疲れの原因は食事にあった

電車やホームでは、疲れ切ってしまい、深くうなだれた会社員を見かける。歩く姿も前屈みで覇気がなく、とぼとぼと家路につく姿が、相当に疲れ切っていると確信させる。この世はストレス社会である。対人ストレスは勿論、超IT社会と言える現代は、PCやスマホに人間が支配され使われているから、テクノストレスにもさらされている。毎日、仕事でも目いっぱい働き、家に帰っても心が休まらないし癒されない。したがって、毎日疲れ切っていて、その疲れは一晩寝ても取れないという人が、多いのは当然かもしれない。

駅の売店やコンビニでは、栄養ドリンクや甘い炭酸飲料を求める会社員を多く見かける。ドラッグストアでは、疲労感が取れると謳われているビタミン剤やサプリメントが大量に売れている。こんなにも、疲れ切った人達がいて、日本のビジネス界は大丈夫なのであろうかと心配になるくらいである。こういうビジネスマンは、疲れないようにと昼はステーキやハンバーグなどのスタミナ食を摂り、夕方は焼き鳥や焼き肉でビールを飲むことが多い。しかし、その結果は思惑とは大きく違って疲れは取れず、翌朝には疲れ切った身体に鞭打って出勤する。

疲れる原因とその疲れが長引く訳は、どうやら精神的なストレスだけではないような気がする。確かに精神的なものが身体に影響するのは間違いないが、現代人がこれだけ疲れる人が多いというのは、肉体的な別の要因がありそうな気がして仕方ない。それで、科学的なエビデンスを示すような過去の実験結果がないかどうか調査してみた。そうすると、実に興味深い実験を試みた例があったのである。それは、明治初期に来日したドイツ人医師ベルツによる、食事による耐久力の実験であり、その結果は我々の常識を完全に覆すものであった。

ベルツが来日してまず驚いたのは、日本人の持久力であった。たいして体力もないように見えるし、痩せて貧弱な身体の日本人が、毎日何十キロも走っているのに、まったく疲れを見せないことである。当時、飛脚は一日100キロを越えて走り回り、車夫が重い人力車を毎日何10キロも引き回る耐久力を持っていた。ベルツはこれだけの体力を持っているのだから、西欧の栄養学に基づく肉食中心でしかも低でんぷん質の食事にしたら、もっと早く走れるに違いないと予想して、人力車の車夫2名に食事の実験をしたのである。毎日、肉食で低でんぷん質のスタミナ食を与え、体重80キロのベルツを乗せて、40㎞の道のりを引かせたのである。

その結果、3日後に2名の車夫は音を上げてしまった。こんな食事では走れないから、肉の量を減らしてくれというのである。それで、元の穀物菜食に戻したら3週間ずっと元気で人力車を引き続けたという。ベルツは、東京から日光まで旅行したことがあるが、午後6時に出発して翌日午前8時に着いた。その際に、馬を使ったのだが、110㎞の間に6度馬を交換し、14時間を要したという。もう一方は1人の人力車に引かせて乗り、なんと10時間で日光に着いたという。1時間に時速11㎞で10時間人力車を引いて走るという超人的な車夫がいたというからすごい話だ。

これは日本人だけの話かと思いきや、米国の大学でも肉食者と穀物菜食者で持久力の対比実験をしたら、瞬発力は肉食が上であるが、持久力は穀物菜食のほうが遥かに高いことが分かったとベルツの著書で紹介されている。これらの実験で明らかなように、現代人の持久力がないのは、食事のせいだということである。現代人がすぐに疲れてしまい、耐久力に乏しいのは肉食中心で炭水化物の少ない食事をしているからであろう。最近の日本人アスリートが、マラソンでは結果を残せていないし、水泳の長距離競泳で勝てないのは、食事のせいではないだろうか。あれほどの圧倒的な強さを誇るケニア人のエリートランナーは、おしなべて高でんぷん質の食事を続けていることが判明し、アスリート界では驚いているという。

明治維新以降の近代栄養学、とりわけ戦後の栄養学は、肉食中心の高蛋白で低炭水化物の食事が健康に良いものだというのが定説だった。ごく最近までも、美容の為には炭水化物ダイエットが良いというまことしやかな説が信じられていた。ところが、ごく最先端の科学的な栄養学では、それが人間の根源的なエネルギーを引き出せないということが判明してきたのである。肉を沢山食べて、でんぷん質をあまり食べないという食事は、持久力を引き出せず、すぐに疲れてしまうという欠点を露呈したのである。ましてや、肉食中心の食事を続けると、腸内環境が悪化して免疫力が低下することも解ってきた。現代日本人の異常なほどの疲れの原因が、肉食と低炭水化物の食事にあったのである。健康とスタミナ維持のためにも、穀物菜食の伝統的な和食に戻るべきではないだろうか。

不倫をしてしまう訳

不倫報道がすさまじい。ダブル不倫、略奪不倫などのセンセーショナルな文字が紙面に踊っている。今井絵里子、上原多香子など、女性が話題の主になっている。古い話題だが、乙武さんの不倫報道に驚いた人も多いことだろう。あれだけの障害を持ちながら、社会的にも頑張ってきたのに、家族の信頼を裏切り、社会的信用も失墜させた。政治家としてのデビューも遠ざかり、大きな代償を払うことになった。宮崎議員も、代議士のポストも棒に振り、家庭も崩壊したに等しい。芸能界でも、度々不倫報道が話題になるが、男性だけでなく妻も不倫をするケースが少なくない。どうして、著名人にはこんなにも不倫が多いのであろうか。一般人も不倫をしているのだが、著名人だから明らかになっただけなのであろうか。相手に配偶者がいるのを承知で性交渉をするほうも、非難されるのは当然だ。

「英雄色を好む」ということわざがある。よく引き合いに出されるのは、豊臣秀吉やナポレオン、そして現代ではゴルフ界のタイガー・ウッズである。中国共産党の偉大な指導者、毛沢東もそうだったと言われているし、北朝鮮の指導者金一族もあちこちに愛人を作っているらしい。ある研究結果から導き出されたのは、ホルモンと権力欲・名誉欲の関係である。政治家や経済的な成功者は、明らかにテストステロンという男性ホルモンが一般の人よりも多かったらしい。テストステロンがドーパミンの分泌に大きく関わっているのだから、関連性はあると推測される。攻撃性や挑戦欲とテストステロンとは関連しているし、テストステロンは性欲と密接な関係があるのは知られている。

それにしても、どうして人間は不倫などという、我が身を滅ぼしかねない危険な行為をしてしまうのであろうか。社会的にも抹殺され、家庭崩壊を起こすような危険行為を何故してしまうのか、理解に苦しむことだろう。勿論、本人たちは家族にも内密にしようと工夫しているだろうし、職場や地域にも知られないような努力はしているであろう。けれども、著名人はマスコミがほっておかないし、世間のねたみやそねみもあったり、相手がわざわざ暴露したりするケースも少なくない。そんなリスクを負ってまでも、不倫をしてしまうというのは、何か特別な理由があるに違いない。社会的に地位や名誉がある者でさえ、しちゃいけないと思いながら不倫をするというのは、脳科学的に観て何か理由があるのではないかと思えて仕方ない。

人間が性行動を求めるのは、ドーパミンという脳内ホルモンが出るからというのはよく知られている。ドーパミンというのは快楽ホルモンとも呼ばれる、脳内神経伝達物質である。性行為だけでなく、飲酒、飲食、ギャンブル、煙草、買い物などでもドーパミンが出ると言われている。快楽を求めたくなるのは人間の宿命みたいなものであろう。さらに、最近の脳内ホルモン研究で、性行為や異性とのスキンシップを求めたがる原因となる脳内神経伝達物質があるのが判明した。それがオキシトシンというホルモンである。子育てにおいて母性を育むホルモンとしても知られているが、お互いの愛情が溢れるような性交渉でも沢山分泌されることが解ってきた。

このオキシトシンを何故人間が分泌したくなるかというと、このホルモンが満たされると、不安感や恐怖感を払拭して精神が安定するからと言われている。特に、仕事や家庭においてストレスフルな状況にあり、自分に自信が持てなくなり、将来に対する不安が強くなると、このオキシトシンを分泌させたくなり、性行為に走るらしい。つまり、職場で粛々と仕事をこなして不安もなく、家庭でも配偶者や子どもたちから愛されている状況にあれば、不倫になんか走らないということだろう。ましてや、夫婦間においてお互いの敬愛関係と信頼関係が万全であり、愛情豊かな性の営みがあったとしたら、不倫なんてことが起こりうる確率は限りなく少なくなるに違いない。

知らず知らずのうちにドーパミンやオキシトシンの分泌を求めてしまい、不倫をしてしまうというのは言い過ぎになる。しかし、無意識のうちにドーパミンとオキシトシンの分泌を求めて、性行為に走るケースは少なくないと思われる。最近解ってきたことであるが、このオキシトシンは人間を不安から守るという働きもあるが、逆に危険な行為に対する回避行動も阻害するらしい。つまり、不倫で性交渉を何度も繰り返すうちにオキシトシンを沢山分泌させて、身を滅ぼすような行動をもしてしまうということである。だから、不倫がばれたり家庭を崩壊させたりするような行動をしてしまうのであろう。ドーパミンやオキシトシンに翻弄されないような生き方を心がけたいものである。人間の性(さが)というのは、実にやっかいなものである。

ひきこもりや不登校を解決するきっかけ

今まで不登校やひきこもりの子どもたちの保護者さんを相談支援してきました。保護者の方達の心の負担を少しは和らげることが出来たという自負はあります。しかし、残念ながらひきこもり・不登校を完全に乗り越えるには困難な壁がありました。保護者の相談支援だけでは、やはり限界があるのかもしれません。子どもが変わるには、まずは親が変わらなければならないと言われていますが、保護者の方達が自ら変わろうとするのは、なかなか難しいものです。抱えている問題の大きさもありますし、辛さや悲しみ、大きな苦しみのことを考慮すると、あなたは間違っているから自分を変えなさいとは助言しにくいものです。家族でも親類でもないし、主治医でもないボランティアとしては、限界があるのだろうとも思います。

 

ひきこもりや不登校を乗り越えたケースは確かにあります。しかし残念ながら、極めて少ないのも実情です。児童精神科医や児童心理学の先生方、カウンセラーの懸命な努力もなかなか及ばないようです。優秀なカウンセラーであっても、ひきこもりや不登校の青少年が、自ら自分を変えようと決断し、それを実現して社会復帰するという結果を残すことはまったくない訳ではないものの、稀なようです。精神医学の心理療法やカウンセリングの限界があるのかもしれません。どうして、単独での精神療法やカウンセリングの効果が出にくいのかと言いますと、それだけ青少年の心が深く閉ざされていて、その心を開くことが相当な困難を伴うのでしょう。

 

効果があった実例はどんなケースかというと、精神医学的・心理学的アプローチだけでなく、農業体験や自然体験などの癒しを共に提供したプログラムであり、総合的な治療のケースです。さらには、食生活や生活習慣をも改善することで、複合的な効果があったみたいです。ひきこもりや不登校の青少年は、どうしてもスマホやPCに対する依存性が高いし、ゲームに依存しているケースが多いようです。食生活も含めた生活習慣が乱れているというのも特徴的です。ですから、スマホやPCなどのデジタルデトックス、悪い食習慣をデトックスすると共に、規則正しい生活に戻すことで効果が表れるケースが多いようです。だから難しいのだろうと想像します。

 

ひきこもりや不登校が起きる原因は、実に様々のようです。また、そのきっかけはもっと多くのものがあります。不登校の原因は、子どもどうしの心無いいじめ、先生による不適切な指導、保護者の偏った子育て、家族との軋轢などと言われていますが、それは原因ではなく単なるきっかけでしかないと思っています。不登校の根底にあるのは、「関係性」の希薄さや低劣さです。ひきこもりも同様です。親子など家族同士の関係性、先生と子どもとの関係性、子どもどうしの関係性、先生どうしの関係性、両親どうしの関係性などが極めて薄くて歪んでいて正常でないケースが殆どです。特に、ご両親の関係性が良くないケースが多いのが特徴的です。表面的には上手く行っているように見えていても、心からお互いに敬愛している例が少ないというのが多いようです。

 

こういうそもそもの原因がある訳ですから、きっかけに対する問題解決型の助言や指導が功を奏しないのも当然です。不登校になったきっかけになったことを解決しようといくら努力しても、無駄なことになってしまうのは当然です。それぞれの関係性を改善しなければ、根本的な解決になりえないのです。この世の中は、そもそも関係性によって成り立っています。関係性が基本になって、コミュニティが本来の機能を果たしています。関係性が損なわれますと、コミュニティが崩壊します。家族というコミュニティが崩壊しているから、ひきこもりや不登校という問題が表出するのです。学校、地域、会社、国家というコミュニティが崩壊しつつあるから、社会的な問題が現れているのです。

 

コミュニティの構成要員それぞれが幸福になり、心も豊かになり、存続可能な生活をしていくには、それぞれの構成要員が個別最適ではなくて、全体最適を目指さなければなりません。つまり、自分だけの豊かさ幸福、地位や名誉・評価・利益を目指すのではなく、コミュニティ全体の最適を目指すことが要求されます。しかし、残念ながら家族も含めて殆どのコミュニティは個別最適を求めています。お互いを心から尊敬し愛して、相手の幸福を実現するにはどうしたらいいのかと心を砕いている家族ならば、当然関係性も良好になります。関係性が良くなれば、子どもたちは安心して社会に出て行けるのです。家族の大切さ、全体最適の価値観を獲得し、関係性を良好にするための方策を気付くきっかけを、「イスキアの郷しらかわ」で見つけてみませんか。

メンタル障害は何故治らないのか

うつ病、双極性障害、パニック障害、適応障害、不安神経症などのメンタルの障害を起こしてしまっている方が増えている。何故もこんなにメンタルを病んでいる方が増えているかというと、ストレスフルな世の中のせいだとする専門家も多い。職場において、PCなどのIT機器や最新機器の操作で一日の大半を過ごす職員、または対人サービス業における難しいクライアントに対する応対を求められる職員、クレーマーや理不尽な顧客に対応せざるを得ない職員、パワハラやセクハラ・モラハラなどの職場における嫌がらせを常時受けている職員、そういう実に気の毒な社員・職員が多いせいもある。こういう勤務状況はなかなか改善出来ないし、自分の努力だけでは解決し得ない職場であるので仕方ない。

 

さて、メンタル障害を起こしてしまった方たちは、医療機関に足を運び診断を受けて、投薬・注射またはカウンセリングや認知行動療法などの治療を受ける。薬物治療は、緊急避難的な用法においては効果が現れるケースが少なくない。しかし、長期的な薬物投与は、どうしても効果が長続きしないし、副作用が表出するケースが多いという。さらにメンタル障害を起こした方々は不眠症を伴うことが多いのであるが、睡眠導入剤や睡眠薬などは緊急避難的に短期で利用する意味はあるものの、長期投与ではその効果が続かなくなるケースが多いし、副作用や離脱が難しくなる。カウンセリングや認知行動療法もまた、一時的には効果があるものの、完全治癒まで到達する例はなかなか見えにくい。

 

抗うつ剤としてSSRIやSNRIなどの新薬が登場した際には、画期的な抗うつ剤として大きな期待をされた。副作用も少ないとされ、うつ症状の患者さんたちはこれで自分達も救われると喜んだのである。しかし、残念ながらこれらの新型の抗うつ剤も長期投与されてしまうケースが多いし、離脱症状の危険性もあり、一度飲み始めたらずっと飲み続けなければならないという結果を示している。不思議なことに、これらのSSRIやSNRIの新薬が登場して、うつ病の患者さんは減少するどころか、かえって増加しているという皮肉な結果を示しているのである。

 

このように、様々な医療行為を受けることで、寛解や症状の軽減という例はあるものの、完全治癒というケースが極めて少ないというのも不思議である。ここに精神医療の限界というものが見え隠れしているように思えて仕方ない。たまに完全治癒した人の話を聞くことがあるものの、それは一時的な投薬を受けても、長期投薬を中断して、自力で治したというケースが殆どであるというのも不思議なことである。勿論、すべての医療行為を否定するものではないが、医療だけでメンタル障害が治癒することはごく稀であるという事実があるのも確かであろう。精神医療の行為には何が足りないのか、何を足せば完全治癒に向かうことが出来るのか、明らかにしていかなければならない課題が存在していると思われる。

 

これだけ医療が進歩して、新しい薬剤や治療法が提起されているにも関わらず、何故か精神医療分野だけは完全治癒が少ない。完全治癒が難しい分野だとは認識しているが、それにしても治りにくいし、これほど多くの患者さんが増えているというのは解せない。メンタル障害とされる原因も、違うのではないかとも感じられる。メンタル障害を起こす方々に共通しているのは何かというと、確固たる理念が存在しないという点と、何があっても揺るがない自己肯定感がないという点である。つまり『自己マスタリー』が確立されていないという点に注目したい。理念とは正しい真理に基づいている信念のことであり、自己マスタリーとは真の自己確立のことである。この二つがないことで、多くの方がメンタル障害に苦しんでいるのではないかと想像している。

 

正しい理念とは、この宇宙・社会の存在そのものを担保している真理に基づいた信念であり、端的に言うと『システム思考』のことである。全体最適とそれを担保する関係性重視の哲学のことと言い換えられる。自己マスタリーとは、マイナスの自己と呼ばれる低劣な価値観を持った自己を認め受け容れ、そしてそのマイナスの自己を恥じると共に慈しむことが出来る自分を確立することである。言葉では優しいが、自分を完全に否定して消してしまいたいと思い悩む世界に浸ることでもあり、簡単には出来得ない。おそらく、この日本で自己マスタリーを完全にクリアーした人は1割にも満たないはずである。マサチューセッツ工科大学のペーター・シュンゲ上級講師が提唱している理論であるこのシステム思考を身に付け、自己マスタリーに成功すれば、メンタル障害から完全に立ち直ることが可能となるであろう。

メンタルを病んだ経験から

何度かメンタルを病んだ体験を持っている。一度目は、仕事上の問題と自分の価値観の低劣さから起きた気分障害である。課長職の昇格試験を受けた際、筆記試験はよく出来たという自信があった。第二次の面接試験があったが、どうせ形式的なものだろうと高をくくっていた。とこが、厳しい質問攻めにあって、まともな答を述べられなかったのである。きちんとした勉強をしていれば、何ともなく答えられた質問なのに、それがしどろもどろの答しか出来なかったのだから、相当に落ち込んでしまった。この団体職員として入職して以来、手前みそだが勤務評価も高く出世も誰よりも早くして、エリート意識が人一倍高かったので、自分自身がこんなにも無能だったと気付いて、自己否定感がマックスになってしまったのである。

 

結果として、課長職の昇格試験には合格したのであるが、自分の無能さや無学さを思い知らされたおかげで、自分自身が嫌になったのである。自分には組織に対する貢献価値はないし、生きる価値さえないと思い込んだのである。精神的な落ち込み度は、相当にひどいものがあり、無気力の状態になってしまった。なんとか出勤はしていて仕事はこなしていたが、働く意欲や積極性はまったく失ってしまっていた。毎夜、不眠にも悩まされた。寝付きはなんとかなったが、午前3時か4時になると目が覚めて、胃に重苦しい鈍痛が起きて、苦しんでいた。自分には生きる意味さえないと、かなり重いうつ状態に追い込まれてしまったのである。この状態は3ケ月くらい続いたが、これでは拙いと気付き、運動療法や自分自身による認知行動療法によって、幸運にも奇跡的な復活を遂げることができた。

 

2度目の気分障害は、その後10年くらい経過した時に起きた。その頃、NPO活動やボランティア活動など積極的に取り組んでいた。さらに、障がい者の方々やメンタルを病んだ方々、家族にひきこもりや不登校を抱えられた方々を支援していた。意欲的に、しかもやりがいを持ってNPO活動と市民活動に取り組んでいた時に、ラジオ番組であるエッセイの朗読をしていたのを聴いた。ボランティア活動なんて、所詮自己満足の世界であるという主張であった。その作者も、自分で身体障がい者へのボランティア活動を続けていたが、ある時自分のやっている活動は単なる自己満足の押し付けなのではないかと気付いたというのである。その言葉を聞いて、愕然とした。まるで、自分のことを言われたように感じたのである。そのことをきっかけに、ひどい気分障害に陥ってしまった。

 

3度目の気分障害も、同じような理由で起きた。やはり、偽善的な行為をしている自分が許せなかったのである。2度目と3度目の気分障害は、1ケ月もしないうちに幸いにも立ち直ることが出来た。これも医療機関にも行かず、カウンセラーのお世話にもならずに何とか復活できた。今まで経験してきた気分障害は、何かの大きなストレスやプレッシャーに押しつぶされたというよりは、自分自身に対する嫌悪感から起きたものである。強烈な自己否定感に襲われ、その自分に対する否定感情をもろに受け容れてしまったことによるものと思われる。メンタル不全は、他人からの強烈な自己否定でも起きるが、どちらかというと、自分自身によって自尊感情を損なった場合が多いような気がする。

 

3度の気分障害は、多くの学びを自分に与えてくれた。まずは、人間のメンタルは非常に脆いし弱いということである。いとも簡単に誰でも気分障害に陥るし、そのきっかけも他の人から見たらたいした重要でもないことでも起きるということにも気付いた。さらに、気分障害は重症でなければ、自分だけの上手な早めの処理対応によって上手く復活できるということである。重症化したうつ病やパニック障害、または双極性の障害のケースは、簡単には治らない。気分障害を放置しておいたりこじらせたりしないことが肝要だということである。だから、気分障害はなるべく早く処理したほうが良いという教訓になる。

 

さらに言えることは、人間として確固たる理念やミッションがないと、気分障害に陥りやすいということと、自己マスタリーを確立していないとやはりメンタルを損ないやすいということである。人間として、どのような価値観に基づいて生きるべきという宇宙の真理に基づいた信念を持ちえないと、迷いが生じるのである。または、マイナスの自己も含めたありのままの自分を認め受け容れ、まるごとの自己を慈しみ愛せないと、メンタル障害になりやすいという認識が必要なのである。ということは、真の自己を確立し、正しい価値観である思想哲学を獲得できたとしたら、気分障害にもなりにくいし、たとえ気分障害になったとしても容易に回復できるということだ。これが三度の気分障害を体験して、学んだ真実である。気分障害にならなければ、こんなにも素晴らしい価値観を学べなかったのだから、良い経験をさせてもらったものだと感謝している。

自ら命を絶つ前に

大手広告会社の期待の新人社員が自らの命を絶ってしまい、労災認定がされたというショッキングなニュースが流れました。さらに、大企業の薬品会社の新入社員がやはり自殺をして、労災と認定されたという報道がありました。これらの報道は、労災認定をされたということでマスコミが取り上げただけであり、労災認定をされない仕事が原因の自殺は、他にも相当にあると推測されます。なにしろ、統計上明らかになっているだけで、年間3万人近くの方々が自ら命を絶ってしまうこの日本です。おそらくは、仕事上のストレスや疲れから自殺に追い込まれてしまっている方は相当に多い筈です。それにしても、こんなにも豊かで便利な世の中になったにも関わらず、生きにくい社会になっているというのは、理解できないことでもあります。

 

今、職場で心身共に疲れ切ってしまい、他には解決の方法が見つからず、死んでしまうしかこの現状から解放されないと思っていらっしゃる方がいらしたら、ちょっと待ってほしいものです。または、職場での執拗なパワハラやセクハラを受けて、会社は何も対応策をしてくれず、家族との板挟みで会社を辞める訳にも行かず、死んでしまうしかないと思っていらっしゃる方がこの日記を読んでいましたら、早まらないでほしいのです。このような八方塞がりの状況に追い込まれた方々にしてみれば、他には方法がないと思っていらっしゃることでしょう。確かに、もう誰も助けてくれないし解決策は他にないと思うのも当然かもしれません。

 

しかし、もし自殺という道を決断したとしても、あとせめて1週間から10日くらい先延ばし出来ないでしょうか。そして、「イスキアの郷しらかわ」で数日間過ごしてほしいと思います。または、会社を休めないなら土日の2日間でもよいから、しばしの休息を「イスキアの郷しらかわ」で過ごしてみてはどうでしょうか。勿論、しばしの休息で仕事の状況が変化する訳ではありません。しかし、少なくても自分をもう一度見つめ直す時間は必要ですし、何か心境の変化が見られるかもしれません。『四季彩菜工房』という農家民宿で、心尽くしの料理や心優しいもてなしを受けることで、心が癒されるに違いありません。または、辛くて苦しい出来事をありのままに受け容れてくれる相談をしているうちに、何かしらの解決策が見いだせるかもしれないのです。

 

最先端の心理学においては、マインドフルネスという方法が推奨されています。マインドフルネスというのは、ストレスコーピング(解消策)の有効な方法の一つです。ストレスを解決するには大きく分けて2つの方法があります。ひとつは問題焦点型のストレスコーピングで、ストレスの原因をダイレクトに解決するという解消法です。もう一つは情動焦点型のストレスコーピングで、問題そのものは解決できないものの、そのストレスに対する自分の認識や考え方を変えて、ストレスをストレスとして認知しないようにする方法であります。または、ストレスの対する耐性や柔軟な思考が出来るようにするという解消法です。その情動焦点型のストレスコーピングの有効な一つの方策がマインドフルネスです。

 

日本では、古来よりこのマインドフルネスという考え方や方策が実践されてきました。仏教では『唯識』という考え方です。瞑想、座禅、写経、読経、滝行や山岳修行などの苦行難行として実践されてきた歴史があります。マインドフルネスとは、ストレスから完全に開放されるような「何か」に心を奪われることにより、マイナスの思考を停止または手放すことで、本当の自分を取り戻すという方法です。人間は一旦強大なストレスに支配されてしまいますと、そのストレスを考えないようにすることが出来ず、四六時中そのことだけを考えてしまいます。それでは、不眠に追い込まれたりうつ状態になったりして、正しい考え方が出来なくなってしまうのです。これでは、解決策は思いつかなくなるばかりか、生きる気力も失ってしまいます。

 

マインドフルネスをするには、ストレスの原因になっている場所からなるべく離れて、非日常の世界に身を置くことが、まずは求められます。何もかも忘れてしまうには、自然豊かな処で、農業体験や自然体験に勤しむことが有効です。また、自分をまるごと受け容れてくれて許し肯定してくれる環境も必要です。それが、まさしく「イスキアの郷しらかわ」です。一旦思考を停止させて、自分自身をまずは取り戻すことが出来る場所、「イスキアの郷しらかわ」で、しばらく過ごすことでマインドフルネスが実践できます。仕事を休めない方は、週末だけでも何回か訪れてみてはいかがでしょうか。休職をしているなら、数日滞在することで、デトックスが可能になります。自ら命を絶つのは、今一度考え直してみてください。イスキアの郷しらかわで過ごしてみてください。自分の本当の「出口」(グリーンエグジット)がきっと見つけられます。

自己責任論の危うさ

元復興大臣が、自主避難者は自己責任だと言い切っていたが、同じように本音では自己責任だと思っている政治家や官僚たちが実に多い。批判されることを恐れて、口に出してこそいないが、貧困や格差問題も、自己責任だと思っている政治家や官僚、そして富裕層の人々は少なくない。子どもの貧困問題や高齢者の医療・介護問題だって、根本的には自己責任だと考える人は多いに違いない。アリとキリギリスというイソップ寓話を引き合いに出して、生活保護を受給している家庭や国民年金しか受給出来ていない貧困家庭を批判的に見ている富裕層は少なくない。そして、そうなったのは自己責任だから自業自得だろうと思っているのではないだろうか。

 

確かに、そういう見方も出来ない訳ではない。しかし、自己責任という言葉だけで社会的弱者を切り捨てることは出来ないのではあるまいか。何故なら、そのような社会的弱者を作り出したのは、政治や行政にも責任の一旦があるからだ。高福祉社会においては、なまじっか働いて苦労するよりも、国や市町村などによる福祉サービスを受けたほうが経済的には豊かな生活を送れるケースが少なくない。国民年金から2ケ月に1度10万円ほどの年金額が支給されるより、生活保護費を毎月10万円以上支給されたほうが、遥かに豊かな生活が出来る。働けるのに働かないという選択をする国民がいるのも確かである。しかし、それがすべてではないし、働こうとしない国民を作り出してしまった政治と行政の無策にも責任があると思うのである。

 

政治は、世の中に貧困を作り出すようなことをすべきではない。それも、貧困が多世代に渡って連鎖するような社会を作るのは、失政だと言っても過言ではない。江戸時代以前に、過酷な自然災害や飢饉などで人々が飢え、社会不安に陥ったケースが少なくない。ある意味仕方がないという側面もあるが、そういう世情不安が起きるような例でも、政治がしっかりしていれば、何とか乗り切れたという歴史がある。ところが、政治や行政が失敗を繰り返すと、貧困が蔓延化してしまい、一揆やクーデターが起きてしまった歴史がある。世界の歴史を見ても、貧困化が一定の率を越えてしまったときは、革命やクーデターが起きているのである。それは、政治の無策によるものと言っても過言ではない。

 

時の政治家や為政者は、貧困や格差が起きたことに対する自分の責任を回避して、市場経済のせいにしたり市民の無能や無教養が原因だとしたりするが、その主張が的を射てないのは明白である。つまり、自己責任論を展開するのは、政治家や官僚が自分の無能さを社会に対して自ら宣言していると言っても過言ではない。政治の重要な役割のひとつが、社会的弱者を生み出さないようにするのは当然だ。頑張った人が報われるべき社会にすべきだとしても、所得の再分配や富の再配分という機能を政治が果たさないといけない。貧困や格差は、本人の怠惰な性格や生き方、または本人の間違った価値観にあるとする考え方もあろう。しかし、そういった思想哲学の低劣化は、公的教育の貧困さに原因があると言えまいか。

 

江戸時代において、貧困や格差がまるっきりなかったとは言えないが、幸福度という尺度から見たら、その格差は社会的に許せる範囲だったように思える。何故、江戸時代はそんな社会が築けたのかというと、『システム思考』という考え方が浸透していたからではあるまいか。個別最適を目指すのではなく、常に全体最適を目的にしていたのである。当然、全体最適を目指すからには、お互いの関係性をとても大切にしていた。そして、弱者や敗者に対する思いやりというか慈悲の心を最重要視していたのである。特に、社会的強者である武士は、常に弱者に対する配慮を重んじる教育を幼少期から受けていた。つまり、惻隠の情という教育を徹底していたのである。現代における政治家と官僚の役割を果たしていた武士こそ、社会的弱者に対する配慮が必要なのだと教えられたのである。

 

現代の政治家や官僚に、惻隠の情があるかというと、彼らの言動からはあまり感じられないのである。どちらかというと、社会的強者に対する配慮のほうが優先していて、弱者を思いやる政策は不足している。アベノミクスは強者のための経済政策であり、富裕者が益々豊かになる政策である。トリクルダウンが起こり、貧困者にも富のおこぼれが起きると主張しているが、実際には起きていないし、円安は貧困者や年金生活者の生活を圧迫している。自己責任論が彼らの根底にある価値観であるから、惻隠の情があるとはまるっきり思えない。富や所得の再分配のための政策は後回しになっているし、格差は益々広がっているのが実情である。政治家や官僚は、自己責任論をひとまず封印して、江戸時代の武士を見習い、惻隠の情を根本的な価値観にした政策を進めてほしいものである。

怒りの感情を上手に処理する

この世は、とても生きずらい。自分が思っているような理想社会には、ほど遠い。自分を傷つけたり無視したりする人がいる。または、自分を支配し制御しようとする人も多い。どうして、こんなにも人が人をコントロールしたがるのであろうか。それにしても、怒りや憎しみの感情を起こさせる人のなんと多いことだろうか。身勝手で自分のことしか考えない自己中心的な人は、平気で人を傷つけるようなことをする。パワハラやセクハラ、モラハラをしてくるし、わざと人が困るようなことを何度もしてくる。怒りの感情がふつふつと込み上げてくる。しかし、この怒りを当人に返すと、その何倍にも還ってくるし、逆切れするかもしれないので我慢するしかない。生きずらい世の中である。怒りを抑えるしか方法がないのだろうか。

怒りという感情は持ってはいけないと言われている。仏教の教えでは、「憤りの心は燎原の火の如し」と言って、けっして持ってはならないものだと説く。つまり、憤りの心を心の中に燃え盛らせると、燎原(原っぱ)に火をつけたと同じで何もかも焼き尽くすし、その火は自分をも焼き尽くすという。これは脳科学的にも証明されている。怒りの感情は、脳の偏桃体を刺激する。そうすると、偏桃体から副腎にコルチゾールを分泌させるように命令が行く。怒りの感情が起きると、戦闘態勢に入りなさいと脳が指示するのである。コルチゾールという副腎皮質ホルモンは、血圧を上げて脈拍数を増やす。コルチゾールは、脳の海馬に伝わり、記憶系を麻痺させる。恐怖や不安感を失くすようにするためではないかと思われる。脳と身体を臨戦態勢にすることで、体調の変調までさせてしまうのである。

さらに、コルチゾールが海馬を刺激し続けると、海馬が委縮してしまうことが分かっている。海馬というのは、記憶を司る大事な場所。海馬が委縮すると、記憶障害が起きるし、ひどくなると認知症にもなってしまう。コルチゾールによって血圧が上がり脈拍数を上げて、血糖値も上げてしまうと、生活習慣病になってしまう。脳血管障害や心筋梗塞を起こすこともあろう。怒りの感情というのが、どれほど自分の身体を傷つけるということが解る。怒りはメンタルの病気を起こすこともあるし、生活習慣病の元になると言っても過言ではない。怒りは一刻も早く手放さないと、自分の身を焼き尽くすのである。

とは言いながら、怒りを爆発させると人間関係を損なうから解放できないし、我慢するのもよくないとなったら、どうすればいいのだろうか。怒りを手放すにはどうすればいいのかというと、脳内の怒りの感情を上手に処理するしかないのである。怒りの感情は右脳に記憶される。そして、右脳にある怒りの記憶は、忘れようとしても忘れることが出来ないし、時々怒りの記憶が蘇り自分を傷つける。だから右脳から左脳に怒りの記憶を移し替えるのである。そうすれば、第三者的に客観的に怒りの記憶を眺められる。ああ、あの時私は怒りの感情があったんだと、過去のこととして冷静に自分の怒りの記憶を見れるようになる。そうすれば、怒りは偏桃体を刺激しないし、コルチゾールも出ないから海馬を委縮させない。

それでは、怒りの記憶をどのようにして右脳から左脳に移し替えればいいのだろうか。移し替えのコツは、カウンセリングである。右脳にある怒りの感情を誰かに話して、その話を傾聴してもらい否定せず共感してもらうのである。そういうことを何回か繰り返すと、怒りの記憶を右脳から左脳に移し替えられる。日記やブログでもいいが、その際否定されたり馬鹿にされたりすると効果がない。優秀なカウンセラーは、自分のことのように相手の話を聞く。けっして否定したり無視したりせず、相手の身になったように共感するのが、本当のカウンセラーである。『イスキアの郷しらかわ』では、まずはこのようなカウンセリングをしたい。怒りの感情の処理を手伝いするので是非利用してほしい。

 

運命か、それとも自由意志か

我々人間は、運命によって支配されているのであろうか。それとも、自分の運命は自由意志によって、どのようにでも変えられるのであろうか。2000年以上も今まで議論をされ続けてきた問題であるが、結論はまだ出ていない。今までは、観念論や宗教哲学等として考察されてきたのであるが、最近は最先端の科学的手法によって、その真偽が明らかにされようとしている。面白い結論が導かれようとしていることが、実に興味深い。

物理学者、量子力学者、神経学者、脳科学者たちは、運命か自由意志かの検証を続けている。ノーベル物理学賞を受賞したトホーフト博士らは、量子力学や素粒子の観点や神経学の実験などから、実に様々な仮説を唱えている。一部の科学者は、人間は自由意志を使って自分の行動をコントロールしているように見えるが、無意識の意識が行動を起こす10秒前に働いていて、意識している意識に影響を与えているこという実験結果を示し、やはり人間は何らかの見えないものに操られているのではないかと結論付けている。運命に支配されているというのである。

一方、ある量子物理学の博士たちは、素粒子の不確定性原理を用いて、量子力学のあいまいさによって、ある程度人間の意識が物体に影響を及ぼすことが出来ると説いている。つまり、100%ではないにしても、ある程度の部分は人間の意識で運命をも変えられるのではないかという仮説を主張しているのである。いずれにしても、どちらの仮説も、完全に実証されている訳ではない。どちらを信じるかは、本人の選択によるであろう。

ところで、カリフォルニア大学のジョナサン・スクーラー氏は、実に面白い実験を実施した。学生を被験者にして、まず2つのグループに分けた。一方は、人間は運命に支配されているので自由意志で運命を変えることは出来ないというメッセージを長い時間受けたグループである。もうひとつのグループでは、自由意志で人間の人生はどうにでも変えられるし、運命さえも自分の意思により変えることが出来るというメッセージを長い時間見せられたのである。そして、あるダミーの問題を解くように指示を受け、採点の時間がなくなったので自己採点をするようにとの指示を学生たちは受けた。しかも、その問題は超難問であり、殆どの学生が2問くらいしか正解出来ない問題であるし、正解ひとつに付き1ドルを用意した小瓶の中から自由に取ってよいとしたのである。

そうしたら、実に面白い実験結果になったという。自由意志で運命さえも変えられるというメッセージを受け続けた学生は、殆ど誤魔化しをしなかったという。ところが、人間は運命によって支配されているから自由意志は働かないというメッセージを見続けた学生は、正解以上の1ドルコインを手にしてしまったという。つまり、人間は運命に縛られていると思い込んでしまった学生は不正を働き、人間は自由意志によって行動するとした学生は、正義感や倫理観が高くなり不正を働かなかったということらしい。

何故、そんなことになってしまったのかというと、どうせ自分は運命によって支配をされているのだからということで、正しく生きるべきだという倫理観が低下してしまったらしい。または、元々あった欲望の暴走が、運命によって支配されているということを言い訳にして止められなかったという見方をしている。いずれにしても、人間とは自由意志で生きていると思っているほうが、倫理観が高まるし、運命に支配されているから自由意志は働かないという考え方は、人間の道徳観念を著しく低下させるということである。我々はどんな価値観を持って生きるべきかということを如実に示していると言えよう。子どもたちの教育にも、生かしていきたいものである。

 

スピリチュアル依存症

スピリチュアルという言葉が独り歩きしている。しかも、そのスピリチュアルという言葉が心地よく聞こえるのか、それにどっぷりと浸かっている人たちが増えている。そして、このスピリチュアルに心奪われ人は、ウィルスに感染しているかのように、急激に広がりを見せている。以前は、魂だの霊だのと言う人は、どうしても胡散臭く見られていたのに、スピリチュアルという洒落た語感が功を奏したのか、同じことを言っても受け入れられることが多くなった気がする。しかし、それによりとんでもない悪影響を与えつつあるのも事実である。つまり、自分に不遇な境遇が現れると、自分のせいではなくてすべてスピリチュアルな要因にあると思い込んでしまうのである。そして、そのスピリチュアルにすっかり依存してしまって、頑固な態度で聞く耳を持たなくなっている人々が急増しているのである。

この言わばスピリチュアル依存症と呼べるような人々は、一旦信じ込まされてしまうと、他の人の忠告に耳を貸さず、頑なに思い込む傾向にある。何故かというと、自分の不遇がこのスピリチュアルなものに原因があると言われたほうが、心が休まるからである。自分に与えられた苦難や困難が、自分の生き方に問題があったからだと指摘されるよりも、前世からの課題や試練によってもたらされたものだと言われたほうが、耳に心地よいのは当然だ。このようなアドバイスをするスピリチュアルカウンセラーは、自分でも無意識のうちに、このような助言を無責任にしてしまう。具合の悪いことに、自分でもそのように信じ切っているものだから、クライアントに対して自信満々の態度で伝える。それも、様々な小道具や音楽・アロマ等を利用するものだから、深く潜在意識に届く。したがって、疑いもせずすっかり信じ込んでしまうのだ。

このスピリチュアルという呼び方も拙い気がする。スピリチュアルカウンセラーとかスピリチュアル占いとかいうと、怪しげな感じがしない。霊魂カウンセラーなんて呼んだら、いかにも怪訝そうな気がするだろう。このソフトなイメージによって、多くの人が惑わされている。勿論、スピリチュアリティそのものがこの世に存在しないし、そんなのはすべてまやかしである、などという乱暴なことを言うつもりもない。科学的には証明出来なくても、集合無意識ということや、過去世の記憶を持って生まれてくる人間の仕組みを信じていない訳ではない。だとしても、今のスピリチュアルブームは異常であり、誤解している人が多いし、あまりにも依存し過ぎているのは問題と言える。

スピリチュアルブームの火付け役の一人である、元福島大学の教授だった飯田史彦氏は、社会に対して警鐘を鳴らしている。自分の性格・人格・人間性に問題があり様々な苦難困難と巡り合うケースで、真にスピリチュアリティに原因があるケースは、僅か10%以下であると言い切っている。彼はスピリチュアリティにおける特殊な能力を持ち、ボランティアでかなりのクライアントを救っている。その解決事例を通してそのように断言している。彼は、このカウンセリングにおいて一切料金を取っていない。ところが、スピリチュアルを利用してヒーリングをしている人々は、結構法外な料金を請求している。それで商いをして生計を立てているのである。つまり、クライアントを多く取りたいし、逃がしたくないのである。本人には悪気はなくても、こういう人は信用出来ない。

スピリチュアルを商売にしている人々がすべてまやかしであるなどということを言うつもりもない。しかし、すべてのクライアントに対して、これはスピリチュアリティに問題があって、前世の誰それがいたずらをしていると答えているようなカウンセラーは、信用出来ない気がするのである。そして、スピリチュアル依存症の人々を利用してお金を巻き上げるなんて、許せない所業である。自分のつらい境遇すべてに対して、スピリチュアリティを原因にしてしまったら、謙虚に自己を反省しないし、自己成長や自己の確立を遅らせてしまう。自分に起きている苦難困難が、すべてスピリチュアリティに問題があって起きている訳ではないということを認識してほしい。自分の目の前の試練から、スピリチュアリティに逃げないでほしい。そうしないと、本当の解決はやって来ない。スピリチュアル依存症から勇気を持って撤退してほしいものであり、今の自分自身を素直に見つめてほしいと思う。