真実はあきらかにすべきか否か

 真実は明らかにすべきなのか?と問われれば、当然真実は明らかにしなければならないと殆どの人が答えるであろう。すべての国民・市民は真実を知る権利があるし、それを社会に対して明らかにする義務があると考えるのは当然だ。しかし、すべての真実を明らかにしなければならないかというと、それは原則としてという文言を付け加えるべきであろう。ましてや、世の中には真実を語る人とか真実ユーチューバーと呼ばれる人物が存在するが、そこで語られる真実というものは、科学的にも実証されていないから、注意が必要だ。

 真実というと簡単に信じてしまう人が多い。自分でも確認せずに、TVや新聞で報道されたりネットで配信されたりすると、妄信してしまう人が少なくない。特に、ネット上において陰謀論だとして、真実はこうだと配信されると信じてしまう人が多い。その確認されていない『真実』は簡単に拡散されてしまい、益々その『真実』はいかにも本当のことだと思い込まされてしまうのである。米国議会が暴徒に襲われて多くの犠牲者を出してしまった事件も、陰謀論によっていかにも『真実』だと思わされた人々が起こしたのである。

 これは真実だからと言われても、妄信してしまうのは危険である。ましてや、いくら真実だと言われても、深く洞察すればそれが嘘だと解る筈である。嘘なのに真実だと勘違いしてしまい、嘘を拡散したら大変なことになる。もしかすると、その嘘を信じた第三者の人生を台無しにすることだってある。陰謀論を信じてしまう人と言うのは、元々HSPの傾向にある人なので、不安や恐怖感が元々強い人である。トラウマを抱えやすい人なのに、益々その傾向が強くなり、PTSDやパニック障害を起こしやすくなる。不幸になることもある。

 陰謀論などで言われていることが、よしんば真実だとしよう。そのケースならば、人々を覚醒させてあげたのだから、良いことをしたことになると思う人も多いことであろう。陰謀論を拡散している人々は、自分が社会に対してすごく良いことをしているという自負もあろう。ところが、これもまた良し悪しなのである。例え真実であったとしても、人々を恐怖に陥れたり、結果として社会の分断を招いたりするような情報ならば、それは悪影響を与えるに過ぎない。お互いの関係性を損なわせることは、絶対に避けなければならない。

 今、米国ではトランプを信奉する人々と反トランプ派の人々との対立というか断絶が酷いレベルで起こり、強烈な敵対が進んでいる。これもQアノンの情報操作が強く影響していると言われている。陰謀論を妄信している人々が、トランプはその陰謀をたくらむ人々を駆逐してくれると固く信じているらしい。それがあの米国議会乱入事件を起こしたとも言われているのである。そして、さらにお互いの非難合戦はエスカレートして、国民の分断に発展している。同じ国民どうしが、暴力を用いてまで反発するというのは異常である。

 この世の中は、ひとつのシステムによって成立しているし、システムが世の中を予定調和や全体最適に導いている。これは、宇宙全体もそうであるし、ひとつひとつのコミュニティも同じだ。家族という共同体も、市町村や法人というコミュニティだって例外はない。これらのシステムの中のそれぞれの構成要素が、自己組織化という機能やオートポイエーシス(自己産生)という正常な働きを発揮するには、良好な『関係性』が根底にあらねばならない。この関係性が破綻すると、全体最適や全体幸福は実現せず、コミュニティは崩壊してしまうのである。システムである企業の破綻や家族崩壊も、すべては関係性の悪化によって起きるのだ。

 国家もひとつのシステムである。その構成要素である一人一人の国民どうしの関係性が悪化すると、内乱とか内戦が起きるのだ。地球もひとつのシステムであり、国どうしの関係性悪化により戦争が起きる。だからこそ、真実の情報だったとしても、国民の断絶や国どうしの関係性悪化を惹起するような情報を拡散することには、慎重であらねばならないのだ。陰謀論は、国民の分断を誘発させるリスクを持つ。だからこそ、陰謀論の拡散には慎重な態度が必要だし、真実かどうかの徹底的検証も必要なのである。真実だと思い込むのも危険である。真実を明らかにすることが、正義ではないケースがあるとも言えよう。

※イスキアの郷しらかわでは、心身を病んだ方々を個別サポートしていました。心身を病んだ方々に本当の疾患名と真実の原因を伝えてしまうと、家族の関係性を損なってしまい、症状の悪化を招いてしまうので、あえて真実を明らかにしない選択をすべきだということも学びました。そうした方が、クライアントが幸福になるし治癒するからです。本当だからと、疾患名や原因を安易に告げるべきではないのです。妄想性の障害の方に、それは妄想だと告げると益々頑なになり心を閉ざすので、敢えてその妄想に付き合うことも必要なのです。

あるがままに生きるとは

今年の抱負を『縄文人の生き方を目指す』と宣言したが、それは『あるがままに生きる』という意味でもある。このあるがままに生きるというのは、言葉では簡単に言えるものの、実践するのは非常に難しいことだと言える。人間と言うのは、自分に関わる人や周りの人々に対して、常に気を使って生きているからだ。あるがままの自分をさらけ出したら、自分が嫌われてしまうのではないか、ひんしゅくを買ってしまうのではないかと、臆病になってしまうのだ。ある意味『いい人』を無意識で演じてしまう傾向があると言える。

殆どの人たちは、あるがままに生きるという意味を、はき違えているような気がする。あるがままに生きるというと、多くの人々は我儘で身勝手で自己中の自分をさらけ出して自由に生きるという意味で使っているように感じる。確かに、人は誰にも遠慮せずに自由な生き方をしたいものだ。好き勝手な生き方が出来たら、どんなにか楽しいだろうと思うであろう。しかし、それは本当の意味でのあるがままの生き方ではない。それでは、あるがままの生き方とは不自由な生き方なのかというと、そうではない。

あるがままに生きるという本当の意味は、まったく別の意味であり、我儘で身勝手な生き方のことではない。人間は、社会で生きるには社会通念や社会常識に添うことが求められる。社会常識や通念に反する言動をすると、社会から糾弾されるし排除されることもある。社会における倫理や道徳に反する行為も許されない。人間は常識や倫理観に縛られてしまうことが多い。しかし、この常識とか道徳ほど、人間や宇宙の法理・真理に反することが少なくないのである。人間本来の正しい生き方と反する常識や道徳観念が存在するのである。

人間社会における常識とか倫理観というのは、形而上学的に見てみると正しいとは言えないことがたくさんある。何故かと言うと、時の権力者、利権・特権を持つ者にとって都合の良いように捻じ曲げられた常識や道徳が作られた歴史があるからだ。為政者、富を持つ者、利権を保有する者たちは、市民たちが自分たちに歯向かないように、自分たちの権利を奪われないように、巧妙に倫理・道徳、または常識として社会に定着させてきたのである。仏教における教義さえも、権力者に有利なものに改ざんしてきたのである。

一般市民たちは、宇宙や人間の法理・真理に反する常識や道徳、または似非宗教の教義に従わせられてきたのである。だから、心ある人間は生きづらさを感じたし、まともな人間ほど社会に適応出来ないという状況が起きてしまったのである。あるがままに生きるというのは、法理・真理にそぐわない誤った常識や倫理観に操られず、形而上学やシステム思考に従って、自分の信ずる価値観に基づいて粛々と生きるという意味である。間違った常識や倫理観に基づいて作られてしまった自分の固定観念や既成概念を打ち破るという意味でもある。

人は小さい頃からずっと教え育てられたようにしか、物事を判断できなくなるものである。それが正しい価値観に基づいた考え方ならいいのだが、間違った価値観を一度身に付けてしまうと、その間違った考え方から抜け出せなくなってしまう。そうすると、人間本来の生き方が出来なくなってしまい、間違った固定観念や既成概念に支配された生き方しか出来なくなるのだ。これがメンタルモデルというもので、このメンタルモデルが邪魔をしてしまい、あるがままに生きることが難しくなる。固定観念や既成概念を打ち破るのが困難になるのである。

人間というものは、間違った常識や倫理観で生きたほうが、ある意味楽なのである。社会の常識や倫理観に逆らった生き方は、周りの人々から批判を受けやすい。自分らしくあるがままに生きるのは、勇気のいることでもある。あるがままに生きるというのは、魂が喜ぶ生き方とも言えよう。顕在意識と潜在意識が統合される生き方とも言えるかもしれない。人間は、本来誰にも所有されず支配されず、誰にも制御されずに自分らしく生きることが必要だ。これが本当の自由だ。それが実現出来てこそ、自己組織化が起きるしオートポイエーシスの機能も働く。そして、自己進化や自己成長が実現できる。今年こそ、あるがままに生きられるようになりたいと思う。

縄文人的暮らしを目指したい

 新たな年の2024年を迎えるにあたり、今年の抱負を考えていた。今年は70歳を迎えることになるのだが、自分がこの年齢になるとは想像も出来なかった。いろんな経験をしてきたものだとつくづく思う。仕事にも精一杯努力してきたつもりだが、ボランティア活動やNPO活動にも邁進してきた。勿論、家事や育児も、人よりは頑張ってきたつもりだ。仕事、家庭、地域活動と三位一体の活動をバランス良くやってきたという自負を持っている。イスキアの活動も昨年から方針転換をした。さて今年からはどのように生きようか。

 以前から思っていたことだが、縄文人の暮らしに憧れていたことから、彼らのように生きて行けたらいいなと漠然とした思いがあった。勿論、狩猟や採取を中心にした生活を、現代で出来る筈もないが、縄文人のように互恵的共存関係を基本とした平和で心穏やかな暮らしを望んでいる人は想像以上に多いに違いない。縄文人と同じ暮らしは不可能だとしても、彼らのような価値観を基本にした生活は出来そうだ。現代の価値観は、あまりにも損得や利害にシフトしているが故に、心の豊かさを失っている。そんな暮らしを見直したいものだ。

 縄文人が争いのない平和で心豊かな社会を、13,000年もの長い期間に渡り続けていたのは周知の事実である。全世界を見渡しても、縄文時代と同じ時期に戦争や略奪のまったくない平和な生活をしていた文明は存在しない。ましてや、あの時代に高福祉で共存共生のコミュニティを築いていたというのだから驚きだ。縄文人の人骨は各地から発掘されているが、武器による傷がある人骨は全く発見されていない。20代の先天性小児まひの女性の人骨が発掘されたが、一人では生活出来ない筈だから、誰かが生活支援をしていたに違いにない。

 このように、今では考えられないような、素晴らしい価値観に基づいた暮らしをしていたということが尊敬に値する。縄文人は、自分の損得や利害を第一に優先するようなことはせず、全体最適を目指していたし、将来の子孫が幸福な暮らしが出来るようにと、努力したことが判明している。未来の子孫が木の実を豊かに採取できるようにと、せっせと樹木を植えたのである。感覚的に知っていたのであろうが、洪水を防ぐために里山に樹木を植えて治水対策をしたのだ。魚貝類を子孫が豊かに採取できるようにと、豊かな海を守るための広葉樹を植林した。環境保護も含めて、SDG’sを実践していたのである。

 縄文人は、個別最適や個人最適を自分の生き方の中心には据えることなく、全体最適や関係性重視の価値観に基づいて生きていた。だからこそ、縄文人は老若男女すべて、自己組織化を進めることが可能だった。彼らのすべてが、主体性、自発性、自主性、自己犠牲性、責任性、進化性を豊かに発揮できたのである。それ故に、あれほど素晴らしい文化が花を開いたと言えよう。火焔土器を代表とした縄文式土器は、他に類を見ない見事なデザイン性を発揮している。弥生式土器と比較すると、その美しさは際立っていて素晴らしい。

 私有財産を持つと、貧富の差が表出して親族間や一族内での軋轢や争いごとが起きることを縄文人は知っていたのであろう。だから、物を個人所有することをしなかった。そして、縄文人は物だけでなく『人』の所有や支配をもしなかったし、我が子の個人所有もしなかったという。生まれた子どもは、地域の一族みんなで愛情をかけて育てた。夫婦とか親子という所属関係もなかったから、家族という概念もなかったと見られる。縄文時代は女性中心社会の社会だったから、特定の男性と一緒に暮らすことはなく、男性は通い夫(つま)だったと思われる。

 縄文人は、独占欲を持たなかったから、お互いに特定の異性を独占することはなかったであろう。特定の異性を愛することはあったと思うが、現代のように愛情がなくなった伴侶と暮らし続ける仮面夫婦のような関係は絶対に無かった筈だ。占有関係がないからこそ、相手をコントロールしたり縛り付けたりせず、お互いがリスペクトし合えるような関係を続けられたに違いない。そういう意味では、理想の男女関係にあったから、少子化もなくて子孫繁栄もしただろう。現代にも有効な少子化対策のヒントがありそうだ。縄文人は、レムリア人にも通じるのではと考える人も大勢いる。縄文人のような智慧と価値観を生かして暮らしたいものだと、新年を迎えて切に思う。縄文人の細胞記憶を呼び起こしたいものだ。

スピ系の目覚めと阿羅漢の悟り

 スピリチュアル系の目覚めをした人たちのSNS発信が、非常に多くなってきている。自分がスピ系での覚醒をしたと宣言している人たちは、スピ系の目覚めや悟りをする方法についてのセッションとかワークを開催する傾向が強い。スピ系に目覚めたいと願う人は、どういう訳か圧倒的に女性が多い。そして、スピ系の目覚めを支援するビジネスを始めたいと思う人も女性が殆どである。スピ系の覚醒をしたいと願う若い女性が多いことから、スピ系ビジネスを始める人にとっては、絶好のクライアントになりうることになる。

 スピ系において目覚めたと思い込んでいる人たちは、SNSにおいてもグループ化することが多い。リアルな場でのセッションやワーク、またはお話会とかシェア会という会合を開いては、交流の場を広げるケースが少なくない。このスピリチュアル系における覚醒とは、どういうものなのだろうか。このスピ系の覚醒という言葉を使っている人たちは沢山いるが、特に基本とするような基準がないせいか、それぞれが抱いている内容が大きく違っているように思える。そもそもスピ系というのにもいろんなイメージがあるし、覚醒の到達度も違うのだから、当たり前であろう。

 スピ系で覚醒したかどうかの判定をする認定機関もないし、試験もない。スピ系においての自己啓発を完了したかどうかは、あくまでも自分自身で判断することになる。当人が、スピ系での覚醒や自己啓発をしたと思えば、ネット上でそのように発信するし、その情報が正しいかどうかについては、ネット発信された情報で判断するしかない。ネット上でSNSやブログで情報発信されていると、あたかもそれが正しい情報かのように見えるのは当然である。したがって、スピ系で覚醒したという人の話を鵜呑みにしてしまうのであろう。

 しかし、冷静になって考えてみると怖いことだ。私は覚醒者だから私の言うことは正しいから信じなさいと主張されてしまうと、ついつい同意してしまうのはありがちだ。ましてや、スピ系に憧れる人というのは、自分でも得体のしれない不安や生きづらさを抱えている人が多い。何かにすがりたいと思っているから、ついつい引き込まれてしまうのも当然である。スピ系に目覚めた人というのは、同じように苦しんでいる人を救いたいと願っているから、積極的に発信しているし、コンタクトをしてくれた人を囲いたがるのであろう。

 さて、スピ系の覚醒者として自分を認識している人は、本当に自己啓発を完了しているのであろうか。仏教の修行段階に阿羅漢という存在があるのを知っている人は、そんなに多くないと思われる。どういう人かというと、仏教における修行僧の最高位にある高僧のことである。ある程度深く悟りを啓き、菩薩までは及ばないものの、仏に限りなく近づいた者という意味である。いろんな場所に五百羅漢さまとして安置されているのは目にした人も多い筈だ。この阿羅漢が、実は永遠に仏にはなれないと言われていると聞いて、驚く人が多いかもしれない。

 仏教の教えに『二乗作仏』という言葉がある。主に大乗仏教が小乗仏教を批判的に提唱したものではあるが、阿羅漢は仏教の修行をしているものの、自分の悟りを優先し過ぎるあまり、利他行が足りないから仏性を得られないと言われている。阿羅漢は、自分では悟りを啓いたと思いあがり過ぎて謙虚さを失うから、仏にはなり得ないとも言われているのである。ソクラテスの説いた『無知の知』にも通じることである。確かに、自分では完全に悟ったのだ、覚醒者なのだと自信を持って主張する人ほど謙虚さを失い、成長は止まってしまう。

 スピ系の覚醒者と阿羅漢という存在が、何となく似通っているように思えて仕方がない。すべてのスピ系の覚醒者が阿羅漢と同じで、偽スピだと主張するつもりはないが、自分で目覚めた者であると自信を持って言う人ほど信じられない気がする。本当に悟りを啓いて、自己啓発をしたり自己マスタリーを実現したりした人は、もっと謙虚であり自分を自慢することはしないものだ。そして、そっと日常的に利他行に勤しむだけであり、スピ系をビジネスに利用するようなことはしない。本物の覚醒者はビジネスに活用したとしても、セッション1回何万円も要求することはない。本物を見分ける確かな眼を持ちたいものである。

雨が降っても自分のせい

 経営の神様と呼ばれた松下幸之助さんは、様々な名言を残されているが、その中でも異彩を放っている言葉がある。それは『雨が降っても自分のせい』という、常人にはなかなか理解しがたい言葉である。雨というのは天候のひとつであるから、人間の力ではどうしようもないし、ましてや特定の人にその責任はないのは当然である。それなのに、敢えて松下幸之助さんは、雨が降っても自分のせいだと言い切ったのである。その真意はどこにあるのであろうか。または、その言葉に隠された本当の意味は何であろうか。興味深いことである。

 経営アナリストや評論家たちであれば、このように解釈するのではなかろうか。松下幸之助さんの名言として、もうひとつ『雨が降れば傘をさせ』という言葉が残されている。この言葉と併せて考えると、雨が降ると言う事も予測しなさい、そしてその対策を万全にしておきなさいという意味だと解釈できる。雨というのは自分や会社にとって逆風や逆境ということであり、そのような状況になることも予測をしてその対策も十分に用意しておくべきだし、そうなったらいち早く対応すべしということだろうと思われる。

 会社経営において、リスク管理はとても重要な役割を持つ。リスクマネジメント長けていないトップ経営者の企業は、経営破綻を起こし存続できない。その他の組織運営においても、リスク管理は大切である。危機管理が出来ない父親の家庭は、経済破綻を起こしてしまうし、安全安心が保持できない。この世は、晴れの日ばかりではない。雨の日と言えるような悲惨な状況に追い込まれることもあるし、苦難困難に立ち向かうことも多い。そういう逆境や逆風も予想して、乗り越える準備と危機管理の能力も身に付けなさいということであろう。

 もっと深い意味があったかもしれない。ともすると、人間と言うものは何か自分取って不都合なことや思いもよらない失敗が起きてしまうと、何かのせいや誰かのせいにしたがるものだ。世の中の経済状況や環境が悪いからだと言い訳したり、誰かが邪魔をしたからだと人のせいにしたりする傾向がある。このように、自分に悪いことが起きたことに対して、自分には責任がないと言い逃れする人はすこぶる多い。これでは、自分の成長や進歩はまったく生まれない。悪い結果のすべての責任を自ら負い、二度と同じ失敗を繰り返さないと誓ってこそ、将来の成功や栄光は生まれるものだ。

 雨が降るのは自分のせいという言葉には、すべての責任は自分が負うものだという松下幸之助氏の尊い教えが詰め込まれているようにしか思えない。これは、科学的にも正しい。人間と言うひとつのシステムは、自己組織化する性質がある。人間は生まれながらにして、主体性、自発性、自主性、連帯性、責任性、自己犠牲性というような働きを持つ。つまり、人間と言うのはすべて自分の周りに起きることに対して、リスクとコストを負担するということである。システムダイナミックスという最先端の科学的思考においては、これは当たり前のことである。

 さらに科学的思考を発展させると、量子力学的に鑑みれば、雨が降るというのは自分の思考がそうさせたのだということも言えるのである。そんな馬鹿なと思う人もいるかもしれないが、量子物理学においては、思考そのものが物を実体化させて変化させるという事実が明らかになりつつあるのだ。松下幸之助氏が、雨が降っても自分のせいだという言葉を残したのは、量子力学的な思考に基づいての発言かどうかは解らないが、科学的事実である。仏教哲学における、色即是空や空即是色が科学的事実だと松下氏は知っていたに違いない。

 自分でも、不思議な体験を何度もしている。福井県の百名山である荒島岳を数人の仲間と登った時のことである。午後からは天気が崩れるという予報だったが、何となく午後2時くらいまでは天気が持つに違いないという勝手な確信を持った。午後2時までは下山する計画で、予定通りに下山して車に乗った途端、その時刻に土砂降りの雨が降り出したのである。その後、信州の御座山でも同様のことがあり、福島県の和尚山でも起きたのである。こういう体験が数知れず起きている。すべてがそうなるとは言えないが、かなりの確率で雨を降らせるのは自分の思考ではないかと思うようになった。雨が降っても自分のせいだという教えに基づき、これからも謙虚に生きていこう。

初等教育にこそ形而上学が必要

 日本の教育において、哲学教育が軽視されてしまった歴史がある。学校教育においても、そして家庭教育においても哲学がなくなってしまったと言っても過言ではない。そして、その哲学の中でも、とりわけ形而上学がまったく欠落してしまったのである。子どもが正常な発達を遂げるために、ましてや精神の発達段階において、形而上学が果たす役割は極めて大きい。それなのに、日本の教育には形而上学が全く不要だと、敢えて除外されてしまったのである。それ故に、日本の子どもたちに正しい価値観が育たなかったのである。

 正しい価値観を持たないのは、子どもたちだけではない。70代以下の大人はおしなべて正しい価値観や哲学を持ち得ていないのである。正しい価値観は、倫理や道徳を学ぶことで確立されるものだと思っている人が多いが、それは間違いである。倫理や道徳の教育を受けたとしても正しい価値観や哲学が身に付くことはない。何故かと言うと、学校で教える道徳や倫理の価値観は、人間が正しく生きる上で役に立つものだとは言えない。この道徳や倫理の価値観は、為政者や権力者にとって都合の良い偽のそれで、真理を捉えていない。

 江戸時代までは、神や仏が示す正しい価値観を教える形而上学を教えていた。それが、明治維新になり、欧米列強に対抗するために富国強兵を推し進めることになり、近代教育を取り入れた。この明治政府が仕入れた近代教育というのが、問題であった。近代教育の基本となるのは、客観的合理性に基づく教育であり、すべては科学的な根拠に真理を求めていた。科学的に証明できないものは真実ではないという考え方が支配的になってしまった。科学的に証明の出来ない形而上学を排除したのは、言わずもがなであった。

 客観的合理性を重視すぎる近代教育を強引に導入したのは、明治維新政府の元勲大久保利通であり、それに猛烈に反対したのは西郷隆盛であった。近代教育を導入すれば、国を滅ぼしてしまうと西郷は主張した。形而上学を排除してしまうことの危険を、西郷は心得ていたのであろう。この予想は見事に的中した。形而上学を排除して、客観的合理性だけを追求した日本の教育は、日本の子どもから自己組織化を喪失させて、責任性や主体性を発揮出来なくさせてしまった。身勝手で、自分さえ良ければいいという自己中心的人間を大量に生み出してしまった。

 客観的合理性の近代教育を否定するつもりはない。科学的な根拠に基づく考え方は、学問をするうえで必要不可欠である。しかし。あまりにも客観的合理性を追求し過ぎて、形而上学的な価値観をまるっきり否定してしまうと、科学技術が暴走してしまう危険がある。アインシュタインは、科学が正しく発達するには、形而上学が必要だと説いた。原子爆弾の製造に異を唱えずに賛成する文書に署名してしまったアインシュタインは、一生後悔した。科学の進化と利用において、形而上学が欠如すると科学は暴走して、殺戮の道具を産みだしてしまうと悔やんだのである。

 形而上学とは、人間にとって何が大切なのか、何を目的に生きるのかを、神や仏、または宇宙意思がどう示しているのかを学び取ることである。そして、人間の力ではどうしようも出来ない、偉大なる自然や宇宙の営みを実感・体感することである。人間を超越した存在があり、その前では人間がいかに無力であるのかを認識し、すべてをその偉大なる存在に任せるという潔さを持つことでもある。神とか仏というのは、常に全体最適や全体幸福を求めているのであるから、宇宙の一部である人間は、その全体最適のために貢献すべき存在であると認識すべきである。

 幼児教育や初等教育においては、そんな難しいことを幼い子どもには理解できないと思うかもしれない。しかし、そんなことは杞憂でしかない。幼い子どもこそ形而上学が大好きなのである。欧米においては、日曜に教会に行き神父さんや牧師さんの話に、子どもたちは聞き入る。江戸時代以前は、僧侶たちは寺子屋で子どもたちに説法を行った。家庭教育において形而上学を、子どもに語って聞かせるのは父親の役目だ。幼児教育や初等教育の段階から、形而上学をしっかりと教育して、正しい価値観を身に付けさせなければならない。子どもたちは、目を輝かせて全体最適や社会貢献の話を聴くに違いない。

Awe体験が人間の正しい生き方を導く

 Awe体験(オウたいけん)とは、大自然や大宇宙の悠久さや広大さを体感することで、自分自身の存在意義や自らの小ささを感じる体験のこと。このAwe体験は、その人間が生きる上で、とても大切な智慧を授けてくれると言われている。アメリカのジョン・テンプルトン財団の研究によれば、Awe体験をしている人は、見破る力、騙されない思考力を持つようになるという。Awe体験をしていない人は、情熱のある人の話や面白い話には弱く、説得されやすくなる。ものすごく情熱的に話されると、詐欺師でも信じてしまう。

 それに対してAwe体験をしている人は、真実を見破る力があるらしい。インターネット上の嘘の情報やフェイクニュースにも騙されることもなく、陰謀論に嵌まってしまうこともないという。また、カルト宗教に入信してしまうこともないし、怪しい自己啓発セミナーに騙されることもなくなる。さらには、ナダ・トロント大学のステラー博士らの研究では、Awe体験をすると自分の自我(エゴ)を少なくし、謙虚な気持ちを起こすことがわかっている。人間としてとても大事な、社会貢献性を持つということである。

 アメリカ・アリゾナ州立大学のシオタ博士は、Awe体験の効果として①マインドフルネスと同じように、何ごともありのままに受け取ることができる②心と身体をリラックスさせる③好奇心を引き出す④人と心のつながりを作る⑤利他の心を引き出す⑥心身を健康にする⑦創造性を引き出す⑧希望に満ちた状態になる⑨幸福感が高まる⑩嫉妬心など、ネガティブな感情が少なくなる。が起きるとしている。Awe体験によって、単に心が洗われるだとか、気分転換になるだけでなく、具体的に心身ともに良い影響があるとしている。

 中国・広州大学のリー博士らの研究は、Awe体験が「社会性行動」にどのような影響があるかを調べている。Awe体験で未来の時間の感覚を持てるようになり、社会性のある行動が取れるようになるという研究結果を出している。未来の時間感覚を持てるという意味は、自分が存在していない未来さえも、自分が生きている「いま」と同じような感覚で捉えるということである。つまり、自分が生きていない未来に対しても責任を負うということだ。100年後や500年後の未来に思いを馳せ、SDGsを大切にする生き方をするのである。

 カナダ・トロント大学ステラー博士らの研究ではAwe体験を頻繁にしている人は液性免疫を制御するサイトカインの一種であるインターロイキン6の濃度が低く保たれているという結果が出ている。インターロイキン6が長い期間に渡り過剰に産生されると、関節リウマチ等の自己免疫疾患を発症したり、慢性炎症性疾患を起こしたりする。また、癌細胞の増殖や癌転移の促進をしてしまうことも判明している。Awe体験を頻繁にしていると、病気にならないだけでなく、健康な身体を保って長生き出来るということである。

 日本では、古来より僧侶や修験者が山岳修行をしてきた。まさしくAwe体験によって高い人間性や社会性を獲得して、魂の浄化や進化が実現できると経験的に認識していたのであろう。それでは、登山をする人がすべて高い人間性を持ち社会貢献性を持ちうるのかというと、そうではない。単なる自然体験を沢山したからと言って、それがAwe体験になる訳ではない。大自然の雄大さと自分の小ささを実感もせず、傲慢な態度姿勢で、自然を愛でることもせず、山自慢するような登山をする人にとっては、Awe体験にはなり得ない。

 いくら自然体験を積んだとしても、雄大で偉大な自然や宇宙の営みを体感・実感して、それと比較していかにちっぽけな存在としての自分を自覚しなければ、Awe体験にはならない。さらには、広大な自然や宇宙の一部である自分を認識して、自然や宇宙と一体化した感覚を持ち、生かされている自分を自覚することが、Awe体験として必要なのである。その為には、自然の中に身を置いた際に、センスオブワンダー(驚きの感性)持つことが肝要である。そして、このセンスオブワンダーは、小さい頃の豊かな自然体験を通して、傍らの信頼する大人から導かれることが必要である。センスオブワンダーを持つ人間だけが、Awe体験を認識することが許されるのかもしれない。

 

※イスキアの郷しらかわでは、「Awe体験ツアー」をガイドしています。自然の雄大さや偉大さを体感するために、滝めぐりツアーやトレッキングをしながら、センスオブワンダーを持つために必要なことをレクチャーします。参加者の年齢・体力に合わせた自然体験ツアーを企画提案しますので、問い合わせフォームからお申込みください。

信仰を持たない日本人だから騙される

 安倍元総理襲撃事件を発端に、旧統一教会の強引な入会勧誘、マインドコントロールによる寄付、さらには宗教二世の問題までに発展して、大きな社会問題として連日マスコミを賑わすことになった。過去の例では、麻原彰晃教祖のオウム真理教に、多くの若者たちが洗脳されてしまい信者になって、凶悪犯罪に加担したケースもあった。いろんな新興宗教に勧誘されて多額の寄付をする例も少なくなく、どうしてこんなにも簡単に宗教に騙されてしまうのか不思議である。日本人はどうしてこんなにも洗脳されてしまうのだろうか。

 旧統一教会の韓国人代表とその幹部たちは、当初から日本人をターゲットにして、日本人の財産を韓国に吸い上げようと企図していたのではないかと言われている。まさに、宗教を隠れ蓑にしての集金システムを作り上げて、過去の恨みを果たそうとしていたのではないかと主張するアナリストも存在する。オウム真理教、旧統一教会、様々な新興宗教と、何故に日本人というのは、こうも簡単に宗教に取り込まれてしまうのであろうか。それは何故かと言うと、日本人が信仰を持たないからではないかと考えられる。

 日本人が信仰を持っていないと言うと、そんなことはないだろうと思う人も多いことであろう。日本人の殆どが仏教徒だと思っている日本人は多い。しかし、それは完全な間違いである。確かに、日本人が亡くなると仏教寺院の僧侶がやってきてお経をあげて、戒名を与えてくれるし、その後も仏教の年忌で法要を営んでいる。でもそれは仏教徒だからではなく、過去の慣習にならってそうしているだけであり、仏教に帰依している訳ではない。その証拠に、仏教の教義を正確に認識している日本人は皆無だと言っても過言ではない。

 神道を信仰している人やキリスト教の信者がいると主張する人もいるが、神道とは言っても儀式を執り行う時だけの便宜的なものであり、殆どの人が神道を信仰しているとは言えないであろう。カソリックやプロテスタントの敬虔なクリスチャンとして、毎週の休息日に教会に行き、ミサや礼拝をしているのであれば、信仰を持っていると胸を張って言えよう。欧米人のように、小さい頃からキリスト教の信仰に慣れ親しんでいる人々ならば、とんでもない新興宗教に洗脳されて騙されるようなことはないと思われる。

 日本人が信仰を持たなくなったのは、いつ頃からであろうか。江戸時代から明治維新を迎えると、維新政府は国家神道として神道を国教として篤く保護した。仏教と神道が融合した神仏習合を許さず、神仏分離が行われて、廃仏毀釈運動が起きた。寺院が弾圧を受けて激減したのもこの頃で、仏教が廃れたのも明治維新の宗教政策によるものだと言えよう。その後、第二次大戦後にGHQから思想信条に関する教育を徹底的に排除された影響で、仏教的な教えが教育現場から無くなってしまい、日本人は無信仰になったのではなかろうか。

 そんな不幸な歴史があって、日本人が仏教を信仰することがなくなり、神道においても信仰と呼べるような教義や教本も存在しないことから、信仰心が薄らいでしまったと考えられる。人間にとって不幸なのは、生きるべき道しるべを持たないことだ。これだという真理や法則、または思想や哲学を持っていないことである。これでは、人間のあるべき姿や目標を見出すことが出来なくなる。日本人の多くが、何故生きるのかという根本的な目的意識を見失ってしまったが故に、強烈な生きづらさを抱えてしまい、そこに新興宗教が入り込む隙を与えてしまったと言えないだろうか。

 特定の宗教を信仰して、信仰心を持つことが必要だと言いたい訳ではないが、少なくても高潔で正しい思想や哲学を持つことが、生きる目的を確立するには必要であろう。そうしないと、とんでもないまやかしの宗教に洗脳されて騙されてしまう。信仰というのは、何も特定の宗教に入会や入信をしないと持てない訳ではない。自らが信ずる神や仏を信奉し、その教えや指導に帰依して、正しく生きるということである。信仰がないと、人間は生きるべき道を見失いやすい。そうすると、オウム真理教や旧統一教会のようなとんでもない宗教に騙されてしまうのである。日本人は信仰心について、今一度深く考えてみる必要があると思われる。

国際ロマンス詐欺に騙されてしまう訳

 国際ロマンス詐欺が横行していて、想像している以上に多くの善良な人々が騙されているとのこと。目的はお金であり、巧妙な話術によって騙されて、多額の金品が騙されているとのことらしい。結婚詐欺というのは昔からあった。多くは日本人どうしのケースが多くて、言語障壁もあるので外国人による詐欺被害はあまり多くなかった。ところが、SNSが発達した現代においては、簡単に外国人と繋がれる気安さもあり、外国人による詐欺が増えているのである。しかも、ロマンスを装って金品を騙し取る手口が多いという。

 このように国際結婚を餌にして、金品を騙し取る詐欺を『国際ロマンス詐欺』と言うらしい。実際に、自分にもSNSで見知らぬ外国人女性からのアクセスが何度もある。若くて美しい女性の写真を掲載していることもあれば、50代から60代の女性の写真が載せているケースもある。外国に住んでいる妙齢の女性を装う場合もある。若くてハンサムな男性の写真を掲載して、裕福な女性をターゲットにすることも多いという。どうやら、別人の写真を掲載しているらしいが、すっかり当人の写真だと思い込んで親しくなるみたいである。

 実際に会ったこともないのに、言葉巧みに相手を騙して、恋愛関係に陥れてしまうという。そして、結婚する為にはどうしても必要だとお金を要求される。すっかり信用しているので、要求通りにお金を渡してしまうらしい。結婚を先延ばしにしては、何度もお金を要求されるままに振り込んでしまうという。それだけ巧妙な嘘だと言えるが、どうして容易く信用してしまうのであろうか。おかしいなと気付かないものだろうか。恋は盲目とよく言われるが、恋愛状態にあると舞い上がってしまい、正常な判断が出来なくなるのであろう。

 こういった国際ロマンス詐欺を含めた詐欺に騙されてしまう人というのは、どういうキャラクターの人なのであろうか。何も疑わずに相手を信用してしまうような、根っからの善人だと思うかもしれない。確かにそういう人もいない訳ではないが、こういった詐欺に騙される人というのは、実は疑い深い人なのである。そんな馬鹿なと思う人が多いかもしれないが、他人をあまり信用しないような人の方が、簡単に騙されるのである。いつも、客観的に冷静に判断している人ほど、詐欺に引っ掛かってしまうのである。

 いつも主観的に物事を見る人と、客観的に観察する人では、どちらが詐欺に騙されやすいかというと、圧倒的に客観的に分析をする人ほど詐欺に遭いやすいのである。しかも、客観的に物事を判断する傾向が強い人というのは、高学歴で聡明な人が多い。高い学歴で賢い人は騙されにくいと思われがちであるが、実際は詐欺に遭いやすいのである。実際に、自分では騙されないと思い込んでいる人ほど詐欺に遭っている。客観的に判断しがちな人は、相手の気持ちに共感しにくい。だからこそ、相手の嘘を見破れないのである。

 松下電器(パナソニック)の創始者で、一代で日本有数の巨大企業にした、経営の神様と呼ばれる松下幸之助氏は一度も人に騙されたことがないという。成功を納めた彼の元には、連日に渡り大勢の経営者たちが儲け話(ニュービジネス)を持ちかけたという。中には、詐欺まがいの話も多かったという。松下幸之助氏は、誰もが騙されてしまう巧妙な儲け話であったとしても、絶対にそんな話には乗らなかったという。何故ならば、人から話を聞くときはけっして批判的に聞かずに、真剣な気持ちで主観的に聞いたからだと言う。相手の気持ちになりきって、共感的態度で聞いた。そうすると、自ずと嘘だと分かったと言うのである。

 人は自分にとって得になる話や利益が出る話を聞くと、その話が真実かどうかを客観的に判断しがちである。批判的・否定的な固定観念に基づいて、深く分析する傾向にある。騙そうとする詐欺者は、その辺の機微を心得ていて、客観的合理性を主張するのである。それ故に、客観的合理性を追求する傾向が強い人ほど、見事に騙されるのである。主観的に、そして共感的に話を聞く人ほど、騙されないのである。何故なら、騙そうとする人の気持ちが良く解ってしまうからである。共感的に話を聞く松下幸之助氏は、騙そうとする人の気持ちを洞察できた。国際ロマンス詐欺に遭う人は、客観的合理性を持つ分析力の高い人だから騙されるのだ。

※国際ロマンス詐欺に限らず、結婚詐欺に遭ってしまうのは、基本的に寂しいからです。強烈な不安感や恐怖感、生きづらさを抱えていて、満たされない心をどうしていいか解らない日々を過ごしているので、その心の隙間に付け込まれてしまうのです。騙される人よりも騙す人が悪いのは当然ですが、騙されない心を確立することも必要です。その為には、「寂しさ」を解消しなければなりません。必要なのは『自己マスタリー』です。正しい価値観や哲学を持ち、自己の確立をすることが求められます。

偽善者だと言われても

 ボランティア活動や市民活動をしていると、どうせ売名行為だろうとか、自己満足でしかないとか、はたまた偽善者じゃないのと言われることが少なくない。または、自分でも自己満足や偽善行為ではないかと悩むこともあるに違いない。ボランティア活動に対して、そんなことをするのは、偽善者だと切り捨てられてしまうからである。ボランティア活動や社会貢献活動に真面目に取り組んでいる人ほど、自分の活動は偽善ではないかという考えが頭から離れないのである。ボランティア活動をしている人は偽善者なのであろうか。

 ボランティア活動というのは、人の為世の為に我が身を犠牲にしても働くことだと思われている。この人の為という漢字は、合わせると『偽』(いつわり)となる。本当の心は自己中心的で汚いのにも関わらず、自分と他人を偽り、善人を演じているだけだと主張する人は少なくない。特に、ボランティア活動なんて経験してなく、社会貢献活動に批判的な人ほど、偽善者だと思いたがる。だから社会貢献活動をしない自分は、自分に正直だけなのだと思いたがる。そして、自分はそんな偽善者にはなりたくないのだと主張する。

 ボランティア活動や社会貢献活動に対して、そんなのは偽善だろうと批判している人は、社会貢献活動を経験していないのである。実際に体験していないのにも関わらず、偽善者として批判するのはどうかと思う。自分でも社会貢献活動やボランティア活動をしてみてほしいものである。それも1回や2回ではなく、少なくても数年に渡ってボランティア活動してみてはどうか。そうすれば、偽善かどうかが判明するに違いない。ボランティア活動に一切かかわりもせず、外側から眺めていただけでは、偽善かどうかの判別なんてつく筈がない。

 厄介なのは、ボランティア活動に懸命に取り組んでいる人が、自分の活動が所詮は偽善なのではないか、自己満足に過ぎないのではないかと落ち込んでしまい、ボランティア活動を止めてしまう人のことである。実は、若い頃からボランティア活動に勤しんできた自分も、一度そんな気持ちになり、ボランティア活動が出来なくなった時がある。偽善者である自分が恥ずかしくて、そして自分自身が許せなくて、ボランティア活動に取り組めなくなった。そんな経験をするボランティア活動家が少なくないのである。

 自分が偽善者ではないかと思い悩んでいる人には、こんな話をしてあげることにしている。善と悪はどちらが良いか?と問うと、もちろん善だと答える。偽善と偽悪は、どちらが良いかと質問すると、迷う人がいるかもしれない。それでは偽善と悪は、どちらが良いかと尋ねると悪よりは偽善のほうがましだと答えることだろう。それが答である。気持ちは偽善であろうとなかろうと、善を実践することに違いはない。人の為世の為に何かしら貢献しているということは否定できない。そして、偽善を何度も積み重ねれば、いつかは限りなく善に近づくのである。

 偽善を数年に渡り、または数十年も続けて行けば、これは既に偽善ではなくなるに違いない。行動をせずに批判するよりも、例え偽善の心を持っていても、善の行動をするほうが遥に尊いと言える。『善』というのはそういうものではなかろうか。最初から見返りを一切求めないで、純粋な心でボランティア活動をするなんて出来そうもない。人間は、やはり認めてもらいたいし誉めてもらいたいのである。そんな不純な思いが少しでもあれば『偽善者』と軽蔑するというのは、あまりにも冷たい仕打ちじゃないかと思う。

 かの弘法大師空海は、中国に渡って『理趣経』というお経を初めて日本に持ち帰った。この理趣経では、本来仏教では否定される愛欲さえも肯定している。たとえ愛欲がモチベーションとなる偽善的な行為であっても、人々の幸福実現の為に貢献しようとするエネルギーになるならば、愛欲もまた否定されないという教えである。例えば魅力的な異性からボランティアに誘われて、親しくなれるかと思い込んでボランティアに取り組んだとする。数年間ボランティアを経験したら、ボランティアが好きになり、愛欲をすっかり忘れて、ボランティアに没頭するようになった。これも偽善から善に変わったケースと言える。偽善でも良いだろう。偽善をおおいに楽しもうではないか。