今でも尊敬して止まない崎尾英子先生

今から20年くらい前に、児童精神科医として臨床においても、または学術研究の分野においても、先駆的な活躍をされた人物がいらした。それは、当時国立小児病院の精神科の医長をされていた、崎尾英子さんという優秀なドクターである。彼女は、児童精神科医のスペシャリストでもあったが、カウンセラーとしても多大な実績を残されていらした。カウンセラーとして実際に対面して、かなりの時間を要しての相談でさえなかなか効果あげるのは難しいのに、彼女は電話で僅か10分程度の相談で、保護者のあらゆる疑問に答えるだけでなく、的確な助言と深い安心感を与えていたのである。

崎尾英子先生は、NHKラジオで不登校の子どもたちの保護者への電話相談をしていらした。レギュラー回答者として、週一回の出演をされていたのである。当時、劇的に増加していた不登校児に対する質問が多く、非常に難しい質問をされる保護者が多かったと記憶している。質問をする人は、女性が圧倒的に多くて、母親か祖母であるケースが殆どだった。そして、そのプチカウンセリングであるが、崎尾先生はあたかも保護者がどう答えるのかを予想しているかのように、的確でしかも温かみ溢れる質問を保護者にしていた。勿論、けっして威圧的な態度ではなく、限りなく優しくである。そして、けっして答は与えるのでなく、その質問に答える形で保護者が気づいたり学んでいたりしたのである。

カウンセリングの基本とは、傾聴と共感だと言われている。そして、本人が気付いたり学びをしたりするように、質問をするだけで指示や指導をするべきではないというのが定説である。とは言いながら、限られた時間の中でカウンセリングをすると、明確な答を出すようにとついつい誘導してしまう傾向になる。ところが崎尾先生は、一度もそういう場面がなかったのである。たかだか平均すると10分程度の時間に、不思議なように保護者が自ら進んで変化するのである。自分が進化すべきだということを気付き、自主的に変わっていくのである。

崎尾先生も自著の中で記されているが、電話相談の保護者も含めて相談者を自己否定に導いてはならないとおっしゃっている。それは、不登校児も保護者もすべてそうである。そして、不登校児の教育に携わる人間に対しても同じだと主張されている。人間的にも未熟で、しかも自己確立のしていない人間は、他人に対して寛容になれない。だから、自我人格と自己人格の統合を経ていない人間は、いくらカウンセリングの技術が優れていたとしても、カウンセラーとしての実務をしてはならないと思う。ところが、専門の大学を出て大学院で臨床心理士の資格を得たとしても、残念ながら自己確立をしている人は多くない。

崎尾英子先生のような素晴らしいカウンセラーとは、滅多に出会えないだろう。先生の電話相談を聞くのが楽しみだった。それこそ、先生に心酔し切ってしまい、著作はすべて購入して愛読書にした。スティーブン・ギリガンの著した「愛という勇気」という専門学術書(崎尾先生訳)まで購入して読んだ。先生の著書には、珠玉のような素晴らしい教えの数々が書かれていた。それらの教示は、多くの気付きと学びを与えてくれた。今の自分があるのは、崎尾先生のお陰だと言っても過言ではない。先生は国立小児病院を退職された後、クリニックを開院して院長として活躍され、2002年にご逝去されてしまったとのこと。惜しい方を亡くしてしまったものである。

崎尾先生のようなカウンセリングを、世の中の精神科医と臨床心理士たちが実施したとしたら、多くの不登校児とその保護者を救ったことであろう。崎尾先生のような臨床医や臨床心理士、そして精神保健福祉士がこれから多数輩出することを願っている。残念ながら崎尾先生の指導を直接受けることは叶わない。一度会いたかったと思っているが、残念なことである。これから崎尾先生のご遺志を継いで、不登校や引きこもりの若者を支援していきたい。勝手ながら、崎尾先生を心の師匠だと思っている。崎尾先生の貴重な教えを守って、少しでも師匠に近づきたいと願っている。

新しい子どもたち~不登校児が社会を変える~

不登校の子どもたちは、学校生活に馴染めない子ども、または学校に不適応の子どもたちだという認識の人が多いに違いない。つまり、学校に行く子どもが正常であり、行けない子どもはイレギュラーだという考え方が支配的だということだ。本当にそうなのであろうか。不登校の子どもというのは学校における落ちこぼれだということを表だって言う人は少ない。しかし、教育関係者の殆どがそう思っているのではないかと推測できる。でも、これが間違っているとしたらどうだろうか。

不登校になるきっかけは、学校における子どもどうしのいじめ、教師による不適切な指導、部活などにおける人間関係悪化や不振、成績不振や学業の不適応等様々である。そして、不登校になるのは、心の優しい子どもたちが多い。つまり、どちらかというと繊細な気持の子どもであろう。心が強ければ学校に行けるのに、行けないというのは弱い心を持つからだと、教師の保護者も思ってしまうことが多い。そして、学校に無理しても行かなくてもいいと思い込んでしまう保護者が多い状況にある。

不登校や引きこもりの原因を子育ての失敗や本人気質・性格、またはメンタルの障害だと思い込んでしまっている人は多いであろう。精神医療に携わる医師やカウンセラーでさえも、そんなふうに認識している人は少なくない。だから、日本の社会では不登校・引きこもりが少なくならないし、増加しているのである。そんなとんでもない偏見に対して、実際に不登校や引きこもりを支援している方たちは、違和感を覚えている。どこがどのように違うのかということは明らかに出来ないものの、何となく子どもたちに原因があるのではなく、不登校・引きこもりの本当の原因は他にあるのではないかと感じている。

不登校を引き起こすのは、学校や社会の在り方が本来の理想と違っていて、間違った方向に進んでいるからではないかと見ている児童精神科医がいる。それも、今から20年以上も前から、社会に対して警告を発している。その代表的な精神科医は、崎尾英子先生である。また、児童精神科医で人格障害の権威として著名な岡田尊司先生である。崎尾先生は国立小児病院の医長をされていて、NHKラジオの不登校の保護者相談をされていた。ベイトソンとギリガンの研究では第一人者で「愛という勇気」という大作の翻訳もされている。残念ながら、鬼籍に入られてしまったと聞いている。岡田尊司先生は、あまりにも有名なので説明は不要であろう。

今の世の中は、非常に生きづらい。学校という環境も過ごしづらいし、職場に居場所がないと思っている人は少なくない。そして、地域や社会でも生きづらいし、家庭の中にも安心して生きられる場所がないのである。それは何故かというと、人間本来の生き方に反した社会であるからだと、崎尾先生や岡田先生は喝破されている。人間とは、本来はお互いに尊敬しあい、そして支え合って生きものである。過剰に競い合ったり、相手を蹴落としたりして、自分だけの利益や地位・名誉を求めるような社会であってはならない。ところが、学校、職場、地域社会は、身勝手で自己中心的な人間ばかりである。自分さえ良ければと思い、他人に対して思いやりや慈愛を注ぐことをしない世の中なのである。

不登校や引きこもりに陥っている子どもや若者は、そんな世の中に違和感を覚えているし、そんな環境に自分の身を置きたくないと思うのは当然だろう。不登校や引きこもりの人は、『新しい子どもたち』だと崎尾英子先生は考えていたと思われる。つまり、現代の生き方の誤謬に気付いて、人間本来の生き方を人々に考え直すきっかけを与えてくれているのではないかと考えたのである。不登校や引きこもりという現象は、特異なものではなく、起こるべくして起きたものであると考えていらしたと思われる。不登校という子どもたちが、我々大人に自分たちの間違いに気付けと警告を発してくれている主張されていた。

不登校や引きこもりを完全に解決するには、社会全体の価値観、または生きるうえで必要な思想・哲学を正しくするしかない。自己最適だけを目指し、関係性をないがしろにしてしまうような考え方と生き方は間違っている。社会の全体最適(全体幸福)を目指す生き方を誰もが志し、お互いの関係性を豊かにすることを常に志向する生き方を目指すべきである。地域、職場、学校、家庭も間違った価値観で進んでいるから、不登校や引きこもりという形で我々に間違いに気付いてほしいという悲痛な叫びをあげていると見るべきなのである。この『新しい子どもたち』に寄り添い、否定せずに耳を傾けて、望ましい社会に変えていく使命が我々にあるのだ。

自殺念慮の人を救うには

座間市で起きた悲惨で卑劣な殺人事件は、ご遺族に深い悲しみと苦しみを与えたことであろう。さらには、こんな事件が起こり得る社会であるという驚きを多くの人にもたらしたと言える。被疑者の動機、どうしてこんな犯罪を起こすことになったかというプロセスがいずれ明らかにされるだろうが、他人事ではないということを我々は認識すべきであろう。このような加害者の親族になることもあり得るし、被害者の親族になることもあり得ないことではない。被疑者や被害者のご家族・ご親族の気持ちになり切るならば、このような犯罪が起きた要因について軽々しく述べるべきではないことは承知しているが、今後このような事件が起きない為に、敢えて自殺念慮者の心の裡を洞察してみたい。

座間市の殺人事件の被疑者は、自殺願望者であることに付け込んで犯行を行ったと言われている。さらに、被害者を念入りに選別していたらしいという報道もなされている。被害者とご家族が、連絡が取れなくなっても騒ぎ立てないという確信が持てる被害者を選んでいたらしい。さらには、深い孤独感を持っているという人を選び、その寂しさに付け込んだともいう情報が流れている。さらに、あの被疑者自身もまた、深い孤独感を秘めていたようにも感じる。被害者も被疑者も、家族関係も含めて絆とか関わりあいが希薄化していて、孤独感を持っていたということが判明している。

自殺念慮の人たちを、何故この日本という社会は救う手立てがないのであろうか。年間8万人もの捜索願いが出されていて、その大半が見つからないばかりか、本人や家族のDNA登録さえ満足にされていないという。今回の事件の被害者のDNA登録もされていなかったし、警察に自分の家族ではないかという問い合わせも少なかったと言われている。現代日本は、コミュニティが崩壊していると言われているが、まさに家族という最小単位で大切なコミュニティが崩壊の危機に面しているということが、この座間市に起きた殺人事件を通して浮き彫りにされているような気がする。

自殺念慮の人を救うには、限りない無償の愛を注ぐことこそが必要だと思っていた。愛情に飢えた人が、自殺念慮に駆り立てられているものだと思い込んでいたのである。ところが、ある銃乱射事件の犯人の母親が講演で語った話が、その認識を覆した。今から18年前にコロンバイン高校での高校生2名の銃乱射により、13人の尊い命が奪われた事件である。その犯人の一人の母親が、現在講演を行っている。陰惨で酷いいじめが高校の同級生から受けていて、犯人のひとりは強い自殺念慮を持っていたという。銃を乱射した後に犯人は自殺した。

母親は、講演ではいじめがあったという事実と、そのおかげで自殺念慮が生まれたなんてことは一言も触れていない。何故息子の気持ちを解ってあげられなかったかということを、責め続けている。息子に対してこのうえもなく愛情をたっぷりと注いでいたと語っている。愛情があれば自殺念慮なんて起きないと思っていたのに、そうではなかったと反省しているのである。息子が何故自分の苦しみや悲しみを、母親である自分に打ち明けなかったかを悔いている。それだけの深い絆や関係性が息子との間に存在しなくて、その関係性を築き上げられなかった自分を責めているのである。

自殺念慮の人たちを救うには、自分たちが孤独ではないという思いを再構築してもらうことが必要だと思う。家族や周りの人々との絆や関わりあいを感じられず、絶対的な孤独感にさいなまれている人が、自殺念慮を生じるように感じられる。勿論、愛情不足も根底にあるだろう。その愛も、条件付きの愛である父性愛よりも、無条件の愛である母性愛がとみに不足しているようにも考えられる。あなたは1人ではないんだよというメッセージを自殺念慮の人々に届けたいと願っている。

インドカルカッタの下町で、マザーテレサは死にゆく人々に救いの手を差し伸べて、あなたは1人ではないということを認識してもらってから、死出の旅立ちにいざなった。森のイスキアの佐藤初女さんは、自殺念慮の方々にあなたは1人ではないし、初女さんも含めて多くの人々が見守っているというメッセージを送り続けてきた。そして、自分にも深い絆や関わりあいが存在していて、自分をこれだけ愛してくれている人がいることを知って、自殺念慮から救われたのである。このような活動を自分もこれからさせてもらい、自殺念慮の方々を救うお手伝いをしていきたいと強く願っている。

登山とマインドフルネスと唯識

メンタルを病んだ方への心理療法のひとつとして、最近とみに注目されているのが、マインドフルネスである。マインドフルネスとは、常に心を捉われている何らかの意識や感情を一時的に心から手放す為に、別の何かで心を満たすことである。例えば、辛くて悲しい事があったり、考えるだけでも怖ろしいことがあったりした時、その感情で心の中が一杯になってしまったりする。そういう時には、人間はその感情にどっぷり浸かってしまい、他のことが考えられない。そうすると、解決策も考えられないくらい悩んでしまい、ずっと苦しみ続けるのである。

ところが、そのどっぷり浸かってしまったマイナスの感情や思考を一時的にも手放したり停止させたりすると、不思議にも自分で解決できることがあるのだ。この一時的にマイナスの思考や感情を停止させたり手放したりする為に、他の意識や思考で心を満たしてしまうという行為を『マインドフルネス』というのである。例えば悲しみに打ちひしがれた感情があるとしよう。その際に、気分転換のためにヨガ・瞑想・スポーツなどをしたとする。そうすると、困りごとや苦しみ事の新たな解決策が心にふと浮かぶのである。これが、マインドフルネスの効果である。

古来より仏教などでは、人々を苦しみから救う手段としてこのマインドフルネスを取り入れてきた。唯識論もそうであるし、座禅・読経・写経・荒行・山岳修行などが行われてきた。実は、ヨガもまた唯識の実践行のひとつである。精神分析療法や心理療法よりも手軽で効果が高いと、精神医療の治療法として取り入れるクリニックも増えている。とは言いながら、このマインドフルネスも適切な指導の元で実施しないと、なかなか効果を上げることが難しい。何故ならば、人間とはひとつのことに意識を集中するということが困難な生き物だからである。

さて、マインドフルネスを実行するツールとしていろいろなものがあるが、どんな手法がいいのだろうか。何かひとつのことに集中して、自分の心を捉えて離さない思考・感情を一時的に停止するには何がいいのか迷う処である。私がいろんな方にお勧めしているのは、登山である。それも、ちょっと厳しくてハードな登山であり、少し危険性も伴うような登山を推奨している。ハイキングやトレッキング程度でも良いが、目の前の登山にだけ心を集中しやすいのは、やはり本格的な登山である。躓いたり転んだりするような悪路であれば、一歩一歩に精神を集中しなければならない。体力的にハードな登山なら、余計なことを考える余裕もなくなる。

もう30年近く続けている登山であるが、マインドフルネスの究極と言える『唯識』を体感した経験がある。1泊2日で南八ヶ岳の縦走をしたことがある。美濃戸口から阿弥陀岳から赤岳を登り赤岳頂上小屋に泊まり、翌日朝から横岳、硫黄岳を縦走して、赤岳鉱泉を通り美濃戸口に下山するロングトレイルだった。硫黄岳までは、すんなりと行けたが、その後に長々と続く下山道には辟易した。前日のハードな登りの疲れもあり、パートナーとの会話もなくなるほどの体力の低下もあった。延々と続く下山道は、足が棒のようになるだけでなく、意識も時折薄らいでしまうほどの体力消耗があった。

人間というのは体力の限界ぎりぎりになると、有意識と無意識の境界をなくしてしまうらしい。その時にふと無意識の入り口の世界で体感したことがある。目の前に広がるこの世界は、実体としては存在せずに自分の心が在ると思っているから、あたかも存在しているように見えるだけなんだと実感したのである。この唯識論は、理論として頭で認識しようとしてもなかなか理解できない。この唯識は、身体全体で体感するものであろう。しかも、マインドフルネスで他の雑念などを心から除外し、無我や無心の状態にして初めて実感できるような気がする。

仏教を修行する者や修験者は、厳しい山岳修行をする。自分の体力の限界まで自分を追い込むことで、無我や無心の状態に到達するのではないかと思われる。山岳修行は、それこそ連日50キロメートルから100キロメートル超の山野を駆け巡る。超人のような修行をこなして、ようやく悟りをひらくことが出来ると言われている。現代の登山などは、山岳修行にはその厳しさでは到底及ばない。だから、登山によって唯識や『空』の理論を体感したなどと、軽々しく述べるべきではないということは認識しているつもりである。しかし、登山によって唯識と『空』の理論を不十分ながらも体得できたのは、とても幸運であったと言えよう。

 

※イスキアの郷しらかわでは、マインドフルネスの実践法を指導させてもらっています。トレッキングをしながらマインドフルネスや唯識のレクチャーもします。さらには、本格的な登山のガイドもいたします。心の癒しを求め、心を元気にしたいと願っていらっしゃる方は、イスキアの郷しらかわの自然体験をご利用ください。

 

ネット上で賞賛を求める人

SNSとブログを観察していると、実に面白いことに気付く。いつも批判的な記事や日記を書く傾向がある人と、主に共感と感謝を綴っている人がいる。特定の個人を批判していることで、人気を博しているブログを見つけることがある。特定の人にしか見せないようにしていても、誰かが拡散するかもしれないというリスクを持っている。インターネットの世界いうのは、実に怖い処だ。誰かを批判して書いているつもりではなくても、自分が否定されていると誤解されることもある。自分だけが見る日記とは根本的に違うのである。

一方では、周りの人々のほんわかとした日常を綴りながら、それらの言動を温かく見守りながら共感し、感謝する言葉でしめくくる記事がある。心がほんわかとしてくる。または、いろんな公益活動をしている人の応援する記事を書いて、サポートしてくれるブロガーも存在する。他人の言動に対して共感的、肯定的な態度を取る人は、間違いなく自分に対する肯定感を持っている人であろう。一方、いつも他人を批判的、否定的に観ている人というのは、心の奥底では自己否定観が渦巻いているに違いない。実に可哀想な人である。

否定的、批判的なブログだと言っても、個人批判ではなくてあくまでも公的なものに対する批判であるなら、まだ許せるように思う。現在の様々な社会問題を深く洞察して、政治や行政、または経済の在り方に対して批判し、あるべき本来の姿勢を提起するという内容ならば、問題ないように感じる。あくまでも、人々の幸福実現、または心の豊かさに貢献するような内容ならば、公的批判もありうることだろう。特定の人、つまり自分の家族や会社・組織・団体などの特定できる人物を槍玉にするようなやり方には違和感を持つ。

人を批判したり否定したりする記事は、万人受けする。当然、読者も多い。よく見かけるのだが、自分の読者が何万人もいるのだと自慢たらたらと述べるブロガーがいる。批判的な記事に人気が出ると分かり、益々拍車がかかる。全国で何位だということを確認して一喜一憂している姿を想像するに、実に情けないという思いで満たされる。そんなゴシップ記事のようなものを観て喜んでいる読者も低レベルである。実に情けないし、どちらも可哀想でもある。

とは言いながら、こんな批判的否定的な記事や日記を書いてしまう背景を考えると、こういう人々に対して同情してしまう自分がいる。物事や特定の人に対して批判的否定的に観てしまう人というのは、現在の社会に対して生きづらさを抱えている人であろう。家族に心から敬愛されているとは言えず、会社・組織から信頼や尊敬を受けているようには思えないからである。だからこそ、世の中の多くの人々から評価と尊敬を集めたいのである。リアルの世界で評価されないから、ネットの世界でその反発心から必要以上に頑張ってしまうのであろう。強烈な自己否定観を持つが故の行動であるに違いない。

残念ながら、ネット上でいくら人気が出て多くの賞賛を得ても、真の自己肯定感は得られない。何故なら、自分自身の真の自己成長や自己実現は得られないからである。人間性や精神性における完全な自己変革がなければ、周りの人々からの尊敬を得られることはない。必要以上に地位や名誉、または評価に拘る人もいる。または、必要以外の資格や免許を取得しようと努力している人もいる。これも、自己否定観や自己愛の歪みを根底にしての行動であろう。自己愛のパーソナリティ障害の人は、こういう行動をとりやすい傾向にある。こういう人は、自分の心の闇に気付いていない。

特定の個人や家族を批判したり笑いものにしたりする記事や日記を書いている人、あまりにも読者数や人気を気にしている人は、自分の心の奥底の闇と対話してほしい。自分は、本当はそんなことを望んでいないことを知ることが出来るであろう。そして、真に望んでいるのは、現実の世界で自分の家族や周りの人々に心から愛されることである。いくらネットの世界で賞賛を得られたとしても、本当の愛は叶えられないし、益々真実の愛から遠ざかるであろう。自分の自己成長や自己実現をして、自己変革を遂げることでしか真の信頼や尊敬は得らない。現実の世界で、苦難困難から逃げずに乗り越えることでしか、絶対的自己肯定感は確立できないのである。

自己肯定感を育てる教育の間違い

「自分のことが好きか?」という問いに、日本の子どもたちの多くはNOと答えるらしい。国際比較の青少年意識調査においても、米国や中国の青少年と比較して、極めて低い自己肯定感を示すという結果になっている。日本の青少年の自己肯定感は他国と比較しても著しく低い傾向を示して、問題視されている。自己否定感情が強いと、いじめ、不登校やひきこもりなどの問題を起こしやすいだけでなく、将来大人になった時にチャレンジ精神が持てない為に、挫折しやすいと言われている。現代の日本では青少年だけでなくて、成年者や中高年の自己肯定感も低いと言われている。

 

子どもたちの自己肯定感があまりにも低いことが問題になり、文科省は自己肯定感を高める教育を押し進めている。子どもたちだけでなく、若者たちの自己肯定感を高めるための方策がいろいろと検討され、実行されている。自己肯定感を高める為に、叱るよりも誉める教育をというスローガンも採用されている。企業においても、自己肯定感を活用したコーチングという社員教育手法を採用するケースが増えている。家庭教育でもまた、自己否定感を持つような叱り方をせず、子どもの自己肯定感を育てる教育が推奨されている。社会全体において、自己否定感を感じないように配慮した教育がなされているのである。

 

生涯教育の場においても、自己肯定感を伸ばす教育がもてはやされている。自分を否定しないで、認めて受け容れることの大切さを教える教育が流行している。自己実現や自己成長を促すセミナーが開催されているが、どうやって自己を認め受け容れるかという点に力点が置かれている。さらに、スピリチュアルな手法を主体にしたセミナーでは、過去世やカルマのせいで不遇になっているのだから、本人の責任はないのだという教え方をしている。つまり、悪い運命はあなたの責任ではなく、前世からの業がいたずらをしているのだから、あなたはそのままでいいのだと自己肯定感を育てるよう促す。

 

ところが、これだけ自己否定感を持たないように教育して、絶対的な自己肯定感を持てるように指導しているのに、残念ながらそれほど成果が上がっていないのが実情である。だから、相変わらず学校現場ではいじめが起きているし、不登校は減少していない。さらに、自己否定感が強いせいで社会に適応できなくて家庭にひきこもる若者が多い。さらにはうつ状態やパニック障害などのメンタル障害に悩む人が相変わらず多い。ということは、事故肯定感を育てる教育が成功していないということになる。何か根本的に間違っているのではないだろうか。

 

揺るぎない自己肯定感を持つ為には、自尊感情を持たなくてはならない。しかも、どんなことが自分の周りに起きようとも、すべてを受け容れ許すというセルフイメージが必要である。そして、この自尊感情というのは自分のすべてを愛する心でもある。その為には、自分を素直に見つめ自己対話をして、自分の良い処も悪い処も含めてすべてを認め受け容れることから始まる。ところが、日本における自己肯定感を育てる教育は、この点で非常に中途半端なのである。マイナスの自己を完全に受け容れて、先ずは自己を否定するプロセスを経ないと、真の自己肯定感を確立できないのに、自己否定することが出来ていないのである。

 

家庭教育、学校教育、そして社会教育において、自分のマイナスの自己が存在していることを謙虚にしかも素直に認めることを教えていないから、真の自己確立が実現してない人間が多い。誰でも自分の心の中に闇を抱えている。自己中心的で身勝手で、しかも煩悩に流されてしまう、どうしようもない自己を持っている。それを殆どの人はその闇に眼を向けず認めず、ないことにしてしまっているのである。だから、自分の周りに起きる出来事で、そのことを時折思い知らされてしまい、落ち込むのである。本当の自己肯定感を確立するには、このマイナスの自己である闇の存在を認めて、徹底的に糾弾して一度は自分を完全否定する必要がある。そのうえで、マイナスの自己を受容して慈しむプロセスを踏むのである。そうすれば、揺るがない自己肯定感を得ることが可能になる。

恋愛臆病症候群

今時の若者は、恋愛をしたがらないらしい。どういう訳なのか、恋愛をしたいと思わないという。したがって結婚も出来ないし、これでは子孫さえ作れない。現在のすべての若者がそうだとは言わないが、恋愛に対して臆病な若者は、想像以上に多いらしい。そして、自宅から独立せず、親の元でパラサイトの状態になっている若者が急増している。私たち中高年齢者から見たら、信じられないような態度である。いつも恋愛に憧れていた私らの若い頃と比較してみると、大変な違いだと思える。青春時代に恋をしたいと思うのは、誰しも同じだと思っていたのに、こんなにも恋愛に臆病な若者が多いのは実に不思議である。

さて、若者は恋愛に対して何故に臆病なのであろうか。多くの評論家たちは、それは若者たちが恋愛に失敗したり恋人に裏切られたりして、自分が傷つくのを恐れているからという分析をしている。または、自分自身の駄目な所や嫌な所が知られることにより、愛想を尽かされるのを極端に不安視しているのではないかという分析をしている人も多い。そして、昔は一刻も早く親から独立して独り暮らしをしたいと思っていたのに、今は親元から離れようとしない若者が増えているのである。家から独立せず、恋愛をしようともしないこれらの若者たちは、恋愛臆病症候群と呼べなくもないだろう。

面白いことに、これらの恋愛臆病症候群の若者たちは性衝動もないかというと、以外にもそうではないという。恋愛には臆病ながら、性行動は大胆に実行するというのだ。それも、恋愛感情のない相手とならば、平気で性交渉を行うというから信じられない。好きで好きで溜まらず、相手のすべてが欲しくて身も心も一体になりたいからと性衝動が起きると思うが、そういう相手には愛の告白さえ出来ず、性交渉も出来ずにいるらしい。本当に好きな相手に愛を告白したり性行動を起こして、もし万が一にも拒否されたら自分が傷付くと思い、行動に移れないと想像される。でも、嫌われてもいいと思うような相手となら、一夜を共にすることさえ平気らしいのだ。

そうすると、どうやら当世若者たちの深い心理状態が見えてくる。つまり、彼らの恋愛臆病症候群は、性的に未熟であったり性的欲求がなかったりするからではなく、精神的な未熟さが原因だと言える。言い換えれば、自己肯定観の未成熟さから、人から嫌われたり否定されたりすることを極端に避ける傾向があり、恋愛に対して臆病になっているということになる。今の若者たちの特徴的な傾向は、自己肯定観が低いばかりに極端に歪んだ自己愛に充ちていて、自分の異常な万能感という変なプライドに支配されている。だから、人から注意されたり叱られたりすると、極端に落ち込んだり逆切れをしたりするのであろう。実に精神状態が幼稚なのである。

それでは、恋愛に対して臆病なのは自分が傷付くことが怖いからというなら、何故そういう心境になるのであろうか。昔の若者と今の若者の心情は何が違うというのだろうか。そして何故、自己肯定観が低いのであろうか。真の自己肯定観をしっかり自分に根付かせる為には、真の自己確立が必要と考える。つまり、自我(エゴ)を克服して、自己を確立する経過を経なければ、たとえ自分が否定されたり拒否されたりしても、けっして揺るがない自己肯定観を確立することは出来ないのだ。つまり、真の自己証明であるアイデンティの確立こそが必須なのである。

ところが、今の若者たちは自己の確立が出来ないばかりか、自我の確立さえ出来ない者もいるという。つまり、親子の精神分離さえ出来ず、親離れ子離れが出来ずにいるのである。そんな若者であるのだから、相手の複雑な気持ちを汲み取りながら、自分の欲望との折り合いを図りつつ、二人の愛を育むというような複雑なプロセスを踏める筈がない。しかし、人間というのは、狂おしく眠れず食べ物も喉を通らないような思いをしながらも、恋愛を経験して行かないと、精神的な成長を遂げることが出来ない。何度かの恋愛を繰り返しながら、人はいろんなことを気付き学ぶものである。勇気を出して傷付くことを恐れず、恋愛臆病症候群を乗り越えてほしいものである。若者だけでなく、中高年者も同じだと思う。一度や二度恋愛・結婚に失敗したからといって、恋する気持ちを捨ててはいけない。

発達障害とその家族の関わり方

一昨日、NHKTVで発達障害の保護者たちが集まって情報交換会をしている模様が放映されていた。発達障害を持つ母親6人の方々が出演していた。まず不思議だと思うのが、仕事があるとしても父親の出演者は居なかったという点である。そして、母親たちが口を揃えて言うには、あまりにも夫たちが発達障害に対する無理解があるという。それも、単に障害そのものが分かりにくいというなら理解できるが、それぞれの夫たちは理解しようとしないばかりか、障害に背を向けてしまい、わざと育児を避けているようにしか思えないということである。したがって、子育ての苦労と悩みは母親だけが一人で背負っていると口々に言っている。

 

勿論、夫たちは仕事が忙しいという事情もあるだろうが、あまりにも非協力的な態度が気になる。それに対して、母親たちは子どもの発達障害に真正面から向き合い、何とか子どもが幸せな人生を送るために、苦しみ悩みながら最大限の努力をしている。そして、限りない愛情を子どもに注いでいるのが、いじらしくも感じる。あまりにも父親との態度が対照的なので、見ていてびっくりする。出演した母親たちが特別なのかとも思いたくもなるが、このようなケースが実際少なくないという。発達障害の子育てにおいて、母親だけに負担がかかっているという実態があるらしい。

 

発達障害は脳の先天的器質障害が原因とされている。だから、母親の子育てによるものではない。それなのに、夫やその家族が妻の子育てが悪かったせいだと責めるらしい。これでは母親がやり切れない。母親があまりにも厳しい態度でしつけるから、こんな子どもになったと言うらしい。無理解からの発言だとしても、これは許せない。子育てをすべて母親に押し付けておいて、こうなったのはお前が悪いからだと責任放棄する姿勢は、頂けない。これでは、母親があまりにも可哀想である。しつけは本来父親が担当すべきである。母親は無条件の愛である母性愛を注ぐだけであり、条件付きの愛であるしつけをするのは父親の役割だ。父親が役割を放棄したから、仕方なく母親がしつけまで肩代わりしているのに、それを非難するなんて到底許せない。

 

今まで、ずっと障害のある子どもたちの子育て支援をさせてもらっていて、すごく感じたことがある。発達障害だけでなく、知的障害や身体障害、または脳性小児まひやダウン症のお子さんの子育てをしているケースでは、圧倒的にお母さんの負担があまりにも大きい場合が多い。あげくの果てに、父親が子育てを放棄するだけでなく、家族から離脱してしまうケースだって少なくない。したがって、発達障害だけでなく、お子さんが何らかの障害を持たれた際の子育ては、お母さんだけに負担が押し付けられる例が非常に多いのである。

 

勿論、収入を得るためには父親が仕事に専念しなくてはならないであろう。けれども、少なくても精神的な支柱になってほしいし、何かあったときは相談の際だけでも親身になって聞いてほしい。何も、母親たちは助言や解決策まで求めている訳ではなく、困ったり悩んだりしていることを黙って聞いて共感してほしいだけなのである。そして、妻の大変さを解ってあげて、妻の気持ちと同化して時折一緒に涙を流してほしいのである。他人ごとのように、冷たい態度で責任を放棄したり、主体性を持ちえないような態度をしたりすることだけは避けてほしいと思っているのである。

 

発達障害は、先天的な脳の器質障害であったとしても、周りの家族の適切なサポートがあれば、和らいでいくことが判明しつつある。その為には、家族の理解、とりわけ父親の深い理解と協力が不可欠である。そして、母親が発達障害の子どもたちへの深くて大きな愛情を注ぎ続けるためには、母親の精神が安定してしかも安心していなければならない。母親が不安であれば、子どもにもその不安が伝播してしまうからである。母親が安心して子育てに専念し、無条件の愛情である母性愛を注ぐには、やはり夫が妻を深く愛することが必要である。その愛は、自分に都合良くするための見返りを求める愛ではなく、与えるだけの無償の愛である。制御と支配の愛ではなく、寛容と受容の愛である。このような夫婦関係であれば、発達障害は必ずや和らいでいくと確信している。

いい人は長生きできない

昔から、いい人は長生き出来ないと言われている。古来より、「憎まれもの世にはばかる」という諺もある。これは、長年の経験から導き出された結論であり、いい人は短命だし、人から憎まれるような悪い人は、逆に長生きする例が多かったのであろう。とすれば、人々から憎まれても恨まれても長生きするほうを選ぶのか、それともいい人だが短命を選ぶのか、究極の選択をしなければならないことになる。勿論、いい人で長生きできるのが望ましいが、それはどうやら今までの歴史からすると無理らしい。憎まれて恨まれた人生は、皆から嫌われるし、孤独の人生になるかもしれない。一方、いい人は皆から慕われるし、いつも回りには人が寄り添い、幸福な人生を送るに違いない。さて、どちらを選んだらいいのであろうか。

それにしても、どうしていい人は長生き出来ないのであろうか。いい人は人々から好かれて、幸福な人生を送るのであるから、ストレスもない筈である。一方、皆から嫌われるような悪い人は、人間関係も最悪でいがみ合って生きるからストレスフルな生き方をしそうである。病は気からと言われているし、病気の原因の9割はストレスだというのが定説になりつつある。しかるに、どうしていい人は短命で、嫌われ者は長生きするというのであろうか。不思議なことである。長生きだけが幸福の基準ではないとする考え方もあるから、短くても充実した人生がいいという考え方もあろう。太く短くても皆から慕われて幸福な人生がいいのだと、いい人を生きるという選択肢も悪くはない。

それでは、いい人というのはどういう基準であろうか。おそらく、いい人というのは他人に対して優しくて思いやりがあり、あまり自己主張することなく身勝手な行動は慎み、いつも他人の為に一所懸命に尽くす人というようなイメージがあると思われる。一方、憎まれ者というのは、いい人の対極にある人というイメージがあり、身勝手で自己中心的で、自我が強くて、損得や利害という行動基準を大切にする人と思われている。勿論、そういう人は人から憎まれたり恨まれたりするのであるが、中にはとんでもなく立身出世して、経済的にも成功している人が少なくない。経済的に裕福になると、人は意外と回りに対して寛大にもなれるのである。とすれば、憎まれ者として人生を送ったほうが、人生の成功者になれる確率が高いということになる。

ところが、そうは行かないのが人生である。仕事で成功して立身出世をして、経済的に裕福になった家庭を見ていると、本人はある程度幸福そうに見えるが、その家族は物質的には豊かな生活をしているものの、意外と心の豊かさを失っているようにも見えるのである。奥様が重いご病気になられて早逝されたり、子どもさんが親に対して反発したり挫折したりして、家族関係が最悪になるケースが多いのである。そうだとすると、いい人でも憎まれ者でも、幸福な人生を送れないというのなら、人間はどういう生き方をすればいいのであろうか。長生きで幸福な人生を送るコツというのはないのであろうか。長生きで幸福な人生を送る人なんていない訳ではない筈である。

そういう人はどういう人かというと、「本当にいい人」なのである。ただし、それは世にいう「いい人」ではなくて、ただ単にいい人を演じている人ではなくて根っからのいい人なのである。つまり、世の中で一般的にいい人と言われている人は、実は本当のいい人ではなく、ただ単にいい人を演じているだけの似非善人なのである。私達は、他人の目をどうしても意識してしまう。他人から見ていい人でありたいと、無意識で思い行動してしまうのが常である。つまり、無意識でいい人の仮面を被った人間として生きるのである。それを心理学では、自我人格と呼ぶ。つまりペルソナ(仮面)を被った自我人格を持った人間であり、心の奥底にはおどろおどろした嫌な自己を持っているのに、誰にも知られないようにその部分をないことにして、ひた隠しにしているだけなのである。

ペルソナ(化面)を被った自我(エゴ)は、自分の嫌な自己、身勝手で自己中心的で、だらしない自己を、自分では認めたくないから、そんな自己がないことにしている。そんな嫌な自己を無意識で隠して、仮面で隠し通していい人を演じるのである。無理して我慢していい人を演じているのだから、内面の心はとても苦しい。だから、時々そんな嫌な自己が顔を出してしまい、自分自身が情けなくなったり自分が嫌いになったりするのだ。その嫌な自己を自分から積極的に認め受け容れて、そして自己を糾弾しながらも慈しみ、それだからこそ清浄で崇高な自己(セルフ)に自分を育てようと精進するのであれば、根っからのいい人になれるのである。それを自己人格と心理学では呼んでいる。そういう本当のいい人であれば長生きできるし、皆から好かれ尊敬を集め、健康で幸福な人生を歩むことが出来るのである。

一緒にいると疲れる人

この人と一緒にいるだけで、何故か知らないが心が安らぐなあと感じる人がいる。一方、この人と一緒に居ると、何となく疲れるというかいらいらする人がいる。気遣いをさせるのでもなく、何かとりたてて攻撃的な言葉をかけられる訳でもないし、気に障るような行為をするのでもないけれど、一緒に数時間過ごすと、疲れ切ってしまうと感じる人がいるのだ。言い換えると、自分の精気というかエネルギーを吸い取られてしまうような感覚になるのである。そんな経験をしたことがないだろうか。このような人と会って一緒にいると、何となく元気がなくなり、もう二度と会いたくなくなるのである。つまり、一緒に居ると疲れてしまう人である。

それでも、会うのか会わないのかという選択肢がこちらにある場合ならまだ救われる。会うことを拒否したり避けたりすればいいだけのこと。ところが、どうしても会わなければならない相手の場合は、実に困るのである。例えば、会社の上司や同僚部下というケースだ。毎日会うことになるのだから、帰宅する頃の時間になるとエネルギー欠乏症に陥ってしまう。また、一緒に居ると疲れる人が、家庭内にいる場合は最悪である。それも配偶者だとしたら、最悪である。何か意地悪をされるのでもなく、とりたてて攻撃的態度をされる訳でもないのに、すごく疲れるのである。不思議なことであるが、一緒に居るだけで神経が傷付いてしまい、ずたずたになるのである。

こういう人と一緒に居ると、どうして疲れるのであろうか。それは、人の目に見えない念によるのではないかと思われている。この念というものは、別称では波動とも呼ばれる場合も多い。これは科学的に完全に証明されている訳ではないし、目に見えるものではない。ましてや、この波動は今のところ、何らかの測定機器により計測したり記録したり出来るものではないようだ。あくまでも、観念的にあるに違いないと思われているものである。しかしながら、人の念は人から発せられて、人の心に響いているし、影響を与えているのは間違いないようである。波動は、人から人へと伝わって影響を与えているのは間違いないような気がする。

その人の波動には、調和されている波動と調和していない波動があるらしい。それを便宜的に、調和波動と不調和波動と呼ぶことにする。どうやら、一緒にいて疲れる人の波動は不調和波動であり、逆に共に居ると安心して癒される人の波動は調和波動らしいのだ。調和波動は、乱れていないし整然としているから、相手の波動を乱すことはしないし、逆に乱れている波動を整えてくれる働きもするのである。一方、不調和波動は相手の波動に働きかけて、乱してしまう。波動が乱れて調和していないと、不安や恐怖、または憎しみや怒りといったマイナスの感情を惹起させるらしい。または、相手の蓄えたエネルギーを削いでしまったり奪ったりもするのである。

この波動というものが、何故調和したり不調和したりするのかというと、生きるエネルギーの大きさとその健全さに関連しているのではないかと想像できる。そして、その生きるエネルギーというのは、愛に通じている。その愛とは、自己愛ではなくて他に対する愛であり、社会や宇宙全体に対する愛ではないだろうか。言い換えると、それは求める愛ではなくて、ただ与えるだけの無償の愛であろう。そういう博愛とか慈悲の心が、エネルギーを正常化させると共に波動を調和させるに違いない。こういう慈愛や博愛に満ち溢れた人からは癒されるし、自己愛の強い人と一緒にいると疲れるのである。

この調和波動と不調和波動のどちらかを出しているのかによって、一緒に居ると疲れる人と癒される人という分岐点になるのではないかと見られる。不調和波動を出している人は、予想以上に多くて、殆どの人が不調和波動を出していると言っても過言ではない。不調和波動を出している親に育てられると、子どもは不登校や引きこもりになるケースが少なくない。つまり、エネルギー不足になるのである。他人を支配したり制御したりする傾向にある人は不調和波動であり、その人に支配され制御されてしまっている人もまた不調和波動になるから恐ろしい。これらの不調和波動を出している人は、愛というエネルギーが枯渇しているとも言える。一緒に居ると疲れる人、つまりは不調和波動を出している人から、支配されたり制御されたりせず、完全に自立することが求められているように思われる。