私憤を切り捨てて公憤にシフトする

 憤りの感情は、自分の脳を痛めつけるということを、何度も提唱し続けている。怒りとか憎しみの心を持つと、偏桃体が異常興奮をしてしまい、コルチゾールを大量に分泌してしまい、偏桃体が肥大化すると共に海馬と前頭前野脳を萎縮させる。つまり、正常な判断力や記憶力を低下させてしまうのである。セロトニンやオキシトシンの分泌まで抑制してしまい、幸福感や安心感までも奪い、いつも悲しくて不安な気持ちにさせてしまうのである。だから、憤りの感情は持ち続けずに、すぐに消化や昇華をさせなければならないのだ。

 特に、社会的な憤りは仕方ないけれども、個人的な憤りは避けなければならない。何故かと言うと、政治家や行政などに対する怒りと言うのは、公憤と言って自分の脳に対する影響は少ないのである。ところが私憤と言って、身近な家族・親族や職場の人に対する怒りというのは、自分の脳に対して深刻な影響を与えてしまうのである。何故、公憤と私憤は違うのかと言うと、公憤というのはその相手に対してSNSなどで批判や否定をしたとしても、相手に対する直接の攻撃は出来ないのである。私憤は、相手に相手に攻撃も出来るのである。

 公憤とは、当局というか政治や行政への怒りであり、ある意味仕方がないという怒りでもある。当然、どうにもならない怒りであり、その怒りの感情があったとしても折り合いをつけなければならないことを、なんとなく自分で納得するしかないのである。ところが、私憤とは特定の人物やグループへの怒りであるから、折り合いをつけることは極めて難しい。その怒りの感情は、ずっと脳に怒りや憎しみの感情と共に記憶される。ましてや、自分にとってあまりにも理不尽で辛い思いをさせられた記憶が、強烈な心的外傷として残るのである。

 例えば、その心的外傷が親からの虐待やネグレクト、または行き過ぎた支配や制御などの過干渉を受けて、毒親に対する怒りや憎しみを抱え続けている人がいる。また、配偶者からモラハラやパワハラを受け続けて、メンタルが落ち込んでしまって配偶者への恨みを持つ人もいる。職場で、パワハラやセクハラを上司や同僚から受け続けて、休職や離職に追い込まれて憤りを持ち続けている人もいる。さらに、青少年期に性被害を受けた為に、大きなトラウマを抱えてしまい、加害者に強い憎しみを抱き続けている人もいる。

 そんな特定の相手に対する怒りや憎しみは、私憤としてずっと記憶に残っていて、消し去ることが難しい。簡単に相手を許せるものではないし、そんな自分の人生を受け容れることが出来る訳がない。このような強烈なトラウマは、一度だけでもPTSDとしての症状も起こすし、何度も心的外傷を受け続けると複雑性のPTSDという深刻な精神障害を抱えることになる。なにしろ、生きる上でとても大切な脳にダメージを与えてしまうので、私憤を何とか消化・昇華させないと、長期間に渡り自分を苦しめることになってしまうのである。

 それでは、私憤を乗り越える為にはどうすれば良いのであろうか。医学的アプローチも効果が認められるし、他人による支援も必要である。しかし、何よりも大事なのは自分自身が私憤をどう乗り越えるのかである。いくら医学的なアプローチを受けたとしても、私憤をどのように認識するのかが問われるのである。私憤を乗り越えるためのヒントが、私憤を公憤に切り替えるということである。毒親やハラスメント配偶者、または問題上司などによる謂れなき虐待や攻撃に対して、加害者に対する憎しみや怒りを持つのは仕方ないとしても、そのハラスメントが起きるバックグラウンドやシステムを洞察することが必要なのである。

 まずは毒親というのは、自らが好んで毒親になった訳ではない。自分自身が毒親から同じように虐待や束縛を受けて、愛されずに育ったのである。ハラスメント配偶者や上司もまた、同じように問題ある社会によって生み出されモンスターである。そういう意味では、私憤でありながら教育や社会システムに問題があるから起きた公憤とも言える。パーソナルはポリティカルという言葉がある。私憤が起きた原因は個にあるのではなくて、政治や行政などの社会システムにあるのだ。家庭教育や学校教育に問題があるから、私憤を産み出したと言える。だからこそ、私憤を切り捨て、公憤にシフトすることが大切なのである。

人間の生と死を決めるミトコンドリア

 ミトコンドリアという名前だけは知っているという人は多いと思われるが、その詳しい機能や役割を正確に認識している人は極めて少ないのではないだろうか。中学校や高校における生物学でミトコンドリアのことを学んだ経験もあるとは思うが、その正確な知識を得た訳ではない筈だ。このミトコンドリアという生物は、まだまだ解らないことが多いし、最近になってようやく解明されてきたことが多いからである。ミトコンドリアの最新の情報においては、人間にとって重要な役割と機能を有している事が判明したのである。

 ミトコンドリアとは、人間を動かしているエネルギーを産出する重要な役割を持っている。人間の生命維持に必要なATPエネルギーを作りだしているので、ミトコンドリアが正常に機能しなくなると人間は生きて行けなくなる。ATPはご存知のように、アデノシン3リン酸のことで、生命体を動かす電気エネルギーを産出する。なんと、その電圧は1ボルトにもなると言われている。そんなすごい働きをすることも驚きだが、その機能をずっと維持継続しているというのだから、偉い働き者なのである。

 最新の生物学研究によって、ミトコンドリアのもっと重要な働きが判明してきた。そもそもなのであるが、ミトコンドリアはひとつの生命体であり、誰にも命令や指示も受けることなく、人間の生命維持をコツコツと自らの意思で進めている。誰からも評価されることなく褒められることもなく。人体の各細胞と同じで、自己組織化する働きがあるということである。内発的動機とも言えるが、主体性、自発性、自主性、責任性、自己犠牲性、成長性、進化性などを持つのだ。電気エネルギーを作るだけではないのである。

 ミトコンドリアが酸素を取り入れてATPの電気エネルギーを作ることにより、活性酸素が増える。そうすると、活性酸素によって不活性化するミトコンドリアが出来ることがあるらしい。この不活性化してしまったミトコンドリアが分裂して、活性化しているミトコンドリアと不活性化したミトコンドリアに分裂する。不活性化しているミトコンドリアは、オートファジー機能が働いて分解されて再利用されるのである。融合と分裂が繰り返され、ミトコンドリアどうしが助け合うのだ。この働きをミトコンドリアダイナミクスと呼んでいる。

 さらに、ミトコンドリアにはこんな働きがあることも判明している。ミトコンドリアには好調に活動しているミトコンドリアと、不調なミトコンドリアがあるのだ。そして、不調なミトコンドリアが増加してしまい、ある基準以上に増えてしまうと、病気になるということも解ってきた。そして、その不調なミトコンドリアの割合が限度以上に増加すると、癌などの死に至る疾病になるのだという。つまり、健康になるのか病気になるのかは、ミトコンドリアが握っているのである。ミトコンドリアは人間の生と死を決めているのである。

 つまり、ミトコンドリアを好調なままに維持できることが可能なら、病気になることもないし老化も防げるということだ。健康で長生きするには、ミトコンドリアを本来の機能を持てるようにすれば良いのである。その為には、活性酸素をなるべく出さないようにする事が求められる。つまり、ミトコンドリアがATPを産生させる際には、酸素だけでなくて水素イオンを過不足なく提供することが必要となる。実は、その水素イオンをミトコンドリアに提供している生命体があるということも判明している。

 それは、ソマチット(ソマチッド)という極小生命体である。このソマチットという生命体は、ミトコンドリアが発生する前の25億年以前から地球上に存在していたらしい。ミトコンドリアが健康で活性化する為には、このソマチットが欠かせないという。そして、このソマチットが活性化の状態にあれば、ミトコンドリアも酸化することもなく、ATPを過不足なく提供できて、人体も健康でいられるということだ。どうやら、このソマチットが劣化してバクテリアのように巨大化すると、免疫が下がって癌などが発症することが判明している。ソマチットとミトコンドリアの良好な共生こそが、人間の生と死に関わっている。

※ミトコンドリアを良好な状態に戻す効果がある食料やサプリが知られていますし、適切な運動があることが解っています。ところが、このソマチットという生命体を健康的な活動をする原始相にする食べ物やサプリは、まだよく解っていません。これからの研究によって、ソマチットをバクテリア相から原始相に復活させるようなものが発見されて利用されるようになると、人間は健康で長生きできることになります。癌などの深刻な病気を抱えている方に、ソマチットを活性化するための様々な方法を、イスキアの郷しらかわでは無償にて個別にお伝えしています。問い合わせフォームからお問い合わせください。

落語の死神に学ぶ救済のタブー

 心身を病んだ人々を救うことを、自分の人生における生きがいとして活躍している人がいる。それを生業としているのではなくて、仕事以外の時間を利用して、ボランティアの活動としている方がいる。尊敬すべき方々である。そういう方は、非常に価値観が高いし、普段の生活ぶりも美しい。そういう方たちは、押しなべて自己犠牲を厭わないし、愚痴も言わず淡々と心身を病んだ人々の救済に当たっている。そして、そういう方たちは例外なく、救う相手を選ばない。助けを求めてきた誰でも救うことを生きがいにしている。

 それはそれで素晴らしいことだと思う。しかし、その頑張り過ぎによって自分の生きるエネルギーが枯渇したり、自己犠牲が過ぎて自分の心身が病んだりする事も少なくない。そこまでするのは、やり過ぎであろう。そういう頑張り過ぎる方たちに、参考にしてほしい物語がある。古典落語の名作で、『死神』という物語である。この死神という落語は、三遊亭円生という落語家が得意にしていた。三遊亭円生は、一門を代表する名人であった。多くの古典落語の名作を好演し、特に人情噺を得意とした。死神は三遊亭円朝作の名作である。

 死神のあらすじはこうだ。何の仕事をしても、うだつの上がらない中年男がいた。つきのない人生を諦めて、自殺をしようとうろついていたその男に声をかける者がいた。自分は死神だと名乗り、病気を治す方法を伝授するから、医者にならないのかというのである。その方法と言うのは、不思議なやり方である。瀕死の病人には、大抵の場合死神が憑いている。その死神が頭の方に座っていれば、何をやっても助からない。死神が足元に座っていれば、特殊な呪文(アジャラカモクレン、テケレッツノパ)を唱えると、その取り憑いた死神がたちどころに消えて病気が快癒するというのである。

 そんな話は信じられないとは一旦思うのだが、どうせ死ぬ気になったのだから騙されたと思ってやってみようと医師の看板を自宅に掲げる。すると、こちらに名医がいると聞いたと大店の番頭がやってきた。主人が死にそうで助けてほしいと。行ってみると、幸いにも足元に死神が座っている。早速呪文を唱えてみると、死神が驚いた表情を浮かべながら去っていき、病気は治ってピンピンになる。立て続けにそんな依頼が続いて、その男は大金持ちになる。しかし、元々遊び人だし、あぶく銭は身に付かない。浪費してお金は尽きてしまう。

 しかも不運なことに、たまに病気快癒の依頼があって行ってみると、すべて死神が頭の方に座っていて、助けることが出来ない。そのうち、元の貧乏に戻ってしまい、にっちもさっち行かなくなってしまう。そこに、ある豪商の大番頭がやってきて、主人の病気を治してくれたら大金を支払うと約束する。行ってみると頭の方に死神が座っていて、一旦断るのだが、さらに大金を上乗せするからどうにか助けてほしいと依頼されて一計を案じる。死神がうとうとした隙に、布団を頭と足元をひっくり返して、呪文を唱えて死神を追い払った。

 その豪商の主人の病気は嘘のように良くなり、お礼の大金を受け取る。その帰り道に、最初に出会った死神に呼び止められる。お前は取り返しのつかない大変な事をしてしまったな、付いてきなと有無を言わさず地下の薄暗い部屋に連れていかれる。その中には火の付いて大量の蝋燭が燃えていた。この蝋燭は人の寿命を示していると言う。長くて明々と燃える一本の蝋燭を示した。これは、先ほど助けてあげた主人の蝋燭だと言い、もう一つの短い消えかかった蝋燭があり、これはお前の蝋燭だ言い、もうすぐ消えてしまうというのである。

 元々は元気な蝋燭がお前のもので、この消えかかった蝋燭が主人のものだった。先ほどの呪文によって、取り替えてしまったから、お前の寿命はもうすぐ尽きると言う。蝋燭を取り換えれば生きられると言われるが、間に合わずばたりと死んでしまうという物語である。この寓話から学べるのは、世の中には救うべき人と救ってはならない人がいるということだ。救うべき人を救済しても、自分にはまったく影響がないが、救ってはならない人を救済してしまうと、その人の抱えているカルマを替わりに引き受けてしまうということだ。言い換えると、病気が治って人の為世の為に貢献する人は救っても良いが、そうじゃない人を救うと自分がその病気や不運を引き受けてしまうという戒めである。

※心身を病んでしまった人々の救済をしている方は、この物語を参考にしてやみくもに誰でも彼でも救うということを避けることを薦めたい。ましてや、多額の謝金を宛にした救済活動を無理して実施してしまうと、助けようとするクライアントのカルマや邪気を引き受けてしまう怖れがあることを認識してほしい。多少のお礼なら問題ないが、多額の謝金を頂いてしまうと、見えるものも見えなくなって謙虚さを無くして、自分の身を滅ぼすことになるので気を付けたいものである。

発達障害グレーゾーンを癒す方法

 発達障害は遺伝子の先天的異常によるものだから、どんな治療をしても治らない障害だという認識を誰もが持っている。ある程度は社会に適応できたとしても、学校や職場における周りの人々とのコミュニケーションに苦労することも多い。当人との関わり方において周りの人々が戸惑うことも多いが、それ以上に本人が生きづらさを抱えることも少なくない。そんな発達障害を持つ人の中でも、症状が軽くて学力や能力が高いけど、コミュニケーションだけが難しく感じる発達障害グレーゾーンと呼ばれる人ならば、治る可能性がある。

 勿論、完治と言うレベルまでは難しいけれど、ある程度まで症状が緩和することが出来ると言えよう。その治療法とは、医療機関におけるものではなくて、神経伝達回路を緩やかに改善する整体である。別の言い方をすれば、神経伝達調整(NTA)と呼ぶ治療方法である。どうしてこのNTAと略される神経伝達調整という治療法が有効なのかと言うと、発達障害グレーゾーンのそもそもの原因がHPSによるものからである。HSPとは略称であり、ハイリーセンシティブパーソンという症状のことである。

 HSPは、環境感受性あるいはその気質・性格的指標である感覚処理感受性が極めて高い人たちということである。神経学的過敏が影響して、心理社会学的過敏も起こしやすい。特に聴覚過敏が顕著であることが多い。その他に、接触性過敏や嗅覚過敏、視覚過敏も起こしてしまうケースもある。これらの神経学的過敏が強いために、コミュニケーション障害を起こしてしまうことが多い。このHSPが起きてしまう根底には、得体の知れない強い不安や恐怖感がある。そして、この不安や恐怖感はアタッチメント未形成によって起きている。

 いずれにしても、HSPが強く影響して発達障害グレーゾーンになっているとすれば、このHSPを癒すことが出来れば、得体の知れない不安や恐怖感を払拭することが可能になる。NTA療法をすることで、HSPが改善される可能性は高い。何故、NTA療法がHSPの改善に役立つのかと言うと、HSPになっている原因である神経伝達回路の異常をNTA療法が正常化してくれるからではないかと思われる。HSPは、神経伝達回路が過剰反応を起こして発症している。その過剰反応を適度に抑えてくれるのがNTA療法であると言えよう。

 不安や恐怖感というのは、脳の偏桃体過剰反応によって起きると言われている。HSPによって、通常なら感じない不安や恐怖感が強く感じ過ぎてしまい、偏桃体が刺激され続けることでコルチゾールが過剰に分泌される。また、ノルアドレナリンやドーパミンも多すぎるほど分泌される。逆に幸福ホルモンと呼ばれるセロトニン、そして安心ホルモンと呼ばれるオキシトシンの分泌が少なくなる。偏桃体が肥大化すると共に、海馬や前頭前野脳が萎縮するとも言われている。こうなると、記憶力も低下すると同時に正常な判断が出来なくなる。

 これらの脳内ホルモンの分泌異常を、神経伝達回路の調整(NTA療法)により改善するのではないかと推測される。NTA療法は、アーユルヴェーダ、ホメオパシー、頭蓋骨仙骨療法、波動理論などの代替医療のエッセンスも取り入れながら、微弱電流装置を駆使しながら神経伝達回路の異常を修正してくれる。つまり、得体の知れない強烈な不安や恐怖感を和らげてくれるし、HSPの症状も緩和してくれるのである。だから、発達障害グレーゾーンの症状が改善されるのではないかと思われる

 それでは、NTA療法の施術をしてくれる整体師ならば、誰でも発達障害グレーゾーンの症状改善をしてくれるのかというと、それを断言することは難しい。何故ならば、このNTA療法の施術者の熟練度やマスタリー度合いによって、現れる効果が違ってくると推測されるからである。施術者が豊かで良質な波動エネルギーを受け取って、その波動エネルギーをクライアントに減衰することなく、受け渡してくれるならば効果は高くなる。この波動エネルギーの受け渡しに長けている施術者を選びたい。そうすれば、発達障害グレーゾーンをかなりの良いレベルまで癒してくれることだろう。

※波動エネルギーとは、天または宇宙、そして大地からもたらさられる自然由来のパワーのことで『気』とも言えるものです。この波動エネルギー(気)を天と地から受け取って、人々に授けるレベルの施術者になる為には、私利私欲を無くし徳を積んで人格を磨き高めること、様々な修行を積んで学びを深めることが必要でしょう。気功の達人と言われる『大周天』や密教における『阿闍梨(大阿闍梨)』のようなレベルになるということではないかと思われます。

レスポンシブルドリンキングの勧め

 レスポンシブルドリンキングという言葉を知っているだろうか。ようやく日本でも提唱されるようになってきたが、まだまだ欧米の認知度から比べると、日本人は知らない人のほうが圧倒的に多い。と言うのは日本では、飲酒上の失敗を大目に見るという風土があるからに違いない。自己責任を重んじる欧米の人たちは総じて、酒を飲んでの不適切な行動に対して厳しい。日本はどちらかというと、飲酒しての不適切行動を、お酒が起こしたことだからと寛容に見ることが多い。そういう理由から、レスポンシブルドリンキングという考え方が浸透しなかったと思われる。

 しかしながら、飲酒のうえで起こしてしまう迷惑行為や不法行為は、けっして許容できないことである。酔っ払いが公道で喚き散らしたり、通行人に言いがかりや女性に絡んだりする姿は、実にみっともない行為で許せない。また、飲酒運転で交通事故を起こす行為は後を絶たず、死亡事故まで起こすに至っては言語道断である。政治家、行政マン、または警察職員・教職員まで飲酒しての不適切行動をしてしまう事例は少なくない。レスポンシブルドリンキングとは、例え酔ったとしても不適切行動をしないような飲酒のことである。

 レスポンシブルドリンキングの程度を遵守できない日本人は、なんと多いことか。お酒を適度な程度までしか飲まないというのは、非常に難しいことである。アルコールを摂取すると前頭前野脳が麻痺してしまい、偏桃体が暴走してしまうので、歯止めが効かなくなり欲望が暴走しやすい。ましてや、飲酒はドーパミンを大量に放出してしまうので、覚せい剤を摂取した時と同じような倫理観の欠如をもたらしてしまう。いずれにしても、飲酒によって煩悩の肥大化と暴走を起こすのだから、いかに適量までに飲酒量を抑えるかは至難の業。

 そんな事情を考慮して、レスポンシブルドリンキングを推奨しようとする醸造メーカーが現れたのである。それも、日本を代表するような巨大ビールメーカーである。それはアサヒビールという、売り上げが増加しているし経営状況も増収増益を続けている優良企業である。アサヒビールは2020年から『スマートドリンキング』という造語を用いて、レスポンシブルドリンキングを推し進めている。社内に、レスポンシブルドリンキング部という部署を9月1日に設置し、『スマドリ』をキャンペーンワードにして推進に取り組んでいる。

 今までのアルコール醸造メーカーは、プロダクトアウトの考え方が強いマーケット戦略であった。アサヒビールの社長松山一雄氏は、一般消費者であるエンドユーザーを顧客と捉える考え方が社内にないことに愕然としたらしい。当時のアサヒビールにとっての顧客は、お酒の問屋・販売店・飲食店であったという。これでは、市民目線のドリンク、市民が求める飲料を企画開発するのは難しいと感じた。勿論、消費者の健康を推進するとか、消費者の幸福を実現するアルコール飲料を企画開発するなんて視点がなかったのは当然である。

 世の中では飲酒することが当たり前だという風潮が根強く残っている。宴会に参加して、アルコールを飲まないと付き合いが悪いなあと批判されてしまう。ようやく最近になって、ソバーキュリアス(敢えて飲まないと言う生き方を志す人)という語句が市民権を得られるようになってきた。飲めない人、または飲まない人の理解が進んできた。これから、ソバーキュリアスを目指す人は激増していくに違いない。サステナブルな社会を目指して行くのであれば、レスポンシブルドリンキングがもっと推進されるべきと確信している。

 アサヒビルビールが「責任ある飲酒」レスポンシブルドリンキングを推進していく為に、ノンアルコールドリンクや低アルコールドリンクの開発に力を注いでいる。今までもノンアルコールビールが販売されていたが、ちっとも美味しくなかったしビールとはけっして呼べないしろものだった。ところが、アサヒゼロは本当のビールと遜色ないし、アサヒのビアリーは0.5%のアルコール度ながら、ビールを飲んだ気分にさせてくれる。実際にビールを醸造して、わざわざアルコール分を抜くという手間暇を惜しまない製法をしている。無責任な飲酒を避けるレスポンシブルドリンキングを他の醸造メーカーにも推進してほしいものだ。

酒は百薬の長という格言はウソ

 お酒が好きな人は、酒は百薬の長だという格言を信じているというか、信じたい気持ちが強いに違いない。古来より、ずっと言われ続けてきたこの酒は百薬の長だという格言は医学的にも正しいことだと信じられてきた。ところが、最新の医学研究によると怪しいという研究結果があるという。飲み過ぎは健康に害があるのは当然だが、適量のアルコール摂取なら非飲酒者よりも長生きするという統計調査結果が公にされてきた。ところが、この調査結果はバイアスがかけられていて、実際は少量飲酒者でも長生きする訳ではないという。

 そんな筈はないと思うお酒好きの方も沢山いるとは思うが、飲酒者よりも非飲酒者のほうが健康で長生きするというのは、医学的にも間違いないと証明されている。ましてや、最新の医学研究では飲酒者のほうが非飲酒者よりも認知症になりやすいという研究結果も明らかになっている。そして、非飲酒者よりも飲酒者は頭頚部の癌になる確率が、なんと5倍にもなるという統計調査も明らかになっている。そもそも、酒は百薬の長という格言は、古代中国の政府による酒税の徴収を増加させるキャンペーンワードだったいうのだ。

 こんないい加減で科学的根拠もない格言に、我々はどうして騙されていきたのであろうか。それは、やはり日本の政府もお酒の売り上げによる税収が貴重だったということもあるだろうし、アルコール製造販売企業と酒類小売店、飲食店への篤い配慮があったのではないかと推測される。ましてや、行政、政治家、医学関係者にも酒好きが多いので、お酒が毒だと思いたくなったのだろう。医学的なエビデンスだって、それを扱う者によってバイアスがかかってしまい、大きく捻じ曲げられてしまうケースは、他にも例がたくさんある。

 いずれにしても、酒は百薬の長という格言はまったくのデマだったということが判明した。しかし、今でも適度な飲酒は健康に良いのだと信じている人は少なくないし、毎日習慣的に飲酒している人も多い。中には、大量飲酒によって肝障害やアルコール依存になって、取り返しのつかない健康被害や生活破綻を起こしている例も多い。飲酒運転による交通事故で、被害者を死亡させてしまうケースも多くある。お酒で身を持ち崩してしまう輩も少なくない。ということは、お酒は百害あって一利なしの、リスクが高いものだと認識すべきだ。

 このような適量の飲酒でも健康被害をもたらすというエビデンスの公表を受けて、日本の酒造メーカーでも、適正な飲酒やノンアルコール飲料を推奨する動きをしているところもある。アサヒビールでは、スマートドリンキングというキャンペーンを始めた。ノンアルコール飲料や低濃度アルコールのお酒を薦めている。勿論、そういうノンアルコールのビールやカクテル、低アルコールの飲料を次から次へと開発して販売している。しかも、本格的な醸造によるノンアルコールビールなので、味も本物のビールに遜色ない出来だ。

 最近では、お酒を飲めるのに敢えて飲まない生き方であるソバーキュリアスを志向する人も増えてきたし、お酒が苦手だと一切飲まない人も増えてきた。さらには飲酒による不適切な行動を防止するというレスポンシブルドリンキングという考え方も外国では定着しつつある。アサヒビールは、そのような世界的な潮流をいち早く取り入れて、スマートドリンキングをマーケットの戦略にしたというのは、素晴らしい英断だと言えよう。アサヒビールの現社長である松山一雄氏は、それまでのプロダクトアウト一辺倒であったマーケット戦略を、大胆にマーケットインに大変革したのである。

 勿論、マーケットインの戦略偏向だけが正しい訳ではなく、自社の強みを生かした開発企画だって必要なのは言うまでもない。しかし、これからの酒造メーカーは、市民の健康をどのように守るのかとか、レスポンシブルドリンキングにどう対応するのかを考慮した市場戦略を練るべきである。お酒というのは毎日習慣的にしかも大量に飲むのは、健康を損ねるだけでなく社会的な損失を招くし、SDG’s上においても勧められる行動ではない。元々、お祭りや特別な日に嗜む程度に飲むのが、『大人のたしなみ』のお酒だった筈だ。特別なハレの日にだけ、最上級のお酒をほんの少しだけ飲むのがお洒落な大人飲みと言えるだろう。

ボーっとしている時間が大切な訳

 NHKのTV番組『チコちゃんに叱られる』で、ゲストが質問の答を間違うと、「ボーっとして生きているんじゃないよ!」とチコちゃんに叱られる。お決まりのパターンであるが、ボーっとして生きていることが、いかにもいけないことだと視聴者に思わせてしまうに違いない。ボーっとして生きるということは、時間を浪費しているようなイメージを持たせるし、何も生み出さないからと、絶対にやってはならないことだと多くの人々が思っている。しかし、このボーっとしている時間こそが、脳の発達に必要不可欠で大切なのである。

 このボーっとしている時間がないと、大脳は正常な発達をしないし、豊かな心も育たないと言われる。確かに、四六時中ボーっとしていて何もしないと言うのは、避けたいことである。しかし、時には何もしなくて何も考えずに、ボーっとしている時間を持つのは大切なことである。ボーっとするのは、脳を休めるためではない。実は、ボーっとしている時間でも、脳は大切な機能を発揮しているのである。そして、ボーっとしているように見えていながら、大脳の発達をさせているということが、脳科学の研究により判明してきたのである。

 一生懸命に、難しい勉強したり厳しい仕事をしたりしている際は、左脳と右脳を思いっきり機能させている。右脳と左脳を繋ぐ脳梁を使って情報交換をしながら、上手く情報処理を実行している。脳梁を太くさせて、その機能を発達させるには左脳と右脳の両方を同時に働かせ、難しい作業をする必要がある。いろんなことを考えながら身体も同時に動かすと、右脳と左脳を同時に働かせて脳梁の機能が向上する。これも人間の成長には、必要な事である。それ以上に脳の進化に必要なのが、ボーっとしながら過ごす時間である。

 右脳も左脳も、ボーっとしている時に情報や感情を整理し直すらしい。また、情報の再ファイル化をして連携化したり、必要な情報と不要な情報に整理し直したり、大切な情報を自分にとって直ぐに活用できるようにしたりしていると言われている。脳は、睡眠中も同じようにその日に起きたり学んだりしたことを整理整頓すると考えられている。ボーっとしている時というのは、無心とか無我になることと同じと考えられている。つまり、座禅をしていることと同じ行為だと思われる。何も考えず何もせず何も願わない時間なのである。

 座禅とは、何も考えずに只ひたすら座ることである。座禅は、悟りを得る為にする行為だと思われがちだが、実は何かをする為に座禅をすると、心を動かし脳を働かせてしまう。だからこそ、何も思わないのが座禅なのである。無心や無我の境地に至らないと、脳は本来の働きをしないし、進化しないのである。無心になって初めて潜在意識が顕在意識を凌駕するのではなかろうか。人間の無意識の領域は約9割近くに及ぶと言われている。その無意識の領域をほんの少しでも活性化できたとしたら、超人の働きができるのだ。

 ボーっとしているというのは、何もしないし何も考えないという瞑想にも通じる。これは、写経、読経、ヨガ、滝行、山岳修行などのマインドフルネスにも言えることかもしれない。ひとつのことに専心するということは、邪念を追い払う事でもある。勿論、ボーっとしている時間もまた、人に対する怒りや憎しみの感情や妬み嫉みを捨てることである。ボーっとしている時間を過ごしていると、何も考えていない筈なのに、過ごし終わった後に驚くほどの抜本的な問題解決策が見つかることもある。

 子育て中の親たちは、子どもがボーっとしていたら安易に注意すべきではない。それは、脳の整理と成長の為に必要な無意識の行動なのである。それを見た親が、ボーっとしている時間を子どもから取り上げてしまったら、大切な大脳の進化発展を止めてしまい、将来不幸になるかもしれないのだ。子どもにとっては特にこのボーっとしている時間が必要不可欠なのだと心得たい。ボーっとしている子どもを見たら、ああこの子は脳の大事なトレーニングをしているんだと、温かく見守ってほしい。やがて、大天才になるかもしれないのであるから。

健康食にすれば病気にはならないのか

 最近の健康ブームもあいまって、自然食志向の人が驚くほど増えている。無農薬や化学肥料を使用しない有機栽培の野菜・果物だけの摂取にこだわり、動物性たんぱく質を一切使用しないヴィーガンの食生活を志す人が想像以上に多くなっている。有機栽培&無農薬の玄米しか食べない人も少なくない。それだけではなく、食品添加物の含まれない加工食品、自然素材の洋服や寝具、自然素材の洗剤やシャンプーリンスしか使わない人も増えてきた。それだけ、病気にならないように予防医学に感心を持つ人が増えてきた証拠かもしれない。

 ところが、それだけ気を遣って生活してきたのに、乳がんや子宮がんになってしまったと嘆いている女性が少なくないのである。元々、自然生活志向の人は圧倒的に女性が多いこともあろうが、そんなにも努力してきたのに、どうしてガンになってしまったのかと、自堕落な生活をして病気になった人よりも元気を失っている女性が多い。勿論、自然生活志向を貫いてきたから、他の病気の発症を防いできたのは確かであろう。しかし、よりによって癌という取り返しのつかない病気になってしまったのか、悔やみきれない気持ちであろう。

 世の中というのは、不思議なものである。暴飲暴食、運動嫌いで好き放題の自堕落な生活をしているにも関わらず、病気にもならずに長生きしている人がいる。一方では、健康に気を遣い、毎日早寝早起きをして、適度な運動をして健康食を続けている人が、ポックリとあの世に行ったり難病や不治の病になったりする。完璧な健康生活を続けている人が長生きしそうなものだが、現実はそうとは限らないのだ。それでは、健康的な生活をしたとしても、すべて無駄なのだろうか。好き勝手に飲み放題食べ放題の自堕落な生活が良いのだろうか。

 健康で長生きするというのは、誰しも願う事なのであろうが、健康的な食生活や生活習慣だけではそれが実現しないということかもしれない。さすれば、もっと健康を保つ為に大事なことは食生活と生活習慣以外に何が必要だというのだろうか。おそらくは、それは『心』というものではなかろうかと思わずにはいられない。何故なら、健康食であるオーガニック&ヴィーガンを志すような方々を見ていると、その目的が自分の健康のためにという考え方が根底にあり、その為にはどんな苦労も厭わないと必死になっている姿が印象的である。

 それが悪いとは思わないが、オーガニック&ヴィーガンな生活を目指している方々は、あまりにも必死になっていて悲壮感さえ感じるのである。そして、完璧な食事と生活を志す姿はある意味で滑稽にも思えるのである。もっと肩の力を抜いて、パーフェクトを目指したとしても、時にはヴィーガンを少し外れた豪華で贅沢な料理を楽しむ余裕があっても良いように感じて仕方ない。オーガニック&ヴィーガンな生活をするのは、自分の為だけでなく社会貢献や全体幸福のための、ひとつの手段だと捉えてもよいのではなかろうか。

 オーガニック&ヴィーガンな生活というそのもの自体を、目的化するというのは如何なものであろうか。健康で長生きするということも、目的にするのは間違いだと思えるのである。健康的な食事をする目的は、身体が健康になる為だけではない。勿論、健康食は健全な心を養うものでもあるが、それも目的ではない。健全な心身を作り上げるのは、それを根底にしての自分の役割を社会に対して果たす為である。それを忘れてしまい、自分自身の為にだけ健康食による健康実現を目指しても、それが実現することはないと断言できる。

 オーガニック&ヴィーガンにあまり拘っていなくても健康を保っている人は、社会の全体幸福や全体最適に貢献しようと努力しているからである。そして、そういう人は人生を謳歌しているし、ストレスやプレッシャーを楽しんでいる。だから、完全な健康食を摂取しなくても、生活習慣が完全な自然志向ではなくても、心身が健全であり続ける。腸内環境が健康であれば、多少の重金属や毒物が含まれた食事を摂取しても、デトックスが可能なのである。人体ネットワークシステムが健全に働いているから、自己組織化が働き心身が健康になるのだ。そういう無理をしない生き方を志すほうが、コストは少ないし理に適っている。

痛みは心からの大事なメッセージ

 痛みは辛く苦しいものだ。抱えている痛みは本人しか解らないし、それが四六時中続いているというのは耐え難い苦しみである。なによりも辛いのは、この痛みがいつまで続くのか解らないということだ。一生に渡ってこの苦しみが続くと言うのなら、途方もない悲しみの渦に巻き込まれてしまいそうだ。この痛みを取ってくれるというのなら、藁にでもすがる思いでどんなこともやってみたいと思うだろう。そして、どうしてこの痛みは出てきてしまったのだろう、どうすれば解放されるのだろうと、心を悩ませている。

 辛い痛みを抱えている人に話を聞くと、自分のこの痛みを一番身近な人がまったく解ってくれないし、何か他人事のように思われていることが感じられて、それが一番辛いと言っている。確かに、心の痛みは何とか共有しようとすれば出来そうだが、身体の痛みはなかなか解り合えない。ましてや、夫婦や親子という関係において、あまり良好な関係に無い場合は、特に身体の痛みに共感しにくいかもしれない。身体の痛みに共感してくれないという『心の痛み』が、益々の痛みの増幅を産み出しているようにも思えて仕方ない。

 身体の痛みを抱えている人が急増している。何らかの痛みを持っていて、普段の生活に影響が出ている人の割合は、おそらく半数を超えていそうな気がする。そして、その割合は女性のほうが遥に高いように感じる。女性の痛みの場合は、原意不明の痛みが多いのが特徴的だ。膠原病、関節リウマチ、線維筋痛症、神経因性疼痛、気象病など原因が特定できない痛みの病気で苦しんでいる女性が多い。どうしてなのか、不思議な事ではあるが、おそらく女性が置かれた環境(人間関係)が大きく影響しているとしか思えない。

 一昔前の医学的な常識として、痛みの原因はこのようなメカニズムで起きていると考えられていた。一つめは、痛みが起きている局部に存する神経細胞が何らかの刺激を受けて痛みが出ているのではないかという見解である。二つ目は、筋肉内に乳酸などが溜まり血管を圧迫して、血流が滞って痛みの原因物質であるプロスタグランディンなどが溜まり、痛みが発症するという見解だ。ところが、この二つだけでは説明できない痛みがあることに注目されている。それは心因性の疼痛であり、この痛みは脳が痛みを感じさせるとも言われている。

 原因不明の痛みとは、この心因性の疼痛が起きる仕組みと同じだと考えられている。何らかの原因で血流障害が起きてしまい、血液を何とか流そうと努力をして、その箇所にバイパス的な毛細血管(モヤモヤ血管)が出来てしまい、そのモヤモヤ血管が痛み神経を刺激して、発症しているという診たてをする医師が増えている。血管造影撮影をすると、痛みが出ている部位に何だか分からないモヤモヤとした毛細血管が写っているらしい。不思議なことに、癌を発症した患者の殆どが、発症する前にこのモヤモヤ血管が出来ていたというのだ。

 痛みの原因や背景を明らかにして、どうして痛みが出ているのかを特定するのは難しい。でも、痛みは自分の心や脳が敢えて起こしているのではないかと考えると、痛みを起こしている本当の意味が少しずつ理解できそうだ。現状において問題を抱えていない人は皆無であろう。それでも、その問題があまりにも大きくて、解決しそうもないという八方塞がりの状況に追い込まれている人は、そんなに多く居ない筈である。現に抱えている困難な状況に、闘う事も出来ず逃げることも許されず、どうやっても乗り越えることは難しいと半ば諦めているケースがあるかと思われる。

 そんな状況が長く続く時に、原因不明の痛みが起きやすいのである。そして、その状況を解決することを諦めて、痛みを放置しておくと取り返しのつかない重病まで発症してしまうのである。ということは、痛みというのは自分自身に対する大事なサインorメッセージなのではなかろうか。今の生き方で良いのか、今の生活を守りたいのか、それとも大胆な変革をしなければならないのか、そろそろ気付きなさいよという自分に対するメッセージだと読み解くことができよう。こういう時こそ、自分の力だけでは解決できないので、誰かに相談すべきだろう。その誰かが解決してくれるとは限らないが、対話を続けているうちに、自分でその『答』を見出すことになろう。

コスタリカ珈琲のほろ苦い思い出

 最近、コーヒー好きが高じてしまい、焙煎さえも自分でやることになってしまった。そして、今までは一度も飲んだことがなかったいろんなコーヒー豆に挑戦するようになった。どういう訳か、今までは購入することをためらっていたコスタリカの珈琲豆を、勇気を出して買い求めたのである。どうして、コスタリカの珈琲豆を飲もうとしなかったのかというと、大学時代のほろ苦い思い出があったからかもしれない。コスタリカの珈琲豆に責任はまったくない。コスタリカという名前が、ある出来事を思い出させるから避けていたのだ。

 今から50年も前になる、恥ずかしくて情けない出来事である。川崎市の郊外に立地するある私立大学に入学した私は、高校時代から続けていた部活の写真を大学でもやろうと決心して、写真同好会に入会した。どちらかというと、その時代は男子学生の多い大学でもあり、ましてや写真同好会なんて、女子学生が興味を持つような会でもなかった。当然、その時代であるから、女学生の会員はほんの少数であり、三人程度しかいなかったと記憶している。男子高校生であった私は、女子学生の姿があまりにも眩しかったのである。

 写真同好会という名前からして、本気で写真を極めようとするような学生は居なかったと思われる。どちらかというと、サークル的な雰囲気が強く、学生同士の交流を求めて入会しているような会員ばかりであった。撮影会や合宿などが定期的に開催されていたが、形式的なものに過ぎず、コンパや飲み会に明け暮れていたような気がする。また、部室に集まっては写真についての会話をするよりも、今では死語となってしまった『ダベリング』を楽しんでいたように記憶している。そこで、ある女性と出会ったのである。

 その女性をKさんと呼ぶことにする。1年先輩のKさんは、謎めいた女性であまり自分のことを語りたがらなかった。1歳年上ということもあり、大人の女性という雰囲気で、長身でスタイルも良くて魅力的な人だった。大学に入って間もない私にとって憧れの女性であり、手の届かないような存在でもあった。今では考えられないが、その当時はウブで純真な少年の私は、まともに話しかけることも出来なかった。そのKさんがアルバイトしていたのが、下北沢駅の近くにある純喫茶コスタリカという店だったのである。

 今でこそコーヒー好きになったが、当時の私はコーヒーの味さえもよく解らず、産出国によって味の違いがあるなんて基本的な知識もなかった。そんな私が、Kさんに会いたくてわざわざ電車に乗ってコスタリカという店に通ったのである。おそらくKさんにとっては迷惑だったと思われる。しかし、心優しいKさんは一途な思いを察して、可哀そうだと思ったのである。一度だけ、デートしてあげようと言ってくれた。新宿で映画を観て食事をしたのだ。帰りに雨が降ってしまい、ひとつしかないので相合傘もしてくれた。

 その後、いろいろと複雑な紆余曲折もあって、二度とデートもしてくれなかったし、付き合ってもらえなかった。私のKさんを想う気持ちを察してくれたのであるが、あまりにも子どもじみた考えの私が物足りなかったのか、もしくは生きるステージが違っているので合わないと感じたのかもしれない。こうして、手さえ握ることもなく淡い恋は終わりを告げた。コスタリカという名前の珈琲店だったのだから、おそらくコスタリカ産のコーヒーも提供していただろうから、一度ぐらいは飲んだだろう。確かな記憶はないが、コスタリカ産のコーヒーはあまりにも苦かったという記憶が残っている。

 そんな苦い思い出を振り払うかのように、コスタリカ珈琲の生豆を買い求めたのである。中央アメリカで最初に珈琲豆の生産を始めた歴史のあるコスタリカは、珈琲豆の生産に国を挙げて力を注いでいる。品質を保つ為に、国としてアラビカ種の生産しか認めていない。スベシャルティコーヒー用の珈琲豆の生産が中心だ。そんなコスタリカ珈琲を、中浅煎りの焙煎にして飲んでみたのである。それもKさんの面影を浮かべながら。甘みのあるキレのある酸味が特徴的で、フルーティで苦味をちょっぴり感じる本当に美味しい珈琲である。苦くて酸っぱいだけの珈琲だったという思い込みは、完全に払拭されて、コスタリカ珈琲の大ファンになってしまったのである。苦い思い出も、甘酸っぱい素敵な思い出に変わった。

※イスキアの郷しらかわでは、森のイスキアの佐藤初女さんを志す方々を支援しようと、心身を病んだ人々の癒し方の研修講座を開催しています。講座を受ける方々には、自分で淹れた珈琲を無償で提供しています。勿論、思い出のコスタリカ珈琲もそのメニューに加えました。コーヒー好きの方には、スペシャルティコーヒーをサービスします。