父原病こそが母原病の根本原因

 母原病という深刻な病気が、子どもの正常な精神発達や人格形成を阻害してしまうということで一時期問題になった。この母原病によって、不登校やひきこもりまで起こしてしまうとまで言われて、世の中の母親たちは言われなきバッシングを受けた歴史がある。最近は、母親に子どもの問題の原因を押し付ける風潮は少なくなってきたものの、子育ての失敗は母親が原因だと思い込んでいる人は思った以上に多い。今でも、子どもの教育問題が起きると、教育はすべてお前に任せていたのだから、お前が責任を取れと嘯く夫がいかに多いことか。

 世の中の父親の多くは、仕事が忙しいからと子育てから逃避してしまう。そして、妻に子育てを任したと宣言して、自分の趣味や娯楽に没頭する夫がすこぶる多いのである。そこまでではなくて、学校行事にも積極的に参加するし、普段は子どもの面倒を見る夫もいるが、子育ての重要な局面になると腰が引ける。そして、母親だけに子育ての責任が押し付けられるのである。したがって、母原病と呼ばれるような子どもの症状は、元々母親に原因があるのではなくて、父親にそもそもの根本的原因があるのではないだろうか。

 母現病というと、母親が子どもにべったりで、子どもに依存してしまい、逆に子どもが母親に依存してしまっている状況で起きると思われている。つまり、母親があまりにも子どもを過保護扱いにしてしまい、子どもが自立できなくしてしまっていると思い込んでいる人がなんと多いことか。そして、主体性・自発性・責任性がない子どもに育てたのは、母親にすべて原因があると勘違いしているのである。しかし、真実はまったく違うのである。確かに、母親が子どもに対してそうしてしまった部分はあるものの、そうさせられたのに違いない。

 母現病になってしまい、依存性が強くて自立できない子どもは、学校でもいじめの対象になったり社会に出ても使えない人間だと蔑まれたりすることも多い。それは、母親が子どもを甘やかし過ぎて過保護状態にして育てた為だと思われている。しかし、実際はそうではない。母親が過保護の子育てをしても、何も問題が起きることはない。どんなに甘やかしても子どもは健やかに育つ。悪いのは、過干渉と過介入の子育てであり、支配したり制御したりする育て方をした場合である。そして、母親が強い不安感や恐怖感を抱えているケースである。

 母親が強い不安や恐怖を抱えて子育てしてしまうのは、父親に原因がある。そして、子どもに対して強い過干渉や過介入を繰り返してしまうのも、父親の行動に根本的な問題があるからである。強い支配され感や所有され感を子どもが持ってしまうのも父親に責任があるのだ。何故かと言うと、父親が本来果たすべき子育ての責任を放棄しているからである。そもそも母親が安心して子育てが出来る為には、何かあればすべての責任を父親が果たすからと宣言して置かなければならない。その宣言を今の父親はしていないのである。

 母親というものは、子育てする際に大きな不安を抱くのが普通である。そういう不安を抱いたとしても、父親が子育てに参加してくれて、最終的な結果責任を父親が果たすと言ってくれたなら、母親の不安が安らぐ。そして、父親である夫がまるごとあるがままに妻を愛してくれたなら、妻は安心して子どもに無条件の愛である母性愛を注げる。条件付きの愛情である父性愛(躾)を父親が担当してくれたなら、母親は子どもをあるがままにまるごと愛せるのである。そうすれば、子どもは安心するし自己組織化が進むので自立できる。

 夫が妻に対する行動において、起こしてしまう大きな過ちがある。夫は、妻を所有したがるし支配をしやすい。自分が思うように妻をコントロールしてしまうのである。意識してそうしている訳ではなくて、無意識下でそうしているのである。自分の思うような言動をした際に、不機嫌な態度をしたり無言になったりする。そうすると、妻は夫を不機嫌してしまったことを悔やみ、自分さえ我慢すればといいと思い込み、夫のご機嫌取りを続けてしまうのである。かくして妻は自由を失い、元気を無くしてしまい、人生を心から楽しめなくなる。このような状況に陥った母親が、子どもをあるがままにまるごと愛せる訳がない。つまり、子どもが母原病になる根底には父原病があると言える。

教養が高い親ほど子育てに苦労する

 高学歴で教養があり知能が高い親は、子育てにもその能力を発揮して、優秀な子どもを育てることが出来ると思われている。ところが、逆にそういう優秀な親ほど子育てに苦労する例が多いのである。勿論、例外もあるし、立派な子育てをしている教養の高い親もいる。しかし、教養が高いと思われる医師・学者・教師である親が、子育てを苦手だと感じるケースが多いのも事実である。特に、コミュニケーション能力が非常に高い親ほど、子育てに苦難と困難を味わうことになりやすい。そして心が折れてしまうことも多いのである。

 一般的に、知能が高くてコミュニケーション能力にも秀でている親は、子育てが得意だと思われている。子どもを納得させることが出来るし、モチベーションを上げさせることが可能だと想像する人々が多い。ところが、子どもはコミュニケーション能力が高い親に対して、表面的には従順な姿勢を示しながら、本心では反発し反抗していることが多い。だから、親の言うことにハイハイと返答しながら、その場だけは取り繕うが、親が嫌がることを続けるし、親の期待に背く行動をとり続けることが少なくない。

 高学歴で教養があり知能の高い親は、自分が歩んできた道が唯一正しいのだと思い込み、同じような道を子どもにも歩ませようとする。勉学に励むことが大事であり、優秀な成績を残して、著名な大学を卒業して立派な職業に就くことが、子どもの幸福だと信じて疑わないのである。自分もそうやって努力して現在の地位や評価を得たのだから、子どもがそうするのは当たり前だと信じ、子どもに過干渉と過介入を繰り返す。中には、親の言うことに疑問を持つことなく、親の期待通りに歩む子どももいるが、少数である。

 何故、高学歴で教養がありコミュニケーション能力の高い親に、子どもは反発するのであろうか。または、一応従順な姿勢を見せていながら、期待に背く行動をするのであろうか。中には、発達障害グレーゾーンになってしまったり、不安定愛着スタイルを抱えてしまったりする子どもがいる。そして、不登校になったりひきこもりになったりする子どもも少なくないのである。多くの不登校やひきこもりに接してきた自分の経験からすると、そんな親子が非常に多いのも事実である。優秀な親であるが故に、子どもは苦しむのである。

 教養の高い親が言うとおりに信じて、けっして親の指導に疑問を持たずに、立派な職業についたとしても、社会人になってから本人が苦労するケースも多い。アカデミックの世界や医療関係で職に就くとか、または行政職であれば、ちょっと変わった人で使いにくいなと、思われるくらいで済む。ところが、民間企業だとそんな訳には行かない。主体性、自主性、自発性、責任性が持てないし、指示待ちの社員になってしまい、まったく使い物にならない。当然、企業内ではお荷物社員になってしまい、休職から離職するケースが多くなる。

 社会に出れば、事細かく指示したり指導したりしてくれる親は居なくなる。当然、自分で考えて決断して行動しなくてはならない。今まで干渉して介入してくれた親がいない。人間とは本来、自己組織化して自立していかなければ、社会ではひとりでは生きていけない。コミュニケーション能力の極めて高い親の元で、次はこうするのだよ、こうしては駄目なのよと、行動の先取りをして育てられた子どもは、親に依存しているので自立できていない。絶対的な自己肯定感も確立されていないので、苦難困難があるとすぐに挫折してしまう。

 教養があって学歴が高く、知能が高い親は、完璧な親を演じやすい。それに、子どもの前では感情を表出することも少ない。喜びや嬉しさ、悲しさや寂しさも、子どもの前ではあまり見せない。さらには、純粋なインナーチャイルドを子どもの前では、絶対に見せない。非の打ちどころのない親を持った子どもは日々息苦しさを感じる。強烈なエディプスコンプレックスやエレクトラコンプレックスを持ってしまうと、親を超越できないから、精神的な自立が拒まれる。子どもの前で完璧な親を演じ切ってはならず、マイナスの自己をさらけ出すことも必要なのである。

※まずは子どもをあるがままにまるごと愛することが肝要で、無条件の愛である母性愛をたっぷりと注ぐことが必要です。そして、4歳ないし5歳頃から少しずつ父性愛である条件付きの愛である『躾』を始めることが大切です。この順番を間違って、2~3歳ころから過干渉や過介入を繰り返して、子どもを支配してコントロールしようとしてしまうと、子どもは自己組織化せずに、親のロボットみたいな生き方になってしまいます。子どもに良い子を演じさせてしまうような子育てをしてはならないのです。教養があり学歴の高く、知能が高い親は注意が必要です。

溺愛するのは悪いことなのか

 札幌市のホテルで起きた首切断殺人事件が、父と娘の共犯によって起こされた犯行だという衝撃的な報道がされている。そして、母親もこの事件に関わっていたとして逮捕される事態にもなっている。娘ひとりで殺害を実行して、それに父と母が協力をしたのではないかと見られている。さらに、この娘は小学校から不登校になっていて、29歳になった現在はひきこもりだったとも伝えられる。この事件が起きた原因のひとつには、子どもを甘やかし過ぎて育て、溺愛した為だと主張する専門家が多数いるのには驚いた。

 教育評論家や家庭問題のアナリストの中には、こんな時代錯誤とも言えるような見識や理論しか持っていない専門家がいるのである。不登校・ひきこもりが一向に減らずに、改善する兆しがないのも当然である。おそらく、この事件の報道を見た教育関係者や文科省の役人たち、そして政治家たちも同じような原因分析をしたのではないだろうか。精神科医師である父とその妻は、この娘を過保護状態で育てて、溺愛した為に娘を不登校・ひきこもりにさせてしまい、このような凶悪事件を起こさせたのだと結論付けたいのに違いない。

 子どもを溺愛してしまうと、子どもを駄目にしてしまうというのは、教育関係者にとっては定説のようになっている。果たして、それは発達科学において正しいのであろうか。溺愛とは、限度を超えて盲目的に愛を注ぐことだと言える。それは親子関係や恋人関係(夫婦関係)にも用いられる。一般的には、溺愛してしまうとその関係を破綻させてしまうと思われている。溺愛する背景には、親が子どもに依存しているとか、自分自身が愛情に飢えている為に起きると分析されている。溺愛とは、愛に溺れると書く。

 溺愛とは自分を見失ってしまうくらいに対象者を愛してしまう行為ではあるが、果たしてこういう愛し方は間違っているのであろうか。確かに過ぎてしまうのは良くないことではあるが、愛するという行為が悪いことではない。両親や祖父母が、我が子や孫を溺愛するのは、当たり前のことである。溺愛することが悪いことだと決めつけるのは、どうにも納得できない。札幌の首切断事件を起こした娘の両親が、我が子を溺愛していたとは、到底思えない。事件を起こした娘は、逆に両親からの愛情に飢えていたのではなかろうか。

 世の中の親たちの多くは、我が子を深く愛することが出来ないでいる。特に、母性愛と言える無条件の愛を我が子に注ぐのが極めて下手である。条件付きの愛である父性愛を注ぐのは得意なのだが、あるがままにまるごと我が子を愛することが出来ない。何故かと言うと、自分自身がそのような愛情を注がれて育っていないからである。だから、現代の子どもや若者は、絶対的な自己肯定感が確立されていないのである。若者だけではない。中年者から高齢者も同じである。札幌の両親も自己肯定感が確立されていなかったのであろう。

 ましてや、札幌の事件を起こした父親は、正しい形而上学を学んでいなかったのである。形而上学というのは、科学を超越した神の領域の学問である。現代の日本人の殆どが、形而上学という概念を持ち得ていない。札幌の事件を起こした父親が、正しい形而上学を学んでいて、娘に対しても常日頃から形而上学について話していて、形而上学に基づいた行動をしていたとしたら、こんな不幸な事件は起きなかった筈である。勿論、娘が不登校とかひきこもりにもならなかったに違いない。両親が、絶対的な自己肯定感を持ち、形而上学を認識していたら、娘は幸福な人生を歩んだであろう。

 過保護とか溺愛は、けっして悪くないのである。札幌の両親は、良い子に育てようとか、立派に育てようとして、娘に対して過干渉や過介入を繰り返していたに違いない。この過干渉や過介入こそが、子どもを駄目にするのである。溺愛や過保護であったとするならば、干渉や介入はしない筈である。あるがままにまるごと愛するという行為を続けていたら、子どもは自ずと自己組織化するであろうし、絶対的な自己肯定感が確立する。そのうえで、神の哲学である形而上学を学んでいたなら、幸せな生き方が出来たに違いない。溺愛することが悪いと勘違いするような報道は控えてほしものである。

自衛隊の発砲事件を2度と起こさぬには

 自衛隊の射撃訓練場における発砲事件が起きた。事件に遭われた方にとっては不幸な事件であり、犠牲になってしまわれた方の冥福を祈りたい。事件の背景が明らかになりつつあり、どうしてこの事件が起きたかという原因、またはこの事件を防げなかった安全システム上の問題が取り沙汰されている。このような事件が起きる度に、再発防止策が検討され、安全システムの見直しが行われる。しかし、どんなに安全システムの改善を実施しても、このような発砲事件は絶対に無くならないし、これからは益々増えるに違いないだろう。

 何故なら、警察官が拳銃を用いて自らの命を絶ってしまうという事案が、最近多発しているが、この発砲事件の原因は共通しているからである。自衛隊は、他人を殺傷していて、警察官は自分に対する発砲だから、まるっきり違うと思っている人が多いことだろう。政治家や行政組織の管理者たちは、全然違う事案だと捉えているだろうが、実は根っこは同じなのである。これらの発砲事件を起こした当事者たちは、同じような生きづらさを抱えていたのは間違いない。つまり、自己愛性の障害を抱えていたことが容易に推察できる。

 自ら命を絶った警察官も、自動小銃で教官を射殺した自衛官候補生も、自己愛性の障害を抱えていたのではなかろうか。それはどういうことかというと、彼らに共通しているのは、自尊心や自己肯定感の欠如である。人間とは本来、マイナスの自己も含めて、自分をまるごと好きになり愛せることが、心身共に健やかに生きる為には必要不可欠なことである。自分の嫌な自己も含めてすべて愛せるからこそ、他人をも好きになり愛せるのである。勿論、嫌なことや辛いことが起きても、絶対的な自己肯定感が確立していれば、乗り越えられる。

 ところが、絶対的な自尊心や自己肯定感が確立されてないと、辛いことや悲しいこと、自分で乗り越えるのが難しい苦難困難に遭ってしまうと、その課題から回避したり逃避したりしてしまうのである。自分がそんなに辛い目に遭うのなら、この世から自分を抹殺しようとか、自分をそんな目に遭わせる存在を抹殺しようと短絡的発想をしてしまうのである。絶対的な自己肯定感を確立した人は、けっしてそんな気持ちにはならない。乗り越えるための方策を考えるし、その障壁を乗り越えられない筈がないと自信を持ち、向かって行くのだ。

 現代のような不寛容社会、または自己肯定感を育てることが出来ない教育システムの中では、このような自己愛性の障害を持った人々を大量に生み出してしまっているのである。つまり、絶対的な自己肯定感を確立した人は明らかに少数派であり、強い自己否定感を抱えている人が大多数になってしまっている。当然、警察官の中にも多数いるし、自衛官を目指す人たちにも大勢存在している。そういう自己愛性の障害を抱えている人たちが、一瞬で人の命を奪ってしまう拳銃や自動小銃を扱っているのだ。恐ろしい社会である。

 銃所持が許されている米国でも、拳銃やライフル発砲事件が多発している。やはり、自己愛性の障害を持つ人々が起こした事件だと言えよう。絶対的な自己肯定感を持つ人は、自分を心から愛することが出来るし、他人をもまるごと愛することが可能だ。そういう人は、自分自身を自ら傷つけるようなことをしないし、他人を攻撃することもない。何故、絶対的な自己肯定感を持てず自己愛性の障害を抱えてしまうかと言うと、それは教育システムの不備によるものだと言わざるを得ない。教育制度が根本的に間違っているからである。

 人を育てるには、まずは絶対的な自己肯定感を産みだす為に、絶対的な無条件の愛である母性愛が必要である。0歳~3歳の間にたっぷりと母性愛が注がれてから、条件付きの愛である父性愛をかけることが肝要である。ところが、現代の家庭教育においては、あるがままにまるごと愛するという教育プロセスが欠落している。中途半端な母性愛のままに、父性愛である干渉や介入が行われる。しかもそれがこうしちゃ駄目、あれしては行けないと過干渉の育たれ方をされてしまうのだ。これでは人間は自己組織化されないし、自己肯定感なんて育つ筈がない。自己愛性の障害を抱えてしまい大人になり、生きづらい人生を送るのだ。いくら安全システムを見直しても、発砲事件はなくならないのだ。

※学校教育や職場教育においても、自己否定感をさらに強くしてしまう教育が蔓延っている。誉めて育てるということをせずに、子どもや部下をコントロールする育て方をするのだ。それも、これして駄目あれしては行けないと、相手を否定するダメダメ教育をするのである。警察や自衛隊ではその教育傾向が極めて強い。これでは、自己愛性の障害を抱えている人たちのメンタルが壊れてしまうのは当然である。家庭教育も学校教育も、そして職場の教育も、抜本的に見直すことが必要である。

生きづらさの原因は不安型愛着スタイル

 子どもの頃からずっと生きづらいのであれば、それは不安型愛着スタイルから来るものかもしれない。愛着障害というメンタルのパーソナリティ型がある。小さい頃に虐待やネグレクトを受け続けて育った子どもは愛着障害を抱えてしまい、強烈な生きづらさを持つだけでなく、様々なメンタルの障害を持つし、身体的な病気をも抱えてしまう。そんな虐待やネグレクトを受けた訳ではなく、ごく普通に愛情を持って育てられたのにも関わらず、やはり生きづらさを抱えてしまう事がある。それは、不安型愛着スタイルによるものである。

 両親から愛情をたっぷりと注がれて、十分な教育をされてきたのに何故か不安や恐怖感を抱えていて、学校に行きづらくなったり社会に適応しにくくなったりする人生を送ってしまう子がいる。親からの愛情が不足した為に『愛着』に問題を抱えると言うなら理解できるであろう。ところが、親から有り余るような愛情を受けているのに、愛着に不安を持ってしまうことがある。それは、親からあまりにも強い干渉や介入を受けた場合である。そして、かなり高学歴であり教養・知識が高く、コミュニケーション能力が高い親ほど陥りやすい。

 つまり、聡明な親ほど子どもを不安型愛着スタイルに追い込んでしまうのである。勿論、子どもをわざと不安型愛着スタイルに追い込んで、生きづらさを抱え込ませてしまう親なんて、いる訳がない。子どもを立派に育てて、幸せな人生を送ってほしいと願うのが親である。しかし、その思いが強いばかりに『良い子』に育ってほしいと願い過ぎた時に、取り返しのつかない過ちを犯してしまうのである。子どもに対して、親は過度に期待するものである。だからこそ、知らず知らずのうちに過干渉と過介入をしてしまうのであろう。

 人間には本来自己組織化する働きがある。つまり、生まれながらにして主体性や自主性・自発性、そして自己成長性や進化性を持つので、それらの自己組織性を伸ばしてあげれば、ひとりでに成長して素晴らしい大人になっていく。その自己組織化能力を伸ばすためには、子どもに対して余計なコントロールや支配をしてはならない。自己組織化の能力は、干渉や介入をなるべくせずに、無条件の愛である母性愛をたっぷりと注ぐことにより成長する。逆に父性愛である条件付きの愛やしつけを厳しくし過ぎてしまうと、自己組織化が止まる。

 三つ子の魂百までもという諺通り、子どもは三歳の頃までの育てられ方で、その人の一生が決まってしまうと言っても過言ではない。親が子に対して『あるがままにまるごと愛する』という体験をたっぷりとし続けなければ、子どもは自己組織化しないのである。現代の親たちの多くは、子どもに対して過干渉と過介入を必要以上に繰り返して育てる。そうするとどうなるかというと、自己組織化する能力が育たずに自立できなくなる。そして、不安や恐怖感を必要以上に抱えてしまい、社会に対して上手く適応できなくなるのである。

 幼い子どもというのは、ありのままの自分をまるごと愛してくれて、どんな自分であっても見離さず必ず守ってくれる庇護者がいれば、絶対的な安心感・安全観というものが形成される。少しぐらい親に反発したり反抗したりしても、温かい態度で包んでくれる存在があってこそ、不安感・恐怖感は払拭されて、どんな苦難困難にも向かっていけるようになる。ところが、親から所有され支配され、強くコントロールされて親の思い通りに育てられると、強い不安や恐怖に支配されてしまうし、自立が阻害されてしまう。これが不安型愛着スタイルという状態である。

 不安型愛着スタイルになってしまうと、強烈な生きづらさを抱えてしまうし、苦難困難を乗り越えることが出来なくなる。何故不安型愛着スタイルになるかというと、愛情ホルモンまたは安心ホルモンと呼ばれる、オキシトシンというホルモンが不足するからである。故に、HSP(感覚過敏症)にもなる。自閉症スペクトラム障害やADHDのような症状を呈するケースも多い。自己肯定感が低くて、人の目を気にしやすい。依存性や回避性のパーソナリティを持つことも少なくない。育て方が悪いせいだと親を責めることも出来ない。何故なら親もまた同じように育てられ方をしたからだ。不安型愛着スタイルというのは世代連鎖をするから恐いのである。

結婚と出産を若者が望まない訳

 少子化が止まらない。岸田内閣は異次元の少子化対策をすると宣言しているが、効果がある抜本的な少子化を防ぐ政策は見えてこない。それは当然である。若者たちはどんなに優遇策を提供しても出産を望まないだろうし、そもそも結婚をしたがらないのである。これではいくら少子化対策をしようと旗振りをしたとしても、若者たちが出産をしようとは思わないであろう。若者たちはそもそも、結婚を望んでいないのである。その原因を明らかにして、この問題を解決しなければ少子化を防げないに違いない。

 結婚できない若者が急増しているらしい。定職につけないし、よしんば定職に就いたとしても非正規労働なので、安定した将来が見込めないから結婚できないと言われている。確かに、安定した職場で余裕のある収入が将来に渡り確保されていないと、結婚に踏み切れないのは当然である。韓国でも、同じ理由から結婚できない男性が急増していると言われている。経済的な理由で結婚できない日本人男性も、相当数いると思われる。しかし、結婚できない、または結婚しようとしない理由は、経済的な問題からだけではないような気がする。

 現代の若者たちは、そもそも特定の恋人を持ちたがらないことが多い。友達はいるが、深く愛し合う特定の相手がいないらしい。つまり、恋愛に対する欲望が希薄なのである。その反動なのか解らないが、SNSでの付き合いには積極的であるし、芸能人に対する熱狂的なファンが多い。リアルな恋人を持ちたがることはないが、偶像的な疑似恋人で満足する傾向が強い。SNS上での疑似恋愛を好む若者は少なくない。性欲の処理は、その手のプロを相手にするか、偶発的な一夜のアバンチュールでまかなってしまうことが多いらしい。

 特定の恋人は持たないが、セフレはいるという状況にある若者が多いと言われる。そのせいなのか、梅毒という古い性感染症が都会を中心に爆発的に増えている。何故、若者は特定の異性と恋愛や結婚が出来ないのか、実に不思議なのであるが、それを解決しなければ少子化対策は徒労に終わるであろう。50代以上の世代には考えられないことであるが、現代の若者は恋愛に対して極めて臆病なのである。何故、若者が特定の相手と恋愛出来ないのかというと、それは絶対的な自尊感情が育っていないからであるに違いない。

 絶対的な自己肯定感が育っていないと、自分に自信が持てない。または、自尊心がないと、自分のことが好きになれない。嫌な部分も含めたすべての自分を心から愛することが出来なければ、他人を愛することは出来ないのである。ましてや、好きな異性に対して自分の本心とありのままの肉体をさらけ出すことは勇気がいる。昔は、好きな人にしか自分をさらけ出せなかったのだが、現代の若者たちは真逆の行動をする。どうでもいい異性に対しては、平気で身を任せる。でも、大好きな相手には本心を見せられないし、身を任せることは考えられない。

 自己肯定感(自尊心)を持っていない現代の若者たちは、特定の異性と恋愛関係になることを避けたがる。ましてや、まる裸の自分をさらけ出すことになる結婚まで漕ぎつけることは、到底かなわないことだ。さらには、結婚して子どもを産むということは、自尊心が育っていなければ選択肢にはならない。自分の遺伝子を持った分身をこの世に誕生させるという行為は、自分のことを心から愛してないと出来ないのである。勿論、欲望のままに行動するような愚かな若者は別であるが、分別があり教養のある若者は、結婚や出産に対して臆病である。

 現代の若者が自尊心を持てないのは、教育が間違っているからである。本来あるべき教育とは、出来うる限り子どもに対して介入や干渉を避けて、自己組織化とオートポイエーシスの能力を育む教育である。学校教育と家庭の育児は、自己否定感を肥大化させる子育てである。家庭においては過干渉をしての『良い子』の子育てであるし、学校においても必要以上に介入して枠にはめようとする。これでは自尊心が育つ訳がない。自分自身を偽って、良い子の仮面を被って生きることを強いられている。心理学でいうペルソナ(偽りの仮面)を被っている生きづらい若者だから、本心をさらけ出すことになる結婚と出産を怖くて選べないのである。

子どもの嘘とどう向き合うか

 子どもに嘘をつかれたことを経験しない親は、絶対にいない筈である。嘘をつかない子どもなんて絶対にいない。もし、嘘をつかない子どもがいたとしたら、それはそれで問題であろう。何故ならば、人は嘘をつくことで精神的な発達をして行くからである。自我が芽生えて、やがてその自我をもてあまし、自らの自我を批判し糾弾して、やがて自我と自己の統合を実現するのである。プロセスの中で、どうしても自我が嘘をつかせるのであるから、正常な精神発達をするには必要不可欠なことである。自己の確立にはなくてはならないのだ。

 とは言いながら、嘘をつかれる母親は辛い立場を思い知ることになる。子どもは、父親が怖いので、父親には嘘をつきにくい。母親を甘く見ている訳ではないのだが、嘘をつくのは圧倒的に母親に対してである。そして、その嘘は巧妙なものではなくて、すぐにばれてしまう嘘である。その度に母親は子どもをきつく叱るのであるが、学習をせずにまた同じような嘘をつく。何故なら、子どもにいくら正論で訴えても、子どもは一時的には反省しても、またもや嘘をついて母親を困らせる。反省したように見せるのも、また嘘なのである。

 ところで、嘘を何度もつく子どもと、あまり嘘をつかない子どもがいる。同じ兄弟姉妹だとしても、嘘をつかない子と嘘をつく子がいるのは、実に不思議なことである。それは、何がそうさせるのであろうか。そのことが解れば、子どもが嘘をつかないようになるのではあるまいか。よく嘘をつく子どもと嘘をあまりつかない子どもの違いは、どこが違うのかというと、母親との関係性にあるような気がする。それも母親との愛着が安定したものであり、子どもが不安や恐怖を持っていないのなら、嘘をあまりつかないだろう。

 逆に、母親との愛着が不安定なもので、その愛着が傷ついたものだとしたら、子どもはすぐにばれてしまうような嘘をつきたがる。何故、そんなことをするかというと、母親からの自分に対する愛情が本物かどうかを、無意識下で試すということをしてしまうのである。嘘をつくというのは、自分を守るという意味もあるが、すぐにばれるような嘘をつくというのなら、母親を試しているということが疑われる。自分をまるごとあるがままに愛してくれているという実感を持っている子どもであれば、あまり嘘はつかないであろう。

 嘘をつくような子どもに対して、母親はどのように向き合ったらよいのであろうか。嘘をつかれた母親は、ついつい子どもを叱ってしまうのは当然であろう。そして、どうしてこんな嘘をついたのかと、理由を聞きたがるものだ。そして、二度と嘘をついてはならないと、こんこんと諭すに違いない。このような対応は、子どもの心を酷く傷つける。そして、子どもとの信頼関係を益々希薄化させてしまうことだろう。それでなくても不安定な母親と子どもの愛着関係をさらに悪化させてしまうことになるのである。

 子どもの嘘に対して、理詰めで嘘をつくことの愚かさをくどくどと説くのは賢明なことではない。子どもは嘘をつくことで、親の反応を確かめているのである。親が自分に対して、どれだけ愛してくれているのかを測っているのである。だから、理論的に子どもを追い詰めてしまうと、自分は親から愛されていないと感じて、さらなる嘘を重ねて親の注目を惹こうとするのだ。どうすればいいのかと言うと、嘘をつかれた時に、『ああ、この子は自分を見てほしい、関わってほしい』と求めているんだと、子どもを愛おしく思うことが肝心だ。

 そのうえで、この子どもを自分がどれだけ愛しているのか、そして絶対に嫌うことはしないし、手放すことはしないと感じてくれるにはどう対応すれば良いのかを考えることだ。そうすれば、どう対応すればよいのかの正解を見つけられる。自分が子どものことをどれだけ好きかを伝えることが肝要だし、そのうえで大好きな子どもに嘘をつかれることが悲しいと自分の感情を素直に伝えることだ。けっして責めてはならないし、理性的に問い詰めるのは避けたい。その為には、自分自身が安定した愛着を抱えていなければならず、夫からの大きな愛情で包まれていることが必要であろう。

異次元の少子化対策でも効果ない

 岸田内閣は、異次元の少子化対策を実施すると宣言した。このまま日本で少子化が進むと、生産力が激減して国内経済も成り立たなくなるし、日本という国が消滅するとさえ言われている。確かに、少子化が進んでしまえば、働く担い手と税の負担者がいなくなるのだから、国家として存続できなくなるのは当然である。今までも政府や地方行政による少子化対策は各種実施されてきたが、たいした効果を上げていない。そこで岸田内閣は、異次元という語句を用いて、思い切った少子化対策を実施するというのだが、果たして上手く行くのだろうか。

 少子化は国の根幹を揺るがす一大事だということを、多くの日本人は気付いていない。他人事として捉えていて、自分たちの未来が最悪のものになるという危機感がないといえる。それが少子化対策の進まない理由ではない。ましてや、金銭的な補助を増額したとしても、産み育てようという気持ちにはならない。そもそも、若い人たちにとって子を産み育てることが、自分とって必要不可欠なことだという認識がないのである。どちらかというと、出産育児とは大変なことであり、自分たちが大きな犠牲を払うことになるから嫌なのである。

 何故に若者が産み育てようとしないのかというと、世間一般的に言われているように、産み育てる経済的な余裕がないという理由だけではなさそうだ。さらには、働きながら産み育てられる環境が整っていないというのは、大きな阻害要因にはなっていない気がする。何故なら、江戸時代以前にはもっと貧しくて育児環境の悪い農村でも、育児出産をしていたのである。その頃には、児童手当や出産手当もなかったし、子どもが多いからと年貢を少なくしてもらえる優遇制度等もなかったのである。

 経済的な理由や育児環境が整備されていないから、若い夫婦たちは産もうとしない訳ではない。確かに、そういう理由で出産を控える人もいるだろうが少数である。異次元の少子化対策は、効果がないに違いない。今までだって、児童手当を増額したり保育所を増やしたりする対策を取ってきたのである。育児休暇も充実させてきたし、男性への育児休暇取得促進だってやってきたのである。それでも効果がまるで出なかったのは、もっと違う理由で少子化が起きているからである。その原因を明らかにしなければ、少子化対策も徒労になる。

 現代の若い夫婦が子どもを産みたがらない理由を聞いてみると、驚くような答が返ってくる。自分のやりたいことがあり、出産育児によってそれが障害となるから産まないと返答した人がいる。または、出産育児をすると人生を楽しめる時間がなくなると答えた人も少なくない。こういう答をした人は全体から見たら少ないのかもしれないが、このように答えた人は実に正直な人であり、他の人は本心を明らかにしなかっただけではなかろうか。出産育児に大きな価値や喜びを感じていないし、自分たちの楽しい生活が優先なのである。

 何故、子どもを産み育てるということに価値を感じないのであろう。それは、自分たちが幸福で楽しい生活を送るということが最優先の価値観だからである。自分たちが生まれて育ってきた意味は、豊かで幸福な人生を送るためという、実に低劣で恥ずかしい価値観を持っているのである。子を産みその子を立派に育てることは、大変なことである。でも、大きな喜びもある。何故なら、その子が大人になってから、社会に多大な貢献をすることが出来るからである。自分の人生でも大きな社会貢献の足跡を残し、さらには我が子も社会貢献したとしたら、二重の喜びになる。

 さらには、子育てには苦難困難を伴う。この苦難困難を通して、親が大きく成長させられるのである。子育ては親育ちと言われる所以である。子育てをしなくては、人間としての気付きや学びが得られないことが多いのだ。子どもを持たなくても立派な方はいる。しかし、子育てで得られる経験や体験は、何事にも替えられない大きな価値があるのだ。そして、子育てで学んだことが、職場や地域に貢献する糧にもなりうるのだ。このような全体最適の価値観、または全体貢献という意識が日本人には希薄なのではなかろうか。これは日本の学校教育から思想哲学を排除した悪影響に他ならない。少子化対策よりも教育の改革こそが、少子化にとって必要なのである。正しい価値観を教える教育改革しないと、異次元の少子化対策は無駄になる。

発達障害の児童生徒が8.88%

 発達障害の児童生徒の割合が、8.88%だったという調査結果が出たという。これは、専門医の診断ではなくて、教師たちが発達障害だと確信した数字であり、果たしてこの割合が正しいかどうかは、はっきりとは解らないらしい。とは言いながら、学校で子どもたちと関わっている先生たちが直感でそのように思うのであれば、ある程度は的を射ているのかもしれない。ここでいう発達障害とは、ADHD、学習障害、高機能自閉症等を指している。また、この調査は特別支援学校や教室の子どもは含まれず、普通学級の子どもだけの調査だという。

 この数字は、以前の調査よりも高くなっているものの、文科省ではこの調査を担う教師たちの発達障害への認識が高まった結果であり、発達障害の子どもたちが増えている訳ではないと結論付けている。こういう認識こそが、文科省が抱えている極めて悪質なバイアスではないかと思われる。実際に子どもたちと接していない文科省の役人が、軽々しく発達障害の子どもたちは増えていないと断定しても良いのであろうか。そのような結論を出してしまうと、発達障害の子どもをこれ以上増やさない為の方策を取らないのではないだろうか。

 子どもたちと現場で向き合っている教師たちに質問すれば、正反対の返答が返ってくるに違いない。発達障害の子どもたちは、年々増えているという返答である。しかも、発達障害の子どもたちの扱いに困っているという先生は非常に多い筈だ。8.88%という割合は、明らかに発達障害だと確信した数字であり、グレーゾーンはその数倍になる筈である。文科省に申し上げたいのは、グレーゾーンの調査もすべきであり、グレーゾーンの子どもも含めた、抜本的な対策を早急に打たないと、とんでもない禍根を残すということである。

 ちなみに米国の最新の調査によると、子どもの6人に1人が発達障害であり、18%の割合で見られるという。そして、この20年間で確実に増えているとの見解である。日本の発達障害の子どもの割合が、9%未満だと言うのは信用できない。不登校やひきこもりのサポートを実際にしている者としての実感では、3割以上の子どもが発達障害であり、グレーゾーンを含めると、その割合は半数を優に超えていると思われる。そして、大人の発達障害の割合も、同じく3割を超えているという実感を持っている。

 さらに大事なことは、発達障害と推測される子どもと大人たちは、単なる発達障害ではなくて、愛着障害の二次的症状として表れている割合が非常に高いことである。発達障害は、脳の器質的な障害によるものであり、生まれつきの障害だとされている。当人に関わる人の対応の仕方で、症状が強く出たり弱く出たりはするが、完全に治癒することは見込めないとされている。しかし、愛着障害の二次的症状であるならば、親子の愛着が改善されると、驚くように症状が良くなる。実際に、親子の愛着が改善されて、発達障害の症状が軽くなった症例をいくつも経験している。

 発達障害だと診断したのは、ある程度の基礎知識を得た教師だとしても、その判断が間違っているケースも少なくない筈である。しかも、誤解を恐れずに申し上げれば、先生の約3割はグレーゾーンの発達障害という二次的症状を抱えていると思われる。つまり、教師の約3割以上は愛着の問題を抱えていると言っても過言ではない。そのような教師が自信を持って発達障害の診断が出来るとは到底思えないのである。障害者に同じ種類の障害者を診断せよというのは、あまりにも乱暴なのである。おそらく、無意識で見逃している例が多いに違いない。

 ということからも、8.88%という数字がいかに信用ならないかと言うことが解るであろう。こんないい加減な数字を基にして、文科省が教育方針や指針を作成しているとすれば、あまりにも子どもたちと先生が可哀そうである。発達障害や愛着障害が一向に改善されないのだから、不登校や苛めがなくならないのは当然である。ましてや、愛着に問題を抱えた教師は不適切指導を起こしやすいし、うつ病などの気分障害を起こして、休職や退職に追い込まれやすい。日本の教育が成果を残せず、世界から取り残されるのは当然であろう。文科省の抜本的な改革(イノベーション)が望まれる。

学校教育で自己肯定感を育てるのは困難

 学校教育を管理指導する立場にある文部科学省は、子どもたちの自己肯定感(自尊感情)を育む学校教育を目指しているという。どうすれば、自己肯定感が高まるのか、調査研究を進めているし、教師にも子どもたちの自己肯定感や自己有用感を育てる教育の進め方を指導している。そして、自分たちの活動が恰も成功しているかのように、自尊感情を持つ高校生が増えているとの調査結果さえ、公表している始末である。でも、相変わらず不登校の子どもは存在しているし、いじめや無視などが多数起きている。自尊感情が高まっているとは思えないのである。

 ましてや、学校現場における不祥事は後を絶たない状況にある。不適切指導や教師による暴力事件・性被害は少なくないし、不適格教師として処分をされたり中途離職をしたりする教師も多い。そもそも、絶対的な自己肯定感(自尊感情)を持つ教師が少ないのではないかと思えて仕方ないのである。自分に自己肯定感が育っていない教師が、どうして子どもたちの自尊感情を育むことが出来ようか。ましてや、自尊感情や自己有用感をしっかりと持っている教師なら、子どもたちの不適切指導や性被害行動を起こす訳がない。

 ダイヤモンド社のプレジデントという雑誌で、誉めることの特集記事を掲載したことがある。その際に、各企業の社員や管理者にアンケートを実施したそうである。その結果、よく誉められる人は、自分でも他人をよく誉めることが解ったという。教育の極意は、よく誉めて育てると言われているが、学校現場で誉められることや認められることが極めて少ない教師が、子どもたちを認めて誉めることが出来るとは思えない。ましてや、現代の教師たちの殆どが生きづらさを抱えているのに、子どもに生きる楽しさを伝えるのは難しいであろう。

 学校の先生たちの中で、何かしら心を病んでいる人は想像以上に多い。何らかの気分障害により、治療を受けている先生は多いし、休職している先生も少なくない。一般企業と比較しても多い筈である。どうして教師が心を病んでしまうのかというと、特殊な職場環境だからという理由だけではない。心が折れやすいという何か特別なパーソナリティを抱えているとしか思えない。その特別なパーソナリティとは、不安や恐怖感を抱えやすいというものではなかろうか。あまりにも神経が過敏で、心理社会的な過敏性を持っている気がする。

 そのパーソナリティは、小さい頃の育てられ方に起因しているのではないかと思われる。教師になる殆どの方たちは、親が教師であることが多いし、親の教養や経歴が立派だということが多い。勿論、教育熱心な親も少なくない。家庭における躾は厳しい傾向が強い。つまり、母性愛よりも父性愛が強い中で育てられるケースが多いということである。自己肯定感を持つには、三歳頃までの育てられ方で決まる。あるがままにまるごと愛されて育てられれば、自己肯定感が確立される。残念ながら、条件付きの愛である父性愛の強い育児では、自己肯定感が育たないのである。

 すべての教師が父性愛の強い中で育てられたという訳ではない。比較的多いという意味である。そして、そういう父性愛の強い家庭で育てられた教師ほど、とても優秀なので出世して学校や教委の管理職になる。だから、管理職は部下の教師を誉めることが不得意なのである。誉め上手は誉められ上手であり、誉められ上手は誉め上手である。誉められることが少ない教師は、子どもを誉めることが得意でない。誉め方も稚拙で、結果だけを誉めてプロセスを誉めることがない。これでは、子どもの自尊感情が育つ訳がない。

 文科省は、こういった大事なことはさておいて、自然体験やボランティア体験などが自尊感情を育てると主張する。または、多世代の交流や読書をしている子どものほうが、自尊感情が高いと分析している。この主張はある意味正しいと言えるが、自尊感情の高い子どもほど自然体験やボランティア体験をするし、多世代の交流や読書を良くすると言ったほうが正しい。自己肯定感を育てる教育は、家庭教育のほうの比重が遥かに高いし、自己肯定感の高い教師に出会った子どものほうが、自尊感情が高まると言える。文科省は、絶対的な自己肯定感を持つ教師を採用すれば、健全な子どもを育成できると心得たい。