摂食障害を乗り越える

摂食障害に苦しんでいる人たちは、世間で想像している以上に多い。何故ならば、当事者は勿論のこと保護者も内密にしているので、文科省や厚労省はその実数が掴めていないからである。児童生徒の時から摂食障害の辛い症状が始まる場合もあるし、青年期に起きるケースもある。いずれにしても、圧倒的に青少年の時期に摂食障害が始まることが多い。摂食障害の症状は、過食、拒食、そして過食の後に嘔吐するという特徴的な状態が続くのである。最初は拒食から始まることが多く、その後過食の症状になり、拒食と過食を繰り返し、最後は過食後に吐くという症状を長く続けるケースが多いと言われている。

摂食障害は病気ではないと思っている人が多い。だから、治療も受けず当事者と家族は苦しみ続けている。確かに厳密に言うと病気ではないが、メンタル障害であるのは間違いない。心療内科などのクリニックに通院している人もいるし、重症の場合は極端な栄養障害に陥り、入院するケースもある。投薬治療も行われるが、あまり効果は期待できない。劇的に症状が改善する場合もあるが、治癒することなく長い期間に渡り摂食障害の症状で苦しんでいる人が多い。20年以上の長きに渡り摂食障害で苦しんでいる人も少なくない。

摂食障害が治りにくいのは、そのはっきりした原因が掴めていないからである。これだけ医療や精神医学が発達しているのに、まだ摂食障害の原因は謎の部分が多い。例え原因が特定されても、その原因を解消することが極めて難しいというケースが多い。つまり、摂食障害というのは難治性の症状だと言えよう。摂食障害の症状が起きるのは、脳の神経伝達回路の異常ではないかと考えられている。それでは、この神経伝達回路異常が起きるそもそもの原因は何かと言うと、完全には解明されていない。だから治りにくいのである。

摂食障害の症状が現れる子どもや若者に共通していることがある。それは、とても生きづらい生活を送っているという点である。その生きづらい生活というのは、言い換えると愛に飢えているということが言える。つまり、溢れる愛によって満たされていて、人生を楽しんでいるような子どもや若者は、摂食障害の症状が起きにくいということである。また、必要以上に無理したり我慢したりしている子どもや若者も摂食障害になりやすい。あるがままというか、自然体で生きているような人は摂食障害になりにくいのである。

すべてがあてはまるという訳ではないが、摂食障害を起こすのは、どちらかというと『良い子』である子どもが多い。無邪気でやんちゃで、自分の思いを親に素直にぶつけるような子どもは摂食障害になりにくい。手がかからず、親には一切反抗せず、親の機嫌を損なわないようにおとなしくしていて、我慢強くわがままを言わないような子どもが摂食障害を起こしやすい。そして、親からいつも「早くしなさい」「こうしないと駄目よ」「こうしたいんでしょ、こう言いたいんでしょ」と言動を先取りされて育った子どもが多い。さらに、自尊感情が育っていなくて、自己否定感が強い子どもというのが特徴である。

摂食障害という症状が起きるのは、心が不安でいっぱいになり恐怖が次から次へと押し寄せて、このままだと心が壊れてしまうのではないかという時に起きることが多いらしい。つまり、心が壊れてしまうのを防ぐのに、摂食障害という辛い症状を起こして防いでいるかのようである。心のバランスが崩れていくのを防衛するかのような不思議な働きと言えよう。だから、治りにくいのである。つまり、この崩れそうな心のバランスを正常に戻さないと治らないし、不安や恐怖感を収めないと完治しない。さらに、自己否定感情を払拭して、自尊感情を高めないと摂食障害の症状は収まらないのである。

脳摂食障害を治すのは、当事者の努力だけではなしえない。やはり、経験豊かで優秀なカウンセラーやセラピストの助けが必要だと思われる。そして、こういう摂食障害を乗り越えるには、家族も変わらなければならない。何故かと言うと、家族との関係性にこそ摂食障害が起きた原因が隠れているからである。何も親の子育てに問題があったという訳ではない。あくまでも、親子の関係性や両親夫婦の関係性にこそ、摂食障害を発症した原因があるということだ。という意味で、ミラノ型の家族療法である『オープンダイアローグ』が効果を発揮すると思われる。ご両親と当事者を含めたオープンダイアローグ療法が、家族の関係性における課題に気付かせ、自ら変わり関係性を修復することにより摂食障害を乗り越えることが出来よう。

※イスキアの郷しらかわでは、摂食障害の症状の克服に、オープンダイアローグを駆使しての対応をしています。出来る事なら親子一緒にオープンダイアローグを体験していただくのが最適です。家族療法というと、親が批判されたり子育ての拙さを指摘されたりするのではないかと危惧される方が多いと思います。しかし、オープンダイアローグは特定の誰かに原因や責任を押し付けることはしません。安心して、問い合わせをしてください。

教員の働き方改革こそ喫緊の課題

公立学校でも民間の学校でも、教職者の働き方改革は非常に難しいと思っている人が多い。現在、教職にある人たちは殆どが超過勤務手当をもらわずに残業を強いられている。よく解らないような規則があって、長時間勤務をしても一定額以上は残業手当が支給されない制度になっている。いくら超過勤務をしても、みなし時間外手当を支給しているからという理由で、支給しないようになっている。だから、教職者は実際に何時間残業しているか記録されていない。こんな制度だから、残業時間は一向に減らないし、働き方改革なんて無理なのである。限りなくグレーな労働基準法違反の規則である。

ましてや、教師は皆が想像している以上に超多忙なのである。子どもたちを教えること、子どもたちの相談相手になったり指導をしたりする本来の業務以外に、様々な業務を抱えている。そして、先生たちはこれらの業務をすべて自分一人でこなしているし、他の先生が業務を手伝うことは殆どない。支援を申し出る先生もいないが、支援をお願いする先生も皆無なのである。自分で仕事を抱え込んでいて、他の先生にお願いするのはしない決まりでもあるかのように、一人で完結しようとしている。

そして、意外と教職者は事務処理が苦手であるし、パソコンなどの操作が不得手の人が多い。当然、教職者の業務はパソコンでの事務処理が多いので、処理時間を多く要する。当然、本来の大切な指導教育の時間が足りなくなるし、残業時間も多くなる。さらに、スポーツ系の部活顧問をしている先生は、超多忙となる。どの先生も共通して訴えるのは、事務処理などの雑務が多くて忙しいという点である。文科省からの統計調査や実態調査などの依頼が多く、その対応に時間を割かれる。実にもったいない時間である。

超多忙で仕事に追いまくられている教師は、悲鳴を上げている。そして、あまりにも頑張り過ぎてしまった先生は、しまいには心を病んでしまう。普段の忙しさと、難しい児童生徒の指導と扱いにくい保護者への対応により、過重ストレスとなって精神的に参ってしまうのである。そして、やがて出勤できなくなり、休職という状況に追い込まれる。そして、何度か復帰と休職を繰り返して、完全に離職してしまう。忙しさが解消されることがないし、職場環境は良くなるばかりか悪化する一方なのだから、そうなるのは仕方ない。

こんな超多忙な実態を何とか解決しようと教育委員会や学校管理者は心を砕いているが、まったく解決策が浮かばないみたいである。勿論、教師の数を増やせばいいのだが、教育予算がぎりぎりに削られている現状では難しい。防衛予算は年々増えているのに、教育予算は増えないのである。となれば、限られた予算の中でどうにか対応しなくてはならない。そもそも柔軟な考え方が出来ない文科省のキャリア官僚や教育委員会の幹部は、ドラスティックな発想が出来ない。先生の定員は決まっていて、絶対に増やせない。となれば、定員以外の職員を採用すればよい。パートの教員補助職員を採用するのは可能なのである。

教員免許がないと出来ない業務がある。実際に授業をする行為や指導をすることである。それは、他の職員が代行することは出来ない。しかし、雑務の事務処理業務は誰でも出来る。優秀なパート女性事務職員を雇用すれば、事務処理業務は短い時間で済ますことができる。さらに、少しだけ指導すれば、テストの原案作りや採点もできる。また、採点されたテストの集計とその評価の原案作成もできる。先生が最終チェックをして微調整すればいいだけである。スポーツの部活においても、ボランティアコーチを積極的に活用すればよい。そうすれば、先生は本来の授業や個別指導に力を注ぐことが可能となる。

しかも、コスト面においても正式雇用の教諭だと、社会保険や賞与と退職金引き当ても含めると、年間の平均人件費コストは一人当たり1,000万円を超える。ところがパート事務職員だと、一人年間120万円程度で雇えるのである。教師一人雇う人件費コストで8人以上のパート補助員を雇うことが可能になる。そして、一人の優秀なパート事務職員がいれば、3人の教諭の補助業務だって出来るに違いない。県や市町村独自の人件費負担で、雇用することも可能だ。このように雑多な事務処理などを教諭に負担させなければ、本来の指導教育に専念できるから、いじめや不登校も激減する。そして先生たちの休職や離職を防ぐことができる。先生の業務は他の人が代行出来ないという思い込みを払拭することがまず必要だ。

ポストアベノミクスはイノベーションで

アベノミクスという経済及び金融政策は既に理論破綻しているということは、皮肉なことに勤労統計の偽装によって実証されてしまった。実質賃金が低下していることが判明して、政府が主張していたトリクルダウンはまったく起きなかったことが図らずも証明されてしまった形である。それでは、アベノミクスからどのような経済政策に舵切りをすればよいかというと、御用学者たちはまったくアイデアが出せないでいる。何故かと言うと、経済政策、金融政策、そして労働政策が大企業中心に実施されているからである。

政府の経済政策は、あくまでも大企業が輸出を伸ばして利益を上げて工場増設や設備投資をすることで景気回復するというシナリオに固執している。頭のお堅い政府関係者やキャリア官僚は、低賃金で低コストの労働政策、さらには円安のための金融政策を取れば、国際競争力が高まって大企業が儲かり、下請けの中小企業もその恩恵を受ける筈だと思い込んでいるのである。ところが、実体経済はどうかというと、非正規の低賃金労働者が増えて所得格差が生まれ、消費支出が伸び悩んで景気は低迷し、庶民の暮らしは益々苦しくなり、不景気のスパイラル状態になっているのである。

それではアベノミクスからどのような経済政策に転換すればよいかというと、実に簡単なことであり、国民ファーストの経済対策をすればよいのだ。まずは、最低賃金を毎年5%ずつ上昇させればよい。そうすれば、5年もすれば28%賃金が上昇する。と同時に非正規雇用から正規雇用への労働政策を推し進める。そのうえで、所得税や地方税の累進課税比率を見直して、高所得者への課税強化を実施する。そうすると、賃金格差が減少して、中間所得層が増えて一般消費支出が驚くほど伸びることになる。所得税の累進課税を強化すると、高額の役員報酬や給料に出すよりも、設備改新や新商品開発に投資するだろう。

そんなことをしたら、企業が倒産してしまい、不景気になって失業者が増えることになると思う経営者が多いことだろう。そんな無能な経営者は、経済界から退出してもらうほうがよい。労働コストが上がったら、働き方改革やワークシェアーをするのは勿論、労働生産性を高める工夫が必要になる。さらには、真のイノベーションの実行やAIを活用した事務処理と生産工程を推進しないと生き残れなくなる。また、コモデティ化に飲み込まれないように、より付加価値の高く追随を許さない高技術の製品開発に取り組まざるを得なくなる。つまり、経営者は自らが抜本的な経営改革や意識改革をすることになるのだ。

1960年に当時の池田勇人首相が所得倍増計画を打ち出した。10年間で国民の給料を倍にするという、当時の経済常識からすると荒唐無稽のような経済政策であった。ところが僅か4年で所得は倍増し、10年後には所得は4倍になったのである。高コストになり輸出は減少したかというとそうではなく、驚くほど生産性が伸びて国際競争力は落ちず、輸出が伸びて国民生活は潤ったのである。経済格差もびっくりするほど改善して、失業者や貧困者は激減した。池田勇人が取った経済政策は、現代には当てはまらないとする経済学者が多いが、そんなことはない。賃金を上昇させることで、一般消費支出は伸びて、景気回復は実現するに違いない。結果として、企業は収益を高めることになる。

人件費コストが増大すると、企業の収益は一時的に落ちるのは間違いない事実である。経営者たちは、それが持ちこたえられないと、最低賃金のアップは認めたがらない。しかし、イノベーションを実行すれば、賃金コストを吸収してなお収益が確保できるのである。イノベーションなんて中小企業では無理だと最初から諦めている経営者が多く存在する。それは、イノベーションというものに対する誤解である。イノベーションが日本に紹介された際に、『技術革新』と誤訳されてしまった。それによる完全な勘違いでしかない。

かの著名な経済学者シュンペーターが唱えたイノベーションとは、単なる技術革新などではなくて、抜本的経営革新のことである。それには、勿論技術革新も含まれるが、ごく一部である。シュンペーターが説いていたのはneue Kombination(新結合)こそが、イノベーションにとって重要だということである。つまり、異質な価値どうしを統合させて、新たな大きい価値を生み出すという意味であり、それによって新たな顧客を創造するのが真のイノベーションである。端的に言うと、統合による新しい価値と顧客を創造することこそが、イノベーションなのである。それには、社員全員の意識改革も必要である。そうすれば、過度の競争にさらされることなく、収益性も確保されて、企業の発展と存続が可能になるであろう。

体罰は子どもを不健全にする

親からの虐待や体罰について、話題になっている。また、躾(しつけ)のやり方についても議論になっている。親からの虐待によって不幸にも亡くなってしまった子どもがいた事件があり、児童相談所や行政の対応の拙さも批判されている影響もある。また、東京都が体罰防止の条例を制定することになり、民法で懲戒権を認めているのはおかしいという議論にも発展している。体罰をしなければ躾は難しいという意見もあるし、どんな理由があるにせよ暴力はいけないと完全否定の人たちもいる。体罰は本当に必要なのだろうか。

体罰という行為は、家庭だけでなく学校や各種スポーツの指導現場でも横行している。体罰をしなければ子どもたちは健全に育たないと思い込んでいる指導者は少なくない。子どもたちを適正に導くには、何らかのペナルティーを与えなければ不可能だと彼らは主張する。家庭において、頭や尻を軽く叩いたり頬を叩いたりする行為なら、自分の手のひらも痛みを感じて、お互いの愛情を感じるからと自らの行為を正当化するお母さんもいる。愛情が根底にあれば、ケガや心の傷を負わせない程度ならいいと肯定する親がいる。

世界各国で体罰については、大きく意見が分かれる。世界中で、法律によって体罰を禁止する傾向にあるのは間違いない。数年前までは11か国が体罰を禁止するだけだったが、現在は57か国が法令によって体罰禁止をしているという。いち早く体罰禁止を打ち出したスウェーデンでは、体罰防止のキャンペーンが功を奏して、8割あった体罰の家庭は今では1割程度に減少したという。さらに驚くことに、このことによって青少年の犯罪が激減したというのである。暴力の連鎖が止まったのだと、専門家は分析している。

一方、体罰を容認している国家もある。先進国で代表的な国は、アメリカ合衆国である。各州によってまちまちであるが、保守的なフロリダ州などは体罰を積極的に認めていると言われている。青少年犯罪も多いし、銃乱射事件など多発している実態、他人や他国に対して暴力的態度で従わせるような姿勢は、もしかすると体罰による教育による影響かもしれない。子どものうちに、暴力によって相手を従わせるということを体験的に学んだ子どもは、大人になれば無意識に暴力で相手を支配するという行為をするのは当然である。

体罰や暴力は世代間連鎖をする。親から体罰を受けて育った子どもは、親になったら何の躊躇もせず我が子を体罰で従わせようとする。体罰まで行かなくても、親の権力を使って暴言や態度で子どもを支配しようとする親は少なくない。長時間に渡り立たせたりトイレや押し入れに閉じ込めたり、はたまたおやつや食事を抜いたりするのは、どこの家庭でも見られる光景である。両親が激しい夫婦喧嘩を子どもたちの目の前で繰り広げることもあるが、これは子どもから見ると立派な虐待であり、子どもの脳を破壊する致命的行為だ。

自分も親から暴力を受けて育った。恥ずべきことであるが、自分も若い父親だった頃に、何度か子どもに体罰を行った。おおいに反省すべきことであり、子どもたちに謝っても謝りきれない卑劣な行為である。子どもたちが我が子に対して、この負の連鎖をしないことを祈っている。体罰によって、子どもを健全に育てられると思い込んでいるとすれば、それは完全な間違いである。科学的にも証明されている。システム科学的に論じれば、過度の子どもという人体システムへの介入(体罰)は、子どもの自己組織化を阻害するだけでなく、オートポイエーシス(自己産生)をストップさせてしまう怖れがあるからだ。つまり、体罰を繰り返すことで、人間として備わっている主体性・自主性・自発性・責任性といった自己組織性を育たなくすると同時に、人間が自己成長して何かを成し遂げる力を削いでしまうのである。

人間と言う人体システムは、自らが自己組織化して自己産生を続ける機能を持つ。システムというのは、外部からのインプットによって機能し活動するのではなくて、自らが主体的に動くのである。そして、アウトプットもすることなく、システムの中でアクションが完結している。人間と言うシステムは、本来外部からインプットされないし、外部に対してアウトプットしない完全無欠なシステムとして機能しているのである。それが、体罰という介入(インプット)をされると、本来の機能を失ってしまう。成長が止まってしまうばかりかシステムエラー(問題行動や病気)を起こすのである。勿論サポートは必要である。それも、愛情の籠った思いやりのある支援である。けっして子どもの自己組織化を妨げることなく、本人が自ら気付くように、学ぶように寄り添い支援を続けることである。子どもを健全に育むためには、体罰だけはしないことである。

自ら命を断つ前にすること

自殺をする人は、やや少なくなったとはいえ、年間3万人弱の数に上っている。しかしながら、実際は自殺者の数は3万人弱だけではない。この数は、あくまでも遺書を残していて、明らかに自殺としか思えないと確定した人数である。ましてや、自殺行為をしてから24時間以内に亡くなった人だけがカウントされていて、2日目以降に亡くなった人はこの人数に含まれない。また、発作的に電車に飛び込んでしまった方は事故死として処理され、自殺者としてはカウントされない。実際の自殺者数はこの倍以上に上ると推測される。

どうして政府は実際の自殺者を少なく見せているのかというと、これだけ多い自殺者を救う手立てをしていないのではないかと非難されるのを避けているからである。その証拠に、自殺者数が3万人を下回るようになったのは、厚労省や警察庁が自殺防止対策を講じたからだと自画自賛している。他の先進諸国と比較しても、こんなにも異常に多い自殺者を出している国はない。自殺をする人を救えない、無策な厚労省と言われても仕方ないであろう。自殺予防の対策をしているとは言いながら、効果を上げていないのは事実である。

自殺をする方をどうにかして救えないものであろうか。「こころの健康相談ダイアル」という自殺願望者の方が電話相談をするセンターがある。これは、あくまでも電話の相談だけであり、リアルに会ってカウンセリングをしてくれる訳ではなく、医療機関などを紹介されることが多い。『自殺サイト』と呼ばれる、自殺願望者や自殺に興味のある方が集うサイトがある。この自殺サイトは、自殺を思い止まらせてくれないばかりか、適切な自殺の方法を教えたり、背中を押したりするような不適切行為をする処もある。

自殺願望者を救ってくれるような処は、医療機関やカウンセラーしかなさそうである。自殺願望者を救うという高度な知識や技能というのは、専門家しか出来ないと思われている。しかしながら、自殺願望の方を思い止まらせてくれる民間の施設がある。佐藤初女さんが主宰していた『森のイスキア』という青森県の弘前にある宿泊施設である。この世に絶望してしまい、生きていても仕方ないと思い込み、自殺をしようと思っている方が、最後に訪れる施設である。この施設を訪れて、佐藤初女さんの温かいおもてなしを受けると自殺を思い止まるのである。

佐藤初女さんは、特別なカウンセリングやセラピーを実施する訳ではない。ただ、黙ってこの世に絶望した人の話を聞くだけである。けっして否定せず、ただ共感するだけである。じっと話を聞いて寄り添うのである。そして、佐藤初女さんの心尽くしの手料理を食べて、何日か宿泊すると元気になって社会に戻って行けるようになる。しかしながら、その佐藤初女さんは、2016年の2月に還らぬ人になってしまわれた。その後、この世に絶望してしまった人を救う『森のイスキア』の扉が二度と開かれることはなくなってしまった。

この佐藤初女さんの森のイスキアのような施設は、全国を探しても他にはない。佐藤初女さんのように偉大な方は、もう2度と現れないに違いない。日本のマザーテレサと呼ばれて、多くの方から慕われていたのだから、後を継げるような人はいないだろう。しかしながら、自殺をしようとしている方々を救う場所は必要である。例え佐藤初女さんには遠く及ばないとしても、10分の1でも100分の1でも佐藤初女さんに近づきたいと、森のイスキアと同じような施設を開設した。それが、福島県の塙町という田舎に開設した『イスキアの郷しらかわ』である。

この世に絶望してしまい、自らの命を断ってしまうしかないと思っていらっしゃる方がいたとしたら、もう一度思い止まって考えてほしい。自殺をするという決意は固いとしても、最後に『イスキアの郷しらかわ』で最後の時間を過ごしてみてからでも遅くはない。自殺をするにしても、最後の数日をイスキアの郷しらかわで愛情の籠った心尽くしの食事を食べて、自分を苦しめている悩み苦しみを一度手離して、もう一度生きる意味を考えてみてはどうだろうか。イスキアの郷しらかわでは、何も聞かず問い質すこともせず、けっして否定せず、何も強いるようなことはしない。ただそっと寄り添うだけであり、傾聴し共感するだけである。もう一度だけ、自分の悩み苦しみを話してみてはどうだろうか。

※イスキアの郷しらかわは、もう生きていても仕方ない、生きる希望もない、自分なんか生きる価値もない、死んでしまうしか他に方法がないと思っていらっしゃる方を受け入れています。もしかすると何かしらこの社会に生きる意味や、自分に課せられた使命に気付くことができるかもしれません。一縷の望みでもなんでもいいから、もう一度だけ数日だけでもイスキアで過ごしてからにしようと思ってくれたら有難いことです。下記の問い合わせフォームから、まずはご相談ください。

    陰謀論をネットに拡散する愚行

    SNSなどで、陰謀論が盛んに流されている。それらの論理的根拠や科学的根拠は、実に希薄なものであるし、ねつ造されたものとしか思えないあやふやなものが殆どである。あくまでも、想像論でしかないし、陰謀を起こすべき動機が弱いし、実際にそれだけの陰謀が実行されたとしたら、それをマスメディアや善良な政治家や官僚に悟られない筈がない。全部が作り話だとは思わないが、殆どがデマとしか言えないものばかりだ。したがって、それが陰謀論を冷ややかな目で見ている人たちに、絶好の反論として利用されてしまっている。

    陰謀は実際に行われているかもしれないし、単なるねつ造かもしれない。完全に否定できず信憑性が感じられるものもある。陰謀があると信じたい気持ちも解らないではないが、どうしてそんなに陰謀論が好きなのだろうか。また、陰謀論をどうしてネットに垂れ流すのであろうか。陰謀論がもし真実で、ましてやその陰謀が巨大な権力を持つ組織によるものだとしたら、ネット上で明らかにすることを妨害するに違いない。国家規模による陰謀なら、ネットの情報を操作するなんて朝飯前の筈である。

    そう言えば、陰謀論を垂れ流している人間は、インターネットの繋がりが悪くなったとか、書き込みが出来なくなったと主張する人が多い。あたかもネット情報を拡散することを、闇の勢力から妨害されているかのように訴えている。もし、闇の勢力が実際に存在して、その闇の勢力とやらがインターネットの拡散妨害をするならば、そんなことをすることがないことは、少し賢い人間ならば誰だって理解できる。ネットの操作をするなら、本人に悟られない方法にするであろう。グーグルやヤフーの検索エンジンでヒットしないようにすればよいだけであろう。

    エビデンスのない陰謀を自分で確認することなく、安易に信じてしまい、それをSNSで拡散してしまうのは何故であろうか。このように陰謀が大好きな人間は、社会的に認められている成功者とは言えず、どちらかというと不遇な生活をしている。職場でも冷遇されていて、社会的な評価や地位も低くて、いつも不満を持っている人間が多い。そして、家族や周りの人間からも愛されないばかりか、いつも愛に飢えている。人生のパートナーにも恵まれず、ずっと独身の生活を続けているとか、結婚生活が破綻してバツであることが多い。つまり、孤独な人生を送っているのである。

    このような人間は、社会に対して強い生きづらさを抱えていると同時に、自分が不遇な生き方をしているのは、社会が悪いからだと思い込んでいる傾向がある。そして、社会に対する強烈な憎しみを抱えている。こういう状況に追い込まれて自分が這い上がれないのは、一部の権力者や権威者が良からぬ陰謀を張り巡らしているからだと思い込むのではないだろうか。つまり、社会に対する恨みつらみから、陰謀がある筈だと勘違いするのだと思われる。不遇な暮らしをしているのは、確かに社会そのものにも原因があったとしても、自分に原因があるということを認めたがらないのであろう。

    陰謀論を信じるか信じないかは、それぞれ自由である。しかしながら、とんでもない陰謀を確認することなくネット上に垂れ流すのは止めて欲しいものである。何故なら、素直で善良な人間さえも信じかねないからである。面白おかしくねつ造された陰謀ほど、人々は飛びつきたがる。そんな陰謀を信じたいし、信じることで自己満足したいのであろう。陰謀を垂れ流して大騒ぎでリアクションをする人々を見て、自分自身の満たされない思いを解消しているのではなかろうか。愛に飢えている心を、陰謀論で癒しているに過ぎない。

    陰謀は本当にあるのかもしれない。だとしても、とんでもない陰謀論をあまりにも拡散させてしまうと、デマが信じられるように陰謀論もあたかも真実のように一人歩きしかねない。そうすると、人々の心は益々疑心暗鬼になり、人間どうしの信頼関係は揺らいでいくし、関係性は劣悪化していく。つまり、人間どうしの繋がりや絆が希薄していくし、お互いの協力関係も薄らいでしまう。自分さえ良ければいいんだと思い込み、他人に対する思いやりや優しさもなくなってしまう。これこそが陰謀による取り返しのつかない悪影響であり、もしかすると陰謀論を流す本当の目的は、ここにあるのかもしれない。陰謀論というのは、人間どうしの分断を図る『悪魔のささやき』でしかないと心得るべきである。

    いじめ自殺の損害賠償を認める判決

    滋賀県大津市で起きたいじめによって自殺した中学生の事件について、民事訴訟でいじめた側に損害賠償を認める判決が出た。今までは自殺といじめの因果関係を認めようとしなかった司法が、初めて自殺といじめの関連性を認定して、原告の要求通りの損害賠償を被告に命じた。これは画期的な判決だと、報道各社は好意的に報じている。いじめじゃなくて単なる遊びや悪ふざけだと苛めた側は主張していたが、司法はいじめだと認定したうえで、自殺に追いやったのは苛めた側に責任があると認定したのである。

    この判決は、非常に大きな意味があろう。いじめている子どもたちは、悪ふざけやいたずらという感覚でやっていることが、自殺までに追い込む悪質ないじめであり、損害賠償責任まで負うのだということを認識するきっかけになろう。また、自分たちのやっていることがとんでもなく悪いことなのだと反省して、自分たちの生き方を変える契機になるのであれば意味がある。この画期的な判決によって、悪質ないじめによる自殺が、少しでも減ることに繋がることを望んでいる。

    しかしながら、このいじめ損害賠償の判決は相当な危険性を孕んでいるということを認識しなくてはならない。この損害賠償責任が認められたことで、学校におけるいじめが益々陰湿化すると共に、大人に知られないように秘密化してしまうという危険である。それでなくても最近のいじめは悪質なものになり、しかも自分は直接手を出さずに、巧妙に人を支配していじめを実行させるようになっている。SNSやツィッターなどで拡散させたり、間に何人も介在させたりして元情報を知られないように仕組むケースもあると聞く。これでは、いじめた本人が特定できないだろうと、益々いじめが過激になる可能性がある。

    ましてや、いじめというのは受けた人を救うというのが第一次的な対処であるが、完全にいじめを無くすには、いじめた子どもを適切に指導しなくてはならない。罰則を強化したり損害賠償責任を負わせたりして、抑止効果を高めるだけでいじめがなくなる訳ではない。いじめを行うような子どもこそが救われなければならないのだ。いじめを行うような子どもは、自業自得なのだから罰を受けるのは当然だし救う価値もないという人がいるかもしれないが、けっしてそうではない。いじめをする人間こそ、心が傷ついているのである。いじめをする子どもがいなくなるような社会にしなければならない。

    いじめをするような子どもは、適切で十分な愛を保護者からうけていない愛着障害や、人格に問題を抱えるパーソナリティ障害を持つことが多い。つまり養育環境に問題のある子である。結構裕福な家庭に育ち知能も高く、何をやらせても卒なくこなす器用な子どもが多い。親は社会的地位も高く、教養や学歴も高く、教育熱心な面もある。ところが、父性愛的な条件付きの愛が強過ぎて、母性愛的な無条件の愛に飢えている傾向がある。躾(しつけ)も厳しくて、親の価値観を無理やり押し付けられることが多い。

    このように、親からの支配やコントロールを過剰に受けてしまい、主体性や自主性、または自由度が阻害されている家庭生活を送っていることが多い。家の中では非常に『良い子』である。ある意味、『良い子』を演じるように育てられていると言っても過言ではない。そして、親からの愛に飢えている。こういう子は家庭ではおとなしく過ごすが、学校ではその反動で自由を求めて暴れるし、いじめっ子に変化するケースが多いのである。人間は、ストレスやプレッシャーにさらされ、自分らしさを押し殺して生きていると、どこかで爆発せざるを得なくなる。それが他に対する暴言や暴力、いじめなどに変質するのである。

    人間とは本来、自己組織化する機能を保持している。誰からも介入や干渉を受けず、自由に生きて主体性や自主性、自発性や責任性を自らが発揮するようになっているのだ。それが、過度に干渉や介入を受け続けて支配・制御を強くされてしまうと、正常な自己組織化を遂げずに、精神を病んでしまうばかりか発達が阻害される。利己的な人間になり、他者への愛を持てなくなる。生きづらくなるばかりでなく、その原因を他者にあると勘違いして、攻撃的な性格を持つようになる。いじめをする子どもの歪んだパーソナリティを、何とかして救ってあげないと、やがては社会に適応できない大人にしてしまう。いじめの損害賠償責任を認める判決は、こういう部分をきちんと理解したものならいいが、社会のいじめに対する反感に呼応したものであるなら、評価に値しないものと言えよう。

    やはりアベノミクスは失敗だった!


    厚労省による勤労統計の偽装事件では、官僚組織の隠ぺい体質も問われているが、もっと大変な問題に発展しようとしている。正しい勤労統計によって賃金動向を分析しなおすと、実質賃金が低下しているという事実が明らかになったというのである。アベノミクスによって、名目賃金が上昇しているし、実質賃金も増加していることから、経済政策は成功だったと政府は自画自賛していたが、それがまったく間違いだったということになる。つまり、アベノミクスは失敗だったということが証明された形になるのだ。

    そんなことはないと思いたいが、厚労省と官邸は実質賃金が目減りしているという事実を掴みながら、それを隠ぺいするために勤労統計の偽装を続けたのではないかと主張する報道機関が多い。アベノミクスとは、金融政策によって経済全体を好況に導いて、それが賃金を底上げして国民を豊かにするというシナリオだったのに、それがまったく機能していなかったということになる。大企業の好況によって、中小企業で働く社員の所得上昇に結び付くという、トリクルダウンという手法は実現しなかったということになる。

    一般庶民に対してアンケートを試みると、経済状況が改善していると実感できないという回答をする人が殆どである。一部の大企業の役職員や投資家たちは好況の恩恵を受けていたが、我々一般人の暮らしは一向に良くならないと感じていた。それが政府の勤労統計によって、実質賃金が目減りしていることが証明され、正しかったということになる。アベノミクスによって経済は活況を呈し、実質賃金も上昇しているから、政府の経済政策は成功していると自信を持って喧伝していたが、すべて嘘だったことになる。

    アベノミクスの成功を評価されて、何度かの選挙で自民党は大勝してきたが、それが国民を騙した勤労統計によっての投票だったとすれば、これは大問題になろう。安倍政権の責任は大きいと言わざるを得ない。政府が発表している情報よりも、我々が普段の生活で感じているものが正しかったのだ。好況を証明するという有効求人倍率だって、数字のマジックがあって、ミスマッチであっても求人を有効にしてしまい、数字を高く見せているに過ぎない。厚労省や財務省の官僚というのは、官邸の言うなりになっていて、統計偽装でも文書改ざんだって何でもありという体質なのだということが解ったのである。

    アベノミクスという政策は、大企業や資産家、さらには投資家に圧倒的な支持を受けている。さらには、若者たちからも大きな支持をもらっている。ところが、年金生活者や高齢者、低所得者層からは不評である。円高誘導によって物価が上昇し、低金利金融政策によって貯蓄が目減りしている影響もある。トリクルダウンがいずれ起きる筈だと政府自民党は宣言していたのに、一向に起きる気配さえなかった。若者たちは、巧妙に偽装された賃金統計によって騙されていたと言えよう。政府の情報を鵜呑みにした愚かな行動だ。

    アベノミクスという経済政策は、大胆な金融緩和による円高誘導と低金利政策によって、市場を活況化するものである。これは金融経済を活況にすれば、実質経済もよくなるに違いないという思い込みの政策である。勿論、第三の矢として実質経済を豊かにする政策も推し進められていたが、まったく効果を上げていない。実質経済というものは、一般の庶民の収入が豊かになって、一般消費支出が増えなければ、好況になることはない。金融緩和政策の恩恵は、大企業とその役員、投資家だけしか受けていないと言える。国民のうちのごく僅かの人だけが豊かになっても、全体の消費支出が伸びないのは当たり前である。貪欲な人間というものは、自分だけの利益や利権を抱えれば抱えるほど離したくなるものである。

    アベノミクスの失敗が判明したのだから、これからは経済政策のドラスティックな舵切りが必要であろう。現在行っている経済政策では、一般消費支出が増えていないのだから、実質経済を立て直す必要がある。そのためには、実質賃金を上げなくてはならず、不正規雇用を減少させ、正規雇用にシフトさせる抜本的な労働政策が求められる。大胆なワークシェアを進める労働政策、労働生産性を高める抜本的な勤務時間の短縮政策などの正しい働き方改革が必要だ。そのうえで、所得再配分機能を高める政策が求められる。所得税累進課税の見直しなどの税制改革によって、貧困家庭を根絶して、所得格差を出来得る限り縮める所得再配分に努めるべきであろう。もはや、失政とも言えるアベノミクスを止める時期に来ているし、それを決断させるのは選挙民しかいない。



    卒婚を密かに目論んでいる妻

    日本人の夫婦のうち、約3分の1が離婚しているという。そして、その離婚を言い出すのは圧倒的に妻のほうが多いという。昔は、夫からの離婚申請が多かったのだが、現在は妻のほうから三行半を突き付けるらしい。そして、多くの妻たちは婚姻状態を続けることに疲れ果てていて、いつかは卒婚をしたいと密かに夢見ているという。夫はまったくそんな妻の心理状態に気付くこともないらしい。我が子が大学を卒業するまでの我慢とか、子どもが成人したらとか、子どもが結婚するまでとか、その時期をじっと待っているのである。

    その卒婚さえ待ちきれず、もう夫との結婚生活には一刻も我慢できないと離婚してしまう若い妻も少なくない。昔ならば『子はかすがい』と離婚を踏みとどまる女性も多かったが、今は子どもが居ても離婚を踏みとどまる理由にはならない。それだけ妻たちは我慢し切れなくなっているのだ。離婚の理由はそれぞれあるだろうが、妻が望む夫婦関係や親子関係になっていなくて、改善の見込みもないので決断したのだと思われる。夫のほうでは、話し合いで問題決を図り、なんとか婚姻を続けたいと思うらしいが、妻の決断は変わらない。

    妻が卒婚したいと思っていることさえ夫は知らないでいるし、卒婚を望む理由さえも夫は解らない。だから、その時が来るといきなり卒婚を言い出されて、夫はおろおろするばかりだという。妻は何故こんなにも卒婚を望んでいるのだろうか。妻たちが経済的に自立しているからだとか、財産分与や年金受給の分与が出来るようになったからだと思っているらしいが、それが卒婚の理由ではない。あくまでも、結婚生活における夫の態度に我慢がならないのである。我慢に我慢を重ねて熟慮した選択だから、決心は変わらないのだ。

    妻が卒婚する原因は、夫のこんな態度や姿勢である。夫は家庭に安らぎを求めている。男は職場において全身全霊を傾けて仕事をする。男というのは仕事第一主義である。したがって、職場で仕事にエネルギーを使い果たしてしまい、家に帰るとのんびりと過ごしたがるし、家事育児に協力しようとしない。帰宅すると、テレビを見たりゲームをしたりするだけで、ソファに横たわっている。または、自分の趣味に没頭するか、PCやスマホに心を奪われている。家庭は自分だけの安らぎの場所だと勘違いしているのである。

    それぐらいなら妻はまあ仕方ないかと諦めているが、我慢ならないのは夫が妻の話を聞こうとしないし、妻に共感しないという点である。しかも、妻の気持ちを少しも解ろうともしない夫のことが許せないのだ。夫は妻に対して優しい態度を取ることもある。例えばバースデーの贈り物やクリスマスのプレゼントはしてくれるし、たまには豪華な食事にも連れて行ってくれる。しかし、そんな優しさは見せかけだけだと妻は知っている。そういう優しさを見せるのは、夫の自己満足に過ぎないことを百も承知なのだ。職場では無理して『いい人』を演じているのに、家庭では身勝手で自己中の夫なのである。

    育児についても、夫の態度は我慢ならない。普段の子どもの世話は、殆どを妻がやっているが、何かのイベントだけは自分が中心的な役割を果たして、子どもの点数稼ぎをしたがる。育児はお前に任せたと、一切口出しをしないが、何か子育ての問題が起きると『お前の子育てが悪いからだ』と責める。学校で何か子どもの問題が起きると、仕事を言い訳にして逃げたがる。いじめや不登校などの問題が起きて、母親の手には負えないから父親になんとかしてほしいと頼んでも、仕事だからと学校に行きたがらない。こんな父親では、子どもは信頼しないし、妻も愛想を尽かす。

    男は結婚するまでは、交際相手の尊厳を認め自由を認める。ところが結婚すると豹変する。自分の所有物だと勘違いし、自分の理想の伴侶であってほしいと強く思い、自分の価値観を押し付けたがる。自分に都合の良い妻になるように仕向けるし、妻の行動を制御したがるし支配する傾向になる。それが上手く行かないと、怒りを爆発させたり暴言を吐いたりする。そんなことを出来ないひ弱な夫は、自分の思い通りにならないと不機嫌になるし、黙り込んでしまう。まるでイプセンの戯曲『人形の家』のノラのようである。我慢に我慢を重ねてついにノラも家を出て卒婚する。人間とは、本来は自由に生きる生物である。あまりにも自由を制限され尊厳を認められないと、妻たちは卒婚する。

    脱税経営者のお粗末な価値観と哲学

    青汁王子と自ら名乗る三崎優太容疑者が、巨額脱税の罪で逮捕された。税金を納めるのは、国民の義務だから脱税をしてはいけないと、自らツィートしていたにも関わらずこんなにも大きな金額の脱税をしていたとは驚きだ。つい先日は、ここ白河の地で設備会社のオーナー経営者が、2億円という巨額の収益隠しをして逮捕されたという事件もあった。この経営者は、中小企業家同友会の地区会長を務めていた、名実共に地域の名士である。経営者の見本となるべき人物が悪質な脱税をするなんて考えられないことだ。

    脱税をする資産家は後を絶たない。余計な税金を払いたくないのは人情である。だから節税をするための知恵を絞る。しかし、本来払うべき税金を払わないようにするために、偽装するなんてことは許されない行為だ。また、税金を払いたくないからと、海外に会社の登記を移すような卑劣な行為をする経営者もいるが、これも情けない行為である。そういえば、過去に居住地を海外にして税金逃れをした芸能人もいた。誰のお陰で儲けさせてもらったのだろうか。税金というのは、利益を提供してくれた国民に還元するという性格を持つのだから、感謝しながら支払うべきものだ。

    日本において脱税をすることの罪の意識は、けっして高くない傾向にある。犯罪だとは知りながらも、税金を出来るだけ少なくしたいという、節税的な気持ちからついつい実行してしまうらしい。勿論、確信犯的な脱税ではなくて、間違って申告漏れをしてしまったというケースならば、申告漏れや申告ミスに対する追徴課税で済む。ところが意図的に収入を隠したり架空の経費を計上したりして納税を免れた場合は、刑事罰もあるし重加算税が課せられる。それは現金で納めなくてはならず、資金繰りが悪化する。また、これらの追徴課税や重加算税は損金処理が出来ないから、その分が二重に課税されるのである。

    脱税をすると、社会的信用を失う。当然売上げに響くし、取引先からの信頼を失うだけでなく、脱税するくらい利益が上がっているのだからと足元を見られ、値引き交渉をされる。税金を納めたくないからと脱税をすると、とんでもないペナルティーを科せられることになり、経営破綻をするケースも少なくない。本当に賢い経営者ならば正しいリスク管理が出来るから、絶対に脱税なんてしないのである。そんな恐い脱税なのに、三崎容疑者のように悪質な脱税が後を絶たない。愚かな経営者でもないのに、どうして脱税するのだろうか。

    何故、こういう経営者は脱税をするのかというと、価値観が劣悪で経営哲学がねじ曲がっているからであろう。自分の損得しか考えていないし、利己的であり身勝手な人間であると言える。お金の為になら、人を騙すことも平気でする劣悪な価値観を持った人間に違いない。つまり、生きるということ、または仕事をするということは、利益を受けて楽しいことをする為の単なる手段としか考えていないのである。仕事を通して地域貢献や社会貢献をするという使命感はないし、仕事をすることで人間性を磨くという観念もない。

    人間とは、本来仕事や地域活動を通して、人々の豊さや幸福に寄与する為に生まれてきたのであるし、その為にも仕事を通して人間として成長することが求められる。仕事で収益を上げて個人収入を得るというのは、社会貢献や自己成長による副産物でしかないのである。自分の利益を増やすためという個別最適や個人幸福を、仕事に求めてはならない。あくまでも、会社全体の為、地域全体の為、社会全体の為という、全体最適を目指すのが、人間としての正しい価値観である。人間はこのような高邁な価値観に支えられて生きるのであるし、仕事をするべきなのである。

    人間とは、このような高い価値観を持たないと、正しい生きる目的や生きる意味を見いだせない。つまり、正しく高潔な哲学というのは、高邁な価値観に目覚めた人にしか見いだせないことになっている。卑劣な脱税をする人は、低劣な価値観しか持たないから、正しい哲学なんて持ちえないのである。正しい理念を持てない人間は、経済的な豊かさは実現できるかもしれないが、やがて誰からも相手にされず孤独な人生を送ることになる。そして、重い病気やケガをしたり、事故に遭ったりするのである。三崎容疑者のような低劣な価値観を持つ人は、悲惨な人生を送ることになるのだ。