信仰を持たない日本人だから騙される

 安倍元総理襲撃事件を発端に、旧統一教会の強引な入会勧誘、マインドコントロールによる寄付、さらには宗教二世の問題までに発展して、大きな社会問題として連日マスコミを賑わすことになった。過去の例では、麻原彰晃教祖のオウム真理教に、多くの若者たちが洗脳されてしまい信者になって、凶悪犯罪に加担したケースもあった。いろんな新興宗教に勧誘されて多額の寄付をする例も少なくなく、どうしてこんなにも簡単に宗教に騙されてしまうのか不思議である。日本人はどうしてこんなにも洗脳されてしまうのだろうか。

 旧統一教会の韓国人代表とその幹部たちは、当初から日本人をターゲットにして、日本人の財産を韓国に吸い上げようと企図していたのではないかと言われている。まさに、宗教を隠れ蓑にしての集金システムを作り上げて、過去の恨みを果たそうとしていたのではないかと主張するアナリストも存在する。オウム真理教、旧統一教会、様々な新興宗教と、何故に日本人というのは、こうも簡単に宗教に取り込まれてしまうのであろうか。それは何故かと言うと、日本人が信仰を持たないからではないかと考えられる。

 日本人が信仰を持っていないと言うと、そんなことはないだろうと思う人も多いことであろう。日本人の殆どが仏教徒だと思っている日本人は多い。しかし、それは完全な間違いである。確かに、日本人が亡くなると仏教寺院の僧侶がやってきてお経をあげて、戒名を与えてくれるし、その後も仏教の年忌で法要を営んでいる。でもそれは仏教徒だからではなく、過去の慣習にならってそうしているだけであり、仏教に帰依している訳ではない。その証拠に、仏教の教義を正確に認識している日本人は皆無だと言っても過言ではない。

 神道を信仰している人やキリスト教の信者がいると主張する人もいるが、神道とは言っても儀式を執り行う時だけの便宜的なものであり、殆どの人が神道を信仰しているとは言えないであろう。カソリックやプロテスタントの敬虔なクリスチャンとして、毎週の休息日に教会に行き、ミサや礼拝をしているのであれば、信仰を持っていると胸を張って言えよう。欧米人のように、小さい頃からキリスト教の信仰に慣れ親しんでいる人々ならば、とんでもない新興宗教に洗脳されて騙されるようなことはないと思われる。

 日本人が信仰を持たなくなったのは、いつ頃からであろうか。江戸時代から明治維新を迎えると、維新政府は国家神道として神道を国教として篤く保護した。仏教と神道が融合した神仏習合を許さず、神仏分離が行われて、廃仏毀釈運動が起きた。寺院が弾圧を受けて激減したのもこの頃で、仏教が廃れたのも明治維新の宗教政策によるものだと言えよう。その後、第二次大戦後にGHQから思想信条に関する教育を徹底的に排除された影響で、仏教的な教えが教育現場から無くなってしまい、日本人は無信仰になったのではなかろうか。

 そんな不幸な歴史があって、日本人が仏教を信仰することがなくなり、神道においても信仰と呼べるような教義や教本も存在しないことから、信仰心が薄らいでしまったと考えられる。人間にとって不幸なのは、生きるべき道しるべを持たないことだ。これだという真理や法則、または思想や哲学を持っていないことである。これでは、人間のあるべき姿や目標を見出すことが出来なくなる。日本人の多くが、何故生きるのかという根本的な目的意識を見失ってしまったが故に、強烈な生きづらさを抱えてしまい、そこに新興宗教が入り込む隙を与えてしまったと言えないだろうか。

 特定の宗教を信仰して、信仰心を持つことが必要だと言いたい訳ではないが、少なくても高潔で正しい思想や哲学を持つことが、生きる目的を確立するには必要であろう。そうしないと、とんでもないまやかしの宗教に洗脳されて騙されてしまう。信仰というのは、何も特定の宗教に入会や入信をしないと持てない訳ではない。自らが信ずる神や仏を信奉し、その教えや指導に帰依して、正しく生きるということである。信仰がないと、人間は生きるべき道を見失いやすい。そうすると、オウム真理教や旧統一教会のようなとんでもない宗教に騙されてしまうのである。日本人は信仰心について、今一度深く考えてみる必要があると思われる。

国際ロマンス詐欺に騙されてしまう訳

 国際ロマンス詐欺が横行していて、想像している以上に多くの善良な人々が騙されているとのこと。目的はお金であり、巧妙な話術によって騙されて、多額の金品が騙されているとのことらしい。結婚詐欺というのは昔からあった。多くは日本人どうしのケースが多くて、言語障壁もあるので外国人による詐欺被害はあまり多くなかった。ところが、SNSが発達した現代においては、簡単に外国人と繋がれる気安さもあり、外国人による詐欺が増えているのである。しかも、ロマンスを装って金品を騙し取る手口が多いという。

 このように国際結婚を餌にして、金品を騙し取る詐欺を『国際ロマンス詐欺』と言うらしい。実際に、自分にもSNSで見知らぬ外国人女性からのアクセスが何度もある。若くて美しい女性の写真を掲載していることもあれば、50代から60代の女性の写真が載せているケースもある。外国に住んでいる妙齢の女性を装う場合もある。若くてハンサムな男性の写真を掲載して、裕福な女性をターゲットにすることも多いという。どうやら、別人の写真を掲載しているらしいが、すっかり当人の写真だと思い込んで親しくなるみたいである。

 実際に会ったこともないのに、言葉巧みに相手を騙して、恋愛関係に陥れてしまうという。そして、結婚する為にはどうしても必要だとお金を要求される。すっかり信用しているので、要求通りにお金を渡してしまうらしい。結婚を先延ばしにしては、何度もお金を要求されるままに振り込んでしまうという。それだけ巧妙な嘘だと言えるが、どうして容易く信用してしまうのであろうか。おかしいなと気付かないものだろうか。恋は盲目とよく言われるが、恋愛状態にあると舞い上がってしまい、正常な判断が出来なくなるのであろう。

 こういった国際ロマンス詐欺を含めた詐欺に騙されてしまう人というのは、どういうキャラクターの人なのであろうか。何も疑わずに相手を信用してしまうような、根っからの善人だと思うかもしれない。確かにそういう人もいない訳ではないが、こういった詐欺に騙される人というのは、実は疑い深い人なのである。そんな馬鹿なと思う人が多いかもしれないが、他人をあまり信用しないような人の方が、簡単に騙されるのである。いつも、客観的に冷静に判断している人ほど、詐欺に引っ掛かってしまうのである。

 いつも主観的に物事を見る人と、客観的に観察する人では、どちらが詐欺に騙されやすいかというと、圧倒的に客観的に分析をする人ほど詐欺に遭いやすいのである。しかも、客観的に物事を判断する傾向が強い人というのは、高学歴で聡明な人が多い。高い学歴で賢い人は騙されにくいと思われがちであるが、実際は詐欺に遭いやすいのである。実際に、自分では騙されないと思い込んでいる人ほど詐欺に遭っている。客観的に判断しがちな人は、相手の気持ちに共感しにくい。だからこそ、相手の嘘を見破れないのである。

 松下電器(パナソニック)の創始者で、一代で日本有数の巨大企業にした、経営の神様と呼ばれる松下幸之助氏は一度も人に騙されたことがないという。成功を納めた彼の元には、連日に渡り大勢の経営者たちが儲け話(ニュービジネス)を持ちかけたという。中には、詐欺まがいの話も多かったという。松下幸之助氏は、誰もが騙されてしまう巧妙な儲け話であったとしても、絶対にそんな話には乗らなかったという。何故ならば、人から話を聞くときはけっして批判的に聞かずに、真剣な気持ちで主観的に聞いたからだと言う。相手の気持ちになりきって、共感的態度で聞いた。そうすると、自ずと嘘だと分かったと言うのである。

 人は自分にとって得になる話や利益が出る話を聞くと、その話が真実かどうかを客観的に判断しがちである。批判的・否定的な固定観念に基づいて、深く分析する傾向にある。騙そうとする詐欺者は、その辺の機微を心得ていて、客観的合理性を主張するのである。それ故に、客観的合理性を追求する傾向が強い人ほど、見事に騙されるのである。主観的に、そして共感的に話を聞く人ほど、騙されないのである。何故なら、騙そうとする人の気持ちが良く解ってしまうからである。共感的に話を聞く松下幸之助氏は、騙そうとする人の気持ちを洞察できた。国際ロマンス詐欺に遭う人は、客観的合理性を持つ分析力の高い人だから騙されるのだ。

※国際ロマンス詐欺に限らず、結婚詐欺に遭ってしまうのは、基本的に寂しいからです。強烈な不安感や恐怖感、生きづらさを抱えていて、満たされない心をどうしていいか解らない日々を過ごしているので、その心の隙間に付け込まれてしまうのです。騙される人よりも騙す人が悪いのは当然ですが、騙されない心を確立することも必要です。その為には、「寂しさ」を解消しなければなりません。必要なのは『自己マスタリー』です。正しい価値観や哲学を持ち、自己の確立をすることが求められます。

偽善者だと言われても

 ボランティア活動や市民活動をしていると、どうせ売名行為だろうとか、自己満足でしかないとか、はたまた偽善者じゃないのと言われることが少なくない。または、自分でも自己満足や偽善行為ではないかと悩むこともあるに違いない。ボランティア活動に対して、そんなことをするのは、偽善者だと切り捨てられてしまうからである。ボランティア活動や社会貢献活動に真面目に取り組んでいる人ほど、自分の活動は偽善ではないかという考えが頭から離れないのである。ボランティア活動をしている人は偽善者なのであろうか。

 ボランティア活動というのは、人の為世の為に我が身を犠牲にしても働くことだと思われている。この人の為という漢字は、合わせると『偽』(いつわり)となる。本当の心は自己中心的で汚いのにも関わらず、自分と他人を偽り、善人を演じているだけだと主張する人は少なくない。特に、ボランティア活動なんて経験してなく、社会貢献活動に批判的な人ほど、偽善者だと思いたがる。だから社会貢献活動をしない自分は、自分に正直だけなのだと思いたがる。そして、自分はそんな偽善者にはなりたくないのだと主張する。

 ボランティア活動や社会貢献活動に対して、そんなのは偽善だろうと批判している人は、社会貢献活動を経験していないのである。実際に体験していないのにも関わらず、偽善者として批判するのはどうかと思う。自分でも社会貢献活動やボランティア活動をしてみてほしいものである。それも1回や2回ではなく、少なくても数年に渡ってボランティア活動してみてはどうか。そうすれば、偽善かどうかが判明するに違いない。ボランティア活動に一切かかわりもせず、外側から眺めていただけでは、偽善かどうかの判別なんてつく筈がない。

 厄介なのは、ボランティア活動に懸命に取り組んでいる人が、自分の活動が所詮は偽善なのではないか、自己満足に過ぎないのではないかと落ち込んでしまい、ボランティア活動を止めてしまう人のことである。実は、若い頃からボランティア活動に勤しんできた自分も、一度そんな気持ちになり、ボランティア活動が出来なくなった時がある。偽善者である自分が恥ずかしくて、そして自分自身が許せなくて、ボランティア活動に取り組めなくなった。そんな経験をするボランティア活動家が少なくないのである。

 自分が偽善者ではないかと思い悩んでいる人には、こんな話をしてあげることにしている。善と悪はどちらが良いか?と問うと、もちろん善だと答える。偽善と偽悪は、どちらが良いかと質問すると、迷う人がいるかもしれない。それでは偽善と悪は、どちらが良いかと尋ねると悪よりは偽善のほうがましだと答えることだろう。それが答である。気持ちは偽善であろうとなかろうと、善を実践することに違いはない。人の為世の為に何かしら貢献しているということは否定できない。そして、偽善を何度も積み重ねれば、いつかは限りなく善に近づくのである。

 偽善を数年に渡り、または数十年も続けて行けば、これは既に偽善ではなくなるに違いない。行動をせずに批判するよりも、例え偽善の心を持っていても、善の行動をするほうが遥に尊いと言える。『善』というのはそういうものではなかろうか。最初から見返りを一切求めないで、純粋な心でボランティア活動をするなんて出来そうもない。人間は、やはり認めてもらいたいし誉めてもらいたいのである。そんな不純な思いが少しでもあれば『偽善者』と軽蔑するというのは、あまりにも冷たい仕打ちじゃないかと思う。

 かの弘法大師空海は、中国に渡って『理趣経』というお経を初めて日本に持ち帰った。この理趣経では、本来仏教では否定される愛欲さえも肯定している。たとえ愛欲がモチベーションとなる偽善的な行為であっても、人々の幸福実現の為に貢献しようとするエネルギーになるならば、愛欲もまた否定されないという教えである。例えば魅力的な異性からボランティアに誘われて、親しくなれるかと思い込んでボランティアに取り組んだとする。数年間ボランティアを経験したら、ボランティアが好きになり、愛欲をすっかり忘れて、ボランティアに没頭するようになった。これも偽善から善に変わったケースと言える。偽善でも良いだろう。偽善をおおいに楽しもうではないか。

なぜ自殺をしてはいけないのか

 なぜ自殺をしてはならなのか?と子どもや孫に問われて、どのように答えるだろうか。または、自殺をしてはならない理由を児童生徒に聞かれて、先生たちはなんと答えるのか。適確にそして適切に、自殺してはならない理由を明確に答えられる人は、おそらくごく少数であるに違いない。殆どの人が答に窮すると思われる。どうして自殺をしてはならないのか、この答を明確に答えられる大人が少ないから、そして子どもたちに自殺をしてはならないことを教えてこなかったから、子どもたちの自殺が減らないのである。

 自殺者の総数は減少傾向にあるものの、子どもたちの自殺者数は減ってないどころか増え続けている。生きていく苦しさをもうこれ以上抱えられない、自ら死を選んだほうが楽なんだと思ってしまうのであろう。そんなにも悩み苦しんでいる子どもを、救ってあげられる大人がいないというのは、実に情けないことではないだろうか。自殺の原因は何なのかと調べていくと、学校でいじめられていたとか、成績不良で挫折していた、友人関係で悩んでいた、家族との関わり合いで問題を抱えていたとか、実に様々である。

 自殺の原因をそのように特定してしまうと、自殺を防ぐことは永遠に出来ないのではないかと思えて仕方ない。何故ならば、これらの自殺の原因を完全取り除くことが出来ないからである。そして、これらの問題を抱えている子どもは、もっと多い筈であり、実際に自殺をしてしまうかどうかは、別の要因によって大きく違ってくるのではないだろうか。そして、自殺をする本当の原因は他にあるのではないかと思われる。まず、自殺をする子どもたちは、自己肯定感を持っていなかったし、安全基地になってくれる存在がなかったのは確かだ。

 絶対的な自己肯定感を持てなかったのは、愛着に問題があったからだろうし、安全基地が存在しなかったというのは、愛着障害だったからであると思われる。もし、自殺してしまった子どもたちに絶対的な自己肯定感が育っていて、安全基地という存在があったなら、同じような境遇に追い込まれても、絶対に自殺はしなかった筈だ。絶対的な自己肯定感を育むように成長し、安全基地に守られていたなら、自分から死を選ぶことはなかっただろう。そして、人間はなぜ自殺をしてはならないのかを教えられていたら、どんな苦境も乗り越えただろう。

 なぜ自殺をしてはならないのか、この問いに大抵の人はこんなふうに答えることだろう。人は自分ひとりで生きてきたのではなく、多くの人に支えられて生きてきた。そして、その育てられた恩に報いずに死んではならない。また、自殺してしまうと自分を支えてきた人をおおいに悲しませてしまうと。多くの人を悲しませるようなことをしてはならないのだと諭す人は多い。または、こんなことを言うかもしれない。自殺とは自分で自分を殺すということで、殺人と同じなのだから、そんな罪を犯すようなことをしてはならないと説得する。

 こんな理由で自殺をしてはならないと、苦しんでいる子どもを説得しようとしても、おそらく自殺を思い止まらせることは難しいことであろう。何故なら、自殺をするような子どもは、親・家族との関係性、友達や先生たちとの関係性が希薄なのだからだ。良好な関係性がないから、一人で悩み苦しんで誰にもその苦しみを打ち明けられないのだ。当然、自分が死んでも悲しんでしまう人がいると実感できないのだ。または、自分を殺してはならないのだと倫理的に訴えても、聞き入れる訳がない。

 それでは、なぜ自殺をしてはならないのか、真の理由は何か。人間は自ら自己組織化をするひとつのシステムである。人体とはこのシステムによって全体最適を目指す。37兆2000億個の細胞のひとつひとつがそれぞれの関係性(ネットワーク化)によって、全体最適のために協力し合う。さらに、それぞれの多様性があるからこそ、自己進化をするのである。人間社会もまったく同じでひとつのシステムである。当然、多様性と関係性があってこそ、自己組織化するし自己進化をする。その多様性と関係性を自ら断ち切るような行為である自殺をすることは、社会を否定し破壊するエゴ行為なのである。だから、自殺をしてはならないのだ。

性善説と性悪説のどちらが正しいのか

 生まれつき人間は善であるという性善説は、中国の思想家孟子が提唱した。一方、生まれつき人間は悪であるという性悪説は、荀子が主張したとされる。どちらの説が正しいのだろうか。生まれつきの人間というものは、悪なのであろうかそれとも善なのであろうか。生まれつき人間には自己中心的な欲求があり、我が儘であり利己的で悪なのだと荀子は説いた。修養や学びにより徐々に善を獲得するという。逆に、生まれつきの人間は善であるのに、育てられ方や環境によって悪にもなると孟子は説いたと言われている。

 性善説と性悪説のどちらが正しいのであろうか。生まれつきの人間は善なのか、それとも悪なのか、どっちなのであろうか。どちらの考え方にも一理ありそうだ。欧米の考え方からすると、性悪説を取る人が多いような気がする。一方、日本を始めとした東洋では、性善説を取る人が多いかもしれない。性善説にしても性悪説にしても、その主張は観念論的なものだと言えよう。どちらにしても完全に肯定することも否定することも難しい。明確な科学的根拠に基づいて、どちらかが正しいのかを明らかにしてみたい。

 人間として観るのではなく、人体というひとつのシステムとして捉えて、自然科学と社会科学によって検証すると、どちらの説が正しいのか判明するに違いない。人体とはどういう組織で組成されているのかというと、60兆個に及ぶ細胞によって全体が形作られていると言われてきた。最先端の科学では、37兆2,000億個の細胞数だということが解明された。その細胞は、脳や臓器を組成しているし、筋肉や骨格を形成している。血管を形成し、その中を流れる血液なども細胞によって形作られているのである。

 人間の細胞というのは、脳神経からの指示・命令を受けて、必要な働きをするのではないかと見られていた。ところが、最新の科学で解明されたのは、驚くべき事実であった。どういうことかというと、それぞれの細胞は何からも命令されず、自発的に自主的に主体的に、連携して人体を守る為に懸命に働くのである。細胞自身の為にではなくて、全体の為に必死で働くのだ。テレビ東京で放映されていたアニメ『働く細胞』でも詳しくその様子が描かれていた。つまり、人間の細胞は、個別最適ではなくて全体最適を目指して活動しているのだ。

 人間の細胞は、人体というシステム全体の為に働いているということが判明したのである。システムダイナミックスの理論で言えば、構成要素である細胞がシステム全体(人体)を最適に保つ為に、自己組織化の働きをしているのである。細胞は、自分の命を犠牲にしても人体を守る。例えば、人体に有害なウィルスが侵入したとしよう。または、指先に傷が出来て細菌が侵入したとする。それらの有害な細菌やウィルスに、白血球は果敢にも攻撃してやっつけてくれる。そして、白血球細胞は闘い終えて命を落とすことも少なくない。

 自分の命を犠牲にしてでも、人体を守ってくれる細胞は正義の味方である。人体を構成する細胞は、善であると言える。自分の損得や利害を考えて個別最適の為に働くこと、自分の利益の為に他人を騙したり傷つけたり殺害したりすることを『悪』とするなら、その反対に位置する人間の細胞は『善』であろう。善である細胞で形成されている人体も善であるのは間違いない。当然、人間もまた生まれつき善であるのは当然である。人間は、元々生まれつき善であり、個別最適のために活動するのではなくて全体最適の為に働くのである。

 システムダイナミックスの理論からすると、人間が自己組織化の働きをする為には、人間どうしの良好な関係性が必要なのである。人間どうしの関係性が悪化してしまうと、自己組織化の働きをしない。細胞どうしの関係性(ネットワーク)が阻害されると、自己組織化しないのと同じことである。人間どうしの関係性(愛)が阻害されると、善の働きがなくなり悪の働きが強くなる。親子の愛が阻害されると子どもは『愛着障害』になり、夫婦の愛が阻害されると家族崩壊を迎えてしまう。細胞が自己組織化するのと同じで、人間は生まれつき自己組織化の働きをするのだから、性善説が正しい。それが悪になるかどうかは、人間どうしの関係性(愛)にかかっていると言えよう。

※生まれつき善である人体(人間)は、関係性(ネットワーク)=愛が良好に発揮されるなら、自己組織化が健全に働き心身の病気にもならないし人間関係が破綻することはない。ところが、親からの十分な無条件の愛が与えられず育てられると、良い親子関係や夫婦関係が形成することが叶わず、幸福な人生を歩めなくなる。子どもはメンタルを病んでしまい、不登校やひきこもりになることも少なくない。そうなってしまった子どもを幸福にするには、良好な親子の関係性(ネットワーク)=愛を取り戻すしかない。

目的と目標の使い方間違っていませんか

 目的と目標の使い方を間違っている人が少なくない。そもそも目的と目標はどういうものかということを、正確に認識していないのだから仕方ない。一番多いのは、目的と目標の意味を逆に覚えているケースである。目標というのは目的を達成する際のひとつの段階というのか、ランドマークである。目標とは具体化数値化するものであるが、目的は具体的なものではなくて、抽象的な概念である。目的を達成するためにある目標を定め、それが達成出来たら、さらに高い目標を再設定する。そして、目的に近づいていくのである。

 よく間違っているのが、最初から到達できないような高い目標を設定してしまうことだ。例えば、業界第一位になるというような目標である。または世界一になるというような目標である。絶対に実現できないような高い目標を立てるというのは、社員が一丸となって努力しやすいのではと思われる。しかし、それは勘違いである。それぞれの社員は勿論のこと幹部社員たちも、本心では達成を諦めているからである。そうなると、無意識下でどうせ努力しても無駄なんだと思っていて、努力するのを止めてしまうのである。

 目標を立てる時に大切なのは、ちょっと努力すれば達成できる目標にするということだ。そして、短期目標と中期目標、そして長期目標というような3段階の目標を定めることも肝要だ。その際に、短期目標が達成できたら、少し高い目標を再設定するというように、常に短期目標の見直しをするのも必要である。さらに大事なことがある。目標は、それぞれの個人、または部門に決めさせることだ。上司や部門長が目標を与えてはいけない。自分で設定せずに与えられた目標を達成しようと思わないのが人間の常なのだ。

 これは家庭や学校でも、よく犯してしまう過ちでもある。親や先生が子どもに対して、本人に確認もせずに、目標を与えてしまうというとんでもない誤りをするケースは、想像以上に多い。自分でよく考えて目標を自主的に決めたのであれば、その目標を何とか達成しようと努力する。しかし、他から与えられた目標には真剣に向き合えないのが人間である。それは、人間の自己組織性を無視したやり方であり、本人の主体性を阻害してしまうのだから、失敗してしまうのは当然である。目標設定は本人にやってもらうのが正しい。

 目標を設定するには、まずは正しい目的を持つことが必要不可欠である。そして、この正しい目的を設定するには、高い思想哲学が必要であり、崇高な価値観が根底に存在しなければならない。劣悪で低レベルの価値観に縛られている人間には、正しい目的は持てないのである。例えば、自分の損得や利害を大切にして、自己中心の考え方をしているような価値観を持つ人間には、正しい目的が持てない。関係性を重視して全体最適を目指して生きている、システム科学の哲学を理解している人間しか、目的は設定できないのである。

 現代社会において、正しい目的(経営理念)を施ってして社内一丸となって実践している企業は極めて少なくなってしまった。だから、経営危機に陥っている会社が増えたのである。正しい目的に沿って生活を営んでいる家庭も少なくなった。それ故に、親子関係や夫婦関係が破綻してしまい、家庭崩壊が起きているのである。不登校やひきこもり、虐待、DVなどの問題が顕在化しているのは、正しい目的を父親が持っていないからである。こうして、地域社会も含めて現代のあらゆるコミュニティは崩壊しつつあるのである。

 正しい目的を設定しなくても、生活はできるし経済活動も卒なく行えるから、目的なんて不要だと嘯く人々もいる。確かに、その通りで目的がなくても生きていける。しかし、よく考えてみると、それがどんなに無謀なことかということが解る。目的のない人生は、コンパスや地図のない航海のようなもので、遭難の危険が極めて高い。登山地図のない登山、ナビ無しで知らない土地を運転するようなものである。現代社会における諸問題は正しい目的を設定しないからだと言っても過言でない。崇高で正しい価値観に基づく、全体最適や全体幸福という正しい目的を設定したいものである。

子どもは哲学が大好き

 子どもなんて哲学とか思想の話に興味を持つ筈はないだろうと、殆どの大人が思っているに違いない。実際に試したこともないだろうから解らないのも当然だが、子どもに思想・哲学の話をすれば、目を輝かしてその話に聞き入る筈だ。そんな馬鹿なと思うであろうが、子どもは思想や哲学の話が大好きなのだ。思想・哲学の話に興味を持つ子どもなんてごく少数であって、殆どの子どもは哲学を嫌う筈だと大人は思うに違いない。確かに、今の大人たちは哲学や思想が嫌いだ。しかし、子どもは哲学の話を欲しているのだ。

 今から30年以上も前に、こんなことがあったのを覚えている。一家5人が車で一緒に出掛けた時のことである。その時にどんな話をしたのかは忘れてしまったが、こんな話だったろうと思う。人間は本来こういう生き方を志すべきであり、それこそ人間がこの世に生まれてきた意味である、というようなことを言ったと思う。子どもに対して、そんな難しいことを言っても興味を示さないだろうと、冷ややかな目をしていて呆れていたのは愚妻である。その時助手席に乗った小学生高学年の愚息が、驚くような反応をしたのだ。

 彼の様子を運転席から眺めたら、なんと涙をボロボロとこぼしていたのである。あまりにも泣いていたので、心配してどうしたのかと尋ねたら、今の話に感動したからだと答えたのである。10歳そこそこの子どもが、父親の話に感動して涙を流すほど感動するなんてありえないと、その時は思ったものである。しかし、20年くらい過ぎた時に、そういうこともあり得ると確信したのである。何故なら、他の子どもたちに哲学的な話をした時にも、真剣になって聴く姿を見たからである。子どもというのは、哲学が好きなんだと気付いた。

 日本人の大人たちは、哲学の話を聞くのも話すのも避けたがるというか、嫌っている。そして、子どもたちに哲学を語れる親がいない。親が哲学とか思想を嫌っているのだから、学ぶ機会もなかったと思われる。おそらくは、哲学・思想を自分自身の親から聞かされてなかったのではなかろうか。ましてや、学校教育においては、哲学・思想を文科省が敢えて排除してきたのだから、親がその大切さを知らないのは当然である。思想・哲学なんて生きる上で必要としないと思うのだから、子どもに大人が語らないのも仕方ない。

 子どもは何故哲学が好きなのかというと、それは子どもの魂というか深層無意識のレベルで思想・哲学を欲しているからである。人間そのものというのか人体というネットワークシステムが正常に働いて本来の機能を発揮する為には、哲学が必要不可欠なのである。車の運転に、操作システムと制御システムが必要なように、人間が健全に生きる為には人体ネットワークシステムを制御する『哲学』がなくてはならない。その哲学は何でも良い訳ではなく、正しくて崇高なる価値観によって裏付けされた哲学が求められるのである。

 詳細は省くが、明治維新政府は欧米から近代教育を取り入れ、学校教育から思想哲学を敢えて排除した。さらにGHQの指導もあって、戦後の学校教育から思想教育を徹底排除した。こうして日本においては、思想哲学が廃れてしまったのである。それでも、純真無垢であって、変な固定観念に縛られていない子どもは、哲学が好きだし求めているのである。しかし、残念ながら哲学を語れる大人がいないので、子どもは哲学を学ぶことなく大人になってしまうのである。現代の日本人が、本来生きるべき道を忘れ迷い、生きづらさを抱えているのも、哲学がないからだ。メンタルを病んで不登校やひきこもりになる所以もここにある。

 哲学というと、あくまでも観念論であって非科学的な学問だと認識する人が多い。非科学的であり、我々が経済生活を営む上で不要なものだと考える人が少なくない。しかし、哲学は非科学的ではない。最新の正しく崇高な価値観に基づいた哲学は、科学的にも正しいのである。特に、複雑性科学に基づくシステム思考の哲学は、科学的にも正しいことが世界一般に認められつつある。哲学は科学と統合されつつあり、科学哲学と呼ばれているのである。雑念に惑わされていない子どものうちに、科学哲学を学ばせたいものである。そもそも子どもは哲学が大好きなのだから。

嫌な人や苦手な人と出会ってしまう訳

 学校でもそして職場においても、何故か嫌いな人や苦手な人に出会うものである。不思議なことであるが、出会いたくないと思っているのに、どうしても関わってしまうのである。それも、学校では同じクラスや部活で一緒になるし、担任になってしまうケースも少なくない。職場においては、よりによって直属の上司になる例が多いのである。どうして、そんなに嫌いな人苦手な人と関わってしまうのであろうか。それは、無意識の意識というのか潜在意識が引き寄せているとしか思えないのである。

 潜在意識の話は後から述べるとして、まずは嫌な人だと感じるのはどうしてかということを、心理学的に考察してみよう。人間の心には、自我と自己がというものが存在する。自我というのは簡単に言うとエゴであり、欲望とか煩悩により支配されている心の部分である。一方、自己というのはエコとも言える、自我を乗り越えた崇高な価値観に基づいた美しい心の部分である。自我を乗り越えること、または自我と自己を統合することが、人間として生きる上での課題とも言える。自我を乗り越えてこそ、一人前の人間と言えよう。

 さて、自我をあまりにもさらけ出して生きると、人から嫌われたり遠ざけられたりして独りぼっちになってしまう。それ故に、殆どの人間は自我を隠して生きるのである。または、自分の心には自我がないことにして、立派な人間を演じて生きるのである。当然、隠している自我は時折言動の中に顔を出すことがある。多くの人間は、自分でも完全なる自己を確立している訳ではないので、関わる人々の心の中に自分と同じ恥ずかしくて嫌な自我を発見すると、自我をさらけ出している相手を嫌い苦手だと感じるのである。

 例えば、自分さえ良ければいいんだという自己中の人であり、我が儘し放題の言動を繰り返し、欲望をむき出しにしている人に出会ったとする。または、良い人を演じていながら、自分の思い通りに相手を支配してコントロールしたがる相手に出会ったとする。皆が見ている処では善人を演じているのに、誰も見ていない処では思いっきり悪人ぶりを発揮している人に出会ったとしよう。そうすると、殆どの人は嫌だな苦手だなと感じて、関わりたくないと感じる筈だ。同じような自我を自分は抱えているにも関わらず、隠して生きているから逃げたくなるのである。

 自我を超越出来ていない、または自我と自己を統合出来ていない故に、自我をさらけ出してしまう相手を許せないし受け容れられないのである。人間として不十分な成長段階に止まっている故に、自分の恥ずかしい自我を含めて、自分をまるごと愛せないのである。完全なる自己を確立して、絶対的な自己肯定感を持っていれば、相手の中に汚い自我を発見しても、嫌わずに慈悲の心で応じることが出来るのだ。嫌いな人や苦手な人に出会うというのは、自分自身が自我と自己を統合出来ていないから、そう感じるのである。

 そして、脳の奥底に存在する深層無意識が、自我をさらけ出すような人間に出会わせているのだ。つまり、自分自身が自己の確立を出来ていないから、自我を超越させる為に恥ずかしくて嫌な自我を見せてしまう人間と出会わせるように、自分の潜在意識が仕組んでいるのである。自分の心の中に恥ずかしい自我を仕舞い込んで、ないことにして演じている自分に、まだまだあなたの中には恥ずかしい自己があるじゃないかと悟らせる為に、潜在意識が嫌な人苦手な人と出会わせてくれているのである。

 出会った相手の中に、自分で隠している嫌な自我を発見しても、その自我を受け容れて心から許すことが出来たら、自己の確立や自我と自己の統合が出来るのである。そうすれば、自分の恥ずかしくて嫌な自我を愛せるし、生きづらさも解消できるのである。人間とは、相手の嫌な自我(=自分の嫌な自我)を受け容れるため許すために生まれてきたのである。言い換えると、寛容と受容の心を確立することこそが、人間の生きる目的でもあるのだ。自己の確立が実現できれば、嫌な人や苦手な人とは出会わなくなるし、例え出会ったとしても何とも思わなくなり平気で付き合えるのである。

怒りを自制しない人は我が身を滅ぼす

『憤りの心は燎原の火の如し』という格言がある。どういう意味かと言うと、怒りの心を持ち続けていると、火が燃え広がった原っぱにいる自分が焼き死ぬのと同じに、怒りの炎が自分自身をも焼き尽くすという意味である。燎原というのは、枯れた草の原っぱという意味であり、そこに一旦火が付くとすべてが燃え尽きるまで火を消せない。怒りの心というのは枯れた原っぱに火が付いたのと同じで、周りの人々だけでなく自分をも焼き尽くすという意味である。

 だから、憤り(怒り)はどんな理由があったとしても、持ってはならないし、怒りが起きたらすぐに消し去らなければならない。最近、アンガーマネジメントという言葉がもてはやされているが、まさしく怒りを収める心の働きが求められるのである。会社や組織の中には、ことあるごとに怒りを爆発させる上司がいる。感情的に怒りをぶちまけられる部下はたまったものではないが、怒りを爆発させている当人の心身もボロボロになってしまうことを認識している人は極めて少ない。怒りをぶつけ続けていると、やがて組織の中で信頼を失い孤独なってしまう。

 怒りをぶつけ続けていると心身共にボロボロになるというのは、次のような理由からである。怒りが高まってくると、アドレナリンとコルチゾールという副腎皮質ホルモンが放出される。このホルモンによって、一時的に一時的にストレスを解消させてくれる働きがもたされる。ところが、怒りを持ち続けていると、アドレナリンとコルチゾールは過剰に分泌される。そうなると、血圧や血糖値が上がり続けてしまうだけでなく高脂血症にもなり、生活習慣病になりやすくなる。また、脂肪を溜めやすく肥満にもなるし、心筋梗塞や脳梗塞になる危険性も高まる。

 身体の不調はそれだけでは終わらない。コルチゾールが分泌され続けると免疫力が下がるから、感染症を起こしやすい。コルチゾールは脳の偏桃体を刺激するから、偏桃体が肥大化する。偏桃体が肥大化すると、記憶力を発揮させる海馬が委縮する。怒りやすい人は、記憶障害を起こしやすいし、認知症になる危険性が高まる。また、コルチゾールは前頭前野脳まで委縮させかねないから、正常な判断能力まで阻害され、仕事でミスも増える。人の上に立つ者として致命的とも言える、朝令暮改を繰り返すことにもなる。こうなると周りからの信頼まで失う。

 徳川家康が「怒りは身を滅ぼす」と言ったのは、あまりにも有名な話である。徳川家康はアンガーマネジメントを上手に実施していたから、天下を取れて長生きしたのである。怒りを爆発させて生きている人は、織田信長のように恨みを買うし、長生きできないことが多い。毎日のように怒りを爆発させてしまっている人は、一刻も早くアンガーマネジメントをしないと大変なことになる。身を滅ぼしかねないからだ。身体と心がボロボロになってからでは遅い。とは言いながら、アンガーマネジメントをひとつのメンタルテクニックとして実施して、6秒ルールを真面目に実践しても、怒りを完全に消し去ることはできない。

 何故、アンガーマネジメントによって怒りを完全に消せないかというと、自分のメンタルや生きる価値感に偏りや拘りを抱えているから怒りが生まれるんだということを認識していないからである。自分の思想や哲学に問題があるから怒りをコントロールできないのだということを知らなければ、いくらアンガーマネジメントをしたとしても効果は上がらない。自分の間違った価値観を変革しなければ、怒りを昇華させることは難しいのだ。怒りを爆発させてしまうのは、部下たちが仕事を満足にできないとか、お粗末な仕事ぶりなのだから当然だと言えよう。とは言いながら、怒りに任せて部下たちを怒鳴りつけたとしても、部下たちは一向に成長しないであろう。

 部下たちを満足できるレベルまで成長させるには、上司としての人間哲学が必要なのである。ましてや、怒りを爆発させない為には、そもそも正しい価値観が必要なのである。その正しい価値観や哲学というのは、全体最適と関係性重視の価値観であり、自らの自己組織化とオートポイエーシスを生み出す哲学でもある。言い換えると、システム思考の哲学である。上に立つ者はシステム思考の哲学を持たないと、部下を成長させることは出来ないし、怒りを収めることは不可能だ。そして、自己マスタリーを実現することで怒りを昇華させることも可能になる。アンガーマネジメントは、システム思考の哲学と自己マスタリーの実現によってしか、成功しないのだということを認識すべきである。

縄文人の細胞記憶を目覚めさせよう

 最古の日本人である縄文人のルーツは、まだ完全には解明されていないらしい。しかし、最新のDNA分析によると驚くべきことが解ったのだという。縄文人は、中国や朝鮮半島を渡ってやってきたのではないかと見られていた。だから、縄文人の祖先は中国人や朝鮮人なのではないかと思われていたのである。ところが、DNA解析をしてみると中国人や朝鮮人の渡来人のDNAとは明らかに違っているのだというから驚きである。そして、現代人の身体にも縄文人のDNAが色濃く残っているというのである。

 科学の大きな進歩によって、縄文人の遺伝子解析が驚くようなレベルで解明されてきた。人間の祖先はアフリカ大陸から生まれたと言われている。それがユーラシア大陸を渡り、進化しながら日本に渡ってきたのではないかと見られている。そして、日本に縄文人が渡ってきた後から、中国大陸に別の人種が渡ってきて進化したという説が有力になってきたらしい。つまり、中国大陸から朝鮮半島を渡ってきて、稲作文明を広めた弥生人は、縄文人とはまったく違う人種だったのだろうと考えられている。

 縄文人のDNAが色濃く残っているのは、アイヌ人と沖縄の人々ではないかと見られている。そういえば、彫りが深くて独特の顔立ちは、お互いに共通している処が多いように見られる。縄文人のDNAが残っている割合が極めて低いのは、関西地方と四国に住んでいる人だという。青森や岩手などの東北地方の人々には、縄文人のDNAが多く残っていると言われている。縄文人のDNA割合が低い日本人と、縄文人のDNAの比率が高い日本人がいるということである。住んでいる地方によって比率が違うというのだ。

 あくまでも想像であるが、縄文人が大陸からやってきて最初に定住したのは沖縄と九州各地、そして本州の海岸に近い地域で住んだのではなかろうか。そして、弥生人が大陸からやってきて縄文人は追いやられて、流れ流れて東北地方を定住の地として選んだのではないかと思われる。縄文人の末裔のアイヌの人々は東北から北海道に移り住んだと想像する。一部は沖縄に永住して、縄文人のDNAが残ったのではなかろうか。弥生人から定住の場所を奪われた縄文人は北陸地方から東北地方に移り住んだのではなかろうか。

 せいぜい1000年前後しかなかった弥生時代と違い、縄文時代は一万三千年もの長期間に渡り平和な時代を築いた。どうして平和だということが解るかというと、縄文時代の人骨には武器によって傷ついた跡がないからだとされる。一方、弥生時代の人骨には明らかに戦った痕跡が多いのだと言う。また、縄文時代はお互いが支え合うコミュニティが確立されていたというから驚きだ。高福祉で全体最適の価値観を大事にした共同体が形作られていたことが歴史研究家によって明らかにされている。

 全体最適の価値観を持っていた縄文人と比して、個別最適を目指して自分の利益を最優先に暮らしていた弥生人は、身勝手で自己中な生き方をしたと思われる。そして、弥生人のDNAを多く持った人々の細胞記憶は、現代人にも引き継がれて、自分にとって損か得かという価値観を何よりも大切にして、人を騙したり蹴落としたりしても自己利益を求める。一方、縄文人のDNAを色濃く残した現代人の細胞記憶は、個別最適よりも全体最適を目指して、全体の幸福を願った生き方をするに違いない。どちらの細胞記憶も、普段は眠っていたとしても、人生の中で重大な危機に立たされた時に目覚めるだろう。

 縄文人の細胞記憶を目覚めさせることが出来た人間は、人間本来の生き方が出来るに違いない。何故なら、全体最適と関係性重視の価値観を持つ縄文人は、システム思考の生き方を実践していたからである。つまり、自らの自己組織化を目覚めさせ成長させて、主体性、自主性、自発性、責任性を発揮していたのである。人間の細胞は、本能的に自己組織化する働きを持つ。縄文人のDNAを多く持つ細胞が目覚めたなら、自らが自己組織化する生き方をするだろうし全体最適の哲学を実践するに違いない。故に現代人は、縄文人の細胞を目覚めさせることが求められる。