国益という言葉の危険性

米国のトランプ大統領、また米国に隷属している日本の首相も、よく「国益」を損なうという言葉を使いたがる。そして、野党も同じように国益に照らしてとかいう言葉を振り回す。マスメディアだってそうだ。国益を損なうようなことをすべきでないと、政治家や官僚を批判するような報道をする。国民誰もが国益を最優先にして物事を考える癖がついてしまったようだ。この国益という言葉に違和感を持つ人はいないのだろうかと不思議に思っていたら、やはりいた。あのカンヌ国際映画祭で最高賞を受賞した「万引き家族」を作った是枝監督がその人である。

是枝監督は国益という言葉をふりかざして、ナショナリズムをかきたてるような政治手法に、とても危うさを感じると述べられていた。全体主義を助長するような政治姿勢とは、一線を画したいと文科省の祝意を断った。国益にこだわる国は他にもあり、お隣の大国や朝鮮半島の国々も同じである。このグローバルな世界において、あまりにも国益にこだわれば貿易摩擦が起きるし、国際紛争に発展しかねない。ましてや、あまりにも国益を重要視したが故に植民地政策を取り、他国をさらに支配しようとして世界大戦を引き起こした経験を忘れたのであろうか。あんな悲惨な戦争をまた繰り返したいのだろうか。

他国の行き過ぎたナショナリズムに対抗するように、危機感を煽って内閣支持率を高めようする姑息な手段を取るというのは、実にいただけない。国益という言葉を巧妙に用いながら、政権与党しか国益を守れないと、プロパガンダする政治手法はまさに軍部が実権を握り始めた太平洋戦争の前の政治情勢とまったく同じだと思われる。とかく政権を握る者というのは、国民から批判をされ始めると、外に敵を作りたがる。外敵の脅威をおおげさに喧伝して、自国の政治に対する批判をかわしたがる。北朝鮮のミサイル脅威が政権与党への投票を後押した形になり、国政選挙を圧勝した例もある。

国益という言葉が駄目だとは言っていない。ただ、国益という旗の元に、エゴイズムやナショナリズムを必要以上に煽り立てるのはいただけない。国益とは、国の利益である。国の利益というと非常に勘違いしやすいが、本来は国民の利益ということであろう。国の政治体制や権力者の権益を守るために国益という言葉が独り歩きしているように思えて仕方ないのは、私だけではあるまい。国民全体の利益を考えるべきであり、その利益というのも経済的利益だけではない筈である。平和とか平等というようなものとか、お互いに支えあう豊かな関係性を持つコミュニティの維持も、立派な国益であろう。

国益を前面に出してしまうと、他国の善良なる国民の幸福を奪ってしまうケースがある。必要以上に安い金額で農産物を輸入する先進国の商社が存在する。カカオ豆やバナナなどを、生産者の足元を見て販売価格を不当に値引きする先進国の商社は後を絶たない。その農産物に多額の利益を上乗せして自国で販売する。そういう不当な取引を止めようと、フェアートレードを実施しているNGOも多い。国益をあまりにも優先すると、発展途上国の貧困を後押ししてしまうことになる。国際紛争や内戦に武器をさらに売り込もうとして、必要以上に裏工作により刺激させて戦いを長引かせる武器商人がいる。これも自国の利益だけを優先した結果である。

このように国益という言葉が、世界的な平和や豊かさをどれだけ侵害しているかということを、我々は忘れてならない。自国だけ自分だけが平和で豊かであればいいという、エゴのかたまりのような考え方を持つのは危険である。そして、人間として情けないことである。日本人の偉大な先人たちは、他国の国民に対しても多大なる貢献をしてきた。リトアニアで6000人のユダヤ人にビザを発給した杉原千畝、黄熱病研究の野口英世、武士道を著した新渡戸稲造などは、他国民からも尊敬を集めている。日本人というのは、自国だけの利益に固執しないからこそ、国際的にも尊敬されてきたのである。

これだけグローバルになった社会なのであるから、国益にこだわり過ぎることが国際的に様々な問題を起こすことは想像できる。もっと広い視野と見識を持ち、世界全体の平和と幸福を実現するために、我々国民が努力したいものである。そして、安易に国益という言葉を使わないようにしたいものである。さらには、マスメディアに働く人は、国際人として国益という言葉に違和感を感じて欲しい。少なくても、国会など公の場において国益という言葉を利用して、ナショナリズムを煽るようなことをさせてはならない。

 

発達障害者を雇用する意味(グッドドクター)

グッドドクターというTVドラマが先週の木曜日から開始した。第一回目を見逃したのでFODの無料配信で本日鑑賞した。このTVドラマは、数年前に韓国で放映されて高視聴率を取ったドラマを、フジTVがリメイクしたらしい。自閉症スペクトラムでサヴァン症候群の若い医師が主人公である。小児外科医というと、高度な手術と診断技術が要求されるエリートドクターである。発達障害のドクターが主人公のTVドラマが観れるなんて、なんと有難い時代に生まれたものである。すごく楽しみにしている。

日本でも、発達障害の医師は実際に存在する。他の職員とのコミュニケーションに多少問題はあるものの、患者さんとの微妙な対話が不要な部署で働くことは可能であろう。どういう職場かというと、ER(救急救命室)の医師や麻酔科医である。目の前の緊急事態だけに特化するような業務なら、得意分野である。十分に職責を果たすだけでなく、優秀な技能を発揮する。また、発達障害の看護師も存在する。手術室など患者さんとの微妙な会話が必要ない職場では、いかんなくその技量を発揮できる。米国では、発達障害の医師や看護師がかなりの割合でERや手術室で働いていると言われている。

このグッドドクターというTVドラマで描かれている内容は、実際にあり得る話なのである。これからの時代は、発達障害の方々がいろんな職場で活躍できるということを示してくれていて、好感が持てるドラマである。周りの人々の理解が得られるのであれば、発達障害があっても、業務の遂行が可能である職場は数多くあるに違いない。このグッドドクターでは、こんなシーンがあった。この自閉症スペクトラムのレジデント(後期研修医)を受け入れる病院長が、「この医師が病院で働くことにより、他の職員が多くのことを気付き学び、そして大きく成長することができる。病院が大きく変わる」と訴えるのである。

実にいい話である。障害者の雇用に消極的な企業が多い。雇用保険の保険料率を低減するために渋々障害者を雇用する大企業は多い。こういうケースでは、軽い身体障害の方々を選んで雇用する傾向があり、知的障害や精神障害を避けることが多い。日本の障害者雇用が遅々として進まないのは、企業における採用者側の不理解があるからである。最初から無理だろうとの思い込みがあるからだ。確かに、知的障害や精神障害の方々を雇用するには、受け入れる側の困難さが予想される。だとしても、障害者と共に働くことで、他の職員が学ぶことは多い。人間的に大きな成長が望めるのである。

私自身も現役で働いていた時に、知的障害や精神障害、さらには発達障害の方々を積極的に雇用していた。さらには、明らかにパーソナリティ障害だろうなと思われる方々も排除せずに採用した。そういう方も働ける職場があり、適材適所で配置した。周りの職員にも事情と特性を説明して、協力を求めた。上手く定着したケースもあったが、すぐに辞めてしまうことも少なくなかった。自分自身が毎日傍に居れば定着したであろうが、業務委託で派遣する社員なので、常にフォローするのが出来なかったからである。

障害者の方が定着した職場では、他の職員が人間的に大きく成長してくれた。知的障害の若者を優しく指導したり支援したりするうちに、その指導をした職員が驚くような自己成長を遂げたのである。知的障害の方が持つ純粋性や誠実さに触れることで、自分の穢れた部分や仮面を被らせた自己(ペルソナ)に気付いたみたいである。このように障害者雇用のマイナス面だけでなく、他の職員に及ぼす効果についても考慮したいものである。勿論、障害者自身も働きがいを持てたし、大きく成長できたことも付け加えておきたい。

グッドドクターというTVドラマが、これからどんな展開を見せるか楽しみである。発達障害でありながらも、サヴァン症候群なので驚異的な能力を発揮して、徐々に他の職員から絶大な信頼を得て行く様子が描かれるであろう。または、コミュニケーションが上手く行かなくて苦労する場面もあるに違いない。そういうことも、他の職員にとっては貴重な学びとなることも描いてくれると予想する。このTVドラマを観て、障害者雇用に対する消極性が払拭されることを期待したい。障害者と共に働くことで、人間の多様性を実感でき、障害者もそれ以外の職員も大きく自己成長できたら嬉しい限りである。日本でも、発達障害があっても普通に働ける社会になってほしいものである。

優秀なセラピストが陥る誤謬

世の中には、この人はすごいなという人物がいるものだ。頭が切れて優秀で、様々な知識や技能があり、経験豊富で実績のある人に出会うことがある。そういう人と出会うと、圧倒されてしまい、それでなくても小さい自分が益々委縮してしまうような気がする。そういう人は、人々からの評価もあり社会的な地位も高い。いわゆる社会の成功者である。そういう人物は各界で活躍しているが、精神医学界にも数少ないが存在する。セラピストとして成功していて、多くのクライアントから頼りにされている人物がいる。

そういう優秀なセラピストは、さぞや多くの精神疾患の方々を完治させている実績を持つのかというと、意外とそうではないことに驚く。優秀なカウンセリング技術と知識を持ち、経験も豊富なのだから実績もあるだろうと思われるが、セラピストから完全に離脱し自立しているクライアントが少ないのである。多くのクライアントを持っていて、カウンセリングのスケジュールは空きがないくらいに忙しい。そしてクライアントからも絶大な信頼を受けていて、セラピストのカウンセリングを受けるのを何よりも望んでいる。それなのに、精神疾患は完治しないのはどういう訳であろうか。

優秀なカウンセラーやセラピストというのは、医師よりも診断が確かであるし、様々な心理療法にも精通していて、クライアントの心理を読むことが上手である。治療方針と治療計画も適切に設定することができる。勿論、クライアントにも診断とその根拠、そして治療方針と治療計画を告げる。したがって、自信たっぷりにセラピーを進めて行く。クライアントは、このセラピストに任せていれば大丈夫だという安心感を持つから、症状も軽くなっていく。しかし、いくら良くなって行っても、時々重い症状が再発するし、完全に良くなってセラピーを受けなくてもよくなるという状況にはならないのである。

このような優秀なセラピストなのだから、クライアントからの依存という症状が起きるということは承知しているのが当然である。したがって、セラピストやカウンセラーというのは、依存を避けるように細心の注意を払うものである。それなのに、ある意味の依存が起きてしまっていて、クライアントがセラピストに頼り切っていて、自立できなくなってしまうことが多い。それが、優秀なセラピストであればあるほど起きるのである。何故かというと、優秀なセラピストだからこそ、クライアントとその家族に介入しやすいからである。

優秀なセラピストは、精神疾患を起こしてしまった原因を探り当てることに長けている。そしてその原因をつぶして行く方法も承知している。当然、当事者とその家族にその事実を告げて、改善方法についても詳しく解説する。そして、当事者に対して様々なセラピーを実施していくし、家族療法も並行して行っていく。最新の心理療法にも精通していて、適切で効果的なセラピーやカウンセリングを随時行っていく。そして、これらの選択はけっして間違っていないし、適切である。それなのに、不思議なことに完治しないのである。

優秀なセラピストほど、クライアントに対して適切で効果的な指示や指導をしてしまうものである。これを専門用語で介入と呼ぶことにする。つまり解決策を、優秀なセラピストはクライアントに与えてしまうのである。するとどうなるかというと、クライアントは自分の進むべき道を自分で考えることなく、与えられた道を歩むだけになる。メンタルを病んだ原因だって、セラピストから指摘されるのだから、自分で深く洞察したり考えたりすることを放棄してしまう。人間はあまりにも介入されてしまうと、主体性や自発性を失うだけでなく、責任性も失い、完全に依存してしまう傾向になる。

優秀過ぎるセラピストが陥る誤謬は、行き過ぎた介入である。その介入による依存が、クライアントの完治を奪ってしまうのである。優秀過ぎるセラピストほど饒舌である。クライアントの悲しみ、苦しみ、憤りなどの感情を言い当てる。そして、その感情をついつい言葉に出してしまい、クライアントの同意を求めてしまう。クライアントが自分の言葉で紡ぎ出す前に、言い当ててしまうのである。これは時間短縮になってよいかと思うと、けっしてそうではない。本来は、自分の感情を自分の言葉で言い出すまで、セラピストはじっと待たなければならない。優秀過ぎるセラピストは、これが不得意なのである。つまり、本来はダイアローグ(対話)にならなければならないのに、モノローグ(独語)になっているのである。優秀過ぎるセラピストに、依存しないように留意したいものである。

 

水害被害はある意味で人災である

今回の30年7月の西日本における水害は、多くの地域の方々の人命を奪い、大きな被害をもたらした。亡くなられた方のご冥福を祈ると共に被災された方々にお見舞いを申し上げたい。このような水害が起きる度に思うのであるが、どうしてこんなにも水害が多発するようになったのだろうという漠然とした不思議感である。確かに日本においては過去の歴史でも、幾度となく水害に見舞われた。その度に防災意識の高まりがあり、2度と災害が起きないようにと、避難勧告や指示の徹底及び基準の見直しが行われてきた。しかし、またもやこんな未曽有の被害が起きてしまったのだ。過去の失敗をいつまで繰り返すのであろうか。

このような水害が起きると、こんなにも短期間に豪雨が降るのは、地球温暖化の影響だと言われる。確かに、地球温暖化による影響は大きいであろう。だとしても、これだけ天気予報が正確になり、水害の予測も正確になされているし、治山治水の防災工事も実施されているにも関わらず、これだけの被害を出してしまうというのは、政治の無策ぶりを露呈していると言わざるを得ない。堤防工事や河川改修も進んでいるのに、どうしてあっけなく河川の氾濫が起きるのであろうか。何か、根本的な誤謬があるのではないかと考えるのである。

古来より治山治水を行うのは、時の権力者の責務であった。政治を行うものとして、治山治水の防災対策をしっかりと実施して、人々の安全と財産を守るのは当然のことである。それを怠れば、大変な被害を生み出すし権力者の無力ぶりを世間に示し、権力交代さえ起きてしまうのである。日本という国土は、山が多く川があり、水が豊富なのである。当然、水害は過去にも存在した。それらの水害が起きる度に、二度と起きないようにと対策が講じられてきた。その対策が不十分なのは何故であろうか。

防災対策というのは、その多くが対症療法でしかないように感じる。水害が起きるそもそもの原因を無くす努力をすることなく、付け焼刃のような防災対策で凌いでしまっているように感じて仕方ないのである。川幅を広げたり堤防を強固にしたり工事を進めているし、砂防ダムを設けて土石流を弱めている工事をしている。土砂崩れを防ぐ工事も進めている。しかし、根本的な原因を無くすことはどうなっているのであろうか。どうして、こんなにも過激な豪雨が降るのか、その豪雨がすぐに川の増水につながるのか、さらに土砂が何故こんなにも崩れてしまうのかという根本原因を解決していない。

地球温暖化を防ぐために、炭酸ガスを減少させる努力も必要である。それ以外に、豪雨を防ぐのに役立つのは、緑を増やすことである。それも針葉樹でなくて広葉樹が光合成を活発に行い、二酸化炭素を少なくする。広葉樹がふんだんに茂っている山は、天然のダムになり保水能力が高い。そして豪雨が続くと針葉樹の森は保水が出来なくて、川がすぐに増水するばかりでなく、山崩れを起こしやすい。広葉樹の豊富な森を増やすことで、水害を減らすことになる。土石流の被害も減らすことが可能になるし、土砂が流れにくくなるので川の流れがスムーズになり、溢れにくくなるのである。

広葉樹の森が少なくなっている。日本の森林政策は、杉、檜などの針葉樹を植林する為に、広葉樹を伐採し続けるものだった。大量のパルプを得るために広葉樹を伐採し尽くした。また、スキー場やゴルフ場の造成、無理な宅地造成、不要なスーパー林道や広域農道の造成のために広葉樹を伐採した。このように人工的な造作物を山の斜面を切り崩して作り過ぎたことが、水害と土石流を発生させたとも言える。このような自然の摂理を無視した造成工事が二重の意味で水害被害を起こしたと思われるのである。

縄文時代、豊かな水とそれに伴う自然の恵みを得るために広葉樹を植樹した。勿論、その植林で水害を防ぐことも知っていたと言われている。自分たちの為だけでなく、100年後や500年後の自分たちの子孫が豊かで安全な生活を出来るようにと、豊かな広葉樹の森を作るためにせっせと植林したのである。我々も、縄文人にならって200年後や300年後の子孫たちが、こんな酷い水害に遭わないように、広葉樹の森を作ろうではないか。そして、自然の摂理に反するような無理な造成工事をしないことも心がけたいものである。水害はある意味人災であることを肝に銘じて、LOHASな生き方を志したい。

佐藤初女さんとオープンダイアローグ

2016年の2月に佐藤初女さんは、永遠の眠りにつかれてしまわれた。まだまだ彼女を必要としていた人は多かった筈だ。惜しい人をなくしてしまった。彼女をリスペクトして、イスキアの郷しらかわを立ち上げのであるが、まだまだこの施設が世間には知られていないし、いろんな面で佐藤初女さんには遠く及ばない。最近、オープンダイアローグという精神療法を学んでいるが、研究すればするほど佐藤初女さんの対話手法におそろしく似ていることが判明したのである。心が折れて森のイスキアを訪れた方々に佐藤初女さんが応対していた方法は、まさしくオープンダイアローグだったことに気付いて驚いている。

佐藤初女さんの「森のイスキア」は、1992年に弘前市の郊外に施設を移転した。元は弘前市内の自宅に「弘前イスキア」を設立したのだが、訪れる人も増えて手狭になったこともあり、岩木山が見える自然豊かな地に「森のイスキア」として移転した。心が傷つき、心が折れて、もう生きて行く気力も失ってしまわれた方、または身体疾患によるあまりの苦しみに、死んだほうがましだと思うような方々をお迎えして、心身ともに癒してさしあげていた。その手法は、特別な心理療法や精神療法を駆使していた訳でもない。様々な助言や指導をしたのでもない。ただ、黙って話を聴いていただけだという。

佐藤初女さんは、徹底して傾聴と共感を実践したのである。そして、温かくて真心がこもった食事でもてなしたのである。特に、佐藤初女さんのおむすびは食べた人を感動させて心を癒した。特筆すべきは、佐藤初女さんの優しい眼差しと思いやりの対話であろう。彼女は、心が折れてしまって話すことさえままならない状況でも、本人が話し出すまで黙って待っていたという。最初は、なかなか言葉を紡ぎ出すことが出来なかったのに、佐藤初女さんの温かい応対に徐々に心を開いて、少しずつ話し出すという。そして、彼女は助言する訳でもなく何らの介入もすることなく、ただ黙って聞いていただけである。

何等の指示や指導などもしなかったであろうが、佐藤初女さん自分自身の生い立ちや生きてきた経過などは話したと思われる。それはお互いの信頼を得ることにつながる自己開示でもあったと想像する。彼女の半生は、それこそ苦難困難のイバラの道を歩むようなものだった。女学生の時に、肺結核に罹患した。それから17年間もの間、喀血しながら病気に苦しんだ。その当時は難治性の病気で死を覚悟しなければならなかったであろう。ある時、この病気は薬や注射では治らないと悟り、食事で治すんだと、命をいただく食事を心がける。そして、見事に完治する。その実体験を話すことで、訪れた方々に食の大切を示したと思われる。

佐藤初女さんの傾聴と共感力は、それこそ半端ない。相手の話をけっして否定することなく、ただ黙ってうんうんと頷きながら聴くだけである。それも、相手の気持ちに成りきって、自分のことのように悲しみ苦しみ、時には涙を流す。こんなにも自分のことを理解してくれた人が今までいなかったから、一度で佐藤初女さんの虜になってしまう。さらに佐藤初女さんは、クライアントよりもけっして優位に立つことはなく、常に対等の立場であった。そして、クライアントに寄り添うという立場を守ったのである。

通常、医師やセラピストは患者よりも優位に立つ。そして、何らかの指示や指導をする。患者は、自分がセラピストから見下されているとは感じながらも、治療してくれるからその立場を容認してしまう。しかし、自分の気持ちを分かってくれない苛立ちを持つし、親身になってくれない治療者を信頼しないから、自ら変革することを止めてしまう。オープンダイアローグのセラピストは、佐藤初女さんと同じようにクライアントとその家族を見下すことなく、否定せず、介入せず、ただ傾聴と共感をするだけである。時折、質問をするものの、それも制御しようしての質問ではなく、クライアントの気持ちや本音を引き出すだけのためにする。

人間及び家族というひとつのシステムは、自己組織化する。しかも、オートポイエーシス(自己産出)という特性を持つ。つまり、自分の肉体や精神のネットワークを自ら図るし、家族という共同体は関係性をおのずと深めるのである。そして、自らがその問題解決を図ろうとするし、自らが全体最適のために変革し進化するのである。これが第三世代のシステム論である。オープンダイアローグはこの第三世代のシステム論に準拠している。だから、クライアントにもその家族にもインプットしないし、アウトプットも求めない。自らの自己組織化とオートポイエーシスを信頼して、任せるのである。だから、クライアントが自ら気付き変革するのである。まさに何も介入せず、何も求めない佐藤初女さんの態度と姿勢と同じだ。それ故に、佐藤初女さんは多くの悩める人々を救うことが出来たのである。

※イスキアの郷しらかわは、佐藤初女さんと同じようなおもてなしを心がけています。クライアントとオープンダイアローグという開かれた対話をしています。科学的に根拠のある対応をさせてもらっています。是非、問い合わせフォームからご質問ください。

べてるの家とオープンダイアローグ

べてるの家という精神障害者の自立支援施設がある。北海道の浦河町という片田舎にあるこの施設には、世界中の精神保健に携わる多くの人たちが見学にやってくる。先進的な精神障害者の支援をしているからである。支援というと健常者が障害者をサポートしているように思われるが、このべてるの家はまったく違う。障害を持つ当事者どうしが支援しあうのである。さらに障害を持つ人々は、障害を克服することを目標としない。そんな馬鹿なと思うかもしれないが、彼らはあるがままの自分を認め受け入れ、そしてその障害さえも楽しんでいるという。そういう意味では、オープンダイアローグを実践している施設だと言える。

べてるの家では、毎年べてるまつりというイベントを開催している。その中で、幻覚妄想大会が行われ、当事者たちが自分の幻覚妄想を発表しあっている。自分たちが持っている障害を恥じることなく隠すことなく、当たり前のようにカミングアウトしている。障害があることを特別視していない。そして特筆すべきなのは、べてるの家においては三度の飯よりミーティングが好きだということである。毎日のように当事者どうしが集まってミーティングをしている。そしてそのミーティングでは、オープンダイアローグのように参加者すべてが、心を開いた対話を実践しているというのである。

オープンダイアローグでは、セラピストがクライアントに対して、否定しない、介入しない、指示しないことを徹底している。そして、診断しないし、治療の見通しも述べないし、治療方針も明らかにしない。あくまでも、クライアントの症状だけに注目して、その話に傾聴して辛さや悲しさに共感するだけである。べてるの家でのミーティングでも同じように、傾聴と共感を基本としている。そして、参加どうしが、けっして否定しないし指示しないし介入しないのである。そして、自分の症状をありのまま話して、それを認め受け入れてもらうことで、不思議と症状が緩和される。べてるの家の利用者の薬物摂取量は、極めて少ないという。

べてるの家は、そもそも赤十字浦河病院という精神科病院から退院した患者の受け皿として設置された支援施設である。べてるの家での支援によって、再入院する患者がいなくなり、入院施設が不要となり閉鎖されたのである。オープンダイアローグを実践し続けたケロプダス病院があるフィンランドの西ラップランド地方では、統合失調症を新規に発症する人がいなくなったことと、非常に似通っている。適切な医療と支援があると、地域全体が変革するのである。オープンダイアローグとべてるの家の支援は、実に効果的なコミュニティケアだと言えよう。

日本の精神科医療は薬物投与に依存している。フィンランド発祥のオープンダイアローグ療法では、原則として薬物療法をしない。ごく稀に、精神安定剤を投与することもあるが向精神薬は処方しない。統合失調症でさえも薬物療法をしないのである。日本では、統合失調症ならば、100%向精神薬を処方する。そして、日本の精神科医療において、減薬・断薬に取り組む医師は殆どいない。一度向精神薬を投与された患者は、本人が通院を止めない限り、ずっと投薬が続けられる。べてるの家の利用者は、ごく普通に減薬・断薬をしているという。それも、利用者自らがそれを決断して、医師と相談して進めているというから驚きである。

べてるの家とオープンダイアローグの類似点がもうひとつある。それは、この療法や支援が行われている地域が大都会のような都市部でなくて、どちらかというと片田舎と呼べる地方で発祥し進化しているという点である。実は、これが重要な点ではないかと思っている。べてるの家やオープンダイアローグのような療法や支援というのは、大都会のようにコミュニティがまったく機能していない場所では、実践が難しいと思われるからである。大都会のように、コミュニティが崩壊していて、人々の関係性が希薄になっていて、お互いを支えあう関係がまったくないような地域では、成功しなかったのではないかとみられる。

実際に、べてるの家のような活動は、都市部においてはまったく取り上げられていないし、広がりを見せていない。オープンダイアローグも同様である。ということは、日本でもしオープンダイアローグが定着するとすれば、都市部ではなくて、コミュニティの機能がまだ存続している、東北地方の片田舎ではないだろうか。地域の方々の温かい協力や支援が必要だと考えるからである。是非、イスキアの郷しらかわ周辺でこのオープンダイアローグ療法を広めて行きたいと密かに思っている。共感してくれて、協働を申し出てくれる精神科の先生が手をあげてくれるのを期待している。

 

何のために働くのか

「あなたは何のために働くのですか」と問われて、10人中9人は生活のために働くと答えることであろう。当然である。昔から働くもの食うべからずと言って、有り余る財産がなければ、人は生活をするために働くのが普通である。10人中1人ぐらいは生きがいのためとか、健康のためとか、またはいろんな人と交流を深め見識を広めたいという人もいるかもしれない。とは言いながら、やはり収入が目当てである部分も必ずあるだろう。収入が不要というなら、収入のないNPOやボランティアで活動するに違いない。

以前、人が働く目的は収入だけのためだけではない。人間として自己成長したり自己実現を目指して働いたりするという意味もあるのではと問題提起をしたら、きれいごとを言うんじゃないとお叱りのコメントをいただいたことがある。確かに、そんなことを言っていたら出世競争に乗り遅れてしまうとか、いつまで経っても給与収入が増えないで貧しい生活になるかもしれない。ましてや、現代のように非正規雇用の低賃金で、不安定な立場でぎりぎりの生活を強いられてしまっている若者にとっては、そんな余裕なんてないと怒られるかもしれない。

ひと時代昔のように、ほとんどの労働者が正規労働者であり、生涯雇用制度に守られて働いていれば、生活のためだけでなく自己実現を目指すという余裕があったのかもしれない。ましてや、あの時代は高度成長時代、企業も毎年のように最高利益を更新して、毎年ベースアップをしていたのだから労働者も安心して働けた。そんな恵まれた時代だから、収入は確保されるのが当然だから、生活のために働くという意識はなくても良かったとも言える。ところが現代は、明日の労働と収入さえ不安なのだから、生活のために働かざるを得ないというのも仕方ないであろう。

それでもあえて言いたいのであるが、働く意味というのはもっと他にもあるような気がしてならない。働く意味や生きる意味というのは、これしかないなどと乱暴なことを言うつもりはない。人それぞれに労働観を持っているだろうし、人生観だっていろいろであると思う。しかしながら、生活のためだけに働くとか自分のためだけに生きるというのでは、少し情けないような気がするのである。人間がそもそも何のために生まれてきたのかということを深く洞察すれば、見えてくる真理というものもあるだろう。そういうこともせずに、目の前の生活のことだけに意識がとらわれるというのは、可哀そうな気がする。

この世の中では、働きづらくて生きづらいと思っている人が多いに違いない。何故かというと、行き過ぎた競争意識があるうえに、細かくて厳しい人事評価制度に縛られているという影響がある。また、あまりにも労働環境が厳しくて、上司から成果を上げろと叱咤されている。さらには、いくら頑張っても報われないという諦め感も強く感じる。なにしろ、日本人の従業員満足度は極めて低いし、多くの人が働きがいを感じられないというのである。毎日、神経をすり減らし、我が身体をむち打ち、やっと通勤している有様なのである。

さて、日本人の従業員満足度が低いというが、それはどうしであろうか。多くの人が誤解していることなのだが、従業員満足度というと待遇や労働環境のこと、そして仕事に対するモチベーションだと思っている人が多い。確かに、それも一部である。それよりも、従業員満足度の大切な部分は、実は顧客の満足に対する貢献度と職場と仲間にどれだけ貢献できたかである。この貢献意識とそれに対する感謝が大きいときに、従業員員満足度がとてつもなく高まるし、さらにはこういう意識で働いて自分が人間として成長できたなと実感した時に従業員満足を感じるのである。もっと言えば、職場に貢献する優秀な人材を育てられた時も大きな満足感を得られるのである。

ということは、日本人の労働者の多くがこういった、他者に対する貢献をしていないということになる。職場に愛着や信頼を感じるか?という質問をすると、日本人のたった7%しか感じないというのだから、当然であろう。先進国の中では、最低の数字である。非正規労働者を増やして労働コストを下げるという国の制度設計も悪いし、従業員満足度を高める努力をしてこなかった使用者側にも責任があろう。だとしても、労働者自身にもまったく責任がないとは言い切れないような気がする。もう一度、何のために働くのかということを深く考え直し、そして働きがいや従業員満足度が高い職場を選ぶという意識を持ってみてはどうだろうか。単に報酬が多くて休みが多い職場だけを選択するのではなくて、愛着や信頼を得られるような職場で、しかも自分を人間として大きく成長させてくれるというような基準で選んでみるのもよいのではなかろうか。

 

※イスキアの郷しらかわでは、社員満足度を高めるための教育研修を実施しています。モチベーションを上げて充実した働き方をするにはどうしたらよいかの研修をしています。問い合わせフォームから、ご質問にお答えします。

オープンダイアローグはコミュニティケア

オープンダイアローグ(OD)が精神疾患や精神障害だけでなく、様々な社会問題の解決に対しても有効だと言える。例えば、組織における関係性の欠如から、組織の不健全化や崩壊が起きるケースがある。その際に、ODの手法を活用した日常のミーティングを徹底して行うことで、見事に関係性が復活することになる。行き過ぎた業績評価で社内競争が激烈になって、社員どうしが劣悪な関係になることはしばしば起きる。そういう時に、ODの手法でミーティングや会議をすると、社員どうしの協力関係ばかりでなく信頼関係が構築され、会社全体の業績が驚くほど回復することになる。

サッカーの日本代表がハリルホジッチの時は、選手間の連携がうまく機能せず、バラバラであった。西野監督がOD的手法で対話を重視してミーティングを活用したら、見事にチームが一丸となり、あの活躍となったのである。また、家族関係がぎくしゃくしてバラバラになることはよくあることである。この際に、ODの手法を活用して家族全体のミーティングを行うと見事に家族の関係性がよくなる。勿論、夫婦関係においてもOD的会話を心がけるだけで、見違えるように夫婦関係が改善する。会話が少なくて、親子関係が希薄化しているケースでもODが有効だ。ひきこもりや家庭内暴力が起きている家庭でも、ODで改善すると思われる。

何故ODによって社会問題が解決するのかというと、その問題がコミュニティの構成要素そのものにはなくて、その構成要素間(関係性)にこそ問題が存在するからである。様々な社会問題が起きる原因は、端的に言うとコミュニティが機能していないか、または崩壊しているからである。そして、このコミュニティの本来の機能が停止または停滞しているのは、関係性が希薄化しているか低劣化していることによる。コミュニティはひとつのシステムである。第三世代の最新システム論から言うと、家族というコミュニティが機能不全に陥るのは、関係性というネットワークが希薄化し、お互いが支えあうというシステム本来の働きが鈍るからである。

コミュニティというシステムの構成要素である個とか課・部そのものには自律性があり、オートポイエーシス(自己産生・自己産出)が働くはずなのである。したがって構成要素は、本来アクティビティ(主体性・自発性・責任性)を持ち、しかも自ら進んで自己組織化(関係性=ネットワーク化)する。さらにはオートポイエーシスにより、自らが自己進化や自己成長を遂げるのである。コミュニティというシステムは、本来自律的に全体最適を目指すのである。ところが、何らかの原因で、自己組織化の働きが鈍ることがある。そうなるとシステム全体に不具合を起こすのである。

例えば、夫婦関係の破綻や親子関係の憎悪感情など起き、家族がバラバラになり、不登校やひきこもり、または家庭内暴力などの問題が起き続ける。やがては、家庭というコミュニティは機能不全に陥る。企業も同様であり、地域もそして国家というコミュニティも崩壊してしまう。家族というコミュニティが崩壊するのは、個に問題があるからだと誤解されやすいが、そうではなくて個と個の関係性の劣悪さが問題を発生させていると見るべきである。個をいくら治療や指導教育しても改善しないのは、家族というシステムの関係性が希薄化している為に機能してしないのからである。

この関係性を良好なものに再構築することが出来たとしたら、コミュニティというシステムが本来の機能を取り戻すことが出来る筈だ。その豊かな関係性を取り戻す唯一の方法が、お互いが否定せず共感するだけの対話を続けるという、共通言語を紡ぎ出すODである。ODは構成要素である個の、一方だけの優位性を発揮させない。OD的ミーティングでは、すべて平等に取り扱うから、一方的な指示・命令・支配・制御がない。あくまでも構成要素である個が、自ら気付き学び自らアクティビティを発揮するのを待つだけである。構成要素どうしがお互いに支えあうコミュニティを創造するのである。そういう意味では、オープンダイアローグとはコミュニティケアであるとも言える。

現代ではコミュニティが機能不全に陥っていると言われている。家族の心がバラバラになりコミュニティとして機能していない。不登校、ひきこもり、児童虐待、家庭内暴力、モラハラ、などの様々な問題が起きている。企業においても不祥事が相次いでいるし、経営破綻も起きている。地域においても、お互いが支えあうという共同体意識がなくなっている。国家や官僚組織だって、モラルが欠如して収賄や文書偽造などが発生している。こういうコミュニティの機能不全をOD的な日常会話やミーティングが解決するに違いない。ODによるコミュニティケアが進化を遂げて、愛が溢れる関係性が構築され、お互いを支えあう社会が必ず実現すると確信している。

 

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オープンダイアローグが有効な訳②

オープンダイアローグ(OD)が何故有効なのかというと、ひとつは今までの精神療法や心理療法でよい効果がある部分を統合的に活用しているということもある。まずはベイトソンのダブルバインドの理論の一部を参考にしているという点である。さらにベイトソンのシステム論を発展させたイタリアのミラノ派の家族療法をも参考にしていることも特筆される。ODは、単なる診断や治療をすることを優先させることなく、あくまでも現状を認め受け入れて、その将来の不確実性を皆で共有して安心させていくのである。クライアントたちが変化するかどうかは、セラピストが決めるのではなくて、家族を含めたクライアント側が決めるという点が斬新である。

さて、今までの精神科の治療や心理療法などを行う際、あくまでも治療をする主体者となるのは医師またはセラピストである。診断し、治療計画を立て、その計画にしたがって治療をするという決定は治療者が実施する。当然、決定権は治療者が持つのであるから、治療者である医師やセラピストがクライアントよりも優位にならざるを得ない。質問したり指示したりするのも、圧倒的に治療者が優位性を保ったままに行われる。つまり、クライアントは受け身であり、主体性や自発性などのアクティビティを持つことは制限されてしまうのである。

人間というのは、自分で判断し自分で決定したものは自発的に実践したくなる。そして結果責任も自分が持ちたくなる傾向が強い。他人が決定して他人がそれを実践したとなると、あくまでも受動的になるから、そこに自らリスクとコストを持つことはない。クライアントが自ら変化するかどうかの決定を自分がするのであれば、能動的になるのは当然である。つまり自ら自己組織化をするひとつのシステムである人間は、アクティビティを自ら発揮する存在なのだ。OD療法はそれを支援するシステムなのだから、人間として自ら自己組織化するし、分断から統合へと向かうのであろう。

OD療法は詩学的であり高い文学性を持つという点が注目される。対話で重要な働きをするのは言葉である。それも単なるコンテンツではなく、コンテキストでありセンテンスである。しかも、意味深くて、なるべく長いセンテンスであって物語性を持つ。ここにナラティブセラピーの要素も含み、ストーリー性をも大切にしている点がある。古い価値観に支配されたドミナントストーリーを自ら捨てられるよう支援をする。そして、新たな価値観に基づいたオルタナティブストーリーを自ら進んで構築するのを、ただ対話を続けながら支援する。その際、セラピストはある意味「詩人」であり「ストーリーテラー」でなければならない。ODは、まさしく相手と自分を統合させ、クライアントが自ら統合したくなるような言葉を紡ぎ出すのである。

このように、OD療法というのは精神医学の重要なエッセンスを保ちながら、文学性や哲学性、さらには社会科学的な要素も取り入れている。勿論、最新の自然科学である自己組織化の理論も含んでいる。つまり、統合的な治療理論なのである。人間どうしの統合や精神の統合を目指しているOD療法が、まさしく統合そのものであるという点がユニークなのである。だから、このODという手法が有効性を持つに違いない。

今まで精神疾患や精神障害というものが脳の機能障害によって起きるものだと考えられてきたが、最新の医学ではそれが否定されつつある。脳だけの機能障害だけでなく、腸や腎臓などの各臓器、筋肉組織、骨、神経組織、など人体すべてのネットワークに障害が起きることで障害が起きることが解ってきたのである。言い換えると、統合されている人体という全体が、それを構成する各部分が分断化や孤立をした時にこそ、様々な障害が起きるということが判明したのである。当然、治療は分断化された部分を統合へと向かう支援をすることが求められるが、それがまさしくOD療法なのである。

さらに言えば、精神疾患や精神障害というものが身体的な部分の分断化だけでなく、社会的にも分断と孤立をすることによって起きているとも言える。つまり、家族というコミュニティが分断し、絶対的な孤立感を持つことで精神疾患が発症するきっかけを生み出すと考えられている。さらには、職場や地域においても社会的に孤立することも深く影響していると思われる。OD療法は、コミュニティそのものの統合を支援するのである。共通言語というものを紡ぎ出し、開かれた対話によってお互いの関係性を再構築するのだ。OD療法というのは、希薄化・低劣化してしまった関係性を『対話』によって、良好な関係性に変革する働きを持つのである。つまり、ODはコミュニティケアをも実現するのである。だから、再発がなくなってしまうのであろう。

 

さらに明日に続く

 

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オープンダイアローグが有効な訳

オープンダイアローグ(開かれた対話)療法が統合失調症だけでなく、PTSD、パニック障害、うつ病などにも有効であるし、ひきこもりや不登校にも効果があることが解ってきたという。薬物も使わないし、カウンセリングや認知行動療法なども実施しないのに、どうして有効性を発揮するのか不思議だと思う人も多いであろう。開かれた対話だけをするだけで、どうして統合失調症が治るのであろうか。何故、オープンダイアローグ療法が有効なのか明らかにしてみたい。

オープンダイアローグを以下の記述からは便宜上ODと記すことにしたい。ODを実施する場合、原則として統合失調症が発症して24時間以内に第1回目のミーティングを実施する。緊急性を有するので、クライアントの家庭にセラピストチームが伺うことが多い。セラピストは複数人であることが絶対条件で、単独での訪問はしない。何故なら、ミーティングの途中でリフレクション(セラピストどうしの協議)を行うからである。そして、それから連日その家庭に同じメンバーが訪問して、患者とその家族を交えて10日から12日間ずっとミーティングを実施する。

ODで派遣される医師やセラピストなど治療者は、診断をしないし、治療方針もせず、治療見通しもしない。そして、そのあいまいさをクライアントが受け入れられるように、安心感を与えることを毎日続ける。ODでのミーティングは開かれた対話を徹底する。そして傾聴と共感を基本として、患者とその家族にけっして否定したり介入したりしない。一方的な会話(モノローグ)ではなくて、必ず双方向の会話(ダイアローグ)にする。開かれた質問を心がけて、必ず返答ができる質問にする。また、セラピストが逆に質問されたり問いかけたられたりした場合、絶対に無視せずに必ずリアクションをするということも肝要である。

OD療法では、患者には薬物治療を実施しない。どうしても必要な場合でも、必要最小限の精神安定剤だけである。ただひたすらに、開かれた対話だけが続けられるのである。どうして、それだけで統合失調症の症状である幻聴や幻覚がなくなるのであろうか。そもそも、幻覚と幻聴が起きるのは、現状の苦難困難を受け入れることが出来なくて、想像の世界と現実の世界の区別が難しくなるからと思われる。ましてや、この幻聴と幻覚を話しても、家族さえも認めてくれず、自分を受容し寛容の態度で接してくれる人がまったくいないのだ。他者との関係性が感じられず、まったくの孤独感が自分を覆いつくしている。

こういう状態の中で、OD療法は患者が話す幻聴や幻覚を、否定せずまるごと受け止める。その症状の苦しさ悲しさを本人の気持ちになりきって傾聴する。患者は自分の気持ちに共感してもらい安心する。さらに、家族にも患者の言葉をどのように感じたかをインタビューをして、患者の気持ちに共感できるようサポートする。家族に対しても、けっして介入しないし支配したり制御したりしない。家族の苦しさや悲しさに寄り添うだけである。

そうすると実に不思議なのであるが、患者自身が自分の幻聴や幻覚が、現実のものじゃないかもしれないと考え出すのである。患者の家族も、患者の幻覚や幻聴が起きたきっかけが自分たちのあの時の言動だったかもしれないと思い出すのである。さらには、患者と家族の関係性における問題に気付くのである。お互いの関係性がいかに希薄化していて劣悪になっていたかを思い知るのである。家族というコミュニティが再生して、お互いの共同言語が再構築されるのである。誰もそうしなさいと指示をしていないのに、患者とその家族が自ら変わろうとするのである。

勿論、仕事や地域との共同体に問題があることも認識する。いかに地域や職場におけるコミュニティにおける関係性にも問題が存在することに気付くのである。例えコミュニティの問題が解決されなくても、自分自身には問題がなく、そのコミュニティにこそ問題があると認識しただけで、安心するのである。家族の関係性の問題が解決されて、地域と職場のコミュニティの問題を家族間で共有し、お互いにそれを共感しただけで症状が改善するのである。まさに化学反応のような変化が起きるようである。人間というのは、実に不思議なのであるが、関係性が豊かになり共通言語を共有できた時に、幸福感を感じるものらしい。オープンダイアローグというのは、まさにこのような関係性の再構築が可能になるので、症状が収まるだけでなく、再発も防げるのである。

続きはまた明日に

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