オープンダイアローグはコミュニティケア

オープンダイアローグ(OD)が精神疾患や精神障害だけでなく、様々な社会問題の解決に対しても有効だと言える。例えば、組織における関係性の欠如から、組織の不健全化や崩壊が起きるケースがある。その際に、ODの手法を活用した日常のミーティングを徹底して行うことで、見事に関係性が復活することになる。行き過ぎた業績評価で社内競争が激烈になって、社員どうしが劣悪な関係になることはしばしば起きる。そういう時に、ODの手法でミーティングや会議をすると、社員どうしの協力関係ばかりでなく信頼関係が構築され、会社全体の業績が驚くほど回復することになる。

サッカーの日本代表がハリルホジッチの時は、選手間の連携がうまく機能せず、バラバラであった。西野監督がOD的手法で対話を重視してミーティングを活用したら、見事にチームが一丸となり、あの活躍となったのである。また、家族関係がぎくしゃくしてバラバラになることはよくあることである。この際に、ODの手法を活用して家族全体のミーティングを行うと見事に家族の関係性がよくなる。勿論、夫婦関係においてもOD的会話を心がけるだけで、見違えるように夫婦関係が改善する。会話が少なくて、親子関係が希薄化しているケースでもODが有効だ。ひきこもりや家庭内暴力が起きている家庭でも、ODで改善すると思われる。

何故ODによって社会問題が解決するのかというと、その問題がコミュニティの構成要素そのものにはなくて、その構成要素間(関係性)にこそ問題が存在するからである。様々な社会問題が起きる原因は、端的に言うとコミュニティが機能していないか、または崩壊しているからである。そして、このコミュニティの本来の機能が停止または停滞しているのは、関係性が希薄化しているか低劣化していることによる。コミュニティはひとつのシステムである。第三世代の最新システム論から言うと、家族というコミュニティが機能不全に陥るのは、関係性というネットワークが希薄化し、お互いが支えあうというシステム本来の働きが鈍るからである。

コミュニティというシステムの構成要素である個とか課・部そのものには自律性があり、オートポイエーシス(自己産生・自己産出)が働くはずなのである。したがって構成要素は、本来アクティビティ(主体性・自発性・責任性)を持ち、しかも自ら進んで自己組織化(関係性=ネットワーク化)する。さらにはオートポイエーシスにより、自らが自己進化や自己成長を遂げるのである。コミュニティというシステムは、本来自律的に全体最適を目指すのである。ところが、何らかの原因で、自己組織化の働きが鈍ることがある。そうなるとシステム全体に不具合を起こすのである。

例えば、夫婦関係の破綻や親子関係の憎悪感情など起き、家族がバラバラになり、不登校やひきこもり、または家庭内暴力などの問題が起き続ける。やがては、家庭というコミュニティは機能不全に陥る。企業も同様であり、地域もそして国家というコミュニティも崩壊してしまう。家族というコミュニティが崩壊するのは、個に問題があるからだと誤解されやすいが、そうではなくて個と個の関係性の劣悪さが問題を発生させていると見るべきである。個をいくら治療や指導教育しても改善しないのは、家族というシステムの関係性が希薄化している為に機能してしないのからである。

この関係性を良好なものに再構築することが出来たとしたら、コミュニティというシステムが本来の機能を取り戻すことが出来る筈だ。その豊かな関係性を取り戻す唯一の方法が、お互いが否定せず共感するだけの対話を続けるという、共通言語を紡ぎ出すODである。ODは構成要素である個の、一方だけの優位性を発揮させない。OD的ミーティングでは、すべて平等に取り扱うから、一方的な指示・命令・支配・制御がない。あくまでも構成要素である個が、自ら気付き学び自らアクティビティを発揮するのを待つだけである。構成要素どうしがお互いに支えあうコミュニティを創造するのである。そういう意味では、オープンダイアローグとはコミュニティケアであるとも言える。

現代ではコミュニティが機能不全に陥っていると言われている。家族の心がバラバラになりコミュニティとして機能していない。不登校、ひきこもり、児童虐待、家庭内暴力、モラハラ、などの様々な問題が起きている。企業においても不祥事が相次いでいるし、経営破綻も起きている。地域においても、お互いが支えあうという共同体意識がなくなっている。国家や官僚組織だって、モラルが欠如して収賄や文書偽造などが発生している。こういうコミュニティの機能不全をOD的な日常会話やミーティングが解決するに違いない。ODによるコミュニティケアが進化を遂げて、愛が溢れる関係性が構築され、お互いを支えあう社会が必ず実現すると確信している。

 

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オープンダイアローグが有効な訳②

オープンダイアローグ(OD)が何故有効なのかというと、ひとつは今までの精神療法や心理療法でよい効果がある部分を統合的に活用しているということもある。まずはベイトソンのダブルバインドの理論の一部を参考にしているという点である。さらにベイトソンのシステム論を発展させたイタリアのミラノ派の家族療法をも参考にしていることも特筆される。ODは、単なる診断や治療をすることを優先させることなく、あくまでも現状を認め受け入れて、その将来の不確実性を皆で共有して安心させていくのである。クライアントたちが変化するかどうかは、セラピストが決めるのではなくて、家族を含めたクライアント側が決めるという点が斬新である。

さて、今までの精神科の治療や心理療法などを行う際、あくまでも治療をする主体者となるのは医師またはセラピストである。診断し、治療計画を立て、その計画にしたがって治療をするという決定は治療者が実施する。当然、決定権は治療者が持つのであるから、治療者である医師やセラピストがクライアントよりも優位にならざるを得ない。質問したり指示したりするのも、圧倒的に治療者が優位性を保ったままに行われる。つまり、クライアントは受け身であり、主体性や自発性などのアクティビティを持つことは制限されてしまうのである。

人間というのは、自分で判断し自分で決定したものは自発的に実践したくなる。そして結果責任も自分が持ちたくなる傾向が強い。他人が決定して他人がそれを実践したとなると、あくまでも受動的になるから、そこに自らリスクとコストを持つことはない。クライアントが自ら変化するかどうかの決定を自分がするのであれば、能動的になるのは当然である。つまり自ら自己組織化をするひとつのシステムである人間は、アクティビティを自ら発揮する存在なのだ。OD療法はそれを支援するシステムなのだから、人間として自ら自己組織化するし、分断から統合へと向かうのであろう。

OD療法は詩学的であり高い文学性を持つという点が注目される。対話で重要な働きをするのは言葉である。それも単なるコンテンツではなく、コンテキストでありセンテンスである。しかも、意味深くて、なるべく長いセンテンスであって物語性を持つ。ここにナラティブセラピーの要素も含み、ストーリー性をも大切にしている点がある。古い価値観に支配されたドミナントストーリーを自ら捨てられるよう支援をする。そして、新たな価値観に基づいたオルタナティブストーリーを自ら進んで構築するのを、ただ対話を続けながら支援する。その際、セラピストはある意味「詩人」であり「ストーリーテラー」でなければならない。ODは、まさしく相手と自分を統合させ、クライアントが自ら統合したくなるような言葉を紡ぎ出すのである。

このように、OD療法というのは精神医学の重要なエッセンスを保ちながら、文学性や哲学性、さらには社会科学的な要素も取り入れている。勿論、最新の自然科学である自己組織化の理論も含んでいる。つまり、統合的な治療理論なのである。人間どうしの統合や精神の統合を目指しているOD療法が、まさしく統合そのものであるという点がユニークなのである。だから、このODという手法が有効性を持つに違いない。

今まで精神疾患や精神障害というものが脳の機能障害によって起きるものだと考えられてきたが、最新の医学ではそれが否定されつつある。脳だけの機能障害だけでなく、腸や腎臓などの各臓器、筋肉組織、骨、神経組織、など人体すべてのネットワークに障害が起きることで障害が起きることが解ってきたのである。言い換えると、統合されている人体という全体が、それを構成する各部分が分断化や孤立をした時にこそ、様々な障害が起きるということが判明したのである。当然、治療は分断化された部分を統合へと向かう支援をすることが求められるが、それがまさしくOD療法なのである。

さらに言えば、精神疾患や精神障害というものが身体的な部分の分断化だけでなく、社会的にも分断と孤立をすることによって起きているとも言える。つまり、家族というコミュニティが分断し、絶対的な孤立感を持つことで精神疾患が発症するきっかけを生み出すと考えられている。さらには、職場や地域においても社会的に孤立することも深く影響していると思われる。OD療法は、コミュニティそのものの統合を支援するのである。共通言語というものを紡ぎ出し、開かれた対話によってお互いの関係性を再構築するのだ。OD療法というのは、希薄化・低劣化してしまった関係性を『対話』によって、良好な関係性に変革する働きを持つのである。つまり、ODはコミュニティケアをも実現するのである。だから、再発がなくなってしまうのであろう。

 

さらに明日に続く

 

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オープンダイアローグが有効な訳

オープンダイアローグ(開かれた対話)療法が統合失調症だけでなく、PTSD、パニック障害、うつ病などにも有効であるし、ひきこもりや不登校にも効果があることが解ってきたという。薬物も使わないし、カウンセリングや認知行動療法なども実施しないのに、どうして有効性を発揮するのか不思議だと思う人も多いであろう。開かれた対話だけをするだけで、どうして統合失調症が治るのであろうか。何故、オープンダイアローグ療法が有効なのか明らかにしてみたい。

オープンダイアローグを以下の記述からは便宜上ODと記すことにしたい。ODを実施する場合、原則として統合失調症が発症して24時間以内に第1回目のミーティングを実施する。緊急性を有するので、クライアントの家庭にセラピストチームが伺うことが多い。セラピストは複数人であることが絶対条件で、単独での訪問はしない。何故なら、ミーティングの途中でリフレクション(セラピストどうしの協議)を行うからである。そして、それから連日その家庭に同じメンバーが訪問して、患者とその家族を交えて10日から12日間ずっとミーティングを実施する。

ODで派遣される医師やセラピストなど治療者は、診断をしないし、治療方針もせず、治療見通しもしない。そして、そのあいまいさをクライアントが受け入れられるように、安心感を与えることを毎日続ける。ODでのミーティングは開かれた対話を徹底する。そして傾聴と共感を基本として、患者とその家族にけっして否定したり介入したりしない。一方的な会話(モノローグ)ではなくて、必ず双方向の会話(ダイアローグ)にする。開かれた質問を心がけて、必ず返答ができる質問にする。また、セラピストが逆に質問されたり問いかけたられたりした場合、絶対に無視せずに必ずリアクションをするということも肝要である。

OD療法では、患者には薬物治療を実施しない。どうしても必要な場合でも、必要最小限の精神安定剤だけである。ただひたすらに、開かれた対話だけが続けられるのである。どうして、それだけで統合失調症の症状である幻聴や幻覚がなくなるのであろうか。そもそも、幻覚と幻聴が起きるのは、現状の苦難困難を受け入れることが出来なくて、想像の世界と現実の世界の区別が難しくなるからと思われる。ましてや、この幻聴と幻覚を話しても、家族さえも認めてくれず、自分を受容し寛容の態度で接してくれる人がまったくいないのだ。他者との関係性が感じられず、まったくの孤独感が自分を覆いつくしている。

こういう状態の中で、OD療法は患者が話す幻聴や幻覚を、否定せずまるごと受け止める。その症状の苦しさ悲しさを本人の気持ちになりきって傾聴する。患者は自分の気持ちに共感してもらい安心する。さらに、家族にも患者の言葉をどのように感じたかをインタビューをして、患者の気持ちに共感できるようサポートする。家族に対しても、けっして介入しないし支配したり制御したりしない。家族の苦しさや悲しさに寄り添うだけである。

そうすると実に不思議なのであるが、患者自身が自分の幻聴や幻覚が、現実のものじゃないかもしれないと考え出すのである。患者の家族も、患者の幻覚や幻聴が起きたきっかけが自分たちのあの時の言動だったかもしれないと思い出すのである。さらには、患者と家族の関係性における問題に気付くのである。お互いの関係性がいかに希薄化していて劣悪になっていたかを思い知るのである。家族というコミュニティが再生して、お互いの共同言語が再構築されるのである。誰もそうしなさいと指示をしていないのに、患者とその家族が自ら変わろうとするのである。

勿論、仕事や地域との共同体に問題があることも認識する。いかに地域や職場におけるコミュニティにおける関係性にも問題が存在することに気付くのである。例えコミュニティの問題が解決されなくても、自分自身には問題がなく、そのコミュニティにこそ問題があると認識しただけで、安心するのである。家族の関係性の問題が解決されて、地域と職場のコミュニティの問題を家族間で共有し、お互いにそれを共感しただけで症状が改善するのである。まさに化学反応のような変化が起きるようである。人間というのは、実に不思議なのであるが、関係性が豊かになり共通言語を共有できた時に、幸福感を感じるものらしい。オープンダイアローグというのは、まさにこのような関係性の再構築が可能になるので、症状が収まるだけでなく、再発も防げるのである。

続きはまた明日に

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ダイアローグが西野ジャパンを活性化

サッカー日本代表西野ジャパンがロシアワールドカップで大活躍をした。戦前の予想では、活躍は期待出来ないと思われていたのに、決勝リーグまで残りベルギーと互角に渡り合えたのは、西野監督の采配とマネジメントの賜物であるのは間違いない。あんなに短い期間によくチームをまとめあげたし、選手の掌握によくぞ成功したなと感心するばかりだ。西野監督のチーム管理が成功を収めた一番の要因は、彼と選手間の徹底した『対話』にあったと言われているが、まさしくその通りだと思われる。

監督に就任してから、各選手と徹底して対話したと伝えられている。しかも、選手たちをリスペクトして、彼らの言い分にしっかりと耳を傾けて、取り入れるべき戦術の参考にもしたと聞き及んでいる。そして、選手たちとの心を開きあった対話によって、選手と監督との『関係性』が非常に良くなり、揺るぎない信頼関係が構築されたのである。監督が考えていることをチーム全員が理解して、それを一丸となって実行できたのは、対話によって彼らの『共通言語』が創造できたからに他ならない。

スポーツのチームにおいて、強くなったり成果を残したりするには、チームワークが大切であるのは言うまでもない。良好なチームワークを作り上げるには、コミュニケーションが大事だというのは誰にも共通した認識であろう。だからこそ、常日頃からの対話が必要なのである。対話というのは、モノローグ(一方的な会話)であってはならない。ダイアローグ(双方向の会話)でなければならない。ともすると、監督と選手間というのは、圧倒的に監督が優位な立場であるが故に、モノローグになってしまうことが多い。上位下達という形である。これでは、共通言語が形作れないから対話にならないのである。

日大のアメフト部のコミュニケーションは、モノローグであった。志学館大学のレスリングも同様である。ハリルジャパンも、言葉の壁もあっただろうが、ダイアローグでなかったのは確かであろう。野球の巨人がカリスマの監督を据えて、優秀で実績のある選手を金でかき集めても、実績を上げられないのは、実はチーム全体の共通言語を持たないからである。FIFAランク61位のチームが決勝トーナメントに残る活躍が出来たのは、ダイアローグ(対話)のおかけであろう。

日本人の素晴らしい精神文化を形成した根底には、「和を以て貴しとなす」という聖徳太子が提唱した価値観があると思われる。個の意見も大切であるが、お互いの意見を尊重しあい、共通の認識や意見に集約するまで、徹底した対話を続けるという態度が大切であろう。西野監督は、まさにそうした対話を続けることで、チームをひとつにまとめあげたのである。勿論、監督のリーターシップも必要である。最終的には、監督が重要な決断をしなければならないし、すべての責任を取らなければならない。今回のポーランド戦は、まさに西野監督が苦渋の決断をして、その責任を一身に背負った。あれで、チームはひとつにまとまったのである。

西野監督が、オープンダイアローグという心理療法の原理を知っていたとは到底思えないが、彼はチーム内の対話をまさしくオープンダイアローグという手法を使って活性化していたのには驚いた。各選手の話を傾聴して共感したと言われている。監督としての優位性を発揮せず、対等の立場で対話したらしい。しかも、否定せず介入せず支配せずという態度を貫いたという。このような開かれた対話をされたら、誰だって西野監督のことが好きになり、信頼を寄せる。このような対話を続けると、選手たちは自ら主体性を持ち、自発性も発揮するし、責任性を強く持つ。つまり、アクティビティを自ら強く発揮するのである。

ともすると、組織のリーダーは圧倒的な権力を持つことにより、構成員を支配し制御したがる。こうすることで、ある程度の成果は出せるものの、継続しないし発展することはまずない。大企業の著名経営者が陥るパターンであり、中小企業のオーナー経営者が失敗するケースである。家庭において、圧倒的な強権を持つ父親が子どもを駄目にするパターンでもある。ひきこもりや不登校に陥りやすいし、弱いものをいじめたり排除したりする問題行動をしやすい。組織をうまく機能させるには、開かれた対話、つまりオープンダイアローグの手法により、共通言語を形成し関係性を豊かにすることが必要である。西野ジャパンが対話によって成功したように、コミュニティケアを目指せばよいのである。

※スポーツチームのリーダーや組織の管理者、または企業のマネージャーがオープンダイアローグを学びたいと希望するなら、イスキアの郷しらかわにおいでください。組織の活性化が実現できます。1泊2日のコースで丁寧にレクチャーいたします。勿論、家族とのコミュニケーションが苦手だと感じるお父様も、是非受講してください。

ひきこもりが解決する方法

どんなにこじれてしまったひきこもりや不登校でも解決する共通の方法なんて、絶対にないと思っている人が殆どであろう。確かに、ひきこもりや不登校の原因やきっかけはそれぞれ違っているし、当事者や家族の考え方や置かれた環境も違っているのだから、そう思うのも無理はない。高名な精神科医やカウンセラーにも相談して治療を受けたし、改善に効果あるといういろんな方法を試してみたことであろう。しかし、今度は改善するかもしれないという期待は、残念ながらことごとく裏切られたに違いない。ましてや、ひきこもりや不登校の子どもをカウンセリングや精神科医の元に連れて行くことさえ困難なのだから、当然である。

ひきこもりや不登校の原因が、何となく親と子育てにあると思っている保護者が多いことだろう。その判断は、あながち間違いではないと思われる。しかし、それがすべての原因ではない。もっと複雑な原因やきっかけが絡み合っている。その絡み合った糸をほどけさせて、二度と絡み合わないようにすることが求められている。本当の原因を探り出して、その原因をひとつずつ根気よくつぶすしかないと、思い込んでいる人も多いに違いない。精神科医やカウンセラーはそういうふうに思っている。だからこそ、家族のカウンセリングを重要視している。しかし、そんな家族カウンセリングをいくら受けたところで、改善しないことが多いのも事実である。

ましてや、家族カウンセリングを受けるケースであっても、父親が自ら進んでカウンセリングを受けることはまずない。母親が家族カウンセリングを受けて、父親も一緒に受けるようにカウンセラーから勧められても、断ることが多い。よしんば、父親がカウンセリングを受けたとしても、カウンセラーの指示や指導に素直に従うことはないであろう。自分には我が子のひきこもりの原因がないと思い込んでいるし、母親が原因だと思い込みたい自分がいるからである。さらには、既に離婚して父親が不在だというケースも少なくない。

家族カウンセリングを行うカウンセラーや精神科医にも、家族カウンセリングが上手く行かない原因がありそうだ。まず、カウンセラーや精神科医というのは、子どもがひきこもりや不登校になった原因を追究したがる傾向がある。カウンセラーや精神科医というのは、何か家族の誰かに問題があると、その原因を分析して問題解決をしたがるのである。そして、家族の誰それにこういう問題があって、これがひきこもりの原因なので、それを解決しなさいと深く介入し、指導を行う。これが絶対にやってはいけないことなのである。

何故いけないかというと、そのように指摘されて指導された人間の気持ちになってみるがいい。そんなことを言われて、「はいそうですか、私がいけなかったのですか、直しますね」と素直に認めて受け容れる人がいるであろうか。そんな謙虚で素直な人なんて、絶対にいない。特にひきこもりを起こしている子どもの保護者は、そんなことは認めたがらない。もし、素直に認めて「解りました、努力します」と答えたとしても、それはけっして本心からではない。その証拠に、それ以降はカウンセラーの言うことを聞かなくなるし、行かなくなるに違いない。家族カウンセリングが失敗する典型例である。

人間というのは、自分に非があることを他人から指摘されるのを極端に嫌うものである。ましてや、図星のことを指摘されるのは怖いことだ。特に、変なプライドを持つ人間ほど、この傾向が強い。社会的な地位や名誉を持つ人間や教養の高い人ほど、他人の指摘に反抗したがる。こんなことを赤の他人から指摘されたとしたら、それを素直に聞き入れるようなおめでたい人間なんていない。だから、絶対にそんなことを指摘してはならないし、深く介入し、その保護者を無理に変えようとしてはならないのである。

ひきこもりや不登校をしてきた当事者は勿論のこと、その保護者たちは支配され制御されることを嫌う。それは人間なら当たり前のことである。全き自由でありたいと思うし、誰かの操り人形で生きるなんて、まっぴらご免である。ましてや、人間という生き物は、本来アクティビティーを持つ生き物である。誰からか命じられて行動するのは苦手で、主体性・自発性・自主性を自ら発揮したいのである。故に、当事者と保護者が自分のこだわりや誤りに気づき、自ら変化することを選択したいと本心から思うようになれば、ひきこもりも解決する道筋が見えてくる。現在考えられるその唯一の方法とは、オープンダイアローグ(開かれた対話)という手法である。

 

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甦る「仁」の心

戊辰戦争後150年の節目に当たる今年は、あちこちで記念事業が開催されている。当地白河市では、「甦る仁の心」というキャッチフレーズを採用して、シンボルマークを制定してPRしている。会津藩と仙台藩の東軍の武士は、戊辰戦争において白河の地で新政府軍と戦った。白河は激戦地となり、多くの東軍と新政府軍の兵士が命を落としている。明治政府側が戊辰戦争後に作り上げた歴史観によって、会津藩と奥州列藩は賊軍という汚名を着せられてしまったが、あの戦争は巧妙にねつ造されたテロ内戦であることは歴史研究家が明らかにしている。正しい歴史観によって戊辰戦争を再評価する動きも加速し、白河市も「甦る仁の心」と命名して先人の偉業を称えている。

白河市内を歩くと、仁と書かれたポスターや幟があちこちで掲げられている。自分の名前の「仁」を見つけるにつけ、何となく恥ずかしくなる。この仁の心というのは、戊辰戦争の時に白河地方の一般市民が取った素晴らしい行動から来ているという。東軍と新政府軍の分け隔てなく、戦死者を丁寧に葬り、その後も慰霊碑を立てて英霊たちを慰めていたという。戊辰戦争における戦死者のうち、長州藩など新政府軍の戦死者だけを祀った靖国神社の全身である東京招魂社とは大違いである。なお、靖国神社には西郷隆盛も祀られていない。白河の人々の、分け隔てのない慈悲深くおもいやりのある行動を称えて、甦る仁の心としたという。

元々、この『仁』という語句は、中国の儒教における孔子や孟子が人間として生きるうえで大切な心だと説いた。人が持つべき仁義礼智信の五徳の中でも、仁が最高位の徳だと主張した。仁とは慈悲の心、または人間愛のことを言う。人間として持つべき思いやりの心を指していると思われる。先年、仁JINというTVドラマが放映され人気を博した。あの人間愛にあふれた医術こそが、現在の医療界には感じられないが故に、高視聴率を得たのではないかとみられる。現代で忘れ去られてしまった仁の心を甦らさせたいと、かのキャッチフレーズになったのかもしれない。

ところで、この仁という字は単なる愛だけを示したのではないらしい。仁とは二人の人間を表していて、人と人の間の豊かな関係性ということを示しているという。つまり愛とは、人と人の間に生じるものであり、単独では存在しないということである。さらに、二人の人間というのは人間の心の中に存在する二面性も表しているとも言われている。つまり、人間の心の中に存する、善と悪、美と醜、正と邪、汚濁と清澄、裏表の関係にあるものを言うらしい。どんな人間にも、マイナスと自己とプラスの自己がある。邪悪な心や醜い心があることを認め受け入れて、その自我にある穢れた心さえも愛さないと、正しくて揺るがない善の心を発揮できないものである。つまり自我を超越した仁愛を発揮できないという意味であろう。

とは言いながら、この仁の心を無理なくあるがままに発揮できる人間がどれだけいることだろう。言い換えると、仮面を被っていて善人ぶった人間は大勢いるが、仁愛にあふれた真の善人はそうはいないということである。善人の仮面を被った悪人は、悪人よりも始末が悪い。自分の中に存在する悪を認めず受け入れていない仮面の善人ほど、社会にとっては邪悪な存在になることが多い。自分を守るために平気で嘘をつくし、人が見ているところでは善人ぶるが、誰も見ていないところでは平気で人を裏切る。忖度をする官僚や、その官僚に平気で嘘をつかせる政治家がそれである。

仁の心を現代に甦らせることは、一筋縄では行かないであろう。何故なら、客観的合理性の教育を受けた現代人は、惻隠の心が育っていないからである。か弱きものや小さきものへの愛を発揮することの大切さを、近代教育では教えてこなかったからである。行き過ぎた競争は、利己的で自己中心的な人間を生み出した。まさしく仁の心を踏みにじるような教育をしてきたのである。このような個別最適の間違った価値観にまみれてしまった人間に、関係性の大切さや全体最適の大切さをいくら説いても受け入れてもらえないだろう。しかし、せっかく「仁」という名前をもらった自分だからこそ、この仁の心を広めて行く使命を担っているのだろうと認識している。険しい道であるが、粛々と歩んで行きたい。

カジノ法案は本当に成長戦略か?

IR推進法案がとうとう衆議院から参議院の審議になる。IR推進法案とはカジノ法案とも呼ばれていて、問題が山積みの法律なのであるが、短い時間の審議であっという間に承認された。このカジノ法案に前のめりであった維新と、維新を取り込みたい安部自民党の思惑が一致した結果であろう。それにしてもこんなにも問題があるのにも関わらず、法案に賛成した公明党の姿勢にも疑問がある。社会的弱者の味方であると公言して憚らない公明党だが、実は強者の代弁者であるということが判明したとも言える。

カジノ法案は、ギャンブル依存症を増やすことになる。その歯止め策として、法案が部分修正されたが、焼け石に水である。何年か後には厳しい規制のためにカジノの運営が暗礁に乗り上げ、それをなんとか救済しようとして、法案の再修正が実施されて規制がなくなるのは目に見えている。優秀なキャリア官僚たちであるから、IR推進法案がやがて日本の荒廃を生み出してしまうことは予想している筈である。政治家の暴走を食い止める役割を担うのが官僚なのに、官邸に言われるまま行動する官僚の体たらくぶりに落胆している。

それにしても、IR推進法案は成長戦略のひとつだと胸を張る政治家たちの不見識に驚くばかりである。成長戦略とは、本来は実質経済の成長をどう導くかというものである。三本の矢に例えていて、円安誘導の金融政策、そして規制緩和、さらにはそれに伴う実質経済の成長だと主張する。しかし、いつまで経っても三本目の矢は的を射ていないのである。実質経済はけっしてよくない。庶民の生活は一向に良くならないし、国民の消費意欲が沸かず消費支出が伸びていないことからも解る。2%の物価上昇率を目指した日銀のインフレターゲットは白々しく聞こえる。円安傾向と株価の上昇は、一般国民にとっては何の恩恵もないばかりか、かえって円安による石油製品などの値上げの影響で国民生活が苦しくなっている。

そんな中で、IR推進法案を通して景況を演出しようとしているのだが、逆効果になるのは目に見えている。まず、IRの設置により外国人観光客を増やす目論見であるが、カジノを目玉にして外国人観光客が増えるかというと、そんなことはまったくあり得ない。韓国での失敗がそれを証明している。韓国の外国人観光客を目当てにしたカジノは、現在閑古鳥が鳴いている。そればかりかギャンブル依存症の韓国民が住居まで失い、ルンペンにまで身を落としている始末である。日本版のカジノも同じ状況を招くことが予想される。

もうひとつカジノ法案には問題がある。カジノの運営ノウハウを国内の業者が持たないから、カジノの運営は外国企業に任せるというのである。ということは、カジノで上げた収益はすべて外国に持ち出さられるということである。いくらかの還元が地方財政へあったとしても、収益が国民には行かないのである。何のためのカジノであろうか。大きなショッピングセンターが地方に進出して、利益が本社に吸い取られている。地方に工場が進出して、利益が本社に吸い上げられて税収は本社所在地で納められる。地方が経済的に疲弊している構図とまったく同じではないか。

都市部から地方に進出した大資本のパチンコ店が、地元資本のパチンコ店を潰している。地方の人々から、なけなしの資産を巻き上げている。パチンコ店では、年金支給日になると大勢の高齢者が列をなしている。パチンコによって生活費を巻き上げられた主婦がサラ金に手を出してしまい、やがては借金返済のためにデリヘル産業などで働かされている。経済的だけでなく家族関係まで崩壊させられている家庭がある。カジノが出来たら、こんな崩壊家庭が益々増えるのは目に見えている。こういうギャンブル依存症による貧困家庭の現実なんかを知ろうともしない政治家だから、こんな悪法のIR推進法案を通そうとしているのであろう。

政治家というのは経済的に恵まれた人間がなっている。特に政権与党の政治家は、二世議員が多いし裕福家庭の出身が多い。貧困家庭に育って苦労した人間の気持ちなんて解ろうともしない。だから、社会的弱者を救う政治を実施できないのだ。政治というのは社会的弱者や貧困が世代間連鎖しないように、経済的豊かさの再配分をする役目を担っている。IR推進法案を通すというのは、その役目を政治家が放棄するようなものである。カジノ法案は、成長戦略を実現しないばかりか、絶対的貧困家庭を益々増やすことになろう。国民のためにならないIR推進法案は、絶対に成立させてはならない法案である。

議論にならない国会審議

国会の審議をTV中継で見ていると、イライラ感が半端ない。まるで議論が噛み合わないからである。野党の質問も悪いのであろうが、その質問に対して政府与党と官僚はわざと論点をずらして答弁することが多いのである。実に姑息というのか、卑怯というのか、あざといやり方である。いつからこんな国会審議になってしまったのだろうか。安倍内閣以前も、実はこのような論点を外すやり方があったのは間違いない。しかし、すべての審議がそうではなかった。これは拙いぞという場合に限り、巧妙に逃げるケースもあった。しかし、現在の殆どの審議が野党の質問者を小馬鹿にしたような答弁になっている。国会軽視であり、許せない。

そもそも国会審議というのは、真剣勝負であってほしいものだ。堂々と正面からぶつかって渡り合うべきである。国民を代表しているという自負があるなら、姑息な手段を使って逃げずに正々堂々と論戦を繰り広げるのが筋だ。野党の質問者だって、物事の本質を見極めての議論をしていないように感じる。相手の失言を取り上げて批判したり追及したりすることは、見苦しい限りである。相手の失策を待つなんてやり方は、実に情けない。それにしても一番違和感を持つのは、相手の質問を敢えて真正面から取り合わず、わざとはぐらかす答弁の仕方である。

内閣総理大臣と言えば、国家を代表する人間である。国民のお手本となる話し方や態度が望まれる。小さい子どもたちも、見ているのである。そういう子どもたちが、あんな答弁の仕方を見ていたら、真似をしないとも言い切れない。教師から何らかの質問をされて、うまくはぐらかすことが良いことなんだと児童生徒が学んでしまったら大変なことである。親から何か問い質されて、質問の趣旨をわざと誤解してのらりくらりと答えるような子どもに育ったとしたら、大問題である。上司から厳しい質問を受けて、わざと論点を外す受け答えを部下が続けたら、その組織は崩壊してしまう。

江戸時代の政治家であり官僚でもある武士は、絶対にそんなことをしなかった。武士たるものは、大きな権力を握っていたからこそ、卑怯なふるまいをしてはならないと自分自身を戒めていた。中には、強権をかさにきて卑怯なことをした武士もいたであろうが、圧倒的に少数であった。悪いことをして露見したら、潔く認め腹を切った。さらに、自分自身が悪いことをした訳でもないのに、自分の部下が不祥事を引き起こしたら、それは自分の監督に問題があったと認め、その責任を自ら取ったのである。

ところが現政権のやり方と言ったら、実に情けない限りである。財務省の不祥事に対して、悪いことをした本人に責任を押し付けて、自らの監督責任を放棄した。さらに首相と政権を守ろうとしてウソをついたり公文書を改ざんしたりした官僚を見殺しにしたのである。自分の地位と名誉を守るために、自分を守った人を裏切るような卑劣な行為をする人に政権を任せてよいのだろうか。少しばかり経済状況を良くしたからと言っても、人の道を外れるような行為をする人間に政権を担う資格はない。そういえば、自分の部下が嘘をついたと平気で記者会見をする大学の理事長がいたが、感覚がおかしい。そんな理事長に仕える職員が可哀そうである。

国会審議で野党の質問時間を短くしようと画策するというのも情けない。何も悪いことをしていないというのなら、正々堂々と論戦を張ればよい。長く審議時間をかけると、拙いことが暴かれるのであろうか。野党の質問時間をどんどん制限して、詰まらない与党の質問時間を長く設定するという姑息な手段はいただけない。こんな酷い政権は、今まで記憶にない。自民党の議員たちは自浄作用が働かなくなったのだろうか。こんな卑怯な政権と官邸に対して何も言えないというのは実に情けない。自民党の長老やご意見番たちも、権力者に何も言えないとしたら腐っている。

正しくて活気のある国会審議を期待したい。その為には、野党も質問に対する工夫が必要である。逃げられないように誤魔化しができないような質問にしなくてはならない。自分の意見をとうとうと述べるような、自己主張の強い長い質問ではなくて、短くて核心を突く質問でハイかイイエで答えられるようにするのが望ましい。YESかNOで答えられるように、追及するしかない。元々、そんな逃げの答弁をすること自体、限りなく怪しい。嘘をついていることが明らかであるのは、賢い人間なら誰でも解る。やましいことがなければ、あんな卑劣な答弁なんて必要ないからである。聞いていて面白くわくわくするような国会審議にしてほしい。

 

富山の交番襲撃事件に思うこと

富山市の交番が襲撃されて、警察官が刺されて殉職し、奪われた拳銃で警備員が射殺されたという痛ましい事件が起きた。亡くなられた方々のご冥福を慎んで祈りたい。それにしても、残忍な事件が相次いで起きている。ついこの前は、新幹線内で悲惨な殺傷事件が起きた。共通しているのは、不登校からひきこもりの経過をした青年で、家庭内暴力があったらしいとのことである。くれぐれも言っておきたいが、ひきこもりで家庭内暴力を奮う若者がすべて危険だとは、絶対に思わないでほしい。そんな色眼鏡で見ることだけはしないようにと、強く言っておきたい。

彼らが悪くないとは言わないが、特別に凶悪な人間だとは思ってほしくない。マスメディアは、このような凶悪事件が起きる度に、いかに彼らが異常だったかのような報道をする。そして、自分たちは正常だと言わんばかりに批判するし、彼らの親に対しても攻撃的な報道が行われる。果たして、そんな報道だけで良いのだろうかと、凶悪事件の報道に接する度に思ってしまう。こんな凶悪事件が起きると、犯人からの攻撃からどのように守るかという再発対策だけを取り上げる。本来は、こういう悲惨な事件を起こさないような社会を創造するために、コミュニティケアについて議論すべきだろうと思う。

凶悪事件を起こした家庭では、家族というコミュニティが機能していなかったと見られている。おそらく親子関係は希薄化、もしくは劣悪なものになっていたように言われている。さらには、親どうしの夫婦関係にも問題があったとも想像できる。そうなってしまった原因は、彼ら家族だけに責任がある訳ではないと思える。社会全体や地域全体のコミュニティに問題があったように思えて仕方ない。コミュニティ(生活共同体)は、それを構成する人のお互いの関係性によって成り立っている。その個人に問題があるのではなくて、その関係性にこそ問題の根源があると見るべきだろう。

不登校とひきこもり、または生きづらさを抱える社会人とその家族を支援していて感じるのは、その当事者だけでなく、そこに生きている社会というコミュニティ、学校や職場、または家族の関係性にこそ問題の本質が隠れているという実感を持つことが多い。つまり、関係性が希薄だったり劣悪だったりした時に、いろんな問題が起きているのである。ということは、この関係性を改善することが出来れば、諸問題が解決する方向に向かうと確信している。言い換えると、問題の責任は本人とその家族だけでなく、社会を構成している我々にも責任があるという訳である。

新幹線殺傷事件や交番襲撃事件の犯人たちは、この社会に相当な生きづらさを抱えていたに違いない。そして、この生きづらい社会に適応するのが困難であり、相当悩んで苦しんでいたに違いない。そんな彼らを助けてあげることが出来なかった我々に責任がないとは言い切れないと思われる。甘ったれたことを言うな、みんな生きづらさを抱えても頑張っているんだという方もいるに違いない。確かにその通りである。それでもみんなその生きづらさを抱えながらも懸命に仕事したり学業に精を出したりしているのだ。だから、人のせいにしてはならないというのも正論なのである。

だとしても、こういう生きづらさを抱えて、犯罪行為を起こしてしまうまで、社会に対する怒りを増幅させる前に、誰かが救えなかったのかという思いがある。子どもがひきこもりであり家庭内暴力で悩んでいる家庭のご両親から相談を受けることが多い。そういうケースの場合、家族の関係性に問題を抱えていることが多く、特に父親が子どもに対して嫌悪感を持つことが多い。あまりにも父親が子どもの生き方を認めたがらず、子どもの言い分に耳を傾けないケースが多いのである。確かに育てにくい子どもだということがあるが、あるがままに子どもを敬愛して信頼する気持ちが少なく、良い子でなければ愛さないと頑固な態度を取ることが多い。

そして、父親の子どもに対する見方を、そのまま母親が認めて、同じように対応していることが多い。こういう場合、今までどのように治療していたかというと、家族療法という形で、家族に対するカウンセリングを実施するケースが多かった。ところが、こういう問題の家庭において、父親は聞く耳を持たないし、そもそも家族カウンセリングを拒否することが多い。いくら周りの人が助けの手を差し伸べても、その助けを受け入れることは少ない。このような場合、オープンダイアローグこそが有効だと確信している。否定せず、介入せず、あるがままを認めて受け入れる「開かれた対話」であるなら、両親も自ら変化するに違いない。このようなコミュニティケア的支援を、社会がして行く責任を負っているのだと強く思っている。

 

※イスキアの郷しらかわでは、オープンダイアローグの研修会を開いています。また、求めがあれば、社会的コミュニティケアを支援いたします。お子さんのひきこもりや家庭内暴力でお困りの方は、お問い合わせください

薬物治療をしない精神科医

最近、原則として薬物治療をしない医療を実践する医師が増えてきている。実に好ましい動きだと思う。しかし、これはごく一部の小児科医や内科医だけであり、外科系の医師はそんなことは絶対に無理だと認識している。ましてや、精神科の医師は薬物投与なくしては、精神疾患を治療出来ないというのが共通認識であろう。医師はもちろんのこと、患者も薬物治療をしないで治すことなんて不可能だと思うに違いない。日本の精神医療で、薬物を用いないで治療を施す医師なんている筈がないと思っていた。ところが、実際に薬物治療をしない精神科医に、昨日出会ったのである。

実に不思議な出会いだった。たまたま一昨日フェイスブックのイベント開催のお知らせが入り、実に面白そうな内容だったので急遽参加することにした。インド古来の医療であるアーユルヴェーダを活用した精神医療の研修会だった。茨城県袋田病院の新人ナースの為に研修会を開催するに当たり、一般の人々にも聞かせたいとアーユルヴェーダの診療補助をしている女性の方が講演を行ったのである。その講演内容も興味深いものであったが、実際に診療をしている医師も同席していたのである。袋田病院の精神科医でアーユルヴェーダの精神科医療を実践している日根野先生がその人である。

日本の医療保険制度というのは、精神医療においては薬物治療を前提にして制定されている。院外処方だから患者を薬漬けにしても、精神科医の収入は増えないと主張する医師もいる。しかし、薬物治療をしないと一人当たりの診療時間がとてつもなく必要になるから、ある程度の診療人数をこなせなくなり、診療報酬がもらえなくなる。そんな馬鹿なと思うかもしれないが、日本の医療保険制度は実に愚かな厚労省の官僚によって制定されているのである。故に、薬物治療をしない精神科医は病院では冷たい目でみられる。医療経営が成り立たないのだから、当然である。

例えば、通院の精神療法は1時間行ったとしても診療報酬は400点(4,000円)だけである。精神科医の一時間時給は、まず10,000円を下回ることはない。だとすれば経営上6,000円のマイナスとなる。臨床カウンセラーの資格者がカウンセリングを1時間弱実施すれば、10,000円以上の費用を請求される。それよりも精神科医の報酬が少ないなんてことがあり得ない。しかし、厚労省が規定した精神科の診療報酬算定基準ではそうなっている。だから、精神科医は患者数をこなせるように、薬物治療に頼るしかなくなるのである。国の制度が悪い。精神科医療は、民間営利には馴染まなく、国立病院が担うべきであろう。

袋田病院の日根野先生は、敢えて問題がある保険診療の範囲内で治療を実施されている。自費診療では、患者負担が大き過ぎるので、診療機会を奪ってしまうからと思われる。患者さんに優しいから、採算を度外視してていねいに診察していらっしゃる。おひとりの患者さんに再来でも基本1時間の診察をしていらっしゃるという。薬物は用いず、アーユルヴェーダを基本にした精神療法や心理療法だけの「対話」で診療をされている。それも患者さんを否定することなく、介入することなく、ただ患者さんの尊厳を認め受け入れるだけの「開かれた対話」で症状を緩和されているという。素晴らしい理想の診療である。

このような採算度外視をするような診療を許している、袋田病院という民間病院の経営者も素晴らしい。的場院長を初めとして、職員一丸となって患者ファーストの医療を実践しているからと思われる。こんな素敵な精神病院が、茨城県の片田舎の町にあるというのが奇跡とも言える。日根野先生以外の精神科医は、近代医療の治療を実施しているらしいが、患者さん本位の治療を基本としているのは間違いないだろう。こんな精神科クリニックが増えてほしいものである。

この袋田病院の日根野先生の行う、アーユルヴェーダを基本にした薬物投与のない診療は残念ながら週1回だけとのこと。患者さんが増えれば、病院側も診療日を増やしてくれるかもしれない。いきなり診察を求めて病院に行っても、予約診療なので診察をしてもらえない。事前に病院の担当者に電話して、予約をしてから診察してもらうことになる。人気があるので2か月先くらいになるかもしれないとのことだが、希望者が多くなればもう少し早く診察してもらえる可能性もあるだろう。茨城県県北の大子町にある袋田病院が、日本の精神科医療を大胆に変えて行くフロンティアになる可能性を秘めている。実に楽しみである。