自己肯定感を育てる教育の間違い

「自分のことが好きか?」という問いに、日本の子どもたちの多くはNOと答えるらしい。国際比較の青少年意識調査においても、米国や中国の青少年と比較して、極めて低い自己肯定感を示すという結果になっている。日本の青少年の自己肯定感は他国と比較しても著しく低い傾向を示して、問題視されている。自己否定感情が強いと、いじめ、不登校やひきこもりなどの問題を起こしやすいだけでなく、将来大人になった時にチャレンジ精神が持てない為に、挫折しやすいと言われている。現代の日本では青少年だけでなくて、成年者や中高年の自己肯定感も低いと言われている。

 

子どもたちの自己肯定感があまりにも低いことが問題になり、文科省は自己肯定感を高める教育を押し進めている。子どもたちだけでなく、若者たちの自己肯定感を高めるための方策がいろいろと検討され、実行されている。自己肯定感を高める為に、叱るよりも誉める教育をというスローガンも採用されている。企業においても、自己肯定感を活用したコーチングという社員教育手法を採用するケースが増えている。家庭教育でもまた、自己否定感を持つような叱り方をせず、子どもの自己肯定感を育てる教育が推奨されている。社会全体において、自己否定感を感じないように配慮した教育がなされているのである。

 

生涯教育の場においても、自己肯定感を伸ばす教育がもてはやされている。自分を否定しないで、認めて受け容れることの大切さを教える教育が流行している。自己実現や自己成長を促すセミナーが開催されているが、どうやって自己を認め受け容れるかという点に力点が置かれている。さらに、スピリチュアルな手法を主体にしたセミナーでは、過去世やカルマのせいで不遇になっているのだから、本人の責任はないのだという教え方をしている。つまり、悪い運命はあなたの責任ではなく、前世からの業がいたずらをしているのだから、あなたはそのままでいいのだと自己肯定感を育てるよう促す。

 

ところが、これだけ自己否定感を持たないように教育して、絶対的な自己肯定感を持てるように指導しているのに、残念ながらそれほど成果が上がっていないのが実情である。だから、相変わらず学校現場ではいじめが起きているし、不登校は減少していない。さらに、自己否定感が強いせいで社会に適応できなくて家庭にひきこもる若者が多い。さらにはうつ状態やパニック障害などのメンタル障害に悩む人が相変わらず多い。ということは、事故肯定感を育てる教育が成功していないということになる。何か根本的に間違っているのではないだろうか。

 

揺るぎない自己肯定感を持つ為には、自尊感情を持たなくてはならない。しかも、どんなことが自分の周りに起きようとも、すべてを受け容れ許すというセルフイメージが必要である。そして、この自尊感情というのは自分のすべてを愛する心でもある。その為には、自分を素直に見つめ自己対話をして、自分の良い処も悪い処も含めてすべてを認め受け容れることから始まる。ところが、日本における自己肯定感を育てる教育は、この点で非常に中途半端なのである。マイナスの自己を完全に受け容れて、先ずは自己を否定するプロセスを経ないと、真の自己肯定感を確立できないのに、自己否定することが出来ていないのである。

 

家庭教育、学校教育、そして社会教育において、自分のマイナスの自己が存在していることを謙虚にしかも素直に認めることを教えていないから、真の自己確立が実現してない人間が多い。誰でも自分の心の中に闇を抱えている。自己中心的で身勝手で、しかも煩悩に流されてしまう、どうしようもない自己を持っている。それを殆どの人はその闇に眼を向けず認めず、ないことにしてしまっているのである。だから、自分の周りに起きる出来事で、そのことを時折思い知らされてしまい、落ち込むのである。本当の自己肯定感を確立するには、このマイナスの自己である闇の存在を認めて、徹底的に糾弾して一度は自分を完全否定する必要がある。そのうえで、マイナスの自己を受容して慈しむプロセスを踏むのである。そうすれば、揺るがない自己肯定感を得ることが可能になる。

恋愛臆病症候群

今時の若者は、恋愛をしたがらないらしい。どういう訳なのか、恋愛をしたいと思わないという。したがって結婚も出来ないし、これでは子孫さえ作れない。現在のすべての若者がそうだとは言わないが、恋愛に対して臆病な若者は、想像以上に多いらしい。そして、自宅から独立せず、親の元でパラサイトの状態になっている若者が急増している。私たち中高年齢者から見たら、信じられないような態度である。いつも恋愛に憧れていた私らの若い頃と比較してみると、大変な違いだと思える。青春時代に恋をしたいと思うのは、誰しも同じだと思っていたのに、こんなにも恋愛に臆病な若者が多いのは実に不思議である。

さて、若者は恋愛に対して何故に臆病なのであろうか。多くの評論家たちは、それは若者たちが恋愛に失敗したり恋人に裏切られたりして、自分が傷つくのを恐れているからという分析をしている。または、自分自身の駄目な所や嫌な所が知られることにより、愛想を尽かされるのを極端に不安視しているのではないかという分析をしている人も多い。そして、昔は一刻も早く親から独立して独り暮らしをしたいと思っていたのに、今は親元から離れようとしない若者が増えているのである。家から独立せず、恋愛をしようともしないこれらの若者たちは、恋愛臆病症候群と呼べなくもないだろう。

面白いことに、これらの恋愛臆病症候群の若者たちは性衝動もないかというと、以外にもそうではないという。恋愛には臆病ながら、性行動は大胆に実行するというのだ。それも、恋愛感情のない相手とならば、平気で性交渉を行うというから信じられない。好きで好きで溜まらず、相手のすべてが欲しくて身も心も一体になりたいからと性衝動が起きると思うが、そういう相手には愛の告白さえ出来ず、性交渉も出来ずにいるらしい。本当に好きな相手に愛を告白したり性行動を起こして、もし万が一にも拒否されたら自分が傷付くと思い、行動に移れないと想像される。でも、嫌われてもいいと思うような相手となら、一夜を共にすることさえ平気らしいのだ。

そうすると、どうやら当世若者たちの深い心理状態が見えてくる。つまり、彼らの恋愛臆病症候群は、性的に未熟であったり性的欲求がなかったりするからではなく、精神的な未熟さが原因だと言える。言い換えれば、自己肯定観の未成熟さから、人から嫌われたり否定されたりすることを極端に避ける傾向があり、恋愛に対して臆病になっているということになる。今の若者たちの特徴的な傾向は、自己肯定観が低いばかりに極端に歪んだ自己愛に充ちていて、自分の異常な万能感という変なプライドに支配されている。だから、人から注意されたり叱られたりすると、極端に落ち込んだり逆切れをしたりするのであろう。実に精神状態が幼稚なのである。

それでは、恋愛に対して臆病なのは自分が傷付くことが怖いからというなら、何故そういう心境になるのであろうか。昔の若者と今の若者の心情は何が違うというのだろうか。そして何故、自己肯定観が低いのであろうか。真の自己肯定観をしっかり自分に根付かせる為には、真の自己確立が必要と考える。つまり、自我(エゴ)を克服して、自己を確立する経過を経なければ、たとえ自分が否定されたり拒否されたりしても、けっして揺るがない自己肯定観を確立することは出来ないのだ。つまり、真の自己証明であるアイデンティの確立こそが必須なのである。

ところが、今の若者たちは自己の確立が出来ないばかりか、自我の確立さえ出来ない者もいるという。つまり、親子の精神分離さえ出来ず、親離れ子離れが出来ずにいるのである。そんな若者であるのだから、相手の複雑な気持ちを汲み取りながら、自分の欲望との折り合いを図りつつ、二人の愛を育むというような複雑なプロセスを踏める筈がない。しかし、人間というのは、狂おしく眠れず食べ物も喉を通らないような思いをしながらも、恋愛を経験して行かないと、精神的な成長を遂げることが出来ない。何度かの恋愛を繰り返しながら、人はいろんなことを気付き学ぶものである。勇気を出して傷付くことを恐れず、恋愛臆病症候群を乗り越えてほしいものである。若者だけでなく、中高年者も同じだと思う。一度や二度恋愛・結婚に失敗したからといって、恋する気持ちを捨ててはいけない。

発達障害とその家族の関わり方

一昨日、NHKTVで発達障害の保護者たちが集まって情報交換会をしている模様が放映されていた。発達障害を持つ母親6人の方々が出演していた。まず不思議だと思うのが、仕事があるとしても父親の出演者は居なかったという点である。そして、母親たちが口を揃えて言うには、あまりにも夫たちが発達障害に対する無理解があるという。それも、単に障害そのものが分かりにくいというなら理解できるが、それぞれの夫たちは理解しようとしないばかりか、障害に背を向けてしまい、わざと育児を避けているようにしか思えないということである。したがって、子育ての苦労と悩みは母親だけが一人で背負っていると口々に言っている。

 

勿論、夫たちは仕事が忙しいという事情もあるだろうが、あまりにも非協力的な態度が気になる。それに対して、母親たちは子どもの発達障害に真正面から向き合い、何とか子どもが幸せな人生を送るために、苦しみ悩みながら最大限の努力をしている。そして、限りない愛情を子どもに注いでいるのが、いじらしくも感じる。あまりにも父親との態度が対照的なので、見ていてびっくりする。出演した母親たちが特別なのかとも思いたくもなるが、このようなケースが実際少なくないという。発達障害の子育てにおいて、母親だけに負担がかかっているという実態があるらしい。

 

発達障害は脳の先天的器質障害が原因とされている。だから、母親の子育てによるものではない。それなのに、夫やその家族が妻の子育てが悪かったせいだと責めるらしい。これでは母親がやり切れない。母親があまりにも厳しい態度でしつけるから、こんな子どもになったと言うらしい。無理解からの発言だとしても、これは許せない。子育てをすべて母親に押し付けておいて、こうなったのはお前が悪いからだと責任放棄する姿勢は、頂けない。これでは、母親があまりにも可哀想である。しつけは本来父親が担当すべきである。母親は無条件の愛である母性愛を注ぐだけであり、条件付きの愛であるしつけをするのは父親の役割だ。父親が役割を放棄したから、仕方なく母親がしつけまで肩代わりしているのに、それを非難するなんて到底許せない。

 

今まで、ずっと障害のある子どもたちの子育て支援をさせてもらっていて、すごく感じたことがある。発達障害だけでなく、知的障害や身体障害、または脳性小児まひやダウン症のお子さんの子育てをしているケースでは、圧倒的にお母さんの負担があまりにも大きい場合が多い。あげくの果てに、父親が子育てを放棄するだけでなく、家族から離脱してしまうケースだって少なくない。したがって、発達障害だけでなく、お子さんが何らかの障害を持たれた際の子育ては、お母さんだけに負担が押し付けられる例が非常に多いのである。

 

勿論、収入を得るためには父親が仕事に専念しなくてはならないであろう。けれども、少なくても精神的な支柱になってほしいし、何かあったときは相談の際だけでも親身になって聞いてほしい。何も、母親たちは助言や解決策まで求めている訳ではなく、困ったり悩んだりしていることを黙って聞いて共感してほしいだけなのである。そして、妻の大変さを解ってあげて、妻の気持ちと同化して時折一緒に涙を流してほしいのである。他人ごとのように、冷たい態度で責任を放棄したり、主体性を持ちえないような態度をしたりすることだけは避けてほしいと思っているのである。

 

発達障害は、先天的な脳の器質障害であったとしても、周りの家族の適切なサポートがあれば、和らいでいくことが判明しつつある。その為には、家族の理解、とりわけ父親の深い理解と協力が不可欠である。そして、母親が発達障害の子どもたちへの深くて大きな愛情を注ぎ続けるためには、母親の精神が安定してしかも安心していなければならない。母親が不安であれば、子どもにもその不安が伝播してしまうからである。母親が安心して子育てに専念し、無条件の愛情である母性愛を注ぐには、やはり夫が妻を深く愛することが必要である。その愛は、自分に都合良くするための見返りを求める愛ではなく、与えるだけの無償の愛である。制御と支配の愛ではなく、寛容と受容の愛である。このような夫婦関係であれば、発達障害は必ずや和らいでいくと確信している。

いい人は長生きできない

昔から、いい人は長生き出来ないと言われている。古来より、「憎まれもの世にはばかる」という諺もある。これは、長年の経験から導き出された結論であり、いい人は短命だし、人から憎まれるような悪い人は、逆に長生きする例が多かったのであろう。とすれば、人々から憎まれても恨まれても長生きするほうを選ぶのか、それともいい人だが短命を選ぶのか、究極の選択をしなければならないことになる。勿論、いい人で長生きできるのが望ましいが、それはどうやら今までの歴史からすると無理らしい。憎まれて恨まれた人生は、皆から嫌われるし、孤独の人生になるかもしれない。一方、いい人は皆から慕われるし、いつも回りには人が寄り添い、幸福な人生を送るに違いない。さて、どちらを選んだらいいのであろうか。

それにしても、どうしていい人は長生き出来ないのであろうか。いい人は人々から好かれて、幸福な人生を送るのであるから、ストレスもない筈である。一方、皆から嫌われるような悪い人は、人間関係も最悪でいがみ合って生きるからストレスフルな生き方をしそうである。病は気からと言われているし、病気の原因の9割はストレスだというのが定説になりつつある。しかるに、どうしていい人は短命で、嫌われ者は長生きするというのであろうか。不思議なことである。長生きだけが幸福の基準ではないとする考え方もあるから、短くても充実した人生がいいという考え方もあろう。太く短くても皆から慕われて幸福な人生がいいのだと、いい人を生きるという選択肢も悪くはない。

それでは、いい人というのはどういう基準であろうか。おそらく、いい人というのは他人に対して優しくて思いやりがあり、あまり自己主張することなく身勝手な行動は慎み、いつも他人の為に一所懸命に尽くす人というようなイメージがあると思われる。一方、憎まれ者というのは、いい人の対極にある人というイメージがあり、身勝手で自己中心的で、自我が強くて、損得や利害という行動基準を大切にする人と思われている。勿論、そういう人は人から憎まれたり恨まれたりするのであるが、中にはとんでもなく立身出世して、経済的にも成功している人が少なくない。経済的に裕福になると、人は意外と回りに対して寛大にもなれるのである。とすれば、憎まれ者として人生を送ったほうが、人生の成功者になれる確率が高いということになる。

ところが、そうは行かないのが人生である。仕事で成功して立身出世をして、経済的に裕福になった家庭を見ていると、本人はある程度幸福そうに見えるが、その家族は物質的には豊かな生活をしているものの、意外と心の豊かさを失っているようにも見えるのである。奥様が重いご病気になられて早逝されたり、子どもさんが親に対して反発したり挫折したりして、家族関係が最悪になるケースが多いのである。そうだとすると、いい人でも憎まれ者でも、幸福な人生を送れないというのなら、人間はどういう生き方をすればいいのであろうか。長生きで幸福な人生を送るコツというのはないのであろうか。長生きで幸福な人生を送る人なんていない訳ではない筈である。

そういう人はどういう人かというと、「本当にいい人」なのである。ただし、それは世にいう「いい人」ではなくて、ただ単にいい人を演じている人ではなくて根っからのいい人なのである。つまり、世の中で一般的にいい人と言われている人は、実は本当のいい人ではなく、ただ単にいい人を演じているだけの似非善人なのである。私達は、他人の目をどうしても意識してしまう。他人から見ていい人でありたいと、無意識で思い行動してしまうのが常である。つまり、無意識でいい人の仮面を被った人間として生きるのである。それを心理学では、自我人格と呼ぶ。つまりペルソナ(仮面)を被った自我人格を持った人間であり、心の奥底にはおどろおどろした嫌な自己を持っているのに、誰にも知られないようにその部分をないことにして、ひた隠しにしているだけなのである。

ペルソナ(化面)を被った自我(エゴ)は、自分の嫌な自己、身勝手で自己中心的で、だらしない自己を、自分では認めたくないから、そんな自己がないことにしている。そんな嫌な自己を無意識で隠して、仮面で隠し通していい人を演じるのである。無理して我慢していい人を演じているのだから、内面の心はとても苦しい。だから、時々そんな嫌な自己が顔を出してしまい、自分自身が情けなくなったり自分が嫌いになったりするのだ。その嫌な自己を自分から積極的に認め受け容れて、そして自己を糾弾しながらも慈しみ、それだからこそ清浄で崇高な自己(セルフ)に自分を育てようと精進するのであれば、根っからのいい人になれるのである。それを自己人格と心理学では呼んでいる。そういう本当のいい人であれば長生きできるし、皆から好かれ尊敬を集め、健康で幸福な人生を歩むことが出来るのである。

一緒にいると疲れる人

この人と一緒にいるだけで、何故か知らないが心が安らぐなあと感じる人がいる。一方、この人と一緒に居ると、何となく疲れるというかいらいらする人がいる。気遣いをさせるのでもなく、何かとりたてて攻撃的な言葉をかけられる訳でもないし、気に障るような行為をするのでもないけれど、一緒に数時間過ごすと、疲れ切ってしまうと感じる人がいるのだ。言い換えると、自分の精気というかエネルギーを吸い取られてしまうような感覚になるのである。そんな経験をしたことがないだろうか。このような人と会って一緒にいると、何となく元気がなくなり、もう二度と会いたくなくなるのである。つまり、一緒に居ると疲れてしまう人である。

それでも、会うのか会わないのかという選択肢がこちらにある場合ならまだ救われる。会うことを拒否したり避けたりすればいいだけのこと。ところが、どうしても会わなければならない相手の場合は、実に困るのである。例えば、会社の上司や同僚部下というケースだ。毎日会うことになるのだから、帰宅する頃の時間になるとエネルギー欠乏症に陥ってしまう。また、一緒に居ると疲れる人が、家庭内にいる場合は最悪である。それも配偶者だとしたら、最悪である。何か意地悪をされるのでもなく、とりたてて攻撃的態度をされる訳でもないのに、すごく疲れるのである。不思議なことであるが、一緒に居るだけで神経が傷付いてしまい、ずたずたになるのである。

こういう人と一緒に居ると、どうして疲れるのであろうか。それは、人の目に見えない念によるのではないかと思われている。この念というものは、別称では波動とも呼ばれる場合も多い。これは科学的に完全に証明されている訳ではないし、目に見えるものではない。ましてや、この波動は今のところ、何らかの測定機器により計測したり記録したり出来るものではないようだ。あくまでも、観念的にあるに違いないと思われているものである。しかしながら、人の念は人から発せられて、人の心に響いているし、影響を与えているのは間違いないようである。波動は、人から人へと伝わって影響を与えているのは間違いないような気がする。

その人の波動には、調和されている波動と調和していない波動があるらしい。それを便宜的に、調和波動と不調和波動と呼ぶことにする。どうやら、一緒にいて疲れる人の波動は不調和波動であり、逆に共に居ると安心して癒される人の波動は調和波動らしいのだ。調和波動は、乱れていないし整然としているから、相手の波動を乱すことはしないし、逆に乱れている波動を整えてくれる働きもするのである。一方、不調和波動は相手の波動に働きかけて、乱してしまう。波動が乱れて調和していないと、不安や恐怖、または憎しみや怒りといったマイナスの感情を惹起させるらしい。または、相手の蓄えたエネルギーを削いでしまったり奪ったりもするのである。

この波動というものが、何故調和したり不調和したりするのかというと、生きるエネルギーの大きさとその健全さに関連しているのではないかと想像できる。そして、その生きるエネルギーというのは、愛に通じている。その愛とは、自己愛ではなくて他に対する愛であり、社会や宇宙全体に対する愛ではないだろうか。言い換えると、それは求める愛ではなくて、ただ与えるだけの無償の愛であろう。そういう博愛とか慈悲の心が、エネルギーを正常化させると共に波動を調和させるに違いない。こういう慈愛や博愛に満ち溢れた人からは癒されるし、自己愛の強い人と一緒にいると疲れるのである。

この調和波動と不調和波動のどちらかを出しているのかによって、一緒に居ると疲れる人と癒される人という分岐点になるのではないかと見られる。不調和波動を出している人は、予想以上に多くて、殆どの人が不調和波動を出していると言っても過言ではない。不調和波動を出している親に育てられると、子どもは不登校や引きこもりになるケースが少なくない。つまり、エネルギー不足になるのである。他人を支配したり制御したりする傾向にある人は不調和波動であり、その人に支配され制御されてしまっている人もまた不調和波動になるから恐ろしい。これらの不調和波動を出している人は、愛というエネルギーが枯渇しているとも言える。一緒に居ると疲れる人、つまりは不調和波動を出している人から、支配されたり制御されたりせず、完全に自立することが求められているように思われる。

スピリチュアル依存症

スピリチュアルという言葉が独り歩きしている。しかも、そのスピリチュアルという言葉が心地よく聞こえるのか、それにどっぷりと浸かっている人たちが増えている。そして、このスピリチュアルに心奪われ人は、ウィルスに感染しているかのように、急激に広がりを見せている。以前は、魂だの霊だのと言う人は、どうしても胡散臭く見られていたのに、スピリチュアルという洒落た語感が功を奏したのか、同じことを言っても受け入れられることが多くなった気がする。しかし、それによりとんでもない悪影響を与えつつあるのも事実である。つまり、自分に不遇な境遇が現れると、自分のせいではなくてすべてスピリチュアルな要因にあると思い込んでしまうのである。そして、そのスピリチュアルにすっかり依存してしまって、頑固な態度で聞く耳を持たなくなっている人々が急増しているのである。

この言わばスピリチュアル依存症と呼べるような人々は、一旦信じ込まされてしまうと、他の人の忠告に耳を貸さず、頑なに思い込む傾向にある。何故かというと、自分の不遇がこのスピリチュアルなものに原因があると言われたほうが、心が休まるからである。自分に与えられた苦難や困難が、自分の生き方に問題があったからだと指摘されるよりも、前世からの課題や試練によってもたらされたものだと言われたほうが、耳に心地よいのは当然だ。このようなアドバイスをするスピリチュアルカウンセラーは、自分でも無意識のうちに、このような助言を無責任にしてしまう。具合の悪いことに、自分でもそのように信じ切っているものだから、クライアントに対して自信満々の態度で伝える。それも、様々な小道具や音楽・アロマ等を利用するものだから、深く潜在意識に届く。したがって、疑いもせずすっかり信じ込んでしまうのだ。

このスピリチュアルという呼び方も拙い気がする。スピリチュアルカウンセラーとかスピリチュアル占いとかいうと、怪しげな感じがしない。霊魂カウンセラーなんて呼んだら、いかにも怪訝そうな気がするだろう。このソフトなイメージによって、多くの人が惑わされている。勿論、スピリチュアリティそのものがこの世に存在しないし、そんなのはすべてまやかしである、などという乱暴なことを言うつもりもない。科学的には証明出来なくても、集合無意識ということや、過去世の記憶を持って生まれてくる人間の仕組みを信じていない訳ではない。だとしても、今のスピリチュアルブームは異常であり、誤解している人が多いし、あまりにも依存し過ぎているのは問題と言える。

スピリチュアルブームの火付け役の一人である、元福島大学の教授だった飯田史彦氏は、社会に対して警鐘を鳴らしている。自分の性格・人格・人間性に問題があり様々な苦難困難と巡り合うケースで、真にスピリチュアリティに原因があるケースは、僅か10%以下であると言い切っている。彼はスピリチュアリティにおける特殊な能力を持ち、ボランティアでかなりのクライアントを救っている。その解決事例を通してそのように断言している。彼は、このカウンセリングにおいて一切料金を取っていない。ところが、スピリチュアルを利用してヒーリングをしている人々は、結構法外な料金を請求している。それで商いをして生計を立てているのである。つまり、クライアントを多く取りたいし、逃がしたくないのである。本人には悪気はなくても、こういう人は信用出来ない。

スピリチュアルを商売にしている人々がすべてまやかしであるなどということを言うつもりもない。しかし、すべてのクライアントに対して、これはスピリチュアリティに問題があって、前世の誰それがいたずらをしていると答えているようなカウンセラーは、信用出来ない気がするのである。そして、スピリチュアル依存症の人々を利用してお金を巻き上げるなんて、許せない所業である。自分のつらい境遇すべてに対して、スピリチュアリティを原因にしてしまったら、謙虚に自己を反省しないし、自己成長や自己の確立を遅らせてしまう。自分に起きている苦難困難が、すべてスピリチュアリティに問題があって起きている訳ではないということを認識してほしい。自分の目の前の試練から、スピリチュアリティに逃げないでほしい。そうしないと、本当の解決はやって来ない。スピリチュアル依存症から勇気を持って撤退してほしいものであり、今の自分自身を素直に見つめてほしいと思う。