メンヘラを好きになってしまう訳

 メンヘラという言葉をご存知だろうか。中高年の方たちには馴染みがないかもしれないが、ネットの世界では若い人たちを中心に使われている。メンタルヘルスから転じて、メンタルを病んでいる人という意味に発展しているという。ただし、重症のメンタル疾患という意味ではなくて、軽症というか少し変わった性格で生きづらさを抱えている人という意味で使われているらしい。当初はメンヘラ女子というように女性を中心に用いられていたようだ。自分のことをメンヘラだとカミングアウトする人も多い。

 そんなメンヘラ女子を好きになってしまう男も多いし、メンヘラ男子を何故か好きになってしまう女子も少なくないという。ということは、メンヘラは魅力的なパーソナリティを持っているのだろうか。本来、メンヘラとは付き合いにくいと思われるが、好意を抱いてしまうというのは特別な意味があるに違いない。メンヘラになってしまう原因を考察すれば、メンヘラが好きになってしまう訳も解るのではなかろうか。メンヘラとは、どういうパーソナリティを持った人かというと、端的に言うと『パーソナリティ障害』的な人だと言える。

 依存性、回避性、演技性、妄想性、自己愛性などのパーソナリティ障害のような人格を持つのが、メンヘラの特徴とも考えられる。そして、より深刻な境界性のパーソナリティ障害の性格を持つメンヘラも存在する。このような人たちは、自分では強烈な生きづらさを持っているし、他人との良好な関係性を構築することが苦手である。とは言いながら、こういう人たちはパーソナリティ障害というハンディキャップをバネにして、各界で活躍する人も少数だが輩出している。そして、ある意味もの凄く魅力的でもあるのだ。

 また、このように生きづらさを抱えたメンヘラだからこそ、支援してあげたいという人もいる。そして、その支援がお互いの恋愛感情に変化していくことも少なくない。かくして、メンヘラを好きになってしまう人は出てくるのである。ところが、付き合ってみると大変な状況に追い込まれてしまうことが多い。依存性があるので、交際相手に依存してしまうし、アルコールやギャンブルに依存してしまうことも多い。ゲームにもはまり込みやすい。中には、セックスに依存したり薬物に手を出したりするメンヘラもいる。

 元々、愛情不足によりパーソナリティ障害の人格を持ってしまったのだから、愛に飢えている。それも、限りなく貪欲に相手の愛を追い求める。それも、相手の愛を確かなものかどうかを常時確認したがる。だからこそ、自分を見捨てないかと相手の愛を試すのだ。見捨てられ不安が強いからこそ、捨てられることがないかどうか、無意識で相手の愛を試すのである。試される人の気持ちとしては、たまったものではない。メンヘラが自分に対して嫌がらせをしているとしか思えない。当然、そんな振り回される日々は嫌だから別れることになる。

 メンヘラどうしがお互いを求めるというケースもある。これは共依存の関係を築いてしまうので、その事実に気付かなければ、家庭を持ち子どもを産み育てることになる。しかし、残念ながらその関係が長続きする訳がない。やがて、家庭崩壊を招いてしまうのである。メンヘラになるのはパーソナリティ障害の人格を持つが故なのだが、その根底には『愛着障害』が隠されている。お互いに『安全基地』を求めて一緒になるのだが、愛着障害を持つ人は、基本的に安全基地にはなれないのだ。安全基地ではなかったと悟ると同時に別れる。

 このようにメンヘラは魅力的であるし、何とか自分の力でメンヘラを乗り越えさせたいという思いから好きになってしまうことが多い。しかし、余程の人でないと相手のメンヘラを卒業させることは出来ない。もし、愛着障害を乗り越えて、絶対的な自己肯定感を持ち、自己人格の確立を成し遂げた人であれば、メンヘラを卒業させることが出来得る。そういう人はごく少数だが、存在しない訳ではない。そういう人は、既に安定したパートナーとの暮らしをしているから、恋愛としての対象にはならないかもしれない。いずれにしても、付き合う時には、自分と相手のパーソナリティを把握して、安易な相手を選ばないことだ。

妻が夫に不満を持つのは何故か

 夫婦の満足度についてのアンケート調査をしたら、驚くような結果になったという。夫が妻に対して満足している割合は69%であるのに対して、妻の夫に対する満足度は49%だというのである。この差は何なのか、どうしてこんなに差があるのであろうか。昔は、夫の方から離婚を切り出すケースが多かったが、現在は妻から離婚を申し立てるほうが圧倒的に多いという。しかも、夫の方では離婚の理由が解らないと主張するケースが殆どだというから驚きだ。ということは、妻の不満を夫はまったく把握していないということになる。

 夫の満足度は現実と相違ないが、妻たちの本心を明らかにしているかというと、そうではないような気がする。というのは、この満足度に対する設問が総体としてのものであり、個別の満足度設問になっていないからである。確かに、全体としてはまあまあ満足という気持ちがあるが、かなり不満な部分が相当あるのではなかろうか。特に、妻の気持ちに共感してくれているか、または妻の話を真剣に聞いてくれるか、さらには妻のことを自分のことのように心配してくれるか、という設問だったら妻はNOと答えるに違いないのである。

 多くの妻たちが抱いている不満は、以上のようなことなのである。とは言いながら、経済的には裕福な暮らしをさせてくれるし、高望みをしても仕方ないという意味で、満足していると答えているのではないかと思うのである。だから、このような設問をすること自体が、まずいのではないだろうか。以前、既婚男女に対してのこんなアンケート結果がある。生まれ変わって、結婚するとしたら今の伴侶と結婚するかどうかを聞いた。男性は約半数が現在の妻と一緒になると答えたのに対して、妻はそれよりも1割以上低い数字になった。

 しかも、20代~30代の妻たちは別の男性と結婚したいと願う割合が低いが、50代~60代になると半数以上の妻たちが別の男性と結婚したいと答えているのである。つまり、夫と長く暮らすほど不満が高まるということになる。若い頃は見えなかった夫の嫌な部分が年齢を重ねると目立ってくるのか、夫が高齢になると身勝手で我が儘になるかであろう。夫婦生活の中で、夫が抱いている不満感よりも妻が抱える不満感が圧倒的に多いということになる。年齢を重ねるとその傾向が強くなるということであろう。熟年離婚が増える要因であろう。

 それでは、何故妻たちは夫に対して不満を持つのか、考察を試みたい。妻たちが持つ不満は、夫の傾聴力と共感力の乏しさに対してである。または、コミュニケーションが成り立たないという不満でもある。どうして妻よりも夫のほうが、コミュニケーション能力が低いのか。夫たちは職場で、コミュニケーション能力やプレゼン能力を発揮して、部下たちを統率管理している筈である。年齢を重ねれば重ねるほど、その能力は高まっているに違いない。それなのに、家庭では妻が夫のコミュニケーション能力が駄目だと感じているのである。

 それは職場での意識と家庭での意識がまるで違っているからであろう。夫たちは職場において、意識を集中してコミュニケーション能力を発揮しているのである。そうしないと、仕事が上手く行かないからである。特に顧客の気持ちを汲み取ろうと必死になるし、上司の意思を把握しないと出世できないのだ。部下の話をよく聞かない男性の上司は多いが、上司の話を聞かない管理職は極めて少ない。それだけ気を張り詰めて職場でコミュニケーション力を発揮している。その反動であろうか、家庭では妻の話を聞こうとしないし、共感しようとしないのだ。

 「世の中の男性なんて、みんな発達障害みたいなものよ」と言った女性がいる。東京大学名誉教授でフェミニストである上野千鶴子女史である。発達障害の夫によって心身の破綻を起こすカサンドラ症候群の方たちに招かれた講演会での発言である。言い得て妙である。気を張り詰めて仕事をしている職場においては大人の発達障害の症状はあまり出ないが、気が緩む家庭においては発達障害の症状が強く出てしまうのだ。当然、傾聴力と共感力が乏しいし、コミュニケーションが上手く行かない。妻の気持ちを解ろうともしないし、身勝手で自己中な夫に愛想を尽かすのは当然なのである。熟年離婚をされるのも仕方ない。

性善説と性悪説のどちらが正しいのか

 生まれつき人間は善であるという性善説は、中国の思想家孟子が提唱した。一方、生まれつき人間は悪であるという性悪説は、荀子が主張したとされる。どちらの説が正しいのだろうか。生まれつきの人間というものは、悪なのであろうかそれとも善なのであろうか。生まれつき人間には自己中心的な欲求があり、我が儘であり利己的で悪なのだと荀子は説いた。修養や学びにより徐々に善を獲得するという。逆に、生まれつきの人間は善であるのに、育てられ方や環境によって悪にもなると孟子は説いたと言われている。

 性善説と性悪説のどちらが正しいのであろうか。生まれつきの人間は善なのか、それとも悪なのか、どっちなのであろうか。どちらの考え方にも一理ありそうだ。欧米の考え方からすると、性悪説を取る人が多いような気がする。一方、日本を始めとした東洋では、性善説を取る人が多いかもしれない。性善説にしても性悪説にしても、その主張は観念論的なものだと言えよう。どちらにしても完全に肯定することも否定することも難しい。明確な科学的根拠に基づいて、どちらかが正しいのかを明らかにしてみたい。

 人間として観るのではなく、人体というひとつのシステムとして捉えて、自然科学と社会科学によって検証すると、どちらの説が正しいのか判明するに違いない。人体とはどういう組織で組成されているのかというと、60兆個に及ぶ細胞によって全体が形作られていると言われてきた。最先端の科学では、37兆2,000億個の細胞数だということが解明された。その細胞は、脳や臓器を組成しているし、筋肉や骨格を形成している。血管を形成し、その中を流れる血液なども細胞によって形作られているのである。

 人間の細胞というのは、脳神経からの指示・命令を受けて、必要な働きをするのではないかと見られていた。ところが、最新の科学で解明されたのは、驚くべき事実であった。どういうことかというと、それぞれの細胞は何からも命令されず、自発的に自主的に主体的に、連携して人体を守る為に懸命に働くのである。細胞自身の為にではなくて、全体の為に必死で働くのだ。テレビ東京で放映されていたアニメ『働く細胞』でも詳しくその様子が描かれていた。つまり、人間の細胞は、個別最適ではなくて全体最適を目指して活動しているのだ。

 人間の細胞は、人体というシステム全体の為に働いているということが判明したのである。システムダイナミックスの理論で言えば、構成要素である細胞がシステム全体(人体)を最適に保つ為に、自己組織化の働きをしているのである。細胞は、自分の命を犠牲にしても人体を守る。例えば、人体に有害なウィルスが侵入したとしよう。または、指先に傷が出来て細菌が侵入したとする。それらの有害な細菌やウィルスに、白血球は果敢にも攻撃してやっつけてくれる。そして、白血球細胞は闘い終えて命を落とすことも少なくない。

 自分の命を犠牲にしてでも、人体を守ってくれる細胞は正義の味方である。人体を構成する細胞は、善であると言える。自分の損得や利害を考えて個別最適の為に働くこと、自分の利益の為に他人を騙したり傷つけたり殺害したりすることを『悪』とするなら、その反対に位置する人間の細胞は『善』であろう。善である細胞で形成されている人体も善であるのは間違いない。当然、人間もまた生まれつき善であるのは当然である。人間は、元々生まれつき善であり、個別最適のために活動するのではなくて全体最適の為に働くのである。

 システムダイナミックスの理論からすると、人間が自己組織化の働きをする為には、人間どうしの良好な関係性が必要なのである。人間どうしの関係性が悪化してしまうと、自己組織化の働きをしない。細胞どうしの関係性(ネットワーク)が阻害されると、自己組織化しないのと同じことである。人間どうしの関係性(愛)が阻害されると、善の働きがなくなり悪の働きが強くなる。親子の愛が阻害されると子どもは『愛着障害』になり、夫婦の愛が阻害されると家族崩壊を迎えてしまう。細胞が自己組織化するのと同じで、人間は生まれつき自己組織化の働きをするのだから、性善説が正しい。それが悪になるかどうかは、人間どうしの関係性(愛)にかかっていると言えよう。

※生まれつき善である人体(人間)は、関係性(ネットワーク)=愛が良好に発揮されるなら、自己組織化が健全に働き心身の病気にもならないし人間関係が破綻することはない。ところが、親からの十分な無条件の愛が与えられず育てられると、良い親子関係や夫婦関係が形成することが叶わず、幸福な人生を歩めなくなる。子どもはメンタルを病んでしまい、不登校やひきこもりになることも少なくない。そうなってしまった子どもを幸福にするには、良好な親子の関係性(ネットワーク)=愛を取り戻すしかない。

陰謀論者たちを洗脳から目覚めさせるには

 自分たちだけが真実に目覚めていると思い込み、とんでもないフェイクニュースを拡散し続ける陰謀論者たちには困ったものである。Qアノンという怪しい人物が作ったフェイク情報に踊らされている。それも巧妙に加工された写真や動画を信じ込ませられているから、非常にやっかいである。人間と言うものは、印刷された文章、写真、動画は真実だと思い込みやすい。最近は手の込んだデジタル処理の細工がされているから、信じてしまうのも無理はない。DSとかいう組織が本当にあると信じ込まされている。洗脳されているのである。

 人間は一度洗脳されてしまうと、その洗脳から離脱することは難しい。オウム真理教に洗脳された若い信者たちが、騙されて重大犯罪に関わってしまった事件は悲惨であった。今でも洗脳から解けずに苦しんでいる人は多いし、最近はさらに洗脳されている人が増えている。一旦洗脳されてしまった人間は、認知的バイアスがかかってしまうから、正しい情報を伝えても聞こうとしない。妄想性の障害を起こしてしまっているのである。フェイクニュースを真実だと思い込むのは、洗脳のせいであるから救いようがないのである。

 洗脳された陰謀論者たちは、9.11事件は自作自演だとか、3.11の東日本大震災が人工地震によるものだとか、日本各地の豪雨被害は気象操作によるものだという、まことしやかなフェイク情報を拡散し続けている。科学的な根拠もないし、現代の科学では人工的に操作するなんて不可能である。冷静に考えれば、誰だってフェイクだと気付く筈である。一旦陰謀論に騙されてしまった人間は、メンタルモデルのせいで自分の力だけで覚醒することは難しい。メンタルモデルが一度歪んでしまうと、正常な判断能力を喪失してしまうからだ。

 どうして人間は洗脳されてしまうのであろうか。オウム真理教の際にもそうだったように、騙されてしまうのは、けっして愚かな人間ではない。学歴も高いし教養がある人間が洗脳されてしまうのである。自分はしっかりしているから騙されないし、科学的な見識が高いと自負している。普段から慎重であり、何事にも疑い深い。そういう人こそが騙されやすいのである。客観的合理性が強くて、分析力が高い人ほど騙される。SNSで盛んに情報を収集したり発信したりする、情報に敏感な人こそが洗脳されるのである。

 高い教養と学歴を持ち、客観的合理性を持った見識の高い人なのに、何故騙されて洗脳されてしまうのかというと、根底に愛着障害を抱えているからである。誤った情報に惑わされて洗脳されてしまう人は、いつも不安と恐怖感を抱えている人である。そして、傷つきやすいHSP(神経学的過敏)を起こしている。したがって、家族やパートナーからの豊かな愛情を認識しづらくなっている。愛に飢えていると言っても過言ではない。まるごと愛してくれて、守ってくれる存在がないのである。それ故に、強烈な生きづらさを抱えてしまっている。

 強い生きづらさを抱えていて、いつも不安や恐怖感を抱えているので、人や社会を信じられなくなっているのである。それ故に、権力者や経済的優位者が何らかの陰謀を企んでいて、庶民を騙しているという情報に飛びついてしまうのだ。自分を心から信頼できている人は、不信感を持たない。ところが、自己肯定感が低くて自分を信じられない人ほど、不安感を煽られて、フェイクニュースを信じ切ってしまうのである。このような洗脳に陥ってしまった人を救うには、根底にある愛着障害を癒すしか、他に方法がないのである。

 大人になってから愛着障害を癒すというのは、非常に困難である。何故なら、愛着障害は親からの無条件の愛である母性愛が不足して起きたからか、もしくは親が過干渉や過介入したから発症したのである。親が劇的に変わらなければ、愛着障害は癒せない。しかし、頑固な親であるとか、親が高齢者になってしまった場合は、それも適わない。そういったケースでは、愛着障害を癒すのは絶対不可能かというと、けっしてそうではない。親以上に温かい愛情を十分に注いでくれて、絶対的な安全基地になってあげる存在があれば、愛着障害は癒されるであろう。そうすれば、陰謀論の洗脳から解けるに違いない。

愛着障害の指導者に国を任せる危険性

 幼児期において、養育者から豊かな愛情を受けられずに育てられると、やがて深刻な愛着障害になりやすい。特に、無条件の愛である母性愛を十分に注がれないと、愛着障害で苦しむことになる。大人になっても強烈な自己否定感を抱えて生きるのであるが、自分に自信を無くしてしまい、強烈な不安感の故に社会不適応を起こして、不登校やひきこもりに陥ってしまう。ところが、中にはこの愛着障害による二次的症状として、強烈な自己愛のパーソナリティ障害を起こしてしまい、超攻撃的人格を持つ人間が生まれてしまうことがある。

 同じ愛着障害でも、この超攻撃的な自己愛性のパーソナリティ障害を持つ人間は、権力欲が非常に強いうえに、能力もある程度高いので、組織の中で頭角を現して昇り詰めることが多い。競争相手を巧妙に蹴落とすスキルも高いし、上に媚びへつらい忠誠を誓うので、上司から引き立てられるので出世が早い。職場においては、巧妙なパワハラやモラハラで、部下を潰してしまうことが多い。政治の世界では、忠誠心が強いのでトップから可愛がられ、競争相手を蹴落とす権謀術策に長けているから、トップに昇り詰めるケースが多い。

 愛着障害からの自己愛性のパーソナリティ障害を持つ政治家として一番有名なのは、かのアドルフ・ヒットラーである。彼は強烈な攻撃的な性格の持ち主で、競争相手を粛清して独裁者となった。とても強い性格であったと思われているが、実は小心者であったのではないかと言われている。本当は、不安感と恐怖感がいつも自分を支配していて、強い自己否定感を抱えていたと思われる。不安感と恐怖感が強くて、妄想性の障害をも抱えていたのではないかと見られている。強い愛着障害があったからこその症状であろう。

 アドルフ・ヒットラーは独裁者となってからも、自分の地位や名誉が奪われてしまうのではないかと常時恐れていた。だからこそ、自分に対する批判や非難を怖れ、極端な情報統制をしたのであろう。自己否定感が強くて不安・恐怖感が強いからこそ、その反動で自分が特別で万能であると思ってしまうのであろう。だから、マスコミが自分を非難・批判するのを許せないのだ。マスコミを統制する政策を実施する指導者は、おしなべて自己否定感が強い愛着障害と自己愛性のパーソナリティ障害を抱えていると言っても過言ではないだろう。

 過去の著名な為政者でも、同じような情報統制の政策を実施した人物が多数存在した。そして、現代の国のリーダーの中にも、同じ障害を抱えている人物は枚挙に暇がない。アジアにおいては、K氏やS氏も同様であるし、米国で圧倒的な支持者がいるT氏も同じだ。T氏は極端なマスコミ嫌いで、大きな圧力をかけていた。そして、今世界中で困惑している指導者P氏もまた、愛着障害と自己愛性パーソナリティ障害を抱えているのは間違いない。彼は、妄想性のパーソナリティ障害も抱えているので、非常に危険な人物だと言えよう。

 K氏やS氏は、普通選挙によって投票された訳ではないので、国民(選挙民)に選んだ責任はない。しかし、T氏やP氏を選んだのは国民である。強いリーダーシップを発揮して、強い自国を造ってくれる人物を選びたくなるのは仕方ないかもしれない。アドルフ・ヒットラーは演説の名手であったという。短い解りやすい言葉で、国民を熱狂させた。強くて大きなドイツを造ろうと演説して、多くの熱狂的支持者を得た。米国のT氏も、かつての強大な米国に戻すという演説で、熱狂的な支持者を得ている。P氏もまた同様である。

 日本でも、つい最近までマスコミに圧力をかけて、自分を批判する経営幹部やキャスターを追い落としたリーダーがいた。その彼もまた、強い愛着障害を持っていた。こんな指導者を選ぶ危うさを認識すべきであろう。P氏、T氏は、確かに優秀な政治家に見えなくもない。しかし、上手く行っている時は問題ないが、自分が人々から見離されられてしまったら、とんでもない行動をしかねない。実際に見捨てられてしまったら、自虐的・破滅的行動を取るだろう。自分だけが破滅するならいいが、こういう人間は善良な人々までも巻き込み国を滅ぼすこともする。そんなP氏が核のスイッチを握っているというのは、恐ろしいことである。

しょうもない男と結婚して後悔する女性

 世の中には、しょうもない男と結婚してしまい、おおいに後悔している女性が相当数いるという。周りから見ると、どうしてそんな駄目男と結婚してしまったのか不思議である。何故結婚したのか、自分でもよく解らない女性もいると思われる。こんなにもしょうもない男だったのかと、結婚してから気付く女性もいるし、駄目な男だとある程度解っていながら仕方なく結婚した人もいるのではないだろうか。どうしてそんなしょうもない男と結婚してしまうのか、駄目男でも暮らしを続けて行くべきなのか止めるべきかを考察してみよう。

 妻から見るとしょうもない男とはどういう性格・人格なのだろうか。自己中心的で利己的であり、損得勘定で動く人間というケースもある。家族の幸せよりも自分の喜びを優先してしまう人だ。または、まともなコミュニケーションが取れない男もいる。人の話を聞かないタイプだ。聞いているようだが、まるっきり聞いていない。自分のこだわりや固定観念によってバイアスをかけているから、自分にとって都合の悪いことは聞こえない。家事や育児を依頼しても、忘れるし無視する。妻の気持ちに共感できないし、心が冷たい男である。

 もっと最悪なしょうもない男は、働くことが嫌いなタイプだ。何かと理由をつけては定職につかない。職を転々として、稼いでこない。ジャンブルやゲームが大好きで、コミックやテレビ・映画に夢中。中には最悪のケースもある。暴力や暴言を操り返し、家族を支配し制御するタイプだ。こんなしょうもない男と結婚したら、毎日が最悪である。妻に見つからないところで子どもに暴力を奮うケースもある。嫌なことがあると黙り込んだり、モノに当たったりする男もいる。壁を叩いたり蹴ったりして、妻子を怖がらせる最低の男もいる。

 中には、立派な職業に就いて高収入で、周りから見たら良い旦那さんに見えるケースもある。大人しくて、優しそうに見えるし、酒・ジャンブル・女には目もくれず、毎日職場と家庭を往復する優良亭主である。しかし、人間的には詰まらないし、異性としての魅力が感じられないタイプである。何故、そんな好きでもない男と結婚したのかと言うと、早く結婚して親から独立したかっただけである。口やかましく支配的な親で、愛情を注いでくれず子どもを制御する、いわゆる毒親から逃れたかったからである。

 しょうもない男と結婚する女性は、実はこういうケースが多いのである。育てられた家庭に居場所がなくて、自分と結婚してくれるのなら、しょうもない男と暮らしたほうがまだましだと思い込む女性は少なくない。温かくて愛情が溢れていて思いやりのある家庭を構築したいと願って、駄目男でも結婚する場合がある。愛情を注いであげれば、男は変わるかもしれないという期待は、脆くも崩れ去る。人間は、そんなに変われるもではない。ましてや、男のほうも親から愛されず育ったケースは、温かい家庭を築くのは無理なのだ。

 さて、このようなしょうもない夫とは今後どう対処したらよいか、悩むところである。暴力や暴言を繰り返すとかギャンブルのはまり仕事もしないという、どうしようもない夫なら一刻も早く別離したほうがよいだろう。どうするか迷うのは、立派な職業に就いて高収入で、周りから見たら良い旦那さんに見えるケースである。ましてや、医師、弁護士、技術者、行政職など安定した高収入が保証されている場合は、なかなか離婚に踏み切れないものである。子どもの未来のために、自分の夫は隣のおじさんや宇宙人だと思い、我慢する選択肢もある。

 しかし、子どものために我慢を続けるとしても、自分の人生を犠牲にするというのは正しい選択肢であろうか。人間は、誰かを心から愛し愛されてこそ生きる喜びを感じるものである。心からリスペクトできる伴侶、そして敬愛してくれるパートナーと一緒に人生を全うしたいと願うものだ。また、そのようなしょうもない夫は、妻が外で働くことを嫌がり、フルタイムで働かせない傾向が強い。しかし、働くことで社会と繋がり貢献をしていくという喜びを得られないというのは辛いものである。しょうもない男と一緒の暮らしを続けるか否か、どちらを選ぶのかは、いろんな要素を熟慮して決めるしかないだろう。

男性が怖くて苦手な女性

 男性が怖くて話をするのも苦手だと言う女性の方が存在する。当然、結婚することも出来ないし、お付き合いさえも避けたがる。職場でも、男性の同僚と話すことも苦手だし、男性の上司とは目を合わせることも出来ないケースもある。男性の野太い声を聞くと、怖くて仕方ないし、怒鳴る声が聞こえると震えが止まらなくなる女性もいる。学校でも、男性の同級生と話せない子どもがいる。どういう訳か解らなく、男性が苦手で怖いのである。男性恐怖症と言っても差し支えない。原因も解らないから、対処する方法もない。

 重症の方は、精神科医や臨床心理士に診断と治療を受けるケースもある。カウンセリングを受けると、乳幼児期の育てられ方に問題があるのではないかと言われることが多い。父親との良好な関係が形成されなかったことが、男性恐怖症になったのではないかと言われることも少なくない。カウンセラーやセラピストというのは、自分も同じような体験をしていることも多く、そのような分析をしてしまうことが多いようである。治療者自身が父親を憎んでいることから、父親が原因だと導くのではないだろうか。

 本当に父親が原因で男性恐怖症になってしまったのであろうか。厳格な父親、いつも怒鳴っていた父親、子どもを所有物のように扱っていた父親、自分を支配してコントロールしようとしていた父親、そんな父親は世の中にたくさん存在する。それだったら、もっと多くの女性が男性恐怖症になる筈だ。怖い父親がすべての原因だとするのには、無理があるように思われる。確かに、あまりにも厳格で暴力的な父親が、男性恐怖症になるひとつの要因だとしても、それだけが原因だと言うのは言い過ぎのような気がする。

 勿論、男性恐怖症になる原因が他にもある。幼児期に大人から性的ないたずらや暴力を受けたことが、深刻なトラウマになってしまって男性恐怖症になることもある。少女期に同様の悲惨な体験をしてもなることがある。大人になってレイプなどの恐怖体験によって男性恐怖症になることも考えられる。しかし、そのような体験をしないのにも関わらず男性恐怖症になるのは、何故であろうか。酷い父親であったから男性恐怖症になったとは言い切れないように思われる。そこに特有のバックグラウンドがあったように思うのである。

 パニック障害やPTSDになりやすい人となりにくい人がいる。同じような恐怖体験をしても、心の傷を残してしまう人と残さない人がいる。または、得体の知れない不安や恐怖に出会ったとしても、まったく平気な人もいればそれがトラウマになってしまう人がいる。その違いは何によるのであろうか。恐怖体験は単なるきっかけであり、本当の原因は別な所にあると見るのが正しいと思われる。必ず男性恐怖症になってしまうと見られる体験がひとつある。それは両親が不仲で、いつも喧嘩をしたり母親が暴力を受け続けたりするのを見ていたという体験である。

 自分が辛い思いや悲しい思いをさせられるとか恐怖体験をするのも、トラウマとなってしまい後々まで自分を苦しめる。それ以上に大きなトラウマとしてずっと苦しめるのは、実は自分自身が体験することではなくて、自分が大切にする人や大好きな人が悲惨な目に遭った体験なのである。つまり、愛する母親が父親である夫から暴言や暴力を受けている体験がトラウマになりやすいということだ。自分自身が虐めや暴力を受けるよりも、同級生が目の前で虐めや不適切指導を受けた記憶のほうがトラウマになりやすいのである。

 家庭内において、母親や兄弟姉妹が父親から虐めや暴力を受けていて、助けてあげられなかったという体験のほうがより大きなトラウマになりやすいと言える。そして、男性が怖い存在として脳に刻み込まれているのである。さらに、母親が夫からまるごとありのままに愛されていなかった故に、我が子に豊かな母性愛を注げることが出来なかったことで、自己肯定感が育たなかったことが大きな影響を与える。つまり、自分を守ってくれる安全基地がないまま大人になると、男性恐怖症になるのである。強すぎる不安や恐怖感を持ち続けることになる。男性恐怖症の本当の原因は、愛着障害にあると言ってもよい。

目的と目標の使い方間違っていませんか

 目的と目標の使い方を間違っている人が少なくない。そもそも目的と目標はどういうものかということを、正確に認識していないのだから仕方ない。一番多いのは、目的と目標の意味を逆に覚えているケースである。目標というのは目的を達成する際のひとつの段階というのか、ランドマークである。目標とは具体化数値化するものであるが、目的は具体的なものではなくて、抽象的な概念である。目的を達成するためにある目標を定め、それが達成出来たら、さらに高い目標を再設定する。そして、目的に近づいていくのである。

 よく間違っているのが、最初から到達できないような高い目標を設定してしまうことだ。例えば、業界第一位になるというような目標である。または世界一になるというような目標である。絶対に実現できないような高い目標を立てるというのは、社員が一丸となって努力しやすいのではと思われる。しかし、それは勘違いである。それぞれの社員は勿論のこと幹部社員たちも、本心では達成を諦めているからである。そうなると、無意識下でどうせ努力しても無駄なんだと思っていて、努力するのを止めてしまうのである。

 目標を立てる時に大切なのは、ちょっと努力すれば達成できる目標にするということだ。そして、短期目標と中期目標、そして長期目標というような3段階の目標を定めることも肝要だ。その際に、短期目標が達成できたら、少し高い目標を再設定するというように、常に短期目標の見直しをするのも必要である。さらに大事なことがある。目標は、それぞれの個人、または部門に決めさせることだ。上司や部門長が目標を与えてはいけない。自分で設定せずに与えられた目標を達成しようと思わないのが人間の常なのだ。

 これは家庭や学校でも、よく犯してしまう過ちでもある。親や先生が子どもに対して、本人に確認もせずに、目標を与えてしまうというとんでもない誤りをするケースは、想像以上に多い。自分でよく考えて目標を自主的に決めたのであれば、その目標を何とか達成しようと努力する。しかし、他から与えられた目標には真剣に向き合えないのが人間である。それは、人間の自己組織性を無視したやり方であり、本人の主体性を阻害してしまうのだから、失敗してしまうのは当然である。目標設定は本人にやってもらうのが正しい。

 目標を設定するには、まずは正しい目的を持つことが必要不可欠である。そして、この正しい目的を設定するには、高い思想哲学が必要であり、崇高な価値観が根底に存在しなければならない。劣悪で低レベルの価値観に縛られている人間には、正しい目的は持てないのである。例えば、自分の損得や利害を大切にして、自己中心の考え方をしているような価値観を持つ人間には、正しい目的が持てない。関係性を重視して全体最適を目指して生きている、システム科学の哲学を理解している人間しか、目的は設定できないのである。

 現代社会において、正しい目的(経営理念)を施ってして社内一丸となって実践している企業は極めて少なくなってしまった。だから、経営危機に陥っている会社が増えたのである。正しい目的に沿って生活を営んでいる家庭も少なくなった。それ故に、親子関係や夫婦関係が破綻してしまい、家庭崩壊が起きているのである。不登校やひきこもり、虐待、DVなどの問題が顕在化しているのは、正しい目的を父親が持っていないからである。こうして、地域社会も含めて現代のあらゆるコミュニティは崩壊しつつあるのである。

 正しい目的を設定しなくても、生活はできるし経済活動も卒なく行えるから、目的なんて不要だと嘯く人々もいる。確かに、その通りで目的がなくても生きていける。しかし、よく考えてみると、それがどんなに無謀なことかということが解る。目的のない人生は、コンパスや地図のない航海のようなもので、遭難の危険が極めて高い。登山地図のない登山、ナビ無しで知らない土地を運転するようなものである。現代社会における諸問題は正しい目的を設定しないからだと言っても過言でない。崇高で正しい価値観に基づく、全体最適や全体幸福という正しい目的を設定したいものである。

新型コロナは風邪と同じだと言うが

 新型コロナ感染症はその勢いがなかなか止まらない。オミクロン株は感染力が強いものの重症化することは少ないと言われていた。ところがここに来て重症者が増加の一途を辿り、死亡者も急増しているのである。そんな状況にあるにも関わらず、SNSの世界では新型コロナ感染症なんて風邪のようなものであり、インフルエンザよりも怖くないという誤った情報が発信され続けている。誤った情報を発信している人々は、会合の場でマスクもしないし、ワクチン接種を拒んでいる。実に困った人々である。

 新型コロナなんて怖くないという情報を発信している人々の中には、現役の医師もいるので信じてしまう人も少なくない。しかし、こういう間違った情報を発信しているドクターは、臨床をしていない医師であるし、新型コロナ感染症の治療をしていない医師なのである。つまり、新型コロナ感染症を受け入れている医療機関で働いているドクターではないという事実である。また間違った情報を発信している看護師もいるが、新型コロナ感染症の治療をしている病院で働いているナースではないということに注目すべきだ。

 新型コロナ感染症の入院治療をしている病院で働いている医療従事者の方々は、新型コロナ感染症が風邪と同じだなんていうことは、絶対に言わない。ましてや、重症者を治療していて現場において、治ることなく最期を看取っている悲惨な日常を過ごしている医療従事者は、風邪と同じだと嘯いている人々をけっして許せない筈である。風邪によって亡くなる患者さんは皆無に等しい。インフルエンザによる国内の致死率は0.02~0.03%である。一方、新型コロナ感染症による国内の致死率は1.4%に昇る。約70倍の致死率だ。

 客観的な科学的データをまともに考察すれば、新型コロナ感染症の恐ろしさは一目瞭然である。とんでもない間違った情報を信じる人々というのは、物事を客観的に見ることが出来ない。こういう人達は、元々恣意的なバイアスをかけて物事を判断する傾向がある。新型コロナ感染症で亡くなる人は実際に居なくて、基礎疾患の悪化で死亡したのであり、直接死因ではないと主張している人がいる。そういうケースもあるが、インフルエンザで亡くなる人だって、合併症で亡くなる例も多い。まったく同じことが言えるのである。

 ワクチンをしないのも自由だし、マスクをかけるのを拒否するのも法的には問題ない。誰にも会わないし、買い物や仕事にも行かず、他人に感染させる恐れが100%ないというのなら、それでもまったく問題ない。しかし、この社会で生きて行くうえで、誰とも会わないなんて出来ないのだから、自分が感染して他人に移す可能性がゼロではない。感染しても軽症とか無症状ということもあり、風邪と同じだから心配ないと感染予防策も取らず、知らず知らずのうちに高齢者に感染させる可能性もあるのだ。

 新型コロナ感染症の情報をSNSなどで流すことは、自分の使命であり世の中の不正を明らかにすることで、自分は正義の使者なんだと信じて疑わない人がいる。自分が騙されていることを知らないし、言わば洗脳されてしまっているのである。洗脳されてしまっている人たちというのは、極端な認知的バイアスがかかっているから、正しい情報を正しく読み取れないでいる。間違った情報でさえ正しいと判断してしまうのである。逆に正しい情報を排除してしまう。ワクチンを接種すると死亡してしまうと信じている。

 ワクチン接種後の死亡例は、約1300人と報告されているが、それはワクチンが直接原因ではなくて自分の病気によるものである。例え死亡原因がワクチンであったとしても、新型コロナの死亡者数に比べると約その0.6%でしかない。ワクチン接種をしたほうが、致死率の低下をもたらすのは間違いない。新型コロナ感染症は、風邪とはまったく違うしインフルエンザより数十倍も致死率が高くて危険なのである。ましてや感染後の後遺症で、4人に1人が苦しんでいる。新型コロナ感染症が風邪と同じだという情報は、完全に間違っている。こういう間違った情報を流すのは、殺人ほう助罪と同じだと心得てほしい。

子どもは哲学が大好き

 子どもなんて哲学とか思想の話に興味を持つ筈はないだろうと、殆どの大人が思っているに違いない。実際に試したこともないだろうから解らないのも当然だが、子どもに思想・哲学の話をすれば、目を輝かしてその話に聞き入る筈だ。そんな馬鹿なと思うであろうが、子どもは思想や哲学の話が大好きなのだ。思想・哲学の話に興味を持つ子どもなんてごく少数であって、殆どの子どもは哲学を嫌う筈だと大人は思うに違いない。確かに、今の大人たちは哲学や思想が嫌いだ。しかし、子どもは哲学の話を欲しているのだ。

 今から30年以上も前に、こんなことがあったのを覚えている。一家5人が車で一緒に出掛けた時のことである。その時にどんな話をしたのかは忘れてしまったが、こんな話だったろうと思う。人間は本来こういう生き方を志すべきであり、それこそ人間がこの世に生まれてきた意味である、というようなことを言ったと思う。子どもに対して、そんな難しいことを言っても興味を示さないだろうと、冷ややかな目をしていて呆れていたのは愚妻である。その時助手席に乗った小学生高学年の愚息が、驚くような反応をしたのだ。

 彼の様子を運転席から眺めたら、なんと涙をボロボロとこぼしていたのである。あまりにも泣いていたので、心配してどうしたのかと尋ねたら、今の話に感動したからだと答えたのである。10歳そこそこの子どもが、父親の話に感動して涙を流すほど感動するなんてありえないと、その時は思ったものである。しかし、20年くらい過ぎた時に、そういうこともあり得ると確信したのである。何故なら、他の子どもたちに哲学的な話をした時にも、真剣になって聴く姿を見たからである。子どもというのは、哲学が好きなんだと気付いた。

 日本人の大人たちは、哲学の話を聞くのも話すのも避けたがるというか、嫌っている。そして、子どもたちに哲学を語れる親がいない。親が哲学とか思想を嫌っているのだから、学ぶ機会もなかったと思われる。おそらくは、哲学・思想を自分自身の親から聞かされてなかったのではなかろうか。ましてや、学校教育においては、哲学・思想を文科省が敢えて排除してきたのだから、親がその大切さを知らないのは当然である。思想・哲学なんて生きる上で必要としないと思うのだから、子どもに大人が語らないのも仕方ない。

 子どもは何故哲学が好きなのかというと、それは子どもの魂というか深層無意識のレベルで思想・哲学を欲しているからである。人間そのものというのか人体というネットワークシステムが正常に働いて本来の機能を発揮する為には、哲学が必要不可欠なのである。車の運転に、操作システムと制御システムが必要なように、人間が健全に生きる為には人体ネットワークシステムを制御する『哲学』がなくてはならない。その哲学は何でも良い訳ではなく、正しくて崇高なる価値観によって裏付けされた哲学が求められるのである。

 詳細は省くが、明治維新政府は欧米から近代教育を取り入れ、学校教育から思想哲学を敢えて排除した。さらにGHQの指導もあって、戦後の学校教育から思想教育を徹底排除した。こうして日本においては、思想哲学が廃れてしまったのである。それでも、純真無垢であって、変な固定観念に縛られていない子どもは、哲学が好きだし求めているのである。しかし、残念ながら哲学を語れる大人がいないので、子どもは哲学を学ぶことなく大人になってしまうのである。現代の日本人が、本来生きるべき道を忘れ迷い、生きづらさを抱えているのも、哲学がないからだ。メンタルを病んで不登校やひきこもりになる所以もここにある。

 哲学というと、あくまでも観念論であって非科学的な学問だと認識する人が多い。非科学的であり、我々が経済生活を営む上で不要なものだと考える人が少なくない。しかし、哲学は非科学的ではない。最新の正しく崇高な価値観に基づいた哲学は、科学的にも正しいのである。特に、複雑性科学に基づくシステム思考の哲学は、科学的にも正しいことが世界一般に認められつつある。哲学は科学と統合されつつあり、科学哲学と呼ばれているのである。雑念に惑わされていない子どものうちに、科学哲学を学ばせたいものである。そもそも子どもは哲学が大好きなのだから。