君が心をくれたから

フジTV系列で放映している月9の今度の新ドラマは、『君が心をくれたから』というシリアスな恋愛物語である。永野芽郁と山田裕貴が主演する青春ドラマで、若者向けの物語だと思われるが、初回を見た限りではなかなか良くできた脚本である。ヒロインは母親から虐待を受けて育った愛着障害の女性で、強烈な自己否定感に苦しんでいる。男性の主人公は、色覚障害者の花火師見習いで、厳格な父親から一人前として認められていない。どちらの二人とも、生きづらさを抱えている現代の若者を象徴しているような青春ドラマだ。

ヒロインの女性は、母親から受けた虐待を受けた体験が、強烈なトラウマとして残っていて、今でもフラッシュバックして苦しめている。パティシエになりたいと都会に出て修行を積んでいたが、ミスを繰り返してはどこの店でも挫折を繰り返して、心が折れてしまっている。それが奇跡のような出来事を通して、自分自身を取り戻すというファンタジー物語らしいが、2回目以降どのように進展していくのか楽しみである。そして、しばらくぶりでTV主題歌を担当するのが宇多田ヒカルで、書き下ろしの珠玉のバラードである。

毒親からの虐待によってトラウマ化してしまい、大人になってもまだ苦しんでいる人は少なくない。乳幼児期から虐待やネグレクトを何度も繰り返して受けて育った子どもは、殆どが愛着障害を抱えることになる。そして、何度も心的外傷を受けることにより、複雑性PTSDという難治性の精神疾患を抱えてしまう。そして、この疾患を抱えてしまうと、どういう訳か自閉症スペクトラム障害(ASD)という発達障害を二次的症状として起こしてしまう。このドラマで描かれているヒロインもまた、同じような疾患と障害を抱えている。

このドラマの脚本家は、どうしてこのような精神疾患のことを知ったのか不思議だが、誰か知っているモデルがいたのかもしれない。見事な脚本だと思う。現代は、障害者に対してある意味冷たくて残酷な部分がある。発達障害の子どもに対して、学校でいじめをしたり無視をしたりする心無い子どもがいる。また、職場においても発達障害者に対して、まるでゲームを楽しんでいるかのようにパワハラやモラハラを仕掛けるバカ社員や上司がいる。障害者が生きづらい世の中である。このドラマは、このような社会の闇をも描いている。

愛着障害を抱えることで強烈な自己否定感を持ってしまい、複雑性PTSDになりASDという発達障害を起こしてしまうと、非常に治りにくい。医学的アプローチでは、治すことが極めて困難である。根底に愛着障害があることから、傷付いて歪んだ愛着を癒すことでしか心を癒せないからである。ましてや複雑性PTSDは、通常のカウンセリングによるトラウマ暴露療法をしてしまうと、逆に症状を深刻化しかねない。精神分析をして本人に原因を軽率に伝えてしまうと、自分を益々否定してしまい症状が悪化しかねない難しさがある。

毒親からの虐待やネグレクトを受けて育ち、複雑性PTSDという難治性の精神疾患を抱えてしまった人を、唯一癒すことが出来る方法がある。無条件の愛である母性愛を受けずに育って傷付いた愛着を抱える人を癒せるのは、あるがままにまるごと愛してくれる存在しかない。勿論、普通の医療機関や障害者サポート施設では無理だ。何故かと言うと、自分だけを愛してほしいと思う利用者に、無条件の愛を独占して注ぐことは不可能だからだ。けっして揺らぐことのない愛と絆を提供してくれる、絶対的な安全基地が必要なのである。

臨時的ではあったとしても、誰しもこの絶対的な安全基地になれる訳ではない。自己マスタリーを実現していて、豊かなホスピタリティーが発揮できて、メンタリーゼーション能力に長けている人物である。ましてや、愛着障害を抱えている利用者は『試し行動』をして、支援者が自分を見捨てないかどうかを、わざと嫌われる言動を繰り返し試すのである。こういった試し行動にも揺るがず、まるごとありのままに利用者を愛し続けられる支援者なんて、そうざらには居ないであろう。君が心をくれたからというドラマが、どうやってお互いの傷付いた心を癒していくのか注目したい。

※愛着障害を抱えた様々な心身の不調を抱えていた方々の安全基地として機能して、心を癒して差し上げていたのが、今は亡き森のイスキアの佐藤初女さんです。彼女のようになりたいと思う方々は多いのですが、それだけの資質と能力、そして人間性と哲学を兼ね備える人は、残念ながら居ません。佐藤初女さんに近づきたいという高い志を持った方を、私は支援しております。

結婚と出産を望まない女性たち

 韓国では非婚主義を実践する女性が急増しているという。日本においても、マスコミは取り上げていないが、非婚主義と出産しないことを貫く女性が増えている。婚姻をしたとしても、敢えて出産しないという女性も少なくない。対外的に宣言はしないものの、絶対に出産はしたくないと心に決めている女性が多いのである。少子化が社会的大問題になっていて、経済的な理由や育児に対する負担や不安が多いという理由から、出産を選ばないと思われているが、実はそもそも結婚と妊娠を望まない女性が多くて少子化が起きているのだ。

 その証拠に、様々な出産に対する経済的支援や産み育てられる環境改善策を政府行政が進めているのにも関わらず、一向に少子化が改善できていない。どんなに出産や育児に対する支援策を実施したとしても、そもそも婚姻や出産を女性が望まないのだから、少子化が止まらないのは当然である。婚姻を望まず、頑なに出産を拒む女性がいるというのは、一昔前には考えられないことだった。どうして、そんな状況が解らなかったのかと不思議に思うだろうが、誰もがそんな女性がいるとは、予想もしなかったからである。

 それでは、どうして婚姻を望まないばかりか出産を拒んでしまうのであろうか。世の中の中高年者にとっては、まったく理解できないことである。ましてや、自分が大事に育てた娘が、結婚や出産を敢えて望まないとは、想像も出来ないに違いない。適齢期になれば結婚をしたいと望むだろうし、子どもを産み育てたいと我が子が願うだろうと、親なら誰しも思うに違いない。出産を望まない女性がいないという前提があるから、アンケートによる統計調査をすることもない。調べようともしないから、出産を望まない理由も解らないままだ。

 結婚を望まない女性が徐々に増加しているのは、周知の事実である。その理由は、いろいろと挙げられているが、自分の描いたライフプランに結婚と言うステップがないからだと思われる。仕事などを優先する人生を全うしたいという女性には、結婚がその大きな障壁になると予想するから独身を通すのかもしれない。仕事と家庭を両立させるのは、論理的には可能であるが、海外勤務や転勤を繰り返すキャリア志向の女性には、極めて両立は難しい。また、夫と子どものために自分の夢を諦めたくないと思う女性が増えてきたように思う。

 これらの理由以外に、女性が結婚と出産を望まない深刻な訳があることを認識している人は少ない。その深刻な理由とは、不安定な『愛着』のまま成長してしまったことによる影響である。酷いケースは『愛着障害』であり、そこまででなくても、愛着に問題を抱えた女性は、結婚したがらないし出産を望まないのである。不安定な愛着の中でも、不安型愛着スタイルという障害を持つ人は、病識もないことから自分でも異常だと気付かない。愛着に問題を抱えている人たちは、自尊感情を持てないが故に、子を産み育てるのを無意識下で拒んでしまうのである。

 自尊感情、または絶対的な自己肯定感を持てないと、自らの遺伝子を後世に残したいと思えないのである。どういうことかというと、自分をまるごとありのままに愛せない人は、自分の分身をこの世に残したくないのである。夫婦としての良好な関係性を構築することが不得意だった両親を持つと、子は愛着に問題を抱えやすい。そして、三歳頃までの乳幼児期に、ありのままにまるごと愛されるという経験をしていない。無条件の愛情である母性愛を与えられなかった人は、絶対的な自己肯定感が確立されていないので、愛着が不安定であり、自分でも安定した恋愛関係を築けないのだ。

 親からあるがままにまるごと愛されて育った人は、豊かな愛着が確立されるので、絶対的な自己肯定感が確立される。自分に対する寛容と受容があり、自分のことが大好きでどんな自分でも愛せる。こういう安定した愛着を持つ女性は、安定した愛着を持つ男性に巡り会えて、幸福で愛が溢れるような家庭を築ける。ところが、親から所有・支配されて制御を受け続け、指示や命令を受け続けて育った女性は、自己組織化が起きない。自己組織化が出来ずに育った人間は、オートポイエーシス(自己産生)が働かず、子孫を残そうとしないのである。少子化の本当の原因は、愛着障害にあると言えよう。

※親から支配されコントロールされて育った人は、結婚したがらないし出産を望まないようになることが多いものだと、イスキアの活動から得た実感があります。そして、毒親からの支配を逃れるために、一刻も早く家を出たいからと、しょうもない男と結婚をしてしまうケースが多く、結婚生活はやがて破綻してしまいます。自分と同じように苦しむ子どもを産みたくないと思うのも当然です。また、このような不安型愛着スタイルの女性は、ダメンズと何度もめぐり逢い、その度にトラウマを蓄積してしまうのです。

 

あるがままに生きるとは

今年の抱負を『縄文人の生き方を目指す』と宣言したが、それは『あるがままに生きる』という意味でもある。このあるがままに生きるというのは、言葉では簡単に言えるものの、実践するのは非常に難しいことだと言える。人間と言うのは、自分に関わる人や周りの人々に対して、常に気を使って生きているからだ。あるがままの自分をさらけ出したら、自分が嫌われてしまうのではないか、ひんしゅくを買ってしまうのではないかと、臆病になってしまうのだ。ある意味『いい人』を無意識で演じてしまう傾向があると言える。

殆どの人たちは、あるがままに生きるという意味を、はき違えているような気がする。あるがままに生きるというと、多くの人々は我儘で身勝手で自己中の自分をさらけ出して自由に生きるという意味で使っているように感じる。確かに、人は誰にも遠慮せずに自由な生き方をしたいものだ。好き勝手な生き方が出来たら、どんなにか楽しいだろうと思うであろう。しかし、それは本当の意味でのあるがままの生き方ではない。それでは、あるがままの生き方とは不自由な生き方なのかというと、そうではない。

あるがままに生きるという本当の意味は、まったく別の意味であり、我儘で身勝手な生き方のことではない。人間は、社会で生きるには社会通念や社会常識に添うことが求められる。社会常識や通念に反する言動をすると、社会から糾弾されるし排除されることもある。社会における倫理や道徳に反する行為も許されない。人間は常識や倫理観に縛られてしまうことが多い。しかし、この常識とか道徳ほど、人間や宇宙の法理・真理に反することが少なくないのである。人間本来の正しい生き方と反する常識や道徳観念が存在するのである。

人間社会における常識とか倫理観というのは、形而上学的に見てみると正しいとは言えないことがたくさんある。何故かと言うと、時の権力者、利権・特権を持つ者にとって都合の良いように捻じ曲げられた常識や道徳が作られた歴史があるからだ。為政者、富を持つ者、利権を保有する者たちは、市民たちが自分たちに歯向かないように、自分たちの権利を奪われないように、巧妙に倫理・道徳、または常識として社会に定着させてきたのである。仏教における教義さえも、権力者に有利なものに改ざんしてきたのである。

一般市民たちは、宇宙や人間の法理・真理に反する常識や道徳、または似非宗教の教義に従わせられてきたのである。だから、心ある人間は生きづらさを感じたし、まともな人間ほど社会に適応出来ないという状況が起きてしまったのである。あるがままに生きるというのは、法理・真理にそぐわない誤った常識や倫理観に操られず、形而上学やシステム思考に従って、自分の信ずる価値観に基づいて粛々と生きるという意味である。間違った常識や倫理観に基づいて作られてしまった自分の固定観念や既成概念を打ち破るという意味でもある。

人は小さい頃からずっと教え育てられたようにしか、物事を判断できなくなるものである。それが正しい価値観に基づいた考え方ならいいのだが、間違った価値観を一度身に付けてしまうと、その間違った考え方から抜け出せなくなってしまう。そうすると、人間本来の生き方が出来なくなってしまい、間違った固定観念や既成概念に支配された生き方しか出来なくなるのだ。これがメンタルモデルというもので、このメンタルモデルが邪魔をしてしまい、あるがままに生きることが難しくなる。固定観念や既成概念を打ち破るのが困難になるのである。

人間というものは、間違った常識や倫理観で生きたほうが、ある意味楽なのである。社会の常識や倫理観に逆らった生き方は、周りの人々から批判を受けやすい。自分らしくあるがままに生きるのは、勇気のいることでもある。あるがままに生きるというのは、魂が喜ぶ生き方とも言えよう。顕在意識と潜在意識が統合される生き方とも言えるかもしれない。人間は、本来誰にも所有されず支配されず、誰にも制御されずに自分らしく生きることが必要だ。これが本当の自由だ。それが実現出来てこそ、自己組織化が起きるしオートポイエーシスの機能も働く。そして、自己進化や自己成長が実現できる。今年こそ、あるがままに生きられるようになりたいと思う。

縄文人的暮らしを目指したい

 新たな年の2024年を迎えるにあたり、今年の抱負を考えていた。今年は70歳を迎えることになるのだが、自分がこの年齢になるとは想像も出来なかった。いろんな経験をしてきたものだとつくづく思う。仕事にも精一杯努力してきたつもりだが、ボランティア活動やNPO活動にも邁進してきた。勿論、家事や育児も、人よりは頑張ってきたつもりだ。仕事、家庭、地域活動と三位一体の活動をバランス良くやってきたという自負を持っている。イスキアの活動も昨年から方針転換をした。さて今年からはどのように生きようか。

 以前から思っていたことだが、縄文人の暮らしに憧れていたことから、彼らのように生きて行けたらいいなと漠然とした思いがあった。勿論、狩猟や採取を中心にした生活を、現代で出来る筈もないが、縄文人のように互恵的共存関係を基本とした平和で心穏やかな暮らしを望んでいる人は想像以上に多いに違いない。縄文人と同じ暮らしは不可能だとしても、彼らのような価値観を基本にした生活は出来そうだ。現代の価値観は、あまりにも損得や利害にシフトしているが故に、心の豊かさを失っている。そんな暮らしを見直したいものだ。

 縄文人が争いのない平和で心豊かな社会を、13,000年もの長い期間に渡り続けていたのは周知の事実である。全世界を見渡しても、縄文時代と同じ時期に戦争や略奪のまったくない平和な生活をしていた文明は存在しない。ましてや、あの時代に高福祉で共存共生のコミュニティを築いていたというのだから驚きだ。縄文人の人骨は各地から発掘されているが、武器による傷がある人骨は全く発見されていない。20代の先天性小児まひの女性の人骨が発掘されたが、一人では生活出来ない筈だから、誰かが生活支援をしていたに違いにない。

 このように、今では考えられないような、素晴らしい価値観に基づいた暮らしをしていたということが尊敬に値する。縄文人は、自分の損得や利害を第一に優先するようなことはせず、全体最適を目指していたし、将来の子孫が幸福な暮らしが出来るようにと、努力したことが判明している。未来の子孫が木の実を豊かに採取できるようにと、せっせと樹木を植えたのである。感覚的に知っていたのであろうが、洪水を防ぐために里山に樹木を植えて治水対策をしたのだ。魚貝類を子孫が豊かに採取できるようにと、豊かな海を守るための広葉樹を植林した。環境保護も含めて、SDG’sを実践していたのである。

 縄文人は、個別最適や個人最適を自分の生き方の中心には据えることなく、全体最適や関係性重視の価値観に基づいて生きていた。だからこそ、縄文人は老若男女すべて、自己組織化を進めることが可能だった。彼らのすべてが、主体性、自発性、自主性、自己犠牲性、責任性、進化性を豊かに発揮できたのである。それ故に、あれほど素晴らしい文化が花を開いたと言えよう。火焔土器を代表とした縄文式土器は、他に類を見ない見事なデザイン性を発揮している。弥生式土器と比較すると、その美しさは際立っていて素晴らしい。

 私有財産を持つと、貧富の差が表出して親族間や一族内での軋轢や争いごとが起きることを縄文人は知っていたのであろう。だから、物を個人所有することをしなかった。そして、縄文人は物だけでなく『人』の所有や支配をもしなかったし、我が子の個人所有もしなかったという。生まれた子どもは、地域の一族みんなで愛情をかけて育てた。夫婦とか親子という所属関係もなかったから、家族という概念もなかったと見られる。縄文時代は女性中心社会の社会だったから、特定の男性と一緒に暮らすことはなく、男性は通い夫(つま)だったと思われる。

 縄文人は、独占欲を持たなかったから、お互いに特定の異性を独占することはなかったであろう。特定の異性を愛することはあったと思うが、現代のように愛情がなくなった伴侶と暮らし続ける仮面夫婦のような関係は絶対に無かった筈だ。占有関係がないからこそ、相手をコントロールしたり縛り付けたりせず、お互いがリスペクトし合えるような関係を続けられたに違いない。そういう意味では、理想の男女関係にあったから、少子化もなくて子孫繁栄もしただろう。現代にも有効な少子化対策のヒントがありそうだ。縄文人は、レムリア人にも通じるのではと考える人も大勢いる。縄文人のような智慧と価値観を生かして暮らしたいものだと、新年を迎えて切に思う。縄文人の細胞記憶を呼び起こしたいものだ。

裏金の金権政治を招いた張本人

 派閥の政治資金パーティを開催して、パーティ券売り上げの一部を議員にキックバックして裏金にしていたという、前近代的な金権政治の権化のような事件が発覚した。自民党安倍派の議員を中心に実施していたと伝えられるが、どうしてこんなにも破廉恥な行為をしていたのか、不思議に思う人も多いことであろう。誰がどのようにしてこんな金集めと裏金の捻出を企てたのか、いずれ検察によって明らかにされると思われる。国民は何故こんなにも裏金が必要とされるのか知りたいであろうし、そうさせた張本人も知りたいに違いない。

 様々な関係者の証言や政治アナリストの分析、そして政治記者の取材によって裏金の使い道が判明してきた。政治家のすべてが裏金を必要としている訳ではないが、その裏金の殆どが選挙の為に使われるらしい。その選挙というのは国政選挙のことであり、票集めの資金に使われるという。国会議員の選挙区には、選挙で選ばれた県会議員がいるので、その県会議員に票集めを依頼するらしい。保守系の議員は、押しなべて票集めの資金を必要としているという。地方議員の選挙資金にも必要なので、国会議員の裏金に頼るのではなかろうか。

 国会議員は公設秘書2名を雇う費用を税金によって賄える。しかし、国会議員の中にはそれだけでは選挙区の選挙対策を全う出来ないので、保守系の議員は公設秘書以外に4名~6名の私設秘書を雇わなければならないという。そして、その私設秘書を雇う資金は、国会議員が負担しなければならないので、裏金を必要とするのではないかと見られている。それにしても、私設秘書の選挙対策というのはどういうことであろうか。そのために、こんなにも多くの人数の私設秘書を必要とするのは何故であろうか。

 政治評論家や政治記者の情報によると、広い選挙区を持つ地方の国会議員は選挙区の有力者の住居や会社をこまめに個別訪問することが求められるという。ところが議員一人では回り切れないので、私設秘書がその役目を代わって行うらしい。また、選挙区における道路や公共交通施設の充実をしてほしいとの陳情を受けるのも私設秘書の役目だという。公共施設の新築や改築の陳情も受けるという。新規工場誘致や巨大レジャー施設の誘致の陳情を受けるのも私設秘書の貴重な役目だ。優秀な私設秘書を持てば、選挙に有利になるのだ。

 国会議員に対する陳情は、これだけではないという。有力者の子息の就職斡旋や行政職受験の際の口利きまで依頼されるらしい。それは今の時代は非常に難しいと思われるが、正職員の採用までは難しいものの臨時職員や関係機関の職員採用には有効だと、密かに囁かれている。地方の小さな町村役場の臨時職員からいつの間にか正職員になったケースもあると聞く。国会議員は、地方の町村首長や議員に大きな影響力を持つのである。その為に、彼らの選挙時には『陣中見舞い』と称して多額の裏金が使われるのは、言わずもがなであろう。

 裏金は国会議員どうしの間でも飛び交うと言われている。自民党の党首選挙は、首相を選ぶ選挙でもある。多数派工作は、足の付かない現金が使用されるのは当然だ。自分が所属する派閥の領袖が党首選挙に立候補したなら、派閥所属議員は他派議員への多数派工作に真剣に取り組むことになろう。超高級料亭に招待して、現金を渡して投票を依頼する構図は誰でも想像できる。大臣や副大臣になれたのも、裏金のお陰とも言える。保守系の政治評論家や政治記者も高級料亭や銀座の一流クラブに国会議員から招かれて、議員に有利な評論や記事を依頼されると言われている。これも裏金の一部だ。

 このように裏金の用途を見てきたが、国民や社会の為には一切使われることはないのである。日本の首相や大臣、国会議員は裏金の恩恵で選ばれていると言っても過言ではない。こんな金権政治のシステムを作り上げた責任は国民にあると言えよう。裏金による金権政治を招いた張本人は、我々国民なのである。自分の利益誘導の為に国会議員や地方議員を利用する企業役員や国民がいる限り、裏金を生み出すシステムがなくなることはないのだ。こんな私利私欲に塗れた議員たちを選んだのは我々国民である。国民が私利私欲に走るから、私利私欲の議員が選ばれるのだ。我々国民自身が公利公益を追求する姿勢に変わらない限り、私利私欲の金権政治がなくならないのだ。

複雑性PTSDとポリヴェーガル理論

 何度も何度も悲惨な出来事に遭って、深刻な心的外傷を受け続けてしまうと、複雑性PTSDという精神疾患になって、生涯に渡り悩み苦しむことになるということが、最新の精神医学知見で明らかになった。この複雑性PTSDは、非常に治りにくくて予後も悪いことが解っている。この複雑性PTSDが治癒しにくいのは、解離性があり本人も病識を持ちにくいということがあるが、潜在意識のトラウマを表出しにくいし、無理矢理に表層意識に引っ張り出してしまうと、却って症状を悪化させてしまうし、パニックを起こすからだ。

 複雑性PTSDが難治性の疾患である理由が、もうひとつある。それは、ポリヴェーガル理論における、迷走神経によるシャットダウンが起きているからである。ポリヴェーガル理論というのは、最新の医学理論であり、多重迷走神経理論と訳されている。今までの自律神経理論では、交感神経と副交感神経のふたつがあり、活動時や闘争時に働く交感神経と、休息時や安眠時に優位になる副交感神経があると考えられていた。ところが、副交感の殆どを占める迷走神経には、働きがまるっきり違う背側迷走神経と腹側迷走神経のふたつがあることが判明したのである。

 どういうことかというと、休息時や安眠状態にある際は腹側迷走神経が働き、戦うことも逃げることも出来ない極限状態に追い込まれた時には背側迷走神経が勝手に働いてしまい、シャットダウンを起こすことが解ったのである。シャットダウンと言うのは、闘争や逃走が出来ないような状況に追い込まれ、自分自身の精神的な破綻や破滅を防ぐために、精神的な『遮断』を無意識下で行うことである。精神のブロックとも言えるものである。そして、精神的なシャットダウン化だけではなくて、同時に身体的な遮断も起こしてしまうのだ。

 何故、自分の心身の遮断を迷走神経は起こしてしまうのであろうか。それはある意味、自分の心身を守るためのセーフィティロックシステムなのである。そうしなければ、自分の身を滅ぼしてしまうので、止むを得ず心身のシャットダウンを起こして、自らの命を守るのである。具体的に言うと、自分の生命を自ら断つような行動を取らないように、心身の遮断をするのである。それは、緊急避難措置が作用して、最悪の状況としての自死は避けるのであるが、心身の著しい機能低下という副作用を生んでしまう。これが心身の深刻な不調を起こしてしまうのである。

 この心身の不調というのは、迷走神経の遮断が解けなければ良くならない難治性の障害であり、対応療法の西洋薬処方が中心の現代医学では、治癒しないのである。そして、心と身体の両方を同時に癒してあげなければ治らない。さらに厄介なのは、複雑性PTSDが何度も心的外傷を積み重ねている点である。これにより、背側迷走神経による遮断がゆっくりと進んでいるのである。一度の衝撃的な心的外傷によって起きた背側迷走神経の遮断は、比較的簡単に解くことが可能だが、ゆっくりと進んだ迷走神経の遮断は解けにくいのである。

 複雑性PTSDが何度も心的外傷を積み重ねて起きることで、背側迷走神経のシャットダウン化がゆっくりと進んでしまったが故に、逆にその遮断が強固になってしまったのである。だからこそ、複雑性PTSDは難治性になってしまうし、背側迷走神経の遮断を解くのに時間を要するし、誰かの支援が必要不可欠なのである。自分の力だけで複雑性PTSDを癒すことは非常に難しい。それでは、ゆっくり起きてしまった背側迷走神経の遮断を解いて、複雑性PTSDを癒すには、どんな方法が有効なのかを考えてみたい。

 深刻で衝撃的な一度だけのトラウマによって起きた普通のPTSDは、カウンセリングによって右脳の奥底に仕舞い込んだトラウマの記憶を、左脳の記憶に移し替えて俯瞰的に観察できる記憶に移し替えることで癒される。複雑性PTSDは、下手にトラウマを明らかにしてしまうと、パニック症状を起こして悪化させてしまう。したがって、まずは支援者(治療者)が寄り添い信頼関係を築き、認知行動療法を実行し安心してもらう。それから、ナラティブアプローチ療法を駆使しながら、本人の価値観や行動規範の物語を変化してもらう。緩やかに迷走神経の遮断を解きながらトラウマを癒していくのである。ボディケアも含めて、長い時間をかけてゆっくりと治療していかなければならない。

※背側迷走神経の遮断を解いて緩めることを安易に行いますと、自死を招いてしまう危険性が高まることに留意する必要があります。精神疾患者が回復期に自死を選んでしまうケースがとても多いのですが、これは背側迷走神経の遮断が解けてきたからです。だからこそ、要支援者にずっと寄り添って不安や孤独感を持たないように、そして自責の念を持たぬようにサポートしなければなりません。森のイスキアの佐藤初女さんのような方が必要なのです。

甘えて依存するのは悪いこと?

 メンタルを病んでしまい、ひきこもりの状況になってしまった方たちが、元気になり社会復帰するための支援をさせてもらっていて、常に気を付けていたことがある。それは、不安型の愛着スタイルや愛着障害を抱えた方々は、支援者に依存しやすい傾向があるということである。すべてのひきこもりの方々がそうだとは言えないが、安全と絆を提供してくれる『安全基地』を持たないひきこもりの人たちにとって、支援者は唯一の安心できる味方なので、どうしても依存しやすいのだ。支援者は、依存されないようにと距離を保つのである。

 また、精神科の医師、カウンセラー、セラピストたちもまた、要支援者から依存されないようにと、距離感を持って接するのが基本となる。世の中の母親たちも、子どもから依存されないようにと、普段から気を付けて子育てをするよう心掛けている。母親というのは、子どもを甘やかし過ぎると駄目になると、姑や夫から口酸っぱく言われるものだから、甘やかすということに神経質になりやすい。親が子どもを甘やかし過ぎたり、支援者が要支援者に対して甘やかしの態度を取ったり、依存させてしまうことは悪いことなのだろうか。

 児童養護施設で、利用者に対する支援の業務を行う職員の方たちも、利用者から依存されないように細心の注意を払う。親から虐待やネグレクトを受け続けてきた児童たちに取っては、養母さんたちはまさしく親の代わりであるから、甘えたいし依存したくなるのも当然である。幼稚園や小学校の担任教師たちも、甘えてきたり依存しようとしたりする子どもたちとは、距離感を持って接しようとする。施設の管理職や上司からは、子どもたちに依存の気持ちを芽生えさせると、自立できなくなると釘を刺されているからだ。

 子どもが親に依存すると自立出来なくなるというのは、本当であろうか。支援者が依存させるような態度を取ると、要支援者は依存してしまい自立が出来なくなるのであろうか。子育てにおいて、甘やかしてはいけない、過保護に育ててはならない、依存させると子どもは自立できなくなるというのは、本当に正しい子育てなのであろうか。何か子どもが大変な事件を起こすと、親が過保護だったとか甘やかし過ぎたと非難され、自立できないのは当然だと言われる。本当に、依存させてしまうと自立が阻害されるのであろうか。

 子どもの発達段階において、特に3歳頃までは母性愛がたっぷりと注がれることが必要だということは、最近になり認識されるようになってきた。母性愛と言うのは、あるがままにまるごと子どもを愛する事であり、無条件の愛のことである。先ずは母性愛をたっぷりと注ぎ続けて、子どもの不安や恐怖感を完全に払拭させてから、条件付きの愛である父性愛をかけるのである。この順序を間違って最初に父性愛を注いだり、父性愛と母性愛を同時にかけたりすると、絶対的な自己肯定感が持てず、不安型の愛着スタイルを抱えてしまうのだ。

 不安型愛着スタイルや愛着障害を根底に抱えていて、メンタルを病んでしまいひきこもりの状況に追い込まれた方々は、頼れる存在がない。どこにも居場所がないし、安全基地と言える存在がないのだ。ある程度の年齢になれば、自分で何とか自立しようともがき苦しむ。しかし、得体の知れない不安や恐怖感は拭い去ることが出来ず、誰にも甘えられないし頼れないから、怖くて社会に出て行くことが難しい。大人になったのであるから、甘えることなんて出来ないし依存することは絶対に避けなければならないと思い込んでいる。しかし、不安型愛着スタイルや愛着障害を癒すには、もう一度幼児期からの子育てをやり直すしかないのだ。

 不安型愛着スタイルを抱えてしまいメンタルを病んでいる人の母親が、もう一度最初からまるごとあるがままの愛を注いでくれて、育児のやり直しをしてくれたなら、病んだメンタルは癒される。しかし、それはいろんな意味で非常に難しい。だとすれば、誰かが母親に代わって、要支援者の臨時の安全基地になり、母性愛のようなまるごとあるがままの愛を注ぎ続け、とことんまで甘えさせることが必要だ。それはある意味、過保護にして依存させるということでもある。人間と言うのは、とことんまで依存し尽してしまうと、ひとりでに自立するものである。そして、何かあるといつも温かく受け容れてくれる場所があれば、自立し続けられる。森のイスキアの佐藤初女さんのような存在が、誰にも欲しいのだ。

※複雑性PTSDのように、長い期間に渡り心的外傷を何度も何度も受け続けてメンタルを病んでしまった方は、元々愛着に問題を抱えています。親から無条件の愛である母性愛を受けられず育ち、元々心が折れやすいのです。安心して甘えて依存できる安全基地がありませんので、いつも得体の知れない不安を抱えて生きています。このような状況を乗り越えるには、臨時的にも甘えて依存できる、森のイスキアの佐藤初女さんのような存在が必要です。佐藤初女さんのような『お母さん』が、不安の時代と言われる今の日本にこそ必要なのです。

性暴力被害は深刻な後遺症に

 性的暴力被害を受けた経験を持つ人は、どのくらいの割合でいるのかとアンケート調査した結果、驚くことに3割近くあることが解った。ただし、これはアンケートに答えた人だけであり、性暴力を受けたことがトラウマ化していたり、記憶を無意識下に留めて思い出したくないと回答を拒否したりしたことも考慮すると、3割以上の方々が何らかの性暴力を受けた経験を持つのではないかと想像できる。そして、性暴力の加害者は教職員などの学校関係者が一番多いという愕然たる調査結果が明らかになった。

 また、一方では親族からの性暴力も多く、特に親からの性暴力被害も少なくないことが解った。教職員や親族からの性暴力は、何度も続けられていて慢性的な性暴力の被害になりやすい。教職員や親からの性暴力被害は、嫌だと拒否できないばかりか、誰にも相談できず孤立しやすい。拒否できない自分が悪いからだと自分を責める傾向がある。性暴力被害を受けた人の性別は、圧倒的に女性が多いものの、男性の被害も相当数あることが判明しつつある。ジャニーズ事務所の性被害報道があり、少年時代に教職員から受けていた性暴力を思い出す人が多いらしい。

 学校内において、担任、副校長、校長からの性暴力被害が多いということが解り、鬼畜にも劣る低劣な人間性を持つ教職員がいることが判明したのである。ここで性暴力の加害者について考察したい。立派な職業を持ち、地位や名誉もありながら性暴力の加害者になるケースがある。医師がその立場を利用して患者さんに対して性暴力を行う例も少なくない。そうした自分よりも弱い立場の者に対して性暴力を行うというのは、ある意味マウンティングという意味もあるのではないかと専門家が分析している。

 そういう意味では、夫婦間や恋人関係において、望まない性行為をされてしまうという悩みを抱えている方も相当数存在していて、支配欲というものが介在しているのではと分析されている。相手を支配・制御したいという欲求は、絶対的な自己肯定感が醸成されていず、確固たる自己の確立(アイデンティの確立)もされていない、不完全な人間がいかに多いかということでもある。自己の確立という言わば自己マスタリーを実現出来ていない不完全な人間が、親になったり教師になったりしているのである。まともな教育が出来る筈がない。

 これは由々しき大問題である。このような自己マスタリーも完遂していない親に育てられた子どもは、自分自身も自己マスタリー出来ないまま大人になるということだ。教師と教え子の関係においても同様である。このような教師や親から受けた性暴力被害は、酷い後遺症を起こすということが判明した。見ず知らずの他人からの性暴力は、PTSDやパニック障害になりやすい。性暴力被害を複数回受けて、それがトラウマとして積み重ねられることにより、より深刻な複雑性PTSDを抱えてしまう危険性が極めて高いのである。

 子どもの頃に教師や親から受けた性暴力被害は、複数回に及ぶことから深刻な心的外傷(トラウマ)を何度も残すことになる。このように何度もトラウマを受けてしまうと、複雑性PTSDを発症してしまう危険性が極めて高くなる。この複雑性PTSDという精神疾患になると、二次的症状として様々な発達障害も起きてしまうし、不登校や引きこもりになる可能性が非常に高くなる。なにしろ、得体のしれない不安に苦しむし、恐怖感を日常的に感じてしまう。睡眠障害や摂食障害などの深刻な精神障害を起こすことも多い。

 そして、この複雑性PTSDという精神疾患には、さらに厄介な特徴がある。それは、親族や教師からの性暴力被害をひたすら隠し通して無いことにしてきたので、トラウマを潜在意識の奥深くに押し込めてしまっているのである。したがって、日常の生活においてはトラウマが表出することはなく、何となく不安や恐怖感を感じるものの、何故そんな感情を抱いてしまうのか、本人にも解らないのである。これが解離性という厄介な症状である。つまり、当人にも複雑性PTSDを抱えていることが自覚できず、強烈な生きづらさを抱えているし、自己組織性を失っているので主体性や自発性が発揮できなくなっているのだ。こんな深刻な後遺症を生みだす性暴力は、けっして許せない。教育の抜本的改革が必要である。

スピ系の目覚めと阿羅漢の悟り

 スピリチュアル系の目覚めをした人たちのSNS発信が、非常に多くなってきている。自分がスピ系での覚醒をしたと宣言している人たちは、スピ系の目覚めや悟りをする方法についてのセッションとかワークを開催する傾向が強い。スピ系に目覚めたいと願う人は、どういう訳か圧倒的に女性が多い。そして、スピ系の目覚めを支援するビジネスを始めたいと思う人も女性が殆どである。スピ系の覚醒をしたいと願う若い女性が多いことから、スピ系ビジネスを始める人にとっては、絶好のクライアントになりうることになる。

 スピ系において目覚めたと思い込んでいる人たちは、SNSにおいてもグループ化することが多い。リアルな場でのセッションやワーク、またはお話会とかシェア会という会合を開いては、交流の場を広げるケースが少なくない。このスピリチュアル系における覚醒とは、どういうものなのだろうか。このスピ系の覚醒という言葉を使っている人たちは沢山いるが、特に基本とするような基準がないせいか、それぞれが抱いている内容が大きく違っているように思える。そもそもスピ系というのにもいろんなイメージがあるし、覚醒の到達度も違うのだから、当たり前であろう。

 スピ系で覚醒したかどうかの判定をする認定機関もないし、試験もない。スピ系においての自己啓発を完了したかどうかは、あくまでも自分自身で判断することになる。当人が、スピ系での覚醒や自己啓発をしたと思えば、ネット上でそのように発信するし、その情報が正しいかどうかについては、ネット発信された情報で判断するしかない。ネット上でSNSやブログで情報発信されていると、あたかもそれが正しい情報かのように見えるのは当然である。したがって、スピ系で覚醒したという人の話を鵜呑みにしてしまうのであろう。

 しかし、冷静になって考えてみると怖いことだ。私は覚醒者だから私の言うことは正しいから信じなさいと主張されてしまうと、ついつい同意してしまうのはありがちだ。ましてや、スピ系に憧れる人というのは、自分でも得体のしれない不安や生きづらさを抱えている人が多い。何かにすがりたいと思っているから、ついつい引き込まれてしまうのも当然である。スピ系に目覚めた人というのは、同じように苦しんでいる人を救いたいと願っているから、積極的に発信しているし、コンタクトをしてくれた人を囲いたがるのであろう。

 さて、スピ系の覚醒者として自分を認識している人は、本当に自己啓発を完了しているのであろうか。仏教の修行段階に阿羅漢という存在があるのを知っている人は、そんなに多くないと思われる。どういう人かというと、仏教における修行僧の最高位にある高僧のことである。ある程度深く悟りを啓き、菩薩までは及ばないものの、仏に限りなく近づいた者という意味である。いろんな場所に五百羅漢さまとして安置されているのは目にした人も多い筈だ。この阿羅漢が、実は永遠に仏にはなれないと言われていると聞いて、驚く人が多いかもしれない。

 仏教の教えに『二乗作仏』という言葉がある。主に大乗仏教が小乗仏教を批判的に提唱したものではあるが、阿羅漢は仏教の修行をしているものの、自分の悟りを優先し過ぎるあまり、利他行が足りないから仏性を得られないと言われている。阿羅漢は、自分では悟りを啓いたと思いあがり過ぎて謙虚さを失うから、仏にはなり得ないとも言われているのである。ソクラテスの説いた『無知の知』にも通じることである。確かに、自分では完全に悟ったのだ、覚醒者なのだと自信を持って主張する人ほど謙虚さを失い、成長は止まってしまう。

 スピ系の覚醒者と阿羅漢という存在が、何となく似通っているように思えて仕方がない。すべてのスピ系の覚醒者が阿羅漢と同じで、偽スピだと主張するつもりはないが、自分で目覚めた者であると自信を持って言う人ほど信じられない気がする。本当に悟りを啓いて、自己啓発をしたり自己マスタリーを実現したりした人は、もっと謙虚であり自分を自慢することはしないものだ。そして、そっと日常的に利他行に勤しむだけであり、スピ系をビジネスに利用するようなことはしない。本物の覚醒者はビジネスに活用したとしても、セッション1回何万円も要求することはない。本物を見分ける確かな眼を持ちたいものである。

複雑性PTSDの実態と治療法

 最近、複雑性PTSDという精神疾患が注目されている。眞子さまが世間からの誹謗中傷を受けて、この疾患で苦しんでおられるとの報道がされて、認知されてきたのかもしれない。しかし、この報道によって複雑性PTSDのその深刻さや重症度が伝わらなかったのも事実である。通常のPTSDよりも軽症なのではないかと勘違いした人が多いかもしれない。実は、通常のPTSDよりもその症状は深刻であり、極めて強い難治性の精神疾患であるし、非常に予後が良くない悲惨な疾患でもある。二次的な症状も深刻である。

 複雑性PTSDによって、不登校やひきこもりに追い込まれてしまった患者は予想以上に数多い。複雑性PTSDを抱えている人は、自己組織化が阻害されてしまっているからである。主体性、自発性、自主性、進化性、責任性などの働きが育っていないので、学校や職場において、苛めの対象者になりやすいからである。職場ではパワハラやモラハラの対象となってしまうし、毎日のように上司や同僚から、からかわれて笑われてしまうことが多い。空気が読めないとか気か利かないとか言われ、皆から揶揄されてしまうのだ。

 そのような苛めに遭ったり除け者にされたりすること自体がトラウマ化しやすいこともあり、益々症状が重症化しやすく、最終的に引きこもりになってしまうのである。現在、不登校やひきこもりになっている人のうち、相当数の人が複雑性PTSDになっていると思われる。したがって、日本全国で数十万人、またはそれ以上の人々が複雑性PTSDで苦しんでいるものと推測される。実は、強烈な生きづらさを抱えているものの、自分が複雑性PTSDであるということを認知していない患者も相当多い。公務員、政治家、医師などの専門職は、いじめられることが少ないからである。

 この複雑性PTSDの患者が、自分で深刻なトラウマを抱えているという実感を持ち得ないのには理由がある。深刻な心的外傷を負っているという自覚が、あまりないのである。何となく嫌な記憶がありそうだという感覚はあるものの、それがどんな心的外傷なのかを思い出すことが出来ないからである。そのため強烈な不安や恐怖感はあるものの、それが何の不安なのかはっきりしなく、得体のしれない不安に苛まれているだけである。解離性という複雑性PTSDの特徴があり、トラウマが無意識の奥底に仕舞い込まれてしまい、顕在意識には現れてこないからだ。

 例えば、少年や少女の時代に性的虐待を負ってしまったケースがある。性的な虐待の加害者が実父母だったり教師や親族であったりする場合、誰にもその性被害を訴えられずに、一人悩み泣き続けるだけである。そして、その悲惨な性被害の記憶を無いことにしてしまいと思い、記憶の奥底に仕舞い込む。これが、トラウマになるものの自分でも思い出したくない記憶なので、顕在意識には現れなくなるのだ。しかし、得体のしれない強烈な不安を抱えてしまい、訳が分からずに異性、または性交渉に対して異常なほどの恐怖感を持ってしまうのである。

 この複雑性PTSDの治療は極めて難しい。無意識下に何度も閉じ込めたトラウマをカウンセリングによって引き出そうとすると、強く抵抗するしパニックを起こしやすい。安易に精神分析をして本人にそのことを伝えると、反発するだけでなく信頼感を無くす。触れられたくないことを、無理にこじ開けられることに異様なほど抵抗するのである。もし、カウンセリングやセッションを何度も繰り返し、深く閉じ込めたトラウマを無理に明らかにすると、ショック状態になって益々心を閉ざしてしまうことにもなりかねない。

 それでは、複雑性PTSDを治療することは出来ないのかというと、けっしてそうではない。適切な治療によって寛解することや完治することも不可能ではない。まずは認知行動療法を駆使して、偏った認知傾向の改善変更を丁寧にしかも緩やかに実施する。そして、認知行動の改善傾向が少しずつ見られるようになったら、ナラティブアプローチやオープンダイアローグ療法を、極めて慎重に行う事が必要だ。その際に、大切なことがひとつある。クライアントと治療者との関係性と信頼感を醸成することである。クライアントの安全と絆になる安全基地としての機能を、支援者・治療者が果たすべきである。複雑性PTSDの治療は長い時間を要する。少なくても50回以上の治療回数を要するので、治療者は諦めることなく根気よく対応しなくてはならない。