見えない暴力に苦しむ妻

暴力事件が止まることがない相撲界であるが、暴力は困ったことに社会全般に蔓延している。学校教育現場にもあるし、企業内や行政組織内にも存在する。そして、家庭内にも暴力事案が起きているのである。この暴力という定義であるが、多くの人々は物理的な力を身体に加えたものと思っている。しかし、暴言やネグレクトなども立派な暴力であろう。パワハラ、セクハラ、モラハラなどのハラスメントは、もはや暴力として定義しても差し支えない筈である。心をいたく傷つけるのだから、被害者にとっては怖い暴力だと断言できる。

家庭内には、もっと恐ろしい見えない暴力が存在していることを認識している人は少ない。それは、夫から妻に対する卑怯で悲惨な暴力である。日常的にこの見えない暴力が妻を痛めつけている。妻とのコミュニケーションの中で繰り返される無言、無視、不機嫌な態度がそれである。そんなことが暴力とは言えないだろうと認識しているのは、夫ばかりではない。妻もまた、そんなことは暴力とは呼べないと思っているに違いない。始末に負えないことに、双方が暴力だと思っていないから、反省もせず毎日のように繰り返されるのである。だから、ボクシングにおけるボディブローのように、じわじわと妻の心を痛め続けるのである。

無言、無視、不機嫌な態度を夫がするのは、自分が悪いからだと妻は自らを責める。またもや、夫を怒らせてしまったのは自分の何がいけなかったのかと、自分を振り返り反省する。そして、自分さえ我慢すればすべてが上手く行くのだからと、例え夫が悪くても自分の言いたいことも心に仕舞い込むのである。女性というのは、微妙な表情やそぶりで相手の心を読むことができる。一方、男性はそういう感情の機微を推測できない鈍感な生き物である。だから、夫の微妙な目の動きや表情の変化を、妻は素早く敏感に感じ取り、機嫌を損なわないように努力する。ところが、妻の心が傷ついていることを感じ取れない夫は、益々見えない暴力を奮い続けることになる。

家庭内の日々のコミュニケーションを振り返ってみてほしい。妻は、お互いの気持ちを理解しようと、なるべく会話をしようと夫に話しかける。ところが夫は、男性脳を持っているから、女性脳とは違い一度に二つのことが出来ない。新聞を読んでいるとかTVを観ていると、妻との会話に集中できない。パソコンに集中していると、他のことが出来ないのが男性脳の特徴なのである。当然、妻の会話は殆ど聞いていないということが起きる。聞いていたとしても、上の空である。そうすると、ねえ聞いているの!と妻は怒る。夫は、黙ってしまい、不機嫌な態度を取る。これが、見えない暴力の一端である。

男性は、しばらく会話などしなくてもストレスは感じないし、問題なく生きられる。しかし、女性は社会性の高い生き物であるから、会話をしていないとストレスが高まるし、黙ったままの夫婦生活には耐えられない。夫が職場から帰宅するのを待ちかねていて、いろいろとその日の出来事や心配事について話したいのである。それを、無視、無言、不機嫌な態度で阻止されたら、妻には大変な暴力になってしまうのである。妻が病気になるのは、夫が原因だとして、『夫源病』と名付けられたが、目に見える暴力や暴言だけでなく、目に見えない悲惨な暴力の影響も大きいと言わざるを得ない。

男性と言うのは、非常に身勝手な生き物である。特に婚姻関係を結ぶと、妻は自分の所有物だと勘違いし、自分にとって都合のよい行動を妻に強いることが多い。それがかなわないと見るや、目に見える暴力や暴言によって、妻を支配しコントロールしようとする。さらに、陰湿な目に見えない暴力によってそれを強化する。特に独占欲の強い男性は、他の異性との接触や深い関係を嫌い、異性と同席する会合や懇親会に出さなくなるケースが多い。夫は、一人の人間としての妻の尊厳を、一切認めようとしないのである。

妻は、このような見えない暴力に屈してはならない。ましてや、夫がそういう態度を取るのは、自分が悪いからだと自らを責めてはならない。無言、無視、不機嫌な態度を取るほうが絶対的に悪いのであり、卑怯なのである。妻を心から愛するのであれば、夫はきちんとした言葉で説明すべきであろう。妻の言いたいこと訴えたいことを解ろうとする努力を惜しまず、妻の会話を真剣に傾聴し共感しなくてはならない。そして大事なのは、妻の気持ちになり切って会話することである。妻の悲しみを自分のことのように悲しみ、涙のひとつもこぼすくらいの態度を取ってほしい。そうすれば、見えない暴力を奮うこともなくなるに違いない。

 

※イスキアの郷しらかわでは、このような見えない暴力も含めて、夫からの暴力についての無料相談を受けています。または、このような暴力を未然に防ぐ対策の研修を承ります。遠慮なく「問い合わせフォーム」からご相談ください。

完璧な親を演じてはいけない!

駄目な親が子どもの健全育成を阻害するというのは、誰でも理解しているが、完璧な親もまた子どもの育成に悪影響を与えるということは、あまり知られていない事実である。特に男の子というのは、父親に対する憧れと尊敬が存在するものだが、あまりにも完璧で偉大な父親だと、子どもの自尊心が育ちにくくなり挫折してしまうことが往々にしてあるのである。自分の身の回りで、こういう親子が多いことに気付くことであろう。教養も高くて社会的な地位と名誉もあり、非の打ちどころもないような父親の息子が、問題行動をするケースが少なくないのである。

芸能人の世界でもよくあるケースであるが、一流の芸能人の子どもが薬物中毒事件を起こすことがある。スポーツ界では、超一流のアスリートの子どもは同じスポーツで大成することが殆どなくて、どちらかというと二流で終わることが多い。例えば、プロ野球の野村監督の息子や長嶋監督の子どもが二流のままで終わったのは以外に思った人も多いことであろう。ただし、親と違う種類のスポーツ界では大成することがある。中小企業のオーナー社長で、一代で大成功を収めた二代目または三代目は失敗することが多いし、跡を継ぐのを嫌がって違う仕事を選ぶケースが少なくない。

 

ある日の我が家の食卓で、17歳になる三男と父親(私)の会話である。

三男「今日学校で先生がエディプスコンプレックスという話をしてくれたよ。お父さん知っている?」

私「勿論、知っているよ。父親に対する息子の劣等感だろう」

三男「そうだよ、オイディプスというエジプトの王子が父親の王様を殺して、母親と結婚する話だよ。それから転じて、父親を精神的に乗り越えることが出来ないと、一生エディプスコンプレックスを持つことになり、自己肯定感を持つことが難しくなるらしいよ」

私「へえー、そんなことを教えてくれる先生がいるんだ。それはいい先生だ。だから、非の打ちどころがない完璧な人格を持ち、誰からも尊敬され名声も地位もある父親だと、子どもは父親を乗り越えることが出来ずに、一生苦しむことになるんだよ」

三男「そうそう、そんなことを先生も言っていた。だから、立派過ぎる父親だと乗り越えるのに苦労するらしいよ」

私「そうなんだよ、お前がお父さんを乗り越えるのに苦労すると思い、完璧な親ではなくて、わざといい加減で駄目な父親を時々演じてあげているんだよ。時々、酔っ払ったふりして、どうしようもないなと思えるような親を見せているんだからね」

三男「そんな無駄なこと必要ないよ。僕はとっくにお父さんを乗り越えているよ。僕はお父さんの遥かに上を行ってるからね。もう駄目な親を見せなくてもいいんだよ」

私「えっ、・・・・・」

妻「そりゃ、息子のほうが一枚も二枚も上だね、確かにあんたのほうが負けてるよ」そう言って、他の息子たちと大笑い。私はショックで何も言えず苦笑い。

 

偉大で完璧な親を乗り越えられないことにより、すべての自己否定感が生まれる訳ではない。他にも自己否定感が生じる様々な原因がある。しかし、このエディプスコンプレックスはやっかいなものであり、実際にこのコンプレックスをずっと持ち続けるが故に、自分に自信がなくなり、苦難困難に立ち向かうチャレンジ精神を持てなくなり、逃避性の性格を持ち続けるケースがある。また、依存性のパーソナリティが強く残ってしまい、自立が阻害される例も多い。つまり、不登校や引きこもりに陥るケースが少なくないのである。社会的地位や名声を持ち、立派な学歴や教養を持つ親は注意が必要であろう。

非の打ちどころがなく完璧で立派な親の後ろ姿を見せるのは構わないが、時々は弱くてどうしようもない人間臭い親の姿を、子どもに見せることも必要ではないかと思う。そうすれば、子どもは安心して親から自立して羽ばたいていくに違いない。そのためには、深い親子の触れ合いが大切である。子どもが寝てしまった後に深夜帰宅して、休日にも出勤してしまうような親は留意しなければならない。または、単身赴任の親も要注意だ。時には、親子でじっくりと時間を共有して、弱くて駄目な人間や子どもじみた親を演じるのも必要なのではないだろうか。完璧な親を演じるのだけは止めようではないか。

パーソナリティ障害は治らないのか

パーソナリティー障害というのは、あくまでも単なる精神疾患ではないと言われている。確かに、性格や人格の偏りという捉え方もされているので、世間一般で言われているような精神疾患とは違う括りとして扱われているようである。そして、精神科医からみたら一番扱いにくく手強い精神障害であろう。治療が非常に難しく時間がかかることもあり、治療をしたがらない傾向が強い。現在の精神科医療は、爆発的に増加した患者に懇切丁寧に対応するのが物理的に難しくなり、投薬治療に頼らざるを得なくなっているという不幸な状態にあるので仕方ないかもしれない。

パーソナリティー障害の治療を困難にしている訳は、このパーソナリティー障害によって様々な併発する精神疾患が存在するからでもある。パーソナリティー障害を以下、便宜上PDと略することをお許し願いたい。例えば、境界型や反社会性のPDは、薬物依存やアルコール依存症を併発しやすいと言われている。回避性や依存性のPDは、うつ病を発症しやすいらしい。回避性のPDは社会不安障害を併発することが多いという。このように、いろんな精神疾患を起こして精神科医を受診して診察した結果、根底にこのようなPDが存在しているということが判明するのであろう。

このような合併症である精神疾患を最優先にして精神科医は治療行為をするのであるが、主に投薬や心理療法で寛解に向けて努力しても、残念ながらPDの改善は困難であることから、治療効果が上がりにくい。さらには、一度寛解したとしても再発することが多いという。治療が難しいのは特に境界型のPDである。何故ならば、境界型のPDは他のPDと複合のPDであるケースが多いからでもある。そして、自殺念慮を持つ境界型のPDがすごく多いとも言われている。うつ病単独の患者の自殺念慮は約3割なのに、境界型のPDの自殺念慮は6割以上あると言われている。

このように境界型のPDを初めとして、様々なPDの治療が困難なうえに、他との複合のPDが存在するし、自殺念慮もあることから、精神科医や各種福祉施設や支援施設も、本音では関わりたくないと思っている関係者が少なくない。特に医療機関では、境界型のPDの患者が自殺するケースもあったりして、入院患者として受け入れることに及び腰になりやすい。相談で関わったある父親の境界型PDの息子さんは、過去に何度も入院している精神科のある病院に緊急入院をしたいと行ったら、門前払いを受けたという。仕方なく帰宅した後に、不幸にも自宅の納屋で自殺してしまった。訴訟問題にも発展している。

このように、境界型のPDや複合型のPDはとても治療が難しいし、あまり治療効果が上がらないこともあり、さらには訴訟問題にも発展しやすいことから、医療機関は診療拒否ぎりぎりの対応をするケースが少なくない。だから不幸にも最悪の結果を迎えてしまうケースもあるのだ。さらに難しいのが、境界型のPDは信頼できる治療者に対して、転移や依存が起きやすい点である。境界型のPDは若い女性が多いが、理想とする父親像と治療者とを重ね合わせてしまう傾向がある。すべて依存してしまうこともあるし、恋愛感情に発展してしまうことも少なくない。だから、傾聴と共感のカウンセリングが非常に難しいのであろう。

しかし、だからといって境界型のPDを含めてすべてのPDの改善が出来ない訳ではない。一番効果のあるのが、生活習慣や生活環境を一変させて改善することである。出来たら、まったく自宅と違う環境にしばらく滞在して、食生活や普段のライフスタイルを一変させることが有効であろう。食事は、オーガニックの食材を用いて伝統的な和食の調理法で、野菜中心の食事をすることがよい。それまで溜め込んだ人工的な添加物や農薬と化学肥料をデトックスことが必要である。さらには、腸内細菌を活性化させる食事とおやつを食べることがよい。出来たら着用る洋服、特に下着はオーガニックの綿製を着て、回りの環境も出来る限り自然素材にするとよい。

さらには、運動療法がとても効果がある。のんびりとした農作業や自然体験、または少しハードな登山などもよい。対人関係で苦労しない、個人で楽しめるスポーツもよい。ヨガもよいしフィットネスもいいだろう。音楽鑑賞や楽器演奏もよいと思われる。周りの人々が愛情豊かに支援する場所で、安心できるに身を置くことが有効であろう。そして、何よりも大事なのは家庭に安心できる平穏な場所を確保することである。家族の関係性を見直して、豊かで平和な関係性を再構築されることを勧めたい。PDは『愛』が不足して起きると言われている。それも、慈悲や博愛のように見返りを求めない愛を求めている。PDはそのような豊かな愛によって心が満たされて、安心する居場所を確保された時に寛解するに違いない。

 

※イスキアの郷しらかわは、治療施設ではありません。あくまでも支援施設ですから、パーソナリティ障害を治癒させることは出来ないということをご承知ください。保護者の方の相談にいらっしゃる場所として、または患者さんご本人の保養施設としてご利用されることは歓迎いたします。さらには、目いっぱいに頑張っていらっしゃる保護者の一時休憩所としても最適です。主治医のご意見やご指導に添った対応をさせていただきます。下記の問い合わせフォームからご相談ください。

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不倫報道の深層心理分析

不倫報道は止まるところを知らない。連日に渡り芸能人や政治家・スポーツ選手など有名人の不倫報道が、マスメディアを賑わしている。特に、週刊文春と週間新潮はスクープ合戦を繰り広げており、それに乗じてTV各局のワイドショーがこれを取り上げている。今年は特に多いらしくて、計35~36回の不倫報道があったらしい。これらの不倫報道に対して、ワイドショーの出演者たちが、おしなべて批判的なコメントをする。少しでも擁護でもしようものなら、視聴者からの容赦ないバッシングが届くのだから、我が身を守るには批判的にならざるを得ない。

それにしても、日本という国は平穏だというか、平和ボケした国民だと思われる。報道すべき大切なことが他に沢山あるだろうに、不倫報道にかかる時間は必要以上に多い。昔からゴシップ記事を載せた婦人週刊誌は売れていたし、不倫報道を扱うワイドショーは視聴率が高い。それだけ一般市民が知りたがっている情報だということで、週刊文春や週刊新潮という比較的お堅い週刊誌までが、不倫を扱うようになってしまった。芸能誌や写真週刊誌が扱うならまだしも、正統派の週刊誌までも不倫報道をするなんて、実に情けないことである。

週刊文春や週刊新潮に、難関を突破して入社したエリート記者たちは、こんな下卑た記事を書いたり編集したりするとは夢にも思わなかったであろう。勿論、こんな不倫報道の記事は正社員が書くのではなく、外部の委託社員が持ち込む記事であろうが、こういう記事を買い取ったり編集したりすることを、正社員たちはどのように感じているのか興味がある。もしかすると、報道記者としての矜持さえなくしてしまっているとしか思えないのである。営利企業だとはいえ、こんな下劣な不倫報道を何度もスクープして喜んでいるというのは、彼らに報道哲学が存在しないという証左ではないだろうか。

テレビ局の記者たちも同様である。こんな不倫報道のスクープ合戦に、嫌気がささないのであろうか。報道記者としてのプライドがないのに等しい。政治や経済関連の報道は、国民に正しい情報を伝えるという報道記者の使命を全うするので、報道のしがいもあろう。不倫報道をして、社会的にどんな意味があるのだろうか。無理やりこじつければ、不倫という行為が愚かなことであり、自分の身を亡ぼしてしまう行為だから、絶対にしてはいけないことを教示しているとも言える。しかし、一般人の不倫がばれることは殆どないのだから、不倫報道によって自分が不倫を止めるということは考えにくい。

さて、このような不倫報道をする週刊誌やTV局の記者たちの心理を分析してみよう。彼らの深層心理においては、著名人の不倫報道にこれだけこだわるというのは、成功している者や富裕者に対する妬みや嫉みがあるからではなかろうか。勿論、このような不倫報道とその不幸な結果を知りたいと求める一般市民がいるからであり、このような市民もまた深層意識において、幸福な人に対するジェラシーがあるように感じる。幸福な人間を自分と同じ不幸な境遇に引きずり下ろしたい深層意識があるように思えて仕方ない。

古来より他人の不幸は蜜の味と言われてきたが、自分が幸福だと実感している人はそんなことを求めない。真の幸福とは、物質的金銭的な豊かさではなくて、家族や周りの人から敬愛されて、必要な人として求められることであろう。それが満たされていなくて、愛されていない人が、不倫報道とその悲惨な結果を求めるし、不倫は許されないと憤るのではないかと思う。もしかすると、深層意識で不倫願望があって、それが叶えられないことの裏返しではなかろうか。実に卑劣で、情けないことである。

不倫と言うのは、本来は秘め事である。その秘め事は、絶対に他人には知られてはならないことであるし、その秘め事により周りの人々を不幸にしないという暗黙のルールがあった筈である。とすれば、その秘め事をあたかもスパイのような行為で明らかにして、それを記事にしたり報道したりするのは、ルール違反だと言えないだろうか。勿論、不倫はしてはならないことである。だとしても、その不倫行為は本人が罪悪感を持ちながら、または自己責任を取る覚悟で実行する行為であり、他人がとやかく言うべきものではない。不倫報道により、たくさんの人々の不幸を招いたり不信感を植え付けたりするのは、報道に携わる人間としてやってはならないことであろう。報道哲学と社会正義を発揮し、森友・加計問題や検査偽装事件が何故起きたのか、再発防止に向けた課題を真剣に掘り下げるなどの報道を強く望むものである。

 

一緒にいると癒される人

この人と一緒にいると何故かほっとする、というような人と出会ったことがあるだろうか。たぶん、そんな人と何度か出会ったことがある筈である。しかし、こういう人は世の中において圧倒的に少数である。出会う殆どの人は、一緒にいると疲れる人だからだ。一緒にいるとほっとして、何となく癒されるという人に出会ってみたいし、こんな人と一緒に暮らせたら、どれほど幸福なんだろうと思ったことだろう。または、癒しを与えてくれるような人と少しの時間だけでも共有したいし、こんな人にカウンセリングを受けたいと思うであろう。

今一緒に暮らしている伴侶も、結婚する前の時代には一緒にいると癒されると思った時期もあったと思われる。それなのに、結婚して何か月か経つと、一緒にいると疲れるようになるのである。実に不思議な事であるが、結婚する前後の蜜月の時期には、あれほど幸福な気分だったのに、いつの間にか一緒にいると疲れる相手になってしまうのである。恋人でも同じケースがありうる。最初は寛容で癒しを提供してくれたのに、何年も付き合うと徐々に疲れを感じるのである。あの一緒にいると癒される人は、どこに行ってしまったのであろうか。

どうして、伴侶も含めて一緒にいると疲れる人になってしまうのか、逆に何十年経っても疲れる人にならないのは、その原因について考えてみたい。そして、一緒にいると癒される人とはどういう人なのかを明らかにしたい。まず、パートナーが一緒にいると疲れる人になってしまう訳というのは、結婚すると相手を支配しコントロールしようとするからである。自分にとって都合のよい理想の相手になってもらいたいと、あたかも自分の所有者のように相手を支配し始める。そして、あらゆるコミュニケーションの手法を駆使して、相手を自分の思い通りに制御し始めるのだ。

人間は、本来自由でありたいし、自分の思い通りに生きたいものである。それが、いくらパートナーであっても、相手の思い通りにコントロールされるのは嫌なのである。そうすると、いつも支配され制御される言動に振り回されると、精神が疲れてしまうのである。たいていの人間は、利害関係がある相手に対しては、自分の価値観や人生観を知らず知らずのうちに押し付けてしまうものである。まったく利害関係がなくても、無意識のうちに相手を自分の話のペースに巻き込んで、自分の気持ちを解ってほしいと思うものである。こういう人と一緒にいると、疲れてしまうのであろう。

ところが、長い時間に渡り話をしても疲れるどころか、逆に元気になり癒してくれる人がいる。こういう人は、自分に共感してくれるし、自分を認めてくれる。しかも、自分を否定せずまるごと受け入れてくれるのである。自分の悪い点や嫌な部分も含めて、許してくれるのである。つまり、寛容性と受容性がひと際高い人なのである。このように一緒にいると、癒してくれる人というのは、言ってみれば許容力と包容力の高い人であり、真の自己確立をしている人でもある。だから、出会う相手の尊厳を認めてくれる人なのである。

このように出会う相手を癒してくれるという人は、自己マスタリーを確立した人である。自分の心の中に存在する嫌な部分やみっともない部分があることを、目を背けずにまるごと受け入れて、そういうマイナスの自己も含めてすべての自分を認め受け容れている人である。マイナスの自己も含めた自分をまるごとありのまま愛せる人でもあるのだ。だからこそ、相手のマイナスの自己も含めてすべてを受け容れて愛せるのである。したがって、寛容性と受容性をどんな人に対しても発揮できるのである。こういう人と出会うと、何故かほっとするし癒されるのである。

残念ながら、このように自己マスタリーを完了した人間は極めて少ない。今でも敬愛して止まない森のイスキアを主催していた佐藤初女さんは、自己マスタリーをしていたからこそ多くの人々を癒していらした。児童精神科医の崎尾英子先生も、同じようにカウンセリングで多くの相談者を癒していらした。残念ながら、このお二人は既に鬼籍に入られてしまった。このお二人をわが師としてリスペクトし、イスキアの郷しらかわの利用者に接して行きたいと思う。相手をけっして否定せず、支配せず、制御せず、あるがままにまるごと受け止めたい。これ以上ないという癒しを『イスキアの郷しらかわ』で提供し続けることを誓う。

SNSで個人攻撃する人

実名こそ出さないが、記事を読めば誰だか特定できる個人をSNS上で攻撃する人がいるらしい。何が気に入らないのか解らないが、個人攻撃を執拗に何度も繰り返すという。または、特定の団体や組織名を上げて攻撃しているケースもある。SNSという世界は、あくまでも個人の私的情報発信である。言ってみれば個人の日記でもあり、私的な意見を述べているに過ぎない。それが気に入らないと言って、個人が特定できるようにわざと個人情報を晒して、その意見は間違っているとこれみよがしにSNS上で反論するのは、ネットのマナー違反である。

確かに、論理的な破たんが見え隠れするような意見もあるし、科学的な根拠に乏しいものや観念論に終始するような幼稚な意見・情報も見受けられる。しかし、それでも一所懸命に苦労してブログを書いたり情報発信したりしているのである。それなのに、あなたは論理的に、そして科学的に間違っているんだと、特定の個人・団体だと分かるようにして批判するのは頂けない。万が一間違った意見や情報を鵜呑みにして、本人が不幸になったとしても、それは自己責任であろう。人命が損なわれるようなことがなければ、例え間違った情報だとしてもスルーするのが礼儀というものだ。

もし、この情報を読んで多くの人が大変な事態に陥るということが明確ならば、他の人には解らないように、本人にそっと教えてあげればいい。実際にそんなことは、万が一にもない筈である。SNSはネット上における、関係性を豊かにする為のツールである。関係性を損なうようなことをSNSでやってはならないのは当然なことである。勿論、SNSでの意見や情報の発信は、慎重でなければならない。誤った情報を信じた第三者が、間違った生き方や食生活に変えたり、やみくもに近代医療を拒否したりして疾病が重症化することもない訳ではない。そういう意味では、人の生命に影響を与えるような不確かな情報を発信してはならないのは当然だ。

SNS上で個人が特定されるように攻撃してくる人は、意外と論理的な思考傾向にある人が多い。教養もあって学歴も高い。だから始末に負えないのである。自分が正しいのだから、誤った情報は正さなければならないと、正義漢ぶって攻撃して来るのである。しかし、科学的根拠を示して間違いを正しているが、あくまでも現在の科学的な根拠であり、学会で報告されたものである。何年か後には、その科学的な根拠が間違いだったということもあり得るのである。天動説が間違いだと証明されたし、ニュートン力学だって現在は支持されていない。あらゆる物質は実体がないなどと言っても、以前は誰も信じなかったのであるが、今は通説となっている。

世の中にはまだまだ不思議なことが沢山あるし、解明されていないことだって山積みである。だから、現在の科学で検証されていることだけを信じるのも愚かだし、科学的に証明されないものはすべて間違いだと嘯くのも危うい。もっと大きな包容力を持って、SNSを楽しんでもらいたいと思う。スピリチュアリティに対して非科学的だとか、代替医療は科学的合理性がないなどと断言するのは、如何なものであろうか。近代医学だって、あと50年後には否定されるかもしれないエビデンスがあるかもしれない。有名な科学雑誌に載った論文だから正しいとは言い切れないのである。

SNSで個人に対する批判的な記事を書いたり、批判コメントを執拗に載せたりする人は、おそらくパーソナリティに大きな歪みがあると推測される。大きな自己否定感情を無意識下で抱えているが故に、執拗に他人を攻撃し貶めて、自分を正当化して自己肯定感を高めているのであろう。真の自己確立をしていないから、寛容性と受容性が極端に低くて、他人を批判・非難したがるのである。自分でもその異常性に気付いていないから困ってしまう。攻撃された人が気の毒である。こういうSNS上で攻撃性を持つ人は、即ブロックすればよい。リアルの世界でもなるべく付き合わないようにして、遮断するに限る。間違いなく自己愛性のパーソナリティ障害であるから、関わらないのが無難なのである。勇気を奮って皆で一斉にブロックするのも、本人に気付かせる有効な手段であろう。

今でも尊敬して止まない崎尾英子先生

今から20年くらい前に、児童精神科医として臨床においても、または学術研究の分野においても、先駆的な活躍をされた人物がいらした。それは、当時国立小児病院の精神科の医長をされていた、崎尾英子さんという優秀なドクターである。彼女は、児童精神科医のスペシャリストでもあったが、カウンセラーとしても多大な実績を残されていらした。カウンセラーとして実際に対面して、かなりの時間を要しての相談でさえなかなか効果あげるのは難しいのに、彼女は電話で僅か10分程度の相談で、保護者のあらゆる疑問に答えるだけでなく、的確な助言と深い安心感を与えていたのである。

崎尾英子先生は、NHKラジオで不登校の子どもたちの保護者への電話相談をしていらした。レギュラー回答者として、週一回の出演をされていたのである。当時、劇的に増加していた不登校児に対する質問が多く、非常に難しい質問をされる保護者が多かったと記憶している。質問をする人は、女性が圧倒的に多くて、母親か祖母であるケースが殆どだった。そして、そのプチカウンセリングであるが、崎尾先生はあたかも保護者がどう答えるのかを予想しているかのように、的確でしかも温かみ溢れる質問を保護者にしていた。勿論、けっして威圧的な態度ではなく、限りなく優しくである。そして、けっして答は与えるのでなく、その質問に答える形で保護者が気づいたり学んでいたりしたのである。

カウンセリングの基本とは、傾聴と共感だと言われている。そして、本人が気付いたり学びをしたりするように、質問をするだけで指示や指導をするべきではないというのが定説である。とは言いながら、限られた時間の中でカウンセリングをすると、明確な答を出すようにとついつい誘導してしまう傾向になる。ところが崎尾先生は、一度もそういう場面がなかったのである。たかだか平均すると10分程度の時間に、不思議なように保護者が自ら進んで変化するのである。自分が進化すべきだということを気付き、自主的に変わっていくのである。

崎尾先生も自著の中で記されているが、電話相談の保護者も含めて相談者を自己否定に導いてはならないとおっしゃっている。それは、不登校児も保護者もすべてそうである。そして、不登校児の教育に携わる人間に対しても同じだと主張されている。人間的にも未熟で、しかも自己確立のしていない人間は、他人に対して寛容になれない。だから、自我人格と自己人格の統合を経ていない人間は、いくらカウンセリングの技術が優れていたとしても、カウンセラーとしての実務をしてはならないと思う。ところが、専門の大学を出て大学院で臨床心理士の資格を得たとしても、残念ながら自己確立をしている人は多くない。

崎尾英子先生のような素晴らしいカウンセラーとは、滅多に出会えないだろう。先生の電話相談を聞くのが楽しみだった。それこそ、先生に心酔し切ってしまい、著作はすべて購入して愛読書にした。スティーブン・ギリガンの著した「愛という勇気」という専門学術書(崎尾先生訳)まで購入して読んだ。先生の著書には、珠玉のような素晴らしい教えの数々が書かれていた。それらの教示は、多くの気付きと学びを与えてくれた。今の自分があるのは、崎尾先生のお陰だと言っても過言ではない。先生は国立小児病院を退職された後、クリニックを開院して院長として活躍され、2002年にご逝去されてしまったとのこと。惜しい方を亡くしてしまったものである。

崎尾先生のようなカウンセリングを、世の中の精神科医と臨床心理士たちが実施したとしたら、多くの不登校児とその保護者を救ったことであろう。崎尾先生のような臨床医や臨床心理士、そして精神保健福祉士がこれから多数輩出することを願っている。残念ながら崎尾先生の指導を直接受けることは叶わない。一度会いたかったと思っているが、残念なことである。これから崎尾先生のご遺志を継いで、不登校や引きこもりの若者を支援していきたい。勝手ながら、崎尾先生を心の師匠だと思っている。崎尾先生の貴重な教えを守って、少しでも師匠に近づきたいと願っている。

新しい子どもたち~不登校児が社会を変える~

不登校の子どもたちは、学校生活に馴染めない子ども、または学校に不適応の子どもたちだという認識の人が多いに違いない。つまり、学校に行く子どもが正常であり、行けない子どもはイレギュラーだという考え方が支配的だということだ。本当にそうなのであろうか。不登校の子どもというのは学校における落ちこぼれだということを表だって言う人は少ない。しかし、教育関係者の殆どがそう思っているのではないかと推測できる。でも、これが間違っているとしたらどうだろうか。

不登校になるきっかけは、学校における子どもどうしのいじめ、教師による不適切な指導、部活などにおける人間関係悪化や不振、成績不振や学業の不適応等様々である。そして、不登校になるのは、心の優しい子どもたちが多い。つまり、どちらかというと繊細な気持の子どもであろう。心が強ければ学校に行けるのに、行けないというのは弱い心を持つからだと、教師の保護者も思ってしまうことが多い。そして、学校に無理しても行かなくてもいいと思い込んでしまう保護者が多い状況にある。

不登校や引きこもりの原因を子育ての失敗や本人気質・性格、またはメンタルの障害だと思い込んでしまっている人は多いであろう。精神医療に携わる医師やカウンセラーでさえも、そんなふうに認識している人は少なくない。だから、日本の社会では不登校・引きこもりが少なくならないし、増加しているのである。そんなとんでもない偏見に対して、実際に不登校や引きこもりを支援している方たちは、違和感を覚えている。どこがどのように違うのかということは明らかに出来ないものの、何となく子どもたちに原因があるのではなく、不登校・引きこもりの本当の原因は他にあるのではないかと感じている。

不登校を引き起こすのは、学校や社会の在り方が本来の理想と違っていて、間違った方向に進んでいるからではないかと見ている児童精神科医がいる。それも、今から20年以上も前から、社会に対して警告を発している。その代表的な精神科医は、崎尾英子先生である。また、児童精神科医で人格障害の権威として著名な岡田尊司先生である。崎尾先生は国立小児病院の医長をされていて、NHKラジオの不登校の保護者相談をされていた。ベイトソンとギリガンの研究では第一人者で「愛という勇気」という大作の翻訳もされている。残念ながら、鬼籍に入られてしまったと聞いている。岡田尊司先生は、あまりにも有名なので説明は不要であろう。

今の世の中は、非常に生きづらい。学校という環境も過ごしづらいし、職場に居場所がないと思っている人は少なくない。そして、地域や社会でも生きづらいし、家庭の中にも安心して生きられる場所がないのである。それは何故かというと、人間本来の生き方に反した社会であるからだと、崎尾先生や岡田先生は喝破されている。人間とは、本来はお互いに尊敬しあい、そして支え合って生きものである。過剰に競い合ったり、相手を蹴落としたりして、自分だけの利益や地位・名誉を求めるような社会であってはならない。ところが、学校、職場、地域社会は、身勝手で自己中心的な人間ばかりである。自分さえ良ければと思い、他人に対して思いやりや慈愛を注ぐことをしない世の中なのである。

不登校や引きこもりに陥っている子どもや若者は、そんな世の中に違和感を覚えているし、そんな環境に自分の身を置きたくないと思うのは当然だろう。不登校や引きこもりの人は、『新しい子どもたち』だと崎尾英子先生は考えていたと思われる。つまり、現代の生き方の誤謬に気付いて、人間本来の生き方を人々に考え直すきっかけを与えてくれているのではないかと考えたのである。不登校や引きこもりという現象は、特異なものではなく、起こるべくして起きたものであると考えていらしたと思われる。不登校という子どもたちが、我々大人に自分たちの間違いに気付けと警告を発してくれている主張されていた。

不登校や引きこもりを完全に解決するには、社会全体の価値観、または生きるうえで必要な思想・哲学を正しくするしかない。自己最適だけを目指し、関係性をないがしろにしてしまうような考え方と生き方は間違っている。社会の全体最適(全体幸福)を目指す生き方を誰もが志し、お互いの関係性を豊かにすることを常に志向する生き方を目指すべきである。地域、職場、学校、家庭も間違った価値観で進んでいるから、不登校や引きこもりという形で我々に間違いに気付いてほしいという悲痛な叫びをあげていると見るべきなのである。この『新しい子どもたち』に寄り添い、否定せずに耳を傾けて、望ましい社会に変えていく使命が我々にあるのだ。

自殺念慮の人を救うには

座間市で起きた悲惨で卑劣な殺人事件は、ご遺族に深い悲しみと苦しみを与えたことであろう。さらには、こんな事件が起こり得る社会であるという驚きを多くの人にもたらしたと言える。被疑者の動機、どうしてこんな犯罪を起こすことになったかというプロセスがいずれ明らかにされるだろうが、他人事ではないということを我々は認識すべきであろう。このような加害者の親族になることもあり得るし、被害者の親族になることもあり得ないことではない。被疑者や被害者のご家族・ご親族の気持ちになり切るならば、このような犯罪が起きた要因について軽々しく述べるべきではないことは承知しているが、今後このような事件が起きない為に、敢えて自殺念慮者の心の裡を洞察してみたい。

座間市の殺人事件の被疑者は、自殺願望者であることに付け込んで犯行を行ったと言われている。さらに、被害者を念入りに選別していたらしいという報道もなされている。被害者とご家族が、連絡が取れなくなっても騒ぎ立てないという確信が持てる被害者を選んでいたらしい。さらには、深い孤独感を持っているという人を選び、その寂しさに付け込んだともいう情報が流れている。さらに、あの被疑者自身もまた、深い孤独感を秘めていたようにも感じる。被害者も被疑者も、家族関係も含めて絆とか関わりあいが希薄化していて、孤独感を持っていたということが判明している。

自殺念慮の人たちを、何故この日本という社会は救う手立てがないのであろうか。年間8万人もの捜索願いが出されていて、その大半が見つからないばかりか、本人や家族のDNA登録さえ満足にされていないという。今回の事件の被害者のDNA登録もされていなかったし、警察に自分の家族ではないかという問い合わせも少なかったと言われている。現代日本は、コミュニティが崩壊していると言われているが、まさに家族という最小単位で大切なコミュニティが崩壊の危機に面しているということが、この座間市に起きた殺人事件を通して浮き彫りにされているような気がする。

自殺念慮の人を救うには、限りない無償の愛を注ぐことこそが必要だと思っていた。愛情に飢えた人が、自殺念慮に駆り立てられているものだと思い込んでいたのである。ところが、ある銃乱射事件の犯人の母親が講演で語った話が、その認識を覆した。今から18年前にコロンバイン高校での高校生2名の銃乱射により、13人の尊い命が奪われた事件である。その犯人の一人の母親が、現在講演を行っている。陰惨で酷いいじめが高校の同級生から受けていて、犯人のひとりは強い自殺念慮を持っていたという。銃を乱射した後に犯人は自殺した。

母親は、講演ではいじめがあったという事実と、そのおかげで自殺念慮が生まれたなんてことは一言も触れていない。何故息子の気持ちを解ってあげられなかったかということを、責め続けている。息子に対してこのうえもなく愛情をたっぷりと注いでいたと語っている。愛情があれば自殺念慮なんて起きないと思っていたのに、そうではなかったと反省しているのである。息子が何故自分の苦しみや悲しみを、母親である自分に打ち明けなかったかを悔いている。それだけの深い絆や関係性が息子との間に存在しなくて、その関係性を築き上げられなかった自分を責めているのである。

自殺念慮の人たちを救うには、自分たちが孤独ではないという思いを再構築してもらうことが必要だと思う。家族や周りの人々との絆や関わりあいを感じられず、絶対的な孤独感にさいなまれている人が、自殺念慮を生じるように感じられる。勿論、愛情不足も根底にあるだろう。その愛も、条件付きの愛である父性愛よりも、無条件の愛である母性愛がとみに不足しているようにも考えられる。あなたは1人ではないんだよというメッセージを自殺念慮の人々に届けたいと願っている。

インドカルカッタの下町で、マザーテレサは死にゆく人々に救いの手を差し伸べて、あなたは1人ではないということを認識してもらってから、死出の旅立ちにいざなった。森のイスキアの佐藤初女さんは、自殺念慮の方々にあなたは1人ではないし、初女さんも含めて多くの人々が見守っているというメッセージを送り続けてきた。そして、自分にも深い絆や関わりあいが存在していて、自分をこれだけ愛してくれている人がいることを知って、自殺念慮から救われたのである。このような活動を自分もこれからさせてもらい、自殺念慮の方々を救うお手伝いをしていきたいと強く願っている。

登山とマインドフルネスと唯識

メンタルを病んだ方への心理療法のひとつとして、最近とみに注目されているのが、マインドフルネスである。マインドフルネスとは、常に心を捉われている何らかの意識や感情を一時的に心から手放す為に、別の何かで心を満たすことである。例えば、辛くて悲しい事があったり、考えるだけでも怖ろしいことがあったりした時、その感情で心の中が一杯になってしまったりする。そういう時には、人間はその感情にどっぷり浸かってしまい、他のことが考えられない。そうすると、解決策も考えられないくらい悩んでしまい、ずっと苦しみ続けるのである。

ところが、そのどっぷり浸かってしまったマイナスの感情や思考を一時的にも手放したり停止させたりすると、不思議にも自分で解決できることがあるのだ。この一時的にマイナスの思考や感情を停止させたり手放したりする為に、他の意識や思考で心を満たしてしまうという行為を『マインドフルネス』というのである。例えば悲しみに打ちひしがれた感情があるとしよう。その際に、気分転換のためにヨガ・瞑想・スポーツなどをしたとする。そうすると、困りごとや苦しみ事の新たな解決策が心にふと浮かぶのである。これが、マインドフルネスの効果である。

古来より仏教などでは、人々を苦しみから救う手段としてこのマインドフルネスを取り入れてきた。唯識論もそうであるし、座禅・読経・写経・荒行・山岳修行などが行われてきた。実は、ヨガもまた唯識の実践行のひとつである。精神分析療法や心理療法よりも手軽で効果が高いと、精神医療の治療法として取り入れるクリニックも増えている。とは言いながら、このマインドフルネスも適切な指導の元で実施しないと、なかなか効果を上げることが難しい。何故ならば、人間とはひとつのことに意識を集中するということが困難な生き物だからである。

さて、マインドフルネスを実行するツールとしていろいろなものがあるが、どんな手法がいいのだろうか。何かひとつのことに集中して、自分の心を捉えて離さない思考・感情を一時的に停止するには何がいいのか迷う処である。私がいろんな方にお勧めしているのは、登山である。それも、ちょっと厳しくてハードな登山であり、少し危険性も伴うような登山を推奨している。ハイキングやトレッキング程度でも良いが、目の前の登山にだけ心を集中しやすいのは、やはり本格的な登山である。躓いたり転んだりするような悪路であれば、一歩一歩に精神を集中しなければならない。体力的にハードな登山なら、余計なことを考える余裕もなくなる。

もう30年近く続けている登山であるが、マインドフルネスの究極と言える『唯識』を体感した経験がある。1泊2日で南八ヶ岳の縦走をしたことがある。美濃戸口から阿弥陀岳から赤岳を登り赤岳頂上小屋に泊まり、翌日朝から横岳、硫黄岳を縦走して、赤岳鉱泉を通り美濃戸口に下山するロングトレイルだった。硫黄岳までは、すんなりと行けたが、その後に長々と続く下山道には辟易した。前日のハードな登りの疲れもあり、パートナーとの会話もなくなるほどの体力の低下もあった。延々と続く下山道は、足が棒のようになるだけでなく、意識も時折薄らいでしまうほどの体力消耗があった。

人間というのは体力の限界ぎりぎりになると、有意識と無意識の境界をなくしてしまうらしい。その時にふと無意識の入り口の世界で体感したことがある。目の前に広がるこの世界は、実体としては存在せずに自分の心が在ると思っているから、あたかも存在しているように見えるだけなんだと実感したのである。この唯識論は、理論として頭で認識しようとしてもなかなか理解できない。この唯識は、身体全体で体感するものであろう。しかも、マインドフルネスで他の雑念などを心から除外し、無我や無心の状態にして初めて実感できるような気がする。

仏教を修行する者や修験者は、厳しい山岳修行をする。自分の体力の限界まで自分を追い込むことで、無我や無心の状態に到達するのではないかと思われる。山岳修行は、それこそ連日50キロメートルから100キロメートル超の山野を駆け巡る。超人のような修行をこなして、ようやく悟りをひらくことが出来ると言われている。現代の登山などは、山岳修行にはその厳しさでは到底及ばない。だから、登山によって唯識や『空』の理論を体感したなどと、軽々しく述べるべきではないということは認識しているつもりである。しかし、登山によって唯識と『空』の理論を不十分ながらも体得できたのは、とても幸運であったと言えよう。

 

※イスキアの郷しらかわでは、マインドフルネスの実践法を指導させてもらっています。トレッキングをしながらマインドフルネスや唯識のレクチャーもします。さらには、本格的な登山のガイドもいたします。心の癒しを求め、心を元気にしたいと願っていらっしゃる方は、イスキアの郷しらかわの自然体験をご利用ください。