初心忘るべからず

新しい年の初めに当たり、『初心忘るべからず』という言葉について、今年の最初の日記を書くことにしたい。昨夜、NHK紅白歌合戦を視ていたら、羽生善治永世七冠がこの初心忘るべからずという言葉の本当の意味について述べられていた。この初心忘るべからずという言葉は、最初に志した自分の命題や目標を忘れることなく精進しなさいという意味で使われている。ところが、本来の意味は違っているという。この言葉は、能楽を完成させたと言われる世阿弥が54歳の時に、「花鏡」(かきょう)という能楽の伝書で、示した言葉らしい。

初心とは、最初の志のことだけではなくて、何かを新たに思い立った時、または人生の節目(せつもく)の際に、こうしようと心に誓ったことを言うらしい。だから、初心は人生の中でただ1回だけではなくて、何度もあるというのだ。自分も誤解していたことを恥じたい。何か一生に一度の大きな目標を掲げた時、または一生を捧げるような職業に就いた時に思ったことを初心だと勘違いしていた。そうすると、初心はその時その時の心の在り様、人間的成長の各段階において、または価値観や哲学をさらに向上させた時に、初心をバージョンアップさせるものなのだということである。

人間と言うのは、ある程度の成功を実現させると、現状に満足して成長することを止めてしまうことが往々にある。ところが、人間と言うのはこれでもう学び切ってしまったということはあり得ないのである。学べば学ぶほど、自分の浅学菲才ぶりに気付くものである。何でも解ったように勘違いして、もう自分は悟り切ったと思うような人間は、けっして大成することはない。自分が無知だと思うからこそ、まだまだ愚かな人間だと謙虚になり、勉学に勤しむものであろう。そして、その人生の節目(せつもく)に初心を自分の胸に刻んで、さらに精進し続けるのだろうと確信している。

15年以上も前に、自分が胸に刻んだ初心は、イスキアの郷しらかわを必ず開設することであった。佐藤初女さんの森のイスキアのような施設を創るという夢であった。そして、昨年の9月に様々な人のご支援を頂き、開設することが出来た。これは、ひとつの通過点でしかない。まだまだ、イスキアの郷しらかわの認知度は低い。そして、利用される方々もまだ多くはない。今度の初心は、皆さまのご支援に報いる為、イスキアの郷しらかわを多くの皆さんに知って頂くことと、もっと多くの方々を深くご支援申し上げたいということである。そして、心が癒されて幸福になってイスキアを卒業される方々を、笑顔で見送りたいという初心でもある。

15年以上前の初心は、様々な事情もあってなかなか貫徹出来ずにいた。経済的な問題もあって、踏み切れずにいたのである。今から思うと、初心を貫徹することに不安や怖れがあったことは否めない。もしかすると、イスキアを創るというのは無理なんじゃないかと諦めそうになったことが何度かある。何度も挫折しそうになった時に、不思議な出会いがあって、背中を押してくれた。それは、イスキアを必要とする方々との出会いであり、イスキアを応援したいと申し出てくれた人たちとの出会いである。そんな方々に申し訳ないと思いながら、ずっと伸び伸びになってしまっていたのだ。

昨年の2月に佐藤初女さんが亡くなられた。その後、森のイスキアが活動停止になり、こうしてはいられないと思い、昨年の9月にイスキアの郷しらかわを開設した。その際に、出会った方々には叱責されることを覚悟して、開設のお知らせをした。皆さんからは、どうしてこんなに遅くなったのだというお叱りの言葉もなく、温かく受け入れて頂いた。今度は、そんな皆さんに恩返しをしたいと思う。さらには、イスキアの運営が順調になったら、お世話になった方々を招いて、開設記念のパーティも開催したいと思っている。今年は、そのレベルまで必ず到達したいと誓う。この初心を深く心に刻んだ、1月1日の朝である。

発達障害は緩和できる

発達障害が急増していると言われている。診断を受ける子どもや大人が増えたせいだとする専門家もいるが、その原因はまだはっきりしていない。どうやら、脳の誤作動、もしくは脳内ホルモンの分泌が不適切な状況になっているのではないかということが言われている。ドーパミン、セロトニン、オキシトシン、ノルアドレナリンなどの脳の神経伝達物質、通称脳内ホルモンと呼ばれているものが不適切に分泌している状態のために、異常行動をしているのではないかという仮説が有力になっている。脳内ホルモンが異常分泌する理由は、確定している訳ではない。

脳内ホルモン分泌のアンバランスは、発達障害だけでなくパーソナリティー障害、うつ病、双極性障害などの精神障害をも引き起こすと言われている。これらの脳内ホルモン分泌の異常は、脳の働きが誤作動しているせいだと思われていたが、どうやらそれだけではないということが判明しつつある。人体というシステムは、脳がすべて脳内ホルモンの制御をしているのではなくて、人体の各臓器、または筋肉組織など身体全体がそれぞれのネットワークを組んでいて、全体最適の為に絶妙に協力し合ってコントロールしているということが解ってきたのである。つまり、脳がすべてを制御しているのではなくて、各臓器や各組織、または各細胞が自己組織性を発揮して、全体最適化を目指しているのである。

脳内ホルモンも本来は、人間全体が正常に、そして健康になるようにと、絶妙にバランスを取って分泌するというシステムなのである。それなのに、脳内ホルモンが異常な分泌をしてしまい、バランスが崩れている状況が、発達障害やパーソナリティー障害などの精神障害だと言えよう。ということは、脳内ホルモンの分泌を正常化することが出来たら、発達障害も緩和されるのではないだろうか。発達障害は、幼児期ならば投薬が可能で若干症状が緩和されることもあるが、大人の発達障害は医療による支援が難しい。脳内ホルモンをどのようにして正常に分泌させられたら、発達障害が緩和されるだろうか。

脳内ホルモンは、脳に直接働きかけても、正常にしかも豊かに分泌される訳ではない。脳内ホルモンが正常に分泌されるには、腸内環境が重要な働きをしているということが解ってきたのである。腸内フローラとも呼ばれるように、腸内細菌叢が花畑のように美しく広がる状況になれば、脳内ホルモンが活発に分泌されるということが判明してきた。腸内細菌には、善玉菌と悪玉菌、そして日和見菌がある。これらの細菌の割合における絶妙のバランスが取れた時に脳内ホルモンが正常に分泌し、善玉菌が減って悪玉菌が増えた際に、脳内ホルモンの分泌が崩れてしまうと言われている。

腸内環境を正常にするには、やはり食べ物が重要な役割を果たす。腸内細菌が喜ぶ食べ物は、新鮮な野菜である。しかも、出来れば無農薬でオーガニックな野菜がベストである。減農薬で化学肥料を少なくして栽培した野菜でも効果が高い。少しの量でも構わないが、熱をかけていない野菜や果物を食事の最初に取るというのも効果がある。なるべく多種類の野菜と発酵食品を摂取すると、腸内環境は改善する。さらに、下腹部を冷やさない工夫も必要である。身体全体を温めるほうが良いが、せめて下腹部や下半身を冷やさないことが大切である。特に寒い時期は、腹巻やレッサグウォーマーが良い。殺菌剤や抗菌剤を用いたグッズに触れないことも良いし、食品添加物の入った食品を避けることも有効だ。ファストフードやジャンクフード、甘味料の多い飲料や食品は絶対に避けたい。

さらに、普段の生活も大事である。ストレスを減らし、不必要なプレッシャーをかけないことが脳内ホルモンを正常にしてくれる。一番悪いのが、本人の自主性や主体性を欠いてしまうような言動である。保護者が、これも駄目あれも駄目と過干渉の言動をしてしまい、子どもを支配し制御するのも、脳内ホルモンの分泌を阻害する。逆に、子どもの言動をなるべく支配せず、自主性や主体性を伸ばすようにそっと寄り添うのが良い。さらには、豊かな無条件の愛を注ぐことと、なるべくスキンシップを心掛けることも効果がある。家庭の中に心地よい居場所を作ってあげるのが肝心である。さらに、心地よい運動も効果がある。

このように、食生活と普段のライフスタイルを改善するだけでも、発達障害はかなり改善すると見られている。実際に、ある幼児の生活を改善したら、見事に症状が改善した例を見ている。それまでは、親が叱ったり怒ったりして、子どもの行動を制限していたが、なるべく本人の行動に対して危険な行動以外は干渉しなくなったのである。そして、なるべく自分で考えて自ら行動することを支援するようにしたのである。さらに、良く出来た時は抱きしめて「良く出来たね」と精一杯の笑顔でほめてあげたのである。これだけでも、見違えるように変化したのである。食生活の改善も含めて、豊かな愛で満たされた時に、発達障害は見違えるように緩和されるに違いない。

 

※発達障害を含めた様々な脳内ホルモン分泌異常の症状を緩和する方法についての研修を、イスキアの郷しらかわで常時開催しています。希望者があれば、一人でも実施します。食生活についても、イスキアで提供している食事を実際に食べてもらい実感できます。問い合わせファームから相談も承ります。

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パーソナリティ障害は治らないのか

パーソナリティー障害というのは、あくまでも単なる精神疾患ではないと言われている。確かに、性格や人格の偏りという捉え方もされているので、世間一般で言われているような精神疾患とは違う括りとして扱われているようである。そして、精神科医からみたら一番扱いにくく手強い精神障害であろう。治療が非常に難しく時間がかかることもあり、治療をしたがらない傾向が強い。現在の精神科医療は、爆発的に増加した患者に懇切丁寧に対応するのが物理的に難しくなり、投薬治療に頼らざるを得なくなっているという不幸な状態にあるので仕方ないかもしれない。

パーソナリティー障害の治療を困難にしている訳は、このパーソナリティー障害によって様々な併発する精神疾患が存在するからでもある。パーソナリティー障害を以下、便宜上PDと略することをお許し願いたい。例えば、境界型や反社会性のPDは、薬物依存やアルコール依存症を併発しやすいと言われている。回避性や依存性のPDは、うつ病を発症しやすいらしい。回避性のPDは社会不安障害を併発することが多いという。このように、いろんな精神疾患を起こして精神科医を受診して診察した結果、根底にこのようなPDが存在しているということが判明するのであろう。

このような合併症である精神疾患を最優先にして精神科医は治療行為をするのであるが、主に投薬や心理療法で寛解に向けて努力しても、残念ながらPDの改善は困難であることから、治療効果が上がりにくい。さらには、一度寛解したとしても再発することが多いという。治療が難しいのは特に境界型のPDである。何故ならば、境界型のPDは他のPDと複合のPDであるケースが多いからでもある。そして、自殺念慮を持つ境界型のPDがすごく多いとも言われている。うつ病単独の患者の自殺念慮は約3割なのに、境界型のPDの自殺念慮は6割以上あると言われている。

このように境界型のPDを初めとして、様々なPDの治療が困難なうえに、他との複合のPDが存在するし、自殺念慮もあることから、精神科医や各種福祉施設や支援施設も、本音では関わりたくないと思っている関係者が少なくない。特に医療機関では、境界型のPDの患者が自殺するケースもあったりして、入院患者として受け入れることに及び腰になりやすい。相談で関わったある父親の境界型PDの息子さんは、過去に何度も入院している精神科のある病院に緊急入院をしたいと行ったら、門前払いを受けたという。仕方なく帰宅した後に、不幸にも自宅の納屋で自殺してしまった。訴訟問題にも発展している。

このように、境界型のPDや複合型のPDはとても治療が難しいし、あまり治療効果が上がらないこともあり、さらには訴訟問題にも発展しやすいことから、医療機関は診療拒否ぎりぎりの対応をするケースが少なくない。だから不幸にも最悪の結果を迎えてしまうケースもあるのだ。さらに難しいのが、境界型のPDは信頼できる治療者に対して、転移や依存が起きやすい点である。境界型のPDは若い女性が多いが、理想とする父親像と治療者とを重ね合わせてしまう傾向がある。すべて依存してしまうこともあるし、恋愛感情に発展してしまうことも少なくない。だから、傾聴と共感のカウンセリングが非常に難しいのであろう。

しかし、だからといって境界型のPDを含めてすべてのPDの改善が出来ない訳ではない。一番効果のあるのが、生活習慣や生活環境を一変させて改善することである。出来たら、まったく自宅と違う環境にしばらく滞在して、食生活や普段のライフスタイルを一変させることが有効であろう。食事は、オーガニックの食材を用いて伝統的な和食の調理法で、野菜中心の食事をすることがよい。それまで溜め込んだ人工的な添加物や農薬と化学肥料をデトックスことが必要である。さらには、腸内細菌を活性化させる食事とおやつを食べることがよい。出来たら着用る洋服、特に下着はオーガニックの綿製を着て、回りの環境も出来る限り自然素材にするとよい。

さらには、運動療法がとても効果がある。のんびりとした農作業や自然体験、または少しハードな登山などもよい。対人関係で苦労しない、個人で楽しめるスポーツもよい。ヨガもよいしフィットネスもいいだろう。音楽鑑賞や楽器演奏もよいと思われる。周りの人々が愛情豊かに支援する場所で、安心できるに身を置くことが有効であろう。そして、何よりも大事なのは家庭に安心できる平穏な場所を確保することである。家族の関係性を見直して、豊かで平和な関係性を再構築されることを勧めたい。PDは『愛』が不足して起きると言われている。それも、慈悲や博愛のように見返りを求めない愛を求めている。PDはそのような豊かな愛によって心が満たされて、安心する居場所を確保された時に寛解するに違いない。

 

※イスキアの郷しらかわは、治療施設ではありません。あくまでも支援施設ですから、パーソナリティ障害を治癒させることは出来ないということをご承知ください。保護者の方の相談にいらっしゃる場所として、または患者さんご本人の保養施設としてご利用されることは歓迎いたします。さらには、目いっぱいに頑張っていらっしゃる保護者の一時休憩所としても最適です。主治医のご意見やご指導に添った対応をさせていただきます。下記の問い合わせフォームからご相談ください。

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女性が活躍する時代

これからの日本においては、女性が活躍する時代を創っていくんだと、政府が宣言している。果たして、政府の思惑通りに行くのであろうか。既に女性が活躍している企業や業界が多数存在している。それでも、また部分的にでしかないと言える。まだまだこの社会は、男性中心に動いている。政府が声を大にして、女性が活躍する時代を創るというのは、労働者不足を何とかしたいという事情があるからであり、本気で政治界や経済界のトップリーダーとしての役割を女性に求めてはいない筈である。あくまでもそれは掛け声だけであり、男性社会における補助的役割しか期待していないのではないだろうか。

日本ではまだまだ男性社会であるが、世界各国では、政治だけでなく経済もまた女性のリーダーに委ねようとする動きが加速している。世界の元首を見てみると、女性が大統領や首相を務める例をあげればきりがないくらい多い。現職だけでも、ドイツのメルケル首相、チリ、スイスの元首も女性であり、他にも多数の現職女性リーダーがいる。過去には、マーガレット・サッチャーやインディラ・ガンジーといった名宰相がいたことは記憶に残っている。これから、益々女性の大統領や首相の誕生は増加するに違いない。それが世界の趨勢なのである。しかし、日本においては優秀な女性企業家や地方自治体の女性首長は生まれているが、女性首相が誕生するのは、残念ながらまだ少し先のような気がする。

それでは何故、こんなにも多くの女性が政治のリーダーとして、国民から指示され始めたのであろうか。女性が強くなったからとか女性の意識が高くなった為とか、または男女平等意識が高まったからというだけではあるまい。男性よりも女性のほうが、国のリーダーとして相応しいと国民たちが感じ始めたからではないかと思うのである。逆説的に言えば、もう男性に国政を任せられないと国民が思い始めたからではないだろうか。おそらく、男性の強烈な支配的なリーダーよりも、国民の目線を持った感性豊かなリーダーを求めるようになったのに違いない。日本や米国だけは、それに逆行している感はあるが。

男性は、一般的にどちらかというといざという時の決断力や胆力、または空間認識や創造性に優れていると思われている。そして、女性は繊細な感性や思いやり、相手への傾聴や共感力に長けていると見られている。男性と女性で一番違うのは、やはり相手の気持ちになりきっての言動が出来るかどうかという点であろう。何故そんなにも男女で違うのかというと、情報処理に使う脳の構造にあるのではないかと思われている。女性は、母性を発揮して子育てする為に右脳と左脳を繋ぐ脳梁が太くなっているのである。右脳と左脳の情報交換を豊かにすることで、子育てを上手に出来るようにしたと推測出来る。子どもの気持ちを自分のことのように感じなければ、子育てに失敗するからに違いない。

結論とすれば、国民が求めているのは、強烈なリーダーシップで国民を支配する為政者ではなくて、国民の気持ちに心底共感して、国民目線で行う政治リーダーなのではあるまいか。そして、女性の細やかな感性や先入観に捉われない柔軟な考え方が、この難しい世の中に必要なのだと思われる。政治の舵取りが非常に難しくなっている今の時代にこそ、どんな難題にも応えられる女性の政治リーダーが必要なのだと思える。勿論、難しい舵取りが要求される経済界に於いても、優秀な女性の企業家が次々と誕生しつつある。いずれ日本の政治の世界でも経済界でも、素晴らしい女性リーダーが続々と誕生するに違いない。これからの時代は、女性が活躍する時代なのである。

では、男性の時代は終わりなのかと言うと、そうではない。男性も優秀なリーダーとして活躍出来ない訳ではなく、立派なリーダーにもなり得る。その為には、男性性だけではなくて、繊細な感性や相手への共感などの女性性をも兼ね備える必要がある。男性のリーダーにこそ、これからは豊かな『女子力』が必要だと言えよう。歴史的にみても、過去に活躍した各国の女性元首たちは、例外なく女性性だけでなく男性性をも発揮している。つまり、男性性と女性性を共に兼ね備えた人物がこれからの時代のリーダーに相応しいということだろう。これからは女性が活躍する時代というより、女性性を発揮する時代と言うべきなのかもしれない。

匂いの暴力は止めて!

街中ですれ違った若い女性が、強烈な香水やフレグランスの匂いを撒き散らしているのに、最近出合うことが多い。それも、近付かないうちから匂ってくる、ものすごいやつである。本人はエチケットやお洒落のつもりで付けているのであろうが、はた迷惑なものである。むせ返るような匂いに、吐き気さえ覚えてしまう。おそらく、香水を付けている本人は、嗅覚が麻痺しているのではないかと思われる。通常の嗅覚を持っている人にとっては、あんな匂いは暴力に等しい。人間にとって、嗅覚というのは無意識下に一番強い影響を及ぼすものであるから、あの強烈な匂いはPTSDにさえなりそうである。

そういえば、若い女性だけが強烈な匂いを発しているわけではない。最近は、オーデコロンを付けている男性も増えた。それも、シトラス系でなくてフローラル系やムスク系のフレグランスをプンプンさせている例も多い。絶対に似合わないと思うのだが、困ったものだ。そもそも、体臭の強い人種が、その匂いを誤魔化すために付けていたのが香水なのに、本来体臭の少ない日本人が付けるのはいただけない。自然の素材の香を焚いて、緩やかに着物にしみこませて、ふと香るようなものなら良いが、科学的に作り出した匂いは勘弁してほしいものである。

登山をしていても、オーデコロンを付けている登山者に出合うこともある。あれは、環境破壊というか自然に対する冒涜だと思う。そして、かなり危険でもある。自然界の動物や昆虫の行動を惑わすだけでなく、襲われる危険性を高める。自然の花や木々の香りを楽しむ人がいるのだということを、忘れないでもらいたい。絶対に避けてほしいことである。さらに、匂いの強い化粧品を付けて登るのも、やめてほしいものである。毎日匂いの強い化粧品を付けていると、嗅覚を麻痺させてしまうので注意が必要である。嗅覚が弱くなると、山での危険を予知する能力も低下するし、花の匂いを楽しむことも出来なくなる。

匂いというものを楽しむためには、自分自身を無臭にしておく必要がある。勿論、加齢臭やタバコ・酒の臭いなどからもフリーにしておく必要があるだろう。加齢臭はどうしようもないものだと思っている人も多いであろうが、けっしてそうではない。健康的な食事をしていれば防げるものである。最近の西洋かぶれの食事が、加齢臭を起こしているというのはあまり知られていないが、専門家はその事実を認めている。高脂肪・高動物性蛋白の食事は、間違いなく加齢臭を起こす。だから、野菜を中心にした和食が、日本人にとって相応しいのだ。登山の際に、すれ違う中高年の登山者が加齢臭を発している例が多い。あれも、臭いの暴力のひとつである。

目は、瞼を閉じるか意識して見なければいい。耳も塞げば聞こえないし、意識して聞こえないようにも出来る。味覚は食べなければいいし、触覚は触らなければいいのだ。しかし、鼻は呼吸する為に必要なので、常時塞ぐことは出来ない。したがって、匂いの暴力にいつもさらされてしまうのだ。深層意識に最も働きかける五感は、嗅覚だと言われている。したがって、脳に一番影響を与えるのは、間違いなく匂いなのである。だからこそ、香水の匂いや加齢臭を、他の人に撒き散らさないでほしいと強く思うのである。無意識下に働きかけるのだから、望まない匂いによって脳に悪影響を与え兼ねないから危険でもある。

最近、洗濯物にわざわざ匂いを付ける柔軟仕上げ剤や洗剤にわざわざ添加するフレグランス剤が、大量に売れているという。これから益々人工的な匂いが街中に溢れかえることになるだろう。本人は好む匂いだとしても、周りの人々が望まない匂いを嗅がせられ続けるのである。日本人は古来より、自然の中に漂う微妙な匂いを嗅ぎ分けられる嗅覚を持っていた。俳句、短歌を初めとして、文芸作品には匂いとか香りが重要な役割を担ってきたのである。人工的な刺激のある匂いによって本来の嗅覚が麻痺してしまい、そういう微妙な匂いや香りを嗅ぎ分けられなくなったら、日本の素晴らしい文化が廃れてしまうかもしれないのである。人工的な匂いをこれ以上増やさないようにしたいものである。

コミュニティ崩壊の原因

コミュニティがもはや崩壊してしまったと、心ある人たちの間で言われている。家族というコミュニティも、地域コミュニティも、そして国家というコミュティも崩壊してしまっていると認識している人は少なくない。家族間の繋がりは希薄化してしまい、お互いの信頼もなく、自分勝手に生きて行動し、支えあうという関係も崩壊してしまっている家庭が多い。それ故に、不登校、引きこもり、仮面親子、仮面夫婦の関係にありながら、解決する術も待たず、おろおろしている状況に置かれてしまっている。家族という最小単位のコミュニティが崩壊しているのである。学校というコミュニティも崩壊しているし、地域・国家レベルならなおさらである。

少なくても地域コミュニティがまだ残っていると言われている田舎でさえも、お互いが支えあう地域社会が少なくなってきている。超高齢者単独世帯にさえ、共同作業の人足提供を容赦なく迫るし、除雪作業を手伝ってくれるような隣人も少なくなっているのである。嘆かわしいものである。そして、国家レベルで見ても、愛国心というか自分たち日本民族を愛する心は失われ、国家的損失をしてしまうことや国民が困るようなことを平気で行う国民が多い。政治家・行政職・司法職でさえも、国民を裏切り国益を損なうような行為を平気でする世の中である。

企業においてもしかりである。愛社精神などという言葉は死語になりつつある。そりゃそうだ、経営トップだって会社のことなんて考えていない。投資家に自分がどう評価されるかということを気にして、社長という身分にしがみつき、自己保身のことしか考えていないのだから、社員だって自分中心になる訳だ。当然、お互いに助け合い支えあうといった社風は感じられず、ノウハウも独り占めにして、部下を育てようともしないのである。なにしろ、部下が自分より仕事が出来ると、自分の身が危なくなると思っている輩ばかりの社員だから、コミュニティなんてものは存在しなくなってしまったのである。

このように、いたるところでコミュニティが崩壊してしまっているのであるが、その原因は何であろうか。このコミュニティの崩壊を起こした犯人は誰なのか、追及してみたい衝動にかられる。まず、いつからこんなコミュニティの崩壊が始まったのであろうか。ある人は、小泉・竹中政権の新自由主義に踊らされてから酷くなったと言う。また別の人は、戦後の占領軍政策により、家族や地域共同体が崩壊させられてしまったと言う。いやいや、そうではない、明治維新後に近代教育が取り入れられてから、コミュニティは崩壊し始めたと主張する人もいるのである。

明治維新からコミュニティの崩壊が起き始めたというのは、あながち的外れでもないようだ。では、明治以降に近代教育の制度を取り入れて、西洋的な価値観の教育を推し進めたのは誰かというと、大久保利通という明治維新の立役者の一人だという。富国強兵を推し進めるのに、近代教育という客観的合理主義を土台とした教育が最適だと、大変な勘違いをしてしまったようなのだ。つまり、物や事象を分離思考で考え、客観的分析ですべてを把握しようと考えたのである。この考え方に則った為に、近代教育を受けたものは、他人を批判的批評的に見るという習慣を身に付け、物事を主観的に見るとか、事象や物体を全体として捉えるということが出来なくなってしまったのである。

こういった考え方は、あくまでも個を大事にし過ぎる考え方と、関係性というものをないがしろにしてしまうという習慣を植え付けてしまったのである。つまり、人間と言うものは、他との関係性を大切にして、お互いに支えあい生きるべきなのに、客観的分析手法を大事にしたために、他を批判するような人間ばかりを育ててしまったのである。故に、様々なコミュニティは崩壊してしまったのであろう。関係性や繋がりを大切に生きるという統合の思想こそが人間本来の生き方なのに、それを忘れさせてしまったのは、近代教育の導入に原因がある。近代教育こそが、コミュニティ崩壊の元凶だったと結論付けても過言ではない。だとすれば、この近代教育を見直して、関係性こそが大切なのだという本来のあるべき統合思想の教育を推進すれば、コミュニティの崩壊は止められるし、再生できるかもしれないのである。今こそ、客観的で批判的な態度を改めて、自ら主体的にコミュニティの再生に取り組んでいきたいものである。

日本の生産性が最下位の訳

日本人一人当たりの労働生産性が、G7各国の中で最下位だというショッキングなニュースが流れていた。先進諸国の中で、日本の生産性が低いということは言われていたが、まさか最下位になるとは思いもしなかったのに、はっきりした数字で現わされると衝撃的である。以前から言われていたのが、ブルーカラーの生産性はそこそこ高いが、ホワイトカラーの生産性が低いという事実だ。今回、やはり生産部門は結構生産性が高いらしいが、サービスや販売部門の生産性が各国と比較して異常に低いので、足を引っ張ってしまったという。どうして、日本の生産性がこんなにも低いのだろう。

日本の一人当たりの労働時間は、先進諸国のそれと比較して異常に長い。それも、生産性の低さに影響しているのかもしれない。逆説的に言えば、生産性が低いから残業をせざるを得ないとも言えよう。西欧のサービス部門や販売部門は、残業もそんなにしないし、休日もしっかり取っているという。しかも、有給休暇消化率も高いし、バカンスと呼ばれる長期休暇をしっかり取れている。日本では、有給休暇もろくに取れていないばかりか、休日出勤も多い。そもそも所定労働日数も先進諸国と比べて多過ぎると言える。日本人は働き過ぎだと言ってもいいだろう。

どうして、日本人はこんなにも長時間労働するのだろう。事務処理能力が低いのであろうか、それとも段取りが悪いのであろうか。日本人の事務処理能力や段取りにはそんなに問題があるとは思えない。どちらかというと、無駄な時間を浪費しているように思えるのである。生産性に直接影響のある仕事を優先にしないで、仕事の仕組み作りや規則など、またはマニュアル作成や管理手順などの周辺業務に追われているように感じている。しかも、会議や打ち合わせなどに時間を浪費しているように思うのである。

本来の生産的な労働でなく、こんなにも非生産的な労働に時間が費やさられるのかというと、それは労働者の意識が低いからであろう。労働者の主体性・自発性・責任性が異常に低いのである。仕事に対して前向きになれなくて、多くの人が働かせられているという意識になっているように思える。当然、自ら仕事のやり方を工夫したり改善したりする意識も低い。ミスとかやり直しも増える。部門間の関係性も悪く、連携も上手く行かないから問題が山積みになっていて、改善の糸口もつかめていない。モラルも低くて、偽装事件などのコンプライアンス違反も後を絶たない。

日本の生産性が低いのは、労働者の主体性・自発性・責任性が発揮されていないからであるのは間違いないだろう。そして、そうなってしまっているのは労働者だけが悪い訳ではない。企業として、労働者の勤労意欲を高める努力をしていないからである。勤労意欲が低いのは、社員満足度が低いからであろう。社員満足度というのは、待遇や職場環境のことではない。それは、社員不満度要因である。社員満足度というのは、顧客の満足度を高めるのに自分が貢献できている時に高くなる。

会社の仕組みを大胆に変革し、社員満足度を高めることで顧客満足度を飛躍的に高めることに成功した企業がある。それはSAS(スカンジナビア航空)である。若き経営者ヤン・カールセンがCEOに付いて、接客部門への徹底的権限移譲をした。顧客と接する最初の15秒を「真実の瞬間」と呼んで、顧客満足度を高める最大限の努力をすることを社員に求めた。その為には顧客と直接応対する者に、出来得る限り権限移譲をする必要があるとして、大胆な組織改革をしたのである。顧客満足度が飛躍的に高まり、業績はV字回復した。そうすることで、社員の働く喜びがとてつもなく大きくなり、社員満足度が高まり、意識改革が実現したのである。

顧客の喜びや満足は、社員のモチベーションを上げるし、主体性を持たせることができる。稲盛さんがJALのCEOに付いて、徹底的な権限移譲と意識改革を実行して、顧客満足度を高めて、業績がV字回復したのも同じ手法である。社員の意識を改革して、主体性・自発性・責任性を持たせるには、出来得る限り接客現場に権限移譲する必要がある。言い換えると、自分が会社を代表するという意識を持つことこそが、働く喜びを実感できるという意味である。社員一人一人自分が社長だと思えるような会社作りが必要なのである。そうすれば、社員のモチベーションも高まり、自ら進んで仕事の効率と品質を高める改善を実行するに違いない。当然、収益性も飛躍的に高まるから、労働生産性も向上すると確信している。

縄文人の生き方に学ぶ

最近、縄文人の生き方が注目されている。歴史の研究が進み、さらに遺伝子の解析技術が進化したものだから、縄文人がどこからやってきたのかという祖先探しや、縄文人の生活がどうだったのかが明らかにされつつある。いまさら、何故縄文人なんかに注目するのかというと、日本人のルーツがどうなのかを明確にすることで、自分たちの今の生き方が正しいのかそれとも間違った方向に進んでいるのかが解るかもしれないのだ。または、自分たちの祖先を知ることで、もしかすると自分自身が心から肯定出来たり誇りを持てたりするかもしれないのである。実に面白いことが進みつつあるのだ。

縄文人というのは、今から約1万6,500年前から約3,000年前にわたり、13,500年間もの長い期間日本で縄文文化を築き生きた民族である。日本人の祖先の一部が、縄文人だというのは定説になりつつある。小学生の時に習った縄文文化と弥生文化は、こういう歴史観であったように思う。縄文人は狩猟民族であり、稲作や畑作はしておらず、穀物を栽培し備蓄する技術もなく、自然の猛威の中で苦労していた。ところが弥生文化が起きて、稲作の技術が伝わり豊かな生活が可能になった。穀物貯蔵の技術も発達して、安定した生活を営めるようになった。こんなふうに教えられて、何となく縄文人が弥生人に進化していったと思い込まされていたのである。

ところが、歴史研究が進んでDNA解析の技術も進化すると、どうやら縄文人と弥生人はまったく別の民族だったのではないかという説が採用されつつある。つまり、縄文人は外からやってきた弥生人によって駆逐されて、地方のほうに追いやられてしまったのではないかという推測がされているのである。沖縄の人たちのDNAとアイヌのDNAが非常に似通っているらしい。また、蝦夷と呼ばれた人たちが元々日本に住んでいた縄文人の末裔で、東北には縄文の遺跡が多数見つかることから、東北地方に縄文人が南からやってきた弥生人に追いやられてしまったのではないかと見られている。

あくまでも推測でしかないが、北九州か山口県のあたりに朝鮮半島から弥生人がやってきて、縄文人を駆逐していったのではないだろうか。おそらく日本海沿いに北上して、鳥取から福井、金沢、富山、新潟、山形、秋田あたりまできて東北一円に広まったと考えられる。鳥取の方言と東北地方の方言が似ているし、京言葉と山形庄内地方の訛りが似通っているのはそのせいかもしれない。日本人のDNAには、縄文人のDNAと弥生人のDNAが混在しているらしい。ところが、東北人のDNAには縄文人のDNAの比率が高いという。ということは、縄文人の気質が東北人には色濃く残っていると想像できよう。

さて、その縄文人であるが、あまり文化程度が高くなくて、狩猟民族だから共同体も不得意だったのではないかと見られていた。ところが、歴史研究が進むと樹木の植林や栽培技術があったことが判明してきたし、ため池を作って治水をしてきたことが解ってきたのである。自分達が豊かな生活をする為でなく、何百年後の子孫の為に共同で植林したのではないかと言われている。豊かな湧き水は、縄文人が残してくれた贈り物である。争いを好まないし、闘う道具も不足し戦闘技術も低かったから、好戦的な弥生人に駆逐されたとも言える。縄文人の共同体は関係性が豊かであったから、支え合い助け合う意識が高かったと思われる。

縄文人のDNAは、個人の利益よりも地域全体の利益や将来の子孫の利益に貢献できる気質を持っていたと思われる。そして、彼らの共同体はお互いに豊かさを分け合っていたのではないかと見られる。だから、貨幣という価値も必要なく財産を蓄えるという観念も存在し得なかったとみられる。おそらくモノの豊かさよりもみんなの心の豊かさ、平和、幸福を追求していたのではないかと思われる。人間としての本来の生き方、いや宇宙の摂理に違わない生き方ではないだろうか。東北人、または沖縄、アイヌの方々には、その縄文人のDNAが色濃く残っているからこそ、自分達のコミュニティを大事に育ててきて、その共同体意識が残されているのであろう。そんな縄文人の生き方に学び、その生き方に沿ったライフスタイルを追求して行きたいものである。

毒親なんて呼ばないで!

ネット上で、酷い親のことを毒親と呼んで非難している。つい最近放映されていた『明日の約束』というフジTV系列のドラマでも、毒親がテーマでもあった。フジTVといえば、どちらかというとお笑い系やバラエティー系を得意としていて、恋愛ものドラマを主流としていたのに、最近はこんな真面目なドラマをするようになったんだと感心しながら視ていた。視聴率は低かったが、TV関係者からは高い評価を受けていた。ドラマの最後は、ちょっとあっけなかった気もするが秀作であった。仲間由紀恵や手塚理美が毒親を好演していた。好感度の高い女優に毒親を演じさせるという斬新なチャレンジも買いたい。

このドラマでも描いていたことではあるが、誰でも毒親になりうるということである。そして、毒親もなりたくてなった訳ではなくて、ある何かによりそうさせられてしまったということに注目したいのである。つまり、毒親である本人は好んで毒親であるのではなく、止む無くというのか、知らず知らずのうちに毒親にならざるを得ない状況に追い込まれてしまったといえよう。勿論、本人に何の責任もないなどと乱暴なことは言わないが、責めるべきは本人ではなく、本人に関わる周りの人間や社会全体にも責任があるということである。毒親なんて呼ばないで欲しいものである。

毒親と呼ばれる本人は、自分のことを毒親だとはまったく思っていなくて、こんなにも子どもに対する愛情が深い親は他にはないだろうと自負していると思われる。確かに、子どもを愛する気持ちが大きく、子どもが大好きで、なによりも子どもの幸福を願っているのは間違いない。そして、多大な期待を子どもにかけているし、子どもの成功を誰よりも願っているのである。ただし、それが度を過ぎてしまい、子どもに対して過干渉になり過ぎるきらいがあることは確かである。そして、子どもの平和や幸福が脅かされる事態になると、攻撃性が牙を剥くのである。

毒親は、自分が期待するような子どもにならないとみるや、その子どもには勿論のこと、学校や学友、またはパートナーに対しても攻撃する傾向にある。期待通りの子どもにならないのは、学校、教師、塾講師、家庭教師、部活の指導者、学友、先輩にあるに違いないと思い込みがちである。そうなると、クレーマーとなり学校に乗り込んでくる事態にも発展するのである。自分も学校に何度か乗り込んだ経験があるが、それは子どもの基本的人権が明らかに侵害されたと確信したからであり、子どもを守るにはそれしか方法がなかったからである。先生にも理解してもらったし、快く応じて改善してくれた。

毒親がこのような攻撃性まで発揮するような心理状態に何故なるかというと、子育てに対する根本的な価値観の間違いが指摘されよう。そもそも子育てには正解はないと言われているが、ある程度の原則的な価値観はあるだろう。まずもって、子育ては誰の為にするのかということである。毒親も含めて殆どの人は、教育は子どもの為でしょうと即座に答える。確かに、教育は子どもが主人公であり子どもが健全に育成されることを目指すのは間違いない。しかし、本当に教育の目的はそれだけであろうか。

教育をするのは子どもの為と言い切る保護者、学校関係者、文科省の役人、政治家は多い。果たしてそうであろうか。明治維新以降、戦後は特に、思想哲学を教育から排除した。軍国主義に発展してしまったという歴史から、戦後は全体主義や国家主義までも忌み嫌った。だから、国家が教育に対して及び腰になり、教育は世の為人の為に役立つ人間を育成するということを声高に宣言しなくなってしまったのである。これが完全な間違いであったと言わざるを得ない。教育は自分の為でもあるけれど、人々を幸福にして平和に生きる世の中を創る為であり、社会全体に自ら進んで貢献できる人間として成長する手助けをするのが教育の正しい目的である筈である。

学校でも家庭においても、勉強しないと良い学校に行けなくて収入の多い職業に付けないよ、と子どもを叱咤激励する。そんな教師と親たちだから、学校ではいじめや不登校という問題が起きるのである。引きこもりが起きるのも、元を正せばそんな誤った価値観に支配されている社会に魅力を感じないからであろう。毒親が生まれるのも、そんな間違った価値観を教え込まれた故である。この世の中は本来、自分の利益を求めるために存在するのではない。量子物理学、宇宙物理学、最先端の医学、脳科学、心理学、どれを取っても、世界は全体最適と関係性によって成り立っていることを証明している。間違った教育理念が、個別最適を目指していて関係性をないがしろにしているから、こんな毒親というモンスターを自ら生み出していることを肝に銘じるべきであろう。

命短し恋せよ乙女

♪いのち短し恋せよ乙女♪というのは、ご存知のようにゴンドラの唄のフレーズである。この唄を聞くと、よく思い出すのは黒澤明監督の『生きる』という名作映画である。主人公演じる志村喬が人気のない雪降る夜の公園で、ブランコに座りながら唄うこのフレーズが強烈に記憶に残っている。この唄い出しのフレーズは知っているものの、その後の歌詞は知らない人が多い。『いのち短し恋せよ乙女、朱き唇褪せぬ間に、熱き血潮の冷えぬ間に、明日の月日のないものを』が一番の歌詞である。

実に意味深い歌詞でもある。いのち短しというのは、おそらく乙女でいられる時間が限られているという意味であろう。明日にはもう若さを失うかもしれない。紅き唇も明日には色褪せるかもしれないし、熱く燃え滾る熱情だって明日は冷え込んでしまうかもしれない。だから、乙女たちよ、若いうちに恋をしなさい。という意味だろうと想像している。現代の若い女性は、恋に対して臆病なように感じる。恋愛をするのが怖くて二の足を踏んでいるように感じる。恥ずかしい自己などすべてを相手にさらけ出す勇気が持てないし、自分が嫌われたり捨てられたりすることを必要以上に怖れているような気がするのである。

恋愛をすることは、人間の成長には欠かせない重要な体験である。何故なら、恋愛を通して気付き学ぶことがあまりにも多いからである。人間としての成長には、恋愛が欠かせないと確信している。その意味は、こういうことである。付き合いが深くなり恋愛感情が高まり、相手のことが好きで好きで堪らなくなると、相手の嫌な処や醜い部分までも許せるし受け容れることが出来るのである。それは身体的な部分も精神的な部分もという意味である。誰かが、恋愛なんて錯覚だよと言っていたが、まるで錯覚のように相手のマイナスの自己も含めてすべてが好きになり愛せるようになるのである。

人間は、相手のこういう部分は好きだけど、こんな部分は到底許せないという処が必ずある筈である。ところが、恋愛感情が極限まで高まると、相手のすべてを許せるようになるから不思議である。そして、相手の悪い部分を好きになり愛せるようになると、自分の同じ悪い部分もあることを認めて許せるようになるのである。ただし、恋愛感情が高ぶりを見せているうちは良いが、少しずつ愛が冷めてくると相手の嫌な処が目につくことがある。ましてや、結婚してしまうと恋愛感情が冷めるケースも多々あり、相手の嫌な処が許せなくなることもある。結婚してもラブラブの関係が続くようにしなくてはならないのである。

さて、ラフラブな恋愛を続けるためにどうしたらいいかというと、嫌われない努力が必要だと言える。つまり、自分の至らない点や恥ずかしい所を少しでも改善しなくてはならない。恋愛期間というのは、正式な婚約をした訳ではないので、いつでも別れてもいいのである。嫌いになったら、相手は離れて行ってしまう。だからこそ、自分を高め成長させなくてはならない。特に、人間としての魅力を豊かにする必要があるのだ。包容力があり、相手のすべてを許せる度量の大きい人間にならなくてはならない。

つまり、このように恋愛が始まっても、そしてその恋愛が続くためにも、自己成長が付いて回るのである。だからこそ、人間というものは恋愛をする必要があるのである。恋愛なんか一度もしたことがないような人を見てみれば、すぐに解るであろう。相手の心が読めなくて、共感出来ないばかりか、実に冷たい感じがすることが多い。人間としての温かさが感じられない人が少なくない。だからこそ、乙女が恋をすることを勧めているのである。それじゃ、乙女しか恋をする必要がないかというと、けっしてそうではない。老若男女、すべて恋をすることを推奨したい。中高年の男女も恋をして、自己が磨かれるべきである。

結婚して何年も経ってから夫に幻滅して、もう結婚なんてこりごりだと思っている妙齢の女性が結構いると思われる。そういう方は、結婚はせずに恋愛だけをすれば良い。結婚すると、夫という安定した地位に甘んじて、話も聞かず、家事は一切せず、自分の好きな事しかしないという男性が少なくない。だから、結婚と言う形を取らずに、恋人関係や同棲関係を続けたほうがよいかと思う。そうすれば、緊張感を持って魅力ある男性として長く振る舞ってくれる筈である。人間としての成長をする為に、そして人間としての魅力を磨き続ける為にも、すべてをさらけ出せる勇気を持って、恋をしたいものである。恋せよ、すべての紳士淑女諸君!