教師の不適切指導にどうするか?

教師と言っても、経験が豊かで教える技能も確かな素晴らしい先生もいるし、経験が浅くて指導技術もまだまだの先生もいる。それぞれの先生は独立していて、学校内の先生どうしがそれぞれの指導について、注意し合う風土は醸成されていない。独立心が旺盛で、依存性がないと言えばそれまでだが、管理職でない先生が他の先生に対して助言したり意見したりすることは殆どないのである。児童生徒に対して、明らかに不適切な指導をしているのを目撃したとしても、まず注意することはない。先生どうしが指導面で協力し合うということも極めて少ないのである。

何か不適切な指導が問題になっても、それを隠したがる。ましてや、内部告発することはまずない。それだけ、閉鎖された空間でもあり、内部の事情が外に漏れにくい。その証拠に、これだけ多くの教師によるいじめ事件や指導死事件が起きていても、問題が大きくならないうちに、内部告発があって事なきを得たという事例は皆無である。自分たちの身内を守るという意識が強いのか、隠ぺい体質が強いのか、教師中心の環境が学校に存在する。問題があっても、見て見ないふりをしている先生が殆どなのである。だからこそ、いじめや不登校、そして悲惨な指導死がなくならないのであろう。

ただ、素晴らしい先生もいらっしゃるということも付け加えなければならない。本当に子ども中心の教育を徹底して、子どもたちからの信頼も厚く、保護者の尊敬を集めている先生も何人かいらしたのは事実である。ただ残念なのは、そういう先生は圧倒的に少数なのである。そういう素晴らしい先生が、昇任試験を突破して、校長や副校などの管理職になってくれたら嬉しいのだが、残念ながらそういうケースはけっして多くはない。これも不登校やいじめ、そして指導死が一向に減らない要因でもある。

ある教師が極めて不適切な指導をするのを、過去に実際に経験した。帰宅したら中学1年の息子が、「僕は明日から学校に行けなくなったから」と言うのである。どうしたんだと聞くと、薄暗くなった駐輪場で学友と談笑していたら、担任の先生が玄関先に見えたらしい。それを見かけた息子が、「あっ、〇〇だ」とその先生を呼び捨てにしたという。先生に向かって言った訳ではなく、あくまでも子どもどうしの会話である。ところが運悪く、その言葉がその先生に聞こえたらしい。しかし、その場で指導されたのなら理解できるが、帰宅した後でその先生が自宅に電話してきたのだという。

その先生が言うには、「先生に対して呼び捨てにするとは何事だ。絶対に許さない。謝りなさい。謝らなければ学校に来るな!」と激高して電話をしてきたらしい。息子は先生に対して直接呼び捨てにした訳ではない。したがって、謝らないと学校に来るなという理屈に合わない理不尽なことに納得できないので、謝ることができなかったという。その先生は、30代の男性で、どちらかというと体育系の頑健な身体を持ち、スポーツ系の部活の顧問をしていた。短気な性格であったと思うが、一度興奮してしまうと自分を抑えることが出来ず、体罰が常態化していたらしい。

翌朝、学校に行けないという息子を無理に登校させず、私が学校に向かった。校長と担任の先生と話がしたいと申し出た。先ずは昨日の息子からの話を伝えて、間違いはないかどうかを確認した。大きな違いはないとの返答であった。そのうえで、日本国憲法における教育を受ける権利という基本的人権の尊重に違反しているのではないか。教育基本法の趣旨にも反するのではないかと伝えた。どんな理由があるにせよ、学校に来るなという言葉は、教育上の指導として相応しいとは思えないと話した。校長は、謝罪すると共に、今からすぐに自宅に赴いて子どもに謝罪してきなさいと、その教師に指示した。その教師はその後に、体罰事件を起こして異動させられた。

このような不適切な指導に対して、子どもを守ってあげられるのは親しかいない。このような不適切な指導があったことを、親に対して素直に告げる信頼関係が必要である。親は自分の味方であり、必ず守ってくれるんだという子どもの確信がないと、親には話せない。親子の関係性は、努力しなければ深まらない。常日頃からの親子の触れ合いとコミュニケーションが必要だろう。そのうえで、どんなことがあったとしても、子どもを守る為に命を賭して行動することを宣言することが肝要だ。勿論、普段の行動においても、子どもを最優先で守り育てることを実感してもらうことが大切である。実際にこの例のように、どんな相手であっても臆せず対決して、問題解決する勇気も要求される。仕事や多忙を理由に、問題から逃避するような親では、子どもは不安になり不登校を選ばざるをえない。子どもが安心して学校に行けるのは、親からの絶対的守護が実感できるからだ。特に父親の役割は大きいのだと認識すべきである。

 

※イスキアしらかわの郷では、教師による不適切な指導やいじめがあった際に、親がどう対応すればよいのか、相談を承ります。親の役割も含めて、どうすれば問題が先鋭化せず、さらには長期化しないで問題解決できるのかを助言させてもらいます。ひとり親の場合、または父親が対応がしてくれないケースでも支援させてもらいます。遠慮なくご相談ください。

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インフルエンザは予防できる!

この時期、毎年インフルエンザが猛威を奮う。幼児と高齢者は特に注意が必要だと、どこのマスメディアも注意喚起をしている。持病を持っていて体力のない高齢者は、それこそインフルエンザは命とりにもなり兼ねない。だから、高齢者の方々は予防注射を受ける人が多い。ところが、予防注射を毎年受けているのに、どういう訳かインフルエンザに罹る人がいる。ましてや、中高生や青年であってもインフルエンザに毎年のように罹患する人がいるのだ。一方、インフルエンザの予防注射なんて一度も受けていないのにも関わらず、インフルエンザに罹ったことがない人がいる。

どうして、こんな違いが出てくるのであろうか。実は私も、生まれてこのかたインフルエンザに罹ったことがないのである。それも予防注射は絶対に受けない主義だ。ましてや、重い症状の風邪にも罹ったことがなくて、風邪のせいで学校や会社を休んだためしがない。実は、こういう人が世間には意外と多いのである。反対に、日頃は頑健な身体を持っているのに、しょっちゅう風邪を引きやすく、インフルエンザに毎年罹っている人も多いのである。これはどうしてであろうか、実に不思議なことである。

医療関係者は、このような違いは個人差によるものだと言っている。その個人差とは、簡単に言うと免疫力の違いである。自己免疫力の個人差があり、免疫力の高い人はインフルエンザには罹らず、免疫力の低い人はワクチンを接種したとしても、インフルエンザに罹ってしまうし、重症化しやすいというのである。免疫力の高い人は、例えインフルエンザに罹ったとしても、殆ど症状らしいものも出ずに治ってしまうという。それじゃ、予防ワクチンを打つのは止めて、自己免疫力を高める努力をしたほうが確実ではないかと、誰でも思う事であろう。

自己免疫力を限りなく高めることが出来たら、インフルエンザだけでなく他の重篤な疾病にもならないし、健康で長生きできるのだ。これは、無駄な医療費や介護費も削減できるから、最高の社会貢献ではないか。どうしたら自己免疫力を高められるのかと言うと、実に簡単である。5つの方法がある。①腸内細菌を正常にする②骨を刺激する運動と心肺機能を高める運動をする③身体を冷やさずに体温を高める④ストレスを溜めずに解消する⑤身体を酸化させない生活→これだけを守って生活すれば、限りなく自己免疫力は高まるしアレルギー疾患や免疫異常にもならない。私はこれを実践しているから病気知らずだ。

①腸内細菌を正常にするには、やはり健康的な食生活が大切である。酒とたばこ、そして化学薬品や食品添加物を摂取しない。野菜中心の食生活で、ジャンクフードやファストフードは食べない。肉類や砂糖類はなるべく摂らず、発酵食品を多く取る。食材はなるべく地産地消を心掛け、旬のものを利用する。②骨を刺激する運動は免疫力を高めるので、負荷のかかる歩行や走行、階段や坂道を上り下りする運動が良い。心肺機能を高める運動と共通する運動というなら、ストレス解消にもなるトレッキングや登山がベストだ。

③身体を冷やさず体温を上げる為には、体温を上げる食事が良い。根菜類や冬野菜を活用した食事が体温を上げる。入浴はシャワーでなく、毎日必ず浴槽にゆったり浸かる。冬は腹巻をするし、ネックウォーマーやレッグウォーマーを利用する。④ストレスを溜めないようにするには、怒りや憎しみ、さらには妬みや嫉みを持たないことである。その為には、相手の尊厳を認め受け容れ、自分の思い通りに他人や身内を支配するとか制御しようとしないことだ。寛容と受容を無理なく出来る精神性を持たなくてはならない。さらには、ストレス解消の趣味やスポーツをするのもよい。マインドフルネスを心掛けることもよいだろう。

⑤身体を酸化させないようにするには、まずは抗酸化の働きがある飲食物を摂取することである。マーガリンやショートニングは絶対に摂ってはならない。水は消毒薬の使用されていないものを使用し、殺菌剤や漂白剤を使用した食材を避けることである。身体に直接触れる物も、殺菌や抗菌を謳った製品も避ける。シャワーには消毒剤を浄化するフィルターを使うか、一度湯舟に浸かってから身体を拭き上げるとよい。塩素は身体を酸化させるから、循環させて塩素消毒する温泉やプールも避けたほうがよい。

このように、これらの5つの自己免疫力を高める努力をしていれば、インフルエンザには罹らない。もしインフルエンザに罹患しても、症状が軽くて知らないうちに治る。殆どの家族が毎年インフルエンザに罹っているのなら、それは間違いなく食事の問題である。食事を徹底して野菜中心にして、手作りで添加物の入らない健康食にするとよい。パンや麺類は避けて、米食にしたらいい。インフルエンザに罹らないばかりか、アレルギーも改善するし、自己免疫疾患も寛解する。メンタル面でも元気になり、気分障害もよくなる。病気知らずの生き方が可能になる。

 

※イスキアの郷しらかわでは、インフルエンザに罹らないライフスタイルを確立するための支援をしています。心身の病気から離脱する食生活と運動などを、実際に体験してもらいます。また、ストレス解消のコツを、精神論ではなくて科学的な手法を用いて伝えています。インフルエンザに毎年罹っている方、お子さんが病気がちな方、是非ご活用ください。

禅寺の修行でアレルギーが治った?

アレルギー患者が禅寺で修行すると、その辛い症状が治まってしまうという驚きの結果が現れているという。その注目されているお寺とは、神奈川県川崎市鶴見にある曹洞宗の大本山總持寺である。ここでは若い修行僧である雲水が日々厳しい修行を続けている。禅寺の朝は早い。早朝3時から起きて座禅やお掃除などのお勤めをする毎日である。質素な食事と厳しい修行は、贅沢な食生活を送ってきた若者にとっては、相当な苦難の日々であろう。しかし、何週間かその辛い修行を続けているうちに、アレルギー症状が緩和されるという。個人差はあるものの、徐々に症状が和らいできて、しまいには殆どなくなるというから不思議である。

三大禅宗のひとつである曹洞宗は、道元禅師が始祖とされる仏教の宗派である。福井県に大本山永平寺があり、能登にも總持寺祖院がある。石川県能登の總持寺が消失したのをきっかけにして、現在の鶴見に建立されたのが大本山總持寺であると伝えられる。禅寺の食事は、ご存知のように精進料理である。野菜と胡麻豆腐、そしてごくわずかなお粥だけである。成年男子が必要とされるエネルギー量にはほど遠いカロリー量だという。無用な外出は禁じられ、食事の他におやつや菓子などは食べられない。この精進料理こそが、アレルギー症状を緩和してくれる救世主ではないかと見られている。

精進料理はそれこそ、ゴボウ、大根、ニンジン、青菜などの繊維質の豊富な野菜と胡麻豆腐、そして米が原料である。肉、魚は摂取できない。この精進料理の食物繊維がアレルギーを治してくれるのではないかとみられている。最近になって、さらに進化した最新医学研究によって、腸の働きがアレルギー症状を軽減してくれることが判明してきた。腸内細菌が免疫を正常にしてくれるらしい。アレルギー疾患や免疫異常が最近特に増えているのは、腸内細菌が異常になっているからではないかというのである。

最新の医学研究によって、腸内細菌の中のひとつクロストリジウムという菌が注目されている。このクロストリジウムという菌が少ないとアレルギー疾患や免疫異常を起こしやすいということが解ったからである。このクロストリジウム菌が少ないと、免疫を制御する働きを持つ制御性T細胞というものが作られなくなる。そうすると、免疫細胞が暴走してしまい、免疫異常を起こすというメカニズムがある。この制御性T細胞は、通称Tレグと呼ばれる。Tレグが作られないと免疫の暴走が止められないというのである。

実は、アレルギー疾患の患者さんと免疫異常の疾患を起こした患者さんの便を検査したところ、共通していたのはクロストリジウムという腸内細菌が殆どなかったという事実である。さらに驚いたのは、修行前にはクロストリジウム菌が少なかったアレルギーを持つ雲水たちが、驚くことに修行後はこのクロストリジウム菌が増えていたのである。つまり、クロストリジウム菌が精進料理によって増えて、免疫を制御するに充分なTレグが作られたということが検証されたのである。それによってアレルギー症状が改善したのである。

何故、こんなにもアレルギー疾患や免疫異常の疾患が増えたかと言うと、食事の欧米化と食生活の乱れであろう。自己免疫疾患と呼ばれる、リウマチ、膠原病が中高年女性に増加している。免疫の暴走は、クロストリジウムの減少が起きて、Tレグが作られなくなったからだということが判明した。腸内細菌を正常にすれば、自己免疫疾患だって良くなる可能性があるという喜ばしい情報がもたらされたのである。それじゃ、精進料理を毎日食べたら、アレルギー疾患と免疫異常の疾患が治るかと言うと、そう単純なものではないだろう。他の食生活や生活習慣、またはストレスもおおいに関係しているに違いない。

雲水の修行生活では、まず便利な生活ではなくて不便を強いられ、毎日自分達で掃除して料理を作り座禅をする。修行そのものはストレスでもあるが、慣れてきてそれがクセになればストレスではなくなる。座禅は、マインドフルネスという唯識を実践するから、これもストレス解消になる。さらには、ファストフードやジャンクフード、化学薬品や食品添加物からほど遠い生活を余儀なくされる。腸内細菌が喜ぶものしか身体に入らない。こんな生活を普段からできたとしたら、アレルギー疾患や免疫異常の疾患が緩和されるに違いない。試してみる価値はあるだろう。

※イスキアの郷しらかわでは、完全な精進料理ではありませんが、それに近い健康的な食事を提供しています。オーガニックで無農薬のお米と野菜を使った自然食です。おやつも自然食ですし、回りにはコンビニもありませんから、滞在中は修行僧と同じような食生活になります。アレルギー疾患や免疫異常の疾患で苦しんでいらっしゃる方は、是非1週間程度の滞在をお勧めします。天然の山菜料理も提供いたします。親戚の者に山菜を送って食べてもらったら、アレルギーが改善されたと喜んでいました。

子育てにおける父親の役割

イクメンが増えているという。それはそれで好ましいことである。父親が育児を分担してくれていることにより、母親の家事負担が減少して、余裕のある育児ができるから、子どもに対して豊かな愛情を注ぐことが可能となる。そして、父親が育児を経験することで、子どもの微妙な心の動きを解ろうと努力することにより、共感の心が育まれる。さらに、両親が協力して育児をすることによって、夫婦お互いの支え合いの気持ちが生まれるので、家族の絆が強まることであろう。これらの理由から、イクメンがもっと増えてほしいと願っている。

しかし、イクメンという言葉が何となく軽々しい感じがするし、子育てにおける父親の本来の役割が果たせているのかという不安がある。イクメンというファッショナブルな言葉で、育児を喜んでする父親が増えるというメリットがあるとしても、何となく違和感を覚えるのである。何故かというと、子育てにおける父親の役割とは、根本的に母親のそれとは違っていると思うからである。ましてや、イクメンというと乳幼児期の育児参加という意味合いが強い。父親の子育てにおける本来の役割が発揮されるべきなのは、乳幼児期を過ぎた頃からではないかと思うのである。だから、イクメンだけで子育ての役割を果たしたと満足してほしくないのである。

三人の息子たちを育てた経験から、過去を振り返ると実に様々なシーンが甦る。家族5人揃って車に乗って外出した時のことである。車中で、いろいろな会話をしていた時のことである。助手席に座っていた当時小学生高学年の長男が涙を流しながら、嗚咽しているのに気付いた。どうしたんだいと問うと、「お父さんの話に感動したあまり、泣けてしまったんだよ」と言うのである。確かに、その時に人間として生きる意味やあるべき生き方の話をしていたので、感動するというのは解るが、感涙するまでに心に染みるというのは意外でもあった。それを聞いた自分も涙を流して喜んだのを鮮明に覚えている。

子どもに対して、父親がいろんな教訓や教示を話すケースは少なくない。しかし、子どもがそれらの話を聞いて、感涙するまでのレベルまで到達するのは、そんなにないだろうと思われる。手前味噌の話ではあるが、父親と言うのはそれぐらいの話を子どもに出来ないというのは、情けないことだと思う。小学高学年の子どもが哲学的な話をしても解らないだろうと思う人が多いかもしれないが、子どもというのは、この手の話を渇望しているのである。試しに、子どもに哲学や思想、または価値観の話をしてみてほしい。子どもはこのような話を、それこそ目を輝かせるほど生き生きとして聞くことであろう。

近代教育を受けている子どもたちは、学校教育で思想・哲学の学びをしていない。何故なら、明治維新以後に西欧から近代教育を導入して以来、思想哲学は富国強兵の近代国家の設立には不要なものとして排除された。そして、戦後はGHQ政策により、家長制度と軍国主義を崩壊させる為、思想哲学を学校教育で禁じたのである。さらに、日教組は価値観の教育こそ民主主義の敵だと勘違いしてしまい、教室で人間の生き方やあるべき人間教育までも止めてしまったのである。だから、愛国心という言葉さえ死語化させてしまったのである。これが日本人を不幸にさせてしまった根源的問題であろう。GHQにより日本人は洗脳されてしまったのである。

今、学校で的確で適切な道徳教育ができる教師は殆どいない。恐る恐る「心のノート」を棒読みして倫理観や心の在り方を教える先生が少しは存在する。しかし、日教組は「心のノート」を、国家権力を強めるものだとして排除しようとしているし、道徳教育に懐疑的である。小さいところの問題に固執して、大局を見失ってしまっているのだ。ということは、思想哲学や価値観の教育を子どもたちは渇望しているのに、応えられていないのである。とすれば、父親かそれに代わる誰かが、子どもたちに価値観教育をしなければ、子どもたちが生きる道標を見失ってしまうのは当然である。

現在、不登校や引きこもりという大きな教育的問題が存在する。その原因は、社会の制度や学校の環境そのものの問題にあるとしても、そんな中でも根本的な生きる価値観を持てたとしたら、苦難困難にもチャレンジできる勇気を奮い立たせることができるに違いない。そして、その価値観教育をする役割こそ、父親かその代役が務めなければならない。子育てにおける本来の父親の役割が、思想哲学、そして価値観の教育である。社会には様々な苦難困難が待ち受ける。それらの苦難困難に逃げることなく立ち向かっていく強い精神は、価値観の教育で養われるのである。その父親の役割を全うしてほしいものである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、この思想哲学や価値観の教育を父親または母親に対して実施します。ご希望される方があれば、お申込みください。1泊2日コースか2泊3日コースで価値観教育を重点的にさせてもらいます。なお、家庭の都合で日帰りの研修をお望みであれば、数日間を要しますがご相談ください。子どもに幸福な人生を歩んでほしいと思うなら、是非ともご利用ください。

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いじめから子どもを守る対処法

子どもがいじめに遭っている場合、どのように対処したらいいのか迷う処である。そもそもいじめに遭っていることを子どもが内緒にしいるケースが殆どである。先生にも親にもいじめられていることを訴えることが出来ないのである。何故なら、先生に話しても適切な対応が出来ないばかりか、かえって陰湿ないじめに発展するとか、先生にちくったということでより過激ないじめになりかねないことを知っているからである。先生が守ってくれるという確信を持てるなら訴えるのであろうが、残念ながら期待できないのであろう。

親に対してもいじめられていることを訴える子どもは少ない。いじめられていることを訴えても、適切な対応をしてもらえないということと、かえってこじれることが予想されるからであろう。さらには、それだけの深い親子の関係性が構築されていないからではないだろうか。どんなことがあっても親は自分を守ってくれるという、親子の絶対的信頼関係があれば、子どもはいじめられていることを訴えるに違いない。ただし、いじめられていることに対してどんな対処法をすれば良いのか、迷うものであろう。

親が学校に行って、いじめの実態を先生に話したら、どのような解決をしてくれるのであろう。子どものことを先生は守ってくれるのであろうか。いじめている子どもは仕返しをしないであろうか。そんな心配もあるから、安易に学校関係者に話すことを躊躇するに違いない。とはいいながら、警察や法務局などに訴えることまではしたくないのが本音である。自分自身で解決できるならいいが、下手に動いたら悪化させかねない。いじめている子どもと直接話す機会もないし勇気もなく、どんな説得をしたらいいか解らないであろう。いじめている子どもの保護者に直接話すのも、その後の進展を考えると厳しいと思われる。

自分の子どもが中学生の時にいじめられた経験がある。その時にある対処をして上手く行った例があるので、参考にしてもらえたら有難い。当時中学1年生の息子が、学校から帰ってくるなり、「明日から僕は学校に行かない」と言い放った。どうしてと聞くと、どうやら同じ部活の生徒からいじめを受けたからだという。息子はあるスポーツの部活をしていて、その同じクラブの生徒から執拗ないやがらせを受けたという。それも息子が乗っている時に、自転車を蹴って倒すということを何度も繰り返す陰湿ないじめである。「やめてよ!」と何度も言ったが聞き入れてくれないという。

うちの息子は、非暴力主義というのか争い事が嫌いなので、暴力で対応するのはしなかったせいか、度を過ぎた嫌がらせが続いたらしい。いじめをした子どもは身体も大柄で、常日頃乱暴な行動を学校でしていたこともあり、反抗できなかったみたいである。息子はスポーツ少年時代から同じスポーツをしていたので、1年からレギュラーをしていたことから嫉妬もあったのではないかと推測している。子どもたちの心というのはデリケートであり、子育ては難しい。変な対応をしてしまうと、心の傷を残しかねないので、どうしたらいいのか自分でも正直迷った。

そして、次に驚くような行動をしていた自分がいた。息子を連れて、その家に今から行こうと誘った。幸運にも同じ部活だったこともあり、その家の住所を知っていたし、親とも面識があった。自家用車に乗って、そのいじめをした子どもの家に親子ふたりで向かった。たまたま、その家にはご両親が揃っていた。その親に挨拶して、「子どもどうしがどうやら気まずい出来事があったみたいなので来ました。仲直りをしてほしいので二人で遊ばせてもらいたいと思ってきたのでよろしくお願いします」と頼み込んで、家に入れてもらった。子どもどうしは、親が見ているから何事もなかったかのように遊び始めた。その間、親同士はいじめがあったことを敢えて話題にはせず、たわいもない世間話をしていた。

その家の子どもは学校では乱暴なことをしていたが、家の中では『良い子』を演じているというのは予想していた。ご両親もしっかりした方で、おそらく厳しい躾をしていたと想像していた。だから、あえていじめのことは触れず、子どもどうしを遊ばせることにしたのである。意地悪をしていた子どもは、家の中でよい子を演じ過ぎているが故に、そのストレスの捌け口を学校で発揮していたと思われる。親にいじめをしたことが解ったら、どんなに厳しく叱られるか解らない。内心、びくびくしながら遊んでいたに違いない。今後、何か息子に嫌がらせをしたら、今度こそ告げ口をされないとも限らないと思ったのであろうか、その後いじめはなくなった。親同士がこんなにも親しく会話しているということが、いじめのストッパーになったのには間違いない。いじめ事件を通して、子どもどうしの関係性が深まり、そして親同士の関係性も豊かになった。いじめに対応する時に考慮すべきなのは、『関係性』という価値観である。息子との関係性が良かったから、いじめを告白してくれたと思う。このような解決策が出来たのは、好運だったのかもしれないが、参考にして頂けたら有難い。

完璧な親を演じてはいけない!

駄目な親が子どもの健全育成を阻害するというのは、誰でも理解しているが、完璧な親もまた子どもの育成に悪影響を与えるということは、あまり知られていない事実である。特に男の子というのは、父親に対する憧れと尊敬が存在するものだが、あまりにも完璧で偉大な父親だと、子どもの自尊心が育ちにくくなり挫折してしまうことが往々にしてあるのである。自分の身の回りで、こういう親子が多いことに気付くことであろう。教養も高くて社会的な地位と名誉もあり、非の打ちどころもないような父親の息子が、問題行動をするケースが少なくないのである。

芸能人の世界でもよくあるケースであるが、一流の芸能人の子どもが薬物中毒事件を起こすことがある。スポーツ界では、超一流のアスリートの子どもは同じスポーツで大成することが殆どなくて、どちらかというと二流で終わることが多い。例えば、プロ野球の野村監督の息子や長嶋監督の子どもが二流のままで終わったのは以外に思った人も多いことであろう。ただし、親と違う種類のスポーツ界では大成することがある。中小企業のオーナー社長で、一代で大成功を収めた二代目または三代目は失敗することが多いし、跡を継ぐのを嫌がって違う仕事を選ぶケースが少なくない。

 

ある日の我が家の食卓で、17歳になる三男と父親(私)の会話である。

三男「今日学校で先生がエディプスコンプレックスという話をしてくれたよ。お父さん知っている?」

私「勿論、知っているよ。父親に対する息子の劣等感だろう」

三男「そうだよ、オイディプスというエジプトの王子が父親の王様を殺して、母親と結婚する話だよ。それから転じて、父親を精神的に乗り越えることが出来ないと、一生エディプスコンプレックスを持つことになり、自己肯定感を持つことが難しくなるらしいよ」

私「へえー、そんなことを教えてくれる先生がいるんだ。それはいい先生だ。だから、非の打ちどころがない完璧な人格を持ち、誰からも尊敬され名声も地位もある父親だと、子どもは父親を乗り越えることが出来ずに、一生苦しむことになるんだよ」

三男「そうそう、そんなことを先生も言っていた。だから、立派過ぎる父親だと乗り越えるのに苦労するらしいよ」

私「そうなんだよ、お前がお父さんを乗り越えるのに苦労すると思い、完璧な親ではなくて、わざといい加減で駄目な父親を時々演じてあげているんだよ。時々、酔っ払ったふりして、どうしようもないなと思えるような親を見せているんだからね」

三男「そんな無駄なこと必要ないよ。僕はとっくにお父さんを乗り越えているよ。僕はお父さんの遥かに上を行ってるからね。もう駄目な親を見せなくてもいいんだよ」

私「えっ、・・・・・」

妻「そりゃ、息子のほうが一枚も二枚も上だね、確かにあんたのほうが負けてるよ」そう言って、他の息子たちと大笑い。私はショックで何も言えず苦笑い。

 

偉大で完璧な親を乗り越えられないことにより、すべての自己否定感が生まれる訳ではない。他にも自己否定感が生じる様々な原因がある。しかし、このエディプスコンプレックスはやっかいなものであり、実際にこのコンプレックスをずっと持ち続けるが故に、自分に自信がなくなり、苦難困難に立ち向かうチャレンジ精神を持てなくなり、逃避性の性格を持ち続けるケースがある。また、依存性のパーソナリティが強く残ってしまい、自立が阻害される例も多い。つまり、不登校や引きこもりに陥るケースが少なくないのである。社会的地位や名声を持ち、立派な学歴や教養を持つ親は注意が必要であろう。

非の打ちどころがなく完璧で立派な親の後ろ姿を見せるのは構わないが、時々は弱くてどうしようもない人間臭い親の姿を、子どもに見せることも必要ではないかと思う。そうすれば、子どもは安心して親から自立して羽ばたいていくに違いない。そのためには、深い親子の触れ合いが大切である。子どもが寝てしまった後に深夜帰宅して、休日にも出勤してしまうような親は留意しなければならない。または、単身赴任の親も要注意だ。時には、親子でじっくりと時間を共有して、弱くて駄目な人間や子どもじみた親を演じるのも必要なのではないだろうか。完璧な親を演じるのだけは止めようではないか。

みんなの学校を創ろう

「みんなの学校」は、本来あるべき理想の教育を実践している場所だ。そんな確信をさせてくれる珠玉の映画であった。ふとした縁からこの映画が会津若松市で上映されることを知り、早速申し込んで事務局の方に何とか定員の中に入れてもらい、鑑賞させてもらった。予想していた内容ではあったが、その予想を上回る感動を与えてくる秀作だった。どんな名演技の俳優が演じたフィクションよりも、実在の人物がリアルに織りなすドラマは感激させてくれる。出演しているのは、大阪市立大空小学校に実在する児童と教職員たちなのだ。実に素晴らしい感動のドキュメンタリー映画である。

日本国憲法では、基本的人権の中で教育を受ける権利が保障されている。誰でも平等に教育を受ける機会が与えられている。ところが、障がいを持つ子どもたちは、普通学校の普通学級に行きたいと希望しても、何らかの理由で適えられないケースが殆どである。たとえ普通学級に入ることが出来たとしても、心無い同級生や教師の対応次第で学校に行けなくなることも少なくない。ところが、この大空小学校は障がいを持った子もそうでない子もすべて一緒に同じ学級で学ぶのである。

この学校の目標は、不登校を無くすことである。新任して2年目の講師が担任している子どもがある日登校しなくて、親の携帯と繋がらないケースが起きた。どうして良いか解らずおろおろするその先生に、木村泰子校長はこのように諭す。残された学級の授業は私でも出来るが、その子の対応をするのはあなたしかいないと。すぐにその新米担任は、自転車でその家庭に子どもを迎えに行った。不登校をさせない為に、教師たちは最大限の努力をするのである。先生たちは常に子どもの立場で考え行動する。だからこの学校は不登校ゼロなのである。

この大空学校では、発達障害、知的障害、自閉症スペクトラムなどの子どもたちが他の子どもたちと一緒に学んでいる。他の学校で不登校になった児童も、住所地を変更してまでして転校してくる。そして、子どもたちはお互いに支え合いながら共に学ぶ。先生たちもお互いに協力し合う。地域のボランティアの支えもある。この学校では、他の学校では既になくなってしまった豊かな『関係性』がしっかりと根付いている。先生どうしもチームを組んでお互いに助け合い支え合う。子どもどうしの関係性をしっかりと築いているから、いじめも不登校もないのである。

こんなエピソードが描かれている。くだんの新米担任の先生が、子どもを大声で怒鳴りつけていた。それを見ていた木村校長が、その教師を呼びつける。木村校長は部下の先生を頭ごなしに厳しく指導することはしない。子どもに対しての指導もそうだが、必ず質問をするのである。その先生にこう質問する。大声で子どもを指導していたが、あれは教育の一環として冷静に演技したのか、それとも怒りの感情で興奮したのかと問う。教師は怒りに任せてしたことだと正直に答える。もし、それで子どもがいたく傷ついて、窓から飛び降りたらどうするのか、そんなことも考えられず怒りを抑えられないなら教師不適格だからいますぐ辞めなさいと言い放つ。勿論、木村校長は反省して子どもに謝った先生を許すのである。

このように木村泰子校長は、常に子どもが中心の教育を志して行動している。故に先生への対応も厳しくなるが、愛情溢れる指導だから絶大な信頼を得ている。子どもたちもどうにもならなくなったら木村校長を頼ってくる。通常の学校長はマネージャー、つまり管理者である。しかし、木村校長はリーダーである。それも理想のチームリーダーだ。けっして高圧的でもないし独善的でもない。校長を加えたチームはいつも皆で相談しながら進むべき方向性を確認している。他の学校では、担任の学級運営に対して口を出さないのが暗黙のルールである。しかし、大空小学校では担任で手に負えなくなったら、他の先生たちに助けを求め、そして快く協力するし助け合う。

この学校では、絶対に守らなければならないルールがひとつだけある。それは『自分がされていやなことは人にしない 言わない』である。そのルールを破った子どもは校長室に行ってやり直しを約束するのである。大空学校では、このルールを子どもたちも教職員も常に守っている。だから、いじめやパワハラもないし、不登校もないのである。不登校が起きるひとつの要因は、子どもたちや教師による心無い言動が子どもの心を傷つけ、学校からそして教室から居場所を奪うからだ。このルールを徹底することで安心できる居場所が確保できるのだ。大空小学校は、快適な居場所をみんなが努力して作り上げているから不登校がないのである。

大空小学校では、障がいを持った子どもたちを、そうでない子どもが自ら進んで温かい心で支援する。そして、このような支援や助け合いをすることが、自分の喜びとなり自分自身を認め誉めることに繋がり、自己肯定感を育てることになる。そして、何よりも重要な価値観として、つながりや絆の大切さを学ぶことになる。さらに、人間の多様性を受け入れて、共生ということの大切さを実感するのである。みんなが大きな自己成長を遂げる。そして教師もまた同じように、深い自己啓発が生まれる。さらには障がいを持った子たちも、認められ評価され誉められて大きく育つ。まさしく大空小学校は教育の場でなく、『共育』の場なのである。大空小学校のような「みんなの学校」をもっとたくさん創れば、学校で起きている不登校、いじめ、指導死などの諸問題は起きる筈もない。すべての学校が「みんなの学校」になることを目指して、これからも活動していくことを心に誓った。

コレステロールを薬で下げるのは危険!

コレステロールというと、動脈硬化の原因物質だとして、健康を害する悪者として取り扱われている。高コレステロールの状態が続くと、虚血性心疾患になりやすいし、脳血管障害になりやすいと言われている。だから日本では、予防の為にメタボ検診が行われていて、高コレステロール血症の人は、コレステロールを下げる薬剤が投与されて、コレステロールを下げる治療が行われる。したがって、日本人ではコレステロールが悪者という観念が強く、特にLDLコレステロールは悪玉コレステロールと呼ばれ、嫌われ者として扱われている。

ところが、欧米人と比較すると日本人の認知症患者が何倍も多いことが判明し、その原因を探っていったところ、コレステロールを投薬によって下げ過ぎたことが原因だと突き止めたというのである。米国ではコレステロールを投薬で下げると、アルツハイマーになる人が激増したらしい。それで投薬するのを止めたという。さらに、ヨーロッパでは寝たきりになっている老人は殆どいないのに、日本人の高齢者ではかなりの高率で寝たきり老人が多いが、これもコレステロールを低くしたことが原因らしいと分かった。さらに言うと、日本人のうつ病が多いのもコレステロールが低くしたせいだというのである。いやはや、コレステロールは悪者どこか、健康を保つために大切なものではないか。

コレステロールには、HDLコレステロールとLDLコレステロールがある。HDLコレステロールは動脈硬化を防ぐから善玉と呼ばれ、一方LDLコレステロールが増えると動脈硬化になりやすいので悪玉と呼ばれている。しかし、最近の医学研究によると、LDLコレステロールが下がり過ぎると、うつ病になりやすいということが解ったのである。また、コレステロールを投薬で下げると、糖尿病になる確率が1.7倍になることも判明した。さらには、LDLコレステロールが高い人のほうが統計上長生きすることも解ってきた。そして、LDLコレステロールを下げても、心筋梗塞や脳血管疾患のリスクは減らないことも統計上明らかになったのである。

それでは何故LDLコレステロールを下げるとうつ病になりやすいかというと、セロトニンというホルモンが関係している。ご存知のようにセロトニン不足がうつ病の主要因である。LDLコレステロールは、セロトニンの受容体の細胞膜を作るという重要な働きをしている。LDLコレステロールが不足すると、セロトニンが豊富に存在しても、それを受け取って活用することが出来なくなる。だから、気分障害や不安障害が起きやすくなり、それが不眠を誘発し、重症化してうつ病になるらしい。欧米人と比較して、日本人の中高年に異常にうつ病が多いのは、コレステロールを投薬で無理に下げているせいかもしれない。

最近、数人の中高年のご婦人がコレステロールを低下させる薬を飲んでいて、何となく違和感を覚えているというので詳しく聞き取りを行った。共通している症状が、甘いものが異常に欲しくなり、ご飯を沢山食べたくなっているというのである。間食も猛烈に食べたくなるらしい。さらに、何となく不安な気持になり、不定愁訴の症状を呈しているというのである。更年期の症状かと思い、仕方ないと本人は諦めているが、これはもしかするとコレステロール降下剤の副反応ではないだろうか。人間には恒常性(ホメオスタシス)があり、女性ホルモンが少なくなるとコレステロールを増やして代用しようと働く。だから必要なコレステロールが不足すると、自然と糖分を身体が欲するのである。これではコレステロール降下剤を飲むと、糖尿病になるのは当然である。

女性は更年期になると、女性ホルモン量が低下する。女性ホルモンは免疫を高める働きもあるので、コレステロールをその代用として用いる。したがってコレステロールを自然と増やすのである。だから、中高年女性のコレステロール値が高くなるのは当然であり、むやみに投薬で下げると様々な障害が起きる。下がったコレステロール量を増やすため、無意識で過剰な糖分摂取をする。肥満と糖尿病になるのは当たり前である。コレステロール不足になり、セロトニンが取り込まれずうつ病になる。免疫力が下がり、ガンなどの重病を発症して長生きできない。コレステロールの降下剤を飲むのは慎重になるべきである。特に中高年の女性は熟慮が必要だと言える。

 

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若さを保つ秘訣は「骨」

人体神秘の巨大ネットワークというNHKスペシャルを見ていて、びっくりした。老化を制御する働きを骨がしていることが判明したというのだ。骨は、老化をさせるか、それとも老化を防止するのかのキーマンだというのである。そんな馬鹿なと思うであろうが、最新医学はそんなことまで解明しつつあるということである。勿論、老化の原因は他にもあるが、骨がその重要なファクターとなっているとは誰も気づいていなかったが、骨に存在する骨細胞が、老化の鍵を握っていることが判明したのである。

まず骨は、記憶力の向上や低下に関係しているという。骨の細胞から出るオステオカルシンというホルモンが血液によって脳の海馬まで運ばれて、海馬を刺激する。そうすると海馬の働きが活性化するだけでなく、海馬の細胞も増加して大きくなるという。反対にオステオカルシンが分泌されないと、海馬の働きは衰え、海馬の体積も縮小するという。極端に海馬が委縮すると、認知症にもなりやすい。つまり、骨細胞が脳の老化をさせるかどうかを決めるというのである。何とも怖ろしい事実である。

さらに、骨細胞から分泌されるオステオポンチンというホルモンが、人体の各組織に送られて、免疫力を高めるのに役立っているというのだ。オステオポンチンが不足すると免疫力が低下して、ガンや生活習慣病、または重篤な感染症を引き起こすのである。それだけではない、オステオカルシンが筋肉組織に届くと、筋肉組織の細胞を増加させて、筋力アップにも寄与するらしい。さらに驚くのは、オステオカルシンが精巣に届くと、なんとテストステロンというホルモンを活性化させ、精子の生産力を向上させるというのである。こんなにも骨細胞が、人体の老化と若返りに関係しているという事実が解ったというのである。

どうして骨が人体の老化に関係しているのかというと、どうやら骨の状況によって寿命を延ばすかどうかをコントロールしているのではないかと見られる。どういうことかというと、骨の密度が低下してスカスカの状況になってくると、もう無理して長生きさせる必要がないと記憶力や免疫力を下げるのかもしれない。さらには、筋力も低下させてしまうし精力も必要ないと判断するとみられる。骨の状態から判断して、少しずつ老化させて死にむかって進ませるのではないかと推察できる。ある意味恐怖というか、残酷なシステムとも言える。

その際、オステオカルシンやオステオポンチンというホルモンを出す骨芽細胞を増やすかどうかをコントロールするのが、スクレロスチンというホルモンらしい。このスクレロスチンが骨細胞を作るかどうかのアクセル役とブレーキ役を果たしているという。スクレロスチンが多いと破骨細胞が多くなり骨芽細胞が減少する。逆にスクレロスチンが少ないと破骨細胞が少なくなり骨芽細胞が増加する。つまり、スクレロスチンが少ないと骨細胞が増えるし、スクレロスチンが多くなると骨細胞が少なくなる。

ということは、スクレロスチンというホルモンを少なくすれば、骨細胞を増やして老化を防げるということである。もし、スクレロスチンを減少させることが出来たら、若返りすることも可能になるのである。このスクレロスチンをどうしたら減少させることが出来るのかを研究したら、運動することでそれが可能になるということが判明した。その運動も、骨に対してショックを与えるような運動こそ効果が高いということが解った。つまり、歩く、走る、ジャンプする等、骨に対して負荷をかけることで、スクレロスチンが少なくなることが判明したのである。

どんなスポーツをすると効果があるかというと、ジャンプをするといえばバレーボールやバスケットボールが代表的であり、陸上競技も同様である。走って急停止するテニスやランニングも効果がある。高齢者はこんな激しいスポーツは出来ないから、軽登山、ハイキング、散歩でもよい。ただし、階段や急坂を下る時に骨に負荷がかかるのが良いので、平らな処を歩いても効果は少ない。高齢者が骨折して寝たきりになると、急激に老化するのはこのスクレロスチンが増加するからであろう。寝たきりにならないように注意すると共に、ある程度骨に負荷のかかる運動を継続して、若さを保ちたいものである。

高僧徳一と仏都会津(2)

会津に仏教を広く布教した高僧徳一という人物について触れてみたい。彼は、当時の仏教界においては、非常に著名な学僧であり、実力もあり影響力も高い僧であったらしい。法相宗の中でも、理論派として名声があったのではないかと見られる。当時の奈良仏教界では、法相宗、華厳宗、法華宗、律宗などの古い仏教宗派が実権を握っていたと推測される。政治の権力者とも結びついていて、利権や権益にしがみつき、仏教により広く人々を救済するという本来の使命を忘れてしまい、贅沢な暮らしをして堕落していたらしい。そんな奈良仏教に幻滅して、新たな布教の地を求めて会津にやってきたのであろう。

高僧徳一がどれほどすごい人物だったかというと、天台宗の伝教大師最澄との論争をしたとの記録である。実際に論争を繰り広げたのではなく、お互いに仏教の解説書を書くことでのやり取りだったという。仏教における衆生の成仏が誰でも出来るのか、それとも限られた人しか出来ないのかという論争だったと伝えられる。それにしても、高僧徳一は最澄と堂々と仏教論で渡り合ったという。さらに、高僧徳一は最澄だけでなく真言宗の弘法大師空海にも論争を挑んだ。空海はそんな挑発にはさすがに乗ることなく、大人の対応をして上手くそらしたようである。

浄土真宗の親鸞の教えは、悪人正機説に代表されるように誰でも成仏できるというものである。法華経を根本経典として仰ぐ天台宗の最澄も同じく、誰でも成仏できるという考え方であった。これは一乗説と呼ばれている。高僧徳一は三乗説を取っていて、誰でも成仏できるというのは幻想であり、やはりそれなりの元になる人間性の基礎がないと仏性を得ることが出来ないし悟れないのだとする考え方だったという。どちらが正しいかは別にして、徳一和尚は奈良仏教の退廃ぶりと会津人の素晴らしい人間性を実感して、基礎となる人間の根本となる高い価値観がないと、仏性を得ることは出来ないと思ったのではなかろうか。だから、会津を布教の地と選んだのであろう。

そんなにすごい高僧徳一は、会津に衣一枚というみすぼらしい姿でやってくる。なにしろ僧侶が贅沢な暮らしをしてはならないという考え方であり、衣服や住居も最低限のものでよいという暮らしぶりだったようである。そんな余裕のお金があれば、仏教の布教のために使用するべきだという考え方を徹底したようである。現在の僧侶たちに爪の垢でも煎じて飲まして上げたいものである。日本で仏教が廃れた一因がこのへんにもありそうだ。そして、仏の教えで人々を救うために、会津一円から始めて東北全体に仏教を広めていったと伝えられる。

その仏教を広めるにあたり、人々の信仰心をゆり起こすために、お薬師さまの教えを活用したらしい。お薬師さまというのは、ご存知のように薬師如来を指す。薬師如来というのは、左手に薬壺を持つ仏像であるから誰でも認識できる。苦しんでいる衆生をその万能の薬により、お救いする仏像として有名だ。ただお救いするだけでなく、自分でも仏性(ぶっしょう)を発揮できるように、日々努力しなさいよと温かく励ましてもくれる仏像でもある。さらに、社会的悪や人間の中に存在する鬼も懲らしめてくれる、頼りになる存在なのだ。そんな薬師信仰は東北各地に広がり、多くの素晴らしい薬師如来像をもたらしてくれたのである。

会津に多くの寺院や仏像を残してくれた徳一和尚の功績は大きい。その代表格は、一時期壮大な寺院群を形成したと言われるのが、現在の磐梯町にあった慧日寺(えにちじ)と呼ばれるお寺である。その慧日寺は衰退して、見る影もなくなってしまった。しかしながら、その慧日寺跡に金堂が10年前に再建され、さらには中門も再現されたのである。往時の慧日寺の隆盛を偲ぶことができる。また、徳一和尚が建立したと言われる柳津町の虚空蔵様と呼ばれる圓蔵寺には今も多くの参拝客が訪れて賑わっている。高僧徳一ゆかりの会津のお寺や寺跡、そして仏像を訪ねてみてはどうだろうか。

 

※イスキアの郷しらかわを利用される方々で、会津の寺社や仏像を訪ねてみたいという方には、同行してガイドもいたします。お寺の縁起や仏像のこと、さらには徳一和尚のことなどを詳しくご説明いたします。仏像は見る人の心象を映す鏡とも伝えられ、「それでいいんだよ」と優しく語りかけてくれるとも言われています。疲れて傷ついた心を癒すには、仏像巡りもお勧めできます。