何故、殺人と自殺はしてはならないのか

相模原の施設で障害を持たれた方々の殺傷事件が起きた時、世の中の人々は戦慄した。しかも、この犯人はまったく事件を起こしたことを今でも反省することなく、自分の行為を正当化しているのである。重度の知的障害を持たれた方々は、この世に不要な存在だから抹殺してもいいという、とんでもない論理に毒されている。優生思想という間違った考え方に凝り固まっているのが、実に情けない。それにしても、平気で人を殺すという行為をすることが理解できない。この事件が起きた時に、あまりにもセンセーショナルな事件が故に、人が人を殺すという行為に対する分析と洞察がなされなかったのが残念である。何故、人を殺してはいけないのかという観点から分析し報道しているマスコミはなかったように記憶している。

若者も含めて一般の人々に「何故、人を殺してはいけないのか」という質問をして、明確に答えられる人は殆どいないことだろう。勿論、法律違反で犯罪になるからという理由というのは当たり前のことで、法的な意味での問いではない。形而上学や形而下学的に考察して、何故人を殺してはいけないのかを明確に答えてほしいのだが、誰にも解る言葉でその理由を語れる人はごく少数であろう。人を殺してはいけない理由を、単なる精神論で述べたとしても、誰も納得しないだろう。やはり、科学的にその理由を明確に述べてこそ、多くの人々を納得させるに違いない。社会科学的に、人間科学的に、そして最先端の自然科学的に述べてほしいし、それを皆が納得出来てその価値観を持って生きられたら、あんな悲惨な凶悪事件は二度と起きないであろう。

この人間社会全体は、人間というひとりひとりの構成要素で成り立っている。つまり人間である『部分』が寄り集まって人間社会という『全体』が形作られているのである。そして、その人間は一人として同じ人間は存在しない。ひとりひとりの遺伝子DNAは勿論のこと、姿かたちも性格も考え方も違っている。いわゆる多様性を持っているのである。多様性があるからこそ、私たち人間すべての一人ひとりに存在価値があるのである。人間それぞれ違いがあるからこそ、自分と他人の違いを認識できで真実の自分を知ることが出来るし、違った価値観や人格があるからこそ、お互いの出会いの中からその違いを学んで自己成長を遂げることができるのである。自己成長をさせてくれる為に出会う他人を殺してこの世から抹消することは、自分の自己進化や成長を妨げることにもなるのである。

また、人間社会全体の中に、部分である一人ひとりの人間がすべて含まれるのは勿論だが、カール・グスタフ・ユングの説いた心理学においては、そのひとりの人間の中に全体が含まれていると説かれている。さらに、ひとりの人間の中の自己人格の中に、世界すべての人間の自己人格が含まれているとも説明している。そして、この理論は単なる観念論ではなくて、事実であることが様々な検証によって明らかにされつつある。ということは、他人を傷つけたり殺めたりするということは、自分を傷つけ殺すということにもなるのである。つまり、他人を殺すことは自分を殺すことになるので、絶対にしてはならないのである。

このように、自分にとって出会う他人という存在は、自己成長や自己進化を遂げさせてくれる貴重な存在だから、けっして抹消してはならないし、自分自身を否定することにもなるから、出会う他人を殺してはならないのである。仏教においては、このことを自他一如(じたいちにょ)という言葉で言い表している。縁起律(えんぎりつ)=関係性によって存在するこの宇宙全体は、人間だけでなくすべての存在そのものが尊いものなのである。例え草木一本とて、そのひとつでも無くしてしまうということは、自分の存在をも否定することになるのである。驚くことにこの真実が、最先端の宇宙物理学、量子力学、脳科学、細胞学、分子生物学、などによって明らかにされようとしているのである。人を殺してはならないというパラダイムが、自然科学によっても証明されつつあるのである。

 

この大切なパラダイムは、もっと重要なことも示唆している。人を殺すことは自分をも否定し殺すことになるということは、逆に言うと自分を殺すということは他人を殺すということと同じだということである。自分はこの世の中を構成する一員であり、関係性によって存在し全体を構成するのになくてはならない貴重な存在なのである。自分を抹消してしまうと、他の人が幸福で心豊かに生きるのを阻害してしまうばかりか、社会全体の進化や成長をも停滞させてしまうのである。自殺してしまうということは、自分ばかりでなく多くの人々をも不幸してしまうことなのである。人間には、すべて生まれてきた意味があり、それぞれの存在価値がある。だからこそ、他人を傷つけたり殺したりしてはならないし、自分を自分の手で抹殺してはならないのである。

命の大切さと「心のノート」

子どもたちの間で、たいした理由もないのに殺人事件や傷害事件が起きている。怒りや憎しみが高まっての犯行なら理解できる。または自分が攻撃されたから、その対応策として仕方なくということなら納得もする。しかし、最近の子どもたちの凶悪事件の理由を見ると、実に不思議な理由で凶行に及んでいるのである。例えば、ただ単に人を殺してみたかったとか、うざったい存在だったからとかの理由で犯行に及んでいるのである。子どもたちが集団でリンチ殺人を起こしているケースでも、生意気だったとか自分達を無視したからという些細な理由で殺人を起こしている。人の命をどのように考えているのだろうか。命の大切さを知らない訳ではあるまいに、どうしてこんな無残なことをするのであろうか。

 

それにしても不思議なのは、学校では命の大切さの教育をしているのかという点である。そういえば、自らの命を絶ってしまう可哀想な中学生・高校生も毎年かなりの数に上る。こういう事件が起きる度に、学校や教委は命の大切さの教育はしていると主張し、これからも命を大切にする教育を充実したいと述べている。本当にそうなのであろうか。数年前に佐世保市の高校生によるバラバラ殺人事件が起きた際に、同市の教育関係者はインタビューに応えて、10年前に起きた小学生の殺人事件以来、命の大切さを子どもたちに教えてきたと語った。しかし、佐世保市の教育関係者が命の大切さを訴える教育を続けてきた努力が、結果として報われなかったのである。もしかすると、命の大切さの教育に重大な欠陥があったのではないかとも思えるのである。

 

さて学校現場で、命の大切さを教育する際に、どんな教育をしているのかというと、文科省が発行した「心のノート」という道徳教育の副読本が基本になっているのではないかと見られる。この「心のノート」を見れば、どんな教育をしてきたのかが、およそ見当が付くと思われる。この「心のノート」については、いろいろな批判が寄せられてきたのも事実である。日教組は心のノートに批判的であるし、リベラル派と呼ばれる人たちは、その導入に反対してきた歴史がある。確かに部分的には、時の権力者に有利な内容が記載されていると見ることも出来なくない。しかし、それはたいした問題ではない。「心のノート」に記載されている命の大切さを伝える部分は、かなり充実しているし内容的にも素晴らしい。

 

実際に「心のノート」小学生5・6年生版を見てみよう。この心のノートでは、多くのページを割いて、命の大切さについて語っている。代表的なものに『生命を愛おしむ』という記述や『かけがえのないいのち』という記載がある。内容は、本当に素晴らしいと言えよう。マザーテレサの言葉「この世に必要のない命などひとつもないのです」なども引用して、命の大切さを切々と訴えている。この命の大切さを説くだけでなく、友達との関わり合いや社会での支えあい、そして自然からの恵みによって生かされている自分、人間の力を超えたものがある、というような生きるうえで大切なメッセージが、宝石箱のように散りばめられている。こういった内容が子どもたちにきちんと伝わっていれば、悲惨な事件が起きる筈もないのである。

ところが現実に事件は起きているのである。それじゃ、何が足りなかったのか、何が間違っていたのか、ということが問われる。おそらくは、この「心のノート」を正しく、しかも子どもたちの心に響くように伝えられる教師が居なかったのだと思う。この心のノートの真の意味を知り、高い価値観を持って深く認識し、子どもたちに自分の言葉で語りかけられる哲学を持たなかったのであろう。何故なら、先生たちもまた心の教育がなおざりにされてきたからである。自分が正しい心の教育を受けていなければ、子どもたちに対して、間違いのない心の教育が出来る筈もないであろう。文科省が義務教育と高等教育において、価値観の教育をなおざりにしてきた弊害が出たのである。

この「心のノート」は、あの神戸の連続殺傷事件が起きたことを受けて、当時の政治家たちが危機感を持ち、官僚主導ではなくて政治主導で作り上げたものである。文科省の官僚だけでは作りえなかった、貴重な教材なのである。バカな民主党は、この心のノートを仕分けで廃止してしまったが、自民党は復活させた。悲惨で凶悪な少年事件を二度と起こさない為にも、そして自殺しようとする青少年を救う為にも、心のノートの内容を正しく子どもたちに伝えられる教師を育ててほしいものである。もし、それだけの力量を持ちえない教師しか居ないのであれば、外部から積極的に学校に講師を招聘してほしいものだ。命の大切さを一刻も早く子どもたちに伝えないと、このような命をないがしろにする事件が後を絶たないと警告したい。

教育とは誰のためにするのか?

学校教育とか家庭教育、社員教育であろうと、教育をする者としてのその使命と役割が重大であることは、誰しも共通の認識であろう。しかしながら、その重大な使命と役割が何であるのか、正確に認識している教育者は殆どいないのではなかろうか。その証拠に、教育を受ける側が、学ぶことに対してけっして能動的とは言えない態度であり、学ぶことの楽しさを味わっているとは思えないからである。それ故に、教育効果があまりにも低いばかりか、誤った教育に対する考え方が蔓延し、社会への悪い影響を与えているように感じる。あまりにも自己本位で、責任感もなく自発性と主体性のない、自分のことしか見えず目の前の欲望に押し流される人間があまりにも多いのである。それは教育の不備や失敗によるものだと断言してもよいだろう。

そもそも、何のために教育をするのかという理念さえも誤解している教育者が多いことに驚く。子どもたちに何のために学ぶのか?と聞くと、自分の為と答える子どもが多数を占める。ここからして間違っているのだから、教育の理念などないに等しい。保護者も含めて多くの教育者は、良い高校大学に入って安定した優良企業に就職することを目標にしなさいと子どもたちに言い聞かせ、勉強は自分の為と公言して憚らないのである。これでは、子どもたちが勉強を好きになる筈もないし、勉強の成果などあがることなど期待できないであろう。何故なら、学ぶ本当の目的は他にあるし、なにしろ人間という生き物は、自分の為には頑張れないように出来ているからである。

という私も小さい頃から、勉強は自分の為にするんだと親や教師から言われて育った。おかげで、勉強が大嫌いでいつも落第すれすれの点数であったが、かろうじて高校を卒業後に私立大学を出て、地元の安定した団体の職員として就職した。当然、自ら勉強する気持ちにもなれず、就職した後も人間として大切な思想哲学の勉強さえしない、まったくのお気楽人間として人生を送っていた。かろうじて好きな読書は続けていたが、本来学ぶべき人間の生きる目的や理念を学ぼうとしなかったのである。今から思うと、まったく恥ずかしい限りであり、若いときにもう少し勉強すれば良かったと思っても、今さら後の祭である。そんな馬鹿な自分も、我が子の子育てをして行くうちに、教育の真の目的と役割を気付かせられたのである。

教育は何の為にするかと言えば、周りの人々を幸福にする為、つまり社会貢献をするのに必要だからである。この世の真理である全体最適という人間全体の命題を実現する為にこそ、人間は学ぶのである。人の為世の中の為に学ぶのであるから、勉学を怠けてはならないのだ。自分の為だけなら、将来困るのは自分だけだから、自己責任なので勉強しないのも許される。しかし、この世界全体や宇宙全体の為に学ばなければ、自分のせいで社会全体を不幸にするかもしれないのだ。責任が重大なのである。IPS細胞を発見した山中教授が、もし若い頃勉強しなかったら、研究の成果を得られずに、多くの人々を幸福に出来なかったかもしれない。エジソンやビルゲイツが青少年時代に勉強しなければ、私たちの生活はこんなに便利にはならなかったかもしれないのだ。

学ぶ目的が明確になれば、子どもたちは生き生きとした勉学態度に変化する。そして、第2第3の山中教授も出現するであろう。そのような学びに対する考え方、つまりは思想哲学を子どもたちや社員たちにしっかりと伝えるのが、教育者としての使命であり、大きな役割だろうと考える。そして、自ら進んで学ぶ姿勢を持ち、喜びを持って社会のために働くという、自発的で主体性を持ち、しかも自らの責任感をしっかりと持った人間を育てることが、教育者としての大きな使命であり役割でもあると考える。恥ずかしながら還暦過ぎた年齢になった今、勉強が楽しくて仕方がない。思想哲学の勉強を日々楽しく続けさせてもらっている。どうしたら多くの人々を混迷の世界から救い出せるか、そして真の幸福を多くの人々にもたらすことが出来るか、浅学菲才の私なので成果はあまりあがらないが、毎日勉学に勤しんでいる。おかげさまで、何の為に学ぶのかという真理を、少なくても自分の子どもたちには伝えることが出来たと自負している。正しい教育をすることが、人間としての大きな社会貢献なのだと確信している。

間が悪い人

世の中には、何をやってもタイミングが悪いというのか、どんなケースでも満足の行くような結果を出せない人がいる。そういう人は、普通の人と比較すると、何かがずれているというのか、何をやっても上手く行かないのである。そういう人を、総称して『間が悪い人』と呼ぶことが多い。私の周りにも、そのように間が悪い人が沢山いる。こういう人は、何が悪いとか、能力が劣っているとかいう訳ではないのに、不思議なことにどうしても拙いことが起きることが多いのである。おそらく本人も原因が解らず、困っているだろうが運がないなあと思っていることだろう。

そういう間が悪い人というのは、何をやっても結果が思わしくないことが多い。タイミングが悪いせいなのか、フライングみたいなことをしたり、時期を失したりして後手に回ることが多い。物事というのは、ベストタイミングというものがある訳で、その時期を上手く見極めないと、物事は上手く進まないのである。そのタイミングをどうしても外してしまう傾向がある人は、どういう訳か何度もそういうことを繰り返すのである。実に不思議なことであるが、非常に不器用でもあるのだ。周りから見ていると、何であのタイミングでするのかと、危なっかしいのであるが、本人はまったく気付いていないのである。

さて、そういう間が悪い人は、何が原因でそうなっているのであろうか。タイミングをずらしてしまうとか、適確な選択肢を選べないというのは、何に由来しているのかを知りたいに違いない。こういう間が悪い人に共通なことは、まずは不器用でありさらには決断力がないというのか、何かを実施する際に迷ってしまうことが多い。つまり、一旦こうと決めたら、何が何でもやり遂げるという決断力と実行力があまり感じられないのである。そして、本人の自主性や自発性、さらには責任感や主体性も持ち得ないケースが殆どである。どんな結果になろうとも、すべての責任は自分で取るという強い決意が感じられないのも特徴的である。

おそらくこのように間が悪い人というのは、単に運が悪いということだけではなく、本人のメンタルモデルに原因がありそうである。ここでいうメンタルモデルというのは、単なる思考の癖とか性格という意味だけでなく、もっと根源的な本人の生きる上での価値観や、思想哲学的な言動のパラダイムを含んでいる。別な言葉で言い換えると、間違っている『ドミナントストーリー』を抱えているのだ。だからこそ、間違ったタイミングや選択肢を取ってしまうという致命的な誤りを何度も繰り返すのであろう。そして、こういう間が悪い人に限って、その根本的な原因を追究することなく、ただ単に運が悪いとか周りの人々や環境のせいにしてしまっているのである。

こういう間が悪い人は、人生を送る中で変な人と出会い苦労する。それは恋人だったり配偶者だったりするし、会社の上司や同僚、または嫌な部下だったりもする。恋人ならば別れれば済むのだが、配偶者になってしまえば簡単に離婚する訳にはいかない。会社の上司や同僚も自分で選べないし、部下だって基本的には会社から押し当てられるだけである。何故、こんな変な人と自分は巡り会う運命なんだろうと自分を呪うかもしれないが、それもこれもすべて自分のメンタルモデルが引き起こしているとするなら、自分の悲運を恨んでだけいられない。自分のメンタルモデルを変革すれば、劇的に運命は好転するのだから、運命を嘆いてはいられないのである。

それでは、メンタルモデルをどのように変革できたら、「間が悪い人」を卒業できるのであろうか。マサチューセッツ工科大学(MIT)の上級講師であるペーター・センゲ氏は、メンタルモデルの変革はこのようにしなさいと助言している。氏は複雑系科学に根ざしたシステム思考の哲学を推奨しているが、簡単に言えば「全体性と関係性」を根幹にした価値観・思想・哲学を持つことだと論じている。人間は、どうしても自我の欲求に惑わされる。つまり、自分の損得や利害を優先させて物事を進めてしまうのだ。しかし、世の中の仕組みや法則は、常に全体最適を目指しているし、関係性によってそれが保証されているのである。それが最先端の科学により真実だと証明されつつある。私たち人間も、個別最適でなくて全体最適(人類全体の幸福追求)を目指して行動すべきなのである。その為に、他人との関係性を大切にして生きていくことが求められている。このような生き方が無理せず当たり前のように出来たならば、嫌な人とも出会わないし、間が悪い生き方からも解放されるのである。

ごめん、愛してる

「ごめん、愛してる」は韓流ドラマのリメイク版らしい。反韓感情が盛り上がっているこの時期ということもあって、視聴率はいまいちらしいが、実に感動的な人間ドラマに仕上がっている。韓流ドラマらしくご都合主義的な筋書きではあるが、純愛や家族愛をけれんみなく描いていて、好感が持てる。何よりも素晴らしいのは、単なる恋愛や家族の絆をテーマにした物語ではなく、人間哲学を主題にしているという点である。主人公がドラマの中で自問自答をする「俺は何の為、誰の為に生まれてきたんだ?」という台詞に共感を得る。人間にとって永遠のテーマである、自分が生まれてきた意味や生きる目的を熱く語るドラマには、なかなかお目にかかれないからである。

 

今時の若者は、自分の生まれてきた意味や生きる目的について深く考える機会に恵まれないこともあり、避けて通ってきたのではなかろうか。深く考え過ぎて悩み苦しみ、メンタルを病んでしまう若者にもたまに出会うが、こういう難しいテーマよりも面白おかしく生きたいと考える若者のほうが多いように思う。そんな七面倒なことを考えるより、ゲームに興じて、お笑いやバラエティ番組にうつつを抜かしていたほうが、人生は楽しいと考える輩が多いことだろう。人生の目的についてブログを書くと、人生の目的なんてなくても生きられると平気でコメントを入れてくる愚か者がいる。確かに生きる目的なんてなくても、生きられるのは当たり前である。

 

生きる目的のある人生と、目的のない人生ではとんでなく大きな違いが出てくることを知らないから、そんな馬鹿げたことを平気で言うのであろう。実に情けないし、可哀想なことである。明治維新よりも前に生きた若者たちは、生きる目的について深く考える機会を持てたし、悩み苦しんできた。本来、青春とか思春期というのは、そういうことを悩み苦しむ時期なのである。日本人は、生きる目的を持たないから、実に薄っぺらな人間に成り下がってしまった。考えてみるがいい、目的のない人生というのは、海図のない航路に船出したようなものである。行先がないのだからいずれ迷い、難破するのは当然である。

 

「ごめん、愛してる」の主人公リョウは、自分を産み捨てた実の母親を憎み、仕返しをしようと企み、実母の家族に近づく。憎しみ恨みで凝り固まったリョウは生きる目的もないから、マフィアという裏社会で暴力的で刹那的な人生を歩んできた。そして、実の母親に名乗れず蔑まれながらも、自分の母と弟との関わりあいを持つうちに、自分の生まれてきた本当の意味を知ることになる。自分の命を捨てても、誰かの為に役に立つ喜びを知るのである。自分の幸福や豊かさの為だけに生きることの愚かさ、そして悲しさをも認識するのである。

 

主人公リョウが面倒を見ている知的障害の母とその子が出てくる。池脇千鶴がその母親を好演している。実に純粋な人間であり、嫌みなところがこれっぽっちもない。自分のことよりも、周りの人々の幸福を願い、他人のために尽くすことを喜びとしている。こういうピュアな心を持った人を見ると実に嬉しくなる。自分もこうありたいと強く思うが、出来ないもどかしさと恥ずかしさを感じる。主人公のリョウも、このような純粋な親子に出会ったことで、生まれてきた意味や何のために生きるのかということを考えるきっかけになった気がする。

 

次週はいよいよこのドラマは最終回を迎える。韓国では、冬ソナを超える視聴率だったという。儒教のお国柄ということもあり、こういう人間ドラマが好まれるのかもしれないが、韓国のテレビ界もなかなかやるではないか。主人公リョウが果たしてどんな結末を迎えるのか興味深いが、悲劇の主人公となるのは間違いないであろう。ただし、このドラマを単なるお涙頂戴の純愛ドラマとしてだけ見るのではなく、自分が生まれてきた意味や生きる目的を考えるきっかけにしてほしいと強く思う。自分が誰のために生きるのか、何のために生きるのかを教えてくれる素晴らしい物語に出会ったことを幸せに思いたい。

母性と父性

母性と父性の違いについて、正確に述べられる人はそんなに多くない筈である。そもそも、母性と父性を勘違いしている人も少なくないし、現在の日本において母性と父性を的確に生かしながら子育てをしている家庭は非常に少ないと思える。母性愛と父性愛を豊かに注いでいる子育てなら、子どもたちも健全に育つし、様々な教育上の問題を起こさないばかりか、家族というコミュニティも一つにまとまって、良好な絆を保ち続けることだろう。逆に母性愛と父性愛を不的確に捉え、しかも豊かに発揮できない家庭では、不登校、ひきこもり、DV等のいろんな家庭内の問題が起こることであろう。それなのに教育問題の研究においても、母性と父性にあまり注目されていないのは実に不思議なことである。

日本の一般的な家族に、母性と父性を意識したことがありますか?と質問したとしたら、おそらく半数以上の家庭はNOと答えるに違いない。そんなこと、両親からも伝えられていなかったし、ましてや学校教育では母性と父性の大切を教えている訳がない。仏教哲学が広く普及していた江戸時代以前は、母性と父性について実に解りやすく教えていたように思う。つまり、仏教哲学においては仏像という偶像を利用して、誰にでも理解できるように伝えてくれていたのだ。観音様は母性を代表する仏像であり、対比しての仏像として弥勒菩薩や勢至菩薩がある。また、父性を表す不動明王に対比して、愛染明王がある。さらには、母性を示す阿弥陀如来に対して、父性の象徴とも言える薬師如来がある。こうして、母性と父性を衆生に解りやすく教示していたに違いない。

そもそも母性と父性というのは何であろうか。父性は条件付の愛であり、母性は無条件の愛と言われている。または、仏教的に言えば母性は慈悲や情であり、父性は智慧や法理であろう。つまりは、互いに相反することであるから、大人であれば両立は可能であるものの、子どもにしたら迷いが生じるのであろう。間違いなく言えることは、子どもに取って先ず必要なのは母性(無条件の愛)であり、それが満たされて初めて父性(条件付の愛)である躾を受け容れることが出来るのである。この順序を間違えると、子どもは一生苦しむことになる。つまり、最初に父性を発揮して育てられた子どもは、自我を克服出来ずに、自己の確立がなかなか出来ずに、真のアイデンティを持てなくなるのである。実は、現代における大多数の人々は、このアイデンティの確立が出来ずに大人になっている。それは、とりもなおさず母性と父性が正しく発揮されずに育てられているという証左でもあろう。

現代の子ども、または若者たちは大きな生きづらさを抱えて生きている。その訳は、やはり母性愛と父性愛を的確にしかも豊かに与えられていないからではなかろうか。どちらかというと、父性愛である条件付きの愛ばかりを受け取り、母性愛をあまり与えられているとは思えない。条件付きの愛である「躾」ばかりを押し付け、子どもを支配し制御しているように感じる。「どんなあなたでも、どんなことがあっても永遠に愛します」というメッセージや意識を注いでいるようには思えないのである。親は子どもを愛しているのは間違いないが、子どもの精神的自由を奪ってまで、自分の思い通りの理想の子ども像を押し付けてはいないだろうか。

 

それでは両親揃っていないと母性と父性を活用した子育てができないかというとそうではない。一人親子育てでも、母性と父性を共に上手に成功している例は少なくない。しかし、それはあくまでも表面上のことであろう。その子どもの心の内面に迫ると、実は多くの問題課題を抱えていて、実に生きづらい人生を送っていることが少なくない。何故なら、そもそも母性と父性というのは相反するものであり、1人の人間の中に両立させたとしても、その母性と父性を受け取る子どもに取っては、どちらの母親が本当の母親なのか、微妙な迷いや不安が生じるのである。やはり、両親またはそれに替わる誰かの一方が母性を演じ、もう片方が父性を演じるほうが、子どもは納得しやすいのだ。子どもの心にしてみれば、1人の人間が両方発揮するというのには相当理解に苦しむことであろう。祖父母、または叔父叔母のどちらかが片方の愛を発揮してもいいし、地域の誰かがその役割を担うことも考えられる。

両親が揃っていても、母性と父性がうまく発揮できていなのは何故かというと、一番問題があるのは父親であろう。父親が正しい父性(条件付の愛)を発揮出来ていないからである。子どもに気に入られようと、妙に子どもにおもねるというかご機嫌取りに終始して、本来の正しいしつけが出来ていないのである。当然、母親は安心して母性を発揮出来ずに、しつけである父性を最初から発揮する羽目になる。さらに、子どもに対して思想哲学を教えるのは、やはり父性(法理)であるから父親である男性の役目であろう。しかし、自分自身のしっかりした哲学を持ちえていない父親であるから、情けないことに世の中の理(ことわり)を教えられないのである。母親は、子どもに対してしっかりした思想や哲学を教えられる父親だと確信できたら、安心して無条件の愛である母性愛だけを発揮できるのである。さらに言えば、夫が妻に対して無条件の愛で包み込んで上げられた時に、妻は子どもに対して豊かな母性愛を注げるということも付け加えておきたい。

無縁社会に陥る原因とは

今の世の中、無縁社会と言われている。NHKTVにおいても、クローズアップ現代で無縁社会を何度も取り上げている。過剰演出だという批判もされているようだが、家族というコミュニティは、確かに崩壊している場合が多いようだ。昔は、生活保護を受けるという人は滅多にいなかったものだ。子どもが老親を面倒見るというのが当たり前だった。また、子どもがいない人は、兄弟と甥や姪が面倒を見るというのが当然だった。しかし、今は実の親でさえ見捨てる子どもがいるのだ。

こんな例も多いという。年老いて病気になり、入院した母親が入院費を払えないというので、近県に住む息子に病院のケースワーカーが連絡した。その息子は、著名な都市銀行に勤める管理職だったらしい。しかし、親を面倒見るつもりはないから、生活保護を申請してくれと言ったとのこと。若い時に何かあったのかもしれないが、十分な収入がありながら、実の親の入院費や生活費を負担しないというのは、とても考えられないことだ。別世帯であり、収入も財産もないから、生活保護は認められたが、何となく腑に落ちない話である。

こんな世の中だから、益々生活保護世帯が増加している。子どもでさえ面倒見ないのだから、親戚が生活費を負担する訳がない。離婚が増えているのも、こういう一人暮らしの老人が増えている要因にもなっている。母親に子どもは付いてくるが、父親は子どもから見捨てられるケースが多い。こうなると、年老いて一人暮らしになる男は惨めだ。女性は一人暮らしが苦にならない場合が多いが、男性の一人暮らしは寂しい。孤独に耐えるのが、男は難しいという。身から出た錆とは言いながら、一人寂しく老後を過ごす男も多い。

さて、こういう無縁社会の原因は何だろうか。家族というコミュニティが崩壊したのは、何故なのだろうか。いろいろ原因はあげられるようだが、家族というものに求心力が無くなっているのは事実である。つまり、家族の関係性が希薄化しているということだ。夫婦は簡単に離婚するし、親子や兄弟の縁も非常に薄くなっている。絆(きずな)というものが、お互いに感じられない世の中なのかもしれない。本来、家族と言うのは強い絆で結ばれているものであるが、その絆がないということなのだろう。

本来人間というものは、単独では生きていけないものだ。社会という世界で、いろんな関係性によって生かされている。社会を構成する要素である人間が、その関係性をまったく無くしてしまったら、存続できないのである。何らかの関係性があるおかげで、衣食住や各種サービスを得られて生活していけるのである。そして、関係性を深く多く結べる人が、多くの人々から信頼され感謝され愛され、幸福な人生を送るのである。一方、関係性を結ぼうとしなかった人が、無縁社会と呼ばれる悲惨な社会で、寂しい老後を迎えるのである。

つまり、無縁社会というのは関係性をないがしろにした為に起きた必然的な状況なのではないだろうか。家族にしても地域にしても、関係性を大事にした生き方をしていたならば、絆は結ばれている筈で、そんなに簡単に絆が解けることはないものだ。つまり、個を大事にするような生き方ではなくて、お互いの関係性を大切にする生き方は、言い換えれば相手の気持ちになりきって、相手の幸せや心の豊かさを支援する生き方である。誰でも自分が可愛いものだ。しかし、敢えて自分を後回しにして、家族や周りの人々を利する生き方をしてきたならば、その人が困った際は、誰かが助けてくれる筈である。仏教用語で言うところの、忘己利他の生き方をしていれば、困った時に必ず援助者が出てくるものだ。情けは人の為ならずというではないか。

無縁社会というのは悲惨であるが故に、そうならないような施策が必要だ。政治や経済が悪いからだと、人のせいにしていたらいつまで経っても改善されない。先ずは、自分の生き方と意識を変えていく必要があると思われる。人々との関係性を豊かにするにはどうするかという命題に基づいた生き方考え方に、今シフトすべきなのである。その為には、意識改革も必要であろう。マスメディアも単に無縁社会をセンセーショナルに喧伝するだけでなく、その原因と対策をしっかりと洞察し明らかにして、人々に声高らかに伝えてほしいものである。

食の嗜好と心の状態

生活習慣病のうち、食事の偏りから起きる疾病は少なくない。代表的なものに、糖尿病や高脂血症があげられる。さらに、動脈硬化症とそれによる心筋梗塞や脳疾患も食習慣によって多大な影響がある。最近の医学研究によると、特定のガンもやはり食習慣にかなり左右されることも判明している。さらには、食事によって腸内環境が変化して、いろんな疾病の発症にも関わってくるということが判明している。生活習慣病ではないが、うつ病などの気分障害やパニック障害などにも腸内環境が影響しているらしいから、食習慣や食の嗜好が心身の健康に多大な影響を与えているということは間違いなさそうである。

 

食習慣が人間の性格にまで影響を及ぼしているのではないかとの研究をされている学者もいる。これはエビデンスを得ることが難しいことから、あくまでも観察した事象や類推によるものでしかない。でも、説得力のある仮説のような気がする。野菜を中心にした食事や自然食を好んで食している人間は、心が穏やかになり周りに対する思いやりや配慮が出来るし、優しい性格になるという。一方、肉食を中心にして野菜をあまり摂取しない人は、攻撃性が増してしまい、好戦的な性格になりやすいというものである。勿論、例外はあるものの、野生動物も同じような傾向にあるから、この仮説を信じる人は多い。

 

ところで、肉食動物は瞬発力があるが持久力がないから、狩りをしていても諦めが早い。草食動物は、瞬発力は肉食動物よりは劣るが、持久力は非常に高いことが知られている。おそらく精神的にも、なかなか諦めず持続性があるように感じる。人間もまた、肉食系は攻撃性が強く瞬発力が強いが持久力がなく、精神的にもめげやすくストレス耐性が低いと想像できる。草食系は、穏やかな性格なので対人関係で軋轢が少ないし、粘り強い性格でストレス耐性も強い。食生活の乱れは、心身の乱れに通じる。うつ病などの気分障害を起こしている方々は、食の嗜好が偏っていることが少なくない。

 

お寺に修行で入る若い僧たちは、概ね一汁一菜の粗食を摂る。何故なら、精神的な鍛練には粗食が必要だからである。貪り(むさぼり)の欲望に支配されていては、心が浄化されないからである。食欲は煩悩を燃え盛らせる。粗食を続けることにより、穏やかで何ものにも揺るがない精神を獲得するだけでなく、正しい心を持てるようになるのである。肉食や刺激物などを戒めたのは、心身共に不健康になると信じられてきたからだろう。厳しい修行や鍛練に応える為には、雑念を捨てることが必要である。菜食により、雑念からも遠ざかることが出来たに違いない。

 

誰でも経験していることと思うが、イライラしたり辛いことが続いたりすると、甘いものや炭酸飲料などを好んで食し、肉を食べたくなる。または刺激性の強い食べ物が欲しくなる。特に精神的に無理したり我慢したりした時に、そのような食の嗜好になりやすい。一方、心の豊かさを実感し周りの人々からの愛に満たされ、幸福感に浸れているような時には、野菜食や自然食でも満足し、優しい味の食事を好むようになる。ストレスが強い時に好む悪い食の嗜好は、時間の経過と共にさらに強くなり、なかなかそのような食習慣から抜け出せないことが多い。そして、ストレスを益々強く感じてしまい、怒りや憎しみの感情で満たされることになる。

 

ストレスフルな社会だからジャンクフードやファストフード、糖分の多い食事や炭酸水を好むし、肉食や刺激物を摂りたがるのも理解できる。ファストフード、肉食や刺激物の食事を止めて、野菜や果物、穀物などを中心としたスローフードの食事を続けると、穏やかな気持ちになれるし、心身の健康を得ることが可能となる。いきなり完全な菜食は無理にしても、ちょっとだけ我慢して、少しずつ野菜中心の食事にしてはどうだろうか。そうすれば、ストレスにも強い心も獲得できるに違いない。「イスキアの郷しらかわ」では、野菜中心の自然食を提供している。イスキアで何日間かこの食事を食べ続けると、デトックスされて穏やかでストレスに強い心を作ることになる。間違いなく心が癒されるので、是非とも試してみてほしい。

気分障害と腸内フローラ

最近、腸内フローラという語句が世間で注目されている。腸内には約1000種の腸内細菌が生きていて、総数1000兆個の細菌が住み付いていると言われている。以前は、その10分の1しか認知されていなかったのだが、細菌学の研究によってもっと多い細菌数があると解ってきたのだ。人間の細胞数は60兆個と言われているから、それよりも遥かに多い数の腸内細菌が存在するらしい。その腸内細菌をお花畑に見立てて、腸内フローラと呼ぶという。腸内細菌が美しいお花畑のように輝いていれば、体調も良好で健康状態にあり、反対に腸内細菌が汚れていて歪んでいると病気になりやすいらしい。それは、精神的な病気にも影響するというから驚きだ。

腸内フローラと呼ばれるものは、正式には腸内細菌叢(そう)と言う。その腸内細菌叢には、1000兆個以上の腸内細菌が存在する。その腸内細菌には、善玉菌と呼ばれるビフィズス菌や乳酸桿菌と、悪玉菌と呼ばれる腐敗菌などが存在する。さらに、日和見菌(ひよりみきん)と呼ばれる大腸菌などが生息している。善玉菌は腸内の悪玉菌の働きを抑えて、過剰腐敗などが進まないようにしている。つまり、善玉菌が優位であれば悪玉菌を抑えられているし、悪玉菌が善玉菌より優位になれば、腸内環境は悪化して腐敗が急速に進むことになる。日和見菌は、どちらかの菌が優位になれば、その優位になった菌に味方する。腸内フローラが美しいのは、善玉菌が悪玉菌を押さえ込んでいる状況である。

腸内細菌が正常で腸内フローラが美しいと、腸の疾病だけでなく、糖尿病などの生活習慣病も予防出来るという。がんさえも予防する効果があるという。さらには、腸内フローラはうつ病の発症にも関係しているだけでなく、老化にも深く関わっているというから驚きだ。昔から、東洋医学では丹田(たんでん)という下腹部の一部をとても大切にしていて、そこを冷やさないようにしたりお灸をしたりしていたが、科学的にも正しいということになる。最近のマウスによる研究では、不健康なマウスの腸内細菌を健康なマウスに移植するとそのマウスは不健康になり、その逆も起きるという。さらには、マウスの性格まで変わるというからびっくりする。まだ人体での実験は進んでいないが、おそらく同様の結果になると思われる。

腸内細菌は、精神疾患に影響すると言われているセロトニンの生成に関係しているらしい。幸福ホルモンと呼ばれるセロトニンの9割ほどが、腸内で生成されていることはあまり知られていないが事実である。つまり、腸内フローラはセロトニンの生成と密接に関連しているということである。このセロトニンは脳に直接運ばれることはないが、脳で生成されるセロトニンの材料を運ぶ働きに、腸内細菌が関係していることが判明されている。つまり、腸内細菌が正常でないと、脳内セロトニンを作る働きが低下するということらしい。セロトニンはうつ病の発症に関係していると言われている。セロトニンの不足がうつ病の発症をさせてしまう。つまり、腸内フローラは気分障害と密接な関係があるという結論になる。

東京で開業している某内科医は、うつ病やパニック障害と診断され投薬でまったく改善しない患者さんを診察して、もしかすると腸の不調によるものではないかと仮説を立ててみたそうである。診察で食生活を聞くと、満足した食事を摂らず、コンビニ弁当やおにぎり、カップ麺やファストフードの食事、スナック菓子やジャンクフード、甘い炭酸飲料やアルコールというような最悪の飲食をしていたと答えた。当然、過敏性大腸炎のような状況で、下痢と便秘を繰り返す最悪な症状だったと言う。まず食生活の改善から初め、腸内フローラが好む野菜と果物中心で、肉食を少なくして大豆淡白を摂取し、規則正しい食生活に改善させたと言う。そうすると、あっという間に精神症状が落ち着いたと報告している。ある統合医は、発達障害にも効果があったという報告もしている。

このように、腸内フローラは身体的な健康だけでなく精神的な疾病にも影響しているということが判明されつつある。まだまだ医学的なエビデンスは不足しているし、腸内細菌を移植した場合の実験データも乏しい。とは言いながら、心ある医師たちは精神疾患の原因のひとつが腸内フローラにあるという事実を受け容れ始めている。最近、オキシトシンという不安・恐怖を抑える働きがある脳内神経伝達物質も、腸内環境の影響を受けるのではないかと言われ始めている。自閉症や発達障害の症状を緩和するにも、腸内細菌が影響していると主張する医師も出てきた。仮説としては納得できるものの、その科学的証明はまだまだ時間がかかると見られている。気分障害で悩んでいる人は、腸内環境を改善する食事を試してみる価値があるだろう。イスキアの郷しらかわでは、腸内環境を改善し、デトックスする自然食を提供している。

家庭崩壊の訳

今、家族の絆がなくなり、家庭崩壊が進んでいると言われている。夫婦関係も親子関係も、本来の関係性を持ち得ていない。つまり、本来は家族がお互いに対して、慈愛・博愛に満ちた行動を取るべきなのに、家族それぞれが自分中心の行動を取る傾向にあるのだ。妻は、夫を尊敬する気持ちが失せてしまい、カルチャースクールや趣味の世界に没頭する。または、妻が仕事や市民活動だけに生きがいを見出しているケースも多い。このように、表面的には仲の良いそぶりを見せているが、仮面夫婦を演じている家庭が少なくない。子どもは、自分を何かと支配・制御しようとする親をうざったいと思い、低い価値観しか持ち得ない父親を軽蔑さえしている。子どもらは、何から何まで指示を下す母親を毛嫌いし、家庭を顧みず自分の都合だけで叱る父親を遠ざけている。

父親と言うのは、本来家庭におる精神的・肉体的支柱にならなければならない。つまり、大黒柱なのである。父親というのは、身を挺してでも敢然と家族を守るべき存在であらねばならないし、精神的な拠り所としても機能しなければならない。そうして初めて、家族は安心して社会にも出て行けるし、精神的にも自立できるのである。ところが、家庭の中に父親の存在は希薄化している。見せるべき、尊敬し信頼できる父親の後姿は、まったくないのである。であるから、父親の存在価値を見出せないと見切った母親は、シングルマザーのほうがよっぽど子どもにとっても幸せだという結論を出すのである。また、団塊世代の妻は、価値観の低い夫に愛想をつかして熟年離婚をするのだ。児童虐待を起こす家庭においては、例外はあるものの殆どのケースで父親が本来の家庭における機能を果たしていないと言える。

世の中における最小単位のコミュニティである家庭は、このようにして崩壊してしまっているのだ。表面的に上手く行っていると思っている、または思い込もうとしている家庭は、まだまだ多いが、実質的には破綻していると言えよう。その証拠に、何か重大な問題が家庭内に起きると、自己解決能力を発揮することが出来ないのである。虐待、いじめ、不登校、引きこもり、DV、非行、うつ病の発症、離婚、リストラ等の問題が起きた場合、為す術を持たず、おろおろするだけである。こういった問題は、外的要因によるものだと思われがちだが、実はその真の原因は家庭内や家族のあり方に内包していることが多いのだ。コミュニティが崩壊するそもそもの原因は、家族どうしの関係性にあると言えよう。

さて、こんなふうに家庭が崩壊してしまった原因は何かというと、一言で言えばそれは関係性の欠如と言えよう。本来家族というものは、関係性を重視しなければならないのに、あまりにも個を重要視するあまり、その関係性をないがしろにしてしまったのである。それは、近代の教育において、関係性よりも個の大切さを教え込んだ為に、自分さえ良ければいいんだという間違った価値観を獲得してしまったことによるものだ。関係性を深める為には、相手の気持ちを慮る必要がある。つまり、相手の気持ちになりきっての言動が必要なのである。ところが、近代教育では、分離思考・分析思考であるところの個人を大切にすることだけを教えたから、良好な関係性を失くしてしまったのである。行き過ぎた要素還元主義の弊害とも言える。

しかしながら、今もって家族の絆をしっかと結んでいる家族もいる。その家庭は、例外なく父親が高い価値観を持っている。高い価値観とは、宇宙全体をひとつのシステムと捉え、そのシステムを構成する要素のひとつである家庭というコミュニティを、システム思考で捉える価値観である。宇宙システムは、ある一定のプロセスに向かって進んでいるということが証明されつつある。そのプロセスに則った生き方を家族全員が志すならば、関係性が深くならざるを得ないのである。つまり、宇宙における構成要素である人間は、宇宙そのものが目指している、他の幸福を願う心、つまり利他の精神に基づいた行動をしなければならないのである。自分ばかりの利益だけでなく、全体の幸福や利益に貢献したいと強く思い、率先して行動することこそが、家族というコミュニティを守り育てるのである。

このシステム思考を父親が深く理解して、自らの利他的な行動を実践することで、常に家族に対してこのメッセージを送り続けることが必要なのである。利己的な行動を慎み、家族の為、世の中の為に、進んでリスクを負担する姿勢が家族や地域の人々を感動させ、勇気を与えるのである。それでは、父親が居ない家庭は無理かというとそうではない。祖父や叔父、または母親か祖母でも、その役割を十分に果たせるのである。明治維新以前は、このようなシステム思考の価値観の勉強を学校や地域でしていたのである。そういう思想・哲学の学校教育や家庭での教育を復活さることが急務であるし、こういった価値観を喧伝し普及させる使命が私たちに課せられているといえよう。これ以上、家庭崩壊により不幸な家族を作り出さない為にも、高い価値観であるシステム思考を持つ父親を世に送り出さなければならない。