コスタリカ珈琲のほろ苦い思い出

 最近、コーヒー好きが高じてしまい、焙煎さえも自分でやることになってしまった。そして、今までは一度も飲んだことがなかったいろんなコーヒー豆に挑戦するようになった。どういう訳か、今までは購入することをためらっていたコスタリカの珈琲豆を、勇気を出して買い求めたのである。どうして、コスタリカの珈琲豆を飲もうとしなかったのかというと、大学時代のほろ苦い思い出があったからかもしれない。コスタリカの珈琲豆に責任はまったくない。コスタリカという名前が、ある出来事を思い出させるから避けていたのだ。

 今から50年も前になる、恥ずかしくて情けない出来事である。川崎市の郊外に立地するある私立大学に入学した私は、高校時代から続けていた部活の写真を大学でもやろうと決心して、写真同好会に入会した。どちらかというと、その時代は男子学生の多い大学でもあり、ましてや写真同好会なんて、女子学生が興味を持つような会でもなかった。当然、その時代であるから、女学生の会員はほんの少数であり、三人程度しかいなかったと記憶している。男子高校生であった私は、女子学生の姿があまりにも眩しかったのである。

 写真同好会という名前からして、本気で写真を極めようとするような学生は居なかったと思われる。どちらかというと、サークル的な雰囲気が強く、学生同士の交流を求めて入会しているような会員ばかりであった。撮影会や合宿などが定期的に開催されていたが、形式的なものに過ぎず、コンパや飲み会に明け暮れていたような気がする。また、部室に集まっては写真についての会話をするよりも、今では死語となってしまった『ダベリング』を楽しんでいたように記憶している。そこで、ある女性と出会ったのである。

 その女性をKさんと呼ぶことにする。1年先輩のKさんは、謎めいた女性であまり自分のことを語りたがらなかった。1歳年上ということもあり、大人の女性という雰囲気で、長身でスタイルも良くて魅力的な人だった。大学に入って間もない私にとって憧れの女性であり、手の届かないような存在でもあった。今では考えられないが、その当時はウブで純真な少年の私は、まともに話しかけることも出来なかった。そのKさんがアルバイトしていたのが、下北沢駅の近くにある純喫茶コスタリカという店だったのである。

 今でこそコーヒー好きになったが、当時の私はコーヒーの味さえもよく解らず、産出国によって味の違いがあるなんて基本的な知識もなかった。そんな私が、Kさんに会いたくてわざわざ電車に乗ってコスタリカという店に通ったのである。おそらくKさんにとっては迷惑だったと思われる。しかし、心優しいKさんは一途な思いを察して、可哀そうだと思ったのである。一度だけ、デートしてあげようと言ってくれた。新宿で映画を観て食事をしたのだ。帰りに雨が降ってしまい、ひとつしかないので相合傘もしてくれた。

 その後、いろいろと複雑な紆余曲折もあって、二度とデートもしてくれなかったし、付き合ってもらえなかった。私のKさんを想う気持ちを察してくれたのであるが、あまりにも子どもじみた考えの私が物足りなかったのか、もしくは生きるステージが違っているので合わないと感じたのかもしれない。こうして、手さえ握ることもなく淡い恋は終わりを告げた。コスタリカという名前の珈琲店だったのだから、おそらくコスタリカ産のコーヒーも提供していただろうから、一度ぐらいは飲んだだろう。確かな記憶はないが、コスタリカ産のコーヒーはあまりにも苦かったという記憶が残っている。

 そんな苦い思い出を振り払うかのように、コスタリカ珈琲の生豆を買い求めたのである。中央アメリカで最初に珈琲豆の生産を始めた歴史のあるコスタリカは、珈琲豆の生産に国を挙げて力を注いでいる。品質を保つ為に、国としてアラビカ種の生産しか認めていない。スベシャルティコーヒー用の珈琲豆の生産が中心だ。そんなコスタリカ珈琲を、中浅煎りの焙煎にして飲んでみたのである。それもKさんの面影を浮かべながら。甘みのあるキレのある酸味が特徴的で、フルーティで苦味をちょっぴり感じる本当に美味しい珈琲である。苦くて酸っぱいだけの珈琲だったという思い込みは、完全に払拭されて、コスタリカ珈琲の大ファンになってしまったのである。苦い思い出も、甘酸っぱい素敵な思い出に変わった。

※イスキアの郷しらかわでは、森のイスキアの佐藤初女さんを志す方々を支援しようと、心身を病んだ人々の癒し方の研修講座を開催しています。講座を受ける方々には、自分で淹れた珈琲を無償で提供しています。勿論、思い出のコスタリカ珈琲もそのメニューに加えました。コーヒー好きの方には、スペシャルティコーヒーをサービスします。

線維筋痛症の痛みを緩和する方法

 線維筋痛症で苦しんでいる人は、想像以上に多いらしい。その痛みは、当人にしか解らない。痛みは見えないから、周囲の人には理解されないので余計に辛い。原因も不明だと言われて、そんなに痛いのはおかしいとか、詐病ではないのかとか、精神的なものであるというなら、痛みを自分で起こしているのではと誤解されるケースが多い。家庭においても、そして職場でも、共感的に見られることは少なく、どちらかというと迷惑がられることも多い。それ故に、精神的に孤立していることが多く、孤独感を抱えている。

 原因不明だとは言いながら、免疫系の何らかの不具合や脳神経系統のエラーにより痛みが出ていると言われていて、一部の脳神経の遮断をする投薬治療によって、痛みが軽減されるケースもある。従来の痛みに処方されてきた鎮痛消炎剤は効果がないばかりか、抗うつ剤が痛みを低減するケースもあることから、精神的なストレスが発症要因ではないかと見る研究者も少なくない。いずれにしても、これだという治療法は確立されておらず、認知行動療法やリハビリ療法が有効だと言われているが、効果は限定的であるようだ。

 それでは、どのようにすれば痛みを緩和できるのかを考えてみよう。まずは、思考回路をまるっきり転換することだ。人間は、どうしても痛みが起きた原因を探ろうとする。そして原因を追究して、その原因を解決したがるものだ。しかし、この原因を解決しようとしても、出来ないから敢えてこの『痛み』が起きたのである。だとすれば、原因を抜本的に解決出来ないのである。ましてや、その原因は自分の裡にあるのではなく、周りの人々があまりにも理不尽な対応を自分に対して行ったことからであり、人々の心を変えるのは不可能なのだ。

 人の心や行動は容易には変えられない。しかし、自分の心と言動は変えられる。痛みが起きた原因をつぶそうとするのではなく、こういう事態が起きたことに『意味』があると考え、自分が大きな気付きや学びをするチャンスなんだと捉え、自分が成長する為に起きたことだと痛みを受容することが肝要であろう。周りの人を変えようとするのではなく、自分が心から変わりたいと思い、痛みに共感して痛みを受け容れることである。そうすることで、自分自身のこだわりや固定観念が起こしている痛みなのだと気付くことが出来るのである。

 人は、社会の常識、または周りの人々の期待や支配に飲み込まれてしまい、本来の自分を見失い、自分らしさを失ってしまいがちである。あるがままの自分自身を生きるのではなくて、周りの人々の思いや社会常識に合わせて生きようとしてしまう。その方が周囲の人との波風が立たないし、争いごとも起きず平穏に暮らせる唯一の方法だと思い込むのである。これが強烈な生きづらさを生んでいるのである。自分を自分の目で見ようとせず、あまりにも他人の目に自分がどう映っているのかを考えて行動してしまうのである。

 ありのままの自分を心から愛せないのは、自尊心が育っていないからであり、周りの人々の気持ちに合わせてしまうのは、自分に自信がないからである。皆から嫌われたり見離されたりすることを心配するあまり、周りにあまりにも迎合し過ぎてしまうのである。それは見捨てられ不安や恐怖を抱えているからであり、自分をありのままに愛してくれる存在がないという証拠でもある。つまり、心理的安全性が確保されていないからである。安全と絆である『安全基地』という心の居場所がないということだ。家族が居たとしても、精神的に孤立していて、孤独感と不安感でいっぱいなのである。

 こうした不安感や孤独感が、強烈な生きづらさを生んでしまい、自分らしさを見失い周りに迎合する自分を演じているのだ。それが、痛みの本当の原因なのであると言える。だとすれば、まずは心理的安全性を担保してくれる存在を創ることである。最終的には、自分自身の心の裡に安全基地を設けることが可能なのだが、それまでは臨時的な安全基地になってもらえる存在を見つけることが必要である。メンタライジング能力に長けていて、何事にも動ぜずどんなことがあっても寄り添い続けてくれるという安心感のある安全基地を見つけて、自分の悩みや苦しみを聞いてもらうことから始めたい。そうすれば、安心して自分を変革できることが出来て、痛みを和らげることが可能となるであろう。

※森のイスキアの佐藤初女さんは、まさしく心理的安全性を担保してくれる存在でした。いつも優しく寄り添い、心の居場所である臨時的な安全基地となってくれていました。今は、佐藤初女さんは天国に召されてしまい、森のイスキアは閉ざされたままです。森のイスキアのような心の居場所は必要です。本来の駆け込み寺のような存在こそが、このような生きづらい世の中には必要不可欠なのです。第二、第三の森のイスキアを設立するための支援を、イスキアの郷しらかわは続けています。

アルツハイマー型認知症にならない生き方

 前回のブログでアルツハイマー型認知症を防ぐ方法を書き記した。今回は、もう少し詳しく具体的にアルツハイマー型認知症にならない生き方を示してみたい。以後は略して単なる認知症と記載する。さて、認知症にならない為には適度な運動と身体と脳を適切に使うことが必要だと説いたが、もう少し詳しく説明する。運動と言っても辛くて苦しい運動や激し過ぎる運動は、ストレスがかかり過ぎるので効果がないと言われている。どんな運動がいいかというと、歩くのがよい。ただ平坦な道よりも、坂道や階段がある所が最適だ。

 何故坂道や階段が良いかと言うと、足の骨にショックを与えるからだ。骨にショックや負荷を加えると、破骨細胞が減り骨芽細胞を増やすし、脳の細胞も活性化する。特に、歩くことで筋肉に負荷がかかると、脳の海馬や前頭前野が活性化する。特に自然の素晴らしい景色を眺めながら歩くと、ストレスが解消されてカテコールアミンが減少して、偏桃体が縮小する。だから、自然が豊かなところをハイキングやトレッキングで楽しむことが認知症予防になる。気のおけない仲間と歩きながらおしゃべりしたり、ランチをしたりするのも良い。

 スポーツも良いが、すべてのスポーツが良いとは限らない。高齢者が毎日走っているのを見ることがある。マラソンに挑戦したりトレランをしたり姿も見ることがある。しかし、身体に負荷をかけ過ぎてしまうと、活性酸素フリーラジカルを大量に発生させてしまい、悪性腫瘍、心筋梗塞、脳梗塞を発症しやすくさせてしまう。また対戦型のスポーツは必要以上にストレスやプレッシャーを感じさせてしまい、逆効果を生む。ゴルフも良いが、勝負にこだわったり金品を賭けたりすると、認知症を発生させてしまう。

 脳を働かせるというのは、意識しないと難しい。高齢者は、ともすると自宅に籠ってテレビを見たり映画鑑賞を楽しんだりすることが日課になってしまう。この一方的な受動的体験は、あまり薦められない。双方向の体験をしないと、脳の機能を働かせられない。出来得るなら、料理をすることがお薦めである。インスタント食品や冷凍食品に頼らず、食材を調達することから始めてほしい。面倒なメニューや初めての料理に挑戦することは、極めて高い効果がある。そして、料理を作ったら誰かに食べてもらい、誉めてもらうとなお良い。

 趣味や芸術に勤しむのも良い。難しければ難しいほど、脳を活性化させる。パソコンやスマホを使ってSNSやブログ発信もいいだろうし、ウェブサイトを起ち上げてみるのも認知症予防に効果がある。この趣味や芸術、またはインターネットの世界において、友だちを作って交流するのは、認知症を防ぐ効果が大きい。何故かと言うと、人というのは誰かと交流して繋がって関係性を持つことで脳が活性化して、本来の自己組織化が起きるのである。誰とも繋がらず孤立してしまうと、自己組織化が起きずに人体は自己崩壊するのだ。

 何よりも大切なのは、人間としての正しい生き方である。正しく高い価値観に基づいた生き方をしないと、人間と言うのはその存在価値を無くしてしまい、自己崩壊をする。人間が人間として、正しく清らかに美しく生きることが求められている。正しく清らかに美しくというのは、具体的にどういうことかというと、無償の愛を周りの人々に注いで、出会う人々に幸せを感じてもらうという生き方である。何も求めず、損得や利害を超えて、人々に奉仕する生き方である。奉仕というと、自己犠牲を伴った苦しく無理した行動だと思われがちだが、けっしてそうではなく心から深い喜びを感じる行動である。

 何故、そんな無償の奉仕が出来るのかと言うと、神とか宇宙の意志に沿った行動だからである。神の哲学である『形而上学』に基づくものだからこそ、人間は全体最適のための行動が出来るのである。自分の損得や利害を優先した個別最適や個人最適のための行動は、人間を破綻させる。そんな行動をし続けると、誰からも信頼されず孤立するし、組織崩壊や家族崩壊を起こす。経済的な破綻も起こすことになる。神の意思を尊重して、関係性を尊重して全体最適の行動を取り続けるなら、認知症にはけっしてならないのである。

アルツハイマー型認知症を防ぐには

 65歳以上の5人に1人が認知症になる時代だと言われている。その認知症のうち、一番多いのがアルツハイマー型認知症であり、60%以上の割合を占めていて、認知症としての重症度も高いので、深刻な症状を抱えることになる。そして、一度認知症の症状が始まってしまうと、それを止めることは不可能で、どんどん症状が悪化することになる。一度認知症になると治癒することは100%ない。最新の医学技術を駆使しても、認知症の進行を抑えることが出来たとしても、症状を改善することは出来ないのである。

 認知症の原因は、アミロイドβというたんぱく質が繋がって脳の記憶機能に悪影響を与えるためだと言われている。このアミロイドβの発生を抑制したり繋がりを防げたりすることが出来たら、認知症の発症を防ぐことができるのではないかと、医薬品業界は必死になり研究開発を続けている。レカネマブという認知症の症状が進むのを抑制する新薬が出来たと話題になっている。しかし、高価で副作用もあることから、認知症の患者の誰にでも処方出来る訳でもないし、約3割の進行抑制効果しかない。まだまだ課題は大きい。

 このアルツハイマー型認知症の発症を予防することが出来たなら、高齢者にとっては朗報となろうし、医療費や介護費用の大幅削減も可能となる。国の福祉財政にも多大な貢献が出来よう。アルツハイマー型認知症の発症を、完全に防ぐことなんて出来るのであろうか。その答えは、NOである。最近の医学的研究で分かったのであるが、特定の遺伝子異常があって、アミロイドβの異常を促す遺伝子を持つ人は、アルツハイマー型認知症の発症を高い頻度で発症してしまうらしい。つまり、遺伝的なものもあるから予防が難しいのである。

 とは言いながら、最近の医学的な研究と統計調査によって、生活習慣、気質や考え方、生き方によって、かなりの確率で認知症が防げるということが明らかになったのである。つまり、100%ではないにしてもアルツハイマー型認知症は予防出来るのである。どういう気質や考え方の人が認知症になりやすいかというと、自分自身のことが好きかどうかに影響されるという。つまり、何事もポジティブに考える人は認知症になりにくく、ネガティブ思考の人は認知症になりやすいというのだ。つまり、自己肯定感があるかどうかだ。

 さらに、運動習慣のある人は認知症になりにくいということが統計調査によって判明した。積極的に運動を日常的にしていて、その運動を心から楽しめる人は認知症になりにくい。義務的な思考により運動したり、強制されて運動したりする人は認知症予防効果が少ないらしい。スポーツでも勝利至上主義に支配されたり、対戦型のスポーツでストレスやプレッシャーが強過ぎたりしても、認知症を予防出来ない。あまりにも激し過ぎる運動も、活性酸素を増やしてしまい、様々な悪影響が出るので薦められない。

 認知症になりにくい生き方とは、どういうものであろうか。それは、人々の為や世の中の為に貢献する生き方である。そして、その社会貢献の生き方は、無理せずに我慢することなく、自然体で行う社会貢献である。例え、人のために行うボランティアであったとしても、無理して実施するものであれば、認知症予防にはならない。自分が他人から認められたいとか高評価を受けたいからと公益活動をするのも、認知症予防効果が薄い。自然体であるがままに自分らしく、何の見返りも求めず粛々と人の為世の為に尽くす人は、認知症にはなりにくい。

 何故、アルツハイマー型認知症になるのかというと、人間の身体が持つネットワーク機能が無意識のうちに働いて、そうさせているのである。人間は誰でも老化して、徐々に死に向かう。運動をしなくなると同時に身体や脳の機能を働かせなくなると、もう人の為にお役に立てなくなった自分を不必要なものと認識し、この世から抹消させようと人体のネットワーク機能が勝手に働くのである。骨をボロボロにさせて筋肉量を少なくし、土に返しやすくする。認知機能を衰えさせて、死を迎える恐怖から逃避させてくれる。だとすれば、脳と身体の機能を最大限に機能させて、人の為世の為に尽くす生き方をし続ければ、認知症にはならないと断言できる。

イップスの本当の原因と克服の方法NO.2

 元々強大な不安や恐怖感が根底にあって、何度も大きな失敗や取り返しのつかないミスが起きてしまい、これ以上そんな状況が続くと、自分自身を破綻させる危険を防ぐ防衛反応としてイップスが起きるということを説明した。この背側迷走神経の暴走によるシャットダウン化は、メンタル疾患や自己免疫疾患を起こすことも非常に多い。イップスは治療が困難である。非常に治りにくい。プロを辞めるか、スポーツを諦めるしかなくなる。

 イップスやジストニアが治りにくいのは、迷走神経が関係しているからである。自分の意識で何とか改善させることが、極めて難しいのである。一旦、背側迷走神経による心身のシャットダウン化が起きてしまうと、現代の医学ではどうしようもない。この遮断状況を解決しようと、投薬治療やカウンセリング・セラピーを実施したとしても、迷走神経はこれらのアプローチを跳ねのけてしまうのである。しかし、イップスやジストニアを克服するのは不可能ではない。適切で懇切丁寧なサポートをすれば、時間は長くかかるが克服できる。

 どうすれば克服できるのかというと、まずは根底にある不安や恐怖感を持ちやすい気質を改善することが必要である。とは言いながら、この不安や怖れを強く持ち過ぎるという気質は、幼い頃からの育てられ方に起因しているので、解決するのは困難である。両親のどちらかまたは両方が、子どもに対して強い干渉や介入を繰り返しながら育てると、優秀な学業成績を収めるし、運動選手としても成功しやすい。ところが、その代償として自己組織化の能力が低下すると同時に、不安や怖れを人一倍抱きやすい大人になってしまうのである。

 こうしてはいけない、こうすると駄目だ、このようにすると失敗すると、親が子に対してマイナスの未来を示して、それを避けることだけの子育てをすると、子どもは健全に育たない。誉めて認めて育てて、どうすれば上手く行くのか一緒に考えようと、プラス思考的な子育てや指導をすれば、不安や怖れを強く持つことはない。多少の失敗や逃避をしたとしても、または問題行動をしたとしても、強く叱らずに大目にみることが大事である。失敗しても叱らずに、今度は上手く行くよと励まして育てれば、不安や恐怖感を持たない大人になる。

 脳科学的にこのことを検証すると、よく理解できる。安心・快楽ホルモンであるオキシトシンホルモンが関係している。乳幼児期にあまりにも強い介入や干渉(しつけ)を繰り返すと、オキシトシンホルモン受容体が作成されない。無条件の愛である母性愛をたっぷりと注がれて、いつもスキンシップをされて育つと、オキシトシンホルモン受容体が沢山出来て、不安や怖れを感じなくなる。オキシトシンホルモンが沢山取り込まれると、幸福ホルモンであるセロトニンホルモンも分泌され、益々安心感が強くなるのである。

 このように、いつも不安や恐怖感を持つ人というのは、オキシトシンホルモンが不足しているのである。ということは、もう一度小さい頃からの愛情たっぷりの子育てをやり直すことが必要だが、現実的には無理だ。だとすれば、親に代わる誰かが、無条件の愛情を注いで安全と絆を提供するしかない。この安全と絆を提供できる臨時的な『安全基地』が傍にいて、無条件の愛をたっぷりと注いであげれば、時間はかかるけれど不安や恐怖感を持ちやすい気質を改善出来よう。この安全基地の存在は、精神的にも安定していて包み込むような豊かな包容力を持ち、どんなことを言われてもされても揺るがないメンターライゼーション能力を持つ人物であらねばならない。

 イップスを起こす人間は、スランプにも陥りやすい。運動の世界だけでなく、生活の場面でも社会全般においても、スランプを起こしやすい。そうした屈折した心理を抱えているので、精神的に不安定なこともあり、反抗・反発しやすい。そうしたことをされても、けっして見離さずに、寄り添い続ける覚悟が必要である。こうして安全基地が寄り添い、無償の愛を注ぎ続ければ、背側迷走神経のシャットダウンは解けて、不安や怖れを感じなくなり、イップスやジストニアは克服できる。人生におけるスランプも容易に乗り越えられる筈である。

イップスの本当の原因と克服する方法NO.1

 イップスというスポーツ選手が陥ってしまう運動障害を知っているだろうか。元々はゴルフのプロ選手が、グリーン上でのパットを上手く打てなくなってしまった症状をイップスと呼んだのが最初だった。ゴルフではパットだけでなく、他の動作でも起きる深刻な運動障害もイップスと呼ぶようになった。他のスポーツでも、同じような症状を起こすことが解ってきて、やはりイップスと定義された。一度でもイップスの症状が出た人の割合は、習慣的にスポーツをする人のうち約5割もいると言われている。イップスを起こす人は多い。

 一度イップスの症状が起きてしまうと、同じ動作をする度にイップスに陥ってしまう。イップスが酷くなると、まったく身体が動かなくなることもある。イップスが起きる頻度は圧倒的にゴルフや野球が多いと言われているが、スィングやピッチングがまったく出来なくなるケースもある。イップスというのは、初心者や初級者には起きにくい。どちらかというと、上級者や熟練者、またはプロスポーツ選手に起きやすい。イップスの原因は、まだ完全には解明されていない。脳の誤作動によるのではないかと考えられている。

 イップスというのは、不安による筋肉の過緊張によって起きるジストニアの一種ではないかと考えられている。脳は実際に起きた現象を記憶する。特に、大きな失敗や取り返しのつかないようなミスをした強烈な記憶は、脳に深刻なダメージとして残される。そうすると、その記憶を画像としてのイメージを作り出すことが可能になる。失敗した同じ場面に置かれると、また同じことが起きるのではと不安になり、その失敗したイメージが甦ってしまう。脳内に作られた失敗のイメージによって、そのイメージ通りの現実を起こしてしまう。

 何度かその失敗が続いてしまうと、同じ場面で失敗をすることを怖れてしまい、筋肉が過緊張に追い込まれて拘縮する。そうすると、スムーズな動作が出来ないばかりか身体が固まってしまい、一切の動作さえ出来なくなってしまうのである。プロスポーツ選手や熟練者は、成功することが当たり前という前提がある。失敗しても当たり前という初級者には、イップスは起こりにくい。自分で成功をすることが当然だと考えている、または他人から成功を期待される人ほど、プレッシャーやストレスが過大にかかり、イップスが起きるのであろう。

 人間の脳は、起こそうとしてイップスが起きている訳ではない。無意識下で、脳が筋肉に対して誤作動の指示をしてしまうと考えられている。有意識では失敗させず、上手く動作させようと思っていて脳はそのように指示しているのにも関わらず、無意識下の脳はその指示を無視して、筋肉を過緊張にさせてしまうのである。誰でもイップスが起きるのかと言うと、けっしてそうではない。あくまでも、イップスが起きる人とまったく起きない人がいる。不安や恐怖感を強く持ち過ぎてしまう気質を持ってしまう人だけが、起こす傾向にある。

 イップスが起きる本当のメカニズムがどうなっているのかについて検証してみよう。自律神経における迷走神経のメカニズムは、複雑である。人間がどうしようもない不安や恐怖感に陥った時に、自分自身の身体と精神を守る自己防衛反応が起きてしまう。それは迷走神経が勝手に作動してしまうのである。迷走神経の中でも、原始的とも言える背側迷走神経が身体機能の遮断を起こしてしまう。そうすると、筋肉が過緊張状態になってしまい、身体が正常に動かなくなったり、凍り付いたりしてしまうのだ。これは、自分自身の身体と精神が破綻するのを防ぐ防衛反応なのである。

 大きな失敗や取り返しのつかないミスを繰り返してしまうと、自分自身の精神が破綻をしたり、自死に追い込まれてしまったりする。または、自分の地位・名誉や高い評価を失ってしまい、社会から転落してしまうのではないかと勘違いをするのだ。実際には、そんなことは起きなくても、不安や恐怖感の強い人は最悪の結果を予想してしまうのである。その為に、イップスという症状を無意識的に起こして、過酷なプレッシャーやストレスから逃避させてしまうのであろう。かくして、自己防衛反応としてのイップスが起きてしまうのである。

NO.2につづく

人生に行き詰ったら環境浄化をしてみよう

 長い人生を生きる間には、どうしても前に進めないという時期があろう。どういう訳か分からないが、ふと立ち止まってしまい、そこから再度進もうとしても歩みが止まったままということがあるものだ。自分の今まで生きてきた過去を振り返り、これで良かったのか、これから進む道が間違っていないのかと一瞬でも疑った時にこそ、これ以上進むことが出来なくなってしまうことが少なくない。または、何をやっても裏目になってしまい、どうあがいても失敗続きで行き詰ってしまい、進むのが怖くなってしまうこともある。

 こんな状況に陥った際に、どうしたら現状打破が可能になるのだろうか。メンタルの問題だからと、誰かに相談するとかカウンセリングを受けることもあろう。または、身体の問題だからと、温泉やサウナに行ったり、マッサージや整体を受けたりすることもある。これらの対処方法もそれなりの効果がみられると思うが、それよりも簡単に、しかも短期的な効果を得られる方法がある。それは、環境浄化と身の回りの整理整頓である。断捨離も含めて、住環境の徹底的なお掃除を敢行することで、心身のリフレッシュ効果が起きる。

 行き詰ってしまいどうしても心身が動かなかったのが、住環境のお掃除や除菌を徹底的に行うと共に、洋服や調度品などの断捨離を含めて、徹底的な浄化により不思議と心が軽くなる。と同時に歩みを進めることが出来るだけでなく、失敗がなくなりすべて好転するようになる。さらには、今まではどうしてもお金が回らなかったのに、断捨離や掃除を徹底的に行ったら、急にお金回りが良くなるということが起きる。今までは欲しくても手に入れられなかった物が不思議と得られたり、素晴らしい出会いがあったりするのである。

 環境浄化や断捨離だけでそういうことが起きるのかというと、それだけでは人生が好転する訳ではない。それと同時に、心の浄化も実行する必要がある。断捨離やお掃除を徹底して行うと、心も清浄になる傾向を示すものの、その際にどのように心を整えるかということも大切である。環境浄化や断捨離をする際の、心がけも大事だということである。したがって環境浄化や断捨離をする時に、支援したり指導したりしてくれる存在が必要だと思われる。それでなくても、心身が動かない状況なので、背中を押してくれる人が欲しいと思うのも当然である。

 それでは、その環境浄化をする際の支援や指導は、どのような人に依頼すればいいのだろうか。先ずは、お掃除のプロにお願いしたいものである。どのようにお掃除をすれば良いのか、汚れを完全に落とすにはどのような洗剤と道具を使用すれば良いのかを適切にコーチングしてくれる人が欲しい。そして、細菌・ウィルス・カビなどの除菌や殺菌をする方法にも精通した、消毒のプロも必要である。さらには、お掃除をすることにより、過去のトラウマを解放する方法を伝授してくれたり、心の浄化をする手伝いをしてくれたりしてくれる人もいてくれたらありがたい。

 お掃除をやってくれる業者は多く存在する。しかし、一緒に作業をしてくれながら、お掃除のやり方を丁寧に手取り足取り教えてくれるような業者は殆どいない。ましてや、お掃除を支援・指導をしながらカウンセリングやセラピーをしてくれるようなお掃除のプロは皆無である。さらには、疲れたらボディーケア(マッサージ)までしてくれる人はいない。すべてに精通しているプロフェッショナルならば、とんでもなく高い対価を支払うことになると想像できる。それを安価で実現してくれるプロがいたらすぐに依頼したいだろう。

 現在このような業者はいないし、すべての環境浄化や心の浄化を提供してくれる業種は存在しないので、実際に依頼することは残念ながら叶わない。インターネットで検索したとしても、日本国内でヒットする可能性はゼロであろう。今後、このような環境浄化と心の浄化を一緒にしてくれる起業家が現れてくれることを願っている。このような新規の業務を起ち上げてくれる企業が現れてほしいものである。そうすれば、人生に行き詰ってしまい、一歩も踏み出せなくなってしまった多くの人々が救えるに違いない。いろんな苦難困難に遭うと共に、不幸のどん底に陥ってしまった人々も立ち直れるかもしれない。

※このような業種を新規に立ち上げたいというベンチャーが居ましたら、『イスキアの郷しらかわ』では起業支援をさせてもらいます。また、このような業務を始めたいという企業家がありましたら、同じく業務起ち上げのサポートをいたします。さらに、試しにこの環境浄化・心の浄化をしてもらいたいという方がいましたら、問い合わせ・申し込みの欄からお問い合わせください。どちらの金額もボランティア価格にて対応させてもらっています。

滝ヒーリング(魂の浄化)が起きた瞬間

 先日、何回目かのイスキアの郷しらかわの見学・研修会を開いた。その研修会は、初期研修の集中研修であり、2泊3日の日程で2回分の研修なのだが、時間的な余裕もあったので、参加者をオプションツアーとして滝ツアーにお連れした。農家民宿がある西郷村の近在には、滝がいくつかあり、そのどれもが素晴らしい景観を提供してくれる。そして、いずれもパワースポットとしての要素も兼ね備えている。予想した通りの結果になったのだが、5名の参加者は、滝ヒーリング(魂の浄化)を実証できたのである。

 第2日目の午後に少し時間に余裕があったので、隣町の下郷町にある「日暮らしの滝」に参加者たちを案内した。この滝は、地元の人にもあまり良く知られていなくて、訪れる人も少ない。以前は滝の近くまで行けたのだが、滝つぼまで降りていくアクセスの登山道が流されていて、危険なため柵が設けられている。以前に実地に確認して、初心者でも自己責任にて行けることが解っていたので、参加者たちをエスコートして滝つぼまで連れて行った。その見事な迫力ある滝の流れ落ちる姿に、見る人が圧倒されたのは言うまでもない。

 全国的なに有名な名瀑と呼ばれる滝は、殆どが危険防止と環境保護の為に、滝つぼの近くまでは行けなくなっている。したがって、遠くから眺めることしか出来ないし、ましてや瀧の飛沫を浴びるほど近くまで行くことは叶わない。この日暮らしの滝は、3段になって滝が流れていて、近くで眺めるとすごいパワーを感じるし、飛沫から受けるマイナスイオンがすさまじい。そして、その滝の近くでしばらくたたずんでいると、その癒し効果に唖然とする。自分の心が解放されるというのか、魂が打ち震える感覚が味わえるのである。

日暮らしの滝

 その後、さらに滝巡りは続く。今度は西郷村の甲子(かし)遊歩道にある「熊の滑り台」という滝を案内した。この滝は、ただ眺めるというよりは体験する滝というべきなのかもしれない。熊の滑り台と呼ばれるように、まるで熊がその場所で滑って遊ぶかのような滝である。勿論、人間だってその滝に入り込んで遊びたくなる。小さな子どものようにはしゃぎたくなる場所だ。参加者たちも、誰に薦められることなく、いきなり靴を脱ぎ捨てて、滝の中で遊びまわったのは当然である。インナーチャイルド全開状態となった。

熊の滑り台

 翌日の午後からは、棚倉町の山本不動尊をお参りした。このお寺は、弘法大師空海ゆかりの真言宗のお寺で、本堂に安置されるご本尊は阿弥陀如来であるが、川向うの石段を昇った高い霊窟にある本尊が不動明王であり、地元の人々には山本不動尊の愛称で呼ばれ親しまれている。弘法大師空海がこの霊窟において、護摩壇を築いて護摩炊きを行ったと伝わり、霊験あらたな霊場として多くの参拝者を呼び寄せている。この護摩壇の近くには弘法大師の像も安置されていて、パワースポットとしても人気が高い。

山本不動尊

 この山本不動尊のパワースポットで、参加者たちは十分なエネルギーを受け取った後に、いよいよ最後の「江竜田の滝」を訪れた。そこで、驚くような不思議な出来事に遭遇するとは予想だにしなかった。まずは、到着寸前の際に車のフロントガラスの目の前にキジが現れたのである。キジは滅多に人前には現れない。キジは古来より神の使いと言われていて、近寄ってくる場合はこの後に幸運に恵まれるとされている。また、滝の上空は晴れているのに、虹が見えてその近くには龍雲が現れたのである。まさに奇跡が起きたのだ。

 参加者たちは、江竜田の滝の迫力に圧倒されるだけでなく、深く内観したみたいで、じっと滝を眺めていた。そのうち、参加者たちは大声で号哭しながら、お互いに抱き合っていた。自分の辛くて苦しくて思い出したくなくて封印した過去を、表出させてしまったようである。おそらく、泣くことさえもできない悲しい過去をないことにして仕舞い込んでいたと思われる。今回の研修で、佐藤初女さんの癒し、自我と自己、自己マスタリー、形而上学、愛着、母性愛と父性愛、等々を学んでいたせいもあるが、両親と自分の関係を素直に振り返ることが可能になったと思われる。まさしく、滝からの癒しと魂の浄化が実現した瞬間でもある。

江竜田の滝

以前のブログでも「滝と龍と私」という題名でブログを書いたが、まさしく滝つぼに住み遊ぶ龍に誘われて自分の心に存在する龍(自我やインナーチャイルド、または過去)が表出し、それを認め受け容れ慈しんであげたことで、魂が浄化されたに違いない。佐藤初女さんを目指している方々だからこそ、それが可能になったのかもしれないが、滝ヒーリングの効果が確認された瞬間である。

ソバーキュリアスというお洒落な生き方

 ソバーキュリアスという言葉をご存じであろうか。数年前から使われ出している語句で、比較的新しい言葉である。ひとつの特徴的な生き方と言えるもので、お酒を飲めるのにもかかわらず敢えて飲まないという人生プランである。ただし、絶対に飲まないという頑なとも言える生き方ではなくて、人生の節目に当たるようなお祝い事には、多少のアルコールを嗜むこともある。お酒が嫌いとか飲めないという訳ではないのに、飲まないというのが新しくてお洒落だと言える。昔にはなかった人生における選択肢である。

 お酒好きで晩酌を欠かさないという人には、到底考えられない生き方がソバーキュリアスでもある。好きな人には、お酒がない人生なんて、実に詰まらないに違いない。職場の上司や同僚との飲み会は、無くてはならないものであろうし、友達との飲み会は何よりも楽しいに違いない。酒好きの人間にとっては、お酒を飲まないで集まりに参加するなんて、許せないかもしれない。お酒の場こそが人間関係を円滑にさせてくれるし、酒席を活用することで仕事が上手く行ったという思いがある。お酒の効用は非常に大きいと実感している。

 確かに、お酒の効用は多大なものがある。長い人間の歴史の中で、お酒がもたらしてくれた効用は数限りない。しかし、一方で酒による失敗も同様にある。酒というものが、いかに人生に大きな影響を与えてきたということである。それだけ、お酒というものが人間の歴史に様々な足跡を残してきたと言えよう。そんなお酒を、敢えて飲まないという人が増えてきたらしいのである。ソバーキュリアスという生き方を志す人が、世界中に増えてきたという。どうしてお酒を飲まないという人が増えたのであろうか。

 ちなみに、ソバーキュリアスという生き方を志す人は世界中にいるし、著名人にも多い。日本人では、泉谷しげる、斎藤工、伊達みきお、ロバートの秋山竜次、X JAPANのToshi、京本政樹、森保一らが挙げられる。海外では、ブラッド・ピット、ダニエル・ラドクリフ、アン・ハサウェイ、ヴィクトリア・ベッカム、ナオミ・キャンベル、ナタリー・ポートマン、マドンナ、ジェニファー・ロペスと枚挙に暇がない。しかし、日本人のソバーキュリアスは元々お酒が苦手だという人が多いが、海外の著名人は元々お酒が飲めるのに敢えて飲まないケースが多い。本来のソバーキュリアスとは、後者のことを言う。

 お酒を飲むことのメリットとデメリット、飲まないことによる長所と短所について述べるつもりはない。また、お酒を飲む人を蔑んだりソバーキュリアスの人々だけをリスペクトしたりする訳ではない。何故、著名人や教養・学歴の高き人たちにソバーキュリアスの人が増えたのかについて述べたい。元々、人はお酒を何故飲むのかと言うと、大脳生理学的にはドーパミンという脳内伝達物質が多量に放出されるからである。お酒を飲むと、快楽的になり気が大きくなるのはこのせいだ。そして、このドーパミンというホルモンは習慣性がある。つまり、このドーパミンの作用により、お酒に依存してしまうということである。

 ソバーキュリアスという生き方に目覚めた人々というのは、お酒に依存したり快楽を追い求めたりする生き方が、人間のあるべき生き方とかけ離れていることに気付いたのであろう。お酒を習慣的に飲むことが、精神的自立を阻んでしまい、自己人格の確立が実現できなくなることに気付き始めたのではなかろうか。人間が無意識的にドーパミンを放出させようとしまうのは、どこか満たされない人生を歩んでいるという感覚があると言えよう。自我人格を克服できないと、どうしても欲望(煩悩)に支配された生き方をしてしまうのである。

 欲望に支配されてしまっている自我人格を乗り越えて、自我人格と自己人格を統合させて、全体最適の高い価値観を持つ自己人格を確立するには、お酒を飲む習慣を持っていては難しいと思われる。勿論、100%無理だとは断定できないが、少なくてもドーパミンに支配されているような生き方では無理である。それは、お酒だけでなく煙草やギャンブルに依存していても難しい。アルコール依存症は、本人だけでなく家族を不幸にする。欧米では、アルコール依存症になる人が多く社会問題化している。だからこそ、ソバーキュリアスという生き方に人々が注目し、その生き方がお洒落でカッコいいと、もてはやされているのかもしれない。

牛肉を食べると地球温暖化が進む

 牛肉を食べると地球温暖化を招くと聞いても、ピンとこない人が多いかもしれない。牛肉と地球温暖化にどのような関連があるのか、不思議に思うことであろう。牛が呼吸をすることで二酸化炭素を増やすから、または飼料作成の段階で二酸化炭素を放出することにより、地球温暖化が進むと考えるのは、普通に考えられることだ。しかし、牛を育てると二酸化炭素だけでなく、地球温暖化の物質が大量に出るという事実があるのだ。その地球温暖化の元凶とはメタンガスである。牛はメタンガスを大量に出す生き物なのだ。

 牛には、胃が4つあるということは広く知られている。第一胃に入れた食物を、第二、第三、第四の胃へと反芻しながら移していく。牛は第一の胃に入れて、食物を消化する為に腐敗を起こさせる。この腐敗させる段階で、メタンガスが大量に作成されて、反芻の際にゲップをして外に放出されるのである。メタンガスは、二酸化炭素よりも遥に高い温室効果ガスになってしまうのである。二酸化炭素の28倍もの高い温室効果があると言われている。牛の反芻のゲップだけが、メタンガスの発生源ではないが、かなりの量が発生している。

 メタンガスの発生源は、牛の他に反芻をする羊もゲップをすることが知られているが、牛ほどのメタンは発生させていない。化石燃料を燃焼させる時にもメタンは発生するし、ゴミの集積所でも生じる。田んぼでもメタンの発生が確認されている。発生源のうち、牛の発生量はかなり多いらしい。牛だけを地球温暖化をさせている悪者にするつもりはないが、実際に東南アジア、アフリカ、南米でメタンガスが大量に増えている。これらの地域では、牛肉を食べる食習慣が増えていて、ここにきて牛の飼育が急増しているのも事実だ。

 SDGsを推進するために、牛の飼育頭数を減らす努力が求められる。温室効果ガスだけの問題だけでなく、省エネや健康増進の観点からも牛肉を大量に消費する食習慣を見直すべきではないだろうか。牛を飼育する為には、大量の穀物を食べさせる必要がある。先進国が牛を食することで、飼料である穀物を大量に消費してしまい、発展途上国で穀物が足りなくなって飢餓が起きているのである。日本でも牛肉を必要以上に消費するようになった。牛丼やハンバーガーが大量に消費されるようになったからだ。

 元々日本においては、牛肉を食する習慣はあまりなかった。明治維新の文明開化によって、牛鍋、すき焼き、焼き肉、ステーキの食文化が広まった。富国強兵策と肉食がリンクしたのであろう。戦後には欧米の食文化がさらに広まり、ハンバーガーが大量に消費されると共に、牛丼がファストフードとして定着し、大量の牛肉が消費されている。ハンバーガーや牛丼は廉価であるし、手軽にどこでもいつでも入手できることから、大量に食されるようになった。このようなファストフードの食習慣は、伝統的な和食文化を廃れさせている。

 牛乳を飲むという食習慣も、戦後に米国がパン食を日本に広めるための戦略が機能して、広まってしまった。牛乳が健康を増進するというプロバガンダが成功したのであろう。日本では、牛乳を飲むという食習慣はなかったが、学校給食において牛乳を飲ませることで、日本の子どもたちの食習慣を洋風に変えたのである。牛肉を食べることと牛乳を飲むという食習慣が日本に広まったことで、牛を飼育する農家が急激に増えたのである。さらに、牛肉の輸入自由化によって、安価な牛肉が米国や豪州から大量に輸入されるようになった。

 このまま牛肉を大量に食べ続ける食習慣と牛乳をたくさん飲む食生活を継続すると、世界で牛を大量に飼育することになり、SDGsを進めるうえで問題となる。地球温暖化に悪影響を与えるのは間違いない。だとすれば、完全に牛肉を食べないようにするとか、牛乳を飲まないようにするということは難しいが、大量消費だけは避けたいものである。ましてや、牛肉や牛乳を摂り過ぎると健康上の問題が起きると主張する専門家が多い。元々日本の伝統的な食文化においては、肉を食べるのはハレの日だけだった。日常的に大量の牛肉を食べる食習慣を見直して、地球温暖化を防ぎたいものである。