起きた原因を探るのでなく意味を考える

 近代教育を受けた我々は、自分の身の上に起きたことに対して、どうしても起きた原因や背景を明らかにしようとする傾向がある。それはそれとして正しいやり方ではある。しかしながら、原因とかそのバックグラウンドを探ろうという気持ちが強く出過ぎてしまうと、原因探しや犯人捜しにやっきになり過ぎてしまい、問題の本質を見失ってしまうことになる。ましてや、要素還元主義で問題を分析する手法が身についていると、問題を細分化し過ぎてしまい、問題の全体像を見失うのでその本質が見えなくなることにもなる。

 まさに、木を見て森を見ずというような状態に陥る危険性があるということである。リスクはそれだけではない。原因探しや犯人捜しをするということは、自分を顧みずに外因のせいだと思いがちになり、自分が成長したり進化したりするチャンスを見逃してしまうのである。何か自分にとって不都合なことや辛いことが起きるというのは、誰かのせいで起きたのではない。それは、自分が何か大切なことを気付いたり学んだりして、進化を遂げるために自分自身で引き寄せたのだ。起きた原因を追究せず、意味を考えるべきである。

 とは言いながら、人間はどうしても客観的合理性的思考をしてしまうので、第三者として起きた問題を俯瞰してしまう傾向がある。学校教育では、徹底して科学的合理性の追求をする方法を教える。自分の目で見ないで、他人の目で俯瞰的に観察しなさいと教える。ましてや、要素還元主義を徹底して教え込むのであるから、問題を客観的に細分化して分析する手法を取ってしまうのは当然だ。そうすると、自分を見失うだけでなく、他人の目で自分を観察するというとんでもない思考癖をしてしまうのである。

 確かに、自分を客観的に見ると言うことも必要である。しかしながら、それだけではなくて、自分の目で自分を主観的に眺めることも大切なのである。そうしないと、自分に深刻な問題が起きても、よそ事として捉えてしまい、それは自分のせいではなくて、誰かのせいで起きたことだから仕方ないと、問題から逃げてしまうのである。いつも問題から逃避したり回避したりしていると、何度も同じような問題が起き続けて、しまいにはどうしようもない問題が起きてしまい、取り返しのつかない事態になってしまうのだ。

 前にも記した通り、自分の周りに起きるすべての不都合な出来事は、自分自身が引き寄せたり敢えて起こしたりしていることなのである。自分が大切な何かを気付いたり学んだりする必要があって、無意識の自分が起こしていることなのである。まずは自分自身を振り返り、自分自身の何に問題があって不都合な出来後事が起きたのかを洞察すべきである。特に、自分の思想や哲学に問題がないのかを、自分自身に問うべきである。自分の価値観は、正しい宇宙の真理や法則に沿ったものであるのかを確認しなくてはならない。

 我々の生きているこの社会や宇宙全体に共通している、正しい真理が存在している。その正しい法理法則に基づいて、この世界は形成されている。その正しい法理法則というのは、古来より著名な哲学者・神学者・社会科学者が追求してきた真理でもある。時には、物理学者・生物学者・宇宙科学者・脳科学者さえもこの正しくて高邁な哲学を探し続けてきたのである。そして、量子物理学によってこの真理が正しいものだと証明されようとしているのである。それは、全体最適と関係性こそがこの世を形成しているという事実だ。

 我々の周りに起きる不都合な出来事というのは、この全体最適と関係性を無視した言動によって自分自身によって引き起こしているのである。あまりにも関係性をないがしろにして個別最適を求めたから、辛くて悲しい出来事が起きているのである。病気や事故も同様な理由から起きているのである。だから、不都合な出来事は、その間違いを気付けるように、自分自身が起こしているのである。すべて意味があって、自分が起こしたことなのだ。だからこそ、何か不都合なことが起きた際には、原因を追求するのではなくて、それが起きた意味を考えて、どのように生きるのかを問い直すべきなのである。

※イスキアの郷しらかわでは、この全体最適と関係生の哲学である『システム思考の哲学』を学ぶ研修会を開催しています。そして、この正しい哲学を身に付けるために最低限の自己革新である『自己マスタリー』や『メンタルモデル』の学びをするお手伝いもさせてもらっています。さらには、ビジネスにおける必要最低限の知識『イノベーション』『創造的リーダーシップ』『デザイン思考』も学べます。興味を持たれた方は、お問い合わせください。日帰りでの研修も開催しますし、出張研修もいたします。

高額料金の心理学セミナーに要注意

 心理学のセミナーとか独自資格の取得セミナーの開催が数多く開催されている。それもかなり高額の参加費となっているケースが多い。受講する期間・時間数もある程度多いので、高額になるのは当然かと思うのかもしれないが。しかし、公的な資格ではなく社会的にも認知度は低いし、対外的には信頼性もないのに関わらず、結構な高額な料金設定になっている。このような資格セミナーは要注意である。明らかに、資格商法またし資格セミナー詐欺と呼んでいいような心理学セミナーは少なくない。

 熟慮すれば怪しいぞと気付くのであるが、インターネットを巧妙に利用しているので、騙されるのかもしれない。まず、公的資格ではなく民間資格を取得する心理学セミナーには騙されないようにしたい。セミナーを受講した人には自動的に資格が与えられるというのは、あり得ないことである。最後に受講内容を確認する試験さえないというのは、酷い話である。ある程度の知識や技術を拾得できたかどうかの確認もせず、誰でも心理学の資格が与えられるというのは、まず資格商法(詐欺)だと思って間違いない。

 セミナー受講料が高額だというのも、極めて怪しい。6日~7日の期間の講座だから、30万円~40万円になるのは当然だと思わせるが、1日あたりにすれば6万円前後になるというのはあり得ない。1日あたり3万円を超えるような心理学セミナーは、怪しいと思っていいだろう。ましてや、数段階に渡ってセミナー料金が高額になって行くようなセミナーは非常に怪しい。初期セミナー30万円、2回目のセミナー60万円、3回目のセミナー100万円というような料金設定は、明らかに資格商法の詐欺セミナーだと思われる。

 特に、すべての資格セミナーを完了すれば、コーチや教師としてセミナーを開催できると謳っているようなものは、特に危ないように感じる。このコーチ・教師としてセミナーを開催できるとされているが、民間のコーチ資格を持っているからと言って、誰がそのセミナーを受講するというのか。無名の民間資格を持つ講師のセミナーなんて、集客が出来ないのは当たり前である。心理カウンセラーの民間資格を持っているからといって、開業できるほど世間は甘くはない。ましてや、カウンセリング経験がないのだから、資格は役に立たない。

 注意したいのは、このようなまやかしの資格商法的な心理学セミナーだけではない。スピリチュアルな技能を開花させるとか、霊的な目覚めを実現させるというような怪しいセミナーも世の中には多数存在する。次元上昇とかアセンションと呼んで、覚醒しないと三次元に取り残されるというような危機を煽ってセミナーに呼び込むようなケースは危ない。セミナーを受講すれば、またはイベントに参加すればアセンションが可能になるという謳い文句はいかにも怪しい。こういうセミナーやイベントに参加したとしても、残念ながら覚醒はしないのである。

 世の中では、このようなスピリチュアルな覚醒セミナーとかイベントが大流行しているらしい。そして、参加費が2万円~5万円というような高額設定になっている例が多い。不思議なものであるが、人間と言う生き物は高額になればなるほど有難く感じ、効果が高いと思い込まされるらしい。人は思い込みが激しい。高額な料金設定になればなるほど、価値があると勘違いするのだ。そういう心理的な弱さに付け込んで、スピリチュアルなセミナーは高額な料金設定で開催しているのである。何度参加しても、覚醒なんて実現しない。

 どうして、こんな高額な料金設定のセミナーやイベントに騙されるのかというと、それは自己肯定感や自尊感情が低いからだと言えよう。つまり、自我と自己の統合、または自己の確立が実現していないから騙されるのである。自我を超越して絶対的な自己を確立して、自己マスタリーを実現している人は、このような詐欺まがいのセミナーには引っ掛からない。アイデンティー(自己証明)の確立を成しえた人は、嘘や陰謀論などを見破ることができる。自己の確立が出来ていなくて、不安や怖れが強い人というのは、どうしても自分を何かの資格や認定証で大きく見せたいのである。それだけ自己マスタリーを実現していない人が多いという証左でもある。

子どもに是非見せたいアニメ『働く細胞』

 TV東京系列で放映されて、その後NHKのEテレでも放映されている『働く細胞』というアニメをご覧なったことがあるだろうか。コミック連載当初より人気があり、単行本になっても人気が衰えず、テレビでもアニメ化されて放映されたらしい。子どもたちにも人気があるのは当然だが、大人が鑑賞しても面白いし為になる内容である。子どもたちは、このアニメに引き込まれるみたいである。孫たちもこのアニメが大好きで、録画して何度も鑑賞して喜んでいる。どうして、このアニメは子どもたちに人気になっているのであろうか?

 このアニメが人気になっている理由は、しっかりした科学的根拠に基づいた内容になっているし、人間の根源的な機能である自己組織化を描いているからであろう。どういうことかというと、人体というネットワークシステムには、自己組織化と呼ぶ人間本来の機能が備わっている。自己組織化というのは、主体性、自主性、自発性、自己犠牲性、自己成長性、自己進化性、連帯性という、人体が本来持っている機能のことである。この自己組織化が機能しなくなると、人体は病気になるし老化や劣化が進んでしまう、大切な機能である。

 少し前の人体生理学においては、すべての細胞は脳や神経系統からの指示によって働いていると考えられていた。つまり、それぞれの細胞は勝手に機能しているのではなく、何らかの指示命令系統によって、上手く作用しているものだと考えられていた。ところが、人体生理学や分子生物学の研究が進んだことにより、まったく違った作用機序になっていることが判明したのである。すべての細胞は、それぞれが自ら自己組織化していて、誰にも指示されることなく、全体最適の為に自らが機能しているということが解ったのである。

 その事実を、『働く細胞』というアニメは、自ら自己組織化している細胞の姿を、見事に描き切っているのである。主人公である擬人化した赤血球細胞とそれを助ける白血球細胞が、人体という全体が健康で正常に機能する為に、時には自己犠牲を払うのを厭わずに、献身的に働く姿を描いている。このアニメは、すごい人気が出ていることから、永野芽郁と佐藤健の共演で、実写映画化までされるという。子どもたちが自己組織化という概念を理解しているとは到底思えないが、本能的に自己組織化したいと望んでいるのではなかろうか。

 細胞も含めて、全体を組織しているすべての構成要素は、自己組織化する働きを持っている。この自己組織化の機能が正常働くためには、良好な関係性を保持しているということが絶対必要条件である。働く細胞というアニメでは、細胞どうしの良好な関係性が大事だと訴えている。関係性&ネットワークが劣化してしまうと、人体が破綻してしまうということも描写されている。人体もそうなのだが、人間社会でも関係性が劣化してしまうと、全体最適の機能が働かなくなってしまう。働く細胞は、そのことも暗示しているのである。

 子どもというのは、哲学的な物語が大好きである。人は何故生きるのか、何のために生まれてきたのかを問う話に引き込まれる。人間は生まれつき哲学的な話に憧れるものだ。特に純真な子どもは、人間のあるべき姿を無意識で追い求めているのである。それが大人になるにつれて、純真さを失うと共に本来の生きるべき道をも失ってしまう。全体最適を目指して生きることを忘れてしまい、個別最適(自分最適)を目指すようになる。子どもは、働く細胞のような全体最適の話や関係性重視の思想に憧れるのである。

 働く細胞というアニメを、子どもたちが大好きになるのは、自己組織化や全体最適を説いているからだ。鬼滅の刃というアニメに純真な子どもたちが熱狂するのも、同じ理由からである。アニメ働く細胞を好む大人もまた、全体最適や関係性重視の価値観を持っているのであり、自己組織化の機能を発揮している人間である。子どもたちが健全なる正しい価値観を持って成長する為にも、アニメ『働く細胞』を是非鑑賞させたいものだ。そして、大人も一緒に観ながら自己組織化の機能を発揮することの大切さを共有したいものである。実写映画化された『働く細胞』が公開されたら、孫と一緒に見に行こうと思う。

企業の不正や不祥事がなくならない背景

 ダイハツ工業における不正な認証試験が、34年間も実施されていたという前代未聞の事件の報道には驚いた。ダイハツ工業は、トヨタ、スバル、マツダ各車両のOEM生産も行っていることから、自動車業界全体にも影響が広まった。そして、今度はトヨタ自動車も同じような不正をしていたことが明らかになったという。自動車製造企業全体の体質が問われる事態にもなっている。大量のリコールをどう実施するのか、ディーラーも困惑している。また、新車販売が出来なくなり、購入予約しても納車がされない事態にもなっている。

 事故発生時における車体の強度が公的に証明されないのだから、生命に関わる重大事である。国による認証制度が有名無実になる事態であるから、安全担保を根本から覆すことになる。安心して車を運転できない事態に陥らせた、偽装できる認証制度を創った国土交通省の責任も大きい。それにしても、国の許認可基準を無視した企業の不正事件が過去にいくつもあった。三菱自動車リコール隠し、日野自動車排ガス偽装、神戸製鋼検査データ改竄、東洋ゴム免震偽造、そして紅麹サプリの小林製薬など著名企業による不正事件の枚挙に暇がない。

 こんなにも何度も企業の不正事件が起きているのだから、国の認証制度にかかる法律や規則が、ザル法であるのは間違いない。企業経営者なり管理者が、法律を遵守する『善人』であるという前提の基に作られた法律である。人間の本質というものをまったく理解していないと言えよう。このような不正が次から次へと明らかになると、企業経営者たちはリスク管理の在り方を見直すとか、コンプライアンスの重視という方策を取ることが大事だと思う事であろう。さらに厳しい品質管理を徹底させようと、社員に激を飛ばす事であろう。

 しかし残念ながら、このような社内の品質管理の在り方を根本的に見直して、より厳しい管理体制を築いたとしても、社内の不祥事はなくなることはないと断言できる。何故なら、それは社員を信頼していないからである。社員を信頼できないからと、品質管理のための社内ルールをいくら厳しくしたとしても、誤魔化そうとする社員の抜け穴はいくらでも存在する。信頼されていない子どもは、親を騙す。同じように、社員を信頼しない企業は、社員に裏切られる。絶対的な信頼を寄せられたら、人間は裏切ることが出来ないのだ。

 企業の経営者や幹部というのは、自分も誤魔化した体験を持つから、社員も同じように不正を働くのではないかと疑心暗鬼になる。だから、誤魔化せないように厳しいルールを作るのである。規則やペナルティーを厳しくして、社員を縛るしかないと思うのであろう。これは、社員の心を惑わせる。どうせ自分は疑われているのだからと、不正を働くことに自制心が働かなくなる。ましてや、人間は自己組織化する働きを持っているのに、逆にその主体性・自発性・自制心・責任性を奪ってしまうのである。

 ましてや、企業経営者・幹部・社員すべてに、正しい経営哲学がないのである。企業が収益を上げる為には、法律や規則を無視したり拡大解釈したりしても良いのだという価値観が浸透してしまっている。現代の企業には、社会や市民の利益や幸福の実現に貢献する為に存在するのだという、根本的理念が欠落しているのである。つまり、ソーシアルビジネスという観点がまったく無くなっているのである。その証拠に、企業経営者や幹部には形而上学的思考をする者は存在しなくなったのである。

 本田宗一郎が経営していた時の本田技研工業、盛田昭夫や井深大が経営していたソニー、松下幸之助が経営していた際の松下電器産業のそれぞれの社員たちは、経営哲学の話を盛んにしていたという。何のために会社を経営するのか、自分たちは何のために生きるのか、そんな話をするのが大好きな社員が沢山いたと言われている。だから、社員たちにはソーシアルビジネスの理念が自然と身に付いていたのである。現代企業の社員たちには、利益至上主義、企業価値向上至上主義しか存在しないのである。だから、不正や不祥事がなくならないのである。原点に戻って、形而上学の学び直しをしないと、不正はなくならないであろう。

 

カスハラに対応できる職員を育てる

 カスタマーハラスメントによってメンタルが傷ついている社員・職員が急増している。企業にとっても由々しき大問題になっている。カスハラによって休職や離職に追い込まれてしまうケースも少なくないし、理不尽なカスハラにより営業に悪影響が出ている例も多い。カスハラ対策が企業や行政組織にとって喫緊の課題となっている。カスハラに関する法整備も必要不可欠であろう。だとしても、カスハラの定義をどうするのかという課題もあり、すぐに法整備が出来ることは期待できない。故に、自衛策をどう取るのかが問われている。

 カスハラ対策を企業・組織全体で取り組もうという機運が高まっている。それだけ、カスハラは深刻な問題となっている認識なのであろう。特に、顧客と直接対応する窓口部門やクレーム対応部門の社員にとっては、カスハラは避けては通れない大問題なのである。それにしても、顧客だからと言いながら無理難題を押し付けたり理不尽な要求を突きつけたりする、非常識なクレーマーには困ったものである。常識が通じないし、論理的にいくら説明しても聞く耳を持たないのだから、始末に負えない。切れてしまうことも多い。

 カスハラをするような人間について、若干の心理的考察をしてみたい。カスハラを自分ではしている自覚がない。どちらかと言うと、社会を代表してクレームをしてあげていて、正義の味方気取りをしていることが多い。実は、こういう人間は自分が所属しているコミュニティの中では、誰にも相手されず孤立していることが殆どである。つまり、誰にも好かれず愛されず孤独感でいっぱいなのである。いつも自分の主張が認められず評価されず、相手にされないのだ。それでいて、自分を過大評価していて、社会が悪いと思い込んでいる。

 それにしても、カスハラの被害を受けてしまう人は実に気の毒である。カスハラを受けないで済ませたり、カスハラを受けても軽く受け流せたりする方法はないものだろうか。不思議なことに、カスハラを受けやすい人と受けにくい人がいるのである。または、カスハラ事案が起きても、重大な問題になることなく済ませてしまう人と、全社・全組織の大問題まで発展させてしまう人がいることに注目したい。特定の職員だけがカスハラを受けて、メンタルが傷付いてしまい、離職や休職に追い込まれてしまう傾向が明らかに存在する。

 カスハラを何故受けやすいのか、その事案をより深刻なものにしてしまうのか、その訳が判明すれば、カスハラ予防やカスハラを受けてもダメージを小さくする方策が取れる筈である。カスハラをする人間と言うのは、あくまでも自分が優位に立てると思う場合、または相手にマウント出来ると確信した時に、カスハラを大々的に実施するし、より問題をおおげさに拡大させる。無意識的に、相手が自分よりも弱いと見下しているのであろう。その証拠に、圧倒的にカスハラを受けるのは若くてか弱い女性が多い。

 それで、カスハラ対策として一番手っ取り早い方法は、カスハラ対応職員を配置することである。ある程度の役職以上で経験と知識が豊富で、メンタライジング能力に長けていて、コミュニケーション能力が極めて高い人が適任である。傾聴と共感能力が高く、それでいて自己肯定感が高くて、どんなに責められても挫けない人である。また、寛容性と受容性も高く、それでいて相手の要求に屈せずに、毅然とした態度を取り続けられる人である。私も病院勤めと会社勤めをしていた際には、クレーム担当として問題を処理していた。反社の人物からのクレームを何度も受けたが、一度も訴訟案件に発展したことはなかった。

 カスハラ対応専門職員を配置出来ない場合は、カスハラを受けないように、または受けても軽く受け流せる社員に育てる研修をすることが必要だ。社員すべてが、上記のような能力を身に付けるというのは不可能ではあるが、少しでもカスハラ対応職員のような各種能力と人間力を身に付ける努力は求められる。少なくても絶対的な自己肯定感を持てるように、自我と自己の統合(自己マスタリー)を確立することが最低条件であろう。企業や組織というものは、職員に対して自己マスタリーを実現させる教育をしてあげたいものである。

※イスキアの郷しらかわでは、カスハラ対応社員を育成する研修、メンター養成講座、自己マスタリー研修など各種の社員研修を実施しています。リーズナブルな価格での講師派遣もいたします。気兼ねなくお問い合わせください。

コスタリカ珈琲のほろ苦い思い出

 最近、コーヒー好きが高じてしまい、焙煎さえも自分でやることになってしまった。そして、今までは一度も飲んだことがなかったいろんなコーヒー豆に挑戦するようになった。どういう訳か、今までは購入することをためらっていたコスタリカの珈琲豆を、勇気を出して買い求めたのである。どうして、コスタリカの珈琲豆を飲もうとしなかったのかというと、大学時代のほろ苦い思い出があったからかもしれない。コスタリカの珈琲豆に責任はまったくない。コスタリカという名前が、ある出来事を思い出させるから避けていたのだ。

 今から50年も前になる、恥ずかしくて情けない出来事である。川崎市の郊外に立地するある私立大学に入学した私は、高校時代から続けていた部活の写真を大学でもやろうと決心して、写真同好会に入会した。どちらかというと、その時代は男子学生の多い大学でもあり、ましてや写真同好会なんて、女子学生が興味を持つような会でもなかった。当然、その時代であるから、女学生の会員はほんの少数であり、三人程度しかいなかったと記憶している。男子高校生であった私は、女子学生の姿があまりにも眩しかったのである。

 写真同好会という名前からして、本気で写真を極めようとするような学生は居なかったと思われる。どちらかというと、サークル的な雰囲気が強く、学生同士の交流を求めて入会しているような会員ばかりであった。撮影会や合宿などが定期的に開催されていたが、形式的なものに過ぎず、コンパや飲み会に明け暮れていたような気がする。また、部室に集まっては写真についての会話をするよりも、今では死語となってしまった『ダベリング』を楽しんでいたように記憶している。そこで、ある女性と出会ったのである。

 その女性をKさんと呼ぶことにする。1年先輩のKさんは、謎めいた女性であまり自分のことを語りたがらなかった。1歳年上ということもあり、大人の女性という雰囲気で、長身でスタイルも良くて魅力的な人だった。大学に入って間もない私にとって憧れの女性であり、手の届かないような存在でもあった。今では考えられないが、その当時はウブで純真な少年の私は、まともに話しかけることも出来なかった。そのKさんがアルバイトしていたのが、下北沢駅の近くにある純喫茶コスタリカという店だったのである。

 今でこそコーヒー好きになったが、当時の私はコーヒーの味さえもよく解らず、産出国によって味の違いがあるなんて基本的な知識もなかった。そんな私が、Kさんに会いたくてわざわざ電車に乗ってコスタリカという店に通ったのである。おそらくKさんにとっては迷惑だったと思われる。しかし、心優しいKさんは一途な思いを察して、可哀そうだと思ったのである。一度だけ、デートしてあげようと言ってくれた。新宿で映画を観て食事をしたのだ。帰りに雨が降ってしまい、ひとつしかないので相合傘もしてくれた。

 その後、いろいろと複雑な紆余曲折もあって、二度とデートもしてくれなかったし、付き合ってもらえなかった。私のKさんを想う気持ちを察してくれたのであるが、あまりにも子どもじみた考えの私が物足りなかったのか、もしくは生きるステージが違っているので合わないと感じたのかもしれない。こうして、手さえ握ることもなく淡い恋は終わりを告げた。コスタリカという名前の珈琲店だったのだから、おそらくコスタリカ産のコーヒーも提供していただろうから、一度ぐらいは飲んだだろう。確かな記憶はないが、コスタリカ産のコーヒーはあまりにも苦かったという記憶が残っている。

 そんな苦い思い出を振り払うかのように、コスタリカ珈琲の生豆を買い求めたのである。中央アメリカで最初に珈琲豆の生産を始めた歴史のあるコスタリカは、珈琲豆の生産に国を挙げて力を注いでいる。品質を保つ為に、国としてアラビカ種の生産しか認めていない。スベシャルティコーヒー用の珈琲豆の生産が中心だ。そんなコスタリカ珈琲を、中浅煎りの焙煎にして飲んでみたのである。それもKさんの面影を浮かべながら。甘みのあるキレのある酸味が特徴的で、フルーティで苦味をちょっぴり感じる本当に美味しい珈琲である。苦くて酸っぱいだけの珈琲だったという思い込みは、完全に払拭されて、コスタリカ珈琲の大ファンになってしまったのである。苦い思い出も、甘酸っぱい素敵な思い出に変わった。

※イスキアの郷しらかわでは、森のイスキアの佐藤初女さんを志す方々を支援しようと、心身を病んだ人々の癒し方の研修講座を開催しています。講座を受ける方々には、自分で淹れた珈琲を無償で提供しています。勿論、思い出のコスタリカ珈琲もそのメニューに加えました。コーヒー好きの方には、スペシャルティコーヒーをサービスします。

衆生救済と即身成仏で生きる

 若い頃からずっと憧れて崇拝する弘法大師空海さんが、人間が生きる目的とは衆生救済と即身成仏だと説かれたと伝わっていて、自分もそんなふうに生きたいと常々思っている。勿論、お大師様には全然近づけそうもなく、だいそれたこととは重々承知しているが、少しでも近づきたいと思い、ライフワークとしてこの衆生救済と即身成仏を実現しようと取り組んでいる。イスキアの郷しらかわの活動に取り組んだのも、森のイスキアの佐藤初女さんをリスペクトしてのものだが、お大師様の影響も強く受けたからでもある。

 中国に渡り真言密教を学び、恵果阿闍梨から灌頂を受けて日本に真言密教の経典を持ち帰り、真言宗を起こしたのが弘法大師空海その人である。その空海が滅してもなお高野山の奥の院で生き続け、人々の衆生救済に取り組んでいらっしゃるというのは有名な話である。衆生救済とは、世の中の生きとし生けるものすべてを救うというお考えであり、衆生利益や衆生幸福と言い換えても良いだろう。自分だけの利益や幸福を追求するのではなくて、社会全体の幸福を願ったのである。お釈迦様が仏教を興したのも、同じ理由からだ。

 即身成仏とは、いろんな捉え方があろうが、生きたままに仏になるという意味であり、拡大解釈すれば生きた身でありながら仏性を得るという意味でもあろう。人間誰でも死んであの世に行って仏になる。だから、万人誰でも仏になる。しかし、生きたままに仏になると言うのは、なかなか実現できるものではない。そして、生きたままで仏性を得ると言うのも簡単な事ではない。それなりの修行も必要であるし、人間としての普段の生き方が問われることになろう。少しでも近づくのは出来たとしても、完全なる仏性を得るのは難しい。

 この衆生救済と即身成仏とは、車の左右の両輪の如くにあり、どちらかが欠けてもその実現は難しい。衆生救済を実現する為には、即身成仏を貫かなければならない。その逆も真なりであり、即身成仏を目指して生きなければ、衆生救済を実現させるのは困難であろう。並行して実現を目指しながら努力して生きなければ、どちらも実現させることは叶わないのである。言葉では簡単に言えるが、並大抵の努力ではどうにもならない。何故かと言うと、人間と言うのは究極的に自分が可愛いし、自己保身や自己利益に走りやすいからである。

 しかし、安心して良い。人間という生き物は、本来完全なシステムであるから、基本的には全体最適を目指すように生まれてきている。そして、慈悲の心や寛容の心を本来持ちながら産まれてきているのである。それが、誤った家庭教育や学校教育によって、間違った価値観である個別最適や客観的合理性を身に付けてしまったのである。自分の損得や利害によって行動指針を作るような情けない人間に成り下がって、自己中心的な人間になってしまったのである。獲得した劣悪な価値観を捨てて、本来の自分を取り戻せば良いだけだ。

 仏教において、『自他一如』という教えがある。自分と他人は本来ひとつであり、統合されている存在であるという意味であろう。故に、自分を大切にして愛するように、他人にも優しく接して自分と同じように愛することが求められる。他人が幸福でなければ自分も幸福でないし、自分が心から幸福だと実感できない人は他人に幸福をもたらすことが出来ない。以心伝心という禅の言葉があるように、人の心と心は繋がっている。カール・グスタフ・ユングは、集合無意識の世界で人々の潜在意識はすべて繋がっていると説いた。衆生救済が人間として取り組むべき課題だという論理的証拠でもある。

 人間が生まれてくる意味は、この地球において様々な体験を通して成長することにある。ここでいう成長や進化というのは、人間として寛容性や受容性を高めるということであり、関わり合うすべての人に対する慈悲や博愛の心を持つということだ。それが、即身成仏という意味であり、仏のような心を持って人と接しなさいということだろう。そして、その為にこそ日常的に衆生救済の行動を心掛ける必要があろう。ボランティア活動や市民活動に取り組むことも良いし、ソーシアルビジネスという企業活動を目指すのも素敵な考えだ。それが無理なら、日々の仕事や日常生活に全体最適の価値観を持って取り組みたいものだ。

ひきこもりには外部支援者が必要

 我が子や孫がひきこもりまたは不登校になってしまい、心を痛めている家族はどれほどの数か、想像も付かないくらいに多くなっている。20年以上前の時代には、考えられなかったと言える。とは言いながら、不登校やひきこもりは皆無ではなかった筈である。目立たなかったというか、社会的に認識される状況になかったからだと思われる。どうして現代は不登校やひきこもりが多くなったのかというと、あまりにも生きづらい世の中になったからだと主張する人が多い。学校も職場も、あまりにも不寛容な社会だからという。

 確かに、そういう側面があるのは承知している。しかし、不寛容で受容性の低い社会だからひきこもりや不登校が増えたというのは、正しくない。すべてが学校や職場のせいならば、殆どの人々がひきこもりや不登校になる筈だ。しかし、大多数の人々は、不登校やひきこもりにならずに、たとえ生きづらくても社会に適応している。ということは、ひきこもりや不登校になる人々が、不寛容で受容性が低く生きづらいと強く感じ過ぎているからではなかろうか。当人の生きづらさは、考え方や認知の偏りによって起きているのではないか。

 さて、今までひきこもりや不登校のクライアントを支援して感じるのだが、当人の力だけでひきこもりが解決するということはなかった。そして、家族の手厚いサポートがあったとしても、解決することは期待できない。第三者の適切で温かい支援があってこそ、ひきこもりが解決に向かったという例は数多くある。つまり、ひきこもりを当人と家族だけで解決しようと行動しても、効果は限定的であり、殆どが社会復帰は叶わないのである。何故かと言うと、ひきこもりの原因は本人にあるし、その原因を作ったのが家族だからである。

 ひきこもりや不登校の親や親族は、原因は学校のいじめや不適切指導にあると思っているし、職場でのパワハラやセクハラが原因だと思い込んでいるケースが多い。確かに、それらがひきこもりや不登校のきっかけになったのは間違いない。しかし、いじめ、不適切指導が不登校の真の原因ではないし、パワハラ、セクハラ、フキハラが休職や退職の原因ではない。ひきこもりは心理的安全性が担保されず、不安感や恐怖感が異常に高まり、安全と絆である『安全基地』が確立されていないことから起きるのである。

 この安全基地が形成されないというのは、世間でよく言われている安全な居場所がないとの同義語ともとれる。もっと詳しく言うと、絶対的な自己肯定感が確立されていなくて、いつも得体の知れない不安に苛まれていて、自分を守ってくれる守護神がなくて頼れる存在がないという状態である。本来は、乳幼児期の発達段階において、あるがままにまるごと愛されるという体験を十分過ぎるほど受けて、どんなことがあっても甘えられて、何かあればいつでも否定せずに真剣に聞き入り共感してくれるなら、安全基地は形成されるのだ。

 ところが、この安全基地という存在がないから、いじめや不適切指導、または職場でのパワハラ・セクハラ・フキハラを誰にも言えず、助けを求めることも出来ず、一人で悩み苦しみ自分を責めてしまうのであろう。ひきこもりや不登校の人たちに共通しているのは、孤立していて孤独感でいっぱいだということである。そうなってしまったのは、当人の責任ではない。絶対的な自己肯定感は、自分で努力したからと言って確立されるものではない。あるがままにまるごと愛されるという体験が少なくて、介入や干渉をあまりにも強く受けて育てられた子どもは、強い自己否定感を持ち不安なるのだ。

 ひきこもりや不登校の子どもの親は、あまりにも良い子を育てなくてはならないという固定観念に縛られている。子どもというのは、生まれつき自己組織化する能力とオートポイエーシスの機能を持っている。それらの機能を発揮する為には、豊かな愛着と関係性が必要であるし、なるべく干渉しない子育てが求められる。強い干渉と介入をしたり、ダブルバインドのコミュニケーションで『良い子』を演じさせたりした為に、子どもがひきこもりになったのである。そんな親子だから、どちらも自分の間違いに気付かないのである。その間違いを自ら気付いて、自分から変革しようという思いを抱かせてくれる外部の支援者が必要なのである。

※外部の支援者というのは、メンタライゼーション能力に長けていて、傾聴と共感をするだけで介入と干渉をまったくせず、助言や指導は勿論、診断や治療をまったく実施しない人物が適切なのです。しかしながら、現実にはそんな人物は稀有であることは当然です。今まで、たった一人だけ存在していました。それは森のイスキアの佐藤初女さんです。そんな第二第三の佐藤初女さんを産み出そうとしているのが、イスキアの郷しらかわです。

線維筋痛症の痛みを緩和する方法

 線維筋痛症で苦しんでいる人は、想像以上に多いらしい。その痛みは、当人にしか解らない。痛みは見えないから、周囲の人には理解されないので余計に辛い。原因も不明だと言われて、そんなに痛いのはおかしいとか、詐病ではないのかとか、精神的なものであるというなら、痛みを自分で起こしているのではと誤解されるケースが多い。家庭においても、そして職場でも、共感的に見られることは少なく、どちらかというと迷惑がられることも多い。それ故に、精神的に孤立していることが多く、孤独感を抱えている。

 原因不明だとは言いながら、免疫系の何らかの不具合や脳神経系統のエラーにより痛みが出ていると言われていて、一部の脳神経の遮断をする投薬治療によって、痛みが軽減されるケースもある。従来の痛みに処方されてきた鎮痛消炎剤は効果がないばかりか、抗うつ剤が痛みを低減するケースもあることから、精神的なストレスが発症要因ではないかと見る研究者も少なくない。いずれにしても、これだという治療法は確立されておらず、認知行動療法やリハビリ療法が有効だと言われているが、効果は限定的であるようだ。

 それでは、どのようにすれば痛みを緩和できるのかを考えてみよう。まずは、思考回路をまるっきり転換することだ。人間は、どうしても痛みが起きた原因を探ろうとする。そして原因を追究して、その原因を解決したがるものだ。しかし、この原因を解決しようとしても、出来ないから敢えてこの『痛み』が起きたのである。だとすれば、原因を抜本的に解決出来ないのである。ましてや、その原因は自分の裡にあるのではなく、周りの人々があまりにも理不尽な対応を自分に対して行ったことからであり、人々の心を変えるのは不可能なのだ。

 人の心や行動は容易には変えられない。しかし、自分の心と言動は変えられる。痛みが起きた原因をつぶそうとするのではなく、こういう事態が起きたことに『意味』があると考え、自分が大きな気付きや学びをするチャンスなんだと捉え、自分が成長する為に起きたことだと痛みを受容することが肝要であろう。周りの人を変えようとするのではなく、自分が心から変わりたいと思い、痛みに共感して痛みを受け容れることである。そうすることで、自分自身のこだわりや固定観念が起こしている痛みなのだと気付くことが出来るのである。

 人は、社会の常識、または周りの人々の期待や支配に飲み込まれてしまい、本来の自分を見失い、自分らしさを失ってしまいがちである。あるがままの自分自身を生きるのではなくて、周りの人々の思いや社会常識に合わせて生きようとしてしまう。その方が周囲の人との波風が立たないし、争いごとも起きず平穏に暮らせる唯一の方法だと思い込むのである。これが強烈な生きづらさを生んでいるのである。自分を自分の目で見ようとせず、あまりにも他人の目に自分がどう映っているのかを考えて行動してしまうのである。

 ありのままの自分を心から愛せないのは、自尊心が育っていないからであり、周りの人々の気持ちに合わせてしまうのは、自分に自信がないからである。皆から嫌われたり見離されたりすることを心配するあまり、周りにあまりにも迎合し過ぎてしまうのである。それは見捨てられ不安や恐怖を抱えているからであり、自分をありのままに愛してくれる存在がないという証拠でもある。つまり、心理的安全性が確保されていないからである。安全と絆である『安全基地』という心の居場所がないということだ。家族が居たとしても、精神的に孤立していて、孤独感と不安感でいっぱいなのである。

 こうした不安感や孤独感が、強烈な生きづらさを生んでしまい、自分らしさを見失い周りに迎合する自分を演じているのだ。それが、痛みの本当の原因なのであると言える。だとすれば、まずは心理的安全性を担保してくれる存在を創ることである。最終的には、自分自身の心の裡に安全基地を設けることが可能なのだが、それまでは臨時的な安全基地になってもらえる存在を見つけることが必要である。メンタライジング能力に長けていて、何事にも動ぜずどんなことがあっても寄り添い続けてくれるという安心感のある安全基地を見つけて、自分の悩みや苦しみを聞いてもらうことから始めたい。そうすれば、安心して自分を変革できることが出来て、痛みを和らげることが可能となるであろう。

※森のイスキアの佐藤初女さんは、まさしく心理的安全性を担保してくれる存在でした。いつも優しく寄り添い、心の居場所である臨時的な安全基地となってくれていました。今は、佐藤初女さんは天国に召されてしまい、森のイスキアは閉ざされたままです。森のイスキアのような心の居場所は必要です。本来の駆け込み寺のような存在こそが、このような生きづらい世の中には必要不可欠なのです。第二、第三の森のイスキアを設立するための支援を、イスキアの郷しらかわは続けています。

陰謀論にはまった人を救い出す方法

 家族が陰謀論や妄想に取りつかれてしまったので、何とか救いたいのだが、どうすれば良いのかという相談依頼があります。家族は、何とか本人を妄想から目覚めさせたいと、科学的な反論を試みるのだが、どんなに必死になって何度も説得するのに、まったく聞く耳を持たないので無駄になるらしい。陰謀論はフェイクニュースだと、説得しようとすればするほど頑なになってしまい、一切耳を貸さないばかりか騙されているのは家族なのだと、逆に説得されてしまうという。こんなにも頑固ではなかったのに、どうしてなのか不思議らしい。

 陰謀論に固執する理由について、まずは考察したい。陰謀論に嵌まってしまう人は、日常的に不安が強い人である。それも得体の知れない不安に苛まれている傾向がある。また、HSP(ハイリィセンシティブパーソン)の傾向が強く、神経学的過敏や感覚過敏があり、心理社会学的過敏も強い。不安型愛着スタイルのパーソナリティを持つ。それは、親との良好な愛着が形成されなかったせいもある。陰謀論を妄信してしまう人は、安全と絆を提供する『安全基地』(心理的安全性)が存在しないのである。

 安全基地(安全な居場所)を持たない人は、強烈な生きづらさを抱えている。そして、自尊感情や自己肯定感を持てていない。自己愛性の障害を抱えているが、自覚はない。それ故に、自分は正常な認知機能を持っているし、正しい判断が出来ると思い込んでいる。ところが、満たされない思いを抱えていて、どちらかというと不遇な境遇に置かれていて、愛情に恵まれていない。このような状況に追い込まれているのは、社会が悪いし、闇の勢力が社会を捻じ曲げているからだと、他人のせいだと思い込み自己を正当化するのである。

 自尊感情が低い人は、変なプライドが高い。だから、自分だけは正しいし一般の人は知らない情報を人一倍早く仕入れていると、皆に自慢したいのである。故に、科学的根拠のないとんでもない似非情報に飛びついてしまうのである。そして、人からの批判や否定に対して、極めて強い反撃的態度を取る。さらに、自説を曲げようとはせず、拘りが強い。柔軟性や可塑性が極めて低いパーソナリティを持つ。このような人には、間違いを正そうとしても無理だし、陰謀論をあらゆる根拠を示して否定しても聞く耳をもたなくなるのである。

 こういう人を真実に覚醒させて救う方法はまったくないのかというと、一つだけ方法がある。それは、ナラティブアプローチ療法という心理学的方法である。妄想性障害にも唯一効果のある療法である。陰謀論にはまっている人は、間違った物語(ドミナントストーリー)を信じ切っている。このドミナントストーリーを信じてしまうと、正しい物語(情報)は一切拒否する。だから、まず支援者(治療者)はこのドミナントストーリーに付き合う必要がある。けっして否定せず批判せず共感するだけの態度を取り続けるのである。

 これは言葉では簡単に言えるが、支援者(治療者)にとっては辛いものがある。明らかに誤解していると分かっているのに、その間違いに付き合うのだからストレスがかかる。それでも、陰謀論の主張に批判することなく、ただ寄り添って傾聴して共感するだけの態度を取り続ける。何か月かかるか解らないが、共感して聞くことに徹することが必要である。そうすることで、陰謀に嵌まっている人は自分の理解者がようやく現れたと思い喜び、支援者を心から信頼する。そうすれば、陰謀論者は心を開き、少しは支援者を信用して耳を傾けるようになる。ようやくニュートラルな状態になるのだ。

 陰謀論者は、何度も自説を語り続け、批判や否定をされることなく聞いてもらっているうちに、自分の主張していることが本当に正しいのかと、かすかな疑問を持つようになる。そうしたうえで、少しずつ論理の矛盾点や破綻点を、優しい態度と言葉で支援者は陰謀論者に質問するのである。そして、ようやく陰謀論がフェイクニュースではないのかと思い始める。そして、陰謀論を否定したネット情報を積極的に取り入れるようになる。そして、陰謀論が明らかに論理的破綻を起こしていることに自ら気付くのである。正しい物語のオルタナティブストーリーを確立したのである。支援者が安全基地として機能して、見事に陰謀論から抜け出せるのである。