腹七分目がアンチエイジングを実現

 昔から日本で言われ続けてきた健康の秘訣に、『腹八分目』というものがある。おそらく、いつも満腹まで食べ続けて飽食人生を歩んできた人は、不健康になり長生きも出来なかったに違いない。一方、敢えて八割程度の食事量で我慢した食生活を続けた人は、健康で長生きしたのではなかろうか。そのような人々の生き方から、腹八分目という言葉が生まれたのであろう。飽食を続ければ、高脂血症や糖尿病などの生活習慣病になりやすいし、肥満になって下半身に負担がかかって腰痛や膝痛で悩む人も多かったであろう。

 最新の科学的な検証によって、この腹八分目が正しいということが証明されたのである。この食事制限というのは、普通の食事カロリーの25%~30%なので、正確に言えば腹八分目ではなくて腹七分目というべきかもしれない。何故、カロリー制限をするとアンチエイジングが実現するかというと、それはサバイバルシステムが起動するからである。そのサバイバルシステムに重要な働きをするのが、サーチュイン遺伝子である。サーチュイン遺伝子は、適度なストレスをかけられると、危機的状況を感知してサバイバルシステムのスイッチをONにするのだ。

 このサバイバルシステムというのは、どのような意味なのかと言うと、こういうことらしい。食事カロリーが制限されて生きて行く上でギリギリのエネルギー状態に置かれると、種の保存が脅かされる危機感を持つらしい。つまり、身体が危機的な状況に追い込まれたと感知するのだ。そうすると、どのような方法を使っても、種を保存しなくてはならないと、身体のシステムが勝手に働くのである。老化をさせないようにして、後々まで生殖能力を残そうとするのである。そのために、老化した細胞を再活性化させて若返りを図るのである。

 米国ウィンスコン大学の研究チームがアカゲザルを研究対象にして実験した結果、食事を70%に減らしたグループの方が、制限しなかったアカゲザルのグループよりも三倍も病気と老化にならない確率が高かったという。30%の食事制限したグループのアカゲザルは、肌がつやつやして皺も少なく、毛並みも明らかに良かったらしい。ただし、他の研究グループでの実験結果では、あまり効果がなかったという報告もあったという。そこから解ったのは、やせているサルは食事制限の効果が少なく、少し肥満気味のサルに効果があるということだ。

 アカゲザルにカロリー制限の食事を提供することにより、アンチエイジングの効果があるという実験結果が現れたものの、人間ではまだ実証実験がされていない。人間が30%の食事制限よって、老化が抑制されるということは、理論的には証明されている。腹八分目は医者いらずという諺は、実体験からできたものであろう。断食をすると、健康になるというのも広く知られている。そして、激やせの人間は食事制限してもサーチュイン遺伝子は活性化せず、少し肥満気味の人間の方がカロリー制限の効果が出るのかもしれない。

 適度なダイエットによってサバイバルシステムのスイッチがONになると、サーチュイン遺伝子が働き始めて、オートファジーが活性化されて活性酸素が消去され始める。心筋の保護機能も働くし、脳の神経変性疾患も抑制され、認知症も予防される。体の中に産生された活性酸素が消去されれば、癌の発生も抑制されることだろう。それだけではない。ストレス改善や疲労改善にも効果がある。シミや皺も改善されるし、ミトコンドリアの活性化が起きる。老化した細胞に働きかけて、DNAを修復するのである。

 この飽食の時代に、30%削減した食事を摂り続けるというのは、難しいかもしれない。美味しい食事が目の前に並んでいれば、ついつい食べてしまうだろう。それで、プチ断食がお勧めかもしれない。最近、16時間ダイエットという手法がもてはやされている。夕食後、16時間は食べ物を口に入れないというダイエット法である。つまり、朝食を完全に抜くという方法である。サーチュイン遺伝子を活性化させるサバイバルシステムを働かせるのだろう。毎日ではなくても、16時間のプチ断食が効果的かもしれない。いずれにしても、飽食を止めなければ老化が進むということを認識しなければならない。

依存させる子育ては駄目なのか

 子どもを育てる際にどの親も願うのは、自立した子どもに育ってほしいということだろう。それは、経済的に自立できる大人になるということであるが、それ以上に願うのは、親も含めて誰にも依存しない生き方をしてほしいという意味である。誰にも依存せず、しっかりと自分の足で大地に立ち、主体性を持って自主独立の道を歩むことを、親は心から願っている。そのために、親たちは我が子が甘えようとしても甘えさせず、依存をさせないようにと自分でやりなさいと突き放すことが多い。依存性を持たないようにという親心である。

 確かに、子どもに依存性を持たせないようにすることは必要である。小さい頃から依存させないような子育てをしたいと思うのは、親にしてみたら当然であろう。しかし、あまりにも小さい頃から、自立させようとして我が子に厳しく接するのは、逆効果になってしまうことを知らない親が多い。特に、三歳になる頃までは、依存させて構わないのである。三子の魂百までもという諺があるが、三歳になるまでが子育てでは大切なのは言うまでもない。三歳まではどんなに甘えさせても、過保護であっても良いのである。

 逆に、三歳の頃までに過保護にしなくて、甘えさせることなく、依存させずに育てると、自立できなくなってしまうのである。そんな馬鹿なことがあるかと思うかもしれないが、幼子とはそういうものなのである。乳幼児期の子どもには、まずはたっぷりと母性愛を注ぐことが肝心なのである。無条件の愛である母性愛を注ぎ続けて、『あるがままにまるごと愛する』ことが必要だ。あまりにも小さい頃(3歳未満)に、時に親から厳しくされて、ある時は突き放されて、自分は嫌われているんじゃないかと不安感を持つと、自立できなくなる。

 子どもは、『親にどんなに甘えてもいいんだ、自分はどんなことがあっても守られているんだ、いかなることがあっても自分は見離されることがないんだ』という安心感を持つことが必要なのである。その為には、いかなる時もどんなことが起きようとも、親は我が子を見捨てることはないのだと、常に言い続けることが必要だし、安心させる行動が求められるのだ。だからこそ、乳幼児期まではどんなに過保護でもいいし、甘えさせていいのである。中途半端な過保護や依存は逆効果になる。一貫して、依存させていいのだ。

 子どもを十分に甘えさせ、依存させ続けて3歳に到達すると、子どもは不安感や恐怖感がなくなる。子どもに絶対的な自己肯定感が確立されるのである。そうすると、ひとりでに自立心が芽生える。このように絶対的な自己肯定感が確立されれば、どんなに厳しく辛い境遇も受け入れ乗り越えられるし、困難を極めるチャレンジにも挑める。あるがままにまるごと愛され続けてから、条件付きの愛である父性愛(しつけ)をされるなら、自立できる。自我を乗り越えて自己を統合できる。真の自立が実現するだけでなく、自己を確立できるのだ。

 三歳頃までに、あるがままにまるごと愛され続けると、オキシトシン・ホルモンが十分に分泌される。オキシトシン・ホルモンは、幸福ホルモンとか愛情ホルモン、または安心ホルモンとも呼ばれる、生きる上で大切なホルモンである。母性愛が注がれず、このホルモンが不足すると、いつも不安で恐怖感を持ち続けるし、常に愛情に飢えているので、強烈な生きづらさを抱えることになる。HSP(ハイリーセンシティブパーソン)と呼ばれる、神経学的過敏と心理社会学的過敏になってしまう。そして、深刻な愛着障害を抱えることになる。

 愛着障害を抱えると、精神的な自立が出来ないばかりか、不安や恐怖感がいつも心を支配する。睡眠障害を抱えることも多いし、メンタル疾患にもなりやすい。深刻な摂食障害を起こしたり、パニック障害で苦しんだり、PTSDで長い期間に渡り悩んだりする。それも、三歳頃までに自立させたいと、甘えさせずに依存させずに、過介入や過干渉を繰り返したせいである。幼児期にたっぷりと依存させることは必要なのである。小さい頃には我が子を過保護と思われるほど愛し続けることが必要だ。そうすれば、成長すると共にしっかりと自立できるし、自己組織化もするし、幸福な人生を送れるのである。

15歳少女は何故刺傷事件を起こしたのか

 東京渋谷で15歳少女が見知らぬ親子を刃物で刺したという事件には、驚いた方も多かったと思われる。逮捕者が15歳というまだ幼い中学生であり、しかも少女だったという点で、今までにない衝撃を世間に与えたのではないだろうか。ましてや、彼女が本当は自分のお母さんと弟を殺したかったものの、その勇気がなくて、トレーニングとして他人を刺してしまったという供述をしているのは驚きである。どこの中学校かというのは、本人が特定されてしまう危険から伏せられているが、不登校だったとも伝えられている。

 このような少年事件が起きると、マスコミは内情を知りたがるし、その本当の動機を暴きたくなる。不思議なもので、マスコミの記者とは言え、自分とその子どもとは違った人物だと思いたいという気持ちなのか、普通の人とはいかに違った特別な子どもだったと決めつける傾向にある。だから、インタビューしていてもいかに変わった人物だったかということを印象付けたい質問をしたがる。答える側でも、同じように普通の子どもとは違っていたとのレッテルを張りたがるのである。それ故に、実像とはまったく違う人格の人間に創り上げられるのだ。

 マスコミだけが悪い訳ではないが、凶悪事件を起こす少年少女は特別な存在だったとすることで、政府関係者も、そして学校関係者も自分たちに責任はなかったのだと思いたがるのかも知れない。勿論、それは不登校やひきこもりの子どもたちにも、同じような分析をしたがる傾向にある。しかし、同じ人間であるし、その本質はそんなに変わらないのである。いろんな凶悪事件の犯人をプロファイリングすると、一般人とそんなに違っていなくて、ただ育てられ方や育児環境が少し違っていただけだということである。

 つまり、凶悪事件を起こすような犯人と普通の人間とは、共通する部分は多くあるが、少しだけ違っているだけなのだということを認識すべきであろう。だからこそ、育てられ方や親の関わり方が大切であり、ほんのちょっとした愛情の掛け違いによって、子どもの人生は大きく変わってしまうのである。おそらく、今回の渋谷親子刺傷事件を起こした15歳の女の子も、ごく普通のおとなしい女子生徒であり、こんなだいそれた大事件を起こすと誰が想像したであろう。家庭教育や学校教育が根本的に間違っているから、今回の事件は起きたのだ。

 まだまだ15歳少女のプロフィールは明らかになっていないが、警察関係者がマスコミに少しずつ供述内容を伝え始めているので、その証言に基づいて考察してみよう。まずは、少女が母親と弟を殺したかったと言っている点から考えると、家族を憎んでいたということが解る。また、刺してしまった人が母親に似ていたという供述からも、余程の恨みが母親に対してあったのだろう。弟も殺したかったというのは、母親は弟だけを可愛がったのかもしれないし、弟と仲が悪かったのかもしれない。家族関係が最悪だったと思われる。

 また、凶悪犯罪を起こせば死刑になるだろうと言っているらしく、死刑にしてほしかったのでこの事件を起こしたとも供述しているとのこと。これらの供述から言えるのは、親との愛着に相当な問題があったというのは間違いない。親との愛着がしっかりと形成されていれば、親が安全基地となって子どもは安心して親に頼れる。いかなる時と場合でも、親が守ってくれるという信頼と安心があれば、けっして不登校にはならない。何故、殺したいくらいに親を憎んでいたかというと、親がまるごとあるがままに愛してくれなかったからだ。

 愛と憎しみというのは、裏表の関係にある。愛してほしいのに、愛されないと、その愛は憎しみに変化する。愛されたいのに愛されていないという思いが強ければ強いほど、憎しみは強大になる。叶えられない愛をずっと求め続けていたのであろう。その思いを親が気付いてくれなかったのではなかろうか。もしかすると、親は15歳の娘に、たくさん愛情を注いでいたのかもしれない。しかし、その愛は母性愛のような無条件の愛ではなく、過干渉や過介入の父性愛のようなものだったかもしれない。その愛の掛け違いによって、深刻な愛着障害を起こしてしまったのであろう。やったことは許せないが、育った環境が実に気の毒だったと思われる。

※15歳の少女がしたことは許せませんし、その罪を粛々と償わなければなりませんが、この女子生徒にすべての責任がある訳ではないと思われます。しかし、その親にすべての責任がある訳でもないのです。彼女の親を責めないでほしいのです。何故かというと、彼女の親も、その親から過干渉と過介入の育児をされて育ったから、同じように育ててしまったからです。そして、その親も同じように育てられたと推測されます。愛着障害は、世代間連鎖するのです。だからこそ、どこかの世代でその間違いに気付いて、愛着障害の連鎖を断ち切ってほしいのです。

LGBTが増えた原因

 LGBTの正しい認識がされてきて、偏見がなくなりつつあり、社会に適応しやすくなってきたのは喜ばしいことである。とは言いながら、LGBTが増えることで社会の生産性が低下してしまうと、本音では受け入れることが出来ない人たちが存在する。特に、政権与党の中でも特に保守的なグループでは、LGBTを社会が受け入れてしまうと、社会秩序が壊れてしまうと本気で思っているようだ。だから、時々本音での発言を思わずしてしまうのかもしれない。LGBTは生産性がないなどと言ってしまうのであろう。

 LGBTの方々の生きづらさや苦しみを思うと、そんな人権を否定するような発言をするべきではない。苦しんでいる人たちの気持ちに共感できないというのは、政治家として失格であろう。社会的弱者や障がい者が生きやすい社会にするのが政治家の務めである筈だ。このような保守的な政治家は、男女の性差に関するジェンダーにも、こだわるケースが多い。自分たちの主張に迎合する科学者を招いて研修会を開催して、LGBTの原因を追究して、イレギュラーとしての存在だと主張したがる。批判的な分析は避けてほしいものだ。

 けっしてLGBTを否定したり批判したりするつもりはないが、LGBTが起きる原因についての考察をすることは必要だと思う。原因を科学的に分析した論文を発表すると、盲目的にバッシングする人たちがいる。確かに、LGBTをあまりにも病的なもの、社会の歪みだとして扱うのは良くないと思う。あくまでも科学的に原因を洞察することは、彼らが自分のことを正しく理解する為にも有効であろう。ただし、彼らが不幸だという前提とした科学的分析は避けねばならない。彼らが抱く生きづらさを少しでも和らげる手助けにしたい。

 LGBTになってしまう原因は、遺伝子の異常によるものだというのが定説である。確かに、DNAが何らかの影響を与えてしまい、LGBTになってしまうことは考えられる。だとしても、すべての原因が遺伝子異常だというのは言い過ぎのような気がする。ただひとつ言えるのは、LGBTの方々は強烈な生きづらさを抱えて生きてきたということだ。勿論、社会が理解してくれないし受け入れてくれないから当然であるが、それだけが生きづらさの原因ではなさそうだ。小さい頃から自分の人生を生きてないという実感があったと思われる。

 そして、LGBTの方たちの多くは自己肯定感が低いという特徴を有していると考えられる。さらに、何をするにしても不安や恐怖感を覚えることが多くて、神経学的過敏の症状を持っているような気がする。特定の音や匂いなどに拒否反応を起こしやすい。さらには、心理社会的過敏も加わり、メンタルを病んでしまい不登校やひきこもりにもなりやすい。そうなってしまうのは、根底に愛着障害を抱えているからではないかとみられる。虐待やネグレクトを受けてそうなっただけでなく、過介入や過干渉を受けて愛着障害になった例もあろう。

 LGBTの方たちのすべてに、愛着障害が根底にあるとは言えないが、乳幼児期の子育てに問題があったのではないかと推測している医療の専門家が多い。LGBTの方たちとその親との関係性が、あまり良くないケースが多いような気がする。親が我が子をあるがままに、まるごと愛するような態度で接して育てていれば、子どもの自己肯定感が育つ筈である。自己肯定感があまり育っていないというのは、やはり愛着に問題があると考えられる。日本の子育てにおいて、良好な愛着が形成されていない為、LGBTが増えている気がする。

 日本の家庭教育において、愛着障害を起こしてしまう子育てがこれからも続くとすれば、LGBTが益々増えてくるに違いない。ましてや、愛着障害を強化してしまう日本の学校教育であるから、LGBTは増え続けるであろうし、不登校やひきこもりも益々増え続けることだろう。日本の家庭教育にしても学校教育にしても、自己否定感を高めてしまう教育をしている。その誤った教育システムが愛着障害を生み出し強化させている。そのことによりLGBTを増やしているのであるから、日本の教育を正しいあり方に正さないといけない。

代理ミュンヒハウゼン症候群の原因

 代理ミュンヒハウゼン症候群という病気が、社会的にも認知されるようになってきた。小さな子どもが犠牲になってしまうことも多いので、センセーショナルに報道されることもあり、広く知られるようになった。とは言いながら、まだ知らない人も多く、子どもを診断した医師が代理ミュンヒハウゼン症候群だと診断できずに、尊い命が失われてしまったケースもある。担任教師、または行政や福祉の支援者が早く気付いてくれたなら、助かった子どもがいたのにという例もある。この病気に対して、適切な対応と支援が求められている。

 代理ミュンヒハウゼン症候群について、簡単に紹介しておきたい。ミュンヒハウゼン症候群という精神疾患があり、関心や同情を惹くために自分で病気を装ったり、ケガを負ったりする疾病である。酷くなると、身体に悪いものを敢えて摂取したり毒を飲んだりする。ミュンヒハウゼン症候群は自分を病気にしたりわざとケガを負ったりするが、代理ミュンヒハウゼン症候群は、自分以外の誰かを犠牲にする。大抵のケースは、母親が我が子を病気にさせたりケガを負わせたりする。重症化させ過ぎてしまい、我が子の命を奪う例もみられる。

 ミュンヒハウゼン症候群にしても、代理ミュンヒハウゼン症候群であっても、周りの人々の関心や同情を得たいというのは、心理学的に考察すると、自己肯定感が非常に低いということが考えられる。そして、愛情不足も深刻なレベルだと言える。満たされない思いを抱えているのであろう。そして、強烈な生きづらさを抱えているのは間違いない。孤独感が強くて、見離されることに対する不安感、見捨てられるのではという恐怖が強いのではなかろうか。だから常に周りから注目されたいし、愛されたいと思うのであろう。

 代理ミュンヒハウゼン症候群を抱えている人は、強い不安感や恐怖感を抱えていることが多い。何故かというと、乳幼児期に無条件の愛である母性愛を充分に与えられなかったからだと思われる。したがって、代理ミュンヒハウゼン症候群の人は、『愛着障害』だと言える。そのうち特に重症の方は、小さい頃に親から虐待やネグレクトを受けたり見捨てられたりした体験をしていることが多い。故に、強い愛着障害を抱えてしまったのであろう。愛着障害だからこそ、愛に飢えていて孤独感にさいなまれているのである。

 代理ミュンヒハウゼン症候群は、治療が困難だと言われている。投薬治療、カウンセリングやセラピーを受けても、症状が改善しにくい。児童福祉施設職員が、代理ミュンヒハウゼン症候群の保護者に対して、様々な支援や指導をしたとしても改善する見込みは殆どない。何故なら、深刻な愛着障害を抱えている人は、その愛着障害が癒えることが期待できないからである。それだけ深刻な愛着障害は、治りにくいものなのである。愛着障害が根底にあるから、代理ミュンヒハウゼン症候群が治ることが期待できないのである。

 とは言いながら、難治性の代理ミュンヒハウゼン症候群が絶対に治らないのかと言うと、そうではない。治りにくいのは、根底に愛着障害があるということを当人と治療者が共通の認識を持っていないからである。疾病を抱えた当人が、病識とその原因が愛着障害にあるんだということを深く認識しなければならない。そして、この病気に陥ってしまった責任は、自分にはまったくないのだということを認識させることから始まる。当人に対して代理ミュンヒハウゼン症候群であると告知しても、なかなか受け入れてもらえないかもしれない。

 治療者と要支援者の強い信頼関係が必要だと思われる。そして、根気強く要支援者に対して、適切な愛着アプローチを実施することが肝要である。乳幼児期に受けた不適切な育てられ方により負ってしまった愛着障害は、粘り強く愛情を込めて愛着アプローチをしなければ、寛解には向かわない。要支援者は見離されるのではないかという疑心暗鬼から、これでもかという『試し行動』を何度も試みる。それでも支援者はけっして揺るがない愛を注がなければならない。そうすれば、時間は掛かるけれど愛着障害は癒され、代理ミュンヒハウゼン症候群の症状も和らぐことだろう。

何故女性だけが韓流ドラマにはまるのか

 女性は韓流ドラマが大好きである。男性でも韓流ドラマが好きだという人がいるが、ごくまれである。韓流ドラマにはまっているという男性はあまりいないが、女性は韓流ドラマにはまりやすい。一度韓流ドラマにはまってしまうと、ずっとはまり続けることが多い。次から次へと韓流ドラマをエアチェックしまくって、連続ドラマを見続けてしまう。どうして、韓流ドラマにはまるのは女性だけなのだろうか。そこには、何かの法則らしきものがあるのだろうか。還流ドラマ好きが高じて、韓国に旅行する女性も多いと聞く。

 日本の連続ドラマは、殆どが10話で完了する。大河ドラマや朝ドラ以外のドラマは、10話完結のドラマであるが、韓国で作られるドラマは30話~50話完結という長期間に渡る連続ドラマが実に多い。つまり1年間、または半年間に渡り放映されるのである。それも15分間や30分ではなくて、一話が1時間や1時間半という長さの連続ドラマなのである。そんな長いドラマを飽きもせず見られるのは、やはり女性特有の集中力のなせるわざなのかもしれない。連続ドラマに集中できないのは、男性特有の飽きっぽさかもしれない。

 それにしても、女性だけがそんな韓流ドラマにはまるのは、他にも理由があるのではないかと思われる。それは、韓流ドラマで描かれるのは恋愛ストーリーだからということも挙げられる。歴史ものにしても社会派ドラマにしても、その伏線として恋愛が必ずと言っていいほど描かれる。どちらかというと、恋愛が主でその脇役として社会的テーマや史実が盛り込まれているといっても過言ではない。あまりにも恋愛の部分が多いので、日本の男性は飽きやすいが、日本の女性にとってはそこが魅力なのではないかと推測される。

 何故、韓流ドラマに女性だけがはまってしまうのかを、心理学的にもっと詳しく考察してみたい。韓流ドラマを男性が見ていて詰まらないと思うのか、または飽きてしまうのかを先ずは明らかにするとしよう。韓流ドラマは、何となく結末を予想できるケースが多い。男性の脳は、どちらかというと合理性を追求しやすいし、論理的な考察をしがちなのである。韓流ドラマは実際にはあり得ないような設定が多いし、強引な展開をさせてしまうことが多い。つまり、男性は現実とあまりにもかけ離れた筋書きに嘘っぽさを感じて、感情移入できない。

 一方、女性の脳は、どちらかというと感情的な部分を大切にするし、ロマンチックな展開を求める傾向にある。言い換えると、韓流ドラマに自分では果たすことのできない夢を託しているのではなかろうか。自分の現実があまりにも夢とかけ離れているので、韓流ドラマの世界においてだけでも、理想を実現した気分を味わいたいのではないかと思うのである。韓流ドラマにはまる女性は、リアルの世界において果たせないロマンを韓流ドラマの世界で果たした気分になっているような気がする。つまり、女性の共感力が高いので、韓流ドラマに感情移入が可能なのだ。

 韓国の事情はよく知らないが、どのドラマを観るかという選択肢は女性が握っているのではあるまいか。そして、韓流ドラマは女性の視聴者をかなり意識して作成されているように思える。台詞やストーリー展開が、あまりにも女性が好みそうな作りになっている。そして、日本でも女性向けに作られた韓流ドラマなのだから、女性が大好きになるのであろう。男性にしてみると、強引でご都合主義で展開されるストーリーにリアリティを感じないものだから、韓流ドラマが好きになれないのだと思われる。

 日本人の高齢男性は、時代劇をこよなく愛する。水戸黄門や大岡越前のような勧善懲悪ものが大好きだ。心理学的に言うと、結末が分かっていて悪がやっつけられる展開が、安心して観ていられるのだろう。日本人の若い男性は、このような結末が予想できる時代劇を好まない。心理学的に考察すると、高齢男性は不安から保守的になっているし、変化を好まないのである。韓流ドラマにも、保守的で大胆な変化をしない傾向がある。日本の若い女性も中高年の女性も、自分でも気付かない強い不安感を持っていて、観ていて安心できる韓流ドラマにはまるのかもしれない。『不安の時代』が韓流ドラマ人気を支えているとも言える。

現代人が睡眠障害を起こす本当の訳

 何らかの仕事に就いている人に、睡眠に何かトラブルを抱えているかというアンケートを実施したところ、80%以上の方が「はい」という回答をしたとの驚くような結果が出たという。一番多い睡眠トラブルは、途中覚醒だとのこと。一度目覚めると寝付けない人が多いらしい。または、なかなか寝付けないとか眠りが浅くて、翌日に熟睡感を持って目覚めることができないという。職場で、またはプライベートでの人間関係のストレスが多いし、仕事のプレッシャーがのしかかっている影響があるようだ。

 現代人の睡眠の質が低下しているというのは間違いがないようである。現代の仕事は、パソコンやスマホなどのIT機器なしでは完遂できない。IT機器を自由自在に使いこなすことが出来ればいいが、どちらかというとIT機器に振り回されているという実感を持つ人が多いだろう。パソコン・スマホ・TVの画面にはブルーLID照明が使用されているので、視神経が異常に刺激されて、脳が興奮状態に陥り睡眠障害が起きているとも言われている。または、腸内環境を悪化させる食習慣や生活習慣の劣化が睡眠障害を誘発しているらしい。

 それにしても、日本のビジネスパーソンの8割以上の人が睡眠障害を抱えているというのは、考えられない事態である。いくらIT機器による影響やストレス社会だとしても、さらには食習慣を含めた成果習慣に問題を抱えていたとしても、こんなにも睡眠障害を起こしている人が多いというのは異常であろう。そう言えば、睡眠改善のグッズ(マット・枕等)やサプリメントの売り上げは年々増加の一途だそうである。現代日本は不眠社会と言っても過言ではないみたいである。こんなにも睡眠障害に喘ぐ国家も珍しいであろう。

 不眠は、メンタルの不調に発展しやすい。うつ病などの気分障害は、不眠から始まることが多いのである。うつ病を抱えている人の殆どが深刻な睡眠障害を起こしていると言っても過言ではない。睡眠障害は、昼間の活動を著しく阻害するので、労働生産率の低下につながる。昼間の眠気によって、労働災害や交通事故を起こしかねない。強烈な眠気があると、集中力を発揮できないし、想像力や発想力・企画力にも影響するに違いない。仕事のうえで、ミスや忘却を繰り返す人は、もしかすると睡眠障害を抱えているせいかもしれない。

 医師やセラピスト・カウンセラーの殆どが、睡眠障害はストレスが主な原因だと主張することだろう。食習慣・生活習慣の劣化や運動不足、日光浴不足を指摘する専門家も少なくない。確かに、それらが睡眠障害の原因だと言えるだろう。しかし、本当に睡眠障害の原因はこれだけなのであろうか。もっと違う根本的な睡眠障害の原因が他にないだろうか。睡眠障害を起こしている人に共通しているのは、大きな不安や恐怖感をいつも抱えているという点である。それも、得体の知れない不安を抱えている人が多いのである。得体の知れない不安と言うのは、解決できないから始末に悪い。

 現代日本は『不安の時代』だと言われて久しい。何故に、こんなにも得体の知れない不安を抱えている人が多いのかというと、絶対的な自己肯定感が育っていないからである。自己否定感が強くて、いつも自分自身を責めてしまう人が多い。自己否定感が強いから、依存性や回避性のパーソナリティを抱えているし、PTSDやパニック障害を起こしやすい。オキシトシンという安心物質である、脳内ホルモンが極端に少ないことが解っている。オキシトシンは、愛情ホルモンとも呼ばれていて、このホルモンが欠落している人は、愛に飢えていることが多い。

 オキシトシンという脳内ホルモンが極端に少なくて、自己否定感が強くて不安や恐怖感を常時抱えている人というのは、HSP(ハイリィセンシティブパーソン)の特徴である。神経学的過敏と心理社会学的過敏を抱えている人である。このHSPは、『愛着障害』が根底にある為に起きやすい。あくまでも仮説ではあるが、睡眠障害を起こす人は『愛着障害』を抱えているのではなかろうか。そして、この愛着障害によって背側迷走神経が遮断(シャットダウン)を起こしてしまい、難治性の睡眠障害を起こしていると思われる。だから、投薬とか、セラピーやカウンセリングをいくらやっても治らないのだ。愛着障害を癒してあげないと、睡眠障害は治らないであろう。

偽善者だと言われても

 ボランティア活動や市民活動をしていると、どうせ売名行為だろうとか、自己満足でしかないとか、はたまた偽善者じゃないのと言われることが少なくない。または、自分でも自己満足や偽善行為ではないかと悩むこともあるに違いない。ボランティア活動に対して、そんなことをするのは、偽善者だと切り捨てられてしまうからである。ボランティア活動や社会貢献活動に真面目に取り組んでいる人ほど、自分の活動は偽善ではないかという考えが頭から離れないのである。ボランティア活動をしている人は偽善者なのであろうか。

 ボランティア活動というのは、人の為世の為に我が身を犠牲にしても働くことだと思われている。この人の為という漢字は、合わせると『偽』(いつわり)となる。本当の心は自己中心的で汚いのにも関わらず、自分と他人を偽り、善人を演じているだけだと主張する人は少なくない。特に、ボランティア活動なんて経験してなく、社会貢献活動に批判的な人ほど、偽善者だと思いたがる。だから社会貢献活動をしない自分は、自分に正直だけなのだと思いたがる。そして、自分はそんな偽善者にはなりたくないのだと主張する。

 ボランティア活動や社会貢献活動に対して、そんなのは偽善だろうと批判している人は、社会貢献活動を経験していないのである。実際に体験していないのにも関わらず、偽善者として批判するのはどうかと思う。自分でも社会貢献活動やボランティア活動をしてみてほしいものである。それも1回や2回ではなく、少なくても数年に渡ってボランティア活動してみてはどうか。そうすれば、偽善かどうかが判明するに違いない。ボランティア活動に一切かかわりもせず、外側から眺めていただけでは、偽善かどうかの判別なんてつく筈がない。

 厄介なのは、ボランティア活動に懸命に取り組んでいる人が、自分の活動が所詮は偽善なのではないか、自己満足に過ぎないのではないかと落ち込んでしまい、ボランティア活動を止めてしまう人のことである。実は、若い頃からボランティア活動に勤しんできた自分も、一度そんな気持ちになり、ボランティア活動が出来なくなった時がある。偽善者である自分が恥ずかしくて、そして自分自身が許せなくて、ボランティア活動に取り組めなくなった。そんな経験をするボランティア活動家が少なくないのである。

 自分が偽善者ではないかと思い悩んでいる人には、こんな話をしてあげることにしている。善と悪はどちらが良いか?と問うと、もちろん善だと答える。偽善と偽悪は、どちらが良いかと質問すると、迷う人がいるかもしれない。それでは偽善と悪は、どちらが良いかと尋ねると悪よりは偽善のほうがましだと答えることだろう。それが答である。気持ちは偽善であろうとなかろうと、善を実践することに違いはない。人の為世の為に何かしら貢献しているということは否定できない。そして、偽善を何度も積み重ねれば、いつかは限りなく善に近づくのである。

 偽善を数年に渡り、または数十年も続けて行けば、これは既に偽善ではなくなるに違いない。行動をせずに批判するよりも、例え偽善の心を持っていても、善の行動をするほうが遥に尊いと言える。『善』というのはそういうものではなかろうか。最初から見返りを一切求めないで、純粋な心でボランティア活動をするなんて出来そうもない。人間は、やはり認めてもらいたいし誉めてもらいたいのである。そんな不純な思いが少しでもあれば『偽善者』と軽蔑するというのは、あまりにも冷たい仕打ちじゃないかと思う。

 かの弘法大師空海は、中国に渡って『理趣経』というお経を初めて日本に持ち帰った。この理趣経では、本来仏教では否定される愛欲さえも肯定している。たとえ愛欲がモチベーションとなる偽善的な行為であっても、人々の幸福実現の為に貢献しようとするエネルギーになるならば、愛欲もまた否定されないという教えである。例えば魅力的な異性からボランティアに誘われて、親しくなれるかと思い込んでボランティアに取り組んだとする。数年間ボランティアを経験したら、ボランティアが好きになり、愛欲をすっかり忘れて、ボランティアに没頭するようになった。これも偽善から善に変わったケースと言える。偽善でも良いだろう。偽善をおおいに楽しもうではないか。

女性管理者が多い企業は収益率が高い

 女性管理者が企業全体でどの程度の割合を占めているのかを、女性活躍推進法は公表することを求めている。ただし、それは社員数301名以上の大企業だけであり、中小企業は義務化されていない。ましてや、この公表義務に違反しても罰則規定はないので、どれだけの企業が公表するか疑問視されている。なにしろ、中小企業よりも大企業のほうが女性管理職の占める割合が低いのである。元々、女性管理職を登用することに消極的な大企業が、公表に積極的になるかどうかは不透明である。

 日本の企業は、女性の企業進出に対して、極めて消極的である。それは、企業の男性側もそうだが、女性側でも女性進出に積極的でないという事情もあるみたいである。男性としてみれば、女性管理職が増えてくれば、自分たちの昇進も制限されてしまうと思うのは当然だろう。女性管理職に仕えることを、生理的に嫌だと感じる男性職員もいる筈だ。または、変なプライドで、女性よりも男性のほうが優秀だと勘違いしている人も少なくない。特に、日本の大企業の役員や管理職は、女性社員は使えないと思い込んでいる節がある。

 つまり、男性は女性よりも沢山働けるし優秀であるという思い込みである、ジェンダーバイアスがあるのだ。そして、女性自身にもそのジェンダーバイアスがかかっていることが多い。だから、女性自身も男性よりも劣っていると勘違いしていて、最初から管理職を望まない職員が多いのである。このジェンダーバイアスは、完全な間違いである。女性よりも男性のほうがリーダーとして相応しいなんて、単なる思い込みである。事実は男女同等であるし、ある意味男性よりも女性のほうがリーダーとして適任であることが少なくない。

 日本の企業では、女性に対する偏見が多い。しかし、西欧の企業や職域においては女性管理職を積極的に登用しているし、そのことにより生産効率を高めているという実態がある。だからこそ、西欧の企業では政府から指示・指導されずとも、女性管理職の割合を積極的に公表している。そういう企業のほうが、株価が高くなり企業価値が高められているのである。つまり、女性管理職が多い企業ほど生産効率が高くて、収益率も高いということが広く認識されているのである。そう聞いて、日本では驚く人が多いと思うが、事実なのである。

 何故、女性管理職が多いほど生産効率と収益率が高くなるかというと、女性が働きやすい職場というのは、男性にとっても働きやすいからである。仕事が定時に終わるように割り当てられているし、休日残業をしなくてもよいように業務分担がされている。女性が子育てしながらも働ける職場環境になっているというのは、男性がイクメンをできるということでもある。不思議なことだが、残業をしないようにと企業側で指示徹底すれば、残業をしなくても定時で帰れるのである。それによって仕事が滞ることは絶対にない。

 定時で業務を完了させると決めれば、残業しなくても可能になる。もし、定時に終わらなくても翌日に持ち越しできるように計画すればよい。顧客から無理な納品期日を指定されたら、事情を丁寧に説明して了解を得ればよい。日本の商慣習では、下請けや納品業者に無理を言って納品期日を厳しくすることが常態化している。しかし、西欧においては無理な納品期日を守らせるような横暴をする企業は、誰からも相手にされなくなり、衰退してしまう。日本でも、そのような横暴をすべての企業が許さないような商慣習にすべきであり、公取が積極的に動いて止めさせるべきである。法的な規制をかけることが望まれる。

 女性管理職が多くなると、生産効率と収益率が高くなる理由が他にもある。それは多様性である。多様性が認められる企業や職場では、社員の自己成長がとてつもなく高まる。男性だけが活躍する職場では、考え方や発想の『違い』を実感できないし、思考の柔軟性が発揮できない。女性管理職の発想力や柔軟思考が女性社員だけでなく男性社員をも成長させるし進化を遂げさせる。つまり、社員の自己組織化が起きるし、大胆なイノベーションが実現するのである。イノベーションは、多様性と社員の自己組織化が発揮されないと起きないのである。女性管理職が増えると、間違いなくイノベーションが起きて、企業の収益率が高くなるのである。

抜け出すのが難しいオーバードーズ

 オーバードーズで昏睡に陥った女性を放置して死に至らしめたとして、医師たち男性3人が逮捕されたというショックなニュースが報道された。市販薬の咳止めを多量に飲むと、ハイな気分を味わえると、SNSで知り合って共同で使用していたらしい。市販薬に限らず、処方された睡眠剤や咳止め薬をオーバードーズしてしまうケースも少なくない。薬物依存の一種と言える、このような危険な行為は身体を徐々に蝕んでしまうだけでなく、精神をも破滅させてしまう。また、オーバードーズによりショック死してしまうケースも多い。

 そんな危険なオーバードーズを何故止められないのだろうか。それは、薬物にすっかり依存しているからである。薬物の過剰使用をしている時に感じる快感やハイな気分を一度でも味わってしまうと、抜け出せなくなってしまうのであろう。薬物の過剰飲用というのは、昔から存在していたが、このオーバードーズという言い方が軽く感じてしまい、ついつい習慣化してしまうのかもしれない。命の危険が伴うオーバードーズに陥ってしまう原因、そしてその状態から抜け出そうとしても抜け出せないのはどうしてなのであろうか。

 オーバードーズは薬物依存であると前述したが、まさしく深刻な依存症に陥っているのは間違いない。快楽や麻痺をもたらす脳内ホルモン、または脳内ホルモンと同じような薬理効果を起こす物質が放出されて、一時的な現実逃避ができるのであろう。それだけ、強い生きづらさや生き苦しさに追い込まれているのではなかろうか。薬物依存を起こしてしまう青少年は、押しなべて強烈な生きづらさを抱えている。その生きづらさは、不安感や恐怖感に起因しているし、強烈な自己否定感と強いHSPを持っていることが多い。

 自己否定感が強いというのは、子育ての間違いによる悪影響と言っても過言ではない。学校教育や社員教育の影響が強いと思っている人が多いかもしれないが、三つ子の魂百までもと言われているように、三歳の頃までの子育てによって自己肯定感を持つかどうかが決まる。乳幼児期まで、まるごとあるがままに愛されて育てられると、絶対的な自己肯定感が作られる。また、無条件の愛である母性愛をたっぷりと注がれることで、オキシトシンホルモンが分泌されるので、愛着障害にはならないし、HSPにもならない。

 親から支配され制御され育てられ、愛着障害を根底に抱えるとHSPになり、不安や恐怖感をいつも感じることになる。それ故に強烈な生きづらさを抱えてしまうし、何かに依存しないと生きていけなくなる。オキシトシンホルモンが不足している状況から、愛情不足と不安をいつも感じることになる。それ故に、薬物依存を起こしやすくなるのである。快楽や癒しを求めるあまりに、それを手軽に感じさせてくれる薬物に依存してしまい、もっと快楽や安心、またはやすらぎを求めて薬物のオーバードーズを起こしてしまうに違いない。

 薬物のオーバードーズを医学的に治療することは、非常に難しい。入院させて医学的に管理した状況に置けば、オーバードーズを抑えることは可能だ。しかし、退院すると再びオーバードーズを起こすことが多い。オーバードーズによって入退院を何度も繰り返すことは、想像以上に多い。それだけオーバードーズに対して医療は無力であるとも言える。それでは、薬物依存によるオーバードーズは、絶対に治らないのかというとそうではない。適切な愛着アプローチとオープンダイアローグ療法によって劇的に治るケースが少なくない。

 しかし、残念ながらこの愛着アプローチとオープンダイアローグ療法でケアしてくれる医療機関は殆ど存在しない。それだけ難しい療法であるとも言えよう。適切な愛着アプローチによって愛着障害を癒せるカウンセラーやセラピストは、あまり存在しない。ましてや、オープンダイアローグ療法ができる医療機関は非常に少ない。それだけ、難しいし時間がかかる。ましてや、オーバードーズを治療してくれる医療機関が少ないのである。精神科の医療機関では、オーバードーズの治療に対して消極的になることが多いからである。オーバードーズの真の原因を知ろうともしないのだから、当然であろう。