本音での親子対話が途絶える時

親子の対話がほとんどないという家庭が多い。または、日常的な会話はあるけれど、本音で語り合うことはまったくないという家庭が少なくない。おそらく、本音で対話(ダイアローグ)をしている家庭は皆無に近いであろうと思われる。それは、親と子のどちらかに原因がある訳ではないが、そうなった責任は親にあると言えるだろう。何故なら、そのような親子の関係性を築いてしまったのは、年齢的にも力関係でも上にあるのは親だからだ。

いや、我が家では娘といつも友達のような会話をしているという母親がいるかもしれない。確かに、テレビ番組、タレント、ゲーム、料理、飲食店、ファッションのような話題で盛り上がっている母娘は少なくない。しかし、その話題は非常に薄っぺらであり、もっと人間の根源的な生き方とか、人間の闇を抉り出すような話はしていない筈だ。実は、そういう話こそが子どもたちは求めているにも関わらず、父子の間でも常に避けているのだ。

何故、本音で語り合うことを止めてしまったのかというと、子どもが信頼するに足りるような親としての姿勢を見せていないからであろう。または、親が子どもの本心に向き合っていないし、本心を解ろうとする努力をしていないからだ。子どもというのは、観るもの聴くものすべて初めてのことだらけである。自分も含めて幼い子どもの時を思い出してほしい。どうして良いか分からない時は、親に気兼ねなく尋ねたに違いない。でも思春期を迎える頃には、大切なことほど親には聞けなくなってしまうのである。

子どもというのは好奇心が旺盛である。自分がどういう存在であり、何故生まれてきたのか、そしてどこに向かって生きて行けばいいのかを自分に問い続けている。しかし、残念ながらそういう問いに対して、的確に答えられる親が居ないのである。親自身がそんな問いに答を導き出せる、正しくて高邁な価値観を持っていないし、科学的に明確な哲学を知らないのである。そんなこと、誰も教えてくれなかったし、自分でも学ぼうとさえしなかったのだから当然だ。自分の親もそして周りにも、哲学を語れる人は存在しない。

本来、学校の教師やお寺の僧侶、そして神主や禰宜というのは、そういう哲学を教示してくれる存在だった。または、職場の上司や経営者は科学的に正しい経営哲学を持っていたものだった。松下幸之助、本田宗一郎、稲森和夫等はそういう経営者だ。今は、一部を除いて『人生の師』はいなくなってしまった。世の中の親は、子どもに対して自信を持って哲学を語れなくなっているのである。学校や職場では、昔は哲学の話で盛り上がったものだった。それが出来なくなったのは、文科省が学校教育で哲学を排除したからである。

子どもの前で、試しに哲学的な話をしてみれば解る。子どもは目を生き生きと輝かせて、話に耳を傾ける筈だ。子どもの純粋な心は、そういう哲学の話が大好きなのだ。私は、子どもたちにいつも哲学的な話をしていたものだった。長男なんかは、私の話に涙を流して感動したと喜んでいた。三男とは、食卓において『エディプスコンプレックス』や『倫理的に何故人を殺してはならないのか』という話題で盛り上がったこともあった。

今の親たちは、子育てにおいて一番大切な話を避けているように感じて仕方がない。自分の本心を覚られるのを避けたい気持ちがあるのか、または自分が仮面(ペルソナ)を被った偽善者であることを見抜かれるのを無意識のうちに逃げているのか分からないが、本音での親子の対話がない。自己マスタリーを成し遂げていない、言い換えると自己の確立や統合をしないで逃げてきた自分だから、本音で対話するのが怖いのであろう。自分を心から信頼していない人間は、自分の本心を語れないのである。

現代人の殆どがアイデンテティの確立、つまり自分がありのままの自分であることを認め受け容れるという自己証明をなしとげていないのである。そんな大事なことを、考えたことも意識したこともないであろう。それが日本人の一番不幸な部分である。だから、本音で子どもと語ることが恐怖なのである。自分の嫌な自己、恥ずかしい自己、醜い自己をないことにしてしまい込んでいる自分だから、それを見透かされるようで怖いのだ。夫婦間でも親子間でも、本音の対話が途絶えているのは、真の自己確立をしていないからである。

 

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味覚異常による深刻な危険性

日本人に味覚異常、または味覚障害が急増しているという。なにしろ、若者たちは味の濃い料理しか美味しく感じないというから困ったものだ。それも刺激的な味の食事しか美味しくないというのだから深刻だ。チェーン店で提供されるファストフードは、塩味が強く甘みが濃いものでないと売れない。インスタント食品も塩味が強くて辛いものがもてはやされる。食べログなどで点数が高く人気のある飲食店で食べる食事なんて最悪である。素材の味が感じられなくなっているほど化学調味料で胡麻化しているだけだ。

清涼飲料水やお菓子なども同じである。甘味や塩味は限界を超えている。コンビニ店で販売されているコーヒーなんて最悪である。コーヒー色がついた、ただ苦みとえぐみだけで、粉っぽいお湯を飲まされている気分になる。コーヒー本来の旨味・甘味・酸味なんて皆無である。あんなコーヒーもどきの水を美味しいと毎日飲んでいるのだから、味覚異常は相当に酷い。そして、深刻なのは自分が味覚異常だと気付いていないことだ。

味覚異常は若者だけに限ったことではない。高齢者にも多いのである。長期間に渡り糖尿病の治療を受けている人や生活習慣病で長期投薬を受けている高齢者にも味覚異常が多い。塩味が感じられなくなっているから、醤油やソースを大量に使用する。砂糖を大量に入れて煮物などの料理を作らないと美味しく感じられない。味覚異常が深刻になると、食べ物が美味しく感じられなくなり、摂食障害までも引き起こす。栄養失調にもなってしまう。

このような味覚異常者が増えてしまうと、飲食店の料理人や食品企業の商品開発担当者が味覚異常者であるというケースも出てくる。ましてや、大多数の消費者が何らかの味覚異常であるとするなら、味覚異常の提供者が味覚異常のある消費者に販売しているという構図になってしまう。これでは、正しい味覚を持った人に美味しい食が提供されなくなってしまうのである。日本の伝統的食文化が、味覚異常によって破壊されてしまうではないか。

味覚異常はどうして起きるのかというと、化学調味料や大量の食品添加物などによる原因もあろうが、亜鉛の欠乏によっても起きると言われている。日本人の食生活は乱れている。偏った食事にもなっているし、ファストフード、ジャンクフード、インスタント食品、コンビニの弁当・おにぎり・惣菜で賄っている人が多い。当然、亜鉛の不足した食事になっている。また大量の農薬・化学肥料を用いて生産された農産物は亜鉛が欠乏している。さらにある種の食品添加物は亜鉛の摂取を阻害しているのである。

こうした味覚異常は、さらなる偏食を助長していく。そうなると、亜鉛不足は益々深刻になるばかりでなく、腸内環境も悪化する。胃腸の不具合は日常化し、便秘や下痢で苦しむ人が増加している。腸内環境が悪化すると、うつ病などの気分障害も発症しやすいし、肥満になりやすい。亜鉛不足は性ホルモンの異常を来たすので、男女共に性不感症になりやすい。皮膚炎やアレルギー疾患も引き起こしやすい。生きる気力さえ失うことが多い。

味覚異常を亜鉛のサプリメントで補い改善するという方法があるが、いろんな副作用も報告されているので薦められない。やはり、食生活の改善で亜鉛不足を解消するしかない。まずは、食生活において食品添加物の少ない食品を食べることである。また、なるべく農薬や化学肥料の少ない農産物を食べることを薦める。そのうえで、亜鉛の含有量が多い食品、牡蠣、牛肉、豚レバー、鶏肉、いわし、鯖、抹茶、大豆製品などを摂取することだ。是非とも薦めたい食材は、天然の山菜である。わらび、ぜんまい、こごみ、うど等の春の恵みである。特に多いのはコゴミ(クサソテツ)だ。もし春に沢山採れたら、冷凍または乾燥して保存するとよい。コゴミを食べるとアレルギー症状が軽減する。

味覚異常は、正しい食生活をしてストレスを貯めないようにすると、治ると言われる。強度のストレスがあると、唾液の分泌が減って味蕾(みらい)の働きが悪くなると言われている。また、多少まずいと感じても化学調味料に頼らず、薄味の食事に慣れることである。外食を控えて、自分で伝統的な和食を中心にした食事を摂るとよい。カップ麺を美味しいと感じて、毎日カップ麺を食べないと気が済まなくなっている人は、間違いなく味覚異常だと思われる。カップ麺依存症は、人生をだいなしにしかねない。味覚異常は深刻な異常ではないと思って放置すると、数年後にとんでもない痛い目に遭うことであろう。

母性愛を発揮できない原因

母親からの我が子への虐待事件が後を絶たない。自分が産む苦しみを乗り越えて、ようやく誕生した我が子を何よりも愛おしく思うのは当然の筈だ。それなのに、どういう訳なのか我が子を可愛いいと思えない母親が実際に存在する。そして、そういう母親はどうして我が子を愛せないのか不思議に思うと共に、母性愛を発揮できない自分が駄目なんだと自分を責めとしまう。本来は、我が子を目に入れても痛くない筈なのに、母性愛を発揮できる母親とまったく母性愛を感じない母親がいるのはどうしてなのだろうか。

それは、どうやらエストロゲンという女性ホルモンやオキシトシンという神経伝達物質(通称:脳内ホルモン)に関係しているということが判明した。妊娠と出産というのは、女性にとっては人生の一大事である。そして、この一大事を無事に成し遂げることが出来るように、人体のネットワークシステムは様々な工夫を凝らしている。各種のホルモン分泌を抑制したり、より多く分泌させたりして妊娠と出産を安全に成功させるのである。

妊娠中から出産にかけては、エストロゲンを母体に対して十分に分泌させる。しかし、出産した途端に、エストロゲンの分泌を減少させてしまう。どういう理由かというと、エストロゲンを大量に出産後も分泌させ続けると、一人で育児の何もかも頑張りすぎてしまうからだと言われている。それで、エストロゲンの分泌を少なくして、出産後の母体を休ませるみたいである。または、出産後の育児は配偶者も含めて周りの人々が共同で行うことができるように、エストロゲンの分泌を抑制するのだと考えられている。

人間というのは長年の進化によって、適切なホルモンの分泌をするようになったと思われる。出産後にはそれでなくても母親ばかりに育児の負担が集まる。それを抑制して、母親が頑張り過ぎないようするのと、共同育児というシステムのほうが、赤ちゃんが健全に育つからという理由でエストロゲンの分泌を低下させるのだと推測される。あまりにも赤ちゃんを可愛いいと思い過ぎて、他の人に赤ちゃんを渡したくないと思うのを阻止したのではなかろうか。夫も育児に参加して、義理の両親も育児の手伝いをしやすくしたのだろう。

ところが、このホルモン分泌の微妙なシステムを母親が知らないが故に、産まれた我が子を可愛く思えず、授乳や抱っこすることに違和感を覚えてしまうのかもしれない。そして、そんな気持ちが起きるのは、自分が母親として失格なんだと責めるようになる。酷くなると、育児ノイローゼになったり、育児を放棄したり虐待をしたりするケースにも発展することがある。これが、母性愛を発揮できなくて、逆に我が子を虐待してしまう訳である。

ところで、世の中には母性愛を十分に発揮することが出来て、我が子を愛おしくたまらないと思う母親が存在する。どちらかというと、このような母親のほうが圧倒的に多い。エストロゲンの分泌量が減るというのに、どういう訳なのだろうか。それは、夫が育児に対して協力的である場合である。または、周りの人々が育児に積極的にかかわった場合には、安心して母性愛を発揮できる。共同育児が可能だと確認するとエストロゲンが出るらしい。

パートナーが育児に対して非協力的であり、周りの人々もまた共同育児に対して消極的であると、エストロゲンの分泌は低下したままになるという。そうなると、育児期間中は母性愛を我が子に注げないという不幸を背負ってしまう。慈しみを持って抱っことか授乳をすることが出来なくなる。泣き続ける我が子に怒りさえ覚えてしまうのである。子どもは愛情が不足して、愛着障害やHSP(ハイリーセンシィティブパーソン)になる危険性が増してしまう。ましてや、エストロゲンが出ないとオキシトシンの分泌不足が起きて、いつも不安や恐怖感に襲われて不眠になり、産後うつになることもある。

その後もエストロゲン不足が続くと、我が子に対する母性愛が正常に育たず、育児放棄や虐待のようなケースになり兼ねない。または、我が子を良い子に育てようと頑張り過ぎて、子どもをあまりにも支配したりコントロールしたりする。世間でよく言われる「毒親」になってしまう危険性がある。子どもはいつも愛に飢えて育つことになるから、HSPやパーソナリティ障害になり、不登校やひきこもりの状態になる危険性も高まる。だから、産後は特にパートナーは妻に寄り添い支えて、育児や家事に積極的にならなければならない。共同育児という考え方を取り、周りの人々も積極的に育児参加したいものである。

 

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アスリート育成は科学と哲学で

またまたスポーツ界にパワハラ育成の不祥事が発覚した。女子体操、パワーリフティング、そして日体大の駅伝競技部にパワハラによる選手育成があったという。いろいろと背景や事情があるにせよ、スポーツ界というのは根っからのパワハラ体質らしい。根性論やら精神論がまかり通る古い体質がいまだに残っているというのが驚きだ。ましてや、指導者が選手を管理して統制し、さらに制御する育成の仕方が横行しているというのが情けない。

根性論や精神論を用いて、選手を管理して制御する方法で育てるという考え方は既に古い。今は、普遍的で正しい科学的な手法で選手を育成するのが主流となっている。そうしないと選手たちが納得しないし、成果が上がらない。昔の選手なら、トレーニングをする理由とその効果を科学的に説明しなくても、コーチを信じて従っていた。しかし、現在の若者や学生は、徹底した客観的合理性の教育を受けてきているから、科学的な根拠を示さないと自ら頑張ろうとはしない。半信半疑でトレーニングを受けても効果がないのは当然だ。

それなのに、今まで根性論や精神論でやってきたし、それしか教えられていないから古い理論を踏襲していると、選手たちはまったく付いて来なくなる。その為に、力で無理やり従わせようとして、パワハラになるのであろう。下手なコーチは、選手が自分の命令に従わないと、ついつい暴言や暴力で選手をコントロールしたがるものだ。育成される選手たちの心は、コーチから益々離れてしまう。そして、パワハラはエスカレートするのである。

それではすべて客観的合理性があり科学的根拠のあるトレーニング方法にするとよいかというと、それでは選手は成長しないに違いない。何故なら、体力・能力・技術というのは、あくまでも育成される選手のメンタルモデルに問題がないという前提条件が必要だからである。どんなに先天性の優秀な能力があって、優秀なコーチの技術指導を受けたとしても、メンタルモデルが歪んでいれば選手として大成することはない。謙虚で素直な性格を持ち、しかも自発性や主体性の高い人格を持たなければ、成長がしないからである。

したがって、選手の技能や体力のトレーニングと共に、メンタルモデルを磨く努力も必要となる。それでは、メンタルモデルを磨くにはどうしたら良いだろうか。メンタルモデルを高邁なものにするには、哲学または形而上学が必要だ。人間として何を目指して成長するのかという根本的な価値観を学ぶことである。または、自分がスポーツを通して何を学びどう成長するのかという事とか、どのように生きるべきなのかをスポーツから学ぶということである。そのような視点を持つことをなくしては、一流のアスリートにはなりえない。だからこそ、アスリートの育成には科学と哲学の両方の観点が必要なのである。

メンタルモデルを高品質で正しいものにするには、正しくて清浄なる言動にすることである。ひとつは挨拶や礼儀をしっかりと身に付けることである。正しい言葉遣いをしないと、メンタルモデルは低劣化してしまう。さらに身の周りを整理整頓することと、徹底的に清掃して清浄なる場にすることが大切である。無名だった西脇工業高校駅伝チームを8度の全国優勝に導いた渡辺公次監督は、先ずはトラックをチリ一つなく清掃することを選手たちに教えた。伏見工業高校のラグビー部山口良治監督は、部員にはまずあいさつと礼儀を教えた。無名の済美高校を全国優勝させた野球部監督の上甲監督は、まずは挨拶と清掃を徹底させた。明治大学野球部の嶋岡監督も部員にトイレ清掃をして心を磨かせた。

勿論、選手たちのメンタルモデルを高品質で正しいものに導くためには、挨拶、礼儀、清掃だけでは難しい。指導者は、何故そのような言動を正しくしなければならないのかを、選手たちに科学的な検証を示しながら解りやすく丁寧に説明しなければならない。例えば、主体性・自発性・責任性などの自己組織化を目指す理由、または自らの成長は他からの介入によっては実現しないというオートポイエーシス論などを科学的に説明できなければ、選手たちは納得しない。最先端の科学であるシステム論や量子力学論、または分子細胞学や人体ネットワークシステム論などを駆使しながら、科学哲学の観点から証明する必要がある。そうすれば、科学的に真逆の効果があるパワハラ事件などは絶対に起きる筈がない。一流アスリートの養成には、科学哲学的に正しいトレーニングが必要だ。

 

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HSP(ハイリーセンシティブパーソン)を生きる

最近、HSP(ハイリーセンシティブパーソン)という語句が、ツィッターやSNSで盛んに用いられている。これは、心理学、もしくは精神医学の一部の専門家の間で使われている気質的特性・神経学的特性を持った人の総称である。勿論、その特性には強弱があるものの、約5人に1人がHSPだとされている。20%の人がHSPで、それ故に生きづらさを抱えているというのである。その割合の多さも驚きであるが、生きづらさの原因がHSPにあったとするなら、原因が解ることで少しは安心するのではなかろうか。

HSPとは、以前はまったく注目されることもなく、そんな特性を持った人間が存在することさえ認識されていなかった。1996年にエレイン・N・アーロン博士が主張した生得的特性である。HSPは強くて眩しい光、刺激的で不快な匂い、大きな音や意味のない雑音などに過剰反応して、強い不安や恐怖感を持つ。また、他人の微妙な言動に対して、過剰な反応をしてしまうことが多い。特に、自分に対して相手が悪意を持っているのではないかとか、攻撃をしてくるのではないかと不安になることが多い。つまり感受性が強過ぎるというか、あまりにも敏感な感覚を持つ人がHSPの特徴だと言われている。

こんなふうに記すと、マイナスのイメージしかないが、感受性が強いと言うのは繊細な心を持つので、芸術面や文芸における才能が突出するという側面もある。素晴らしい才能を発揮して、凡人には残せないような足跡を残すことも少なくない。とは言いながら、HSPは他人の言動に感じやすいことから、強い生きづらさを抱えることが多い。学校では教師や学友の発する悪意を敏感に感じてしまうし、いじめやパワハラなどが自分に向ってされたものでなくても、不安感や恐怖感がマックスに達して、不登校になることもしばしばである。社会における人間関係に不安を感じてひきこもりになるケースも多々ある。

また、HSPは発達障害と誤認識されることもしばしば起きるし、自閉症スペクトラムと混同されることも少なくない。さらに付け加えると、HSPであるが故に、大人になることへの無意識の拒否反応から、アダルトチルドレンになってしまう傾向もあると言われる。いずれにしても、HSPは感受性が強過ぎるというその生得的特性がある故に、強烈な生きづらさを抱えて生きているのは確かである。そして、そのHSPの特性を周りの人々に理解してもらえなくて、辛い日々を過ごすことが多い。

HSPは感受性が強いが故に、他とのコミュニケーションが苦手な傾向にある。どうしても、自分よりも相手の感情を優先してしまうので、相手の気持ちを慮ってしまい言葉が発せられなくなるのであろう。気兼ねのない人間関係を築き上げることが難しく、親しい友達が出来にくい。SNSなどで何気ない言葉に傷付いてしまうことがあるので、ブログやツィートすることに臆病な傾向がある。他人と接することが極めて苦手なので、人が多い雑踏や満員電車などに不安感を覚えてしまい、対人恐怖症的な症状を呈することもある。

HSPの原因は、生まれつきの遺伝子的な特質によるものだと推測されている。それが真実ならば、このHSPを克服したり乗り越えたりすることが極めて難しいということになる。そうなると、このHSPの特性と一生付き合って生きることになり、生きづらさを克服するのが困難だということだ。それは当事者に取っては、とても辛い現実である。これはあくまでも私見だと断った上で、HSPの原因はDNAの他にもあると提起したい。生まれつきの特性はあったとしても、養育環境によってHSPの特性が強化されたのではないかという推測が出来る。そのキーワードはオキシトシンという神経伝達物質である。オキシトシンという安心ホルモンが不足するような子育てにより、HSPが強化されたのではないかと思うのである。

オキシトシンという脳内ホルモンは、不安や恐怖感を和らげる神経伝達物質である。その効用と分泌作用はまだ不明の部分が多いものの、乳幼児期の不適切な養育によって不足気味になることが多いと言われている。まさしくHSPの症状は、このオキシトシンというホルモンが不足しているから起きるのではなかろうか。このオキシトシンは、愛情たっぷりのスキンシップや触れ合いによって分泌量が増えると言われている。また、このオキシトシンは他人の幸福を実現させる無償の行動をして感謝された時にも分泌量が増える。つまりボランティアや社会貢献活動をすると増えるのである。実際に、HSPの方が社会貢献活動に熱心に取り組んで乗り越えたケースが少なくない。HSPはオキシトシンやセロトニンの分泌量を増やす行動を重ねることで、乗り越えることが出来ると思われる。

 

※ひきこもり、不登校、メンタル休職者は、HSPが根底にあるケースが多いように感じます。HSPやアダルトチルドレンを乗り越えるための研修を、「イスキアの郷しらかわ」は実施しています。問い合わせのフォームからご相談ください。

ポイズンドーター・ホーリーマザー

湊かなえの小説を読むと、自分の隠し通している嫌な本心を見透かされる気がして、痛いという思いをする人が多いらしい。そんなに痛い思いをするくらいなら、彼女の小説なんて読まなければいい。ところが、その痛さを感じながらも湊かなえの小説にはまってしまう読者が多いという。どうやら、人間というものは、恐くて読みたくないと思いながらも、こわいもの見たさというのか、自分でも触れられたくない闇の自分を覗き見したくなるのではないだろうか。だから、湊かなえという小説家のファンが多いのであろう。

ポイズンドーター・ホーリーマザーという小説もまた、そんな複雑な気持ちの湊かなえファンを惹きつけるのかもしれない。毒親という言葉がネット上で盛んに飛び交っている。自分の親が毒親だったとか、SNSに暴露されている記事によくお目にかかる。圧倒的に多いのが、娘を支配し制御し過ぎる母親という関係である。英語で言うと、ポイズンマザーと言う。ところが、湊かなえさんの今回の小説の題名は正反対のポイズンドーター・ホーリーマザーである。娘と母親の両方の視点から描いた短編小説の傑作集である。

湊かなえという小説家は、世間からはミステリー作家と呼ばれている。告白やリバースなど不可解な謎解きの物語が多く、最後にどんでん返しがあるパターンである。普通の推理小説だと、物語を読み進めて行くと徐々に真犯人を読者が類推できるように描いてある。そのほうが、読者に安心感を持てさせてくれるし真犯人を当てるという自尊心をくすぐる効果が出るからと、作者がヒントを与えているのかもしれない。ところが、湊かなえの小説は最後まで結末が予想さえ出来ないのである。これも彼女の描く物語の魅力である。

ポイズンドーター・ホーリーマザーで描かれている人間関係も複雑で、最後まで真実が明かされない。その結末の意外性に魅力を感じている読者も多いのではなかろうか。湊かなえという小説家は、これだけ人間の深層心理を鋭く描写できるのだから、相当に神経質でいかにも切れ者というような風貌であろうと勝手に想像していた。ところが、その予想は彼女の小説のように見事に裏切られてしまった。TVの山番組で拝見したら、山でよく見かける『山女』そのものであった。実に優しそうで話がよく解るという人柄が滲み出ている、素敵なおばさまであった。

そんな心優しい彼女がどうしてこんなにも悲惨で心が折れるような結末を描けるのかというと、彼女なりの使命感を抱いて小説を世に出しているからであろう。彼女の小説を読んで、少しでも読者が何らかの学びや気付きをしてほしいと願って、湊かなえは物語を紡ぎ出しているようだ。世の中に対する、強烈なメッセージを小説の中に込めている。勿論、そんなことを読者は感じていない。純粋に物語を楽しんでいるだけである。湊かなえは教訓めいた言葉は一切小説には記していない。しかし、彼女の小説を深読みすれば意図しているメッセージが解るようになっている。すごい仕掛けだと、えらく感心する。

湊かなえが小説を書き続ける目的は、とても生きづらいこの社会においてさえも、生きる勇気を持つ術を読者に与えることだと思う。児童心理学的観点から、現代の子育てにおける様々な問題点があることを描き出している。そして、その育児における偏りによって子どもの正常な精神発達が阻害されていることを暗示している。しかし、親たちはその育児における過ちを気付いていない。子を愛するが故に起こしている過ちであるから、親を責めることは出来ない。その誤った子育てによって苦しんでいる子どもが、親の過ちに気付いて、親を許し受け容れてこそ立ち直ることが可能であることを描いている。

生きづらさを抱える原因は、親の子育てや学校教育における誤謬にある。そして、その誤った教育により、自我人格の芽生えさえなくて青春期を迎える若者がいる。また、自我人格が芽生えても、あまりにも自我が強過ぎて自己人格との統合が出来ずに大人になってしまうケースが非常に多い。そんな親子の姿を湊かなえは描き続けている。彼女の小説を読んで、自分が自己人格の確立がまだ出来ていないということを気付いてほしいと湊かなえは思っているに違いない。自分の醜い自我人格をないことにして、仮面(ペルソナ)で隠し通して生きづらさを抱えて生きる愚かさに気付いてほしいと小説を描き続けていると思われる。ポイズンドーターやポイズンマザーがこの世から居なくなることを願いながら。

 

※ポイズンマザー(毒親)によって苦しんでいらっしゃる方、またはご自分がポイズンマザーやポイズンドーターではないかと疑い、辛い人生を歩んでいらっしゃる方々の支援を「イスキアの郷しらかわ」がさせてもらっています。どうしてポイズンマザー・ポイズンドーターが生まれるのか、どうしたらそれを乗り越えられるのかを詳しく学ぶことができます。是非、問い合わせのフォームからご相談ください。

言い争いに勝つことを一時保留する

職場でも家庭でも、そしていろんな場面で言い争いになってしまうことがある。そういうケースでは、ついついエキサイトしてしまい、相手を言い負かしてしまいそうになることが多い。人間という生き物は、感情が理性を凌駕してしまうことが良くあり得るし、言い争いでは特にその傾向が強くなる。明らかに圧倒的な権力を有する相手には、不本意ながら屈するが、自分と同等か下位にある者には言い負けたくない気持ちが強くなるらしい。

家庭においては、親子が言い争いになれば、親が子を言い負かそうと必死になる。夫婦が言い争いになれば、夫は妻を言い負かさないと気が済まない。しかし、言葉を操るのが上手な妻から逆に返り討ちになりやすい。そういうケースでは、言い負かされた夫は不機嫌な態度をするか沈黙するし、最後には妻を恫喝する場合が多い。そして、何らかの形で夫は妻に対して優位に立とうとする傾向が強い。夫婦間での言い争いは、負けた方も勝った方も後味が悪く、後悔の念が残る。

職場における言い争いは、大きいものから小さいものまで様々である。会議や打ち合わせにおいても、しばしば起きてしまう。討論ではなくてディベートのような雰囲気になることも少なくない。感情的になってしまうこともあるし、しこりを残すことも多い。言い争いになってまった際に、とことん討議をすることなく結論を出さないで終了するケースもあり、その後の業務に影響する場合もあり得る。言い争いは感情的な負のしこりを残す。

恋愛している相手と言い争いになることもある。友達どうしでも、お互いの主張がぶつかり合い、言い争いになることもあり得る。そんな場合、どちらかが降りればいいのだが、なかなか譲れない気持ちが強い。特に仲がよい相手であり、利害関係が強くなると、相手に合わせることが出来にくくなる。後に引かないような仲直りが出来れば、お互いの関係性はさらに深まるので、言い争いも時には必要なことである。しかし、言い争いが原因で二人の仲が壊れることも少なくない。後から後悔しても、既に遅いということもある。

人間というのは、言い争いをして勝つことが出来れば満足して元気も出るが、負けた方はエネルギーを削がれる気がするものだ。そして、負けた方は後々までその気分の落ち込みを引きずってしまうのである。また、言い争いで負けたとしても完全に屈服した訳ではなく、自説を諦めて手離したのではない。勝ち誇った方は一時的には自己満足するのだが、言い負かされた相手に何となく気まずい思いを抱き続ける。そして、お互いにぎこちない関係になってしまうことが多いのである。

言い争いというのは、よくよく考えてみると何とか共通の課題や問題を解決しようとか、今よりもさらに改善しようとして、お互いに真剣に議論をするから起きるのである。だから、全体最適を目指しているのである。そして、それが実現すれば共にその恩恵を受けるのである。したがって、その全体最適化によってお互いの関係性が深まるし豊かなものになる筈なのである。とすれば、自説を曲げずに相手を言い負かすことにだけ集中して努力するというのは、本来目指すものとは違ってしまうことになる。言い争いで勝利を得ることだけを目指せば、相手との関係性も低劣なものになってしまう。

言い争いになりそうな時、または不幸にも言い争いになってしまった時に、勝つことに対するこだわりを捨ててみるのも必要ではないだろうか。自説の正しいことだけを主張しないで、ひとまずは自説を保留するのである。自説が絶対に正しいと思っても、相手の認識や考え方に傾聴し共感してみるとよい。そうすると、相手の気持ちがよく解るし、そういう主張になってしまったプロセスが良く理解できるのである。そうすれば、相手の主張における根底的な間違いにも気付くのである。

その上で、相手の間違いを指摘して糾弾するのでなくて、相手が自ら気付くように優しく丁寧に質問するとよい。回りくどいやり方ではあるが、相手の論理的欠陥を直接的に指摘することだけは絶対に避けたい。というのは、相手の尊厳を傷つけてしまうからである。言い争いは感情的になりやすいが、その怒りに及ぶ感情を相手にぶつけてはならないのである。相手との関係性を損なうと、全体最適が遠のいてしまい、問題解決や改善が出来なくなるからである。家族、職場、地域などのコミュニティが壊れてしまうのである。言い争いになったら、勝ちたいという気持ちを一時的にも保留することを薦めたい。

ハゲタカと日本人企業家の価値観

ハゲタカというTVドラマがNHKで初めて放映されたのが2007年だから、今から10年以上も前である。その時は、外国資本が日本の企業を食い物にするという物語だと勘違いして、視聴を避けていた。ところが、TV朝日でハゲタカを再ドラマ化してくれたお陰で、その誤解を解くことができた。ハゲタカというドラマは、外資による単なる企業買収や会社乗っ取りを描いた訳ではなかったのである。外資系企業の横暴さを描いたのではなくて、日本企業経営者のあまりにも低劣な価値観を暴き出した人間ドラマだったのである。

失われた30年と呼ばれている日本経済の低迷が、まだ解決する見込みもなく深刻さを増している。さらに後10年続くだろうと予測するエコノミストが多い。その原因は、経済政策の失敗にあるとされていて、アベノミクスが日本経済の立て直しをしてくれると期待する国民が大多数だった。しかしながら、円安と株価上昇などにより金融経済はある程度持ち直したが、実体経済は残念ながら低迷したままである。ましてや、起きるとされていたトリクルダウンはいまだに起きていないし、消費低迷が続いている。

ましてや経済政策の失敗とも言えるような社会問題が顕在化している。酷い経済格差が生じていて、貧困家庭が激増している。経済格差があまりにも大きいが故に、教育格差が生まれて、貧困が固定化してしまっている。このような状況に追い込まれているのは、政府による経済政策や福祉政策の失敗だけが原因ではない。経済界における企業経営にこそ問題があると言えよう。そのことをハゲタカという経済小説が、明らかにしようとしたのである。失われた30年は、日本の経済人が企業経営に失敗したから起きたと主張している。

ハゲタカという小説(TVドラマ)が描きたかったのは、外国資本が日本の経済を支配しようとする衝撃的な現実なのではなくて、そのような状況に追い込んでしまった日本の企業家たちの怠慢と卑劣さであった。外資系のファンドが日本の企業の買収や乗っ取りをするケースにおいて、その対象となってしまうのは経営的に行き詰まっているからである。そうなってしまった原因は、企業経営における失敗である。日本の企業経営が悪化したのは、グローバル化やコモデティ化による経済環境の変化によるとされているが、実はそれだけではないのである。

日本の経済は、輸出によって支えられていると思い込んでいる人が殆どであろう。だから、アベノミクスは輸出産業に向けた支援策である。円安支援、異常とも言える金融緩和による株価上昇支援をして、景況を起こそうとした。しかし、実際に実質経済は好転しないし、国民は好況を実感していない。消費支出が伸びないから、インフレターゲットは達成していない。日本経済は、輸出産業が支えているというのは幻想である。国内における需要の高まりがないと日本経済は活性化しないのだ。国内需要によって日本経済は支えられているという現実を認識して、実質経済を活性化しないと本当の好況はやって来ない。

国内需要を高めるには、正規雇用を増加させて実質賃金を向上させるしかない。企業経営者が今までやってきたのは、国際競争力を高める為に必要不可欠だとして、不正規雇用を増やし賃金を抑えてきたのである。そして、社内留保を増やし株価を上げることだけに奮闘してきた。社員は使い捨てにして、便利な派遣社員を利用してきた。それもすべては自分の地位や立場を守ろうとした経営者の低い価値観によるものである。自分たちの役員報酬を増やすことしか考えず、その為には製品偽装や違法行為を平気で行うような企業経営者の姿勢があった。ハゲタカファンドの鷲津は、そのような最低の経営者たちに鉄槌を加えたのである。善良な経営者や勤勉な社員を守ろうとしたのである。

グローバル化やコモデティ化などの経済環境の変化が、日本経済を駄目にしたのではない。日本人経営者の経営哲学があまりにも低劣で、あまりにも自分たちの利益を優先した企業経営をしたからである。ハゲタカというドラマは、その真実を知らせたかったのである。ハゲタカファンドの鷲津社長は、そういう意味では素晴らしい経営哲学を持った経営者である。そして、もっとも日本人らしい価値観を持つ企業家であり、日本という国を愛していた。だからこそ、TOBという荒療治を実行したのであろう。日本の卑劣な経営者たちに請われるままに、非正規雇用を増やすという間違った労働政策を推し進めた政治家にも、日本経済を低迷させた責任を自覚してもらわなければならない。

プラトニックラブと婚外恋愛

プラトニックラブなんて今時ありえないよ、そんな言葉はとっくに死語化していると主張する人が多いことだろう。ましてや、今の若い人たちはプラトニックラブという言葉さえ聞いたことがないかもしれない。我々のような60代以上の人間なら、懐かしいと思うに違いない。青春時代、とりわけ高校生の頃にはプラトニックラブに憧れたものである。とは言いながら、プラトニックラブの正しい意味を理解している人間は極めて少なく、誤解している人が殆どであろう。

プラトニックラブというと、殆どの人はこのように理解しているのではなかろうか。肉体関係のない、精神的な結びつきだけの愛をそう呼ぶと思い込んでいるに違いない。しかし、本当の意味は違っているように思う。プラトニックラブというのは、本来『プラトンが説いた愛』という意味である。プラトンとは、偉大な哲学者である。とりわけ、至上の愛を説いた哲学者として有名である。その至上の愛のことを、プラトニックラブと呼んだのが最初と言われている。それが、時代を経るうちに肉体関係を伴わない精神的な恋愛というようになったと思われる。

確かに、いろいろな辞書を調べてみると、プラトニックラブとは性交渉を伴わず、精神的な結びつきだけの男女間の恋愛というように説明している。けれども、あくまでも私見であるがと断ったうえで、プラトンが説いていた愛について考えてみたい。ご存知のようにプラトンは『イデア論』を主張している。我々の純粋な愛知(ソフィア)というものは、本来は天上にあり魂に宿っていて、穢れのないものである。それが、地上の肉体という束縛されたものに宿ることで、不純なものに陥ってしまった。本来の我々の魂は、純粋なのであるが物体化することにより、欲望に押し流されて穢れてしまっていると説いた。

このようにプラトンは、純粋な愛というものが物体化することで本来の清浄さを失い穢れてしまうが故に、肉体に宿ったとしても純粋な愛を貫きたいと願ったのではなかろうか。という意味では、プラトニックラブというのは肉体的な結びつきがあろうとなかろうと、穢れのない純粋な愛という意味だということになる。つまり、プラトンが説いた愛というのは、性愛などの欲望を超越した愛ということになる。性愛というのは、肉体的な快楽を求める愛である。肉体的な快楽を最初から求めるものでなく、精神的な結びつきの行きついた先に、たとえ肉体的ではあっても純粋な愛の繋がりのひとつの形であったとすれば、それもまたプラトニックラブではないだろうか。

最近、セックスレス夫婦が増えていると言われている。それも熟年夫婦ならいざ知らず、30代の肉体的にも性欲的にも円熟している年代のカップルでもセックスレスだという。それは、プラトニックラブを実践しているのかというと、そうではないらしい。どちらかと言えば、妻のほうがセックスを拒否しているケースが多いと言う。夫からの要求を何らかの理由をつけては拒んでいるというのである。性交を拒否している大きな要因は、夫を純粋に心から愛せなくなり、肉体的な結びつきさえも拒んでいるからであろう。

結婚する前は、あんなにも優しく思いやりがあり、精神的な結びつきを優先してくれて、その先にあったのが肉体的な結びつきであった。言ってみれば、プラトニックラブのような純粋で穢れのない愛だった。ところが結婚したとたんに、夫は豹変する。さも自分の所有物、または支配物のように妻を扱い、まるで家政婦のように利用する。かろうじて暴力は振るわないものの、不機嫌な態度や無言の姿勢を見せて、妻を操ろうとする。家事育児の協力は嫌がり、自分の趣味や娯楽に興じて、妻への優しさや共感がなくなっている夫は信頼できない。敬愛すべき対象でなくなってしまった夫に、誰が身体を開こうというのか。

このような妻の気持ちに共感せず、話も聞いてくれない夫に愛想を尽かして、婚外恋愛に走る若い妻たちが増えているらしい。世の中の夫たちは、そうさせてしまっているのが自分自身なのだと気づいていない。婚外恋愛においては、相手は自分を純粋な愛で優しく包んでくれるし、性欲を前面に出すことなく接してくれる。たとえ肉体的な結びつきはあったとしても、プラトニックラブのような何も求めず与えるだけのような愛である。射精することで自分の性欲だけを満たすような性交渉ではなく、自分のすべてを許し受け容れてくれる愛に妻たちは溺れるのであろう。世の中の夫たちは、結婚する前のように、求める愛ではなくただ与えるだけの愛であるプラトニックラブのような純粋な愛に立ち返りたいものである。

精神疾患は脳のせいじゃない!

メンタルの不調や精神疾患は、脳の不具合から起きると殆どの人は思っている。精神科医やセラピストさえも、脳の器質的な機能障害からメンタルの不具合を起こすと思い込んでいる。確かに、精神医学の世界では長年に渡ってそう教育してきたし、脳神経学の研究でもそのように発表されてきたのだから仕方ないであろう。脳内における神経伝達物質(脳内ホルモン)の分泌や受け渡しの不具合が起きて、精神疾患が発症するとされてきた。しかし、最新の医学研究ではそれが間違いだと判明したのである。

勿論、脳原因説が全面否定された訳ではない。ごく一部においては、脳の機能障害による影響があるのは間違いない。しかし、それは限定的であり、メンタルの不調は人体における全体のネットワークシステムの不具合により起きるというのが真実である。それなのに、脳の機能障害によって起きるのが精神疾患だと思い込んでいる精神科医やセラピストがいて、その脳原因説にいまだに固執していて、クライアントを治療しているのは非常に残念である。患者さんたちが可哀想で仕方がない。

精神科医の9割以上は、精神疾患に対して投薬治療を行っている。その薬剤は、脳に働く機能を持つ。精神症状はその投薬によって少しは効果がある場合が多い。しかし、その効果は限定的であるし、症状が緩和されることはあっても完治することはない。あくまでも症状を緩和する効果しかないし、次第に投薬量が増えるケースが殆どである。ましてや副作用が深刻であり、便秘や低血圧、肝機能障害というような副作用に対して、さらに薬剤投与が増える。患者はクスリ漬けにされてしまうのである。

投薬治療による効果が何故あまり上がらないのかというと、脳の機能障害が精神疾患の原因ではないからである。確かに脳の神経伝達系の異常が起きているのは、間違いないと思われる。しかし、脳の神経伝達系に働く薬を投与すると、その薬の効果を減少させようという人間の恒常性が働いてしまう。人間の脳における恒常性を保つ機能があって、そうしなければならない訳があって神経伝達系の異常を起こしていると思われる。人間全体を守る為に異常を起こしてしまっているのである。それを無理やり投薬によって直そうとすると、逆に異常を強める働きが起きると考えるべきである。

日本における精神医療において、抗うつ剤や向精神薬が大量に用いられている。そして、それらの投薬治療によって精神疾患の患者は増えることはあるものの、完治して離脱する患者は殆ど存在しない。この事実だけでも投薬治療が無駄であるばかりでなく、患者を益々苦しめているのは間違いないであろう。精神疾患が起きる原因が脳の機能障害にないのだから、治療方針や治療計画が間違っているのである。投薬治療をすべて否定している訳ではない。緊急避難的に短期間使用するケースがあるのも承知している。しかし、何ケ月や何年にも渡り同一薬剤による投薬治療を行うべきでない。患者と治療者は一刻も早くその間違いに気付いてほしいものである。

メンタル不調や精神疾患を発症する原因は、人体におけるネットワークシステムの不具合である。人体には37兆2千億個の細胞がある。細胞どうしがネットワークを持っていて、過不足なく協力し合って働いている。また細胞によって組成されている臓器、骨格、筋肉組織は同じく親密なネットワークを組んでいて、人体の全体最適を目指している。誰かに命令指示されている訳でもなく、細胞や組織自体が自発的に主体的に働いている。セロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミン、オキシトシンなどの神経伝達物質は、人体の適切なネットワークによって生成されて必要箇所に適量が運ばれる。

食べ物、環境因子、人間関係のストレスなどが不適切な場合に、そのネットワークが不具合を起こすのである。例えば、食品添加物、農薬、化学肥料が含まれた食事が腸内環境を悪化させると、体内ネットワークの不具合を起こすことはよく知られている。精神疾患だけでなく様々な身体的疾患もまた、人体におけるネットワークの不具合で起きることは最近知られるようになった。さらに人体のネットワークシステムの不具合は、社会における人間どうしのネットワーク(家族関係等)が希薄化したり劣悪化したりすると起きることが判明している。このネットワークを正常に戻したり再生したりすることが、メンタル不調や精神疾患を治すということを認識してほしいものである。