育てにくい子になってしまった訳

 世の中の多くのお母さんが持つ共通の悩み、それは『どうしてこの子はこんなにも育てにくい子になってしまったのだろう?』である。愛情をたっぷりとかけて、何不自由のない幸福な生活が出来るようにと、せっせと世話を焼いて育てたのに、何故こんなにも育てにくい子どもになったのだろうと悩んでいるのである。幼児期の頃には、あんなにも素直で良い子だったのに、小学生の頃からどういう訳か手のかかる子になってしまい、しまいにはことごとく親の言うことを、まったく聞かないか守らない子になってしまったのである。

 中学生から高校生になった子どもは、何を考えているのか解らず、突拍子のような言動をして母親を困惑させてしまっている。ごく普通の子育てをしてきたつもりなのに、どうしてこんなにも育てにくい子どもになってしまったのか、訳が分からず途方に暮れてしまっているお母さんが実に多いのである。そして、このような場合共通しているのは、お父さんは困っていないし、大変なことだという認識がないのである。それだけでなく、この育てにくい子どもの味方をする始末で、許せないのは躾の邪魔をしてしまうことである。

 世の中の多くのお母さんたちは、自分が育てられたと同じように我が子を育て上げるのが常である。自分自身がまともに育ち、どちらかというと良い子だと評価を受けて育ってきた。両親からも、そして社会的にもある程度の良い評価を得られているし、何も問題なく普通に生活を営めている。自分と同じように愛情をかけて我が子を育てたつもりなのに、どうしてこんなにも育てづらいのか訳が解らない。原因さえ解れば手の打ちようもあるし、何とか対策や改善策が見つかればと探求をするけれど、解決策は見つからない。

 とても育てにくいとお母さんが感じるのは当然で、ことごとくお母さんの常識や社会的常識と違うことを子どもは平気でしてしまうのである。勉強や片付けは後回しにして、ゲーム・コミック等にはまってしまう。ひとつひとつの動作が遅くて手際が悪く、いつも夜遅くまで起きている。朝はひとりで目覚めることが出来ず何度も起こされてようやく目覚め、朝の準備も出来ず忘れ物も多い。学校からの宿題・課題はいつもぎりぎりか、期限を過ぎるのが常。なにしろ勉強は後回しで、自分の好きな事だけに熱中する始末。

 育てにくい子どもになってしまった原因は、元々その子の遺伝子にあるかもしれない。現代の医学の急激な発達に伴い、乳児死亡率は飛躍的に低下した。一昔前には、遺伝子にエラーがあり脳機能の障害がありながらも産まれてきた子どもは、当時の医療水準では助けるのが難しく、死産または早逝していた。ところが、周産期医療の発達と小児科医療の水準向上により、脳の器質的な障害があっても助かるようになったのである。これは、喜ばしいことであるが、一方では社会に適応しにくい子どもさえ、生存が可能になったのである。

 こうして医学の発達により生き延びてきた子どもたちを、ごく普通の子どもだと思って子育てをしてしまうと、持って生まれてきた少し変わった気質や性格を、益々強化させてしまうのである。こうして、発達障害グレーゾーンと呼ばれる育てにくい子どもが、増えてきているのである。ここで注目すべきは、親はとても育てにくい子どもだと感じてしまうのだが、当の本人は自分が育てられにくいという認識はなく、生きづらいというように感じているという点である。そして、自己組織化やオートポイエーシスの機能が働かなくなっているのである。

 育てにくい我が子が、発達障害のグレーゾーンであるという認識を親が持たないが故に、お母さんは子育てに心身ともに疲れ切ってしまうのだ。ましてや、こういうケースのお父さんは自分自身も発達障害グレーゾーンであるから、子育てを苦手にしているので逃避してしまう。当然、子育ての役割の殆どが母親の分担となる。さらに不幸なのは、母親があるがままにまるごと愛する母性愛だけでなく、躾の愛としての父性愛まで注がなくてはならない点である。こうなると、母親は育てにくい子に対して、さらに強い過干渉と過介入を繰り返すことになる。益々、発達障害グレーゾーンは強化されてしまい、不安型愛着スタイルを抱えることになる。育てにくさが益々増大してしまうのである。

※次回のブログでは、育てにくい子をどのように育てればいいのかをお伝えします。

甘えて依存するのは悪いこと?

 メンタルを病んでしまい、ひきこもりの状況になってしまった方たちが、元気になり社会復帰するための支援をさせてもらっていて、常に気を付けていたことがある。それは、不安型の愛着スタイルや愛着障害を抱えた方々は、支援者に依存しやすい傾向があるということである。すべてのひきこもりの方々がそうだとは言えないが、安全と絆を提供してくれる『安全基地』を持たないひきこもりの人たちにとって、支援者は唯一の安心できる味方なので、どうしても依存しやすいのだ。支援者は、依存されないようにと距離を保つのである。

 また、精神科の医師、カウンセラー、セラピストたちもまた、要支援者から依存されないようにと、距離感を持って接するのが基本となる。世の中の母親たちも、子どもから依存されないようにと、普段から気を付けて子育てをするよう心掛けている。母親というのは、子どもを甘やかし過ぎると駄目になると、姑や夫から口酸っぱく言われるものだから、甘やかすということに神経質になりやすい。親が子どもを甘やかし過ぎたり、支援者が要支援者に対して甘やかしの態度を取ったり、依存させてしまうことは悪いことなのだろうか。

 児童養護施設で、利用者に対する支援の業務を行う職員の方たちも、利用者から依存されないように細心の注意を払う。親から虐待やネグレクトを受け続けてきた児童たちに取っては、養母さんたちはまさしく親の代わりであるから、甘えたいし依存したくなるのも当然である。幼稚園や小学校の担任教師たちも、甘えてきたり依存しようとしたりする子どもたちとは、距離感を持って接しようとする。施設の管理職や上司からは、子どもたちに依存の気持ちを芽生えさせると、自立できなくなると釘を刺されているからだ。

 子どもが親に依存すると自立出来なくなるというのは、本当であろうか。支援者が依存させるような態度を取ると、要支援者は依存してしまい自立が出来なくなるのであろうか。子育てにおいて、甘やかしてはいけない、過保護に育ててはならない、依存させると子どもは自立できなくなるというのは、本当に正しい子育てなのであろうか。何か子どもが大変な事件を起こすと、親が過保護だったとか甘やかし過ぎたと非難され、自立できないのは当然だと言われる。本当に、依存させてしまうと自立が阻害されるのであろうか。

 子どもの発達段階において、特に3歳頃までは母性愛がたっぷりと注がれることが必要だということは、最近になり認識されるようになってきた。母性愛と言うのは、あるがままにまるごと子どもを愛する事であり、無条件の愛のことである。先ずは母性愛をたっぷりと注ぎ続けて、子どもの不安や恐怖感を完全に払拭させてから、条件付きの愛である父性愛をかけるのである。この順序を間違って最初に父性愛を注いだり、父性愛と母性愛を同時にかけたりすると、絶対的な自己肯定感が持てず、不安型の愛着スタイルを抱えてしまうのだ。

 不安型愛着スタイルや愛着障害を根底に抱えていて、メンタルを病んでしまいひきこもりの状況に追い込まれた方々は、頼れる存在がない。どこにも居場所がないし、安全基地と言える存在がないのだ。ある程度の年齢になれば、自分で何とか自立しようともがき苦しむ。しかし、得体の知れない不安や恐怖感は拭い去ることが出来ず、誰にも甘えられないし頼れないから、怖くて社会に出て行くことが難しい。大人になったのであるから、甘えることなんて出来ないし依存することは絶対に避けなければならないと思い込んでいる。しかし、不安型愛着スタイルや愛着障害を癒すには、もう一度幼児期からの子育てをやり直すしかないのだ。

 不安型愛着スタイルを抱えてしまいメンタルを病んでいる人の母親が、もう一度最初からまるごとあるがままの愛を注いでくれて、育児のやり直しをしてくれたなら、病んだメンタルは癒される。しかし、それはいろんな意味で非常に難しい。だとすれば、誰かが母親に代わって、要支援者の臨時の安全基地になり、母性愛のようなまるごとあるがままの愛を注ぎ続け、とことんまで甘えさせることが必要だ。それはある意味、過保護にして依存させるということでもある。人間と言うのは、とことんまで依存し尽してしまうと、ひとりでに自立するものである。そして、何かあるといつも温かく受け容れてくれる場所があれば、自立し続けられる。森のイスキアの佐藤初女さんのような存在が、誰にも欲しいのだ。

※複雑性PTSDのように、長い期間に渡り心的外傷を何度も何度も受け続けてメンタルを病んでしまった方は、元々愛着に問題を抱えています。親から無条件の愛である母性愛を受けられず育ち、元々心が折れやすいのです。安心して甘えて依存できる安全基地がありませんので、いつも得体の知れない不安を抱えて生きています。このような状況を乗り越えるには、臨時的にも甘えて依存できる、森のイスキアの佐藤初女さんのような存在が必要です。佐藤初女さんのような『お母さん』が、不安の時代と言われる今の日本にこそ必要なのです。

学校からいじめがなくならない訳

 昨年度の不登校といじめ件数調査がまとまり、どちらも増加し続けていて過去最高の件数となったことが解った。不登校の人数が、なんと前年度比22%も増加し、29万9,048人となった。いじめの件数も前年度より6万件も増えて、68万1,948件になったという衝撃的な報道がなされた。不登校になった原因がすべていじめだとは言えないが、相当数の不登校に一因にいじめがなっているのは間違いないだろう。学校でのいじめは、増えているだけではなくて、益々過激化していて陰湿化している。SNSを利用したいじめも増えている。

 これだけ学校におけるいじめが問題になっていて、文科省、教委、学校がいじめを無くす対策を取っているにも関わらず、いじめが無くならないばかりか減りもしないのは何故なのか。いじめ対策が功を奏していない形になっているのは、どうしてであろうか。文科省、教委、学校のいじめ対策はまった不十分であると言えるし、本気でいじめを壊滅しようと関係者が考えているとは到底思えないのである。何故なら、いじめを受けている子どもへのサポートだけであって、いじめをしている子どもへの指導がまったく効果がないのである。

 いじめをする子どもに対して、厳罰化せよという声やなるべく早い段階で司法の手に任せるべきだという主張が多くなっている。確かに、それもひとつの有効ないじめ対策だと言えよう。しかし、学校というのは子どもの指導教育の場である。子どもを罰則の強化や司法の力を借りて解決するというのは如何なものであろうか。教師であるなら、しっかりと子どもと向き合うべきである。それをせずに厳罰化するとか司法に任せることで、困難なことから逃避するというのは、けっして許されることではない。

 いじめがなくならないのは、問題ある子どもを指導教育できる教師がいないということがひとつの要因であるのは間違いない。また、いじめをする子どもの保護者にも問題があるからいじめがなくならないとも言える。いじめをする子どもの保護者にいじめの事実を伝えると、自分の子に限っていじめをする訳がないと認めたがらないのである。うちの子はすごく良い子であるから、そんな悪いことをするとは考えられないと言う。それはそうだ、いじめをする子どもは、家では『良い子』を演じているのであるから、親も解りっこない。

 保護者があまりにも厳格で厳しく子育てをしている家庭において、家で良い子を無理に演じさせられている子どもは、学校でいじめをすることが多い。何故なら、家で我慢に我慢を重ねさせられていて、ストレスが溜まっているから、学校で羽目を外したくなり、弱い子に攻撃性を発揮してしまうのである。特に、保護者が高学歴で教養が高く、社会的地位の高いケースほどその傾向が強い。子どもの知能が高く、いじめが陰湿で巧妙ないじめになる。当然、いじめは表面化しないし長期化することが多い。

 問題なのは、不登校になる原因をいじめだと特定した割合は、予想外に低いことである。学校側における調査であるから信用できないとしても、いじめが原因で不登校になった割合は、わずか0.2%だとされている。教師との不適切な関係が原因で不登校になった割合も、1.2%だという。明らかに、恣意的な統計調査結果だということが判明できよう。これだから、学校は本気でいじめ撲滅のために努力しようとしないし、不適切指導を無くそうとしないのである。学校、教委、文科省が本気になっていじめを学校から追放しようとしたなら、少しは効果が出たかもしれないのだが。

 いじめを学校から完全に撲滅するには、日本の教育を抜本的に改革しなければならない。その抜本改革の方法とは、明治維新以降の日本に導入された近代教育の根本的誤謬を変えることである。客観的合理性と要素還元主義にシフトし過ぎた教育ではなく、主観的互恵性と全体最適主義を是とする価値観を基本にした教育への変革である。また、本来持っている人間の自己組織化する働きを信頼する教育でもある。システムダイナミックスを基本にした教育とも言えよう。さらに言うと、形而上学を重視した科学と哲学の統合、科学哲学という考え方も必要である。家庭教育も、学校教育もこのように変革できたなら、いじめや不適切指導は皆無となるに違いない。

こもりびとを卒業するには

 ひきこもりとは呼ばないで、『こもりびと』と呼ぶ人が増えているらしい。確かに、若い人たちが家に籠っているケースは、ひきこもりと言うよりもこもりびとと言う方が正しいのかもしれない。ましてや、自分のことをひきこもりだと言われるよりは、こもりびとと呼ばれた方がましだと言えよう。言葉のイメージとしてだが、ひきこもりよりも症状が軽く、こもりびとは乗り越える可能性がありそうにも聞こえる。深刻だというようなイメージがない分だけ、こもりびとというように呼ばれたいし、使いたい気持ちになる。

 しかし、残念ながらこもりびとはひきこもりと同意語であり、その深刻な状況には変わりないし、こもりびとから抜け出すことは難しい。一度こもりびとになってしまうと、社会復帰するのは困難を極めるケースが多いのも事実である。何年、何十年にも渡りこもりびとになってしまうことも珍しくない。そうなってしまう原因はというと、人それぞれであり様々な理由があげられる。しかし、殆どのこもりびとに共通している事がひとつだけある。それは、『愛着』に問題を抱えているということである。不安定な愛着を抱えているのである。

 こもりびとになった原因はというと、学校や職場においてショックな出来事、または悲惨な苛めやパワハラが起きたからだという認識をしている人が多い。その事件や事故によってトラウマになって、メンタルが落ち込んでしまい、不安や恐怖を乗り越えられず、こもりびとになってしまったと思い込んでいる人たちが殆どだ。しかし、本当の原因は別にある。それらのいじめやパワハラ、ショックな事件や事故はあくまでもきっかけでしかなく、こもりびとの原因は別にある。不安定な愛着が、こもりびとになった本当の原因である。

 こもりびとになった人は、精神的なケアを受けることを拒否してしまうことが多い。精神科の受診を拒むケースが殆どである。よしんば精神医学的なケアを受けたとしても、改善するケースは少ない。カウンセリングや各種セラピーを受けたとしても、こもりびとを脱却するまでに到達するケースは極めて少ない。何故なら、その治療はトラウマやPTSDを克服するためのものであり、不安定な愛着を改善するためのケアをしていないからである。原因を認識しようとせず、対症療法だけをしていては、完治しないし社会復帰は無理なのだ。

 だから、こもりびとは益々増加しているし、こもりびとを卒業する人がいないのである。それでは、こもりびとを卒業することは無理なのであろうか。そんなことはない、こもりびとを卒業して社会復帰することは可能である。不安定な愛着を克服して、安定した愛着を獲得すれば、こもりびとは乗り越えられるのである。不安定な愛着とは、言い換えると不安型愛着スタイルである。幼少期に酷い虐待やネグレクトを受けて育ったケースは、愛着障害と呼ばれる。そんなに酷い養育環境ではなくても、不安型愛着スタイルになるのである。

 例えば、養育者が突然変更になった場合である。母親の病気や仕事、または離婚により、母親から祖母や叔母に養育者が変更になったケースである。または、両親の不仲や離婚も影響を受ける。父親か母親がアルコール依存症やギャンブル依存症で、養育が不安定になったケースも同じである。さらに多いのは、両親から過度の干渉や介入を受けた場合である。あるがままにまるごと愛されるという幼児期体験を受けないと、自尊感情は育まれない。自己肯定感が確立されず、いつも得体のしれない不安に悩まされることになる。これが不安型愛着スタイルという症状である。

 不安型愛着スタイルを自分の力で克服するのは、極めて難しい。何故なら、不安型愛着スタイルというのは、安全と絆が喪失しているから、誰かが安全と絆を保証する『安全基地』として機能しなければならないのである。本来ならば両親のどちらかが安全基地になり、あるがままにまるごと愛するという育て直しをして、安定した愛着を確立するのが望ましい。しかし、現実的には両親がそこに気付くことは出来ないから、誰かが臨時の安全基地として機能しなければならない。そして、その安全基地が揺るぎない愛情を注ぎ続けたら、不安型愛着スタイルを克服して、こもりびとも卒業できるのである。誰でもこの安全基地になれるかというと、そうではない。深い愛情と限りない優しさを持った佐藤初女さんのような人しかできないのである。

 森のイスキアを主宰しておられた佐藤初女さんは、もうこの世にはいません。しかし、佐藤初女さんのような活動をしたいと志していらっしゃる方は、大勢います。佐藤初女さんのようになりたいと思っても、そう簡単になれる訳ではありません。まずは、自分自身が進化や成長を遂げて、自己マスタリーを確立して、高い価値観である形而上学に基づいて、天命を認識した言動を続けることが必要です。そのような学びを「イスキアの郷しらかわ」では支援しています。第二、第三の佐藤初女さんがこの世に生まれ、活躍することを祈って活動しています。

父原病こそが母原病の根本原因

 母原病という深刻な病気が、子どもの正常な精神発達や人格形成を阻害してしまうということで一時期問題になった。この母原病によって、不登校やひきこもりまで起こしてしまうとまで言われて、世の中の母親たちは言われなきバッシングを受けた歴史がある。最近は、母親に子どもの問題の原因を押し付ける風潮は少なくなってきたものの、子育ての失敗は母親が原因だと思い込んでいる人は思った以上に多い。今でも、子どもの教育問題が起きると、教育はすべてお前に任せていたのだから、お前が責任を取れと嘯く夫がいかに多いことか。

 世の中の父親の多くは、仕事が忙しいからと子育てから逃避してしまう。そして、妻に子育てを任したと宣言して、自分の趣味や娯楽に没頭する夫がすこぶる多いのである。そこまでではなくて、学校行事にも積極的に参加するし、普段は子どもの面倒を見る夫もいるが、子育ての重要な局面になると腰が引ける。そして、母親だけに子育ての責任が押し付けられるのである。したがって、母原病と呼ばれるような子どもの症状は、元々母親に原因があるのではなくて、父親にそもそもの根本的原因があるのではないだろうか。

 母現病というと、母親が子どもにべったりで、子どもに依存してしまい、逆に子どもが母親に依存してしまっている状況で起きると思われている。つまり、母親があまりにも子どもを過保護扱いにしてしまい、子どもが自立できなくしてしまっていると思い込んでいる人がなんと多いことか。そして、主体性・自発性・責任性がない子どもに育てたのは、母親にすべて原因があると勘違いしているのである。しかし、真実はまったく違うのである。確かに、母親が子どもに対してそうしてしまった部分はあるものの、そうさせられたのに違いない。

 母現病になってしまい、依存性が強くて自立できない子どもは、学校でもいじめの対象になったり社会に出ても使えない人間だと蔑まれたりすることも多い。それは、母親が子どもを甘やかし過ぎて過保護状態にして育てた為だと思われている。しかし、実際はそうではない。母親が過保護の子育てをしても、何も問題が起きることはない。どんなに甘やかしても子どもは健やかに育つ。悪いのは、過干渉と過介入の子育てであり、支配したり制御したりする育て方をした場合である。そして、母親が強い不安感や恐怖感を抱えているケースである。

 母親が強い不安や恐怖を抱えて子育てしてしまうのは、父親に原因がある。そして、子どもに対して強い過干渉や過介入を繰り返してしまうのも、父親の行動に根本的な問題があるからである。強い支配され感や所有され感を子どもが持ってしまうのも父親に責任があるのだ。何故かと言うと、父親が本来果たすべき子育ての責任を放棄しているからである。そもそも母親が安心して子育てが出来る為には、何かあればすべての責任を父親が果たすからと宣言して置かなければならない。その宣言を今の父親はしていないのである。

 母親というものは、子育てする際に大きな不安を抱くのが普通である。そういう不安を抱いたとしても、父親が子育てに参加してくれて、最終的な結果責任を父親が果たすと言ってくれたなら、母親の不安が安らぐ。そして、父親である夫がまるごとあるがままに妻を愛してくれたなら、妻は安心して子どもに無条件の愛である母性愛を注げる。条件付きの愛情である父性愛(躾)を父親が担当してくれたなら、母親は子どもをあるがままにまるごと愛せるのである。そうすれば、子どもは安心するし自己組織化が進むので自立できる。

 夫が妻に対する行動において、起こしてしまう大きな過ちがある。夫は、妻を所有したがるし支配をしやすい。自分が思うように妻をコントロールしてしまうのである。意識してそうしている訳ではなくて、無意識下でそうしているのである。自分の思うような言動をした際に、不機嫌な態度をしたり無言になったりする。そうすると、妻は夫を不機嫌してしまったことを悔やみ、自分さえ我慢すればといいと思い込み、夫のご機嫌取りを続けてしまうのである。かくして妻は自由を失い、元気を無くしてしまい、人生を心から楽しめなくなる。このような状況に陥った母親が、子どもをあるがままにまるごと愛せる訳がない。つまり、子どもが母原病になる根底には父原病があると言える。

教養が高い親ほど子育てに苦労する

 高学歴で教養があり知能が高い親は、子育てにもその能力を発揮して、優秀な子どもを育てることが出来ると思われている。ところが、逆にそういう優秀な親ほど子育てに苦労する例が多いのである。勿論、例外もあるし、立派な子育てをしている教養の高い親もいる。しかし、教養が高いと思われる医師・学者・教師である親が、子育てを苦手だと感じるケースが多いのも事実である。特に、コミュニケーション能力が非常に高い親ほど、子育てに苦難と困難を味わうことになりやすい。そして心が折れてしまうことも多いのである。

 一般的に、知能が高くてコミュニケーション能力にも秀でている親は、子育てが得意だと思われている。子どもを納得させることが出来るし、モチベーションを上げさせることが可能だと想像する人々が多い。ところが、子どもはコミュニケーション能力が高い親に対して、表面的には従順な姿勢を示しながら、本心では反発し反抗していることが多い。だから、親の言うことにハイハイと返答しながら、その場だけは取り繕うが、親が嫌がることを続けるし、親の期待に背く行動をとり続けることが少なくない。

 高学歴で教養があり知能の高い親は、自分が歩んできた道が唯一正しいのだと思い込み、同じような道を子どもにも歩ませようとする。勉学に励むことが大事であり、優秀な成績を残して、著名な大学を卒業して立派な職業に就くことが、子どもの幸福だと信じて疑わないのである。自分もそうやって努力して現在の地位や評価を得たのだから、子どもがそうするのは当たり前だと信じ、子どもに過干渉と過介入を繰り返す。中には、親の言うことに疑問を持つことなく、親の期待通りに歩む子どももいるが、少数である。

 何故、高学歴で教養がありコミュニケーション能力の高い親に、子どもは反発するのであろうか。または、一応従順な姿勢を見せていながら、期待に背く行動をするのであろうか。中には、発達障害グレーゾーンになってしまったり、不安定愛着スタイルを抱えてしまったりする子どもがいる。そして、不登校になったりひきこもりになったりする子どもも少なくないのである。多くの不登校やひきこもりに接してきた自分の経験からすると、そんな親子が非常に多いのも事実である。優秀な親であるが故に、子どもは苦しむのである。

 教養の高い親が言うとおりに信じて、けっして親の指導に疑問を持たずに、立派な職業についたとしても、社会人になってから本人が苦労するケースも多い。アカデミックの世界や医療関係で職に就くとか、または行政職であれば、ちょっと変わった人で使いにくいなと、思われるくらいで済む。ところが、民間企業だとそんな訳には行かない。主体性、自主性、自発性、責任性が持てないし、指示待ちの社員になってしまい、まったく使い物にならない。当然、企業内ではお荷物社員になってしまい、休職から離職するケースが多くなる。

 社会に出れば、事細かく指示したり指導したりしてくれる親は居なくなる。当然、自分で考えて決断して行動しなくてはならない。今まで干渉して介入してくれた親がいない。人間とは本来、自己組織化して自立していかなければ、社会ではひとりでは生きていけない。コミュニケーション能力の極めて高い親の元で、次はこうするのだよ、こうしては駄目なのよと、行動の先取りをして育てられた子どもは、親に依存しているので自立できていない。絶対的な自己肯定感も確立されていないので、苦難困難があるとすぐに挫折してしまう。

 教養があって学歴が高く、知能が高い親は、完璧な親を演じやすい。それに、子どもの前では感情を表出することも少ない。喜びや嬉しさ、悲しさや寂しさも、子どもの前ではあまり見せない。さらには、純粋なインナーチャイルドを子どもの前では、絶対に見せない。非の打ちどころのない親を持った子どもは日々息苦しさを感じる。強烈なエディプスコンプレックスやエレクトラコンプレックスを持ってしまうと、親を超越できないから、精神的な自立が拒まれる。子どもの前で完璧な親を演じ切ってはならず、マイナスの自己をさらけ出すことも必要なのである。

※まずは子どもをあるがままにまるごと愛することが肝要で、無条件の愛である母性愛をたっぷりと注ぐことが必要です。そして、4歳ないし5歳頃から少しずつ父性愛である条件付きの愛である『躾』を始めることが大切です。この順番を間違って、2~3歳ころから過干渉や過介入を繰り返して、子どもを支配してコントロールしようとしてしまうと、子どもは自己組織化せずに、親のロボットみたいな生き方になってしまいます。子どもに良い子を演じさせてしまうような子育てをしてはならないのです。教養があり学歴の高く、知能が高い親は注意が必要です。

溺愛するのは悪いことなのか

 札幌市のホテルで起きた首切断殺人事件が、父と娘の共犯によって起こされた犯行だという衝撃的な報道がされている。そして、母親もこの事件に関わっていたとして逮捕される事態にもなっている。娘ひとりで殺害を実行して、それに父と母が協力をしたのではないかと見られている。さらに、この娘は小学校から不登校になっていて、29歳になった現在はひきこもりだったとも伝えられる。この事件が起きた原因のひとつには、子どもを甘やかし過ぎて育て、溺愛した為だと主張する専門家が多数いるのには驚いた。

 教育評論家や家庭問題のアナリストの中には、こんな時代錯誤とも言えるような見識や理論しか持っていない専門家がいるのである。不登校・ひきこもりが一向に減らずに、改善する兆しがないのも当然である。おそらく、この事件の報道を見た教育関係者や文科省の役人たち、そして政治家たちも同じような原因分析をしたのではないだろうか。精神科医師である父とその妻は、この娘を過保護状態で育てて、溺愛した為に娘を不登校・ひきこもりにさせてしまい、このような凶悪事件を起こさせたのだと結論付けたいのに違いない。

 子どもを溺愛してしまうと、子どもを駄目にしてしまうというのは、教育関係者にとっては定説のようになっている。果たして、それは発達科学において正しいのであろうか。溺愛とは、限度を超えて盲目的に愛を注ぐことだと言える。それは親子関係や恋人関係(夫婦関係)にも用いられる。一般的には、溺愛してしまうとその関係を破綻させてしまうと思われている。溺愛する背景には、親が子どもに依存しているとか、自分自身が愛情に飢えている為に起きると分析されている。溺愛とは、愛に溺れると書く。

 溺愛とは自分を見失ってしまうくらいに対象者を愛してしまう行為ではあるが、果たしてこういう愛し方は間違っているのであろうか。確かに過ぎてしまうのは良くないことではあるが、愛するという行為が悪いことではない。両親や祖父母が、我が子や孫を溺愛するのは、当たり前のことである。溺愛することが悪いことだと決めつけるのは、どうにも納得できない。札幌の首切断事件を起こした娘の両親が、我が子を溺愛していたとは、到底思えない。事件を起こした娘は、逆に両親からの愛情に飢えていたのではなかろうか。

 世の中の親たちの多くは、我が子を深く愛することが出来ないでいる。特に、母性愛と言える無条件の愛を我が子に注ぐのが極めて下手である。条件付きの愛である父性愛を注ぐのは得意なのだが、あるがままにまるごと我が子を愛することが出来ない。何故かと言うと、自分自身がそのような愛情を注がれて育っていないからである。だから、現代の子どもや若者は、絶対的な自己肯定感が確立されていないのである。若者だけではない。中年者から高齢者も同じである。札幌の両親も自己肯定感が確立されていなかったのであろう。

 ましてや、札幌の事件を起こした父親は、正しい形而上学を学んでいなかったのである。形而上学というのは、科学を超越した神の領域の学問である。現代の日本人の殆どが、形而上学という概念を持ち得ていない。札幌の事件を起こした父親が、正しい形而上学を学んでいて、娘に対しても常日頃から形而上学について話していて、形而上学に基づいた行動をしていたとしたら、こんな不幸な事件は起きなかった筈である。勿論、娘が不登校とかひきこもりにもならなかったに違いない。両親が、絶対的な自己肯定感を持ち、形而上学を認識していたら、娘は幸福な人生を歩んだであろう。

 過保護とか溺愛は、けっして悪くないのである。札幌の両親は、良い子に育てようとか、立派に育てようとして、娘に対して過干渉や過介入を繰り返していたに違いない。この過干渉や過介入こそが、子どもを駄目にするのである。溺愛や過保護であったとするならば、干渉や介入はしない筈である。あるがままにまるごと愛するという行為を続けていたら、子どもは自ずと自己組織化するであろうし、絶対的な自己肯定感が確立する。そのうえで、神の哲学である形而上学を学んでいたなら、幸せな生き方が出来たに違いない。溺愛することが悪いと勘違いするような報道は控えてほしものである。

自衛隊の発砲事件を2度と起こさぬには

 自衛隊の射撃訓練場における発砲事件が起きた。事件に遭われた方にとっては不幸な事件であり、犠牲になってしまわれた方の冥福を祈りたい。事件の背景が明らかになりつつあり、どうしてこの事件が起きたかという原因、またはこの事件を防げなかった安全システム上の問題が取り沙汰されている。このような事件が起きる度に、再発防止策が検討され、安全システムの見直しが行われる。しかし、どんなに安全システムの改善を実施しても、このような発砲事件は絶対に無くならないし、これからは益々増えるに違いないだろう。

 何故なら、警察官が拳銃を用いて自らの命を絶ってしまうという事案が、最近多発しているが、この発砲事件の原因は共通しているからである。自衛隊は、他人を殺傷していて、警察官は自分に対する発砲だから、まるっきり違うと思っている人が多いことだろう。政治家や行政組織の管理者たちは、全然違う事案だと捉えているだろうが、実は根っこは同じなのである。これらの発砲事件を起こした当事者たちは、同じような生きづらさを抱えていたのは間違いない。つまり、自己愛性の障害を抱えていたことが容易に推察できる。

 自ら命を絶った警察官も、自動小銃で教官を射殺した自衛官候補生も、自己愛性の障害を抱えていたのではなかろうか。それはどういうことかというと、彼らに共通しているのは、自尊心や自己肯定感の欠如である。人間とは本来、マイナスの自己も含めて、自分をまるごと好きになり愛せることが、心身共に健やかに生きる為には必要不可欠なことである。自分の嫌な自己も含めてすべて愛せるからこそ、他人をも好きになり愛せるのである。勿論、嫌なことや辛いことが起きても、絶対的な自己肯定感が確立していれば、乗り越えられる。

 ところが、絶対的な自尊心や自己肯定感が確立されてないと、辛いことや悲しいこと、自分で乗り越えるのが難しい苦難困難に遭ってしまうと、その課題から回避したり逃避したりしてしまうのである。自分がそんなに辛い目に遭うのなら、この世から自分を抹殺しようとか、自分をそんな目に遭わせる存在を抹殺しようと短絡的発想をしてしまうのである。絶対的な自己肯定感を確立した人は、けっしてそんな気持ちにはならない。乗り越えるための方策を考えるし、その障壁を乗り越えられない筈がないと自信を持ち、向かって行くのだ。

 現代のような不寛容社会、または自己肯定感を育てることが出来ない教育システムの中では、このような自己愛性の障害を持った人々を大量に生み出してしまっているのである。つまり、絶対的な自己肯定感を確立した人は明らかに少数派であり、強い自己否定感を抱えている人が大多数になってしまっている。当然、警察官の中にも多数いるし、自衛官を目指す人たちにも大勢存在している。そういう自己愛性の障害を抱えている人たちが、一瞬で人の命を奪ってしまう拳銃や自動小銃を扱っているのだ。恐ろしい社会である。

 銃所持が許されている米国でも、拳銃やライフル発砲事件が多発している。やはり、自己愛性の障害を持つ人々が起こした事件だと言えよう。絶対的な自己肯定感を持つ人は、自分を心から愛することが出来るし、他人をもまるごと愛することが可能だ。そういう人は、自分自身を自ら傷つけるようなことをしないし、他人を攻撃することもない。何故、絶対的な自己肯定感を持てず自己愛性の障害を抱えてしまうかと言うと、それは教育システムの不備によるものだと言わざるを得ない。教育制度が根本的に間違っているからである。

 人を育てるには、まずは絶対的な自己肯定感を産みだす為に、絶対的な無条件の愛である母性愛が必要である。0歳~3歳の間にたっぷりと母性愛が注がれてから、条件付きの愛である父性愛をかけることが肝要である。ところが、現代の家庭教育においては、あるがままにまるごと愛するという教育プロセスが欠落している。中途半端な母性愛のままに、父性愛である干渉や介入が行われる。しかもそれがこうしちゃ駄目、あれしては行けないと過干渉の育たれ方をされてしまうのだ。これでは人間は自己組織化されないし、自己肯定感なんて育つ筈がない。自己愛性の障害を抱えてしまい大人になり、生きづらい人生を送るのだ。いくら安全システムを見直しても、発砲事件はなくならないのだ。

※学校教育や職場教育においても、自己否定感をさらに強くしてしまう教育が蔓延っている。誉めて育てるということをせずに、子どもや部下をコントロールする育て方をするのだ。それも、これして駄目あれしては行けないと、相手を否定するダメダメ教育をするのである。警察や自衛隊ではその教育傾向が極めて強い。これでは、自己愛性の障害を抱えている人たちのメンタルが壊れてしまうのは当然である。家庭教育も学校教育も、そして職場の教育も、抜本的に見直すことが必要である。

生きづらさの原因は不安型愛着スタイル

 子どもの頃からずっと生きづらいのであれば、それは不安型愛着スタイルから来るものかもしれない。愛着障害というメンタルのパーソナリティ型がある。小さい頃に虐待やネグレクトを受け続けて育った子どもは愛着障害を抱えてしまい、強烈な生きづらさを持つだけでなく、様々なメンタルの障害を持つし、身体的な病気をも抱えてしまう。そんな虐待やネグレクトを受けた訳ではなく、ごく普通に愛情を持って育てられたのにも関わらず、やはり生きづらさを抱えてしまう事がある。それは、不安型愛着スタイルによるものである。

 両親から愛情をたっぷりと注がれて、十分な教育をされてきたのに何故か不安や恐怖感を抱えていて、学校に行きづらくなったり社会に適応しにくくなったりする人生を送ってしまう子がいる。親からの愛情が不足した為に『愛着』に問題を抱えると言うなら理解できるであろう。ところが、親から有り余るような愛情を受けているのに、愛着に不安を持ってしまうことがある。それは、親からあまりにも強い干渉や介入を受けた場合である。そして、かなり高学歴であり教養・知識が高く、コミュニケーション能力が高い親ほど陥りやすい。

 つまり、聡明な親ほど子どもを不安型愛着スタイルに追い込んでしまうのである。勿論、子どもをわざと不安型愛着スタイルに追い込んで、生きづらさを抱え込ませてしまう親なんて、いる訳がない。子どもを立派に育てて、幸せな人生を送ってほしいと願うのが親である。しかし、その思いが強いばかりに『良い子』に育ってほしいと願い過ぎた時に、取り返しのつかない過ちを犯してしまうのである。子どもに対して、親は過度に期待するものである。だからこそ、知らず知らずのうちに過干渉と過介入をしてしまうのであろう。

 人間には本来自己組織化する働きがある。つまり、生まれながらにして主体性や自主性・自発性、そして自己成長性や進化性を持つので、それらの自己組織性を伸ばしてあげれば、ひとりでに成長して素晴らしい大人になっていく。その自己組織化能力を伸ばすためには、子どもに対して余計なコントロールや支配をしてはならない。自己組織化の能力は、干渉や介入をなるべくせずに、無条件の愛である母性愛をたっぷりと注ぐことにより成長する。逆に父性愛である条件付きの愛やしつけを厳しくし過ぎてしまうと、自己組織化が止まる。

 三つ子の魂百までもという諺通り、子どもは三歳の頃までの育てられ方で、その人の一生が決まってしまうと言っても過言ではない。親が子に対して『あるがままにまるごと愛する』という体験をたっぷりとし続けなければ、子どもは自己組織化しないのである。現代の親たちの多くは、子どもに対して過干渉と過介入を必要以上に繰り返して育てる。そうするとどうなるかというと、自己組織化する能力が育たずに自立できなくなる。そして、不安や恐怖感を必要以上に抱えてしまい、社会に対して上手く適応できなくなるのである。

 幼い子どもというのは、ありのままの自分をまるごと愛してくれて、どんな自分であっても見離さず必ず守ってくれる庇護者がいれば、絶対的な安心感・安全観というものが形成される。少しぐらい親に反発したり反抗したりしても、温かい態度で包んでくれる存在があってこそ、不安感・恐怖感は払拭されて、どんな苦難困難にも向かっていけるようになる。ところが、親から所有され支配され、強くコントロールされて親の思い通りに育てられると、強い不安や恐怖に支配されてしまうし、自立が阻害されてしまう。これが不安型愛着スタイルという状態である。

 不安型愛着スタイルになってしまうと、強烈な生きづらさを抱えてしまうし、苦難困難を乗り越えることが出来なくなる。何故不安型愛着スタイルになるかというと、愛情ホルモンまたは安心ホルモンと呼ばれる、オキシトシンというホルモンが不足するからである。故に、HSP(感覚過敏症)にもなる。自閉症スペクトラム障害やADHDのような症状を呈するケースも多い。自己肯定感が低くて、人の目を気にしやすい。依存性や回避性のパーソナリティを持つことも少なくない。育て方が悪いせいだと親を責めることも出来ない。何故なら親もまた同じように育てられ方をしたからだ。不安型愛着スタイルというのは世代連鎖をするから恐いのである。

結婚と出産を若者が望まない訳

 少子化が止まらない。岸田内閣は異次元の少子化対策をすると宣言しているが、効果がある抜本的な少子化を防ぐ政策は見えてこない。それは当然である。若者たちはどんなに優遇策を提供しても出産を望まないだろうし、そもそも結婚をしたがらないのである。これではいくら少子化対策をしようと旗振りをしたとしても、若者たちが出産をしようとは思わないであろう。若者たちはそもそも、結婚を望んでいないのである。その原因を明らかにして、この問題を解決しなければ少子化を防げないに違いない。

 結婚できない若者が急増しているらしい。定職につけないし、よしんば定職に就いたとしても非正規労働なので、安定した将来が見込めないから結婚できないと言われている。確かに、安定した職場で余裕のある収入が将来に渡り確保されていないと、結婚に踏み切れないのは当然である。韓国でも、同じ理由から結婚できない男性が急増していると言われている。経済的な理由で結婚できない日本人男性も、相当数いると思われる。しかし、結婚できない、または結婚しようとしない理由は、経済的な問題からだけではないような気がする。

 現代の若者たちは、そもそも特定の恋人を持ちたがらないことが多い。友達はいるが、深く愛し合う特定の相手がいないらしい。つまり、恋愛に対する欲望が希薄なのである。その反動なのか解らないが、SNSでの付き合いには積極的であるし、芸能人に対する熱狂的なファンが多い。リアルな恋人を持ちたがることはないが、偶像的な疑似恋人で満足する傾向が強い。SNS上での疑似恋愛を好む若者は少なくない。性欲の処理は、その手のプロを相手にするか、偶発的な一夜のアバンチュールでまかなってしまうことが多いらしい。

 特定の恋人は持たないが、セフレはいるという状況にある若者が多いと言われる。そのせいなのか、梅毒という古い性感染症が都会を中心に爆発的に増えている。何故、若者は特定の異性と恋愛や結婚が出来ないのか、実に不思議なのであるが、それを解決しなければ少子化対策は徒労に終わるであろう。50代以上の世代には考えられないことであるが、現代の若者は恋愛に対して極めて臆病なのである。何故、若者が特定の相手と恋愛出来ないのかというと、それは絶対的な自尊感情が育っていないからであるに違いない。

 絶対的な自己肯定感が育っていないと、自分に自信が持てない。または、自尊心がないと、自分のことが好きになれない。嫌な部分も含めたすべての自分を心から愛することが出来なければ、他人を愛することは出来ないのである。ましてや、好きな異性に対して自分の本心とありのままの肉体をさらけ出すことは勇気がいる。昔は、好きな人にしか自分をさらけ出せなかったのだが、現代の若者たちは真逆の行動をする。どうでもいい異性に対しては、平気で身を任せる。でも、大好きな相手には本心を見せられないし、身を任せることは考えられない。

 自己肯定感(自尊心)を持っていない現代の若者たちは、特定の異性と恋愛関係になることを避けたがる。ましてや、まる裸の自分をさらけ出すことになる結婚まで漕ぎつけることは、到底かなわないことだ。さらには、結婚して子どもを産むということは、自尊心が育っていなければ選択肢にはならない。自分の遺伝子を持った分身をこの世に誕生させるという行為は、自分のことを心から愛してないと出来ないのである。勿論、欲望のままに行動するような愚かな若者は別であるが、分別があり教養のある若者は、結婚や出産に対して臆病である。

 現代の若者が自尊心を持てないのは、教育が間違っているからである。本来あるべき教育とは、出来うる限り子どもに対して介入や干渉を避けて、自己組織化とオートポイエーシスの能力を育む教育である。学校教育と家庭の育児は、自己否定感を肥大化させる子育てである。家庭においては過干渉をしての『良い子』の子育てであるし、学校においても必要以上に介入して枠にはめようとする。これでは自尊心が育つ訳がない。自分自身を偽って、良い子の仮面を被って生きることを強いられている。心理学でいうペルソナ(偽りの仮面)を被っている生きづらい若者だから、本心をさらけ出すことになる結婚と出産を怖くて選べないのである。