芸能人が心身のトラブルを抱えやすい訳

 日本の芸能人だけでなく著名な世界のスターたちもまた、心身のトラブルを抱えているケースが少なくない。それも、身体と心の両方にトラブルを持っていることが多いのだ。日本の芸能人では、昔から心身のトラブルを抱えていても、あまりカミングアウトをすることがなかった。最近はあまり気にすることなく、心身のトラブルをカミングアウトして、療養のために休養する芸能人が増えた。世界的な大スターでも、レディーガガが線維筋痛症をカミングアウトしたし、ジャスティンビーバーがラムゼイ・ハント症候群という難病だと発表した。

 ジャスティンビーバーは、この難病だけでなく鬱と薬物依存症だったと告白したし、レディーガガは摂食障害で苦しんだと伝えられている。日本の芸能人でも、線維筋痛症や原因不明の痛みやしびれを抱えている人も多いし、鬱や摂食障害、PTSDやパニック障害、薬物依存やアルコール依存で苦しんでいる例が多い。そして、それらの芸能人に共通しているのが親との関係に問題を抱えていて、中には毒親だったとカミングアウトするケースもあるということだ。自己肯定感が育ってなく、HSPを抱え不安や恐怖感を持つ芸能人が多い。

 どうして芸能人は心身のトラブルを抱えてしまうのかというと、根底に愛着障害を抱えているのではないかと思われる。親が才能ある子どもに大きな期待をして、過介入や過干渉を繰り返し、親の思うままに支配しコントロールをしているのである。勿論、親は意識してそんな毒親まがいの仕打ちをしている訳ではない。子どもが有名になり大スターになるように育てたいと強く思い過ぎるあまり、親はそんなふうに子どもを操ってしまうのだ。まるで自分の思いのままに踊るマリオネットのように子どもを扱うのだ。

 子ども時代に愛着障害になるように育てられた子どもは、大人になってもその障害を乗り越えることは難しい。強烈な生きづらさを抱えて生きるようになるし、不安や恐怖感から抜け出せない。このような芸能人は、おしなべて魅力的なのである。多くのファンを惹きつける芸やパフォーマンスを披露する。それは、天性の才能があるとも言えるからである。HSPという症状がそのような才能を開花させると考えられる。彼ら彼女らの何とも言えない素敵なパフォーマンスは、ファンの心の琴線を打ち震わせるのである。

 もしかすると、芸能人がたまたま愛着障害とHSPを抱えているのではなくて、愛着障害とHSPを根底に抱えているから芸能人として大成しているのではなかろうか。だから、多くの芸能人が心身のトラブルを抱えているのかもしれない。愛着障害とHSPを抱えるが故に、そのパフォーマンが人々を惹きつけたとしても、その心身のトラブルが深刻になってしまい、自死を選んでしまうことは避けてほしいものである。何人も自らの命を縮めてしまった芸能人がいるが、苦しい胸の裡を誰かに打ち明けていたら防げたと思うと残念だ。

 愛着障害を抱えて心身のトラブルを抱えた人が、愛着障害を癒せて心身のトラブルを乗り越える方法はないかというと、まったくない訳ではない。親が深く反省して、生まれ変わったように母性愛(無条件の愛)を注ぎ続けて、安全基地の役割を果たすことが出来たら、愛着障害は癒える。しかし、そこまで変われる親は皆無である。自分が我が子を愛着障害にしてしまったという認識がないからである。心身のトラブルに苦しむ当の本人も、愛着障害であるという認識がないのだから当然だ。もし、愛着障害であるという認識を持てたとしても、親が高齢になっていたら、乗り越えるのは極めて難しい。

 それでは親に期待できないとしたら、どんな癒しの方法が考えられるだろうか。親に代わって安全基地となれる存在がまず必要である。個人でも良いが、出来たらチームで安全基地になるのが好ましい。何故なら、個人だと依存され過ぎるし、異性だと転移が起きやすいからである。勿論、転移が起きても結婚できるなら良いが、なかなかそうは行かない。安定した愛着を持っている人なら安全基地になれるが、そういう人は極めて少ない。チャールズチャップリンが四度目の結婚をしたウーナ・オニールはそういう女性だった。それまでは私生活で不幸だったチャップリンは、彼女の献身的な愛により愛着障害を乗り越え、幸福な人生の幕開けを迎えられたのである。

8050問題は解決できるのか

 8050問題は、その該当する家庭・家族・親族においても深刻な課題ではあるが、社会的にみても大変な問題となっている。いずれ親が病気なったり介護されたりするようになれば、ひきこもりの我が子を支援することや扶養することが出来なくなる。そうなると、ひきこもりに陥っている人を公的な支援で面倒をみるしか他に方法がなくなる。生活保護法や自立支援法による援助が必要になり、貴重な税金が使われることになる。憲法で生存権が保障されているのだから、社会で面倒をみるのは当然かもしないが、割り切れない思いがする。

 8050問題が深刻になると言われ始めてから、既に数年が経過している。抜本的な解決策は未だに見出せていないし、既に9060問題になっているとも言われている。政府内や国会でも盛んに議論され続けているし、都道府県レベルにおいても、そして市町村においても解決策を探し出そうと必死なのだが、ひきこもりは益々増加していて、手の打ちようがないという状況にある。民間の「引き出し業者」に依頼する保護者もいるが、効果が上がっていないようである。ひきこもりは、これからも増え続けることであろう。

 ひきこもりが何故増え続けるのかというと、その根本原因を正確に把握しいないからである。何となく子育てに問題があったのではないかと推測している人もいるが、その問題が何かというと正確に解っていないことが多い。親が甘やかし過ぎたからとか、過保護だったからと指摘する人もいるが、それは見当違いだと言える。本当の原因は、そのまったく逆である。過保護は問題ないし、甘やかせることは一向に構わない。甘やかしが足りなかったのであり、過保護にしてもらえなかったことでひきこもりになったのである。

 ひきこもりの真の原因は、『愛着障害』にある。愛着障害というと、虐待やネグレクト、または親の病気などによって起きると思われているが、実はそればかりではない。基本的には愛着障害は安全基地が存在しないことによって起きる。ごく普通に愛情不足なんてありえないくらいに子どもをたっぷりと愛して育てたのにひきこもりになったのだから、愛着障害なんてありえないと思う人が多いかもしれない。しかし、その愛情はまやかしであり、歪な愛情である。不純な愛情と言っても過言ではない。だから、子どもはひきこもりなのだ。

 どういう意味かというと、愛には無条件の愛と条件付きの愛があり、たっぷりと注いだつもりの愛というのは、実は条件付きの愛なのである。人間が正常に成長して自立する為には、まずは無条件の愛である「母性愛」をこれでもかという位に注ぎ続けなければならない。つまり、まるごとありのままに我が子を愛することである。そして、自分は親から愛されているという実感と、どんなことをしても親からは見捨てられないという安心感を醸成させなければならないのだ。子どもに安全基地が形作られてから、躾である父性愛を注ぐべきだ。

 ひきこもりの家庭においては、安全基地という存在がない。当然、子どもの心は不安感や恐怖感でいっぱいである。HSPが強く出ている。神経学的過敏だけでなく、心理社会学的過敏がある。だから、社会に出て行けないのである。自己肯定感も育っていない。小さい頃から、ああしろこうしろ、こうしては駄目だ、何故そんなことをするんだ、お前は何をしても駄目だな、というように否定され、支配され、コントロールされて育ってきた。これでは、自己肯定感なんて育つ訳がないし、自立なんて到底出来っこない。

 学校教育でも同じことをされ続けてきたし、いじめや虐待、不適切指導をされてきた。やっと就職した職場でも、パワハラ、モラハラ、セクハラ、いじめをされてきた。どこにも安全基地がなかったのだ。これでは、ひきこもりという選択肢以外は見いだせない。どうすれば、8050問題を解決できるかというと、愛着障害をまずは癒すことである。その為には、適切な愛着アプローチが必要である。80代の親が変われば良いが難しいので、誰かに臨時の安全基地になってもらい、適切なカウンセリングやセラピーを受けるしかない。または、オープンダイアローグ療法も効果的である。8050問題を解決するには、特効薬なんてない。地道な愛の溢れるサポートが必要なのである。

なぜ自殺をしてはいけないのか

 なぜ自殺をしてはならなのか?と子どもや孫に問われて、どのように答えるだろうか。または、自殺をしてはならない理由を児童生徒に聞かれて、先生たちはなんと答えるのか。適確にそして適切に、自殺してはならない理由を明確に答えられる人は、おそらくごく少数であるに違いない。殆どの人が答に窮すると思われる。どうして自殺をしてはならないのか、この答を明確に答えられる大人が少ないから、そして子どもたちに自殺をしてはならないことを教えてこなかったから、子どもたちの自殺が減らないのである。

 自殺者の総数は減少傾向にあるものの、子どもたちの自殺者数は減ってないどころか増え続けている。生きていく苦しさをもうこれ以上抱えられない、自ら死を選んだほうが楽なんだと思ってしまうのであろう。そんなにも悩み苦しんでいる子どもを、救ってあげられる大人がいないというのは、実に情けないことではないだろうか。自殺の原因は何なのかと調べていくと、学校でいじめられていたとか、成績不良で挫折していた、友人関係で悩んでいた、家族との関わり合いで問題を抱えていたとか、実に様々である。

 自殺の原因をそのように特定してしまうと、自殺を防ぐことは永遠に出来ないのではないかと思えて仕方ない。何故ならば、これらの自殺の原因を完全取り除くことが出来ないからである。そして、これらの問題を抱えている子どもは、もっと多い筈であり、実際に自殺をしてしまうかどうかは、別の要因によって大きく違ってくるのではないだろうか。そして、自殺をする本当の原因は他にあるのではないかと思われる。まず、自殺をする子どもたちは、自己肯定感を持っていなかったし、安全基地になってくれる存在がなかったのは確かだ。

 絶対的な自己肯定感を持てなかったのは、愛着に問題があったからだろうし、安全基地が存在しなかったというのは、愛着障害だったからであると思われる。もし、自殺してしまった子どもたちに絶対的な自己肯定感が育っていて、安全基地という存在があったなら、同じような境遇に追い込まれても、絶対に自殺はしなかった筈だ。絶対的な自己肯定感を育むように成長し、安全基地に守られていたなら、自分から死を選ぶことはなかっただろう。そして、人間はなぜ自殺をしてはならないのかを教えられていたら、どんな苦境も乗り越えただろう。

 なぜ自殺をしてはならないのか、この問いに大抵の人はこんなふうに答えることだろう。人は自分ひとりで生きてきたのではなく、多くの人に支えられて生きてきた。そして、その育てられた恩に報いずに死んではならない。また、自殺してしまうと自分を支えてきた人をおおいに悲しませてしまうと。多くの人を悲しませるようなことをしてはならないのだと諭す人は多い。または、こんなことを言うかもしれない。自殺とは自分で自分を殺すということで、殺人と同じなのだから、そんな罪を犯すようなことをしてはならないと説得する。

 こんな理由で自殺をしてはならないと、苦しんでいる子どもを説得しようとしても、おそらく自殺を思い止まらせることは難しいことであろう。何故なら、自殺をするような子どもは、親・家族との関係性、友達や先生たちとの関係性が希薄なのだからだ。良好な関係性がないから、一人で悩み苦しんで誰にもその苦しみを打ち明けられないのだ。当然、自分が死んでも悲しんでしまう人がいると実感できないのだ。または、自分を殺してはならないのだと倫理的に訴えても、聞き入れる訳がない。

 それでは、なぜ自殺をしてはならないのか、真の理由は何か。人間は自ら自己組織化をするひとつのシステムである。人体とはこのシステムによって全体最適を目指す。37兆2000億個の細胞のひとつひとつがそれぞれの関係性(ネットワーク化)によって、全体最適のために協力し合う。さらに、それぞれの多様性があるからこそ、自己進化をするのである。人間社会もまったく同じでひとつのシステムである。当然、多様性と関係性があってこそ、自己組織化するし自己進化をする。その多様性と関係性を自ら断ち切るような行為である自殺をすることは、社会を否定し破壊するエゴ行為なのである。だから、自殺をしてはならないのだ。

メンヘラ女子を卒業する方法

 メンヘラ女子という言い方があることを、中高年の方々は知らないであろう。ネットの世界で広まっているだけで、メンヘラというのは正式な医学用語でもない訳だから、当然だと言えよう。メンタルヘルスから派生した言葉であり、転じてメンタルを病んでいる人という意味で使われている。それも軽症のメンタル疾患であり、入院や投薬の治療も必要ではなく、単に生きづらいとか常に悩みを抱えていてメンタルが落ち込んでいる人という括りである。だから、重症のメンタル疾患で、入院治療が必要なレベルはメンヘラ呼ばないらしい。

 メンタルを病んでいる人は、通常はその事実を隠したがるが、自分がメンヘラ女子だとカミングアウトすることが少なくない。匿名だけでなく、FBなど実名を晒しているSNSでも、広く知らしめるケースも少なくない。おそらくは、カミングアウトすることで自分の苦しさを理解してもらえることの方が、隠すよりも得策だと考えているからではなかろうか。メンヘラ女子という言葉は、メンタル疾患という言葉よりも軽い印象を与えるので、自分がメンヘラ女子だと言いやすいのかもしれない。

 メンヘラ女子という言葉は、軽い印象を与えるかもしれないが、本人は辛い症状や苦しい胸の内を抱えていて、強い生きづらさを抱えていると思われる。何とか仕事をしているものの、職場でも働く喜びを感じにくいし、上司や同僚ともしっくり行かないことが多い。家族とも良好な関係を築くのが、難しい状況にあるケースが多い。特定の恋愛パートナーとも、一時的には上手く行っても長続きすることも少ないし、ゴールインすることも少ない。よしんば結婚できたとしても、やがて破綻することも多いことだろう。

 自分がメンヘラ女子だとカミングアウトするのは、苦しくてどうしようもないから自虐的になっているのかもしれない。そして、誰か私を救ってよと助け船を求めているような気がする。しかしながら、現代の精神医療のレベルではメンヘラ女子を救うことが出来ないし、優秀なカウンセラーやセラピストでも一時的なやすらぎは与えられても、完全治癒までは導けないであろう。何故なら、メンヘラ女子の根底に『愛着障害』を抱えているからだ。愛着障害を乗り越えることが出来たなら、メンヘラ女子も卒業できるが、それは極めて難しい。

 それでは、メンヘラ女子を永久に卒業することが出来ないのかというと、けっしてそうではない。適切な愛着アプローチという方法により、メンヘラ女子という呼び名を返上するのは可能である。つまり、抱えている愛着障害を癒すことにより、メンヘラを卒業するという方法だ。愛着アプローチは、可能ならばオープンダイアローグという療法と併用するとより効果が高まる。オープンダイアローグとはミラノ型の家族療法の一手法だ。親と一緒にこの療法を受けることを勧めたい。それが無理ならば、本人だけの愛着アプローチだけでも仕方ない。

 メンヘラ女子が抱えている愛着障害は、親子関係の問題から起きている。乳幼児期から少女期にかけて、親からあるがままにまるごと愛されるというような育てられ方をされなかった。逆に、過介入や過干渉を繰り返されて、支配されコントロールされて育てられたのである。絶対的な自己肯定感は育まれず、自己否定感に苛まれている。HSPが強く、いつも不安や恐怖感を抱えていて、強烈な生きづらさを抱えている。メンタルだけの症状だけでなく、様々な身体の不調も抱えている。例えば、原因の解らない痛みやしびれ、またはしつこい肩凝りや頭痛なども起こしているメンヘラ女子も多い。

 メンヘラ女子を卒業するための愛着アプローチであるが、まずは安全基地の存在が必要である。それは、一人でも可能だが負担が大きいので、チームとしての安全基地が望ましい。そして、オープンダイアローグをすると共に、助言や指導をなるべく排除して、カウンセリングやセラピーが有効だ。その際に、自然体験や農業体験が可能な農家民宿に滞在するのも良い。不安感や恐怖感が強く、HSPを抱えていて身体がいつも緊張しているので、緊張を和らげるボディケアーも必要である。迷走神経の遮断を起こしているので、安心感を与える関係性が求められる。複合的なセラピーをすれば、メンヘラ女子を卒業できるに違いない。

メンタルを病むのは自分のせいでない

 人間、誰しもメンタルを病んでしまったという経験を持つことだろう。勿論、一度もメンタルを病んだことがないという人も居ない訳ではないが、ごく少数に違いない。それだけ、現代日本のような職場環境や家庭環境では、精神的な病気に追い込まれても仕方ないということだろう。メンタルを病んでしまうのは、周りの環境のせいだから仕方ないと思う一方で、やはり自分の性格や気質がメンタルを病んでしまう要因だと思う人が殆どであろう。そして、そんな自分が嫌いになり、自分自身を責めてしまうことが多い。

 しかし、メンタルを病んでしまうのは、自分のせいではないのである。科学的に考察しても、医学的に検証したとしても、自分自身が原因でメンタルの疾患になることはない。メンタルを病んでしまう原因は、自分には100%ないと言い切れるのである。何故なら、メンタルを病んでしまうのは、育てられ方に起因しているからである。間違った家庭教育や学校教育に、その原因があるのだ。勿論、間違った価値観に支配されている現代社会にも原因がある。間違った教育と社会の価値観によって、大量のメンタル患者が産みだされているのだ。

 間違った教育というのは、どういうことかと言うと、まずは家庭教育から紐解いてみたい。三つ子の魂百までもという諺をご存知だろう。3歳頃までの子育てで、その後の人生が決まってしまうと言っても過言ではない。昔の人々は、3歳までの子育てによって、その子どもの人格が形成されてしまうということを経験的に学んでいたのである。子育ての基本は、まずは豊かな母性愛だけを注いで育て、それから父性愛を用いて躾けるのである。この順序を間違うととんでもないことになる。父性愛と母性愛の同時進行も良くないのである。

 生まれたての赤ん坊は純粋無垢の存在である。その赤ちゃんを育てる際に、過保護に育ててしまうと、依存心が生まれて自立を阻んでしまうと今でも勘違いしている親がいる。世間の人々も、過保護は良くないと未だに思っている人がいるのは残念である。過保護はまったく問題ない。ただし、過干渉や過介入は良くない。獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすという諺があるが、あれはまったくの出鱈目である。ライオンの母親は、我が子を過保護にして育てる。殆どの動物の親も同様で、十分に自立できるまでは過保護である。

 本来、人間もそういう育て方をすべきなのである。おそらく、縄文時代は子どもを過保護で育てたに違いない。だからこそ、一万数千年もの間に渡り、争いのない平和な社会を築けたし、お互いが支え合う高福祉の社会を構築できたのだ。乳幼児期においては、無条件の愛である母性愛をたっぷりと注いであげなければならない。我が子をあるがままにまるごと愛することだ。そして、子ども自身が自分は親から愛されていて守ってあげられているという実感を子どもに与え、子どもの不安を完全に払拭しなければならない。安全基地が存在するということが大切なのである。

 ところが、親があまりにも過介入と過干渉を繰り返して子育てをすると、子どもの自己組織化が阻害され、絶対的な自己肯定感が育たないばかりか、愛着障害を抱えてしまう。こうなると、やがてメンタルを病んでしまうばかりか、不登校やひきこもりをも起こしてしまうことにもなる。さらに、学校でも過介入と過干渉の教育を繰り返すから、主体性や自主性を失ってしまうのだ。これでは自己肯定感なんて育つ訳がない。家庭教育と学校教育の誤謬が、メンタルを病んでしまう人を大量に作り出しているという構図になる。

 そして、社会に出て職員教育や指導を受ける場合も、自己組織化を阻害するような過干渉が行われる。企業や組織において、間違った人材育成が蔓延っている。もっといけないのは、間違った価値観に支配されている社会になっていることである。自分さえ良ければいいとか、自分の利害や損得を基準にした行動規範になっている。本来は、全体最適(全体幸福)の価値観を基準して行動すべきなのに、個別最適を重視する価値観になっている。人を蹴落としてでも自分が出世したり昇給したりすることが正しいと思い込まされている。これでは、メンタルを病むのも仕方ない。つまり、メンタルを病んでしまうのは、自分のせいではないのである。

メンヘラを好きになってしまう訳

 メンヘラという言葉をご存知だろうか。中高年の方たちには馴染みがないかもしれないが、ネットの世界では若い人たちを中心に使われている。メンタルヘルスから転じて、メンタルを病んでいる人という意味に発展しているという。ただし、重症のメンタル疾患という意味ではなくて、軽症というか少し変わった性格で生きづらさを抱えている人という意味で使われているらしい。当初はメンヘラ女子というように女性を中心に用いられていたようだ。自分のことをメンヘラだとカミングアウトする人も多い。

 そんなメンヘラ女子を好きになってしまう男も多いし、メンヘラ男子を何故か好きになってしまう女子も少なくないという。ということは、メンヘラは魅力的なパーソナリティを持っているのだろうか。本来、メンヘラとは付き合いにくいと思われるが、好意を抱いてしまうというのは特別な意味があるに違いない。メンヘラになってしまう原因を考察すれば、メンヘラが好きになってしまう訳も解るのではなかろうか。メンヘラとは、どういうパーソナリティを持った人かというと、端的に言うと『パーソナリティ障害』的な人だと言える。

 依存性、回避性、演技性、妄想性、自己愛性などのパーソナリティ障害のような人格を持つのが、メンヘラの特徴とも考えられる。そして、より深刻な境界性のパーソナリティ障害の性格を持つメンヘラも存在する。このような人たちは、自分では強烈な生きづらさを持っているし、他人との良好な関係性を構築することが苦手である。とは言いながら、こういう人たちはパーソナリティ障害というハンディキャップをバネにして、各界で活躍する人も少数だが輩出している。そして、ある意味もの凄く魅力的でもあるのだ。

 また、このように生きづらさを抱えたメンヘラだからこそ、支援してあげたいという人もいる。そして、その支援がお互いの恋愛感情に変化していくことも少なくない。かくして、メンヘラを好きになってしまう人は出てくるのである。ところが、付き合ってみると大変な状況に追い込まれてしまうことが多い。依存性があるので、交際相手に依存してしまうし、アルコールやギャンブルに依存してしまうことも多い。ゲームにもはまり込みやすい。中には、セックスに依存したり薬物に手を出したりするメンヘラもいる。

 元々、愛情不足によりパーソナリティ障害の人格を持ってしまったのだから、愛に飢えている。それも、限りなく貪欲に相手の愛を追い求める。それも、相手の愛を確かなものかどうかを常時確認したがる。だからこそ、自分を見捨てないかと相手の愛を試すのだ。見捨てられ不安が強いからこそ、捨てられることがないかどうか、無意識で相手の愛を試すのである。試される人の気持ちとしては、たまったものではない。メンヘラが自分に対して嫌がらせをしているとしか思えない。当然、そんな振り回される日々は嫌だから別れることになる。

 メンヘラどうしがお互いを求めるというケースもある。これは共依存の関係を築いてしまうので、その事実に気付かなければ、家庭を持ち子どもを産み育てることになる。しかし、残念ながらその関係が長続きする訳がない。やがて、家庭崩壊を招いてしまうのである。メンヘラになるのはパーソナリティ障害の人格を持つが故なのだが、その根底には『愛着障害』が隠されている。お互いに『安全基地』を求めて一緒になるのだが、愛着障害を持つ人は、基本的に安全基地にはなれないのだ。安全基地ではなかったと悟ると同時に別れる。

 このようにメンヘラは魅力的であるし、何とか自分の力でメンヘラを乗り越えさせたいという思いから好きになってしまうことが多い。しかし、余程の人でないと相手のメンヘラを卒業させることは出来ない。もし、愛着障害を乗り越えて、絶対的な自己肯定感を持ち、自己人格の確立を成し遂げた人であれば、メンヘラを卒業させることが出来得る。そういう人はごく少数だが、存在しない訳ではない。そういう人は、既に安定したパートナーとの暮らしをしているから、恋愛としての対象にはならないかもしれない。いずれにしても、付き合う時には、自分と相手のパーソナリティを把握して、安易な相手を選ばないことだ。

妻が夫に不満を持つのは何故か

 夫婦の満足度についてのアンケート調査をしたら、驚くような結果になったという。夫が妻に対して満足している割合は69%であるのに対して、妻の夫に対する満足度は49%だというのである。この差は何なのか、どうしてこんなに差があるのであろうか。昔は、夫の方から離婚を切り出すケースが多かったが、現在は妻から離婚を申し立てるほうが圧倒的に多いという。しかも、夫の方では離婚の理由が解らないと主張するケースが殆どだというから驚きだ。ということは、妻の不満を夫はまったく把握していないということになる。

 夫の満足度は現実と相違ないが、妻たちの本心を明らかにしているかというと、そうではないような気がする。というのは、この満足度に対する設問が総体としてのものであり、個別の満足度設問になっていないからである。確かに、全体としてはまあまあ満足という気持ちがあるが、かなり不満な部分が相当あるのではなかろうか。特に、妻の気持ちに共感してくれているか、または妻の話を真剣に聞いてくれるか、さらには妻のことを自分のことのように心配してくれるか、という設問だったら妻はNOと答えるに違いないのである。

 多くの妻たちが抱いている不満は、以上のようなことなのである。とは言いながら、経済的には裕福な暮らしをさせてくれるし、高望みをしても仕方ないという意味で、満足していると答えているのではないかと思うのである。だから、このような設問をすること自体が、まずいのではないだろうか。以前、既婚男女に対してのこんなアンケート結果がある。生まれ変わって、結婚するとしたら今の伴侶と結婚するかどうかを聞いた。男性は約半数が現在の妻と一緒になると答えたのに対して、妻はそれよりも1割以上低い数字になった。

 しかも、20代~30代の妻たちは別の男性と結婚したいと願う割合が低いが、50代~60代になると半数以上の妻たちが別の男性と結婚したいと答えているのである。つまり、夫と長く暮らすほど不満が高まるということになる。若い頃は見えなかった夫の嫌な部分が年齢を重ねると目立ってくるのか、夫が高齢になると身勝手で我が儘になるかであろう。夫婦生活の中で、夫が抱いている不満感よりも妻が抱える不満感が圧倒的に多いということになる。年齢を重ねるとその傾向が強くなるということであろう。熟年離婚が増える要因であろう。

 それでは、何故妻たちは夫に対して不満を持つのか、考察を試みたい。妻たちが持つ不満は、夫の傾聴力と共感力の乏しさに対してである。または、コミュニケーションが成り立たないという不満でもある。どうして妻よりも夫のほうが、コミュニケーション能力が低いのか。夫たちは職場で、コミュニケーション能力やプレゼン能力を発揮して、部下たちを統率管理している筈である。年齢を重ねれば重ねるほど、その能力は高まっているに違いない。それなのに、家庭では妻が夫のコミュニケーション能力が駄目だと感じているのである。

 それは職場での意識と家庭での意識がまるで違っているからであろう。夫たちは職場において、意識を集中してコミュニケーション能力を発揮しているのである。そうしないと、仕事が上手く行かないからである。特に顧客の気持ちを汲み取ろうと必死になるし、上司の意思を把握しないと出世できないのだ。部下の話をよく聞かない男性の上司は多いが、上司の話を聞かない管理職は極めて少ない。それだけ気を張り詰めて職場でコミュニケーション力を発揮している。その反動であろうか、家庭では妻の話を聞こうとしないし、共感しようとしないのだ。

 「世の中の男性なんて、みんな発達障害みたいなものよ」と言った女性がいる。東京大学名誉教授でフェミニストである上野千鶴子女史である。発達障害の夫によって心身の破綻を起こすカサンドラ症候群の方たちに招かれた講演会での発言である。言い得て妙である。気を張り詰めて仕事をしている職場においては大人の発達障害の症状はあまり出ないが、気が緩む家庭においては発達障害の症状が強く出てしまうのだ。当然、傾聴力と共感力が乏しいし、コミュニケーションが上手く行かない。妻の気持ちを解ろうともしないし、身勝手で自己中な夫に愛想を尽かすのは当然なのである。熟年離婚をされるのも仕方ない。

性善説と性悪説のどちらが正しいのか

 生まれつき人間は善であるという性善説は、中国の思想家孟子が提唱した。一方、生まれつき人間は悪であるという性悪説は、荀子が主張したとされる。どちらの説が正しいのだろうか。生まれつきの人間というものは、悪なのであろうかそれとも善なのであろうか。生まれつき人間には自己中心的な欲求があり、我が儘であり利己的で悪なのだと荀子は説いた。修養や学びにより徐々に善を獲得するという。逆に、生まれつきの人間は善であるのに、育てられ方や環境によって悪にもなると孟子は説いたと言われている。

 性善説と性悪説のどちらが正しいのであろうか。生まれつきの人間は善なのか、それとも悪なのか、どっちなのであろうか。どちらの考え方にも一理ありそうだ。欧米の考え方からすると、性悪説を取る人が多いような気がする。一方、日本を始めとした東洋では、性善説を取る人が多いかもしれない。性善説にしても性悪説にしても、その主張は観念論的なものだと言えよう。どちらにしても完全に肯定することも否定することも難しい。明確な科学的根拠に基づいて、どちらかが正しいのかを明らかにしてみたい。

 人間として観るのではなく、人体というひとつのシステムとして捉えて、自然科学と社会科学によって検証すると、どちらの説が正しいのか判明するに違いない。人体とはどういう組織で組成されているのかというと、60兆個に及ぶ細胞によって全体が形作られていると言われてきた。最先端の科学では、37兆2,000億個の細胞数だということが解明された。その細胞は、脳や臓器を組成しているし、筋肉や骨格を形成している。血管を形成し、その中を流れる血液なども細胞によって形作られているのである。

 人間の細胞というのは、脳神経からの指示・命令を受けて、必要な働きをするのではないかと見られていた。ところが、最新の科学で解明されたのは、驚くべき事実であった。どういうことかというと、それぞれの細胞は何からも命令されず、自発的に自主的に主体的に、連携して人体を守る為に懸命に働くのである。細胞自身の為にではなくて、全体の為に必死で働くのだ。テレビ東京で放映されていたアニメ『働く細胞』でも詳しくその様子が描かれていた。つまり、人間の細胞は、個別最適ではなくて全体最適を目指して活動しているのだ。

 人間の細胞は、人体というシステム全体の為に働いているということが判明したのである。システムダイナミックスの理論で言えば、構成要素である細胞がシステム全体(人体)を最適に保つ為に、自己組織化の働きをしているのである。細胞は、自分の命を犠牲にしても人体を守る。例えば、人体に有害なウィルスが侵入したとしよう。または、指先に傷が出来て細菌が侵入したとする。それらの有害な細菌やウィルスに、白血球は果敢にも攻撃してやっつけてくれる。そして、白血球細胞は闘い終えて命を落とすことも少なくない。

 自分の命を犠牲にしてでも、人体を守ってくれる細胞は正義の味方である。人体を構成する細胞は、善であると言える。自分の損得や利害を考えて個別最適の為に働くこと、自分の利益の為に他人を騙したり傷つけたり殺害したりすることを『悪』とするなら、その反対に位置する人間の細胞は『善』であろう。善である細胞で形成されている人体も善であるのは間違いない。当然、人間もまた生まれつき善であるのは当然である。人間は、元々生まれつき善であり、個別最適のために活動するのではなくて全体最適の為に働くのである。

 システムダイナミックスの理論からすると、人間が自己組織化の働きをする為には、人間どうしの良好な関係性が必要なのである。人間どうしの関係性が悪化してしまうと、自己組織化の働きをしない。細胞どうしの関係性(ネットワーク)が阻害されると、自己組織化しないのと同じことである。人間どうしの関係性(愛)が阻害されると、善の働きがなくなり悪の働きが強くなる。親子の愛が阻害されると子どもは『愛着障害』になり、夫婦の愛が阻害されると家族崩壊を迎えてしまう。細胞が自己組織化するのと同じで、人間は生まれつき自己組織化の働きをするのだから、性善説が正しい。それが悪になるかどうかは、人間どうしの関係性(愛)にかかっていると言えよう。

※生まれつき善である人体(人間)は、関係性(ネットワーク)=愛が良好に発揮されるなら、自己組織化が健全に働き心身の病気にもならないし人間関係が破綻することはない。ところが、親からの十分な無条件の愛が与えられず育てられると、良い親子関係や夫婦関係が形成することが叶わず、幸福な人生を歩めなくなる。子どもはメンタルを病んでしまい、不登校やひきこもりになることも少なくない。そうなってしまった子どもを幸福にするには、良好な親子の関係性(ネットワーク)=愛を取り戻すしかない。

陰謀論者たちを洗脳から目覚めさせるには

 自分たちだけが真実に目覚めていると思い込み、とんでもないフェイクニュースを拡散し続ける陰謀論者たちには困ったものである。Qアノンという怪しい人物が作ったフェイク情報に踊らされている。それも巧妙に加工された写真や動画を信じ込ませられているから、非常にやっかいである。人間と言うものは、印刷された文章、写真、動画は真実だと思い込みやすい。最近は手の込んだデジタル処理の細工がされているから、信じてしまうのも無理はない。DSとかいう組織が本当にあると信じ込まされている。洗脳されているのである。

 人間は一度洗脳されてしまうと、その洗脳から離脱することは難しい。オウム真理教に洗脳された若い信者たちが、騙されて重大犯罪に関わってしまった事件は悲惨であった。今でも洗脳から解けずに苦しんでいる人は多いし、最近はさらに洗脳されている人が増えている。一旦洗脳されてしまった人間は、認知的バイアスがかかってしまうから、正しい情報を伝えても聞こうとしない。妄想性の障害を起こしてしまっているのである。フェイクニュースを真実だと思い込むのは、洗脳のせいであるから救いようがないのである。

 洗脳された陰謀論者たちは、9.11事件は自作自演だとか、3.11の東日本大震災が人工地震によるものだとか、日本各地の豪雨被害は気象操作によるものだという、まことしやかなフェイク情報を拡散し続けている。科学的な根拠もないし、現代の科学では人工的に操作するなんて不可能である。冷静に考えれば、誰だってフェイクだと気付く筈である。一旦陰謀論に騙されてしまった人間は、メンタルモデルのせいで自分の力だけで覚醒することは難しい。メンタルモデルが一度歪んでしまうと、正常な判断能力を喪失してしまうからだ。

 どうして人間は洗脳されてしまうのであろうか。オウム真理教の際にもそうだったように、騙されてしまうのは、けっして愚かな人間ではない。学歴も高いし教養がある人間が洗脳されてしまうのである。自分はしっかりしているから騙されないし、科学的な見識が高いと自負している。普段から慎重であり、何事にも疑い深い。そういう人こそが騙されやすいのである。客観的合理性が強くて、分析力が高い人ほど騙される。SNSで盛んに情報を収集したり発信したりする、情報に敏感な人こそが洗脳されるのである。

 高い教養と学歴を持ち、客観的合理性を持った見識の高い人なのに、何故騙されて洗脳されてしまうのかというと、根底に愛着障害を抱えているからである。誤った情報に惑わされて洗脳されてしまう人は、いつも不安と恐怖感を抱えている人である。そして、傷つきやすいHSP(神経学的過敏)を起こしている。したがって、家族やパートナーからの豊かな愛情を認識しづらくなっている。愛に飢えていると言っても過言ではない。まるごと愛してくれて、守ってくれる存在がないのである。それ故に、強烈な生きづらさを抱えてしまっている。

 強い生きづらさを抱えていて、いつも不安や恐怖感を抱えているので、人や社会を信じられなくなっているのである。それ故に、権力者や経済的優位者が何らかの陰謀を企んでいて、庶民を騙しているという情報に飛びついてしまうのだ。自分を心から信頼できている人は、不信感を持たない。ところが、自己肯定感が低くて自分を信じられない人ほど、不安感を煽られて、フェイクニュースを信じ切ってしまうのである。このような洗脳に陥ってしまった人を救うには、根底にある愛着障害を癒すしか、他に方法がないのである。

 大人になってから愛着障害を癒すというのは、非常に困難である。何故なら、愛着障害は親からの無条件の愛である母性愛が不足して起きたからか、もしくは親が過干渉や過介入したから発症したのである。親が劇的に変わらなければ、愛着障害は癒せない。しかし、頑固な親であるとか、親が高齢者になってしまった場合は、それも適わない。そういったケースでは、愛着障害を癒すのは絶対不可能かというと、けっしてそうではない。親以上に温かい愛情を十分に注いでくれて、絶対的な安全基地になってあげる存在があれば、愛着障害は癒されるであろう。そうすれば、陰謀論の洗脳から解けるに違いない。

愛着障害の指導者に国を任せる危険性

 幼児期において、養育者から豊かな愛情を受けられずに育てられると、やがて深刻な愛着障害になりやすい。特に、無条件の愛である母性愛を十分に注がれないと、愛着障害で苦しむことになる。大人になっても強烈な自己否定感を抱えて生きるのであるが、自分に自信を無くしてしまい、強烈な不安感の故に社会不適応を起こして、不登校やひきこもりに陥ってしまう。ところが、中にはこの愛着障害による二次的症状として、強烈な自己愛のパーソナリティ障害を起こしてしまい、超攻撃的人格を持つ人間が生まれてしまうことがある。

 同じ愛着障害でも、この超攻撃的な自己愛性のパーソナリティ障害を持つ人間は、権力欲が非常に強いうえに、能力もある程度高いので、組織の中で頭角を現して昇り詰めることが多い。競争相手を巧妙に蹴落とすスキルも高いし、上に媚びへつらい忠誠を誓うので、上司から引き立てられるので出世が早い。職場においては、巧妙なパワハラやモラハラで、部下を潰してしまうことが多い。政治の世界では、忠誠心が強いのでトップから可愛がられ、競争相手を蹴落とす権謀術策に長けているから、トップに昇り詰めるケースが多い。

 愛着障害からの自己愛性のパーソナリティ障害を持つ政治家として一番有名なのは、かのアドルフ・ヒットラーである。彼は強烈な攻撃的な性格の持ち主で、競争相手を粛清して独裁者となった。とても強い性格であったと思われているが、実は小心者であったのではないかと言われている。本当は、不安感と恐怖感がいつも自分を支配していて、強い自己否定感を抱えていたと思われる。不安感と恐怖感が強くて、妄想性の障害をも抱えていたのではないかと見られている。強い愛着障害があったからこその症状であろう。

 アドルフ・ヒットラーは独裁者となってからも、自分の地位や名誉が奪われてしまうのではないかと常時恐れていた。だからこそ、自分に対する批判や非難を怖れ、極端な情報統制をしたのであろう。自己否定感が強くて不安・恐怖感が強いからこそ、その反動で自分が特別で万能であると思ってしまうのであろう。だから、マスコミが自分を非難・批判するのを許せないのだ。マスコミを統制する政策を実施する指導者は、おしなべて自己否定感が強い愛着障害と自己愛性のパーソナリティ障害を抱えていると言っても過言ではないだろう。

 過去の著名な為政者でも、同じような情報統制の政策を実施した人物が多数存在した。そして、現代の国のリーダーの中にも、同じ障害を抱えている人物は枚挙に暇がない。アジアにおいては、K氏やS氏も同様であるし、米国で圧倒的な支持者がいるT氏も同じだ。T氏は極端なマスコミ嫌いで、大きな圧力をかけていた。そして、今世界中で困惑している指導者P氏もまた、愛着障害と自己愛性パーソナリティ障害を抱えているのは間違いない。彼は、妄想性のパーソナリティ障害も抱えているので、非常に危険な人物だと言えよう。

 K氏やS氏は、普通選挙によって投票された訳ではないので、国民(選挙民)に選んだ責任はない。しかし、T氏やP氏を選んだのは国民である。強いリーダーシップを発揮して、強い自国を造ってくれる人物を選びたくなるのは仕方ないかもしれない。アドルフ・ヒットラーは演説の名手であったという。短い解りやすい言葉で、国民を熱狂させた。強くて大きなドイツを造ろうと演説して、多くの熱狂的支持者を得た。米国のT氏も、かつての強大な米国に戻すという演説で、熱狂的な支持者を得ている。P氏もまた同様である。

 日本でも、つい最近までマスコミに圧力をかけて、自分を批判する経営幹部やキャスターを追い落としたリーダーがいた。その彼もまた、強い愛着障害を持っていた。こんな指導者を選ぶ危うさを認識すべきであろう。P氏、T氏は、確かに優秀な政治家に見えなくもない。しかし、上手く行っている時は問題ないが、自分が人々から見離されられてしまったら、とんでもない行動をしかねない。実際に見捨てられてしまったら、自虐的・破滅的行動を取るだろう。自分だけが破滅するならいいが、こういう人間は善良な人々までも巻き込み国を滅ぼすこともする。そんなP氏が核のスイッチを握っているというのは、恐ろしいことである。