ごめん、愛してる

「ごめん、愛してる」は韓流ドラマのリメイク版らしい。反韓感情が盛り上がっているこの時期ということもあって、視聴率はいまいちらしいが、実に感動的な人間ドラマに仕上がっている。韓流ドラマらしくご都合主義的な筋書きではあるが、純愛や家族愛をけれんみなく描いていて、好感が持てる。何よりも素晴らしいのは、単なる恋愛や家族の絆をテーマにした物語ではなく、人間哲学を主題にしているという点である。主人公がドラマの中で自問自答をする「俺は何の為、誰の為に生まれてきたんだ?」という台詞に共感を得る。人間にとって永遠のテーマである、自分が生まれてきた意味や生きる目的を熱く語るドラマには、なかなかお目にかかれないからである。

 

今時の若者は、自分の生まれてきた意味や生きる目的について深く考える機会に恵まれないこともあり、避けて通ってきたのではなかろうか。深く考え過ぎて悩み苦しみ、メンタルを病んでしまう若者にもたまに出会うが、こういう難しいテーマよりも面白おかしく生きたいと考える若者のほうが多いように思う。そんな七面倒なことを考えるより、ゲームに興じて、お笑いやバラエティ番組にうつつを抜かしていたほうが、人生は楽しいと考える輩が多いことだろう。人生の目的についてブログを書くと、人生の目的なんてなくても生きられると平気でコメントを入れてくる愚か者がいる。確かに生きる目的なんてなくても、生きられるのは当たり前である。

 

生きる目的のある人生と、目的のない人生ではとんでなく大きな違いが出てくることを知らないから、そんな馬鹿げたことを平気で言うのであろう。実に情けないし、可哀想なことである。明治維新よりも前に生きた若者たちは、生きる目的について深く考える機会を持てたし、悩み苦しんできた。本来、青春とか思春期というのは、そういうことを悩み苦しむ時期なのである。日本人は、生きる目的を持たないから、実に薄っぺらな人間に成り下がってしまった。考えてみるがいい、目的のない人生というのは、海図のない航路に船出したようなものである。行先がないのだからいずれ迷い、難破するのは当然である。

 

「ごめん、愛してる」の主人公リョウは、自分を産み捨てた実の母親を憎み、仕返しをしようと企み、実母の家族に近づく。憎しみ恨みで凝り固まったリョウは生きる目的もないから、マフィアという裏社会で暴力的で刹那的な人生を歩んできた。そして、実の母親に名乗れず蔑まれながらも、自分の母と弟との関わりあいを持つうちに、自分の生まれてきた本当の意味を知ることになる。自分の命を捨てても、誰かの為に役に立つ喜びを知るのである。自分の幸福や豊かさの為だけに生きることの愚かさ、そして悲しさをも認識するのである。

 

主人公リョウが面倒を見ている知的障害の母とその子が出てくる。池脇千鶴がその母親を好演している。実に純粋な人間であり、嫌みなところがこれっぽっちもない。自分のことよりも、周りの人々の幸福を願い、他人のために尽くすことを喜びとしている。こういうピュアな心を持った人を見ると実に嬉しくなる。自分もこうありたいと強く思うが、出来ないもどかしさと恥ずかしさを感じる。主人公のリョウも、このような純粋な親子に出会ったことで、生まれてきた意味や何のために生きるのかということを考えるきっかけになった気がする。

 

次週はいよいよこのドラマは最終回を迎える。韓国では、冬ソナを超える視聴率だったという。儒教のお国柄ということもあり、こういう人間ドラマが好まれるのかもしれないが、韓国のテレビ界もなかなかやるではないか。主人公リョウが果たしてどんな結末を迎えるのか興味深いが、悲劇の主人公となるのは間違いないであろう。ただし、このドラマを単なるお涙頂戴の純愛ドラマとしてだけ見るのではなく、自分が生まれてきた意味や生きる目的を考えるきっかけにしてほしいと強く思う。自分が誰のために生きるのか、何のために生きるのかを教えてくれる素晴らしい物語に出会ったことを幸せに思いたい。

母性と父性

母性と父性の違いについて、正確に述べられる人はそんなに多くない筈である。そもそも、母性と父性を勘違いしている人も少なくないし、現在の日本において母性と父性を的確に生かしながら子育てをしている家庭は非常に少ないと思える。母性愛と父性愛を豊かに注いでいる子育てなら、子どもたちも健全に育つし、様々な教育上の問題を起こさないばかりか、家族というコミュニティも一つにまとまって、良好な絆を保ち続けることだろう。逆に母性愛と父性愛を不的確に捉え、しかも豊かに発揮できない家庭では、不登校、ひきこもり、DV等のいろんな家庭内の問題が起こることであろう。それなのに教育問題の研究においても、母性と父性にあまり注目されていないのは実に不思議なことである。

日本の一般的な家族に、母性と父性を意識したことがありますか?と質問したとしたら、おそらく半数以上の家庭はNOと答えるに違いない。そんなこと、両親からも伝えられていなかったし、ましてや学校教育では母性と父性の大切を教えている訳がない。仏教哲学が広く普及していた江戸時代以前は、母性と父性について実に解りやすく教えていたように思う。つまり、仏教哲学においては仏像という偶像を利用して、誰にでも理解できるように伝えてくれていたのだ。観音様は母性を代表する仏像であり、対比しての仏像として弥勒菩薩や勢至菩薩がある。また、父性を表す不動明王に対比して、愛染明王がある。さらには、母性を示す阿弥陀如来に対して、父性の象徴とも言える薬師如来がある。こうして、母性と父性を衆生に解りやすく教示していたに違いない。

そもそも母性と父性というのは何であろうか。父性は条件付の愛であり、母性は無条件の愛と言われている。または、仏教的に言えば母性は慈悲や情であり、父性は智慧や法理であろう。つまりは、互いに相反することであるから、大人であれば両立は可能であるものの、子どもにしたら迷いが生じるのであろう。間違いなく言えることは、子どもに取って先ず必要なのは母性(無条件の愛)であり、それが満たされて初めて父性(条件付の愛)である躾を受け容れることが出来るのである。この順序を間違えると、子どもは一生苦しむことになる。つまり、最初に父性を発揮して育てられた子どもは、自我を克服出来ずに、自己の確立がなかなか出来ずに、真のアイデンティを持てなくなるのである。実は、現代における大多数の人々は、このアイデンティの確立が出来ずに大人になっている。それは、とりもなおさず母性と父性が正しく発揮されずに育てられているという証左でもあろう。

現代の子ども、または若者たちは大きな生きづらさを抱えて生きている。その訳は、やはり母性愛と父性愛を的確にしかも豊かに与えられていないからではなかろうか。どちらかというと、父性愛である条件付きの愛ばかりを受け取り、母性愛をあまり与えられているとは思えない。条件付きの愛である「躾」ばかりを押し付け、子どもを支配し制御しているように感じる。「どんなあなたでも、どんなことがあっても永遠に愛します」というメッセージや意識を注いでいるようには思えないのである。親は子どもを愛しているのは間違いないが、子どもの精神的自由を奪ってまで、自分の思い通りの理想の子ども像を押し付けてはいないだろうか。

 

それでは両親揃っていないと母性と父性を活用した子育てができないかというとそうではない。一人親子育てでも、母性と父性を共に上手に成功している例は少なくない。しかし、それはあくまでも表面上のことであろう。その子どもの心の内面に迫ると、実は多くの問題課題を抱えていて、実に生きづらい人生を送っていることが少なくない。何故なら、そもそも母性と父性というのは相反するものであり、1人の人間の中に両立させたとしても、その母性と父性を受け取る子どもに取っては、どちらの母親が本当の母親なのか、微妙な迷いや不安が生じるのである。やはり、両親またはそれに替わる誰かの一方が母性を演じ、もう片方が父性を演じるほうが、子どもは納得しやすいのだ。子どもの心にしてみれば、1人の人間が両方発揮するというのには相当理解に苦しむことであろう。祖父母、または叔父叔母のどちらかが片方の愛を発揮してもいいし、地域の誰かがその役割を担うことも考えられる。

両親が揃っていても、母性と父性がうまく発揮できていなのは何故かというと、一番問題があるのは父親であろう。父親が正しい父性(条件付の愛)を発揮出来ていないからである。子どもに気に入られようと、妙に子どもにおもねるというかご機嫌取りに終始して、本来の正しいしつけが出来ていないのである。当然、母親は安心して母性を発揮出来ずに、しつけである父性を最初から発揮する羽目になる。さらに、子どもに対して思想哲学を教えるのは、やはり父性(法理)であるから父親である男性の役目であろう。しかし、自分自身のしっかりした哲学を持ちえていない父親であるから、情けないことに世の中の理(ことわり)を教えられないのである。母親は、子どもに対してしっかりした思想や哲学を教えられる父親だと確信できたら、安心して無条件の愛である母性愛だけを発揮できるのである。さらに言えば、夫が妻に対して無条件の愛で包み込んで上げられた時に、妻は子どもに対して豊かな母性愛を注げるということも付け加えておきたい。

無縁社会に陥る原因とは

今の世の中、無縁社会と言われている。NHKTVにおいても、クローズアップ現代で無縁社会を何度も取り上げている。過剰演出だという批判もされているようだが、家族というコミュニティは、確かに崩壊している場合が多いようだ。昔は、生活保護を受けるという人は滅多にいなかったものだ。子どもが老親を面倒見るというのが当たり前だった。また、子どもがいない人は、兄弟と甥や姪が面倒を見るというのが当然だった。しかし、今は実の親でさえ見捨てる子どもがいるのだ。

こんな例も多いという。年老いて病気になり、入院した母親が入院費を払えないというので、近県に住む息子に病院のケースワーカーが連絡した。その息子は、著名な都市銀行に勤める管理職だったらしい。しかし、親を面倒見るつもりはないから、生活保護を申請してくれと言ったとのこと。若い時に何かあったのかもしれないが、十分な収入がありながら、実の親の入院費や生活費を負担しないというのは、とても考えられないことだ。別世帯であり、収入も財産もないから、生活保護は認められたが、何となく腑に落ちない話である。

こんな世の中だから、益々生活保護世帯が増加している。子どもでさえ面倒見ないのだから、親戚が生活費を負担する訳がない。離婚が増えているのも、こういう一人暮らしの老人が増えている要因にもなっている。母親に子どもは付いてくるが、父親は子どもから見捨てられるケースが多い。こうなると、年老いて一人暮らしになる男は惨めだ。女性は一人暮らしが苦にならない場合が多いが、男性の一人暮らしは寂しい。孤独に耐えるのが、男は難しいという。身から出た錆とは言いながら、一人寂しく老後を過ごす男も多い。

さて、こういう無縁社会の原因は何だろうか。家族というコミュニティが崩壊したのは、何故なのだろうか。いろいろ原因はあげられるようだが、家族というものに求心力が無くなっているのは事実である。つまり、家族の関係性が希薄化しているということだ。夫婦は簡単に離婚するし、親子や兄弟の縁も非常に薄くなっている。絆(きずな)というものが、お互いに感じられない世の中なのかもしれない。本来、家族と言うのは強い絆で結ばれているものであるが、その絆がないということなのだろう。

本来人間というものは、単独では生きていけないものだ。社会という世界で、いろんな関係性によって生かされている。社会を構成する要素である人間が、その関係性をまったく無くしてしまったら、存続できないのである。何らかの関係性があるおかげで、衣食住や各種サービスを得られて生活していけるのである。そして、関係性を深く多く結べる人が、多くの人々から信頼され感謝され愛され、幸福な人生を送るのである。一方、関係性を結ぼうとしなかった人が、無縁社会と呼ばれる悲惨な社会で、寂しい老後を迎えるのである。

つまり、無縁社会というのは関係性をないがしろにした為に起きた必然的な状況なのではないだろうか。家族にしても地域にしても、関係性を大事にした生き方をしていたならば、絆は結ばれている筈で、そんなに簡単に絆が解けることはないものだ。つまり、個を大事にするような生き方ではなくて、お互いの関係性を大切にする生き方は、言い換えれば相手の気持ちになりきって、相手の幸せや心の豊かさを支援する生き方である。誰でも自分が可愛いものだ。しかし、敢えて自分を後回しにして、家族や周りの人々を利する生き方をしてきたならば、その人が困った際は、誰かが助けてくれる筈である。仏教用語で言うところの、忘己利他の生き方をしていれば、困った時に必ず援助者が出てくるものだ。情けは人の為ならずというではないか。

無縁社会というのは悲惨であるが故に、そうならないような施策が必要だ。政治や経済が悪いからだと、人のせいにしていたらいつまで経っても改善されない。先ずは、自分の生き方と意識を変えていく必要があると思われる。人々との関係性を豊かにするにはどうするかという命題に基づいた生き方考え方に、今シフトすべきなのである。その為には、意識改革も必要であろう。マスメディアも単に無縁社会をセンセーショナルに喧伝するだけでなく、その原因と対策をしっかりと洞察し明らかにして、人々に声高らかに伝えてほしいものである。

食の嗜好と心の状態

生活習慣病のうち、食事の偏りから起きる疾病は少なくない。代表的なものに、糖尿病や高脂血症があげられる。さらに、動脈硬化症とそれによる心筋梗塞や脳疾患も食習慣によって多大な影響がある。最近の医学研究によると、特定のガンもやはり食習慣にかなり左右されることも判明している。さらには、食事によって腸内環境が変化して、いろんな疾病の発症にも関わってくるということが判明している。生活習慣病ではないが、うつ病などの気分障害やパニック障害などにも腸内環境が影響しているらしいから、食習慣や食の嗜好が心身の健康に多大な影響を与えているということは間違いなさそうである。

 

食習慣が人間の性格にまで影響を及ぼしているのではないかとの研究をされている学者もいる。これはエビデンスを得ることが難しいことから、あくまでも観察した事象や類推によるものでしかない。でも、説得力のある仮説のような気がする。野菜を中心にした食事や自然食を好んで食している人間は、心が穏やかになり周りに対する思いやりや配慮が出来るし、優しい性格になるという。一方、肉食を中心にして野菜をあまり摂取しない人は、攻撃性が増してしまい、好戦的な性格になりやすいというものである。勿論、例外はあるものの、野生動物も同じような傾向にあるから、この仮説を信じる人は多い。

 

ところで、肉食動物は瞬発力があるが持久力がないから、狩りをしていても諦めが早い。草食動物は、瞬発力は肉食動物よりは劣るが、持久力は非常に高いことが知られている。おそらく精神的にも、なかなか諦めず持続性があるように感じる。人間もまた、肉食系は攻撃性が強く瞬発力が強いが持久力がなく、精神的にもめげやすくストレス耐性が低いと想像できる。草食系は、穏やかな性格なので対人関係で軋轢が少ないし、粘り強い性格でストレス耐性も強い。食生活の乱れは、心身の乱れに通じる。うつ病などの気分障害を起こしている方々は、食の嗜好が偏っていることが少なくない。

 

お寺に修行で入る若い僧たちは、概ね一汁一菜の粗食を摂る。何故なら、精神的な鍛練には粗食が必要だからである。貪り(むさぼり)の欲望に支配されていては、心が浄化されないからである。食欲は煩悩を燃え盛らせる。粗食を続けることにより、穏やかで何ものにも揺るがない精神を獲得するだけでなく、正しい心を持てるようになるのである。肉食や刺激物などを戒めたのは、心身共に不健康になると信じられてきたからだろう。厳しい修行や鍛練に応える為には、雑念を捨てることが必要である。菜食により、雑念からも遠ざかることが出来たに違いない。

 

誰でも経験していることと思うが、イライラしたり辛いことが続いたりすると、甘いものや炭酸飲料などを好んで食し、肉を食べたくなる。または刺激性の強い食べ物が欲しくなる。特に精神的に無理したり我慢したりした時に、そのような食の嗜好になりやすい。一方、心の豊かさを実感し周りの人々からの愛に満たされ、幸福感に浸れているような時には、野菜食や自然食でも満足し、優しい味の食事を好むようになる。ストレスが強い時に好む悪い食の嗜好は、時間の経過と共にさらに強くなり、なかなかそのような食習慣から抜け出せないことが多い。そして、ストレスを益々強く感じてしまい、怒りや憎しみの感情で満たされることになる。

 

ストレスフルな社会だからジャンクフードやファストフード、糖分の多い食事や炭酸水を好むし、肉食や刺激物を摂りたがるのも理解できる。ファストフード、肉食や刺激物の食事を止めて、野菜や果物、穀物などを中心としたスローフードの食事を続けると、穏やかな気持ちになれるし、心身の健康を得ることが可能となる。いきなり完全な菜食は無理にしても、ちょっとだけ我慢して、少しずつ野菜中心の食事にしてはどうだろうか。そうすれば、ストレスにも強い心も獲得できるに違いない。「イスキアの郷しらかわ」では、野菜中心の自然食を提供している。イスキアで何日間かこの食事を食べ続けると、デトックスされて穏やかでストレスに強い心を作ることになる。間違いなく心が癒されるので、是非とも試してみてほしい。

気分障害と腸内フローラ

最近、腸内フローラという語句が世間で注目されている。腸内には約1000種の腸内細菌が生きていて、総数1000兆個の細菌が住み付いていると言われている。以前は、その10分の1しか認知されていなかったのだが、細菌学の研究によってもっと多い細菌数があると解ってきたのだ。人間の細胞数は60兆個と言われているから、それよりも遥かに多い数の腸内細菌が存在するらしい。その腸内細菌をお花畑に見立てて、腸内フローラと呼ぶという。腸内細菌が美しいお花畑のように輝いていれば、体調も良好で健康状態にあり、反対に腸内細菌が汚れていて歪んでいると病気になりやすいらしい。それは、精神的な病気にも影響するというから驚きだ。

腸内フローラと呼ばれるものは、正式には腸内細菌叢(そう)と言う。その腸内細菌叢には、1000兆個以上の腸内細菌が存在する。その腸内細菌には、善玉菌と呼ばれるビフィズス菌や乳酸桿菌と、悪玉菌と呼ばれる腐敗菌などが存在する。さらに、日和見菌(ひよりみきん)と呼ばれる大腸菌などが生息している。善玉菌は腸内の悪玉菌の働きを抑えて、過剰腐敗などが進まないようにしている。つまり、善玉菌が優位であれば悪玉菌を抑えられているし、悪玉菌が善玉菌より優位になれば、腸内環境は悪化して腐敗が急速に進むことになる。日和見菌は、どちらかの菌が優位になれば、その優位になった菌に味方する。腸内フローラが美しいのは、善玉菌が悪玉菌を押さえ込んでいる状況である。

腸内細菌が正常で腸内フローラが美しいと、腸の疾病だけでなく、糖尿病などの生活習慣病も予防出来るという。がんさえも予防する効果があるという。さらには、腸内フローラはうつ病の発症にも関係しているだけでなく、老化にも深く関わっているというから驚きだ。昔から、東洋医学では丹田(たんでん)という下腹部の一部をとても大切にしていて、そこを冷やさないようにしたりお灸をしたりしていたが、科学的にも正しいということになる。最近のマウスによる研究では、不健康なマウスの腸内細菌を健康なマウスに移植するとそのマウスは不健康になり、その逆も起きるという。さらには、マウスの性格まで変わるというからびっくりする。まだ人体での実験は進んでいないが、おそらく同様の結果になると思われる。

腸内細菌は、精神疾患に影響すると言われているセロトニンの生成に関係しているらしい。幸福ホルモンと呼ばれるセロトニンの9割ほどが、腸内で生成されていることはあまり知られていないが事実である。つまり、腸内フローラはセロトニンの生成と密接に関連しているということである。このセロトニンは脳に直接運ばれることはないが、脳で生成されるセロトニンの材料を運ぶ働きに、腸内細菌が関係していることが判明されている。つまり、腸内細菌が正常でないと、脳内セロトニンを作る働きが低下するということらしい。セロトニンはうつ病の発症に関係していると言われている。セロトニンの不足がうつ病の発症をさせてしまう。つまり、腸内フローラは気分障害と密接な関係があるという結論になる。

東京で開業している某内科医は、うつ病やパニック障害と診断され投薬でまったく改善しない患者さんを診察して、もしかすると腸の不調によるものではないかと仮説を立ててみたそうである。診察で食生活を聞くと、満足した食事を摂らず、コンビニ弁当やおにぎり、カップ麺やファストフードの食事、スナック菓子やジャンクフード、甘い炭酸飲料やアルコールというような最悪の飲食をしていたと答えた。当然、過敏性大腸炎のような状況で、下痢と便秘を繰り返す最悪な症状だったと言う。まず食生活の改善から初め、腸内フローラが好む野菜と果物中心で、肉食を少なくして大豆淡白を摂取し、規則正しい食生活に改善させたと言う。そうすると、あっという間に精神症状が落ち着いたと報告している。ある統合医は、発達障害にも効果があったという報告もしている。

このように、腸内フローラは身体的な健康だけでなく精神的な疾病にも影響しているということが判明されつつある。まだまだ医学的なエビデンスは不足しているし、腸内細菌を移植した場合の実験データも乏しい。とは言いながら、心ある医師たちは精神疾患の原因のひとつが腸内フローラにあるという事実を受け容れ始めている。最近、オキシトシンという不安・恐怖を抑える働きがある脳内神経伝達物質も、腸内環境の影響を受けるのではないかと言われ始めている。自閉症や発達障害の症状を緩和するにも、腸内細菌が影響していると主張する医師も出てきた。仮説としては納得できるものの、その科学的証明はまだまだ時間がかかると見られている。気分障害で悩んでいる人は、腸内環境を改善する食事を試してみる価値があるだろう。イスキアの郷しらかわでは、腸内環境を改善し、デトックスする自然食を提供している。

家庭崩壊の訳

今、家族の絆がなくなり、家庭崩壊が進んでいると言われている。夫婦関係も親子関係も、本来の関係性を持ち得ていない。つまり、本来は家族がお互いに対して、慈愛・博愛に満ちた行動を取るべきなのに、家族それぞれが自分中心の行動を取る傾向にあるのだ。妻は、夫を尊敬する気持ちが失せてしまい、カルチャースクールや趣味の世界に没頭する。または、妻が仕事や市民活動だけに生きがいを見出しているケースも多い。このように、表面的には仲の良いそぶりを見せているが、仮面夫婦を演じている家庭が少なくない。子どもは、自分を何かと支配・制御しようとする親をうざったいと思い、低い価値観しか持ち得ない父親を軽蔑さえしている。子どもらは、何から何まで指示を下す母親を毛嫌いし、家庭を顧みず自分の都合だけで叱る父親を遠ざけている。

父親と言うのは、本来家庭におる精神的・肉体的支柱にならなければならない。つまり、大黒柱なのである。父親というのは、身を挺してでも敢然と家族を守るべき存在であらねばならないし、精神的な拠り所としても機能しなければならない。そうして初めて、家族は安心して社会にも出て行けるし、精神的にも自立できるのである。ところが、家庭の中に父親の存在は希薄化している。見せるべき、尊敬し信頼できる父親の後姿は、まったくないのである。であるから、父親の存在価値を見出せないと見切った母親は、シングルマザーのほうがよっぽど子どもにとっても幸せだという結論を出すのである。また、団塊世代の妻は、価値観の低い夫に愛想をつかして熟年離婚をするのだ。児童虐待を起こす家庭においては、例外はあるものの殆どのケースで父親が本来の家庭における機能を果たしていないと言える。

世の中における最小単位のコミュニティである家庭は、このようにして崩壊してしまっているのだ。表面的に上手く行っていると思っている、または思い込もうとしている家庭は、まだまだ多いが、実質的には破綻していると言えよう。その証拠に、何か重大な問題が家庭内に起きると、自己解決能力を発揮することが出来ないのである。虐待、いじめ、不登校、引きこもり、DV、非行、うつ病の発症、離婚、リストラ等の問題が起きた場合、為す術を持たず、おろおろするだけである。こういった問題は、外的要因によるものだと思われがちだが、実はその真の原因は家庭内や家族のあり方に内包していることが多いのだ。コミュニティが崩壊するそもそもの原因は、家族どうしの関係性にあると言えよう。

さて、こんなふうに家庭が崩壊してしまった原因は何かというと、一言で言えばそれは関係性の欠如と言えよう。本来家族というものは、関係性を重視しなければならないのに、あまりにも個を重要視するあまり、その関係性をないがしろにしてしまったのである。それは、近代の教育において、関係性よりも個の大切さを教え込んだ為に、自分さえ良ければいいんだという間違った価値観を獲得してしまったことによるものだ。関係性を深める為には、相手の気持ちを慮る必要がある。つまり、相手の気持ちになりきっての言動が必要なのである。ところが、近代教育では、分離思考・分析思考であるところの個人を大切にすることだけを教えたから、良好な関係性を失くしてしまったのである。行き過ぎた要素還元主義の弊害とも言える。

しかしながら、今もって家族の絆をしっかと結んでいる家族もいる。その家庭は、例外なく父親が高い価値観を持っている。高い価値観とは、宇宙全体をひとつのシステムと捉え、そのシステムを構成する要素のひとつである家庭というコミュニティを、システム思考で捉える価値観である。宇宙システムは、ある一定のプロセスに向かって進んでいるということが証明されつつある。そのプロセスに則った生き方を家族全員が志すならば、関係性が深くならざるを得ないのである。つまり、宇宙における構成要素である人間は、宇宙そのものが目指している、他の幸福を願う心、つまり利他の精神に基づいた行動をしなければならないのである。自分ばかりの利益だけでなく、全体の幸福や利益に貢献したいと強く思い、率先して行動することこそが、家族というコミュニティを守り育てるのである。

このシステム思考を父親が深く理解して、自らの利他的な行動を実践することで、常に家族に対してこのメッセージを送り続けることが必要なのである。利己的な行動を慎み、家族の為、世の中の為に、進んでリスクを負担する姿勢が家族や地域の人々を感動させ、勇気を与えるのである。それでは、父親が居ない家庭は無理かというとそうではない。祖父や叔父、または母親か祖母でも、その役割を十分に果たせるのである。明治維新以前は、このようなシステム思考の価値観の勉強を学校や地域でしていたのである。そういう思想・哲学の学校教育や家庭での教育を復活さることが急務であるし、こういった価値観を喧伝し普及させる使命が私たちに課せられているといえよう。これ以上、家庭崩壊により不幸な家族を作り出さない為にも、高い価値観であるシステム思考を持つ父親を世に送り出さなければならない。

人生の岐路に立った時

人生の岐路に立たされた時、人はどのような判断基準で進む道を選ぶのであろうか?先日、ある老婦人の人生相談を受けて、どういう生き方をすればよいのか、ある選択肢を示してあげたのだが、果たしてそれで良かったのだろうかと、今でも考えている。それは、彼女にとって一番辛い生き方であり、困難な道である。敢えて、その道を選ぶことを進めた。それは、彼女と回りの人々にとって、一番幸せを実感することになるだろうと、確信したからである。でも、その過酷さを思った時に、あまりにも気の毒に思えて仕方ない。けれど、あれで良かったのだと思うことにしている。

人は、重大な人生の岐路に立たされた時に、いろんな進むべき道があったとしたら、一番安全な道を歩みたがるものである。けっして、困難で過酷で危険な道は選ばないものである。そして、自分がクリアーしやすい道を選んでしまうことだろう。ところが、こういう安易な道を選ぶと、不思議なもので最悪な結果になりやすいものである。特に、複雑な人間関係を克服しなくちゃならないというような道を選ばずに避けてしまうと、益々人間関係がこじれてしまうものである。つまり、嫌な縁を避けるような道を選ぶと、上手く行かないことが多いのだ。そして、不思議なことに、さらに嫌な縁とつながってしまうのである。

実はそんな経験を自分も、恥ずかしながらも沢山積んできたのである。仕事においても家庭においても、そして地域活動の場合も、同じような失敗を沢山積み重ねてきたのだ。面倒くさい方法や自分にとって辛くて大変なプロセスを嫌がり、安易な方法を選択した時ほど、大変な失敗をしてしまったのだ。または、自分の評価や大きな利益を優先して、進む道を選択した時ほど、大きな失敗をして、深く後悔している。さらには、縁というものをないがしろにして、関係性を無視したような選択をした時も、結果として不幸な目に遭ってきたのだ。

不思議なことに、登山をしている時も同じような失敗をしているのである。登山道を歩いていると、標識がない分岐点にぶつかることがある。そして、もしかすると近道じゃないかと思えるような分岐点に出ることがあるのだ。そんな時に、楽をしようとして道を選ぶと、結果として迷うことが多いのである。または、結果として遠回りをさせられたり、戻ることを余儀なくさせられたりするのである。さらには、近道をした為に、かなり危険な登山道を歩くはめになることがあるのだ。時には、危険な道を選んで転倒して怪我をすることもある。山という自然が、いろんな貴重な体験を通して学ばせてくれているような気がする。『人間楽をしちゃならんぞ!』って。

このように、登山道の分岐も人生の重大な岐路も、安易な道を選んではならないような気がする。すべては、自分にとって苦労を伴う大変な道を選んだほうが、結果として正しいのではないだろうか。昔から言うではないか、急がば回れと。つまり、人生とは重荷を背負って長い登り坂を歩くようなものだと誰かが言っていたが、何も背負わずに下り坂をばかり選んでいたのでは、人間として成長しないのかもしれない。だから、逃げてばかりいると辛い目に遭わされて、益々不幸になるのかもしれない。自分自身が、そういう過酷な運命を選んで、自らの成長を願っているのかもしれない。だとすれば、過酷な卒業試験を選んだほうがいいに決まっている。そうすれば、必ず幸福に思えるような結果がやってくるに違いない。

 

人生の過程において、過酷で困難な岐路を選ぶことは、勇気のいることである。困難な道のほうが、やがては成功するだろうとおぼろげに解っていても、やはり安易で楽な道をついつい選んでしまうのが常であろう。登山をする時に、ロープウェイやリフトを使う簡易な登山道と、自分の足だけで大変な労苦と時間を要する登山道のどちらかを選ぶ際、たいていはロープウェイが使える登山道を選ぶであろう。あえて、私は自分の足だけで登る登山道を選ぶ。また、鎖場や岩場が続く登山道を好んで選択するのである。何故かというと、結果として山頂に立った時の充実感が違うからである。汗をかきかき苦労して登り切った時の達成感は、安易な道の数倍も感じられるからだ。人生においても、苦労して達成した結果は、自分に大きな喜びを与えてくれるだろうし、多大な自己成長も実現させてくれるに違いない。アドバイスに従い過酷な道を選んだ彼女も、結果として大きな幸福感を味わうだろうと確信している。彼女のおおいなる自己成長を、心から願わずにはいられない。

若者の労働観と価値観

若者を対象にした勤労意識や労働観について、電通がアンケート調査を実施した結果を見て、とても驚いた。多くの若者が低レベルの価値観に基づいて、嫌々ながら仕事をしているというし、仕事をする目的が単なる収入を得るため、または趣味や遊びに使うお金を稼ぐためという、非常に情けない答えをしているからである。まさか、こんな酷い価値観に基づいて仕事をしている若者がかくも多数存在しているとは思ってもいなかったが、実際には若者だけでなく、中高年も同じような価値観で仕事をしているのかもしれない。実に情けないものである。だから、日本を代表する企業が、次から次と赤字経営に転落するのかもしれない。

アンケート結果は次の通りである。18~29歳の働く上での不満は「給料やボーナスが低い」(50.4%)、「有給休暇が取りづらい」(23.8%)、「仕事がマンネリ化している」 (17.6%)が上位に来ているという。働く目的は「安定した収入のため」(69.3%)、「趣味や遊びに使うお金を稼ぐため」(36.5%)、「将来(就労期間中)の生活資金のため」(30.5%)といった項目が上位に並んだらしい。働くことへの意識については、18~29歳の約4割が「働くのは当たり前だと思う」(39.1%)と答えた一方、「できれば働きたくない」(28.7%)も約3割に上った。仕事に対する価値観でも「仕事はお金のためと割り切りたい」(40.4%)と答えている。唖然としてしまい、声も出ない。

若い勤労者の約3割近くが、できれば働きたくないと答えている。じゃ、働かないでどうやって暮らしていくのか。ずっと親に寄生して生活するというのだろうか。ましてや、収入のためだけに仕事をするというのは、如何なものか。仕事はお金のためと割り切りたいと思う若者が4割以上いるというのは、情けなくて仕方ない。これでは、仕事が楽しくないばかりか、苦痛だろうと思われる。こんな低いクォリティの価値観だから、ちょっと嫌な上司・同僚と一緒になったり大変な仕事を押し付けられたりすると、メンタル疾病になって休職に追い込まれるのかもしれない。こんな低劣な価値観なら、仕事がまともに出来ないのは当たり前であろう。

ましてや、アンケートでも3割以上の若者が、価値観を共有できる人と一緒に仕事がしたいと答えている。一旦会社に入社したら、上司や同僚を自分で選べないのは当然だろうに。人間として大きな成長をする為には、価値観の違う人たちと仕事を一緒にするのが一番確かだと思うが、それを拒否したいというのだから、驚きである。仕事というのは、一人前の人間として自己成長をするために避けて通れないものであり、ましてや辛い仕事や苦難困難を強いられる仕事をやり遂げるからこそ、働き甲斐や生きがいを見出せるのである。難しい上司や部下と出会うとか、難癖をつけるような顧客を担当して、自分が磨かれてその人間性が耀くのである。

若者だけでなく、今の日本人はどうしてこんなにも酷い勤労意識や労働観を持つようになったのであろうか。その根本的な原因は、すべて近代教育の欠陥にあると確信する。近代教育は、個人の権利を何よりも大事にすることを教える。個人の自由・平等を保障し、基本的人権を認める日本国憲法だから、それは認められて当然である。しかし、この個人の権利をあまりにも強く意識させる教育をすると、全体を見失うし、人間相互の関係性を損なう。つまり、人間は本来全体最適を目指すべきなのに、個人最適を第一義的に目指してしまい、全体がどうなろうと構わないという、間違った価値観を植えつけたのだ。こうなると、社会全体や企業に貢献しようとする人間を育てることが出来ないのだ。

人間は、本来は家庭、企業、地域社会、国、国際社会といったコミュニティに貢献するように生まれてくる。このようなコミュニティはそもそもひとつの有機体であり、自己組織性があると言われている。ということは、人間はこのコミュニティの中で全体性と関係性を発揮して、そのコミュニティの繁栄のために力を尽くすように生きているのである。ところが、このコミュニティに貢献するという気持ちが薄らいでしまうと、そのコミュニティは内部崩壊を起こすのである。夫婦関係や親子関係が破綻して家庭崩壊するのは、これが同じ原因であり、地域共同体が崩壊したのは、これが要因となっている。企業が倒産するのも、同じ原因である。このアンケート結果を真摯に捉えて、若者も含めた人々の勤労意識や労働観を正しく導くための価値観教育を、文科省は目指すべきであろう。

幸福とは何か

理論物理学者と仏教学者がNHKEテレで唯識の科学性について対談をしていた。理論物理学者は、理論としては頭では理解したとしても、科学的に実証されなければ、事実だとはとても思えないということを話していた。一方、仏教学者が言うには、唯識論は科学的に証明することは出来ないが、結論としては正しいことが確立されていると主張していた。何故ならば、唯識論によって多くの人々が救われて、幸せを実感しているからだと言っていた。つまり、人間として生まれ生活していて、苦を経験して苦から解放されずにいた人々が、唯識論を知って実践したお陰で、多くの人が救われているし、幸福な気持ちになっていると言うのだ。確かに、そういうことは言えるだろうと思った。

 

仏教と科学はなかなか相容れることが出来ないというのが一般論としてある。科学が目指すものは、その発展により人々を幸福にしたり、生活を豊かに便利にしたりすることだろうと思う。仏教もまた人々の心を幸福なものにしていくという尊い使命がある。どちらも、目指すところは基本的に一緒なのである。ところが、科学の進歩が人々の幸福に寄与しないケースも少なくない。例えば、北朝鮮の核開発やICBMの進化は、世界平和に対して逆効果を与えている。また、欧米の主要国における核軍備における科学的進歩は、世界の終焉を迎えさせようとしている。さらには、科学の進歩が環境破壊を引き起こしている例も多い。仏教は、人々を幸福に導こうとしているのに、科学は逆に幸福を脅かす働きをすることがあるのだ。

 

科学が人々の幸福に寄与しなければならないという命題は、科学者はけっして忘れてはならないことである。アインシュタインが、結果として原爆の開発に協力してしまったと、一生涯悔やんでいたというのは有名な話として伝わっている。彼は、科学者としての研究の後半は、形而上学に則った科学の発展を目指していたということが明らかになった。つまり、科学の発展は人々の幸福に寄与しなければならず、科学は戦争に協力したり、個人の利益だけに寄与したりしてはならないということを、強く主張していたと言われている。現代の科学者は、その大原則を忘れている場合が少なくない。科学は哲学を基本にすることをけっして忘れてはならないのである。科学者たる者、科学哲学の立場を常に忘れることなく、科学の研究をすべきであろう。

 

理論物理学者と仏教学者の対談は、さらに幸福とは何か?という部分にまで進展した。幸福とは何ぞやという問いかけに対して理論物理学者は、人それぞれ幸福という物差しが違うから、一概には言えないという立場だった。その人によって幸福の捉え方が違うのだから、幸福はこうだと断言することは出来かねるという主張だ。ところが、仏教学者は幸福の定義をいとも簡単に断言したのである。幸福というのは、人の為世の為に貢献しようと精一杯努力して、それが叶えられて、その努力が報われることだというのである。それを聞いて、理論物理学者は唖然としてしまい、反論さえ出来なかったのが印象的であった。

 

幸福というのは、自分が豊かさや快楽、または人から高い評価を受けるとか、地位や名誉を高められたり尊敬されたりした時に感じるものだと思っている人が殆どであろう。ところが、仏教学者は自分の幸福というのは自分だけでは感じないというのだ。あくまでも他人との関わりの中で、相手を幸福にしてあげた時に感じるのが幸福だというのである。多くの人々、または社会に貢献し、人々を豊かにして幸福な気持ちにすることこそが、自分の幸福だという。確かに、自分が何らかの利益を得た時の幸福感は、あまり長続きしない。一方、他人を幸福にしてあげられた時に感じるものは、じわじわとずっと長く滲み出るように思う。幸福というものは、確かにそういうものかもしれない。

 

弘法大師空海は、人の生きる目的は衆生救済と即身成仏だと言ったと伝えられる。多くの人々を救うというのは、幸福にすると言い換えてもいいだろう。即身成仏というのは、生きたまま成仏するという意味で、仏性を得るような自己成長を遂げるということであろうか。仏性を得るのは、やはり人々をお救いするために必要だからである。人間の価値は、どれだけの人を幸福に出来たかということで決まるようだ。最新の医学研究で、幸福感をよく感じる人は、あまり幸福感を感じない人よりも、7年から10年長生きするそうである。人の為、世の中の為に貢献し、幸福感を感じて健康で長生きしたいものである。

いい人は長生きできない

昔から、いい人は長生き出来ないと言われている。古来より、「憎まれもの世にはばかる」という諺もある。これは、長年の経験から導き出された結論であり、いい人は短命だし、人から憎まれるような悪い人は、逆に長生きする例が多かったのであろう。とすれば、人々から憎まれても恨まれても長生きするほうを選ぶのか、それともいい人だが短命を選ぶのか、究極の選択をしなければならないことになる。勿論、いい人で長生きできるのが望ましいが、それはどうやら今までの歴史からすると無理らしい。憎まれて恨まれた人生は、皆から嫌われるし、孤独の人生になるかもしれない。一方、いい人は皆から慕われるし、いつも回りには人が寄り添い、幸福な人生を送るに違いない。さて、どちらを選んだらいいのであろうか。

それにしても、どうしていい人は長生き出来ないのであろうか。いい人は人々から好かれて、幸福な人生を送るのであるから、ストレスもない筈である。一方、皆から嫌われるような悪い人は、人間関係も最悪でいがみ合って生きるからストレスフルな生き方をしそうである。病は気からと言われているし、病気の原因の9割はストレスだというのが定説になりつつある。しかるに、どうしていい人は短命で、嫌われ者は長生きするというのであろうか。不思議なことである。長生きだけが幸福の基準ではないとする考え方もあるから、短くても充実した人生がいいという考え方もあろう。太く短くても皆から慕われて幸福な人生がいいのだと、いい人を生きるという選択肢も悪くはない。

それでは、いい人というのはどういう基準であろうか。おそらく、いい人というのは他人に対して優しくて思いやりがあり、あまり自己主張することなく身勝手な行動は慎み、いつも他人の為に一所懸命に尽くす人というようなイメージがあると思われる。一方、憎まれ者というのは、いい人の対極にある人というイメージがあり、身勝手で自己中心的で、自我が強くて、損得や利害という行動基準を大切にする人と思われている。勿論、そういう人は人から憎まれたり恨まれたりするのであるが、中にはとんでもなく立身出世して、経済的にも成功している人が少なくない。経済的に裕福になると、人は意外と回りに対して寛大にもなれるのである。とすれば、憎まれ者として人生を送ったほうが、人生の成功者になれる確率が高いということになる。

ところが、そうは行かないのが人生である。仕事で成功して立身出世をして、経済的に裕福になった家庭を見ていると、本人はある程度幸福そうに見えるが、その家族は物質的には豊かな生活をしているものの、意外と心の豊かさを失っているようにも見えるのである。奥様が重いご病気になられて早逝されたり、子どもさんが親に対して反発したり挫折したりして、家族関係が最悪になるケースが多いのである。そうだとすると、いい人でも憎まれ者でも、幸福な人生を送れないというのなら、人間はどういう生き方をすればいいのであろうか。長生きで幸福な人生を送るコツというのはないのであろうか。長生きで幸福な人生を送る人なんていない訳ではない筈である。

そういう人はどういう人かというと、「本当にいい人」なのである。ただし、それは世にいう「いい人」ではなくて、ただ単にいい人を演じている人ではなくて根っからのいい人なのである。つまり、世の中で一般的にいい人と言われている人は、実は本当のいい人ではなく、ただ単にいい人を演じているだけの似非善人なのである。私達は、他人の目をどうしても意識してしまう。他人から見ていい人でありたいと、無意識で思い行動してしまうのが常である。つまり、無意識でいい人の仮面を被った人間として生きるのである。それを心理学では、自我人格と呼ぶ。つまりペルソナ(仮面)を被った自我人格を持った人間であり、心の奥底にはおどろおどろした嫌な自己を持っているのに、誰にも知られないようにその部分をないことにして、ひた隠しにしているだけなのである。

ペルソナ(化面)を被った自我(エゴ)は、自分の嫌な自己、身勝手で自己中心的で、だらしない自己を、自分では認めたくないから、そんな自己がないことにしている。そんな嫌な自己を無意識で隠して、仮面で隠し通していい人を演じるのである。無理して我慢していい人を演じているのだから、内面の心はとても苦しい。だから、時々そんな嫌な自己が顔を出してしまい、自分自身が情けなくなったり自分が嫌いになったりするのだ。その嫌な自己を自分から積極的に認め受け容れて、そして自己を糾弾しながらも慈しみ、それだからこそ清浄で崇高な自己(セルフ)に自分を育てようと精進するのであれば、根っからのいい人になれるのである。それを自己人格と心理学では呼んでいる。そういう本当のいい人であれば長生きできるし、皆から好かれ尊敬を集め、健康で幸福な人生を歩むことが出来るのである。