児童虐待は個人でなく社会に責任がある

児童虐待による悲惨な死亡事件が起き続けている。各地の児童相談所や子どもセンターが関わっているにも関わらず、解決することなく痛ましい結果を招いてしまっている。警察にも傷害事件として届けられていながら、適切な対応がされず何らの解決がされなかったという。ネット上やSNSでは、実際に虐待した父親だけでなく、守れなかった母親にも批判の矛先が向いている。また、児童相談所や警察にも批判が相次いでいる。確かに、適切な対応がされていれば、悲惨な結果だけは防げたかもしれない。しかし、この虐待問題は当事者だけの問題なのであろうか。

児童相談所は増え続けている虐待のケースに対して、絶対的なマンパワー不足があり、対応しきれていないのが現状である。1人の相談員で100人ものケースを扱っている相談所もあるという。ましてや、とても難しいケースがある虐待に対して、適切な指導力を発揮できる、経験豊かで能力のある相談員が少ないという事情もあろう。警察だって、刑事事件にして訴訟を維持できる証拠・証言を集めるのが非常に難しいことが解っているからこそ、児童虐待を見ないふりをしたがる。

マスメディアやネット上の批判者たちは、あいつが悪いこいつが悪いと批判をするが、本当の原因を希求するという態度が見られない。ましてや、抜本的な解決策を提起する人も少ない。政治も行政も虐待に対する対応は一応しているものの、根本原因を見つけ出して解決策を法案化する動きさえ見えない。ましてや、これらの解決策と呼ばれるものは、緊急避難的な対応策であり、完全に児童虐待を無くすというものではない。児童虐待が起きる本当の原因は、現代社会の歪みにあるにも関わらず、そこを解決する方向に一切向かわないのが不思議である。

このような悲惨な虐待事件が起きる度に感じるのは、この社会は本当に病んでいるんだなあという思いである。本当の我が子であろうとなかろうと、か弱くていじらしい幼子に対して荒々しい攻撃性を示すというのは、考えられない。この人間はどんな育てられ方をしたんだろうという忸怩たる思いがある。自分よりも圧倒的に弱い存在を、本来は守り育てる気持ちを持つのが人間である。人間として当たり前の感情が育っていないのである。こんな教育をしてきた保護者や学校、そして地域社会こそが糾弾されるべきであろう。

児童虐待事件は、まだまだ明らかにされないケースが沢山あると思われる。やってはいけないと思いながら、虐待を繰り返してしまう母親や父親がいて、自己嫌悪に陥っている人間もいることだろう。我が子を虐めてしまう自分自身に対して、自己嫌悪感を持つ母親も多いに違いない。そして、こんな母親が頼るべき存在もなく、救いの手を差し伸べる人もいないという地域社会が問題なのである。相談センターがあるだろうと思う人がいるだろうが、自分の心に闇を抱え込んでいる人がセンターに相談するというのはハードルが高過ぎるのである。

児童虐待が起きてしまう本当の原因は、日本の教育制度の不備にあるのは間違いないだろう。それも、教育制度というよりも教育理念の間違いにあると言える。何の為に教育するのかという、本来の教育の目的が教育者にまったく欠落しているのである。だから、日大のアメフト部や志学館大学のレスリング部のような不適切指導事案が起きるのである。教育が本来目指すべきものは、『全体最適と関係性を発揮できる人間育成』である筈である。自ら積極的に、社会全体の幸福と福祉を実現するために主体性を発揮して努力する人間を育成することが教育の目的なのである。

ところが、今の教育は自己利益や自己評価を高めるために努力する人間を育てているのである。「誰の為に勉強するの?」子どもに聞いてみれば解る。「そりゃ、自分の為でしょう」と子どもは答える。親と教師が小さい頃から言い含めているからである。やがて社会全体に貢献できる人間として成長する為にこそ、勉強が必要なのであり自分の為ではない。自己中心で身勝手で、自分のことしか考えない利己的な人間だけを育成している現代教育の誤謬が、児童虐待を生み出していると見るべきだ。客観的合理性の近代教育の間違いが、児童虐待の悲惨な事件を起こしているのである。親子や夫婦の関係性の欠如が、愛の家庭内循環と愛情の世代間連鎖を阻害してしまい、我が子を心から愛せなくなったと考えるべきであろう。教育理念の間違いを今こそ正すべき時である。

 

※悪いことだと分かっていながら、つい児童虐待をしてしまい自己嫌悪感を持って苦しんでいるお母さんがいらしたら、イスキアの郷しらかわにご相談ください。何故、我が子を虐めてしまうのかの本当の原因を一緒に考えましょう。そして、この苦しくて悩ましい事態から一刻も早く抜け出す方策を一緒に見つけ出しましょう。ご相談は、電話でもメール、またはLINEでも結構です。問い合わせからメール相談ができますし、電話番号もお知らせします。FBのメッセンジャーでもいいです。LINEのアカウントは「natural1954」です。

メンタル不調にも最適なゴルフ

勝ち負けにこだわる処や、相手の弱点をついたり嫌がることをしたりするのが性に合わないからスポーツをしないという人がいる。または、何人かのチームワークをするのが苦手なのでスポーツから遠ざかっているという人もいる。あまりにも心が優しくて対戦型のチームスポーツが合わない人がいる。こういう人は心が傷つきやすくメンタル不調にもなりやすいが、そんな人でも楽しめるスポーツがある。それがゴルフである。メンタル不調の方に是非にもお薦めしたいスポーツである。

団体スポーツや対戦型のスポーツは実際にゲームをするまでの準備が大変だから嫌いだという人も少なくない。団体スポーツで対戦型というと、人が集まらないとゲームが出来ない。5人のチームを組むバスケットボールは10人揃えばゲームが可能になる。バレーボールなら12人、野球・ソフトボールなら18人、サッカーは22人が必要になる。ましてや、競技場や体育館を借りるにも苦労する。何日も前から申し込まないとゲームにならない。ぴったりの人数であれば、都合の悪い人が出ると足りなくなるので余裕を持って人数を集める。ゲームにフル出場できないプレーヤーも出てくる。試合に出場しなければ面白くないのは当然だ。ゴルフは1人でも気軽に、そして一日フルに楽しめるスポーツである。

元々団体スポーツに向かない人もいる。身勝手な人がそうだと思いがちであるが、そうではなくて周りに気を遣うような人ほど団体スポーツが苦手である。何故なら、自分のせいでゲームが不利になったり負けたりすると、他のチームメイトに申し訳なく思い、居たたまれなくなってしまうのだ。気持ちが優しくて繊細な神経の人ほど、団体スポーツに向かない。また、自分がミスをした時に、口では気にするなと言いながら心の中では「この下手くそ、お前のせいで負けたじゃないか」と思っているチームメイトがいるのを、鋭く感じてしまうから団体スポーツが出来ないのだ。

対戦型スポーツに違和感を覚えるという人も少なくない。自分がどれほど良いプレイをしたとしても、相手がそれを上回るプレイをすれば負ける。ましてや、技術だけでなく相手との駆け引きも必要だし、相手が苦手とすることや嫌がることをしないと勝てないのである。相手がミスした時に、外面には出さないものの、内心嬉しいという複雑な気持はどうしようもない。相手の弱点を突く攻撃をするというのは、フェアープレイを謳っていながら、パラドックスの感覚を持たざるを得ない。

ゴルフは、あくまでも個人プレイなので相手を気にしないでプレイできる。すべてのプレイと結果は自己責任だから、人に迷惑をかけることはない。自分のプレイが他人に嫌な思いをさせることはない。失敗したら自分がその責任を負うし、素晴らしいプレイをしたら自分の成果になる。悪い成績を誰かのせいにしたり天候やゴルフ場のせいにしたりすることは基本的に出来ない。技術面の未熟さとメンタル面での弱さは自分のプレイに跳ね返る。まさに自分との闘いである。マッチプレイやコンペに参加しない限り、すべては自分だけのプレイを純粋に楽しむだけである。

ゴルフ場に一度でも立ったことがある人なら解るが、あの解放感は何とも言えなく嬉しい。広々としたフェアウェイが続いて、青々とした芝生が伸びている景色は、この世のものとは思えない爽快感を与えてくれる。樹々や植物が豊富にあり自然が豊かな環境が広がっている。人工的に配した池や浮島などは、まるで日本庭園のような趣さえ感じられる。近くにある連峰や海を借景にしたゴルフ場さえある。こんなにも自然が豊かな処でするスポーツは他にない。だから、ストレス解消に最適である。心が疲れたり折れたりしてしまった人に薦められるスポーツである。

さらに、ゴルフはマインドフルネスに最適でもある。ゴルフというスポーツは、奥が深く難しい。でも、初心者でもそれなりに楽しめる。今はセルフプレイなので、キャディにも気兼ねすることがない。スロープレイをしなければ、未熟者でもラウンドが可能だ。自分のゴルフプレイに専念することで、心を無に出来る。自分の心を支配している苦しくて悲しい気持ちを一時的に手放せるのである。難しくて楽しいゴルフだからこそ、自分を苦しめている思考を一時的に停止できると言えよう。マインドフルネスにこれほど適したスポーツは、ゴルフ以外にないであろう。メンタル不調の方は、是非ともゴルフを試してほしいものである。ひきこもりや不登校、メンタル不調による休職者にもお勧めであ。

 

※心が傷つき折れてしまい、メンタルが不調になってしまい、何をする気力もなくなってしまった方には、ゴルフをすることをお勧めします。イスキアの郷しらかわでは、宿泊者に近隣のゴルフ場までご案内します。ご希望されるなら、同行プレイもいたします。また、ゴルフの初心者には練習場までご案内し、基本的な技術やルールなどをレクチャーします。ゴルフクラブも無料でレンタルいたします。お問い合わせのフォームから、ご相談ください。

生きる目的を示す映画「リーディング」

エドガー・ケイシーは、14000件以上のリーディングを実施した。彼は催眠状態に入りながら、病気の原因とその治療法を正確に解き明かす。そして、その治療法を実際に行うと、見事に治癒したと言う。その膨大な記録は米国のARE財団が管理していて、その有効性の検証をしている。そして、AREではその記録を利用して、ケイシー療法として様々な疾病の治療に実績を残しているという。そのドキュメンタリー映画として「リーディング」という映画が日本で作られた。ケイシー療法で実際に疾病を治癒させた日本人がインタビューに答えている様子も紹介されている。今、白河のシネマナナハチで公開中だ。

エドガー・ケイシーがリーディングして確立したケイシー療法は、当時の医学レベルではその有効性が確認されていなかった。しかし、最先端の現代医学においては、そのエビデンス(科学的根拠)が次第に明らかにされつつあるのだから驚きである。過去世におけるカルマ(業)までもリーディングすると言うと、オカルトだと思われがちであるが、けっしてそうではない。あくまでも科学的に正しい療法であることが判明して、実際に多くの医師までもその有効性に確信を持っている。そして、そのケイシー療法を取り入れているクリニックも少なくない。

エドガー・ケイシーは、ホリスティック医学の生みの親とも言われている。現代においてホリスティック医学は一般化していて、西洋医学で治癒させられない原因不明の疾病を見事に治癒しているケースが多々あるが、エドガー・ケイシーがその先駆者である。ケイシー療法は、人間とその疾病を統合的に観察して、その原因を解明する。そして、人間の悪い一部分だけを治すのではなく、人間全体におけるアンバランスを調整して完全なる治癒を実現する。西洋医学は対症療法が主になるが、ケイシー療法は完治させることを目指す。

ケイシー療法では、西洋医学では原因不明で難治性の疾病までも治す。アトピー性皮膚炎や乾癬までも改善する。乾癬の一因は食べ物にあるとして、茄子科の野菜を一切摂取しないと、見事に改善するという。茄子、トマト、ピーマン、ジャガイモなどを食べないで、他の野菜を摂取していると症状が良くなるらしい。統合失調症の原因は、背骨の歪みにあると主張する。特に仙骨と尾骨の歪みがあると、松果体の異常が起こり、幻聴や幻覚が現れるという。発症して1年以内の統合失調症であれば、仙骨と尾骨の歪みを調整すると改善するというから不思議である。

ケイシー療法は、食生活を含めた生活全般を見直すことが主となる。野菜中心の食事にして、肉類や乳製品を摂取しないようにする。炭水化物の過剰摂取を避ける。特に小麦粉をあまり摂らないようにする。さらに、体温を上げる為にヒマシ油を用いた温湿布をする。そして、心をリラックスさせる。血液とリンパ液の循環を滞らせないようにして、毒素を排出させ、酸素供給能力を高める。身体を酸性化することを防ぎ、アルカリ性に保つ。消化吸収能力を高め、適度な栄養摂取に務める。こうすると腸内環境が改善し、自己免疫力が高まり、殆どの疾病は自然治癒するのである。

エドガー・ケイシーはある日に、大変なことをリーディングする。過去世におけるカルマ(業)が病気の原因だということを主張するのである。敬虔なクリスチャンだったケイシーは、キリスト教では認めていない輪廻転生の存在を主張する訳にはいかないのである。悩んだ末に出した結論は、キリスト教の教義よりもカルマ説を選ぶということだった。この過去世や現世のカルマを克服することで病気を治すことに繋がると言い始めたケイシーに対して、教会関係者や熱心なクリスチャンたちは反発を強めたと思われる。それでも、カルマ克服を実現して、難治性で原因不明の病気を治していくケイシーに対する世間の信頼は高まったに違いない。

カルマ(業)を克服するには、赦し、感謝、愛が必要だとケイシーは説いた。カルマを乗り越えて法(ダルマ)=真理を獲得することが人間の生きる意味ではないかとも考えた。そして、法(真理)を得るには「愛」が必要だとも説いた。それも、求める愛ではなく与える愛だとも。愛を求めていても愛は得られず、愛を与えることで愛が得られるというのである。カルマを持つこだわりの自分を赦し手放して、空いている心に神を満たすとも言っている。よこしまな心が入り込まないようにするというのである。そして、カルマを克服し法を得て、自分自身が「人々を祝福する水路」にならなければならないとケイシーは主張している。これこそが、人間の生きる目的であると我々に示してくれたのである。

 

※映画「リーディング」は、白河市内のシネマナナハチで、毎日2回午前中と夕方上映しています。検索エンジンで「シネマナナハチ」と入力すると、場所と上映時刻が表示されます。この映画をご覧ください。難病や原因不明の病気で悩まれている方は、是非ともご覧いただきたいと思います。

直感に従うとは言うけれど

直感に従って生きなさいというアドバイスをする人が多い。いろいろと迷った際には、自分の直感を信じて決断通りに進みなさいと教える人が少なくない。人生において達観の域に入った人は、そんな助言をしてくれる。確かに、迷いに迷ってしまい最終的に選択した判断が裏目に出て、最初にふと思った選択肢が良かったなと後悔することはよくあることだ。人間の直感力というのは、素晴らしい判断をすることがよくある。だとしても、全部の直感が正しかったとは言えないこともある。だから、難しいのである。

直感力がすごく鋭くて、その直感力が素晴らしい選択をする人がいる。一方で、まったく直感力が働かない人や、間違った直感をしてしまう人がいる。どうやら、人によって直観力が違うみたいであり、その直感が正しい選択をさせるかどうかは、その人間力によるのではないかと推測される。直感が鋭い人は、非常に素直な人であり、何事にも誠実で謙虚な人が多い。一方、直感が鈍い人というのは、自分に対して素直になれず、いつも後悔しながら生きている人が多い。いつも辛く悲しい思いをしていることが多く、感情を抑圧することが少なくない。

そして、とても危ないのが、直観は鋭いものの間違った直感を得てしまうことが多く、その間違った直感を信じて突き進む人である。こういう人は、自分の大事な人生の岐路に立った時でも、自分の直感を信じて疑わず、とんでもない生き方を目指してしまう。当然、悲惨な結果になってしまうことが多い。そんな目に何度も遭っていて、他の人からも助言や忠告を受けているにも関わらず、頑なに自分の直感に従うことが多い。こういう人が、自分の家族であったり、または会社の上司や経営者であったりすると、自分も巻き込まれてしまうから大変である。

どうして、そういう人は間違った直感を持ってしまうのであろうか。そして、その間違った直感を信じてしまうのかが不思議である。それは、その人の生き方の根本となる価値観が間違っているからに他ならない。そういう間違った直感を得る人というのは、いつも個別最適を目指していて、関係性をないがしろにするという生き方をしている。個別最適というのは、自分の幸福や利益を大事にするあまり、周りの人への配慮に欠けている価値観である。当然、他との関係性は悪化することになる。

この個別最適というのは、自分だけ、家族だけ、自分の部門だけ、自分の会社だけの最適化を目指すということであり、社会全体の幸福や利益は二の次だという価値観である。利己的な生き方を志すあまり、自分以外の他人との関係性は良くない。こういう人は、何か重大な選択を迫られた時に、自分にとって損か得かだけで判断しやすい。他に対して何らかの見返りやリターンを期待する。利他の心というものが理解できないし、いつも自分だけが可愛くて仕方ない。自己愛の障害と言ってもよい。

このように、個別最適を目指していて、関係性なんかどうでも良いと思っている人の直感は、とんでもない選択肢を与えることになる。一方、常に全体最適を目指していて、自分以外の人や動植物、鉱物との関係性をも大切にしている人の直感は素晴らしい。何故、そんな違いが生まれるかというと、人体というシステムが全体最適によって営まれているし、人体というすべての細胞・組織はネットワークという関係性によって成り立っているからである。人体という完全なシステムが全体最適と関係性によって成立しているのに、全体である人間が、それに逆らう生き方をしたら、機能不全に陥るのは当たり前である。

さらに、会社もひとつの全体というシステムである。全体最適と関係性によって成り立っている。勿論、家族もそうだ。地域社会も同じく全体最適と関係性で存在する。国家も同じだし、地球全体もシステムである。宇宙全体も同じような全体最適と関係性によって存在していることが、宇宙物理学や量子力学によって証明されている。つまり、人間という生きものは、全体最適と関係性の哲学によって存在しているのである。この全体最適と関係性という価値観を持つことが出来ずに、個別最適と関係性無視の生き方をしたら、悲惨な結果になるのは目に見えている。そういう人の直感は、病気・怪我・事故・別離・孤独・死を招くに違いない。こういう人は、自分の直感に従うことをせず、正しい価値観を学ぶことから始めてほしいものである。

※『イスキアの郷しらかわ』では、正しい直感を得るための研修を実施しています。正しい直感を得る為の「全体最適と関係性」という価値観を科学的な知見を基にして詳しく解りやすく説明します。量子物理学や人体生理学などのエビデンス(科学的根拠)を活用した講座です。楽しく、興味深く学べます。個人レクチャーも実施しますので、気軽にお問合せとお申込みをしてください。

スピリチュアルに原因を押し付けない

前世療法とか過去世療法という語句をご存知であろうか。自分にとってあまりにも大きな試練や苦難困難は、すべて自分の前世におけるカルマ(業)による影響であり、自分の責任ではないと安心させて、苦難困難を乗り越える勇気を与える心理療法である。中には、退行催眠をして前世を明らかにする施術者もいたり、各種の占いによって前世をリーディングしたりする人もいる。特に毒親を持って苦しんでいる人に対して、敢えて問題の親を選んで生まれてきたのだと伝える人もいる。または、自分が毒親じゃないかと悩んでいる人に、子どもはあなたを親に選んで生まれてきたんだからと安心させる施術者もいる。

TVの放映で、芸能人の前世や過去世、または守護霊の存在を明らかにして、生きるべき道を示していた人物を、まるでヒーローのように紹介していたものだから、すっかり信じてしまった人も多い。その後、あまりにも非科学的なことを言い始めたり、社会的な問題を引き起こしたりしたものだから、さすがに放映を止めてしまった。でも、まだ信じている人は相当いるし、特に若い女性の間では根強い人気があるらしい。科学的な証明が出来ないものはすべてオカルトだと批判する人にとっては、苦々しく思っているだろうが、否定されればされるほどのめり込む人も少なくない。

前世や過去世、または守護霊は存在するかどうかというと、科学的には証明できないし否定もできない。生まれ変わりというのは実際にあるかどうかというのは、仏陀でさえもあるとも言えるし、ないとも言えると、明言していない。ただし、過去世療法によって実際に救われた人もいるので、完全に否定するのもどうかと思う。ただし、過去世や前世をリーディングして、それを金儲けの手段にしていたり、インチキな物品を高額で販売したりしている輩がいるのはいただけない。苦しんでいる人につけ込んで、詐欺まがいのような占いで騙している人は許せない。そもそも、スピリチュアルを生業にしている人は信用できない。

毒親や問題行動をする人に対して、それはすべて過去世のカルマであるから、あなたにはまったく責任がないと言う施術者がいたとしたら、それは眉唾であろう。何故なら、そんなことを言われたら、自分の成長がないばかりか、問題のある人間性や人格が改善しないからである。ましてや、毒親のおかげで苦しんでいる子どもたちは救われないからである。あなたは毒親を選んで生まれてきたと宣言された子どもの悲しさを考えたら、間違ってもそんなことを言うべきでない。もし、本物のスピリチュアリティカウンセラーが存在したとすれば、そんな無茶なことは絶対に言わない筈である。

過去世や前世、そして現世と来世がたとえあるとしても、自分の至らない点やマイナスの自己、そして問題ある低劣な価値観を、すべて過去世のカルマに原因があるとすべきではないと考えている。何故なら、自分の人間性や価値観は、今の自分が受け容れたものであり、その責任は現在の自分にあるとすべきだ。それでないと、自分の成長が止まってしまうからである。自分に起きるすべての不都合を、過去世のカルマのせいにしたら、自分の努力で乗り越えるチャンスを奪ってしまうし、正しくて高邁な価値観を獲得できる機会を見逃してしまう。自分の現在における苦難・困難・病気・事故などの苦は、自分の精神における歪みが起こしているとする考え方のほうが、それを克服できるに違いない。

すべてのスピリチュアルカウンセラーが偽物だとは言わないが、それを商売にしている人なら、信用すべきでないだろう。苦しんでいる人から料金を搾取して救うなんてことが、霊的に許されることではない。商売にしているカウンセラーは、何度も通わせるためにクライアントの耳元に心地よい言葉をささやく。あなたは正しい、間違っていない。カルマが悪いと。そして、何度もカウンセリング料金をむさぼるのである。またはパワーストーンのブレスレットなどの高額な物品を買わせるのである。人を救うという尊い行為を、金儲けの手段として利用するなんて考えられない。こういう人物は、非常に巧妙なので多くの人が騙されるのであるが、自分で自分をも騙しているから、自分が人を騙していると気付いていない。つまり、こういう人物は統合失調型のパーソナリティ障害なので、自分も周りも正しいと勘違いしているのだ。カリスマと呼ばれる人物こそ要注意である。

一緒にいると疲れる人と付き合う方法

一緒にいると異様に疲れてしまい、元気を削がれてしまう人がいる。職場や組織に所属していると、必ずこういう人と出会うものである。出来れば、こういう人とはなるべく付き合いたくない。しかし、どうしても関わり合いを持つしかないケースもある。こういう人と上手く付き合う方法はないものだろうか。一緒にいても何とか、自分のエネルギーを削がれないで、関係を保って行く方法がないだろうか。

一緒にいると疲れる人というのは、自己中で身勝手で自己愛の強い人である。自分の利益のことしか考えていないし、損か得かで行動をする人である。心が穢れているから、波動が乱れている。しかも、自分に従うように周りの人々を支配したがるしコントロールしようとするのだ。自由を束縛されて支配された人は、エネルギーを奪われてしまう。だから、こういう人が傍にいるだけで、異様に疲れるのである。こんな人が同僚や上司であれば、日々疲れ切ってしまい、そのストレスから病気になってしまう危険がある。

こういう人とエネルギーを奪われないで、上手く付き合うには、かなりのコツが必要である。絶対にしてはならないことが一つある。それは、相手の間違った価値観に合わせてはならないということである。間違った価値観で生きてしまうと、やがて多くの人々の信頼を失い、関係性を損なってしまうからである。どんなに行動をコントロールされたとしても、心まで自由にされてはならないということである。例え表面的には従ったとしても、魂まで売り渡してはならないということを肝に銘じておかなければならない。

一緒にいると疲れる相手は、自分の支配下に置き、自分に従わせるようあれこれと指図する。例え間違っている指示であったとしても、上司ならば従わないとならない。後で、何らかの仕返しをするからである。こういう粘着質タイプの人間は、自分に逆らった人をいつまでも根に持っていて、何かの機会にリベンジしたがる。上司にはこびへつらうが、部下や同僚であれば、パワハラやモラハラをしがちであるので注意が必要である。表面的には、ある程度は従順な態度をする必要があろう。それでも、嫌っているという本心は悟られないように、上手く振る舞うことが求められる。

そのうえで、一緒にいると疲れる人に対して、どのようにすれば良いかというと、同じレベルで考えないということである。自分の価値観との違いをしっかりと認識する必要がある。一緒にいると疲れる人の低劣な価値観と同等のレベルの価値観に捉われないことである。一段とレベルの高い価値観を持って、その問題の人間の低レベルの行動を洞察し、どうしてそんな馬鹿な行動をするのかを詳しく分析するのである。そうすると、彼の生い立ちや経歴、または元になっている低い価値観が見えてくる。そんな問題行動をしてしまう背景もよく観察すると、そのあまりにも酷い人間性や人格が明らかになる。

言い替えると、一緒にいると疲れる人の問題行動を、俯瞰するということである。そのうえで、いかに低劣で酷い価値観によって行動している愚かさを、一段も二段も高い処から、ああ気の毒だな、可哀想になあ、と客観的に眺めるとよい。けっして同レベルの人間としてではなく、数段も高い位置からの第三者的な分析をするのである。そして、絶対にしてはならないのは、同じ会社や組織の人間には話さないし悟られないことである。人間は、自分を守る為には平気で裏切ることがあるからだ。一緒にいると疲れる人の悪口や愚痴を、その人の周りにいる人には絶対に言わないことである。また、自分の実名・会社が特定できるようなSNSやブログでは、情報発信をしないことも大事である。ひょんなことから、その本人に伝わることがあるからだ。自分の本心は悟られないように振る舞うことが大切である。

一緒にいると疲れる人というのは、会社や組織で高い地位につきやすい。何故なら、上司や経営者に媚びへつらうからである。自分より高い地位の人には歯の浮くようなおべっかを使い、自分よりも目下や同等の者はバカにするばかりか陥れることさえする。自分に歯向かうものには徹底して攻撃して来る。やがて、こういう人間は社会的に信頼されず破綻する運命にある。家庭においては、不幸な生活をしがちだ。配偶者は病気になりやすい。子どもは問題行動を起こしやすい。結局は、社会的な制裁を受けることになるのである。一緒にいると疲れる人と上手く付き合うには、あくまでも表面的に合わせるだけの日常にして、対面した時はニコニコして、後ろ向きではあかんべえをするくらいの気持ちで接すること肝要である。

スポーツに優しさは要らないのか

日大アメフト部の内田監督による指導の不適切さが、次第に明らかになってきている。その指導の中で、あまりにも異常だと思うのが、『はまる』という言葉である。特定の選手に対して、指導という範疇を逸脱するような、監督の意地悪行為を『はまる』とアメフト部の選手たちは呼んでいたらしい。その特定された選手は、集団練習から外されて厳しいランニングだけをさせられるというようなパワハラ指導を受けていたと言う。その選手は試合にも出されず、必要以上の嫌がらせを受けて、精神的に追い込まれていた。今年度は、その特定された選手というのが、反則行為をした宮川選手だったと言われている。

どうしてそんな前近代的な人権無視の酷い指導をしたのかというと、監督は当該選手のさらなる成長を望んでいたのは間違いないだろう。だとしても、けっして許される指導方法ではない。何故かと言うと、当該選手をスケープゴートにして酷い仕打ちを繰り返し、他の選手を自分の思い通りに支配しようとしたからである。しかも、その『はまる』選手の性格を変えようとして、他の選手を恐怖心で同じようにさせようとしたからである。そして、その『はまる』選手の優しい性格を変えようとしたというから驚きである。

内田監督にとって、アメフトをする選手は優しい性格を持っていてはならないと思っていたらしい。優しい性格であると、厳しいタックルや反則すれすれの卑怯な行為が出来ないと思っていたのであろう。だから、その『はまる』選手というのは、心根が優しくて思いやりのある誠実な部員だったという。一方、乱暴な性格で監督の言われた通りにペナルティを平気で行うような選手は、絶対に『はまる』ことはなかったという。内田監督は、反則すれすれのラフなプレーを好んでいたし、そういうことをする選手にすることで勝ちに繋げたかったのであろう。

内田監督は、その危険な反則のラフプレーを、宮川選手に敢えてしろとに指示した。それも、『はまる』選手にして、精神的に追い込んで指示を守るしかない状況にしておいてから、反則タックルをさせたのである。どれだけ卑怯かということが解るであろう。気持ちが優しくて、相手を怪我させるような卑怯な行為が出来ない選手を嫌い、乱暴でハードプレーをする選手だけを可愛がり、試合に出させるというのは、もはや人間として許される行為ではない。選手たちが荒々しいプレーをするには、優しさが邪魔だと考えた節がある。相手の怪我や故障することなんか考えるなと檄を飛ばしていたらしい。

スポーツをする際には、優しい心というのは不要なのだろうか。優しい心があると、ハードな対戦型スポーツにおいては、相手に対する遠慮があるから、厳しいプレーが出来ないと内田監督は考えていたらしい。だから、選手が優しい心を無くすために、敢えて反則のラフプレーをさせていたと考えられる。本当にスポーツ選手には、優しい心は邪魔になるのだろうか。大相撲の世界でも、取り口に優しさが感じられず、非常な仕打ちをする横綱がいる。確かに、その取り口はラフな印象を受けるが、圧倒的な強さを誇っていた。しかし、その取り口は卑怯に見えていたし、けっして美しくはなかった。

日本の古武道において、何よりも大切としたのは対戦相手の尊厳を認めることであり、敬意を持つということである。卑怯な行動を取ることを恥じていたし、正々堂々と闘うことが求められている。そして、何よりも大切なのが『惻隠の心』である。惻隠というのは、相手に対する慈悲の心と言ってもよい。言い替えると相手に対する優しさであり、強き者が弱き者に対する配慮を持つということでもある。一旦相手を倒して戦意を喪失させたら、敗者に対しての必要以上の攻撃を続けてはならないし、敗者にも敬意を持たなくてはならないと教えていた。生命をも奪うような闘いだからこそ、相手に対する優しさが必要だという教えである。

スポーツにおいても、それがハードで相手を怪我させるようなスポーツであるならなおさら、惻隠の心が必要であろう。そうでなければ、平気で怪我をさせたり卑怯なプレーをしたりしてしまう危険がある。危険性のあるスポーツの指導者は、まずは対戦相手の尊厳を認めることを教えるべきであろう。勝負に徹するとしても、相手を潰せなんて言葉を言うべきではない。惻隠の心があれば、反則プレーなんかできるものではないし、指導者がそれを強いるなんてことは絶対にない筈である。スポーツの指導者たる者は、惻隠の心を持つことをまずは教えるべきであろう。そうすれば、真の強者を育成することが出来るに違いない。

山菜の食文化を後世に遺す

大好きな山菜シーズンが終わりを告げようとしている。とても残念であるが、また来年も山菜を採り食べる喜びを、おおいに享受したいと思っている。最近特に思うのであるが、山菜を採ること、そして食べる文化が衰退しているのではないかという危惧を抱いている。たかが山菜の食文化がなくなったからと言って、我々の生活に何の影響もないだろうと思う人が多いことだろう。確かに、他の野菜なども豊富だから、山菜がなくなったとしても、私たちの生活が大きく変わることはない。しかし、健康面では多大な影響があるように感じている。

山菜は、畑や栽培工場などでも栽培されるようになっている。だから、山菜なんか採らなくてもいいだろうと思っている人は少なくない。わざわざ危険な山に入り、苦労して山菜なんか採らなくていいだろうという意見があるのを承知している。危険な熊や毒蛇にも出会うこともあるし、実際に熊による被害や迷い遭難する人も少なくない。生命の危険まで冒して山菜を採る必要なんかないよと言われることもある。しかし、山菜を畑で栽培すれば、それは野菜であり山菜ではなくなるのである。

どちらも同じ山菜だろうと思う人が多いだろうが、畑や工場で生産された山菜は、もはや山菜とは呼べない。その理由は、山で採れた山菜は無農薬でオーガニックであるが、畑や工場で作られたものは農薬まみれで化学肥料により作られたものだということである。含まれる微量元素が不足するのは間違いない。もし自然栽培であったとしても、山と畑ではその土に含まれるミネラルとか微量元素の成分が大きく違うのである。当然、山菜に含有されている量もかなり違っている。

山菜を採って食べる慣習は、何故広まって長い期間続いてきたのであろうか。科学的な知識や正確な成分分析など無かった時代から、延々と続いてきた山菜を食べる食文化は廃れることなかったのであ。それは、経験から導き出された知恵であったと思われる。山菜を食べる住民は、体調を崩すことも少なく健康で長生きしたのだと推測される。山菜を食べない住民は体調を損なって長生き出来なかったのではなかろうか。だから、人伝えで山菜を食べると健康で長生きできると広まり、山菜の食文化が続いたのであろう。ただ美味しいからという理由だけではなさそうである。

特に、この山菜を食べる習慣は、春の季節に圧倒的に多い。山菜が春に採れるということもあったろうが、春に食べなければならない理由もあった筈である。山菜をまったく食べない習慣の現代人が、春に体調を崩すことが多い。冬が終わって春になり、気温も暖かくなって免疫力が上がる筈なのに、この時期にインフルエンザなど各種感染症になる人が多い。また、この時期に明らかに増えるのが、化膿性虫垂炎である。また、イレウスや化膿性の腸炎も不思議と多くなる。

これらの感染症が増加したり胃腸炎を起こしたりするのは、どうやら気圧の急激な変化によるものらしい。免疫学の大家である安保徹先生は、この時期に移動性の高気圧が頻繁に日本列島にやってくるので、自律神経のアンバランスが起きて免疫力が低下するという説を唱えていた。あまりにも急激に高気圧と低気圧がやってきて、交感神経が異常に興奮することで免疫力の低下が起きるし、ステロイドホルモンが過剰に分泌されることで、体調不良が起きるのではないかと説いていた。ところが、天然のミネラルや微量元素が多く踏まれる山菜、またはアクの強い山菜を食べることで、そのアンバランスが調整されるのではないかと思われるのである。それを証明するエビデンスはないが、自分と家族、提供した山菜を食べている親戚友人は、体調を崩すことが極めて少ないばかりか、アレルギー症状が緩和されて、感謝されている。

山菜を採りに山に入ると、熊・鹿・猪・猿などの野生動物が山菜を食べた跡を発見する。これも、山菜を食べると体調が良くなることを野生動物が知っているからに他ならない。こんなにも身体に良い山菜を食べる習慣が廃れるというのは、実にもったいないことである。山菜を採る人も少なくなってきて、どこに山菜が出るのかを子孫に伝えられる人も激減している。このままで行くと、山菜を採る文化も無くなってしまうし、勿論食べる文化も廃れてしまうと考えられる。全国各地で自然発生的に生まれてきた、山菜を採り食べる文化を後世にも残したいと願うのは、私だけではないと信じている。そして、山菜料理を造る文化も、ずっと遺していきたいと強く思う。

 

※イスキアの郷しらかわでは、山菜の安全な採り方と美味しい調理の仕方をレクチャーしています。ご希望の方がいらっしゃれば、お教えいたします。今年の山菜シーズンはもう盛りが過ぎてしまいましたが、会津の奥山に行けばまだ採れる場所があります。問い合わせフォームからお申込みください。

登山ガイドをさせてもらう喜び

10年近く、地元の公民館で登山ガイドをさせてもらっている。その他、個人的なガイドをボランティアでさせてもらう機会も多数ある。登山ガイドの役目は、先ずは安全で確実な登山を利用者に体験してもらうことであろう。登山客の安全対策には、特に責任がある。無事に登って下りてくるまで、登山客の生命と体調を守る責任がある。それ以上に気を遣うのは、山登りの喜びをどのように感じてもらうかでもある。

登山客の満足度をどう高めるに苦心している。勿論、満足度を高めるために無理をさせて安全が疎かにするようなことはけっしてない。登山において、何よりも安全が最優先なのは当然である。そのうえで、登山の楽しみや喜びを感じてもらい、また登りたいなと思えるようにガイドをさせてもらっている。そして、登山客から今日は本当に楽しかったと笑顔で言ってもらった時の言葉が、登山ガイドとしての至上の喜びになる。

登山ガイドは、安全登山の仕方や疲れない歩き方、登山中の体調管理などについて登山客に伝授する。樹々や花々の名前、鳥の鳴き声や動物の生態についても説明する。登る山の説明や歴史についても、説明することもあろう。登山ガイドは、それらの事前調査も実施して、登山客に詳しく話をさせてもらうのである。普通なら、ここまですれば登山ガイドとして合格点であろうと思う。しかし、私はそれでは飽き足らず、もっといろんな話をさせてもらっている。

一昨日、地元の公民館のトレッキング教室があり、15人の生徒を茨城県の最高峰八溝山にお連れしてきた。バスの中で、安全登山の基本的な考え方を伝える為に、エベレストの登山歴史と栗城史多氏の遭難事故について話をさせてもらった。ヒラリー卿の談話やG・マロリーの「ここに山があるから」という有名な言葉と本当の意味も説明した。単独無酸素登頂がとんでもなく難しく、今まではたった一人の登山家しか成功したことがないこと。その登山家ラインホルト・メスナー氏の人となり、そして登山スタイルにも言及した。

G・マロリーはヒラリー卿よりも前に、3度もエベレスト登頂に挑戦している。そして、3度目の挑戦で還らぬ人になった。でも、もしかすると登頂に成功した後に、下山中に滑落したのではないかと見られている。それに対してヒラリー卿は、登山というのは登って無事に戻ってきてこそ、登頂に成功したと言えるのだと断言している。登山と言うのは、ある程度の危険性はあるものの、何よりも生命の尊重を最優先させるというのが基本だと言っていた。ラインホルト・メスナーも、最愛の弟であるギュンターを同行した登山で失っているからこそ、生命の尊重を何よりも大事にしたのだ。

こんな話をしながら、安全登山の基本的な理念を話させてもらった。また、登山における自然保護や環境保護についても言及した。さらに、今の時期に見られるヤマボウシの花についても説明した。ヤマボウシは漢字表記だと山法師となる。山法師とは、比叡山の僧兵のことを指す。僧兵の白い頭巾が、ヤマボウシの花びらと酷似していることから命名されたと伝えられている。このように、花の名前の由来についても詳しく説明することが多い。そのほうが、花の名前を憶えやすいし、花に対する親近感が湧いて、より大好きになると思うからである。カエデという名前が『蛙手』からということや、英語でメイプルと言って、メイプルシロップがその樹液から作られることも説明してあげた。

普通の登山ガイドならば、これぐらいの知識はあるので説明することもあろう。しかし、ここからが自分にしか出来ない話だと思う。山法師と言えば、平家物語の第一巻にこんな記述があるという。白河法皇の「鴨川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心の思うにならぬもの」という言葉である。白河法皇は、自分の子どもと孫を天皇に据えて、本格的な院政を日本で初めて敷いた人物である。絶大な権力を持ってしても、日吉山王大社の神輿をかついで強訴する山法師(比叡山の僧兵)に手を焼いていた。それを北面の武士として平家の武士を宛てて、警護させたのである。これが平家の政権掌握のきっかけになったのである。

こんなことまで、登山の話とは違うから聞きたくないと思う人もいるかもしれない。しかし、こういう話は皆さん初めて聞いたと驚いていらしたし、元校長先生の引率者も北面の武士という言葉は聞いているが、そういう歴史背景があることまでは知らなかったとびっくりされていた。歴史も、こういうストーリー性のある話ならば、みんなが好きになるに違いない。このように歴史や登山の哲学の話を含めて、様々なことを説明してもらっている。これが登山客の喜びであると同時に、自分としてもガイドする大きな喜びでもある。

 

※イスキアの郷しらかわでは、登山ガイドをしています。ガイド料は特別頂いていません。交通費の実費だけか体験料(1500円)だけの費用です。樹々や花々の名前や由来、それらの背景や歴史なども詳しく説明しています。クマガイソウやアツモリソウの名前の由来と源平合戦における平敦盛と熊谷直実の「須磨の浦での対決」、山吹の花と太田道灌に関わる短歌の話、などいろんな話をさせてもらいます。特に、登山の哲学についてご興味がある方には、ご満足いただけると思います。登山ガイドの申し込みやご相談は、問い合わせフォームからお願いします。

神に許されないと登れない山

8度目のエベレスト登頂挑戦で、登山家栗城史多氏は還らぬ人になってしまった。彼の冒険を応援し、登頂成功を楽しみにしていた人も多い筈だ。彼を賞賛する人もいれば、無謀だと非難する人もいる。彼の登山技術のレベルから見ると、成功する確率は極めて低かったとする専門家が多い。一般受けはするが、専門家からは冷ややかな目で見られることが多かったらしい。彼を無茶な挑戦に向かわせて死なせてしまったのは、彼を大々的に取り上げたTV局や支援者ではないかという皮肉な感想が多いのも注目されている。

亡くなった後からそのように非難されるのは、あまりにも栗城氏が可哀想である。どうして彼の無謀な挑戦を止めてあげられる友人がいなかったのだろうか。直接インタビューをして、エベレストの単独無酸素登頂、それも難しい北壁ルートは断念するよう促した登山家もいたらしい。彼は、ルートは変更したものの、敢えて難しい登頂ルートを選択したみたいである。単独登頂という言葉を非常に気にしていたらしく、通常ルートではどうしても既設のロープや梯子を使わなければならず、それだと単独登頂にならなくて、ニュースバリューが低くなったからではないだろうか。

世界で初めてとか、単独無酸素登頂とかいうのは、ニュースになるかどうかという点で、栗城氏にとってはとても価値のあるものであったに違いない。彼は、冒険の共有という言葉を好んで使っていた。チャレンジャーとしての価値を高めるには、非常に困難なことを成し遂げる必要があるし、TVの視聴率を上げるためには何が大事なのかということが、彼の無謀な挑戦を後押ししてしまったように思える。まだこれからという若い命を、マスメディアやTV界、または芸能プロによって奪われてしまったと言っても過言ではあるまい。

世界で初めてエベレストを登頂したのはヒラリー卿だと言われている。無事に戻ってきて、その偉業を証明したのは彼だと言わざるを得ない。もしかすると、G・マロリーが登頂に成功して、その下山途中に遭難したかもしれないとも言われている。夢枕獏が著した『神々の山嶺』にそのエピソードが載っている。彼の所有していたコダックというカメラさえ見つかれば、それが証明できるかもしれない。『そこに山があるから』という著名な言葉を残した山岳家として、つとに有名だ。

しかし、この言葉は間違って伝わっているらしい。彼が2度のエベレスト登頂に失敗して、3度目の挑戦をする前に、ニューヨークタイムズの記者に「どうして、そんなにエベレスト登頂にこだわるのですか」と問われ、「それだからです」と答えたらしい。つまり、エベレストだから、その山に挑戦するんだと答えたのである。日本では、そのやりとりが「そこに山があるからだ」と意訳されたらしい。G・マロリーは三度目の挑戦でも失敗して、帰らぬ人となる。エベレストは神の山であり、神に許された人しか登れないのかもしれない。

単独無酸素でエベレストに登った登山家が、たった一人いる。イタリアのラインホルト・メスナーがその人だ。何故エベレストの無酸素単独登頂を選んだのかと言うと、ひとつは環境保全のためである。山は自然のままにあるべきだという考えをメスナーは持っている。ボルト一本でさえ山に残すべきでないし、ましてや酸素ボンベを山に置き去りにするなんて許せないと思っている。なるべく環境に負荷をかけない登山をするべきだと、敢えて単独無酸素の登頂に挑戦して成功した。彼が単独無酸素の登頂を選んだ理由がもうひとつある。エベレストは神の住む山である。長く滞在することは、神の意志に背くことだと、何よりも素早い登山を心掛けたのである。驚異的とも言えるスピードで登り下った。たった三日間という異常な速さで登山し終えたのである。

8000メートルを超える山の酸素濃度は、平地の3分の1になる。普通の人は、酸素ボンベなしでは行動できない。エベレストが神の領域と呼ばれるのは、この酸素濃度があるからだ。神々しか住めないし、普通の人は酸素なしでは長く留まれない。ラインホルト・メスナーは、8000メートル以上の領域において無酸素では長く生きれないと分かっていたから、敢えて登って下りる時間を極力少なくしようと考えたのである。ボルトを打つ時間も惜しかったに違いない。彼の登山する姿の映像を見たことがある。急坂を走るように登っていた。普段から、とんでもないスピードで登山する訓練をしていた。フリークライミングも驚異的な速度であったという。神に登ることを許されたメスナーは、単独無酸素でのエベレスト登頂をなしとげた。栗城史多氏は、神になり切れなかったのであろう。謹んでご冥福を祈りたい。