エディプスコンプレックスが自立を阻む

 エディプスコンプレックスという心理学用語を、最近の精神医学界隈では使用することが少なくなってきた。マザーコンプレックスという用語も使わなくなっているので、その対語であるエディプスコンプレックスも話題に登らなくなったのも当然だ。マザコンというのは、母親に対するコンプレックスであり、エディプスコンプレックスというのは父親に対するそれである。ファザコンという用語もあるのに、どうしてエディプスコンプレックスというのかというと、ファザコンよりも強烈で敵対心がある言葉だからだろう。

 ファザコンというのは、どちらかというと女の子が父親に持つ憧れや依存心を意味する。エディプスコンプレックスというのは、男の子が父親に対して殺意までも持つような敵対心を抱えたコンプレックスを言う。どうしてエディプスと言うのかというと、ギリシャ神話であるオイディプス王(エディプス王)の悲劇から名づけられた。その神話とは、オイディプス王子が父親の王様のお妃である母親に横恋慕して、父親を殺して王様になり、母親を自分の妃にしたという悲劇からの命名だという。

 男の子というのは、思春期を迎えると父親が克服すべきライバルでもあり、潜在意識で好意を持つ母親の恋敵と思い込むケースが少なくない。ましてや、人生でも成功者であり厳格な性格を持つ父親なら、殺したいほど憎むケースも多い。特に、自分のように人生の成功者たりえるように、子どもを見下して支配して強く干渉するようなら、その支配から逃れるには殺すしかないと思い込むこともあろう。逆に、父親の支配から逃れないと諦め屈服するようなら、父親の操り人形のようになり、精神的に自立出来なくなることも少なくない。

 実はこういう親子関係に陥り、自立が出来なくて依存関係を継続してしまう若者が増えているのである。父親を憎みながらも屈服してしまうという無念さとつらく苦しい葛藤に、子どもは悩み苦しむ。特に完璧さや潔癖さを求めていて、それを自分の子にも要求し続ける父親に育てられると、子どもは逃げ場がなくなる。父親の見えない圧力に押し潰されることが少なくない。完全無欠な父親は、子どもにとって乗り越えられないあまりにも強大な存在であり、逃げることも闘うことも出来ない場合は、子どもは自立できなくなり閉じこもる。

 子どもは、本来は父親を乗り越えて自立していく。父親を潜在意識下で殺して存在を消してでも克服していくのである。それなのに、何もかも完璧でスキがなく強過ぎる父親では、逆に返り討ちになってしまい、乗り越えられる筈がない。だから、父親は子どもの前で完璧な父親を演じてはならないし、あまりにも強い圧力を掛け続けてはならないのである。時には、だらしなく不完全な父親を演じることも必要である。お酒を飲んでグズグズになったり、情けないような姿も見せたりすることで、子どもは安心して父親を乗り越えられるのだ。

 さらに、完璧な大人の姿だけではなくて、時にはインナーチャイルドを発揮して天真爛漫で無邪気な父親の言動も見せなくてはならない。インナーチャイルドをけっして見せない親に育てられると、子どもがインナーチャイルドを出してはいけなんだと思い込む。そうすると、本当の自分をさらけ出せなくて、自分らしさを楽しめなくなってしまう。これも、精神的な自立を阻む要因になってしまう。人間が大人になっても遊び心を失わない為には、インナーチャイルドを慈しむ心が必要なのである。

 このように子育ての中で父親が果たす役割は、想像している以上に大きい。子どもは父親の後ろ姿を注目していて、模倣をしながら成長していくし、その父親を乗り越えて自立していくのである。だからこそ、父親はエディプスコンプレックスを子どもが乗り越えられるような配慮をしなくてはならないのである。そして、父親たるものは、インナーチャイルドを発揮する姿を、子どもに時折見せなくてはならない。そうしないと、健全に子どもは自立できないばかりか社会に適応せず、不登校やひきこもりになってしまうこともある。父親は子育てに対して、もっと積極的にそして真摯に取り組んでいかねばならない。

※イスキアの郷しらかわでは、父親が対象の子育て講座を実施しています。不登校のお子さんがいて悩んでいらっしゃる家庭へのサポートを長年体験してきて、お父さんの役割がとても重要だと認識しています。父親講座と子育て悩み相談を随時開催しています。個別開催も可能ですからご相談ください。

不登校はただ寄り添うだけで良いのか

 不登校のお子さんを持つ保護者の方は、不安でいっぱいだと思われる。専門家の医師、カウセラー、セラピストに相談しても、ただ寄り添い見守っているだけで良い、と言われることが殆どであろう。けっして登校を促したり一歩踏み出すように勧めたりしないようにと助言されることが多い。それだけでは、何も変わらないし解決しない。それでも、保護者はただ寄り添い見守っているだけで良いのだろうか。助言通りにしていると、子どもの状況は益々悪化するだけのように思うのだけど、それでも何もしないというのは辛いものがある。

 不登校の状況をまずは認めてあげなさい、その状況を受け入れなさいと助言する専門家が多い。それはひきこもりの状況にある青少年のケースも同じである。何らかのアクションを起こしたいと思うのが親として当然なのであるが、専門家は押しなべて何もするなと助言することが殆どである。無理に登校させるようなことはしないようにとか、学力が低下するのを防ぐために勉強をするように仕向けないとか、まるで腫れ物にでも触るような態度で接するように指導されることが多いのである。本当にそれで良いのだろうか。

 不登校の子どもたちは好きなことに没頭することが多い。好きなアニメ番組を見たりコミックに嵌まったりすることが日課になる。インターネットに嵌まってしまうことも少なくない。外出することもなく、部屋に閉じこもってしまう子どもが多い。それでも、無理に外出させることを強要してはならないと助言する専門家も多い。本人がその気になるまで待つしかないと助言されるのであるが、本当にそれで良くなるのであろうか。親として、何もしなくて良いのであろうか。子どもが自分で解決して歩みだすことが出来るのか不安で仕方ない。

 また、学校に行けないなら転校するとか、フリースクールを選択する保護者も少なくない。また、環境が変われば学校に行けるのではないかと思うのも当然であろう。不登校になっているのは、学校の環境が子どもに合わないせいだと思うのである。学友からの虐めやからかい、仲間外れの仕打ち、教師の不適切指導、というようなことが原因で学校に行けなくなったと、親は想像している事が多い。確かに、そういう事もあるのだが、それは原因ではなくて単なるきっかけでしかないのである。それを保護者も当事者も認識できていない。

 不幸なことに、このことを医療専門家やカウンセラー等の支援者さえ認識していないケースが多い。だから、保護者からは何のアクションを起こさず、ただ寄り添うだけで良いというアドバイスになるのである。それでは、保護者はどうすれば良いのだろうか。または、不登校になる本当の原因は何だろうか。子どもが学校に行けなくなるのは、不安や恐怖感からである。不登校になる子どもの殆どがHSC(ハイリーセンシティブチルドレン)なのである。そして、例外はあるにしても、家庭に何らかの問題を抱えていることが多いのだ。

 不登校になる子どもの殆どがHSCであり、得体の知れない不安を抱えているケースが多いのである。そして、心的外傷をいくつも抱えているので、偏桃体が肥大化しているケースが多く、それ故にDLPFC(背外側前頭前野脳)や海馬が萎縮しているのである。その根底には、家族どうしの安定したアタッチメントが形成されていないという問題がある。つまり、子どもが不安型のアタッチメントなので、傷付きやすさや生きづらさを抱えているのである。DLPFCや海馬の萎縮によって、正常な判断力や認知能力、記憶力が低下していて、成績も悪くなっているのだ。

 不登校の子どもに何もアクションをしないと、脳の器質的異常は益々進んでしまい、固定化してしまいかねない。したがって、保護者は寄り添うだけで良いというアドバイスは間違っているのだ。先ずは、偏桃体の肥大化の原因である不安や恐怖を取り除いてあげなくてはならない。心理的安全性を担保する『安全基地』や『安全な居場所』を確保する必要がある。つまり、ただ寄り添うだけでなく、子どもが安心や安全に思えるようにしなくてはならないのだ。その為には、子どもを変えようとはせず、まずは親自身が変わらなければならない。

※親が急に子どもに対してアクションを起こさなくなると、子どもは見捨てられたと勘違いしやすいのです。今までの対応が拙かった事を心から謝罪し、どんなことがあっても命をかけてあなたを守るし、見捨てないことを事あるごとに宣言することも必要です。具体的には、子どもに対して干渉や介入をし過ぎないことと、コントロールや支配を止めることも肝要です。言葉だけでなく、態度や表情も安心できるようにすることが必要です。子どもを『あるがままにまるごと愛する』ようにする子育て直しが求められているのです。

逆転しない正義とアンパンマン

 やなせたかし氏夫婦を描いた朝ドラ『あんぱん』は、今月末にて放映が終わる。とても面白いドラマであったし、時々素晴らしい台詞が散りばめられていて、多くの気付きや学びをさせてもらった。感謝の気持ちでいっぱいである。そんな珠玉の言葉がたくさんある中で、一番に印象に残ったのが『逆転しない正義』という言葉である。アンパンマンが誕生したのも、この逆転しない正義を追い求めた結果でもある。やなせたかし氏夫婦が、太平洋戦争によって人生が翻弄されて、正義という言葉に惑わされて行きついた境地なのかもしれない。

 正義という言葉は、時には暴走するし、周りの人々を傷つけることもある。勿論、正義という言葉に翻弄されて自分自身を傷つけることも少なくない。やなせたかし夫婦も、この正義という言葉に縛られ支配され、自分自身が苦しめられた経験を持つ。だからこそ、どんな時代であろうとも、どんな政治体制にあろうとも、絶対に逆転しない正義とは何かということを求め続けたのであろう。戦争という国家の極限状態に陥ると、正義という名のもとに為政者や権力者にとって都合の良い誤った解釈が横行する。

 ロシアによるウクライナ侵攻やパレスチナガザ地区へのイスラエルによる侵攻も、正義は我にありという誤ったプロパガンダによる影響である。正義というものが、ひとりでに暴走することがあり、為政者や権力者に都合良く拡大解釈されるので、その定義が揺れ動くのであろう。それだけ正義という言葉が危うい証左だと言える。しかし、それでも逆転しないというか普遍的に過ちのない正義は存在すると信じていたのがやなせたかし夫婦であった。その普遍的な正義を追求して生まれたのがアンパンマンである。

 アンパンマンはカッコよくないし、スーパーヒーローではない。どんな敵にも一発で倒してしまう必殺技や強力な武器を持たない。そして、どんな悪者であっても生命を奪わないし、徹底的にやっつけることはしない。ウルトラマンやマジンガーZのように、周りの建物や自然を破壊するようなことはしない。そして、お腹を空かした人に自分の顔(あんぱん)を食べさせるという、それまでのアニメのヒーローにはなかった救い方をする。この究極の自己犠牲を伴った正義を貫き通すのがアンパンマンなのである。

 自分は安全で命の危険のない場所に居て、兵士に命令して殺戮をさせたり自爆を強いるような指導者とは対極にあるのがアンパンマンである。自分の生命を削ったり賭したりすることがあるのが正義だということを、ゆなせたかし氏は朝ドラでも言っていた。世界各国のトップ指導者(為政者)たちは、正義は我にあると声高々に宣言する。でも、それは自分が権力を握り維持したいが為に利用している正義である。どんなに正義を振りかざしても、他国の市民の命を奪うことは、許されない筈である。これが逆転しない正義だ。

 逆転しない正義とは、どんな真理に基づいたものであろうか。それは、簡単に言えば形而上学に基づいた正義であろう。神の哲学である形而上学を根底にした正義であるなら、逆転することは絶対にない。アインシュタインが原子爆弾の製造に加担してしまったことを、戦後に悔やんで形而上学に傾倒したのは有名な話である。何度も日本にやってきて、原爆の被害者に心から詫びた。どんな理由があるにしても、科学を殺りく兵器の開発に利用してはならないと自分を戒めたのである。この形而上学に基づいた正義こそが求められるのだ。

 形而上学とは神の哲学であり、宇宙全体における普遍的な真理・法理である。慈愛・博愛・慈悲に基づく関係性重視の真理であり、全体最適と自己組織化を追求したパラダイムでもある。アンパンマンは、他の誰をも所有したり支配したりしない。力で誰かをコントロールしたり無理に何かをさせたりもしない。どんな相手をも尊重して、その考え方・生き方を認め受け容れる。これが人間本来の生き方である。やなせたかし氏夫婦は、その考え方を子どものうちから身に付けてほしいとアンパンマンに託したのだ。逆転しない正義を実践してもらう為に。

森のイスキアはビジネスにはそぐわない

 森のイスキアの佐藤初女さんに憧れて、自分も同じような活動をしたいと願っている人はとても多い。素晴らしいことだとは思うし、何とかその願いをかなえてあげたいと思ってサポートをしている。しかし、そのための研修や相談をさせてもらっているのであるが、何となく違和感を覚えることが多い。心身を病んだ人たちを救いたいという理念は素晴らしいのであるが、その活動に対する動機や想いというものに全面的に共感したいとは思わないのである。それは、森のイスキアをビジネスとして捉えている一面があるからである。

 人々を救うための社会貢献活動が、経営的にも担保されることで継続されるというメリットがあるのは当然である。だから、ビジネス面での採算が取れるというのは悪いことではない。しかし、森のイスキアの活動をビジネスとして成り立つように運営していくのは、極めて難しいのである。何故なら、佐藤初女さんのように自己犠牲の精神を発揮して人を救う活動を継続していくのは、採算などを考えたら絶対に不可能だと断言できるからだ。それぐらいに、森のイスキアはビジネスには不適なのである。

 ところが、森のイスキアの佐藤初女さんに憧れて活動を目指している人々は、何となくこの活動をビジネス的にも成功すると思い込んでいる節がある。だから、現在の勤務や経営活動を辞めてでも、森のイスキアの活動にシフトしたいと思うのではなかろうか。または、現在の仕事の傍らに森のイスキアを副業として、成り立たせようと考えるのかもしれない。佐藤初女さんの活動は、そんな生易しいものではない。自分の『いのち』を削るような覚悟で取り組んでいかなければならない活動、それが森のイスキアなのである。

 採算とか、損得、または利害を考慮して森のイスキアの活動をしたとしても、何の成果をも上げられる訳がない。よく目につくのは、佐藤初女さんのおむすびを広めたいからと、おむすびの講習会を盛んに開催している人達がいる。このおむすび講習会については、佐藤初女さんも苦々しく思っていたに違いない。ある時、佐藤初女さんに、おむすび講習会を開きたいけどいいですかと問い合わせた人がいたらしい。佐藤初女さんは、許可を出す立場にはないと大人の対応をしたのだが、「何のためにするの?」と不思議がっていたらしい。

 佐藤初女さんにとっておむすびは特別な意味を持っていたが、多くの人に食べてもらうとか世に広める事が目標ではなかった筈である。初女さんのおむすびは、ひとつの重要な癒しのツールではあったが、おむすびだけで人々を癒したわけではない。おむすびだけが世間で注目されて、おむすびによって奇跡を起こしていたというように誤解されていたのは、初女さんにとって不本意であったろう。ましてや、おむすびの握り方を学ぶことで多くの人々の心身を癒し救えるのではと期待させるような活動は望まなかった筈だ。

 初女さんの森のイスキアの活動を、ビジネスのひとつとして利用することは、初女さんは望まなかったに違いない。何故なら、初女さんは形而上学に基づいた理念を実践していたからである。おむすび講習会に参加する際に、どう考えてもあり得ない5,000円という参加費を徴収するやり方は、初女さんは許せなかったであろう。米や梅干しを持参してもらい、会場利用費だけを皆で負担するなら、せいぜい一人500円~1,000円で済む筈だ。この講習会で講師自身の収益を得るようなやり方は、形而上学としては認められないのだ。

 森のイスキアの活動について研修したいとやってくる方が、おしなべてその資格がないとは言いきれない。中には、自分のビジネスや生活を犠牲にしてでも、活動を開始したいと強い信念を持つ人もいる。そういう方には、生活にゆとりが出来た時、または活動の為の資金を充分に蓄えて、家族に迷惑をかけることなく活動に専念できるようになってからでも遅くないですよ、と優しく諭して励ましている。『いのち』を賭けて実践する活動であるからこそ、自分自身の心を整えてメンタライジング機能を習得してから活動してもらいたいのだ。中途半端な気持ちで取り組んでもらっても、人々を救えっこないのだから。

※今までは、研修・見学を希望する方々には無条件で、すべて受け入れてました。しかし、実際に研修をしてみて感じたのは、自分自身が癒されたくてやってくる人が多いという情けない事実です。自分自身の心が整っていないのに、他人の心を癒すことは絶対に無理なのです。ましてや、森のイスキアというブランドをビジネスに利用するのはもってのほかなのです。『いのち』を削る覚悟で、初女さんの活動を継承したいと思う方だけに、研修の受講をお奨めしています。

学歴と教養が高いほど毒親になる

 毒親と聞くと、虐待、暴力、ネグレクトをするような親というイメージが強い。確かに、このような行為を子どもに対して常時行うような親を毒親と呼ぶ。しかし、毒親はこういった親だけではない。愛情がたっぷりの普通の家庭で子どもを幸せそうに育てているような親が、子どもにとっては大変な毒親だというケースが少なくないのである。そんな恵まれた環境で育った子どもは、幸福な一生を送ると思われている。しかし、そんな家庭で育っても、強烈な生きづらさと傷付きやすさを抱えて、不幸な人生を歩む青少年が多いのである。

 勿論、すべての普通の家庭で毒親になる訳ではない。しかし、現代における普通の家庭において、意識していないのに毒親になってしまうケースが非常に多いことに驚く。それも、高学歴で教養があり、コミュニケーション力やイマジネーション力が高い親ほど毒親になってしまう確率が高くなる傾向がある。そして、そんな親に育てられた子どもは、小学生高学年、または思春期を迎える時期に、不登校やひきこもりになりやすい。中には、気分障害やパニック障害、PTSD、摂食障害、依存症などに苦しむ青少年が多くなっている。

 こういう毒親たちに共通しているのが、自分が毒親だということをまったく認識していないことである。そして、子どもたちも同じく自分の親が毒親だから苦しんでいるということを気付いていないのである。親子のどちらかが、毒親なんだと気付けば、変化したり反抗したりして乗り越えることも可能なのだが、まったく気付かないので生きづらさや傷付きやすさを抱えたままに人生を送ることになる。中には、この傷付きやすさやトラウマを抱えやすいことから複雑性PTSDになり、二次的症状として発達障害を抱えてしまうことも多い。

 この普通の家庭に生まれる毒親たちは、高学歴・高能力なので人生における成功者が多い。司法における判事・検事・弁護士、医師、教授、教師、経営者など経済的にも裕福な親が殆どである。そして、自分が人生の成功者たるが故に、子どもにも社会の勝者にさせたいのだと強く思うのであろう。子どもに高学歴を求め、特に著名校への進学と安定的な職業に就かせたいと願うのである。子どももまた、親の期待に応えようと頑張り過ぎて、それが重荷になって自滅してしまうことも少なくない。親の操り人形は、破滅しやすいのである。

 このごく普通の家庭における毒親は、子どもを支配したこともないし制御しようとしたこともないと言い張る。子どもに暴力や暴言で従わせようとしたことも一切ないと言い切る。確かに、世間一般で言うような毒親のような仕打ちを子どもにしたことはない。しかし、コミュニケーション力とイマジネーション力が高過ぎるが故に、子どもに対して必要以上に口出し手出しをしてしまうのである。つまり、過干渉と過介入である。一番悪いのが、先取りである。ついつい、転ばぬ先の杖を子どもに強いてしまうのである。

 子どもが自ら気付いて判断して決断し、実行して自ら責任を取るのを、親はじっと寄り添って口出し手出しをせず見守ることが、子育ての極意である。ところが、想像力の高い親はついつい先取りをしてしまう。子どもが自己組織化するのを待てず、次はこうするだよ、こう言いたいんだよね、このようにすると上手く行くんだったよね、と事ある度に助け船を出してしまう。それでは、主体性、自発性、自主性、責任性、進化性、自己犠牲性などの大事な自己組織性が身に付く筈がない。ましてや、我が子の優秀さを自慢し、やがて著名大学や立派な職業に就くんだと周りの人に言いふらして、子どもにプレッシャーをかけるのだ。

 子どもがどんな進路を目指すのか、どんな生き方をするのかは、子ども自身が決めるべきである。けっして親が子どもの進路を決めてはならない。無言の圧力をかけて、子どもに立派な職業に就くことを強いてはならない。自分と同じ道を歩くことを強要してはならない。教養が高くて高学歴の親ほど、子どもを社会における成功者にさせたいと強く思い、有形無形の圧力を掛け続けるのである。その圧力に屈して親の言うとおりの進路を目指す子どもは、思春期にその重さに押しつぶされるのである。メンタルを病んでしまうのは当然である。こういう毒親に育てられる不幸な子どもが急増している。

※イスキアの郷しらかわでは、こんな毒親に育てられてメンタルを病んで不登校・ひきこもりになってしまった数多くの青少年をサポートしてきました。殆どの親たちは自分が毒親だと気付いていません。子どもにそのことを伝えても、親の悪口を言われたと勘違いして反発します。共依存の関係になっているからです。だから、こういう親子を支援する際には、一切毒親だとは告げずに、時間をかけて当事者たちに気付いもらう努力を続けるだけなのです。気付いた親だけがこの地獄から抜け出せます

父性愛のような母性愛こそ危険

 父性愛と母性愛の適切な子どもへのかけ方についてのブログは何度も書いてきたが、未だに母性愛のかけ方について誤解をしているケースは少なくない。特に、父性愛的な母性愛を充分にかけ続けることが正しいのだと思い込んでいる母親が多いのは情けない。父性愛を根底にした母性愛は、とても危険だという認識はないようだ。だから、これだけ不登校やひきこもりが多いし、メンタル疾患で苦しむ青少年が多いのだ。少年たちの自殺も過去最高を更新している。この要因のひとつが、父性愛的な母性愛によるものであろう。

 父性愛のような母性愛とは、普通の家庭において愛情たっぷりに育てられたにも関わらず、子どもが強烈な生きづらさを抱えてしまうような愛情のかけ方である。または、絶対的な自尊感情や自己肯定感が育たず、傷付きやすい子どもに育ってしまう愛情のかけ方である。愛情不足とか虐待・ネグレクトによって、生きづらさや傷付きやすさを抱えてしまうと考える人が殆どであるが、実際はたっぷりと愛情がかけられたのに強烈な自己否定感を持ってしまう子どもがいる。それは、愛情のかけ方が過干渉や過介入の子育てだからである。

 過干渉や過介入の子育ては、親子共々にその異常さに気付かないことが多い。子ども自身が、親からたっぷりと愛情をかけられて育ったと思っているし、親も正しい育児をしたと思い込んでいる。ところが、子どもは思春期を迎える頃に生きづらさと傷付きやすさを抱えて、次第に社会への不適合を起こしてしまうのである。各種の依存症、パニック障害、うつなどの気分障害、PTSD、妄想性障害、摂食障害、統合失調症などの精神疾患になってしまうことが多い。中には、薬物依存や反社的行動を取ってしまうケースも少なくない。

 父性愛のような母性愛とはどういうものか、具体的にあげてみたい。父性愛とは条件付きの愛情と言って、しつけ、指導、良い子に育てようとする支配的・制御的な愛情と言える。時には、罰を加えたり褒美を与えたりして、親の望むように子どもを立派に育てる為の愛情と捉えられている。一方、母性愛とは無条件の愛と言われていて、『あるがままにまるごと我が子を愛する』愛情のことを言う。どんなことをしても許し受け容れて、我が子をありのままに愛する、慈悲・博愛・慈愛のような愛情を注ぐことである。

 父性愛が悪い訳ではない。父性愛だって必要である。例えば、危ないことを避けること、汚濁・不潔なものから遠ざける事、人を傷つけたり貶めたりするようなことを叱ることは必要である。挨拶・礼儀・片付け・掃除・清潔などの人間として最低限のマナー・エチケットは厳しく躾けなくてはならない。それ以外のことは、なるべく子どもが自ら気付き学び判断し決断し、自発的に行動できるようにそっと寄り添い見守ることが肝要である。だから、親は子どもに対して、手出し口出しを極力避けなくてはならないのだ。

 特に、子どもが思うであろう心情を先取りをして言ってはならないし、口に出したい言葉や行動したいことを先取りして言ってしまうことは、絶対にしてはならない。ましてや、子どもの行動がまどろっこしいと思い、ついつい親が肩代わりしてやってしまうことは絶対に避けるべきことである。こういうことをしてしまうと、子どもは自己組織化しない。つまり、自主性、自発性、主体性、責任性、進化性などが育たないし、絶対的自己肯定感が育まれないのだ。このような子どもは友達から仲間外れにされるだけでなく、虐めに遭ってしまう。

 虐待やネグレクトを経験してないから、子どもは愛着障害になんかならないと思うかもしれないが、過干渉や過介入、支配的・制御的子育てをされた子どもは、間違いなく愛着障害になってしまうのである。つまり、父性愛のような母性愛とは、この過干渉や過介入、支配的・制御的な愛情のことである。想像した以上に、このように育てられた子どもは多い。そして、メンタル疾患や各種の精神障害に苦しんでいるのは、こうやって育てられた青少年である。親子共にその養育の間違いに気付かないから、その苦しみから抜け出せないのである。このように父性愛のように母性愛を注ぐ親は、間違いなく『毒親』なのである。

※イスキアの郷しらかわの支援活動を長年してきましたが、その殆どのクライアントが父性愛のような母性愛で育てられた方々です。摂食障害、妄想性障害、うつ病、双極性障害、薬物依存、パニック障害、PTSD、C-PTSD、原因不明の疼痛、PMS、顎関節症、ASD、ADHD、などで苦しんでいる方々は、この父性愛的な母性愛で育児する「毒親」によって育てられたのです。この事実に気付いて、その支配・制御から離脱できた人だけが回復できるのです。

ゴルフの上達は量子力学的思考で実現

 ゴルフは非常に奥の深いスポーツであると言えよう。その技術は、他のスポーツにはないほどの複雑さを要求される。だから、ゴルフ愛好者のレベルはピンからキリまで多層に渡る。そして、それぞれのレベルで楽しめる。それはそれで良いだろうと思えるが、せっかく取り組んだスポーツなのだから、ある程度の技術レベルまでは達したいと思うのも至極当然である。とは言いながら、ある程度のレベルまで到達できるのは、ほんの一握りしかいない。ベストスコアが70代というゴルファーは僅か3.6%だと言われている。

 ゴルフを上達するのが難しいのは何故かと言うと、それはメンタルスポーツだからと言える。精神的な安定と自分自身に対する信頼がないと、持っている技術力を発揮できない。メンタル面をしっかりと鍛えて有効に活用出来たら、70代のスコアが出せる程の上達が見込める。それでは、メンタル面というか精神力をプレーにどう生かせば良いのだろうか。プロゴルファーのメンタルコーチは、最近増えてきている。しかし、アマチュアゴルファーのメンタルコーチは殆どいない。メンタル面は自己育成をするしかないのである。

 それでは、ゴルフをするうえでメンタル面をどのようにプレーに生かせばよいのであろうか。メンタル面を鍛えたり向上させたりするのは、プロのメンタルコーチでも難しい。アマチュアが自分ひとりでメンタルを整えるというのは非常に難しい。しかし、けっして不可能ではない。量子力学的思考をして練習したりラウンドしたりすれば、ゴルフは飛躍的な上達が可能になる。量子力学的思考というのは、具体的にどういうことかというと、思考が現実を創り出しているという考え方のことである。

 量子物理学の実験で明らかになった驚きの事実がある。人間が思考をする前に、行動を既に始めているという事実である。人間がまず思考をしてから、その思考に基づいた行動が始まると考えられている。しかし、アクションが始まってから思考が遅れてやってくることが、脳科学(脳波)の実験で判明したのである。そんな馬鹿なと思うかもしれないが、これが真実だという。ということは、私たちの行動は自分がすべてコントロールしているかと思いきや、無意識で行動を起こしてから後追いでその行動の思考が起きているというのである。

 ということは、ゴルフもしかりである。このようにスイングしようとかパッティングをしようと考えながら、アクションを制御しているものだと思っていたが、実は既に行動が始まっているところに思考が遅れてやってくるということになる。この事実は、私たちを奈落の底に落とし込むくらいに衝撃を与える。つまりゴルフのアクションであるスイングやパッティングは、意識して実行しているのではなくて、無意識で実行してしまっていて、後から申し訳程度にそのように身体を動かしたんだと思わせているだけなのである。

 だから、自分の意識とはまったく別のスイングやパッティングをしてしまうことがよくあるのだ。つまりは、ゴルフのアクションをする時にあまりにも考え過ぎてしまうと、思ったようなスイングが出来ないということになる。先ずは、ボールを運ぶ場所と距離を特定する。そして、それを実現するための身体の動きのイメージを脳内に作り上げる。そのうえで、実際にスイングの際には、何も考えずに無意識で只クラブを振るだけにする。そうすれば、身体(筋肉と骨格)がイメージ通りに勝手に動いて、狙った処にボールを運ぶことができるのだ。

 これが量子力学的思考のゴルフの上達法である。実際にこの量子力学的思考を実践して実績を残した女子プロがいた。アニカ・ソレンスタムという稀代の名プロである。女子プロの世界では好敵手がいないと、男子プロのトーナメントにも出場した経験も持つ。彼女は、プレーの前にアクションのイメージを作り終わったら、スイングやパットをする場所1m四方に入ると、何も考えず無意識でプレーを実践した。当然、イメージした通りのプレーをした。正確無比のスイングとパッティングをして、数々のビッグタイトルと賞金女王を手にしたのだ。

※日本の女子プロの中で、最強だったと言われるのは岡本綾子プロだと思われます。彼女もまた、量子力学的思考を活用して、アメリカツアーで数々の優勝を成し遂げました。当人は、量子力学的思考とは思っていもいなかっでしょうが、先日の女子プロトーナメントの解説をしていて、同じようなことを言ってました。無意識(潜在意識)の世界を制した者だけが、世界のトップになれるのです。これはゴルフの世界だけではなく、他のスポーツにも当てはまります。

メンタルを病む責任は本人にない

 前回のブログでは、メンタルを病む原因は心ではなくて脳の器質的障害によるものだと解説した。まだ一般社会の中で、特に職場や学校においては心の病気だという認識が強くて、本人の気質や性格、または認知傾向や価値観に問題があるから、メンタル疾患になるのだという捉え方をする人が多いようである。心配しているようなそぶりを周りがするが、自分で病気を引き寄せている、そんな見方をされるから余計に当事者は辛いし、益々症状が悪化しやすい。しかし、メンタル疾患を発症する人に、その責任はないと断言できる。

 メンタル疾患を抱えている人はの殆どは、保護者や本人に関係する周りの人々のせいでメンタル疾患に陥ったのである。精神の病気になった責任は、当事者には殆どないと言い切れる。何故なら、メンタル疾患にならざるを得ないような育てられ方と周りの環境によって、発症したと言えるからである。まずは、精神疾患になってしまうような育成環境についてだが、親があまりにも熱心過ぎる育児をするケース、その反対に育児放棄したり虐待したりする正反対のケースとがある。どちらも精神的な障害を抱えやすいということは間違いない。

 まずは、虐待やネグレクトを受けた場合である。このケースでは、ほぼ100%精神的な障害を抱えてしまう。よしんば、その後児童相談所や児童福祉施設で温かく育てられたとしても、その時に抱えたトラウマは生涯に渡り当事者を苦しめる。脳の器質的障害はある程度改善されたとしても不安は完全に払拭されず、HSCを抱えるが故に傷付きやすい人格を持ち続け、乗り越えることが難しい。優しい保育士さんたちや親切な里親に育てられたとしても、トラウマを乗り越えるレベルまで回復するのは極めて困難だと言える。

 親があまりにも熱心過ぎる養育をしたケースであるが、これは過干渉や過介入の養育とも言える。立派に育てたいとか、将来に渡りエリートの人生を歩ませたいと親が強く意識して、過度の期待を掛け続けて、子どもをコントロールし過ぎた育て方をした場合である。このケースにおいては、子どもは親からの無条件の愛情ではなくて条件付きの愛情を受けてしまうので、自己肯定感が育たないばかりか、虐待児と同じようにHSCを抱えてしまう。完璧さを求められるし、学業成績が悪いと否定されがちになり、見捨てられる不安を抱えてしまう。

 どちらのケースにおいても、HSCからHSPに移行して、得体の知れない不安を抱えてしまう。そうすると、周りの子どもたちからからかいを受けたり、虐めの対象になったりするから、何度もトラウマを抱えてしまうことになる。教師からの不適切指導も受けやすい。それが例え小さなトラウマだったとしても、次第に積み重なっていき複雑性のPTSDになっていき、二次的な症状として発達障害や気分障害を起こしてしまうのである。勿論、生まれつきの発達障害もあるが、それが益々強化されてしまうのである。

 また多いのが、両親の不仲による悪影響である。特に子ども脳に深刻な影響を与えるのが、両親の喧嘩である。子どもの前で怒鳴り合う事を続けると、100%子どもの脳は致命的な器質的な障害を受ける。偏桃体が肥大化してコルチゾールが過大分泌することで、DLPFC(背外側前頭前野脳)と海馬が破壊される。例え怒鳴り合いまで発展しなくても、お互いの愚痴や悪口を子どもに聞かせ続けると、同様の障害が起きる。離婚の危機を迎えると、子どもは自分が犠牲になり、離婚を防ぐために無意識で問題行動を起こしてしまうのだ。

 前述したような家庭に育った子どもは、不安型のアタッチメントを抱えてしまい、オキシトシンホルモンレセプターが異常に少ない脳になる。得体の知れない不安を常時抱えていて、睡眠障害を起こして脳の破壊を招き、メンタル疾患を発症してしまうのである。不登校やひきこもりに追い込まれてしまう子どもも少なくない。何度も心的外傷を受けて、複雑性PTSDになり、発達障害や重篤な気分障害、または妄想性障害や各種依存症までも発症する恐れもある。こうなってしまうと、医学的アプローチも効果なく、長期間に渡る社会からの離脱が起きる。こうなってしまう責任は、当事者にはないのである。

※メンタル疾患の当事者が、低劣な価値観しか持ち得ず、正しい生きる目的を設定できないこともメンタルを病むひとつの要因ではありますが、これも本人の責任ではありません。父親が高い価値観や哲学・思想を子どもに伝えなかったからです。特に「神の哲学」である形而上学を子どもに語っていないから、高い価値観を持ち得ず正しい目的を設定できなかったのです。これも当事者の責任ではありません。

メンタルを病んでしまう本当の原因

 メンタル疾患が年々増加の一途を辿っている。代表的な気分障害である、うつ病や双極性障害(躁鬱病)の患者さんは、あまりにも増え続けていて社会問題にもなっている。そして、最近は単なるうつ病だと診断されてきたのに、実は双極性障害だったということが判明するケースが非常に多いことが注目されている。うつ病というのは誤診であって、別の心療内科で双極性障害だという確定診断がつく例が極めて多いのである。躁うつ病は、一昔なら珍しい精神疾患だったのに、現代では想像している以上に増加しているのである。

 双極性障害は、重篤な精神疾患である。治療が難しいということもあるし、完治を迎えることが少なく、寛解さえも難しい。そして、より重篤な精神疾患である統合失調症も増えていることに戦慄を覚える。どうして、こんなにも難治性の精神疾患が増えてきているのであろうか。そして、一昔前のうつ病であれば、投薬治療によって症状がかなり抑えることが可能だったのに、現代のうつ病は投薬や各種精神療法を駆使しても、寛解しにくくなっている。つまり、メンタル疾患は年々増えているし、難治化しているのである。

 そして、とても増加しているメンタル疾患がもうひとつある。複雑性PTSDという精神疾患が増えているのである。単純性のPTSDやパニック障害が増えていることもあるが、複雑性PTSDだけが異常に増加しているのである。複雑性PTSDというのは、トラウマ(心的外傷)を何度も積み重なって起きる疾患で、単純性のPTSDよりも治癒しにくい。今までのカウンセリングや精神療法では、良くならないばかりか却って重症化させてしまうことも多く、二次的症状としてより深刻な疾患を発症させるリスクもあるという。

 今までの精神療法やカウンセリングは、過去のトラウマを聞き出して、そのトラウマを今は安全なものとして俯瞰できるように、右脳の記憶から左脳の記憶に移し替えをすることで、症状を緩和させていた。ところが、複雑性PTSDに限っては、下手にトラウマを暴露させてしまうと、その恐怖に耐えきれなくてさらなる深刻な二次的症状を引き起こすケースが非常に多いことが判明したのである。ASDやADHDなどの発達障害の症状や、双極性障害を起こすことが多くみられる。複雑性PTSDとは、怖い精神疾患なのである。

 そして、複雑性PTSDによる二次的症状として、うつ病、双極性障害、統合失調症型パーソナリティ障害、妄想性障害、発達障害などの深刻なメンタル疾患や障害が起きていると考えられる専門家が増えてきた。それでは、何故に複雑性PTSDを発症してしまうのであろうか。いくら心的外傷を受けるような出来事を体験したと言っても、すべての人がトラウマ化する訳ではない。特別にトラウマを積み重ねやすい人と、まるっきり平気で受け流せる人がいるのだ。苦しくて悲しくて怖い体験をトラウマ化しやすい人が複雑性PTSDになる。

 このトラウマを積み重ねて複雑性PTSDになりやすい人は、HSCやHSPの気質を持っている。特に聴覚過敏が強い傾向を持つ。聴覚神経が肥大化している。そして、脳の器質障害をも起こしている事が判明してきた。DLPFC(背外側前頭前野脳)と海馬が壊れて萎縮している事が解ったのである。一方では、偏桃体が肥大化していることも知られている。何故そんなことが起きているのかというと、不安、恐怖、苦しみ、怒りなどの強いマイナス感情が常に起きていると、偏桃体が異常興奮を起こしてコルチゾールが過大に分泌される。そうすると、偏桃体が肥大化すると共にDLPFCと海馬が破壊されてしまうのだ。

 この海馬は記憶を司る大切な脳なので、記憶力や認知が正常に働かなくなるばかりか、記憶を変更してしまう。また、DLPFCはワーキングメモリー機能、正常判断や倫理観を司っているので、一時記憶や臨時的計算や判断が出来なくなるばかりか、反倫理行動や依存行動を取ってしまう危険もある。DLPFCと海馬が正常に働かないと、不安・恐怖・怒りを鎮めることが出来ず、メンタル疾患はさらに重症化して固定化してしまうのである。投薬治療も効果がなくなる。HSCやHSPになってしまう原因は安定したアタッチメント(愛着)が形成されず、不安型のアタッチメントを抱えてしまうからなのである。

※このように、今まではメンタル疾患はその人の性格や気質によって起きる心の病気だと考えられていましたが、まったく違っていて脳の器質的変化によってもたらされているということが判明しました。そして、複雑性PTSDが基礎疾患にあって、二次的症状としてうつ病や双極性障害などの気分障害が起きていて、幻聴・幻覚を起こす統合失調症性パーソナリティ障害や妄想性障害が起きるケースが多いのです。さらには、二次的症状として発達障害も起きる例が多いこと解りました。

自分と他者、そして自他一如

 自分と言う言葉を私たちは何気なく普段から使っている。特に、自分と言う言葉そのものの深い意味を考える人は殆どいないことであろう。ましてや、自分と他者との関わり合いや繋がり、そして自分と他者とは本来どうあるべきかということを考える人間なんてそうはいない筈である。そもそも自分と言うのは「私」のことであろう。しかし、私という言葉と自分という言葉から受けるニュアンスは大きく違っているように思われる。自分という言葉は、自ずを分けると書く。つまり自ずと、他者とか社会とを分けるという意味なのであろう。

 全国の中には、私のことをわざわざ「自分」と呼ぶ地域や組織が存在する。何となく私と言わずにわざわざ「自分」と呼ぶことに、違和感を覚える人も多いように思える。軍隊における従順な部下が上官に「自分は〇〇であります」と返答するみたいに使いそうな一人称である。転じて、体育会系の上下関係において、目下の部員が上級生に対して、一人称を「自分」と言うケースが多いようである。いずれにしても、フォーマルな場面においては、自分と呼ぶ一人称は、あまり使用しないのが一般的である。

 さて、私のことを自分と呼ぶ人間の性格分析をしてみよう。他者と自分は違うという意識が強そうであり、自分はこうであるとか、こうしたいとかいう自己主張が強い傾向が見える。他者や社会のみんなとは、自分は一線を画しているという意識が強いように感じる。したがって、自分と他者を分けて認識してほしいし、自分だけを特別視してほしいという意識が強いのではないかと見られる。そういう意味では、自分と他者の間には大きな隔たりがあり、他者を受容したり寛容したりする気持ちが極めて少ないように思える。

 自分と他者は別だという社会的認識が広がっている中で、仏教では自分と他者は本来ひとつのものだという考え方がある。『自他一如』という仏教用語がある。簡単に説明するのは、非常に難しい。肉体的には自分と他者は別のものではあるが、精神的な部分では繋がっていてひとつのものだという考え方である。精神的な部分というのは、顕在意識ではなくて潜在意識ということである。つまり、無意識の部分で自分と他者は本来ひとつであるという考え方である。だからこそ、人間は自他一如を意識した生き方が求められるという教えである。

 いくら無意識の世界だとはいえ、自分と他者がひとつだなんてどうやっても認識できないと思う人は多いかもしれない。そんなことはあり得ないと思う事であろう。我々人間の無意識(潜在意識)という領域は、脳の中でどのくらいの範囲かというと、驚くことに約11%が顕在意識で、9割前後は潜在意識だというのだ。そして、有名な心理学者のカール・グスタフ・ユングは、この9割の潜在意識の領域においては、集合無意識というものがあり、自分と他者はこの集合無意識によって繋がっていてひとつだと主張しているのである。

 果たして、集合無意識というものが存在するのかと疑う人が多いかもしれないが、虫の知らせとかあり得ないようなメールの同時送信を経験している人は多いことであろう。何故か急に思い出したり気になって仕方ない人から電話が来たり出会ったりするのは、全くの偶然ではない。すべて、シンクロニシティ(共時性)と呼ばれる魂どうしの結びつきによって起きているとユングは説いている。自分と他者は、ひとつの魂の集合体から生まれてきた存在なのだから、潜在意識で繋がっていて、自他一如という存在なのである。

 だからこそ、他者を傷つけることは自分に対する攻撃となる。他者に対する深い思いやりは、自分への思いやりにもなる。自分と他者が一つなんかじゃなくて、別の存在だと考えるから、学校や職場でいじめや虐待が起きるし、世界で闘争や戦争が起きる。どこかの政治家は、自国民ファーストなんてとんでもない主張をしてしまう。自国民も他国民もないのだ。世界のすべての国民が幸福にならなければ、私の幸福は実現できないのだ。そんな当たり前の真理さえも知らないような政治家を我々は選んではならない。自他一如を深く認識して、他者への慈悲を持って生きて行くことが当たり前の社会の実現が望まれる。