匂いの暴力は止めて!

街中ですれ違った若い女性が、強烈な香水やフレグランスの匂いを撒き散らしているのに、最近出合うことが多い。それも、近付かないうちから匂ってくる、ものすごいやつである。本人はエチケットやお洒落のつもりで付けているのであろうが、はた迷惑なものである。むせ返るような匂いに、吐き気さえ覚えてしまう。おそらく、香水を付けている本人は、嗅覚が麻痺しているのではないかと思われる。通常の嗅覚を持っている人にとっては、あんな匂いは暴力に等しい。人間にとって、嗅覚というのは無意識下に一番強い影響を及ぼすものであるから、あの強烈な匂いはPTSDにさえなりそうである。

そういえば、若い女性だけが強烈な匂いを発しているわけではない。最近は、オーデコロンを付けている男性も増えた。それも、シトラス系でなくてフローラル系やムスク系のフレグランスをプンプンさせている例も多い。絶対に似合わないと思うのだが、困ったものだ。そもそも、体臭の強い人種が、その匂いを誤魔化すために付けていたのが香水なのに、本来体臭の少ない日本人が付けるのはいただけない。自然の素材の香を焚いて、緩やかに着物にしみこませて、ふと香るようなものなら良いが、科学的に作り出した匂いは勘弁してほしいものである。

登山をしていても、オーデコロンを付けている登山者に出合うこともある。あれは、環境破壊というか自然に対する冒涜だと思う。そして、かなり危険でもある。自然界の動物や昆虫の行動を惑わすだけでなく、襲われる危険性を高める。自然の花や木々の香りを楽しむ人がいるのだということを、忘れないでもらいたい。絶対に避けてほしいことである。さらに、匂いの強い化粧品を付けて登るのも、やめてほしいものである。毎日匂いの強い化粧品を付けていると、嗅覚を麻痺させてしまうので注意が必要である。嗅覚が弱くなると、山での危険を予知する能力も低下するし、花の匂いを楽しむことも出来なくなる。

匂いというものを楽しむためには、自分自身を無臭にしておく必要がある。勿論、加齢臭やタバコ・酒の臭いなどからもフリーにしておく必要があるだろう。加齢臭はどうしようもないものだと思っている人も多いであろうが、けっしてそうではない。健康的な食事をしていれば防げるものである。最近の西洋かぶれの食事が、加齢臭を起こしているというのはあまり知られていないが、専門家はその事実を認めている。高脂肪・高動物性蛋白の食事は、間違いなく加齢臭を起こす。だから、野菜を中心にした和食が、日本人にとって相応しいのだ。登山の際に、すれ違う中高年の登山者が加齢臭を発している例が多い。あれも、臭いの暴力のひとつである。

目は、瞼を閉じるか意識して見なければいい。耳も塞げば聞こえないし、意識して聞こえないようにも出来る。味覚は食べなければいいし、触覚は触らなければいいのだ。しかし、鼻は呼吸する為に必要なので、常時塞ぐことは出来ない。したがって、匂いの暴力にいつもさらされてしまうのだ。深層意識に最も働きかける五感は、嗅覚だと言われている。したがって、脳に一番影響を与えるのは、間違いなく匂いなのである。だからこそ、香水の匂いや加齢臭を、他の人に撒き散らさないでほしいと強く思うのである。無意識下に働きかけるのだから、望まない匂いによって脳に悪影響を与え兼ねないから危険でもある。

最近、洗濯物にわざわざ匂いを付ける柔軟仕上げ剤や洗剤にわざわざ添加するフレグランス剤が、大量に売れているという。これから益々人工的な匂いが街中に溢れかえることになるだろう。本人は好む匂いだとしても、周りの人々が望まない匂いを嗅がせられ続けるのである。日本人は古来より、自然の中に漂う微妙な匂いを嗅ぎ分けられる嗅覚を持っていた。俳句、短歌を初めとして、文芸作品には匂いとか香りが重要な役割を担ってきたのである。人工的な刺激のある匂いによって本来の嗅覚が麻痺してしまい、そういう微妙な匂いや香りを嗅ぎ分けられなくなったら、日本の素晴らしい文化が廃れてしまうかもしれないのである。人工的な匂いをこれ以上増やさないようにしたいものである。

コミュニティ崩壊の原因

コミュニティがもはや崩壊してしまったと、心ある人たちの間で言われている。家族というコミュニティも、地域コミュニティも、そして国家というコミュティも崩壊してしまっていると認識している人は少なくない。家族間の繋がりは希薄化してしまい、お互いの信頼もなく、自分勝手に生きて行動し、支えあうという関係も崩壊してしまっている家庭が多い。それ故に、不登校、引きこもり、仮面親子、仮面夫婦の関係にありながら、解決する術も待たず、おろおろしている状況に置かれてしまっている。家族という最小単位のコミュニティが崩壊しているのである。学校というコミュニティも崩壊しているし、地域・国家レベルならなおさらである。

少なくても地域コミュニティがまだ残っていると言われている田舎でさえも、お互いが支えあう地域社会が少なくなってきている。超高齢者単独世帯にさえ、共同作業の人足提供を容赦なく迫るし、除雪作業を手伝ってくれるような隣人も少なくなっているのである。嘆かわしいものである。そして、国家レベルで見ても、愛国心というか自分たち日本民族を愛する心は失われ、国家的損失をしてしまうことや国民が困るようなことを平気で行う国民が多い。政治家・行政職・司法職でさえも、国民を裏切り国益を損なうような行為を平気でする世の中である。

企業においてもしかりである。愛社精神などという言葉は死語になりつつある。そりゃそうだ、経営トップだって会社のことなんて考えていない。投資家に自分がどう評価されるかということを気にして、社長という身分にしがみつき、自己保身のことしか考えていないのだから、社員だって自分中心になる訳だ。当然、お互いに助け合い支えあうといった社風は感じられず、ノウハウも独り占めにして、部下を育てようともしないのである。なにしろ、部下が自分より仕事が出来ると、自分の身が危なくなると思っている輩ばかりの社員だから、コミュニティなんてものは存在しなくなってしまったのである。

このように、いたるところでコミュニティが崩壊してしまっているのであるが、その原因は何であろうか。このコミュニティの崩壊を起こした犯人は誰なのか、追及してみたい衝動にかられる。まず、いつからこんなコミュニティの崩壊が始まったのであろうか。ある人は、小泉・竹中政権の新自由主義に踊らされてから酷くなったと言う。また別の人は、戦後の占領軍政策により、家族や地域共同体が崩壊させられてしまったと言う。いやいや、そうではない、明治維新後に近代教育が取り入れられてから、コミュニティは崩壊し始めたと主張する人もいるのである。

明治維新からコミュニティの崩壊が起き始めたというのは、あながち的外れでもないようだ。では、明治以降に近代教育の制度を取り入れて、西洋的な価値観の教育を推し進めたのは誰かというと、大久保利通という明治維新の立役者の一人だという。富国強兵を推し進めるのに、近代教育という客観的合理主義を土台とした教育が最適だと、大変な勘違いをしてしまったようなのだ。つまり、物や事象を分離思考で考え、客観的分析ですべてを把握しようと考えたのである。この考え方に則った為に、近代教育を受けたものは、他人を批判的批評的に見るという習慣を身に付け、物事を主観的に見るとか、事象や物体を全体として捉えるということが出来なくなってしまったのである。

こういった考え方は、あくまでも個を大事にし過ぎる考え方と、関係性というものをないがしろにしてしまうという習慣を植え付けてしまったのである。つまり、人間と言うものは、他との関係性を大切にして、お互いに支えあい生きるべきなのに、客観的分析手法を大事にしたために、他を批判するような人間ばかりを育ててしまったのである。故に、様々なコミュニティは崩壊してしまったのであろう。関係性や繋がりを大切に生きるという統合の思想こそが人間本来の生き方なのに、それを忘れさせてしまったのは、近代教育の導入に原因がある。近代教育こそが、コミュニティ崩壊の元凶だったと結論付けても過言ではない。だとすれば、この近代教育を見直して、関係性こそが大切なのだという本来のあるべき統合思想の教育を推進すれば、コミュニティの崩壊は止められるし、再生できるかもしれないのである。今こそ、客観的で批判的な態度を改めて、自ら主体的にコミュニティの再生に取り組んでいきたいものである。

日本の生産性が最下位の訳

日本人一人当たりの労働生産性が、G7各国の中で最下位だというショッキングなニュースが流れていた。先進諸国の中で、日本の生産性が低いということは言われていたが、まさか最下位になるとは思いもしなかったのに、はっきりした数字で現わされると衝撃的である。以前から言われていたのが、ブルーカラーの生産性はそこそこ高いが、ホワイトカラーの生産性が低いという事実だ。今回、やはり生産部門は結構生産性が高いらしいが、サービスや販売部門の生産性が各国と比較して異常に低いので、足を引っ張ってしまったという。どうして、日本の生産性がこんなにも低いのだろう。

日本の一人当たりの労働時間は、先進諸国のそれと比較して異常に長い。それも、生産性の低さに影響しているのかもしれない。逆説的に言えば、生産性が低いから残業をせざるを得ないとも言えよう。西欧のサービス部門や販売部門は、残業もそんなにしないし、休日もしっかり取っているという。しかも、有給休暇消化率も高いし、バカンスと呼ばれる長期休暇をしっかり取れている。日本では、有給休暇もろくに取れていないばかりか、休日出勤も多い。そもそも所定労働日数も先進諸国と比べて多過ぎると言える。日本人は働き過ぎだと言ってもいいだろう。

どうして、日本人はこんなにも長時間労働するのだろう。事務処理能力が低いのであろうか、それとも段取りが悪いのであろうか。日本人の事務処理能力や段取りにはそんなに問題があるとは思えない。どちらかというと、無駄な時間を浪費しているように思えるのである。生産性に直接影響のある仕事を優先にしないで、仕事の仕組み作りや規則など、またはマニュアル作成や管理手順などの周辺業務に追われているように感じている。しかも、会議や打ち合わせなどに時間を浪費しているように思うのである。

本来の生産的な労働でなく、こんなにも非生産的な労働に時間が費やさられるのかというと、それは労働者の意識が低いからであろう。労働者の主体性・自発性・責任性が異常に低いのである。仕事に対して前向きになれなくて、多くの人が働かせられているという意識になっているように思える。当然、自ら仕事のやり方を工夫したり改善したりする意識も低い。ミスとかやり直しも増える。部門間の関係性も悪く、連携も上手く行かないから問題が山積みになっていて、改善の糸口もつかめていない。モラルも低くて、偽装事件などのコンプライアンス違反も後を絶たない。

日本の生産性が低いのは、労働者の主体性・自発性・責任性が発揮されていないからであるのは間違いないだろう。そして、そうなってしまっているのは労働者だけが悪い訳ではない。企業として、労働者の勤労意欲を高める努力をしていないからである。勤労意欲が低いのは、社員満足度が低いからであろう。社員満足度というのは、待遇や職場環境のことではない。それは、社員不満度要因である。社員満足度というのは、顧客の満足度を高めるのに自分が貢献できている時に高くなる。

会社の仕組みを大胆に変革し、社員満足度を高めることで顧客満足度を飛躍的に高めることに成功した企業がある。それはSAS(スカンジナビア航空)である。若き経営者ヤン・カールセンがCEOに付いて、接客部門への徹底的権限移譲をした。顧客と接する最初の15秒を「真実の瞬間」と呼んで、顧客満足度を高める最大限の努力をすることを社員に求めた。その為には顧客と直接応対する者に、出来得る限り権限移譲をする必要があるとして、大胆な組織改革をしたのである。顧客満足度が飛躍的に高まり、業績はV字回復した。そうすることで、社員の働く喜びがとてつもなく大きくなり、社員満足度が高まり、意識改革が実現したのである。

顧客の喜びや満足は、社員のモチベーションを上げるし、主体性を持たせることができる。稲盛さんがJALのCEOに付いて、徹底的な権限移譲と意識改革を実行して、顧客満足度を高めて、業績がV字回復したのも同じ手法である。社員の意識を改革して、主体性・自発性・責任性を持たせるには、出来得る限り接客現場に権限移譲する必要がある。言い換えると、自分が会社を代表するという意識を持つことこそが、働く喜びを実感できるという意味である。社員一人一人自分が社長だと思えるような会社作りが必要なのである。そうすれば、社員のモチベーションも高まり、自ら進んで仕事の効率と品質を高める改善を実行するに違いない。当然、収益性も飛躍的に高まるから、労働生産性も向上すると確信している。

縄文人の生き方に学ぶ

最近、縄文人の生き方が注目されている。歴史の研究が進み、さらに遺伝子の解析技術が進化したものだから、縄文人がどこからやってきたのかという祖先探しや、縄文人の生活がどうだったのかが明らかにされつつある。いまさら、何故縄文人なんかに注目するのかというと、日本人のルーツがどうなのかを明確にすることで、自分たちの今の生き方が正しいのかそれとも間違った方向に進んでいるのかが解るかもしれないのだ。または、自分たちの祖先を知ることで、もしかすると自分自身が心から肯定出来たり誇りを持てたりするかもしれないのである。実に面白いことが進みつつあるのだ。

縄文人というのは、今から約1万6,500年前から約3,000年前にわたり、13,500年間もの長い期間日本で縄文文化を築き生きた民族である。日本人の祖先の一部が、縄文人だというのは定説になりつつある。小学生の時に習った縄文文化と弥生文化は、こういう歴史観であったように思う。縄文人は狩猟民族であり、稲作や畑作はしておらず、穀物を栽培し備蓄する技術もなく、自然の猛威の中で苦労していた。ところが弥生文化が起きて、稲作の技術が伝わり豊かな生活が可能になった。穀物貯蔵の技術も発達して、安定した生活を営めるようになった。こんなふうに教えられて、何となく縄文人が弥生人に進化していったと思い込まされていたのである。

ところが、歴史研究が進んでDNA解析の技術も進化すると、どうやら縄文人と弥生人はまったく別の民族だったのではないかという説が採用されつつある。つまり、縄文人は外からやってきた弥生人によって駆逐されて、地方のほうに追いやられてしまったのではないかという推測がされているのである。沖縄の人たちのDNAとアイヌのDNAが非常に似通っているらしい。また、蝦夷と呼ばれた人たちが元々日本に住んでいた縄文人の末裔で、東北には縄文の遺跡が多数見つかることから、東北地方に縄文人が南からやってきた弥生人に追いやられてしまったのではないかと見られている。

あくまでも推測でしかないが、北九州か山口県のあたりに朝鮮半島から弥生人がやってきて、縄文人を駆逐していったのではないだろうか。おそらく日本海沿いに北上して、鳥取から福井、金沢、富山、新潟、山形、秋田あたりまできて東北一円に広まったと考えられる。鳥取の方言と東北地方の方言が似ているし、京言葉と山形庄内地方の訛りが似通っているのはそのせいかもしれない。日本人のDNAには、縄文人のDNAと弥生人のDNAが混在しているらしい。ところが、東北人のDNAには縄文人のDNAの比率が高いという。ということは、縄文人の気質が東北人には色濃く残っていると想像できよう。

さて、その縄文人であるが、あまり文化程度が高くなくて、狩猟民族だから共同体も不得意だったのではないかと見られていた。ところが、歴史研究が進むと樹木の植林や栽培技術があったことが判明してきたし、ため池を作って治水をしてきたことが解ってきたのである。自分達が豊かな生活をする為でなく、何百年後の子孫の為に共同で植林したのではないかと言われている。豊かな湧き水は、縄文人が残してくれた贈り物である。争いを好まないし、闘う道具も不足し戦闘技術も低かったから、好戦的な弥生人に駆逐されたとも言える。縄文人の共同体は関係性が豊かであったから、支え合い助け合う意識が高かったと思われる。

縄文人のDNAは、個人の利益よりも地域全体の利益や将来の子孫の利益に貢献できる気質を持っていたと思われる。そして、彼らの共同体はお互いに豊かさを分け合っていたのではないかと見られる。だから、貨幣という価値も必要なく財産を蓄えるという観念も存在し得なかったとみられる。おそらくモノの豊かさよりもみんなの心の豊かさ、平和、幸福を追求していたのではないかと思われる。人間としての本来の生き方、いや宇宙の摂理に違わない生き方ではないだろうか。東北人、または沖縄、アイヌの方々には、その縄文人のDNAが色濃く残っているからこそ、自分達のコミュニティを大事に育ててきて、その共同体意識が残されているのであろう。そんな縄文人の生き方に学び、その生き方に沿ったライフスタイルを追求して行きたいものである。

毒親なんて呼ばないで!

ネット上で、酷い親のことを毒親と呼んで非難している。つい最近放映されていた『明日の約束』というフジTV系列のドラマでも、毒親がテーマでもあった。フジTVといえば、どちらかというとお笑い系やバラエティー系を得意としていて、恋愛ものドラマを主流としていたのに、最近はこんな真面目なドラマをするようになったんだと感心しながら視ていた。視聴率は低かったが、TV関係者からは高い評価を受けていた。ドラマの最後は、ちょっとあっけなかった気もするが秀作であった。仲間由紀恵や手塚理美が毒親を好演していた。好感度の高い女優に毒親を演じさせるという斬新なチャレンジも買いたい。

このドラマでも描いていたことではあるが、誰でも毒親になりうるということである。そして、毒親もなりたくてなった訳ではなくて、ある何かによりそうさせられてしまったということに注目したいのである。つまり、毒親である本人は好んで毒親であるのではなく、止む無くというのか、知らず知らずのうちに毒親にならざるを得ない状況に追い込まれてしまったといえよう。勿論、本人に何の責任もないなどと乱暴なことは言わないが、責めるべきは本人ではなく、本人に関わる周りの人間や社会全体にも責任があるということである。毒親なんて呼ばないで欲しいものである。

毒親と呼ばれる本人は、自分のことを毒親だとはまったく思っていなくて、こんなにも子どもに対する愛情が深い親は他にはないだろうと自負していると思われる。確かに、子どもを愛する気持ちが大きく、子どもが大好きで、なによりも子どもの幸福を願っているのは間違いない。そして、多大な期待を子どもにかけているし、子どもの成功を誰よりも願っているのである。ただし、それが度を過ぎてしまい、子どもに対して過干渉になり過ぎるきらいがあることは確かである。そして、子どもの平和や幸福が脅かされる事態になると、攻撃性が牙を剥くのである。

毒親は、自分が期待するような子どもにならないとみるや、その子どもには勿論のこと、学校や学友、またはパートナーに対しても攻撃する傾向にある。期待通りの子どもにならないのは、学校、教師、塾講師、家庭教師、部活の指導者、学友、先輩にあるに違いないと思い込みがちである。そうなると、クレーマーとなり学校に乗り込んでくる事態にも発展するのである。自分も学校に何度か乗り込んだ経験があるが、それは子どもの基本的人権が明らかに侵害されたと確信したからであり、子どもを守るにはそれしか方法がなかったからである。先生にも理解してもらったし、快く応じて改善してくれた。

毒親がこのような攻撃性まで発揮するような心理状態に何故なるかというと、子育てに対する根本的な価値観の間違いが指摘されよう。そもそも子育てには正解はないと言われているが、ある程度の原則的な価値観はあるだろう。まずもって、子育ては誰の為にするのかということである。毒親も含めて殆どの人は、教育は子どもの為でしょうと即座に答える。確かに、教育は子どもが主人公であり子どもが健全に育成されることを目指すのは間違いない。しかし、本当に教育の目的はそれだけであろうか。

教育をするのは子どもの為と言い切る保護者、学校関係者、文科省の役人、政治家は多い。果たしてそうであろうか。明治維新以降、戦後は特に、思想哲学を教育から排除した。軍国主義に発展してしまったという歴史から、戦後は全体主義や国家主義までも忌み嫌った。だから、国家が教育に対して及び腰になり、教育は世の為人の為に役立つ人間を育成するということを声高に宣言しなくなってしまったのである。これが完全な間違いであったと言わざるを得ない。教育は自分の為でもあるけれど、人々を幸福にして平和に生きる世の中を創る為であり、社会全体に自ら進んで貢献できる人間として成長する手助けをするのが教育の正しい目的である筈である。

学校でも家庭においても、勉強しないと良い学校に行けなくて収入の多い職業に付けないよ、と子どもを叱咤激励する。そんな教師と親たちだから、学校ではいじめや不登校という問題が起きるのである。引きこもりが起きるのも、元を正せばそんな誤った価値観に支配されている社会に魅力を感じないからであろう。毒親が生まれるのも、そんな間違った価値観を教え込まれた故である。この世の中は本来、自分の利益を求めるために存在するのではない。量子物理学、宇宙物理学、最先端の医学、脳科学、心理学、どれを取っても、世界は全体最適と関係性によって成り立っていることを証明している。間違った教育理念が、個別最適を目指していて関係性をないがしろにしているから、こんな毒親というモンスターを自ら生み出していることを肝に銘じるべきであろう。

命短し恋せよ乙女

♪いのち短し恋せよ乙女♪というのは、ご存知のようにゴンドラの唄のフレーズである。この唄を聞くと、よく思い出すのは黒澤明監督の『生きる』という名作映画である。主人公演じる志村喬が人気のない雪降る夜の公園で、ブランコに座りながら唄うこのフレーズが強烈に記憶に残っている。この唄い出しのフレーズは知っているものの、その後の歌詞は知らない人が多い。『いのち短し恋せよ乙女、朱き唇褪せぬ間に、熱き血潮の冷えぬ間に、明日の月日のないものを』が一番の歌詞である。

実に意味深い歌詞でもある。いのち短しというのは、おそらく乙女でいられる時間が限られているという意味であろう。明日にはもう若さを失うかもしれない。紅き唇も明日には色褪せるかもしれないし、熱く燃え滾る熱情だって明日は冷え込んでしまうかもしれない。だから、乙女たちよ、若いうちに恋をしなさい。という意味だろうと想像している。現代の若い女性は、恋に対して臆病なように感じる。恋愛をするのが怖くて二の足を踏んでいるように感じる。恥ずかしい自己などすべてを相手にさらけ出す勇気が持てないし、自分が嫌われたり捨てられたりすることを必要以上に怖れているような気がするのである。

恋愛をすることは、人間の成長には欠かせない重要な体験である。何故なら、恋愛を通して気付き学ぶことがあまりにも多いからである。人間としての成長には、恋愛が欠かせないと確信している。その意味は、こういうことである。付き合いが深くなり恋愛感情が高まり、相手のことが好きで好きで堪らなくなると、相手の嫌な処や醜い部分までも許せるし受け容れることが出来るのである。それは身体的な部分も精神的な部分もという意味である。誰かが、恋愛なんて錯覚だよと言っていたが、まるで錯覚のように相手のマイナスの自己も含めてすべてが好きになり愛せるようになるのである。

人間は、相手のこういう部分は好きだけど、こんな部分は到底許せないという処が必ずある筈である。ところが、恋愛感情が極限まで高まると、相手のすべてを許せるようになるから不思議である。そして、相手の悪い部分を好きになり愛せるようになると、自分の同じ悪い部分もあることを認めて許せるようになるのである。ただし、恋愛感情が高ぶりを見せているうちは良いが、少しずつ愛が冷めてくると相手の嫌な処が目につくことがある。ましてや、結婚してしまうと恋愛感情が冷めるケースも多々あり、相手の嫌な処が許せなくなることもある。結婚してもラブラブの関係が続くようにしなくてはならないのである。

さて、ラフラブな恋愛を続けるためにどうしたらいいかというと、嫌われない努力が必要だと言える。つまり、自分の至らない点や恥ずかしい所を少しでも改善しなくてはならない。恋愛期間というのは、正式な婚約をした訳ではないので、いつでも別れてもいいのである。嫌いになったら、相手は離れて行ってしまう。だからこそ、自分を高め成長させなくてはならない。特に、人間としての魅力を豊かにする必要があるのだ。包容力があり、相手のすべてを許せる度量の大きい人間にならなくてはならない。

つまり、このように恋愛が始まっても、そしてその恋愛が続くためにも、自己成長が付いて回るのである。だからこそ、人間というものは恋愛をする必要があるのである。恋愛なんか一度もしたことがないような人を見てみれば、すぐに解るであろう。相手の心が読めなくて、共感出来ないばかりか、実に冷たい感じがすることが多い。人間としての温かさが感じられない人が少なくない。だからこそ、乙女が恋をすることを勧めているのである。それじゃ、乙女しか恋をする必要がないかというと、けっしてそうではない。老若男女、すべて恋をすることを推奨したい。中高年の男女も恋をして、自己が磨かれるべきである。

結婚して何年も経ってから夫に幻滅して、もう結婚なんてこりごりだと思っている妙齢の女性が結構いると思われる。そういう方は、結婚はせずに恋愛だけをすれば良い。結婚すると、夫という安定した地位に甘んじて、話も聞かず、家事は一切せず、自分の好きな事しかしないという男性が少なくない。だから、結婚と言う形を取らずに、恋人関係や同棲関係を続けたほうがよいかと思う。そうすれば、緊張感を持って魅力ある男性として長く振る舞ってくれる筈である。人間としての成長をする為に、そして人間としての魅力を磨き続ける為にも、すべてをさらけ出せる勇気を持って、恋をしたいものである。恋せよ、すべての紳士淑女諸君!

引きこもりに対する父親の役割

引きこもりの子どもをどう扱ってよいか解らず迷っている両親は、相当に多いに違いない。叱って無理やり外に連れ出すのか、医療機関や専門家に任せるのが良いのか、それとも優しく諭すのがいいのか、そっと見守るしか術がないのか、悩んでいることであろう。勿論、同じ引きこもりの状態にあっても、子どもの性格から成育環境も含めて、みんな違っている。それゆえ、画一的な対応というか、正解だと言えるような対応の仕方なんてないと思っている人も少なくないと思われる。

引きこもりの子どもは、親にしてみれば実に扱いにくいことだろう。何を考えているか解らないし、予想がつかない行動をしがちである。また、気分もその日その時によって変化するし、突然キレたり怒り出したりするものだから、腫れ物に触るような対応をせざるを得ない。とは言いながら、親としてみればどうにかして社会復帰してもらいたい思いが強いことであろう。何故なら、どうみたって自分達のほうが先にお墓に行くことになる。自分たちが居なくなったらと思うと、その後の子どもの生活が不安でならないのは当然である。

引きこもりの子どもは、自分の人生や将来をどのように考えているのであろうか。本人に確認した経験はないものの、おそらくは今のままで良いとは考えていないのは確かであろう。そして、将来の不安も親と同等かそれ以上の不安を持っているに違いない。何とか現状を打破したいと思いながら、どうあがいても身体が動かないのである。社会復帰してほしいという親の願いは、痛いほど認識しているし、親が多大な不安を持っていることも先刻承知している。ところが、親が不安なればなるほど、不思議と子どもの不安も増幅してしまい、お互いにその不安を強化しあってしまうのだと思われる。

引きこもりが起きてしまっているのは、親に原因や責任がある訳ではない。勿論、本人にも責任はない。生きづらい世の中にしてしまっている我々の社会全体に責任があるのだと思っている。学校、地域、企業、職場に安心な居場所がないのである。家庭にも居場所がないけれど、自分の部屋だけがかろうじて認められるべき居場所なのだろう。引きこもりになってしまったのは、今の社会における人々の価値観が劣悪だからである。客観的合理性をとことん追求していて、行き過ぎた競争原理により関係性が破綻し、コミュニティが崩壊してしまっているこの社会には、安心する居場所がないに違いない。

勿論、家庭における父親もまた、そんな価値観に支配されてしまっている。それ故に、家族の関係性が希薄化してしまっている。家族の関係性が悪いのは、父親に正しい哲学や価値観がないからであると考えられる。しかし、そうなってしまったのも父親が誰からも正しい哲学や価値観を教えられていないのだから当然であるし、責められない。明治維新以降の近代教育導入から、正しい思想哲学の教育を排除し、それが戦後にさらに強化されてしまったのだ。親からもそして学校でも価値観教育がなくなってしまったことにより、人々は生きづらさを抱えてしまったのだと確信している。

それじゃ、引きこもりの父親はどうしたらいいのかというと、今からでも遅くはないから正しい価値観を学ぶことを勧めたい。それもこの世の真理に基づく正しくて普遍的な価値観を学ぶべきと考える。この世の中で、「父親学」というものが今必要なのではないか思うのである。イスキアの郷しらかわでは、この「父親学」をレクチャーしたいと考えている。単なる観念論ではなく、最先端の複雑系科学に基づいた真理である、システム思考の哲学という価値観の学びもするし、ノーベル賞を受賞したイリヤ・プリゴジンの提唱した自己組織化の理論学習をサポートしたい。そうすれば、子どもが尊敬して止まない父親の後ろ姿を見せられることであろう。

この関係性が劣悪化してしまった社会、つまり生きづらいこの世の中を変えない限り、引きこもりや不登校はなくならないかというと、けっしてそうではない。学校教育における価値観教育をしっかりするように、教育のイノベーションが必要だと思っている。しかし、この教育のイノベーションをするには、まだまだ世論が成熟していないこともあり、今すぐには難しい。家庭教育において価値観教育を始めるのは、父親が目覚めれば可能である。引きこもりの子どもは、父親に価値観教育に目覚めなさいと教えてくれているのかもしれない。父親が正しい価値観を確立して、引きこもりの子どもに対する価値観教育が出来れば、社会復帰が可能となるに違いない。社会が間違っていても、自分が正しいと確信する価値観を持っていれば、自信がついて社会に踏み出す不安がなくなるからである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、「父親学」の講座を実施しています。ご依頼があれば、出張講座も承ります。父親が不在で一人親の場合は、母親学としてのレクチャーもします。

空の巣症候群かもしれない

空の巣症候群と呼ばれる不定愁訴の疾病があるらしい。メンタル疾患というか気分障害のひとつである。子育てを終わった40代後半から50代の母親が陥る、つらい精神状態と身体症状のことを言う。子どもたちが学校を卒業して、社会人として独立して家を出て巣立ちをしてしまうことが原因で起きると言われている。鳥の雛たちが大きく育ち巣立ちして、空になった巣のような状態と似ているので、空の巣症候群と呼ばれる。母親がずっと面倒みて育てた子どもたちが巣立って、母親の心の中にぽっかりと空いた隙間が起こしている症状であろう。

子供に対する、ありあまる愛情を注ぎ育てた親としての役割が終わり、子どもをまるで失ってしまったような虚無感を感じ、孤独感までも心を支配してしまうという。本来であれば、子どもに代わり新たな生きがいを見つけることが必要なのだが、すぐには見つけられないものである。したがって、その寂しさや喪失感によるストレスから、心身の不調を起こしやすい。とくに子育てに熱心な親ほど、喪失感が大きいという。子どもに関わる時間と機会が多いゆえに、母親のほうが空の巣症候群になりやすいと言われている。

両親は通常、子供の自立を肯定し、積極的に勧めるものである。しかし、実際に手放してしまう段階になると、何とも言われぬ心痛を伴うことになる。子供が巣立ち、父親は仕事に打ち込んで不在がちとなり、家庭に取り残され一人になった母親は、生活にも張り合いがなくなり、孤独感に襲われるという。また、子どもの巣立ちの時期と、閉経や更年期の時期とが重なり、ホルモンのバランスが崩れて、体調不良が重症化しやすい。さらに、夫や自分の退職・異動などが重なる事態も起き、さまざまな原因がストレスや症状を増幅させ、総合的な影響を心身にもたらす。

世間的には子供の独立は当たり前であり、健全なことと受けとめられている。子を持つ親なら誰でも経験することであり、それを乗り越えて行くのが当然だという風潮があるため、悲しんだり寂しい気持ちを持ったりすることに罪悪感を持ち、我慢してしまう。その寂しさや苦しさを誰にも訴えられず、心に仕舞い込んでしまうことも重症化させやすい理由であろう。たとえば愛する人との死別のように、悲しみの感情が当たり前という認識がない。そのため、周囲をはじめ、ときには本人さえも気づかないことがある。

空の巣症候群は、身体症状が多岐にわたるため誤診されやすい。症状が進んでいくと、不眠や手の震えなどさまざまな症状が表れる自律神経失調症や、うつ病に発展してしまうケースも少なくない。身体症状としては、腰痛、肩こり、頭痛、吐き気、食欲低下、不眠などが現れる。このようなつらい状態から逃避するために、アルコール依存症に陥ってしまうこともよくあることだ。空の巣症候群は、本人も原因が思い当たらず、病院でも誤診されることがよくある。実際に、うつ病や自律神経失調症によく似た症状といえる。

この空の巣症候群にならない為に、どうしたら良いのであろうか。ならない秘訣のひとつは、子育て以外の生きがいを持つということである。子どもが巣立ちを迎える前から、子育てだけに心血を注ぐのでなく、趣味や地域活動、またはボランティアや市民活動にも生きがいを見つけておくことが肝要であろう。そして、子どもにだけ依存せず、または依存されず、徐々に自立を進めておくという配慮も必要である。さらには、子どもを所有物とせず、支配することなくコントロールするのを避けて、あくまでも子どもの尊厳を認めてあげることも、空の巣症候群にならない秘訣である。

もし、万が一空の巣症候群なったとしたら、一刻も早くその症状から抜け出さなくてはならない。その為に有効な方法は、自分の感じている寂しさ悲しさをけっして我慢しないことである。その苦しさをまるごと受け止めて、否定することなく寄り添い共感してくれる人に話すことだ。それも、何度も何度も同じことを言っても受け容れてくれる相手がいい。出来たら、それは自分に関係のない第三者がよい。しかも、家庭から離れた場所で、しかも自然が豊かな場所で何日か過ごすのもよい。そうすれば、少しずつ悲しみや寂しさが癒され、空の巣症候群から抜け出せるに違いない。

※空の巣症候群の症状に心当たりのある方は、イスキアの郷しらかわをご利用ください。まずは、問い合わせフォームからご相談ください。

    無言の説法

    無言の説法というのは、仏教用語のひとつである。無言の説法というのは、お釈迦様が弟子たちに対し行った説法のひとつとして有名である。ただし、この無言の説法には様々な逸話として伝えられている。ひとつ目は、仏陀が入滅される際に、弟子たちに何も説かず語らずに永遠の旅路に旅立ったと伝えられる。命というものは誰でも限りがあるし無常なのであるから、いつ命が途絶えるかもしれない。だからこそ、死ぬ間際に後悔することのないように、今この時に集中し、全精力を傾けてやるべきことに当たらなければならないということを、無言で説かれていたと言われている。

    二つ目の無言の説法というのは、16人いた仏陀の高弟(16羅漢)のひとり周利槃特についての逸話である。周利槃特という弟子は、物覚えが悪く何をやらせても上手く出来なかったという。そのため仏陀は、お掃除だけをやりなさいと命じた。周利槃特は、それこそ毎日ひたすら掃除を続けたという。誰が見ていなくても一心不乱に、誰よりも丁寧に心を込めて毎日休まず掃除したと言われる。その姿を人々は見て、感動し感心すると共に、このような人物に自分もなりたいものだと憧れたという。この姿を見て、これが無言の説法だと仏陀が説いたと伝えられる。

    三つの無言の説法は、このような逸話である。ある日の釈尊の説法に限って何も言わず、そばにあった一輪の花を取って弟子たちに示した。 弟子たちは意味理解出来ずにいたが、たった一人だけ、摩訶迦葉(まかかしょう) だけは、にっこりとほほ笑んで深くうなずいた。 それを見た釈尊は、静かにこういった。 「 私の説法が摩訶迦葉に伝わりました」と。これが以心伝心というものであり、無言の説法だと説いたとのこと。他にも、無慈悲な行為により悲惨な目に遭うイダイケ夫人に対する慈悲を、釈尊が無言で説いたという逸話もある。

    このように無言の説法についてのお釈迦様の逸話がいくつもあるが、京都の嵐山にある宝厳院というお寺に『無言の説法』を現した名庭園があるという。嵐山の景観を背景に取り入れた借景回遊式庭園がそれである。それは獅子吼(ししく)の庭と呼ばれ、そこでは無言の説法を感じると言われる。庭園内を散策して、鳥の声、風の通り過ぎる音、樹々の擦れ合う音を聴く事によって、人生の心理、正道を肌で感じるという。自然こそ、人間に何か大切なものを気付かせ学ばせるものである。自然というものは、存在そのものが心を癒し成長させくれるのである。

    無言の説法というのは、このように実に興味深い教えの数々がある。この無言の説法を実体験できたのが、まさしく『森のイスキア』と佐藤初女さんだったように思うのである。心が折れてしまい、生きる気力さえ失ってしまった方が、イスキアの豊かな自然の中で無言の説法を感じて癒されたのであろう。樹々の中を通り抜ける風の音を聞き、鳥の声を聴いて、心が元気を取り戻したことであろう。自分からは何も言わずにただ話を聞いていた佐藤初女さんは、まさに無言の説法をしていたように思う。訪ねられた方々の為に、一心不乱にけっして手抜きせず料理をただひたすら作り続ける佐藤初女さんは、その後ろ姿で無言の説法をしていたに違いない。

    この森のイスキアと佐藤初女さんのように、『イスキアの郷しらかわ』でも無言の説法を見習いたいと思っている。無言の説法はカウンセリングの基本であろう。佐藤初女さんのように、助言や教訓など何も言わずとも、ただ寄り添い傾聴し共感することこそ、無言の説法であろう。田園風景が広がり、近隣にはハイキングやトレッキングするのに好適な場所がいくつもある。豊かな自然があるイスキアの郷しらかわは、獅子吼の庭のような効果が得られる。そして、農家民宿のオーナー吉田さんは、自然農法で作られた米と野菜で心の籠った料理を作ってもてなす。訪ねてきた方々が、無言の説法で必ず癒されることを約束したい。

     

    不倫報道の深層心理分析

    不倫報道は止まるところを知らない。連日に渡り芸能人や政治家・スポーツ選手など有名人の不倫報道が、マスメディアを賑わしている。特に、週刊文春と週間新潮はスクープ合戦を繰り広げており、それに乗じてTV各局のワイドショーがこれを取り上げている。今年は特に多いらしくて、計35~36回の不倫報道があったらしい。これらの不倫報道に対して、ワイドショーの出演者たちが、おしなべて批判的なコメントをする。少しでも擁護でもしようものなら、視聴者からの容赦ないバッシングが届くのだから、我が身を守るには批判的にならざるを得ない。

    それにしても、日本という国は平穏だというか、平和ボケした国民だと思われる。報道すべき大切なことが他に沢山あるだろうに、不倫報道にかかる時間は必要以上に多い。昔からゴシップ記事を載せた婦人週刊誌は売れていたし、不倫報道を扱うワイドショーは視聴率が高い。それだけ一般市民が知りたがっている情報だということで、週刊文春や週刊新潮という比較的お堅い週刊誌までが、不倫を扱うようになってしまった。芸能誌や写真週刊誌が扱うならまだしも、正統派の週刊誌までも不倫報道をするなんて、実に情けないことである。

    週刊文春や週刊新潮に、難関を突破して入社したエリート記者たちは、こんな下卑た記事を書いたり編集したりするとは夢にも思わなかったであろう。勿論、こんな不倫報道の記事は正社員が書くのではなく、外部の委託社員が持ち込む記事であろうが、こういう記事を買い取ったり編集したりすることを、正社員たちはどのように感じているのか興味がある。もしかすると、報道記者としての矜持さえなくしてしまっているとしか思えないのである。営利企業だとはいえ、こんな下劣な不倫報道を何度もスクープして喜んでいるというのは、彼らに報道哲学が存在しないという証左ではないだろうか。

    テレビ局の記者たちも同様である。こんな不倫報道のスクープ合戦に、嫌気がささないのであろうか。報道記者としてのプライドがないのに等しい。政治や経済関連の報道は、国民に正しい情報を伝えるという報道記者の使命を全うするので、報道のしがいもあろう。不倫報道をして、社会的にどんな意味があるのだろうか。無理やりこじつければ、不倫という行為が愚かなことであり、自分の身を亡ぼしてしまう行為だから、絶対にしてはいけないことを教示しているとも言える。しかし、一般人の不倫がばれることは殆どないのだから、不倫報道によって自分が不倫を止めるということは考えにくい。

    さて、このような不倫報道をする週刊誌やTV局の記者たちの心理を分析してみよう。彼らの深層心理においては、著名人の不倫報道にこれだけこだわるというのは、成功している者や富裕者に対する妬みや嫉みがあるからではなかろうか。勿論、このような不倫報道とその不幸な結果を知りたいと求める一般市民がいるからであり、このような市民もまた深層意識において、幸福な人に対するジェラシーがあるように感じる。幸福な人間を自分と同じ不幸な境遇に引きずり下ろしたい深層意識があるように思えて仕方ない。

    古来より他人の不幸は蜜の味と言われてきたが、自分が幸福だと実感している人はそんなことを求めない。真の幸福とは、物質的金銭的な豊かさではなくて、家族や周りの人から敬愛されて、必要な人として求められることであろう。それが満たされていなくて、愛されていない人が、不倫報道とその悲惨な結果を求めるし、不倫は許されないと憤るのではないかと思う。もしかすると、深層意識で不倫願望があって、それが叶えられないことの裏返しではなかろうか。実に卑劣で、情けないことである。

    不倫と言うのは、本来は秘め事である。その秘め事は、絶対に他人には知られてはならないことであるし、その秘め事により周りの人々を不幸にしないという暗黙のルールがあった筈である。とすれば、その秘め事をあたかもスパイのような行為で明らかにして、それを記事にしたり報道したりするのは、ルール違反だと言えないだろうか。勿論、不倫はしてはならないことである。だとしても、その不倫行為は本人が罪悪感を持ちながら、または自己責任を取る覚悟で実行する行為であり、他人がとやかく言うべきものではない。不倫報道により、たくさんの人々の不幸を招いたり不信感を植え付けたりするのは、報道に携わる人間としてやってはならないことであろう。報道哲学と社会正義を発揮し、森友・加計問題や検査偽装事件が何故起きたのか、再発防止に向けた課題を真剣に掘り下げるなどの報道を強く望むものである。