寝取られた男が恥の上塗り

 妻が不倫をしたと記者会見して、相手を非難している姿を見ていると、何だか奥さんが可哀そうになってしまう。勿論、特定の伴侶がいるのに不倫をするというのは、道義的に許されることではない。しかし、妻は献身的に尽くしてくれたと、妻を擁護する言葉を連ねながら、一方では相手の男がすべて悪いし、謝罪をしないと言って糾弾している姿を世間に晒しているのは、みっともないような気がする。浮気をした妻や相手の男性を擁護する訳ではないが、寝取られてしまった男性が記者会見までして訴えるのは、実に不思議な光景だ。

 一昔前であれば、自分の伴侶を寝取られた男が、記者会見とか情報発信などをするなんて考えられなかった。自分が悪くないのだから恥じることはない、というのは正論である。逃げ隠れする必要はない。とは言いながら、自分の伴侶が他の男性に恋心を抱くと言うのは、結論から言うと自分よりも浮気相手に魅力があったということである。言い換えれば、相手の男性との恋愛競争に負けたとも言えよう。もし、それがもし自分であったしたら、自分があまりにも惨めであり、人さまの前に寝取られた自分を絶対に晒したくはない。

 昭和22年までは姦通罪という刑法上の不貞の罪があった。江戸時代は、不義密通を働いた妻と浮気相手は死罪になり、夫はその場で両方を切り捨てても罪にはならなかった。なお姦通罪は、女性とその相手だけに適用されて、夫が不義密通をしても罪にはならなかった。江戸時代の不義密通の罪もまた、女性とその姦通相手にだけ適用された。女性だけに適用した不平等の罪だ。これは、男性中心の時代だからであり、財産を子どもに相続させる際に、自分の遺伝子を繋ぐ子どもだけに財産や権力を譲りたいという切実な願いから出来た罪であろう。

 不義密通の罪や姦通罪という法的な縛りがあったというのは、古来より伴侶以外の男性に心を奪われてしまい、身も心も捧げてしまう女性が相当数存在していたという証しであろう。何故、そんな妻たちが沢山いたのかというと、夫たちに魅力がなくなってしまい、夫にときめかなくなってしまったからではなかろうか。または、夫をリスペクトできなくなり、詰まらない人間に見えてきたというか、真実の姿が見えてきたのかもしれない。身勝手で自己中で、妻の心に寄り添えず、自分の損得しか考えない夫に、妻は愛想を尽かしたのだ。

 すべての夫がこんな酷い男だという訳ではないが、妻たちが夫のパワハラ、モラハラ、セクハラに耐えられなくなったケースは多いに違いない。その逆で、妻にときめかなくなった夫もいることだろう。何故、そんなことになったかというと、自分を磨く努力を怠ったからだとも言える。若い頃のスマートな体型を保つ為に節制と運動をし、健康を保つための食生活を心掛ければ、みっともない体型にはならない。また、常に自分を高めようと勉学に勤しみ、魂を磨く努力を怠らなければ、魅力が衰えることはない筈だ。

 自堕落な生活を送り、自分の幸福だけを追求して、仕事が忙しいと家事育児を放棄して、妻への傾聴と共感が出来ない夫を愛することが出来る妻がいる訳がない。そんな夫婦関係であるのだから、婚外恋愛についつい心を奪われるのも仕方ないことであろう。例の寝取られた男の続報だが、実は自分も浮気をしていて、部下にパワハラをしていて、妻にはモラハラとパワハラをしていたのではないかとの報道がされている。そして、寝取った相手も当該の夫に反撃をしている。泥試合の様相を呈している。実に醜い不毛の争いだ。

 結婚当時の魅力を失わない努力を続けるのは当然だが、人間は日々成長していかなければ時代に取り残されるだけでなく、家族からもリスペクトされ続けるのは無理である。身体的にも、精神的にも、そして人間的にも進化を続けることが、輝き続けることの必須条件である。もし、そのような努力を積み重ね、魅力ある男性であり続けることが出来たなら、他の男に寝取られることなんてなかった筈だ。他の男に寝取られたなんてカミングアウトするのは、自分磨きに失敗したんだと宣言しているようなものではないか。こういうのを恥の上塗りと、世間では言うのである。

生きづらさの原因は不安型愛着スタイル

 子どもの頃からずっと生きづらいのであれば、それは不安型愛着スタイルから来るものかもしれない。愛着障害というメンタルのパーソナリティ型がある。小さい頃に虐待やネグレクトを受け続けて育った子どもは愛着障害を抱えてしまい、強烈な生きづらさを持つだけでなく、様々なメンタルの障害を持つし、身体的な病気をも抱えてしまう。そんな虐待やネグレクトを受けた訳ではなく、ごく普通に愛情を持って育てられたのにも関わらず、やはり生きづらさを抱えてしまう事がある。それは、不安型愛着スタイルによるものである。

 両親から愛情をたっぷりと注がれて、十分な教育をされてきたのに何故か不安や恐怖感を抱えていて、学校に行きづらくなったり社会に適応しにくくなったりする人生を送ってしまう子がいる。親からの愛情が不足した為に『愛着』に問題を抱えると言うなら理解できるであろう。ところが、親から有り余るような愛情を受けているのに、愛着に不安を持ってしまうことがある。それは、親からあまりにも強い干渉や介入を受けた場合である。そして、かなり高学歴であり教養・知識が高く、コミュニケーション能力が高い親ほど陥りやすい。

 つまり、聡明な親ほど子どもを不安型愛着スタイルに追い込んでしまうのである。勿論、子どもをわざと不安型愛着スタイルに追い込んで、生きづらさを抱え込ませてしまう親なんて、いる訳がない。子どもを立派に育てて、幸せな人生を送ってほしいと願うのが親である。しかし、その思いが強いばかりに『良い子』に育ってほしいと願い過ぎた時に、取り返しのつかない過ちを犯してしまうのである。子どもに対して、親は過度に期待するものである。だからこそ、知らず知らずのうちに過干渉と過介入をしてしまうのであろう。

 人間には本来自己組織化する働きがある。つまり、生まれながらにして主体性や自主性・自発性、そして自己成長性や進化性を持つので、それらの自己組織性を伸ばしてあげれば、ひとりでに成長して素晴らしい大人になっていく。その自己組織化能力を伸ばすためには、子どもに対して余計なコントロールや支配をしてはならない。自己組織化の能力は、干渉や介入をなるべくせずに、無条件の愛である母性愛をたっぷりと注ぐことにより成長する。逆に父性愛である条件付きの愛やしつけを厳しくし過ぎてしまうと、自己組織化が止まる。

 三つ子の魂百までもという諺通り、子どもは三歳の頃までの育てられ方で、その人の一生が決まってしまうと言っても過言ではない。親が子に対して『あるがままにまるごと愛する』という体験をたっぷりとし続けなければ、子どもは自己組織化しないのである。現代の親たちの多くは、子どもに対して過干渉と過介入を必要以上に繰り返して育てる。そうするとどうなるかというと、自己組織化する能力が育たずに自立できなくなる。そして、不安や恐怖感を必要以上に抱えてしまい、社会に対して上手く適応できなくなるのである。

 幼い子どもというのは、ありのままの自分をまるごと愛してくれて、どんな自分であっても見離さず必ず守ってくれる庇護者がいれば、絶対的な安心感・安全観というものが形成される。少しぐらい親に反発したり反抗したりしても、温かい態度で包んでくれる存在があってこそ、不安感・恐怖感は払拭されて、どんな苦難困難にも向かっていけるようになる。ところが、親から所有され支配され、強くコントロールされて親の思い通りに育てられると、強い不安や恐怖に支配されてしまうし、自立が阻害されてしまう。これが不安型愛着スタイルという状態である。

 不安型愛着スタイルになってしまうと、強烈な生きづらさを抱えてしまうし、苦難困難を乗り越えることが出来なくなる。何故不安型愛着スタイルになるかというと、愛情ホルモンまたは安心ホルモンと呼ばれる、オキシトシンというホルモンが不足するからである。故に、HSP(感覚過敏症)にもなる。自閉症スペクトラム障害やADHDのような症状を呈するケースも多い。自己肯定感が低くて、人の目を気にしやすい。依存性や回避性のパーソナリティを持つことも少なくない。育て方が悪いせいだと親を責めることも出来ない。何故なら親もまた同じように育てられ方をしたからだ。不安型愛着スタイルというのは世代連鎖をするから恐いのである。

摂食障害を乗り越える方法

 摂食障害に苦しんでいる人たちは、想像以上に多いという事実を知らない人が多い。何故かと言うと、摂食障害だということを本人が隠しているケースが多いからである。摂食障害の子どもを抱えている親も、そのことを隠したがる傾向にあるし、医療機関の受診をさせない場合も多い。摂食障害を抱えている子ども自身も、医療機関に行きたがらないし、自分の苦しみを誰にも相談できないのである。一人で過食と嘔吐を繰り返す摂食障害の苦しみを抱え込むことが多い。中には、親にもひた隠しにしている子どもがいる。孤独感を抱えているのだ。

 たとえ、専門の医療機関を受診したとしても、治療が難しいこともあり、症状が改善することはまずない。そもそも摂食障害を起こしている子どもとその親は、摂食障害が深刻な病気であるという認識がないし、起きた原因を特定できていないのである。親たちも、子どもの摂食障害について相談したがらないし、相談されても適切な助言ができる相談機関も少ない。したがって、摂食障害の子どもと親は、この障害は治らないものだと諦めることが多い。子どもだけでなく、親も孤独感を抱えているのである。

 確かに、摂食障害は治りにくい。投薬治療も効果が見られないというか、そもそも投薬治療は適切ではない。カウンセリングやセラピーを受けたとしても、その効果は限定的である。障害を起こした本当の原因を特定できていないのだから、当然であろう。摂食障害の真の原因は、親子関係における問題にある。親子の愛着に問題を抱えているから、摂食障害が起きると言っても過言ではない。『愛着障害』こそが、摂食障害の本当の原因である。だから、摂食障害の子どもだけを治療しても改善しないのである。

 摂食障害が起きているのは、愛着障害に原因があるのだから、親子関係における歪んだ愛着を改善しなければ、摂食障害は治ることはないと言える。障害を起こした子どもの治療も必要だが、親に対する治療こそが求められる。愛着障害は、親の子どもに対する態度が根本的に変わらなければ、癒されない。したがって、親に対する適切なカウンセリングこそが必要なのである。ところが、摂食障害の原因が自分にあるのだということを、親は認識したがらない。ましてや、障害の原因が自分にあると言われたら、反発して聞く耳を持たない。

 摂食障害を起こしている子どもは、自分が愛着障害だということを知らないことが多い。そして、その親もまた子どもとの愛着に問題があるという認識がない。何故なら、愛情不足なんて絶対にないと思うくらいに、子どもに対して愛情を沢山注いできたという自信があるからである。愛情不足なんて絶対にないと思うほど、親たちが子どもに愛情をこれでもかという位に注ぎ続けているのは確かである。それは障害を起こしている親子に共通している事実である。しかし、親が子どもにかけている愛情こそが問題なのである。

 摂食障害を起こしている子どもに対して注がれてきた愛情は、父性愛的な愛情である。無条件の愛である母性愛は、絶対的に不足している。障害を起こしている子どもに注がれてきた愛情は、過介入や過干渉の愛である。それは、本当の愛ではない。偽りの愛情である。親が、無意識のうちに子どもを支配する為、かつ子どもをコントロールする為に注いでいる歪んだ愛である。本来は、親は子どもに対して『あるがままにまるごと愛する』という態度が必要である。そういう母性愛だけを3歳くらいまで注ぎ続けなければならない。それを怠ってきたから愛着障害が起きて、摂食障害という二次障害を起こしたのだ。

 何故、親はそんな間違った愛情を注いだのかというと、実は親もまた愛着障害だからである。だからこそ、親に対する治療が必要なのである。唯一、摂食障害を癒す治療法がある。その治療法とは、『オープンダイアローグ』である。ミラノ型の家族療法であるこのオープンダイアローグは、愛着障害を根本的に治すことが出来る。この療法は歪んでしまった愛着を、本来の豊かな愛着に変えてくれる。しかし残念ながら、このオープンダイアローグ療法を取り入れている医療機関は極めて少ない。精神科の医師やカウンセラーは、是非ともこのオープンダイアローグを学んで実践して、多くの摂食障害者を救ってほしいものである。

LGBTが増えた原因

 LGBTの正しい認識がされてきて、偏見がなくなりつつあり、社会に適応しやすくなってきたのは喜ばしいことである。とは言いながら、LGBTが増えることで社会の生産性が低下してしまうと、本音では受け入れることが出来ない人たちが存在する。特に、政権与党の中でも特に保守的なグループでは、LGBTを社会が受け入れてしまうと、社会秩序が壊れてしまうと本気で思っているようだ。だから、時々本音での発言を思わずしてしまうのかもしれない。LGBTは生産性がないなどと言ってしまうのであろう。

 LGBTの方々の生きづらさや苦しみを思うと、そんな人権を否定するような発言をするべきではない。苦しんでいる人たちの気持ちに共感できないというのは、政治家として失格であろう。社会的弱者や障がい者が生きやすい社会にするのが政治家の務めである筈だ。このような保守的な政治家は、男女の性差に関するジェンダーにも、こだわるケースが多い。自分たちの主張に迎合する科学者を招いて研修会を開催して、LGBTの原因を追究して、イレギュラーとしての存在だと主張したがる。批判的な分析は避けてほしいものだ。

 けっしてLGBTを否定したり批判したりするつもりはないが、LGBTが起きる原因についての考察をすることは必要だと思う。原因を科学的に分析した論文を発表すると、盲目的にバッシングする人たちがいる。確かに、LGBTをあまりにも病的なもの、社会の歪みだとして扱うのは良くないと思う。あくまでも科学的に原因を洞察することは、彼らが自分のことを正しく理解する為にも有効であろう。ただし、彼らが不幸だという前提とした科学的分析は避けねばならない。彼らが抱く生きづらさを少しでも和らげる手助けにしたい。

 LGBTになってしまう原因は、遺伝子の異常によるものだというのが定説である。確かに、DNAが何らかの影響を与えてしまい、LGBTになってしまうことは考えられる。だとしても、すべての原因が遺伝子異常だというのは言い過ぎのような気がする。ただひとつ言えるのは、LGBTの方々は強烈な生きづらさを抱えて生きてきたということだ。勿論、社会が理解してくれないし受け入れてくれないから当然であるが、それだけが生きづらさの原因ではなさそうだ。小さい頃から自分の人生を生きてないという実感があったと思われる。

 そして、LGBTの方たちの多くは自己肯定感が低いという特徴を有していると考えられる。さらに、何をするにしても不安や恐怖感を覚えることが多くて、神経学的過敏の症状を持っているような気がする。特定の音や匂いなどに拒否反応を起こしやすい。さらには、心理社会的過敏も加わり、メンタルを病んでしまい不登校やひきこもりにもなりやすい。そうなってしまうのは、根底に愛着障害を抱えているからではないかとみられる。虐待やネグレクトを受けてそうなっただけでなく、過介入や過干渉を受けて愛着障害になった例もあろう。

 LGBTの方たちのすべてに、愛着障害が根底にあるとは言えないが、乳幼児期の子育てに問題があったのではないかと推測している医療の専門家が多い。LGBTの方たちとその親との関係性が、あまり良くないケースが多いような気がする。親が我が子をあるがままに、まるごと愛するような態度で接して育てていれば、子どもの自己肯定感が育つ筈である。自己肯定感があまり育っていないというのは、やはり愛着に問題があると考えられる。日本の子育てにおいて、良好な愛着が形成されていない為、LGBTが増えている気がする。

 日本の家庭教育において、愛着障害を起こしてしまう子育てがこれからも続くとすれば、LGBTが益々増えてくるに違いない。ましてや、愛着障害を強化してしまう日本の学校教育であるから、LGBTは増え続けるであろうし、不登校やひきこもりも益々増え続けることだろう。日本の家庭教育にしても学校教育にしても、自己否定感を高めてしまう教育をしている。その誤った教育システムが愛着障害を生み出し強化させている。そのことによりLGBTを増やしているのであるから、日本の教育を正しいあり方に正さないといけない。

妻が夫に不満を持つのは何故か

 夫婦の満足度についてのアンケート調査をしたら、驚くような結果になったという。夫が妻に対して満足している割合は69%であるのに対して、妻の夫に対する満足度は49%だというのである。この差は何なのか、どうしてこんなに差があるのであろうか。昔は、夫の方から離婚を切り出すケースが多かったが、現在は妻から離婚を申し立てるほうが圧倒的に多いという。しかも、夫の方では離婚の理由が解らないと主張するケースが殆どだというから驚きだ。ということは、妻の不満を夫はまったく把握していないということになる。

 夫の満足度は現実と相違ないが、妻たちの本心を明らかにしているかというと、そうではないような気がする。というのは、この満足度に対する設問が総体としてのものであり、個別の満足度設問になっていないからである。確かに、全体としてはまあまあ満足という気持ちがあるが、かなり不満な部分が相当あるのではなかろうか。特に、妻の気持ちに共感してくれているか、または妻の話を真剣に聞いてくれるか、さらには妻のことを自分のことのように心配してくれるか、という設問だったら妻はNOと答えるに違いないのである。

 多くの妻たちが抱いている不満は、以上のようなことなのである。とは言いながら、経済的には裕福な暮らしをさせてくれるし、高望みをしても仕方ないという意味で、満足していると答えているのではないかと思うのである。だから、このような設問をすること自体が、まずいのではないだろうか。以前、既婚男女に対してのこんなアンケート結果がある。生まれ変わって、結婚するとしたら今の伴侶と結婚するかどうかを聞いた。男性は約半数が現在の妻と一緒になると答えたのに対して、妻はそれよりも1割以上低い数字になった。

 しかも、20代~30代の妻たちは別の男性と結婚したいと願う割合が低いが、50代~60代になると半数以上の妻たちが別の男性と結婚したいと答えているのである。つまり、夫と長く暮らすほど不満が高まるということになる。若い頃は見えなかった夫の嫌な部分が年齢を重ねると目立ってくるのか、夫が高齢になると身勝手で我が儘になるかであろう。夫婦生活の中で、夫が抱いている不満感よりも妻が抱える不満感が圧倒的に多いということになる。年齢を重ねるとその傾向が強くなるということであろう。熟年離婚が増える要因であろう。

 それでは、何故妻たちは夫に対して不満を持つのか、考察を試みたい。妻たちが持つ不満は、夫の傾聴力と共感力の乏しさに対してである。または、コミュニケーションが成り立たないという不満でもある。どうして妻よりも夫のほうが、コミュニケーション能力が低いのか。夫たちは職場で、コミュニケーション能力やプレゼン能力を発揮して、部下たちを統率管理している筈である。年齢を重ねれば重ねるほど、その能力は高まっているに違いない。それなのに、家庭では妻が夫のコミュニケーション能力が駄目だと感じているのである。

 それは職場での意識と家庭での意識がまるで違っているからであろう。夫たちは職場において、意識を集中してコミュニケーション能力を発揮しているのである。そうしないと、仕事が上手く行かないからである。特に顧客の気持ちを汲み取ろうと必死になるし、上司の意思を把握しないと出世できないのだ。部下の話をよく聞かない男性の上司は多いが、上司の話を聞かない管理職は極めて少ない。それだけ気を張り詰めて職場でコミュニケーション力を発揮している。その反動であろうか、家庭では妻の話を聞こうとしないし、共感しようとしないのだ。

 「世の中の男性なんて、みんな発達障害みたいなものよ」と言った女性がいる。東京大学名誉教授でフェミニストである上野千鶴子女史である。発達障害の夫によって心身の破綻を起こすカサンドラ症候群の方たちに招かれた講演会での発言である。言い得て妙である。気を張り詰めて仕事をしている職場においては大人の発達障害の症状はあまり出ないが、気が緩む家庭においては発達障害の症状が強く出てしまうのだ。当然、傾聴力と共感力が乏しいし、コミュニケーションが上手く行かない。妻の気持ちを解ろうともしないし、身勝手で自己中な夫に愛想を尽かすのは当然なのである。熟年離婚をされるのも仕方ない。

しょうもない男と結婚して後悔する女性

 世の中には、しょうもない男と結婚してしまい、おおいに後悔している女性が相当数いるという。周りから見ると、どうしてそんな駄目男と結婚してしまったのか不思議である。何故結婚したのか、自分でもよく解らない女性もいると思われる。こんなにもしょうもない男だったのかと、結婚してから気付く女性もいるし、駄目な男だとある程度解っていながら仕方なく結婚した人もいるのではないだろうか。どうしてそんなしょうもない男と結婚してしまうのか、駄目男でも暮らしを続けて行くべきなのか止めるべきかを考察してみよう。

 妻から見るとしょうもない男とはどういう性格・人格なのだろうか。自己中心的で利己的であり、損得勘定で動く人間というケースもある。家族の幸せよりも自分の喜びを優先してしまう人だ。または、まともなコミュニケーションが取れない男もいる。人の話を聞かないタイプだ。聞いているようだが、まるっきり聞いていない。自分のこだわりや固定観念によってバイアスをかけているから、自分にとって都合の悪いことは聞こえない。家事や育児を依頼しても、忘れるし無視する。妻の気持ちに共感できないし、心が冷たい男である。

 もっと最悪なしょうもない男は、働くことが嫌いなタイプだ。何かと理由をつけては定職につかない。職を転々として、稼いでこない。ジャンブルやゲームが大好きで、コミックやテレビ・映画に夢中。中には最悪のケースもある。暴力や暴言を操り返し、家族を支配し制御するタイプだ。こんなしょうもない男と結婚したら、毎日が最悪である。妻に見つからないところで子どもに暴力を奮うケースもある。嫌なことがあると黙り込んだり、モノに当たったりする男もいる。壁を叩いたり蹴ったりして、妻子を怖がらせる最低の男もいる。

 中には、立派な職業に就いて高収入で、周りから見たら良い旦那さんに見えるケースもある。大人しくて、優しそうに見えるし、酒・ジャンブル・女には目もくれず、毎日職場と家庭を往復する優良亭主である。しかし、人間的には詰まらないし、異性としての魅力が感じられないタイプである。何故、そんな好きでもない男と結婚したのかと言うと、早く結婚して親から独立したかっただけである。口やかましく支配的な親で、愛情を注いでくれず子どもを制御する、いわゆる毒親から逃れたかったからである。

 しょうもない男と結婚する女性は、実はこういうケースが多いのである。育てられた家庭に居場所がなくて、自分と結婚してくれるのなら、しょうもない男と暮らしたほうがまだましだと思い込む女性は少なくない。温かくて愛情が溢れていて思いやりのある家庭を構築したいと願って、駄目男でも結婚する場合がある。愛情を注いであげれば、男は変わるかもしれないという期待は、脆くも崩れ去る。人間は、そんなに変われるもではない。ましてや、男のほうも親から愛されず育ったケースは、温かい家庭を築くのは無理なのだ。

 さて、このようなしょうもない夫とは今後どう対処したらよいか、悩むところである。暴力や暴言を繰り返すとかギャンブルのはまり仕事もしないという、どうしようもない夫なら一刻も早く別離したほうがよいだろう。どうするか迷うのは、立派な職業に就いて高収入で、周りから見たら良い旦那さんに見えるケースである。ましてや、医師、弁護士、技術者、行政職など安定した高収入が保証されている場合は、なかなか離婚に踏み切れないものである。子どもの未来のために、自分の夫は隣のおじさんや宇宙人だと思い、我慢する選択肢もある。

 しかし、子どものために我慢を続けるとしても、自分の人生を犠牲にするというのは正しい選択肢であろうか。人間は、誰かを心から愛し愛されてこそ生きる喜びを感じるものである。心からリスペクトできる伴侶、そして敬愛してくれるパートナーと一緒に人生を全うしたいと願うものだ。また、そのようなしょうもない夫は、妻が外で働くことを嫌がり、フルタイムで働かせない傾向が強い。しかし、働くことで社会と繋がり貢献をしていくという喜びを得られないというのは辛いものである。しょうもない男と一緒の暮らしを続けるか否か、どちらを選ぶのかは、いろんな要素を熟慮して決めるしかないだろう。

男性が怖くて苦手な女性

 男性が怖くて話をするのも苦手だと言う女性の方が存在する。当然、結婚することも出来ないし、お付き合いさえも避けたがる。職場でも、男性の同僚と話すことも苦手だし、男性の上司とは目を合わせることも出来ないケースもある。男性の野太い声を聞くと、怖くて仕方ないし、怒鳴る声が聞こえると震えが止まらなくなる女性もいる。学校でも、男性の同級生と話せない子どもがいる。どういう訳か解らなく、男性が苦手で怖いのである。男性恐怖症と言っても差し支えない。原因も解らないから、対処する方法もない。

 重症の方は、精神科医や臨床心理士に診断と治療を受けるケースもある。カウンセリングを受けると、乳幼児期の育てられ方に問題があるのではないかと言われることが多い。父親との良好な関係が形成されなかったことが、男性恐怖症になったのではないかと言われることも少なくない。カウンセラーやセラピストというのは、自分も同じような体験をしていることも多く、そのような分析をしてしまうことが多いようである。治療者自身が父親を憎んでいることから、父親が原因だと導くのではないだろうか。

 本当に父親が原因で男性恐怖症になってしまったのであろうか。厳格な父親、いつも怒鳴っていた父親、子どもを所有物のように扱っていた父親、自分を支配してコントロールしようとしていた父親、そんな父親は世の中にたくさん存在する。それだったら、もっと多くの女性が男性恐怖症になる筈だ。怖い父親がすべての原因だとするのには、無理があるように思われる。確かに、あまりにも厳格で暴力的な父親が、男性恐怖症になるひとつの要因だとしても、それだけが原因だと言うのは言い過ぎのような気がする。

 勿論、男性恐怖症になる原因が他にもある。幼児期に大人から性的ないたずらや暴力を受けたことが、深刻なトラウマになってしまって男性恐怖症になることもある。少女期に同様の悲惨な体験をしてもなることがある。大人になってレイプなどの恐怖体験によって男性恐怖症になることも考えられる。しかし、そのような体験をしないのにも関わらず男性恐怖症になるのは、何故であろうか。酷い父親であったから男性恐怖症になったとは言い切れないように思われる。そこに特有のバックグラウンドがあったように思うのである。

 パニック障害やPTSDになりやすい人となりにくい人がいる。同じような恐怖体験をしても、心の傷を残してしまう人と残さない人がいる。または、得体の知れない不安や恐怖に出会ったとしても、まったく平気な人もいればそれがトラウマになってしまう人がいる。その違いは何によるのであろうか。恐怖体験は単なるきっかけであり、本当の原因は別な所にあると見るのが正しいと思われる。必ず男性恐怖症になってしまうと見られる体験がひとつある。それは両親が不仲で、いつも喧嘩をしたり母親が暴力を受け続けたりするのを見ていたという体験である。

 自分が辛い思いや悲しい思いをさせられるとか恐怖体験をするのも、トラウマとなってしまい後々まで自分を苦しめる。それ以上に大きなトラウマとしてずっと苦しめるのは、実は自分自身が体験することではなくて、自分が大切にする人や大好きな人が悲惨な目に遭った体験なのである。つまり、愛する母親が父親である夫から暴言や暴力を受けている体験がトラウマになりやすいということだ。自分自身が虐めや暴力を受けるよりも、同級生が目の前で虐めや不適切指導を受けた記憶のほうがトラウマになりやすいのである。

 家庭内において、母親や兄弟姉妹が父親から虐めや暴力を受けていて、助けてあげられなかったという体験のほうがより大きなトラウマになりやすいと言える。そして、男性が怖い存在として脳に刻み込まれているのである。さらに、母親が夫からまるごとありのままに愛されていなかった故に、我が子に豊かな母性愛を注げることが出来なかったことで、自己肯定感が育たなかったことが大きな影響を与える。つまり、自分を守ってくれる安全基地がないまま大人になると、男性恐怖症になるのである。強すぎる不安や恐怖感を持ち続けることになる。男性恐怖症の本当の原因は、愛着障害にあると言ってもよい。

夫が嫌いですか?

 夫が嫌いですか?というアンケートを実施したら、21%の妻がYESと答えたという。30歳~59歳1000人の既婚女性に聞いて、嫌いだと答えた人が21%というのは、男性からすると多いと思うことだろう。でも、女性にしたら以外に少ないなと感じたかもしれない。世の中の妻たちは、もっと夫のことを嫌っている人がいる筈なのに、不思議だと思っているに違いない。おそらく質問の仕方が良くなかったのではないだろうか。夫のことが今でも好きか?という質問だったら、7割以上の妻がNOと答えたことだろう。

 様々な意識調査のアンケートをする際に、質問の語句選びによって結果が変わることが少なくない。特に、このような好きか嫌いかという設問においては、微妙なニュアンスよって結果が変わるのは当然だ。この夫が嫌いですか?という質問で何を明らかにしたかったのであろうか。嫌いと思う妻の割合を知って、何を狙ったのだろうか。嫌いかと聞かれたら、はっきりと嫌いだと答えるのは抵抗感があるだろう。嫌いかどうかの二者択一ならば、NOと答えるだろうが、どちらかというと嫌いという選択肢があれば、5割以上が選んだと思う。

 夫婦の意識調査をする度に、妻と夫の意識に温度差がある結果となることが多い。夫は、妻との結婚生活に概ね満足していることが多い。一方、妻の方はと言うと、夫の生活態度やコミュニケーションに不満を持っていることが少なくない。イスキアの郷しらかわの活動で支援させてもらっている既婚女性の殆どの方が、夫に対する強い不満を持っている。不登校やひきこもりの子を持つ母親は、夫との家庭生活に大きな不信感と諦め感を持っている。夫のことが嫌いかと聞けば、間違いなく嫌いだと答えるに違いない。

 不登校やひきこもりの子どもを持つ両親の夫婦関係は、もはや破綻していると言っても過言ではない。経済的に自立している妻のケースでは、離婚していることが多い。家庭崩壊を起こしている故に、子どもが不登校やひきこもりになっていると言えよう。勿論、父親だけが悪いとは言えないが、そもそも家庭崩壊を起こす要因は、大黒柱である父親にあることが多い。不登校やひきこもりを起こしている子どもの両親の夫婦関係は、100%冷え込んでいると断言できる。だから、妻が夫を嫌いだと言う家庭は、既に崩壊していると言える。

 不登校やひこもりの子どもたちに共通しているのは、親の夫婦仲が良くないという点である。不登校やひきこもりの子どもたちは愛着障害であるケースが殆どであるが、その大きな要因は両親の不仲にあると言っても過言ではない。表面的には中良さそうに見えていても、関係性が壊れているケースが多い。不登校やひきこもりの子どもは、HSPであることが多い。常に不安と恐怖感を抱いている。HSPになる原因は、家庭の中に居場所がないからだ。それも、両親の不仲が遠因となっている。安全基地が存在しないのだ。

 両親の夫婦仲が悪くて、いつも夫婦がバトルをして無視をし合っていると、母親の精神状態は不安定になるから、子どもとの豊かな愛着が結ばれない。つまり、妻が夫のことを心から敬愛していて、夫も心から妻を愛していないと、子どもの愛着が不安定になるし、HSPになって自尊心が育まれない。子どもは生涯に渡り、強烈な生きづらさを抱えて生きることになる。不登校やひきこもりになってしまう可能性が高くなる。妻が夫を敬愛できるかどうかで、子どもが幸せになるかどうかが決まるのである。夫のことが嫌いだというような家庭においては、子どもが不幸になるということだ。

 妻が夫のことが嫌いなのか、それとも好きなのかは、単に夫婦間の問題だけではないのである。家族全体の問題であり、子どもの人生における非常に重要な問題なのである。両親の仲が良くて、お互いに敬愛する関係なら、子どもは健全に育つ。子どもの前だけでは良い夫婦を演じているというケースもある。こういう場合、子どもは両親の夫婦仲が本当は悪いんだということを直感的に認識している。経済的に自立出来るのなら、無理して夫婦を演じる必要はない。さっさと離婚して、精神的に安定して子育てをするほうが遥かに良い。『子はかすがい』なんていう諺は、もはや死語になり果てたのである。

親ガチャは努力によって克服できるか

 親ガチャという言葉があるのをご存じだろうか。語源は、ガチャというネットゲームがあり、結果を自分では選ぶことが出来なくて、どんな結果になるのか運次第であることから、親もガチャと同じだということから生まれたという。確かに子どもは親を選べない。どんな親の家庭に生まれるのか、ガチャゲームのように運次第である。特に、親の経済的な貧富の差はいかんともし難く、貧困家庭に生まれた子どもは満足の行く高等教育が受けられず、親になっても同じように貧困家庭になり、貧困家庭の連鎖が止まらないと言われている。

 韓国や米国などでも、親ガチャと同じような概念があって、社会問題になっていると言われている。大きな経済的格差がある社会が形成されるというのは、政治がお粗末だからと言える。親ガチャは子どもの努力によって乗り越えられるのか否かと、ネット上でも盛んに議論されているが、否定する意見のほうが優勢のようである。しかし、一部の経済的に裕福で恵まれた人たちは、努力すれば貧困から抜け出せる筈だと主張する。確かに経済的な面での親ガチャを克服することは、本人が相当な努力をすれば何とか出来る可能性もある。

 しかし、どうにもならない親ガチャがある。子どもが不登校やひきこもりになってしまうのは、親との健全な愛着が形成されないからである。健全な愛着を子どもに対して育んであげることの出来ない親ガチャである。不安定な愛着、傷ついた愛着を子どもに持たせてしまうのは、親の責任である。そして、一旦不健全な愛着を持ってしまった子どもは、自分の力ではどうしようも出来ない。ましてや、深刻な愛着障害を持つ子どもは、一生に渡って苦しむことになる。問題ある親が劇的に変わらなければ、子どもは愛着障害を乗り越えられない。

 あるがままにまるごと我が子を愛する母親と、何があっても子どもを信頼して守ってくれる強い父親がいれば、子どもは健全な愛着を持つことができる。無条件の愛で包んでくれる母親と、いかなる時も妻と子どもの為に命を惜しまず闘ってくれる父親がいてこそ、子どもは安心して暮らせる。つまり、安全基地が保証されてこそ、子どもは安心して学校生活を過ごせるのである。豊かな母性愛と父性愛で満たされてこそ、子どもは揺るがない自尊心を持てて、どんな困難や苦難にも立ち向かう勇気を持てるのである。

 ところが、不安定な愛着や傷ついた愛着しか持てない子どもが育ってしまうことがある。それは、あまりにも過干渉や支配とコントロールを繰り返すような両親の元に生まれた場合である。または、ダブルバインドのコミュニケーションによる子育てを日常的にする両親に育てられた時である。勿論、虐待やネグレクトをするような両親なら、間違いなく愛着障害になってしまう。これもまた深刻な親ガチャである。このような親ガチャが当たってしまったら、自分の力で乗り越えることは出来ない。愛着障害を自分で乗り越えるのは不可能だ。

 愛着障害の両親に育てられた子どもは間違いなく愛着障害になってしまう。貧困家庭が世代間連鎖する確率が高いと言われるが、愛着障害の世代間連鎖は100%に近い。絶対的な自己肯定感を持つ子どもに育たないのは、両親自身が絶対的な自己肯定感を持ち得ていないからである。自尊感情というのは、0歳から3歳頃までに、無条件の愛でまるごとありのままに愛されなければ育たない。つまり、絶対的な自己肯定感を持てるかどうかは、親ガチャで当たるかどうかなのである。自分の力ではどうしようもないのだ。

 このどうしようもない親ガチャにより愛着障害になってしまった子どもは、一生生きづらさを抱えて生きることになる。親が自らの子育てを反省し、子どもに心から謝罪し、悔い改めて子育てをし直せば、愛着障害が癒されるかもしれない。しかし、そんなケースは皆無である。親自身が愛着障害なのだから、子どもの安全基地になれないのは当然だ。しかし、この深刻な愛着障害である親ガチャを克服する方法がひとつだけある。この愛着障害の親子を癒すことができる、優秀なセラピストがサポートして、安全基地の機能を果たすことである。時間はかかるが、不可能ではない。親ガチャを乗り越えるには、この方法しかない。

夫婦別姓にすると離婚が増えると言うが

 夫婦別姓に反対する人たちは意外と多い。最高裁の女性判事でさえ夫婦同姓の制度を合憲とする意見を述べているのにはびっくりする。夫婦同姓を絶対に譲らないというのは、夫婦別姓を認める制度にしてしまうと日本の家族制度が崩壊してしまうという理由からであろう。確かに正当な主張だと思われがちである。しかし、その主張は本当に正しいのであろうか。夫婦別姓の制度にすると、夫婦の絆が希薄化してしまい、離婚が増えてしまうのではないかという心配は、反対論者も賛成論者も共に持つのかもしれない。

 夫婦別姓の制度にすぐに踏み切ろうという世論が盛り上がらないのは、家族というコミュニティが崩壊するという心配が完全に払拭できないからではないだろうか。日本は、男女平等と言いながら、まだまだ男性中心の社会である。男性中心の『家』に嫁いだ女性がその『家』縛られる。そんな男性中心の家族制度を壊したくないというのが、夫婦別姓反対者の本音であろう。夫婦別姓が実現したら、嫁は『家』に帰属する意識が低くなり、夫婦の絆が薄くなり離婚が増えるという主張をしている。このような考え方に同調する人が多いのも当然だ。

 しかし、この主張は科学的に考察すれば、まったくの間違いだと気付くことだろう。心理学、システム工学、脳科学、生物学、物理学、行動生理学、社会行動学等を基礎にして考察したら、夫婦別姓にすると離婚が増えるという主張は間違っているばかりか、夫婦同姓が逆の効果を生んでいるということが明らかになる。それは、人間と言う生き物が何を基準して考えて行動するのかという視点がないし、人間社会全体の幸福の為にはどちらの制度が必要なのかという視点が欠如しているからである。個人最適ではなく全体最適の視点が必要だ。

 この社会は、ひとつのシステムである。家族というコミュニティもひとつのシステムである。システム論という科学的な理論でもって、夫婦同姓と夫婦別姓のどちらが正しいのかを論じるべきなのである。家族というシステムは、豊かな関係性(絆)によって保たれている。家族というシステムが崩壊するかどうかは、家族それぞれの関係性によって決められている。夫婦の姓が同じか別かによって、関係性が豊かになるのか希薄化するのかが決められる訳ではない。そもそも、夫婦関係が壊れるのは元々関係性が良くないからである。

 つまり、夫婦別姓であろうとも夫婦の関係性が良ければ離婚することはないのである。親子関係や夫婦関係が良好であるならば、家族が崩壊することは絶対にない。夫婦同姓であっても離婚しているのは、そもそも夫婦の関係性が壊れているからなのである。家族というシステムが、夫婦別姓にしたから崩壊するのではなく、そもそも夫婦の絆が希薄化しているせいなのだ。夫婦同姓という制度に胡坐をかいて、夫婦の関係性を良くしようとする普段の努力が足りないのである。あたかも自分の所有物や支配物のように妻を扱う夫が、妻の愛情を失って、関係性を損なっているのだ。

 夫婦同姓の制度は、お互いに支配や制御の関係を求めてしまうし、依存の関係に陥りやすい。人間と言うものは、自由を求めているというか、自己組織化しなければ本来の機能を失ってしまうのである。夫婦同姓というのは家族への帰属意識を高めてしまうが、それは人間本来あるべき生き方を阻害してしまう。帰属意識というのは、予め強いるものではなくて、結果として生み出さられるものである。強制的に帰属意識を求めるのではなくて、関係性(愛)が強くなって、帰属意識が高まるのだ。帰属させようと無理強いすると、愛が冷めるのだ。

 夫婦別姓にすれば、夫は安穏としていられなくなる。常に、妻から愛される存在でなければなくなる。自分を絶え間なく磨いて成長し、妻から認められて惚れ続けられることになる。夫が家事や育児に協力するのは勿論、毎日ハグやキスをして『愛してる』と言い続ける。妻も、それに応えて夫に愛を注ぎ続けることになる。夫婦別姓にすることで、夫婦の絆は間違いなく強くなるし豊かなものになっていくに違いない。家族の関係性も豊かになり、家族というシステムも自己組織化してオートポイエーシスの機能も働く。つまり家族は幸福になるのだ。科学的に考察すれば、夫婦別姓のほうが正しいというのは、こうした理由からである。