引き寄せの法則はスピ系ではなく科学

引き寄せの法則を信じている人は少なくない。特に、スピ系の女性のほとんどが引き寄せの法則を信じて疑わない。だから、自分の周りに起きることはすべて自分が引き寄せていることだからと、前向きに考える傾向が強い。それはそれで、自分の心を平穏に保つ為には役に立っているが、あまりにも悲惨な状況に追い込まれた時には、逆に自分を責めてしまうことになる。特に自尊感情の低いスピ系の女性は、あまりにも不遇な境遇に置かれてしまうと、自分が悪いせいだと自分を追い詰めて、メンタルを病んでしまうケースが多い。

引き寄せの法則というのは、ある意味両刃の剣である。自分の思った通りに順調な人生を歩んでいる時は、自分が幸福を引き寄せたと思い、人生が楽しくて仕方がない。また、少しぐらいの不遇なことに遭ったとしても、自分が引き寄せた試練だから乗り越えられると信じて、苦難困難に立ち向かう勇気を持つことが出来る。ところが、あまりにも大きい苦難困難に遭ってしまい、乗り越えられない境遇に陥ると、自分自身が嫌になる。そして、その困難を引き寄せた自分を責め続けるし、乗り越えられない自分を否定してしまう。

引き寄せの法則は、スピリチュアルなどを活用した自己啓発のセミナーなどで教えられることが多い。個を超えた宇宙の意思(神の意思と呼ぶことが多い)があり、それらと関係する自分の意識と無意識、集合無意識があらゆる自分の周りに起きる現象を引き寄せているのだと説いている。自分が引き寄せているのだから、起きている苦難困難は必ず乗り越えることが出来ると主張する。どんな苦難困難を乗り越えるにはさらに上級のセミナーの受講、そして各種のスピ系グッズが必要だと売りつけるケースが多い。

人の弱みにつけ込んだビジネスは、極めて巧妙であると同時に卑劣である。藁にもすがる思いでスピ系の自己啓発セミナーに参加して、自分の不遇な人生を何とかしたいと思う人たちを巧みに騙す。そして、主催者や講師によって勧められる高額のセミナー受講料、著作やDVD、スピ系グッズを購入してしまう。けれども、これらのセミナーを受け続けても、スピ系グッズを活用したとしても、大きい効果が得られることが少ない。たまに自己啓発セミナーを受け続けて、セミナー講師になる人もいるが、中途半端な自己実現だから独善的な人格の問題講師となる。そして、多くのセミナー受講者を勧誘することになる。

引き寄せの法則をスピ系で納得する人は、殆どが自我と自己の統合が不完全であり、唯我独尊のパーソナリティを持ってしまう。すると、自分の意見を信じなさい、そうしなければ不幸のどん底に落ちてしまうよと、受講者に自分の価値観を押し付けることを平気で実行してしまう。恐怖や不安を植え付けてセミナー受講を強いるような講師は、意外と多い。自分では意識していないが、洗脳に近いようなことを平気でするようになる。引き寄せの法則をスピ系で理解しようとすると、こんな危険が伴うのである。

一方、引き寄せの法則を最先端の脳科学や量子力学を駆使して理解した人は、実に謙虚であり誠実であり続ける。人に自分の価値観を無理やり押し付けることもしないし、自己の統合を実現できるかどうかはあくまでも本人次第だと、行き過ぎた介入や干渉をしない態度を取る。何故なら、最先端の脳科学と量子力学、または第三世代のシステム論によって導き出した引き寄せの法則は、人間の深層無意識や自己組織化する本能から導き出した理論だからである。深層無意識は、自分の有意識からの働きかけで変革することは難しいことを知っている。ましてや、行き過ぎた介入や干渉は自己組織化を阻害することをシステム科学により認識しているから、引き寄せの法則を他人に押し付けることはしない。

最先端の脳科学や量子力学、第三世代のシステム科学を学んで、引き寄せの法則がこの世界における科学的真理だと悟った人は、自我と自己の統合である自己マスタリーを目指す。人を引き寄せの法則を用いて、他人を迷わせたり脅したりはしない。スピ系から引き寄せの法則を導き出した人は、自我と自己の統合が不十分であり、妄想や陰謀論に陥りやすい。自分を神だと名乗ったり、人々を導く守護霊だと主張したりする。そして、善良な人々を脅して巧妙に自分のビジネスに利用する。明らかな科学的検証や根拠に基づいて導き出した引き寄せの法則を身に付けた人間は、周りの人々に法則を信じるように無理に勧めたり洗脳したりすることはない。ましてや、ビジネスに悪用することはない。スピ系によって引き寄せの法則を提唱する人物を信用してはならない。

子どもの為と言いながら・・・

子どもの為にと、必死になりながら子育てをされているお母さん方に、そんなに頑張らなくてもいいんだよと伝えたい。そして、本当に子どもの為と思っているのか、自分自身にもう一度問い直してみてはどうかということも伝えたい。とかく、子育てはお母さんが中心になってするもの、という固定観念が支配している。実はそんなことはなく、父親だって中心になっていいし、祖父母も子育てを担うこともあり得る。さらには、地域全体で子育ての役割を負担することも必要であろう。子育てはみんなですればいいのだ。

子どもの幸福と豊かさの実現を願わない親はいない。健やかに育って、幸福な人生を送ってほしいと親は思うものだ。子どもの為なら、どんな苦労も厭わないと思っている。そして、子どもが日の当たる道を歩き続ける事を期待する。一流高校への進学から国公立大学の入学を願い、卒業後は官公庁もしくは一流企業への就職を後押しする。また、その為に塾通いをさせるし、有名な私立小中学校の受験をさせたがる。そういう教育熱心な親は、想像以上に多いと思われる。将来に渡り安定した生活を送ることを願うのである。

こういう教育熱心な親は、すべて子どもの将来の為を思っての行動であると思いたがる。そして、必要以上に子どもに頑張れと働きかけることが多い。しかし、よく考えてみてほしい。本当に子どもの為に教育熱心な親になるのだろうか。子どもが将来不幸な人生を送り苦しむ姿を見る自分が、辛い思いをするからではないのか。自分の子どもが幸福な人生を送る姿を見て、自分の子育てが間違いなかったと安心して、自分が満足したいだけではなかろうか。親というのは、周りの人々や親せきに我が子のことを自慢したがるし、自分の子どもが誉められるのが大好きだ。

たいていの場合、大人は子どもの学業成績が良くて優秀な高校や大学に入学したことを誉めたがる。しかし、よく考えてほしい。学校の成績が良いことや一流の学校に入学したことが、人間として素晴らしいことなのだろうか。そんなことが誉めて認めるかどうかの基準であるというのは、実に情けないことである。人間として大切なのは、物事に対する考え方や姿勢、または言動が崇高な価値観に基づいていることである。または、あらゆる場面で、主体性や自発性、そして責任性や自己犠牲性を発揮できることが、称賛されるべきである。さらに、弱きを助け強きにも怖気ることなく立ち向かう勇気を持つことも大事だ。

どんな時にも自分自身を見失わず、自利や損得にとらわれず、人々の幸福実現の為に苦労を厭わずに頑張れるような子どもを育てることが親の務めではないだろうか。そういう子どもに育てたなら、たとえ学業の成績が良くなくても、一流の学校に入学できなくても、官公庁や一流企業に就職できなくても、親として誇りに思うものである。子どもの為にと言いながら、学校の成績に一喜一憂して、必要以上勉強を強いる教育虐待をしている親は少なくない。自分には三人の男の子がいるが、どんな高校を受験するか、どこの大学に進学するか、本人にすべて任せたし、就職先についても一切口出しをしたことはない。

子どもは親の所有物ではないし、支配したり制御したりするべきでない。ましてや、親が思う通りの人生を歩ませるような干渉をしてはならない。子どもの人生は子どものものであるし、子どもが決めることである。例え不幸になったとしても、また辛い人生になったとしても、それは子どもの自己責任としてそっと見守る姿勢が必要だ。ただし、子どもから助けてほしいという依頼があれば、どんな犠牲を払っても守ってあげなくてはならない。そして、子どもに対して、いざという時は身を挺してでも守ってあげるよと伝えておくのは必要だ。そういう安心感があれば、子どもはどんな苦難困難も乗り越えられるものである。子どもの為にと言って、あまりにも子どもに介入する親になってはならない。

子どもの為と言いながら、子どもに自分の価値観を押し付けてはならない。ましてや、自分の損得や自己利益を求めるような低劣な価値観を持つ生き方を強要してはいけない。しかし、多くの親たちはいい高校や大学に進み、高収入の職業に就くことを子どもに薦めたがる。それも、子どもの為にという隠れ蓑を着て、実際は親の自己満足の為であり、自分が立派な子どもを育てたと社会に認められたいからである。子どもが大人になり、社会に貢献できるようにそっと見守り寄り添い、子ども自身が自己組織性を発揮できるように育てることこそが親の務めである。子どもの為になんて思うこと自体が、親の思い上がりなんだと気付く必要があろう。

体罰禁止を法制化する前に

体罰禁止を法制化する動きが加速している。内閣は体罰禁止を法律で禁止することを確認した。これから児童虐待防止法改正の手続きに入る予定である。東京都では一歩進んでいて、体罰を条例で禁止しようとしている。違反しても罰則はないが、児童虐待の防止に役立つのは間違いない。民法で親の子どもに対する懲戒権を認めているので、民法の改正も同時にしないと法律の矛盾が起きるであろう。今でも体罰は必要だと考えている前近代的な親がいるが、彼らの体罰に対する歯止め効果になるのは間違いないだろう。

体罰禁止を法制化することに対して反対ではないが、法律で体罰を禁止したからと言って、体罰が完全になくなることはないし、虐待がなくなることもないだろう。体罰や虐待を平気でするような親に対しての意識付けにはなるだろうが、体罰がより陰湿になるとか、秘密裡に体罰をするようになるのではないかという危惧を持つ。まずは体罰や虐待をするような親に対する教育や指導をする支援こそが、根本的に必要である。また、体罰や虐待をしてしまう親を生み出している社会の低劣な価値観を、変革することこそ求められる。

体罰を防止することを、可及的速やかに実行しなくてはならないことは言うまでもない。体罰から過激な虐待に発展することを防がなければならないからだ。だとしても、何故多くの親たちが体罰をしてしまうのか、本当の原因を探り当てないと、体罰を完全に防止することは出来ない。文科省、教委、行政、児相の担当者は、親たちが何故体罰をするのかを知る由もないし、知ろうともしないようだ。だから、体罰や虐待を防ぐ手立てを考えもつかないのだ。体罰や虐待が起きる原因は、システム論でしか解明できないからである。

体罰や虐待が起きるのは、人間が生まれつき持っている自己組織化する働きが関係している。システム論的に分析するなら、人間という生物はひとつの完全なるシステムである。完全なシステムである人間は、生まれながらにして主体性・自発性・責任性を持つのである。つまり、自らが主人公として自主的に考え決断して行動するのが人間である。子どもは自我が芽生えて、この自己組織化する働きが強くなってくる。親からの指示や命令に背きたくなるのは、自我が芽生えるということ=自己組織化するからなのだ。

この自己組織化の働きが強くなる自我の芽生えを、親は無理やり押さえつけてはならない。何故なら、人間が健全に成長する為には、自己組織化する働きを阻害してはならないからである。反抗期を親が押さえつけたり出さないように仕向けたりしてはならない。または、反抗期を一切出さないような『良い子』を演じさせてはならない。子どもの時に自我を安心して表出させて上げないと、やがて自我と自己の統合が上手く出来ずに、生きづらい生き方を強いられるからである。やがて重篤なメンタル障害を起こしかねない。

実は、体罰を行うような親は、小さい頃に親から支配・制御・所有を繰り返しされていたと思われる。自我の芽生えを許されないような親に育てられた可能性が高い。虐待に近いような体罰で、反抗することを抑えられた経験を持つ。だから、その裏返しで反抗する子どもが許せないのである。それで無意識のうちに、しつけとして必要なんだと勘違いして、体罰をしてしまうのである。このような体罰は、多世代に及ぶ負の連鎖でもある。このような虐待や体罰は、世代間で継続していくので、絶対に断ち切らなくてはならない。

明治維新以降に欧米の客観的合理性を重視する教育理念を、日本の教育界は導入した。それは列国の学術水準や技術レベルに追いつくために必要な能力至上主義でもあった。この要素還元主義とも言い換えられる分離分析主義は、物事を客観的に冷静に観察し問題解決するには重宝したのである。しかし、弊害も生んだ。あまりにも批判的否定的に相手の人間を観ることを強いた為に、実に冷酷で思いやりや優しさを欠如した人間を育ててしまったのである。つまり、相手の悲しみや苦しさに共感できず、相手の嫌がることも平気で実行するような冷たい人間を育成したのである。学校や職場で平気でいじめをするのも、そして家庭で虐待や体罰をするのも、この近代教育の影響が大なのである。日本の教育理念を見直して、客観的合理性の教育から共感的関係性の教育に変革することこそ、体罰禁止を法制化する前に必要なことである。

陰謀論とスピ系主張の矛盾点

陰謀論を唱える人たちは、この世に起きる悲惨な事故や思いがけない事件を、すべて闇の存在が起こした陰謀であると主張したがる。そして、不思議なことに陰謀大好きの人間は、おしなべてスピ系の人が多い。科学的な検証をすれば陰謀論なんていう荒唐無稽な理論は通用しないのだから、スピ系的な理論に頼らざるを得ないのだから当然であろう。そして、面白いことに、陰謀論を主張すればするほど、自分たちが普段から信じるスピリチュアルの理論とかけ離れてしまうというパラドックスに陥ってしまうのである。

スピリチュアルを盲目的に信奉する人たちは、引き寄せの法則を主張する。この世に起きることは、すべて私たちが思っていることが現実化しているだけだと言う。つまり、私たちが強く願うと、その願いが現実になるというのである。ところが、実際は思ったことがすべて現実化する訳ではない。そうした現状に対して、スピ系の人々は当事者が心から確信していないせいだという。潜在意識が半信半疑である場合、顕在意識だけでは現実化しないのだと主張する。また、集合無意識が関係しているから、個人の意識だけでは難しいのだとも弁解するのだ。

スピリチュアル系の人々は、こういう主張もしている。この世に起きていることは、我々の集合無意識が起こしていることなのだから、皆の意識をこの世が平和で幸福になるのだという確信に近いものに近づけることが必要だと説いている。つまり、我々の存在するこの世界は実体ではなくて、意識が実体であると思い込むからそう見えているだけである。我々の集合無意識が、平和な世界だと思えば平和になり、争いの世界だと心から認識してしまうと争いが蔓延する世界になると主張し、平和な願いや祈りが大切だとも説いている。

ところが、こういう主張しているスピ系の人たちは、面白いことにこの世に起きる大災害は闇の人々が起こしているのだと言い張っている。東日本大震災はある闇の機関が人為的に起こした人工地震であり、局地的な豪雨災害が起きる原因は、特殊粉末を飛行機で撒き散らしたことによるものだと主張するのである。なんだか訳のわからないような陰謀論をネット上に拡散して、皆が知らないこんな秘密を自分は知っているのだからすごいだろうと自慢しているのである。すべての大災害や大事故は、人為的な陰謀だと主張する。

そうすると、冷静に考えることができる人なら、陰謀論を主張することとスピ系の引き寄せの法則を信奉することは、大きなパラドックスを抱えていることに気付く筈である。この世に起きる大災害や大事故を陰謀だという主張する人々は、さらなる陰謀による大災害や大事故が起きるから気をつけろと警告している。引き寄せの法則によると、そんな不幸なことが起きてしまうと考えると現実化するから、思ってはいけないと説く。それが真実ならば、陰謀論をネット上に拡散すると、大災害や大事故が実際に起きてしまうに違いない。これは大きく矛盾している論点なのだが、どう説明するつもりだろう。

いや違うのだと陰謀論を唱える人は反論するかもしれない。陰謀が実際にあることをこの世に知らしめることが出来たら、陰謀を企てる人たちが事故を起こすことが出来なくなるのだから、阻止するために陰謀を明らかにする活動をするんだと主張するであろう。そう主張する人たちは、よく考えてほしい。引き寄せ法則からすれば、そもそもこの世に陰謀なんていうことがないと皆が確信するなら、陰謀による事故はけっして起きないのである。この世はすべて人々の善意によって現実化すると確信して、平和で皆が豊かな生活を実現できると心から信じた時にこそ、全地球や全宇宙が幸福で平和な世界になるのだ。

陰謀論大好きな人は、この世には様々な陰謀が張り巡らされていて、一部の権力者や財力を持つ特権階級が、自分たちの利権を守る為に暗躍していると主張している。おそらく、自分たちが不遇な暮らしや待遇を受け、評価されず地位や名誉も得られない境遇にある人が陰謀論を展開するらしい。そういう人は、不遇な境遇に遭い続けているのは、自分たちがそれを引き寄せているだけであり、他の人たちの陰謀ではないのだということを考えられないのだろうか。こんな矛盾を気付けないというのは、あまりにも情けない。陰謀論を展開して、善良なる市民を惑わすことは止めてほしいものである。もし、陰謀を企む人たちが実際にいるとすれば、陰謀論を拡散することで彼らの術中にはまるだけだと心得たいものである。

摂食障害を乗り越える

摂食障害に苦しんでいる人たちは、世間で想像している以上に多い。何故ならば、当事者は勿論のこと保護者も内密にしているので、文科省や厚労省はその実数が掴めていないからである。児童生徒の時から摂食障害の辛い症状が始まる場合もあるし、青年期に起きるケースもある。いずれにしても、圧倒的に青少年の時期に摂食障害が始まることが多い。摂食障害の症状は、過食、拒食、そして過食の後に嘔吐するという特徴的な状態が続くのである。最初は拒食から始まることが多く、その後過食の症状になり、拒食と過食を繰り返し、最後は過食後に吐くという症状を長く続けるケースが多いと言われている。

摂食障害は病気ではないと思っている人が多い。だから、治療も受けず当事者と家族は苦しみ続けている。確かに厳密に言うと病気ではないが、メンタル障害であるのは間違いない。心療内科などのクリニックに通院している人もいるし、重症の場合は極端な栄養障害に陥り、入院するケースもある。投薬治療も行われるが、あまり効果は期待できない。劇的に症状が改善する場合もあるが、治癒することなく長い期間に渡り摂食障害の症状で苦しんでいる人が多い。20年以上の長きに渡り摂食障害で苦しんでいる人も少なくない。

摂食障害が治りにくいのは、そのはっきりした原因が掴めていないからである。これだけ医療や精神医学が発達しているのに、まだ摂食障害の原因は謎の部分が多い。例え原因が特定されても、その原因を解消することが極めて難しいというケースが多い。つまり、摂食障害というのは難治性の症状だと言えよう。摂食障害の症状が起きるのは、脳の神経伝達回路の異常ではないかと考えられている。それでは、この神経伝達回路異常が起きるそもそもの原因は何かと言うと、完全には解明されていない。だから治りにくいのである。

摂食障害の症状が現れる子どもや若者に共通していることがある。それは、とても生きづらい生活を送っているという点である。その生きづらい生活というのは、言い換えると愛に飢えているということが言える。つまり、溢れる愛によって満たされていて、人生を楽しんでいるような子どもや若者は、摂食障害の症状が起きにくいということである。また、必要以上に無理したり我慢したりしている子どもや若者も摂食障害になりやすい。あるがままというか、自然体で生きているような人は摂食障害になりにくいのである。

すべてがあてはまるという訳ではないが、摂食障害を起こすのは、どちらかというと『良い子』である子どもが多い。無邪気でやんちゃで、自分の思いを親に素直にぶつけるような子どもは摂食障害になりにくい。手がかからず、親には一切反抗せず、親の機嫌を損なわないようにおとなしくしていて、我慢強くわがままを言わないような子どもが摂食障害を起こしやすい。そして、親からいつも「早くしなさい」「こうしないと駄目よ」「こうしたいんでしょ、こう言いたいんでしょ」と言動を先取りされて育った子どもが多い。さらに、自尊感情が育っていなくて、自己否定感が強い子どもというのが特徴である。

摂食障害という症状が起きるのは、心が不安でいっぱいになり恐怖が次から次へと押し寄せて、このままだと心が壊れてしまうのではないかという時に起きることが多いらしい。つまり、心が壊れてしまうのを防ぐのに、摂食障害という辛い症状を起こして防いでいるかのようである。心のバランスが崩れていくのを防衛するかのような不思議な働きと言えよう。だから、治りにくいのである。つまり、この崩れそうな心のバランスを正常に戻さないと治らないし、不安や恐怖感を収めないと完治しない。さらに、自己否定感情を払拭して、自尊感情を高めないと摂食障害の症状は収まらないのである。

脳摂食障害を治すのは、当事者の努力だけではなしえない。やはり、経験豊かで優秀なカウンセラーやセラピストの助けが必要だと思われる。そして、こういう摂食障害を乗り越えるには、家族も変わらなければならない。何故かと言うと、家族との関係性にこそ摂食障害が起きた原因が隠れているからである。何も親の子育てに問題があったという訳ではない。あくまでも、親子の関係性や両親夫婦の関係性にこそ、摂食障害を発症した原因があるということだ。という意味で、ミラノ型の家族療法である『オープンダイアローグ』が効果を発揮すると思われる。ご両親と当事者を含めたオープンダイアローグ療法が、家族の関係性における課題に気付かせ、自ら変わり関係性を修復することにより摂食障害を乗り越えることが出来よう。

※イスキアの郷しらかわでは、摂食障害の症状の克服に、オープンダイアローグを駆使しての対応をしています。出来る事なら親子一緒にオープンダイアローグを体験していただくのが最適です。家族療法というと、親が批判されたり子育ての拙さを指摘されたりするのではないかと危惧される方が多いと思います。しかし、オープンダイアローグは特定の誰かに原因や責任を押し付けることはしません。安心して、問い合わせをしてください。

教員の働き方改革こそ喫緊の課題

公立学校でも民間の学校でも、教職者の働き方改革は非常に難しいと思っている人が多い。現在、教職にある人たちは殆どが超過勤務手当をもらわずに残業を強いられている。よく解らないような規則があって、長時間勤務をしても一定額以上は残業手当が支給されない制度になっている。いくら超過勤務をしても、みなし時間外手当を支給しているからという理由で、支給しないようになっている。だから、教職者は実際に何時間残業しているか記録されていない。こんな制度だから、残業時間は一向に減らないし、働き方改革なんて無理なのである。限りなくグレーな労働基準法違反の規則である。

ましてや、教師は皆が想像している以上に超多忙なのである。子どもたちを教えること、子どもたちの相談相手になったり指導をしたりする本来の業務以外に、様々な業務を抱えている。そして、先生たちはこれらの業務をすべて自分一人でこなしているし、他の先生が業務を手伝うことは殆どない。支援を申し出る先生もいないが、支援をお願いする先生も皆無なのである。自分で仕事を抱え込んでいて、他の先生にお願いするのはしない決まりでもあるかのように、一人で完結しようとしている。

そして、意外と教職者は事務処理が苦手であるし、パソコンなどの操作が不得手の人が多い。当然、教職者の業務はパソコンでの事務処理が多いので、処理時間を多く要する。当然、本来の大切な指導教育の時間が足りなくなるし、残業時間も多くなる。さらに、スポーツ系の部活顧問をしている先生は、超多忙となる。どの先生も共通して訴えるのは、事務処理などの雑務が多くて忙しいという点である。文科省からの統計調査や実態調査などの依頼が多く、その対応に時間を割かれる。実にもったいない時間である。

超多忙で仕事に追いまくられている教師は、悲鳴を上げている。そして、あまりにも頑張り過ぎてしまった先生は、しまいには心を病んでしまう。普段の忙しさと、難しい児童生徒の指導と扱いにくい保護者への対応により、過重ストレスとなって精神的に参ってしまうのである。そして、やがて出勤できなくなり、休職という状況に追い込まれる。そして、何度か復帰と休職を繰り返して、完全に離職してしまう。忙しさが解消されることがないし、職場環境は良くなるばかりか悪化する一方なのだから、そうなるのは仕方ない。

こんな超多忙な実態を何とか解決しようと教育委員会や学校管理者は心を砕いているが、まったく解決策が浮かばないみたいである。勿論、教師の数を増やせばいいのだが、教育予算がぎりぎりに削られている現状では難しい。防衛予算は年々増えているのに、教育予算は増えないのである。となれば、限られた予算の中でどうにか対応しなくてはならない。そもそも柔軟な考え方が出来ない文科省のキャリア官僚や教育委員会の幹部は、ドラスティックな発想が出来ない。先生の定員は決まっていて、絶対に増やせない。となれば、定員以外の職員を採用すればよい。パートの教員補助職員を採用するのは可能なのである。

教員免許がないと出来ない業務がある。実際に授業をする行為や指導をすることである。それは、他の職員が代行することは出来ない。しかし、雑務の事務処理業務は誰でも出来る。優秀なパート女性事務職員を雇用すれば、事務処理業務は短い時間で済ますことができる。さらに、少しだけ指導すれば、テストの原案作りや採点もできる。また、採点されたテストの集計とその評価の原案作成もできる。先生が最終チェックをして微調整すればいいだけである。スポーツの部活においても、ボランティアコーチを積極的に活用すればよい。そうすれば、先生は本来の授業や個別指導に力を注ぐことが可能となる。

しかも、コスト面においても正式雇用の教諭だと、社会保険や賞与と退職金引き当ても含めると、年間の平均人件費コストは一人当たり1,000万円を超える。ところがパート事務職員だと、一人年間120万円程度で雇えるのである。教師一人雇う人件費コストで8人以上のパート補助員を雇うことが可能になる。そして、一人の優秀なパート事務職員がいれば、3人の教諭の補助業務だって出来るに違いない。県や市町村独自の人件費負担で、雇用することも可能だ。このように雑多な事務処理などを教諭に負担させなければ、本来の指導教育に専念できるから、いじめや不登校も激減する。そして先生たちの休職や離職を防ぐことができる。先生の業務は他の人が代行出来ないという思い込みを払拭することがまず必要だ。

ポストアベノミクスはイノベーションで

アベノミクスという経済及び金融政策は既に理論破綻しているということは、皮肉なことに勤労統計の偽装によって実証されてしまった。実質賃金が低下していることが判明して、政府が主張していたトリクルダウンはまったく起きなかったことが図らずも証明されてしまった形である。それでは、アベノミクスからどのような経済政策に舵切りをすればよいかというと、御用学者たちはまったくアイデアが出せないでいる。何故かと言うと、経済政策、金融政策、そして労働政策が大企業中心に実施されているからである。

政府の経済政策は、あくまでも大企業が輸出を伸ばして利益を上げて工場増設や設備投資をすることで景気回復するというシナリオに固執している。頭のお堅い政府関係者やキャリア官僚は、低賃金で低コストの労働政策、さらには円安のための金融政策を取れば、国際競争力が高まって大企業が儲かり、下請けの中小企業もその恩恵を受ける筈だと思い込んでいるのである。ところが、実体経済はどうかというと、非正規の低賃金労働者が増えて所得格差が生まれ、消費支出が伸び悩んで景気は低迷し、庶民の暮らしは益々苦しくなり、不景気のスパイラル状態になっているのである。

それではアベノミクスからどのような経済政策に転換すればよいかというと、実に簡単なことであり、国民ファーストの経済対策をすればよいのだ。まずは、最低賃金を毎年5%ずつ上昇させればよい。そうすれば、5年もすれば28%賃金が上昇する。と同時に非正規雇用から正規雇用への労働政策を推し進める。そのうえで、所得税や地方税の累進課税比率を見直して、高所得者への課税強化を実施する。そうすると、賃金格差が減少して、中間所得層が増えて一般消費支出が驚くほど伸びることになる。所得税の累進課税を強化すると、高額の役員報酬や給料に出すよりも、設備改新や新商品開発に投資するだろう。

そんなことをしたら、企業が倒産してしまい、不景気になって失業者が増えることになると思う経営者が多いことだろう。そんな無能な経営者は、経済界から退出してもらうほうがよい。労働コストが上がったら、働き方改革やワークシェアーをするのは勿論、労働生産性を高める工夫が必要になる。さらには、真のイノベーションの実行やAIを活用した事務処理と生産工程を推進しないと生き残れなくなる。また、コモデティ化に飲み込まれないように、より付加価値の高く追随を許さない高技術の製品開発に取り組まざるを得なくなる。つまり、経営者は自らが抜本的な経営改革や意識改革をすることになるのだ。

1960年に当時の池田勇人首相が所得倍増計画を打ち出した。10年間で国民の給料を倍にするという、当時の経済常識からすると荒唐無稽のような経済政策であった。ところが僅か4年で所得は倍増し、10年後には所得は4倍になったのである。高コストになり輸出は減少したかというとそうではなく、驚くほど生産性が伸びて国際競争力は落ちず、輸出が伸びて国民生活は潤ったのである。経済格差もびっくりするほど改善して、失業者や貧困者は激減した。池田勇人が取った経済政策は、現代には当てはまらないとする経済学者が多いが、そんなことはない。賃金を上昇させることで、一般消費支出は伸びて、景気回復は実現するに違いない。結果として、企業は収益を高めることになる。

人件費コストが増大すると、企業の収益は一時的に落ちるのは間違いない事実である。経営者たちは、それが持ちこたえられないと、最低賃金のアップは認めたがらない。しかし、イノベーションを実行すれば、賃金コストを吸収してなお収益が確保できるのである。イノベーションなんて中小企業では無理だと最初から諦めている経営者が多く存在する。それは、イノベーションというものに対する誤解である。イノベーションが日本に紹介された際に、『技術革新』と誤訳されてしまった。それによる完全な勘違いでしかない。

かの著名な経済学者シュンペーターが唱えたイノベーションとは、単なる技術革新などではなくて、抜本的経営革新のことである。それには、勿論技術革新も含まれるが、ごく一部である。シュンペーターが説いていたのはneue Kombination(新結合)こそが、イノベーションにとって重要だということである。つまり、異質な価値どうしを統合させて、新たな大きい価値を生み出すという意味であり、それによって新たな顧客を創造するのが真のイノベーションである。端的に言うと、統合による新しい価値と顧客を創造することこそが、イノベーションなのである。それには、社員全員の意識改革も必要である。そうすれば、過度の競争にさらされることなく、収益性も確保されて、企業の発展と存続が可能になるであろう。

体罰は子どもを不健全にする

親からの虐待や体罰について、話題になっている。また、躾(しつけ)のやり方についても議論になっている。親からの虐待によって不幸にも亡くなってしまった子どもがいた事件があり、児童相談所や行政の対応の拙さも批判されている影響もある。また、東京都が体罰防止の条例を制定することになり、民法で懲戒権を認めているのはおかしいという議論にも発展している。体罰をしなければ躾は難しいという意見もあるし、どんな理由があるにせよ暴力はいけないと完全否定の人たちもいる。体罰は本当に必要なのだろうか。

体罰という行為は、家庭だけでなく学校や各種スポーツの指導現場でも横行している。体罰をしなければ子どもたちは健全に育たないと思い込んでいる指導者は少なくない。子どもたちを適正に導くには、何らかのペナルティーを与えなければ不可能だと彼らは主張する。家庭において、頭や尻を軽く叩いたり頬を叩いたりする行為なら、自分の手のひらも痛みを感じて、お互いの愛情を感じるからと自らの行為を正当化するお母さんもいる。愛情が根底にあれば、ケガや心の傷を負わせない程度ならいいと肯定する親がいる。

世界各国で体罰については、大きく意見が分かれる。世界中で、法律によって体罰を禁止する傾向にあるのは間違いない。数年前までは11か国が体罰を禁止するだけだったが、現在は57か国が法令によって体罰禁止をしているという。いち早く体罰禁止を打ち出したスウェーデンでは、体罰防止のキャンペーンが功を奏して、8割あった体罰の家庭は今では1割程度に減少したという。さらに驚くことに、このことによって青少年の犯罪が激減したというのである。暴力の連鎖が止まったのだと、専門家は分析している。

一方、体罰を容認している国家もある。先進国で代表的な国は、アメリカ合衆国である。各州によってまちまちであるが、保守的なフロリダ州などは体罰を積極的に認めていると言われている。青少年犯罪も多いし、銃乱射事件など多発している実態、他人や他国に対して暴力的態度で従わせるような姿勢は、もしかすると体罰による教育による影響かもしれない。子どものうちに、暴力によって相手を従わせるということを体験的に学んだ子どもは、大人になれば無意識に暴力で相手を支配するという行為をするのは当然である。

体罰や暴力は世代間連鎖をする。親から体罰を受けて育った子どもは、親になったら何の躊躇もせず我が子を体罰で従わせようとする。体罰まで行かなくても、親の権力を使って暴言や態度で子どもを支配しようとする親は少なくない。長時間に渡り立たせたりトイレや押し入れに閉じ込めたり、はたまたおやつや食事を抜いたりするのは、どこの家庭でも見られる光景である。両親が激しい夫婦喧嘩を子どもたちの目の前で繰り広げることもあるが、これは子どもから見ると立派な虐待であり、子どもの脳を破壊する致命的行為だ。

自分も親から暴力を受けて育った。恥ずべきことであるが、自分も若い父親だった頃に、何度か子どもに体罰を行った。おおいに反省すべきことであり、子どもたちに謝っても謝りきれない卑劣な行為である。子どもたちが我が子に対して、この負の連鎖をしないことを祈っている。体罰によって、子どもを健全に育てられると思い込んでいるとすれば、それは完全な間違いである。科学的にも証明されている。システム科学的に論じれば、過度の子どもという人体システムへの介入(体罰)は、子どもの自己組織化を阻害するだけでなく、オートポイエーシス(自己産生)をストップさせてしまう怖れがあるからだ。つまり、体罰を繰り返すことで、人間として備わっている主体性・自主性・自発性・責任性といった自己組織性を育たなくすると同時に、人間が自己成長して何かを成し遂げる力を削いでしまうのである。

人間と言う人体システムは、自らが自己組織化して自己産生を続ける機能を持つ。システムというのは、外部からのインプットによって機能し活動するのではなくて、自らが主体的に動くのである。そして、アウトプットもすることなく、システムの中でアクションが完結している。人間と言うシステムは、本来外部からインプットされないし、外部に対してアウトプットしない完全無欠なシステムとして機能しているのである。それが、体罰という介入(インプット)をされると、本来の機能を失ってしまう。成長が止まってしまうばかりかシステムエラー(問題行動や病気)を起こすのである。勿論サポートは必要である。それも、愛情の籠った思いやりのある支援である。けっして子どもの自己組織化を妨げることなく、本人が自ら気付くように、学ぶように寄り添い支援を続けることである。子どもを健全に育むためには、体罰だけはしないことである。

自ら命を断つ前にすること

自殺をする人は、やや少なくなったとはいえ、年間3万人弱の数に上っている。しかしながら、実際は自殺者の数は3万人弱だけではない。この数は、あくまでも遺書を残していて、明らかに自殺としか思えないと確定した人数である。ましてや、自殺行為をしてから24時間以内に亡くなった人だけがカウントされていて、2日目以降に亡くなった人はこの人数に含まれない。また、発作的に電車に飛び込んでしまった方は事故死として処理され、自殺者としてはカウントされない。実際の自殺者数はこの倍以上に上ると推測される。

どうして政府は実際の自殺者を少なく見せているのかというと、これだけ多い自殺者を救う手立てをしていないのではないかと非難されるのを避けているからである。その証拠に、自殺者数が3万人を下回るようになったのは、厚労省や警察庁が自殺防止対策を講じたからだと自画自賛している。他の先進諸国と比較しても、こんなにも異常に多い自殺者を出している国はない。自殺をする人を救えない、無策な厚労省と言われても仕方ないであろう。自殺予防の対策をしているとは言いながら、効果を上げていないのは事実である。

自殺をする方をどうにかして救えないものであろうか。「こころの健康相談ダイアル」という自殺願望者の方が電話相談をするセンターがある。これは、あくまでも電話の相談だけであり、リアルに会ってカウンセリングをしてくれる訳ではなく、医療機関などを紹介されることが多い。『自殺サイト』と呼ばれる、自殺願望者や自殺に興味のある方が集うサイトがある。この自殺サイトは、自殺を思い止まらせてくれないばかりか、適切な自殺の方法を教えたり、背中を押したりするような不適切行為をする処もある。

自殺願望者を救ってくれるような処は、医療機関やカウンセラーしかなさそうである。自殺願望者を救うという高度な知識や技能というのは、専門家しか出来ないと思われている。しかしながら、自殺願望の方を思い止まらせてくれる民間の施設がある。佐藤初女さんが主宰していた『森のイスキア』という青森県の弘前にある宿泊施設である。この世に絶望してしまい、生きていても仕方ないと思い込み、自殺をしようと思っている方が、最後に訪れる施設である。この施設を訪れて、佐藤初女さんの温かいおもてなしを受けると自殺を思い止まるのである。

佐藤初女さんは、特別なカウンセリングやセラピーを実施する訳ではない。ただ、黙ってこの世に絶望した人の話を聞くだけである。けっして否定せず、ただ共感するだけである。じっと話を聞いて寄り添うのである。そして、佐藤初女さんの心尽くしの手料理を食べて、何日か宿泊すると元気になって社会に戻って行けるようになる。しかしながら、その佐藤初女さんは、2016年の2月に還らぬ人になってしまわれた。その後、この世に絶望してしまった人を救う『森のイスキア』の扉が二度と開かれることはなくなってしまった。

この佐藤初女さんの森のイスキアのような施設は、全国を探しても他にはない。佐藤初女さんのように偉大な方は、もう2度と現れないに違いない。日本のマザーテレサと呼ばれて、多くの方から慕われていたのだから、後を継げるような人はいないだろう。しかしながら、自殺をしようとしている方々を救う場所は必要である。例え佐藤初女さんには遠く及ばないとしても、10分の1でも100分の1でも佐藤初女さんに近づきたいと、森のイスキアと同じような施設を開設した。それが、福島県の塙町という田舎に開設した『イスキアの郷しらかわ』である。

この世に絶望してしまい、自らの命を断ってしまうしかないと思っていらっしゃる方がいたとしたら、もう一度思い止まって考えてほしい。自殺をするという決意は固いとしても、最後に『イスキアの郷しらかわ』で最後の時間を過ごしてみてからでも遅くはない。自殺をするにしても、最後の数日をイスキアの郷しらかわで愛情の籠った心尽くしの食事を食べて、自分を苦しめている悩み苦しみを一度手離して、もう一度生きる意味を考えてみてはどうだろうか。イスキアの郷しらかわでは、何も聞かず問い質すこともせず、けっして否定せず、何も強いるようなことはしない。ただそっと寄り添うだけであり、傾聴し共感するだけである。もう一度だけ、自分の悩み苦しみを話してみてはどうだろうか。

※イスキアの郷しらかわは、もう生きていても仕方ない、生きる希望もない、自分なんか生きる価値もない、死んでしまうしか他に方法がないと思っていらっしゃる方を受け入れています。もしかすると何かしらこの社会に生きる意味や、自分に課せられた使命に気付くことができるかもしれません。一縷の望みでもなんでもいいから、もう一度だけ数日だけでもイスキアで過ごしてからにしようと思ってくれたら有難いことです。下記の問い合わせフォームから、まずはご相談ください。

    陰謀論をネットに拡散する愚行

    SNSなどで、陰謀論が盛んに流されている。それらの論理的根拠や科学的根拠は、実に希薄なものであるし、ねつ造されたものとしか思えないあやふやなものが殆どである。あくまでも、想像論でしかないし、陰謀を起こすべき動機が弱いし、実際にそれだけの陰謀が実行されたとしたら、それをマスメディアや善良な政治家や官僚に悟られない筈がない。全部が作り話だとは思わないが、殆どがデマとしか言えないものばかりだ。したがって、それが陰謀論を冷ややかな目で見ている人たちに、絶好の反論として利用されてしまっている。

    陰謀は実際に行われているかもしれないし、単なるねつ造かもしれない。完全に否定できず信憑性が感じられるものもある。陰謀があると信じたい気持ちも解らないではないが、どうしてそんなに陰謀論が好きなのだろうか。また、陰謀論をどうしてネットに垂れ流すのであろうか。陰謀論がもし真実で、ましてやその陰謀が巨大な権力を持つ組織によるものだとしたら、ネット上で明らかにすることを妨害するに違いない。国家規模による陰謀なら、ネットの情報を操作するなんて朝飯前の筈である。

    そう言えば、陰謀論を垂れ流している人間は、インターネットの繋がりが悪くなったとか、書き込みが出来なくなったと主張する人が多い。あたかもネット情報を拡散することを、闇の勢力から妨害されているかのように訴えている。もし、闇の勢力が実際に存在して、その闇の勢力とやらがインターネットの拡散妨害をするならば、そんなことをすることがないことは、少し賢い人間ならば誰だって理解できる。ネットの操作をするなら、本人に悟られない方法にするであろう。グーグルやヤフーの検索エンジンでヒットしないようにすればよいだけであろう。

    エビデンスのない陰謀を自分で確認することなく、安易に信じてしまい、それをSNSで拡散してしまうのは何故であろうか。このように陰謀が大好きな人間は、社会的に認められている成功者とは言えず、どちらかというと不遇な生活をしている。職場でも冷遇されていて、社会的な評価や地位も低くて、いつも不満を持っている人間が多い。そして、家族や周りの人間からも愛されないばかりか、いつも愛に飢えている。人生のパートナーにも恵まれず、ずっと独身の生活を続けているとか、結婚生活が破綻してバツであることが多い。つまり、孤独な人生を送っているのである。

    このような人間は、社会に対して強い生きづらさを抱えていると同時に、自分が不遇な生き方をしているのは、社会が悪いからだと思い込んでいる傾向がある。そして、社会に対する強烈な憎しみを抱えている。こういう状況に追い込まれて自分が這い上がれないのは、一部の権力者や権威者が良からぬ陰謀を張り巡らしているからだと思い込むのではないだろうか。つまり、社会に対する恨みつらみから、陰謀がある筈だと勘違いするのだと思われる。不遇な暮らしをしているのは、確かに社会そのものにも原因があったとしても、自分に原因があるということを認めたがらないのであろう。

    陰謀論を信じるか信じないかは、それぞれ自由である。しかしながら、とんでもない陰謀を確認することなくネット上に垂れ流すのは止めて欲しいものである。何故なら、素直で善良な人間さえも信じかねないからである。面白おかしくねつ造された陰謀ほど、人々は飛びつきたがる。そんな陰謀を信じたいし、信じることで自己満足したいのであろう。陰謀を垂れ流して大騒ぎでリアクションをする人々を見て、自分自身の満たされない思いを解消しているのではなかろうか。愛に飢えている心を、陰謀論で癒しているに過ぎない。

    陰謀は本当にあるのかもしれない。だとしても、とんでもない陰謀論をあまりにも拡散させてしまうと、デマが信じられるように陰謀論もあたかも真実のように一人歩きしかねない。そうすると、人々の心は益々疑心暗鬼になり、人間どうしの信頼関係は揺らいでいくし、関係性は劣悪化していく。つまり、人間どうしの繋がりや絆が希薄していくし、お互いの協力関係も薄らいでしまう。自分さえ良ければいいんだと思い込み、他人に対する思いやりや優しさもなくなってしまう。これこそが陰謀による取り返しのつかない悪影響であり、もしかすると陰謀論を流す本当の目的は、ここにあるのかもしれない。陰謀論というのは、人間どうしの分断を図る『悪魔のささやき』でしかないと心得るべきである。