グレイヘアは自分を解放する

グレイヘアが静かなブームを呼んでいるらしい。自分自身も3年前からヘアカラーで黒髪に染めるのを止めてグレイヘアにしたのだが、自分でもとても気に入っている。男性がカラーリングを止めてナチュラルヘアにするのは抵抗がないだろうが、妙齢の女性が黒髪からグレイヘアにするのは勇気がいるに違いない。それでも敢えて黒髪に染めずに自然のままにするという女性が増えているというのだ。それは、自分が自分らしく生きるという選択をして、自分の姿と心をありのままでもいいんだと解放することに繋がるというのだ。

女性はおしなべておしゃれであるし、みだしなみに気を付けている女性が圧倒的に多い。白髪という言葉のイメージがあまりにも悪い。グレイヘアと呼ぶならば印象も良いから、染めないという選択をする人もいるだろう。だとしても、やはり白髪のままでいるのは避けたいであろう。ましてや、ビジネスの場面に居続けるにはグレイヘアでいるのは抵抗感があまりにもある。白髪のままでいるのは、面倒くさがり人間とか、だらしない人だと見られやすいことも影響している。染めるという無難な選択をせざるを得ないであろう。

今までも60代以上の男性の中には、敢えて染めなくてもおしゃれに見せられる芸能人がいた。代表的な芸能人としては、吉川晃司、柴田恭兵、渡辺篤郎、舘ひろし、柳葉敏郎などである。彼らは大物芸能人と呼ばれて、存在感のある演技にも定評があるし、人間としても魅力あふれる成熟した大人である。女性芸能人でも、グレイヘアが似合う人が増えてきた。草笛光子、中尾ミエ、永作博美、有働由美子は素敵なグレイヘアを見せている。彼女らは、グレイヘアであっても仕事が減らず、逆に増えているという。

元フジテレビのアナウンサー近藤サト女史が、悩みに悩んだ末にグレイへアを選んで、自分らしく生きることを選んだという。若い頃から白髪が増えてしまっていて、アナウンサーを続けるためにはカラーリングが必要だと自分に言い聞かせてきたらしい。しかし、本来の自分の姿を押し隠してまでして、偽りの自分を多くの視聴者に見せていることに違和感を覚えたという。それは、自分の心までも偽ることに通じはしないかと悩んだという。あるがままの自分を見せたいと決断し、グレイヘアでTVに出ることにしたという。

人は誰でも、自分の醜い部分を隠しておきたいものだ。いつまでも美しい自分でありたいし、他人には美しい自分を見せ続けたいであろう。ましてや、美貌を売り物とする芸能界であれば、若い年齢でグレイヘアをさらすのは自殺行為にも等しい。白髪の頭では仕事もなくなるのではという恐怖感にさいなまれることだろう。しかし、それは本当の自分を隠すということであり、本当の自分を否定するということでもある。人間は、自分の醜い心を隠して生きているが、それが故に生きづらい人生を歩むことにもなる。白髪を隠して生きるというのは、本当の心を隠して生きることに通じるのかもしれない。

白髪を染めずにグレイヘアを敢えて見せることをした女性たちは、おしなべてその時点から生き生きとした人生を歩んでいるという。それまでは、避けていたパステルカラーのファッションに身を包むのが楽しいと言っている。ピンクやクリーム色の服が実に似合うようになったと喜んでいるらしい。表情も明るくなり、いつもけれんみのない笑顔がはじけるという。そして、あるがままの自分を見せることで、自己肯定感が強くなったと口を揃えて微笑む。自分らしさを誇らしく思えるようになったと言うのである。

人間というのは、自分を見る際に自分の目を通して観るのでなくて、いつも他人の目を通して観察したがるものである。特に日本の女性は、男性から見たらどう思われるかという視点から自分を評価したがる傾向にあるらしい。だから、必要以上にフェミニンなファッションに身を包みたくなるし、可愛いと言われたいらしい。本来は、自分の価値観や自分らしさに見合った服装やメイクをしたいのに、他人の目を気にするあまり、あるがままの自分をさらけ出せない女性が多いということだ。グレイヘアを選択する女性が増えてきたというのは、あるがままの自分を見せることが出来る自立した女性が増加してきたと思われる。グレイヘアは、自分を解放することに繋がるのだろう。

一芸に秀でる者は多芸に通ずる

京都大学特別教授の本庶佑氏が、ノーベル医学生理学賞に輝いた。彼は、実に多趣味である。一芸に秀でる者は多芸に通ずという諺があるが、まさにその諺通りの理想的な人物である。医学の分野、特に免疫学においては世界のトップクラスの研究者である。まさに一芸に秀でている。多芸においては、ゴルフと楽器演奏など多数の趣味を持つ。ゴルフはシングル並みの腕前で、ゴルファーなら憧れのエイジシュートを目指しているというからすごい。楽器演奏では、京都大学楽団で演奏の難しいフルートを吹いていたという。

ゴルフと言えば、やはりノーベル医学・生理学賞を取得した大村智北里大学特別栄誉教授もシングルハンデの腕前だと言われている。さらに、優れた経営手腕もあり、赤字続きだった北里研究所を黒字化したマネジメント力もすごい。経営改善のために、経営学を真剣に学んだと伝わっている。大村氏は、美術コレクターとしても玄人なみの眼力もあったらしい。また、温泉まで掘り当てることに成功したとのこと。ゴルフ好きのお陰で、名門コースの川奈ホテルゴルフ場から持ち帰った土で、エバーワクチンの開発に成功したという。

このように自然科学の学者というと、スポーツが苦手で超インドア派のガリ勉タイプを思い浮かべるが、世界に通用する超一流の学者は、多芸にも一流なのである。手前味噌になってしまうが、自分でも呆れるくらいの多趣味である。ゴルフ、登山、カメラ、料理、読書、テニス、PC、等々上げればきりがない。ゴルフはベストスコアが本庶氏と同じ78であるし、登山ガイドは10年以上続けている。残念ながら、器用貧乏というのか秀でた一芸はない。芸は身を助けるというが、趣味のお陰で充実ライフを過ごしている。

どうして多芸であることが一芸に秀でることになのか、詳しく考察してみよう。社会一般で言われているのは、いろんな趣味を楽しむことにより多眼的な視点と柔軟な思考力を持つことが出来るし、想像力と発想力が養われるということだろう。専門バカになることを防ぐことにもなろう。いずれにしても、昔からだいそれたことを成し遂げるような人物は、『遊び』が上手だった。その遊びが、泥臭くなくて洗練されてもいた。一流の人間は、遊びも一流なのであろう。遊びも出来ない人間が、世界的に認められる人物たりえないのだ。一流の人間は文武両道が基本であろう。

さらに、多芸ということを拡大解釈すれば、『統合』というキーワードに思いを馳せる。ノーベル賞の自然科学3分野である物理学、化学、医学・生理学は、現在はそれぞれの分野を分けるのが難しくなっているという。何故なら、それぞれの分野はお互いに影響し合っているし、3分野を統合しないと真理が明らかにならからである。最先端の科学研究では、すべての学問を統合して研究しないと、正しい法則を導き出せないことを科学者たちは認識せざるを得なくなっている。さらに、自然科学と社会科学も統合されつつある時代である。科学と哲学さえ統合され、科学哲学が最先端の学問になりつつある時代でもある。

古川学園高校(旧古川商業高校)の女子バレー部を率いて、当時無名の高校だったのに12回の全国制覇を成し遂げたのは国分秀男監督である。彼は、赴任当時バレーの技術と知識は素人同然だったが、猛勉強をしてバレーの指導術を得た。それと同時に、経営学を学んだ。選手たちの育成管理とチーム運営には、経営学が必要だと認識したからである。ドラッカーやジャック・ウェルチの本を読み漁って、チーム管理に生かした。かのアインシュタインは、科学の発展進化には形而上学(神智学)が不可欠だと主張していた。ノーベル賞を取るような最先端の欧米の量子力学の科学者たちは、押しなべて仏教哲学に傾倒しているという。

宇宙の万物がこの現実の世界に生成し、それが発展進化し存在するための法則(真理)を見極めるには、物理学だけでは困難である。化学、生物学、分子細胞学、医学、大脳生理学などの自然科学だけでなく、神智学、人智学、哲学、人間行動学、社会システム学などの社会科学にも精通していなければ普遍的な真理には到達できないことが判明しつつある。医学の世界では、脳外科、消化器外科、整形外科、精神科、循環器内科、眼科などの単科に精通していても、病気の原因は分からないことから、総合診療科や統合診療への流れが加速している。人体を全体の「システム」として考えないと、病気の原因と治療が出来なくなっているのである。これからの時代は、一芸だけを極めるには、まさに多芸としての『統合』が必要不可欠なのである。

京大卒のノーベル賞が多い訳

今年のノーベル医学生理学賞を本庶佑氏が受賞した。がんの免疫療法の画期的方法を開発した成果を認められたという。この免疫システムを利用して、がんの特効薬が開発されて既に臨床に用いられ、多くのがん患者を救っていると言われている。本庶氏は、京都大学医学部卒で、現在は特別教授を務めている。日本を代表する国立大学と言えば東京大学と京都大学であるが、自然科学分野のノーベル賞を取るのはどういう訳か京都大学出身者が多いのは不思議である。

ノーベル賞の受賞者が卒業した大学を調査すると、やはり東京大学と京都大学の出身者が図抜けて多い。どちらも8名ずつである。そのうち、人文科学分野は3人ですべて東京大学出身者である。ということは、自然科学分野の受賞者に限ると東京大学が5人、京都大学は8人になる。自然科学分野というと、物理学賞、化学賞、医学生理学賞であるが、科学者にとってはノーベル賞を取ることが世界で一流の研究者として認められるということなので大変な名誉である。それが東大卒よりも京大卒が多いというのは驚きである。

この不思議さというのは、たまたま偶然であろうと思う人も多いに違いない。しかし、考えてみてほしいのだが、京都大学に在学している方と卒業している方には失礼だが、東大のほうが入学試験の偏差値は高い。それなのに、ノーベル賞の自然科学分野で圧倒的に東大よりも京大が多いと言うのは考えられないことなのである。東大といえば、卒業後にキャリア官僚になる人が圧倒的に多いし、自然科学分野の研究者も優秀な方が多いのは当然であろう。それなのに、自然科学分野で京大の後塵を拝するのは考えられないのである。

何故、京都大学卒のほうが東京大学卒よりも自然科学分野でノーベル賞を取る人が多のか、やはりそれなりの訳があるとみたほうが自然であろう。自然科学分野において、東大と京大の学生及び研究者における違いは何なのであろうか。そのことが明らかになれば、東大の研究者がこれからノーベル賞を取るような研究成果を上げることが可能になるに違いない。ひとつのヒントとしてあるのは、湯川秀樹氏は西田幾多郎教授にかなりの影響を受けたという事実である。西田哲学と言えば世界的にも誇り得る足跡を残している。

湯川秀樹博士は、西田幾多郎教授の講義を誰よりも真剣に聴講していたと伝えられる。それが、ノーベル賞の受賞につながる研究に繋がったというのは、京大関係者ならたいていの人が知っている事実である。科学者が哲学を好きだったなんて、普通なら考えられない。ところが、伝統的に京都大学の科学者は、哲学が好きなのである。京都大学には、他の大学にはない価値観が存在する。それは、科学哲学という価値観である。科学は哲学という基本のうえに成り立つものであり、哲学を忘れた科学は危険だという価値観だ。

同じことを主張していた世界的に著名な科学者がいた。それは、かのアインシュタインである。アインシュタインは原子爆弾を開発する提案書に署名してしまったことを、一生後悔していた。彼は、科学を志す者は形而上学(哲学)をしっかりと学んだうえで、研究に邁進すべきだと考えていたと伝えられる。そうでないと、科学研究は暴走してしまい、人間の幸福に寄与しないばかりか、戦争や殺戮の為に利用されてしまう危険があると主張していたのである。何の為に科学を研究するのかという大事な哲学を忘れてはならないのだ。

西田幾多郎教授は、禅などの仏教哲学と西洋哲学を統合させたという功績だけでなく、多くの科学者の卵である理系の学生に哲学を教えて、日本の基礎研究の発展に寄与する成果を上げたと考えられる。西田幾多郎教授は、京都大学における科学哲学の基本を作ったのは間違いないであろう。IPS細胞の山中伸弥教授や本庶教授も、西田哲学の科学哲学の影響を受けたのは想像に難くない。ノーベル賞につながるような研究成果を上げるには、科学哲学という価値観が必要なのである。これが京大卒の科学者がノーベル賞を取る訳である。

本庶佑教授が、今回のノーベル賞を取る研究成果を上げるに至った動機は、同級生が病気で亡くなったことを契機に、こんな不幸な目に遭う人々を少しでも救いたいというものだったと伝えられる。つまり、科学研究を通して人々の幸福に寄与したいという強い決意を持って、研究に邁進したのである。東大の研究者にそのような哲学がないというような乱暴なことは言わないが、東大に科学哲学という概念が京大よりも希薄なのは確かであろう。文科省のキャリア官僚は、国立大学に哲学なんて要らないと嘯いているが、科学研究にこそ哲学が必要不可欠なのである。

未婚男性が増えている本当の原因

結婚できない、または結婚しない男性が猛烈に増えているという。なにしろ、生涯未婚男性(生涯に渡り一度も結婚しない男性)が、全男性の25%にも上るという。えっ、そんなに多いの?と疑問に思う人が多いかもしれないが、これが事実である。なお、生涯未婚女性だって14%いるという。男性の4人に1人が一生独身だというのは大問題である。戦前から戦後20年くらいまでなら、特別な理由があるケースを除いて、男性が一生独身を通すなんてことはあり得なかった。それがこんなに独身男性が多いと言うのは情けない。

何故、独身男性が多いのかというと、それぞれ様々な要因がある。ひとつは、貧困化という経済的な要因がある。全体の平均年収は低下していないものの、若者の年収が二極化していて、200万円から300万円の低収入の若者が増えている。そして、定期昇給やベアが期待できない会社や職種で働いている。これでは結婚して子どもを生み育てることができる訳がない。竹中平蔵と小泉首相が結託して、国際競争力を高める為にと法制化した派遣労働法が正規労働者を激減させて、雇用の不安定化と低賃金化をさせたのだ。

さらに、すべての結婚のうち再婚であるケースが全体の4分の1にもなっているという事情がある。その再婚のうち、男性が再婚で女性が初婚というケースが急増しているという。男性は離婚してもその後に何度も結婚するし、その際に初婚の女性と結婚する場合が多いと言うのだ。女性は一度離婚すると、男なんてもうこりごりだと思い、再婚するケースが少ないという。そして、その再婚する場合の男女の年齢は、7歳以上の年齢差があるという。一人の男性に複数の女性が取られて、一度も結婚できない男性が多くなることになる。

生涯未婚男性は、都会ではその割合が少なくて地方に多いらしい。何故かと言うと、地方にある工場に勤務するのは、跡取りの男性が多いという。一方、事務職に就職を希望する女性は、地方では事務職の求人が圧倒的に少ないので、都会に出て就職する。当然、結婚適齢期の女性は、地方には圧倒的に少なくなり、未婚男性が多くなる。TV番組で、都会に住む女性を地方の男性に紹介する集団見合いイベント番組を放映している。地方では、行政が都会の未婚女性を呼び込んで、集団出会いのイベントを仕掛けている。

このような事情もあり、男性の未婚化が進んでいるし、適齢期で結婚を希望する女性が激減していて、晩婚化が進んでいる。男性は35歳を過ぎると、妊娠させる能力が衰えることが判明している。女性も晩婚化によって、妊娠する確率が低下することになる。このままで何も対策をしないと、日本の少子化は益々深刻になってしまう。それでなくても、貧困家庭が増えていて、子どもを産み育てたいけど産める経済状況にないと出産を断念する家庭も少なくない。これでは、将来日本の公的保険と年金を負担する若者が少なくなり、保険・年金制度が破綻してしまう危険性が高まってしまう。

このように生涯未婚男性が増加している各種要因を挙げてきたが、結婚できない男性がいる本当の原因は他にある。それは、男性の価値観があまりにも低劣で、女性が尊敬し信頼できる男性が極めて少ないという事情である。女性は、男性の優秀で持続可能なDNAを瞬時に見抜くことができるのである。優秀で持続可能なDNAというのは、社会的に成功を収めて経済的にもある程度恵まれて、将来に渡り幸福な人生を歩めるという遺伝子である。それは、技術・能力や知能が高く体力があるというDNAではない。自分の損得や利害にだけこだわらず、社会貢献や公益活動をすることを進んで実行し、それを喜びと思う遺伝子である。そういう男性こそが、社会的に評価され成功するからである。

こいいう全体最適を目指す遺伝子を持った男性の価値観は、すこぶる高くなる。このような男性は、個別最適よりも全体最適を大切にする価値観を持つ。その全体最適を目指すには、関係性を豊かにするために最大限の努力をする。互恵的関係性を大切にする価値観を持つ男性は、女性にとって魅力的に映る。だから、女性にモテモテなのである。そして、女性はこのような高い価値観の男性に惚れるし、この遺伝子を後世に残したいと無意識で強く思い、その男性に心も体も開きたくなるのである。ところが困ったことに、このような高い価値観を持った男性が激減しているのである。それが、生涯未婚男性が増えている本当の原因である。

 

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アスリート育成は科学と哲学で

またまたスポーツ界にパワハラ育成の不祥事が発覚した。女子体操、パワーリフティング、そして日体大の駅伝競技部にパワハラによる選手育成があったという。いろいろと背景や事情があるにせよ、スポーツ界というのは根っからのパワハラ体質らしい。根性論やら精神論がまかり通る古い体質がいまだに残っているというのが驚きだ。ましてや、指導者が選手を管理して統制し、さらに制御する育成の仕方が横行しているというのが情けない。

根性論や精神論を用いて、選手を管理して制御する方法で育てるという考え方は既に古い。今は、普遍的で正しい科学的な手法で選手を育成するのが主流となっている。そうしないと選手たちが納得しないし、成果が上がらない。昔の選手なら、トレーニングをする理由とその効果を科学的に説明しなくても、コーチを信じて従っていた。しかし、現在の若者や学生は、徹底した客観的合理性の教育を受けてきているから、科学的な根拠を示さないと自ら頑張ろうとはしない。半信半疑でトレーニングを受けても効果がないのは当然だ。

それなのに、今まで根性論や精神論でやってきたし、それしか教えられていないから古い理論を踏襲していると、選手たちはまったく付いて来なくなる。その為に、力で無理やり従わせようとして、パワハラになるのであろう。下手なコーチは、選手が自分の命令に従わないと、ついつい暴言や暴力で選手をコントロールしたがるものだ。育成される選手たちの心は、コーチから益々離れてしまう。そして、パワハラはエスカレートするのである。

それではすべて客観的合理性があり科学的根拠のあるトレーニング方法にするとよいかというと、それでは選手は成長しないに違いない。何故なら、体力・能力・技術というのは、あくまでも育成される選手のメンタルモデルに問題がないという前提条件が必要だからである。どんなに先天性の優秀な能力があって、優秀なコーチの技術指導を受けたとしても、メンタルモデルが歪んでいれば選手として大成することはない。謙虚で素直な性格を持ち、しかも自発性や主体性の高い人格を持たなければ、成長がしないからである。

したがって、選手の技能や体力のトレーニングと共に、メンタルモデルを磨く努力も必要となる。それでは、メンタルモデルを磨くにはどうしたら良いだろうか。メンタルモデルを高邁なものにするには、哲学または形而上学が必要だ。人間として何を目指して成長するのかという根本的な価値観を学ぶことである。または、自分がスポーツを通して何を学びどう成長するのかという事とか、どのように生きるべきなのかをスポーツから学ぶということである。そのような視点を持つことをなくしては、一流のアスリートにはなりえない。だからこそ、アスリートの育成には科学と哲学の両方の観点が必要なのである。

メンタルモデルを高品質で正しいものにするには、正しくて清浄なる言動にすることである。ひとつは挨拶や礼儀をしっかりと身に付けることである。正しい言葉遣いをしないと、メンタルモデルは低劣化してしまう。さらに身の周りを整理整頓することと、徹底的に清掃して清浄なる場にすることが大切である。無名だった西脇工業高校駅伝チームを8度の全国優勝に導いた渡辺公次監督は、先ずはトラックをチリ一つなく清掃することを選手たちに教えた。伏見工業高校のラグビー部山口良治監督は、部員にはまずあいさつと礼儀を教えた。無名の済美高校を全国優勝させた野球部監督の上甲監督は、まずは挨拶と清掃を徹底させた。明治大学野球部の嶋岡監督も部員にトイレ清掃をして心を磨かせた。

勿論、選手たちのメンタルモデルを高品質で正しいものに導くためには、挨拶、礼儀、清掃だけでは難しい。指導者は、何故そのような言動を正しくしなければならないのかを、選手たちに科学的な検証を示しながら解りやすく丁寧に説明しなければならない。例えば、主体性・自発性・責任性などの自己組織化を目指す理由、または自らの成長は他からの介入によっては実現しないというオートポイエーシス論などを科学的に説明できなければ、選手たちは納得しない。最先端の科学であるシステム論や量子力学論、または分子細胞学や人体ネットワークシステム論などを駆使しながら、科学哲学の観点から証明する必要がある。そうすれば、科学的に真逆の効果があるパワハラ事件などは絶対に起きる筈がない。一流アスリートの養成には、科学哲学的に正しいトレーニングが必要だ。

 

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言い争いに勝つことを一時保留する

職場でも家庭でも、そしていろんな場面で言い争いになってしまうことがある。そういうケースでは、ついついエキサイトしてしまい、相手を言い負かしてしまいそうになることが多い。人間という生き物は、感情が理性を凌駕してしまうことが良くあり得るし、言い争いでは特にその傾向が強くなる。明らかに圧倒的な権力を有する相手には、不本意ながら屈するが、自分と同等か下位にある者には言い負けたくない気持ちが強くなるらしい。

家庭においては、親子が言い争いになれば、親が子を言い負かそうと必死になる。夫婦が言い争いになれば、夫は妻を言い負かさないと気が済まない。しかし、言葉を操るのが上手な妻から逆に返り討ちになりやすい。そういうケースでは、言い負かされた夫は不機嫌な態度をするか沈黙するし、最後には妻を恫喝する場合が多い。そして、何らかの形で夫は妻に対して優位に立とうとする傾向が強い。夫婦間での言い争いは、負けた方も勝った方も後味が悪く、後悔の念が残る。

職場における言い争いは、大きいものから小さいものまで様々である。会議や打ち合わせにおいても、しばしば起きてしまう。討論ではなくてディベートのような雰囲気になることも少なくない。感情的になってしまうこともあるし、しこりを残すことも多い。言い争いになってまった際に、とことん討議をすることなく結論を出さないで終了するケースもあり、その後の業務に影響する場合もあり得る。言い争いは感情的な負のしこりを残す。

恋愛している相手と言い争いになることもある。友達どうしでも、お互いの主張がぶつかり合い、言い争いになることもあり得る。そんな場合、どちらかが降りればいいのだが、なかなか譲れない気持ちが強い。特に仲がよい相手であり、利害関係が強くなると、相手に合わせることが出来にくくなる。後に引かないような仲直りが出来れば、お互いの関係性はさらに深まるので、言い争いも時には必要なことである。しかし、言い争いが原因で二人の仲が壊れることも少なくない。後から後悔しても、既に遅いということもある。

人間というのは、言い争いをして勝つことが出来れば満足して元気も出るが、負けた方はエネルギーを削がれる気がするものだ。そして、負けた方は後々までその気分の落ち込みを引きずってしまうのである。また、言い争いで負けたとしても完全に屈服した訳ではなく、自説を諦めて手離したのではない。勝ち誇った方は一時的には自己満足するのだが、言い負かされた相手に何となく気まずい思いを抱き続ける。そして、お互いにぎこちない関係になってしまうことが多いのである。

言い争いというのは、よくよく考えてみると何とか共通の課題や問題を解決しようとか、今よりもさらに改善しようとして、お互いに真剣に議論をするから起きるのである。だから、全体最適を目指しているのである。そして、それが実現すれば共にその恩恵を受けるのである。したがって、その全体最適化によってお互いの関係性が深まるし豊かなものになる筈なのである。とすれば、自説を曲げずに相手を言い負かすことにだけ集中して努力するというのは、本来目指すものとは違ってしまうことになる。言い争いで勝利を得ることだけを目指せば、相手との関係性も低劣なものになってしまう。

言い争いになりそうな時、または不幸にも言い争いになってしまった時に、勝つことに対するこだわりを捨ててみるのも必要ではないだろうか。自説の正しいことだけを主張しないで、ひとまずは自説を保留するのである。自説が絶対に正しいと思っても、相手の認識や考え方に傾聴し共感してみるとよい。そうすると、相手の気持ちがよく解るし、そういう主張になってしまったプロセスが良く理解できるのである。そうすれば、相手の主張における根底的な間違いにも気付くのである。

その上で、相手の間違いを指摘して糾弾するのでなくて、相手が自ら気付くように優しく丁寧に質問するとよい。回りくどいやり方ではあるが、相手の論理的欠陥を直接的に指摘することだけは絶対に避けたい。というのは、相手の尊厳を傷つけてしまうからである。言い争いは感情的になりやすいが、その怒りに及ぶ感情を相手にぶつけてはならないのである。相手との関係性を損なうと、全体最適が遠のいてしまい、問題解決や改善が出来なくなるからである。家族、職場、地域などのコミュニティが壊れてしまうのである。言い争いになったら、勝ちたいという気持ちを一時的にも保留することを薦めたい。

ハゲタカと日本人企業家の価値観

ハゲタカというTVドラマがNHKで初めて放映されたのが2007年だから、今から10年以上も前である。その時は、外国資本が日本の企業を食い物にするという物語だと勘違いして、視聴を避けていた。ところが、TV朝日でハゲタカを再ドラマ化してくれたお陰で、その誤解を解くことができた。ハゲタカというドラマは、外資による単なる企業買収や会社乗っ取りを描いた訳ではなかったのである。外資系企業の横暴さを描いたのではなくて、日本企業経営者のあまりにも低劣な価値観を暴き出した人間ドラマだったのである。

失われた30年と呼ばれている日本経済の低迷が、まだ解決する見込みもなく深刻さを増している。さらに後10年続くだろうと予測するエコノミストが多い。その原因は、経済政策の失敗にあるとされていて、アベノミクスが日本経済の立て直しをしてくれると期待する国民が大多数だった。しかしながら、円安と株価上昇などにより金融経済はある程度持ち直したが、実体経済は残念ながら低迷したままである。ましてや、起きるとされていたトリクルダウンはいまだに起きていないし、消費低迷が続いている。

ましてや経済政策の失敗とも言えるような社会問題が顕在化している。酷い経済格差が生じていて、貧困家庭が激増している。経済格差があまりにも大きいが故に、教育格差が生まれて、貧困が固定化してしまっている。このような状況に追い込まれているのは、政府による経済政策や福祉政策の失敗だけが原因ではない。経済界における企業経営にこそ問題があると言えよう。そのことをハゲタカという経済小説が、明らかにしようとしたのである。失われた30年は、日本の経済人が企業経営に失敗したから起きたと主張している。

ハゲタカという小説(TVドラマ)が描きたかったのは、外国資本が日本の経済を支配しようとする衝撃的な現実なのではなくて、そのような状況に追い込んでしまった日本の企業家たちの怠慢と卑劣さであった。外資系のファンドが日本の企業の買収や乗っ取りをするケースにおいて、その対象となってしまうのは経営的に行き詰まっているからである。そうなってしまった原因は、企業経営における失敗である。日本の企業経営が悪化したのは、グローバル化やコモデティ化による経済環境の変化によるとされているが、実はそれだけではないのである。

日本の経済は、輸出によって支えられていると思い込んでいる人が殆どであろう。だから、アベノミクスは輸出産業に向けた支援策である。円安支援、異常とも言える金融緩和による株価上昇支援をして、景況を起こそうとした。しかし、実際に実質経済は好転しないし、国民は好況を実感していない。消費支出が伸びないから、インフレターゲットは達成していない。日本経済は、輸出産業が支えているというのは幻想である。国内における需要の高まりがないと日本経済は活性化しないのだ。国内需要によって日本経済は支えられているという現実を認識して、実質経済を活性化しないと本当の好況はやって来ない。

国内需要を高めるには、正規雇用を増加させて実質賃金を向上させるしかない。企業経営者が今までやってきたのは、国際競争力を高める為に必要不可欠だとして、不正規雇用を増やし賃金を抑えてきたのである。そして、社内留保を増やし株価を上げることだけに奮闘してきた。社員は使い捨てにして、便利な派遣社員を利用してきた。それもすべては自分の地位や立場を守ろうとした経営者の低い価値観によるものである。自分たちの役員報酬を増やすことしか考えず、その為には製品偽装や違法行為を平気で行うような企業経営者の姿勢があった。ハゲタカファンドの鷲津は、そのような最低の経営者たちに鉄槌を加えたのである。善良な経営者や勤勉な社員を守ろうとしたのである。

グローバル化やコモデティ化などの経済環境の変化が、日本経済を駄目にしたのではない。日本人経営者の経営哲学があまりにも低劣で、あまりにも自分たちの利益を優先した企業経営をしたからである。ハゲタカというドラマは、その真実を知らせたかったのである。ハゲタカファンドの鷲津社長は、そういう意味では素晴らしい経営哲学を持った経営者である。そして、もっとも日本人らしい価値観を持つ企業家であり、日本という国を愛していた。だからこそ、TOBという荒療治を実行したのであろう。日本の卑劣な経営者たちに請われるままに、非正規雇用を増やすという間違った労働政策を推し進めた政治家にも、日本経済を低迷させた責任を自覚してもらわなければならない。

プラトニックラブと婚外恋愛

プラトニックラブなんて今時ありえないよ、そんな言葉はとっくに死語化していると主張する人が多いことだろう。ましてや、今の若い人たちはプラトニックラブという言葉さえ聞いたことがないかもしれない。我々のような60代以上の人間なら、懐かしいと思うに違いない。青春時代、とりわけ高校生の頃にはプラトニックラブに憧れたものである。とは言いながら、プラトニックラブの正しい意味を理解している人間は極めて少なく、誤解している人が殆どであろう。

プラトニックラブというと、殆どの人はこのように理解しているのではなかろうか。肉体関係のない、精神的な結びつきだけの愛をそう呼ぶと思い込んでいるに違いない。しかし、本当の意味は違っているように思う。プラトニックラブというのは、本来『プラトンが説いた愛』という意味である。プラトンとは、偉大な哲学者である。とりわけ、至上の愛を説いた哲学者として有名である。その至上の愛のことを、プラトニックラブと呼んだのが最初と言われている。それが、時代を経るうちに肉体関係を伴わない精神的な恋愛というようになったと思われる。

確かに、いろいろな辞書を調べてみると、プラトニックラブとは性交渉を伴わず、精神的な結びつきだけの男女間の恋愛というように説明している。けれども、あくまでも私見であるがと断ったうえで、プラトンが説いていた愛について考えてみたい。ご存知のようにプラトンは『イデア論』を主張している。我々の純粋な愛知(ソフィア)というものは、本来は天上にあり魂に宿っていて、穢れのないものである。それが、地上の肉体という束縛されたものに宿ることで、不純なものに陥ってしまった。本来の我々の魂は、純粋なのであるが物体化することにより、欲望に押し流されて穢れてしまっていると説いた。

このようにプラトンは、純粋な愛というものが物体化することで本来の清浄さを失い穢れてしまうが故に、肉体に宿ったとしても純粋な愛を貫きたいと願ったのではなかろうか。という意味では、プラトニックラブというのは肉体的な結びつきがあろうとなかろうと、穢れのない純粋な愛という意味だということになる。つまり、プラトンが説いた愛というのは、性愛などの欲望を超越した愛ということになる。性愛というのは、肉体的な快楽を求める愛である。肉体的な快楽を最初から求めるものでなく、精神的な結びつきの行きついた先に、たとえ肉体的ではあっても純粋な愛の繋がりのひとつの形であったとすれば、それもまたプラトニックラブではないだろうか。

最近、セックスレス夫婦が増えていると言われている。それも熟年夫婦ならいざ知らず、30代の肉体的にも性欲的にも円熟している年代のカップルでもセックスレスだという。それは、プラトニックラブを実践しているのかというと、そうではないらしい。どちらかと言えば、妻のほうがセックスを拒否しているケースが多いと言う。夫からの要求を何らかの理由をつけては拒んでいるというのである。性交を拒否している大きな要因は、夫を純粋に心から愛せなくなり、肉体的な結びつきさえも拒んでいるからであろう。

結婚する前は、あんなにも優しく思いやりがあり、精神的な結びつきを優先してくれて、その先にあったのが肉体的な結びつきであった。言ってみれば、プラトニックラブのような純粋で穢れのない愛だった。ところが結婚したとたんに、夫は豹変する。さも自分の所有物、または支配物のように妻を扱い、まるで家政婦のように利用する。かろうじて暴力は振るわないものの、不機嫌な態度や無言の姿勢を見せて、妻を操ろうとする。家事育児の協力は嫌がり、自分の趣味や娯楽に興じて、妻への優しさや共感がなくなっている夫は信頼できない。敬愛すべき対象でなくなってしまった夫に、誰が身体を開こうというのか。

このような妻の気持ちに共感せず、話も聞いてくれない夫に愛想を尽かして、婚外恋愛に走る若い妻たちが増えているらしい。世の中の夫たちは、そうさせてしまっているのが自分自身なのだと気づいていない。婚外恋愛においては、相手は自分を純粋な愛で優しく包んでくれるし、性欲を前面に出すことなく接してくれる。たとえ肉体的な結びつきはあったとしても、プラトニックラブのような何も求めず与えるだけのような愛である。射精することで自分の性欲だけを満たすような性交渉ではなく、自分のすべてを許し受け容れてくれる愛に妻たちは溺れるのであろう。世の中の夫たちは、結婚する前のように、求める愛ではなくただ与えるだけの愛であるプラトニックラブのような純粋な愛に立ち返りたいものである。

縄文人と量子力学的暮らし

縄文ブームがやってきているらしい。特に若い女性が縄文時代の土偶や土器にはまり、縄文女子と呼ばれているという。何故、そんなに縄文時代のことが好きになったかというと、土偶がとても可愛いということから始まったらしい。あの縄文時代の土偶が愛くるしいという。縄文時代の土偶は、女性がモデルであったと思われる。胸やお尻などの造りは、明らかに女性の特徴を備えている。遮光器土偶がチャーミングだというのだから、若い女性は、イマジネーション力が豊かで美的感覚が優れているのかもしれない。おじさんたちは、そのような美的感覚が鈍いのであろう。

若い女性たちは、土偶や土器の素晴らしいデザインに惚れて眺めているうちに、縄文人の遺跡や巨石文化にも興味が及んで、それらを訪ね歩いているという。さらには、縄文人の暮らしぶりにも共感しているらしい。縄文人の生活が、豊かな自然を大切にしていて、自然の恵みを上手に利用していたことを知って、彼女たちのLOHASを目指す生き方にリンクしたと思われる。縄文人のサステナブルな生き方が、自分たちの自然派の生き方と同じだとからと共感したのであろう。

縄文人の生き方に共感したのは、若い女性だけではない。縄文人の暮らし方というのか生き方そのものが、実に自然の摂理にかなっていることを知った科学者や知識人の間で注目されたのである。特に、最先端の複雑系科学を研究している科学者にとっては、縄文人の生き方や価値観がとても魅力的に映ったらしい。量子力学やシステム論で科学的に証明された、実にシンプルでしかも人間として正しく理にかなった生き方を、今から10,000年以上前に実践していたというのだから驚きである。縄文人の生き方に憧れるのは当然である。

縄文人ほど量子力学の理論に添った生き方をした人類は、世界中探しても他にいない。なにしろ争いのない平和な暮らしが、13,000年間近くも続いたというのだから驚きである。縄文人の遺骨を調査すると、傷付いた骨が見つからないらしい。他の古代人の骨は何らかの刃物による傷や外部からの打撃による骨折が見つかるのであるが、縄文人の骨にはそういった痕跡が殆どないらしい。ということは、縄文人どうしの争いがなかったという証拠になる。また、脳性小児麻痺による障害があった成人女性の骨も見つかった。ということは、誰かの支えなくしては生活できない障害のあった彼女が成人まで生きられたのは、高福祉社会であったということである。

このように縄文時代は平和で高福祉の社会であり、お互いが支え合うという理想的なコミュニティであったと想像できる。それは、お互いの関係性が非常に良好であり、人々は全体最適(全体幸福)を目指して生きていたからであろう。この生き方は、まさに量子力学の世界であるところの、全体最適と関係性重視を基本理念としたものに他ならない。縄文人は、まさに人間として理想とする生き方をしていたと言える。だから、平和で争いのない、しかも自然の摂理に従った暮らし方が出来たのであろう。

縄文人は、自然科学の知識もないし社会科学の観念もなかったにも関わらず、人間として理想的なLOHAS的暮らしを実践していたと思われる。防災のための知識や技術もなかったので、嵐や水害など自然の猛威にさらされていた。当然、川の堤防やダムを造る知識・技術もなかった。しかし、度々水害や渇水が起きるのは日本特有の急峻な地形と樹木不足にあると見抜いていた節がある。だから、せっせと山に植林した。それも自然のダムとしての機能を持つ広葉樹の森を作ることを目指したらしい。自分たちには何の恩恵もないのに、500年後の子孫の為に植林したのだから、素晴らしい価値観である。

縄文人の暮らし方と価値観と比較すると、現代人はあまりにも自己中心的であり、関係性が希薄化していると言わざるを得ない。現代のコミュニティが崩壊していると言われるのも、関係性が劣悪化しているからに他ならない。家族・地域・職場というコミュニティが崩壊していて、ひきこもり、不登校、休職者などの問題が起きている。自分さえ良ければいいという困った価値観が人々の間に蔓延し、お互いに支え合うコミュニティがなくなっている。こんな時代だからこそ、縄文人の生き方を見習いたいと強く思う。それも、科学的に正しいと実証されている量子力学的な暮らし方・ライフスタイルである縄文の暮らしを実践したいものである。

 

官僚の不祥事をなくすには

官僚の不祥事がこれでもかと起き続けていて、その動きが止まる気配がない。大学を監督する立場にある文科省官僚が、裏口入学を大学側に依頼していたというのだから驚きである。文科省官僚が、JAXAの関連業者から接待を受けていたというニュースの報道もあった。しかも、その接待の場に文科省の事務方トップの事務次官も同席していたという驚愕の事実も明らかになった。財務省の悪質な文書改ざん事件もあったばかりである。行政官庁にモラルハザードが起きて居ると言っても、けっして過言ではない状況にある。

こういう不祥事によって、我々に直接被害が及んでいる訳ではないから、他人事としか思わない国民も多いことだろう。しかし、よくよく考えてみると、我々の国民生活は官僚によって大きく影響を与えられている。したがって、こんな不祥事を起こすような官僚が国民生活の命運を握っているとしたら、まったく安心できない。彼らが作る法律原案や予算案が、国民本位で国民の平和や幸福を実現するためのものではなくて、自分たち官僚や政治家の為に作られているのではないかとの疑念が湧いてくる。そんな不祥事を起こす官僚に、国の将来を委ねて良いのだろうかと不安になる。

勿論、すべての官僚が悪意を持っていたり、自分たちの利益を最優先したりする訳ではない。国民の全体最適、幸福と豊かさを真剣に目指して努力している官僚も少なくない。大多数の官僚は、誠実で正義感が溢れている。しかし、これだけ不祥事が起きているし、まだ明らかになっていない収賄や接待もあると類推できる。ということは、官公庁で働く行政マンのモラルが著しく低下していると言えるだろう。コンプライアンス違反を繰り返す民間企業の役社員も同様である。そうなってしまった原因は、何であろうか。

このような事態を受けて、一般企業ではCSRにおけるコンプライアンスの徹底などが実行されていて、各省庁においても社会的責任の取り組みが行われている。しかしながら、その実効性は疑問である。何故ならば、あくまでもそれらの取り組みは、最終的には職員それぞれの自覚に任せられていて、罰則やペナルティーによる抑止効果を期待しているだけである。本人が主体的に自発的に取り組むという決意と実行力がなければ、コンプライアンスが機能することはないだろう。無理やりやらされている感覚のうちは、モラルハザードが払拭されることはないと思われる。

そもそも、コンプライアンスに取り組むことは、意識しないでもできるのが当たり前である。個人的な欲望の前に正義感が埋没してしまうことは、本来あり得ないことである。やはり家庭教育と学校教育において、幼い頃からの価値観教育をしてこなかった日本の教育の悪影響が現れたと言える。民間企業でも官公庁においても、モラハラやパワハラが日常化していて、多くの職員が休職や退職に追い込まれている。これも、職員や役員の価値観が劣化していて、モラルが低下している影響によるものであろう。職場環境の悪化が、ひきこもりを増加させている大きな要因になっているとも言える。

倫理観が喪失してしまい、労働環境が悪化している原因は何かと言うと、ひとつは関係性が希薄化や劣悪化していることであろう。厳格化した人事評価制度や行き過ぎた出世競争があると、職員お互いの関係性が悪化する。特に行き過ぎた成果主義が関係性を悪化させるということは周知の事実である。各官公庁においても成果主義が導入されつつあり、それが関係性を悪化させ、職場環境を悪くさせるだけでなく、生産性を低下させている。関係性が悪化すると、お互いの足の引っ張り合いを起こすし、優秀な部下を育成することをしなくなる。関係性が悪化すると、組織全体の自己組織化が実行されず、全体最適化が不可能になってしまうのである。

モラルハザードを起こすもう一つの要因は、正しい価値観に基づいた思想哲学を持っていないという不幸である。何のために働くのか、誰のために働くのか、何を目指すのか、というような基礎的な労働に対する思想哲学を喪失してしまっているのである。高収入を得る為、高い評価や地位を得るため、自己満足のためという低劣な労働観に縛られてしまった職員になっている。公務員というのは本来、国民や市民の全体最適を目指して働く使命を持つ。ところが、自分の損得や利害の為に働くような官僚に成り下がっている。だから、平気で収賄行為や不正行為などをしてしまうのであろう。しっかりした正しい価値観の教育こそが求められている。

 

※「イスキアの郷しらかわ」では、正しくて普遍的な価値観の学習支援をしています。また、職場に関係性が何故必要なのか、良好な関係性を持つには職場環境をどのようにすれば良いのかを学ぶ研修を実施しています。モラルハザードが起きて、モラハラやパワハラが起きて居る職場、休職者や退職者が多い職場の抜本的改革を迫られている場合は、是非ご相談ください。