛で包み込んで上げられた時に、妻は子どもに対して豊かな母性愛を注げるということも付け加えておきたい。

児童虐待をなくす為に

昨年度1年間児童相談所で扱った児童虐待の件数が、12万件を突破して過去最高になったというニュースが流れた。これは、昨年度から軽微な心理的DVも加えられたということで、件数が増えたのも当然だと見られるが、それにしても全国的に児童虐待が増えているのは間違いない。こんなにも多いという現実を知らない人も多かったに違いないが、これは実は氷山の一角に過ぎない。この数は児童相談所に寄せられて扱った件数だけであり、地域の人々や親類知人にも知られず、家庭内で陰湿に行われている児童虐待は、これだけではないだろう。その数も入れれば、おそらくは30万件を越える児童虐待が起きていると推測される。

 

どうしてこんなにも児童虐待が増えているのかと分析されているが、子育ての難しさやその苦労によるもの、さらに母親一人に育児の負担がかかり過ぎるという実態が影響しているらしい。または、配偶者によるDVが家庭内で日常化していて、そのことによる子どもへの心理的圧迫が虐待として捉えられているとも報道されている。そして残念なことに、児童相談所にそのような相談や通告が行なわれていても、完全な解決策が見いだせないという現状がある。緊急避難的に、児童相談所に子どもを預かって救助しても、その後の保護者に対する指導援助が効果を上げて、児童虐待がなくなるケースは少ないという。

 

児童相談員のマンパワー不足、児童虐待の行為者に対する相談機能や指導機能が不十分だという指摘もあろうが、児童虐待をする者への支援と指導は難しいものがある。何故なら、当事者だけの問題だけではなく、その配偶者は勿論、同居している恋人、家族の問題もあるし、自分自身の幼児期における育児環境が色濃く反映しているからでもある。自分が幼児期に暴力を受けて育って、自分が親になったときに、同じように暴力を奮ってしまうケースは非常に多い。暴力の連鎖である。さらに、夫婦間の敬愛関係や恋人との恋愛関係が破綻していると、児童虐待に繋がりやすいということも言われている。

 

児童虐待のそもそもの原因は何かというと、経済的な理由や将来に対する不安、家庭環境の悪化、虐待者本人の無自覚無認識、配偶者の問題、子どもの発達障害など様々な要因が上げられるが、それは真の原因ではない。児童虐待が起きる本当の原因は、家族というコミュニティにおける関係性の希薄化と劣悪化にある。親子の関係性、夫婦の関係性、兄弟との関係性、さらには地域コミュニティの関係性も悪化していると、児童虐待が起きやすい。つまり、様々な要因とされているものは単なるきっかけや背景としてのものであり、本当の原因は関係性にあると推測される。

 

家族、地域、企業、組織、国家すべての共同体がその連帯機能を低下、もしくは破綻させてしまっていると言われている。自分さえ良ければいい、自分だけの幸福や豊かさをあまりにも追求する価値観が蔓延してしまい、家族、同僚・部下・上司、隣人と地域住民、国民、お互いの関係性を重要視する価値観が欠落しているとも言われている。だから、医療、介護、福祉、地方の衰退、震災復興の遅延、などの問題が起きていると言っても過言ではない。まさに、その根底、または縮図というような家族に問題があり、児童虐待が発生していると言えよう。それは家族だけの問題ではないし、このような社会を築き上げてしまった我々国民全体に責任があるに違いない。

 

それでは、この児童虐待の根本的問題を含めて、崩壊したコミュニティをどのようにしたら再生できるのであろうか。悪化してしまった関係性をどのように再構築して行ったらいいのか悩ましいところでもある。その為には、どうしてこんなにもコミュニティの関係性が悪くなったのかという歴史にも、注目する必要があろう。関係性が悪化してしまい、コミュニティが崩壊への道を歩み始めたのは、明治維新の近代教育導入からであろう。江戸時代までは、自分たちの利益や幸福を第一義的に求めるのではなく、市民全体の幸福や福祉を求める価値観を持っていたのである。それが富国強兵を実現するために、欧米の個人利益を容認する近代教育を取り入れたのである。

 

欧米の個人の自由や幸福を追求する近代教育の価値観は、コミュニティの劣悪化を招く弊害が現れて、その後見直されて全体最適を求める価値観も必要だと方針変更がなされた。ところが、日本の教育にはその情報がもたらされず、依然として個別最適を求める価値観が依然として残ったのである。その原則を重視するあまり、お互いの関係性をないがしろにしてきたのである。ということならば、そもそもの近代教育の価値観教育を見直し、自分だけの利益幸福を追求するのではなく、全体最適追及の価値観を学校教育や家庭教育で教えなければならない。そうすれば、関係性の重要性を再確認し、家族というコミュニティの再生が図られるに違いない。その結果、児童虐待もなくなると確信している。

ひきこもりや不登校を解決するきっかけ

今まで不登校やひきこもりの子どもたちの保護者さんを相談支援してきました。保護者の方達の心の負担を少しは和らげることが出来たという自負はあります。しかし、残念ながらひきこもり・不登校を完全に乗り越えるには困難な壁がありました。保護者の相談支援だけでは、やはり限界があるのかもしれません。子どもが変わるには、まずは親が変わらなければならないと言われていますが、保護者の方達が自ら変わろうとするのは、なかなか難しいものです。抱えている問題の大きさもありますし、辛さや悲しみ、大きな苦しみのことを考慮すると、あなたは間違っているから自分を変えなさいとは助言しにくいものです。家族でも親類でもないし、主治医でもないボランティアとしては、限界があるのだろうとも思います。

 

ひきこもりや不登校を乗り越えたケースは確かにあります。しかし残念ながら、極めて少ないのも実情です。児童精神科医や児童心理学の先生方、カウンセラーの懸命な努力もなかなか及ばないようです。優秀なカウンセラーであっても、ひきこもりや不登校の青少年が、自ら自分を変えようと決断し、それを実現して社会復帰するという結果を残すことはまったくない訳ではないものの、稀なようです。精神医学の心理療法やカウンセリングの限界があるのかもしれません。どうして、単独での精神療法やカウンセリングの効果が出にくいのかと言いますと、それだけ青少年の心が深く閉ざされていて、その心を開くことが相当な困難を伴うのでしょう。

 

効果があった実例はどんなケースかというと、精神医学的・心理学的アプローチだけでなく、農業体験や自然体験などの癒しを共に提供したプログラムであり、総合的な治療のケースです。さらには、食生活や生活習慣をも改善することで、複合的な効果があったみたいです。ひきこもりや不登校の青少年は、どうしてもスマホやPCに対する依存性が高いし、ゲームに依存しているケースが多いようです。食生活も含めた生活習慣が乱れているというのも特徴的です。ですから、スマホやPCなどのデジタルデトックス、悪い食習慣をデトックスすると共に、規則正しい生活に戻すことで効果が表れるケースが多いようです。だから難しいのだろうと想像します。

 

ひきこもりや不登校が起きる原因は、実に様々のようです。また、そのきっかけはもっと多くのものがあります。不登校の原因は、子どもどうしの心無いいじめ、先生による不適切な指導、保護者の偏った子育て、家族との軋轢などと言われていますが、それは原因ではなく単なるきっかけでしかないと思っています。不登校の根底にあるのは、「関係性」の希薄さや低劣さです。ひきこもりも同様です。親子など家族同士の関係性、先生と子どもとの関係性、子どもどうしの関係性、先生どうしの関係性、両親どうしの関係性などが極めて薄くて歪んでいて正常でないケースが殆どです。特に、ご両親の関係性が良くないケースが多いのが特徴的です。表面的には上手く行っているように見えていても、心からお互いに敬愛している例が少ないというのが多いようです。

 

こういうそもそもの原因がある訳ですから、きっかけに対する問題解決型の助言や指導が功を奏しないのも当然です。不登校になったきっかけになったことを解決しようといくら努力しても、無駄なことになってしまうのは当然です。それぞれの関係性を改善しなければ、根本的な解決になりえないのです。この世の中は、そもそも関係性によって成り立っています。関係性が基本になって、コミュニティが本来の機能を果たしています。関係性が損なわれますと、コミュニティが崩壊します。家族というコミュニティが崩壊しているから、ひきこもりや不登校という問題が表出するのです。学校、地域、会社、国家というコミュニティが崩壊しつつあるから、社会的な問題が現れているのです。

 

コミュニティの構成要員それぞれが幸福になり、心も豊かになり、存続可能な生活をしていくには、それぞれの構成要員が個別最適ではなくて、全体最適を目指さなければなりません。つまり、自分だけの豊かさ幸福、地位や名誉・評価・利益を目指すのではなく、コミュニティ全体の最適を目指すことが要求されます。しかし、残念ながら家族も含めて殆どのコミュニティは個別最適を求めています。お互いを心から尊敬し愛して、相手の幸福を実現するにはどうしたらいいのかと心を砕いている家族ならば、当然関係性も良好になります。関係性が良くなれば、子どもたちは安心して社会に出て行けるのです。家族の大切さ、全体最適の価値観を獲得し、関係性を良好にするための方策を気付くきっかけを、「イスキアの郷しらかわ」で見つけてみませんか。