アルツハイマー型認知症にならない生き方

 前回のブログでアルツハイマー型認知症を防ぐ方法を書き記した。今回は、もう少し詳しく具体的にアルツハイマー型認知症にならない生き方を示してみたい。以後は略して単なる認知症と記載する。さて、認知症にならない為には適度な運動と身体と脳を適切に使うことが必要だと説いたが、もう少し詳しく説明する。運動と言っても辛くて苦しい運動や激し過ぎる運動は、ストレスがかかり過ぎるので効果がないと言われている。どんな運動がいいかというと、歩くのがよい。ただ平坦な道よりも、坂道や階段がある所が最適だ。

 何故坂道や階段が良いかと言うと、足の骨にショックを与えるからだ。骨にショックや負荷を加えると、破骨細胞が減り骨芽細胞を増やすし、脳の細胞も活性化する。特に、歩くことで筋肉に負荷がかかると、脳の海馬や前頭前野が活性化する。特に自然の素晴らしい景色を眺めながら歩くと、ストレスが解消されてカテコールアミンが減少して、偏桃体が縮小する。だから、自然が豊かなところをハイキングやトレッキングで楽しむことが認知症予防になる。気のおけない仲間と歩きながらおしゃべりしたり、ランチをしたりするのも良い。

 スポーツも良いが、すべてのスポーツが良いとは限らない。高齢者が毎日走っているのを見ることがある。マラソンに挑戦したりトレランをしたり姿も見ることがある。しかし、身体に負荷をかけ過ぎてしまうと、活性酸素フリーラジカルを大量に発生させてしまい、悪性腫瘍、心筋梗塞、脳梗塞を発症しやすくさせてしまう。また対戦型のスポーツは必要以上にストレスやプレッシャーを感じさせてしまい、逆効果を生む。ゴルフも良いが、勝負にこだわったり金品を賭けたりすると、認知症を発生させてしまう。

 脳を働かせるというのは、意識しないと難しい。高齢者は、ともすると自宅に籠ってテレビを見たり映画鑑賞を楽しんだりすることが日課になってしまう。この一方的な受動的体験は、あまり薦められない。双方向の体験をしないと、脳の機能を働かせられない。出来得るなら、料理をすることがお薦めである。インスタント食品や冷凍食品に頼らず、食材を調達することから始めてほしい。面倒なメニューや初めての料理に挑戦することは、極めて高い効果がある。そして、料理を作ったら誰かに食べてもらい、誉めてもらうとなお良い。

 趣味や芸術に勤しむのも良い。難しければ難しいほど、脳を活性化させる。パソコンやスマホを使ってSNSやブログ発信もいいだろうし、ウェブサイトを起ち上げてみるのも認知症予防に効果がある。この趣味や芸術、またはインターネットの世界において、友だちを作って交流するのは、認知症を防ぐ効果が大きい。何故かと言うと、人というのは誰かと交流して繋がって関係性を持つことで脳が活性化して、本来の自己組織化が起きるのである。誰とも繋がらず孤立してしまうと、自己組織化が起きずに人体は自己崩壊するのだ。

 何よりも大切なのは、人間としての正しい生き方である。正しく高い価値観に基づいた生き方をしないと、人間と言うのはその存在価値を無くしてしまい、自己崩壊をする。人間が人間として、正しく清らかに美しく生きることが求められている。正しく清らかに美しくというのは、具体的にどういうことかというと、無償の愛を周りの人々に注いで、出会う人々に幸せを感じてもらうという生き方である。何も求めず、損得や利害を超えて、人々に奉仕する生き方である。奉仕というと、自己犠牲を伴った苦しく無理した行動だと思われがちだが、けっしてそうではなく心から深い喜びを感じる行動である。

 何故、そんな無償の奉仕が出来るのかと言うと、神とか宇宙の意志に沿った行動だからである。神の哲学である『形而上学』に基づくものだからこそ、人間は全体最適のための行動が出来るのである。自分の損得や利害を優先した個別最適や個人最適のための行動は、人間を破綻させる。そんな行動をし続けると、誰からも信頼されず孤立するし、組織崩壊や家族崩壊を起こす。経済的な破綻も起こすことになる。神の意思を尊重して、関係性を尊重して全体最適の行動を取り続けるなら、認知症にはけっしてならないのである。

アルツハイマー型認知症を防ぐには

 65歳以上の5人に1人が認知症になる時代だと言われている。その認知症のうち、一番多いのがアルツハイマー型認知症であり、60%以上の割合を占めていて、認知症としての重症度も高いので、深刻な症状を抱えることになる。そして、一度認知症の症状が始まってしまうと、それを止めることは不可能で、どんどん症状が悪化することになる。一度認知症になると治癒することは100%ない。最新の医学技術を駆使しても、認知症の進行を抑えることが出来たとしても、症状を改善することは出来ないのである。

 認知症の原因は、アミロイドβというたんぱく質が繋がって脳の記憶機能に悪影響を与えるためだと言われている。このアミロイドβの発生を抑制したり繋がりを防げたりすることが出来たら、認知症の発症を防ぐことができるのではないかと、医薬品業界は必死になり研究開発を続けている。レカネマブという認知症の症状が進むのを抑制する新薬が出来たと話題になっている。しかし、高価で副作用もあることから、認知症の患者の誰にでも処方出来る訳でもないし、約3割の進行抑制効果しかない。まだまだ課題は大きい。

 このアルツハイマー型認知症の発症を予防することが出来たなら、高齢者にとっては朗報となろうし、医療費や介護費用の大幅削減も可能となる。国の福祉財政にも多大な貢献が出来よう。アルツハイマー型認知症の発症を、完全に防ぐことなんて出来るのであろうか。その答えは、NOである。最近の医学的研究で分かったのであるが、特定の遺伝子異常があって、アミロイドβの異常を促す遺伝子を持つ人は、アルツハイマー型認知症の発症を高い頻度で発症してしまうらしい。つまり、遺伝的なものもあるから予防が難しいのである。

 とは言いながら、最近の医学的な研究と統計調査によって、生活習慣、気質や考え方、生き方によって、かなりの確率で認知症が防げるということが明らかになったのである。つまり、100%ではないにしてもアルツハイマー型認知症は予防出来るのである。どういう気質や考え方の人が認知症になりやすいかというと、自分自身のことが好きかどうかに影響されるという。つまり、何事もポジティブに考える人は認知症になりにくく、ネガティブ思考の人は認知症になりやすいというのだ。つまり、自己肯定感があるかどうかだ。

 さらに、運動習慣のある人は認知症になりにくいということが統計調査によって判明した。積極的に運動を日常的にしていて、その運動を心から楽しめる人は認知症になりにくい。義務的な思考により運動したり、強制されて運動したりする人は認知症予防効果が少ないらしい。スポーツでも勝利至上主義に支配されたり、対戦型のスポーツでストレスやプレッシャーが強過ぎたりしても、認知症を予防出来ない。あまりにも激し過ぎる運動も、活性酸素を増やしてしまい、様々な悪影響が出るので薦められない。

 認知症になりにくい生き方とは、どういうものであろうか。それは、人々の為や世の中の為に貢献する生き方である。そして、その社会貢献の生き方は、無理せずに我慢することなく、自然体で行う社会貢献である。例え、人のために行うボランティアであったとしても、無理して実施するものであれば、認知症予防にはならない。自分が他人から認められたいとか高評価を受けたいからと公益活動をするのも、認知症予防効果が薄い。自然体であるがままに自分らしく、何の見返りも求めず粛々と人の為世の為に尽くす人は、認知症にはなりにくい。

 何故、アルツハイマー型認知症になるのかというと、人間の身体が持つネットワーク機能が無意識のうちに働いて、そうさせているのである。人間は誰でも老化して、徐々に死に向かう。運動をしなくなると同時に身体や脳の機能を働かせなくなると、もう人の為にお役に立てなくなった自分を不必要なものと認識し、この世から抹消させようと人体のネットワーク機能が勝手に働くのである。骨をボロボロにさせて筋肉量を少なくし、土に返しやすくする。認知機能を衰えさせて、死を迎える恐怖から逃避させてくれる。だとすれば、脳と身体の機能を最大限に機能させて、人の為世の為に尽くす生き方をし続ければ、認知症にはならないと断言できる。

社会問題化している孤立と孤独死

 3組に1組の夫婦が離婚するような時代を迎えて、高齢者の孤独死が急増していて社会問題化しているという。離婚している高齢者だけではなく、死別して一人で生活している老人も多くて、やはり孤独死を迎えている。元々子どもが居ない、または同居しないということを選択する子どもが多くなっている影響もあろう。そして、親しくしている友だちもないし、ご近所との付き合いもないことから、孤独死が誰にも知られず放置されているケースも少なくない。人生の最期を一人で迎えるなんて、不幸極まりないことである。

 結婚をしたがらない若者が多いし、結婚しても子どもを持たない若夫婦も増えている。このままで推移していくと、孤立と孤独死がこれから益々増えて行くのは間違いない。なんと世知辛い世の中であろうか。自分で孤独を選択したのだから仕方ないと言えるが、結婚したがらない若者や子どもを産まない夫婦が、老後の未来をしっかりと見据えての判断とは思えないのである。今が良ければいいじゃないかと思うのかもしれないが、これからは長生きが普通の時代だからこそ、老後の長い生活のことも考えてライフプランを立てるべきだ。

 老後のライフプランは、経済的に余裕があるから心配ないと豪語する人もいる。有料老人ホームや介護付きのリゾートマンションの為の貯蓄もしているから、まったく心配していないという人もいるだろう。確かに、ある程度の豊かな暮らしは出来るし、入居者どうしや介護を担う職員との触れ合いもあろう。その関係性があれば、寂しい思いなんてすることもないと考えるのも至極当然である。しかし、老人ホームや介護施設での生活は、同じ境遇どうしの付き合いだから、同じ日常の繰り返しで退屈極まりなく、孤独感を拭えない。

 元々リアルな人づきあいが苦手で、SNSなどのネットワーク上の繋がり合いだけしかしたがらない人も増えてきている。現実の職場では必要最低限の付き合いに限定して、プライベートな付き合いを拒否している人も増えているという。何故に、現実社会での深い付き合いを避けているかと言うと、他人との付き合いが煩わしいとか関係性が捻じれた場合に困るからという理由が多いらしい。それは、元々不安や怖れが強い気質を持つからと思われる。HSP(ハイリィセンシティブパーソン)のせいかもしれない。

 HSPとは、神経学的過敏から心理社会的過敏までも持つ気質を持った人ということで、人一倍繊細な感受性を持つが故に、強烈な生きづらさを抱えた人である。HSPになるそもそもの原因は、幼少期の極端な育てられ方にあり、良好なアタッチメントが欠落しているケースが殆どである。安全基地(安全と絆)が確立されていなくて、心理的安全性が欠如していることが多いのも特徴である。だからこそ、他人がパーソナリティスペースに入り込むことに対して不安や怖れを感じるので、深い関係性を築くのが非常に苦手なのでる。

 そんな深い関係性なんて必要ないし、いつでもブロックできるネット上の友達で十分だと思ってしまっている人も少なくない。これでは、人間として進化や成長するうえで、大きなマイナス要素となってしまうことを認識してほしい。人が本当の自分や自分の本質を認識する為には、他人との深い関わり合いが必要である。何故なら、人間とは他人との違いを認めてこそ、自分と言うものが初めて理解できるし、他人の心も解ることが出来るのだ。人間が人間として、深く気付き学ぶためには、人との関わり合いが必要不可欠なのである。だから、人は多様性を持つのだ。己を知らずして他人の理解なんて不可能だ。

 人間という生き物は、単独では生きて行けない。助け合わないと生きることが出来ないのである。ましてや、人間と言う生物(あらゆる生物も含めて)は、自己組織化する。主体性と自発性・成長性と進化性・責任性と自己犠牲性・連帯性という自己組織化能力は、人間どうしのネットワークが根底に無いと育まれない。人間が進化成長してきた歴史においては、ネットワーク化(組織化)が必要不可欠だったのである。つまり、人間と言う生物が完全なる人間という存在であり続けるには、『関係性』が何よりも大切だということなのだ。人間は孤立させてはならないし、孤独を求めてはならない所以がここにある。

不運と幸運のどちらになるかは宿命か

 自分の人生は不運続きだと嘆いている人もいれば、何をやっても幸運に巡り合うと喜んでいる人がいる。同じ国に住んで同じように生活している人間なのに、どうしてこんなにも違うのかと、自分の不運を恨んでいる人も少なくない。最近は生まれ育った環境や両親によって、未来の生き方が違ってしまうのだということが盛んに言われて、『親ガチャ』という言葉がネット上で踊っている。確かに、統計上においては親の年収と子どもの年収は、相関関係があるとも言われている。教育を受ける権利が制限されるとも伝えられている。

 親が経済的に貧しくて不運な人生を歩んでいると、子どもは満足な教育を受けられないので、同じように不運な人生を送るとも一般的には言われている。しかし、本当にそうなのであろうか。幸運や不運と言うのは、生まれつき決まってしまうものなのか。確かに、低レベルの教育・初等教育だけしか受けられないと、高収入の職業には就き難い。ましてや、人々が望むような、医師・高等技術者・高級官僚・政治家・法律家などになるのは非常に難しい。いくら努力したとしても難しい現実がある。

 職業や収入が子どものうちに決められてしまうという考え方は、お隣の韓国や中国においても支配的であり、だからこそ教育に熱心なお国柄になってしまっている。それでは、経済的に裕福でなくて、優秀な学業成績を収めなくて、立派と言われている職業に就けなかった人間は不幸・不運なのであろうか。それは一概に言えないのではなかろうか。高級外車や高級ブランドを手に入れて、都心のタワマンに住んでいる人々がすべて幸運・幸福なのかというと、けっしてそうではない。幸福だと絶対に思えないような人々も少なくない。

 それはどういう人なのかと言うと、こんな人々である。仕事においても大きな成功を収めて、幸せそうな家庭も築いたのに、大病をしてしまい早逝する人、重篤なメンタル疾患になった人、若くして認知症になった人、詐欺師に騙されて財産を失った人、事故を起こして半身不随になった人、子どもが不登校やひきこもりになった人やDVに苦しむ人、人から恨まれて殺害された人、そんな人々が身近にも沢山存在する。上野の飲食店経営者夫婦だって、経営者的には成功したが命を落としてしまった。本人には、そうなった要因がないのだろうか。

 例え経済的に裕福でないにしても、家族がお互いに支え合っていて愛情たっぷり注がれている家族が存在する。家族みんなが心身共に健康で、事故にも合わずに、毎日笑顔で暮らす家庭も多くあることを知っている。不幸や幸運になるのは、すべて宿命なのだろうか。親ガチャと言われているように、とんでもない親の元に生まれてしまえば、不幸で不運な人生を送るしかなくなってしまうのか。ある程度は、親の影響を受けてしまうのは、やむを得ないような気がする。しかし、すべての不運や幸運が宿命により決まるというのは言い過ぎのような気がする。

 それでは、不運や幸運というのは何によって決まるのであろうか。思想や哲学で言われているのは、不運や幸運というのはその人の受け取り方であって、どのように受け容れるのかで決まるという考え方である。塞翁が馬という諺は、まさしくそのことを言っている。または、青い鳥という寓話も同じような事である。それは観念論であって、科学的な検証をして得た理論ではない。それでは科学的に真理だと確証されている、幸運を招く方法はないのだろうか。仏教哲学において『空の理論』として確立され、量子力学で証明されている理論は真実を捉えている。

 その理論とは、この世に起きるすべての物質と起きる現象は、我々の意識によって支配されているというものである。つまり、私たちの集合無意識によってどのような世界になるかが規定されているというのだ。つまり、人間の意識が幸運や不運に感じる現象を引き起こしているのである。そして、すべての物質や現象は、ひとつの法則によって支配されている。『全体最適・全体幸福』という法則に則っているし、この世は関係性によって生成されているのである。関係性が損なわれると、物質は崩壊するということであり、個別最適を目指すと破綻するという意味である。つまり、関係性を豊かにする生活や全体最適を目指す生き方をすれば、幸運や幸福になれるということなのである。

真実はあきらかにすべきか否か

 真実は明らかにすべきなのか?と問われれば、当然真実は明らかにしなければならないと殆どの人が答えるであろう。すべての国民・市民は真実を知る権利があるし、それを社会に対して明らかにする義務があると考えるのは当然だ。しかし、すべての真実を明らかにしなければならないかというと、それは原則としてという文言を付け加えるべきであろう。ましてや、世の中には真実を語る人とか真実ユーチューバーと呼ばれる人物が存在するが、そこで語られる真実というものは、科学的にも実証されていないから、注意が必要だ。

 真実というと簡単に信じてしまう人が多い。自分でも確認せずに、TVや新聞で報道されたりネットで配信されたりすると、妄信してしまう人が少なくない。特に、ネット上において陰謀論だとして、真実はこうだと配信されると信じてしまう人が多い。その確認されていない『真実』は簡単に拡散されてしまい、益々その『真実』はいかにも本当のことだと思い込まされてしまうのである。米国議会が暴徒に襲われて多くの犠牲者を出してしまった事件も、陰謀論によっていかにも『真実』だと思わされた人々が起こしたのである。

 これは真実だからと言われても、妄信してしまうのは危険である。ましてや、いくら真実だと言われても、深く洞察すればそれが嘘だと解る筈である。嘘なのに真実だと勘違いしてしまい、嘘を拡散したら大変なことになる。もしかすると、その嘘を信じた第三者の人生を台無しにすることだってある。陰謀論を信じてしまう人と言うのは、元々HSPの傾向にある人なので、不安や恐怖感が元々強い人である。トラウマを抱えやすい人なのに、益々その傾向が強くなり、PTSDやパニック障害を起こしやすくなる。不幸になることもある。

 陰謀論などで言われていることが、よしんば真実だとしよう。そのケースならば、人々を覚醒させてあげたのだから、良いことをしたことになると思う人も多いことであろう。陰謀論を拡散している人々は、自分が社会に対してすごく良いことをしているという自負もあろう。ところが、これもまた良し悪しなのである。例え真実であったとしても、人々を恐怖に陥れたり、結果として社会の分断を招いたりするような情報ならば、それは悪影響を与えるに過ぎない。お互いの関係性を損なわせることは、絶対に避けなければならない。

 今、米国ではトランプを信奉する人々と反トランプ派の人々との対立というか断絶が酷いレベルで起こり、強烈な敵対が進んでいる。これもQアノンの情報操作が強く影響していると言われている。陰謀論を妄信している人々が、トランプはその陰謀をたくらむ人々を駆逐してくれると固く信じているらしい。それがあの米国議会乱入事件を起こしたとも言われているのである。そして、さらにお互いの非難合戦はエスカレートして、国民の分断に発展している。同じ国民どうしが、暴力を用いてまで反発するというのは異常である。

 この世の中は、ひとつのシステムによって成立しているし、システムが世の中を予定調和や全体最適に導いている。これは、宇宙全体もそうであるし、ひとつひとつのコミュニティも同じだ。家族という共同体も、市町村や法人というコミュニティだって例外はない。これらのシステムの中のそれぞれの構成要素が、自己組織化という機能やオートポイエーシス(自己産生)という正常な働きを発揮するには、良好な『関係性』が根底にあらねばならない。この関係性が破綻すると、全体最適や全体幸福は実現せず、コミュニティは崩壊してしまうのである。システムである企業の破綻や家族崩壊も、すべては関係性の悪化によって起きるのだ。

 国家もひとつのシステムである。その構成要素である一人一人の国民どうしの関係性が悪化すると、内乱とか内戦が起きるのだ。地球もひとつのシステムであり、国どうしの関係性悪化により戦争が起きる。だからこそ、真実の情報だったとしても、国民の断絶や国どうしの関係性悪化を惹起するような情報を拡散することには、慎重であらねばならないのだ。陰謀論は、国民の分断を誘発させるリスクを持つ。だからこそ、陰謀論の拡散には慎重な態度が必要だし、真実かどうかの徹底的検証も必要なのである。真実だと思い込むのも危険である。真実を明らかにすることが、正義ではないケースがあるとも言えよう。

※イスキアの郷しらかわでは、心身を病んだ方々を個別サポートしていました。心身を病んだ方々に本当の疾患名と真実の原因を伝えてしまうと、家族の関係性を損なってしまい、症状の悪化を招いてしまうので、あえて真実を明らかにしない選択をすべきだということも学びました。そうした方が、クライアントが幸福になるし治癒するからです。本当だからと、疾患名や原因を安易に告げるべきではないのです。妄想性の障害の方に、それは妄想だと告げると益々頑なになり心を閉ざすので、敢えてその妄想に付き合うことも必要なのです。

あるがままに生きるとは

今年の抱負を『縄文人の生き方を目指す』と宣言したが、それは『あるがままに生きる』という意味でもある。このあるがままに生きるというのは、言葉では簡単に言えるものの、実践するのは非常に難しいことだと言える。人間と言うのは、自分に関わる人や周りの人々に対して、常に気を使って生きているからだ。あるがままの自分をさらけ出したら、自分が嫌われてしまうのではないか、ひんしゅくを買ってしまうのではないかと、臆病になってしまうのだ。ある意味『いい人』を無意識で演じてしまう傾向があると言える。

殆どの人たちは、あるがままに生きるという意味を、はき違えているような気がする。あるがままに生きるというと、多くの人々は我儘で身勝手で自己中の自分をさらけ出して自由に生きるという意味で使っているように感じる。確かに、人は誰にも遠慮せずに自由な生き方をしたいものだ。好き勝手な生き方が出来たら、どんなにか楽しいだろうと思うであろう。しかし、それは本当の意味でのあるがままの生き方ではない。それでは、あるがままの生き方とは不自由な生き方なのかというと、そうではない。

あるがままに生きるという本当の意味は、まったく別の意味であり、我儘で身勝手な生き方のことではない。人間は、社会で生きるには社会通念や社会常識に添うことが求められる。社会常識や通念に反する言動をすると、社会から糾弾されるし排除されることもある。社会における倫理や道徳に反する行為も許されない。人間は常識や倫理観に縛られてしまうことが多い。しかし、この常識とか道徳ほど、人間や宇宙の法理・真理に反することが少なくないのである。人間本来の正しい生き方と反する常識や道徳観念が存在するのである。

人間社会における常識とか倫理観というのは、形而上学的に見てみると正しいとは言えないことがたくさんある。何故かと言うと、時の権力者、利権・特権を持つ者にとって都合の良いように捻じ曲げられた常識や道徳が作られた歴史があるからだ。為政者、富を持つ者、利権を保有する者たちは、市民たちが自分たちに歯向かないように、自分たちの権利を奪われないように、巧妙に倫理・道徳、または常識として社会に定着させてきたのである。仏教における教義さえも、権力者に有利なものに改ざんしてきたのである。

一般市民たちは、宇宙や人間の法理・真理に反する常識や道徳、または似非宗教の教義に従わせられてきたのである。だから、心ある人間は生きづらさを感じたし、まともな人間ほど社会に適応出来ないという状況が起きてしまったのである。あるがままに生きるというのは、法理・真理にそぐわない誤った常識や倫理観に操られず、形而上学やシステム思考に従って、自分の信ずる価値観に基づいて粛々と生きるという意味である。間違った常識や倫理観に基づいて作られてしまった自分の固定観念や既成概念を打ち破るという意味でもある。

人は小さい頃からずっと教え育てられたようにしか、物事を判断できなくなるものである。それが正しい価値観に基づいた考え方ならいいのだが、間違った価値観を一度身に付けてしまうと、その間違った考え方から抜け出せなくなってしまう。そうすると、人間本来の生き方が出来なくなってしまい、間違った固定観念や既成概念に支配された生き方しか出来なくなるのだ。これがメンタルモデルというもので、このメンタルモデルが邪魔をしてしまい、あるがままに生きることが難しくなる。固定観念や既成概念を打ち破るのが困難になるのである。

人間というものは、間違った常識や倫理観で生きたほうが、ある意味楽なのである。社会の常識や倫理観に逆らった生き方は、周りの人々から批判を受けやすい。自分らしくあるがままに生きるのは、勇気のいることでもある。あるがままに生きるというのは、魂が喜ぶ生き方とも言えよう。顕在意識と潜在意識が統合される生き方とも言えるかもしれない。人間は、本来誰にも所有されず支配されず、誰にも制御されずに自分らしく生きることが必要だ。これが本当の自由だ。それが実現出来てこそ、自己組織化が起きるしオートポイエーシスの機能も働く。そして、自己進化や自己成長が実現できる。今年こそ、あるがままに生きられるようになりたいと思う。

縄文人的暮らしを目指したい

 新たな年の2024年を迎えるにあたり、今年の抱負を考えていた。今年は70歳を迎えることになるのだが、自分がこの年齢になるとは想像も出来なかった。いろんな経験をしてきたものだとつくづく思う。仕事にも精一杯努力してきたつもりだが、ボランティア活動やNPO活動にも邁進してきた。勿論、家事や育児も、人よりは頑張ってきたつもりだ。仕事、家庭、地域活動と三位一体の活動をバランス良くやってきたという自負を持っている。イスキアの活動も昨年から方針転換をした。さて今年からはどのように生きようか。

 以前から思っていたことだが、縄文人の暮らしに憧れていたことから、彼らのように生きて行けたらいいなと漠然とした思いがあった。勿論、狩猟や採取を中心にした生活を、現代で出来る筈もないが、縄文人のように互恵的共存関係を基本とした平和で心穏やかな暮らしを望んでいる人は想像以上に多いに違いない。縄文人と同じ暮らしは不可能だとしても、彼らのような価値観を基本にした生活は出来そうだ。現代の価値観は、あまりにも損得や利害にシフトしているが故に、心の豊かさを失っている。そんな暮らしを見直したいものだ。

 縄文人が争いのない平和で心豊かな社会を、13,000年もの長い期間に渡り続けていたのは周知の事実である。全世界を見渡しても、縄文時代と同じ時期に戦争や略奪のまったくない平和な生活をしていた文明は存在しない。ましてや、あの時代に高福祉で共存共生のコミュニティを築いていたというのだから驚きだ。縄文人の人骨は各地から発掘されているが、武器による傷がある人骨は全く発見されていない。20代の先天性小児まひの女性の人骨が発掘されたが、一人では生活出来ない筈だから、誰かが生活支援をしていたに違いにない。

 このように、今では考えられないような、素晴らしい価値観に基づいた暮らしをしていたということが尊敬に値する。縄文人は、自分の損得や利害を第一に優先するようなことはせず、全体最適を目指していたし、将来の子孫が幸福な暮らしが出来るようにと、努力したことが判明している。未来の子孫が木の実を豊かに採取できるようにと、せっせと樹木を植えたのである。感覚的に知っていたのであろうが、洪水を防ぐために里山に樹木を植えて治水対策をしたのだ。魚貝類を子孫が豊かに採取できるようにと、豊かな海を守るための広葉樹を植林した。環境保護も含めて、SDG’sを実践していたのである。

 縄文人は、個別最適や個人最適を自分の生き方の中心には据えることなく、全体最適や関係性重視の価値観に基づいて生きていた。だからこそ、縄文人は老若男女すべて、自己組織化を進めることが可能だった。彼らのすべてが、主体性、自発性、自主性、自己犠牲性、責任性、進化性を豊かに発揮できたのである。それ故に、あれほど素晴らしい文化が花を開いたと言えよう。火焔土器を代表とした縄文式土器は、他に類を見ない見事なデザイン性を発揮している。弥生式土器と比較すると、その美しさは際立っていて素晴らしい。

 私有財産を持つと、貧富の差が表出して親族間や一族内での軋轢や争いごとが起きることを縄文人は知っていたのであろう。だから、物を個人所有することをしなかった。そして、縄文人は物だけでなく『人』の所有や支配をもしなかったし、我が子の個人所有もしなかったという。生まれた子どもは、地域の一族みんなで愛情をかけて育てた。夫婦とか親子という所属関係もなかったから、家族という概念もなかったと見られる。縄文時代は女性中心社会の社会だったから、特定の男性と一緒に暮らすことはなく、男性は通い夫(つま)だったと思われる。

 縄文人は、独占欲を持たなかったから、お互いに特定の異性を独占することはなかったであろう。特定の異性を愛することはあったと思うが、現代のように愛情がなくなった伴侶と暮らし続ける仮面夫婦のような関係は絶対に無かった筈だ。占有関係がないからこそ、相手をコントロールしたり縛り付けたりせず、お互いがリスペクトし合えるような関係を続けられたに違いない。そういう意味では、理想の男女関係にあったから、少子化もなくて子孫繁栄もしただろう。現代にも有効な少子化対策のヒントがありそうだ。縄文人は、レムリア人にも通じるのではと考える人も大勢いる。縄文人のような智慧と価値観を生かして暮らしたいものだと、新年を迎えて切に思う。縄文人の細胞記憶を呼び起こしたいものだ。

スピ系の目覚めと阿羅漢の悟り

 スピリチュアル系の目覚めをした人たちのSNS発信が、非常に多くなってきている。自分がスピ系での覚醒をしたと宣言している人たちは、スピ系の目覚めや悟りをする方法についてのセッションとかワークを開催する傾向が強い。スピ系に目覚めたいと願う人は、どういう訳か圧倒的に女性が多い。そして、スピ系の目覚めを支援するビジネスを始めたいと思う人も女性が殆どである。スピ系の覚醒をしたいと願う若い女性が多いことから、スピ系ビジネスを始める人にとっては、絶好のクライアントになりうることになる。

 スピ系において目覚めたと思い込んでいる人たちは、SNSにおいてもグループ化することが多い。リアルな場でのセッションやワーク、またはお話会とかシェア会という会合を開いては、交流の場を広げるケースが少なくない。このスピリチュアル系における覚醒とは、どういうものなのだろうか。このスピ系の覚醒という言葉を使っている人たちは沢山いるが、特に基本とするような基準がないせいか、それぞれが抱いている内容が大きく違っているように思える。そもそもスピ系というのにもいろんなイメージがあるし、覚醒の到達度も違うのだから、当たり前であろう。

 スピ系で覚醒したかどうかの判定をする認定機関もないし、試験もない。スピ系においての自己啓発を完了したかどうかは、あくまでも自分自身で判断することになる。当人が、スピ系での覚醒や自己啓発をしたと思えば、ネット上でそのように発信するし、その情報が正しいかどうかについては、ネット発信された情報で判断するしかない。ネット上でSNSやブログで情報発信されていると、あたかもそれが正しい情報かのように見えるのは当然である。したがって、スピ系で覚醒したという人の話を鵜呑みにしてしまうのであろう。

 しかし、冷静になって考えてみると怖いことだ。私は覚醒者だから私の言うことは正しいから信じなさいと主張されてしまうと、ついつい同意してしまうのはありがちだ。ましてや、スピ系に憧れる人というのは、自分でも得体のしれない不安や生きづらさを抱えている人が多い。何かにすがりたいと思っているから、ついつい引き込まれてしまうのも当然である。スピ系に目覚めた人というのは、同じように苦しんでいる人を救いたいと願っているから、積極的に発信しているし、コンタクトをしてくれた人を囲いたがるのであろう。

 さて、スピ系の覚醒者として自分を認識している人は、本当に自己啓発を完了しているのであろうか。仏教の修行段階に阿羅漢という存在があるのを知っている人は、そんなに多くないと思われる。どういう人かというと、仏教における修行僧の最高位にある高僧のことである。ある程度深く悟りを啓き、菩薩までは及ばないものの、仏に限りなく近づいた者という意味である。いろんな場所に五百羅漢さまとして安置されているのは目にした人も多い筈だ。この阿羅漢が、実は永遠に仏にはなれないと言われていると聞いて、驚く人が多いかもしれない。

 仏教の教えに『二乗作仏』という言葉がある。主に大乗仏教が小乗仏教を批判的に提唱したものではあるが、阿羅漢は仏教の修行をしているものの、自分の悟りを優先し過ぎるあまり、利他行が足りないから仏性を得られないと言われている。阿羅漢は、自分では悟りを啓いたと思いあがり過ぎて謙虚さを失うから、仏にはなり得ないとも言われているのである。ソクラテスの説いた『無知の知』にも通じることである。確かに、自分では完全に悟ったのだ、覚醒者なのだと自信を持って主張する人ほど謙虚さを失い、成長は止まってしまう。

 スピ系の覚醒者と阿羅漢という存在が、何となく似通っているように思えて仕方がない。すべてのスピ系の覚醒者が阿羅漢と同じで、偽スピだと主張するつもりはないが、自分で目覚めた者であると自信を持って言う人ほど信じられない気がする。本当に悟りを啓いて、自己啓発をしたり自己マスタリーを実現したりした人は、もっと謙虚であり自分を自慢することはしないものだ。そして、そっと日常的に利他行に勤しむだけであり、スピ系をビジネスに利用するようなことはしない。本物の覚醒者はビジネスに活用したとしても、セッション1回何万円も要求することはない。本物を見分ける確かな眼を持ちたいものである。

雨が降っても自分のせい

 経営の神様と呼ばれた松下幸之助さんは、様々な名言を残されているが、その中でも異彩を放っている言葉がある。それは『雨が降っても自分のせい』という、常人にはなかなか理解しがたい言葉である。雨というのは天候のひとつであるから、人間の力ではどうしようもないし、ましてや特定の人にその責任はないのは当然である。それなのに、敢えて松下幸之助さんは、雨が降っても自分のせいだと言い切ったのである。その真意はどこにあるのであろうか。または、その言葉に隠された本当の意味は何であろうか。興味深いことである。

 経営アナリストや評論家たちであれば、このように解釈するのではなかろうか。松下幸之助さんの名言として、もうひとつ『雨が降れば傘をさせ』という言葉が残されている。この言葉と併せて考えると、雨が降ると言う事も予測しなさい、そしてその対策を万全にしておきなさいという意味だと解釈できる。雨というのは自分や会社にとって逆風や逆境ということであり、そのような状況になることも予測をしてその対策も十分に用意しておくべきだし、そうなったらいち早く対応すべしということだろうと思われる。

 会社経営において、リスク管理はとても重要な役割を持つ。リスクマネジメント長けていないトップ経営者の企業は、経営破綻を起こし存続できない。その他の組織運営においても、リスク管理は大切である。危機管理が出来ない父親の家庭は、経済破綻を起こしてしまうし、安全安心が保持できない。この世は、晴れの日ばかりではない。雨の日と言えるような悲惨な状況に追い込まれることもあるし、苦難困難に立ち向かうことも多い。そういう逆境や逆風も予想して、乗り越える準備と危機管理の能力も身に付けなさいということであろう。

 もっと深い意味があったかもしれない。ともすると、人間と言うものは何か自分取って不都合なことや思いもよらない失敗が起きてしまうと、何かのせいや誰かのせいにしたがるものだ。世の中の経済状況や環境が悪いからだと言い訳したり、誰かが邪魔をしたからだと人のせいにしたりする傾向がある。このように、自分に悪いことが起きたことに対して、自分には責任がないと言い逃れする人はすこぶる多い。これでは、自分の成長や進歩はまったく生まれない。悪い結果のすべての責任を自ら負い、二度と同じ失敗を繰り返さないと誓ってこそ、将来の成功や栄光は生まれるものだ。

 雨が降るのは自分のせいという言葉には、すべての責任は自分が負うものだという松下幸之助氏の尊い教えが詰め込まれているようにしか思えない。これは、科学的にも正しい。人間と言うひとつのシステムは、自己組織化する性質がある。人間は生まれながらにして、主体性、自発性、自主性、連帯性、責任性、自己犠牲性というような働きを持つ。つまり、人間と言うのはすべて自分の周りに起きることに対して、リスクとコストを負担するということである。システムダイナミックスという最先端の科学的思考においては、これは当たり前のことである。

 さらに科学的思考を発展させると、量子力学的に鑑みれば、雨が降るというのは自分の思考がそうさせたのだということも言えるのである。そんな馬鹿なと思う人もいるかもしれないが、量子物理学においては、思考そのものが物を実体化させて変化させるという事実が明らかになりつつあるのだ。松下幸之助氏が、雨が降っても自分のせいだという言葉を残したのは、量子力学的な思考に基づいての発言かどうかは解らないが、科学的事実である。仏教哲学における、色即是空や空即是色が科学的事実だと松下氏は知っていたに違いない。

 自分でも、不思議な体験を何度もしている。福井県の百名山である荒島岳を数人の仲間と登った時のことである。午後からは天気が崩れるという予報だったが、何となく午後2時くらいまでは天気が持つに違いないという勝手な確信を持った。午後2時までは下山する計画で、予定通りに下山して車に乗った途端、その時刻に土砂降りの雨が降り出したのである。その後、信州の御座山でも同様のことがあり、福島県の和尚山でも起きたのである。こういう体験が数知れず起きている。すべてがそうなるとは言えないが、かなりの確率で雨を降らせるのは自分の思考ではないかと思うようになった。雨が降っても自分のせいだという教えに基づき、これからも謙虚に生きていこう。

初等教育にこそ形而上学が必要

 日本の教育において、哲学教育が軽視されてしまった歴史がある。学校教育においても、そして家庭教育においても哲学がなくなってしまったと言っても過言ではない。そして、その哲学の中でも、とりわけ形而上学がまったく欠落してしまったのである。子どもが正常な発達を遂げるために、ましてや精神の発達段階において、形而上学が果たす役割は極めて大きい。それなのに、日本の教育には形而上学が全く不要だと、敢えて除外されてしまったのである。それ故に、日本の子どもたちに正しい価値観が育たなかったのである。

 正しい価値観を持たないのは、子どもたちだけではない。70代以下の大人はおしなべて正しい価値観や哲学を持ち得ていないのである。正しい価値観は、倫理や道徳を学ぶことで確立されるものだと思っている人が多いが、それは間違いである。倫理や道徳の教育を受けたとしても正しい価値観や哲学が身に付くことはない。何故かと言うと、学校で教える道徳や倫理の価値観は、人間が正しく生きる上で役に立つものだとは言えない。この道徳や倫理の価値観は、為政者や権力者にとって都合の良い偽のそれで、真理を捉えていない。

 江戸時代までは、神や仏が示す正しい価値観を教える形而上学を教えていた。それが、明治維新になり、欧米列強に対抗するために富国強兵を推し進めることになり、近代教育を取り入れた。この明治政府が仕入れた近代教育というのが、問題であった。近代教育の基本となるのは、客観的合理性に基づく教育であり、すべては科学的な根拠に真理を求めていた。科学的に証明できないものは真実ではないという考え方が支配的になってしまった。科学的に証明の出来ない形而上学を排除したのは、言わずもがなであった。

 客観的合理性を重視すぎる近代教育を強引に導入したのは、明治維新政府の元勲大久保利通であり、それに猛烈に反対したのは西郷隆盛であった。近代教育を導入すれば、国を滅ぼしてしまうと西郷は主張した。形而上学を排除してしまうことの危険を、西郷は心得ていたのであろう。この予想は見事に的中した。形而上学を排除して、客観的合理性だけを追求した日本の教育は、日本の子どもから自己組織化を喪失させて、責任性や主体性を発揮出来なくさせてしまった。身勝手で、自分さえ良ければいいという自己中心的人間を大量に生み出してしまった。

 客観的合理性の近代教育を否定するつもりはない。科学的な根拠に基づく考え方は、学問をするうえで必要不可欠である。しかし。あまりにも客観的合理性を追求し過ぎて、形而上学的な価値観をまるっきり否定してしまうと、科学技術が暴走してしまう危険がある。アインシュタインは、科学が正しく発達するには、形而上学が必要だと説いた。原子爆弾の製造に異を唱えずに賛成する文書に署名してしまったアインシュタインは、一生後悔した。科学の進化と利用において、形而上学が欠如すると科学は暴走して、殺戮の道具を産みだしてしまうと悔やんだのである。

 形而上学とは、人間にとって何が大切なのか、何を目的に生きるのかを、神や仏、または宇宙意思がどう示しているのかを学び取ることである。そして、人間の力ではどうしようも出来ない、偉大なる自然や宇宙の営みを実感・体感することである。人間を超越した存在があり、その前では人間がいかに無力であるのかを認識し、すべてをその偉大なる存在に任せるという潔さを持つことでもある。神とか仏というのは、常に全体最適や全体幸福を求めているのであるから、宇宙の一部である人間は、その全体最適のために貢献すべき存在であると認識すべきである。

 幼児教育や初等教育においては、そんな難しいことを幼い子どもには理解できないと思うかもしれない。しかし、そんなことは杞憂でしかない。幼い子どもこそ形而上学が大好きなのである。欧米においては、日曜に教会に行き神父さんや牧師さんの話に、子どもたちは聞き入る。江戸時代以前は、僧侶たちは寺子屋で子どもたちに説法を行った。家庭教育において形而上学を、子どもに語って聞かせるのは父親の役目だ。幼児教育や初等教育の段階から、形而上学をしっかりと教育して、正しい価値観を身に付けさせなければならない。子どもたちは、目を輝かせて全体最適や社会貢献の話を聴くに違いない。