高僧徳一と仏都会津(1)

仏都会津と呼ばれるほど、会津には素晴らしい仏像が多い。何故かというと、古刹名刹が多いからである。福島県内の他の地域に比して、その数は特に多い。それは、天台宗の最澄と並び称される名僧徳一(とくいつ)の功績によるものだ。奈良仏教の退廃ぶりを嘆き、東北地方に理想の仏教を広めようと、会津にやってきたという。彼の布教活動は、会津一円に留まらず、県内は勿論、宮城県や茨城県などにも及んでいる。慧日寺(えにちじ)という、今は無き壮大な寺院を足がかりにして、会津盆地に数多の寺を建立した。それらの寺に配置されたご本尊の仏像の数々が、今に残されているのであろう。

とみに著名な仏像は、湯川村勝常寺(しょうじょうじ)の国宝薬師如来三尊像である。両側に日光菩薩と月光菩薩を従えた薬師如来坐像は、その堂々とした威容を誇る。その鋭い目は、煩悩を射すくめるような眼差しをしていて、見る者を畏怖させる。この寺には、徳一和尚の坐像も現存している。ラーメンや蔵の街として著名な喜多方市には、国指定の重要文化財、願成寺(がんじょうじ)の阿弥陀三尊像がある。この阿弥陀如来は、会津大仏として地域の人々に親しまれている。両脇侍の観音菩薩と勢至菩薩も立派である。下の写真がそれであるが、光背には無数の仏像が彫られていて実に見事である。

会津坂下町には、上宇内の薬師如来像と立木観音と呼ばれる千手観音像がある。どちらも著名な仏像である。上宇内の薬師如来像は、勝常寺のそれと違い優しい眼差しをしている。立木観音は、その名の通り、生えたままの立ち木をそのまま彫り上げた仏像で、今でも根っ子はそのままだという。高さ8メートルの巨大な仏像は、人々の心の拠り所として崇められてきたのであろう。他にも、中田観音や鳥追い観音と呼ばれる『ころり三観音』等多くの仏像がある。休日にこうした仏像巡りもいいものである。

 

こんなにも素晴らしい仏像と寺社を残してくれた高僧徳一であるが、どうして仏教を布教する地として会津を選んだのであろうか。わざわざ辺境の地であった東北の田舎である会津に、こんなにもすごい高僧がやってきたのか不思議である。その当時、会津は東北の中でも文化がもっとも進んでいた地のひとつであったのは間違いなさそうである。だとしても、敢えて会津を選んだのは、違う理由があったと思われる。それは、仏教が間違いなくこの地で布教出来るという確信したからではないかと考えられる。

高僧徳一がそう思った根拠はなんであろうか。おそらく高僧徳一は、事前に会津人をリサーチしたと思われる。もしかすると、一度訪れていたのかもしれないし、そうでなければ会津の事情を詳しく知人に聞いていたと思われる。それで、会津の人々が仏教を快く受け入れてくれると確信したと思われる。仏教を受け入れて、その教えに深く帰依するかどうかは、受け入れる側の人間性に大きく影響される。さらに、仏教が広がるかどうかにもその地域の人々の人間性が問われると言われている。高僧徳一は、会津人こそ仏教を受け入れ広めてくれる人間性を持っていると判断したのであろう。

会津人は良い意味で頑固である。その頑固さというのは、新しいものを受け入れないとか古い価値観にしがみつくという頑固さではなく、あくまでも人間としてあるべき正義や忠義を忘れないというこだわりである。そして、自らの利益や権利に固執する頑固さではなく、自分は犠牲にしても人々の為、世の中の為に貢献するという価値観を大事にする頑固さでもある。まさに、これは縄文人の価値観であり、全体に貢献するという生き方である。会津人がまさに仏教を布教するに最適の地だと、高僧徳一は確信したに違いない。

残念ながら、現在の日本では既に仏教は廃れてしまっている。殆どの日本人は、仏教の国だと勘違いしているが、儀式仏教になっていて、仏教に帰依している日本人はごく少数である。世界の中で、仏教の国だと言えるのはごく僅かしかない。仏教発祥の地であるインドに仏教徒はごく僅かしかいないし、中国では仏教が否定されている。朝鮮半島にも、仏教は残っていない。スリランカ、ミャンマー、ヴェトナム、タイぐらいしか仏教の国はなくなってしまった。何故、それらの国に仏教が残っているのかというと、それらの国民が仏教の教えを受け入れる高い価値観を持っているからであろう。会津を選んだ徳一の確かな洞察力と先見性に感謝したい。【続く】

剪定作業で気付いたこと

イスキアの郷(農家民宿)で樹木剪定作業をさせてもらった。我が家の庭にある樹木は、適当に剪定した経験はある。ベニカナメや百日紅などの庭木を見様見真似で剪定してきた。ところが、農家の果樹などの剪定は今まで実施したことがなかったのに、いきなりやってみたらと言われて実施したのだ。人間としては適当な性格ながら、適当に剪定していいからと言われても、なかなか思い切って切れないものである。50センチから60センチの新芽を持っている枝を残して切っていいとの指示でやってみたが、これが難しいのである。

何故なら、あまりにも枝が混んでいる処は、日光が通りやすいように何本かを残して切る必要もある。どの枝を残して、どの枝を太い枝から伸びている根元からばっさり切るのか、迷ってしまうものだ。思い切って切断しようと思いながら、一度切ってしまえば元に戻せないから、いざとなると逡巡してしまう自分がいる。やはり、このような樹木剪定作業というのは、熟練を要するものだ。少なくても数年の経験をしてからするものであろう。素人に手に負えるものではない。

とは言いながら、依頼するほうも心得たものである。失敗してもいいような樹木だけを指定したようである。先ずは、梅である。『桜切るバカ、梅切らぬバカ』と言われるように、梅はどんなに切っても問題ないみたいである。ということで、梅の何本かを切るように指示された。さらに、すももの樹も依頼された。たぶん、この種類の樹木ならば、失敗しても大丈夫だろうと主人が依頼したんだろうと思って、安心して剪定作業を実施した。

最初は、おどおどしながら、そろそろと切っていたが、そのうちに少し大胆になり、切り方も様になってきたようだ。そして、終了する頃にはなんとか剪定のコツも呑み込めてきた。しかも、剪定作業そのものが楽しくなってきたのである。来年になって樹木の果実が見事に実るかどうかが、自分の手に託されているのである。人間と言うのは、責任を持たされる仕事をさせられることに喜びを感じるものらしい。どうでもいいような仕事、そして誰にでも出来る仕事には大きな喜びを感じないしやりがいも持てない。農作業というのは、収穫の量と質に直接関わる重要な仕事だからこそ楽しいのだ。

剪定作業をしながら気付いたことがいくつかある。先ずは、要らない枝と必要な枝があり、その選択をすることが難しいということ。そして、その不要な枝を思い切って切断しないと、良い枝が育たないということ。さらに、どんなに育てようとしても育たない枝は、残してはならないということ。枝が密生してしまうと太陽の光が十分に、それぞれの葉に届かず良い果実が実らないという事実。何だか、会社のマネジメントみたいである。駄目な部門やどうしようもない社員は思い切ってリストラしないと、良い果実(成果)は実らないということと重なる。

樹木というのは、何故もこんなにも不要な枝を芽生えさせるのだろうか。もしかすると、樹木そのものにとっては必要な枝なのかもしれない。良い果実だけを求める人間の都合で切られてしまっているのかもしれない。そうではなくて、果樹というのは人間の手によって切られることを初めから想定していて、新芽を伸ばすのかもしれない。人間がちゃんと切るのかを、樹木が試しているのかもしれないなあなんてことを思いながら剪定作業を進めた。

剪定作業でひとつだけ確かなことを学んだ気がする。樹木と人間というのは似ているということである。人間は生きているうちに、少しずつ余計なものを蓄える。本来は生きる上で必要のないものというか、逆に生きる上で邪魔になるものである。変なこだわりや思い込み、または身勝手な心や我儘な気持である。自分さえよければいいというような低い価値観もそうである。そういう不浄なものが溜まりに溜まった時に、不都合なことや病気とか事故に見舞われるのである。そして、どん底に落とされて、初めて自分を振り返り、不要なものを切り落とさざるをえなくなる。そうしないと生きていけないからである。まるで樹木に生えた不要な枝のようではないか。誰かに切り落とされるまで待たないで、人間なのだから自ら切り落としたいものである。そんな気付きを剪定作業から学ばせてもらった。

 

※イスキアの郷しらかわでは、いろいろな農作業の体験ができます。癒しを求めていらっしゃる方も、そして元気な方でも、皆さん体験することが可能です。問い合わせフォームからご相談ください。体験料は無料ですが、お昼代だけをご負担いただきます。(2,000円~2,500円)

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旭日昇天よりも雲外蒼天

NHKTVで放映された「みをつくし料理帖」という時代劇で、旭日昇天と雲外蒼天という言葉が出てきた。これまで聞いたことがなかったこともあり、非常に興味を抱いた。ドラマの中では、こんな意味として使われていた。主人公が幼少の頃、ある人相見の達人に、その女の子と幼友達がこんなことを言われる。幼友達は、成人したら大成功を収める相を持つ人相をしている。これは、滅多にない旭日昇天(きょくじつしょうてん)の相だと言うのである。朝日が天に昇るがごとく、何の障害なく順調に天下に誇るような人物になるというのである。

一方、主人公の女の子は雲外蒼天(うんがいそうてん)の相があると言われる。この相を持つ人物は、雲の隙間から青い天が望むがごとく、様々な苦難困難に出遭うものの、それらの障害を乗り切り成功を収めることが出来ると言われるのである。実際には、幼馴染は廓(くるわ)に売られるのであるが、持って生まれた器量でめきめき出世して、押しも押されもせぬ当代一の花魁(おいらん)になるのである。主人公は、何度もひどい目に遭いながらもその度に乗り越えて、江戸で有数の料理人として大成するのである。

この人相を見る達人は、確かに人相を見る目はあったということになる。ただし、幸福度という点ではどうだろうか。主人公は何度も苦難困難に出遭う度に、一回りも二回りも成長したのである。そして、苦労の末にようやく掴んだ成功であるから、喜びは人一倍である。何にも苦労せず、持ち前の美貌だけで吉原随一の花魁になったのでは、幸福感はそんなに多くはないだろう。幸福感という点では、苦労をしてきた主人公のほうに分があると言えよう。

実際の世界においては、旭日昇天の人物はそんなに多くない筈である。多くの我々凡人は、雲外蒼天であろう。そして、様々な苦難困難を経験する。それらの苦難困難に逃げずに立ち向かい、そして乗り越えて「艱難汝を玉にす」の諺のように、人間としての立派な成長が可能になるのである。この社会で大成した人間、または人間として立派な人は、苦労をした人である。親の七光りでたいして苦労もせず成長した人間のなんと薄っぺらな事であるか。または、恵まれた境遇に生まれて、たいした苦労もせずに一流大学を出て高級官僚になった人物は、自分でも苦労したことないから、人の苦労にもそ知らぬ顔をする。

人間として大成する二つのプロセスがあるとすれば、望んで出来るのならば間違いなく旭日昇天ではなくて雲外蒼天の生き方をしたほうが良いと思われる。今度NHKTVの大河ドラマで描かれる西郷隆盛は、間違いなく雲外蒼天であろう。下級武士の家系に生まれながら、何度も挫折をしながらも乗り越えて、後に南洲翁と呼ばれるように誰からも尊敬される大人物となる。苦難困難に見舞われなければ、同じような地位に就いたとしても、あのような素晴らしい人間性を持てたかどうかは解らない。

西郷隆盛は後に南洲翁と呼ばれ、南洲翁遺訓と呼ばれる書物に彼の残した言葉が残っている。彼は、苦労して作り上げた明治政府の要職を自ら捨てて、野に下る。時の明治天皇が一番信頼し頼りにしていたのは、西郷隆盛であった。しかし、あまりにも腐敗して私利私欲に走る明治政府の政治家たちに愛想を尽かしたのではないだろうか。山形有朋や伊藤博文などの長州出身の政治家たちは、私腹を肥やし、妾を政府の要職につけるような出鱈目な政治をしていた。南洲翁遺訓では、『ところが今、維新創業の初めというのに、立派な家を建て、立派な洋服を着て、きれいな妾をかこい、自分の財産を増やす事ばかりを考えるならば、維新の本当の目的を全うすることは出来ないであろう。今となって見ると戊辰(明治維新)の正義の戦いも、ひとえに私利私欲をこやす結果となり、国に対し、また戦死者に対して面目ない事だと言って、しきりに涙を流された』と記されている。

また、南洲翁遺訓では弱者に対する思いやりを説いていて、自分を愛するように他人を愛するような政治をすることが肝要であるとも説いている。小さな政府にして、税金を少なくすることで国力を上げることが出来るとも主張している。無駄な軍備を持つなとも説いている。現代の政治家は真逆である。このように自分を厳しく律し、常に国民の福祉や幸福のことを考えた西郷隆盛は、理想の政治家でもあった。現在の二世議員である政治家たちは、おそらく旭日昇天の育ち方をしたのであるまいか。西郷隆盛が傑出した政治家として大成したのは、雲外蒼天の育ち方をしたからに違いない。今度から選挙で政治家を選ぶときには、旭日昇天の政治家ではなくて雲外蒼天の政治家を選びたい。

休職による経済損失

最初に断っておくが、こんなブログの題名を見ると、休職者を責めているように感じることであろうが、そういうことはまったくない。休職をしてしまう要因は、本人にその責任がまったくないとは言えないが、企業・団体及び社会そのものに根本的な原因があるからだ。休職という選択肢を取らざるを得なかった事情があったことは、充分に理解しているつもりである。そのうえで、休職による企業・団体、および国家としての経済損失について、考察してみたい。

実に不思議な事であるが、現在休職している全国の総数を正確に把握している政府機関はないということである。マスメディアにおいて、これだけの数の休職者が存在しているというニュースを見た人がいるだろうか。おそらく皆無であろう。少なくても、教職員で休職している人数は文科省や都道府県の教育庁は把握しているであろうが、公開したという事実はない。行政職員も同様である。民間企業や各種団体もそれぞれの総務課・人事課は人数を把握しているに違いない。その数字を正確に把握して、何らかの対策を取ろうとしない厚労省の無策ぶりが情けない。

あくまでも想像でしかないが、休職している職員・社員・役員は相当な数にのぼるに違いない。身体的な疾病やケガなどで休職している数は変わらないとしても、メンタル的な原因による休職者数は鰻上りに増加しているということは間違いない。民間企業であっても、教職員を始めとした公務員、各種団体職員においても、メンタルによる休職者が増加していて、それぞれの企業・団体は苦慮している。これらの休職者の増加に対して、何らかの対策は取っているものの、抜本的対策は取られていない。したがって休職からの復帰はけっして多くないのである。

さて、どのくらいの人数が休職しているのかは後の考察にして、休職者一人当たり経済損失がどのくらいになるのかを考えてみたい。まずは企業団体側からみた経済損失を考察したい。休職者に支給される給料総額が年間600万円と仮定する。多くの大企業や中企業は、有給の休職期間を2年間としている。そして、さらに条件付きで1~2年の有給の休職を認めているケースが多い。有給での休職期間を3年とすれば、1,800万円となる。さらに、雇い主が負担する法定福利費を23%とすると、414万円になる。つまり、休職によって2,214万円の直接的な損失が雇い主側に生じるということである。

経済損失は、これだけではない。休職者がその部門に生じると、他の部署から異動させるか現在のマンパワーで無理して乗り切ることになる。当然、時間外勤務や休日出勤が増えたり、臨時職員や派遣職員を雇ったりするケースもある。休職した職員が、その部門で正常に勤務したら、とんでもない発明やイノベーションを起こしたかもしれないのである。官公庁であれば、給料以上の価値を生み出すということはあまりないと言われている。しかし、営利企業であれば、給料の1.2倍程度の利益を企業側に生み出すのは間違いない。

であるから、単純に計算すると、2214万円の2.2倍だから、営利企業だけで見れば休職者3年間のトータルで一人当たり4,870.8万円の損失になるのである。1年あたりで見ても、1,623.6万円という数字になるのである。これが上級管理者や執行役員クラスになると、おそらく年間3,000万円から4,000万円の損失になるのだ。こんな損失に対して、雇い主や管理者が何もせず傍観しているとしたら、とんでもない利益背反行為と言わざるを得ない。中企業であれば、常時2人から3人は休職している社員がいると思われるので、年間3,000万円から5,000万円の経済損失が見込まれる。大企業であれば数億円にも膨れ上がる。

官公庁職員の場合は、その経済損失を誰が負担しているかというと、我々国民である。官公庁職員だけでも、年間の経済損失は、数十億円から数百億円になると推測される。つまり、官公庁と民間企業団体の休職者による経済損失を全国規模で積算すると、おそらく数千億円にのぼると見られる。だから、厚労省が休職者の数を調査して、抜本的な対策を何も取らないというのが信じられないのである。民間化企業の経済損失だって、回りまわって国民にしわ寄せがきているのは間違いない。生産品や提供サービスの価格に転嫁されているからである。厚労省を動かすには、マスメディアが騒ぐか、政治家が働きかけるしかない。是非とも、このブログを多くの方々にシェアーしてもらいたい。

※休職されている方々を迎え入れて、社会復帰の手助けを「イスキアの郷しらかわ」は実施しています。休職者対策に苦慮されている企業や官公庁のご担当者は、是非ご相談ください。可能であれば、直接お邪魔してこの復帰支援システムについて詳しくご説明申し上げます。

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青森県民が短命な訳

5年毎に全国の平均寿命が発表され、各県のランキングも合わせて知らされた。その中で、不名誉な短命第一位とされたのが、東北地方の最北端にある青森県である。それも2回続けての不名誉な記録となった。青森県民の平均寿命が全国で一番短いという結果であるが、驚くことに男女共に一位なのだから、ぶっちぎりの最短寿命ということである。平均寿命が短いのには県民の生活習慣に原因があると思われるが、一番はその食習慣にあると言われている。ある雑誌の記者がこの平均寿命の短さに注目し、実際に青森県に行って取材したという。そうすると、驚くような青森県民の食生活の実態が浮き上がってきたらしい。

まずは、青森県民はカップ麺がなによりも好きだという事実である。朝からスープ代わりにカップ麺を食べ、おやつや夜食にもカップ麺を食べる習慣があるという。カップ麵依存症とも言えるくらい、毎日カップ麵を食べる。なにしろ、県民一人当たりのインスタントラーメン消費量がぶっちぎりでトップだというのである。カップ麵の危険性は言うまでもない。人工的な食品添加物の塊とも言えるし、麵は短時間で柔らかくなるように薄力粉を油で揚げているから、高GI食品の代表格であるのだ。甘い缶コーヒーも多量に飲むし、菓子パンを食べる習慣も多いらしい。

また、カップ麺はかなり塩分の含有量が多い。青森県民はその塩味の強いスープを残さず飲み干すらしい。これでは塩分過多になる。しかも、カップ麺に使用されている塩は、その安価さから考えると天然塩ではなく人工的な精製塩であるから、身体に悪いのは当然である。また青森県民は、飲食店のラーメン消費量も抜群に多いらしい。そして、ここでもスープを残さず飲むのだという。ラーメンには、塩分だけでなく植物油脂も相当に含有されているし、動物性脂肪も多く、高カロリー食だといえる。

さらに青森県民の喫煙率は全国でもトップクラスであるし、毎日アルコールを飲む習慣も非常に多いという。それも多量に飲酒するので、甲種の焼酎の消費量が異常に多いというのである。推測ではあるが、アルコール依存症気味の人が多いと思われる。このように、青森県民の食生活は最悪だということが判明したのである。高塩分食、高脂肪食、高カロリー食を好み、喫煙習慣とアルコール習慣を持つ県民が多く、さらに悪いことに運動をする習慣が少ないというのである。そして、この生活習慣を悪いという認識がなく、改善しようとしないというから驚きである。

だから、メタボの人が多くて糖尿病の罹患率が異様に高いという。高血圧症、高脂血症、高尿酸血症などの疾病が多く、心臓疾患や脳血管の病気で亡くなる方が多いという。腎臓障害により人工透析を受ける人も、他県と比較しても異常に高いという。さらには、ガン疾患で死亡する人も極めて多いというのである。青森県の保健担当者も何とか生活習慣を変えようと努力しているらしいが、聞く耳を持たずということで、食習慣を変えようとしない頑固者が多いらしい。これでは、どんなに健康についての啓蒙活動をしたとしても徒労に終わるに違いない。

このように平均寿命が全国一短い青森県民の生活習慣を見て、平均寿命を延ばす為のヒントが沢山見て取れる。ますは、カップ麺は健康に良くないということ。生活習慣病になりたかったら、カップ麺を毎日食べればいい。健康になりたかったら、カップ麺は止めることだ。また、ラーメンも良くない。小麦粉、それも薄力粉は高GI食品であるし、塩分過多で脂肪分も多い。糖尿病にもなるし、高血圧症と高脂血症にもなりやすい。菓子パンも薄力粉で作るし、欧米では使用禁止処分になっているマーガリンやショートニングという危険極まりない添加物を含んでいる。こんな危険なものを食べたら病気になるのは当然だ。

多くの青森県民は、メタボと診断されるらしい。過食の習慣に加えて、高カロリー食を食べているからであろう。そのうえに、運動を嫌がるという。これでは、カロリーオーバーが続くからメタボになるのは当たり前である。運動不足は心肺機能を低下させるだけでなく、ストレス解消が出来ないので、さらにストレス解消の為に過食になるという悪循環を起こす。さらには、ストレスから喫煙とアルコール摂取の習慣を作り出す。これでは、早く死んでくださいと言わんばかりか、自殺行為に等しい。このような青森県民を反面教師にして、健康的で長生きの生活習慣を身に付けなければならない。

 

※健康的で長生きするための食習慣も含めて、ライフスタイルを変える助言・指導を「イスキアの郷しらかわ」は実施しています。何故そのような生活習慣が必要かと言う科学的根拠も解りやすく説明しますし、自ら健康的なライフスタイルに変えようとするにはどうしたらよいかもレクチャーします。喫煙習慣や飲酒習慣から脱却する秘訣も伝えます。是非、ご利用ください。健康についての相談も承ります。

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あらゆる病気を癒す特効薬「登山」

若い人たちにも登山ブームが起きているらしい。昔のような野暮ったい登山服装ではなく、洗練されていてファッショナブルな洋服に身を包んで、颯爽とした姿で登っている。トレランというスポーツ登山で、走りながら登る姿も目立つ。昔ながらの大きいザックに重登山靴に履いて、山シャツにニッカボッカ姿は見られなくなった。若い人がどんな形にせよ、登山にはまりこんでいるというのは嬉しいことである。さらに、若いパパさんやママさんたちが子どもを連れて登っている姿も微笑ましい。登山人口が増えるから、大歓迎したい。

どうして登山にこんなにも心惹かれるのだろうか。それは、あまりにもストレスフルなこの社会だからこそ、現世界から一時的にも逃れてストレス解消をしているのではないかと見られる。あまりにも生きづらいこの世の中、例え一時的でも何もかも忘れて目の前に広がる自然を満喫することで、精神的に癒されたいと思って登山するのではないだろうか。これは、心理学でいうマインドフルネスという有効的な心理療法のひとつである。気分障害が重症化する前なら、非常に効果が高いと言える。

登山は、精神疾患に有効であるのは間違いない。マインドフルネスという効果もあるが、自然との触れ合いは、間違いなく心を癒してくれる。豊かな大自然に包まれた時に、人間は自分のちっぽけな存在に気付く。登山をしていると、厳しい暑さ寒さ、雨や風に遭うこともあり、雄大な自然が人間の力ではどうにもならないことを知る。人智ではどうしようもない存在がこの世に存在することを実感し、人間は神のような自然に生かされていることを深く認識する。謙虚で素直な、ありのままに自分に還ることが出来る。そうすると、自分があまりにも傲慢で、しかも周囲の人々に対して頑なな態度をしていたと気付くのである。

各種の精神疾患になられた方々が、登山に行ける気力が残っているのであれば、無理にでも行くことを勧めたい。気分障害の方々を登山に連れて行った経験がある。何度かの登山を繰り返すうちに、徐々に心が癒されて元気になった気分障害の人が多い。心と身体は一体である。身体を無理にでも動かしていると、次第に心も動くことになる。少し身体的に厳しい登山をすることで、精神的忍耐力や柔軟性を持てるようになる。簡単に折れてしまう心でなく、どんな苦難困難に対して柔軟な心を持つことなる。精神疾患を緩和するのに、登山が有効だという根拠である。

登山は、身体的な各種疾患にも有効であると思われる。何故ならば、病は気からと言われるように、現代病は殆どが精神的な影響により起きていると言っても過言ではない。勿論、食習慣も含めた生活習慣や生活環境にも影響を受けるが、その悪い生活習慣も元を正せば間違った心が作り出したものである。生活習慣病の殆どは、ストレスや過度のプレッシャーによって生活習慣が乱れて起きていると思われる。そして、身体のネットワークの誤作動が起きて、脳内神経伝達物質や各種ホルモンの分泌異常が、血液循環も含めた体内循環を滞らせて、各種疾患が起きているということが判明してきた。

登山は長時間の負荷運動をすることで、心肺機能を高めることになる。故に滞った血液循環など体内循環を適切に調整してくれる。ガンになった患者さんたちを、富士山登山に誘って、心肺機能向上と生きがい療法をする団体もあるほどである。登山をした人なら解るが、体温を驚くほど高めてくれる。ガンは低体温で起きると言われている。ガンなどの疾病は、自律神経のアンバランスで起きる。副交感神経の活動が低下し、交感神経の異常な亢進により、各種疾患が発症することが判明している。標高の高い所は低気圧になり酸素が薄くなる。低気圧と運動負荷により、酸素摂取を少なくさせて、副交感神経が亢進する。

このように、登山は精神的疾患だけでなく身体的疾患にも有効だという科学的根拠が示されている。厚労省によって難病と指定されている自己免疫疾患などにも、有効であると推測される。さらには、パーソナリティ障害や成人の発達障害なども、登山によって症状が緩和されると思われる。あらゆる疾患を緩和もしくは完治させてくれる登山療法は、現代医療で見離されてしまった人々にも福音をもたらすであろう。病気になられた方は、是非とも登山に勤しんでほしいものである。

※イスキアの郷しらかわは、精神的な疾病と身体的疾病に苦しんでいらっしゃる方々を登山にご案内します。症状に応じた難易度の山を選択しますし、体力に応じたコースを選定します。重症の方には、登山歴豊富のアルピニストで、40年近く臨床に携わったベテラン看護師が同行します。登山ガイドは複数人が同行して、万全の体制でバックアップしますので安心して申し込みください。

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初心忘るべからず

新しい年の初めに当たり、『初心忘るべからず』という言葉について、今年の最初の日記を書くことにしたい。昨夜、NHK紅白歌合戦を視ていたら、羽生善治永世七冠がこの初心忘るべからずという言葉の本当の意味について述べられていた。この初心忘るべからずという言葉は、最初に志した自分の命題や目標を忘れることなく精進しなさいという意味で使われている。ところが、本来の意味は違っているという。この言葉は、能楽を完成させたと言われる世阿弥が54歳の時に、「花鏡」(かきょう)という能楽の伝書で、示した言葉らしい。

初心とは、最初の志のことだけではなくて、何かを新たに思い立った時、または人生の節目(せつもく)の際に、こうしようと心に誓ったことを言うらしい。だから、初心は人生の中でただ1回だけではなくて、何度もあるというのだ。自分も誤解していたことを恥じたい。何か一生に一度の大きな目標を掲げた時、または一生を捧げるような職業に就いた時に思ったことを初心だと勘違いしていた。そうすると、初心はその時その時の心の在り様、人間的成長の各段階において、または価値観や哲学をさらに向上させた時に、初心をバージョンアップさせるものなのだということである。

人間と言うのは、ある程度の成功を実現させると、現状に満足して成長することを止めてしまうことが往々にある。ところが、人間と言うのはこれでもう学び切ってしまったということはあり得ないのである。学べば学ぶほど、自分の浅学菲才ぶりに気付くものである。何でも解ったように勘違いして、もう自分は悟り切ったと思うような人間は、けっして大成することはない。自分が無知だと思うからこそ、まだまだ愚かな人間だと謙虚になり、勉学に勤しむものであろう。そして、その人生の節目(せつもく)に初心を自分の胸に刻んで、さらに精進し続けるのだろうと確信している。

15年以上も前に、自分が胸に刻んだ初心は、イスキアの郷しらかわを必ず開設することであった。佐藤初女さんの森のイスキアのような施設を創るという夢であった。そして、昨年の9月に様々な人のご支援を頂き、開設することが出来た。これは、ひとつの通過点でしかない。まだまだ、イスキアの郷しらかわの認知度は低い。そして、利用される方々もまだ多くはない。今度の初心は、皆さまのご支援に報いる為、イスキアの郷しらかわを多くの皆さんに知って頂くことと、もっと多くの方々を深くご支援申し上げたいということである。そして、心が癒されて幸福になってイスキアを卒業される方々を、笑顔で見送りたいという初心でもある。

15年以上前の初心は、様々な事情もあってなかなか貫徹出来ずにいた。経済的な問題もあって、踏み切れずにいたのである。今から思うと、初心を貫徹することに不安や怖れがあったことは否めない。もしかすると、イスキアを創るというのは無理なんじゃないかと諦めそうになったことが何度かある。何度も挫折しそうになった時に、不思議な出会いがあって、背中を押してくれた。それは、イスキアを必要とする方々との出会いであり、イスキアを応援したいと申し出てくれた人たちとの出会いである。そんな方々に申し訳ないと思いながら、ずっと伸び伸びになってしまっていたのだ。

昨年の2月に佐藤初女さんが亡くなられた。その後、森のイスキアが活動停止になり、こうしてはいられないと思い、昨年の9月にイスキアの郷しらかわを開設した。その際に、出会った方々には叱責されることを覚悟して、開設のお知らせをした。皆さんからは、どうしてこんなに遅くなったのだというお叱りの言葉もなく、温かく受け入れて頂いた。今度は、そんな皆さんに恩返しをしたいと思う。さらには、イスキアの運営が順調になったら、お世話になった方々を招いて、開設記念のパーティも開催したいと思っている。今年は、そのレベルまで必ず到達したいと誓う。この初心を深く心に刻んだ、1月1日の朝である。

発達障害は緩和できる

発達障害が急増していると言われている。診断を受ける子どもや大人が増えたせいだとする専門家もいるが、その原因はまだはっきりしていない。どうやら、脳の誤作動、もしくは脳内ホルモンの分泌が不適切な状況になっているのではないかということが言われている。ドーパミン、セロトニン、オキシトシン、ノルアドレナリンなどの脳の神経伝達物質、通称脳内ホルモンと呼ばれているものが不適切に分泌している状態のために、異常行動をしているのではないかという仮説が有力になっている。脳内ホルモンが異常分泌する理由は、確定している訳ではない。

脳内ホルモン分泌のアンバランスは、発達障害だけでなくパーソナリティー障害、うつ病、双極性障害などの精神障害をも引き起こすと言われている。これらの脳内ホルモン分泌の異常は、脳の働きが誤作動しているせいだと思われていたが、どうやらそれだけではないということが判明しつつある。人体というシステムは、脳がすべて脳内ホルモンの制御をしているのではなくて、人体の各臓器、または筋肉組織など身体全体がそれぞれのネットワークを組んでいて、全体最適の為に絶妙に協力し合ってコントロールしているということが解ってきたのである。つまり、脳がすべてを制御しているのではなくて、各臓器や各組織、または各細胞が自己組織性を発揮して、全体最適化を目指しているのである。

脳内ホルモンも本来は、人間全体が正常に、そして健康になるようにと、絶妙にバランスを取って分泌するというシステムなのである。それなのに、脳内ホルモンが異常な分泌をしてしまい、バランスが崩れている状況が、発達障害やパーソナリティー障害などの精神障害だと言えよう。ということは、脳内ホルモンの分泌を正常化することが出来たら、発達障害も緩和されるのではないだろうか。発達障害は、幼児期ならば投薬が可能で若干症状が緩和されることもあるが、大人の発達障害は医療による支援が難しい。脳内ホルモンをどのようにして正常に分泌させられたら、発達障害が緩和されるだろうか。

脳内ホルモンは、脳に直接働きかけても、正常にしかも豊かに分泌される訳ではない。脳内ホルモンが正常に分泌されるには、腸内環境が重要な働きをしているということが解ってきたのである。腸内フローラとも呼ばれるように、腸内細菌叢が花畑のように美しく広がる状況になれば、脳内ホルモンが活発に分泌されるということが判明してきた。腸内細菌には、善玉菌と悪玉菌、そして日和見菌がある。これらの細菌の割合における絶妙のバランスが取れた時に脳内ホルモンが正常に分泌し、善玉菌が減って悪玉菌が増えた際に、脳内ホルモンの分泌が崩れてしまうと言われている。

腸内環境を正常にするには、やはり食べ物が重要な役割を果たす。腸内細菌が喜ぶ食べ物は、新鮮な野菜である。しかも、出来れば無農薬でオーガニックな野菜がベストである。減農薬で化学肥料を少なくして栽培した野菜でも効果が高い。少しの量でも構わないが、熱をかけていない野菜や果物を食事の最初に取るというのも効果がある。なるべく多種類の野菜と発酵食品を摂取すると、腸内環境は改善する。さらに、下腹部を冷やさない工夫も必要である。身体全体を温めるほうが良いが、せめて下腹部や下半身を冷やさないことが大切である。特に寒い時期は、腹巻やレッサグウォーマーが良い。殺菌剤や抗菌剤を用いたグッズに触れないことも良いし、食品添加物の入った食品を避けることも有効だ。ファストフードやジャンクフード、甘味料の多い飲料や食品は絶対に避けたい。

さらに、普段の生活も大事である。ストレスを減らし、不必要なプレッシャーをかけないことが脳内ホルモンを正常にしてくれる。一番悪いのが、本人の自主性や主体性を欠いてしまうような言動である。保護者が、これも駄目あれも駄目と過干渉の言動をしてしまい、子どもを支配し制御するのも、脳内ホルモンの分泌を阻害する。逆に、子どもの言動をなるべく支配せず、自主性や主体性を伸ばすようにそっと寄り添うのが良い。さらには、豊かな無条件の愛を注ぐことと、なるべくスキンシップを心掛けることも効果がある。家庭の中に心地よい居場所を作ってあげるのが肝心である。さらに、心地よい運動も効果がある。

このように、食生活と普段のライフスタイルを改善するだけでも、発達障害はかなり改善すると見られている。実際に、ある幼児の生活を改善したら、見事に症状が改善した例を見ている。それまでは、親が叱ったり怒ったりして、子どもの行動を制限していたが、なるべく本人の行動に対して危険な行動以外は干渉しなくなったのである。そして、なるべく自分で考えて自ら行動することを支援するようにしたのである。さらに、良く出来た時は抱きしめて「良く出来たね」と精一杯の笑顔でほめてあげたのである。これだけでも、見違えるように変化したのである。食生活の改善も含めて、豊かな愛で満たされた時に、発達障害は見違えるように緩和されるに違いない。

 

※発達障害を含めた様々な脳内ホルモン分泌異常の症状を緩和する方法についての研修を、イスキアの郷しらかわで常時開催しています。希望者があれば、一人でも実施します。食生活についても、イスキアで提供している食事を実際に食べてもらい実感できます。問い合わせファームから相談も承ります。

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パーソナリティ障害は治らないのか

パーソナリティー障害というのは、あくまでも単なる精神疾患ではないと言われている。確かに、性格や人格の偏りという捉え方もされているので、世間一般で言われているような精神疾患とは違う括りとして扱われているようである。そして、精神科医からみたら一番扱いにくく手強い精神障害であろう。治療が非常に難しく時間がかかることもあり、治療をしたがらない傾向が強い。現在の精神科医療は、爆発的に増加した患者に懇切丁寧に対応するのが物理的に難しくなり、投薬治療に頼らざるを得なくなっているという不幸な状態にあるので仕方ないかもしれない。

パーソナリティー障害の治療を困難にしている訳は、このパーソナリティー障害によって様々な併発する精神疾患が存在するからでもある。パーソナリティー障害を以下、便宜上PDと略することをお許し願いたい。例えば、境界型や反社会性のPDは、薬物依存やアルコール依存症を併発しやすいと言われている。回避性や依存性のPDは、うつ病を発症しやすいらしい。回避性のPDは社会不安障害を併発することが多いという。このように、いろんな精神疾患を起こして精神科医を受診して診察した結果、根底にこのようなPDが存在しているということが判明するのであろう。

このような合併症である精神疾患を最優先にして精神科医は治療行為をするのであるが、主に投薬や心理療法で寛解に向けて努力しても、残念ながらPDの改善は困難であることから、治療効果が上がりにくい。さらには、一度寛解したとしても再発することが多いという。治療が難しいのは特に境界型のPDである。何故ならば、境界型のPDは他のPDと複合のPDであるケースが多いからでもある。そして、自殺念慮を持つ境界型のPDがすごく多いとも言われている。うつ病単独の患者の自殺念慮は約3割なのに、境界型のPDの自殺念慮は6割以上あると言われている。

このように境界型のPDを初めとして、様々なPDの治療が困難なうえに、他との複合のPDが存在するし、自殺念慮もあることから、精神科医や各種福祉施設や支援施設も、本音では関わりたくないと思っている関係者が少なくない。特に医療機関では、境界型のPDの患者が自殺するケースもあったりして、入院患者として受け入れることに及び腰になりやすい。相談で関わったある父親の境界型PDの息子さんは、過去に何度も入院している精神科のある病院に緊急入院をしたいと行ったら、門前払いを受けたという。仕方なく帰宅した後に、不幸にも自宅の納屋で自殺してしまった。訴訟問題にも発展している。

このように、境界型のPDや複合型のPDはとても治療が難しいし、あまり治療効果が上がらないこともあり、さらには訴訟問題にも発展しやすいことから、医療機関は診療拒否ぎりぎりの対応をするケースが少なくない。だから不幸にも最悪の結果を迎えてしまうケースもあるのだ。さらに難しいのが、境界型のPDは信頼できる治療者に対して、転移や依存が起きやすい点である。境界型のPDは若い女性が多いが、理想とする父親像と治療者とを重ね合わせてしまう傾向がある。すべて依存してしまうこともあるし、恋愛感情に発展してしまうことも少なくない。だから、傾聴と共感のカウンセリングが非常に難しいのであろう。

しかし、だからといって境界型のPDを含めてすべてのPDの改善が出来ない訳ではない。一番効果のあるのが、生活習慣や生活環境を一変させて改善することである。出来たら、まったく自宅と違う環境にしばらく滞在して、食生活や普段のライフスタイルを一変させることが有効であろう。食事は、オーガニックの食材を用いて伝統的な和食の調理法で、野菜中心の食事をすることがよい。それまで溜め込んだ人工的な添加物や農薬と化学肥料をデトックスことが必要である。さらには、腸内細菌を活性化させる食事とおやつを食べることがよい。出来たら着用る洋服、特に下着はオーガニックの綿製を着て、回りの環境も出来る限り自然素材にするとよい。

さらには、運動療法がとても効果がある。のんびりとした農作業や自然体験、または少しハードな登山などもよい。対人関係で苦労しない、個人で楽しめるスポーツもよい。ヨガもよいしフィットネスもいいだろう。音楽鑑賞や楽器演奏もよいと思われる。周りの人々が愛情豊かに支援する場所で、安心できるに身を置くことが有効であろう。そして、何よりも大事なのは家庭に安心できる平穏な場所を確保することである。家族の関係性を見直して、豊かで平和な関係性を再構築されることを勧めたい。PDは『愛』が不足して起きると言われている。それも、慈悲や博愛のように見返りを求めない愛を求めている。PDはそのような豊かな愛によって心が満たされて、安心する居場所を確保された時に寛解するに違いない。

 

※イスキアの郷しらかわは、治療施設ではありません。あくまでも支援施設ですから、パーソナリティ障害を治癒させることは出来ないということをご承知ください。保護者の方の相談にいらっしゃる場所として、または患者さんご本人の保養施設としてご利用されることは歓迎いたします。さらには、目いっぱいに頑張っていらっしゃる保護者の一時休憩所としても最適です。主治医のご意見やご指導に添った対応をさせていただきます。下記の問い合わせフォームからご相談ください。

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女性が活躍する時代

これからの日本においては、女性が活躍する時代を創っていくんだと、政府が宣言している。果たして、政府の思惑通りに行くのであろうか。既に女性が活躍している企業や業界が多数存在している。それでも、また部分的にでしかないと言える。まだまだこの社会は、男性中心に動いている。政府が声を大にして、女性が活躍する時代を創るというのは、労働者不足を何とかしたいという事情があるからであり、本気で政治界や経済界のトップリーダーとしての役割を女性に求めてはいない筈である。あくまでもそれは掛け声だけであり、男性社会における補助的役割しか期待していないのではないだろうか。

日本ではまだまだ男性社会であるが、世界各国では、政治だけでなく経済もまた女性のリーダーに委ねようとする動きが加速している。世界の元首を見てみると、女性が大統領や首相を務める例をあげればきりがないくらい多い。現職だけでも、ドイツのメルケル首相、チリ、スイスの元首も女性であり、他にも多数の現職女性リーダーがいる。過去には、マーガレット・サッチャーやインディラ・ガンジーといった名宰相がいたことは記憶に残っている。これから、益々女性の大統領や首相の誕生は増加するに違いない。それが世界の趨勢なのである。しかし、日本においては優秀な女性企業家や地方自治体の女性首長は生まれているが、女性首相が誕生するのは、残念ながらまだ少し先のような気がする。

それでは何故、こんなにも多くの女性が政治のリーダーとして、国民から指示され始めたのであろうか。女性が強くなったからとか女性の意識が高くなった為とか、または男女平等意識が高まったからというだけではあるまい。男性よりも女性のほうが、国のリーダーとして相応しいと国民たちが感じ始めたからではないかと思うのである。逆説的に言えば、もう男性に国政を任せられないと国民が思い始めたからではないだろうか。おそらく、男性の強烈な支配的なリーダーよりも、国民の目線を持った感性豊かなリーダーを求めるようになったのに違いない。日本や米国だけは、それに逆行している感はあるが。

男性は、一般的にどちらかというといざという時の決断力や胆力、または空間認識や創造性に優れていると思われている。そして、女性は繊細な感性や思いやり、相手への傾聴や共感力に長けていると見られている。男性と女性で一番違うのは、やはり相手の気持ちになりきっての言動が出来るかどうかという点であろう。何故そんなにも男女で違うのかというと、情報処理に使う脳の構造にあるのではないかと思われている。女性は、母性を発揮して子育てする為に右脳と左脳を繋ぐ脳梁が太くなっているのである。右脳と左脳の情報交換を豊かにすることで、子育てを上手に出来るようにしたと推測出来る。子どもの気持ちを自分のことのように感じなければ、子育てに失敗するからに違いない。

結論とすれば、国民が求めているのは、強烈なリーダーシップで国民を支配する為政者ではなくて、国民の気持ちに心底共感して、国民目線で行う政治リーダーなのではあるまいか。そして、女性の細やかな感性や先入観に捉われない柔軟な考え方が、この難しい世の中に必要なのだと思われる。政治の舵取りが非常に難しくなっている今の時代にこそ、どんな難題にも応えられる女性の政治リーダーが必要なのだと思える。勿論、難しい舵取りが要求される経済界に於いても、優秀な女性の企業家が次々と誕生しつつある。いずれ日本の政治の世界でも経済界でも、素晴らしい女性リーダーが続々と誕生するに違いない。これからの時代は、女性が活躍する時代なのである。

では、男性の時代は終わりなのかと言うと、そうではない。男性も優秀なリーダーとして活躍出来ない訳ではなく、立派なリーダーにもなり得る。その為には、男性性だけではなくて、繊細な感性や相手への共感などの女性性をも兼ね備える必要がある。男性のリーダーにこそ、これからは豊かな『女子力』が必要だと言えよう。歴史的にみても、過去に活躍した各国の女性元首たちは、例外なく女性性だけでなく男性性をも発揮している。つまり、男性性と女性性を共に兼ね備えた人物がこれからの時代のリーダーに相応しいということだろう。これからは女性が活躍する時代というより、女性性を発揮する時代と言うべきなのかもしれない。