「ごめん、愛してる」は韓流ドラマのリメイク版らしい。反韓感情が盛り上がっているこの時期ということもあって、視聴率はいまいちらしいが、実に感動的な人間ドラマに仕上がっている。韓流ドラマらしくご都合主義的な筋書きではあるが、純愛や家族愛をけれんみなく描いていて、好感が持てる。何よりも素晴らしいのは、単なる恋愛や家族の絆をテーマにした物語ではなく、人間哲学を主題にしているという点である。主人公がドラマの中で自問自答をする「俺は何の為、誰の為に生まれてきたんだ?」という台詞に共感を得る。人間にとって永遠のテーマである、自分が生まれてきた意味や生きる目的を熱く語るドラマには、なかなかお目にかかれないからである。
今時の若者は、自分の生まれてきた意味や生きる目的について深く考える機会に恵まれないこともあり、避けて通ってきたのではなかろうか。深く考え過ぎて悩み苦しみ、メンタルを病んでしまう若者にもたまに出会うが、こういう難しいテーマよりも面白おかしく生きたいと考える若者のほうが多いように思う。そんな七面倒なことを考えるより、ゲームに興じて、お笑いやバラエティ番組にうつつを抜かしていたほうが、人生は楽しいと考える輩が多いことだろう。人生の目的についてブログを書くと、人生の目的なんてなくても生きられると平気でコメントを入れてくる愚か者がいる。確かに生きる目的なんてなくても、生きられるのは当たり前である。
生きる目的のある人生と、目的のない人生ではとんでなく大きな違いが出てくることを知らないから、そんな馬鹿げたことを平気で言うのであろう。実に情けないし、可哀想なことである。明治維新よりも前に生きた若者たちは、生きる目的について深く考える機会を持てたし、悩み苦しんできた。本来、青春とか思春期というのは、そういうことを悩み苦しむ時期なのである。日本人は、生きる目的を持たないから、実に薄っぺらな人間に成り下がってしまった。考えてみるがいい、目的のない人生というのは、海図のない航路に船出したようなものである。行先がないのだからいずれ迷い、難破するのは当然である。
「ごめん、愛してる」の主人公リョウは、自分を産み捨てた実の母親を憎み、仕返しをしようと企み、実母の家族に近づく。憎しみ恨みで凝り固まったリョウは生きる目的もないから、マフィアという裏社会で暴力的で刹那的な人生を歩んできた。そして、実の母親に名乗れず蔑まれながらも、自分の母と弟との関わりあいを持つうちに、自分の生まれてきた本当の意味を知ることになる。自分の命を捨てても、誰かの為に役に立つ喜びを知るのである。自分の幸福や豊かさの為だけに生きることの愚かさ、そして悲しさをも認識するのである。
主人公リョウが面倒を見ている知的障害の母とその子が出てくる。池脇千鶴がその母親を好演している。実に純粋な人間であり、嫌みなところがこれっぽっちもない。自分のことよりも、周りの人々の幸福を願い、他人のために尽くすことを喜びとしている。こういうピュアな心を持った人を見ると実に嬉しくなる。自分もこうありたいと強く思うが、出来ないもどかしさと恥ずかしさを感じる。主人公のリョウも、このような純粋な親子に出会ったことで、生まれてきた意味や何のために生きるのかということを考えるきっかけになった気がする。
次週はいよいよこのドラマは最終回を迎える。韓国では、冬ソナを超える視聴率だったという。儒教のお国柄ということもあり、こういう人間ドラマが好まれるのかもしれないが、韓国のテレビ界もなかなかやるではないか。主人公リョウが果たしてどんな結末を迎えるのか興味深いが、悲劇の主人公となるのは間違いないであろう。ただし、このドラマを単なるお涙頂戴の純愛ドラマとしてだけ見るのではなく、自分が生まれてきた意味や生きる目的を考えるきっかけにしてほしいと強く思う。自分が誰のために生きるのか、何のために生きるのかを教えてくれる素晴らしい物語に出会ったことを幸せに思いたい。