依存症からの完全離脱

政府調査によると、ギャンブル依存症が推計で320万人するという驚きの結果が出た。これは対面調査によるもので、現在の依存症の数ではなくて、過去も含めて一度でもギャンブル依存症になった経験を問う調査である。したがって、現在の依存症の実数ではないものの、かなりの数のギャンブル依存症が存在していることが明らかになった。しかも、フランス、イタリア、ドイツなどの先進諸国と比較するとかなりの高率になることも解った。厚労省としても、何らかの依存症対策が必要だとしている。

 

世の中の人間がはまってしまう依存症は、他にもたくさん存在する。アルコール依存症、薬物依存症、ニコチン依存症、糖質依存症、買い物依存症、スマホ依存症、ネット依存症、SNS依存症、ゲーム依存症、浮気依存症など、生活を劣化させたり人生を破綻させたりしてしまう依存症が沢山ある。DVやいじめなども、一種の依存症だとする研究者もいる。これらの依存症は、本人の自覚がないケースも少なくないし、依存症から抜け出すことが非常に困難な例が多い。したがって、大きな社会問題として注目されている。

 

依存症から抜け出すためには、依存症になる原因を特定して、その原因を排除しなくてはならない。依存症になる原因は、いろいろあると言われている。脳神経学的に言うと、ドーパミンやβ-エンドルフィンの脳内神経伝達物質に依存してしまうことで起きると言われている。または、遺伝子に問題があり、先天的なものだと主張する人もいる。さらには、家族に問題があって、乳幼児期からの子育てに原因があると説く人もいる。いやいや、やはり根本原因は本人の性格や人格にあり、物事に対する考え方や認知傾向に問題があるから依存症になると言う人もいる。残念ながら、これだという原因を特定できないでいるのだ。

 

このように、依存症になる原因を特定できなければ、この原因を取り除くことが不可能である。いずれにしても、依存症は単なるその人の癖や嗜好ではなく、心の病気であると認識すべきだと言われている。したがって、治療をしなければ治癒しないということである。だが、医療機関を受診したとしても治療をしてくれる医療機関も少ないし、その治療効果も限定的だとも言われている。ところが、自分の努力によってこの依存症から離脱している人もいる。これらの改善例を詳しく分析すれば、依存症から離脱できそうな気がする。

 

依存症から離脱したケースにおいて、どうして離脱したのかを聞き取ると、家族や友人、またはパートナーによる励ましや支援があったと殆どの人が答える。それも、押し付けの態度による支援ではなくて、傾聴と共感、そして自己否定感を起こさないような、心温まるサポートだったという。つまり、支援者自身の損得や利益のための支援ではなくて、あくまでも依存症自身の幸福のためを願い、何を求めずただ与えるだけの支援だったという。それも、上から目線の支配や制御のサポートではなくて、博愛・慈愛・慈悲の支援だけが離脱の効果を現したというのである。

 

これらのケースから言えるのは、依存症の根本的な原因とは、もしかすると愛情不足にあるのではないかということである。いや、私は家族やパートナーから愛されていると主張する依存症の人がいるかもしれない。しかし、よく考えてみてほしい。それは、支配や制御のための見返りを求める愛ではないだろうか。何も求めず与えるだけの純愛に飢えていたのではないか。依存症に陥るのは、心の中に何かぽっかりと空いた「飢え」がある場合である。何か満たされない何かがある場合、その満たされない何かを埋めるために、代替の何かに心が惹かれるに違いない。

 

愛情不足に陥ってしまっているのは、周りの人々のせいではない。突き詰めていけば心から愛されない自分の性格や人格に行きつくように思う。人々から信頼されず、心から敬愛されないのは、自分の価値観、または哲学や思想が低劣で低俗であるからだ。回りの人々から博愛・慈愛・慈悲によって満たされないのは、自分がそのような愛で人々を幸福にしていないからに違いない。このことに気付かない限り、依存症からの完全離脱はあり得ないのである。イスキアの郷しらかわでは、依存症の完全離脱のためのプロセスを支援している。何故依存症になるのかを詳しくレクチャーする共に、完全離脱の研修プログラムを実施させていただこうと思っている。依存症で苦しんでいる人は、まずは問い合わせフォームから相談してみてほしい。

DVがなくならない訳

夫を持つ妻や恋人を持った経験のある女性のうち、DV(ドメスティックバイオレンス)を1度でも受けた人は、全体の25%に上ることがアンケート調査の結果判明したという。そして、何度も繰り返してDVを受け続けている女性も、かなり多いということが解ったらしい。しかし、これだけで驚くのは早計と言わねばならない。何故なら、ここでいうところのDV被害は、あくまでも実際の暴力行為であり、手や足などを用いたDV以外のDVである、暴言や無視の態度によるDVは含まれていないからである。このような言葉や態度の暴力を含めたら、おそらく半数以上のカップルにDVが起きているに違いない。もしかすると、8割以上のカップルに存在するのではなかろうか。

近年、男性側からの離婚申し立てはあまり増えていないが、女性からの離婚申し立てが急増しているらしい。その離婚理由のうち、DV被害もまた急増しているという。最近話題になったモラハラも離婚の原因として増えている。どうして、こんなにもDV被害が原因による離婚が増えているのであろうか。男性側としての言い分は、DVは愛情表現のひとつだとか、妻を指導教育する一環として、厳しい言葉を投げかけているだけだから、けっして言葉の暴力には当たらないと主張している例が多い。離婚を申し立てられた男性に聞くと、まったく自分には心当たりがないというらしい。女性は既に愛がすっかり冷めているのにも関わらず、男性側では今でも愛していると未練たっぷりの態度を取るという。

DVだと認識していないことといい、妻の気持ちをまったく理解していないことからも想像するに、夫である男性が自己中心的でかなり身勝手であるということである。これは、特定の男性だけの特徴なのではなくて、世の中の大半の男性がそうだと言える。離婚までは行かなくても、横暴で身勝手な言動をする夫に対して、我慢に我慢を重ねている妻は、想像以上に多いという。その証拠に、夫が定年後に熟年離婚に踏み切る妻が非常に多いという現実がある。そう言えば、SNSでブログやコメントに対する批判的なコメントをするのは圧倒的に男性であり、空気を読めないばかりか、他人に対して批判的態度を取る例が実に多い。共感的なコメントをする男性は極めて少ないと言ってもいいだろう。

それでは、家庭内で夫は妻に対していつも横暴で冷たいのかというと、けっしてそうではない。実に優しい態度をすることもしばしばである。例えば、バースデーやクリスマスのプレゼントを欠かすことなくしているし、度々映画館やレストランに誘うし、旅行にも連れて行きたがる。だから、そういう優しい態度を見せることもあることで、DVを我慢する妻がいるのだ。男性は、DVをしてしまうという一面と一方では優しい思いやりを示す一面の両面の人格を有しているのである。そして、間違いなく妻を好きで堪らないし、暴力を振るうのは、相手が嫌いだからという理由ではないのである。勿論、不機嫌な態度をしたり無視したりする態度をするのも、けっして愛してないからという理由ではない。

つまり、夫が妻に対してDVとか、態度や言葉の暴力を振るうのは、相手が嫌いになったとか憎んでいるという理由ではないのである。愛するが故に、自分の思い通りの妻になってほしいと無意識で願い、DVや態度の暴力を用いて、支配と制御をしたがるのである。自分の所有物だと勘違いして、意識することなく独占したいとか自分の思い通りの操り人形にしたいと、DVや態度の暴力というツールを用いるのである。それは、本当の愛ではない。単なる自分にとって都合の良い妻を飼育しているだけであり、人間としての尊厳をまったく認めていないという態度である。暴力で妻を支配するなんて、人間として最低である。とは言いながら、妻はDVを受けるとつらい気持ちになるし、中にはこんな目に遭うのは自分がいたらないからだと自分を責めるケースもあるらしいのだ。許せないし、やるせない。

何故、そんな男性ばかりなったのかというと、客観的合理性を重視した近代教育の影響であろうと思われる。相手を客観的に観るということは、相手の気持ちに共感出来ないということである。自分に取って都合の良い解釈しか出来ないし、相手の気持ちになりきった心を持つことが出来なくなるのである。つまり、近代教育は身勝手で自己中心的な人間を育ててしまうのだ。勿論、男性ばかりではなく女性もそういう傾向になるのだが、脳の構造的特徴から、女性よりも男性のほうが強く出るらしい。思想教育を廃した近代教育を長い期間受けた、高学歴の人ほどその傾向が強いし、収入の多い職業でしかも会社で評価の高い人ほど身勝手な夫になる例が多い。DVを無くす為には、価値観の学習や高い思想を得る形而上学の教育を受けるしかない。高い価値観を持った人間は、人が嫌がることをしないし、温かい態度を取り真の優しさを持つ。DV被害を無くすには、高い価値観の教育しか方法がないということである。

『君の名は。』で描く量子力学の世界

新海誠の大ヒット作映画『君の名は。』がBDとDVDで発売され、販売とレンタルでも評判になっている。映画の公開当初は、面白くないと酷評する人と絶大な評価をする人で二極化していた。しかし、最初は映画の意図が解らなかった人も、その魅力を知ることになり、絶大な人気を博した。それが、今度はBDとDVDでも観られるようになり、また『君の名は。』ブームが再現したという。映画で2回鑑賞して大ファンになった自分も、また観て見たい誘惑にかられている。それだけ、この映画の魅力にはまってしまった一人でもある。映画のストーリーも良いし、この映画にベストマッチしている音楽も最高である。なにしろ、描いている世界観が実にいいのだ。

新海誠監督は、この映画で何を描きたかったのであろうか。映画を観た時に、これは量子力学の世界を描いていると直感した。新海監督もある雑誌のインタビューで、まさしく量子力学の世界を描こうとしたと明かしている。単なるラブストーリーを描いたのではなく、時間軸と次元の無限性をも表現したかったと見るべきなのかもしれない。この現実は実体ではなくて、すべては「むすび」という関係性で成り立っているということ、さらには我々が実体だと思っているこの現実や過去もまた私たちの意識が作り出しているに過ぎないということを言いたかったと思われる。人間や宇宙の根源に関わる問題を、この映画で描き出そうとしたのではないだろうか。

この映画のテーマは「むすび」である。このむすびというのは、漢字表記では産霊(むすび)となる。誕生や生成、合体や統合も意味するし、出会いも含まれるであろう。巫女である祖母の一葉は、むすびは出会いや別れも意味すると説明している。彗星が分れたのもむすびであるし、あらたに産まれた隕石もまたむすびなのであろう。この物語の地方では黄昏時のことを「かたわれどき」と呼んでいる。たそがれとは「誰そ彼」から出た言葉であり、薄暗闇で誰か解らないという意味だと言われている。しかし実は「自分と他人の区別がつかない時間」をも意味しているのではあるまいか。元々、我々は『自他一如』であり、相手と自分は一つである。この「かたわれどき」に私たちは他人との区別がなくなり、元々ひとつであったものが再び交わるひとときを、このように表しているように思う。

「むすび」とは、関係性とも読み解くことが出来ると思われる。量子物理学においては、素粒子どうしの関係性によって、物体が成り立つし、人間の意識によってそれが変化するということが実験によって確認されている。宇宙そのものも、システムという関係性により成り立っているし、我々の社会もまた関係性により成立していて、全体最適を目指している。関係性がなければ、我々人間そのものが、この宇宙には存在しえない。したがって、この映画でいう「むすび」が、すべての生き物だけでなく物質の根源だと捉えることができよう。新海誠は、この映画で「むすび」という言葉を使って、我々に関係性の重要性を示したかったのではあるまいか。

現代は、関係性が希薄化していると言える。身勝手で自己中心的な人間が増えているせいか、自分の損得を考えるあまり、他人への思いやりにかけるきらいがある。自分の利益だけを考え、利他の心が忘れ去られている。当然、相手との関係性は悪化して、家族、会社、地域、国家などのコミュニティが崩壊しつつあると言われている。人々は人間本来の生き方である、良好な関係性と全体最適性を求める人生観を忘れ去っているように思える。しかし、人間の潜在意識は関係性の大切さをけっして忘れていない。だからこそ、深層無意識においては、他人との関係性を求めているのである。関係性の大切さを切々と説いているこの「君の名は。」という映画に、人々はこんなにも熱狂するのであろう。

この世界は多元宇宙によって複雑にからみ合っていて、時空間が交わり合うことで、質量を持たない素粒子どうしが、時空の違う世界に存在するであろう質量を保証する素粒子との関係性によって物質が存在するのではないかと考えられている。前世での出会いは、今世でもまた出会い、来世でも時空間を超えて出会う。それは、「むすび」という関係性によって保証されていると言える。映画では、巨大隕石によって街と人々が消滅してしまった過去が、書き換えられるというあり得ない世界も描かれていた。このことは、私たちの悲しくて辛い過去さえも、実は実体ではなく我々の意識が作り出したものだから、変容させられるということを表現しているのである。我々の集合意識が作り出したこの世界の現実は、私たちの意識によって、過去であっても変化していくということだ。我々の集合意識は常に世界全体の幸福と平和を願うことこそが求められるということである。

発達障害とその家族の関わり方

一昨日、NHKTVで発達障害の保護者たちが集まって情報交換会をしている模様が放映されていた。発達障害を持つ母親6人の方々が出演していた。まず不思議だと思うのが、仕事があるとしても父親の出演者は居なかったという点である。そして、母親たちが口を揃えて言うには、あまりにも夫たちが発達障害に対する無理解があるという。それも、単に障害そのものが分かりにくいというなら理解できるが、それぞれの夫たちは理解しようとしないばかりか、障害に背を向けてしまい、わざと育児を避けているようにしか思えないということである。したがって、子育ての苦労と悩みは母親だけが一人で背負っていると口々に言っている。

 

勿論、夫たちは仕事が忙しいという事情もあるだろうが、あまりにも非協力的な態度が気になる。それに対して、母親たちは子どもの発達障害に真正面から向き合い、何とか子どもが幸せな人生を送るために、苦しみ悩みながら最大限の努力をしている。そして、限りない愛情を子どもに注いでいるのが、いじらしくも感じる。あまりにも父親との態度が対照的なので、見ていてびっくりする。出演した母親たちが特別なのかとも思いたくもなるが、このようなケースが実際少なくないという。発達障害の子育てにおいて、母親だけに負担がかかっているという実態があるらしい。

 

発達障害は脳の先天的器質障害が原因とされている。だから、母親の子育てによるものではない。それなのに、夫やその家族が妻の子育てが悪かったせいだと責めるらしい。これでは母親がやり切れない。母親があまりにも厳しい態度でしつけるから、こんな子どもになったと言うらしい。無理解からの発言だとしても、これは許せない。子育てをすべて母親に押し付けておいて、こうなったのはお前が悪いからだと責任放棄する姿勢は、頂けない。これでは、母親があまりにも可哀想である。しつけは本来父親が担当すべきである。母親は無条件の愛である母性愛を注ぐだけであり、条件付きの愛であるしつけをするのは父親の役割だ。父親が役割を放棄したから、仕方なく母親がしつけまで肩代わりしているのに、それを非難するなんて到底許せない。

 

今まで、ずっと障害のある子どもたちの子育て支援をさせてもらっていて、すごく感じたことがある。発達障害だけでなく、知的障害や身体障害、または脳性小児まひやダウン症のお子さんの子育てをしているケースでは、圧倒的にお母さんの負担があまりにも大きい場合が多い。あげくの果てに、父親が子育てを放棄するだけでなく、家族から離脱してしまうケースだって少なくない。したがって、発達障害だけでなく、お子さんが何らかの障害を持たれた際の子育ては、お母さんだけに負担が押し付けられる例が非常に多いのである。

 

勿論、収入を得るためには父親が仕事に専念しなくてはならないであろう。けれども、少なくても精神的な支柱になってほしいし、何かあったときは相談の際だけでも親身になって聞いてほしい。何も、母親たちは助言や解決策まで求めている訳ではなく、困ったり悩んだりしていることを黙って聞いて共感してほしいだけなのである。そして、妻の大変さを解ってあげて、妻の気持ちと同化して時折一緒に涙を流してほしいのである。他人ごとのように、冷たい態度で責任を放棄したり、主体性を持ちえないような態度をしたりすることだけは避けてほしいと思っているのである。

 

発達障害は、先天的な脳の器質障害であったとしても、周りの家族の適切なサポートがあれば、和らいでいくことが判明しつつある。その為には、家族の理解、とりわけ父親の深い理解と協力が不可欠である。そして、母親が発達障害の子どもたちへの深くて大きな愛情を注ぎ続けるためには、母親の精神が安定してしかも安心していなければならない。母親が不安であれば、子どもにもその不安が伝播してしまうからである。母親が安心して子育てに専念し、無条件の愛情である母性愛を注ぐには、やはり夫が妻を深く愛することが必要である。その愛は、自分に都合良くするための見返りを求める愛ではなく、与えるだけの無償の愛である。制御と支配の愛ではなく、寛容と受容の愛である。このような夫婦関係であれば、発達障害は必ずや和らいでいくと確信している。

食の好みとメンタル状態の相関関係

人それぞれに食の好みが違う。または嗜好品もその人それぞれによって違っている。野菜中心の食事を志向している人もいるし、高齢になっても肉食中心の人もいる。主食や副食だけでなく、お茶やコーヒーの好みも人それぞれであり、スウィート好きの人もいれば三度の飯よりも酒が好きだと豪語する人もいる。辛いものや塩味の強い刺激的な味を異常なほど求める人もいれば、薄味の優しい食味が好きだという人もいる。食の好みは、何故人によって違っているのであろうか。乳幼児期における食育によっても影響するであろうが、それだけではないような気がする。

 

先日、ある友人がこんなことをボソッとつぶやいていた。今まではずっと苦みが強くてコクの強い珈琲が好きだったらしい。最近は、深煎りよりも浅煎りの優しくてフルーティな味の珈琲が好きになってしまったと言う。どうしてこんなにも好みが変わったのか自分でも不思議だと言っていた。かの友人は、特に味の好みや味覚が変化したとは思わないが、自分の環境がかなり変わったという。2月末まではある介護施設に勤務していて、ものすごいストレスにさらされていたらしい。退職後4月から一人勤務の受付窓口業務になり、対人ストレスがまったくなくなったという。精神的にすごく落ち着いてきたら、刺激性の強い珈琲より、何故か優しい味の珈琲に好みが変わったのだという。

 

今、若者たちの間では激辛料理が流行っているらしい。激辛のスナック菓子も売れているという。さらに、炭酸飲料を好んで飲む傾向がある。それも、強炭酸のドライタイプ飲料が好まれているみたいである。二酸化炭素の含まれた飲料水を飲むと、自律神経の副交感神経が刺激されて、ストレスが和らぐからだと思われる。人間はストレスが溜まると、刺激的な食物を食べたくなるらしい。ストレスフルな社会で、心が疲れて折れてしまうと、刺激物や炭酸飲料を摂取したくなるのではないかと推測される。

 

さらに、人間は強いストレスにさらされると、肉や脂肪分の多い食事を好むようである。また、ストレスフルな日常生活で精神的に参ってくると、塩味や甘味の強い食事や嗜好品を好むらしい。カップ麵などの毒々しい味のものを食べたがる。しかも、精神的に疲れていると、アルコールに溺れたりヘビースモーカーになったりもする。一方、ストレスを乗り越えて精神的に安定してくると、野菜中心の食事になる傾向が強い。それも優しい味の食事を好む。さらに、マクロビや自然食を求める傾向になるし、人工的な食品添加物の入った食事を受け付けなくなる。健康的な精神は、健康的な食事を要求するのであろう。

 

このように精神状態と食事は密接に関連している。したがって、精神状態を安定させないと食が乱れると言える。そして、食の乱れはさらに身体を不健康にすると共に、精神状態までも悪化させてしまう危険を孕んでいる。つまり、メンタルの悪化と食事の劣化は、両輪の如く進んでしまい、両方とも益々強化されてしまうのである。それじゃ、メンタルの悪化から逃れる方法はないのだろうか。先ずは、強制的に健康的な食事を変えてしまうことで、精神的に安定の道を進めてみるという方法は取れないだろうか。

 

精神を病んでいる人の食事は劣化している。どんなに健康的な食事を作っても食べようとしない。ジャンクフードやファストフード、または甘いものや味の濃い刺激物を摂取したがる。何でも手に入る都会の自宅にいては、食を変えるのは難しい。だから、無理やりでも自宅から離れてしまい、コンビニのない田舎に滞在するとよいだろう。「イスキアの郷しらかわ」のような施設に1週間くらい滞在し、自然食の食べ物とおやつを食べることが必要である。そうすれば、悪い食事と嗜好品によった溜められた毒素がデトックスできる。そうすれば、徐々に精神的にも穏やかになってくる。驚くことに不眠も解消されるし、元気も出てくるのである。是非、試してみてほしいものである。

我が子を素直に愛せない母親

自分の子どもを素直に愛せない母親が多いらしい。虐待やネグレクトをするような母親は論外であるが、我が子に対して何となく違和感を持ってしまうというのである。本来、母親は我が子を目に入れても痛くないというように、無条件の愛を持つと考えられる。自分の子がどんなことをしても何を言っても、そのことを許せるし、我が子のすべてを受け入れる筈なのだが、今の母親たちは我が子を冷めたい目で見てしまうらしい。何となく我が子に対して、よそよそしく感じたり、逆に遠慮したりするような感覚を持つという。

だから、我が子をただ思いっきり抱きしめたり、一緒にお風呂に入りふざけ合ったりなどのスキンシップが苦手だという母親が多いという。そんなふうだから、子どものほうも何となく母親に対して遠慮がちになっていて、ついつい良い子を演じてしまいがちになる。または、母親に気に入られようと、無理してしまうことにもなる。そんなぎくしゃくしている親子関係が少なくないという。つまり、本来あるべき母性を、持てないでいる母親が多いみたいである。母性とは、本来無条件の愛である。言わば、絶対的な寛容と受容の愛である。すべてを許し、すべてを受け容れる愛なのだ。これが、母親として本来持つ愛情なのだが、それが出来ないらしいのである。

こういう親子関係であると、自分は愛されていないということを子どもは敏感に感じてしまう。子どもたちに個人アンケートを取ってみると、自分が愛されていないと感じる子どもはいじめに走ったり、いじめに加担したりしているケースが非常に多いという結果を示す。または、愛されていないと感じていると、自己肯定感が育たなくて不登校やひきこもりに陥りやすいとも言われている。自分が愛されないのは、自分が悪い子だからと勘違いするからであろう。つまり、親から愛されていないと感じる子どもは、問題行動を起こしやすいということである。

そんな親子関係に陥ったそもそもの原因は、父親にあるのではないかと想像している。つまり、夫が妻を深く愛してないから、妻である母親は我が子を深く愛せないのではないだろうか。愛は一種のエネルギーだと考えている。愛と言うエネルギーをたくさん注ぐ為には、そのエネルギーをたくさん受け取り続けなければならないし、枯渇してもすぐに補充できるという安心感が必要だ。人は無条件の愛というか、見返りのない愛を注がれたときに、我が子に対して至上の愛を与えることができる。でも、夫婦間にある愛は、条件付きの愛というか見返りを求める愛に陥ってしまっていることが多い。だから、我が子を素直に愛せなくなっているのではないかと思うのである。

今、離婚を決意する母親が多い。どうしようもなくて、シングルマザーを選択せざるを得ない母親が急増している。こういう社会になっている背景には、上記のような状況が要因としてあるのではないかと思う。本当の愛を受けられなくて、いつも惨めな思いをするなら、1人になって我が子を育てたほうがいいと思うのだろう。その決断はある意味正しいと思う。そして、新たな出会いを通して真実の愛を見出す人も中にはいる。しかし、なかなかそういう新しい伴侶に巡り会えない人が大多数だし、また同じような伴侶を選んでしまう女性も多い。何故なら、この世の中には圧倒的に、妻を支配して制御したがる男性が多いからである。

伴侶を自分の思い通りになるように、コントロールしたり支配したりする愛は、本当の愛ではない。これは相手からエネルギーを奪い取る、不当な愛である。本来は相手に与えるだけの愛を注ぎたいし、見返りのない愛を感じてもらいたいものである。そういう無償の愛というエネルギーは連鎖していく。豊かな愛は妻から子へと循環していく。こういう愛を豊かに注げるような男性を育ててこなかったのは、私たちの世代が子育てを間違ったせいかもしれない。今からでも遅くはない。家庭の中で豊かな関係性を築くことができる人間を育てる努力をするべきであろう。家庭教育だけでなく、学校教育においても人間教育を充実させたいものである。

日本農業を自然農法で再生する

田舎に行くと、青々と広がる田園風景に心が癒される。しかし、その田園風景であるが、山間のほうに行くと、耕作放棄地が急増していて、雑木林や荒地になってしまっている。由々しき大問題である。空き家になってしまっている農家も多いし、手入れされていない山林も増えている。農業では生計が立てられないと、集落から若者が街に出て生活し、年老いた老夫婦しか住んでいない農家が多いのだ。当然、老齢者だけでは手が回らないから、畑や田んぼは耕作されずに、荒れ放題になっているのである。

農地というのは農産物生産の役割と共に、本来水害を防いだりする効果もあるし、環境保全と国土保全という観点からも、耕作放棄地になるのは好ましくない。したがって、農水省・農政局や県の農林事務所も耕作放棄地対策を立てて、いろいろと苦労しているが、抜本的な改善方法が見つからず苦慮している状況にある。そもそも、農業を志す若者がいない。つまり、農業に対する魅力を感じる若者が少ないのである。何故かというと、苦労する割に収入が少ないし、農業だけで生計を立てるのが難しいからである。そんなこともあり、耕作を放棄した農地は益々増加している。

それでは、こんな農業にしたのは誰なのかというと、殆どの農家はこんなふうに言う。それは、国の農業政策が間違っているからだと。日本の農政は、まったく無策だと言う人もいる。または、工業製品輸出優先策の為の見返りに農産物輸入自由化をして、外国との競争にさらされてしまい、日本農業が壊滅的打撃を受けたと主張する人も多い。または、工業の労働力確保の為にわざと農家を疲弊させ、農村労働者を都会に呼び寄せたとも言う。果たして、本当にそうだろうか。日本の農政における失政が、農業を駄目にしたのであろうか。確かに、そういう側面もあるだろう。しかし、それだけが原因ではあるまい。もっと根源的な何か他の原因があるのではないだろうか。

最近、ユニークな農業が脚光を浴びている。奇跡のりんごと呼ばれる木村氏の自然農法の取り組みや、昔ながらの堆肥等の有機肥料や無農薬で農産物を生産しているケースである。そういう農家は、例外なく『土』を大事にしている。農業生産における労力の殆どを、土作りに注いでいるのが特長である。彼らは、声を大にして言う。化学肥料と農薬が、土を駄目にしてきたし、農業を駄目にして来たのだと。化学肥料と農薬を使わなければ、まともな農業生産は出来ないのだと、農家は思い込まされてしまい、土を駄目にしてきたのである。本来持っている土の生命力を台無しにしてしまったから、逆に化学肥料と農薬が大量に必要になってしまったのであると主張する。

化学肥料メーカーと農薬製造会社の巧妙な宣伝に騙され、その片棒を担がされた農協によって、日本農業が駄目になったと言う人々が増えてきた。農水省を初めとする行政も彼らに巧妙に騙されてしまい、悪乗りしたと見る向きも多いのだ。彼らは決まってこのように言う。化学肥料と農薬を使わなければ、生産量が低下して大変なことになると。日本農業が駄目になるというのである。まったく逆であろう。彼らが日本農業を駄目にしたのではあるまいか。そのことを知った、小数の志ある農家は、昔のようなやり方で農業を立派に復活させている。そして日本農業を立派に再生させた彼らは、こんなことも言っている。土の言い分に耳を傾け、そして野菜や果物の声を聞けと。つまり、土が何を求めていて、農産物が何をしてほしいのか、耳を澄ませば聞こえてくるのだと言うのだ。

だから、彼らは化学肥料や農薬を使わずに、土を健康にして野菜や果物を作っているのである。化学肥料と農薬を使用しないで生産した農産物は、健康である。味も格段に良い。ミネラルが豊富であり、大切な栄養素も高い。だから、子どもたちも野菜嫌いにならない。こういう野菜を食べていると、病気にもなりにくい。アレルギーにもなりにくいと言われている。いいこと尽くめなのである。当然付加価値が高いから、価格も高い。それなのに、今もって化学肥料や農薬に頼っている農家が多いのは、情けないことである。土や野菜の気持ちになりきり、彼らの声を聞けばいい。彼らの叫び声が聞こえてくる筈である。化学肥料や農薬はもう使わないでくれという悲痛な叫びが。

確かに省力化をして、大量生産をする為には農薬・肥料を大量に使用しなければならない。しかし、適量を生産するならば、自然農法でも作物が出来ることが証明されている。発想の転換である。農地が余っているのだから、農家を増やせばよい。そもそも、農業というのは、大量生産には向かないものではないだろうか。今、ふるさと回帰を志向する人々が増えている。退職したら、農ある生活をしたいという方たちが多い。そういう方たちが、自然農法で安全安心な作物を作り、老後の生活をエンジョイしようとしている。そういう作物を利用して、直売所や農家レストランを開いているケースが多い。または、農家民宿を開業している例もある。今、団塊の人たちの自然農法によって、本来の農業が再生しようとしているのである。白河を初めとして福島県には、その為の安価な耕作放棄地が用意されている。

嫌な人と出会う訳と乗り越えるヒント

相談に乗って欲しいけれど、時間が取れますか?そんな依頼が突然舞い込んで来る。仕事を辞めたので、時間を何とか割くことができるようにもなり、出来得る限り相談に乗っている。SNSとかインターネット上での相談依頼も少なくない。相談内容の殆どは、人間関係の悩みである。職場・組織・家庭における人間関係で悩んでいる人が多い。どうしても考え方や価値観が合わないと言うのだ。顔を見るのも嫌だし、声を聞いただけで逃げたくなるというのだ。そりゃそうだ、人の考え方・感性・認知傾向なんて、百人百様なのだから、合わないのが当然である。

動植物は、実に様々な多様性を持っている。何故かというと、自然の猛威や大きな天変地異時さらされた時に、何とか種を存続させたいからである。同じ種でも、寒さに強いもの、暑さに強いもの、日照りに強いもの、湿気に強いものなど、様々な特長を持つものがある。つまり、どんな状況になろうとも、その種を残す為に、敢えて様々な特長を備えたもの、つまり多様性が必要だったのであろう。一方、人間も種族として生き残るため、そして進化するために、多様性を創造主が与えたのではないかと確信している。

人間がこの星・地球に生まれてきた理由は何かというと、進化を遂げるためであろうと推測される。その進化とは、肉体的なそれのみならず、精神的な進化をも目指しているのは間違いないことであろう。精神的なというのは、表面的な心だけでなく深いスピリチュアリティな部分も含めてという意味だと考える。だとすれば、同じような考え方、感性、想像性、認知傾向、行動傾向の人とだけ付き合ったのでは、精神的な進化が望めない。または、霊的・魂的な部分も磨かれない。だからこそ、人は多様性を持っているのではないだろうか。

自分自身を知る為には、自分とは違う他との交わりが必要だと言われている。他者との違いを認識して初めて、自分という者がどういう性格でどんな考え方の傾向やこだわりを持っているのだと認識できるのである。つまり、多様性のある人間社会に放り込まれて、切磋琢磨されて自分を知り本当の自分を肯定できるのであろう。だからこそ、自分と価値観の違う人や、どうしてもうまが合わないような人と敢えて出会わせてもらうのかもしれない。どうして、こんな嫌な人と出会うのだろうとやけを起こしたくなるのは当然であるし、逃げたくなってしまうのも解からないでもない。でも、その違いを受け容れてこそ、進化できるのではないだろうか。

 

さらに、嫌な人が持っているマイナスの自己という部分は、実は自分の中にもしっかり存在するのである。そして、自分はその嫌なマイナスの自己をないことにして生きている。つまり、自己中心的な自己、身勝手な自己、自分の利益や評価しか考えない自己、楽して結果だけを求めたい自己、大変なことから逃げ回っている自己、煩悩に燃え盛る自己、そんな自分にはないと思いたい恥ずかしくて嫌な自己を、相手の言動に発見した時に、自分は相手を許せなくなるのである。受け入れ難い自己を相手の心に発見した時にこそ、自分にある嫌な自己を発見するチャンスでもある。そして、そのことで本当の自己を確立することが可能になるのだ。

だからこそ、顔を見るのも声を聞くのも虫唾が走るというような人と、関わりを持ってしまうように、この世の中は出来ているのであろう。私自身も会社を変わっても、同じような人と関わることが多い。また、NPO活動や市民活動においても、そして趣味の世界でも嫌な人と出会う。NPO活動や市民活動ならまだよいが、会社の中でそういう人と出会い、しかも直属の上司なら辞めるという選択肢を考えなくてはならない。しかし、転勤したり辞めたりしても、同じような人とまた出会うものである。自分の進化と自己の確立の為には、どうしてもそういう人との関わりが必要なのかもしれない。だから、自分自身が嫌だと思うような人を無意識のうちに引き寄せてしまうのだ。

現在人間関係で悩み苦しんでいる人たちに、こんな話をしたら到底受け入れてはもらえない。嫌な人を無意識で自ら自分の世界に招いているのだとは、誰も思いたくはないであろう。でも、スピリチュアリティな考え方においては、そういう見方が出来るのである。自分の深層無意識、つまりは潜在意識が、そのような人々と出会うべくわざわざセッティングしているのである。だとすれば、そういう人たちと向き合い、臆することなく、おもねることなく毅然として対峙して、相手をしっかりと受け容れることで、二度とそういう人と出会うことがなくなるのではないだろうか。何故なら多様性を受け容れることによって、人間は成長して進化して行くのだから。

分離思考から統合思考へ

最新の物理学は、まさに神の領域に踏み入ろうとしている。なんてことを言い始めると、こいつおかしくなったんじゃないかと言われそうである。しかし、実際に物理学者、特に量子力学や複雑系科学分野における科学者は、こぞって宇宙全体をひとつの生命体、または集合意識として捉えざるを得なくなっていると説いている。つまり、宇宙全体をひとつの統合体として見て、それは一定方向に向かうシステムであると見るしかなくなっているというのである。しかも、その宇宙というシステムは全体を常に最適化してしようと、それぞれが一切無駄のない働きをしているというから驚きだ。

宇宙の構成要素を個別にみているときには、まったくそんなことに気付く科学者はいなかったのだが、全体として見たときに、どうもおかしいと気付き始めたらしい。そんな筈はありえないと、盛んにその否定する根拠を探そうとやっきになったのであるが、調べれば調べるほど、宇宙がひとつのシステムとして出来ているとしか思えなくなったということである。そして、形而上学と形而下学を統合してそのことを説明しよう、または証明しようとする科学者が増えてきたというのだ。つまり、哲学と科学の統合とも言える方法によってである。または、宗教と科学が統合されつつあるとも言い換えられる。

今までの科学は、様々なこの世の中に起きる現象を、すべて分離思考で分析する手法が一般的であった。それぞれ個別の対象を、客観的に分析評価をして、何故そういう現象が起きるのかの原因を探り、その対策を考えるというのが主流だったのである。つまり分離思考または要素還元主義とも言えよう。人間をひとつの固体と見て、その人間の性格・人格・認知傾向・行動心理を分析して、そのような行動を取るのは何故かという、評価分析を客観的に行っていたのである。しかし、この分析手法では、地球全体や宇宙全体の流れを理解出来ないのである。さらには、この地球で起きている様々な問題を、分離思考では解決することが出来ないということが解ってきたのである。

つまり、宇宙全体の流れを統合思考で考えると、実にすんなりとおさまりがつくということが判明したのである。宇宙の構成要素のひとつである人間は、どうやら宇宙のひとつのシステムの中で生かされていると考えたほうが、科学的合理性に合致しているということが証明されてきたのである。言い換えれば、人間それぞれが分離しているように見えるが、実は無意識の世界ですべてが統合されていて、そのシステムの中で様々な人間の行動がなされているということが明らかになってきたのである。このことはなかなか理解しにくいし、この場ですべてを記すのは難しいので割愛するが、これが科学的に証明されるということに驚くばかりである。

ということは、こういう結論も導き出されることにもなるのである。つまり、宇宙全体が何らかの意思によって動かされているひとつのシステムだとすれば、そのシステムに逆らって分離思考で生きている人間は、この宇宙からはじかれてしまうということになる。はじかれるということは、人間本来の生き方が出来ず、誰からも愛されず不幸な目に遭うということであり、この世界に存在できなくなるということである。逆に統合思考で生きている人間は、このシステムに則っているのだから、人間本来の心豊かな生き方が出来るし、皆から愛されて幸せな人生を歩むということである。

私たちは近代教育によって、この分離思考を学ばされてしまい、個としての存在を重視する生き方をするようになってしまった。すべてを分離思考で考えるクセがついて、いつも他人のような冷ややかな目で相手を見て、相手の悪い部分をとりあげて分析・批判を繰り返すばかりである。つまり関係性を深めるどころか、無意識的に相手との関係分断を図っているとも言えよう。ところが、その近代教育の間違いに気付き、統合思考で物事を考え、関係性を深めることが大切なのだと主張する人々が出てきたのである。つまり、思想・哲学をしっかりと学んで、高い価値観を持って生きることが人間本来の生き方だとする考え方である。私たちは、そのことをしっかりと認識し、分離思考から統合思考へのパラダイムシフトを自ら行うと共に、社会全体にこの考え方を浸透させていく責務を負っていると言えよう。

いじめがなくならない訳

じめによる自殺が止まらない。いじめ自殺問題がセンセーショナルに報道されて、文科省や教育委員会、そして学校でもいじめ防止対策が取られていながら、若くて尊い命がいじめによって失われてしまう事件が後を絶たない。何とも痛ましい事故が、起き続けているのだ。文科省からいじめに対する調査も徹底するよう指示されていた筈であるし、教師たちも二度といじめによる自殺をなくそうと努力したに違いない。それなのに、今でもいじめによる自殺が起きているのである。自殺とはいかなくても、全国にはいじめが続いていて、苦しんでいる児童生徒が沢山いる筈だ。いじめはなくならないのであろうか。

それにしても、いじめの自殺が起きる度に不思議だと思うことがある。学校の校長、教育長、そして担任までもが、いじめがあったのを知っていたかとの問いに、「いじめは認識していませんでした」と答えるのである。または、「いじめは把握していませんでした」とも答えるのが通例である。あたかも誰かが、そのように答えるようにと指示を出しているかのように、認識していない、または把握していなかった、と答えるのだ。絶対と言っていいほど謝罪はしない。もしかすると誰かが、いじめがあったとは認めてはいけないし、謝ってはいけないと、指導しているかもしれないと思えるほどである。

いじめによる自殺事件が起きたときの記者会見を見ていると、すごい違和感を覚えるのは私だけではあるまい。教育関係者が涙を流して、いじめを気付かなかった自分を悔いたり責めたりする姿を一度も見たことがない。大切な子どもさんを預かっているのであるから、いじめを気付かなかった自分が、情けないし親御さんに申し訳なくて、土下座しても足りないと思うのが、心ある人間だと思う。しかし、そんなふうに自分の責任を自ら問う態度を見せる教育関係者は皆無なのである。こんなに心の冷たくて責任感のない先生たちに、立派な子どもに育てる器量があるとは思えないのである。

勿論、文科省や教育委員会からの指示があって、裁判になった時に不利になるから、絶対に謝罪の言葉を言っちゃいかんと指示されているのかもしれない。しかし、尊い人命が亡くなっているのである。そんな裁判の勝ち負けや賠償金のことなんて考えてはいられないのではないか。真相をいち早く究明して、二度と不幸ないじめがないようにするのが大切なのではないだろうか。先ずは、ご遺族の悲しみに共感することと、ご両親に対して申し訳ないという態度を取るのが必要である筈だ。そして、自分に落ち度はなかっのか、自分が何故気付いてあげられなかったのか、自分自身に厳しく問いかけて、謙虚に自分を責めることをするべきではないかと思うのである。

認識していない、把握していないという言葉を用いるのは何も教育関係者の専売特許ではない。他の官僚や警察幹部、または政治家だって使用している。不祥事の記者会見や国会でも同じように、認識していない、把握していないと逃げまくっているのだ。つまり、我が国の官僚や政治家たちは、まったくもって責任感や主体性など持ち得ないのである。不祥事が起きても、自分の責任はまったくないし、再発防止を主体性を持って取り組む気持ちなんてさらさらないのだ。だから、認識するつもりもないし、把握するつもりもないということなのである。こんなとんでもない輩に国の行く末を任せているのだから、政治、行政、教育、そして医療も福祉も良くなる訳がない。

江戸時代は、一旦不祥事が起きると、その上役の武士は責任を取って腹を切ったか、潔く辞職したのである。自分は認識していなかったなんて言葉は、恥ずかしくて言えなかったのである。言い換えると、自ら進んでリスクとコストを負担する覚悟を持っていたのである。ところが明治以降、近代教育を受けた役人や政治家は、国民に対して責任は取らなくなったのである。責任を絶対に取らないし、保身に走る役人と政治家しか、一部の人を除き日本にはいなくなったらしいのだ。こんな役人や政治家を一刻も早く辞めさせないと、いじめは絶対になくならないに違いない。記者会見においていじめを認識していなかったなんて言葉は二度と聞きたくもないものである。