食文化の破壊と健康被害

レストランやファストフード店のチェーン化は、留まるところを知らないようだ。そして、店舗間競争の激化も甚だしく、そのスクラップビルドも激しい。開店したと思ったら、すぐにも別のお店に変わっていたというケースも少なくない。一時のような収益性は望めないようだが、相変わらず牛丼チェーン店や回転ずしチェーン店の出店と閉店は繰り返されている。これだけ食のコンビニ化が進んでいるというのは、外食産業のニーズが相当に高いという証左であろう。自宅で調理をして食べるという食文化が廃れている証拠でもある。

こと食に関しては、とても便利な世の中になったものだと思う。スーパーに行けば、いろんな食材は勿論のこと、総菜・弁当や加工品がいつでも手に入る。ましてや、総菜や弁当は365日24時間コンビニでも売っている。解凍すればすぐにでも食べられる冷凍食品は豊富に陳列してあるし、そこそこの価格なのだから便利このうえない。ワーキングマザーにとっては、食のコンビニ化があるからこそ仕事を続けられるということかもしれない。レストランやファストフード店があるから、疲れて帰ってきたときや遅くまで残業した夜は外食で済まそうというのは、誰しも思う事である。

このように便利になった世の中ではあるが、時々外食産業においては食中毒事件が起きる。または、衛生面では徹底した管理がされている筈の学校給食でも食中毒が起きてしまう。さらには、食品偽装事件や異物混入事件も後を絶たない。こういう事件の報道を見る度に、やはり外食というのはリスクを伴うものなんだと納得してしまう。勿論、自宅で調理したものだって食中毒は起きることがある。しかし、自分の不断の努力によって食の事故は防げるが、外食や購入した総菜・加工食品での事故は防ぎようがないのである。自分で危機管理が出来ないというのは情けないことでもある。

食のコンビニ化で危険なのは、食中毒だけではない。食品添加物という危険極まりない毒性の強いものが含まれている食事を摂取する怖れが強いのである。ましてや、栄養だって偏る危険性も高い。ストレスフルな生活にさらされていると、味の濃い食事をどうしたって好むから、塩分や糖分の多い料理を提供する。大衆が好む味付けの食事・料理を提供するのは、外食産業の宿命でもある。ましてや、どんな食材を使ったかという表示義務もないのである。化学調味料などの人工的な添加物をどれだけ使ったとしても、問われることはない。どんなものが入っているのか、一般市民は知る由もない。

日本の食文化である和食は、世界遺産にも登録されるほどの価値があるものである。伝統的な和食は、その美味しさにおいても群を抜いている。料理というものは、手抜きをすればそれだけの味になるし、心を込めて手間暇を惜しまず作れば、食べる人を感動させるほどの味になる。伝統的な和食というのは、常に食べる人の笑顔を思い浮かべながら、魂を注ぎながら作る。自分本位の料理ではなく食べる人の気持ちに寄り添っているからこそ、感動を生むのである。勿論、おもてなしの心に基づくから、食べる人の心身の健康さえも考えながら作る。このような食文化は大切に守り育てたいものである。

このような伝統的な食文化と真っ向から相反するものが、外食チェーン店化であり食のコンビニ化である。このような間違った食文化が、健康被害を増大させる一大要因になっていると言っても過言ではない。生活習慣病になる成人が多いのも、こうした食のコンビニ化が招いていると言えよう。そもそも食事や料理というものは、食べる人の健康や元気の源になるものである。健康を損なう食事・料理を提供するというのは、緩やかな殺人とも言えないだろうか。このような食のコンビニ化は、うつ病などの気分障害の原因だとも言われている。実に怖ろしいことなのである。

食事や料理というものは、本来作り提供する側が、食べる人の状態を見ながら、その人が元気になるものや食べたいと望むものを作るのを基本としている。つまり、料理というものは、食べる人の幸福を実現するものであろう。それなのに、食べる人も解らない、どんな食べ方をされるのかも解らないような食事や料理を提供するというのは、如何なものであろうか。作る人と食べる人の信頼関係が基本にあり、お互いの顔が見える状況の中で、作るのが料理であるべきである。日本の食文化がコンビニ化によって破壊されていくのは、残念でならないし、益々健康被害の危険性が高まるので看過できない問題である。

今でも尊敬して止まない崎尾英子先生

今から20年くらい前に、児童精神科医として臨床においても、または学術研究の分野においても、先駆的な活躍をされた人物がいらした。それは、当時国立小児病院の精神科の医長をされていた、崎尾英子さんという優秀なドクターである。彼女は、児童精神科医のスペシャリストでもあったが、カウンセラーとしても多大な実績を残されていらした。カウンセラーとして実際に対面して、かなりの時間を要しての相談でさえなかなか効果あげるのは難しいのに、彼女は電話で僅か10分程度の相談で、保護者のあらゆる疑問に答えるだけでなく、的確な助言と深い安心感を与えていたのである。

崎尾英子先生は、NHKラジオで不登校の子どもたちの保護者への電話相談をしていらした。レギュラー回答者として、週一回の出演をされていたのである。当時、劇的に増加していた不登校児に対する質問が多く、非常に難しい質問をされる保護者が多かったと記憶している。質問をする人は、女性が圧倒的に多くて、母親か祖母であるケースが殆どだった。そして、そのプチカウンセリングであるが、崎尾先生はあたかも保護者がどう答えるのかを予想しているかのように、的確でしかも温かみ溢れる質問を保護者にしていた。勿論、けっして威圧的な態度ではなく、限りなく優しくである。そして、けっして答は与えるのでなく、その質問に答える形で保護者が気づいたり学んでいたりしたのである。

カウンセリングの基本とは、傾聴と共感だと言われている。そして、本人が気付いたり学びをしたりするように、質問をするだけで指示や指導をするべきではないというのが定説である。とは言いながら、限られた時間の中でカウンセリングをすると、明確な答を出すようにとついつい誘導してしまう傾向になる。ところが崎尾先生は、一度もそういう場面がなかったのである。たかだか平均すると10分程度の時間に、不思議なように保護者が自ら進んで変化するのである。自分が進化すべきだということを気付き、自主的に変わっていくのである。

崎尾先生も自著の中で記されているが、電話相談の保護者も含めて相談者を自己否定に導いてはならないとおっしゃっている。それは、不登校児も保護者もすべてそうである。そして、不登校児の教育に携わる人間に対しても同じだと主張されている。人間的にも未熟で、しかも自己確立のしていない人間は、他人に対して寛容になれない。だから、自我人格と自己人格の統合を経ていない人間は、いくらカウンセリングの技術が優れていたとしても、カウンセラーとしての実務をしてはならないと思う。ところが、専門の大学を出て大学院で臨床心理士の資格を得たとしても、残念ながら自己確立をしている人は多くない。

崎尾英子先生のような素晴らしいカウンセラーとは、滅多に出会えないだろう。先生の電話相談を聞くのが楽しみだった。それこそ、先生に心酔し切ってしまい、著作はすべて購入して愛読書にした。スティーブン・ギリガンの著した「愛という勇気」という専門学術書(崎尾先生訳)まで購入して読んだ。先生の著書には、珠玉のような素晴らしい教えの数々が書かれていた。それらの教示は、多くの気付きと学びを与えてくれた。今の自分があるのは、崎尾先生のお陰だと言っても過言ではない。先生は国立小児病院を退職された後、クリニックを開院して院長として活躍され、2002年にご逝去されてしまったとのこと。惜しい方を亡くしてしまったものである。

崎尾先生のようなカウンセリングを、世の中の精神科医と臨床心理士たちが実施したとしたら、多くの不登校児とその保護者を救ったことであろう。崎尾先生のような臨床医や臨床心理士、そして精神保健福祉士がこれから多数輩出することを願っている。残念ながら崎尾先生の指導を直接受けることは叶わない。一度会いたかったと思っているが、残念なことである。これから崎尾先生のご遺志を継いで、不登校や引きこもりの若者を支援していきたい。勝手ながら、崎尾先生を心の師匠だと思っている。崎尾先生の貴重な教えを守って、少しでも師匠に近づきたいと願っている。

人生の目的

あなたの人生の目的は何ですか?と問われて、抽象的な言葉で概念化して答えられる人は、どれだけいることであろうか。または、あなたが人生を歩むにあたり、どんな価値観をよりどころとしているのでしょうか?と質問されて、私はこういう価値観を基にして、人生を歩んでいますと言語概念化が出来る人は、そんなに多いとは思えない。ともすると、人生の目的なんかなくても立派に生きていけるし、困らない。人生の価値観なんて不要だし、今までそんな価値観なんて考えたこともない。そんなふうに嘯いて、人生の目的や価値観に対して、まったく何も考えないし、考えたくもないと思っている人が殆どではないだろうか。

確かに、人生の目的や価値観なんてなくても、生きることは可能である。ただ漫然と生きるならば、という条件は付くとしても。しかし、しっかりとした目的がある人と、何も目的もなく生きる人では、その人生の行き着く所はおおいに違ってくる。何故ならば、目的がなく海図もない航海と同じだからだ。またしっかりした価値観のない人生は、コンパス(羅針盤)のない航海と同様の結果をもたらす。そんな航海は、どこかに迷い込んでしまい、難破したり座礁したりするに違いない。人生も、しっかりとした目的や価値観を持たないと、迷ったり挫折や失敗を繰り返したり、心身疾病やケガをすることになるであろう。または、年老いてから認知症になるかもしれない。

この人生の目的について有吉佐和子さんが経験したエピソードが、とても興味深いので紹介したい。有吉佐和子さんと言えば、紀ノ川、花岡青洲の妻、恍惚の人などの代表作で知られる女流人気作家である。歴史小説や社会問題を鋭く抉る小説で、一時代を築いた著名なベストセラー作家だ。その彼女が一時期、まったく小説が書けなくなったという有名な話がある。ある日から、有吉さんは小説がまったく書けなくなってしまったのである。題材、モチーフ、登場人物、粗筋、すべてが思い浮かばなくなってしまったという。それまでは、湯水の如く書く題材が湧いて出てきていたのに、何も考えられなくなったということらしい。もうこれで自分の小説家としての人生は、終焉を迎えざるを得ないのかという瀬戸際まで追い詰められてしまい、生きる気力さえ失いかけて自宅に閉じこもる日々が続いていたという。

ある時、そのことを聞き付けた知人が会いにきて、こんなことを言ったという。「有吉さん、あなたね、小説が書けなくなった原因は、小説を書く目的を見失ったからだよ」と優しく諭すように言ったという。それを素直な気持ちで聞いた有吉さんは、頭の後ろを殴られたくらいの衝撃を受けたらしい。確かに、自分が小説を書く目的を見失ってしまったから、書けなくなったのだと気付いたのである。それで、改めて自分が何のために小説を書くべきなのだろうと考えたらしい。その時ふと思いついたのは、自分もこれから高齢者になろうとしているが、老人になると仕事もなくなり生きる気力も少なくなって、充実した生き方が出来なくなるケースが多い。自分が書いた小説を読んだ高齢者の方々が、自分の生きる希望や夢を再発見し、自分達がまた生き生きとした残りの人生を歩めるようになったとしたら、自分が小説を書く意味が出てくると気付いたのである。

そのことを気付いて、自分が小説を書く目的はこれだと確信したらしい。高齢者を主人公にした小説を書いて、この小説を読んだ高齢者の方々が自分の人生を見つめなおし、老人の人生もまた素晴らしいなと思えるような気持ちになってもらいたいと強く思ったとのこと。そう思ったとたん、あれほど小説を書けなくて苦しんでいたのに、不思議なことに次から次へと題材やモチーフ、登場人物、ストーリーが思い浮かんで、書きたい小説がどんどん生まれてきたという。そして、生まれたのが「恍惚の人」などの老人を主人公にした傑作の数々なのである。

このことから導き出される結論は、人生の目的や価値観などという面倒なことはなくても生きては行けるとしても、社会に対して大きな成果を生み出したり貢献したりするには、しっかりした目的が必要だということ。しかも、その目的を確立する為には、基礎となる正しい価値観が伴わなくてはならないということだろう。有吉さんが小説を書く目的を見出したことで、小説家として復活できたように、我々も社会に何か大きな足跡を残すとか、多くの人々の幸福に寄与することをする為には、しっかりした人生の目的、それも正しい価値観に基づいた目的を持つことが必要だということである。このことを肝に銘じて、人生の目的を言語概念化したいものである。

 

※人生の目的や生きる意味を失ってしまい、何をする元気や気力もなくなり、閉じこもる生活をされている方は、イスキアの郷しらかわにおいでください。人生の目的を創生するために必要な価値観の学習を支援しています。全体最適と関係性の哲学であるシステム思考という価値観を学びます。この価値観を学ぶことで人生の目的を見つけられます。

スペシャリストからセネラリストへ

明治維新以降に近代教育を日本が取り入れてからというもの、各分野におけるスペシャリストを養成する機運が高まった。それは分業制や専門性を要求される産業やアカデミーにおいて、必然的に起きたことでもある。例えば、生産工場においては企画、デザイン、部品調達、旋盤、研磨、検査などのスペシャリストが養成された。効率とコスト削減、そして品質向上の為には、それぞれの専門家を養成することが、企業にとって一番好都合だったのであろう。

また、アカデミーの世界でも一部門に秀でた専門家が続々と輩出した。各研究部門において、専門の研究に専念することで、大きな学術的成果がもたらされた。医学界と医療分野はその傾向が顕著であった。最初はせいぜい内科・外科・精神科などの診療科目しかなかったのに、今は同じ外科でも、脳外科・上部消化管外科・心臓血管外科・乳腺外科・移植外科など実に多岐多彩に渡って、細分化されている。その中でもさらに肝臓専門・胃専門・膵臓専門などスペシャリストがいる。

それぞれ医療界のスペシャリストとして、優秀な頭脳と技能、そして経験を身に付けたドクターは、どのような患者さんの難しい診断・治療も可能になったかというと、実はそうではないことを医療界は認識することになった。医療のスペシャリストがそれぞれの分野において診断できない場合は違う分野の医療スペシャリストと連携して確定診断を行うことになる。しかし、残念なことに医療のスペシャリストどうしの連携だけでは、確定診断が難しい症例が極端に増加してしまったのである。故に、必然的に総合診療科が出来るとか、または統合医療という分野が発生して、診断と治療を行うようになったのである。言わば医療のゼネラリストである。

工場の生産現場や販売・営業部門においても、同じようなことが起き始めたのである。各工程や各部門において、スペシャリストが最善の生産工程を実施しているにも関わらず、不良品や返品が出てしまっているのだ。さらには、スペシャリストがそれぞれの専門性の発揮をしているにも関わらず、デザインの陳腐化やヒット商品が出ないという事態が起きているのである。これだけ優秀なスペシャリストを集めているのに、まったく成果が上がらないらしいのである。そこで生まれたのが、すべての部門に精通して管理できるゼネラリストと呼べるようなチームリーダーが必要になったのである。

どうしてスペシャリストだけでなくゼネラリストが社会全般に必要になったかというと、それは人間社会の仕組みや存在そのものが、『システム』だと気付いてきたからである。人間そのものもまた、システムである。60兆個もある細胞がそれぞれ自己組織性を持っていることが判明した。つまり、細胞ひとつひとつがあたかも意思を持っているかのように、人間全体の最適化を目指して活動しているのである。そして、細胞たちはネットワークを組んでいて、それぞれが協力しあいながら、しかも自己犠牲を顧みず全体に貢献しているのである。

これは、細胞だけでなく人体の各臓器や各組織が同じようにネットワークを持っていて、全体最適の為に協力し合っていることが、最先端の医学で判明したのである。つまり、人体は脳が各臓器や各細胞に指令を送っているのではなく、それぞれが主体性と自発性を持って活動していることが解明されたのである。完全なシステムである人体が、どこかの各細胞や各臓器が誤作動を起こせば、それが人間全体に及ぶということである。精神的に大きいストレスやプレッシャーがシステムにエラーを起こし、各臓器に及んで疾病などを起こすということが解ったのである。だから、人間全体を診る総合診療科や統合医療が必要になり、ゼネラリストが求められたと言えよう。

企業や工場、学校、家庭も『システム』である。その構成要素である各部門や人間が、ネットワーク(関係性)を豊かにして、全体最適を目指していればエラーである問題は起きない。スペシャリストだけでなくゼネラリストがシステム内に存在して、各部門や人間のネットワークを上手く調整して、全体最適に向かうようにマネジメントしていけば、システムは機能する。各部門や各人間も、主体性や自発性、そして責任性を持てる。そうすれば、システムは上手く回っていくから問題は起きないのである。これからの時代は、社会全般において、スペシャリストだけでなくゼネラリストが必要となってくると確信している。

 

※イスキアの郷しらかわでは、ゼネラリストのチームリーダー養成講座の研修を承っています。これからのチームリーダーは、チーム全体を俯瞰して、主体性・自発性・自主性・責任性を自ら発揮するチーム員を育てる技量・人間性が必要です。医療機関でも、このようなゼネラリストの管理者(看護師・医師・事務員・パラメディカル)が必須です。どのような研修なのか、是非問い合わせください。

あおり運転の心理分析と危険性

あおり運転での事故が多発している。それも悪質なあおり運転が、急増しているという報道がなされている。これは多発するようになったのではなくて、今までは見過ごされていたものが、例の高速道路での死亡事故が起きたことで、社会的な悪として注目されたからであろう。さらには、ドライブレコーダーの普及によって証拠として採用され、メディアも報道しやすくなったという効果があると思われる。それにしても、こんなにも悪質なあおり運転が横行しているという事実を驚くと共に、実に情けないと思う。

あおり運転をするのはどんな人かというと、普段はそんな過激なことをする人ではないと、周辺の人々が口にする。とすれば、いざ運転席に身を沈めると性格が一変してしまうということであろう。普段はおとなしい人が、ハンドルを握った瞬間から人格が変わるなんてことがあるだろうか。そういえば、酒に酔うと性格が一変する人がいる。同じだとすれば、困ったものである。脳神経医学者は、酒に酔うと性格が変わる人をこう分析している。酒に酔うと性格が変わる訳ではなく、アルコールによって大脳辺縁系を抑制する前頭前野が麻痺して、本来持っている性格が出るだけなので、それがその人の本来の性格なんだと主張する。

あおり運転も同じことが言えるかもしれない。運転席に座ると性格が変わるのではなく、元々の性格が現れるだけなのであろう。脳神経学的に言えば、大脳辺縁系の偏桃体などの情動を司る部分を前頭前野がある程度抑制しているのに、ハンドルを握った途端に前頭前野によるコントロールが効かなくなり、偏桃体が暴走してしまうと推測される。危険なあおり運転をする人間は、元々情動に流されやすい人間であろう。ほんの些細なことでも激高してしまい、これらの脳の抑制が効かなくなり、あおり運転をすると思われる。

どうしてそんなに危険な大脳辺縁系と前頭前野になってしまったのかというと、おそらく怒りや憎しみの感情を処理するのが不得意だったのかもしれない。自我(エゴ)が肥大化していると同時に、自我と自己の統合(自己の確立=自己マスタリー)が出来ていないと思われる。だから、些細なことでもキレるのである。こういう人は、怒りや憎しみを起こしやすいし貯めやすい。怒りの感情を頻繁に起こしていると、偏桃体が肥大化すると言われている。すると、コルチゾールというステロイドホルモンを多量に放出し、それが海馬と前頭前野に影響を与えて委縮させる。つまり、益々偏桃体が暴走することになるし、将来認知症になる確率も増大する。

あおり運転をする人の心理や脳神経学的な分析をすると、とても危険な人間だと言わざるを得ない。おそらく、欲望にも流されやすい傾向にあるから、タバコやアルコールに溺れる人も多いと思われる。酔って問題行動を起こすケースも多いと考えられる。たとえ、職場では普通に振る舞っていても、家庭でDVをしたりモラハラをしたりすることも少なくないであろう。だから、もしこのような危険な人間と遭遇したら、当たらず触らずの対応をしたほうがよい。

あおり運転をするような人間は、例外もあるが必要以上に大きい車に乗りたがるらしい。大型のRV車やワゴン車を運転する人が多い傾向にあると見られる。何故かというと、自尊感情が低い為に自分を過大に見せたいという意識が存在し、大きな車で他人を威圧したいと思うのであろう。自分を強く見せたいというのは、黒い車や黒い洋服をまとう無意識にも通じる。だから、大きな車で乱暴気味の運転をするのを見かけたら、近づかないことである。もし万が一あおり運転をされたら、安全な処に停車して絶対に車から出ないことだ。すぐに警察に電話するとよい。少しぐらい叩かれても、窓は割れないから心配ない。

あおり運転をする人間は、人間的に未熟なのである。自分が、運転席に座ると性格が変わり、カッとなりやすいと自覚しているのであれば、気を付けたいものである。将来、あおり運転をする危険性があると思ってよいだろう。運転をする時だけ性格が変わるのではなく、元々そのような脳の働きをする傾向にあると認識すべきである。偏桃体が肥大化していて前頭前野や海馬が委縮傾向にあると思ってよい。ストレスが多いために、コルチゾールという副腎皮質ホルモンが大量に出ているのかもしれない。ストレス解消をしなければ、益々ひどくなってしまい、心臓血管疾患や脳血管疾患、またガンなどの重病になりやすい。ストレス解消と自己マスタリーに努めることを勧めたい。

 

※ストレスをためてしまい、いつもイライラしてしまう人は「イスキアの郷しらかわ」をご利用ください。ストレス解消の方法と、怒りや憎しみの感情を起こさない方法を研修します。自己マスタリー(自我と自己の統合)を学び、寛容で受容の心を発揮出来るようになります。また、いつも怒りの感情を我慢してしまい、吐き出さずに溜め込んでいる人も危険です。怒りの感情を上手に昇華する方法を身に付けるサポートもしています。まずは問い合わせでご相談ください。メールや電話での相談は無料で行っています。

手料理を楽しむ

料理をするのが何よりも好きで、暇があればふと思い浮かんだ料理をして楽しみます。今日は、美味しそうなセロリの株を直売所で見つけたので、さっそく漬物をしようと思い、生協に寄って「つまみたら」を買ってきました。この時期に会津地方でよく作られる定番料理、セロリとつまみたらの漬物です。繊維質の強いセロリは斜めに薄切りにして、固いつまみたらは水に戻して柔らかくしてから漬け込みます。彩りにニンジンの薄切りを加え、好みで柚子を細かく刻んで香りづけします。

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この料理は、先月亡くなった母がよく作ってくれたものでした。私の作る料理の基本になっているのは、母の手料理です。亡き母を偲んで、母の得意料理を時々再現しています。

新しい子どもたち2~教育のイノベーション~

不登校や引きこもりにある若者たちを「新しい子どもたち」と定義して、社会を変革するきっかけになるというブログを書き記した。字数の関係で、どのようにして社会を変革するのか具体的な道筋を示さなかったので、改めて述べてみたい。まず、社会を変革するにはいろんな方法が考えられる。政治・行政・市民活動等によって社会の改革がされてきた歴史がある。社会全体の価値観や生き方そのものを変えるには、やはり教育から変える必要があろう。教育界におけるイノベーションを起こさなければならないと考えている。

イノベーションというと、日本語では「技術革新」と一般的に訳されている。企業における新商品の開発、または革新的な品質・性能の向上に用いられている。しかし、本来この「イノベーション」という語句の意味は、単なる技術革新だけではない。イノベーションが初めて提唱されたのは今から80年前のことであり、オーストリアのシュンペーターという人物が発表した語句である。彼は、今までの企業経営や製品開発ではいずれ行き詰るから、イノベーションを継続的に実施しなければならないと提唱した。その手法として、『創造的破壊』と『統合』が必須であると説いたのである。

さて、教育界におけるイノベーションについて具体的に述べてみたい。現在の教育界に存在している価値観とは、客観的合理性の追求であり、能力至上主義である。明治維新以降の近代教育に欧米から導入して、日本の近代的発展に寄与した。ところが、この客観的合理性の教育が自分中心で利己主義の人間を育成したばかりでなく、主体性、自発性、自主性、責任性の欠落した人間を大量に生み出したのである。さらには、行き過ぎた競争主義の導入が、教育環境を悪化させ、教師と生徒児童、子どもどうし、教師と保護者などの関係性を希薄化もしくは劣悪化させてしまったのである。だから、教育界にいじめやパワハラ、モラハラ、アカハラが起きてしまったのである。

本来、お互いの人間関係が豊かで良好であり、お互いに支え合う学校というコミュニティが存在するなら、いじめなどの問題は起きないし、指導死などというとんでもない事故も存在しえない。生徒児童どうしがお互いに慈しみ合うような関係にあるなら、不登校や引きこもりなどの問題は起きない。それぞれの関係性が悪いから、学校の在り方そのものに問題があり、不登校という形で問題が顕在化しているのである。とすれば、教育界に蔓延る間違った価値観そのものを一度破壊して、新しい価値観を導入すべきであろう。その価値観とは、全体最適と関係性重視の哲学である。

オランダの小学校では、システム思考の学びをしているという。この世はシステムであるから、そのシステムの原則に則った生き方をすることを指導しているのである。そのシステム思考の原則が、全体最適と関係性重視の価値観である。MIT(マサーチューセッツ工科大学)の上級講師であるピーター・センゲ氏が『学習する組織』という著作で説き、全世界に広がりを見せている理論である。大企業の役員は、システム思考の価値観学習に本気で取り組んでいる。システム思考しか、企業内の問題を解決し、企業が生き残る方法はないと確信しているからである。

教育界に蔓延っている古い価値観である、客観的合理性重視主義、言い換えるとニュートン以来の要素還元主義では、問題は解決出来ないばかりか、益々問題が先鋭化するばかりであろう。不登校・いじめ・指導死などの問題は、益々増大化・先鋭化するばかりである。このような低劣化してしまった価値観を手放して、新しい価値観であるシステム思考を教育界に導入すべきと考えている。オランダばかりでなく、他の欧米諸国もこのシステム思考に注目していて、学校教育と社員教育に導入しようと計画している。

何故、このシステム思考が青少年の健全育成に有効かというと、宇宙の仕組み、地球の仕組み、自然界の仕組み、人体の仕組み、社会の仕組みなどすべての万物がシステム思考によって成り立っているからである。量子力学や宇宙物理学、または分子生物学、最先端の脳科学で明らかになっているように、すべてのものは実体として存在せず、関係性によって存在しているからである。しかも、それらの構成要素は、自己組織性を持っていて、全体の為に働いているのである。つまり全体最適と関係性重視のシステムとして機能しているのである。このシステム思考を教えた子どもたちは、生き生きとして自ら学習する。子どもたちは、本能によってシステム思考が正しいと認識し、全体最適と関係性重視の生き方を志向するのである。教育界の古い価値観をぶち壊し、システム思考という正しい価値観を導入するイノベーションを起こそうではないか。

 

※イスキアの郷しらかわでは、このシステム思考の学習をしています。ピーター・センゲ氏が説いたシステム思考、自己マスタリー、メンタルモデルなどの学びをしています。ピータ・センゲ氏が説いているのは、非常に難しく理解しにくい学説です。イスキアの郷しらかわでは、子どもでも理解しやすいようにストーリー性のある優しい言語で説明しています。是非、研修会としてもご利用ください。

新しい子どもたち~不登校児が社会を変える~

不登校の子どもたちは、学校生活に馴染めない子ども、または学校に不適応の子どもたちだという認識の人が多いに違いない。つまり、学校に行く子どもが正常であり、行けない子どもはイレギュラーだという考え方が支配的だということだ。本当にそうなのであろうか。不登校の子どもというのは学校における落ちこぼれだということを表だって言う人は少ない。しかし、教育関係者の殆どがそう思っているのではないかと推測できる。でも、これが間違っているとしたらどうだろうか。

不登校になるきっかけは、学校における子どもどうしのいじめ、教師による不適切な指導、部活などにおける人間関係悪化や不振、成績不振や学業の不適応等様々である。そして、不登校になるのは、心の優しい子どもたちが多い。つまり、どちらかというと繊細な気持の子どもであろう。心が強ければ学校に行けるのに、行けないというのは弱い心を持つからだと、教師の保護者も思ってしまうことが多い。そして、学校に無理しても行かなくてもいいと思い込んでしまう保護者が多い状況にある。

不登校や引きこもりの原因を子育ての失敗や本人気質・性格、またはメンタルの障害だと思い込んでしまっている人は多いであろう。精神医療に携わる医師やカウンセラーでさえも、そんなふうに認識している人は少なくない。だから、日本の社会では不登校・引きこもりが少なくならないし、増加しているのである。そんなとんでもない偏見に対して、実際に不登校や引きこもりを支援している方たちは、違和感を覚えている。どこがどのように違うのかということは明らかに出来ないものの、何となく子どもたちに原因があるのではなく、不登校・引きこもりの本当の原因は他にあるのではないかと感じている。

不登校を引き起こすのは、学校や社会の在り方が本来の理想と違っていて、間違った方向に進んでいるからではないかと見ている児童精神科医がいる。それも、今から20年以上も前から、社会に対して警告を発している。その代表的な精神科医は、崎尾英子先生である。また、児童精神科医で人格障害の権威として著名な岡田尊司先生である。崎尾先生は国立小児病院の医長をされていて、NHKラジオの不登校の保護者相談をされていた。ベイトソンとギリガンの研究では第一人者で「愛という勇気」という大作の翻訳もされている。残念ながら、鬼籍に入られてしまったと聞いている。岡田尊司先生は、あまりにも有名なので説明は不要であろう。

今の世の中は、非常に生きづらい。学校という環境も過ごしづらいし、職場に居場所がないと思っている人は少なくない。そして、地域や社会でも生きづらいし、家庭の中にも安心して生きられる場所がないのである。それは何故かというと、人間本来の生き方に反した社会であるからだと、崎尾先生や岡田先生は喝破されている。人間とは、本来はお互いに尊敬しあい、そして支え合って生きものである。過剰に競い合ったり、相手を蹴落としたりして、自分だけの利益や地位・名誉を求めるような社会であってはならない。ところが、学校、職場、地域社会は、身勝手で自己中心的な人間ばかりである。自分さえ良ければと思い、他人に対して思いやりや慈愛を注ぐことをしない世の中なのである。

不登校や引きこもりに陥っている子どもや若者は、そんな世の中に違和感を覚えているし、そんな環境に自分の身を置きたくないと思うのは当然だろう。不登校や引きこもりの人は、『新しい子どもたち』だと崎尾英子先生は考えていたと思われる。つまり、現代の生き方の誤謬に気付いて、人間本来の生き方を人々に考え直すきっかけを与えてくれているのではないかと考えたのである。不登校や引きこもりという現象は、特異なものではなく、起こるべくして起きたものであると考えていらしたと思われる。不登校という子どもたちが、我々大人に自分たちの間違いに気付けと警告を発してくれている主張されていた。

不登校や引きこもりを完全に解決するには、社会全体の価値観、または生きるうえで必要な思想・哲学を正しくするしかない。自己最適だけを目指し、関係性をないがしろにしてしまうような考え方と生き方は間違っている。社会の全体最適(全体幸福)を目指す生き方を誰もが志し、お互いの関係性を豊かにすることを常に志向する生き方を目指すべきである。地域、職場、学校、家庭も間違った価値観で進んでいるから、不登校や引きこもりという形で我々に間違いに気付いてほしいという悲痛な叫びをあげていると見るべきなのである。この『新しい子どもたち』に寄り添い、否定せずに耳を傾けて、望ましい社会に変えていく使命が我々にあるのだ。

知識教育から智慧の教育へ

日本の高等教育を見直そうという機運が盛り上がっている。今までは、知識偏重の教育であったが、それでは主体性や創造性といった、社会に貢献するうえで必須な能力が育たないからだという。今更そんなことを気付いたのかい、と呆れる一方であるが、どんなふうに教育を変えていくのか、お手並み拝見といきたい。明治維新以降、欧米の列強に負けじと、それまで綿々と続いてきた智慧の教育を切り捨ててしまい、近代教育を導入して、富国強兵の為に必要な知識や技能を修得する教育を始めたのである。そして、その傾向は、戦後に益々強くなり、人間として最も大切な思想哲学さえも切り捨ててしまったのである。それなのに、どのような手法で、知識から智慧の教育を展開しようとするのか、今の文科省のキャリア官僚が主導してそれを行なうならば、非常に難しいだろうと言わざるを得ない。

何故ならば、文科省のキャリア官僚を含めた行政マンたちが、今までの教育の間違いにまったく気付いていないからである。さらに、自分たちも近代教育を受けてきた当の本人であるし、高等教育までも受けているから、知識偏重の教育こそが必要だと信じて疑わないからである。ましてや、今の教育制度における過度の競争を勝ち抜いてきたのがキャリア官僚なのだから、知識を沢山身につけた者が勝ち組だという固定観念に捉われているのは間違いない。それをいまさら知識偏重教育を否定して、主体性や創造性を身につける教育をしようとしても、どうしていいのか解らないのは当然である。自分でも主体性や創造性を持ち得てないのだから、それを教育する手段なんて思いつかないのは当然である。

そもそも「ゆとり教育」として数年前に掲げた教育方針が間違っていたからと、以前の詰め込み教育に逆戻りしてしまったばかりなのである。あのゆとり教育が何故失敗したのか、本当の理由を知ろうともせず、ただ単に教育水準が低下したからという理由だけで、方針をいとも簡単に変更したのである。文科省のお役人たちが、知識教育から智慧の教育に変更するやり方を考え出せるとは思えないのである。さらに、こういう知識教育から智慧の教育にシフトする方法を、文科省のお役人だけでは考えられないから、外部の教育制度審議会に諮るだろうと思われる。その審議会委員のメンバーもまた、大学教授とか青少年教育の専門家であり、近代教育の弊害をまともに引き受けてきた人たちなのである。やはり、主体性や自発性を持たない人なのだから、それらを身につける方法などを、考え出せるとは到底思えないのである。

それでは何故、近代教育というものが主体性・自発性・責任性・創造性を育てることが出来なかったのであろうか。江戸時代以前の庶民や武士たちは、主体性・自発性・創造性を豊かに発揮していた。ところが、明治以降近代教育の制度を取り入れてから、知識偏重の教育になったせいもあり、主体性・自発性を発揮できる人間を育てることが出来なくなってしまったのである。ましてや、近代教育は要素還元主義が基本である。つまり、物事や事象を、一つ一つの要素に細分化して考えるという手法を取り入れたのである。当然、全体を見るということを観点がなくなったし、物事や事象を細かく分析して、客観性を持って批評的・批判的に観察するということしか出来なくなったのである。学校教育において、徹底して客観的なものの観方を叩き込まれたのだから、主体性を持てないのは当然である。

だから、近代教育、とりわけ優秀な高等教育を受けた人ほど、客観的合理性を持つ人間になってしまったのである。この客観的合理性というのが、実に困った人間を創り出す。批判的に観るという癖がついた人間は、主体性や自発性を発揮できないばかりか、身勝手で冷たく、相手の気持ちに共感できなくなり、相手の気持ちになりきって物事を考えることが出来なくなってしまうのである。智慧というのは、客観的合理性の教育では身につかない。客観的合理性、要素還元主義の教育というのは、言い換えると自我人格を育てる教育である。自己を育てるという教育をして来なかったツケが、今ふりかかってしまい、主体性や創造性を発揮出来ない若者を大量に生み出してしまったのである。

客観的合理性の教育が不必要だと言うつもりはないが、あまりにも知識偏向の教育にシフトするのは危険である。文科省は、哲学や思想などの価値観教育は高等教育では不要であり、国立大学では理工系の教育に主力を置こうとしている。国益を向上するには、智慧の教育よりも知識の教育が必要だと主張しているのである。しかし、主体性や創造性を育てる教育、人間教育としての思想哲学教育とも言える、自己を育てる教育こそが、今必要とされているのである。正しい価値観を身に付ける教育こそが、智慧の教育である。様々な教育問題が起きている今こそ、知識偏向の教育から智慧を育てる教育に変える時期に来ているのだと確信している。

運慶展(国立博物館)

国立博物館で運慶展が開催されていました。なかなか行けなくてようやく鑑賞することができました。運慶作の仏像がこんなにも多く集められたのは、最初で最後かと思われます。

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国宝 願成就院所蔵 毘沙門天立像

美術鑑定の技術も向上して、X線撮影によって仏像内部の状況も鮮明に解明することが出来て、運慶作と言っても間違いないという仏像が増えています。

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重要文化財 浄楽寺所蔵 阿弥陀如来三尊像

運慶がどうしてこんなにも人気があるのかといいますと、仏師としてのその技術の確かさもありますが、仏像そのものの魅力だと思われます。なにしろ、仏像の表情が独特でありまして、なんとも言えないリアリティーを感じます。まるで、生きているかのような生き生きとした表情は見る者を圧倒します。さらには、立像の肢体全体の姿勢が魅力的です。肢体が微妙に傾いて、下肢がその傾きをいかにも支えているように変化しています。そのバランスが絶妙に取れていて、抜群の安定性を感じさせます。

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重要文化財 浄楽寺所蔵 毘沙門天立像

運慶の仏像の魅力は、なんと言っても微妙な顔の表情だと思います。なんとも言えない憂いを含んだ表情、または悲しみや慈しみを心の奥底に湛え、見る者の共感を取り込むような、作像する際の感性の発揮はすごいと思います。

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国宝 興福寺所蔵 無著菩薩像

仏像というのは、私たち見る者の心を反映すると言われています。ですから、見る者の心の在りようによってどのようにも変化するとも言えます。悲しみを心に湛えている人は、悲しみの表情に見え、怒りの感情を我慢している人は、憤りの表情を見るようになります。そして、その感情を仏像がまるごと受け容れてくれて、共感するとともに癒してくれるのです。運慶作の仏像は、まさにそんな仏像だから、多くの人々を魅了しているのかもしれません。