ある青年の勇気ある行動

 ある20代前半の青年が行なった、勇気ある行動である。ある日の土曜日の夜のことである。電車で40分ぐらいの地方都市に行って、職場の仲間と懇親会を開催して帰宅途中の電車の中で事件は起きたという。酔って若い女性にからんでいる30代ぐらいの男性が乗車していた。かなりしつこくまとわりついて、名前やメールアドレスを教えろと迫っていたという。その様子を隣の車両から何気なく見ていた青年は、こういう人間に関わりあうと、ろくな目に遭わないだろうと思い、誰かが助けてくれないかと願っていたという。

 

 ところが、困っている若い女性が回りを見渡しながら助けを求めて哀願している様子なのに、誰も助けようとしなかった。そこで、この青年は勇気を振り絞って隣の車両に行き、その困っている女性と男性との間に割り入って邪魔をしたらしい。この男性は、この女性と話をしているんだからお前は邪魔をするな!とわめき散らしたけれど、この青年は毅然とした態度で、この若い女性を庇い続けたという。この男性は、しまいにはぶち切れたみたいで、オレに喧嘩を売るのか!と恫喝したらしいが、ひるむことなく若い女性の盾になってあげたのである。

 

 その時の勇気ある若き男性の心情を後から聞いたら、本当はとても恐くて恐くて仕方なかったという。相手の男性は一見労務者風で、力も強そうで凶暴な目をしていたので、何をするか解らないという恐怖があった。ましてや、殴りかかって来たらどうしようかと迷っている自分がいたという。何故なら、その青年は県立高校の臨時講師を勤めて3年目なので、例え自衛のためとはいえ暴力事件は起こしてはならないと思っていたし、運動神経は抜群なのでよけることも出来たが、平和な解決をいつも志していたので、暴力に対して暴力で対応することは絶対に避けたかったというのだ。

 

 そうこうしているうちに、この若き女性が降りる予定の駅に着いて席を立ち上がった所、この凶暴ぶりを発揮している男性も後をつけて、駅を降りようとしたのである。この青年は、自宅がある4つ先の駅で降りる予定だったのだが、このままこの女性と凶暴な男性を二人にしたままでは、何をされるか解らないと、一緒にこの駅から降りる決断をした。案の定、この青年と女性を、くだんの男性もまたを追いかけて駅の改札口を出てきたらしい。この辺の駅は田舎なので無人駅であるし、周りに人家も少なく、薄暗い。どうにかしようと後をつけて来た男性は、二人の様子を伺っていたという。

 

 この青年は機転をきかして、この若い女性に電話をかけさせて、親に迎えに来るように指示したという。そして、迎えに来るまで傍に居てあげたらしい。例の男性は、ある程度の距離をとりながら二人の様子を伺っていたが、その待っている時間が長く感じられ、襲ってきたらどうしようかと気が気ではなかったという。20分くらいしてその女性の母親がやってきて、無事に車に乗せて母親に引き渡し、自分は家の近くまで送ってもらうのが申し訳ないと、次の駅まで送ってもらうことにしたという。この辺も、奥ゆかしいというかバカ正直なくらい人が好い。

 

 車の中で、今までマスクをしたままだった女性が顔を見せて、「私のこと解りますか?」と言われて、この青年は驚いた。何と、同じ高校に通う生徒でクラスは違うが教え子の1人だったのである。生徒から言われるまで、まったく気がつかなかったらしい。助けてあげて、本当に良かったと思ったという。実は後日談がもう一つある。この女性の父親とこの青年の父親は以前からの知り合いであり、この時はその事実を知らずいたのだが、あるきっかけでそのことが判明し、お互いに驚愕する。世の中というのは、実に不思議な縁で繋がっているのだと実感することになる。

 

 電車の中で酔っ払いにからまれて困っている若い女性を、正義感を持って助けるというのは、なかなか出来ない行為である。おそらく、このような青年は世の中にはあまり居ない気がする。実際に、同じ車両にいた乗客は皆見て見ぬふりをしていたのである。この青年は、実に勇気ある行動を取ったのものだと思う。今時の若者らしくないように思う。世の中には、若い女性に対してストーカーを行なったり、無理やり乱暴したり、平気で傷つけたりする若者が多い。でも、こんな素晴らしい若者もいるということがホッとするし、嬉しく思う。こういう若者が存在するなら、日本という国も、まだまだ捨ててもんじゃないと安心する。こんな若者をもっと多く育てて、社会に送り出さなくてはならないと強く思ったものである。

車を選ぶ心理から読み解く人格診断

 新車を選ぶのは、実に楽しいものだ。新車が納入されて、初めて乗る喜びも大きいが、それ以上に車種を選んで悩む時が一番楽しい気がする。性能、デザイン、価格、維持費、アフターサービスなどを総合的に分析し、車種を決定することになる。いろんなカタログを取り寄せて、穴が開くほど見つめる。さらには、ディーラーを訪れて実際に見て触れて試乗して確認する。そして、車種が決まると最終的に色やグレードを決めることになる。カラーを第一選択肢とするケースもあるだろう。家族構成も選ぶ際の大事な要素である。乳幼児や家族が大勢いれば、ワゴン車を選ぶだろう。あれがいいこれがいいと選んでいる時が一番楽しいのである。

 

 ここのメーカーでないと駄目だというユーザーもいる。または、ディーラーに対して絶対的な信頼を置いているので、そのお店以外では車を買わないと決めている人もいる。当然、限られた車種から選ぶことになる。環境保護や燃費の観点から、電気自動車やハイブリッドの車を選択する人が増えてきた。SUV車やワンボックスカーでもハイブリッドの低燃費車が増えたせいもあろう。でも、一方では相も変わらず、図体の大きい燃費の悪いRV車を購入する根強いファンがいる。面白いのは、アウトドア派でもないのに大型のRV車を選ぶ人がいるということである。自分のライフスタイルに合わせて車選びをするのでなく、ただ単に見栄や自己満足の為に車を選択しているとしたら、実に愚かしい行為である。

 

 最近の車のデザインを観察すると、流行りなのだろうが、ほとんどの車でフロントマスクに特徴が出ている。きりっとしたフロントマスクというよりは、どちらかというと見る人を威圧しそうなデザインが多い。ヘッドライトは外側のほうがつり上がっていて、まるで怒って目を吊り上げた顔のようなフロントマスクになっている。歌舞伎役者のような顔を思わせる。狭い道でこんな車に出会ったら、思わず道を譲るだろう。デザイナーの好みなのか、それともこのようなデザインにしないと車が売れないのか分からないが、流行しているのは間違いない。美しいとはお世辞にも言えないデザインだが、このようなフロントマスクの車に乗っている人々は、このデザインを気に入っているようである。

 

 さらに、どうしてこんな色の車を選んでしまうのだろうかと思うのだが、黒色の車を選ぶ人が多い。黒ではなくて微妙に紫色や茶が入っているらしいが、まるで黒色にしか見えない。歌舞伎役者のように怒ったようなフロントマスクといい、黒色の車といい、どうしてこのようなデザインと色の車を人は選んでしまうのか不思議としか思えない。必要以上に大型の車もそうだし、人に威圧感を与えるようなデザインと色の車を何故乗りたがるのだろうか。あまりにも強そうな車を選ぶのは、潜在意識がこのような車を選ばせているのかもしれない。このような車を選ぶ人は、何らかの精神的な偏りがあり、その深層意識がわざと人を威圧するような車を選ばせていると考えたほうが自然であろう。

 

 それはどんな潜在意識かというと、強烈な自己否定感情であろう。または、自分に対する自己承認力の低さであろう。その反動で、自分を大きく強く見せようと無意識下で思うに違いない。攻撃的な性格を見せることも多い。だから、必要以上に大きい車、あえて注目を浴びるような車、自慢できるような車、自己顕示が出来る車、自分を強く見せられるようなデザインと色の車を選ぶのだ。心理学的に分析すると、車やファッションで必要以上に自分を偉大に見せようとするに違いない。ということは、自己否定感情の巨大化と自尊心の低さが、巨大なRV車や黒い車の選択をさせていると言えるだろう。

 

 すべての人がそうだとは言えないが、自己否定感や自己不承認感の強い人というのは、自己の確立が出来ておらず、自我の段階に留まっている人である。いわゆるアイデンテティーが確立されていない人間であろう。こういう人は、身に付けるファッションにも同じ傾向がある。黒い色の服や派手色の洋服を選ぶし、人を威圧するようなデザインのファッションにしやすい。ブランドもので着飾ることも多い。時計や装飾品も、ブランド品やギラギラするようなものを身に付ける。髭を生やす人も少なくない。こういう人は、強引な運転や威圧的な運転をしやすい。このような人間が増えているというのは危険なことであり、実に情けないことでもある。こういう車が後ろからやって来たら、事故に巻き込まれたりあおり運転をされたりするから、先を譲ったほうが賢明だ。

どん底に大地ありとU理論

「どん底に大地あり」と言ったのは、長崎の原爆被爆者で放射線医の永田隆先生である。奥さんを原爆で失い、本人も原爆後遺症の白血病で苦しみながら、原爆病の研究を続けた。その永田先生は、苦しい境遇の若者から「神は本当にいるのですか?」と問われ、「どん底まで落ちろ」と答えたらしい。そして、「どん底に大地あり」と続けた。どん底にも自分の足で立つ地面がある。一度どん底に落ちて、そこで大地を踏みしめた人にしか、本当の幸福は感じられないし、得られないという意味であろう。けだし名言である。

 

永井先生はクリスチャンで、あの名曲「長崎の鐘」が出来るきっかけを作った人物でもある。永井博士の病室兼書斎を「如己堂」と言う。自身の生きる指針としていた新約聖書の一説 「己の如く人を愛せよ」からその名がつけられたと伝えられる。放射線医として、原爆で大けがを負いながらも被爆者たちの治療を続けて、43歳という若さで力が尽きた。永井先生の言いたかったのは、人間が真の自立を確立するには、精神的にどん底に一度落ち込む必要があるということではなかろうか。それは心理学でも、U理論として確立されているものだ。

 

そのどん底というのは、とことんまで不幸な境遇のことだと思いがちだ。しかし、そのどん底というのは、精神的にどん底に落ち込むという経験のことである。人間というのは、本来誰にも知られたくない醜さや弱さを持っている。身勝手で果てしない欲望を持つし、汚れた心を持っている。このようなマイナスの自己を自分が持っていることを認めたくないし、ないことにしまっている。ところが、苦難困難や人間関係での破綻を経たり、メンタルをとことん病んだりして、このマイナスの自己を自分が持っていることをある時に気付くのである。これが精神的などん底である。

 

人間という生き物は、うつ状態や抑うつの心理状態に追い込まれるのを避けたがる。自分に対する否定感情を持ちたくないのだ。だから、自分自身の中に存在する醜くて弱い心をないことにして生きている。または、敢えてそういうマイナスの自己を持っていることを気付かないようにしているのである。つまり、自分はプラスの自己だけを持っていると思いたがるのだ。マイナスの自己を持っている自分のことがとことん嫌になって、精神的などん底に追い込まれるのを避けたいのである。例え落ち込んだとしても、どん底までは落ちず、中途半端なレベルで浮き上がろうとする。

 

このように、中途半端な落ち込みで浮き上がってしまうと、その後何度も落ち込みを経験することになる。何度も何度も辛い目に遭ったり、苦しい経験を繰り返したりするのは、どん底の精神状態まで落ちこまずに逃げていたからである。自分のマイナスの自己である醜さや弱さを、認め受け容れて、とことん追求して糾弾することは、ある意味恐怖である。自分の嫌な部分を素直に認めると、自分を嫌いになり立ち直れなくなる。生きる意味や生きる目的を見失うことになるかもしれないからだ。ところが、それはまるで逆なのである。

 

人間は、誰でも自分自身の心の奥底に醜さや弱さを持っている。汚れた自己を持つ。それを心から認め受け容れて、自分自身が嫌になり精神的などん底に落ち込まないと、真の自己確立が出来ない。何故ならば、自分の中にそんなマイナスの自己をないことにしてしまっていると、関係する相手にそのマイナスの自己を発見した時に、相手を赦せないし、受け容れることができない。例えば、配偶者や恋人、自分の親や子に、そんなマイナスの自己を発見したら、嫌いになってしまうし愛せなくなる。マイナスの自己を持つ自分を赦し愛せないと、自分に関わる相手をまるごと愛せなくなるのだ。

 

U理論というのは、一度精神的にとことん落ち込んで、どん底であるUの底から這いあがることである。つまり、自分の醜さや弱さ、そして心の穢れを認め受け容れて、精神的にとことん落ち込んでから、浮かび上がる(立ち直る)ということである。このように自分のマイナスの自己を素直に認めることができる人は、日本人では極めて少ないような気がする。だから、自分をまるごとありのままに愛せないのかもしれない。日本人は、自分を振り返ることが苦手だし、自分と素直に対話することさえしないように思う。日本人の多くの人に、U理論を知ってほしいし、どん底にこそ大地があることを認識してもらいたい。怖がらずにどん底まで落ちてみようではないか。

優しいだけの男は女性を幸せにできない

「男は強くなければ生きていけない。優しくなければ生きる資格がない」と言ったのは、レイモンド・チャンドラーの小説に登場する主人公のフィリップ・マーロウ探偵である。20代の頃にこのマーロウ探偵の台詞を読んだ時、すーっと心に染み込んでしまい、こういう男になりたいと思った。男はタフでなければ、か弱き存在を守れないし、限りなく優しい気持ちがなければ、女性の気持ちに寄り添えない。最近の女性は、優しい男を求める傾向がある。ところが、優しいだけの男では、女性を幸せにはできないということを知らない人が多いのである。

 

男も女も優しいほうがいいに決まっている。でも、優しさだっていろいろある。芯の強さを根底に持った優しさならいいけど、優柔不断的な優しさは不安を与えるだけだ。相手の言いなりになるのが優しさだと思っている男もいる。ましてや、自分が嫌われることを避けるために、周りに迎合するような優しさを発揮する男性もいる。何のことはない、自分のしっかりした価値観や哲学がないのだ。だから、少しぐらい強く女性に言われると、例え自分の考えと違っても言いなりになってしまう。これが優しさだと勘違いしている男が多いのだ。

 

女性は、優しいだけの男性を求めてはいない。やはり、強さを持った男でないと女を幸せにはできない。その強さというのは、肉体的な強さや精神的なタフさだけではない。どんなことがあってもぶれない精神性である。そして、いざとなったら自分を犠牲にしてでも、愛する女性を守ってくれる強さである。強大な敵に出会った時に、愛する女性を見捨てて、我先に逃げてしまうような男性は駄目なのである。苦難困難に立ち向かっても、けっして逃げずに乗り越える強い精神力も必要である。

 

ところが、若い女性は見かけだけの優しさを持つ男に惹かれてしまう傾向がある。何を言っても「いいよ、いいよ」と女性の主張に従う男を選ぶ。例え自分の意見に合わなくても、相手の言いなりになるような男と付き合いたがる。こういう優しさというのは、まったくのまがい物である。自分を女性に気に入ってもらおうと我慢をして、優しそうに見せるだけなのである。こういう男性は、結婚した途端に豹変する。あれ程優しい態度を取っていたのに、自分の思い通りに妻をコントロールしようとして、不機嫌な態度を見せるし横暴にもなる。

 

離婚する夫婦が激増している。熟年離婚も増えているが、若い子育て世代の夫婦もあっさりと別れるケースが増えている。子はかすがいと言われているが、子どもがいても離婚を踏み止まる理由にはならないらしい。離婚の申し立ては、以前は夫からしていたものだ。ところが最近は、夫のほうからでなくて、妻側から離婚を申し出るケースがすごく多いらしい。その離婚の理由は、表向きは性格の不一致となっているが、実は見せかけの優しさだったと気付いたのだろう。そんな夫だから見切りをつけたとのだと思われる。

 

真の優しさとは、ただ単に優しい言葉をかけたり物腰の柔らかい態度をしたりすることではない。自己主張せずに、反論せずに相手に迎合することでもない。自分の確固たる信念は曲げることなく、駄目なものは駄目だと相手に厳しく接することも時には必要だ。例え自分が嫌われても、相手のためになるなら苦言を呈することも大切だ。そのような強さを兼ね備えた優しさが必要なのである。そういう強さに裏打ちされた優しさこそが、安全安心を相手の心に提供することが出来る。

 

子どもや女性の中には、いつも得体の知れない不安を抱えている人が相当数いる。そういう不安を払拭してくれる絶対的な守護神としての『安全基地』が存在しないと、安心して社会に踏み出していけない。子どもが不登校になるのは、安全基地の存在がないからである。父親がどんな場合にも身を挺して我が子を守るという気概を見せないと、子どもは安心して学校に行けなくなる。家庭内で安全基地としての機能を夫が発揮してくれなければ、妻は不安を抱えてしまう。その不安が子どもにも伝わり、子どもはいつも不安を覚えながら生きる。母と子は、お互いに不安を増幅させてしまうのである。これでは、子どもはやがてひきこもりになる。男は優しいだけでは家族を幸せにはできないのだ。

自己マスタリーとは

自己マスタリーという言葉は、あまり聞きなれないかもしれないが、とても大切で生きるには必要不可欠なことである。自己マスタリーを実現していないと、人生において間違った生き方をすることにもなるし、企業や組織への貢献が出来ないばかりか、社会的な存在価値を失いかねない。一人前の人間としての成長や進化ができなくなるのである。この自己マスタリーという言葉を生み出したのは、MITの上級講師ピーター・センゲという人である。学習する組織を確立するための5つのディシプリンのひとつが自己マスタリーである。

 

ピーター・センゲという人物は、システムダイミクスを学び、ビジネスにシステム思考を活用することを提案した。そして、学習する組織という書物を著し、5つのディシプリンを提起して、企業が発展して永続性を持つには、学習する組織にすることが肝要であると説いた。自己マスタリーを実現するには、根底にはシステム思考が必要だとも主張している。自己マスタリーというと、自己練達とか自己熟達と訳されるが、単なる技術や能力が熟練することではない。もっと深い精神面における自己確立のことを指している。

 

自己マスタリーとは、自己をマスターすることであり、自分自身を把握し深く認識するという意味でもある。自己という言葉にこそ意味があると思われる。我々は、自分のことをすべて理解していると誤解している。しかし、それはまったくの幻影であり妄想であると言える。おそらく日本人の中で、真の自己を理解し受容して、自己をマスターしているのは、ほんの一握りしかいないであろう。『自分』を理解している人はいるかもしれないが、『自己』を深く理解している人は、殆どいないと言っても過言ではないのである。

 

自己と対比されるのが、自我である。自我とはエゴとも言われ、どちらかというと自我が強い人はあまり好かれない。しかし、自我の確立は人間の成長期において必要なことであり、自我が確立されていないと自分を主張できなくなってしまう。反抗期というのは自我が芽生えてきて起きると考えられている。現代の子どもは、反抗期を迎えずに大人になってしまうケースが多く、愛着障害になってしまうことも少なくない。あまりにも親から執拗に介入され続けると、自我の確立がされない。

 

本来は、自我が確立されて、その後に自己が確立されるという経過を辿るのが望ましい。自己の確立というのは、自我と自己を統合させるという意味もある。自我と自己の両方をバランスよく発揮できると、自分らしく生きることが可能となる。現代の日本人は、それが出来ないで大人になっている人が多い。だから、自我が強過ぎてしまい、自己中や身勝手な人が多いし、自分の利益や損得しか考えない人も少なくない。個別最適しか考えず、全体最適の生き方が出来ないから、企業内、組織、家庭の中で孤立する。

 

自己マスタリーは、努力をすれば誰でもできるのかというとそうではない。自我と自己を統合すれば、自己マスタリーが可能になるという単純なものでもない。システム思考を身に付けるというのも大事であるが、それはマストでありイコールではない。どのように自己マスタリーを実現するかを説明するのに、『U理論』を使うと理解しやすいと考えられる。一旦Uの底まで落ちて落ちて落ち込んでしまい、自分の内なるマイナスの自己(エゴ)を徹底して認め受け容れることが必要となる。醜く穢れて私利私欲にまみれた自己を発見して、それを自己糾弾するのである。そうして初めて自己が確立できて、Uの底から浮き上がれる。

 

認めたくない酷いマイナスの自己を発見すると、人は愕然とする。だから、マイナスの自己は自分にはないものとして生きている人間が殆どである。こういう人間は、100年経っても自己マスタリーを実現できない。マイナスの自己を自分の心に発見して、とことん糾弾して、そのうえでマイナスの自己を慈しむことが求められる。そうすると、マイナスの自己をプラスの自己に転化させて、全体最適の価値観に基づいた生き方にシフトできるのである。マイナスの自己が大きければ大きいほど、プラスに転化したときのエネルギーは強大になる。自分の深い心を素直に謙虚に見つめることが出来る人しか、自己マスタリーを実現できない。

 

※自己マスタリーを実現するための学習・研修を受けたいと思う方は、イスキアの郷しらかわにご相談ください。コロナ感染症が収まれば、研修の受講をお受けします。資料や参考図書を紹介してほしいという方には、お知らせしますので問い合わせフォームからご相談ください。

気象病のつらい症状を和らげる

気象病という病気があるということが、ようやく世間に認知されてきた。気象病という疾病を専門的に研究している医科大学の教室もあるくらいで、それだけ多くの患者がいるという証左であろう。この気象病のつらさは、本人でないと解らないだろう。なにしろ、痛みやしびれ、だるさと不快症状は、半端ないのである。自分も軽い気象病だから、その苦しさはよく解る。台風や低気圧、寒暖差、湿度、あらゆる気象条件の変化に身体がついて行けなくて、つらい身体症状が現れる疾病である。自分の力ではどうにもできないから苦しいのである。

 

気象病とは、気象条件の変化により、強い痛みやしびれなどの身体症状を表出させる疾病である。原因としては、低気圧による酸素不足から、交感神経が停滞して副交感神経が働き過ぎて痛みなどを発症するメカニズムだと推測されている。あくまでも推測なのだが、副交感神経が強く働くと、一時的な低血圧状態になったり血流の停滞が起きたりする。そのせいで、一時的な血管拡張や筋肉収縮に伴う血管などの圧迫が起きて、頭痛や肩こり腰痛などが発症すると推測される。特に台風などが近づくと、脳圧亢進による頭痛に悩まされる人が多い。

 

気象病で一番つらいのは、なんと言ってもしつこい頭痛だろう。あまりにも酷い頭痛だと、睡眠だって満足に取れなくなる。しかも、通常の鎮痛薬が効かないケースも少なくない。何故かというと、脳神経が興奮して起こす頭痛もあるからだという。そして、気象病による頭痛が頻繁に起きていると、低気圧が来るというだけで、脳が勝手に頭痛を起こしてしまうからやっかいである。だから、脳神経を遮断したり和らげたりする鎮痛剤が効く頭痛があるのだ。この頭痛だけでも和らげることが出来たら、楽になると思われる。

 

この気象病という病気は、鎮痛薬を飲む対症療法しかないと思われていたが、最近は市販の漢方薬も発売されているらしい。気象病が起きると予想された時に、事前にこの薬を飲むと症状が軽く済むと謳っている。それ以外に、気象病のつらさを和らげる方法としては、肩や首を軽くさすったりマッサージしたりするのが良いと思われる。あまり強く揉むと逆効果になる場合もあるから、固まった筋肉を緩める程度が良いと言われている。筋膜を揺すってリリースしたり、背骨や腰椎部分を左右にゆすって緩めたりする方法も良さそうだ。

 

この気象病は、特定の季節に起きる傾向がある。秋の台風シーズンは勿論だが、春先に移動性の低気圧と高気圧が頻繁に訪れる季節にも気象病が起きやすい。つまり、気圧の変動が著しい時期にこそ気象病の発症が多い。ゆっくりと移動する低気圧や高気圧なら身体が適応するものの、移動スピードの速い低気圧による気圧変化には適応しにくいのが人間の身体なのであろう。そして、気象病を起こしやすい体質があり、すべての人間が不調になる訳ではない。神経が過敏な人が気象病になり、鈍感な神経を持つ人は症状を起こさないらしい。

 

気象病を起こさないようにするため、またはその症状を軽く済ますためには、神経が過敏にならないようにすればいいが、自律神経であるから自分の意思ではどうにもならない。ただし、ストレスや疲れを溜め込まないようにするだけで、症状は軽くなろう。血流障害によって脳の血管内にうっ滞が起きて、脳への圧迫による頭痛が起きる。したがって、食事等で血流をさらさらと流れるようにすれば、脳内の圧迫も軽くなるに違いない。筋肉の緊張や収縮を防ぐことで肩凝りからの頭痛も防げる。軽い運動やストレッチ、そして軽いヨーガも効果があろう。

 

気象病の重い症状を起こす人に特徴的なのは、不安や恐怖を抱え込んでいる人である。そして、HSPの人も多い。したがって、日頃から身体全体が緊張する傾向にある。真面目で、頑張り屋さんが多い。気象病が女性に圧倒的に多いのは、心の不安が大きいからであろう。そういう意味では、誰かに守られていて寄り添ってもらっているという安心感があれば、気象病が起きにくいと思われる。自分にとっての安全と絆である『安全基地』がしっかりと設置できれば、気象病の症状を軽くできるかもしれない。安心できる安全基地との絆を深く結ぶのが、一番効果があるのではないかと思われる。

一歩を踏み出す勇気が出ない

メンタルが傷ついたり弱まったりしてしまい、一旦不登校やひきこもりの状態になってしまうと、社会復帰が非常に難しくなる。そして、よしんば不登校やひきこもり状態を上手く乗り越えたとしても、再度ひきこもりに陥ってしまうことになりやすい。自分では何とか社会に出たいと思い、勇気を振り絞って一歩を踏み出したいと思うのであるが、なんとも言えない不安が心一杯に広がり立ち止まってしまう。一歩踏み出す勇気がどうしても湧き出ないのである。どうして勇気がないのだろうかと悩みの日々を過ごすことになる。

 

不登校になったり休職・退職をしたりしてしまうのは、心に不安や恐怖を抱えているからである。その不安も特定の何かではなくて、得体の知れない不安であることが多い。何となく将来に対する不安を覚えてしまうことが多い。今まで、いじめや不適切指導を受けた経験を重ねたこともあるし、失敗や挫折を味わったことも影響しているかもしれない。ストレスがトラウマ化している影響もあろう。周りからいくら安心だよと言われたとしても、どんなにサポート体制を取ると言われたとしても、一歩が踏み出せないのである。

 

どうして、不安や恐怖を払拭できないのかというと、HSP(ハイリィセンシティブパーソン)という気質があるからだ。このHSPというのが、非常に厄介な症状を引き起こす。HSPは疾患名ではない。神経学的な過敏症に始まり、それが社会心理学的過敏も引き起こす。神経学的過敏は、聴覚過敏、嗅覚過敏、視覚過敏、味覚過敏、触覚過敏を引き起こす。強い光、大きな音や声、特定の臭い、強い味、触れられることなどに強い嫌悪感を示す。全部の過敏もあれば、一部の感覚だけに過敏を示すケースもある。非常に複雑である。

 

これらの神経学的過敏の症状が、やがて社会心理学的過敏をも引き起こすことになる。例えば大きい声や怒鳴り声に過敏を示す場合、騒々しい場所や多くの人の話し声が聞こえるような場所が苦手になる。騒々しい学校や職場が苦手な場所になるし、電車や飛行機など騒音を発する場所にも行けなくなる。スピーカーから聞こえる音に拒否反応を示すこともある。やがて、あまりにも神経が過敏であるが故に、相手の気持ちが手に取るように分ってしまうことがある。それも、相手の批判的気持ちや悪意に反応するのである。

 

HSPは対面恐怖症や対人恐怖症に発展しやすい傾向がある。なにしろ、人と会うことが怖いのである。しかも不思議なことに、親しくなればなるほど恐怖になるケースもある。相手との距離感が縮まってしまうと、自分の内面を覗かれてしまうような気がするのである。自分の心の裡にある、醜い心や汚い心が知られてしまう恐怖なのかもしれない。このような神経学的過敏と社会心理学的過敏が相まって、一歩を踏み出せなくなるのではないかと思われる。怖いと思う心だけでなく、身体が恐怖で動かなくなってしまうのである。

 

それでは、どうしてこのようなHSPという症状を引き起こして、不安や恐怖を感じてしまうのだろうか。それは、根底に愛着障害(傷ついた愛着・不安定な愛着)があるからだ。そして、何故に愛着障害になるのかというと、安全と絆を保証してくれる『安全基地』がないからである。人は安全と絆が保証されていないと、いつも不安や恐怖を抱えて生きることになる。乳幼児期からいつも不安や恐怖を感じさせられながら育てられると、大人になってからも安心できなくなる。得体の知れない不安にいつも押し流されそうになるのだ。

 

いつも不安になる愛着障害があるうえに、さらにHSPがあるから、一歩が踏み出せず臆病になってしまうのである。それでは、愛着障害を抱えるといつまでも一歩が踏み出せなくなってしまうのかというと、けっしてそうではない。愛着障害を癒すことができてしまえばHSPも和らげることが可能になる。愛着障害を乗り越えてしまえば、一歩を踏み出す勇気が出てくるに違いない。愛着障害を乗り越えるには、臨時的なものであったとしても安全基地が必要不可欠である。安全と絆さえ保証され続けたら、不安や恐怖を乗り越えることができるし、一歩を踏み出す勇気が出てくる。

芸能人の自殺連鎖が止まらない

昨日の未明に女優の竹内結子さんが自殺したというニュースが流れた。自宅の寝室クローゼットで首を吊っての自殺だという。卓越した演技力のあった女優さんに、何があったのだろうか。それにしても、三浦春馬さんの自殺に始まり、その後に芦名星さんが後を追うように自殺して、今度は竹内結子さんということで、自殺連鎖が止まらない。不思議なことだが、自殺は連鎖するのである。おそらく、無意識に刷り込まれてしまい、発作的に自殺するのであろう。心配なのは、芸能人が亡くなる度に、一般の方の後追い自殺が増えることだ。

 

3人に共通している生活習慣がある。それはお酒である。三浦春馬さんは、かなり問題があるような飲み方をしていたと伝えられている。芦名星さんも、かなりの酒豪だったらしい。竹内結子さんも豪快な飲み方だったらしいが、キッチンドリンカーだったとも言われている。コロナ禍によって外飲みが制限されてしまい、宅飲みを強いられたことで、ストレスを上手く処理出来なかったのかもしれない。大酒飲みがすべて自殺をしてしまう訳ではない。しかし、3人がアルコール依存症のような飲み方をしていたように思える。

 

アルコール依存症の人がすべて自殺しやすい訳ではない気がする。どちらかというと、重症のアルコール依存症になった人は自殺しにくいように思えて仕方がない。完全なアルコール依存症になり切れず、中途半端にアルコールに依存していて、何とか日常生活に支障をきたさないような程度にお酒を飲む人が危ないように思える。そして、まさしく三浦春馬さん、芦名星さん、竹内結子さんがそのような飲み方をしていたのではあるまいか。軽い依存症のようなアルコール摂取こそが、危険なような気がする。

 

いずれにしても、軽度だとはいえお酒に依存するというのは、心に問題を抱えている証拠である。単純に、お酒が好きだということだけではない。心の中にぽっかりと穴が空いたように感じて、強烈な生きづらさを抱えるが故に、それを紛らわせるためにお酒にのめり込むのではないだろうか。アルコール依存症が重症化してしまう人は、お酒に強いと言われている。重症化したアルコール依存症の人は、自分自身を見失っているケースが多い。だから、どうしようもない自分を消し去りたいとは思わないのかもしれない。

 

よく自殺した人のことに、原因はこうだったに違いないという報道やSNSの書き込みが増える。その中で、守るべき存在や悲しむ人があるのにどうして、ということを言う人がいる。それは、一度も死にたいと思ったことがない人なんだろうと思う。人は、守っていかなければならない人や自分の死を悲しむ人がいたとしても、希死念慮を消し去ることは出来ない。どんな状況だろうと身を挺してでも自分を守ってくれる存在、深い絆で結ばれた愛し愛される関係の人がいれば、自殺をしようとは思わないのである。

 

お酒に生きづらさの解消を求める人、またはお酒でしか自分の悲しみや寂しさを埋められない人は、『安全と絆』がないのだろうと思う。安全と絆というのは、自分のことをあるがままにまるごと愛してくれる存在である。そして、どんなことがあっても自分を守ってくれる存在であり、けっして見捨てることをしない信頼できる人である。それを心理学用語で、セーフティベース(安全基地)と呼んでいる。自殺をしようとする人は、自分にとっての安全と絆である『安全基地』がないのだと思われる。

 

著名な芸能人が自殺をすると、一般の方々が自殺連鎖を起こすことが多い。もし、自殺を考えている人がいたら、自分の安全基地になってと、誰かに求めてほしい。それは、臨時的な安全基地「いのちの電話」のような電話相談でもいい。安全と絆を一時的にでも確保してもらいたい。そして、いずれはリアルの世界で安全基地を作り上げてほしい。自分の住まいに安全基地がないのであれば、違う環境にしばらく身を置くのもよいだろう。自然が豊かな所に心を癒す旅に行くのもいいだろうし、農家民宿のような処で土と触れ合う旅もいい。きっと、そこで安全基地が見つかるに違いない。

自助共助公助を政治スローガンに?

安倍内閣が総辞職して、菅内閣が新しく発足した。その新内閣のスローガンが、自助・共助・公助の社会を目指すということらしい。多くの人々はこのスローガンを聞いて、当然なことだと思うことであろう。まずは、自分でできることをしてみる。つまり自助だ。それでも不可能なことは、地域やNPO法人やボランティアなどの力を借りる。これが共助ということだろう。そして、自助・共助でどうしようもないことを公的機関で支援する。これが公助ということだろう。いたってまともな理論で、賛成する人も多いに違いない。

 

この自助・共助・公助の理論の根底にあるのは、小さな政府と自己責任論である。最初から公的サービスを宛にしないで、自分にできることは自分たちでしようということだ。さらに行政改革を推し進めるに当たって、公的サービスを肥大化させず、財政を健全化したいとの思惑も働いているに違いない。確かに、あまりにも福祉サービスを限りなく広げてしまうと、自助努力を怠ってしまう傾向があるだろう。だとしても、基本は自己責任であり、あまりにも人に頼ってはいけないと政治の長が声高々に叫ぶのはどうかと思うのである。

 

安倍政権は7年以上続いた安定した長期政権である。その政権中枢にいた人、安倍総理、麻生副総理、菅官房長官たちは、自己責任論を振りかざすことが少なくなかった。つまり貧困、病気、介護、失職の状態に追い込まれるのは、自分たちの努力が足りなかったからであるし、それを政府のせいにするなんてとんでもないと言いたかったように思えて仕方ない。経済的に恵まれて、何不自由ない豊かな生活をしている人は、自分で努力したからだと主張する。恵まれない生活をしているのは自己責任だと、本音ではそう思っていたに違いない。

 

共助の在り方について、少し考えてみたい。政府や財務省は、共助の社会を作りたいと思っているらしい。年々増加する公的支出を抑えたいからであろう。共助社会を目指す理由が、財政支出を少なくする為なら、他人任せの政策であり情けない。人間というのは、本来お互いに支え合いながら生きるものである。お上の財政事情から国民に共助を強いるというのは、本末転倒であろう。共助は自らが主体性を持ってするべきであり、政府から指示されるものではない筈だ。政府や行政が共助を声高に叫ぶのは、自分たちの無策ぶりを露呈するものだ。

 

自助・共助を先にして公助を最後に持ってきたのは、菅政権が公助を出来るだけ避けたいという思いが現われている。しかし、政府の役目は国民に自助・共助を勧めることではない。自助・共助は国民自らが主体的に選択して実行するものだ。政府が考えるべきは、公助の無駄・無理・浪費を防ぐことであり、より効率の高い公助の在り方を考えることである。そして、縦割り行政によって公助が滞っているケースを改善することである。さらには、本来受けるべき公助を受けられていない人々に、しっかりと公助を届ける役割を果たすべきだ。

 

共助の果たす役割というのは、単なる公助の手助けということではない。そのことを菅政権が認識していないのは、実に情けないことである。共助というのは、本来は公助で行うべきことを公的機関が取り組むシステムがないから、その先取りとしてNPO法人やボランティアが共助として実施しているのである。つまり、この先取りの共助システムをやがては公助で実施すべきなのである。さらには、共助を行うのは単なる支援が目的ではなくて、共助のシステムを作り実践することで、お互いが支え合う社会を実現するプロセスなのである。つまり、お互いの関係性や絆を深めて、心豊かな社会を実現するのが共助の真の目的である。

 

安倍政権下で所得格差が広がり、絶対的貧困が増加して公的扶助が増加した。それは、公助のやり方を間違ったとも言える。安倍政権の失政を反省することなく、菅政権も自助や共助を優先させて、公助を削減しようとするのは許せない暴挙だと言えよう。政治の役目というのは、自助や共助なんていう言葉が存在しない社会を作ることだと言える。つまり、国民全員が自立できて、お互いが当たり前のように支え合う社会の実現こそ、目指すべきなのである。自助・共助を政治のスローガンにするというは、本来あり得ないことなのである。

日本の子どもが不幸なのは何故か

子どもの幸福度調査結果が発表され、日本の子どもの幸福度が異常に低いというが解った。日本の子どもよりも低い国はあるが、先進国の中では断トツに低いというのは、ショックなことである。精神的幸福度だけをみると、なんと37位という。今の生活に対する満足度や自殺率などを勘案して決めるらしいが、日本の子どもが不幸な気持ちで生活しているということに驚く人は多いだろう。一方ダントツで一位なのがオランダである。どういう訳でオランダがトップなのかを分析すれば、日本の低い幸福度の原因も解るに違いない。

 

オランダの子どもの幸福度が高いのは、その教育制度にあると言っても過言ではない。自由度が高いと言うか、どのような教育カリキュラムにするのか、選択権が本人と保護者に委ねられているという点である。飛び級制度は今やどの国にもあり、オランダでも採択されている。他国と違うのは、留年するかどうかを本人が選択できるという所だ。理解度に不安があれば、もう一年その学年の教育を受けられる。そして、留年による不利益や同級生からのいじめが皆無だという。国民全体が留年を認識して容認しているからである。

 

オランダの義務教育のカリキュラムは、主要教科だけが決められていて、その他の芸術科目などは選択制らしい。日本のように画一的に決められている訳ではなくて、好きなことを自分で選べて学べるという。つまり、子どもたちに大人がすべての学びを押し付けるのでなくて、子ども自身が主体性を持って選ぶのだ。そして驚くことに、システム思考を小学生に教えているという。小学生時にシステム論を教えるというのにはびっくりする。自己組織化を子どものうちから学んで身に付けるというだから素晴らしいことだ。

 

オランダの家庭における親子の絆と触れ合いも濃密で良好らしい。親子で共に過ごす時間を何よりも大切にしているし、アウトドアでの遊びやバカンスを親子で楽しむことを最優先にしている。子どもを持つ親たちは、会社で残業をしないし、勤務後の飲み会や付き合いもない。家庭サービスの為にと、有休消化率も高い。常に親子で一緒の活動を心がけているから、親子の絆が深いしお互いの信頼関係も強固なものとなっている。当然、お互いが支え合い寄り添っているから安心感がある。故に、子どもは不安感がないからチャレンジ精神も旺盛だ。

 

オランダは国家全体で教育に対する考え方を確立していて、子育てや家庭での時間を多く持てるようにと政治と経済を動かしている。ワークシェアリングを実践している。同一労働同一賃金を徹底していて、正社員でもパート・アルバイトでも同じ時給で仕事をする。何時間働くかも比較的自由で、夫婦のどちらかが短時間労働を選択して、子育てや家事を主に担う。残業手当に対する課税を強化して、残業をさせないような労働政策を取っている。当然、労働時間が短くなるので、集中して働くから労働生産性が高い。

 

企業における働き方も、オランダには驚くような商慣習があるという。日本の企業経営における顧客に対する責任の中で、重要視しているのは納期である。日本ではどんなことがあっても必ず納期を守る。ところがオランダにおいては、納期を必ず守らせるという商慣習がないらしい。例えば、残業までしても納期を守るというのは、日本では常識である。オランダでは、社員に残業までさせて納期を守ることはない。そもそも、オランダでは納期が数日ずれ込むというのは最初から織り込み済みであり、違約金やペナルティを課すということないという。納期に対するしばりは働き方に影響するから、厳しくないというのは好ましい。

 

このように政治も経済面でも、オランダでは人間中心主義を貫いている。人間としての幸福や心の豊かさを重視していて、経済や金融面での成長は二の次である。経済界全体もそれを後押ししているし、政治も家庭・人間を大切にしている。そして何よりも人間どうしの関係性を大事にしているし、全体最適を重んじている。そのために、すべての国民が主体性・自発性・自主性を持てるように子どもの時から丁寧な教育をしているのである。システム思考という価値観を国民全体が持てるように教育しているのだ。だからオランダでは子どもが幸福なのであり、日本ではシステム思考と真逆の教育をして、システム思考を無視した政治や経済運営をしているから日本の子どもは不幸なのである。