自己組織化するならボランティア

 現代日本人に一番欠けているものは何か?と問われたらば、本当の智慧がある人ならば間違いなく自己組織化能力だと答えるであろう。自己組織化の能力とは、主体性、自主性、自発性、自己犠牲性、連帯性、進化性という、人間が人間らしく生きる為には必要不可欠な能力の事である。あまりにも家庭教育と学校教育の両方において、干渉や介入を強く受けて育った影響もあり、現代人にはこの自己組織化能力があまり身に付いていないのである。だから、自分で判断し決断し自ら行動し、リスクとコストを怖れずチャレンジするのがとても苦手なのだ。

 自己組織化の働きが育つ為には、まずは無条件の愛である母性愛をたっぷりとこれでもかと注いでから、条件付きの愛である父性愛を注ぐことが肝要である。乳幼児期に、子どもをあるがままにまるごと愛して、たっぷりと依存させることが大事である。依存させることは悪いことだと思いがちだが、そんなことはない。依存が中途半端だから自立出来ないのだ。安心して依存して、依存して、依存し切ってしまえば、子どもは不安なく自立出来るのである。こうして育った子どもは、自然と自己組織化の能力が発達するのである。

 さて、子どもが大きくなっても自己組織化能力が発達せずに育ち、自立が出来ずに困っているという親に相談をよく受ける。こういうケースは、対応が非常に難しい。乳幼児期の子育てからやり直しが出来るならいいのだが、現実的には不可能だと言ってもよい。となれば、本人がどうにかするしかない。しかし、本人の努力だけではどうしようもない。企業や団体の中で働いているだけでは、自己組織化が起きにくい。組織の中で働く際は、逆に自己組織化を阻害されるような事が起きやすい。当事者意識を喪失してしまうのだ。

 ましてや、自己組織化の能力が育っていない社員・職員に対する上司や同僚からの風当たりは強い。低い評価ばかりではなく、批判や否定をされることも少なくない。「お前、使えねえ奴だなあ」と面と向かって言われることがあるかもしれない。日々ルーチン作業だけをしているなら、気付かれないかもしれないが、対面サービス業や対応力を必要とする業務においては、辛く当たられることもあろう。そうすると、自己否定感も強くなるし、自己組織化能力が高くなるどころか、逆に低くなるのも当然である。

 自己組織化能力が低い人は、家庭においても家事育児の能力が極めて低いので、批判されることが多いし、信頼されず無用の人だと疎外されてしまう事が少なくない。パートナーにも恵まれず、孤独感を味わうことになる。そもそも、自己組織化能力が育っていないと、恋人を自ら作ろうと努力しないし、異性から相手にされない。こういう状況になってしまうと、自己組織化能力が自ら育てるとは不可能かというと、けっしてそうではない。自己組織化能力や当事者能力が、大人になってから身に付くというケースは、まったくない訳ではない。

 どのような努力や研修・修練をすれば、自己組織化能力が育つのかと言うと、社会貢献活動にせっせと勤しむことである。何故、社会貢献活動が自己組織化能力を高めてくれるのかと言うと、ボランティアの4原則と呼ばれるその特徴にある。ボランティアをした経験があるなら、ボランティア活動をする場合に守るべき4原則を知っていよう。➀主体性、自主性、自発性➁連帯性、関係性➂無償性、自己責任性➃発展性、進化性、革新性という4つが、ボランティアの4原則である。つまり、自己組織化とはこの4原則そのものなのである。

 自己組織化とはそもそも分子生物学や量子物理学の研究であきらかにされてきた概念である。人体の細胞やそれぞれの組織に、自己組織化する働きがあることも判明している。だとすれば、人間にはそもそも自己組織化する働きが生まれつき備わっていると結論付けられる。つまり、人間は自己組織化することが定められていて、ボランティア活動的な行動をするのが当たり前だということだ。人間が人間らしく生きる為には、ボランティア活動をすることで、本来の自己組織化能力を手に入れるだけでなく、益々高められるということなのだ。老若男女問わず、誰もが社会貢献活動に邁進してくれることを願う。

親を人生の目標にしてはならない訳

 前回のブログにおいて、親を尊敬するのは構わないが人生の目標とすることは正しくないと主張させてもらった。その訳について、下記に詳しく述べたい。人間が発達していく段階において、自我の目覚めとその後に自我を克服し乗り越えて、自我と自己の統合としての自己の確立をするという発達形態を取ることは広く知られている。この自我を乗り越える際に、親との関係が特に重要である。思春期における第二反抗期として、正常な自我が発達しているならば、通常は親に大いなる反発を覚えるのである。

 親が自分に対して強く介入したり干渉したりすることを、極めて強く嫌う。自分が進むべき進路は自分自身が判断して決断し、自分で切り拓いて行く年代である。親がこの学校に進むべきだと強く推したり、こういう職業に就くことを願っているなどと言ったりするものなら、反発して逆の道を歩みたくなろう。それでも、何となく親が進める進学や就職に落ち着くのであろうが、親の言うとおりに進路を決めるのは嫌なものである。何故かと言うと、人間には生まれつき自己組織化する働きがあるから、主体的に物事を決めたいのである。

 そんな思春期というのは、エディプスコンプレックスやエレクトラコンプレックスを抱きやすい年代でもある。このエディプスコンプレックスやエレクトラコンプレックスを適切に乗り越えて行けないと、やがて青年期になってから愛着障害などを起こしやすく、恋愛における困った問題を引き起こしかねない。あまりにも偉大で完璧な父親や母親であり、到底乗り越えられない強大な存在であると、これらのコンプレックスは超越出来なくなってしまうのである。だからこそ、父親と母親は、人生の目標にしてはならないのだ。

 今までイスキアの活動をしていて、強くて偉大で何もかも完璧にこなしてしまうような親を持つ子どもは、このエディプスコンプレックスやエレクトラコンプレックスを強く抱いてしまい、愛着障害で苦しむ姿を見てきた。エディプスコンプレックスやエレクトラコンプレックスから、同性の親に対する敵意から殺意までも持ってしまうことがある。同性の親を嫌って、息子は父を娘は母を憎しみ、殺してしまう夢まで見る。それは、ある意味自分の嫌いな自我を相手に見出すせいもある。その自我を仮面で隠して、良い人を演じている親が許せないのだ。

 自分の中に存在する恥ずかしくて卑劣であまりにも愚かな自己を、親の心の裡に発見することで、親を一時的には憎しみこの世から抹消したいと思うのだ。しかし、人間らしくて愚かで時に弱い人間性を垣間見せる親を発見することで、これなら親を乗り越えられると安心して、自我と自己の統合を実現して、自分のマイナスの自己も受け容れられて愛することが出来るようになるのだ。ところが、自我(エゴ)の欠片も感じさせないような立派で完璧な親を演じ切ってしまうと、子どもは親を乗り越えられないばかりか親との同一性を持てなくなるのである。

 医師、法律家、大企業の経営者、大学教授、キャリア官僚、政治家の子どもたちが、親を乗り越えることを諦めて、挫折したり愛着障害を持ったりするケースを、イスキアの活動でいくつも経験してきた。傑出した実績や経歴を持つ親の子どもがすべてそうなる訳ではない。あまりにも厚くて頑丈な仮面(ペルソナ)を被って、けっして闇の部分(シャドウ)を子どもと世間に見せない親であると、子どもが心理的な問題を抱えるのである。だからこそ、人生の目標となる親を演じてはならないのである。

 子どもの立場から見ると、親は乗り越えるものであり、超越が難しい人生の目標にしてはならない理由がここにある。だから、親は子どもの前であまりにも良い人を完璧に演じ切ってはならないのである。時には人間臭くて、情けなくて詰まらない人格や人間性を、子どもに見せなくてはならないのである。インナーチャイルドを心から楽しんでいる姿を、時には見せてあげることで、子どもは気付き学ぶのだ。たまにはペルソナを脱ぎ捨てて、インナーチャイルド全開で人生を謳歌する姿を、子どもに見せることが出来たなら、子どももまた安心してペルソナを外して、自分らしく生きることが出来よう。

人生の目標とする人がいない不幸

 あなたが心底から尊敬していて、自分もあんな人のようになりたいと目指す存在はありますか?と聞かれたら、即座に特定の人物を上げることが出来るだろうか。勿論、人生の師として敬う人物であり、芸人、スター、タレント、スポーツ選手ではない。あくまでも、社会に素晴らしい足跡や実績を残した人物であり、その生き方そのものが尊敬に値するような存在であり、自分も同じような生き方をしたいと強く願うような憧れでもある。残念ながら、多くの人々はそんな人生の目標とする存在を持っていないのではなかろうか。

 私が人生の目標とするのは、ご存じのとおり森のイスキア佐藤初女さんである。佐藤初女さんをリスペクトとして、同じような活動をしてきた。勿論、初女さんの足元にも及ばないが、同じように多くの悩める人の役に立ちたいと実践してきたつもりである。人間という生き物は、誰かの模倣をしながらどう生きればいいのかを学ぶ。野生の動物も、親が見本を見せて生きる術を身に付けて生きていけるのである。乳幼児期は、親の模倣をして生きる。思春期を迎える頃になると、逆に親に反発をして、親の生き方に反する生き方を志す。

 それだからこそ、青年期に入る頃からは人生の師と言える目標とする人物を持つ必要があるのだ。人生における目指すモデルがないと、目標を見失ってしまい無為に生きるようになってしまうのである。現代の若者たちは、人生の目標がいないのではないかと思えて仕方ない。若者だけではない。中高年の人たちも、そして老人たちも人生の目標を持っているとは思えない。特に仕事をリタイアした人たちは、人生の師を持ち得ないケースが多いに違いない。老後を趣味やスポーツなど好きなことだけをして過ごすのは、実にもったいない。

 それでは、どんな人物を人生の師や目標とする人物にすればいいのかというと、その素晴らしい実績とか足跡だけに注目してはならない。結果だけを尊敬するのではなくて、そのように至ったプロセスが何よりも大切であるし、その実践の元になったその人の価値観や思想・哲学こそがリスペクトされる対象であるべきだと思う。ともすると、我々はその尊敬する人物の実績に目を奪われてしまい、その人物の生きる目的や生きる姿勢をついつい忘れがちである。どんな実績を残したかよりも、どう生きたかが大事だとつくづく思う。

 一昔前までは、身近なところにそんな人物がいたものである。例えば、会社の上司や社長とか、学校の恩師、郷土の政治家や経済人で、尊敬すべき人物がいたものである。目標とすべき尊敬する人物が、父親とか母親という人間もたまにいるが、それはどうかと思う。尊敬するのはあり得るが、人生の目標とする人物としては好ましくない。その理由は、次回のブログで詳説するので、今回は割愛したい。昔は身近な存在に、人生の目標にすべき傑出した人物がいたものである。特に、政界よりも経済界に多く輩出していたように思われる。

 松下電器を創業した松下幸之助氏。本田技研工業の創業者本田宗一郎氏。ソニーの創業者井深正氏と盛田昭夫氏。少し遡って日本経済界の父と呼ばれる渋沢栄一氏。皆の実績も素晴らしいが、それを実現させたのは彼らが共通して持つ崇高な価値観である。私益よりも公益を優先させた企業経営は、まさしく社会的企業(ソーシアルビジネス)としての理念を持っていた。だからこそ、彼らに仕えた部下たちもまた、高い思想と経営哲学を持っていた。目の前に圧倒される素晴らしい人格と人間性を持った人物がいたとしたら、人生の目標とせざるを得ないであろう。

 現代の企業家や経営幹部には、傑出した英雄はもはや存在しない。公益よりも会社の私益を最優先にするだけでなく、私利私欲にまみれていて利他の精神なんてまるっきりないに等しい役員と上司だけである。行動規範が利害や損得になっている、低劣な価値観しか持ち得ていないような会社の上司をどうして尊敬出来ようか。人間として尊敬して人生の目標として憧れるのは、崇高な価値観を持った人物でしかないのだ。人生の目標とするような先輩が誰一人いない会社で、どうやって頑張ることができようか。実に不幸な会社人生である。

起きた原因を探るのでなく意味を考える

 近代教育を受けた我々は、自分の身の上に起きたことに対して、どうしても起きた原因や背景を明らかにしようとする傾向がある。それはそれとして正しいやり方ではある。しかしながら、原因とかそのバックグラウンドを探ろうという気持ちが強く出過ぎてしまうと、原因探しや犯人捜しにやっきになり過ぎてしまい、問題の本質を見失ってしまうことになる。ましてや、要素還元主義で問題を分析する手法が身についていると、問題を細分化し過ぎてしまい、問題の全体像を見失うのでその本質が見えなくなることにもなる。

 まさに、木を見て森を見ずというような状態に陥る危険性があるということである。リスクはそれだけではない。原因探しや犯人捜しをするということは、自分を顧みずに外因のせいだと思いがちになり、自分が成長したり進化したりするチャンスを見逃してしまうのである。何か自分にとって不都合なことや辛いことが起きるというのは、誰かのせいで起きたのではない。それは、自分が何か大切なことを気付いたり学んだりして、進化を遂げるために自分自身で引き寄せたのだ。起きた原因を追究せず、意味を考えるべきである。

 とは言いながら、人間はどうしても客観的合理性的思考をしてしまうので、第三者として起きた問題を俯瞰してしまう傾向がある。学校教育では、徹底して科学的合理性の追求をする方法を教える。自分の目で見ないで、他人の目で俯瞰的に観察しなさいと教える。ましてや、要素還元主義を徹底して教え込むのであるから、問題を客観的に細分化して分析する手法を取ってしまうのは当然だ。そうすると、自分を見失うだけでなく、他人の目で自分を観察するというとんでもない思考癖をしてしまうのである。

 確かに、自分を客観的に見ると言うことも必要である。しかしながら、それだけではなくて、自分の目で自分を主観的に眺めることも大切なのである。そうしないと、自分に深刻な問題が起きても、よそ事として捉えてしまい、それは自分のせいではなくて、誰かのせいで起きたことだから仕方ないと、問題から逃げてしまうのである。いつも問題から逃避したり回避したりしていると、何度も同じような問題が起き続けて、しまいにはどうしようもない問題が起きてしまい、取り返しのつかない事態になってしまうのだ。

 前にも記した通り、自分の周りに起きるすべての不都合な出来事は、自分自身が引き寄せたり敢えて起こしたりしていることなのである。自分が大切な何かを気付いたり学んだりする必要があって、無意識の自分が起こしていることなのである。まずは自分自身を振り返り、自分自身の何に問題があって不都合な出来後事が起きたのかを洞察すべきである。特に、自分の思想や哲学に問題がないのかを、自分自身に問うべきである。自分の価値観は、正しい宇宙の真理や法則に沿ったものであるのかを確認しなくてはならない。

 我々の生きているこの社会や宇宙全体に共通している、正しい真理が存在している。その正しい法理法則に基づいて、この世界は形成されている。その正しい法理法則というのは、古来より著名な哲学者・神学者・社会科学者が追求してきた真理でもある。時には、物理学者・生物学者・宇宙科学者・脳科学者さえもこの正しくて高邁な哲学を探し続けてきたのである。そして、量子物理学によってこの真理が正しいものだと証明されようとしているのである。それは、全体最適と関係性こそがこの世を形成しているという事実だ。

 我々の周りに起きる不都合な出来事というのは、この全体最適と関係性を無視した言動によって自分自身によって引き起こしているのである。あまりにも関係性をないがしろにして個別最適を求めたから、辛くて悲しい出来事が起きているのである。病気や事故も同様な理由から起きているのである。だから、不都合な出来事は、その間違いを気付けるように、自分自身が起こしているのである。すべて意味があって、自分が起こしたことなのだ。だからこそ、何か不都合なことが起きた際には、原因を追求するのではなくて、それが起きた意味を考えて、どのように生きるのかを問い直すべきなのである。

※イスキアの郷しらかわでは、この全体最適と関係生の哲学である『システム思考の哲学』を学ぶ研修会を開催しています。そして、この正しい哲学を身に付けるために最低限の自己革新である『自己マスタリー』や『メンタルモデル』の学びをするお手伝いもさせてもらっています。さらには、ビジネスにおける必要最低限の知識『イノベーション』『創造的リーダーシップ』『デザイン思考』も学べます。興味を持たれた方は、お問い合わせください。日帰りでの研修も開催しますし、出張研修もいたします。

子どもに是非見せたいアニメ『働く細胞』

 TV東京系列で放映されて、その後NHKのEテレでも放映されている『働く細胞』というアニメをご覧なったことがあるだろうか。コミック連載当初より人気があり、単行本になっても人気が衰えず、テレビでもアニメ化されて放映されたらしい。子どもたちにも人気があるのは当然だが、大人が鑑賞しても面白いし為になる内容である。子どもたちは、このアニメに引き込まれるみたいである。孫たちもこのアニメが大好きで、録画して何度も鑑賞して喜んでいる。どうして、このアニメは子どもたちに人気になっているのであろうか?

 このアニメが人気になっている理由は、しっかりした科学的根拠に基づいた内容になっているし、人間の根源的な機能である自己組織化を描いているからであろう。どういうことかというと、人体というネットワークシステムには、自己組織化と呼ぶ人間本来の機能が備わっている。自己組織化というのは、主体性、自主性、自発性、自己犠牲性、自己成長性、自己進化性、連帯性という、人体が本来持っている機能のことである。この自己組織化が機能しなくなると、人体は病気になるし老化や劣化が進んでしまう、大切な機能である。

 少し前の人体生理学においては、すべての細胞は脳や神経系統からの指示によって働いていると考えられていた。つまり、それぞれの細胞は勝手に機能しているのではなく、何らかの指示命令系統によって、上手く作用しているものだと考えられていた。ところが、人体生理学や分子生物学の研究が進んだことにより、まったく違った作用機序になっていることが判明したのである。すべての細胞は、それぞれが自ら自己組織化していて、誰にも指示されることなく、全体最適の為に自らが機能しているということが解ったのである。

 その事実を、『働く細胞』というアニメは、自ら自己組織化している細胞の姿を、見事に描き切っているのである。主人公である擬人化した赤血球細胞とそれを助ける白血球細胞が、人体という全体が健康で正常に機能する為に、時には自己犠牲を払うのを厭わずに、献身的に働く姿を描いている。このアニメは、すごい人気が出ていることから、永野芽郁と佐藤健の共演で、実写映画化までされるという。子どもたちが自己組織化という概念を理解しているとは到底思えないが、本能的に自己組織化したいと望んでいるのではなかろうか。

 細胞も含めて、全体を組織しているすべての構成要素は、自己組織化する働きを持っている。この自己組織化の機能が正常働くためには、良好な関係性を保持しているということが絶対必要条件である。働く細胞というアニメでは、細胞どうしの良好な関係性が大事だと訴えている。関係性&ネットワークが劣化してしまうと、人体が破綻してしまうということも描写されている。人体もそうなのだが、人間社会でも関係性が劣化してしまうと、全体最適の機能が働かなくなってしまう。働く細胞は、そのことも暗示しているのである。

 子どもというのは、哲学的な物語が大好きである。人は何故生きるのか、何のために生まれてきたのかを問う話に引き込まれる。人間は生まれつき哲学的な話に憧れるものだ。特に純真な子どもは、人間のあるべき姿を無意識で追い求めているのである。それが大人になるにつれて、純真さを失うと共に本来の生きるべき道をも失ってしまう。全体最適を目指して生きることを忘れてしまい、個別最適(自分最適)を目指すようになる。子どもは、働く細胞のような全体最適の話や関係性重視の思想に憧れるのである。

 働く細胞というアニメを、子どもたちが大好きになるのは、自己組織化や全体最適を説いているからだ。鬼滅の刃というアニメに純真な子どもたちが熱狂するのも、同じ理由からである。アニメ働く細胞を好む大人もまた、全体最適や関係性重視の価値観を持っているのであり、自己組織化の機能を発揮している人間である。子どもたちが健全なる正しい価値観を持って成長する為にも、アニメ『働く細胞』を是非鑑賞させたいものだ。そして、大人も一緒に観ながら自己組織化の機能を発揮することの大切さを共有したいものである。実写映画化された『働く細胞』が公開されたら、孫と一緒に見に行こうと思う。

企業の不正や不祥事がなくならない背景

 ダイハツ工業における不正な認証試験が、34年間も実施されていたという前代未聞の事件の報道には驚いた。ダイハツ工業は、トヨタ、スバル、マツダ各車両のOEM生産も行っていることから、自動車業界全体にも影響が広まった。そして、今度はトヨタ自動車も同じような不正をしていたことが明らかになったという。自動車製造企業全体の体質が問われる事態にもなっている。大量のリコールをどう実施するのか、ディーラーも困惑している。また、新車販売が出来なくなり、購入予約しても納車がされない事態にもなっている。

 事故発生時における車体の強度が公的に証明されないのだから、生命に関わる重大事である。国による認証制度が有名無実になる事態であるから、安全担保を根本から覆すことになる。安心して車を運転できない事態に陥らせた、偽装できる認証制度を創った国土交通省の責任も大きい。それにしても、国の許認可基準を無視した企業の不正事件が過去にいくつもあった。三菱自動車リコール隠し、日野自動車排ガス偽装、神戸製鋼検査データ改竄、東洋ゴム免震偽造、そして紅麹サプリの小林製薬など著名企業による不正事件の枚挙に暇がない。

 こんなにも何度も企業の不正事件が起きているのだから、国の認証制度にかかる法律や規則が、ザル法であるのは間違いない。企業経営者なり管理者が、法律を遵守する『善人』であるという前提の基に作られた法律である。人間の本質というものをまったく理解していないと言えよう。このような不正が次から次へと明らかになると、企業経営者たちはリスク管理の在り方を見直すとか、コンプライアンスの重視という方策を取ることが大事だと思う事であろう。さらに厳しい品質管理を徹底させようと、社員に激を飛ばす事であろう。

 しかし残念ながら、このような社内の品質管理の在り方を根本的に見直して、より厳しい管理体制を築いたとしても、社内の不祥事はなくなることはないと断言できる。何故なら、それは社員を信頼していないからである。社員を信頼できないからと、品質管理のための社内ルールをいくら厳しくしたとしても、誤魔化そうとする社員の抜け穴はいくらでも存在する。信頼されていない子どもは、親を騙す。同じように、社員を信頼しない企業は、社員に裏切られる。絶対的な信頼を寄せられたら、人間は裏切ることが出来ないのだ。

 企業の経営者や幹部というのは、自分も誤魔化した体験を持つから、社員も同じように不正を働くのではないかと疑心暗鬼になる。だから、誤魔化せないように厳しいルールを作るのである。規則やペナルティーを厳しくして、社員を縛るしかないと思うのであろう。これは、社員の心を惑わせる。どうせ自分は疑われているのだからと、不正を働くことに自制心が働かなくなる。ましてや、人間は自己組織化する働きを持っているのに、逆にその主体性・自発性・自制心・責任性を奪ってしまうのである。

 ましてや、企業経営者・幹部・社員すべてに、正しい経営哲学がないのである。企業が収益を上げる為には、法律や規則を無視したり拡大解釈したりしても良いのだという価値観が浸透してしまっている。現代の企業には、社会や市民の利益や幸福の実現に貢献する為に存在するのだという、根本的理念が欠落しているのである。つまり、ソーシアルビジネスという観点がまったく無くなっているのである。その証拠に、企業経営者や幹部には形而上学的思考をする者は存在しなくなったのである。

 本田宗一郎が経営していた時の本田技研工業、盛田昭夫や井深大が経営していたソニー、松下幸之助が経営していた際の松下電器産業のそれぞれの社員たちは、経営哲学の話を盛んにしていたという。何のために会社を経営するのか、自分たちは何のために生きるのか、そんな話をするのが大好きな社員が沢山いたと言われている。だから、社員たちにはソーシアルビジネスの理念が自然と身に付いていたのである。現代企業の社員たちには、利益至上主義、企業価値向上至上主義しか存在しないのである。だから、不正や不祥事がなくならないのである。原点に戻って、形而上学の学び直しをしないと、不正はなくならないであろう。

 

衆生救済と即身成仏で生きる

 若い頃からずっと憧れて崇拝する弘法大師空海さんが、人間が生きる目的とは衆生救済と即身成仏だと説かれたと伝わっていて、自分もそんなふうに生きたいと常々思っている。勿論、お大師様には全然近づけそうもなく、だいそれたこととは重々承知しているが、少しでも近づきたいと思い、ライフワークとしてこの衆生救済と即身成仏を実現しようと取り組んでいる。イスキアの郷しらかわの活動に取り組んだのも、森のイスキアの佐藤初女さんをリスペクトしてのものだが、お大師様の影響も強く受けたからでもある。

 中国に渡り真言密教を学び、恵果阿闍梨から灌頂を受けて日本に真言密教の経典を持ち帰り、真言宗を起こしたのが弘法大師空海その人である。その空海が滅してもなお高野山の奥の院で生き続け、人々の衆生救済に取り組んでいらっしゃるというのは有名な話である。衆生救済とは、世の中の生きとし生けるものすべてを救うというお考えであり、衆生利益や衆生幸福と言い換えても良いだろう。自分だけの利益や幸福を追求するのではなくて、社会全体の幸福を願ったのである。お釈迦様が仏教を興したのも、同じ理由からだ。

 即身成仏とは、いろんな捉え方があろうが、生きたままに仏になるという意味であり、拡大解釈すれば生きた身でありながら仏性を得るという意味でもあろう。人間誰でも死んであの世に行って仏になる。だから、万人誰でも仏になる。しかし、生きたままに仏になると言うのは、なかなか実現できるものではない。そして、生きたままで仏性を得ると言うのも簡単な事ではない。それなりの修行も必要であるし、人間としての普段の生き方が問われることになろう。少しでも近づくのは出来たとしても、完全なる仏性を得るのは難しい。

 この衆生救済と即身成仏とは、車の左右の両輪の如くにあり、どちらかが欠けてもその実現は難しい。衆生救済を実現する為には、即身成仏を貫かなければならない。その逆も真なりであり、即身成仏を目指して生きなければ、衆生救済を実現させるのは困難であろう。並行して実現を目指しながら努力して生きなければ、どちらも実現させることは叶わないのである。言葉では簡単に言えるが、並大抵の努力ではどうにもならない。何故かと言うと、人間と言うのは究極的に自分が可愛いし、自己保身や自己利益に走りやすいからである。

 しかし、安心して良い。人間という生き物は、本来完全なシステムであるから、基本的には全体最適を目指すように生まれてきている。そして、慈悲の心や寛容の心を本来持ちながら産まれてきているのである。それが、誤った家庭教育や学校教育によって、間違った価値観である個別最適や客観的合理性を身に付けてしまったのである。自分の損得や利害によって行動指針を作るような情けない人間に成り下がって、自己中心的な人間になってしまったのである。獲得した劣悪な価値観を捨てて、本来の自分を取り戻せば良いだけだ。

 仏教において、『自他一如』という教えがある。自分と他人は本来ひとつであり、統合されている存在であるという意味であろう。故に、自分を大切にして愛するように、他人にも優しく接して自分と同じように愛することが求められる。他人が幸福でなければ自分も幸福でないし、自分が心から幸福だと実感できない人は他人に幸福をもたらすことが出来ない。以心伝心という禅の言葉があるように、人の心と心は繋がっている。カール・グスタフ・ユングは、集合無意識の世界で人々の潜在意識はすべて繋がっていると説いた。衆生救済が人間として取り組むべき課題だという論理的証拠でもある。

 人間が生まれてくる意味は、この地球において様々な体験を通して成長することにある。ここでいう成長や進化というのは、人間として寛容性や受容性を高めるということであり、関わり合うすべての人に対する慈悲や博愛の心を持つということだ。それが、即身成仏という意味であり、仏のような心を持って人と接しなさいということだろう。そして、その為にこそ日常的に衆生救済の行動を心掛ける必要があろう。ボランティア活動や市民活動に取り組むことも良いし、ソーシアルビジネスという企業活動を目指すのも素敵な考えだ。それが無理なら、日々の仕事や日常生活に全体最適の価値観を持って取り組みたいものだ。

アルツハイマー型認知症にならない生き方

 前回のブログでアルツハイマー型認知症を防ぐ方法を書き記した。今回は、もう少し詳しく具体的にアルツハイマー型認知症にならない生き方を示してみたい。以後は略して単なる認知症と記載する。さて、認知症にならない為には適度な運動と身体と脳を適切に使うことが必要だと説いたが、もう少し詳しく説明する。運動と言っても辛くて苦しい運動や激し過ぎる運動は、ストレスがかかり過ぎるので効果がないと言われている。どんな運動がいいかというと、歩くのがよい。ただ平坦な道よりも、坂道や階段がある所が最適だ。

 何故坂道や階段が良いかと言うと、足の骨にショックを与えるからだ。骨にショックや負荷を加えると、破骨細胞が減り骨芽細胞を増やすし、脳の細胞も活性化する。特に、歩くことで筋肉に負荷がかかると、脳の海馬や前頭前野が活性化する。特に自然の素晴らしい景色を眺めながら歩くと、ストレスが解消されてカテコールアミンが減少して、偏桃体が縮小する。だから、自然が豊かなところをハイキングやトレッキングで楽しむことが認知症予防になる。気のおけない仲間と歩きながらおしゃべりしたり、ランチをしたりするのも良い。

 スポーツも良いが、すべてのスポーツが良いとは限らない。高齢者が毎日走っているのを見ることがある。マラソンに挑戦したりトレランをしたり姿も見ることがある。しかし、身体に負荷をかけ過ぎてしまうと、活性酸素フリーラジカルを大量に発生させてしまい、悪性腫瘍、心筋梗塞、脳梗塞を発症しやすくさせてしまう。また対戦型のスポーツは必要以上にストレスやプレッシャーを感じさせてしまい、逆効果を生む。ゴルフも良いが、勝負にこだわったり金品を賭けたりすると、認知症を発生させてしまう。

 脳を働かせるというのは、意識しないと難しい。高齢者は、ともすると自宅に籠ってテレビを見たり映画鑑賞を楽しんだりすることが日課になってしまう。この一方的な受動的体験は、あまり薦められない。双方向の体験をしないと、脳の機能を働かせられない。出来得るなら、料理をすることがお薦めである。インスタント食品や冷凍食品に頼らず、食材を調達することから始めてほしい。面倒なメニューや初めての料理に挑戦することは、極めて高い効果がある。そして、料理を作ったら誰かに食べてもらい、誉めてもらうとなお良い。

 趣味や芸術に勤しむのも良い。難しければ難しいほど、脳を活性化させる。パソコンやスマホを使ってSNSやブログ発信もいいだろうし、ウェブサイトを起ち上げてみるのも認知症予防に効果がある。この趣味や芸術、またはインターネットの世界において、友だちを作って交流するのは、認知症を防ぐ効果が大きい。何故かと言うと、人というのは誰かと交流して繋がって関係性を持つことで脳が活性化して、本来の自己組織化が起きるのである。誰とも繋がらず孤立してしまうと、自己組織化が起きずに人体は自己崩壊するのだ。

 何よりも大切なのは、人間としての正しい生き方である。正しく高い価値観に基づいた生き方をしないと、人間と言うのはその存在価値を無くしてしまい、自己崩壊をする。人間が人間として、正しく清らかに美しく生きることが求められている。正しく清らかに美しくというのは、具体的にどういうことかというと、無償の愛を周りの人々に注いで、出会う人々に幸せを感じてもらうという生き方である。何も求めず、損得や利害を超えて、人々に奉仕する生き方である。奉仕というと、自己犠牲を伴った苦しく無理した行動だと思われがちだが、けっしてそうではなく心から深い喜びを感じる行動である。

 何故、そんな無償の奉仕が出来るのかと言うと、神とか宇宙の意志に沿った行動だからである。神の哲学である『形而上学』に基づくものだからこそ、人間は全体最適のための行動が出来るのである。自分の損得や利害を優先した個別最適や個人最適のための行動は、人間を破綻させる。そんな行動をし続けると、誰からも信頼されず孤立するし、組織崩壊や家族崩壊を起こす。経済的な破綻も起こすことになる。神の意思を尊重して、関係性を尊重して全体最適の行動を取り続けるなら、認知症にはけっしてならないのである。

アルツハイマー型認知症を防ぐには

 65歳以上の5人に1人が認知症になる時代だと言われている。その認知症のうち、一番多いのがアルツハイマー型認知症であり、60%以上の割合を占めていて、認知症としての重症度も高いので、深刻な症状を抱えることになる。そして、一度認知症の症状が始まってしまうと、それを止めることは不可能で、どんどん症状が悪化することになる。一度認知症になると治癒することは100%ない。最新の医学技術を駆使しても、認知症の進行を抑えることが出来たとしても、症状を改善することは出来ないのである。

 認知症の原因は、アミロイドβというたんぱく質が繋がって脳の記憶機能に悪影響を与えるためだと言われている。このアミロイドβの発生を抑制したり繋がりを防げたりすることが出来たら、認知症の発症を防ぐことができるのではないかと、医薬品業界は必死になり研究開発を続けている。レカネマブという認知症の症状が進むのを抑制する新薬が出来たと話題になっている。しかし、高価で副作用もあることから、認知症の患者の誰にでも処方出来る訳でもないし、約3割の進行抑制効果しかない。まだまだ課題は大きい。

 このアルツハイマー型認知症の発症を予防することが出来たなら、高齢者にとっては朗報となろうし、医療費や介護費用の大幅削減も可能となる。国の福祉財政にも多大な貢献が出来よう。アルツハイマー型認知症の発症を、完全に防ぐことなんて出来るのであろうか。その答えは、NOである。最近の医学的研究で分かったのであるが、特定の遺伝子異常があって、アミロイドβの異常を促す遺伝子を持つ人は、アルツハイマー型認知症の発症を高い頻度で発症してしまうらしい。つまり、遺伝的なものもあるから予防が難しいのである。

 とは言いながら、最近の医学的な研究と統計調査によって、生活習慣、気質や考え方、生き方によって、かなりの確率で認知症が防げるということが明らかになったのである。つまり、100%ではないにしてもアルツハイマー型認知症は予防出来るのである。どういう気質や考え方の人が認知症になりやすいかというと、自分自身のことが好きかどうかに影響されるという。つまり、何事もポジティブに考える人は認知症になりにくく、ネガティブ思考の人は認知症になりやすいというのだ。つまり、自己肯定感があるかどうかだ。

 さらに、運動習慣のある人は認知症になりにくいということが統計調査によって判明した。積極的に運動を日常的にしていて、その運動を心から楽しめる人は認知症になりにくい。義務的な思考により運動したり、強制されて運動したりする人は認知症予防効果が少ないらしい。スポーツでも勝利至上主義に支配されたり、対戦型のスポーツでストレスやプレッシャーが強過ぎたりしても、認知症を予防出来ない。あまりにも激し過ぎる運動も、活性酸素を増やしてしまい、様々な悪影響が出るので薦められない。

 認知症になりにくい生き方とは、どういうものであろうか。それは、人々の為や世の中の為に貢献する生き方である。そして、その社会貢献の生き方は、無理せずに我慢することなく、自然体で行う社会貢献である。例え、人のために行うボランティアであったとしても、無理して実施するものであれば、認知症予防にはならない。自分が他人から認められたいとか高評価を受けたいからと公益活動をするのも、認知症予防効果が薄い。自然体であるがままに自分らしく、何の見返りも求めず粛々と人の為世の為に尽くす人は、認知症にはなりにくい。

 何故、アルツハイマー型認知症になるのかというと、人間の身体が持つネットワーク機能が無意識のうちに働いて、そうさせているのである。人間は誰でも老化して、徐々に死に向かう。運動をしなくなると同時に身体や脳の機能を働かせなくなると、もう人の為にお役に立てなくなった自分を不必要なものと認識し、この世から抹消させようと人体のネットワーク機能が勝手に働くのである。骨をボロボロにさせて筋肉量を少なくし、土に返しやすくする。認知機能を衰えさせて、死を迎える恐怖から逃避させてくれる。だとすれば、脳と身体の機能を最大限に機能させて、人の為世の為に尽くす生き方をし続ければ、認知症にはならないと断言できる。

社会問題化している孤立と孤独死

 3組に1組の夫婦が離婚するような時代を迎えて、高齢者の孤独死が急増していて社会問題化しているという。離婚している高齢者だけではなく、死別して一人で生活している老人も多くて、やはり孤独死を迎えている。元々子どもが居ない、または同居しないということを選択する子どもが多くなっている影響もあろう。そして、親しくしている友だちもないし、ご近所との付き合いもないことから、孤独死が誰にも知られず放置されているケースも少なくない。人生の最期を一人で迎えるなんて、不幸極まりないことである。

 結婚をしたがらない若者が多いし、結婚しても子どもを持たない若夫婦も増えている。このままで推移していくと、孤立と孤独死がこれから益々増えて行くのは間違いない。なんと世知辛い世の中であろうか。自分で孤独を選択したのだから仕方ないと言えるが、結婚したがらない若者や子どもを産まない夫婦が、老後の未来をしっかりと見据えての判断とは思えないのである。今が良ければいいじゃないかと思うのかもしれないが、これからは長生きが普通の時代だからこそ、老後の長い生活のことも考えてライフプランを立てるべきだ。

 老後のライフプランは、経済的に余裕があるから心配ないと豪語する人もいる。有料老人ホームや介護付きのリゾートマンションの為の貯蓄もしているから、まったく心配していないという人もいるだろう。確かに、ある程度の豊かな暮らしは出来るし、入居者どうしや介護を担う職員との触れ合いもあろう。その関係性があれば、寂しい思いなんてすることもないと考えるのも至極当然である。しかし、老人ホームや介護施設での生活は、同じ境遇どうしの付き合いだから、同じ日常の繰り返しで退屈極まりなく、孤独感を拭えない。

 元々リアルな人づきあいが苦手で、SNSなどのネットワーク上の繋がり合いだけしかしたがらない人も増えてきている。現実の職場では必要最低限の付き合いに限定して、プライベートな付き合いを拒否している人も増えているという。何故に、現実社会での深い付き合いを避けているかと言うと、他人との付き合いが煩わしいとか関係性が捻じれた場合に困るからという理由が多いらしい。それは、元々不安や怖れが強い気質を持つからと思われる。HSP(ハイリィセンシティブパーソン)のせいかもしれない。

 HSPとは、神経学的過敏から心理社会的過敏までも持つ気質を持った人ということで、人一倍繊細な感受性を持つが故に、強烈な生きづらさを抱えた人である。HSPになるそもそもの原因は、幼少期の極端な育てられ方にあり、良好なアタッチメントが欠落しているケースが殆どである。安全基地(安全と絆)が確立されていなくて、心理的安全性が欠如していることが多いのも特徴である。だからこそ、他人がパーソナリティスペースに入り込むことに対して不安や怖れを感じるので、深い関係性を築くのが非常に苦手なのでる。

 そんな深い関係性なんて必要ないし、いつでもブロックできるネット上の友達で十分だと思ってしまっている人も少なくない。これでは、人間として進化や成長するうえで、大きなマイナス要素となってしまうことを認識してほしい。人が本当の自分や自分の本質を認識する為には、他人との深い関わり合いが必要である。何故なら、人間とは他人との違いを認めてこそ、自分と言うものが初めて理解できるし、他人の心も解ることが出来るのだ。人間が人間として、深く気付き学ぶためには、人との関わり合いが必要不可欠なのである。だから、人は多様性を持つのだ。己を知らずして他人の理解なんて不可能だ。

 人間という生き物は、単独では生きて行けない。助け合わないと生きることが出来ないのである。ましてや、人間と言う生物(あらゆる生物も含めて)は、自己組織化する。主体性と自発性・成長性と進化性・責任性と自己犠牲性・連帯性という自己組織化能力は、人間どうしのネットワークが根底に無いと育まれない。人間が進化成長してきた歴史においては、ネットワーク化(組織化)が必要不可欠だったのである。つまり、人間と言う生物が完全なる人間という存在であり続けるには、『関係性』が何よりも大切だということなのだ。人間は孤立させてはならないし、孤独を求めてはならない所以がここにある。