タイの子ども達の救出が成功した訳

タイの洞窟に閉じ込められたサッカー少年たちが、無事に救出されたニュースは世界中を駆け巡った。全員が何事もなく助けられたというのは、奇跡だとして多くのワイドショーで取り上げられている。ただひとつ気になるのは、ここでも自己責任論が出ていることである。世界の中で、日本の一部のキャスターやコメンテーターだけが自己責任論で批判しているのは、異常に見える。例え多くの人々に迷惑をかけたとしても、犠牲者を生んだ責任があるとしても、子どもたちやコーチを糾弾するというのは、大きな違和感を覚える。いつも批判することでしか、自分を表見できない情けない人間がどこにもいるものだ。

確かに、彼らの行動は軽率だったかもしれない。だとしても、わざとこのような行動をしたのではないし、アドベンチャーには危険はつきものだ。日本人は指導者としてリスクを避ける責任があると言うが、タイのケースでは予測するにはあまりにも難しかったと思われる。それ以上に、その後の対応が指導者として素晴らしくて、称賛すべきと思われる。犠牲者があったことは真摯にとらえるべきではあるが、批判することは避けたいものだ。日本人というのは、どうしてこのように他人に対して批判的になってしまいましたったのだろう。そのルーツはどこにあるのだろうか。

日本人が自己責任論を振り回すきっかけになったのは、日本人ボランティア3人がイラクで人質になった事件からではないかとする知識人が多い。あの時に、当時の安倍幹事長が先頭を切って、彼らの自己責任論を展開して、早い段階から救出費用を本人に支払わせろと叫んでいたと言われている。マスコミもそれに同調して、自己責任論が噴出した。その後、ISに人質にされたジャーナリスト二人を見殺しにしたのも、安倍総理である。口に出さなかったものの、自己責任だと思っていたからこそ救出に動かなかったのであろう。

今回のタイの子どもたちを救出できた奇跡を、世界中が称賛する中で、日本人だけが自己責任論でバッシングしたとしたら、笑われるだけである。当事国であるタイでは、まったく子どもたちやコーチを批判する声は出ていないし、費用を本人たちに請求するなんて声も上がっていない。こういうお国柄だからこそ、救出に成功したのではないかと思うのである。日本だったら、こんなふうに国をあげて全面的な協力をしたのだろうかと不安になる。自己責任論が噴出して、安倍政権は救出をする姿勢は見せるものの、真剣には対応しなかっただろうし、マスメディアも批判したのではないかと危惧している。

今回のタイでの救出劇が成功したのは、タイの国民性が色濃く反映した対応だったからだと確信している。タイは世界でも有数の仏教徒の国である。これだけの仏教の僧侶がいるのは、他の国ではありえない。そして、こういう修行をしている僧侶を、すべての国民が手厚く支援して保護している。日本も仏教の国だという人もいるが、実情は違う。儀式としての仏教は残っているが、仏教に帰依している国民はごく少数だ。日本は仏教の国とは言えなくなっている。タイは仏教国であるが故に、救出に成功したのである。

仏教を信奉する国民は、なによりも『関係性』を大事にする。そして、個別最適よりも全体最適を求める。仏教の価値観は、『縁』をなによりも大切にする。縁起律と呼ばれる基本的な概念が存在する。因縁というのは、すべての原因が縁によって生じるという意味である。自分に関わりあうすべての人は他人だと思わず、自分と同一だとする『自他一如』が基本理念となる。つまり、今回のタイの遭難した子どもたちのことを、国民がすべて自分のこととして感じたのである。親も親族も、そしてまったくの他人も我がことのように子どもたちを想い、真剣に無事を祈り救出を願ったのである。こういう祈りという集合無意識が、天候も含めてすべてのことを好転させたに違いない。

仏教では、関係性と全体性を大切にする。自分の利益や損得よりも、全体の幸福や豊かさを求める。だからこそ、国をあげて救出に協力したのであろう。彼らを批判するということは、関係性を損なうことになるから絶対にしなかったのである。日本人は関係性が希薄化し劣悪化しているから、他人を批判するのであろう。子どもたちのコーチは、元修行僧だった経歴があり、自分を犠牲にしても子どもたちを守ろうとした。食べ物を少しでも子どもたちに分け与えたから、一番体力を消耗していたという。瞑想を教えて、体力の消耗を抑えて精神の破綻を防いだのも、彼が僧侶だったからである。救出にあたったダイバーたちも、自己犠牲を厭わず、子どもたちのために智慧を尽くして最大限の努力をした。奇跡の救出劇が成功したのは、タイが仏教国だったからだと言える。

何のために働くのか

「あなたは何のために働くのですか」と問われて、10人中9人は生活のために働くと答えることであろう。当然である。昔から働くもの食うべからずと言って、有り余る財産がなければ、人は生活をするために働くのが普通である。10人中1人ぐらいは生きがいのためとか、健康のためとか、またはいろんな人と交流を深め見識を広めたいという人もいるかもしれない。とは言いながら、やはり収入が目当てである部分も必ずあるだろう。収入が不要というなら、収入のないNPOやボランティアで活動するに違いない。

以前、人が働く目的は収入だけのためだけではない。人間として自己成長したり自己実現を目指して働いたりするという意味もあるのではと問題提起をしたら、きれいごとを言うんじゃないとお叱りのコメントをいただいたことがある。確かに、そんなことを言っていたら出世競争に乗り遅れてしまうとか、いつまで経っても給与収入が増えないで貧しい生活になるかもしれない。ましてや、現代のように非正規雇用の低賃金で、不安定な立場でぎりぎりの生活を強いられてしまっている若者にとっては、そんな余裕なんてないと怒られるかもしれない。

ひと時代昔のように、ほとんどの労働者が正規労働者であり、生涯雇用制度に守られて働いていれば、生活のためだけでなく自己実現を目指すという余裕があったのかもしれない。ましてや、あの時代は高度成長時代、企業も毎年のように最高利益を更新して、毎年ベースアップをしていたのだから労働者も安心して働けた。そんな恵まれた時代だから、収入は確保されるのが当然だから、生活のために働くという意識はなくても良かったとも言える。ところが現代は、明日の労働と収入さえ不安なのだから、生活のために働かざるを得ないというのも仕方ないであろう。

それでもあえて言いたいのであるが、働く意味というのはもっと他にもあるような気がしてならない。働く意味や生きる意味というのは、これしかないなどと乱暴なことを言うつもりはない。人それぞれに労働観を持っているだろうし、人生観だっていろいろであると思う。しかしながら、生活のためだけに働くとか自分のためだけに生きるというのでは、少し情けないような気がするのである。人間がそもそも何のために生まれてきたのかということを深く洞察すれば、見えてくる真理というものもあるだろう。そういうこともせずに、目の前の生活のことだけに意識がとらわれるというのは、可哀そうな気がする。

この世の中では、働きづらくて生きづらいと思っている人が多いに違いない。何故かというと、行き過ぎた競争意識があるうえに、細かくて厳しい人事評価制度に縛られているという影響がある。また、あまりにも労働環境が厳しくて、上司から成果を上げろと叱咤されている。さらには、いくら頑張っても報われないという諦め感も強く感じる。なにしろ、日本人の従業員満足度は極めて低いし、多くの人が働きがいを感じられないというのである。毎日、神経をすり減らし、我が身体をむち打ち、やっと通勤している有様なのである。

さて、日本人の従業員満足度が低いというが、それはどうしであろうか。多くの人が誤解していることなのだが、従業員満足度というと待遇や労働環境のこと、そして仕事に対するモチベーションだと思っている人が多い。確かに、それも一部である。それよりも、従業員満足度の大切な部分は、実は顧客の満足に対する貢献度と職場と仲間にどれだけ貢献できたかである。この貢献意識とそれに対する感謝が大きいときに、従業員員満足度がとてつもなく高まるし、さらにはこういう意識で働いて自分が人間として成長できたなと実感した時に従業員満足を感じるのである。もっと言えば、職場に貢献する優秀な人材を育てられた時も大きな満足感を得られるのである。

ということは、日本人の労働者の多くがこういった、他者に対する貢献をしていないということになる。職場に愛着や信頼を感じるか?という質問をすると、日本人のたった7%しか感じないというのだから、当然であろう。先進国の中では、最低の数字である。非正規労働者を増やして労働コストを下げるという国の制度設計も悪いし、従業員満足度を高める努力をしてこなかった使用者側にも責任があろう。だとしても、労働者自身にもまったく責任がないとは言い切れないような気がする。もう一度、何のために働くのかということを深く考え直し、そして働きがいや従業員満足度が高い職場を選ぶという意識を持ってみてはどうだろうか。単に報酬が多くて休みが多い職場だけを選択するのではなくて、愛着や信頼を得られるような職場で、しかも自分を人間として大きく成長させてくれるというような基準で選んでみるのもよいのではなかろうか。

 

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甦る「仁」の心

戊辰戦争後150年の節目に当たる今年は、あちこちで記念事業が開催されている。当地白河市では、「甦る仁の心」というキャッチフレーズを採用して、シンボルマークを制定してPRしている。会津藩と仙台藩の東軍の武士は、戊辰戦争において白河の地で新政府軍と戦った。白河は激戦地となり、多くの東軍と新政府軍の兵士が命を落としている。明治政府側が戊辰戦争後に作り上げた歴史観によって、会津藩と奥州列藩は賊軍という汚名を着せられてしまったが、あの戦争は巧妙にねつ造されたテロ内戦であることは歴史研究家が明らかにしている。正しい歴史観によって戊辰戦争を再評価する動きも加速し、白河市も「甦る仁の心」と命名して先人の偉業を称えている。

白河市内を歩くと、仁と書かれたポスターや幟があちこちで掲げられている。自分の名前の「仁」を見つけるにつけ、何となく恥ずかしくなる。この仁の心というのは、戊辰戦争の時に白河地方の一般市民が取った素晴らしい行動から来ているという。東軍と新政府軍の分け隔てなく、戦死者を丁寧に葬り、その後も慰霊碑を立てて英霊たちを慰めていたという。戊辰戦争における戦死者のうち、長州藩など新政府軍の戦死者だけを祀った靖国神社の全身である東京招魂社とは大違いである。なお、靖国神社には西郷隆盛も祀られていない。白河の人々の、分け隔てのない慈悲深くおもいやりのある行動を称えて、甦る仁の心としたという。

元々、この『仁』という語句は、中国の儒教における孔子や孟子が人間として生きるうえで大切な心だと説いた。人が持つべき仁義礼智信の五徳の中でも、仁が最高位の徳だと主張した。仁とは慈悲の心、または人間愛のことを言う。人間として持つべき思いやりの心を指していると思われる。先年、仁JINというTVドラマが放映され人気を博した。あの人間愛にあふれた医術こそが、現在の医療界には感じられないが故に、高視聴率を得たのではないかとみられる。現代で忘れ去られてしまった仁の心を甦らさせたいと、かのキャッチフレーズになったのかもしれない。

ところで、この仁という字は単なる愛だけを示したのではないらしい。仁とは二人の人間を表していて、人と人の間の豊かな関係性ということを示しているという。つまり愛とは、人と人の間に生じるものであり、単独では存在しないということである。さらに、二人の人間というのは人間の心の中に存在する二面性も表しているとも言われている。つまり、人間の心の中に存する、善と悪、美と醜、正と邪、汚濁と清澄、裏表の関係にあるものを言うらしい。どんな人間にも、マイナスと自己とプラスの自己がある。邪悪な心や醜い心があることを認め受け入れて、その自我にある穢れた心さえも愛さないと、正しくて揺るがない善の心を発揮できないものである。つまり自我を超越した仁愛を発揮できないという意味であろう。

とは言いながら、この仁の心を無理なくあるがままに発揮できる人間がどれだけいることだろう。言い換えると、仮面を被っていて善人ぶった人間は大勢いるが、仁愛にあふれた真の善人はそうはいないということである。善人の仮面を被った悪人は、悪人よりも始末が悪い。自分の中に存在する悪を認めず受け入れていない仮面の善人ほど、社会にとっては邪悪な存在になることが多い。自分を守るために平気で嘘をつくし、人が見ているところでは善人ぶるが、誰も見ていないところでは平気で人を裏切る。忖度をする官僚や、その官僚に平気で嘘をつかせる政治家がそれである。

仁の心を現代に甦らせることは、一筋縄では行かないであろう。何故なら、客観的合理性の教育を受けた現代人は、惻隠の心が育っていないからである。か弱きものや小さきものへの愛を発揮することの大切さを、近代教育では教えてこなかったからである。行き過ぎた競争は、利己的で自己中心的な人間を生み出した。まさしく仁の心を踏みにじるような教育をしてきたのである。このような個別最適の間違った価値観にまみれてしまった人間に、関係性の大切さや全体最適の大切さをいくら説いても受け入れてもらえないだろう。しかし、せっかく「仁」という名前をもらった自分だからこそ、この仁の心を広めて行く使命を担っているのだろうと認識している。険しい道であるが、粛々と歩んで行きたい。

直感に従うとは言うけれど

直感に従って生きなさいというアドバイスをする人が多い。いろいろと迷った際には、自分の直感を信じて決断通りに進みなさいと教える人が少なくない。人生において達観の域に入った人は、そんな助言をしてくれる。確かに、迷いに迷ってしまい最終的に選択した判断が裏目に出て、最初にふと思った選択肢が良かったなと後悔することはよくあることだ。人間の直感力というのは、素晴らしい判断をすることがよくある。だとしても、全部の直感が正しかったとは言えないこともある。だから、難しいのである。

直感力がすごく鋭くて、その直感力が素晴らしい選択をする人がいる。一方で、まったく直感力が働かない人や、間違った直感をしてしまう人がいる。どうやら、人によって直観力が違うみたいであり、その直感が正しい選択をさせるかどうかは、その人間力によるのではないかと推測される。直感が鋭い人は、非常に素直な人であり、何事にも誠実で謙虚な人が多い。一方、直感が鈍い人というのは、自分に対して素直になれず、いつも後悔しながら生きている人が多い。いつも辛く悲しい思いをしていることが多く、感情を抑圧することが少なくない。

そして、とても危ないのが、直観は鋭いものの間違った直感を得てしまうことが多く、その間違った直感を信じて突き進む人である。こういう人は、自分の大事な人生の岐路に立った時でも、自分の直感を信じて疑わず、とんでもない生き方を目指してしまう。当然、悲惨な結果になってしまうことが多い。そんな目に何度も遭っていて、他の人からも助言や忠告を受けているにも関わらず、頑なに自分の直感に従うことが多い。こういう人が、自分の家族であったり、または会社の上司や経営者であったりすると、自分も巻き込まれてしまうから大変である。

どうして、そういう人は間違った直感を持ってしまうのであろうか。そして、その間違った直感を信じてしまうのかが不思議である。それは、その人の生き方の根本となる価値観が間違っているからに他ならない。そういう間違った直感を得る人というのは、いつも個別最適を目指していて、関係性をないがしろにするという生き方をしている。個別最適というのは、自分の幸福や利益を大事にするあまり、周りの人への配慮に欠けている価値観である。当然、他との関係性は悪化することになる。

この個別最適というのは、自分だけ、家族だけ、自分の部門だけ、自分の会社だけの最適化を目指すということであり、社会全体の幸福や利益は二の次だという価値観である。利己的な生き方を志すあまり、自分以外の他人との関係性は良くない。こういう人は、何か重大な選択を迫られた時に、自分にとって損か得かだけで判断しやすい。他に対して何らかの見返りやリターンを期待する。利他の心というものが理解できないし、いつも自分だけが可愛くて仕方ない。自己愛の障害と言ってもよい。

このように、個別最適を目指していて、関係性なんかどうでも良いと思っている人の直感は、とんでもない選択肢を与えることになる。一方、常に全体最適を目指していて、自分以外の人や動植物、鉱物との関係性をも大切にしている人の直感は素晴らしい。何故、そんな違いが生まれるかというと、人体というシステムが全体最適によって営まれているし、人体というすべての細胞・組織はネットワークという関係性によって成り立っているからである。人体という完全なシステムが全体最適と関係性によって成立しているのに、全体である人間が、それに逆らう生き方をしたら、機能不全に陥るのは当たり前である。

さらに、会社もひとつの全体というシステムである。全体最適と関係性によって成り立っている。勿論、家族もそうだ。地域社会も同じく全体最適と関係性で存在する。国家も同じだし、地球全体もシステムである。宇宙全体も同じような全体最適と関係性によって存在していることが、宇宙物理学や量子力学によって証明されている。つまり、人間という生きものは、全体最適と関係性の哲学によって存在しているのである。この全体最適と関係性という価値観を持つことが出来ずに、個別最適と関係性無視の生き方をしたら、悲惨な結果になるのは目に見えている。そういう人の直感は、病気・怪我・事故・別離・孤独・死を招くに違いない。こういう人は、自分の直感に従うことをせず、正しい価値観を学ぶことから始めてほしいものである。

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一緒にいると疲れる人と付き合う方法

一緒にいると異様に疲れてしまい、元気を削がれてしまう人がいる。職場や組織に所属していると、必ずこういう人と出会うものである。出来れば、こういう人とはなるべく付き合いたくない。しかし、どうしても関わり合いを持つしかないケースもある。こういう人と上手く付き合う方法はないものだろうか。一緒にいても何とか、自分のエネルギーを削がれないで、関係を保って行く方法がないだろうか。

一緒にいると疲れる人というのは、自己中で身勝手で自己愛の強い人である。自分の利益のことしか考えていないし、損か得かで行動をする人である。心が穢れているから、波動が乱れている。しかも、自分に従うように周りの人々を支配したがるしコントロールしようとするのだ。自由を束縛されて支配された人は、エネルギーを奪われてしまう。だから、こういう人が傍にいるだけで、異様に疲れるのである。こんな人が同僚や上司であれば、日々疲れ切ってしまい、そのストレスから病気になってしまう危険がある。

こういう人とエネルギーを奪われないで、上手く付き合うには、かなりのコツが必要である。絶対にしてはならないことが一つある。それは、相手の間違った価値観に合わせてはならないということである。間違った価値観で生きてしまうと、やがて多くの人々の信頼を失い、関係性を損なってしまうからである。どんなに行動をコントロールされたとしても、心まで自由にされてはならないということである。例え表面的には従ったとしても、魂まで売り渡してはならないということを肝に銘じておかなければならない。

一緒にいると疲れる相手は、自分の支配下に置き、自分に従わせるようあれこれと指図する。例え間違っている指示であったとしても、上司ならば従わないとならない。後で、何らかの仕返しをするからである。こういう粘着質タイプの人間は、自分に逆らった人をいつまでも根に持っていて、何かの機会にリベンジしたがる。上司にはこびへつらうが、部下や同僚であれば、パワハラやモラハラをしがちであるので注意が必要である。表面的には、ある程度は従順な態度をする必要があろう。それでも、嫌っているという本心は悟られないように、上手く振る舞うことが求められる。

そのうえで、一緒にいると疲れる人に対して、どのようにすれば良いかというと、同じレベルで考えないということである。自分の価値観との違いをしっかりと認識する必要がある。一緒にいると疲れる人の低劣な価値観と同等のレベルの価値観に捉われないことである。一段とレベルの高い価値観を持って、その問題の人間の低レベルの行動を洞察し、どうしてそんな馬鹿な行動をするのかを詳しく分析するのである。そうすると、彼の生い立ちや経歴、または元になっている低い価値観が見えてくる。そんな問題行動をしてしまう背景もよく観察すると、そのあまりにも酷い人間性や人格が明らかになる。

言い替えると、一緒にいると疲れる人の問題行動を、俯瞰するということである。そのうえで、いかに低劣で酷い価値観によって行動している愚かさを、一段も二段も高い処から、ああ気の毒だな、可哀想になあ、と客観的に眺めるとよい。けっして同レベルの人間としてではなく、数段も高い位置からの第三者的な分析をするのである。そして、絶対にしてはならないのは、同じ会社や組織の人間には話さないし悟られないことである。人間は、自分を守る為には平気で裏切ることがあるからだ。一緒にいると疲れる人の悪口や愚痴を、その人の周りにいる人には絶対に言わないことである。また、自分の実名・会社が特定できるようなSNSやブログでは、情報発信をしないことも大事である。ひょんなことから、その本人に伝わることがあるからだ。自分の本心は悟られないように振る舞うことが大切である。

一緒にいると疲れる人というのは、会社や組織で高い地位につきやすい。何故なら、上司や経営者に媚びへつらうからである。自分より高い地位の人には歯の浮くようなおべっかを使い、自分よりも目下や同等の者はバカにするばかりか陥れることさえする。自分に歯向かうものには徹底して攻撃して来る。やがて、こういう人間は社会的に信頼されず破綻する運命にある。家庭においては、不幸な生活をしがちだ。配偶者は病気になりやすい。子どもは問題行動を起こしやすい。結局は、社会的な制裁を受けることになるのである。一緒にいると疲れる人と上手く付き合うには、あくまでも表面的に合わせるだけの日常にして、対面した時はニコニコして、後ろ向きではあかんべえをするくらいの気持ちで接すること肝要である。

スポーツ指導者に必要な価値観

日大のアメリカンフットボール部の選手が、考えられないようなラフプレーをしたことが話題になっている。そして、その選手にとんでもない指示をしたと言われているのが内田監督である。アメフトの大学日本一を決める甲子園ボールで、昨年優勝したチームである。そんな名門チームの監督が、どうしてこんな指示をしたのかが不思議である。監督と言えば、部員は我が子のような存在である。その可愛い部員に、あんなにも辛そうな記者会見をさせるなんて考えられない。スポーツの指導者である前に、人間としてあり得ない対応である。

最近のスポーツニュースを賑わせているのが、スポーツ指導者の不適切な対応である。至学館大学の女子レスリング監督で、元日本代表のヘッドコーチでもあった栄和人のパワハラ事件があったのは記憶に新しい。過去には近大のボクシング部でセクハラ事件もあったし、柔道日本代表でのパワハラ事件も世間を賑わした。高校や大学の部活において、各種ハラスメントだけでなく暴力事件・体罰事件は数多く発生している。義務教育である中学校の部活においてさえ、指導者による体罰や暴言はなくならない現状にある。どうして、スポーツの指導者というのは、こんなにも低レベルの人間が多いのであろうか。

スポーツの指導者、それも日本のトップレベルのチームの監督やコーチは、常に勝利という結果が求められるのは当然であろう。ましてやナショナルチームの監督・コーチであれば、多くのファンが勝つことを期待するが故に、勝ちにこだわざるを得ないであろう。結果が出なければ、サッカー日本代表監督のように即座に更迭される運命にある。だとしても、結果を求めるあまり、スポーツをすることの本質や目的を見失ってしまうことが多いのも事実である。スポーツをするのは何のためかという本質を忘れてしまっている指導者が多いのは情けない。

ナショナルチームは別として、中学・高校・大学においてスポーツをする目的は何であろうか。またはスポーツ少年団の指導者は、何のために子どもたちの指導をしているのであろうか。勝負事なのだから勝ち負けにこだわりたくなるのは理解できる。だとしても、結果だけにこだわってしまうから、パワハラや体罰や暴言などの不適切指導が起きてしまうのではないかと考えられる。もう一度青少年にスポーツの指導をする意味を考えてほしいものである。スポーツで結果を出すということは、勝つということであろう。しかし、これはスポーツをする目的ではない筈である。ましてや、青少年にスポーツの指導をする目的は、勝つことではないことではないのは明白である。

目的と目標はまったく違うということを理解している人は、意外と少ない。特にスポーツの指導者は、目的と目標を混同しているケースが非常に多い。目標とは、目的を実現するための具体的な指標のことであり、目的とは正しい価値観や真理に基づいて設定する究極の進むべき抽象的な概念のことである。だから、目標はあくまでも目的達成のためのランドマークでしかない。スポーツにおいて、優勝するとか優秀な成績を収めるというのは、あくまでも目標であり、目的ではない。それなのに、勝つということを目的化してしまっている愚かなスポーツ指導者が存在する。それが日大の内田監督であり、至学館大学の栄監督でもある。だから誤った指導をしてしまうのである。

スポーツをする目的、またはスポーツを指導する目的は、スポーツを通して健全なる精神と肉体を獲得できるようにすることと、チームワークや人間関係の大切さを学ぶことである。さらに、苦難困難にも挫けない精神性や忍耐力を身に付け、主体性や責任性といった大切なアクティビティを育てることである。やがて世の中や人々の為に貢献できる人間性と人格をもつ人間として育成することが、スポーツをする目的である筈だ。指導者は、この理念を忘れてはならない。勝負にこだわると、この大切な目的を忘れてしまい、青少年の健全な育成が出来ないばかりか、日大アメフト部のような不祥事を起こすことになりかねない。

さらに言うと、これらのスポーツをする真の目的を設定するには、普遍的で真理に添った正しい価値観を持つことが必要不可欠である。この正しく高潔な価値観を持つ人間が、日大や至学館のトップや理事に居なかったのであろう。だから、とんでもない指導者を責任者にしたのであるし、問題が起きた際に適切で正しい措置を取れなかったのである。スポーツの指導者たる者は、青少年の健全育成の為にスポーツの指導をしているということを忘れてはならないし、勝つことを目的にしてはならない。だからこそ、指導者たる者、真理に基づいた正しく高い価値観や哲学を持つための学びを怠ってはならないのである。

 

誰のための人生か

人生は誰のためにあるかと問われたら、そんなのは当たり前だろう、自分のためにあるに決まっているじゃないかと答える人が殆どであろう。そんなこと聞くほうがおかしいと思う人もいるに違いない。確かに、人生は自分のためにある。誰のためではなく、自分自身のために存在するのは間違いない。しかしながら、自分の人生だからと言って、無為に過ごしたり無茶苦茶な生き方をしたりするのは許されない。何故なら、自分の人生でありながら、自分だけのものではないからだ。

自分の人生は自分のものなのだから、どのように使おうと自由だと主張する人は少なくない。自分の人生をどう生きようと、他人にとやかく言われることはないと思っている人が多い。甘いものが大好きでしかも過食のために糖尿病になりながら、生活態度を改めない人がいる。運動が大嫌いで脂質と糖質が大好きなためメタボになりながら、生活習慣を変えることが出来ない人もいる。医師や家族から、自分の健康なんだから自分でどうにかしなさいと言われているが、一向に改善しない人が多い。

先生や親から勉強をしなさいと言われているが、主体性を持って自ら進んで勉強する子どもは極めて少ない。勉強は誰の為にするのか?と質問されたら、殆どの子どもは、そんなの決まっているじゃないか、自分の為だよと答える。先生や親たちもまた、勉強しないで困るのは自分なんだから、困らないように今のうちに勉強しなさいと言う。勉強するのは、良い高校・大学に行って、高収入の職業や安定した職業に就くためだよと説いている。自分の為に人生を歩むんだよと教えているようなものである。

勉強もそうだが、健康になる為の節制は、自分の為だと思っているうちは頑張れないものである。何故なら、そもそも人間という生きものは自分のためだけに努力することが難しいのである。愛する者のためや、関わり合う人のためになら頑張れるのであるが、自分の利益だけには努力できないのである。だから、自分の為に勉強しなさいといくら言われても勉強したがらないのである。自分の為なのだから健康になりなさいと言われても、努力出来ないのだ。自分の為に人生があると思っているうちは、よりよく生きるための苦労をしたがらないのが人間である。

普段立派な事を内外に言い放っている人が、生活習慣が乱れていて健康を損なっているケースがある。人々を指導したり導いたりしていて、多くの人々から尊敬されるような人が、メタボになり腰痛に喘いでいる例がある。教職にあって子どもたちにアルコールを飲んじゃいけないと指導していながら、習慣性の飲酒をしている人もいる。煙草だって、身体に悪いと知りながら止められない人がいる。我々の生き方は、我が子を含めた子孫に影響を及ぼす。健康で勤勉な姿を見せることは、子々孫々に伝わっていくから、その責任は大きい。利他の為に真剣に生きる人は、自分の身体が自分だけのものではないと認識しているから、健康と体力の維持の為に努力する筈である。

人生というのは自分の為にだけあるのではなく、他に利する為とか、周りの人々を救い幸福にする為にもあるように思う。与えられたこの人生は、困った人々や苦しんでいる人々を導いたり救ったりして、幸福な人生を歩んでもらうお手伝いをする為に使うものだと確信している。何か偉大なる意志(サムシンググレート)、または神のような存在によって与えられたこの人生は、自分の為だけに用いてはならないと思っている。昔から、偉大な哲学者や宗教者は、そのように人々を教え導いている。

自分の為だけに人生があると思い込んでしまっている人は、実に不幸である。経済的に豊かで、地位や名誉があったとしても、人間としての価値は最低である。人間としての価値は、どれだけ多くの人を救ったか、または幸福にしたのかという点にある。真に幸福な人というのは、けっして無理せず粛々と人々に貢献することを楽しめる人である。こういう人は、自分の健康や体力を維持するのは、自分の為ではなくて人々に貢献する為に必要なものだと認識しているから、当たり前のように出来ている。高齢になっても日々勉学に勤しんでいる。人々を救うためにこそ、さらなる自己成長が必要だからである。自分の為だけの人生は、詰まらない。利他の人生こそが充実していて、真の生きる喜びを与えてくれることであろう。

目標とすべき人物がいない不幸

人間という生きものは、模倣からその成長が始まる。生まれて最初に関わるのは、通常は親である。したがって親の言動を真似て成長して行く。親の後ろ姿を見て育つとはよく言われていることだ。すべてがそうだとは言わないが、親の考え方や生き方が子どもの成長に相当影響を及ぼすのは間違いない。その際に、父親の価値観というのは非常に色濃く反映するものである。しかしながら、父親はあまり子どもと関わる時間が持てず、育児にも積極的でないケースが多い。さらに父親の価値観があまりにも低劣であるが故に、しっかりした人生観が育たずに大人になる若者が増えてきてしまっている。

さらに問題なのが、親以外に模倣すべき人間にも出会えなくなっているという不幸が重なることである。親戚や知人にも、尊敬すべき人間があまりいない。会社や組織に入っても、上司や経営者にも、心から信頼し敬愛すべき人間に出会えなくなっている。まったく居ない訳ではない。昔から比較すると、とても少なくなっているという意味である。そうすると、子どもが親の模倣で育つと同じように、良い成長が見込めないばかりか、低劣な職員になってしまうのである。それなりに仕事は出来るが、主体性・自発性・責任性といったリーダーとして必要な資質が持てない職員になってしまうのである。

人間とは自分にない素晴らしい資質を、身近な人間に感じた時に強く感動して、このような人間になりたいものだと強く思うものである。歴史上の偉人でも良いが、書物を読んで感動するのと実際に接して感動するのでは、まったくそのインパクトは違ってくる。やはり、実在の人物と実際に関わり合ってこそ、その人物の影響を強く受けるものである。ということは、組織や企業内にどれだけそのような人物たり得る人材がいるかどうかが、職員の成長の度合いに影響してくる。そういう尊敬する人物がいなくなっているのである。

例えば、松下電器の松下幸之助、本田技研の本田宗一郎、ソニーの盛田昭夫と井深大、京セラの稲盛和夫というような人物である。彼らは経営手腕も発揮したが、それ以上に貢献したのが人材育成である。彼らに感化された社員たちは、その後大きく成長して会社に貢献する人材となった。このように絶大な信頼と尊敬を集めるような人材が、日本の経済界に輩出しなくなったのである。彼らの素晴らしい点は、その能力もさることながら、その人生を生きるうえでの価値観や哲学である。人の為世の為にどれだけ貢献できるのかが、人間としての価値であるという基本的な哲学観を持っていて、強烈な影響を社員たちに与えていたのである。

現在、このような見本となるような人材が、会社や組織にいなくなったのである。自分の出世や損得だけを考えていて、自分の部下を立派に育てようなんて意識もなくなっている上司ばかりである。手前勝手で自己中で、周りの人々への配慮や思いやりも持てず、自分のことしか考えていない。上司やトップに媚びへつらい、失敗は部下に押し付けて、成功すれば自分の手柄として報告するような低劣な価値観しか持てない上司である。このような会社や組織であるから、部下は上司を尊敬出来ないばかりか、モチベーションもなくなっている。当然、成長も見込めなくなっている。

このように模範とすべき上司がいないのであるから、職員の自己成長が出来ない。会社や組織の発展もなくなり、その存続さえ危うくなっているのである。人材不足というのは、単なる量的不足だけでなく、質的不足はより深刻である。管理者というのは、自分を超えるような人材を育成することを何よりも大切にする価値観を持つべきである。ところが、自分を越えてしまうような人材を、疎ましく思うし排除したがり、嫌がらせやパワハラをする管理者が多い。これでは、優秀な人材は育たない。近代教育における誤謬による弊害が、職員の人材育成にも影響しているのである。

見本とするような人材は、その技術や能力だけではない。それ以上に大切なのは、模範とする人物の価値観や哲学である。勿論、高潔な価値観や哲学を持っている人は、素晴らしい技能も獲得しうるから、素晴らしい人材になっている。企業と組織にとってなくてはならない人材になっている。このような人物しか、優秀な人材を育成することができないのである。会社や組織において、価値観や哲学の研修教育こそが必要である。そうすれば、他の模範となるような人物を育成することが可能となる。企業と組織が発展するには、価値観と哲学の教育しかないと言えよう。

 

※イスキアの郷しらかわでは、企業や行政組織などの職員・管理者に対する価値観と哲学の研修を実施しています。模範となるような優秀な人材育成のためのお手伝いをさせて頂きます。問い合わせフォームからご相談ください。

新卒離職者が止まらない

新卒で採用された新人社員のうち、3年以内に3人に1人以上が離職しているらしい。どうやら、中小企業のほうが離職率は高いと言われる。超人手不足と言われる現代では、益々人材の確保が難しくなっている。特に2020年にオリンピックが開催される東京周辺では、建築や土木工事のラッシュで、人手不足は深刻だ。それでなくても人材不足だというのに、新卒採用の新人がこんなにも簡単に離職してしまうとなると、首都圏にある中小企業の人手不足は相当に深刻であろう。

どうしてこんなにも新卒者の短期離職者が多いのかというと、本人への聞き取り調査によると、次のような理由からだという。入社してから、事前に聞いていた労働条件とあまりにも違う労働実態があることに気付いたという。あまりにも仕事が忙しく、残業が多くて有給休暇も満足に取れないらしい。入社して満足な指導教育もされないまま、難しい技能や経験を要求される職場にすぐに回されたともいう社員もいるということである。人手不足が深刻なあまり、すぐに一人前としての業務を求められるし、厳しい労働実態になるのだと思われる。

このように、人手不足であまりにも忙しいので満足な教育も出来ないし、残業が多く休みも取れないという労働を強いられるのである。これでは悪循環に陥ってしまい、何時まで経っても労働環境は改善されないことになる。今の若者が働く際に求めているのは、給与収入額の多さではなくて、働く際の余裕や労働環境の良さである。残業が少ないことと休日が多いことを求めている。有給休暇を自由に取得できることを、働く最低条件として要求するらしい。遮二無二労働することは避けて、余裕のある働きを求める傾向にあるのは当然であろう。

我々のような60歳を過ぎた人間には、到底考えられないような要求である。今から40年前なら、深夜近くまで残業するのは当たり前であり、有給休暇なんて満足に取れたこともなかった。そういう時代は、仕事がすべてであったのだ。しかし、時代は変わった。仕事だけが人生ではない。仕事は人生の一部であって、家族との触れ合いや余暇・趣味を楽しむこと、キャリアアップや自己啓発などの学習をすることも人生を彩ることとして必要だと考えているようだ。こういう考え方は間違いではないし、うらやましい限りである。こういう時代に生まれたかったという思いが強い。

さて、このような新卒者の短期離職をどのようにして防げば良いのであろうか。それは、教育の充実しかないと言わざるを得ない。新戦力として期待しているから、教育をする時間も惜しいということは解る。しかし、新人教育をしっかりしないと、すぐに辞職されてしまうのである。どんなに人手不足であったとしても、新人研修を充実することで短期離職を防げるのである。何故なら、人間というのは仕事によって自己成長する生き物だからだ。仕事によって自分がこんなにも自己啓発を出来たと実感出来たら、仕事を辞めることはないのである。

社員満足度を高めることで、離職を防ぐことが出来る。この社員満足度というのは、労働条件の良さではない。それは社員不満足度要因である。社員満足度要因とは、仕事を通して、どれだけ自分が社会貢献や会社に貢献できたかということであり、人間としての自己成長が実験できたかどうかということである。この社員満足度を高めるには、充実した教育研修が必要なのである。その教育研修とは、技能の研修も必要であるが、それ以上に価値観や労働哲学や理念の学習も要求される。

人間という生きものは、何かをする際に『何の為に』という理由を求めるものであり、この理由が希薄だとモチベーションがなくなってしまう。つまり、働く目的がないと、働く意欲が湧かないのである。若者に何故働くのかと問うと、そりゃ生活の為でしょうとあっけらかんとして答える。確かに、そういう側面はあるものの、それだけではない筈である。仕事を通して社会貢献をすることと、仕事をすることで自己啓発や自己実現をすることこそ、人間の生きる目的とリンクしている筈である。こういう基本的な教育研修こそ、必要なのである。こういう哲学や価値観を学ぶ機会を充分に与えられる会社であれば、優秀な社員は絶対に離職しないのである。

 

※イスキアの郷しらかわでは、働く意味や生きる目的などの哲学や価値観などを学ぶ新人研修を実施しています。このような研修教育を受講すれば、離職する社員は激減しますし、メンタルを病んだり休職したりする社員がいなくなります。新人社員は、技能研修だけでなく、実はこのような価値観の学びを求めています。目の色を変えて学ぶようになります。会社の人事ご担当の方は是非ともお問い合わせください。

ネットは単なるツールなのに

インターネットは現代ではなくてはならない情報ツールになっている。情報の収集と公開をする手段として、大変便利でありコミュニケーションツールとしても必要不可欠になっている。ビジネスの世界では、営業ツールのひとつとして殆どの企業がウェブサイトを活用している。個人間でも、フェイスブック、LINEなどのSNSに通信手段として多くのユーザーが登録している。ネットがなくては、人々の経済や生活が成り立たなくなっていると言えよう。

そんなネットを、ビジネスにしている人がいる。ウェブサイト作成やウェブデザイナー、またはソフトウェアーやアプリ作成をしている企業と個人ではなくて、ネットそのものを収入源にしている人である。アフィリエイターとかユーチューバーと呼ばれる人たちである。アフィリエイターとは、ネット上の自分のサイトでアフィリエイト広告をクリックするだけで、収入を得る人たちである。ユーチューバーとは、動画をユーチューブにアップして、その広告で収入を得る人たちである。他に定職もなく、これだけで生活しているというのだから驚きである。

その年収たるや、1000万円を超える人たちも沢山いるらしい。小学生の憧れる職業のトップ5にも入っているというのだから、びっくりするばかりだ。楽しいこと、気楽なことをして収入を得ることが出来るからという、実に情けない理由で憧れの職業にしているというのだから、実に困ったものである。労働に対する考え方が軽薄というか、何の為に働くかという基本的な労働価値観を育てられていないのであろう。自分の利益のためにだけ働くという、実に愚かで低劣な価値観である。

ネットをすることそのものを目的にしている人間が、増えているように思えて仕方ない。SNSやブログをやっている人の多くは、アクセス数がとれだけあるか、どれだけ『いいね』をもらったかに心血を注いでいるのだ。当然、いかに面白い動画や写真を撮って載せるか、センセーショナルで人目を引く題名をつけるかに苦労している。確かに、ビジネスに活用するというなら、それはひとつの戦略として有効である。しかし、インスタ映えという言葉のように、単なる友達への自慢や自己満足の為でしかないように感じる。

SNSはコミュニケーションのツールとして、とても有効である。またブログは情報発信ツールとして、誰でも簡単に利用できるので便利だ。しかし、ネットというのはあくまでも、コミュニケーションや情報発信のための単なるツールでしかない筈である。または、ビジネスを成功させる手段でしかない。いくら素晴らしく魅力的なウェブサイトであったとしても、売るものやサービスの価値が認められなければ売れない。ところが、どれだけネットでアクセスされたかに一喜一憂しているネットユーザーが多いのである。本末転倒であろう。

今日は何を食べたのか、どこに行ったのかという個人情報を日常的にアップして、『いいね』を求めているSNSユーザーがいる。何の役にも立たないくだらない情報のアップを見て、リアクションするほうも問題であるが、ネットを自分の人生の重要なアイテムにしてしまっている人がいる。ネット依存とも言える状況になっているし、ネットを人生の目的にしてしまっているようである。毎日、どれだけのリアクションがあったかで、その日の満足になっているし、ブログのアクセス件数を上げることを目標にしている愚か者がいるのだ。繰り返し言うが、ネットとは目的ではなくて、単なるコミュニケーションのツールでしかないのである。

SNSやブログは、自己満足や自己表現のひとつであっても一向にかまわないが、人生の目的にしてはならないであろう。あくまでも、ネットは本来ビジネスや公益活動のひとつの手段でしかない。コミュニケーションツールのひとつとしてネットがあるのであって、対面でのコミュニケーション(リアルコミュニケーション)を基本に据えるべきである。SNSやツィッターは、お互いの関係性を豊かにするためのひとつのツールでしかない。あくまでも、リアルの世界で相手の目をみながら対話をして、付き合うのが基本になる。ネットは単なるツールでしかないことを、深く認識したいものである。