SNSで否定コメントをする人は愛着障害

 SNSで否定的コメントをする人が後を絶たない。または、より攻撃的なコメントで心を傷つける人も増えている。有名人に対する心無いコメントも寄せられていて、社会問題になっている。これだけマスコミや報道などで、SNSの攻撃的なコメントが人命さえも奪っていると警鐘を鳴らしているのに、一向に減らないのは何故であろうか。攻撃的な否定コメントをした人が特定されて、刑事告訴をされたり莫大な損害賠償請求をされたりしているにも関わらず、否定コメントが減らないのは不思議なことである。

 つい先日は、TOTOクラシックというゴルフツアーで2位に入った桑木プロの容姿についての心無いコメントがあり、彼女が嘆いていた。そんなことまで、SNSのコメントをするのかと、桑木プロの心情を察するに憤りさえ感じた。女子プロレスラーに対するSNSの誹謗中傷が、本人を死に追いやってしまったことが問題になったのは記憶に新しい。芸能人に対する心無いSNSの誹謗中傷が、自死へのきっかけになったことは数知れずあるかと思われる。人殺しの道具とも言えるSNSの否定的書き込みは、何故なくならないのか。

 SNSの否定的なコメントを繰り返す人物の人格や心理について分析してみよう。人を批判したり否定したりする人は、強烈な自己否定感を持っているのは間違いない。絶対的な自己肯定感を持ち自尊感情が高い人は、他人の言動を批判したり否定したりすることは絶対にしないものだ。自己否定感が強い人は、自分の評価や満足を高めることを無意識で求めているので、他人を蹴落として自己を正当化しがちである。他人を貶めることで自分の価値が高まるのだと、無意識下にて勘違いをしてしまっているのである。

 否定的な書き込みをする人というのは、自己肯定感が低いが故に、職場や家庭でも問題行動を起こしがちである。職場においては部下や同僚に対して、パワハラやモラハラをすることが多い。家庭においても、配偶者や子に対してモラハラをしたり虐待をしたりするケースが少なくない。何故かと言うと、自己肯定感が極端に低くて、いつも周りの人々を否定したがる人物というのは、自己愛性のパーソナリティ障害を抱えているからである。正常な自己愛が育っていないが故に、自分を必要以上に過剰評価して、周りの人を蹴落とすのである。

 この自己愛のパーソナリティ障害を抱えた人物は、ある意味恐ろしくもある。自分に反対する人や批判する人に対する攻撃性が異常に高く、自分に敵対する人を企業・組織・部局から手段を選ばず排除するのである。自分の地位や名誉を脅かす人を徹底的に攻撃するのだ。あのルドルフ・ヒットラーも自己愛性のパーソナリティ障害だったと伝えられる。自分の政敵になる人物を、秘密警察ゲシュタポを利用して暗殺した。ヒットラーも含めて、自己愛性のパーソナリティ障害を抱えている人物は、深刻な愛着障害であることが多い。否定的コメントをする人物も同様だと考えられる。

 愛着障害の人が、すべて自己愛性のパーソナリティ障害になって、モラハラやパワハラをするという訳ではない。愛着障害だからといって、すべての人が攻撃性を持つ訳ではないのである。愛着障害の方々の中には、自尊感情が低くても他人を責めずに、自分自身を責めるような人もいる。どちらかというと女性は、自分自身を責めるタイプが多い。男性のほうが否定的なコメントをするケースが多いと言う事を考慮すると、自己愛性のパーソナリティ障害を起こすような愛着障害を抱える人は、男性が圧倒的に多いように感じる。

 深刻な愛着障害によって強烈な自己否定感を持ち、自己愛性のパーソナリティ障害を抱えてしまうと推測される。その為に、自分の価値観や人生観、さらには考え方に合わない人のことが許せずに、SNS上で否定的な書き込みを繰り返すのではないだろうか。そういう意味では、受容性や寛容性が異常に低いと思われる。こういう人は多様性を受け入れようとしない。自分の価値観や生き方だけが正しくて、自分の考えに合致しないようなSNS上の書き込みは間違っているから排除しなくてはならないと思い込むのであろう。実は、こういう人はSNSの発信をしたがらない。何故なら、否定されることがとても苦手であるし、批判に極めて弱いのだ。小心者なのである。

カウンセリングの効果が現れない訳

 メンタル疾患は、身体疾患とは違って医学的治療によって良くなる例が極めて少ない。ある程度は投薬治療によって症状が抑えられることはあったとしても、完治するケースは稀である。だからと言って投薬治療を選択せず、適切なカウンセリングやセラピーを駆使したとしても、寛解するまでの道のりは遠いし、完治まで到達するケースは殆どないといいだろう。それだけメンタル疾患というものが、治りにくいということを医療の専門家たちは熟知している。何故に、カウンセリングやセラピーではメンタル疾患が治らないのだろうか。

 世の中には、優秀なカウンセラーやセラピストは沢山いる。そして、これらの専門家たちは様々な知識や技術を習得している。その道のプロフェッショナルである。その専門性は高くて、メンタル疾患になる原因や治す方法を熟知している。しかし、その治療効果はけっして高くない。それは、何故であろうか。その理由は、専門性が高いからである。不思議に思うであろうが、専門的知識に長けていると治療効果が逆に出ないのである。専門性が高過ぎると、その専門的知識に固執し過ぎるあまり、本当の原因とその対応策が見えなくなる。

 最近、大学病院や地域の基幹病院において、総合診療科という診療科目が激増している現実を知っているだろうか。大きな病院では、診療科が細分化されている。同じ内科でも、上部消化管内科、下部消化管内科、内分泌内科、循環器内科、血液内科等々列挙に暇がない。外科もしかりである。すべての診療科が細分化されて、専門性が高まっているのである。その為に、患者の診断名が確定しない為に各科をたらいまわしにされるという不都合な真実が起きている。それで、すべての診療科に精通した総合診療医が必要になったのである。

 専門性が高いというのは素晴らしいことである。ところが、診断治療する相手は人間である。専門性が高いということは、他の病気を知らないということになる。『木を見て森を見ず』ということが大病院の中で起きているのである。カウンセラーも疾患名や症状にとらわれ過ぎてしまい、人間そのものを観察し得ていないのではないだろうか。ましてや、メンタル疾患を患っている患者は、身体的症状をも抱えていることが少なくないし、独特のパーソナリティを抱えている。専門性が邪魔をして、真実が見えてないように思えて仕方ない。

 医療機関に所属しているカウンセラーは、日々時間に追われている。一人の患者に多くの時間を割く余裕はない。個人でカウンセラーをしている人たちは、一時間いくらという時間設定にして営業している。時間に余裕がなくて、じっくり傾聴をする時間を持てる筈がない。当然、中途半端な傾聴と共感になってしまうのは致し方ないことである。ましてや、カウンセリングを受けた人はおしなべて感じることであるが、優秀なカウンセラーであればあるほど対応が冷たく感じるのである。優秀なドクターのカウンセリングも同じだ。

 何故、カウンセラーやセラピストの応対が冷たいように感じるのであろうか。それは、クライアントの辛くて悲しい状況にあまりにも同情してしまうと、相手の感情に引きずられたり引き込まれたりするからだ。だからこそ、クライアントとの間の距離感を取らないと自分自身もメンタルが落ち込んでしまうように感じて、無意識で冷たい態度をとりがちになる。それは、自己防御の為であるから責められない。とは言いながら、クライアントへの感情移入をしないようにと意識し過ぎるあまり、冷たい態度だと感じさせてしまい、相手は信頼しない。効果が上がらないのは当然だ。

 メンタル疾患や精神障害に陥ってしまった方に対するカウンセリングは、まったく無駄なのかと言うとそうではない。効果のあがるカウンセリングも存在する。それは、森のイスキアの佐藤初女さんのようなカウンセリングである。初女さんは精神医療の専門家ではない。だからこそ、初女さんは利用者の診断はしないし、原因分析もしない。そして、利用者に助言もしないし、病んだ心を癒そうともしない。ただ、ひたすら利用者の声に耳を傾けるだけで、利用者が既に持っている答を自ら引き出せると信頼し、そっと温かく見守り寄り添う。勿論、利用者に引き込まれることを畏れず、とことん共感して『聴く』ことに徹する。唯一、効果の上がるカウンセリングとは初女さんのような方法だけである。

※付け加えますと、人間というのは本来『自己組織化』する働きがあります。カウンセリングというのは、その自己組織化する能力を信じて、その能力を引き出すだけでいいのです。メンタルを病んだ人たちは、その自己組織化能力が低下しています。それなのに、カウンセラーが信頼関係を作れず、介入や干渉をし過ぎてしまうと、さらに自己組織化を阻害してしまうのです。人体というのはひとつの全体性を持った『システム』なのです。システムや自己組織化という科学的な根拠を無視したカウンセリングが効果がないのは当然です。

滝と龍と私(自分)

 滝を訪ねてじっくり眺めることが、Awe(オウ)体験として最適だというブログを前回書いた。滝には龍が住んでいて、そこを遊び場にしていて、昇ったりダイビングしたりを繰り返して楽しんでいる姿が想像できる。その龍とは自分の心の裡にあるインナーチャイルドとか抑圧されてない本来の自己ではないかということを記した。そして、龍と自分を重ねることで、自分自身の生き方を深く洞察して、本来の生き方を取り戻せるような気がするのである。そのことを、もう少し掘り下げて考察してみたいと思った。

 龍が滝の周辺で水遊びをしているというのは、昔の人々が想像していたことである。だから滝という漢字に竜が使われているし、龍が冠された滝が全国各地に存在する。龍の住処であるというのも日本各地で共通している認識である。その龍というのは、自由気ままな存在であり、ある時は大暴れして大雨を降らし、大水害を起こすこともある。逆に龍が沈み込んで活動を停止してしまうと、雨が降らなくなり干ばつを起こしてしまうと考えたようである。水害を防ぐために龍を鎮める祭りや、干ばつを終わらせる為の人身御供の儀式をしたのであろう。

 いずれにしても、天変地異や自然の猛威を龍のせいだとしたのは、自然の力というものが人間の力ではどうにもならないものだと認識していたからであろう。自然の猛威の前では、人間なんて無力なのである。だからこそ、人間がコントロールできない水を自由自在にできるのは、龍しかいないものだと認識して、龍神として畏れ敬ったのではなかろうか。そして、その龍神を力で抑える存在として不動明王を奉り、龍を慰める存在として十一面観音菩薩を祀ったのだと想像できる。昔の日本人には、豊かな想像力があったように思う。

 昔の日本人は、滝と龍の関係だけでなく、龍と自分自身の心を重ね合わせたのではないかと思われる。人間の心の中には、穏やかな心と激しい心を両方持ち合わせている。その激しい心というのか、マイナスの感情と言える怒り・憎しみ・妬み・悲しみ・寂しさというようなものを、龍という存在と同化させようと思っていたのではあるまいか。それらのマイナスの感情(自己)を、出さないようにとか周りに感じ取られないように、我慢して無理して暮らしていたように思われる。マイナスの自己を悟られないように生きてきたのだ。

 何故、マイナスの自己を封じ込めたのかというと、そのような激しい感情を周りの人々にぶつけてしまうと、良い関係性を損なうと怖れたからである。しかも、自分の心にはそういう怒り・憎しみ・妬み・悲しみ・寂しさなどのマイナスの感情はないのだと、自分自身に言い聞かせてきたのである。さらには、自分の心の奥底にある無邪気で純真な心であるインナーチャイルドさえも、抑え込んでしまい生きづらい感覚を持っていたように感じる。インナーチャイルドが暴れださないように、逆に落ち込まないようにと気遣っていたのである。

 自分の心の裡にある龍(マイナスの自己やインナーチャイルド)を封じ込めて存在しないことにして生きていると、強烈な生きづらさを感じるだけでなく、自己否定感が強くなり過ぎる。そうなると、いろんなことへの挑戦意欲や苦難困難を乗り越えようとする気力さえも萎えてしまう。嫌なことや辛い出来事が続くと、益々落ち込んでメンタルがやられてしまうこともある。自分の中に存在するマイナスの自己やインナーチャイルドを、まるっきり否定してしまい存在を消そうとしてしまうと、本来の自分を見失い生きる気力を失ってしまう。

 人生に疲れ切ってしまったりメンタルがやられたり人も、滝とそこで無邪気に遊ぶ龍を眺めていると、その龍に自分を重ね合わせることで、自分を取り戻せるのである。抑え込んでしまったマイナスの自己を表出させても大丈夫だよと、滝と龍が教えてくれる。本来の無邪気で純真なインナーチャイルドを、無理に抑え込まなくてもいいんだよと、龍が囁いてくれる。無理したり我慢を繰り返したりすると、本来の自分を見失ってしまい、どう生きていいのか悩み苦しみ、人生の迷宮に迷い混んでしまう。それでも、滝とそこに遊ぶ龍と出会い、しばし龍が自由自在に遊びまわる姿を眺めることで、あるがままに生きていいんだよと悟らせてくれるのである。

※いろんな滝を巡って眺めたとしても、そこに住む龍と誰でも出会えるのかというと、けっしてそうではありません。滝を巡り龍に出会えるかどうかは、その際に同行してくれるガイド役次第だと言えます。龍とコンタクトをして、龍のように伸び伸びと無邪気に生きることの大切さを教えてもらう為には、龍を感じる感覚を鋭くしてくれるブースター役が傍らにいることが必要なのです。イスキアの郷しらかわでは、滝めぐりツアーにはガイド役(ブースター)が同行します。

パワハラ上司の取扱説明書

 パワハラ上司というのは、自己愛性の人格障害でありヒットラーのような人格を持っているから、危険極まりない人間なんだということを、ブログで警告発信したことがある。その際には、多くの方々から反響を頂いた。中には、現在パワハラ上司の下で苦労しているという方から相談も寄せられた。私たちの想像以上に、自己愛性人格障害の上司に仕えて苦しんでいる職員が多いんだと認識させられた。自分も自己愛性人格障害の上司の元で働いた経験があるが、苦しい職場生活が続くので本当に嫌になる。メンタルを病んでしまう部下も多い。

 何人かの自己愛性人格障害の上司に仕えてみて、彼らがどうして自己愛性人格障害になったのかが解ったような気がする。パワハラ上司に共通しているのは、自己否定感情が極めて強いということだ。絶対的な自己肯定感がまったく育っていないのである。自己否定感がいつも自分を支配している。だからその反動で、周りの人を自分より劣っているのだと否定することで、自分の自己否定感を慰めているのである。極めてひねくれた性格なのである。自分が一番優れていると、周りの人に思ってもらえないと気が済まないのである。

 パワハラ上司は、自信たっぷりな態度を取るし、自分が一番だと思いたがっているから、自己肯定感が高いんだろうと周りの人たちは思いがちである。しかし、自己肯定感がないから自分を必要以上に自分を大きく見せようとしたり有能だと思わせたりするのだ。なにしろ、何よりも称賛を求めたがる。上司だけでなく、部下からも誉めてもらいたいのだ。誉めてもらえないと、拗ねたりもする。パワハラ上司は他人を平気で批判したり否定したりする。ところが、自分が否定されたり批判されたりことを嫌がるし、そうされると落ち込むのだ。

 何故、パワハラ上司は自己肯定感が低くて、自己愛性人格障害の症状を起こすのかと言うと、彼は愛着障害だからである。幼児期に母親から、まるごとありのままに愛されるという経験をしていないのである。愛情不足の幼児期であったろうし、無条件の愛で包まれて育ったことがないのであろう。おそらくはダブルバインドのコミュニケーションで育てられたのだと思われる。悲惨な幼児期から少年期(少女期)を送ったと思われる。それで深刻な愛着障害を抱えてしまい、二次的症状として自己愛性人格障害の症状を呈してしまったのである。実に可哀想な人なのである。

 パワハラ上司は、自分が万能の神だと言わんばかりの横柄な態度をする。世界は自分を中心にして回っていると勘違いしているような姿勢をする。自分に逆らうような部下は絶対に許せないし、自分よりも高い能力を発揮するような部下はとことんまでいじめ抜く。ましてや、自分の地位を脅かすような部下は徹底的に貶める。自分の地位や名誉を何よりも大切にするし、上昇志向が強くて、人を蹴落としてでも出世を目指すのだ。こういうパワハラ上司に逆らうことは、命取りになりかねない。職場で生き残るには、絶対服従するしかないのだ。

 こんなパワハラ上司に仕えるというのは、毎日辛くて仕方ないし、メンタルが傷つくような体験を何度もさせられる。こういう上司に仕えたら、余計なことは言わないことだ。表面的には従順なふりを続けることが肝要である。そして、目立ってはいけないし、出しゃばってはならない。少なくても、パワハラ上司よりも有能なそぶりをしてはならない。特に、パワハラ上司の上役がいる場で、高い能力を発揮したらアウトである。パワハラ上司は自分よりも能力や人気がある部下が許せないのだ。

 こんなパワハラ上司に仕えていたら、従順な態度を取り続けるしかない。しかし、けっして心まで屈服してはならない。「ハイ、かしこまりました。おっしゃる通りです」と言いながら、後ろ向いてあかんべえをするくらいで良いのだ。心の中では、パワハラ上司を軽蔑して良いし、ああ可哀想だなと見下していいのである。彼は愛着障害という気の毒な障害者なのだから、面倒を見てあげようと思えばよい。愛着障害のパワハラ上司は、心の裡でものすごい不安感や恐怖感を持っている。自分の地位や名誉を失わないだろうか、部下に足を引っ張られないだろうかと、臆病なのだ。だから、部下を叱咤するのだ。彼の不安や恐怖心を刺激しないように過ごすのが良い。触らぬ神に祟りなしである。

メンタル疾患は適切なケアで治る

 精神疾患は完全に治癒するのが難しいと思われている。患者さんもそう思っているが、それ以上に精神疾患は治らないものだと思っているのが、精神科の医師である。さらに治らないものだと医師が認識しているのが、精神障害である。発達障害などの自閉症スペクトラムやパーソナリティ障害(人格障害)、摂食障害、パニック障害、PTSD、各種依存症などの精神障害は、医師たちは難治性のものだからと、最初から及び腰になる。患者さんにも、最初から治りにくいものだからと告知してしまう。本人も家族もそれで諦めてしまうのだ。

 

 確かに、重症の統合失調症や双極性障害は治りにくいと言われている。まだ発症してすぐの期間(2週間以内)ならば、完全治癒もあり得なくはない。しかし、発症して数年経ってから病気だと気付くケースも少なくなく、そういう場合は非常に治りにくいのも確かであろう。対症療法しか打つ手がないので、投薬治療しかないのが実情である。身体疾患と比較しても、治療期間が異常に長いのがメンタル疾患の特徴である。一旦投薬治療が始まってしまうと、減薬や断薬をするどころか、逆に薬量が増えていき、副作用も増大していく。

 

 また、定期的なカウンセリングやセラピーを受けているケースでも、治療が長期間に渡るケースが殆どである。それでも、劇的に改善するなら良いが、あまり効果が見られないケースが多い。患者さんにとっての一時的な安心の提供、または恐怖を取り除くことは一時的には可能だが、その効果は長続きしない。その証拠に、カウンセラーを次から次へと変更する患者さんが多いことが挙げられる。何故、精神疾患が治りにくいのかと言うと、本当の原因を究明しようとしていないからであり、原因を解決しようとしていないからである。

 

 また、精神障害が最初から治らないものだと匙を投げるのも、本当の原因を探求しようしていないからであり、原因を解決する術を知ろうとしないからであろう。日本の精神医療というのは、実にお粗末であって、本当に治癒させようと思っているのか疑いたくなるようなドクターが多いように思う。勿論、ドクター、セラピスト、カウンセラーはどんどんクライアントを完全治癒させてしまうと、患者さん(お客さん)が減っていってしまい、経営が成り立たなくなってしまう。日本の医療制度とは、そんなパラドックスを抱えているのだから、病人がどんどん増えていくのは当然であろう。

 

 薬品会社だって、完全に治癒させてしまう医薬品をどんどん開発したら、おまんまの食い上げである。以前、『生かさず殺さず』という言葉が使われていた時代があるが、まさに日本の医療は、生かさず殺さずに患者を繋ぎとめて行ったほうが、経営が安定していくというジレンマに陥っていると言えよう。病気になる真の原因を究明して、その原因をつぶしていけば、どんな病気だって治らない筈がないのである。それは、精神疾患だって例外ではないし、精神障害だって完全治癒とは行かないまでも、社会復帰程度まで寛解するのも不可能ではない。

 

 精神疾患や精神障害が根底にあり、不登校・ひきこもりの状態に陥ってしまっている方々を、永年に渡りサポートして気付いたことがある。それは、精神疾患と精神障害を起こしている方々は、殆ど例外なく根底に『愛着障害』があるという事実である。そして、この愛着障害が強く影響を及ぼしてしまい、二次的症状として精神疾患や精神障害を起こしているのである。それは、単純なものではなくて、もっと複雑なシステムエラーでもあるから、精神科医がこの根底となる原因を探り出せないのも当然である。

 

 ただ一人、この愛着障害が根本的な原因になって精神疾患や精神障害を起こしていると気付いていらっしゃる精神科医が存在する。それが、岡田尊司先生である。岡田先生は、適切なケアを施して見事に精神疾患や精神障害の方々を寛解させていらっしゃる数少ない精神科医だ。メンタル疾患やメンタル障害は、適切にケアすれば治るのである。愛着障害を適切な愛着アプローチで癒してあげれば、難治性のメンタル疾患だって寛解するのである。ただ、この愛着アプローチはとても難しい。専門の研修を重ねてきたセラピストやカウンセラーであっても、手こずることが多い。でも、適切なケアがされれば、メンタル疾患は必ず治るのである。

洗脳されやすいのは自己肯定感が低いから

 変なカルト宗教に騙されたり、とんでもない占い師に高額な寄付をさせられたりする人がいる。または、自己啓発セミナーに誘われて、高額な研修を次から次へと受講させられる人が少なくない。これらは、ある意味マインドコントロールや洗脳をされていると言えよう。厳密に言うと洗脳とマインドコントロールは違うものだと言われているが、社会一般では同じ意味で使用されることが多い。著名な芸能人もよく洗脳されているという話を聞くことが多いが、想像以上に多くの人々がマインドコントローや洗脳をされていると言えよう。

 

 フェイクニュースに騙され続けたり、間違ったインターネット情報に操られたりするのも、ある意味ではマインドコントロールと言えよう。トランプの熱狂的な支持者たちは、とんでもない陰謀論を信じ込まされて、マインドコントロールされていると言えなくもない。日本でも、陰謀論を信じ込んでしまい、とんでもない非科学的な証拠を鵜呑みにして情報発信する人がいる。こういう人に、騙されているんだよと優しく諭しても、マインドコントロールされているから無駄である。洗脳というのは無理に解こうとしても、解けないのだ。

 

 洗脳またはマインドコントロールを受けやすい人がいる一方で、どんなに巧妙な罠をかけられても一切騙されずに洗脳やマインドコントロールをされない人がいるのも事実だ。その違いはどこから来るものなのであろうか。イスキアの郷しらかわという不登校やひきこもりの子どもたちや若者たちを支援していて気付いたのだが、彼らもまた洗脳やマインドコントロールを受けやすいのである。そして、彼らに共通なのが自尊心や自己肯定感が異常に低いことである。その為に、騙されやすいし妄想を持ちやすいという共通項がある。

 

 どうして自己肯定感や自尊心が低いと洗脳やマインドコントロールされやすいのかといと、こういう理由からだろうと想像できる。自尊心や自己肯定感というのは、自分で努力して良い成績や実績を上げても、地位や名誉を得たとしても、一切高くなることはない。絶対的な自尊心や自己肯定感を得るかどうかは、小さい頃(2歳~4歳)の自我が芽生える時期における育てられ方に起因している。『あるがままにまるごと愛される』という育てられ方をしないと、自己肯定感や自尊心は育まれることはないのである。

 

 あるがままにまるごと愛されず、親から強く支配されたり制御されたりして育てられると、どんな時にも揺るがない自己肯定感は生まれない。言い換えると、あまりにも親から介入や干渉をされ過ぎてしまうと、自己肯定感は育たないのである。さらに、母親がひとりで子育てをしてしまうと、母性愛と父性愛の両方を同時に注いでしまうことになる。これは、ダブルバインドのコミュニケーションと言って、絶対に避けなければならない子育てになってしまう。そうすると、摂食障害や妄想性の障害などを起こすことにもなる。

 

 あるがままにまるごと愛されるという無条件の愛を注がれる子育てをされないと、子どもと親の豊かな愛着が結ばれない。つまり『愛着障害』になってしまうのである。愛着障害になってしまうと、絶対的な自己肯定感が確立されないで成長してしまう。絶対的な『安全基地』が存在しなくなってしまう。生きる上で必要な安全と絆が存在しなくなるのである。そうなると、いつも不安と恐怖感を抱えて生きることになる。見捨てられ不安やいつか見離されてしまうという怖れを抱いてしまう。回避性や逃避性のパーソナリティを持ったり、何かに依存しないと生きていけなくなったりする。

 

 つまり、いつも強烈な生きづらさを抱えてしまい、何かに救いを求めたくなるのである。言い換えると、いつも心が満たされていないから、何か別のもので心を満足させようとしてしまうのであろう。何かにすがっていないと生きていけなくなってしまうのだ。そこに付け込まれてしまうのである。新興宗教やオカルト信仰に誘い込まれるのは、こういう愛着障害の人が多い。〇〇心理学を学ぶという自己啓発セミナーに騙されるのも同じ理由からだ。スピリチュアルなセラピーに誘惑されて、高いパワーストーンを買わされるとか、高額なアロマを購入させられるのも愛着障害の人が多い。洗脳やマインドコントロールから目覚めるには、誰からかあるがまままるごと愛されて、自尊心を高めるしか方法がない。

自分の目で自分を見ていないから心が傷つく

 メンタルが傷ついているクライアントに、「自分のことを自分の目で見ていますか」と尋ねると、この人は何を言っているの?と不思議な顔をされることが多い。それで、「あなたはいつも他人の目を通して自分を観ているのではありませんか?」と聞いてみる。それで、ようやく質問の意図を理解してくれる。言われてみると、確かに自分はいつも自分のことを他人からの評価や批判を気にして観察してしまっていると気付いてくれる。自分を主体的に観察するのでなく、客観的もしくは第三者的に自分を観ているのである。

 

 こんな話をすると、自分を客観的に観るのはいけないのですか?と憮然としながら問われる。勿論、自分を第三者からの目で観ることも必要である。自分の基準だけで自分を見てしまうと、身勝手で自己中心的な見方になってしまう。他人からの目で自分を観るのも、時には必要である。だとしても、自分をまるっきり他人の目だけで見てしまうと、批判されているのではないかと、けなされているのではないかと、気になって仕方ない。そして、やがては他人の目が怖くて人目を避けたくなってしまう。

 

 どうして、そんなふうに他人の目で自分を観てしまうのであろうか。それは、小さい頃より親や祖父母から、そんなことをしてしまうとみんなから軽蔑されるよ、嫌われるよと、いつも他人の目を意識させられてきたからであろう。そればかりではない。こんなことしちゃ駄目じゃない、こうしないといけないよと言われ続けて、否定され批判されコントロールされて育てられたからである。小さい頃から、このように干渉や介入をされ続けて育てられると、『自己組織化』ができないばかりか、自己肯定感が育たないのだ。

 

 この自己肯定感や自尊心が健全に育たないと、自己の確立が不可能になるのである。つまり、アイデンテティが確立されないということである。アイデンテティとは『自己証明』とも訳され、自分が自分であることの証明であり、自分らしさを認め受け容れているということでもある。このアイデンテティの確立がされていないと、自分に自信が持てないし、自分の進むべき道や生きる確信が持てないから、いつも不安や恐怖を抱えながら生きてしまうのである。自分の目で自分を見られなくて、他人の目で自分を見てしまうのである。

 

 自己肯定感や自尊感情がなくて大人になってしまうと、いつも不安や恐怖にさいなまれ、社会に出ていくのが怖くなる。ちょっとした失敗や挫折でも、それがトラウマ化してしまうことになる。または、冗談めかしたセクハラやパワハラでもメンタルがやられてしまうし、メンタル疾患になりやすい。パニック障害やPTSDになることも多い。ましてや、世の中は不安だらけだし、人に出会うのも怖い。人の目にいつもびくびくしながら生きるようになる。しまいには、家庭や自分の部屋にひきこもってしまうことにもなる。

 

 メンタルを病んでいる方々は、自己肯定感や自尊心が育まれていないことが多い。そして、自分のことを自分の目で見ていないし、他人の目で自分を見ようとしてしまう。だから、他人からの評価や批判をいつも気にするし、地位とか名誉とかに固執することが多い。学歴、経歴、資格などにこだわる。自尊感情が低いからその反動で、自分を必要以上に大きく強く見せようとするし、他人を否定し蹴落としたくなる。学校や職場でいじめをする人というのは、実は自己否定感が強い人である。セクハラ、パワハラ、モラハラを繰り返す人というのは、自尊感情があまりにも低い人なのである。

 

 メンタル疾患になる人、不登校やひきこもりになる人というのは、自尊感情や自己肯定感の低い人である。いじめられる側といじめる側に分かれるのは、自己否定感から来る怒りや憎しみの感情が、自分に向かうか他人に向かうかの違いであろう。あまりにも自己否定感が強いから、その否定感を打ち消す為に、他人を否定しようとして攻撃するのだと思われる。一方、気が弱い人はその攻撃性が自分に向かうのであろう。いずれにしても、どちらも自分のこと自分の目で見ずに、他人の目で自分を見ている傾向がある。自分のことを自分の目で見ると言う習慣を意識して身に付けたいものである。

車を選ぶ心理から読み解く人格診断

 新車を選ぶのは、実に楽しいものだ。新車が納入されて、初めて乗る喜びも大きいが、それ以上に車種を選んで悩む時が一番楽しい気がする。性能、デザイン、価格、維持費、アフターサービスなどを総合的に分析し、車種を決定することになる。いろんなカタログを取り寄せて、穴が開くほど見つめる。さらには、ディーラーを訪れて実際に見て触れて試乗して確認する。そして、車種が決まると最終的に色やグレードを決めることになる。カラーを第一選択肢とするケースもあるだろう。家族構成も選ぶ際の大事な要素である。乳幼児や家族が大勢いれば、ワゴン車を選ぶだろう。あれがいいこれがいいと選んでいる時が一番楽しいのである。

 

 ここのメーカーでないと駄目だというユーザーもいる。または、ディーラーに対して絶対的な信頼を置いているので、そのお店以外では車を買わないと決めている人もいる。当然、限られた車種から選ぶことになる。環境保護や燃費の観点から、電気自動車やハイブリッドの車を選択する人が増えてきた。SUV車やワンボックスカーでもハイブリッドの低燃費車が増えたせいもあろう。でも、一方では相も変わらず、図体の大きい燃費の悪いRV車を購入する根強いファンがいる。面白いのは、アウトドア派でもないのに大型のRV車を選ぶ人がいるということである。自分のライフスタイルに合わせて車選びをするのでなく、ただ単に見栄や自己満足の為に車を選択しているとしたら、実に愚かしい行為である。

 

 最近の車のデザインを観察すると、流行りなのだろうが、ほとんどの車でフロントマスクに特徴が出ている。きりっとしたフロントマスクというよりは、どちらかというと見る人を威圧しそうなデザインが多い。ヘッドライトは外側のほうがつり上がっていて、まるで怒って目を吊り上げた顔のようなフロントマスクになっている。歌舞伎役者のような顔を思わせる。狭い道でこんな車に出会ったら、思わず道を譲るだろう。デザイナーの好みなのか、それともこのようなデザインにしないと車が売れないのか分からないが、流行しているのは間違いない。美しいとはお世辞にも言えないデザインだが、このようなフロントマスクの車に乗っている人々は、このデザインを気に入っているようである。

 

 さらに、どうしてこんな色の車を選んでしまうのだろうかと思うのだが、黒色の車を選ぶ人が多い。黒ではなくて微妙に紫色や茶が入っているらしいが、まるで黒色にしか見えない。歌舞伎役者のように怒ったようなフロントマスクといい、黒色の車といい、どうしてこのようなデザインと色の車を人は選んでしまうのか不思議としか思えない。必要以上に大型の車もそうだし、人に威圧感を与えるようなデザインと色の車を何故乗りたがるのだろうか。あまりにも強そうな車を選ぶのは、潜在意識がこのような車を選ばせているのかもしれない。このような車を選ぶ人は、何らかの精神的な偏りがあり、その深層意識がわざと人を威圧するような車を選ばせていると考えたほうが自然であろう。

 

 それはどんな潜在意識かというと、強烈な自己否定感情であろう。または、自分に対する自己承認力の低さであろう。その反動で、自分を大きく強く見せようと無意識下で思うに違いない。攻撃的な性格を見せることも多い。だから、必要以上に大きい車、あえて注目を浴びるような車、自慢できるような車、自己顕示が出来る車、自分を強く見せられるようなデザインと色の車を選ぶのだ。心理学的に分析すると、車やファッションで必要以上に自分を偉大に見せようとするに違いない。ということは、自己否定感情の巨大化と自尊心の低さが、巨大なRV車や黒い車の選択をさせていると言えるだろう。

 

 すべての人がそうだとは言えないが、自己否定感や自己不承認感の強い人というのは、自己の確立が出来ておらず、自我の段階に留まっている人である。いわゆるアイデンテティーが確立されていない人間であろう。こういう人は、身に付けるファッションにも同じ傾向がある。黒い色の服や派手色の洋服を選ぶし、人を威圧するようなデザインのファッションにしやすい。ブランドもので着飾ることも多い。時計や装飾品も、ブランド品やギラギラするようなものを身に付ける。髭を生やす人も少なくない。こういう人は、強引な運転や威圧的な運転をしやすい。このような人間が増えているというのは危険なことであり、実に情けないことでもある。こういう車が後ろからやって来たら、事故に巻き込まれたりあおり運転をされたりするから、先を譲ったほうが賢明だ。

どん底に大地ありとU理論

「どん底に大地あり」と言ったのは、長崎の原爆被爆者で放射線医の永田隆先生である。奥さんを原爆で失い、本人も原爆後遺症の白血病で苦しみながら、原爆病の研究を続けた。その永田先生は、苦しい境遇の若者から「神は本当にいるのですか?」と問われ、「どん底まで落ちろ」と答えたらしい。そして、「どん底に大地あり」と続けた。どん底にも自分の足で立つ地面がある。一度どん底に落ちて、そこで大地を踏みしめた人にしか、本当の幸福は感じられないし、得られないという意味であろう。けだし名言である。

 

永井先生はクリスチャンで、あの名曲「長崎の鐘」が出来るきっかけを作った人物でもある。永井博士の病室兼書斎を「如己堂」と言う。自身の生きる指針としていた新約聖書の一説 「己の如く人を愛せよ」からその名がつけられたと伝えられる。放射線医として、原爆で大けがを負いながらも被爆者たちの治療を続けて、43歳という若さで力が尽きた。永井先生の言いたかったのは、人間が真の自立を確立するには、精神的にどん底に一度落ち込む必要があるということではなかろうか。それは心理学でも、U理論として確立されているものだ。

 

そのどん底というのは、とことんまで不幸な境遇のことだと思いがちだ。しかし、そのどん底というのは、精神的にどん底に落ち込むという経験のことである。人間というのは、本来誰にも知られたくない醜さや弱さを持っている。身勝手で果てしない欲望を持つし、汚れた心を持っている。このようなマイナスの自己を自分が持っていることを認めたくないし、ないことにしまっている。ところが、苦難困難や人間関係での破綻を経たり、メンタルをとことん病んだりして、このマイナスの自己を自分が持っていることをある時に気付くのである。これが精神的などん底である。

 

人間という生き物は、うつ状態や抑うつの心理状態に追い込まれるのを避けたがる。自分に対する否定感情を持ちたくないのだ。だから、自分自身の中に存在する醜くて弱い心をないことにして生きている。または、敢えてそういうマイナスの自己を持っていることを気付かないようにしているのである。つまり、自分はプラスの自己だけを持っていると思いたがるのだ。マイナスの自己を持っている自分のことがとことん嫌になって、精神的などん底に追い込まれるのを避けたいのである。例え落ち込んだとしても、どん底までは落ちず、中途半端なレベルで浮き上がろうとする。

 

このように、中途半端な落ち込みで浮き上がってしまうと、その後何度も落ち込みを経験することになる。何度も何度も辛い目に遭ったり、苦しい経験を繰り返したりするのは、どん底の精神状態まで落ちこまずに逃げていたからである。自分のマイナスの自己である醜さや弱さを、認め受け容れて、とことん追求して糾弾することは、ある意味恐怖である。自分の嫌な部分を素直に認めると、自分を嫌いになり立ち直れなくなる。生きる意味や生きる目的を見失うことになるかもしれないからだ。ところが、それはまるで逆なのである。

 

人間は、誰でも自分自身の心の奥底に醜さや弱さを持っている。汚れた自己を持つ。それを心から認め受け容れて、自分自身が嫌になり精神的などん底に落ち込まないと、真の自己確立が出来ない。何故ならば、自分の中にそんなマイナスの自己をないことにしてしまっていると、関係する相手にそのマイナスの自己を発見した時に、相手を赦せないし、受け容れることができない。例えば、配偶者や恋人、自分の親や子に、そんなマイナスの自己を発見したら、嫌いになってしまうし愛せなくなる。マイナスの自己を持つ自分を赦し愛せないと、自分に関わる相手をまるごと愛せなくなるのだ。

 

U理論というのは、一度精神的にとことん落ち込んで、どん底であるUの底から這いあがることである。つまり、自分の醜さや弱さ、そして心の穢れを認め受け容れて、精神的にとことん落ち込んでから、浮かび上がる(立ち直る)ということである。このように自分のマイナスの自己を素直に認めることができる人は、日本人では極めて少ないような気がする。だから、自分をまるごとありのままに愛せないのかもしれない。日本人は、自分を振り返ることが苦手だし、自分と素直に対話することさえしないように思う。日本人の多くの人に、U理論を知ってほしいし、どん底にこそ大地があることを認識してもらいたい。怖がらずにどん底まで落ちてみようではないか。

悲劇のヒロイン症候群

悲劇のヒロインのような人生だけは送りたくないと、誰しも強く思うことだろう。でも、自分が悲劇のヒロインのような人生を自ら招いていると知ったら、驚くに違いない。もし、自分の現状が悲劇のヒロインのように、何もかも上手く行かずに悩んでいたとしたら、それは悲劇のヒロイン症候群に陥っているのかもしれない。勿論、そんな疾患名は存在しない。しかし、世の中にはこの悲劇のヒロイン症候群で苦しんでいる人が実に多いし、その事実に気付いていない。この事実を知って適切に対応すれば、悲劇のヒロインから抜け出せるのに。

 

誰だって悲劇のヒロインのような生活を望んではいない。でも、何故か自分の人生は不遇であり、やることなすこと裏目に出てしまう。今度は頑張ろうと思っていても、同じような失敗を繰り返してしまう。学校や職場で人間関係が上手く行かず、不登校になったりひきこもりになったりしてしまう。恋人やパートナーとも上手く行かず、いつも喧嘩別れをしたり捨てられたりすることが多い。結婚しても夫とは正常なコミュニケーションが取れず、DVやモラハラを受けてしまいがちだ。そんな女性が実に多いのである。

 

この悲劇のヒロイン症候群というのは、正式な病名ではないがパーソナリティの欠陥による心の病気だ。メンタルモデルに問題がある為に、知らず知らずのうちに悲劇のヒロインのような役割を演じてしまうのである。代理ミュンヒハウゼン症候群という病気がある。これは、怪我したり病気になったりしているように偽って周りに振舞って注目を集めるという心の病である。しかし、悲劇のヒロイン症候群は、不幸な人生を実際に招いてしまうのである。そして、悲劇のヒロインのような人生を送り続けてしまう恐ろしい心の病と言えよう。

 

この悲劇のヒロイン症候群は、それだけに止まらない。酷くなると、実際に心身の疾患を発症してしまうのである。パニック障害、PTSD、うつ病、双極性障害、各種依存症、PMS、PMDD、妄想性障害などのメンタル疾患を発症してしまう。めまい、突発性難聴、不定愁訴症候群から始まり、乳がん、子宮がん、卵巣がんなどの重篤な身体疾患を発症することも少なくない。最近特に多いのが、原因不明のしびれや痛みである。心因性疼痛、線維筋痛症などの神経性疼痛で悩まされる女性が多い。悲劇のヒロイン症候群の影響である。

 

どうして自らが悲劇のヒロインのような役割を演じてしまうのかというと、端的に言えば愛情不足からである。愛に飢えているから、愛を渇望している。それも、乳幼児期における子育てに問題があり、あるがままの自分をまるごと愛される経験をしていない。だから、自尊感情が育っておらず、自己否定感が強い。両親、とりわけ母親からの無条件の愛(母性愛)が不足しているから、いつも満たされない心が存在する。悲劇のヒロインになって周りから同情を得て、愛してもらいたいのである。そして、強烈な生きづらさを抱えて生きている。悲劇のヒロイン症候群の根底には愛着障害が存在しているのである。

 

自分では親からたっぷりと愛情を受けて育ったから、愛着障害ではないと思っている人が多い。しかし、その愛情は過干渉や過介入の愛であり、支配愛や所有愛である。無条件の愛、または無償の愛ではなくて、親の思い通りの人生を歩むように仕組まれた愛である。ダブルバインドという極端な子育てをされているケースも多い。その証拠に、成人すると母親と一緒にいると気詰まりになったり不機嫌な気持ちになったりすることが多い。母親との豊かな愛着が形成されていないからである。母親もまた愛着障害なのであるから、子どももまた愛着障害になるのは当然である。愛着障害は世代間連鎖するのである。

 

悲劇のヒロイン症候群は一生治らないのかというと、けっしてそうではない。まずは、自分が愛着障害であるということを認識することが必要だ。そのうえで、適切な愛着アプローチ受ければ愛着障害を癒すことができる。そうすれば、悲劇のヒロイン症候群を乗り越えられる。一番手っ取り早いのは、母親の愛着障害を癒すことである。しかし、母親が70代になってしまうと愛着障害を修復するのは難しい。安定した愛着を持ち、共感的メンタライジング能力に長けたセラピストによる愛着アプローチを受ければ、愛着障害を修復することができる。そうすれば、悲劇のヒロイン症候群から抜け出せるであろう。

※イスキアの郷しらかわでは、悲劇のヒロイン症候群(愛着障害)を乗り越えるサポートをしています。自分で悲劇のヒロイン症候群ではないかと気づき、なんとか乗り越えたいと思っている方は問い合わせフォームからご相談ください。