発達障害グレーゾーンを癒す方法

 発達障害は遺伝子の先天的異常によるものだから、どんな治療をしても治らない障害だという認識を誰もが持っている。ある程度は社会に適応できたとしても、学校や職場における周りの人々とのコミュニケーションに苦労することも多い。当人との関わり方において周りの人々が戸惑うことも多いが、それ以上に本人が生きづらさを抱えることも少なくない。そんな発達障害を持つ人の中でも、症状が軽くて学力や能力が高いけど、コミュニケーションだけが難しく感じる発達障害グレーゾーンと呼ばれる人ならば、治る可能性がある。

 勿論、完治と言うレベルまでは難しいけれど、ある程度まで症状が緩和することが出来ると言えよう。その治療法とは、医療機関におけるものではなくて、神経伝達回路を緩やかに改善する整体である。別の言い方をすれば、神経伝達調整(NTA)と呼ぶ治療方法である。どうしてこのNTAと略される神経伝達調整という治療法が有効なのかと言うと、発達障害グレーゾーンのそもそもの原因がHPSによるものからである。HSPとは略称であり、ハイリーセンシティブパーソンという症状のことである。

 HSPは、環境感受性あるいはその気質・性格的指標である感覚処理感受性が極めて高い人たちということである。神経学的過敏が影響して、心理社会学的過敏も起こしやすい。特に聴覚過敏が顕著であることが多い。その他に、接触性過敏や嗅覚過敏、視覚過敏も起こしてしまうケースもある。これらの神経学的過敏が強いために、コミュニケーション障害を起こしてしまうことが多い。このHSPが起きてしまう根底には、得体の知れない強い不安や恐怖感がある。そして、この不安や恐怖感はアタッチメント未形成によって起きている。

 いずれにしても、HSPが強く影響して発達障害グレーゾーンになっているとすれば、このHSPを癒すことが出来れば、得体の知れない不安や恐怖感を払拭することが可能になる。NTA療法をすることで、HSPが改善される可能性は高い。何故、NTA療法がHSPの改善に役立つのかと言うと、HSPになっている原因である神経伝達回路の異常をNTA療法が正常化してくれるからではないかと思われる。HSPは、神経伝達回路が過剰反応を起こして発症している。その過剰反応を適度に抑えてくれるのがNTA療法であると言えよう。

 不安や恐怖感というのは、脳の偏桃体過剰反応によって起きると言われている。HSPによって、通常なら感じない不安や恐怖感が強く感じ過ぎてしまい、偏桃体が刺激され続けることでコルチゾールが過剰に分泌される。また、ノルアドレナリンやドーパミンも多すぎるほど分泌される。逆に幸福ホルモンと呼ばれるセロトニン、そして安心ホルモンと呼ばれるオキシトシンの分泌が少なくなる。偏桃体が肥大化すると共に、海馬や前頭前野脳が萎縮するとも言われている。こうなると、記憶力も低下すると同時に正常な判断が出来なくなる。

 これらの脳内ホルモンの分泌異常を、神経伝達回路の調整(NTA療法)により改善するのではないかと推測される。NTA療法は、アーユルヴェーダ、ホメオパシー、頭蓋骨仙骨療法、波動理論などの代替医療のエッセンスも取り入れながら、微弱電流装置を駆使しながら神経伝達回路の異常を修正してくれる。つまり、得体の知れない強烈な不安や恐怖感を和らげてくれるし、HSPの症状も緩和してくれるのである。だから、発達障害グレーゾーンの症状が改善されるのではないかと思われる

 それでは、NTA療法の施術をしてくれる整体師ならば、誰でも発達障害グレーゾーンの症状改善をしてくれるのかというと、それを断言することは難しい。何故ならば、このNTA療法の施術者の熟練度やマスタリー度合いによって、現れる効果が違ってくると推測されるからである。施術者が豊かで良質な波動エネルギーを受け取って、その波動エネルギーをクライアントに減衰することなく、受け渡してくれるならば効果は高くなる。この波動エネルギーの受け渡しに長けている施術者を選びたい。そうすれば、発達障害グレーゾーンをかなりの良いレベルまで癒してくれることだろう。

※波動エネルギーとは、天または宇宙、そして大地からもたらさられる自然由来のパワーのことで『気』とも言えるものです。この波動エネルギー(気)を天と地から受け取って、人々に授けるレベルの施術者になる為には、私利私欲を無くし徳を積んで人格を磨き高めること、様々な修行を積んで学びを深めることが必要でしょう。気功の達人と言われる『大周天』や密教における『阿闍梨(大阿闍梨)』のようなレベルになるということではないかと思われます。

レスポンシブルドリンキングの勧め

 レスポンシブルドリンキングという言葉を知っているだろうか。ようやく日本でも提唱されるようになってきたが、まだまだ欧米の認知度から比べると、日本人は知らない人のほうが圧倒的に多い。と言うのは日本では、飲酒上の失敗を大目に見るという風土があるからに違いない。自己責任を重んじる欧米の人たちは総じて、酒を飲んでの不適切な行動に対して厳しい。日本はどちらかというと、飲酒しての不適切行動を、お酒が起こしたことだからと寛容に見ることが多い。そういう理由から、レスポンシブルドリンキングという考え方が浸透しなかったと思われる。

 しかしながら、飲酒のうえで起こしてしまう迷惑行為や不法行為は、けっして許容できないことである。酔っ払いが公道で喚き散らしたり、通行人に言いがかりや女性に絡んだりする姿は、実にみっともない行為で許せない。また、飲酒運転で交通事故を起こす行為は後を絶たず、死亡事故まで起こすに至っては言語道断である。政治家、行政マン、または警察職員・教職員まで飲酒しての不適切行動をしてしまう事例は少なくない。レスポンシブルドリンキングとは、例え酔ったとしても不適切行動をしないような飲酒のことである。

 レスポンシブルドリンキングの程度を遵守できない日本人は、なんと多いことか。お酒を適度な程度までしか飲まないというのは、非常に難しいことである。アルコールを摂取すると前頭前野脳が麻痺してしまい、偏桃体が暴走してしまうので、歯止めが効かなくなり欲望が暴走しやすい。ましてや、飲酒はドーパミンを大量に放出してしまうので、覚せい剤を摂取した時と同じような倫理観の欠如をもたらしてしまう。いずれにしても、飲酒によって煩悩の肥大化と暴走を起こすのだから、いかに適量までに飲酒量を抑えるかは至難の業。

 そんな事情を考慮して、レスポンシブルドリンキングを推奨しようとする醸造メーカーが現れたのである。それも、日本を代表するような巨大ビールメーカーである。それはアサヒビールという、売り上げが増加しているし経営状況も増収増益を続けている優良企業である。アサヒビールは2020年から『スマートドリンキング』という造語を用いて、レスポンシブルドリンキングを推し進めている。社内に、レスポンシブルドリンキング部という部署を9月1日に設置し、『スマドリ』をキャンペーンワードにして推進に取り組んでいる。

 今までのアルコール醸造メーカーは、プロダクトアウトの考え方が強いマーケット戦略であった。アサヒビールの社長松山一雄氏は、一般消費者であるエンドユーザーを顧客と捉える考え方が社内にないことに愕然としたらしい。当時のアサヒビールにとっての顧客は、お酒の問屋・販売店・飲食店であったという。これでは、市民目線のドリンク、市民が求める飲料を企画開発するのは難しいと感じた。勿論、消費者の健康を推進するとか、消費者の幸福を実現するアルコール飲料を企画開発するなんて視点がなかったのは当然である。

 世の中では飲酒することが当たり前だという風潮が根強く残っている。宴会に参加して、アルコールを飲まないと付き合いが悪いなあと批判されてしまう。ようやく最近になって、ソバーキュリアス(敢えて飲まないと言う生き方を志す人)という語句が市民権を得られるようになってきた。飲めない人、または飲まない人の理解が進んできた。これから、ソバーキュリアスを目指す人は激増していくに違いない。サステナブルな社会を目指して行くのであれば、レスポンシブルドリンキングがもっと推進されるべきと確信している。

 アサヒビルビールが「責任ある飲酒」レスポンシブルドリンキングを推進していく為に、ノンアルコールドリンクや低アルコールドリンクの開発に力を注いでいる。今までもノンアルコールビールが販売されていたが、ちっとも美味しくなかったしビールとはけっして呼べないしろものだった。ところが、アサヒゼロは本当のビールと遜色ないし、アサヒのビアリーは0.5%のアルコール度ながら、ビールを飲んだ気分にさせてくれる。実際にビールを醸造して、わざわざアルコール分を抜くという手間暇を惜しまない製法をしている。無責任な飲酒を避けるレスポンシブルドリンキングを他の醸造メーカーにも推進してほしいものだ。

酒は百薬の長という格言はウソ

 お酒が好きな人は、酒は百薬の長だという格言を信じているというか、信じたい気持ちが強いに違いない。古来より、ずっと言われ続けてきたこの酒は百薬の長だという格言は医学的にも正しいことだと信じられてきた。ところが、最新の医学研究によると怪しいという研究結果があるという。飲み過ぎは健康に害があるのは当然だが、適量のアルコール摂取なら非飲酒者よりも長生きするという統計調査結果が公にされてきた。ところが、この調査結果はバイアスがかけられていて、実際は少量飲酒者でも長生きする訳ではないという。

 そんな筈はないと思うお酒好きの方も沢山いるとは思うが、飲酒者よりも非飲酒者のほうが健康で長生きするというのは、医学的にも間違いないと証明されている。ましてや、最新の医学研究では飲酒者のほうが非飲酒者よりも認知症になりやすいという研究結果も明らかになっている。そして、非飲酒者よりも飲酒者は頭頚部の癌になる確率が、なんと5倍にもなるという統計調査も明らかになっている。そもそも、酒は百薬の長という格言は、古代中国の政府による酒税の徴収を増加させるキャンペーンワードだったいうのだ。

 こんないい加減で科学的根拠もない格言に、我々はどうして騙されていきたのであろうか。それは、やはり日本の政府もお酒の売り上げによる税収が貴重だったということもあるだろうし、アルコール製造販売企業と酒類小売店、飲食店への篤い配慮があったのではないかと推測される。ましてや、行政、政治家、医学関係者にも酒好きが多いので、お酒が毒だと思いたくなったのだろう。医学的なエビデンスだって、それを扱う者によってバイアスがかかってしまい、大きく捻じ曲げられてしまうケースは、他にも例がたくさんある。

 いずれにしても、酒は百薬の長という格言はまったくのデマだったということが判明した。しかし、今でも適度な飲酒は健康に良いのだと信じている人は少なくないし、毎日習慣的に飲酒している人も多い。中には、大量飲酒によって肝障害やアルコール依存になって、取り返しのつかない健康被害や生活破綻を起こしている例も多い。飲酒運転による交通事故で、被害者を死亡させてしまうケースも多くある。お酒で身を持ち崩してしまう輩も少なくない。ということは、お酒は百害あって一利なしの、リスクが高いものだと認識すべきだ。

 このような適量の飲酒でも健康被害をもたらすというエビデンスの公表を受けて、日本の酒造メーカーでも、適正な飲酒やノンアルコール飲料を推奨する動きをしているところもある。アサヒビールでは、スマートドリンキングというキャンペーンを始めた。ノンアルコール飲料や低濃度アルコールのお酒を薦めている。勿論、そういうノンアルコールのビールやカクテル、低アルコールの飲料を次から次へと開発して販売している。しかも、本格的な醸造によるノンアルコールビールなので、味も本物のビールに遜色ない出来だ。

 最近では、お酒を飲めるのに敢えて飲まない生き方であるソバーキュリアスを志向する人も増えてきたし、お酒が苦手だと一切飲まない人も増えてきた。さらには飲酒による不適切な行動を防止するというレスポンシブルドリンキングという考え方も外国では定着しつつある。アサヒビールは、そのような世界的な潮流をいち早く取り入れて、スマートドリンキングをマーケットの戦略にしたというのは、素晴らしい英断だと言えよう。アサヒビールの現社長である松山一雄氏は、それまでのプロダクトアウト一辺倒であったマーケット戦略を、大胆にマーケットインに大変革したのである。

 勿論、マーケットインの戦略偏向だけが正しい訳ではなく、自社の強みを生かした開発企画だって必要なのは言うまでもない。しかし、これからの酒造メーカーは、市民の健康をどのように守るのかとか、レスポンシブルドリンキングにどう対応するのかを考慮した市場戦略を練るべきである。お酒というのは毎日習慣的にしかも大量に飲むのは、健康を損ねるだけでなく社会的な損失を招くし、SDG’s上においても勧められる行動ではない。元々、お祭りや特別な日に嗜む程度に飲むのが、『大人のたしなみ』のお酒だった筈だ。特別なハレの日にだけ、最上級のお酒をほんの少しだけ飲むのがお洒落な大人飲みと言えるだろう。

ボーっとしている時間が大切な訳

 NHKのTV番組『チコちゃんに叱られる』で、ゲストが質問の答を間違うと、「ボーっとして生きているんじゃないよ!」とチコちゃんに叱られる。お決まりのパターンであるが、ボーっとして生きていることが、いかにもいけないことだと視聴者に思わせてしまうに違いない。ボーっとして生きるということは、時間を浪費しているようなイメージを持たせるし、何も生み出さないからと、絶対にやってはならないことだと多くの人々が思っている。しかし、このボーっとしている時間こそが、脳の発達に必要不可欠で大切なのである。

 このボーっとしている時間がないと、大脳は正常な発達をしないし、豊かな心も育たないと言われる。確かに、四六時中ボーっとしていて何もしないと言うのは、避けたいことである。しかし、時には何もしなくて何も考えずに、ボーっとしている時間を持つのは大切なことである。ボーっとするのは、脳を休めるためではない。実は、ボーっとしている時間でも、脳は大切な機能を発揮しているのである。そして、ボーっとしているように見えていながら、大脳の発達をさせているということが、脳科学の研究により判明してきたのである。

 一生懸命に、難しい勉強したり厳しい仕事をしたりしている際は、左脳と右脳を思いっきり機能させている。右脳と左脳を繋ぐ脳梁を使って情報交換をしながら、上手く情報処理を実行している。脳梁を太くさせて、その機能を発達させるには左脳と右脳の両方を同時に働かせ、難しい作業をする必要がある。いろんなことを考えながら身体も同時に動かすと、右脳と左脳を同時に働かせて脳梁の機能が向上する。これも人間の成長には、必要な事である。それ以上に脳の進化に必要なのが、ボーっとしながら過ごす時間である。

 右脳も左脳も、ボーっとしている時に情報や感情を整理し直すらしい。また、情報の再ファイル化をして連携化したり、必要な情報と不要な情報に整理し直したり、大切な情報を自分にとって直ぐに活用できるようにしたりしていると言われている。脳は、睡眠中も同じようにその日に起きたり学んだりしたことを整理整頓すると考えられている。ボーっとしている時というのは、無心とか無我になることと同じと考えられている。つまり、座禅をしていることと同じ行為だと思われる。何も考えず何もせず何も願わない時間なのである。

 座禅とは、何も考えずに只ひたすら座ることである。座禅は、悟りを得る為にする行為だと思われがちだが、実は何かをする為に座禅をすると、心を動かし脳を働かせてしまう。だからこそ、何も思わないのが座禅なのである。無心や無我の境地に至らないと、脳は本来の働きをしないし、進化しないのである。無心になって初めて潜在意識が顕在意識を凌駕するのではなかろうか。人間の無意識の領域は約9割近くに及ぶと言われている。その無意識の領域をほんの少しでも活性化できたとしたら、超人の働きができるのだ。

 ボーっとしているというのは、何もしないし何も考えないという瞑想にも通じる。これは、写経、読経、ヨガ、滝行、山岳修行などのマインドフルネスにも言えることかもしれない。ひとつのことに専心するということは、邪念を追い払う事でもある。勿論、ボーっとしている時間もまた、人に対する怒りや憎しみの感情や妬み嫉みを捨てることである。ボーっとしている時間を過ごしていると、何も考えていない筈なのに、過ごし終わった後に驚くほどの抜本的な問題解決策が見つかることもある。

 子育て中の親たちは、子どもがボーっとしていたら安易に注意すべきではない。それは、脳の整理と成長の為に必要な無意識の行動なのである。それを見た親が、ボーっとしている時間を子どもから取り上げてしまったら、大切な大脳の進化発展を止めてしまい、将来不幸になるかもしれないのだ。子どもにとっては特にこのボーっとしている時間が必要不可欠なのだと心得たい。ボーっとしている子どもを見たら、ああこの子は脳の大事なトレーニングをしているんだと、温かく見守ってほしい。やがて、大天才になるかもしれないのであるから。

健康食にすれば病気にはならないのか

 最近の健康ブームもあいまって、自然食志向の人が驚くほど増えている。無農薬や化学肥料を使用しない有機栽培の野菜・果物だけの摂取にこだわり、動物性たんぱく質を一切使用しないヴィーガンの食生活を志す人が想像以上に多くなっている。有機栽培&無農薬の玄米しか食べない人も少なくない。それだけではなく、食品添加物の含まれない加工食品、自然素材の洋服や寝具、自然素材の洗剤やシャンプーリンスしか使わない人も増えてきた。それだけ、病気にならないように予防医学に感心を持つ人が増えてきた証拠かもしれない。

 ところが、それだけ気を遣って生活してきたのに、乳がんや子宮がんになってしまったと嘆いている女性が少なくないのである。元々、自然生活志向の人は圧倒的に女性が多いこともあろうが、そんなにも努力してきたのに、どうしてガンになってしまったのかと、自堕落な生活をして病気になった人よりも元気を失っている女性が多い。勿論、自然生活志向を貫いてきたから、他の病気の発症を防いできたのは確かであろう。しかし、よりによって癌という取り返しのつかない病気になってしまったのか、悔やみきれない気持ちであろう。

 世の中というのは、不思議なものである。暴飲暴食、運動嫌いで好き放題の自堕落な生活をしているにも関わらず、病気にもならずに長生きしている人がいる。一方では、健康に気を遣い、毎日早寝早起きをして、適度な運動をして健康食を続けている人が、ポックリとあの世に行ったり難病や不治の病になったりする。完璧な健康生活を続けている人が長生きしそうなものだが、現実はそうとは限らないのだ。それでは、健康的な生活をしたとしても、すべて無駄なのだろうか。好き勝手に飲み放題食べ放題の自堕落な生活が良いのだろうか。

 健康で長生きするというのは、誰しも願う事なのであろうが、健康的な食生活や生活習慣だけではそれが実現しないということかもしれない。さすれば、もっと健康を保つ為に大事なことは食生活と生活習慣以外に何が必要だというのだろうか。おそらくは、それは『心』というものではなかろうかと思わずにはいられない。何故なら、健康食であるオーガニック&ヴィーガンを志すような方々を見ていると、その目的が自分の健康のためにという考え方が根底にあり、その為にはどんな苦労も厭わないと必死になっている姿が印象的である。

 それが悪いとは思わないが、オーガニック&ヴィーガンな生活を目指している方々は、あまりにも必死になっていて悲壮感さえ感じるのである。そして、完璧な食事と生活を志す姿はある意味で滑稽にも思えるのである。もっと肩の力を抜いて、パーフェクトを目指したとしても、時にはヴィーガンを少し外れた豪華で贅沢な料理を楽しむ余裕があっても良いように感じて仕方ない。オーガニック&ヴィーガンな生活をするのは、自分の為だけでなく社会貢献や全体幸福のための、ひとつの手段だと捉えてもよいのではなかろうか。

 オーガニック&ヴィーガンな生活というそのもの自体を、目的化するというのは如何なものであろうか。健康で長生きするということも、目的にするのは間違いだと思えるのである。健康的な食事をする目的は、身体が健康になる為だけではない。勿論、健康食は健全な心を養うものでもあるが、それも目的ではない。健全な心身を作り上げるのは、それを根底にしての自分の役割を社会に対して果たす為である。それを忘れてしまい、自分自身の為にだけ健康食による健康実現を目指しても、それが実現することはないと断言できる。

 オーガニック&ヴィーガンにあまり拘っていなくても健康を保っている人は、社会の全体幸福や全体最適に貢献しようと努力しているからである。そして、そういう人は人生を謳歌しているし、ストレスやプレッシャーを楽しんでいる。だから、完全な健康食を摂取しなくても、生活習慣が完全な自然志向ではなくても、心身が健全であり続ける。腸内環境が健康であれば、多少の重金属や毒物が含まれた食事を摂取しても、デトックスが可能なのである。人体ネットワークシステムが健全に働いているから、自己組織化が働き心身が健康になるのだ。そういう無理をしない生き方を志すほうが、コストは少ないし理に適っている。

痛みは心からの大事なメッセージ

 痛みは辛く苦しいものだ。抱えている痛みは本人しか解らないし、それが四六時中続いているというのは耐え難い苦しみである。なによりも辛いのは、この痛みがいつまで続くのか解らないということだ。一生に渡ってこの苦しみが続くと言うのなら、途方もない悲しみの渦に巻き込まれてしまいそうだ。この痛みを取ってくれるというのなら、藁にでもすがる思いでどんなこともやってみたいと思うだろう。そして、どうしてこの痛みは出てきてしまったのだろう、どうすれば解放されるのだろうと、心を悩ませている。

 辛い痛みを抱えている人に話を聞くと、自分のこの痛みを一番身近な人がまったく解ってくれないし、何か他人事のように思われていることが感じられて、それが一番辛いと言っている。確かに、心の痛みは何とか共有しようとすれば出来そうだが、身体の痛みはなかなか解り合えない。ましてや、夫婦や親子という関係において、あまり良好な関係に無い場合は、特に身体の痛みに共感しにくいかもしれない。身体の痛みに共感してくれないという『心の痛み』が、益々の痛みの増幅を産み出しているようにも思えて仕方ない。

 身体の痛みを抱えている人が急増している。何らかの痛みを持っていて、普段の生活に影響が出ている人の割合は、おそらく半数を超えていそうな気がする。そして、その割合は女性のほうが遥に高いように感じる。女性の痛みの場合は、原意不明の痛みが多いのが特徴的だ。膠原病、関節リウマチ、線維筋痛症、神経因性疼痛、気象病など原因が特定できない痛みの病気で苦しんでいる女性が多い。どうしてなのか、不思議な事ではあるが、おそらく女性が置かれた環境(人間関係)が大きく影響しているとしか思えない。

 一昔前の医学的な常識として、痛みの原因はこのようなメカニズムで起きていると考えられていた。一つめは、痛みが起きている局部に存する神経細胞が何らかの刺激を受けて痛みが出ているのではないかという見解である。二つ目は、筋肉内に乳酸などが溜まり血管を圧迫して、血流が滞って痛みの原因物質であるプロスタグランディンなどが溜まり、痛みが発症するという見解だ。ところが、この二つだけでは説明できない痛みがあることに注目されている。それは心因性の疼痛であり、この痛みは脳が痛みを感じさせるとも言われている。

 原因不明の痛みとは、この心因性の疼痛が起きる仕組みと同じだと考えられている。何らかの原因で血流障害が起きてしまい、血液を何とか流そうと努力をして、その箇所にバイパス的な毛細血管(モヤモヤ血管)が出来てしまい、そのモヤモヤ血管が痛み神経を刺激して、発症しているという診たてをする医師が増えている。血管造影撮影をすると、痛みが出ている部位に何だか分からないモヤモヤとした毛細血管が写っているらしい。不思議なことに、癌を発症した患者の殆どが、発症する前にこのモヤモヤ血管が出来ていたというのだ。

 痛みの原因や背景を明らかにして、どうして痛みが出ているのかを特定するのは難しい。でも、痛みは自分の心や脳が敢えて起こしているのではないかと考えると、痛みを起こしている本当の意味が少しずつ理解できそうだ。現状において問題を抱えていない人は皆無であろう。それでも、その問題があまりにも大きくて、解決しそうもないという八方塞がりの状況に追い込まれている人は、そんなに多く居ない筈である。現に抱えている困難な状況に、闘う事も出来ず逃げることも許されず、どうやっても乗り越えることは難しいと半ば諦めているケースがあるかと思われる。

 そんな状況が長く続く時に、原因不明の痛みが起きやすいのである。そして、その状況を解決することを諦めて、痛みを放置しておくと取り返しのつかない重病まで発症してしまうのである。ということは、痛みというのは自分自身に対する大事なサインorメッセージなのではなかろうか。今の生き方で良いのか、今の生活を守りたいのか、それとも大胆な変革をしなければならないのか、そろそろ気付きなさいよという自分に対するメッセージだと読み解くことができよう。こういう時こそ、自分の力だけでは解決できないので、誰かに相談すべきだろう。その誰かが解決してくれるとは限らないが、対話を続けているうちに、自分でその『答』を見出すことになろう。

コスタリカ珈琲のほろ苦い思い出

 最近、コーヒー好きが高じてしまい、焙煎さえも自分でやることになってしまった。そして、今までは一度も飲んだことがなかったいろんなコーヒー豆に挑戦するようになった。どういう訳か、今までは購入することをためらっていたコスタリカの珈琲豆を、勇気を出して買い求めたのである。どうして、コスタリカの珈琲豆を飲もうとしなかったのかというと、大学時代のほろ苦い思い出があったからかもしれない。コスタリカの珈琲豆に責任はまったくない。コスタリカという名前が、ある出来事を思い出させるから避けていたのだ。

 今から50年も前になる、恥ずかしくて情けない出来事である。川崎市の郊外に立地するある私立大学に入学した私は、高校時代から続けていた部活の写真を大学でもやろうと決心して、写真同好会に入会した。どちらかというと、その時代は男子学生の多い大学でもあり、ましてや写真同好会なんて、女子学生が興味を持つような会でもなかった。当然、その時代であるから、女学生の会員はほんの少数であり、三人程度しかいなかったと記憶している。男子高校生であった私は、女子学生の姿があまりにも眩しかったのである。

 写真同好会という名前からして、本気で写真を極めようとするような学生は居なかったと思われる。どちらかというと、サークル的な雰囲気が強く、学生同士の交流を求めて入会しているような会員ばかりであった。撮影会や合宿などが定期的に開催されていたが、形式的なものに過ぎず、コンパや飲み会に明け暮れていたような気がする。また、部室に集まっては写真についての会話をするよりも、今では死語となってしまった『ダベリング』を楽しんでいたように記憶している。そこで、ある女性と出会ったのである。

 その女性をKさんと呼ぶことにする。1年先輩のKさんは、謎めいた女性であまり自分のことを語りたがらなかった。1歳年上ということもあり、大人の女性という雰囲気で、長身でスタイルも良くて魅力的な人だった。大学に入って間もない私にとって憧れの女性であり、手の届かないような存在でもあった。今では考えられないが、その当時はウブで純真な少年の私は、まともに話しかけることも出来なかった。そのKさんがアルバイトしていたのが、下北沢駅の近くにある純喫茶コスタリカという店だったのである。

 今でこそコーヒー好きになったが、当時の私はコーヒーの味さえもよく解らず、産出国によって味の違いがあるなんて基本的な知識もなかった。そんな私が、Kさんに会いたくてわざわざ電車に乗ってコスタリカという店に通ったのである。おそらくKさんにとっては迷惑だったと思われる。しかし、心優しいKさんは一途な思いを察して、可哀そうだと思ったのである。一度だけ、デートしてあげようと言ってくれた。新宿で映画を観て食事をしたのだ。帰りに雨が降ってしまい、ひとつしかないので相合傘もしてくれた。

 その後、いろいろと複雑な紆余曲折もあって、二度とデートもしてくれなかったし、付き合ってもらえなかった。私のKさんを想う気持ちを察してくれたのであるが、あまりにも子どもじみた考えの私が物足りなかったのか、もしくは生きるステージが違っているので合わないと感じたのかもしれない。こうして、手さえ握ることもなく淡い恋は終わりを告げた。コスタリカという名前の珈琲店だったのだから、おそらくコスタリカ産のコーヒーも提供していただろうから、一度ぐらいは飲んだだろう。確かな記憶はないが、コスタリカ産のコーヒーはあまりにも苦かったという記憶が残っている。

 そんな苦い思い出を振り払うかのように、コスタリカ珈琲の生豆を買い求めたのである。中央アメリカで最初に珈琲豆の生産を始めた歴史のあるコスタリカは、珈琲豆の生産に国を挙げて力を注いでいる。品質を保つ為に、国としてアラビカ種の生産しか認めていない。スベシャルティコーヒー用の珈琲豆の生産が中心だ。そんなコスタリカ珈琲を、中浅煎りの焙煎にして飲んでみたのである。それもKさんの面影を浮かべながら。甘みのあるキレのある酸味が特徴的で、フルーティで苦味をちょっぴり感じる本当に美味しい珈琲である。苦くて酸っぱいだけの珈琲だったという思い込みは、完全に払拭されて、コスタリカ珈琲の大ファンになってしまったのである。苦い思い出も、甘酸っぱい素敵な思い出に変わった。

※イスキアの郷しらかわでは、森のイスキアの佐藤初女さんを志す方々を支援しようと、心身を病んだ人々の癒し方の研修講座を開催しています。講座を受ける方々には、自分で淹れた珈琲を無償で提供しています。勿論、思い出のコスタリカ珈琲もそのメニューに加えました。コーヒー好きの方には、スペシャルティコーヒーをサービスします。

線維筋痛症の痛みを緩和する方法

 線維筋痛症で苦しんでいる人は、想像以上に多いらしい。その痛みは、当人にしか解らない。痛みは見えないから、周囲の人には理解されないので余計に辛い。原因も不明だと言われて、そんなに痛いのはおかしいとか、詐病ではないのかとか、精神的なものであるというなら、痛みを自分で起こしているのではと誤解されるケースが多い。家庭においても、そして職場でも、共感的に見られることは少なく、どちらかというと迷惑がられることも多い。それ故に、精神的に孤立していることが多く、孤独感を抱えている。

 原因不明だとは言いながら、免疫系の何らかの不具合や脳神経系統のエラーにより痛みが出ていると言われていて、一部の脳神経の遮断をする投薬治療によって、痛みが軽減されるケースもある。従来の痛みに処方されてきた鎮痛消炎剤は効果がないばかりか、抗うつ剤が痛みを低減するケースもあることから、精神的なストレスが発症要因ではないかと見る研究者も少なくない。いずれにしても、これだという治療法は確立されておらず、認知行動療法やリハビリ療法が有効だと言われているが、効果は限定的であるようだ。

 それでは、どのようにすれば痛みを緩和できるのかを考えてみよう。まずは、思考回路をまるっきり転換することだ。人間は、どうしても痛みが起きた原因を探ろうとする。そして原因を追究して、その原因を解決したがるものだ。しかし、この原因を解決しようとしても、出来ないから敢えてこの『痛み』が起きたのである。だとすれば、原因を抜本的に解決出来ないのである。ましてや、その原因は自分の裡にあるのではなく、周りの人々があまりにも理不尽な対応を自分に対して行ったことからであり、人々の心を変えるのは不可能なのだ。

 人の心や行動は容易には変えられない。しかし、自分の心と言動は変えられる。痛みが起きた原因をつぶそうとするのではなく、こういう事態が起きたことに『意味』があると考え、自分が大きな気付きや学びをするチャンスなんだと捉え、自分が成長する為に起きたことだと痛みを受容することが肝要であろう。周りの人を変えようとするのではなく、自分が心から変わりたいと思い、痛みに共感して痛みを受け容れることである。そうすることで、自分自身のこだわりや固定観念が起こしている痛みなのだと気付くことが出来るのである。

 人は、社会の常識、または周りの人々の期待や支配に飲み込まれてしまい、本来の自分を見失い、自分らしさを失ってしまいがちである。あるがままの自分自身を生きるのではなくて、周りの人々の思いや社会常識に合わせて生きようとしてしまう。その方が周囲の人との波風が立たないし、争いごとも起きず平穏に暮らせる唯一の方法だと思い込むのである。これが強烈な生きづらさを生んでいるのである。自分を自分の目で見ようとせず、あまりにも他人の目に自分がどう映っているのかを考えて行動してしまうのである。

 ありのままの自分を心から愛せないのは、自尊心が育っていないからであり、周りの人々の気持ちに合わせてしまうのは、自分に自信がないからである。皆から嫌われたり見離されたりすることを心配するあまり、周りにあまりにも迎合し過ぎてしまうのである。それは見捨てられ不安や恐怖を抱えているからであり、自分をありのままに愛してくれる存在がないという証拠でもある。つまり、心理的安全性が確保されていないからである。安全と絆である『安全基地』という心の居場所がないということだ。家族が居たとしても、精神的に孤立していて、孤独感と不安感でいっぱいなのである。

 こうした不安感や孤独感が、強烈な生きづらさを生んでしまい、自分らしさを見失い周りに迎合する自分を演じているのだ。それが、痛みの本当の原因なのであると言える。だとすれば、まずは心理的安全性を担保してくれる存在を創ることである。最終的には、自分自身の心の裡に安全基地を設けることが可能なのだが、それまでは臨時的な安全基地になってもらえる存在を見つけることが必要である。メンタライジング能力に長けていて、何事にも動ぜずどんなことがあっても寄り添い続けてくれるという安心感のある安全基地を見つけて、自分の悩みや苦しみを聞いてもらうことから始めたい。そうすれば、安心して自分を変革できることが出来て、痛みを和らげることが可能となるであろう。

※森のイスキアの佐藤初女さんは、まさしく心理的安全性を担保してくれる存在でした。いつも優しく寄り添い、心の居場所である臨時的な安全基地となってくれていました。今は、佐藤初女さんは天国に召されてしまい、森のイスキアは閉ざされたままです。森のイスキアのような心の居場所は必要です。本来の駆け込み寺のような存在こそが、このような生きづらい世の中には必要不可欠なのです。第二、第三の森のイスキアを設立するための支援を、イスキアの郷しらかわは続けています。

アルツハイマー型認知症にならない生き方

 前回のブログでアルツハイマー型認知症を防ぐ方法を書き記した。今回は、もう少し詳しく具体的にアルツハイマー型認知症にならない生き方を示してみたい。以後は略して単なる認知症と記載する。さて、認知症にならない為には適度な運動と身体と脳を適切に使うことが必要だと説いたが、もう少し詳しく説明する。運動と言っても辛くて苦しい運動や激し過ぎる運動は、ストレスがかかり過ぎるので効果がないと言われている。どんな運動がいいかというと、歩くのがよい。ただ平坦な道よりも、坂道や階段がある所が最適だ。

 何故坂道や階段が良いかと言うと、足の骨にショックを与えるからだ。骨にショックや負荷を加えると、破骨細胞が減り骨芽細胞を増やすし、脳の細胞も活性化する。特に、歩くことで筋肉に負荷がかかると、脳の海馬や前頭前野が活性化する。特に自然の素晴らしい景色を眺めながら歩くと、ストレスが解消されてカテコールアミンが減少して、偏桃体が縮小する。だから、自然が豊かなところをハイキングやトレッキングで楽しむことが認知症予防になる。気のおけない仲間と歩きながらおしゃべりしたり、ランチをしたりするのも良い。

 スポーツも良いが、すべてのスポーツが良いとは限らない。高齢者が毎日走っているのを見ることがある。マラソンに挑戦したりトレランをしたり姿も見ることがある。しかし、身体に負荷をかけ過ぎてしまうと、活性酸素フリーラジカルを大量に発生させてしまい、悪性腫瘍、心筋梗塞、脳梗塞を発症しやすくさせてしまう。また対戦型のスポーツは必要以上にストレスやプレッシャーを感じさせてしまい、逆効果を生む。ゴルフも良いが、勝負にこだわったり金品を賭けたりすると、認知症を発生させてしまう。

 脳を働かせるというのは、意識しないと難しい。高齢者は、ともすると自宅に籠ってテレビを見たり映画鑑賞を楽しんだりすることが日課になってしまう。この一方的な受動的体験は、あまり薦められない。双方向の体験をしないと、脳の機能を働かせられない。出来得るなら、料理をすることがお薦めである。インスタント食品や冷凍食品に頼らず、食材を調達することから始めてほしい。面倒なメニューや初めての料理に挑戦することは、極めて高い効果がある。そして、料理を作ったら誰かに食べてもらい、誉めてもらうとなお良い。

 趣味や芸術に勤しむのも良い。難しければ難しいほど、脳を活性化させる。パソコンやスマホを使ってSNSやブログ発信もいいだろうし、ウェブサイトを起ち上げてみるのも認知症予防に効果がある。この趣味や芸術、またはインターネットの世界において、友だちを作って交流するのは、認知症を防ぐ効果が大きい。何故かと言うと、人というのは誰かと交流して繋がって関係性を持つことで脳が活性化して、本来の自己組織化が起きるのである。誰とも繋がらず孤立してしまうと、自己組織化が起きずに人体は自己崩壊するのだ。

 何よりも大切なのは、人間としての正しい生き方である。正しく高い価値観に基づいた生き方をしないと、人間と言うのはその存在価値を無くしてしまい、自己崩壊をする。人間が人間として、正しく清らかに美しく生きることが求められている。正しく清らかに美しくというのは、具体的にどういうことかというと、無償の愛を周りの人々に注いで、出会う人々に幸せを感じてもらうという生き方である。何も求めず、損得や利害を超えて、人々に奉仕する生き方である。奉仕というと、自己犠牲を伴った苦しく無理した行動だと思われがちだが、けっしてそうではなく心から深い喜びを感じる行動である。

 何故、そんな無償の奉仕が出来るのかと言うと、神とか宇宙の意志に沿った行動だからである。神の哲学である『形而上学』に基づくものだからこそ、人間は全体最適のための行動が出来るのである。自分の損得や利害を優先した個別最適や個人最適のための行動は、人間を破綻させる。そんな行動をし続けると、誰からも信頼されず孤立するし、組織崩壊や家族崩壊を起こす。経済的な破綻も起こすことになる。神の意思を尊重して、関係性を尊重して全体最適の行動を取り続けるなら、認知症にはけっしてならないのである。

アルツハイマー型認知症を防ぐには

 65歳以上の5人に1人が認知症になる時代だと言われている。その認知症のうち、一番多いのがアルツハイマー型認知症であり、60%以上の割合を占めていて、認知症としての重症度も高いので、深刻な症状を抱えることになる。そして、一度認知症の症状が始まってしまうと、それを止めることは不可能で、どんどん症状が悪化することになる。一度認知症になると治癒することは100%ない。最新の医学技術を駆使しても、認知症の進行を抑えることが出来たとしても、症状を改善することは出来ないのである。

 認知症の原因は、アミロイドβというたんぱく質が繋がって脳の記憶機能に悪影響を与えるためだと言われている。このアミロイドβの発生を抑制したり繋がりを防げたりすることが出来たら、認知症の発症を防ぐことができるのではないかと、医薬品業界は必死になり研究開発を続けている。レカネマブという認知症の症状が進むのを抑制する新薬が出来たと話題になっている。しかし、高価で副作用もあることから、認知症の患者の誰にでも処方出来る訳でもないし、約3割の進行抑制効果しかない。まだまだ課題は大きい。

 このアルツハイマー型認知症の発症を予防することが出来たなら、高齢者にとっては朗報となろうし、医療費や介護費用の大幅削減も可能となる。国の福祉財政にも多大な貢献が出来よう。アルツハイマー型認知症の発症を、完全に防ぐことなんて出来るのであろうか。その答えは、NOである。最近の医学的研究で分かったのであるが、特定の遺伝子異常があって、アミロイドβの異常を促す遺伝子を持つ人は、アルツハイマー型認知症の発症を高い頻度で発症してしまうらしい。つまり、遺伝的なものもあるから予防が難しいのである。

 とは言いながら、最近の医学的な研究と統計調査によって、生活習慣、気質や考え方、生き方によって、かなりの確率で認知症が防げるということが明らかになったのである。つまり、100%ではないにしてもアルツハイマー型認知症は予防出来るのである。どういう気質や考え方の人が認知症になりやすいかというと、自分自身のことが好きかどうかに影響されるという。つまり、何事もポジティブに考える人は認知症になりにくく、ネガティブ思考の人は認知症になりやすいというのだ。つまり、自己肯定感があるかどうかだ。

 さらに、運動習慣のある人は認知症になりにくいということが統計調査によって判明した。積極的に運動を日常的にしていて、その運動を心から楽しめる人は認知症になりにくい。義務的な思考により運動したり、強制されて運動したりする人は認知症予防効果が少ないらしい。スポーツでも勝利至上主義に支配されたり、対戦型のスポーツでストレスやプレッシャーが強過ぎたりしても、認知症を予防出来ない。あまりにも激し過ぎる運動も、活性酸素を増やしてしまい、様々な悪影響が出るので薦められない。

 認知症になりにくい生き方とは、どういうものであろうか。それは、人々の為や世の中の為に貢献する生き方である。そして、その社会貢献の生き方は、無理せずに我慢することなく、自然体で行う社会貢献である。例え、人のために行うボランティアであったとしても、無理して実施するものであれば、認知症予防にはならない。自分が他人から認められたいとか高評価を受けたいからと公益活動をするのも、認知症予防効果が薄い。自然体であるがままに自分らしく、何の見返りも求めず粛々と人の為世の為に尽くす人は、認知症にはなりにくい。

 何故、アルツハイマー型認知症になるのかというと、人間の身体が持つネットワーク機能が無意識のうちに働いて、そうさせているのである。人間は誰でも老化して、徐々に死に向かう。運動をしなくなると同時に身体や脳の機能を働かせなくなると、もう人の為にお役に立てなくなった自分を不必要なものと認識し、この世から抹消させようと人体のネットワーク機能が勝手に働くのである。骨をボロボロにさせて筋肉量を少なくし、土に返しやすくする。認知機能を衰えさせて、死を迎える恐怖から逃避させてくれる。だとすれば、脳と身体の機能を最大限に機能させて、人の為世の為に尽くす生き方をし続ければ、認知症にはならないと断言できる。