老害はすさまじきものである。現代日本におけるすさまじいという形容詞とは意味が違う。平安時代に使われていた意味であり、現代訳すれば、不似合いなもの、興ざめするもの、出来ればあっては欲しくないし見たくはないもの、という意味であろう。著名な随筆である枕草子の中で、清少納言が書いたすさまじきものというのがある。まさしく、老害というのはすさまじきものと言えよう。最近、ある全国ネットの某テレビ会社での老害が話題になっているが、これこそがすさまじき老害の典型と言えるのではなかろうか。
このテレビ会社では、87歳にもなった取締役相談役が、今もなお絶大な権力を保持していると言われている。何故、一人の取締役相談役がそんなにも強大な権限を有しているのか不思議である。代表権を持つ社長や会長もいて、取締役会だって開催しているし、表面的には株式会社として機能しているかのように思える。しかし、相談役はかつての天皇家が院政を敷いたように、今でも会社の人事権を持っていて、他の取締役は逆らえないというのである。なにしろ、30年余りに渡りそのテレビ会社を絶大なる権限で掌握しているというのだ。
87歳になった今でも、かくしゃくとしているといえども、こんな高齢で会社の重要決定と進路を決めているというのならば、空恐ろしいことである。個人差のあることだから一概には言えないが、人生70歳を越えれば記憶力や判断力、そして決断力が衰えるものだ。ましてや80歳を過ぎたら、益々能力は低下する。いくら若い時から能力は低下していないと強弁したとしても、加齢による影響は大きい。故に、定年制がある。取締役には定年がない。だからこそ、高齢になった役員は自らの進退を決めるべきなのである。
政界もまた、老害がはびこっている。高齢の元総理とか派閥の領袖が影のキングメーカーとして君臨している。一国の政治を担うトップが、老害のすさまじき政治家によって作り出されているとしたら、国の行く末も危ういと言える。高齢者が働いてはならないとは思わない。ひとりの技術者や労務提供者、または助言者や技術指導者としての任務なら、まったく問題はないだろう。しかし、管理者やトップ経営者は避けるべきである。高齢になると、どうしても謙虚さを失うし、柔軟性や発想力は著しく衰える。瞬発力は消滅する。
高齢者は、おしなべて頑固である。固定観念や既成概念に縛られる傾向にある。どんなに説得されたとしても、けっして自説を曲げないし自分が正しいと言い張る。自分の非を認めず、問題が起きたのは他人のせいにしたがる。今回の某テレビ会社の相談役も、あれだけ騒がれて自分のせいで有名企業各社がCM見合わせをして会社が大打撃を受けているのに、辞めようとしないのは呆れるばかりだ。持ち株会社の大株主から辞任を突きつけられても、平気で居座るというのは、空恐ろしささえ感じる。他の取締役に、矜持は存在しないのか。
このテレビ会社の相談役、そして政治家や企業経営者たるもの、所属している組織や国民に対して、老害を与えてはならない。自分の引き際こそ、大事だ。後進が育つまでは自分が引退することが出来ないと主張する高齢者がいる。確かに、すべてを任せるには心配なケースもあろう。しかし、自分と同じレベルまで後進が育つのを待ってから引退するのでは、一生辞めることができない。何故ならば、任せられないと育つことが出来ない部分があるからだ。すべての責任を持つという立場にならないと、人間は成長できないのである。
人間には、自己組織化(内発的動機等)が生まれつき備わっている。誰でも、この自己組織化を自分の力だけで成し遂げられるのかというと、そうではない。いろんな人生の師や所属組織、そして関わり合う人々によって、育てられる点がある。ましてや、責任性や自己犠牲性というものは、責任ある代表管理者という立場にならないと、身に付かないと言える。そして、老害になってしまうような高齢者の立場になると、その心地よい地位にしがみつき保身に走り、責任性や自己犠牲性を発揮しなくなるのである。だからこそ、自らの判断で老害を食い止めなくてはならないのだ。すさまじき人だと後ろ指さされないように。