ダイアローグが西野ジャパンを活性化

サッカー日本代表西野ジャパンがロシアワールドカップで大活躍をした。戦前の予想では、活躍は期待出来ないと思われていたのに、決勝リーグまで残りベルギーと互角に渡り合えたのは、西野監督の采配とマネジメントの賜物であるのは間違いない。あんなに短い期間によくチームをまとめあげたし、選手の掌握によくぞ成功したなと感心するばかりだ。西野監督のチーム管理が成功を収めた一番の要因は、彼と選手間の徹底した『対話』にあったと言われているが、まさしくその通りだと思われる。

監督に就任してから、各選手と徹底して対話したと伝えられている。しかも、選手たちをリスペクトして、彼らの言い分にしっかりと耳を傾けて、取り入れるべき戦術の参考にもしたと聞き及んでいる。そして、選手たちとの心を開きあった対話によって、選手と監督との『関係性』が非常に良くなり、揺るぎない信頼関係が構築されたのである。監督が考えていることをチーム全員が理解して、それを一丸となって実行できたのは、対話によって彼らの『共通言語』が創造できたからに他ならない。

スポーツのチームにおいて、強くなったり成果を残したりするには、チームワークが大切であるのは言うまでもない。良好なチームワークを作り上げるには、コミュニケーションが大事だというのは誰にも共通した認識であろう。だからこそ、常日頃からの対話が必要なのである。対話というのは、モノローグ(一方的な会話)であってはならない。ダイアローグ(双方向の会話)でなければならない。ともすると、監督と選手間というのは、圧倒的に監督が優位な立場であるが故に、モノローグになってしまうことが多い。上位下達という形である。これでは、共通言語が形作れないから対話にならないのである。

日大のアメフト部のコミュニケーションは、モノローグであった。志学館大学のレスリングも同様である。ハリルジャパンも、言葉の壁もあっただろうが、ダイアローグでなかったのは確かであろう。野球の巨人がカリスマの監督を据えて、優秀で実績のある選手を金でかき集めても、実績を上げられないのは、実はチーム全体の共通言語を持たないからである。FIFAランク61位のチームが決勝トーナメントに残る活躍が出来たのは、ダイアローグ(対話)のおかけであろう。

日本人の素晴らしい精神文化を形成した根底には、「和を以て貴しとなす」という聖徳太子が提唱した価値観があると思われる。個の意見も大切であるが、お互いの意見を尊重しあい、共通の認識や意見に集約するまで、徹底した対話を続けるという態度が大切であろう。西野監督は、まさにそうした対話を続けることで、チームをひとつにまとめあげたのである。勿論、監督のリーターシップも必要である。最終的には、監督が重要な決断をしなければならないし、すべての責任を取らなければならない。今回のポーランド戦は、まさに西野監督が苦渋の決断をして、その責任を一身に背負った。あれで、チームはひとつにまとまったのである。

西野監督が、オープンダイアローグという心理療法の原理を知っていたとは到底思えないが、彼はチーム内の対話をまさしくオープンダイアローグという手法を使って活性化していたのには驚いた。各選手の話を傾聴して共感したと言われている。監督としての優位性を発揮せず、対等の立場で対話したらしい。しかも、否定せず介入せず支配せずという態度を貫いたという。このような開かれた対話をされたら、誰だって西野監督のことが好きになり、信頼を寄せる。このような対話を続けると、選手たちは自ら主体性を持ち、自発性も発揮するし、責任性を強く持つ。つまり、アクティビティを自ら強く発揮するのである。

ともすると、組織のリーダーは圧倒的な権力を持つことにより、構成員を支配し制御したがる。こうすることで、ある程度の成果は出せるものの、継続しないし発展することはまずない。大企業の著名経営者が陥るパターンであり、中小企業のオーナー経営者が失敗するケースである。家庭において、圧倒的な強権を持つ父親が子どもを駄目にするパターンでもある。ひきこもりや不登校に陥りやすいし、弱いものをいじめたり排除したりする問題行動をしやすい。組織をうまく機能させるには、開かれた対話、つまりオープンダイアローグの手法により、共通言語を形成し関係性を豊かにすることが必要である。西野ジャパンが対話によって成功したように、コミュニティケアを目指せばよいのである。

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ひきこもりが解決する方法

どんなにこじれてしまったひきこもりや不登校でも解決する共通の方法なんて、絶対にないと思っている人が殆どであろう。確かに、ひきこもりや不登校の原因やきっかけはそれぞれ違っているし、当事者や家族の考え方や置かれた環境も違っているのだから、そう思うのも無理はない。高名な精神科医やカウンセラーにも相談して治療を受けたし、改善に効果あるといういろんな方法を試してみたことであろう。しかし、今度は改善するかもしれないという期待は、残念ながらことごとく裏切られたに違いない。ましてや、ひきこもりや不登校の子どもをカウンセリングや精神科医の元に連れて行くことさえ困難なのだから、当然である。

ひきこもりや不登校の原因が、何となく親と子育てにあると思っている保護者が多いことだろう。その判断は、あながち間違いではないと思われる。しかし、それがすべての原因ではない。もっと複雑な原因やきっかけが絡み合っている。その絡み合った糸をほどけさせて、二度と絡み合わないようにすることが求められている。本当の原因を探り出して、その原因をひとつずつ根気よくつぶすしかないと、思い込んでいる人も多いに違いない。精神科医やカウンセラーはそういうふうに思っている。だからこそ、家族のカウンセリングを重要視している。しかし、そんな家族カウンセリングをいくら受けたところで、改善しないことが多いのも事実である。

ましてや、家族カウンセリングを受けるケースであっても、父親が自ら進んでカウンセリングを受けることはまずない。母親が家族カウンセリングを受けて、父親も一緒に受けるようにカウンセラーから勧められても、断ることが多い。よしんば、父親がカウンセリングを受けたとしても、カウンセラーの指示や指導に素直に従うことはないであろう。自分には我が子のひきこもりの原因がないと思い込んでいるし、母親が原因だと思い込みたい自分がいるからである。さらには、既に離婚して父親が不在だというケースも少なくない。

家族カウンセリングを行うカウンセラーや精神科医にも、家族カウンセリングが上手く行かない原因がありそうだ。まず、カウンセラーや精神科医というのは、子どもがひきこもりや不登校になった原因を追究したがる傾向がある。カウンセラーや精神科医というのは、何か家族の誰かに問題があると、その原因を分析して問題解決をしたがるのである。そして、家族の誰それにこういう問題があって、これがひきこもりの原因なので、それを解決しなさいと深く介入し、指導を行う。これが絶対にやってはいけないことなのである。

何故いけないかというと、そのように指摘されて指導された人間の気持ちになってみるがいい。そんなことを言われて、「はいそうですか、私がいけなかったのですか、直しますね」と素直に認めて受け容れる人がいるであろうか。そんな謙虚で素直な人なんて、絶対にいない。特にひきこもりを起こしている子どもの保護者は、そんなことは認めたがらない。もし、素直に認めて「解りました、努力します」と答えたとしても、それはけっして本心からではない。その証拠に、それ以降はカウンセラーの言うことを聞かなくなるし、行かなくなるに違いない。家族カウンセリングが失敗する典型例である。

人間というのは、自分に非があることを他人から指摘されるのを極端に嫌うものである。ましてや、図星のことを指摘されるのは怖いことだ。特に、変なプライドを持つ人間ほど、この傾向が強い。社会的な地位や名誉を持つ人間や教養の高い人ほど、他人の指摘に反抗したがる。こんなことを赤の他人から指摘されたとしたら、それを素直に聞き入れるようなおめでたい人間なんていない。だから、絶対にそんなことを指摘してはならないし、深く介入し、その保護者を無理に変えようとしてはならないのである。

ひきこもりや不登校をしてきた当事者は勿論のこと、その保護者たちは支配され制御されることを嫌う。それは人間なら当たり前のことである。全き自由でありたいと思うし、誰かの操り人形で生きるなんて、まっぴらご免である。ましてや、人間という生き物は、本来アクティビティーを持つ生き物である。誰からか命じられて行動するのは苦手で、主体性・自発性・自主性を自ら発揮したいのである。故に、当事者と保護者が自分のこだわりや誤りに気づき、自ら変化することを選択したいと本心から思うようになれば、ひきこもりも解決する道筋が見えてくる。現在考えられるその唯一の方法とは、オープンダイアローグ(開かれた対話)という手法である。

 

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甦る「仁」の心

戊辰戦争後150年の節目に当たる今年は、あちこちで記念事業が開催されている。当地白河市では、「甦る仁の心」というキャッチフレーズを採用して、シンボルマークを制定してPRしている。会津藩と仙台藩の東軍の武士は、戊辰戦争において白河の地で新政府軍と戦った。白河は激戦地となり、多くの東軍と新政府軍の兵士が命を落としている。明治政府側が戊辰戦争後に作り上げた歴史観によって、会津藩と奥州列藩は賊軍という汚名を着せられてしまったが、あの戦争は巧妙にねつ造されたテロ内戦であることは歴史研究家が明らかにしている。正しい歴史観によって戊辰戦争を再評価する動きも加速し、白河市も「甦る仁の心」と命名して先人の偉業を称えている。

白河市内を歩くと、仁と書かれたポスターや幟があちこちで掲げられている。自分の名前の「仁」を見つけるにつけ、何となく恥ずかしくなる。この仁の心というのは、戊辰戦争の時に白河地方の一般市民が取った素晴らしい行動から来ているという。東軍と新政府軍の分け隔てなく、戦死者を丁寧に葬り、その後も慰霊碑を立てて英霊たちを慰めていたという。戊辰戦争における戦死者のうち、長州藩など新政府軍の戦死者だけを祀った靖国神社の全身である東京招魂社とは大違いである。なお、靖国神社には西郷隆盛も祀られていない。白河の人々の、分け隔てのない慈悲深くおもいやりのある行動を称えて、甦る仁の心としたという。

元々、この『仁』という語句は、中国の儒教における孔子や孟子が人間として生きるうえで大切な心だと説いた。人が持つべき仁義礼智信の五徳の中でも、仁が最高位の徳だと主張した。仁とは慈悲の心、または人間愛のことを言う。人間として持つべき思いやりの心を指していると思われる。先年、仁JINというTVドラマが放映され人気を博した。あの人間愛にあふれた医術こそが、現在の医療界には感じられないが故に、高視聴率を得たのではないかとみられる。現代で忘れ去られてしまった仁の心を甦らさせたいと、かのキャッチフレーズになったのかもしれない。

ところで、この仁という字は単なる愛だけを示したのではないらしい。仁とは二人の人間を表していて、人と人の間の豊かな関係性ということを示しているという。つまり愛とは、人と人の間に生じるものであり、単独では存在しないということである。さらに、二人の人間というのは人間の心の中に存在する二面性も表しているとも言われている。つまり、人間の心の中に存する、善と悪、美と醜、正と邪、汚濁と清澄、裏表の関係にあるものを言うらしい。どんな人間にも、マイナスと自己とプラスの自己がある。邪悪な心や醜い心があることを認め受け入れて、その自我にある穢れた心さえも愛さないと、正しくて揺るがない善の心を発揮できないものである。つまり自我を超越した仁愛を発揮できないという意味であろう。

とは言いながら、この仁の心を無理なくあるがままに発揮できる人間がどれだけいることだろう。言い換えると、仮面を被っていて善人ぶった人間は大勢いるが、仁愛にあふれた真の善人はそうはいないということである。善人の仮面を被った悪人は、悪人よりも始末が悪い。自分の中に存在する悪を認めず受け入れていない仮面の善人ほど、社会にとっては邪悪な存在になることが多い。自分を守るために平気で嘘をつくし、人が見ているところでは善人ぶるが、誰も見ていないところでは平気で人を裏切る。忖度をする官僚や、その官僚に平気で嘘をつかせる政治家がそれである。

仁の心を現代に甦らせることは、一筋縄では行かないであろう。何故なら、客観的合理性の教育を受けた現代人は、惻隠の心が育っていないからである。か弱きものや小さきものへの愛を発揮することの大切さを、近代教育では教えてこなかったからである。行き過ぎた競争は、利己的で自己中心的な人間を生み出した。まさしく仁の心を踏みにじるような教育をしてきたのである。このような個別最適の間違った価値観にまみれてしまった人間に、関係性の大切さや全体最適の大切さをいくら説いても受け入れてもらえないだろう。しかし、せっかく「仁」という名前をもらった自分だからこそ、この仁の心を広めて行く使命を担っているのだろうと認識している。険しい道であるが、粛々と歩んで行きたい。

カジノ法案は本当に成長戦略か?

IR推進法案がとうとう衆議院から参議院の審議になる。IR推進法案とはカジノ法案とも呼ばれていて、問題が山積みの法律なのであるが、短い時間の審議であっという間に承認された。このカジノ法案に前のめりであった維新と、維新を取り込みたい安部自民党の思惑が一致した結果であろう。それにしてもこんなにも問題があるのにも関わらず、法案に賛成した公明党の姿勢にも疑問がある。社会的弱者の味方であると公言して憚らない公明党だが、実は強者の代弁者であるということが判明したとも言える。

カジノ法案は、ギャンブル依存症を増やすことになる。その歯止め策として、法案が部分修正されたが、焼け石に水である。何年か後には厳しい規制のためにカジノの運営が暗礁に乗り上げ、それをなんとか救済しようとして、法案の再修正が実施されて規制がなくなるのは目に見えている。優秀なキャリア官僚たちであるから、IR推進法案がやがて日本の荒廃を生み出してしまうことは予想している筈である。政治家の暴走を食い止める役割を担うのが官僚なのに、官邸に言われるまま行動する官僚の体たらくぶりに落胆している。

それにしても、IR推進法案は成長戦略のひとつだと胸を張る政治家たちの不見識に驚くばかりである。成長戦略とは、本来は実質経済の成長をどう導くかというものである。三本の矢に例えていて、円安誘導の金融政策、そして規制緩和、さらにはそれに伴う実質経済の成長だと主張する。しかし、いつまで経っても三本目の矢は的を射ていないのである。実質経済はけっしてよくない。庶民の生活は一向に良くならないし、国民の消費意欲が沸かず消費支出が伸びていないことからも解る。2%の物価上昇率を目指した日銀のインフレターゲットは白々しく聞こえる。円安傾向と株価の上昇は、一般国民にとっては何の恩恵もないばかりか、かえって円安による石油製品などの値上げの影響で国民生活が苦しくなっている。

そんな中で、IR推進法案を通して景況を演出しようとしているのだが、逆効果になるのは目に見えている。まず、IRの設置により外国人観光客を増やす目論見であるが、カジノを目玉にして外国人観光客が増えるかというと、そんなことはまったくあり得ない。韓国での失敗がそれを証明している。韓国の外国人観光客を目当てにしたカジノは、現在閑古鳥が鳴いている。そればかりかギャンブル依存症の韓国民が住居まで失い、ルンペンにまで身を落としている始末である。日本版のカジノも同じ状況を招くことが予想される。

もうひとつカジノ法案には問題がある。カジノの運営ノウハウを国内の業者が持たないから、カジノの運営は外国企業に任せるというのである。ということは、カジノで上げた収益はすべて外国に持ち出さられるということである。いくらかの還元が地方財政へあったとしても、収益が国民には行かないのである。何のためのカジノであろうか。大きなショッピングセンターが地方に進出して、利益が本社に吸い取られている。地方に工場が進出して、利益が本社に吸い上げられて税収は本社所在地で納められる。地方が経済的に疲弊している構図とまったく同じではないか。

都市部から地方に進出した大資本のパチンコ店が、地元資本のパチンコ店を潰している。地方の人々から、なけなしの資産を巻き上げている。パチンコ店では、年金支給日になると大勢の高齢者が列をなしている。パチンコによって生活費を巻き上げられた主婦がサラ金に手を出してしまい、やがては借金返済のためにデリヘル産業などで働かされている。経済的だけでなく家族関係まで崩壊させられている家庭がある。カジノが出来たら、こんな崩壊家庭が益々増えるのは目に見えている。こういうギャンブル依存症による貧困家庭の現実なんかを知ろうともしない政治家だから、こんな悪法のIR推進法案を通そうとしているのであろう。

政治家というのは経済的に恵まれた人間がなっている。特に政権与党の政治家は、二世議員が多いし裕福家庭の出身が多い。貧困家庭に育って苦労した人間の気持ちなんて解ろうともしない。だから、社会的弱者を救う政治を実施できないのだ。政治というのは社会的弱者や貧困が世代間連鎖しないように、経済的豊かさの再配分をする役目を担っている。IR推進法案を通すというのは、その役目を政治家が放棄するようなものである。カジノ法案は、成長戦略を実現しないばかりか、絶対的貧困家庭を益々増やすことになろう。国民のためにならないIR推進法案は、絶対に成立させてはならない法案である。

議論にならない国会審議

国会の審議をTV中継で見ていると、イライラ感が半端ない。まるで議論が噛み合わないからである。野党の質問も悪いのであろうが、その質問に対して政府与党と官僚はわざと論点をずらして答弁することが多いのである。実に姑息というのか、卑怯というのか、あざといやり方である。いつからこんな国会審議になってしまったのだろうか。安倍内閣以前も、実はこのような論点を外すやり方があったのは間違いない。しかし、すべての審議がそうではなかった。これは拙いぞという場合に限り、巧妙に逃げるケースもあった。しかし、現在の殆どの審議が野党の質問者を小馬鹿にしたような答弁になっている。国会軽視であり、許せない。

そもそも国会審議というのは、真剣勝負であってほしいものだ。堂々と正面からぶつかって渡り合うべきである。国民を代表しているという自負があるなら、姑息な手段を使って逃げずに正々堂々と論戦を繰り広げるのが筋だ。野党の質問者だって、物事の本質を見極めての議論をしていないように感じる。相手の失言を取り上げて批判したり追及したりすることは、見苦しい限りである。相手の失策を待つなんてやり方は、実に情けない。それにしても一番違和感を持つのは、相手の質問を敢えて真正面から取り合わず、わざとはぐらかす答弁の仕方である。

内閣総理大臣と言えば、国家を代表する人間である。国民のお手本となる話し方や態度が望まれる。小さい子どもたちも、見ているのである。そういう子どもたちが、あんな答弁の仕方を見ていたら、真似をしないとも言い切れない。教師から何らかの質問をされて、うまくはぐらかすことが良いことなんだと児童生徒が学んでしまったら大変なことである。親から何か問い質されて、質問の趣旨をわざと誤解してのらりくらりと答えるような子どもに育ったとしたら、大問題である。上司から厳しい質問を受けて、わざと論点を外す受け答えを部下が続けたら、その組織は崩壊してしまう。

江戸時代の政治家であり官僚でもある武士は、絶対にそんなことをしなかった。武士たるものは、大きな権力を握っていたからこそ、卑怯なふるまいをしてはならないと自分自身を戒めていた。中には、強権をかさにきて卑怯なことをした武士もいたであろうが、圧倒的に少数であった。悪いことをして露見したら、潔く認め腹を切った。さらに、自分自身が悪いことをした訳でもないのに、自分の部下が不祥事を引き起こしたら、それは自分の監督に問題があったと認め、その責任を自ら取ったのである。

ところが現政権のやり方と言ったら、実に情けない限りである。財務省の不祥事に対して、悪いことをした本人に責任を押し付けて、自らの監督責任を放棄した。さらに首相と政権を守ろうとしてウソをついたり公文書を改ざんしたりした官僚を見殺しにしたのである。自分の地位と名誉を守るために、自分を守った人を裏切るような卑劣な行為をする人に政権を任せてよいのだろうか。少しばかり経済状況を良くしたからと言っても、人の道を外れるような行為をする人間に政権を担う資格はない。そういえば、自分の部下が嘘をついたと平気で記者会見をする大学の理事長がいたが、感覚がおかしい。そんな理事長に仕える職員が可哀そうである。

国会審議で野党の質問時間を短くしようと画策するというのも情けない。何も悪いことをしていないというのなら、正々堂々と論戦を張ればよい。長く審議時間をかけると、拙いことが暴かれるのであろうか。野党の質問時間をどんどん制限して、詰まらない与党の質問時間を長く設定するという姑息な手段はいただけない。こんな酷い政権は、今まで記憶にない。自民党の議員たちは自浄作用が働かなくなったのだろうか。こんな卑怯な政権と官邸に対して何も言えないというのは実に情けない。自民党の長老やご意見番たちも、権力者に何も言えないとしたら腐っている。

正しくて活気のある国会審議を期待したい。その為には、野党も質問に対する工夫が必要である。逃げられないように誤魔化しができないような質問にしなくてはならない。自分の意見をとうとうと述べるような、自己主張の強い長い質問ではなくて、短くて核心を突く質問でハイかイイエで答えられるようにするのが望ましい。YESかNOで答えられるように、追及するしかない。元々、そんな逃げの答弁をすること自体、限りなく怪しい。嘘をついていることが明らかであるのは、賢い人間なら誰でも解る。やましいことがなければ、あんな卑劣な答弁なんて必要ないからである。聞いていて面白くわくわくするような国会審議にしてほしい。

 

富山の交番襲撃事件に思うこと

富山市の交番が襲撃されて、警察官が刺されて殉職し、奪われた拳銃で警備員が射殺されたという痛ましい事件が起きた。亡くなられた方々のご冥福を慎んで祈りたい。それにしても、残忍な事件が相次いで起きている。ついこの前は、新幹線内で悲惨な殺傷事件が起きた。共通しているのは、不登校からひきこもりの経過をした青年で、家庭内暴力があったらしいとのことである。くれぐれも言っておきたいが、ひきこもりで家庭内暴力を奮う若者がすべて危険だとは、絶対に思わないでほしい。そんな色眼鏡で見ることだけはしないようにと、強く言っておきたい。

彼らが悪くないとは言わないが、特別に凶悪な人間だとは思ってほしくない。マスメディアは、このような凶悪事件が起きる度に、いかに彼らが異常だったかのような報道をする。そして、自分たちは正常だと言わんばかりに批判するし、彼らの親に対しても攻撃的な報道が行われる。果たして、そんな報道だけで良いのだろうかと、凶悪事件の報道に接する度に思ってしまう。こんな凶悪事件が起きると、犯人からの攻撃からどのように守るかという再発対策だけを取り上げる。本来は、こういう悲惨な事件を起こさないような社会を創造するために、コミュニティケアについて議論すべきだろうと思う。

凶悪事件を起こした家庭では、家族というコミュニティが機能していなかったと見られている。おそらく親子関係は希薄化、もしくは劣悪なものになっていたように言われている。さらには、親どうしの夫婦関係にも問題があったとも想像できる。そうなってしまった原因は、彼ら家族だけに責任がある訳ではないと思える。社会全体や地域全体のコミュニティに問題があったように思えて仕方ない。コミュニティ(生活共同体)は、それを構成する人のお互いの関係性によって成り立っている。その個人に問題があるのではなくて、その関係性にこそ問題の根源があると見るべきだろう。

不登校とひきこもり、または生きづらさを抱える社会人とその家族を支援していて感じるのは、その当事者だけでなく、そこに生きている社会というコミュニティ、学校や職場、または家族の関係性にこそ問題の本質が隠れているという実感を持つことが多い。つまり、関係性が希薄だったり劣悪だったりした時に、いろんな問題が起きているのである。ということは、この関係性を改善することが出来れば、諸問題が解決する方向に向かうと確信している。言い換えると、問題の責任は本人とその家族だけでなく、社会を構成している我々にも責任があるという訳である。

新幹線殺傷事件や交番襲撃事件の犯人たちは、この社会に相当な生きづらさを抱えていたに違いない。そして、この生きづらい社会に適応するのが困難であり、相当悩んで苦しんでいたに違いない。そんな彼らを助けてあげることが出来なかった我々に責任がないとは言い切れないと思われる。甘ったれたことを言うな、みんな生きづらさを抱えても頑張っているんだという方もいるに違いない。確かにその通りである。それでもみんなその生きづらさを抱えながらも懸命に仕事したり学業に精を出したりしているのだ。だから、人のせいにしてはならないというのも正論なのである。

だとしても、こういう生きづらさを抱えて、犯罪行為を起こしてしまうまで、社会に対する怒りを増幅させる前に、誰かが救えなかったのかという思いがある。子どもがひきこもりであり家庭内暴力で悩んでいる家庭のご両親から相談を受けることが多い。そういうケースの場合、家族の関係性に問題を抱えていることが多く、特に父親が子どもに対して嫌悪感を持つことが多い。あまりにも父親が子どもの生き方を認めたがらず、子どもの言い分に耳を傾けないケースが多いのである。確かに育てにくい子どもだということがあるが、あるがままに子どもを敬愛して信頼する気持ちが少なく、良い子でなければ愛さないと頑固な態度を取ることが多い。

そして、父親の子どもに対する見方を、そのまま母親が認めて、同じように対応していることが多い。こういう場合、今までどのように治療していたかというと、家族療法という形で、家族に対するカウンセリングを実施するケースが多かった。ところが、こういう問題の家庭において、父親は聞く耳を持たないし、そもそも家族カウンセリングを拒否することが多い。いくら周りの人が助けの手を差し伸べても、その助けを受け入れることは少ない。このような場合、オープンダイアローグこそが有効だと確信している。否定せず、介入せず、あるがままを認めて受け入れる「開かれた対話」であるなら、両親も自ら変化するに違いない。このようなコミュニティケア的支援を、社会がして行く責任を負っているのだと強く思っている。

 

※イスキアの郷しらかわでは、オープンダイアローグの研修会を開いています。また、求めがあれば、社会的コミュニティケアを支援いたします。お子さんのひきこもりや家庭内暴力でお困りの方は、お問い合わせください

薬物治療をしない精神科医

最近、原則として薬物治療をしない医療を実践する医師が増えてきている。実に好ましい動きだと思う。しかし、これはごく一部の小児科医や内科医だけであり、外科系の医師はそんなことは絶対に無理だと認識している。ましてや、精神科の医師は薬物投与なくしては、精神疾患を治療出来ないというのが共通認識であろう。医師はもちろんのこと、患者も薬物治療をしないで治すことなんて不可能だと思うに違いない。日本の精神医療で、薬物を用いないで治療を施す医師なんている筈がないと思っていた。ところが、実際に薬物治療をしない精神科医に、昨日出会ったのである。

実に不思議な出会いだった。たまたま一昨日フェイスブックのイベント開催のお知らせが入り、実に面白そうな内容だったので急遽参加することにした。インド古来の医療であるアーユルヴェーダを活用した精神医療の研修会だった。茨城県袋田病院の新人ナースの為に研修会を開催するに当たり、一般の人々にも聞かせたいとアーユルヴェーダの診療補助をしている女性の方が講演を行ったのである。その講演内容も興味深いものであったが、実際に診療をしている医師も同席していたのである。袋田病院の精神科医でアーユルヴェーダの精神科医療を実践している日根野先生がその人である。

日本の医療保険制度というのは、精神医療においては薬物治療を前提にして制定されている。院外処方だから患者を薬漬けにしても、精神科医の収入は増えないと主張する医師もいる。しかし、薬物治療をしないと一人当たりの診療時間がとてつもなく必要になるから、ある程度の診療人数をこなせなくなり、診療報酬がもらえなくなる。そんな馬鹿なと思うかもしれないが、日本の医療保険制度は実に愚かな厚労省の官僚によって制定されているのである。故に、薬物治療をしない精神科医は病院では冷たい目でみられる。医療経営が成り立たないのだから、当然である。

例えば、通院の精神療法は1時間行ったとしても診療報酬は400点(4,000円)だけである。精神科医の一時間時給は、まず10,000円を下回ることはない。だとすれば経営上6,000円のマイナスとなる。臨床カウンセラーの資格者がカウンセリングを1時間弱実施すれば、10,000円以上の費用を請求される。それよりも精神科医の報酬が少ないなんてことがあり得ない。しかし、厚労省が規定した精神科の診療報酬算定基準ではそうなっている。だから、精神科医は患者数をこなせるように、薬物治療に頼るしかなくなるのである。国の制度が悪い。精神科医療は、民間営利には馴染まなく、国立病院が担うべきであろう。

袋田病院の日根野先生は、敢えて問題がある保険診療の範囲内で治療を実施されている。自費診療では、患者負担が大き過ぎるので、診療機会を奪ってしまうからと思われる。患者さんに優しいから、採算を度外視してていねいに診察していらっしゃる。おひとりの患者さんに再来でも基本1時間の診察をしていらっしゃるという。薬物は用いず、アーユルヴェーダを基本にした精神療法や心理療法だけの「対話」で診療をされている。それも患者さんを否定することなく、介入することなく、ただ患者さんの尊厳を認め受け入れるだけの「開かれた対話」で症状を緩和されているという。素晴らしい理想の診療である。

このような採算度外視をするような診療を許している、袋田病院という民間病院の経営者も素晴らしい。的場院長を初めとして、職員一丸となって患者ファーストの医療を実践しているからと思われる。こんな素敵な精神病院が、茨城県の片田舎の町にあるというのが奇跡とも言える。日根野先生以外の精神科医は、近代医療の治療を実施しているらしいが、患者さん本位の治療を基本としているのは間違いないだろう。こんな精神科クリニックが増えてほしいものである。

この袋田病院の日根野先生の行う、アーユルヴェーダを基本にした薬物投与のない診療は残念ながら週1回だけとのこと。患者さんが増えれば、病院側も診療日を増やしてくれるかもしれない。いきなり診察を求めて病院に行っても、予約診療なので診察をしてもらえない。事前に病院の担当者に電話して、予約をしてから診察してもらうことになる。人気があるので2か月先くらいになるかもしれないとのことだが、希望者が多くなればもう少し早く診察してもらえる可能性もあるだろう。茨城県県北の大子町にある袋田病院が、日本の精神科医療を大胆に変えて行くフロンティアになる可能性を秘めている。実に楽しみである。

 

日本の医療は患者ファーストでない

日本の医療制度は世界に誇る国民皆保険制度で、他のどの国よりも恵まれていると思っている人が多いことであろう。しかし、現実はまったく違う。日本の医療制度は、医療を提供する側と薬品会社や医療器械の企業に有利になるように仕組まれている、世界でも最悪の医療制度だと言えよう。そんなことはない、望むならすべての国民が平等に医療を受けることが出来るし、医療保険が適応され少ない自己負担で済むから、とても恵まれていると主張することであろう。医療技術のレベルも高いし、薬品開発や医療器械の高度化も進んでいるから、日本の医療は素晴らしいと思い込まされている人が殆どである。

確かに日本の医療は、診断技術や外科的治療のレベルでは、世界最高の評価を受けているのは間違いない。しかしながら、内科的慢性疾患や精神疾患で、完治した人で再発しない患者がどれだけいるであろうか。日本の医療による恩恵で、病気から完全に離脱できて二度と再発しないという人がいたならお目にかかりたいものである。勿論、ごく一部の例外はある。外科的治療や統合医療などで疾病を完治させた人がいない訳ではない。しかし、多くの患者は症状を抑えるだけの対症療法に追い込まれ、慢性的に薬漬けにされている。

日本の医療費は年々高騰し続けている。高齢者が増えているし、高度な医療や高額な医薬品が開発進化しているから当然だと多くの人が思い込ませられているが、そんなことはまったくのウソである。素晴らしい医薬品が開発されているのだから、疾病は完治される筈なのに、患者数は少なくなっていない。逆に増加しているのである。人口は減少しているのに、罹患率と投薬されている医薬品の金額が年々増加しているという不思議な現象が起きているのである。

ひとつの極端な例をあげてみたい。うつ病を劇的に治すと言われて、多くの患者に処方されているSSRIとSNRIという薬がある。この医薬品は、うつ病に効くし副作用がないという触れ込みで精神科以外の一般内科医でも処方されることが多い。それだけ効き目のある医薬品なのだから、うつ病患者は、相当減少すると思われていた。ところが減るどころか、2倍から3倍に患者数に急増したのである。そして、うつ病患者は増加し続けている。この抗うつ剤だけでなく他の薬剤も、一度飲み始めたら一生飲み続けなければならなくなることが多い。皮肉なことに、精神科の治療によって薬物依存になっているのである。

メンタル不調になる時に最初に起きる症状は、睡眠障害であることが多い。こういう症状を患者が訴えると、ほとんどの医師は睡眠導入剤や睡眠薬、または精神安定剤を投与する。そして、この睡眠導入剤や睡眠薬を減薬・断薬することを薦める医師はいない。やがて、効かないという訴えに対して、益々強い睡眠薬に変更する。そして精神安定剤から抗うつ剤や向精神薬へと進んでいくケースが多い。睡眠障害を訴えてきた患者に、適切な精神療法や心理療法で改善してあげたら、精神疾患にならずに済んだであろう。

生活習慣病などの慢性疾患や精神疾患を治療する医療機関において、減薬・断薬を薦める医師はどれだけいることだろう。かなりの少数であることは間違いない。何故ならば、そんな指導をすれば医療経営が成り立たなくなるからである。日本の医療保険制度は出来高払いになっている。投与した薬剤、施術した治療はすべて保険者と本人に無条件で請求できる。普通の営利企業なら、製品やサービスを購入して代金を支払ってもらい収益を得る。その効果や成果がないと苦情になるし二度と購入してもらえない。医療だって、完全な効果や成果をあげて、その対価を支払うべきなのである。完治させたら報酬を得る制度にすればよいのに、どういう訳か日本の医療保険制度は症状を悪化させても慢性化させてしまっても報酬を得るのだ。

日本の医療制度は、実に不思議である。症状を完全に抑えて断薬をして、完治させたら多額の報酬を支払う制度にすればよいのに、その真逆になっている。患者を治さずに、長い期間に渡り薬漬けにしたほうが多額の報酬を得る制度なのである。そんな保険制度にしてしまった厚労省が愚かなのである。元々、医療は民間の営利企業が行うべきではない。できれば、国が医療を担うべきである。何故なら、営利を目的にすれば、患者本位の医療にならないからである。患者ファーストを謳うのであれば、まずは減薬・断薬をするべきだ。完治することを目標にして、慢性化しないように医師は努力しなければならない。それが本来の患者ファーストの医療なのである。

メンタル不調の特効薬はないのか

不登校やひきこもり、そして休職をするひとつの要因にメンタル不調がある。そして、そのメンタル不調が改善しなければ、不登校やひきこもりからの脱却も難しいし、休職からの職場復帰の可能性も低くなる。勿論、完全にメンタル不調を完治させなければ復帰出来ない訳ではないが、完治しなければメンタル不調の再発も多いから、何度も休職を繰り返してしまう。そして、このメンタル不調を治癒させるのは、非常に難しい。メンタル不調を治す特効薬がないからである。

メンタル不調をある程度軽減する薬はある。また、カウンセリング、マインドフルネス療法、認知行動利療法、家族療法、ナラティブセラピーなど、各種の心理療法や精神療法によって症状を軽減することは可能であろう。実際に、様々な心理療法や薬物治療によって症状が和らいで社会復帰するケースが少なくない。しかし、どうやってもメンタル不調が改善しないケースがあるし、休職を繰り返す職員もいるし、不登校やひきこもりに何度も陥る生徒や学生も少なくない。メンタル不調を治す特効薬は存在しないのである。

メンタル不調が改善しないのは、学校や職場の環境が変わらないという事情もある。ある程度症状が改善して学校や職場で出始めても、本人にとってはまた同じ辛い環境に置かれてしまえば、メンタル不調を再発するケースが少なくない。職場や職種を変えたり会社を変えたりしても、不思議と同じような苦しい環境に遭遇することが多いし、同じような嫌な上司に巡り合ってしまう。学校を転校や転学したとしても、また嫌な学友や教師と出会うことが多いのも事実である。学校と職場は、とこに行っても心が傷ついてしまう生きづらい場所である。社会全体が生きづらいのだから、どこに行っても同じ境遇になるのは当然である。

ということは、各種の心理療法や薬物治療を受けたとしても完治するケースが非常に少ないし、社会復帰することが困難であるということである。そして、このメンタル不調と生きづらいと感じる心を改善する完璧な方程式は存在しないということであろう。ましてや、メンタル不調に陥った人の生まれ育った養育環境も様々であるし、考え方や認知傾向もそれぞれ違っている。親の価値観も違うし、本人が獲得した価値観、またはメンタルモデルも相違点がある。さらにやっかいなのは、固定されたメンタルモデルは余程のことがないと変えられないのである。だから、メンタル不調は治りにくいのである。

メンタル不調を治す特効薬や方程式があったとしたら、こんなにも患者が多くない筈である。そして、年々増えて行くこともあるまい。うつ病に劇的に効くと言われて登場したSSRIは、逆にうつ病患者を何倍にも増やすという不思議な現象を引き起こしている。統合失調症の患者は、次第に強い薬を処方され続けて、最後は大量の薬漬けにされるケースが非常に多い。減薬・断薬に積極的に取り組んでいる精神科医はほんの一握りだけである。日本の精神医療というのは、実に貧弱だと言えよう。

メンタル不調を治す特効薬もないし、これぞという精神療法や心理療法がない中で、一筋の光明が見えてきたのである。それは、フィンランド発の治療法でオープンダイアローグという精神療法である。今までの精神療法や心理療法では、メンタル不調の原因やきっかけに注目して、その原因をつぶす対策の治療方針を立てて、治癒を目指して努力してきた。ところが、このオープンダイアローグは完治を目指さないのである。メンタル不調の原因を突き詰めたり、病理を明らかにしたりしないのである。薬剤投与も極力しないし、入院治療も積極的にしない。それなのにメンタル不調が完治するし、再発も極めて少ないというのだから驚くばかりである。

このオープンダイアローグという手法は、「開かれた対話」と訳されていて、ただ対話を徹底的に繰り返すだけである。それも参加者全員が心を開いて、傾聴し共感するだけである。患者と家族などの関係者と複数のセラピストや医師がミーティングを、発症の24時間以内から連日に渡り10日以上も行う。統合失調症は精神疾患の中でも非常に治療が難しく、薬物治療が必須であり、予後もけっしてよくない。入院期間も長期になる難治性の疾患だ。それがこのオープンダイアローグによって完治して再発しない患者が続出している。このオープンダイアローグは、PTSD、パニック障害、うつ病、双極性障害などのメンタル疾患にも有効であり、ひきこもりにも有効だと言うのだ。こんな夢のような治療法が日本でも広がれば、精神医療に革命が起きるに違いない。大きな期待を抱いている。

 

※イスキアの郷しらかわでは、オープンダイアローグの研修会を開催しています。個人レクチャーもいたします。実際にこのオープンダイアローグの研修を受けた、ひきこもりでDVをする娘さんの対応でお困りのご両親が、問題行動をするお子さんの本心がよく解るようになったとびっくりされていました。研修を受けただけで、自分の言動を自ら変革しようと決意されたのです。ひきこもりや不登校のお子さんを持つ保護者の方にお薦めです。

新幹線内無差別殺傷事件に思うこと

またもや新幹線内で悲惨な事件が起こされた。犠牲になられた方とご家族に謹んでお悔やみを申し上げたい。それにしても、治安の良い日本の、それも新幹線という誰でもが利用する安全な乗り物の中でこんな凶行事件を起こすなんて信じられないし許せないことである。多くのマスメディアは、こういう凶行事件が起きる度に、なお一層の安全対策を求める声を大にして訴える。しかし、誰でも何時でも制限なく乗れる公共交通機関においては、このような凶悪事件が起きることを防止するのは基本的に難しいのが現状だ。自分で自分の身を守るしかないのであろうか。

こういう無差別凶悪事件が起きる度に、殆どのマスメディアは安全対策が不十分だからこんな事件が起きるという論調になる。そして、犯人がいかに凶悪で特別な人間であり、こんな人間は絶対に許せないと主張する。そして、マスメディアはどうしてこんな凶悪な犯人が生まれたのかという分析をして、親の養育に問題があったと結論付けてしまうことが多い。このような人間を生み出してしまったバックグラウンドや社会の歪みや闇までも明らかにして行こうという意思は感じられない。本当の再発対策は、こういう人間を生み出さない社会を創ることではないかと思うのだが、そこまで到達しないのが不思議である。

犯人の素顔や養育環境が、少しずつ明らかになってきている。子どもの頃に不登校になり、やがて引きこもりの状態になっていたという。世の中に非常に多いパターンである。そして、両親の手を離れ祖母の家に居候していた事実が明かされている。とても育てにくい子どもで親と仲違いしていたので、祖母に養育を任せていたという。父親のインタビューの返答がすごい内容である。こんな事件を起こした原因と責任は、あくまでも本人にあり、どのようにして償うかは本人次第だと言っていた。こんなにも子どもに対して冷たい親が存在するなんてびっくりである。

確かに、成人したらすべて自己責任である。だとしても、いつまで経っても親子の関係は断ち切れない。どんなに年齢を重ねても、我が子を思う親の愛情はある筈である。それなのに、この犯人の父親には我が子を思う情愛がまったく感じられないのである。今まで、いろんな無差別凶悪事件の犯人像を見てきたが、やはり父親の愛情が希薄であったように思う。どんなに厳しい子育てであっても、その根底に愛があれば良い。しかし、愛情の欠落した躾は、子どもに悪影響しか与えない。

父親のインタビューでさらに驚くことが語られていた。子どもは家庭内暴力を奮っていたらしいが、父親自身も子どもを虐待していたと認めていたのである。暴力は連鎖するし、世代間にまたがって伝わっていく。この若者が無差別な存在にまで暴力を奮うようになったのは、暴力の連鎖によるものであろう。そして、この父親だけにその責任を押し付けるのは、筋違いとも言えよう。この父親だって、その祖先からもまた愛情をかけられなかったに違いない。愛情を持って育てられた経験のない親は、子どもを心から愛せない。

このような家庭は、今非常に多い。このような親子・兄弟の関係性が破綻した家族を機能不全家族と呼んでいる。そして、この機能不全家族を生み出した張本人は、我々であると言っても過言ではない。つまり、今回引き起こされた無差別殺傷事件の根本原因は、この歪みのある社会を構成する我々にあるのだ。この犯人の両親も、そしてその親もまた機能不全家庭で育った可能性が非常に高い。犯人の祖母のインタビューを聞いていても、やはり孫に対する愛情が感じられない。こういう機能不全家族を生み出したのは、間違った教育を続けてしまったこの社会にある。

子どもを愛せない、または子どもの愛し方が解らないという親が増加している。それは基本的に、社会教育と家庭教育が機能していないという証左でもある。しかし、そればかりが原因ではない。添加物過剰の食事などにも原因があるし、農薬や化学肥料を過剰使用した農産物にも原因がある。また、必要以外のワクチン使用や抗生物質などの乱用、または薬物の過剰使用にも原因があると言われている。これらによって腸内環境の悪化が起きて、脳内ホルモンの異常を生み、セロトニン、オキシトシン、ノルアドレナリンなどの分泌不足が起きて、親の愛情不足を生み出しているとも言えよう。このような社会の歪みや闇を放置した我々にも責任がある。二度とこのような無差別凶悪事件が起きないように、我々自身が社会変革に乗り出したいものである。