科学的根拠派VSスピ系

SNS上での様々なやり取りが実に面白い。何故かと言うと、あくまでも科学的な根拠、いわゆるエビデンスに基づいたものじゃないと真実ではないとするグループと、スピ系のグループがバトルを繰り広げているからである。勿論、双方共に大人だから、名指しをするとか面と向かって非難をするということはしないようだが、SNSの記事やブログを観察していると、明らかにあの人の記事に対する反論なんだなと確信できる。どちらかというと、科学的検証のグループのほうが、スピ系の記事に対してエビデンスがないと攻撃をするという図式が多いみたいである。

スピ系の方々の記事は、エビデンスらしきものはあるものの、科学的に明らかに正しいと言う根拠を示すことは難しい。どちらかというと、観念的・直観的な理論を展開している。なるほど、そういうこともあるだろうなとは想像できるし、実際に効果を上げているケースも少なくない。霊的な啓示、スピ系占い、アーユルヴェーダやホメオパシーなどの代替医療、レイキ、アロマテラピー、カラーセラピーなどをすべてスピ系として嫌悪感を示す人も少なくない。こういうスピ系の女子が多いせいか、教養と学歴が高くてエビデンスにこだわる男性や理系女子が攻撃するケースが多いようである。

確かに、科学的根拠派からエビデンスを示せと言われると、現代の科学では完全に正しいという論証を示せないのも事実である。ましてや、医学界や薬学会ではスピ系の蔓延に対して苦々しく思っていることもあり、その反証としてのエビデンスを、アカデミーの総力を挙げて研究し続けている。かたや、スピ系はそもそも科学的な検証を求めてはおらず、自分の直観や霊示を信じて行動しているのだから、エビデンスに対する反論が出来ない。しかし、実際に大きな効果は上げていることもある。しかし、間違ったスピ系のやり方によって悲惨な結果になる場合も少なくないから、それをあげつらって科学的根拠派は攻撃するのである。

科学的根拠派は、スピ系や代替医療の上げている効果や成果は、あくまでも偽薬効果(プラシーボ)でしかないと言い切っている。特にスピ系や代替医療に対する攻撃は、アカデミーの威信をかけた闘いの様相を示している。面白いのは、どちらの立場であったとしても、相手の反論や反証を認めない点である。これも、実に大人気ないことであるし、最初から相手の理論が間違っているという立場に固執しているのは、滑稽でもある。科学の研究者というのは、自分の仮説や想像を科学的に正しいかどうかを実験等により証明する形を取っている。こうして、学会で素晴らしい研究成果を上げてきた。

ところが、自分の仮説が正しい筈だという思い込みが強過ぎてしまうと、正しいと証明する証拠集めに奔走してしまい、反証に対する研究が疎かになる。ましてや、あまりも成果を求めるあまり、実験結果のねつ造も起きてしまっている。だから、科学者たる者は自分の考えや理論に対して、もしかして間違っているのかもしれないという謙虚さを忘れてはならないのである。ましてや、天動説がガリレオガリレイによって覆された実例や、ニュートン力学が量子力学で否定された歴史があるのだ。科学者たるもの、または科学的根拠を主論調にする者は、現代の科学では証明されないが、将来は真実だとされるかもしれないという観点を忘れてはならないであろう。

実際に、2500年以上も前にブッダは、この世の万物に実体はなく、人間の意識で実体があると思えば在るし、ないと思えばないと唱えた。こんなことは、完全なまやかしであり、科学的な根拠を示すことは到底出来ないと思っていたのである。ところが、量子力学の素粒子研究と実験によって、完全な真実だと判明したのである。ということは、スピ系や代替医療で主張していることは、科学的根拠がないのであるからすべて誤りであると主張するのは、乱暴な事ではないだろうか。科学的根拠がないのだから、こんな迷信じみたことは信じてはいけないとSNSで発信・攻撃するのは、傲慢ではないかと思うのである。

という自分も、科学的根拠のある真実しかSNSとかブログでは発信しないように心がけている。何故なら、多くの人々に対して心の豊かさや幸福を実感してもらう活動をする為には、ちょっとしたことで反論されて信頼を失くしてしまうことを怖れているからである。たまには、まだ科学的根拠に乏しいこともブログにアップすることもあるが、これは近い将来には科学的根拠が得られるという確信に基づいているからである。科学的根拠派の人たちは、スピ系の人たちの理論がすべて間違いだと攻撃するだけでなく、もしかすると近い未来は真実だとするエビデンスが得られるかもしれないという謙虚さを忘れないでもらいたい。逆にスピ系の人たちは、エビデンスが得られるように努力を怠らないでもらいたいし、論理的証明を心掛けてほしい。将来は間違いなく、科学的根拠派とスピ系の人たちの主張が統合される時代が必ずやって来ると確信している。

 

量子力学的生き方をする

最近、量子力学的な生き方というのが注目を浴びているらしい。量子力学というと、物理学の最先端の科学である。それが何ゆえに生き方などという哲学になりえるのか、不思議に思う人も多いことであろう。本来、科学と哲学は相容れないものとして考えられている。科学と言うのは実証論であり、哲学は観念論だからだ。あくまでも、科学的な検証に基づいて現象を分析解明していくのが科学であり、論理的な手法によってあくまでも観念として構築されるのが哲学という考え方であろう。だから、科学者はおしなべて哲学には疎いということが言われてきたのである。

ところが、最近の科学者、とりわけ理論物理学者の間では、哲学が科学的にも正しいのではないかという考え方が支配的になってきているのである。特に量子力学を研究している科学者は、研究すればするほど哲学的な観念が科学的にも実証されつつあることに驚いているらしい。ノーベル賞を取るような欧米の最先端の物理学者は、特に仏教哲学に傾倒していると言われている。日本でも、科学と哲学を統合した『科学哲学』を研究テーマにしている科学者が出てきている。これらの研究は、日本ではまだまだ進んではいないものの、これからは間違いなく進むものと期待されている。

それでは、どうして量子力学の研究者は哲学、それも仏教哲学に注目しているのであろうか。量子力学とは、原子レベルにおける素粒子の研究をしている。物体の成り立ちや宇宙の成立を素粒子レベルで明らかにする研究をしている。宇宙における生命体も含めた物体は素粒子で出来ているのであるが、その素粒子のうち質量を持ち実体として存在しているのはほんの僅かしかなくて、99.99%以上は実体がないと言われている。この世の中に存在するすべての物体は、実体がないということが量子力学で解明されて、仏教哲学で主張しているこの世は『空』であるとする理論と同じなのである。

しかも、量子力学においては光というのは素粒子でもあり波というエネルギーだと判明しているが、二重スリット実験において人が見ているとその波動が変化するということが解ったのである。つまり、仏教哲学において、人間の意識によって実体があると思えばあり、ないと思えばないという理論が、量子力学によって証明されたのである。さらに、素粒子は関係性によって実体が存在するということも判明したが、仏教哲学では縁起律というもので明らかにしている。こんなにも量子力学と仏教哲学がリンクしているとは、実に不思議な事であるが、般若心経は量子力学的に見ても、科学的に真実だという事が解ったのである。

量子力学においては、我々の意識によってこの社会がどのようにも変容するのだから、喜びも苦しみもすべて自分の意識が引き起こしているということになる。だからこそ、我々の意識を清浄なるものにして、しかも全体の平和や豊かさを希求する意識に高めていかなければならないのである。自分や家族だけの豊かさや幸福を願うのでなく、量子力学に基づいた人類全体の最適化を目指す生き方が必要なのであろう。ノーベル賞を受賞した熱力学の権威イリヤ・プリゴジンは、宇宙の成り立ちや物体の生成と存在において、自己組織化という法則が存在していると説いている。自己組織化という概念は、全体最適化という考え方に近いと言ってもいいだろう。

最先端の医学研究によって、我々の人体もまた自己組織化の法則、つまりは全体最適のシステムによって保たれているということが解明された。そうすると、人体そのものが全体最適のシステムによって維持されているのだから、人間もまた社会で生きていくうえで、全体最適のシステムで行動すべきだということである。全体最適の生き方をしないと、大きなゆらぎが発生し、人体そのものが不健康に向かってしまうし、社会全体も不健康な存在になってしまうということである。平和が保たれず、争い事やテロ・戦争に満ちた世界になるということであろう。

だからこそ、我々人間は常に全体最適の量子力学的な生き方が求められると言っても過言ではない。量子力学においては、豊かな関係性があってこそ世界は成立しているし、我々の意識によってこの社会がどのようにも変化しているということを示している。とすれば、自分だけの豊かさや幸福を求める、言わば量子力学に反する個別最適の生き方こそが、この社会を駄目にしていると言えよう。大国のT大統領や原理主義に凝り固まったK指導者のように、自国の利益だけを追求するような考え方は、いずれ破たんを迎えるということになる。今こそ、量子力学の生き方である全体最適と関係性重視の価値観に添って生きようではないか。

 

見えない暴力に苦しむ妻

暴力事件が止まることがない相撲界であるが、暴力は困ったことに社会全般に蔓延している。学校教育現場にもあるし、企業内や行政組織内にも存在する。そして、家庭内にも暴力事案が起きているのである。この暴力という定義であるが、多くの人々は物理的な力を身体に加えたものと思っている。しかし、暴言やネグレクトなども立派な暴力であろう。パワハラ、セクハラ、モラハラなどのハラスメントは、もはや暴力として定義しても差し支えない筈である。心をいたく傷つけるのだから、被害者にとっては怖い暴力だと断言できる。

家庭内には、もっと恐ろしい見えない暴力が存在していることを認識している人は少ない。それは、夫から妻に対する卑怯で悲惨な暴力である。日常的にこの見えない暴力が妻を痛めつけている。妻とのコミュニケーションの中で繰り返される無言、無視、不機嫌な態度がそれである。そんなことが暴力とは言えないだろうと認識しているのは、夫ばかりではない。妻もまた、そんなことは暴力とは呼べないと思っているに違いない。始末に負えないことに、双方が暴力だと思っていないから、反省もせず毎日のように繰り返されるのである。だから、ボクシングにおけるボディブローのように、じわじわと妻の心を痛め続けるのである。

無言、無視、不機嫌な態度を夫がするのは、自分が悪いからだと妻は自らを責める。またもや、夫を怒らせてしまったのは自分の何がいけなかったのかと、自分を振り返り反省する。そして、自分さえ我慢すればすべてが上手く行くのだからと、例え夫が悪くても自分の言いたいことも心に仕舞い込むのである。女性というのは、微妙な表情やそぶりで相手の心を読むことができる。一方、男性はそういう感情の機微を推測できない鈍感な生き物である。だから、夫の微妙な目の動きや表情の変化を、妻は素早く敏感に感じ取り、機嫌を損なわないように努力する。ところが、妻の心が傷ついていることを感じ取れない夫は、益々見えない暴力を奮い続けることになる。

家庭内の日々のコミュニケーションを振り返ってみてほしい。妻は、お互いの気持ちを理解しようと、なるべく会話をしようと夫に話しかける。ところが夫は、男性脳を持っているから、女性脳とは違い一度に二つのことが出来ない。新聞を読んでいるとかTVを観ていると、妻との会話に集中できない。パソコンに集中していると、他のことが出来ないのが男性脳の特徴なのである。当然、妻の会話は殆ど聞いていないということが起きる。聞いていたとしても、上の空である。そうすると、ねえ聞いているの!と妻は怒る。夫は、黙ってしまい、不機嫌な態度を取る。これが、見えない暴力の一端である。

男性は、しばらく会話などしなくてもストレスは感じないし、問題なく生きられる。しかし、女性は社会性の高い生き物であるから、会話をしていないとストレスが高まるし、黙ったままの夫婦生活には耐えられない。夫が職場から帰宅するのを待ちかねていて、いろいろとその日の出来事や心配事について話したいのである。それを、無視、無言、不機嫌な態度で阻止されたら、妻には大変な暴力になってしまうのである。妻が病気になるのは、夫が原因だとして、『夫源病』と名付けられたが、目に見える暴力や暴言だけでなく、目に見えない悲惨な暴力の影響も大きいと言わざるを得ない。

男性と言うのは、非常に身勝手な生き物である。特に婚姻関係を結ぶと、妻は自分の所有物だと勘違いし、自分にとって都合のよい行動を妻に強いることが多い。それがかなわないと見るや、目に見える暴力や暴言によって、妻を支配しコントロールしようとする。さらに、陰湿な目に見えない暴力によってそれを強化する。特に独占欲の強い男性は、他の異性との接触や深い関係を嫌い、異性と同席する会合や懇親会に出さなくなるケースが多い。夫は、一人の人間としての妻の尊厳を、一切認めようとしないのである。

妻は、このような見えない暴力に屈してはならない。ましてや、夫がそういう態度を取るのは、自分が悪いからだと自らを責めてはならない。無言、無視、不機嫌な態度を取るほうが絶対的に悪いのであり、卑怯なのである。妻を心から愛するのであれば、夫はきちんとした言葉で説明すべきであろう。妻の言いたいこと訴えたいことを解ろうとする努力を惜しまず、妻の会話を真剣に傾聴し共感しなくてはならない。そして大事なのは、妻の気持ちになり切って会話することである。妻の悲しみを自分のことのように悲しみ、涙のひとつもこぼすくらいの態度を取ってほしい。そうすれば、見えない暴力を奮うこともなくなるに違いない。

 

※イスキアの郷しらかわでは、このような見えない暴力も含めて、夫からの暴力についての無料相談を受けています。または、このような暴力を未然に防ぐ対策の研修を承ります。遠慮なく「問い合わせフォーム」からご相談ください。

家では良い子を演じさせない子育て

若者が起こした凶悪事件の保護者にインタビューすると、こんな話を聞くことが多い。「こんな怖れ多い事件を起こすような悪い子じゃなかった。とても素直で良い子だったんですよ」と語る例が殆どである。また、家庭の周りに住んでいる住民も同じような感想を漏らす。特に同居する祖父母は、「本当に優しい孫で、こんな悪いことをするとは信じられない。何かの間違いじゃないのでしょうか」と孫を庇うことが多い。身内を過大に良い評価をしやすい傾向はあるとしても、どうしてこんなギャップが生まれるのか、不思議だと思う人が多いと思われる。

学校で他の児童生徒をいじめるなどの問題行動をする子どもが、家庭ではまったくの良い子で、従順で素直な子どもであるケースもまた多い。学校では、陰湿でしかも陰に隠れて表舞台に立たず、裏で指図する悪質ないじめの首謀者の子どもは、家庭では良い子を演じていることが多い。だから、その悪質ないじめがばれて親が学校に呼ばれて、その事実を告げられると、どうしても信じられないと親は主張するらしい。このように、学校での行動と家庭における言動のギャップが見られるのである。

子育てというのは、非常に難しい。これが正解だというマニュアルは存在しない。それぞれの子どもの性格や人格も違うし、親もそれぞれ違っているから、育つ環境は違っている。日々いろんなことが起きるし、その場面場面で子どもに対してどのような言動をしていいか迷うことがしばしばある。自分でも、子育ての様々な場面でどんなにか迷い、苦悩したか解らない。育児というのは、この世の中で一番難しいことである。そして価値がある。だから、子育ては親を成長させる糧ともなるのである。

少しは身の回りの片づけをしたらいいんじゃないかと、珍しく当時小学生高学年だった三男の息子に苦言を呈したことがある。その言葉に対して、息子はこんなことを言い放った。「あのね、僕は学校ではすごく良い子で通っているんだよ。それは、家庭で無理して良い子を演じないでいるからだよ。家にいる時は、誰からの支配も受けず、無理な生き方をせずにのんびりと過ごしているから、外では良い子でいることが出来るんだよ。だから、そんなことを言わないでほっといてよ」それを聞いて、私たち夫婦はお互いの目を見て、苦笑いをするだけで、何も言い返せなかった。

我々夫婦は、お互いに子育てについて話し合っていた。育児とはどうあるべきか、子育ての方針はこうしようああしようと意見交換をしていた。子どもたちがいる食卓でも、育児について話し合っていたのである。そして、息子が言い放ったこの言葉は、まさしく自分たちが常日頃言っていたことである。聞いていないと思っていたのに、息子はしっかりと心に刻んでいたのである。そして、それを実践していたのである。確かに、どの先生たちからはすごく良い子だと言われ続けてきたし、先生の手助けを自分から進んでしてくれて、学級をまとめるリーターシップが取れると子どもだと誉められていた。

その息子が高校から進学する際、国公立の大学に推薦してもらえる成績がありながら、親が期待する道は歩まないと宣言し、敢えて自分の信じた道を進みたいと東京の私立大学を選んだ。我々は子どもたちに、こういう進路を進んでほしいと、高校や大学を押し付けたことは一度もないし、就職も自分で選ぶのをそっと見守るだけだった。上の二人は、親の経済状態を考えて地方の国公立大学を選んでくれた。三男は兄二人とは違う道を選びたいと、親の期待を見事に裏切ってくれたのである。精神的に完全に自立していたのだと思われる。主体性と自発性を常に発揮して、様々な苦難も自分で乗り越えている。

子どもは親の所有物ではないし、子どもを支配しコントロールしないことを子育ての基本に据えてきた。しかし、けっして放任主義ではない。人に迷惑を掛ける行為や、自分さえ良ければいいというような行動は慎まなければならないということは伝えてきた。さらには、子どもたちの弱いものに対する慈悲の心を育んできた。勿論、人の生きる意味や目的という価値観の教育もしてきた。言葉だけでなく、親の正しい生き方の後ろ姿も見せてきたつもりである。家庭であまりにも良い子を演じさせてしまうと、子どもが安心していられる居場所がなくなってしまう。だから、良い子であることを無理強いしたことはない。このような子育てを、子どもたちもまた孫たちに実践してくれると信じている。

 

※イスキアの郷しらかわでは、子育てに関する様々な悩みや心配なことに関する無料相談を承っています。発達障害やパーソナリティ障害のお子さんを育てていらっしゃる保護者の相談にも対応させてもらいます。問い合わせフォームからご相談ください。さらには、これから子育ての研修会や相談会も開催して参ります。是非、合わせてご活用ください。

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PTSDは自分で癒せる

PTSD(心的外傷後ストレス症候群)は、一度なってしまうとなかなか離脱することが出来ず、長い期間に渡り苦しめられると言われている。愛する家族を震災や大事故で失った際に起きやすく、ましてや自分が助けることが出来たのにも関わらず、助けられなかったというようなケースは重症化しやすいという。兵庫淡路島の大震災や東北大震災で家族や愛する人を亡くされた方で、PTSDになられた方が多かったのではないかと思われる。また、予想以上のあまりにも悲惨な出来事に遭遇してしまい、自分の生命が脅かされるような体験をしても、重症のPTSDになりやすいとも言われている。

また、PTSDになりやすいのは、犯罪被害者やその家族である。さらに、公共交通機関を利用している時に事故に遭ってケガをしたような場合もPTSDになりやすい。交通事故のもらい事故も同様である。何故かというと、自分にはまったく非がなくて、理不尽な原因で被害を受けたからであろう。自分にある程度責任や原因がある場合は、この失敗を二度と起こさないように注意すれば、事故再発は予防できる。しかし、不合理な原因や理不尽なことで被害者になるような事件事故は、自分の力では予防できない。したがって、また被害者になるのではないかという不安感や恐怖感はなかなか消し去ることができないのであろう。

ところで、PTSDになりやすい人となりにくい人がいる。同じような辛い体験をしたとしても、立ち直りが早い人といつまでもショックを引きずる人がいる。または同じように理不尽な目に遭って被害者になっても、まったく気にしない人もいれば、不安感と恐怖感がいつまでも消え去らず、PTSDになってしまう人もいる。これは何故かと言うと、おそらくは脳内ホルモン、つまり脳内神経伝達物質が分泌されている量の差ではないかと思われる。PTSDになりやすい人は、オキシトシンやセロトニンの分泌量が少なく、ノルアドレナリンの分泌がそもそも多い人ではないかと思われる。

この辺に、PTSDを和らげるヒントがありそうだ。つまり、オキシトシンとセロトニンの分泌量を増やし、ノルアドレナリンの分泌量を抑制すれば、不安感や恐怖感を払拭することが可能になり、PTSDを癒せるのではないかと思われる。セロトニンやオキシトシン、ノルアドレナリンなどの脳内ホルモンを正常に分泌するには、腸内環境整えるのが良いと言われている。腸内細菌の善玉菌が増えるような食生活が良いだろう。食物繊維の多い野菜や海藻を食べ、発酵食品を摂るのがよい。食品添加物の入った食品は避け、伝統的な和食を勧めたい。そうすれば、交感神経のバランスが取れるし、脳内ホルモンは正常になり、PTSDを和らげることに繋がる。

PTSDを自分で癒せる心理療法もある。それはマインドフルネスというコーピングである。抱え込んでいる心的外傷に心が支配されているから、いつも苦しんでいる。考えないようにすればするほど、そのトラウマが自分の心に重くのしかかる。だから、少しの時間でもいいから、この心的外傷を忘れることが出来たら、人間の脳は活性化する。しばしの時間であっても、トラウマの思考を停止させることで、自分でその解決に向かって進めるのである。言い換えると、自分の心をトラウマの記憶が支配する限り、他の有効な解決策を考えられないが、トラウマを一時的に手放すことが出来たら、冷静に判断できるようになるということである。その方法がマインドフルネス、つまりは他の思考で心をいっぱいに満たすことで、トラウマの記憶を停止させる方法なのである。

勿論、マインドフルネスでトラウマの記憶を完全に消し去ることは不可能だ。しかし、トラウマの記憶を右脳から左脳に移し替えることは可能である。マインドフルネスを実践して、冷静に自分を見つめることが出来て、トラウマの記憶を客観的に観察すると可能になる。トラウマの記憶が右脳にある時は、悲しい、苦しい、辛い、憎い、怒る、そういうマイナスの感情と共にある。だから冷静にしかも客観的に観察できないので苦しむ。ところが、何度もマインドフルネスをすることで、自分の記憶を右脳から左脳に移し替えられる。そうすると、トラウマの記憶に対する不安感や恐怖感も和らげられるのである。マインドフルネスだけでなく、適切なカウンセリングも同じように右脳から左脳に記憶の移し替えができる。ブログや日記を書くことでも可能だ。PTSDは自分でも癒すことが出来るということである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、PTSDを自分で癒す方法をレクチャーしています。食生活もそうですが、マインドフルネスの実践法、右脳から左脳へのトラウマ記憶の移し替え方法、不安感や恐怖感を捨て去る認知行動療法、様々な実践編をお伝えします。これは、ストレス解消法にも通じます。なお、PTSDに苦しんでいらっしゃる方を、メッセージのやり取りでもある程度癒すことが可能です。是非、お問い合わせをしてください。

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パニック障害の原因と対策

パニック障害は、なかなかやっかいな精神障害である。薬物療法によってある程度症状は抑えられるものの、完治するには長い年月を要するケースが多い。中には、完治することなくずっとパニック発作に苦しめられている患者も少なくない。緊急避難的に薬物療法に頼ったとしても、完治するためには適切な心理療法が必要だと思われる。パニック障害の原因は、完全に解明された訳ではなく、通称脳内ホルモンと呼ばれる脳内神経伝達物質の分泌異常だと推測されている。

関係している脳内ホルモンは、次の三つだと言われている。ノルアドレナリン、セロトニン、GABAであり、そのうちノルアドレナリンが過剰に分泌されることが一番影響しているらしい。セロトニンとGABAの分泌は少なくなるという。何故、ノルアドレナリンが多くなりセロトニンが少なくなるかというと、偏桃体が過剰に興奮するからだと推測されている。海馬などの大脳辺縁系の異常も指摘されている。つまり、大脳辺縁系などの脳が誤作動することによるものではないかと考えられている。

何故、脳が誤作動を起こすのかと言うと、自分で処理するのが不可能な急激で巨大なストレスがもたらされたからではないかと思われる。脳のシステムは複雑である。乗り越えることが不可能な強大なストレスやプレッシャーにさらされると、自分の心身を守るために防護システムを作動させる。ところが、その防護システムというのは両刃の剣であり、その防護システムが暴走してしまい、過剰反応、いわゆる誤作動を起こすらしい。これが、パニック障害などの精神障害を起こすシステムだろうと推測されている。

さて、パニック障害を乗り越えるには、この誤作動を正常に戻してあげれば良いのだが、これはなかなか難しい。しかし、けっして不可能ではない。まずは、脳内ホルモンの異常分泌を和らげる方法であるが、腸内環境を改善することで可能となる。パニック障害を起こしやすい人、またはパニック障害になった人の食生活は乱れていることが多い。自律神経のバランスも崩れて、交感神経が異常に興奮しやすくなっている。野菜や海藻が中心の食事、それも食物繊維が豊富な食材を利用した食事を摂るとよい。特に発酵食品が最適である。乳酸菌、特にビフィズス菌などは善玉菌と呼ばれている有用な腸内細菌である。

肉類はあまり摂らないほうが良いと言われている。腸内細菌の悪玉菌を増やすし、自律神経の交感神経を興奮させやすい。肉類を常時大量に取る人は、どうしてもキレやすくなる。粉食を避けて粒食を推奨したい。パンや麺類はなるべく摂らずに、米食中心で伝統的な和食を勧める。特に悪いのはカップ麵である。ジャンクフードやファストフードは避けたい代表的な食品である。添加物が多く入った惣菜や加工食品も避けたい。お酒は、飲み始めの時間は交感神経の副交感神経を優位にするが、2時間を過ぎると逆に交感神経を興奮させてしまう。出来たら、毎日飲むような習慣性の飲酒は慎みたい。

最近になってパニック障害に影響する新たな脳内神経伝達物質が注目されている。それは、幸福ホルモンや安心ホルモンと呼ばれているオキシトシンである。このオキシトシンが不足すると、不安や恐怖感がマックスになりやすい。オキシトシンというホルモンは、別名愛情ホルモンと呼ばれ、愛情不足になると分泌されなくなる。したがって、豊かな愛を実感することで増える。しかも、愛を体感することが必要である。愛する人とのスキンシップやハグ、または手をつなぐという行動がオキシトシンを増やす。それ以上の激しい愛の行為もお勧めである。さらには、見返りを求めないボランティアや市民活動もオキシトシンを増やす。このボランティアは、セロトニンも増加させるから一石二鳥である。

パニック障害になった人は、どうしても将来に対する不安が大きい。何がどうのということではなく、漠然とした未来への不安がある。その不安をないことにしたくて、考えたくないと封印するケースが多い。実は、これが逆にやっかいな突然の発作を起こすのである。本当は、この不安に対して逃げずに向き合い、不安を認め受け容れることが必要なのである。その為には、マインドフルネスという手法を利用したストレスコーピングや、適切なカウンセリング支援が必要であろう。いずれにしても、パニック障害はライフスタイルを抜本的に変えて、認知傾向を変化させなければ乗り越えることが出来ない。逆に言えば、これが実施できたらパニック障害を乗り越えられるということである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、パニック障害の方々に対するサポートをしています。まずは数日間イスキアの郷しらかわに宿泊して、食生活などのライフスタイルを抜本的に変えます。その間、ストレスコーピングの方法や認知行動療法の仕方を学びます。マインドフルネスの実践もします。是非、ご利用ください。まずは問い合わせフォームからご相談ください。

教師の不適切指導にどうするか?

教師と言っても、経験が豊かで教える技能も確かな素晴らしい先生もいるし、経験が浅くて指導技術もまだまだの先生もいる。それぞれの先生は独立していて、学校内の先生どうしがそれぞれの指導について、注意し合う風土は醸成されていない。独立心が旺盛で、依存性がないと言えばそれまでだが、管理職でない先生が他の先生に対して助言したり意見したりすることは殆どないのである。児童生徒に対して、明らかに不適切な指導をしているのを目撃したとしても、まず注意することはない。先生どうしが指導面で協力し合うということも極めて少ないのである。

何か不適切な指導が問題になっても、それを隠したがる。ましてや、内部告発することはまずない。それだけ、閉鎖された空間でもあり、内部の事情が外に漏れにくい。その証拠に、これだけ多くの教師によるいじめ事件や指導死事件が起きていても、問題が大きくならないうちに、内部告発があって事なきを得たという事例は皆無である。自分たちの身内を守るという意識が強いのか、隠ぺい体質が強いのか、教師中心の環境が学校に存在する。問題があっても、見て見ないふりをしている先生が殆どなのである。だからこそ、いじめや不登校、そして悲惨な指導死がなくならないのであろう。

ただ、素晴らしい先生もいらっしゃるということも付け加えなければならない。本当に子ども中心の教育を徹底して、子どもたちからの信頼も厚く、保護者の尊敬を集めている先生も何人かいらしたのは事実である。ただ残念なのは、そういう先生は圧倒的に少数なのである。そういう素晴らしい先生が、昇任試験を突破して、校長や副校などの管理職になってくれたら嬉しいのだが、残念ながらそういうケースはけっして多くはない。これも不登校やいじめ、そして指導死が一向に減らない要因でもある。

ある教師が極めて不適切な指導をするのを、過去に実際に経験した。帰宅したら中学1年の息子が、「僕は明日から学校に行けなくなったから」と言うのである。どうしたんだと聞くと、薄暗くなった駐輪場で学友と談笑していたら、担任の先生が玄関先に見えたらしい。それを見かけた息子が、「あっ、〇〇だ」とその先生を呼び捨てにしたという。先生に向かって言った訳ではなく、あくまでも子どもどうしの会話である。ところが運悪く、その言葉がその先生に聞こえたらしい。しかし、その場で指導されたのなら理解できるが、帰宅した後でその先生が自宅に電話してきたのだという。

その先生が言うには、「先生に対して呼び捨てにするとは何事だ。絶対に許さない。謝りなさい。謝らなければ学校に来るな!」と激高して電話をしてきたらしい。息子は先生に対して直接呼び捨てにした訳ではない。したがって、謝らないと学校に来るなという理屈に合わない理不尽なことに納得できないので、謝ることができなかったという。その先生は、30代の男性で、どちらかというと体育系の頑健な身体を持ち、スポーツ系の部活の顧問をしていた。短気な性格であったと思うが、一度興奮してしまうと自分を抑えることが出来ず、体罰が常態化していたらしい。

翌朝、学校に行けないという息子を無理に登校させず、私が学校に向かった。校長と担任の先生と話がしたいと申し出た。先ずは昨日の息子からの話を伝えて、間違いはないかどうかを確認した。大きな違いはないとの返答であった。そのうえで、日本国憲法における教育を受ける権利という基本的人権の尊重に違反しているのではないか。教育基本法の趣旨にも反するのではないかと伝えた。どんな理由があるにせよ、学校に来るなという言葉は、教育上の指導として相応しいとは思えないと話した。校長は、謝罪すると共に、今からすぐに自宅に赴いて子どもに謝罪してきなさいと、その教師に指示した。その教師はその後に、体罰事件を起こして異動させられた。

このような不適切な指導に対して、子どもを守ってあげられるのは親しかいない。このような不適切な指導があったことを、親に対して素直に告げる信頼関係が必要である。親は自分の味方であり、必ず守ってくれるんだという子どもの確信がないと、親には話せない。親子の関係性は、努力しなければ深まらない。常日頃からの親子の触れ合いとコミュニケーションが必要だろう。そのうえで、どんなことがあったとしても、子どもを守る為に命を賭して行動することを宣言することが肝要だ。勿論、普段の行動においても、子どもを最優先で守り育てることを実感してもらうことが大切である。実際にこの例のように、どんな相手であっても臆せず対決して、問題解決する勇気も要求される。仕事や多忙を理由に、問題から逃避するような親では、子どもは不安になり不登校を選ばざるをえない。子どもが安心して学校に行けるのは、親からの絶対的守護が実感できるからだ。特に父親の役割は大きいのだと認識すべきである。

 

※イスキアしらかわの郷では、教師による不適切な指導やいじめがあった際に、親がどう対応すればよいのか、相談を承ります。親の役割も含めて、どうすれば問題が先鋭化せず、さらには長期化しないで問題解決できるのかを助言させてもらいます。ひとり親の場合、または父親が対応がしてくれないケースでも支援させてもらいます。遠慮なくご相談ください。

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インフルエンザは予防できる!

この時期、毎年インフルエンザが猛威を奮う。幼児と高齢者は特に注意が必要だと、どこのマスメディアも注意喚起をしている。持病を持っていて体力のない高齢者は、それこそインフルエンザは命とりにもなり兼ねない。だから、高齢者の方々は予防注射を受ける人が多い。ところが、予防注射を毎年受けているのに、どういう訳かインフルエンザに罹る人がいる。ましてや、中高生や青年であってもインフルエンザに毎年のように罹患する人がいるのだ。一方、インフルエンザの予防注射なんて一度も受けていないのにも関わらず、インフルエンザに罹ったことがない人がいる。

どうして、こんな違いが出てくるのであろうか。実は私も、生まれてこのかたインフルエンザに罹ったことがないのである。それも予防注射は絶対に受けない主義だ。ましてや、重い症状の風邪にも罹ったことがなくて、風邪のせいで学校や会社を休んだためしがない。実は、こういう人が世間には意外と多いのである。反対に、日頃は頑健な身体を持っているのに、しょっちゅう風邪を引きやすく、インフルエンザに毎年罹っている人も多いのである。これはどうしてであろうか、実に不思議なことである。

医療関係者は、このような違いは個人差によるものだと言っている。その個人差とは、簡単に言うと免疫力の違いである。自己免疫力の個人差があり、免疫力の高い人はインフルエンザには罹らず、免疫力の低い人はワクチンを接種したとしても、インフルエンザに罹ってしまうし、重症化しやすいというのである。免疫力の高い人は、例えインフルエンザに罹ったとしても、殆ど症状らしいものも出ずに治ってしまうという。それじゃ、予防ワクチンを打つのは止めて、自己免疫力を高める努力をしたほうが確実ではないかと、誰でも思う事であろう。

自己免疫力を限りなく高めることが出来たら、インフルエンザだけでなく他の重篤な疾病にもならないし、健康で長生きできるのだ。これは、無駄な医療費や介護費も削減できるから、最高の社会貢献ではないか。どうしたら自己免疫力を高められるのかと言うと、実に簡単である。5つの方法がある。①腸内細菌を正常にする②骨を刺激する運動と心肺機能を高める運動をする③身体を冷やさずに体温を高める④ストレスを溜めずに解消する⑤身体を酸化させない生活→これだけを守って生活すれば、限りなく自己免疫力は高まるしアレルギー疾患や免疫異常にもならない。私はこれを実践しているから病気知らずだ。

①腸内細菌を正常にするには、やはり健康的な食生活が大切である。酒とたばこ、そして化学薬品や食品添加物を摂取しない。野菜中心の食生活で、ジャンクフードやファストフードは食べない。肉類や砂糖類はなるべく摂らず、発酵食品を多く取る。食材はなるべく地産地消を心掛け、旬のものを利用する。②骨を刺激する運動は免疫力を高めるので、負荷のかかる歩行や走行、階段や坂道を上り下りする運動が良い。心肺機能を高める運動と共通する運動というなら、ストレス解消にもなるトレッキングや登山がベストだ。

③身体を冷やさず体温を上げる為には、体温を上げる食事が良い。根菜類や冬野菜を活用した食事が体温を上げる。入浴はシャワーでなく、毎日必ず浴槽にゆったり浸かる。冬は腹巻をするし、ネックウォーマーやレッグウォーマーを利用する。④ストレスを溜めないようにするには、怒りや憎しみ、さらには妬みや嫉みを持たないことである。その為には、相手の尊厳を認め受け容れ、自分の思い通りに他人や身内を支配するとか制御しようとしないことだ。寛容と受容を無理なく出来る精神性を持たなくてはならない。さらには、ストレス解消の趣味やスポーツをするのもよい。マインドフルネスを心掛けることもよいだろう。

⑤身体を酸化させないようにするには、まずは抗酸化の働きがある飲食物を摂取することである。マーガリンやショートニングは絶対に摂ってはならない。水は消毒薬の使用されていないものを使用し、殺菌剤や漂白剤を使用した食材を避けることである。身体に直接触れる物も、殺菌や抗菌を謳った製品も避ける。シャワーには消毒剤を浄化するフィルターを使うか、一度湯舟に浸かってから身体を拭き上げるとよい。塩素は身体を酸化させるから、循環させて塩素消毒する温泉やプールも避けたほうがよい。

このように、これらの5つの自己免疫力を高める努力をしていれば、インフルエンザには罹らない。もしインフルエンザに罹患しても、症状が軽くて知らないうちに治る。殆どの家族が毎年インフルエンザに罹っているのなら、それは間違いなく食事の問題である。食事を徹底して野菜中心にして、手作りで添加物の入らない健康食にするとよい。パンや麺類は避けて、米食にしたらいい。インフルエンザに罹らないばかりか、アレルギーも改善するし、自己免疫疾患も寛解する。メンタル面でも元気になり、気分障害もよくなる。病気知らずの生き方が可能になる。

 

※イスキアの郷しらかわでは、インフルエンザに罹らないライフスタイルを確立するための支援をしています。心身の病気から離脱する食生活と運動などを、実際に体験してもらいます。また、ストレス解消のコツを、精神論ではなくて科学的な手法を用いて伝えています。インフルエンザに毎年罹っている方、お子さんが病気がちな方、是非ご活用ください。

禅寺の修行でアレルギーが治った?

アレルギー患者が禅寺で修行すると、その辛い症状が治まってしまうという驚きの結果が現れているという。その注目されているお寺とは、神奈川県川崎市鶴見にある曹洞宗の大本山總持寺である。ここでは若い修行僧である雲水が日々厳しい修行を続けている。禅寺の朝は早い。早朝3時から起きて座禅やお掃除などのお勤めをする毎日である。質素な食事と厳しい修行は、贅沢な食生活を送ってきた若者にとっては、相当な苦難の日々であろう。しかし、何週間かその辛い修行を続けているうちに、アレルギー症状が緩和されるという。個人差はあるものの、徐々に症状が和らいできて、しまいには殆どなくなるというから不思議である。

三大禅宗のひとつである曹洞宗は、道元禅師が始祖とされる仏教の宗派である。福井県に大本山永平寺があり、能登にも總持寺祖院がある。石川県能登の總持寺が消失したのをきっかけにして、現在の鶴見に建立されたのが大本山總持寺であると伝えられる。禅寺の食事は、ご存知のように精進料理である。野菜と胡麻豆腐、そしてごくわずかなお粥だけである。成年男子が必要とされるエネルギー量にはほど遠いカロリー量だという。無用な外出は禁じられ、食事の他におやつや菓子などは食べられない。この精進料理こそが、アレルギー症状を緩和してくれる救世主ではないかと見られている。

精進料理はそれこそ、ゴボウ、大根、ニンジン、青菜などの繊維質の豊富な野菜と胡麻豆腐、そして米が原料である。肉、魚は摂取できない。この精進料理の食物繊維がアレルギーを治してくれるのではないかとみられている。最近になって、さらに進化した最新医学研究によって、腸の働きがアレルギー症状を軽減してくれることが判明してきた。腸内細菌が免疫を正常にしてくれるらしい。アレルギー疾患や免疫異常が最近特に増えているのは、腸内細菌が異常になっているからではないかというのである。

最新の医学研究によって、腸内細菌の中のひとつクロストリジウムという菌が注目されている。このクロストリジウムという菌が少ないとアレルギー疾患や免疫異常を起こしやすいということが解ったからである。このクロストリジウム菌が少ないと、免疫を制御する働きを持つ制御性T細胞というものが作られなくなる。そうすると、免疫細胞が暴走してしまい、免疫異常を起こすというメカニズムがある。この制御性T細胞は、通称Tレグと呼ばれる。Tレグが作られないと免疫の暴走が止められないというのである。

実は、アレルギー疾患の患者さんと免疫異常の疾患を起こした患者さんの便を検査したところ、共通していたのはクロストリジウムという腸内細菌が殆どなかったという事実である。さらに驚いたのは、修行前にはクロストリジウム菌が少なかったアレルギーを持つ雲水たちが、驚くことに修行後はこのクロストリジウム菌が増えていたのである。つまり、クロストリジウム菌が精進料理によって増えて、免疫を制御するに充分なTレグが作られたということが検証されたのである。それによってアレルギー症状が改善したのである。

何故、こんなにもアレルギー疾患や免疫異常の疾患が増えたかと言うと、食事の欧米化と食生活の乱れであろう。自己免疫疾患と呼ばれる、リウマチ、膠原病が中高年女性に増加している。免疫の暴走は、クロストリジウムの減少が起きて、Tレグが作られなくなったからだということが判明した。腸内細菌を正常にすれば、自己免疫疾患だって良くなる可能性があるという喜ばしい情報がもたらされたのである。それじゃ、精進料理を毎日食べたら、アレルギー疾患と免疫異常の疾患が治るかと言うと、そう単純なものではないだろう。他の食生活や生活習慣、またはストレスもおおいに関係しているに違いない。

雲水の修行生活では、まず便利な生活ではなくて不便を強いられ、毎日自分達で掃除して料理を作り座禅をする。修行そのものはストレスでもあるが、慣れてきてそれがクセになればストレスではなくなる。座禅は、マインドフルネスという唯識を実践するから、これもストレス解消になる。さらには、ファストフードやジャンクフード、化学薬品や食品添加物からほど遠い生活を余儀なくされる。腸内細菌が喜ぶものしか身体に入らない。こんな生活を普段からできたとしたら、アレルギー疾患や免疫異常の疾患が緩和されるに違いない。試してみる価値はあるだろう。

※イスキアの郷しらかわでは、完全な精進料理ではありませんが、それに近い健康的な食事を提供しています。オーガニックで無農薬のお米と野菜を使った自然食です。おやつも自然食ですし、回りにはコンビニもありませんから、滞在中は修行僧と同じような食生活になります。アレルギー疾患や免疫異常の疾患で苦しんでいらっしゃる方は、是非1週間程度の滞在をお勧めします。天然の山菜料理も提供いたします。親戚の者に山菜を送って食べてもらったら、アレルギーが改善されたと喜んでいました。

子育てにおける父親の役割

イクメンが増えているという。それはそれで好ましいことである。父親が育児を分担してくれていることにより、母親の家事負担が減少して、余裕のある育児ができるから、子どもに対して豊かな愛情を注ぐことが可能となる。そして、父親が育児を経験することで、子どもの微妙な心の動きを解ろうと努力することにより、共感の心が育まれる。さらに、両親が協力して育児をすることによって、夫婦お互いの支え合いの気持ちが生まれるので、家族の絆が強まることであろう。これらの理由から、イクメンがもっと増えてほしいと願っている。

しかし、イクメンという言葉が何となく軽々しい感じがするし、子育てにおける父親の本来の役割が果たせているのかという不安がある。イクメンというファッショナブルな言葉で、育児を喜んでする父親が増えるというメリットがあるとしても、何となく違和感を覚えるのである。何故かというと、子育てにおける父親の役割とは、根本的に母親のそれとは違っていると思うからである。ましてや、イクメンというと乳幼児期の育児参加という意味合いが強い。父親の子育てにおける本来の役割が発揮されるべきなのは、乳幼児期を過ぎた頃からではないかと思うのである。だから、イクメンだけで子育ての役割を果たしたと満足してほしくないのである。

三人の息子たちを育てた経験から、過去を振り返ると実に様々なシーンが甦る。家族5人揃って車に乗って外出した時のことである。車中で、いろいろな会話をしていた時のことである。助手席に座っていた当時小学生高学年の長男が涙を流しながら、嗚咽しているのに気付いた。どうしたんだいと問うと、「お父さんの話に感動したあまり、泣けてしまったんだよ」と言うのである。確かに、その時に人間として生きる意味やあるべき生き方の話をしていたので、感動するというのは解るが、感涙するまでに心に染みるというのは意外でもあった。それを聞いた自分も涙を流して喜んだのを鮮明に覚えている。

子どもに対して、父親がいろんな教訓や教示を話すケースは少なくない。しかし、子どもがそれらの話を聞いて、感涙するまでのレベルまで到達するのは、そんなにないだろうと思われる。手前味噌の話ではあるが、父親と言うのはそれぐらいの話を子どもに出来ないというのは、情けないことだと思う。小学高学年の子どもが哲学的な話をしても解らないだろうと思う人が多いかもしれないが、子どもというのは、この手の話を渇望しているのである。試しに、子どもに哲学や思想、または価値観の話をしてみてほしい。子どもはこのような話を、それこそ目を輝かせるほど生き生きとして聞くことであろう。

近代教育を受けている子どもたちは、学校教育で思想・哲学の学びをしていない。何故なら、明治維新以後に西欧から近代教育を導入して以来、思想哲学は富国強兵の近代国家の設立には不要なものとして排除された。そして、戦後はGHQ政策により、家長制度と軍国主義を崩壊させる為、思想哲学を学校教育で禁じたのである。さらに、日教組は価値観の教育こそ民主主義の敵だと勘違いしてしまい、教室で人間の生き方やあるべき人間教育までも止めてしまったのである。だから、愛国心という言葉さえ死語化させてしまったのである。これが日本人を不幸にさせてしまった根源的問題であろう。GHQにより日本人は洗脳されてしまったのである。

今、学校で的確で適切な道徳教育ができる教師は殆どいない。恐る恐る「心のノート」を棒読みして倫理観や心の在り方を教える先生が少しは存在する。しかし、日教組は「心のノート」を、国家権力を強めるものだとして排除しようとしているし、道徳教育に懐疑的である。小さいところの問題に固執して、大局を見失ってしまっているのだ。ということは、思想哲学や価値観の教育を子どもたちは渇望しているのに、応えられていないのである。とすれば、父親かそれに代わる誰かが、子どもたちに価値観教育をしなければ、子どもたちが生きる道標を見失ってしまうのは当然である。

現在、不登校や引きこもりという大きな教育的問題が存在する。その原因は、社会の制度や学校の環境そのものの問題にあるとしても、そんな中でも根本的な生きる価値観を持てたとしたら、苦難困難にもチャレンジできる勇気を奮い立たせることができるに違いない。そして、その価値観教育をする役割こそ、父親かその代役が務めなければならない。子育てにおける本来の父親の役割が、思想哲学、そして価値観の教育である。社会には様々な苦難困難が待ち受ける。それらの苦難困難に逃げることなく立ち向かっていく強い精神は、価値観の教育で養われるのである。その父親の役割を全うしてほしいものである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、この思想哲学や価値観の教育を父親または母親に対して実施します。ご希望される方があれば、お申込みください。1泊2日コースか2泊3日コースで価値観教育を重点的にさせてもらいます。なお、家庭の都合で日帰りの研修をお望みであれば、数日間を要しますがご相談ください。子どもに幸福な人生を歩んでほしいと思うなら、是非ともご利用ください。

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