老害とはすさまじきもの

 老害はすさまじきものである。現代日本におけるすさまじいという形容詞とは意味が違う。平安時代に使われていた意味であり、現代訳すれば、不似合いなもの、興ざめするもの、出来ればあっては欲しくないし見たくはないもの、という意味であろう。著名な随筆である枕草子の中で、清少納言が書いたすさまじきものというのがある。まさしく、老害というのはすさまじきものと言えよう。最近、ある全国ネットの某テレビ会社での老害が話題になっているが、これこそがすさまじき老害の典型と言えるのではなかろうか。

 このテレビ会社では、87歳にもなった取締役相談役が、今もなお絶大な権力を保持していると言われている。何故、一人の取締役相談役がそんなにも強大な権限を有しているのか不思議である。代表権を持つ社長や会長もいて、取締役会だって開催しているし、表面的には株式会社として機能しているかのように思える。しかし、相談役はかつての天皇家が院政を敷いたように、今でも会社の人事権を持っていて、他の取締役は逆らえないというのである。なにしろ、30年余りに渡りそのテレビ会社を絶大なる権限で掌握しているというのだ。

 87歳になった今でも、かくしゃくとしているといえども、こんな高齢で会社の重要決定と進路を決めているというのならば、空恐ろしいことである。個人差のあることだから一概には言えないが、人生70歳を越えれば記憶力や判断力、そして決断力が衰えるものだ。ましてや80歳を過ぎたら、益々能力は低下する。いくら若い時から能力は低下していないと強弁したとしても、加齢による影響は大きい。故に、定年制がある。取締役には定年がない。だからこそ、高齢になった役員は自らの進退を決めるべきなのである。

 政界もまた、老害がはびこっている。高齢の元総理とか派閥の領袖が影のキングメーカーとして君臨している。一国の政治を担うトップが、老害のすさまじき政治家によって作り出されているとしたら、国の行く末も危ういと言える。高齢者が働いてはならないとは思わない。ひとりの技術者や労務提供者、または助言者や技術指導者としての任務なら、まったく問題はないだろう。しかし、管理者やトップ経営者は避けるべきである。高齢になると、どうしても謙虚さを失うし、柔軟性や発想力は著しく衰える。瞬発力は消滅する。

 高齢者は、おしなべて頑固である。固定観念や既成概念に縛られる傾向にある。どんなに説得されたとしても、けっして自説を曲げないし自分が正しいと言い張る。自分の非を認めず、問題が起きたのは他人のせいにしたがる。今回の某テレビ会社の相談役も、あれだけ騒がれて自分のせいで有名企業各社がCM見合わせをして会社が大打撃を受けているのに、辞めようとしないのは呆れるばかりだ。持ち株会社の大株主から辞任を突きつけられても、平気で居座るというのは、空恐ろしささえ感じる。他の取締役に、矜持は存在しないのか。

 このテレビ会社の相談役、そして政治家や企業経営者たるもの、所属している組織や国民に対して、老害を与えてはならない。自分の引き際こそ、大事だ。後進が育つまでは自分が引退することが出来ないと主張する高齢者がいる。確かに、すべてを任せるには心配なケースもあろう。しかし、自分と同じレベルまで後進が育つのを待ってから引退するのでは、一生辞めることができない。何故ならば、任せられないと育つことが出来ない部分があるからだ。すべての責任を持つという立場にならないと、人間は成長できないのである。

 人間には、自己組織化(内発的動機等)が生まれつき備わっている。誰でも、この自己組織化を自分の力だけで成し遂げられるのかというと、そうではない。いろんな人生の師や所属組織、そして関わり合う人々によって、育てられる点がある。ましてや、責任性や自己犠牲性というものは、責任ある代表管理者という立場にならないと、身に付かないと言える。そして、老害になってしまうような高齢者の立場になると、その心地よい地位にしがみつき保身に走り、責任性や自己犠牲性を発揮しなくなるのである。だからこそ、自らの判断で老害を食い止めなくてはならないのだ。すさまじき人だと後ろ指さされないように。

女性性と男性性を統合する方法

 前回は女性性と男性性の統合について考察した。もう少しこの統合について補足してみたいと思う。仏教の世界において、女性性と男性性を代表する仏像は何なのかと言うと、女性性は観音菩薩であり男性性を表すのは不動明王であろうか。また、女性性を表す仏像としては愛染明王をあげる人がいるかもしれない。男性性を表す仏像として、毘沙門天などの四天王を思い浮かべる人がいるかもしれない。さらには、女性性を代表するのは慈悲の世界に君臨する阿弥陀如来であり、男性性を代表するのは薬師如来だとする人も多いだろう。

 現役の僧侶であり寺の住職で、芥川賞作家の玄侑宗久氏は、人間として生きる上で阿弥陀如来と薬師如来の良さをバランス良く発揮することがとても大切だと説いておられる。まさしく、女性性と男性性の統合を上手に言い表していよう。ありのままで素晴らしいのだいう慈悲の心を持つ阿弥陀如来と、こうありたいものだと強く願い成長進化を常に追い求める薬師如来を、一人の人間にバランス良く取り入れて生かすのは、まさに女性性と男性性の統合だと言える。女性と男性もこのような生き方をしたいものである。

 女性性というのは、無条件の愛である母性愛とも言い換えられるし、男性性というのは条件付きの愛である父性愛だとも言える。子どもが身も心も健全に育成していくうえで、母性愛と父性愛は共に必要である。この母性愛と父性愛を共に発揮して人々をお救いする為にこの世に遣わされた仏像がある。それが両頭愛染明王である。お身体は愛染明王であるが、愛染明王の頭の部分と不動明王の頭の部分の両方を持つ仏像なのである。現存する仏像や仏画は極めて少ないが、これがまさしく女性性と男性性の統合を成し遂げた御姿であろう。

 さて、いよいよこれからは女性性と男性性の統合を実現する方法について述べてみたい。女性性と男性性の実際の知識と大切さを頭で理解したとしても、その能力を身に付けることは難しい。実際に何度も体験してみないと身に付かないし、その能力を発揮できない。だからこそ、男性も家事育児に積極的に取り組むべきだろうし、女性も社会進出を果たして活躍することが求められる。とは言いながら、それを義務感や使命感を優先して取り組んではならない。あくまでも、家事育児や社会貢献を心から楽しんで生きがいにできるレベルまで到達しなくてはならない。

 具体的に述べると、男性が料理や掃除を極めてプロの領域にまで到達しないと、それが楽しいというレベルまでは行けないし、子育てをすることによって自分自身の成長が実感して仕事に生かせると確信するレベルまで到達しないと、女性性を身に付けたとは言えないのである。女性も、仕事が楽しくて自己実現の可能性に気付かされるレベルまで行かないと、男性性が身に付いたとは言いにくい。そうでなければ、女性性と男性性の統合なんて、到底おぼつかないと言える。とは言いながら、置かれた環境もありそれは非常に難しいことではある。

 統合が実現するかどうかは別にして、男性が日々努力をして家事育児に勤しむ、女性が社会における活躍を目指して資格取得の勉学に励んだり仕事の効率化を提言したりすることは必要であろう。そうした努力をコツコツとするプロセスこそが大事なのであり、頭で考えて行動をしないというのは統合の実現が遠ざかるだけである。また、何よりも大切なのは体験することにより、女性が日々淡々と果たしている役割、男性が日々組織の中で苦労している役割、どちらも体験することでお互いの大変さを深く認識することは大切だ。

 その大変さに共感することが、女性性と男性性の統合の第一歩ではなかろうか。体験しなければ見えないことである。もうひとつ女性性と男性性の統合をする手助けになる行為がある。地球交響曲(ガイアシンフォニー)を撮った監督である龍村仁さんが、地球のささやきという著作で述べられている。女性と男性がお互いの男性性と女性性を強く感じて、それをまるごと受容して寛容することは、性的な交わりにおいて実現すると。柔軟で極めて薄くてもろい皮膚1枚での深い接触を通して、相手の女性性と男性性の素晴らしさを実感して、相手のすべてをまるごとありのままに愛するという瞬間に、統合が実現すると主張されている。いろんな意見もあるとは思うが、女性性と男性性の真の統合を実現したいなら、試してみる価値はあろう。

※いろんな誤解を産む怖れがありますので、補足説明します。女性性と男性性の統合には性的な交わりが必要不可欠だとは考えていません。あくまでも、統合に向かうためのひとつの手段として紹介しただけです。ましてや、相手に対する深い敬愛や心の結びつきが存在しない性の交わりでは、統合が成し遂げられる訳がありません。さらに言うと、快楽を一方的に求めるような行為は逆効果ですし、義務的な行為では心は開きません。身も心も開き、相手の嫌な処や醜い所も含めてすべて受け入れて、相手にこれ以上にない幸福感を与えるような交わりでないと、統合には向かわないと思います。勿論、自分の方のマイナス要素もすべて、相手にさらけ出す勇気も必要です。条件と心を整えることが出来たら、その行為の中で、宇宙との統合さえも実感できるのではないかと思います。

女性性と男性性の統合とは

 最近のスピ系SNS界隈で盛んに取り上げられているのが、『統合』というワードである。いろんな統合が論じられているが、その中でも大きくトレンド入りしているのが『女性性と男性性の統合』というワードである。いまさら何をと言う人々もいると思われるが、実はこの女性性と男性性の統合という概念を、正確に認識している人はけっして多くない。多くの誤解もあるだろうし、何となく理解していると思い込んでいる人は少なくない筈だ。女性性と男性性の統合なんて必要ないと豪語する男性もいるだろうが、それは間違いである。

 自己の確立を実現させて、大人としての立派な人格を形成して、人間としての成長進化を成し遂げる為には、女性性と男性性の統合は避けては通れないものなのである。言い換えると、女性性と男性性の統合を実現していない人は、人間として不完全だと言ってもいいだろう。さらに言えば、女性性と男性性の統合を実現するというのが、生まれてきた意味や生きるうえでの大切な命題ではなかろうか。だからこそ、女性性と男性性の統合ということの真の意味を知るべきだろうし、実現することが必要不可欠なことなのである。

 さて、女性性と男性性との統合とはどういうことなのであろうか。女性性とは、家事育児を上手にこなせるように、家族の気持ちや状態を把握できる為、感性や想像力を働かせられるようにとか、思いやりや共感力と傾聴力が発揮できるようにするという天賦の能力のことだと思っているであろう。一方、男性性とは家族を守る為に敢然と敵と対峙できる強い精神性や、社会悪に立ち向かう正義感、身を粉にして企業戦士となり社会貢献に寄与する強い使命感、そのための創造性や企画開発の能力という捉え方をする人が多いことだろう。

 そして、そのどちらをも大事だと思い、女性も男性もその女性性と男性性を豊かに取り入れて、身に付けて人生において発揮するということが統合だという意味だと思うに違いない。果たして、女性性と男性性の統合とは、それだけなのであろうか。そんな単純なことではなかろうし、そんなに簡単に女性性と男性性をひとりの人間が身に付けられると考えにくいし、もっと深い意味が隠されているような気がするのは自分だけではない筈だ。ましてや、女性性と男性性を見事に取り入れて、それを発揮できている人間が極めて稀なのである。

 つまり、女性性と男性性の統合の重要性を、真に理解している人は極めて少ないし、その価値を過小に評価しているのではなかろうか。だから、女性性と男性性の統合に、真剣に取り組んでいる人が少ないし、実現している人はほんの一握りしかいないのだ。女性性と男性性の統合とは、単なる能力の取り入れと発揮ではない。その統合により、人間としての新たな大きな価値を創造することなのである。男性性までも取り込もうと努力している女性は多いが、女性性をも身に付けたいと切に願う男性は極めて少ないのである。

 脳科学的に考察すると男性性と女性性の働きが理解しやすいかもしれない。平和と幸福、豊かな関係性と共感性を司る脳内ホルモンとして、セロトニンがあげられる。セロトニン神経は、組織内の人間関係を円滑にして協力体制や支援体制を築き上げるには必要不可欠なものである。一方、報酬系のホルモンであるドーパミンは、成果達成や子孫繁栄、組織統括管理や成長意欲にとって必要不可欠なものである。このドーパミンホルモンとセロトニンホルモンは、人間が生き生きと自分らしく人生を全うするには、共に必要なものなのである。

 セロトニンとドーパミンをバランスよく分泌させて、それを生活により良く生かしていくことが、人間として生きて行く為には必要であり、それがワークライフバランスにも繋がることである。このワークライフバランスこそが、真の男女共生の理想の姿であり、家族と言うひとつのシステムが良好に機能する大切な統合である。そうすると、この女性性と男性性の統合により、オキシトシンホルモンが十分に分泌されて、不安や恐怖感を払拭して、安心で楽しい社会が形成されるのである。これが統合による新たな価値の創造と言えよう。

※次回は、女性性と男性性の統合についてもう少し深堀りして、どうすれば実現できるのかについて考察してみます。

女の幸せという呪文から解き放て

 男性から、または両親や親族から、女の幸せを求めなさいと説き伏せられることが多くないだろうか。女の幸せを求めることが、世の中の共通価値観だと、小さい頃から思い込まされてきたに違いない。男の幸せを求めなさいと諭されることはないのに、どうして女の幸せだけを追求せよと指示されるのか、とても不思議である。女の幸せという言葉は、いつの間にか当たり前のように私たちの心を支配してしまっている。だから、女の幸せを求めようとしない女性は、社会からは落伍者のような扱いをされるのだ。

 ところで女の幸せというと、どのような生き方を思い浮かべるであろうか。まずは結婚して良妻賢母を全うすることがあげられよう。さらには、自分の欲望を満たす事や自己実現よりも、家庭を守り家族の幸福を実現することが最優先の生き方としてあげられる。つまり、男は外で働いて、女性は家庭を守るという生き方こそが、女性としての幸せだと、子どもたちに言い聞かせて育てたのではないだろうか。だから、息子も娘も女の幸せを実現しようという考え方を知らず知らずのうちに擦りこまれてしまったように思う。

 この女の幸せというワードは、至極当然であり誰もがこの生き方を求めるべきだという価値観を押し付ける。言わばマインドコントロールではないかと気付き始めた人も多いように感じる。だからこそ、社会的な価値観に縛られず、自分らしく生きたいと思う女性も増えて来たし、親からの古い価値観による支配を逃れようとする女性が現れたのではなかろうか。男女共同参画社会の実現を謳いながらも、まだまだ日本における男女の平等性は低いと言わざるを得ない。特に、家庭において果たす男女の役割分担については問題がある。

 家事育児の役割分担における男女の比率が、日本人という国民性もあるからと言えようが、女性の負担割合が極めて大き過ぎるという実態がある。そして、女性は仕事よりも家庭をなによりも大事にすべきだという価値観が、女性だけでなく男性をも支配するのである。だから、女の幸せとは家庭を守り子育てすることを最重要課題として全うし、旦那様の仕事と成功を支えることが女性としての幸福なんだと思い込まされてしまうのだ。男性もそれこそが女の幸せなんだと勘違いすることから、女性の不幸が始まるのだ。

 日本人の多くがというよりも殆どが女の幸せという言葉に違和感を持たないであろう。それが日本人の殆どが持つジェンダーにも繋がっている。そもそも女の幸せなんていう言葉そのものが、女性を家庭に縛り付けるためのプロパガンダであると言えよう。女性の人権を侵害するばかりでなく、女性の社会における活躍を阻害させてしまう言葉を使うべきではないのである。この女の幸せという言葉に惑わされてしまい、本来の自分らしい生き方を諦めてしまった才能ある女性が、どれ程いたかと思うと悔しい限りだ。

 女の幸せという概念を創り上げたのは、誰であろうか?それは、女性自身が創り上げたものではないだろう。女性を見下していて、家庭に縛り付けて夫にとって都合の良い妻であり母であり続けることを望んだ男性が、女の幸せという概念を創造したに違いない。なんと低劣な価値観であろうか。家事育児は女性が担当して、男性が仕事に専念しやすいように、または女性を社会に進出させないようにして、夫が妻を独占しようしたのではないかと思われる。妻は夫から一方的に所有・支配されてコントロールされる存在ではないのだ。

 女の幸せという概念を排除してしまったら、結婚しない女性が増えるし、出産しない女性が増えてしまい、少子化が一層進んでしまうと保守層は反対するに違いない。それはまったく的を射てない考え方だ。女性がもっと社会に進出して活躍して、仕事においても輝き出したとしたら、少子化は止まる。何故なら、人間本来の自分らしい生き方が出来るようになり、自分自身を愛せるようになった女性は、自分の分身をこの世に残したいと思うからだ。ましてや、積極的に家事育児を分担しようとして、社会で活躍する妻をサポートしようとする男性は、女性から見ても魅力的だから、この人の子孫を残したいと思うのである。女の幸せという呪文から解き放たれた社会を実現したいものだ。

自己組織化するならボランティア

 現代日本人に一番欠けているものは何か?と問われたらば、本当の智慧がある人ならば間違いなく自己組織化能力だと答えるであろう。自己組織化の能力とは、主体性、自主性、自発性、自己犠牲性、連帯性、進化性という、人間が人間らしく生きる為には必要不可欠な能力の事である。あまりにも家庭教育と学校教育の両方において、干渉や介入を強く受けて育った影響もあり、現代人にはこの自己組織化能力があまり身に付いていないのである。だから、自分で判断し決断し自ら行動し、リスクとコストを怖れずチャレンジするのがとても苦手なのだ。

 自己組織化の働きが育つ為には、まずは無条件の愛である母性愛をたっぷりとこれでもかと注いでから、条件付きの愛である父性愛を注ぐことが肝要である。乳幼児期に、子どもをあるがままにまるごと愛して、たっぷりと依存させることが大事である。依存させることは悪いことだと思いがちだが、そんなことはない。依存が中途半端だから自立出来ないのだ。安心して依存して、依存して、依存し切ってしまえば、子どもは不安なく自立出来るのである。こうして育った子どもは、自然と自己組織化の能力が発達するのである。

 さて、子どもが大きくなっても自己組織化能力が発達せずに育ち、自立が出来ずに困っているという親に相談をよく受ける。こういうケースは、対応が非常に難しい。乳幼児期の子育てからやり直しが出来るならいいのだが、現実的には不可能だと言ってもよい。となれば、本人がどうにかするしかない。しかし、本人の努力だけではどうしようもない。企業や団体の中で働いているだけでは、自己組織化が起きにくい。組織の中で働く際は、逆に自己組織化を阻害されるような事が起きやすい。当事者意識を喪失してしまうのだ。

 ましてや、自己組織化の能力が育っていない社員・職員に対する上司や同僚からの風当たりは強い。低い評価ばかりではなく、批判や否定をされることも少なくない。「お前、使えねえ奴だなあ」と面と向かって言われることがあるかもしれない。日々ルーチン作業だけをしているなら、気付かれないかもしれないが、対面サービス業や対応力を必要とする業務においては、辛く当たられることもあろう。そうすると、自己否定感も強くなるし、自己組織化能力が高くなるどころか、逆に低くなるのも当然である。

 自己組織化能力が低い人は、家庭においても家事育児の能力が極めて低いので、批判されることが多いし、信頼されず無用の人だと疎外されてしまう事が少なくない。パートナーにも恵まれず、孤独感を味わうことになる。そもそも、自己組織化能力が育っていないと、恋人を自ら作ろうと努力しないし、異性から相手にされない。こういう状況になってしまうと、自己組織化能力が自ら育てるとは不可能かというと、けっしてそうではない。自己組織化能力や当事者能力が、大人になってから身に付くというケースは、まったくない訳ではない。

 どのような努力や研修・修練をすれば、自己組織化能力が育つのかと言うと、社会貢献活動にせっせと勤しむことである。何故、社会貢献活動が自己組織化能力を高めてくれるのかと言うと、ボランティアの4原則と呼ばれるその特徴にある。ボランティアをした経験があるなら、ボランティア活動をする場合に守るべき4原則を知っていよう。➀主体性、自主性、自発性➁連帯性、関係性➂無償性、自己責任性➃発展性、進化性、革新性という4つが、ボランティアの4原則である。つまり、自己組織化とはこの4原則そのものなのである。

 自己組織化とはそもそも分子生物学や量子物理学の研究であきらかにされてきた概念である。人体の細胞やそれぞれの組織に、自己組織化する働きがあることも判明している。だとすれば、人間にはそもそも自己組織化する働きが生まれつき備わっていると結論付けられる。つまり、人間は自己組織化することが定められていて、ボランティア活動的な行動をするのが当たり前だということだ。人間が人間らしく生きる為には、ボランティア活動をすることで、本来の自己組織化能力を手に入れるだけでなく、益々高められるということなのだ。老若男女問わず、誰もが社会貢献活動に邁進してくれることを願う。

親を人生の目標にしてはならない訳

 前回のブログにおいて、親を尊敬するのは構わないが人生の目標とすることは正しくないと主張させてもらった。その訳について、下記に詳しく述べたい。人間が発達していく段階において、自我の目覚めとその後に自我を克服し乗り越えて、自我と自己の統合としての自己の確立をするという発達形態を取ることは広く知られている。この自我を乗り越える際に、親との関係が特に重要である。思春期における第二反抗期として、正常な自我が発達しているならば、通常は親に大いなる反発を覚えるのである。

 親が自分に対して強く介入したり干渉したりすることを、極めて強く嫌う。自分が進むべき進路は自分自身が判断して決断し、自分で切り拓いて行く年代である。親がこの学校に進むべきだと強く推したり、こういう職業に就くことを願っているなどと言ったりするものなら、反発して逆の道を歩みたくなろう。それでも、何となく親が進める進学や就職に落ち着くのであろうが、親の言うとおりに進路を決めるのは嫌なものである。何故かと言うと、人間には生まれつき自己組織化する働きがあるから、主体的に物事を決めたいのである。

 そんな思春期というのは、エディプスコンプレックスやエレクトラコンプレックスを抱きやすい年代でもある。このエディプスコンプレックスやエレクトラコンプレックスを適切に乗り越えて行けないと、やがて青年期になってから愛着障害などを起こしやすく、恋愛における困った問題を引き起こしかねない。あまりにも偉大で完璧な父親や母親であり、到底乗り越えられない強大な存在であると、これらのコンプレックスは超越出来なくなってしまうのである。だからこそ、父親と母親は、人生の目標にしてはならないのだ。

 今までイスキアの活動をしていて、強くて偉大で何もかも完璧にこなしてしまうような親を持つ子どもは、このエディプスコンプレックスやエレクトラコンプレックスを強く抱いてしまい、愛着障害で苦しむ姿を見てきた。エディプスコンプレックスやエレクトラコンプレックスから、同性の親に対する敵意から殺意までも持ってしまうことがある。同性の親を嫌って、息子は父を娘は母を憎しみ、殺してしまう夢まで見る。それは、ある意味自分の嫌いな自我を相手に見出すせいもある。その自我を仮面で隠して、良い人を演じている親が許せないのだ。

 自分の中に存在する恥ずかしくて卑劣であまりにも愚かな自己を、親の心の裡に発見することで、親を一時的には憎しみこの世から抹消したいと思うのだ。しかし、人間らしくて愚かで時に弱い人間性を垣間見せる親を発見することで、これなら親を乗り越えられると安心して、自我と自己の統合を実現して、自分のマイナスの自己も受け容れられて愛することが出来るようになるのだ。ところが、自我(エゴ)の欠片も感じさせないような立派で完璧な親を演じ切ってしまうと、子どもは親を乗り越えられないばかりか親との同一性を持てなくなるのである。

 医師、法律家、大企業の経営者、大学教授、キャリア官僚、政治家の子どもたちが、親を乗り越えることを諦めて、挫折したり愛着障害を持ったりするケースを、イスキアの活動でいくつも経験してきた。傑出した実績や経歴を持つ親の子どもがすべてそうなる訳ではない。あまりにも厚くて頑丈な仮面(ペルソナ)を被って、けっして闇の部分(シャドウ)を子どもと世間に見せない親であると、子どもが心理的な問題を抱えるのである。だからこそ、人生の目標となる親を演じてはならないのである。

 子どもの立場から見ると、親は乗り越えるものであり、超越が難しい人生の目標にしてはならない理由がここにある。だから、親は子どもの前であまりにも良い人を完璧に演じ切ってはならないのである。時には人間臭くて、情けなくて詰まらない人格や人間性を、子どもに見せなくてはならないのである。インナーチャイルドを心から楽しんでいる姿を、時には見せてあげることで、子どもは気付き学ぶのだ。たまにはペルソナを脱ぎ捨てて、インナーチャイルド全開で人生を謳歌する姿を、子どもに見せることが出来たなら、子どももまた安心してペルソナを外して、自分らしく生きることが出来よう。

人生の目標とする人がいない不幸

 あなたが心底から尊敬していて、自分もあんな人のようになりたいと目指す存在はありますか?と聞かれたら、即座に特定の人物を上げることが出来るだろうか。勿論、人生の師として敬う人物であり、芸人、スター、タレント、スポーツ選手ではない。あくまでも、社会に素晴らしい足跡や実績を残した人物であり、その生き方そのものが尊敬に値するような存在であり、自分も同じような生き方をしたいと強く願うような憧れでもある。残念ながら、多くの人々はそんな人生の目標とする存在を持っていないのではなかろうか。

 私が人生の目標とするのは、ご存じのとおり森のイスキア佐藤初女さんである。佐藤初女さんをリスペクトとして、同じような活動をしてきた。勿論、初女さんの足元にも及ばないが、同じように多くの悩める人の役に立ちたいと実践してきたつもりである。人間という生き物は、誰かの模倣をしながらどう生きればいいのかを学ぶ。野生の動物も、親が見本を見せて生きる術を身に付けて生きていけるのである。乳幼児期は、親の模倣をして生きる。思春期を迎える頃になると、逆に親に反発をして、親の生き方に反する生き方を志す。

 それだからこそ、青年期に入る頃からは人生の師と言える目標とする人物を持つ必要があるのだ。人生における目指すモデルがないと、目標を見失ってしまい無為に生きるようになってしまうのである。現代の若者たちは、人生の目標がいないのではないかと思えて仕方ない。若者だけではない。中高年の人たちも、そして老人たちも人生の目標を持っているとは思えない。特に仕事をリタイアした人たちは、人生の師を持ち得ないケースが多いに違いない。老後を趣味やスポーツなど好きなことだけをして過ごすのは、実にもったいない。

 それでは、どんな人物を人生の師や目標とする人物にすればいいのかというと、その素晴らしい実績とか足跡だけに注目してはならない。結果だけを尊敬するのではなくて、そのように至ったプロセスが何よりも大切であるし、その実践の元になったその人の価値観や思想・哲学こそがリスペクトされる対象であるべきだと思う。ともすると、我々はその尊敬する人物の実績に目を奪われてしまい、その人物の生きる目的や生きる姿勢をついつい忘れがちである。どんな実績を残したかよりも、どう生きたかが大事だとつくづく思う。

 一昔前までは、身近なところにそんな人物がいたものである。例えば、会社の上司や社長とか、学校の恩師、郷土の政治家や経済人で、尊敬すべき人物がいたものである。目標とすべき尊敬する人物が、父親とか母親という人間もたまにいるが、それはどうかと思う。尊敬するのはあり得るが、人生の目標とする人物としては好ましくない。その理由は、次回のブログで詳説するので、今回は割愛したい。昔は身近な存在に、人生の目標にすべき傑出した人物がいたものである。特に、政界よりも経済界に多く輩出していたように思われる。

 松下電器を創業した松下幸之助氏。本田技研工業の創業者本田宗一郎氏。ソニーの創業者井深正氏と盛田昭夫氏。少し遡って日本経済界の父と呼ばれる渋沢栄一氏。皆の実績も素晴らしいが、それを実現させたのは彼らが共通して持つ崇高な価値観である。私益よりも公益を優先させた企業経営は、まさしく社会的企業(ソーシアルビジネス)としての理念を持っていた。だからこそ、彼らに仕えた部下たちもまた、高い思想と経営哲学を持っていた。目の前に圧倒される素晴らしい人格と人間性を持った人物がいたとしたら、人生の目標とせざるを得ないであろう。

 現代の企業家や経営幹部には、傑出した英雄はもはや存在しない。公益よりも会社の私益を最優先にするだけでなく、私利私欲にまみれていて利他の精神なんてまるっきりないに等しい役員と上司だけである。行動規範が利害や損得になっている、低劣な価値観しか持ち得ていないような会社の上司をどうして尊敬出来ようか。人間として尊敬して人生の目標として憧れるのは、崇高な価値観を持った人物でしかないのだ。人生の目標とするような先輩が誰一人いない会社で、どうやって頑張ることができようか。実に不幸な会社人生である。

起きた原因を探るのでなく意味を考える

 近代教育を受けた我々は、自分の身の上に起きたことに対して、どうしても起きた原因や背景を明らかにしようとする傾向がある。それはそれとして正しいやり方ではある。しかしながら、原因とかそのバックグラウンドを探ろうという気持ちが強く出過ぎてしまうと、原因探しや犯人捜しにやっきになり過ぎてしまい、問題の本質を見失ってしまうことになる。ましてや、要素還元主義で問題を分析する手法が身についていると、問題を細分化し過ぎてしまい、問題の全体像を見失うのでその本質が見えなくなることにもなる。

 まさに、木を見て森を見ずというような状態に陥る危険性があるということである。リスクはそれだけではない。原因探しや犯人捜しをするということは、自分を顧みずに外因のせいだと思いがちになり、自分が成長したり進化したりするチャンスを見逃してしまうのである。何か自分にとって不都合なことや辛いことが起きるというのは、誰かのせいで起きたのではない。それは、自分が何か大切なことを気付いたり学んだりして、進化を遂げるために自分自身で引き寄せたのだ。起きた原因を追究せず、意味を考えるべきである。

 とは言いながら、人間はどうしても客観的合理性的思考をしてしまうので、第三者として起きた問題を俯瞰してしまう傾向がある。学校教育では、徹底して科学的合理性の追求をする方法を教える。自分の目で見ないで、他人の目で俯瞰的に観察しなさいと教える。ましてや、要素還元主義を徹底して教え込むのであるから、問題を客観的に細分化して分析する手法を取ってしまうのは当然だ。そうすると、自分を見失うだけでなく、他人の目で自分を観察するというとんでもない思考癖をしてしまうのである。

 確かに、自分を客観的に見ると言うことも必要である。しかしながら、それだけではなくて、自分の目で自分を主観的に眺めることも大切なのである。そうしないと、自分に深刻な問題が起きても、よそ事として捉えてしまい、それは自分のせいではなくて、誰かのせいで起きたことだから仕方ないと、問題から逃げてしまうのである。いつも問題から逃避したり回避したりしていると、何度も同じような問題が起き続けて、しまいにはどうしようもない問題が起きてしまい、取り返しのつかない事態になってしまうのだ。

 前にも記した通り、自分の周りに起きるすべての不都合な出来事は、自分自身が引き寄せたり敢えて起こしたりしていることなのである。自分が大切な何かを気付いたり学んだりする必要があって、無意識の自分が起こしていることなのである。まずは自分自身を振り返り、自分自身の何に問題があって不都合な出来後事が起きたのかを洞察すべきである。特に、自分の思想や哲学に問題がないのかを、自分自身に問うべきである。自分の価値観は、正しい宇宙の真理や法則に沿ったものであるのかを確認しなくてはならない。

 我々の生きているこの社会や宇宙全体に共通している、正しい真理が存在している。その正しい法理法則に基づいて、この世界は形成されている。その正しい法理法則というのは、古来より著名な哲学者・神学者・社会科学者が追求してきた真理でもある。時には、物理学者・生物学者・宇宙科学者・脳科学者さえもこの正しくて高邁な哲学を探し続けてきたのである。そして、量子物理学によってこの真理が正しいものだと証明されようとしているのである。それは、全体最適と関係性こそがこの世を形成しているという事実だ。

 我々の周りに起きる不都合な出来事というのは、この全体最適と関係性を無視した言動によって自分自身によって引き起こしているのである。あまりにも関係性をないがしろにして個別最適を求めたから、辛くて悲しい出来事が起きているのである。病気や事故も同様な理由から起きているのである。だから、不都合な出来事は、その間違いを気付けるように、自分自身が起こしているのである。すべて意味があって、自分が起こしたことなのだ。だからこそ、何か不都合なことが起きた際には、原因を追求するのではなくて、それが起きた意味を考えて、どのように生きるのかを問い直すべきなのである。

※イスキアの郷しらかわでは、この全体最適と関係生の哲学である『システム思考の哲学』を学ぶ研修会を開催しています。そして、この正しい哲学を身に付けるために最低限の自己革新である『自己マスタリー』や『メンタルモデル』の学びをするお手伝いもさせてもらっています。さらには、ビジネスにおける必要最低限の知識『イノベーション』『創造的リーダーシップ』『デザイン思考』も学べます。興味を持たれた方は、お問い合わせください。日帰りでの研修も開催しますし、出張研修もいたします。

子どもに是非見せたいアニメ『働く細胞』

 TV東京系列で放映されて、その後NHKのEテレでも放映されている『働く細胞』というアニメをご覧なったことがあるだろうか。コミック連載当初より人気があり、単行本になっても人気が衰えず、テレビでもアニメ化されて放映されたらしい。子どもたちにも人気があるのは当然だが、大人が鑑賞しても面白いし為になる内容である。子どもたちは、このアニメに引き込まれるみたいである。孫たちもこのアニメが大好きで、録画して何度も鑑賞して喜んでいる。どうして、このアニメは子どもたちに人気になっているのであろうか?

 このアニメが人気になっている理由は、しっかりした科学的根拠に基づいた内容になっているし、人間の根源的な機能である自己組織化を描いているからであろう。どういうことかというと、人体というネットワークシステムには、自己組織化と呼ぶ人間本来の機能が備わっている。自己組織化というのは、主体性、自主性、自発性、自己犠牲性、自己成長性、自己進化性、連帯性という、人体が本来持っている機能のことである。この自己組織化が機能しなくなると、人体は病気になるし老化や劣化が進んでしまう、大切な機能である。

 少し前の人体生理学においては、すべての細胞は脳や神経系統からの指示によって働いていると考えられていた。つまり、それぞれの細胞は勝手に機能しているのではなく、何らかの指示命令系統によって、上手く作用しているものだと考えられていた。ところが、人体生理学や分子生物学の研究が進んだことにより、まったく違った作用機序になっていることが判明したのである。すべての細胞は、それぞれが自ら自己組織化していて、誰にも指示されることなく、全体最適の為に自らが機能しているということが解ったのである。

 その事実を、『働く細胞』というアニメは、自ら自己組織化している細胞の姿を、見事に描き切っているのである。主人公である擬人化した赤血球細胞とそれを助ける白血球細胞が、人体という全体が健康で正常に機能する為に、時には自己犠牲を払うのを厭わずに、献身的に働く姿を描いている。このアニメは、すごい人気が出ていることから、永野芽郁と佐藤健の共演で、実写映画化までされるという。子どもたちが自己組織化という概念を理解しているとは到底思えないが、本能的に自己組織化したいと望んでいるのではなかろうか。

 細胞も含めて、全体を組織しているすべての構成要素は、自己組織化する働きを持っている。この自己組織化の機能が正常働くためには、良好な関係性を保持しているということが絶対必要条件である。働く細胞というアニメでは、細胞どうしの良好な関係性が大事だと訴えている。関係性&ネットワークが劣化してしまうと、人体が破綻してしまうということも描写されている。人体もそうなのだが、人間社会でも関係性が劣化してしまうと、全体最適の機能が働かなくなってしまう。働く細胞は、そのことも暗示しているのである。

 子どもというのは、哲学的な物語が大好きである。人は何故生きるのか、何のために生まれてきたのかを問う話に引き込まれる。人間は生まれつき哲学的な話に憧れるものだ。特に純真な子どもは、人間のあるべき姿を無意識で追い求めているのである。それが大人になるにつれて、純真さを失うと共に本来の生きるべき道をも失ってしまう。全体最適を目指して生きることを忘れてしまい、個別最適(自分最適)を目指すようになる。子どもは、働く細胞のような全体最適の話や関係性重視の思想に憧れるのである。

 働く細胞というアニメを、子どもたちが大好きになるのは、自己組織化や全体最適を説いているからだ。鬼滅の刃というアニメに純真な子どもたちが熱狂するのも、同じ理由からである。アニメ働く細胞を好む大人もまた、全体最適や関係性重視の価値観を持っているのであり、自己組織化の機能を発揮している人間である。子どもたちが健全なる正しい価値観を持って成長する為にも、アニメ『働く細胞』を是非鑑賞させたいものだ。そして、大人も一緒に観ながら自己組織化の機能を発揮することの大切さを共有したいものである。実写映画化された『働く細胞』が公開されたら、孫と一緒に見に行こうと思う。

企業の不正や不祥事がなくならない背景

 ダイハツ工業における不正な認証試験が、34年間も実施されていたという前代未聞の事件の報道には驚いた。ダイハツ工業は、トヨタ、スバル、マツダ各車両のOEM生産も行っていることから、自動車業界全体にも影響が広まった。そして、今度はトヨタ自動車も同じような不正をしていたことが明らかになったという。自動車製造企業全体の体質が問われる事態にもなっている。大量のリコールをどう実施するのか、ディーラーも困惑している。また、新車販売が出来なくなり、購入予約しても納車がされない事態にもなっている。

 事故発生時における車体の強度が公的に証明されないのだから、生命に関わる重大事である。国による認証制度が有名無実になる事態であるから、安全担保を根本から覆すことになる。安心して車を運転できない事態に陥らせた、偽装できる認証制度を創った国土交通省の責任も大きい。それにしても、国の許認可基準を無視した企業の不正事件が過去にいくつもあった。三菱自動車リコール隠し、日野自動車排ガス偽装、神戸製鋼検査データ改竄、東洋ゴム免震偽造、そして紅麹サプリの小林製薬など著名企業による不正事件の枚挙に暇がない。

 こんなにも何度も企業の不正事件が起きているのだから、国の認証制度にかかる法律や規則が、ザル法であるのは間違いない。企業経営者なり管理者が、法律を遵守する『善人』であるという前提の基に作られた法律である。人間の本質というものをまったく理解していないと言えよう。このような不正が次から次へと明らかになると、企業経営者たちはリスク管理の在り方を見直すとか、コンプライアンスの重視という方策を取ることが大事だと思う事であろう。さらに厳しい品質管理を徹底させようと、社員に激を飛ばす事であろう。

 しかし残念ながら、このような社内の品質管理の在り方を根本的に見直して、より厳しい管理体制を築いたとしても、社内の不祥事はなくなることはないと断言できる。何故なら、それは社員を信頼していないからである。社員を信頼できないからと、品質管理のための社内ルールをいくら厳しくしたとしても、誤魔化そうとする社員の抜け穴はいくらでも存在する。信頼されていない子どもは、親を騙す。同じように、社員を信頼しない企業は、社員に裏切られる。絶対的な信頼を寄せられたら、人間は裏切ることが出来ないのだ。

 企業の経営者や幹部というのは、自分も誤魔化した体験を持つから、社員も同じように不正を働くのではないかと疑心暗鬼になる。だから、誤魔化せないように厳しいルールを作るのである。規則やペナルティーを厳しくして、社員を縛るしかないと思うのであろう。これは、社員の心を惑わせる。どうせ自分は疑われているのだからと、不正を働くことに自制心が働かなくなる。ましてや、人間は自己組織化する働きを持っているのに、逆にその主体性・自発性・自制心・責任性を奪ってしまうのである。

 ましてや、企業経営者・幹部・社員すべてに、正しい経営哲学がないのである。企業が収益を上げる為には、法律や規則を無視したり拡大解釈したりしても良いのだという価値観が浸透してしまっている。現代の企業には、社会や市民の利益や幸福の実現に貢献する為に存在するのだという、根本的理念が欠落しているのである。つまり、ソーシアルビジネスという観点がまったく無くなっているのである。その証拠に、企業経営者や幹部には形而上学的思考をする者は存在しなくなったのである。

 本田宗一郎が経営していた時の本田技研工業、盛田昭夫や井深大が経営していたソニー、松下幸之助が経営していた際の松下電器産業のそれぞれの社員たちは、経営哲学の話を盛んにしていたという。何のために会社を経営するのか、自分たちは何のために生きるのか、そんな話をするのが大好きな社員が沢山いたと言われている。だから、社員たちにはソーシアルビジネスの理念が自然と身に付いていたのである。現代企業の社員たちには、利益至上主義、企業価値向上至上主義しか存在しないのである。だから、不正や不祥事がなくならないのである。原点に戻って、形而上学の学び直しをしないと、不正はなくならないであろう。