医療は総合・統合の時代へ

診断及び治療における医療技術の進歩は著しいものがある。それは、近代医療がもたらしたものと言って差し支えないであろう。最先端の診断用機器の開発や診断技術の進化は、驚くほどの正確さで確定診断が出来るようになった。医療技術の進歩は目を見張るものがある。それはある意味では、専門性が増したことによる恩恵であろう。内科系・外科系というようなあいまいな診療科目ではなく、こと細かく細分化されて、臓器や組織、疾病ごとの専門医が養成されてきた。つまりスペシャリストが生まれ、診断や治療の成果をあげてきたのである。

それぞれ医療界のスペシャリストとして、優秀な頭脳と技能、そして経験を身に付けたドクターは、どんな患者さんの診断・治療も可能になったかというと、実はそうではないことを医療界は認識することになったのである。専門医がそれぞれの分野において診断できない場合は、違う分野の医療スペシャリストと連携して確定診断を行うことになる。しかし残念なことに、専門医どうしの連携だけでは、確定診断が難しい症例が極端に増加してしまったらしいのである。それぞれの専門医が診断しても、なんの疾病なのか、そしてその原因が一向に解らないという症例が激増しているというのである。

その為に最近の医療界では、総合診療科が出来たり統合医療という分野が発生したりして、診断と治療を行うようになったのである。言わば医療のゼネラリストである。優秀な専門医がどうしても解明できなかった疾病名や原因が、総合診療科の医師たちが明らかに出来たのである。または、専門医とは別に統合医と呼ばれるドクターが、診断と治療に多大な成果を上げているのである。勿論、専門医たちも治療においては大きな成果を上げているのは間違いない。しかし、確定診断と疾病原因が解明出来なければ、治療計画も組めないし、再発の恐怖から逃れられない。

どうして医療界において、スペシャリストだけでなくゼネラリストが必要になったかというと、それは人間の身体、つまり人体が『システム』だと気付いてきたからである。人間そのものは、システムである。60兆個もある細胞がそれぞれ自己組織性を持っていることが判明した。つまり、細胞ひとつひとつがあたかも意思を持っているかのように、人間全体の最適化を目指して活動しているのである。そして、細胞たちはネットワークを組んでいて、それぞれが協力しあいながら、しかも自己犠牲を顧みず全体(人体)に貢献しているのである。

これは、細胞だけでなく人体の各臓器や各組織が同じようにネットワーク(関係性)を持っていて、全体最適の為に協力し合っていることが、最先端の医学で判明したのである。つまり、人体は脳が各臓器や各細胞に指令を送っているのではなく、それぞれが主体性と自発性を持って活動していることが解明されたのである。完全なシステムである人体が、どこかの各細胞や各臓器が誤作動を起こせば、それが人間全体に及び疾病が起きるということである。ということは、人間そのものの生き方が全体最適と関係性を忘れたものになると、細胞や各臓器などが誤作動を起こしやすくなるという意味でもある。

医療が専門性を発揮し、疾病だけを診て人間全体を観ていないというのは、まさに樹を見て森を見ずというようなことと同じであろう。人体そのものだけでなく、その人間の置かれた環境や育ち、特に家族との関係性などを詳しく知らないと、疾病の原因が解明できないと思われる。人間全体を観ないとそのエラーと原因を特定できないということなのである。特に大切なのは、その人間の生き方の根底となる価値観が低劣で劣悪化すると、人間という『システム』に反する言動をしてしまうという点である。人体システムの在り方と生き方そのものが矛盾を起こすと、人体の誤作動が起きると言えないだろうか。

メンタルの障害における原因究明は、非常に難しい。だからこそ、他の身体的疾病と比較して完治や寛解が著しく少ないという結果にも表れているのであろう。脳科学的や神経学的に、神経伝達物質の誤作動や極端な分泌異常がメンタル障害を誘発することは解っていても、その誤作動が起きる真の原因は残念ながら掴めていないのである。人間は『システム』だということを認識することで、原因が解明できるのではないだろうか。全体最適、つまり社会全体に貢献するという目的をしっかり持つための価値観を持てないと、人間の精神は誤作動を起こすのである。しかも、関係性を大切にしなければならないという生き方を実践しないと精神は破綻を起こすのである。幾何学的に精神疾患が増加しているのは、システム思考の哲学である、全体最適と関係性の哲学が希薄化し低劣化したせいだと言える。精神科医のゼネラリストであれば、そのことに気付いてもらえるのに、実に残念なことである。

ネット上で賞賛を求める人

SNSとブログを観察していると、実に面白いことに気付く。いつも批判的な記事や日記を書く傾向がある人と、主に共感と感謝を綴っている人がいる。特定の個人を批判していることで、人気を博しているブログを見つけることがある。特定の人にしか見せないようにしていても、誰かが拡散するかもしれないというリスクを持っている。インターネットの世界いうのは、実に怖い処だ。誰かを批判して書いているつもりではなくても、自分が否定されていると誤解されることもある。自分だけが見る日記とは根本的に違うのである。

一方では、周りの人々のほんわかとした日常を綴りながら、それらの言動を温かく見守りながら共感し、感謝する言葉でしめくくる記事がある。心がほんわかとしてくる。または、いろんな公益活動をしている人の応援する記事を書いて、サポートしてくれるブロガーも存在する。他人の言動に対して共感的、肯定的な態度を取る人は、間違いなく自分に対する肯定感を持っている人であろう。一方、いつも他人を批判的、否定的に観ている人というのは、心の奥底では自己否定観が渦巻いているに違いない。実に可哀想な人である。

否定的、批判的なブログだと言っても、個人批判ではなくてあくまでも公的なものに対する批判であるなら、まだ許せるように思う。現在の様々な社会問題を深く洞察して、政治や行政、または経済の在り方に対して批判し、あるべき本来の姿勢を提起するという内容ならば、問題ないように感じる。あくまでも、人々の幸福実現、または心の豊かさに貢献するような内容ならば、公的批判もありうることだろう。特定の人、つまり自分の家族や会社・組織・団体などの特定できる人物を槍玉にするようなやり方には違和感を持つ。

人を批判したり否定したりする記事は、万人受けする。当然、読者も多い。よく見かけるのだが、自分の読者が何万人もいるのだと自慢たらたらと述べるブロガーがいる。批判的な記事に人気が出ると分かり、益々拍車がかかる。全国で何位だということを確認して一喜一憂している姿を想像するに、実に情けないという思いで満たされる。そんなゴシップ記事のようなものを観て喜んでいる読者も低レベルである。実に情けないし、どちらも可哀想でもある。

とは言いながら、こんな批判的否定的な記事や日記を書いてしまう背景を考えると、こういう人々に対して同情してしまう自分がいる。物事や特定の人に対して批判的否定的に観てしまう人というのは、現在の社会に対して生きづらさを抱えている人であろう。家族に心から敬愛されているとは言えず、会社・組織から信頼や尊敬を受けているようには思えないからである。だからこそ、世の中の多くの人々から評価と尊敬を集めたいのである。リアルの世界で評価されないから、ネットの世界でその反発心から必要以上に頑張ってしまうのであろう。強烈な自己否定観を持つが故の行動であるに違いない。

残念ながら、ネット上でいくら人気が出て多くの賞賛を得ても、真の自己肯定感は得られない。何故なら、自分自身の真の自己成長や自己実現は得られないからである。人間性や精神性における完全な自己変革がなければ、周りの人々からの尊敬を得られることはない。必要以上に地位や名誉、または評価に拘る人もいる。または、必要以外の資格や免許を取得しようと努力している人もいる。これも、自己否定観や自己愛の歪みを根底にしての行動であろう。自己愛のパーソナリティ障害の人は、こういう行動をとりやすい傾向にある。こういう人は、自分の心の闇に気付いていない。

特定の個人や家族を批判したり笑いものにしたりする記事や日記を書いている人、あまりにも読者数や人気を気にしている人は、自分の心の奥底の闇と対話してほしい。自分は、本当はそんなことを望んでいないことを知ることが出来るであろう。そして、真に望んでいるのは、現実の世界で自分の家族や周りの人々に心から愛されることである。いくらネットの世界で賞賛を得られたとしても、本当の愛は叶えられないし、益々真実の愛から遠ざかるであろう。自分の自己成長や自己実現をして、自己変革を遂げることでしか真の信頼や尊敬は得らない。現実の世界で、苦難困難から逃げずに乗り越えることでしか、絶対的自己肯定感は確立できないのである。

森のイスキアと佐藤初女さん

森のイスキアの佐藤初女さんが2016年の2月に永眠された。日本のマザーテレサとも呼ばれる伝説的な福祉活動をされて、多くの人々から慕われ続けた94歳の生涯を閉じられた。彼女の握った奇跡のおむすびは、死を覚悟した人の心を動かし、自殺を思い止まらせた。心を痛め折れてしまった人々を、佐藤初女さんは温かい心と食事で救い続けてきた。森のイスキアという施設は、傷ついた心と疲れ切った身体を抱えた人々を優しく迎え入れて、自らの元気さを取り戻すことを可能にして、再び社会に送り出してきたのである。

その森のイスキアは、佐藤初女さんが天国に召されてから、活動を休止している。既に1年半が過ぎたというのに、残念ながら彼女の活動を引き継ぐ方がいらっしゃらないようである。森のイスキアは多くの方が寄付をなさって建てられた、善意の施設である。彼女の遺志を継いで行く人がいないというのは非常に残念なことである。イスキアという名前を引き継いで、各種の活動をされていらっしゃる方は存在する。助産所をしたりカウンセリングやヒーリングをしたりしている方もおられる。相談業務をして人々を救う活動をしている施設もあるらしい。しかし、森のイスキアのような癒しの宿泊施設として運営している処はないみたいだ。

佐藤初女さんと同じような活動をするのは、非常に難しいと思う。佐藤初女さんと同じ空間にいるだけで、彼女に話を聞いてもらえるだけで、心を込めて作ったおむすびや食事を食べただけで、心を癒すことが出来た。佐藤初女さんのような方は二度と出てこないに違いない。彼女の存在は、それだけ大きかった。だとしても、第二、第三の佐藤初女さんが現れて来なければ、彼女は浮かばれないように思うのである。彼女の遺志を継いで、同じような癒しの宿泊施設が全国の各地に開設してほしいと願うのは、私だけではあるまい。

今から20年くらい前に佐藤初女さんを初めて知った。彼女を紹介していた地球交響曲第2番を鑑賞して、大きな衝撃を受けた。その時に、自分もいつかこのような施設を作りたいと強く思った。そして、12年くらい前に弘前にある森のイスキアを訪ねた。佐藤初女さんとお会いして、その滲み出ている優しさと凛とした強さを感じた。彼女の存在そのものが偉大であり、大きく包み込むような愛そのものだった。その時に、訪問者が記すノートが置いてあり、『イスキアと同じような施設を白河に必ず作ります』と記してきた。自分のライフワークとして取り組む宣言でもあったように思う。

あれから、10数年が経過した。森のイスキアと同じような施設を福島県の白河地方に作りたい思い、準備を重ねてきた。森のイスキアの佐藤初女さんのような食事を作りたいと思い、毎日せっせと料理をしては多くの方々に食べて頂き、率直な感想を伺った。心理学、精神医学、カウンセリング、ヒーリング等の学習を進めた。また、哲学、思想、仏教哲学、神学、キリスト教などの価値観を学んだ。さらには、医学、分子生物学、分子細胞学、量子力学、宇宙物理学、脳神経科学、大脳生理学なども詳しく勉強した。空き農家も物色して、農家民宿への改築する準備をしてきた。

しかし、残念ながら開設資金の問題がなかなかクリアーできずにいたのだ。開設してから運営が順調に行くまでのランニングコストを負担する目途も立たなかった。改築資金が約500万円、そして当座の運営資金が約500万円、合わせて1,000万円の準備は難しかった。寄付を募ったりするという方法もあったが、なるべく寄付には頼らないというのが自分のポリシーである。さらに、国や県の委託事業(助成金)として運営する方法も考えて企画書を作成して、各行政機関に提案したものの、実績もない事業計画を認められるのは困難だった。

ある日、吉田さん夫妻が経営している農家民宿「四季彩菜工房」とタイアップするのはどうか?とアドバイスしてくれる友人がいた。早速訪問して、森のイスキアへの思いを伝えてみた。幸運にも『イスキアの郷しらかわ』への全面的協力を約束してくれたのである。四季彩菜工房は、7年前までは毎年400人から500人ほどの利用者があった。マクロビや自然食愛好者から絶大な支持を受けて、食事も美味しいとリピーター訪問者が多かったのである。その後の震災による風評被害で、利用者はゼロになってしまったのである。物事が順調に進んでいくには、『間』が必要不可欠である。絶妙のタイミングであり出会いであった。吉田さんの協力がなければ、このイスキアの郷しらかわの開設は出来なかった。こうして、平成29年9月1日にイスキアの郷しらかわは産声を上げることが出来たのである。森のイスキア佐藤初女さんのご遺志を継いでいけるよう、精進したいと誓っている。

化学肥料の危険性

化学肥料と農薬は、近代農業に多大な貢献をした。収量の増大と農業労働の省力化をもたらして、農業生産のコストダウンによる収益率の向上を実現させてくれた。その一方では、大きな健康被害をもたらしてしまったという点を忘れてはならない。つまり、農薬の過剰使用による残留農薬の健康被害と、化学肥料の行き過ぎた使用によって、本来持っている野菜のミネラルなどの栄養素を異常なほど低下させてしまった点である。特に、人間の健康にとって不可欠な栄養素である、微量な元素を野菜から奪ってしまったせいで、健康被害を助長してしまったのである。

 

化学肥料の長期に渡る大量使用は、土壌本来のエネルギーを奪い、土を痩せさせてしまう。そうすると、人間にとって必要なビタミンC・A、鉄分、カルシウム、亜鉛、マンガン等の栄養素が不足した野菜しか生産できなくなってしまう。田んぼの稲も同じことになる。亜硝酸態窒素の危険性も提起されている。化学肥料だけの問題ではない。品種改良による影響もある。消費者の嗜好や見た目を求める傾向に迎合した品種改良が、栄養素不足の農産物生産を招いている。化学肥料を大量に使用すると、従来品種の野菜が枯れてしまう。化学肥料を大量使用しても枯れない野菜の品種改良が行われている。化学肥料が大量に売れるようにと品種改良をしているのだ。遺伝子操作による危険性も指摘されている。消費者の利益を無視している暴挙である。

 

ビタミンCや鉄分の不足した野菜の市場流通によって、貧血の人は増大している。カルシウムの不足した農産物の影響もあり、キレる若者が増えているし、骨粗しょう症が増加している。亜鉛不足は深刻である。亜鉛不足により味覚異常をきたして、濃い味の食事を摂取するようになり、高血圧や糖尿病の患者を増大させている。辛い食事を取り続けると、自律神経のバランスを崩して免疫異常を引き起こす。亜鉛不足は性ホルモンの不足を招いて、男性は男性ホルモンが減少して女性化し、逆に女性は女性ホルモンが不足して男性化が進行する。性ホルモン不足は、婚姻率を低下させると共に不妊率が向上してしまう。つまり、少子化という深刻な事態を引き起こす要因にもなるのだ。

 

マンガン不足も深刻である。マンガンは『愛情の塩』と呼ばれていて、人間の心の健康にとって大切なミネラル分である。マンガンは愛情を生み出す魔法の調味料と言われている。つまり、マンガンの不足が愛情不足を招いてしまうのである。マンガン不足は夫婦関係や親子関係の亀裂を生み出すから大変である。受胎率の低下をもたらすし、性不感症を起こしてしまう。さらには子どもに愛情が注げなくて、母性愛が低下してしまい、しまいには虐待まで起こしかねないのだ。ビタミンや鉄分の不足も深刻だが、これらの亜鉛とマンガン不足も人間の身体健康だけでなく精神的な健康被害をもたらすということを認識すべきであろう。離婚が増えている要因のひとつかもしれない。

 

化学肥料をまったく使用していない山菜は、ビタミン類、鉄分、カルシウム、亜鉛、マンガンを豊富に含んでいる。春になると山菜を大量に採取してきて、多くの親戚と知人におすそ分けしている。群馬県に住んでいる義姉には、コゴミ、ウド、シドキなどを段ボールに梱包して送付している。長い期間に渡り義姉はアレルギー症状で苦しんでいる。ところが、送った山菜を食べるようになってからは、アレルギー症状がすごく軽減していると喜んでいる。微量元素のミネラル分が、毒素をデトックスしてくれているし、腸内環境を改善してくれているに違いない。

 

化学肥料を使用せずに、堆肥、落葉土、自然由来の鶏糞や魚粉などを使う有機栽培であればいいのかというと、そうとも言い切れない。動物の糞を利用した堆肥などは、ビタミン類やミネラル分が不足する可能性があるという。逆に亜硝酸態窒素が問題を起こすケースもあるらしい。やはり、動物の糞を利用しない有機堆肥が良いみたいである。EM菌が良いというので使用している農家がある。しかし、科学的な根拠もないし検証結果も効果がないとの反対意見も多い。いずれにしても、化学肥料や農薬は使用しないほうがいいと思われる。昔から行われている、土を大事にした自然栽培による農産物生産こそが、健康に良いのは間違いない。

 

※イスキアの郷しらかわ(農家民宿四季彩菜工房)では、無農薬・無化学肥料により自然栽培しているお米と野菜を提供しています。ですから、数日間イスキアの郷で生活していると、体内の毒素がデトックスされると共に、腸内環境も劇的に改善されて、心身共に健康になります。

神戸製鋼・日産不祥事の真の原因

神戸製鋼所による製品強度偽装事件は、さらなる広がりを見せている。強度を満たしていない製品を、正規品として出荷していたことが解り、その製品強度を測定した結果も偽装していたことまで明らかとなった。それは、企業全体で実行されていたということが判明してきたという。さらには、その偽装が取締役会でも報告されていたという。本来は、製品の品質を保証すべき品質保証部でさえ、その偽装を認めていたというから驚きだ。ものづくりでは絶対の品質を誇る日本製品全体の信頼を失墜させてしまう大事件である。

神戸製鋼だけではなく、日産自動車でも出荷製品の検査を偽装していたことが判明した。他の製造業でも不祥事が相次いでいる。しかも、偽装検査が判明してからも神戸製鋼と日産自動車では、相変わらず検査を偽装していたということが明らかとなったのである。空いた口が塞がらないとはこういうことを言うのであろう。CSR(企業の社会的責任)が問われ、コンプライアンス(法令順守)が重視されてきた筈なのに、こんな初歩的なそして悪質な法令違反があるなんて信じられない。企業統治がされていなかったと言わざるを得ない。

コーポレートガバナンス(企業統治)は、企業経営にとって必要不可欠の経営原則である。企業統治が不完全であれば、製造工程や品質管理・品質審査等の過程において重要な欠陥を招く。つまり、不完全な製品を世に出してしまうのである。だからこそ、CSRを経営の柱と据えて、品質管理・品質保証を重要視して、品質保証の担当に絶大な権限を与えて企業経営をしてきたのである。その品質保証の担当者がその任務を全うするどころか、偽装(不正)を率先して実行してきたというのだから驚きである。品質保証の一担当者や部門長が勝手に出来ることではない。企業ぐるみ、またはトップの姿勢がそうさせたのであろうと類推するしかない。

どうしてこんなにも破廉恥な行為をしたのかというと、企業間競争の激化によるコスト削減が行き過ぎたからだと誰しも思う。企業内においてもそういう調査結果を出すだろうし、マスメディアを含めた社会一般がそういう見方をするに違いない。果たして、本当にそうだろうか。真の原因は、どうも違うような気がしてならない。確かに、このグローバルな社会において価格競争は熾烈化している。品質だって、コモデティ化が起きているから企業間格差はなくなっている。どう考えたって内部コストを下げるしかないという結論になる。だから、人件費コストを切り詰めていくと、検査を胡麻化すしか他に方法がないと思ったのであろう。

日産自動車のカルロス・ゴーン会長を始めとした役員報酬は、巨額に上る。神戸製鋼の役員報酬もしかり。さらに、内部留保はどちらの企業もとんでもない額になる。高額の役員報酬を貪り、内部留保をたんまりと溜め込み、工場の設備投資や現場の人件費につぎ込まないという企業体質がこのような不祥事を招いたとみるべきではないだろうか。古ぼけた製造機器や手間のかかる旧式の検査機械を現場使わせていて、現場の士気が上がる訳がない。現場における倫理観が低下してしまうのは、目に見えている。トップや管理者が高額の報酬を得て、現場で苦労している人々が薄給に喘いでいたら、やる気が起きないし誤魔化しても仕方ないと思うのは当然ではないだろうか。

さらに問題なのは、企業の経営陣が自社株を所有しているし、自社株を会社が保有している点である。それも相当額の自社株を持っているから、自社の株価を下げる訳には行かないのである。目先の利益を確保するのに躍起になるのは、当然と言える。収益性が下がれば、株価は下がり自分の評価も下がり、地位も危うくなる。目先の利益を得る為に、設備投資は控えてコストダウンに血眼になる。そうなってしまうのは、企業理念が欠如しているからに他ならない。経営哲学と人間哲学がないのである。かつての松下電器産業やソニーは、経営哲学と人間哲学がトップから末端まで浸透していた。昔の東芝もしかり。現在の一流企業には、正しくて高潔な思想・哲学がないのである。稲盛さんが高邁な哲学を社内に浸透させて、JALをV字回復させた。その手法を見習って、神戸製鋼や日産も出直してほしいものである。

※『イスキアの郷しらかわ』では、正しい企業理念や経営哲学と人間哲学の研修も実施しています。幹部研修や初任者研修などで利用してほしいと思っています。名目だけのCSRにならず、CSRを営業の収益に貢献させることができる方法を学ぶことができます。是非、お問い合わせください。

指導死を二度と起こさない為に

福井県で、中学2年生の男子生徒が自殺した。担任と副担任の指導に行き過ぎた点があったと調査報告書は認めているし、校長もその事実を確認し謝罪した。こういう指導の行き過ぎによる『指導死』というのは、他にも例が多く、ゆうに100件近くに上ると言われている。これは、判明した件数だけであり、おそらくこの何倍もの数の指導死が存在するのではないだろうか。それだけ、不適切な指導が学校現場で行われているという証左であろう。

この行き過ぎた指導をした担任と副担任の実名と顔写真が、ネット上で拡散されている。正義漢ぶったネットウヨが、彼らを非難し中傷している。2度と教壇に立てないように、教師免許を剥奪しろという者や、殺人罪として立件しろと騒ぎ立てる輩もいる。このような事件が起きると、最近はネット上でリンチ(私刑)のようなことを繰り返す者たちが横行する。福岡県で起きた煽り運転死亡事故の加害者の親として間違えてネットで拡散し、えらい迷惑を受けてしまった人もいた。

許せないと思う気持ちも解るが、こういうネット上におけるリンチで対象者が自殺したら、自分たちが加害者にもなりえるということを認識しているのだろうか。実に情けなくて怖いネット社会である。問題なのは、担任と副担任、そしてその指導管理の責任を問われる校長と副校長の態度と行動である。その指導方法が悪いのであって、彼ら彼女らの全人格や人間全体までも否定するというのは、行き過ぎではないか思うのである。

そもそもこんな指導死が起きる本当の原因は、何であろうか。文科省の指導、教育庁や教育委員会の指導管理に問題があるという意見が多い。一方、教師の資質に問題があるという人もいれば、日教組に責任があるとする人もいる。学校における行き過ぎた競争原理の中で、起きてしまった不幸な事故だとする主張する人も少なくない。行き過ぎた競争原理とは、子どもどうしの競争と教師間の競争、両方に原因があるという意見だ。いろいろな原因が言われているが、原因を特定してその原因が改善されていない。だから、今回も同じ不幸な指導死が起きたのである。

こんなにも酷い指導死の事故が起きるのは、明治維新以降に導入された近代教育の欠陥によるものだと推測する。明治政府が近代教育を導入したのは、日本を近代国家にして、欧米の列強のように強い国家を作る為である。その為には、欧米のような近代教育を導入して、国家にとって都合のよい技能の高い若者を育成する為である。思想・哲学や価値観の教育は余計なものとして排除して、あくまでも能力至上主義の教育を目指し、競争原理を導入して優秀な人材育成に力を注いだのである。

近代教育は、さらに欧米で主流であった客観的合理主義を導入したのである。つまり、物事を各要素に細分化し、それを客観的合理性で分析して問題解決をする手法を身に付けさせたのである。つまり、何かの課題・問題を発見した際に、その問題の原因を特定するために、問題を各要素に分解し細分化し客観的に分析して解決策を見つけ出すという手法を教育したのである。この客観的合理主義・要素還元主義は、一見すると正しいように見えるが、大きな問題を孕んでいる。全体を洞察することを忘れさせたのである。つまり、木を観て森を観ずという価値観を育ててしまったのである。

この客観的合理主義は子どもたちに、物事をあくまでも客観的に観察し分析する習慣を身に付けさせてしまった。つまり、自分に関わる人間をまるでモノとして扱い、客観的に分析する癖を持ってしまうのだ。だから、実に冷たい目で相手を見る。人の行動を分析して、批判的に観るのである。いつも批判的態度を取るから、相手に共感できない。人間関係を損なうことが多い。特に、近代教育を沢山受けた高学歴な人間ほど、そして優秀な人間ほどこの批判的な態度を取りやすい。相手の気持ちが解らないのである。特に、相手の悲しい気持ちや辛い気持ちに共感できない。優秀な人ほど身勝手で自己中心的な人間が多いのは、これが原因である。

教員は、高学歴で優秀である。すべての教員がそうではないが、要素還元主義と客観的合理主義に毒されているケースが多い。客観的合理主義もある意味必要である。ただし、あまりにも客観的合理主義にシフトし過ぎるのが良くないのである。近代教育の欠陥に気付いた欧米は、統合主義や関係性の哲学を加えた教育制度に舵を切り直した。残念ながら、日本の政治家と文科省官僚はその間違いに気付かずに、さらなる能力至上主義と個人主義に陥ってしまっている。このような間違った教育制度こそが、『指導死』を起こしていると認識すべきであろう。近代教育制度を見直して、全体最適(統合主義)と関係性の哲学を加えた教育に改めたら、こんな不幸な指導死も防げるし、いじめや不登校の問題もすぐに解決できると確信している。全体最適と関係性の哲学であるシステム思考を、今すぐにでも学校教育に導入してほしいものである。

無為に生きることの愚かさ

ゴルフのネットで組合せをする一人予約をたまに利用して楽しんでいる。いろんな人とラウンド出来て楽しい。平日のゴルフなので、同じ組になるのは殆どが会社などをリタイアした人たちである。つまり、私と同じ年金受給者の60代から70代のゴルフ愛好家である。ゴルフが楽しくて仕方ないという。仕事は現役時代に精一杯したから、もう沢山だという。それでは、何らかの市民活動やボランティアをしているのかと問うと、まったくそういうことはせず趣味の世界に浸っているらしい。NPO活動等の公益活動をしている人にお目にかかったことは今まで一度もない。

 

仕事を精一杯やり遂げてきたから、老後はのんびりと趣味の世界で生きたいという気持ちも理解できる。老後の蓄えは十分にあるし、年金も含めた生活資金は余裕があるから働きたくないし、現役時代は我慢してきたスポーツや趣味の世界を楽しみたいというのも当然であろう。しかし、そのような目的のない生き方、自分のためだけの生き方というのは如何なものであろうか。つまり、人生の目的実現やライフワークとして取り組む何かがなくて、ただ単に自分の人生を楽しく送るだけというのは、もったいないと思うのは私だけであろうか。

 

確かに、生きる意味はそれぞれあるだろうし、価値観も違って当たり前である。ただし、高い価値観や哲学に基づいた生きる意味を見出して生きていかないと、無為な人生を送ってしまうのではないかと思うのである。人間は考える葦であると言ったのはパスカルである。葦という植物は、少し風が強く吹くと折れとしまう非常にか弱い植物である。さらに、葦は何の役にも立たない生物でもある。人間というのは、「何故生きるのか」と常に自分に問い続けて考えていかなければ、葦のように何の役にも立たなくて、すぐに倒れてしまう弱い生き物になってしまうぞ、ということをパスカルは言いたかったに違いない。

人間という生き物は、自分の生き方を肯定したいものである。そして、自分の立ち位置から一歩踏み出すことに、不安や恐怖を持ちやすい生物らしい。ましてや、生きる意味や価値を考えることなく、何となく平穏に生きていることで満足していれば、そこから抜け出すことを嫌がるのではないだろうか。敢えて、自ら苦難困難を引き受けて、それを乗り越えたいと思う人はいないだろう。大変な苦労を伴うことだから、避けたいと思うのは当然である。楽しくおかしく、平和に生きたいと思うのは誰しも同じ。しかし、それだけでいいのだろうか。意味のない人生や無為な生き方になってもいいと、自信を持って断言できるのかと問いたい。

昔の人々の考え方がすべて正しいなどと乱暴な意見を述べるつもりはないが、少なくても生きることに対して、昔はもっと真摯だった気がする。だから、今は殆ど死語化しつつある、『無為』などという語彙があったように思う。人は何かの目的を持って生き、そしてその目的に添った目標を設定し、自分を高めつつ社会に対する貢献を実行してきた。そんな生き方も出来なくて、人生の目的も持たずにただ目の前の享楽に甘んじるような人を、無為に生きる人と称して蔑んできたのである。そのような人間が、やがて誰からも見放されて病気や事故に遭い、一人寂しく死んでいく姿を見てきて、無為に生きることで不幸せに陥ることが解っていたから、無為に生きることを戒めてきたのである。

それじゃ、生きるべき目的や価値観を持っていれば、幸せな人生を送れるのかというとそうではない。そもそも幸福とは何だろうかということを、まったくはき違えているからである。物質的な豊かさを持ち、面白おかしく生きることが幸福だと思っている人が多いが、そうではない。多くの人々の幸福に貢献できる人生を送ることこそが、心豊かな生き方であり真の幸福を実現するのである。多くの人々から敬愛されると共に、他の人々と絆を広く深くすることが出来て、お互いに支えあう人生を享受することが、人間本来の生き方ではないだろうか。故に、常に全体最適を目指すという高い価値観こそが人間には必要であり、自分個人や家族だけの幸福を目指すような低い価値観では、人間本来の生きる価値や意味を見つけ出すことは叶わないのである。

ただ生きていることに意味があり、あるがままに生きることに価値がある、というのはある意味正しい。ただし、それは真摯に謙虚に人生を生き、苦難困難にも自ら進んでぶち当たり乗り越えてきた人が言うには、説得力を持つ言葉だ。それこそ目の前の欲望に支配され流され、自分だけの利益だけを求めて、無為に生きてきた人が言うべき言葉ではない。人間は、世の為人の為にと必死に生き、自我を克服して真の自己を確立する為に学び成長し、多くの人々に夢と希望を与えるような生き方をしてこそ、生きる意味や価値があると言えよう。マザーテレサ女史や佐藤初女さんのように、死ぬまで人々の幸福に貢献する生き方を全うしたいと思っている。

パラドックスを抱えた医療制度

医療技術は日進月歩という状況を呈している。診断技術も日々進化しているし、驚くような新薬や注射が開発されている。これだけ医療が発展しているのだから、さぞや疾病に罹患する割合は激減しているに違いないと誰でも思う。しかし、不思議なことに有病率は年々増加しているし、一度罹患してしまうと完全治癒するケースが非常に少ないのである。これだけ医療の診断技術や治療技術が発達して延命率は高くなっているのに、どうして完治率だけが低いのであろうか。

 

勿論、ケガや外科的な疾患、さらには一時的な炎症性の疾病の治癒率は高い。生活習慣病などを扱う内科、または精神科領域の疾病の完治率は低い。患者本人の完全治癒のための努力が足りないという面があるとしても、これだけ医療が進化しているのにどうして完治しないのかが不思議である。慢性疾患は治りにくいものだとしても、これだけ薬品や治療技術の研究が進んでいるのに効果が出ないというのが解せない。

 

このような医療界における不思議な状況が起こるには、何か訳がありそうである。あくまでも想像ではあるが、例えば慢性疾患であっても完治させる画期的な薬品を完成させたとしよう。しかも、その薬品は完治させれば二度と服用しなくてもよいものだとする。そうすると、薬品会社の売り上げは一時的に伸びるが、やがて減少してしまう。新規に罹患した患者は使用するが、完治した患者は使用しないのだから、どうしたって売り上げが減少していく。このように完治する薬は一部の例外を除いて、まったく開発されていないのである。

 

現在投与されている慢性疾患の薬品は、殆どが症状を抑えるものであり、一度飲み始めると一生飲まなくてはならなくなるものが多い。精神科の薬も同じようなものが多い。薬品会社にとっては、完治させる薬を開発したいが、そんな画期的な薬をしまうと売り上げが落ちるし、会社の存続も危うくなる。このようなジレンマが存在するのである。また、医療機関と開業医師も同じである。患者を完治させたいが、完治させてしまうと経営的に行き詰るというパラドックスを抱えているのである。

 

医療機関の経営、そして薬品会社の経営を優先させているが為に、患者の完全治癒を拒んでいるなどという乱暴なことを言うつもりはない。そんなことを考えている薬品会社の役職員や病院経営者がいる筈がない。しかしながら、これだけ完治率が低いというのも不思議だ。通常のビジネス世界では、顧客満足度を限りなく高めることを優先する。顧客の幸福や豊かさを追求し、ビジネスを通して社会貢献に寄与することで、企業の収益も向上する。ところが、医療ビジネスだけはクライアントである患者の健康と幸福を追求すればするほど、ビジネスとして成り立たなくなるのである。こんな矛盾やパラドックスを抱えて経営しているのは、医療関連事業だけである。

 

こういうパラドックスを医療が抱えているということを、マスメディアはあまり取り上げない。本来こういう矛盾を抱えているからこそ、第三者的立場の審査者が適正な医療が実施されているのか、公平な目で審査をするべきであろう。しかし、現代の医療を審議しているのは、厚労省や社会保険診療審査会などに所属する医師である。当然、同じ職業である医師が同じ立場の医師に対して厳しく審査することに及び腰になるのは仕方ないことであろう。ただし、患者の完治を目指して全力を尽くして、減薬や断薬を指導している医師もいる。投薬・注射をなるべくしないで、生活指導や心理療法を多用して、患者の完治をすべく努力を怠らない医師もいる。しかし、残念ながらそういう医師は極めて少ないのである。

 

保険診療制度も悪い。投薬・注射をしないで、生活習慣を改善するように時間をかけて指導しても、収入には結びつかない制度になっているのである。精神科の医療も、時間をかけてカウンセリングや心理療法をしても、収益向上には繋がらない。完全治癒が少ないというのが、こんなことが原因になっているとしたら、患者ファーストでない医療制度だと言わざるを得ない。完全治癒に対する多額の成功報酬を医療機関に与える保険診療制度を確立出来ないだろうかとも思う。そうすればこんなパラドックスを少しは克服できるかもしれない。

システム思考とは

システム思考という語句を聞いたことがあるだろうか。哲学というか社会科学の用語であり、日本人にはあまり馴染みのない言葉かもしれない。システム思考の第一人者と言えば、MIT(マサチューセッツ工科大学)の上級講師であるペーター・センゲ氏であろう。米国のビジネスマンや経営者、そして多くの科学者に多大な影響を与えている研究者である。この世の中は、特定のシステムによって動いているし、そのシステムに則ったビジネスモデルならすべてが上手く行くが、このシステムに反する経営をして行けば破綻すると主張している。

 

このシステム思考が基本となるのは、ビジネスや経済だけではない。政治・社会・国家・組織・団体・家族を初めとしたすべての世界において、システム思考は有効である。それだけではない、宇宙の仕組みもまたシステム思考であるし、すべての物体や生き物はすべてシステム思考を基本に存在している。この学術理論は驚くことに、今から2500年前から唱えられているのである。世界で最初にシステム思考を人々に説いたのは、ゴータマシッタールーダブッダという人物だ。つまり、お釈迦様である。仏教の神髄は、システム思考なのである。当時、システム思考とは呼んでいなかったが、考え方はまるでシステム思考なのである。

 

さらに、驚くことに日本の江戸時代はこのシステム思考がごく普通に機能していたのである。システム思考とは、全体最適を目指すものであり、全体を構成するそれぞれの要素は、関係性によって成り立っているという理論である。だから、それぞれの構成要素の関係性が劣化したり損なったりすると、全体最適の機能が発揮できなくなる。人間社会においては、それぞれの人間の個別最適を目指してしまうとシステムが機能しないし、人間どうしの関係性が悪くなると、組織は全体最適に向かわなくなり、組織は減滅したり棄損したりすることになる。江戸の町では、100万人もの人々が暮らしていても、感染性の疾病で壊滅的被害もなくて、事故による崩壊や犯罪による悲惨な状況が起きなかったのは、システム思考が機能していたからに他ならない。

 

全体最適と関係性重視の哲学であるシステム思考は、すべての組織・コミュニティに必要な理論・価値観でもある。東芝が経営的に行き詰ったのは、システム思考を忘れて、各部門や関連会社とその役員がそれぞれ『個別最適』を求め過ぎた結果である。そして、社員どうし部門どうしの関係性が悪かった為に、経営危機を起こしたとも言える。シャープの経営危機や富士通の経営悪化も、システム思考を無視した経営にあったと言っても過言ではない。また、フランスのパリや英国のロンドンで、ペストやコレラで壊滅的な人口減に陥ったのは、システム思考を生かした都市計画がなされなかったからである。

 

国家組織や地方行政組織においても、システム思考を無視した政治や行政が行われるケースがある。そうすると、様々な問題が発生する。ひどい場合は、財政破綻まで起きる場合もあるし、首長のリコールや政権交代が起きるケースもある。家族の関係性が劣化・悪化し、全体の幸福を追求せず、それぞれが個別最適を求めてしまうと、家庭崩壊が起きる。または、家庭内別居、離婚、DV、モラハラ、不登校、ひきこもりなどの問題が起きてしまう。学校でいじめや不登校が起きるのも、システム思考に反する価値観が蔓延しているからである。

 

ブッダが関係性の重要性を縁起律という考え方で示し、衆生救済などの考え方で全体最適の大切さを教えてくれた。このような理論が科学的にも正しいということを、最先端の複雑系科学は証明しつつある。量子力学、宇宙物理学、分子生物学、大脳生理学、脳神経学、非線形数学等を研究すればするほど、システム思考が理論上だけでなく実証科学的にも正しいことを示すのである。ノーベル賞を受賞するような科学者は、おしなべてシステム思考に傾倒する。人間の身体や精神も、全体最適や関係性重視のシステム思考に基づいた生き方をしないと問題を起こす。疾病やメンタル障害、または不幸に見舞われる。この全宇宙システムに存在する生物、植物、鉱物はシステム思考によって存在が許され、そして機能していることを我々人間は忘れてはならない。

不登校の本当の原因

一時期減少傾向を示していた不登校が、また増えているという。この不登校の統計データだが、あまり信用できない。何故なら、調査している主体が文科省であり、なるべく不登校の実数を少なくしようという意思が働いているからである。各県の教委や各市町村の教委もまた、学校に問題は存在しないと言いたいらしく、不登校やいじめなどの問題は存在しないと世間に公表したいと思われる。統計データほど当てにならない。何故なら、統計調査をする主体者の意図によって、結果が大きく変化するからである。統計調査は、問題を明らかにして解決を図るための資料とすべきなのに、お役人というのは自分の無力さを隠しておきたいらしく、問題を過少に見せたいみたいである。

最近、ようやく不登校に対する社会的認識が変わり、不登校を特別視しなくなり、不登校でもよしとする風潮が一般化してきた。それは、子どもを守るという緊急避難的措置としては正しいが、根本的な問題解決には至らない。したがって、うつ病が市民権を得て患者が爆発的に増えたように、不登校という状況があってもそっと見守ることが必要だなどという誤った認識が増えたお陰で、不登校が増えているとすれば由々しき大問題である。不登校の子どもに対して、教師と保護者が腫物にでも触るような態度をとり続けたとすれば、問題は解決されないばかりか益々悪化し兼ねない。不登校は見守るだけでは解決しない。何らかの対策が必要だと認識すべきである。

不登校の原因を文科省と学校では調査分析をしている。いじめ、虐待、学友との不和、学業不振、発達障害、病気、家族の問題等々様々な原因をあげている。しかし、こられは本当の原因ではない。あくまでも、これらは不登校のきっかけであり、本当の原因は他にあるという認識を持っている教育関係者はあまりいない。何故なら、不登校の本当の原因を親も担任も知らないからである。そして、本人さえもそのことを知らない。不登校の本当の原因である『関係性』の大切さを誰も認識していないのだから当然だろう。不登校という現象が起きるのは、関係性が劣化もしくは破たんしているからである。子どもと保護者、父親と母親、子どもと教師、保護者と教師、教師どうし、すべての関係性が貧弱であったり希薄であったりするから、不登校が起きるのである。不登校の原因をいじめや虐待、本人の精神的な問題を原因として取り扱っているうちは、不登校はこの世からなくなることはけっしてないであろう。

学校にいじめや虐待、友達との不和、先生への違和感や不信などが起きたら、そのことを子どもたちは保護者や親しい先生に素直に話すであろうか。今の子どもたちは、自分たちの心の闇を教師や校長・副校長に話さないし、保護者にも話さない。どんなにしつこく聞き出そうとしても、話せないのである。勿論、スクールカウンセラーにも話せない。何故かというと、学校における子どもと教師の関係性が崩壊しているし、家族というコミュニティも崩壊しているからである。関係性が実に貧弱であり希薄化しているし、心から支え合うという関係性と信頼感がなくなっているからである。特に不登校の子どもたちの両親(夫婦)の関係性は、表面的には良好に見えるけれども劣悪化しているケースが少なくないし、家族の関係性が非常に希薄化しているケースが多い。

不登校は日本だけの問題ではなく、先進国では増加の傾向にあるらしい。日本ほどの深刻ないじめや不登校が殆どない先進国もある。オランダである。自由な国だというせいもあるが、日本と違うのは小学校で『システム思考』を教えているという点である。システム思考というのは、全体最適と関係性の哲学である。子どもたちに、関係性の大切さを教えているし、個別最適よりも全体最適の重要性を伝えているという。学校教育において、人間どうしお互いの関係性を豊かにしなければ、正常な社会が成り立たないと教えているのは先進国ではオランダだけであろう。子どもどうしは勿論、保護者と子ども、先生と子どもの関係性が豊かであるしお互いに支え合っているから、不登校がないのであろう。

 

アジアの国々で不登校がない国も少なくない。タイ、カンボジア、ベトナム、ミャンマーなどでは不登校という概念さえない。貧しくて不登校になっている例はあるものの、深刻ないじめもないし不登校も存在しない。これらの国は何が違うかと言うと、仏教の国であるという点だ。仏教というのも実は『システム思考』の哲学を教えている。「縁起律」という概念で、関係性の大切さを説いている。この社会はシステムで出来ているし、社会は豊かな関係性によって成り立っている。したがって、関係性をないがしろにしたのでは、この社会そのものが存在しえないという教えなのである。江戸時代の日本でもシステム思考の教えが存在していた。現代の日本でも、システム思考の教育を取り入れていたとしたら、こんなにも不登校はなかったと推測される。

 

不登校の本当の原因は関係性にあるとする認識は、少しずつ増えてきている。または、社会における関係性の希薄化や劣悪化が不登校という問題を生んでいて、不登校の子どもたちは我々に関係性を改善しなさいと自ら教えてくれているんだと主張している専門家も増えている。学校教育、そして家庭教育において、今こそ「関係性」の重要性を教えていかなくてはならない時期にきているといえよう。それが、不登校をこの世から一掃する唯一の手立てであると心得たい。システム思考の哲学を基本にした「関係性の教育」を学校教育の現場で導入してほしいものである。