あるがままに生きるとは

今年の抱負を『縄文人の生き方を目指す』と宣言したが、それは『あるがままに生きる』という意味でもある。このあるがままに生きるというのは、言葉では簡単に言えるものの、実践するのは非常に難しいことだと言える。人間と言うのは、自分に関わる人や周りの人々に対して、常に気を使って生きているからだ。あるがままの自分をさらけ出したら、自分が嫌われてしまうのではないか、ひんしゅくを買ってしまうのではないかと、臆病になってしまうのだ。ある意味『いい人』を無意識で演じてしまう傾向があると言える。

殆どの人たちは、あるがままに生きるという意味を、はき違えているような気がする。あるがままに生きるというと、多くの人々は我儘で身勝手で自己中の自分をさらけ出して自由に生きるという意味で使っているように感じる。確かに、人は誰にも遠慮せずに自由な生き方をしたいものだ。好き勝手な生き方が出来たら、どんなにか楽しいだろうと思うであろう。しかし、それは本当の意味でのあるがままの生き方ではない。それでは、あるがままの生き方とは不自由な生き方なのかというと、そうではない。

あるがままに生きるという本当の意味は、まったく別の意味であり、我儘で身勝手な生き方のことではない。人間は、社会で生きるには社会通念や社会常識に添うことが求められる。社会常識や通念に反する言動をすると、社会から糾弾されるし排除されることもある。社会における倫理や道徳に反する行為も許されない。人間は常識や倫理観に縛られてしまうことが多い。しかし、この常識とか道徳ほど、人間や宇宙の法理・真理に反することが少なくないのである。人間本来の正しい生き方と反する常識や道徳観念が存在するのである。

人間社会における常識とか倫理観というのは、形而上学的に見てみると正しいとは言えないことがたくさんある。何故かと言うと、時の権力者、利権・特権を持つ者にとって都合の良いように捻じ曲げられた常識や道徳が作られた歴史があるからだ。為政者、富を持つ者、利権を保有する者たちは、市民たちが自分たちに歯向かないように、自分たちの権利を奪われないように、巧妙に倫理・道徳、または常識として社会に定着させてきたのである。仏教における教義さえも、権力者に有利なものに改ざんしてきたのである。

一般市民たちは、宇宙や人間の法理・真理に反する常識や道徳、または似非宗教の教義に従わせられてきたのである。だから、心ある人間は生きづらさを感じたし、まともな人間ほど社会に適応出来ないという状況が起きてしまったのである。あるがままに生きるというのは、法理・真理にそぐわない誤った常識や倫理観に操られず、形而上学やシステム思考に従って、自分の信ずる価値観に基づいて粛々と生きるという意味である。間違った常識や倫理観に基づいて作られてしまった自分の固定観念や既成概念を打ち破るという意味でもある。

人は小さい頃からずっと教え育てられたようにしか、物事を判断できなくなるものである。それが正しい価値観に基づいた考え方ならいいのだが、間違った価値観を一度身に付けてしまうと、その間違った考え方から抜け出せなくなってしまう。そうすると、人間本来の生き方が出来なくなってしまい、間違った固定観念や既成概念に支配された生き方しか出来なくなるのだ。これがメンタルモデルというもので、このメンタルモデルが邪魔をしてしまい、あるがままに生きることが難しくなる。固定観念や既成概念を打ち破るのが困難になるのである。

人間というものは、間違った常識や倫理観で生きたほうが、ある意味楽なのである。社会の常識や倫理観に逆らった生き方は、周りの人々から批判を受けやすい。自分らしくあるがままに生きるのは、勇気のいることでもある。あるがままに生きるというのは、魂が喜ぶ生き方とも言えよう。顕在意識と潜在意識が統合される生き方とも言えるかもしれない。人間は、本来誰にも所有されず支配されず、誰にも制御されずに自分らしく生きることが必要だ。これが本当の自由だ。それが実現出来てこそ、自己組織化が起きるしオートポイエーシスの機能も働く。そして、自己進化や自己成長が実現できる。今年こそ、あるがままに生きられるようになりたいと思う。

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