育児パパは優秀な人材になる

イクメンという言葉がもてはやされている。何となくファッショナブルなワードで、格好よく聞こえることもあり、育児に参加する父親が増えてきそうにも感じる。しかしながら、イクメンと呼ばれる父親はごく一部であり、世の中の大多数の子育て夫婦では、母親に育児の負担が重くのしかかっているのが現状であろう。運動会や学習発表会、保護者参観には昔と違って大勢の父親が来ている姿を見かけるので、父親の育児参加が進んでいるように見えるが、実態は違うようである。

確かに父親が学校行事に、大勢参加してくれるようになってきた。でも、大事なのは日常における育児参加であり、特別な日だけカメラを持って子どもの姿を記念に収める良いパパぶりを発揮するのは、育児参加とは呼べない。そもそも、育児参加という言葉が頂けない。あくまでも育児は母親が主体であり、父親はそのお手伝いだから『参加』だという意識がありありである。育児の責任は、父親と母親の両方にある筈である。その責任を、父親が放棄して母親に押し付けるのは問題であろう。育児とは両親が協力し合いながら行う共同作業であるべきだ。

世の中には、共働き家庭で父親が育児の多くを担っているケースがある。残業を極力控えて、家庭中心のシフトを敷いて、家事育児に奮闘している父親がいる。そういう父親は会社や組織ではあまり使えない人材かというと、けっしてそうではなく優秀な人材であることが多い。時間を有効に使うので時間効率がとても高くて、発想力や企画力でも他にはないような高い能力を発揮する。さらに、部下や女性社員からも人気があり、とても信頼されている。顧客からも好かれるし、驚くような成績も上げている。

一方、育児には興味を示さないばかりか、妻に育児を押し付けて家事育児には手も出さない口も出さないというような社員・職員は、実は仕事が出来ないというケースが少なくない。決められたルーチン作業はこなすが、何か微妙な調整や根回しが必要な仕事は無理なことが多い。さらに、他の社員・職員との良好な関係性が築けないし、部下からの信頼もなく嫌われるケースが多い。女性社員からは好かれていないことが多い。つまり、空気が読めないのである。顧客からもあまり好かれない。

何故、そんなことになるかというと、育児をするというのは実は非常に高い能力を要求されるからである。赤ちゃんと共に過ごすと、言葉を話せない赤ちゃんが何を要求しているのか、何をして欲しいのかを、常に想像しなくてはならない。微妙な態度や表情から、赤ちゃんの心を読み取らなければならないのである。つまり、赤ちゃんの気持ちになりきって感情を共有しなければ育児は出来ないのである。現代の若い男性にとって、一番苦手なのが感情共有である。空気が読めない男性が多いというのは、こういう理由からである。

そもそも女性の脳梁が太いので、右脳と左脳の情報交換がスムーズであることから、育児や家事を上手にこなすことが出来る。赤ちゃんの感情を読み取る力も高いのは、脳梁が太いからである。男性は生まれつき脳梁が細いので、右脳と左脳の情報交換が苦手であり、周りの人々の感情に対して共感できないことが多い。だからこそ、周りの人々の気持ちを推し量る能力を高める努力をしなければ、空気が読めなくて使えない社員・職員になるのである。家事・育児を積極的に、しかも楽しみながら実行していると、脳梁の機能が徐々に高まってくるのである。料理なんて、同時進行の作業が出来なければ、時間がかかり過ぎてしまい、美味しく出来ないばかりか失敗をする。育児は常に複数のことを同時にこなさなければ、出来ない複雑な作業である。これらのことを何度も繰り返すことで、脳梁の機能が亢進して、仕事の能力も高まるのである。

父親が育児をし始めるのは、かなりハードルが高い。小さくて弱くて壊れそうな赤ちゃんを抱くのも怖いし、おしめの交換だって最初は勇気がいる。小学生高学年や中学生の頃に、育児参加をした経験があれば、男性でも育児をすんなり出来る。甥や姪の育児をした経験がある男性ならば、育児にすんなり入り込める。そういう経験がない中学生や高校生に育児経験を積ませるような学習カリキュラムを組むのがよいと思われる。親戚に赤ちゃんが生まれたら、是非とも子どもに育児を経験させてもらうとよい。赤ちゃんが好きになるに違いない。そうすれば、将来には育児パパになり、優秀な社員・職員になれると確信している。

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休職者と中途離職がないのが良い職場

職場から休職者と中途離職者をゼロにするなんて、絶対に不可能であると思っている人が多い。しかし、戦前の会社や行政組織においては休職者なんて殆ど居なかったし、中途離職者は稀な存在であった。終身雇用が当たり前であり、男性職員は定年退職まで勤務していたし、女性だって結婚退社ぐらいしか中途離職はなかったのである。現在、どの職場でも休職者はかなりの人数に上っているし、中途離職者をする職員もかなりの人数である。これは企業や組織にとって多大なる損失であるし、本人にはかなりの不利益になる。

休職をする理由は、病気によるものが多く、そのうち殆どはメンタルが休職の原因であるようだ。そして、中途離職の理由もまたメンタルが多いと言われている。そして、メンタルを病むのは、本人にその原因もあろうが、職場の人間関係によることが多い。特に、上司に問題があるケースが殆どであると想像できる。特に中途離職者の離職理由は、本人が職場では明らかにしていないが、上司と折り合いが合わなくて辞める決断をしていると思われる。勿論、上司だけに人間関係悪化の原因を押し付けるのも乱暴ではあるが、それだけ問題上司が多いのも事実であるに違いない。

離職率50%であった会社が、数年後になんと10分の1の5%になった会社がある。オンデーズという眼鏡販売の会社がそれだ。販売不振で倒産寸前の会社に、その経営手腕を買われて社長になった際、離職率が50%だと聞かされて唖然とした。どうしてそんなに離職率が高いのだと一般の社員に聞くと、「社長は何も解らないんですね」と嘆かれたという。管理職は社長が選んでいたが、上にゴマすりをしているイエスマンばかりで、部下に対する態度がとても酷くて、職場環境が最悪だったらしい。

それで社長は一計を案じ、管理職は部下の社員による選挙で選ぶという制度を導入したのである。それから会社の職場環境は一変したと言う。管理職は立候補制であるから、部下から信頼されて支持を受ければ、実績や経験、能力に関係なく誰でもなれる。当然、若くて経験年数に関係なく管理職になれるのである。俄然、社員のやる気が出てきた。売り上げも鰻上りで、倒産の危機も乗り越えて、優良企業になってしまった。部下の話もよく聞いて、パワハラ、セクハラ、モラハラも皆無になった。当然、休職者もいなくなったし、メンタルを病む社員もいない。

投票制で管理職を選ぶなんて、なんという暴挙だと思う人も多いし、部下におべっかを使って、おもねる態度をする上司ばかりになり、強いリーダーシップが取れないだろうと危惧する人も多かったという。ところが、実際はそんなことがなかったという。投票で選ぶということは、自分たちが選んだ責任が生ずる。選ばれたほうも、投票で選ばれたという自信が持てるし、信頼されたという確信から思い切った決断も出来るようになったという。勿論、決断する前に部下全員から有用な情報が上がるようになったのは当然である。

殆どの会社や組織において、管理職は社長や上司に気に入られなければなれない。民間のそれもオーナー社長であれば、社長と気が合わないと管理職にはなれないのである。当然、社長には良い情報しか上げないし、マイナスの結果報告や自分のミスなどは絶対に伝えない。部下のミスを自分の責任だと捉えないし、余計な事をして怒られたくないと思ってしまい、主体性や自発性を喪失してしまう。つまり、主体性、自発性、責任性というリーダーに必要不可欠の人間力を失うのである。部下は、こういう上司に仕えたらモチベーションを失うし、自己成長しない。

本人にある程度の原因はあるものの、休職したり中途離職したりするのは、上司にその原因の大半があると言っても過言ではない。そして、そのような管理職を選んだのが社長であり、行政職であれば首長とその側近である。だから、休職者や中途離職者が多い職場をドラスティックに変革しようとするには、まずはトップの意識が変わらなければならない。休職者や中途離職者が出るのは、そしてメンタルを病む人が多いのは、その職員本人の気質や人間性にあると思い込んでいるうちは、休職者と中途離職者はなくならない。本人の再教育も必要であろうが、管理職の選び方と幹部研修のやり方を大胆に変革することが求められるのである。

 

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無条件の愛を注げない親

子育てにおいて、母性愛と父性愛の両方が必要なのは言うまでもない。母性愛とは無条件の愛、または無償の愛と言い替えることができる。一方、父性愛とは条件付きの愛、しつけ愛や承認の愛とも言われている。父性愛も大事であり、子育てにおいて必要な愛であるが、母性愛である無条件の愛こそが子育てで最も重要で必要不可欠な愛と言えよう。これがないと、子どもは健全な成長が妨げられてしまうだけでなく、大人になって大きな生きづらさを抱えてしまうからである。

この無条件の愛は、母親からの愛でしか受け取ることが出来ないかというと、そうではない。母親だけでなく、祖母や祖父から受容することもあるし、父親が無条件の愛を注ぐことも稀ではない。大切なのは、父性愛と母性愛を注ぐ順序であると、児童精神科の専門家は説いている。まずは、母性愛をこれでもかとたっぷりと注いで、それから父性愛を注ぐべきだと主張している。乳幼児期には、まず無条件の愛で満たされることで、しっかりとした自己肯定感を確立したうえで、父性愛を注ぐことが大切なのである。

何故、無条件の愛が最初に必要かというと、子どもの発達段階においては、まずは自分の存在価値がしっかりと感じられ、いかなる時も愛されて見捨てられることがないんだと確信する必要があるからだ。この見捨てられるかもしれないという不安や恐怖感があると、その後の生き方に大きく影響してしまうのである。この見捨てられ感というのは、大人になっても深刻な影響を及ぼすし、父性愛を注がれた時に、いう事を聞かなければ自分は見捨てられてしまうのではないかという恐怖心に追いやられるのである。

母性愛である無条件の愛をたっぷりと充分に与えられず大人になってしまった人間は、健全な子育ても出来なくなってしまう。どちらかというと条件付きの愛しか我が子に注げなくなってしまうのである。また、パートナーに対していつも無条件の愛しか与えられなくなり、健全な夫婦愛や恋愛を育めなくなってしまうのである。夫婦関係や恋愛関係が破綻しやすいし、子どもが何らかの問題行動を起こしやすくなる。こういう無条件の愛の枯渇状態は、世代間連鎖を起こしてしまうことが多い。負の連鎖が続くのである。

この無条件の愛を注げない親というのは、想像以上に多いのが実態であろう。おそらくは、少なくても半数以上の親が無条件の愛を注げないのではなかろうか。大人になって問題行動を起こす人々、例えば犯罪者、セクハラ、パワハラ、モラハラをする人々、覚醒剤などの薬物依存、アルコールやニコチン依存、ギャンブル依存、過食や拒食、各種依存症、生活習慣病、メンタル障害などを起こす確率が限りなく高くなる。恋愛恐怖症の人も無条件の愛が不足したからであろう。

無条件の愛が不足して、条件付きの愛しか与えられないで育ってしまった大人は、揺るぎない自己肯定感が確立されていない。いつも不安感や恐怖感を持っている。愛する人から見捨てられるのではないかという不安を持つ。配偶者から見捨てられてしまうのではないかという不安もあるし、子どもから見捨てられてしまい愛されないのではないかという不安もある。激情的に怒り出したかと思ったら、いやに子どもにおべっかを使い始めたりする。子どもにおもねるような態度をしたかと思うと、急に怒り出すような不安定な子育てをするのである。

無条件の愛を注げない親というのは、すべてではないものの『愛着障害』的なパーソナリティを持つことが多い。無条件の愛が枯渇しているが故に、いつも無条件の愛を渇望している。パートナーや周りの人から愛されたいと熱望するが、その人格の歪み故に、無条件に愛されることがない。益々、孤独感が増してきて、我が子を無条件で愛することが出来なくなってしまう。愛というのは循環するものだ。豊かに無条件の愛で包まれた人間は、周りの人々を愛で満たすことができる。無条件の愛を注げない親は、まずは自分の本当の心を知ることから始めることが必要であろう。

 

※イスキアの郷しらかわでは、無条件の愛を注げない親のサポートをしています。または親から無条件の愛を注げられなかった子どもの支援もしています。自分がもしかするとそうではないかと気付かれた方は、ご相談ください。問い合わせフォームからお願いします。

恩返しと呼ばれる出藍の誉れ

あの天才と呼ばれる藤井六段が、師匠の杉本七段に勝利したニュースが流れている。将棋界では、師匠と公式戦で対戦して勝利することを『恩返し』と呼ぶらしい。藤井六段の活躍も素晴らしいが、杉本七段の態度も立派であると賞賛されている。師よりも弟子が優れることを、出藍の誉れと呼ぶ。『青は藍よりとりて藍よりも青く、氷は水よりつくりて水よりも冷たし』と荀子が弟子に諭す際に言った言葉らしい。杉本七段は出藍の誉れを実践したのだから、師匠として素晴らしい足跡を残したと言えるだろう。

学校の教育現場で、杉本七段のような先生ばかりであったなら、不適切指導なんてことは起きる筈がない。ところが、出藍の誉れという精神を限りなく発揮して、子どもたちを育成している教師がどれほど居るだろうかと疑ってしまうような出来事が起き続けている。どちらかというと、自分たちの保身や評価を気にして、子どもたちを犠牲にしている先生が多いのではないだろうか。指導死なんて不幸な事件が起きるということが信じられないことであるが、教師による言葉の暴力だけでなく体罰もなくならない学校現場が実在する。

スポーツ界でも、出藍の誉れが起きているケースもあるが、逆の例も少なくない。例えば、相撲界である。関取が付き人に対して暴力を奮う行為が起きているし、師匠である親方が弟子に対していじめのような行為をしているのも事実である。相撲界というのは、絶対的な縦社会であることから、権力を持つ者が持たない者に対して暴力や暴言を奮うのが日常茶飯事になっているのであろう。出藍の誉れという精神が発揮されているとは思えないような社会らしい。

出藍の誉れという精神がまったく発揮されなくなってしまったのは、企業内における上司と部下の関係であろう。国や県、市町村の行政現場でも出藍の誉れが起きにくい職場になってしまっている。職場というのは、上司が部下を指導教育する場でもある。仕事を問題なく遂行するためには、部下を一人前にする為に教え育てなければならない。優秀な部下を育てることは、上司の大事な務めである。ところが、部下をある程度のレベルまでは育てられる上司がいるものの、自分を遥かに凌駕するような部下を育てられる上司は皆無に近い。何故、そんなことになっているのだろうか。

企業内における競争意識は、非常に高い。若者たちに出世欲はあまりないと言われているが、中年を過ぎた頃から出世競争に否が応でもさらされてしまう。会社に勤務しているなら、少なくても役員にはなりたいと思う人が多いことであろう。しかし、役員にまで昇進する人はごく少数の選ばれた社員たちである。当然、業績を残そうと必死になる。同僚たちは競争相手だし、下手すると部下が自分を飛び越えて上司になるかもしれない、弱肉強食の社会である。自分で苦労して仕入れた情報や大切なノウハウをすべて部下にすべて教えてしまったら、自分を乗り越えてしまい、自分が取り残されてしまう恐れがある。出藍の誉れと呼ばれるような、自分よりも優れた部下を育成することを無意識で避けてしまうのは当然であろう。

企業内や行政の職場において、行き過ぎた競争意識が大きいが故に出藍の誉れが起きず、上司を凌駕するような部下が出現しなかったらどうなるか。年々、社員や職員は能力のレベル低下が起きてしまい、企業業績も低下し続けることになる。企業の生産性の低下が問題になっているが、これもひとつの要因であろう。企業の存続にも影響する大問題なのである。競争主義を導入すると、企業内におけるノウハウや情報の共有が阻害されるだけでなく、優秀な社員の育成が出来なくなり企業業績が低迷するのである。富士通やシャープ、東芝のケースを見れば良く理解できるであろう。

企業内における評価にも問題がある。上司やリーダーの評価基準として、本来は自分よりも優秀な部下を育成したことを何よりも高く評価するべきである。残念ながら、このような評価基準を一番大切なものとして設定している企業や行政の職場は皆無である。経営者たる者、出藍の誉れの精神を最大の企業文化として取り入れるべきである。そして、全体最適の価値観を共有して、個別最適を恥じるような企業文化を醸成すべきと考える。そうすれば、出藍の誉れの精神をいかんなく発揮できる職場になるに違いない。これが、企業を永遠に発展継続させる秘訣である。

子どもが腰痛を訴えたら

子どもが腰痛を訴えて、その痛みが一時的なものなら心配ないが、長い期間に渡り痛みが続いたら、注意が必要である。何故なら、その腰痛は子どものストレスや過度のプレッシャーにより起きている可能性が高いからである。しかも、その腰痛を放置しておくと、メンタルの障害を起こしてしまう怖れがあるし、やがて不登校やひきこもりになるケースもあると思われるからである。

腰痛を訴える子どもに共通した特徴がある。まずは非常に真面目であり、優しくて思いやりのある子である。そして、何があっても安易に助けを求めず、我慢強い性格を持つ。だから、学校で嫌なことがあったりいじめにあったりしても、誰にも言わずにじっと耐えることが多い。または、他の子どもが学校で嫌がらせやいじめを受けているのを見ると、それを助けてあげられない自分を責めるのである。このように、良い子が多いという特徴がある。

このような良い子は、自分の心の中にある感情を吐き出すのが苦手であり、心の奥底に仕舞い込んでしまい、ないことにしてしまうことが多い。そういう感情の中でも、嫉み、妬み、憎しみ、怒りのようなマイナスの感情を外に出してしまうと、回りから嫌われたり軽蔑されたりするので、じっと我慢するのである。その際に、マイナスの感情を忘れるために、無意識の脳がわざと腰痛を起こしてしまうのである。そうすれば、腰痛に集中して、マイナスの感情を一時的に保留することができるのである。

学友、先生、親、兄弟などに対するマイナスの感情を爆発させて関係性を損なわないように、痛みを起こすというのは、子どもだけではなく大人にも起こることである。この痛みによる防御システムは、脳の誤作動とも言えなくもない。痛みの発症システムは、簡単に言うと脳が自律神経の交感神経を刺激して、血管の収縮をさせて血流障害を起こすのである。そうすると、痛みの原因物質であるブラジキニン、ヒスタミン、セロトニン、プロスタグランジンなどが血管内に溜まって痛みを起こすのではないかと考えられている。

子どもが腰痛を訴えたら、親に対するSOSだと思った方がよい。妻が腰痛を訴えたとしたら、夫に対するSOSだと思ってほしい。子どもたちは、苦しんでいるんだよ、辛いんだよと無言の助けを求めていると思って対応することが求められよう。妻たちは、自分のことをもっと解って欲しい、苦しみや悲しみ、そして怒りを我慢しているんだよと訴えていることを、夫たちは解ってあげなくてはならない。

子どもたちは、なかなか自分の悩みを打ち明けようとはしない。だからこそ、親や支援者は子どもたちの気持ちに共感し、けっして否定せずまるごと受け止め、子どもの気持ちになりきって、そっと寄り添うことから始めなければならない。最初から解決策を押し付けるようなことをしてはならない。まずは、子どもが抱えている問題を自分のことのように受け止めて、子どもと同じような感情を持つことが大切である。そして、何度も質問を繰り返しながら、自分の考えを押し付けることなく、安心して感情を表出させるように優しく支援する態度が求められる。そうすれば、少しずつ子どもは、自分自身で自分の感情との折り合いのつけ方を気付くのである。

子どもは親が大好きである。だからこそ、親に心配をかけたくないし、親に嫌な思いをさせたくないのである。自分さえ我慢すれば、無理すればうまく行くと思いがちになる。それも、良い子であればなおさらである。そういう子どもであればこそ、親は真の味方になる必要がある。良い子でなくてもいいんだよ、無理しなくてもいいんだよ、どんな子どもであっても、あなたの味方であり見捨てるようなことは絶対にないと、明らかに子どもが確信できる態度と言葉で支援すべきである。そうすれば、子どもは安心して悩みを吐露するだろうし、親を信頼して問題解決を任せてくれるに違いない。たとえ問題を解決できなくても、真の味方と理解者が一人でも現れたなら、腰痛は見事に解消することであろう。

子どもの腰痛は危険!

腰痛を訴える子どもが増えているという。腰痛と言えば、本来は中高年の男女が悩む症状なのであるが、それがどうやら子どもたちにも急増してしまっているらしい。若い筋肉と骨格を持っている子どもが、腰痛を患うことは本来あり得ないことである。しかし、実際に腰痛を子どもたちが訴えている。腰痛を主訴に整形外科を受診している子どもが大勢いるというから驚きである。それも、腰痛だけでなく首の痛みや肩こりまで訴える子どもが多いというのは、まるで高齢者のようではないか。

医療の専門家によると、子どもたちの腰痛や肩こりの原因は、重すぎるランドセルによる筋肉痛ではないかという分析をしている。昔のランドセルと違って、一回り大きくなって豪華になったお陰で重量も増しているという。そこに、教科書や副読本の記載内容増えて、重くなっているらしい。そこに、塾の参考書も入っているというのである。重くなり過ぎたランドセルを背負って、学校から塾にまで遠回りして帰るので、筋肉痛が酷くなっているというのである。

果たして、それが腰痛のすべての原因なのであろうか。腰痛が起きている原因は、骨とか神経系ではないというのは、確かだそうである。あくまでも、筋肉内に起きているというのは間違いなさそうである。疲れによって筋肉に痛みが起きるメカニズムというのは、こういうプロセスを辿ると見られている。まずは筋肉が疲労してくると、血管内に疲労物質の乳酸が溜まる。さらに筋肉が疲れてくると、筋肉が収縮する。そうすると、血管が圧迫されて細くなる。血管内の血液の流れが悪くなり、乳酸が流れにくくなり痛みを発するらしいのである。

ところが、この乳酸原因説は現在否定されつつあるというのである。運動後、乳酸が多くなると言われていたが、実際に乳酸値を測定するとあまり増えていないことが解ったのである。最近では、筋肉痛の原因は筋繊維の炎症によるものだという説が有力である。筋肉を使い過ぎると、筋肉繊維の細かい部分が傷ついてしまい、その傷を治す時に炎症が起きて痛みが発するという説が有力になった。傷を治す際に、ブラジキニン、ヒスタミン、セロトニン、プロスタグランジンなどが筋肉内の血管に多く生まれて痛みが出るらしい。

子どもの腰痛は、この菌繊維の炎症によるものであろうか。どうも、この菌繊維の炎症による筋肉痛とは違うような気がするのである。腰痛が起きる他の原因というと、繊維筋痛症がある。これは脳の誤作動によるものだと言われている。他にはTMS(緊張性筋炎症候群)というものがある。これは、怒りとか憎しみを無意識下で脳が忘れさせようとして起きる痛みである。子どもの腰痛の本当の原因は、もしかすると脳による誤作動か無意識下で起こしている筋繊維の炎症かもしれない。これらの要因は、ストレスやプレッシャーからである。子どもたちの脳に大変なことが起きているのかもしれない。

今までの多くの方々の心と身体の悩み相談を受けていて、メンタルや深刻な身体の疾病についての経験談を聞かせてもらった。その中で殆どの人に共通しているのが、重大な疾病やメンタル障害を起こす前に辛い腰痛の症状があったという点である。不思議なことに、多くの人々が腰痛や肩こりに長い期間悩まされてきて、最期にはメンタル障害や重篤な疾患に追い込まれているのである。そして、家庭や職場で多大なストレスやプレッシャーに悩まされていたというのも共通している。特に、深刻な人間関係に悩んでいて、自分の努力ではどうしようもない状態に追い込まれていたというのである。

もしかすると、子どもたちの腰痛の身体的な原因ではなくて、多大なストレスやプレッシャーによるものではないのではなかろうか。中学生受験や学業成績に対する親からの過剰なプレッシャー、回りの教師や学友からのいじめや嫌がらせによるストレス、家族との軋轢などが複雑に絡みあって、子どもたちの脳に無意識に誤作動などを起こさせて、痛みを発症しているとすれば大変なことである。近い将来、メンタル障害や重篤な身体的疾患を起こしはしないだろうか。または不登校やひきこもりを起こす前の症状ではなかろうか。深刻な腰痛や肩こりを起こしている子どもたちに対して、適切なカウンセリングが必要ではないかと思われる。単なる腰痛だからと、投薬治療を選択してほしくないものである。腰痛はメンタル障害のサインだと心得たい。

巣立ちの息子に伝える父の言葉

今の時期になると、三人の息子が大学入学のために独り暮らしを始める際に、こんな言葉を必ず伝えていたことを思い出す。三人の息子は、それぞれ県外の大学に入学したので、アパートに入居するために、3月のこの時期に引っ越し準備をしていた。その息子に対して大事な話があると、二人きりでお互いに正座して、じっくり話をした。それは、一人の男として人間として生きていくうえで必用不可欠なことであり、息子に対して父親しか言えないことでもあった。

その話とは、女性に対する思いやりであり、女性の人権を尊重するということでもあった。身体的にも脆弱で精神的にも傷つきやすい女性に対して、男たるものはその弱さや傷つきやすさをまずは深く認識すべきだということを伝えた。そのうえで、女性の身体を傷つけたり精神的な迫害をしたりしてはならいないということを肝に銘じておくようにと言い含めた。さらには、女性の尊厳を傷つけてしまうようなことも、絶対に避けるべきだということも伝えたのである。

例えば、単なる欲望の捌け口として、女性を利用しようとしてはならないし、相手の望まない性交渉を強要してはならないこと。性行為は、お互いの同意が必要であることは勿論のこと、根底に愛情が伴わないような衝動的性交渉は避けるべきこと。ましてや、性行動には妊娠という結果がついてくるので、お互いに経済的な自立基盤がない時期に、結婚するという覚悟がなければなるべく性行為はすべきでないということ。万が一妊娠させてしまうと、学生の身分では堕胎せざるをえず、そうすれば2度と妊娠が出来なくなるような心身のダメージを女性に与えてしまうから、絶対に避けなければならないことを伝えた。

さらには、男たるものどうしても愛欲や性欲に流されてしまうこと。だからこそ、そのような欲望にも毅然として立ち向かい、欲望に負けない精神性を持つことも伝えた。例えば、お酒を飲んだ時などは、ブレーキが利かなくなることが多い。だからこそ、自分を制することができるレベルまでしか酔わないような飲酒をしなさいと言い聞かせた。飲んだ時に歓楽街を歩いていると、いろんな誘いをかけられる。くれぐれも呼び込みを使って誘い込むような飲食店には、危ない目に遭うから絶対に付いて行かないようにと釘を刺した。

世の中には、女性の身体を売り物にした商売が存在する。例えば、下着姿や裸を売りにしたようなキャバレーやパブがある。飲みに来たお客に売春をさせる店もある。ソープランドと呼ばれる場所もある。このようなお店に行くことは、絶対に勧められない。何故ならば、お金で女性の身体を自由するということは、本人も納得しているし収入を得る為とは言え、女性の尊厳を傷つける行為であるからである。女性がお金の為に自分の身を売る行為は、自らの尊厳を傷つけてしまい、自己否定感情を強化させてしまうから不幸な人生を歩むことになりやすい。それを利用する男性がいるから、このような商売が成り立っていることを認識すべきだと付け加えた。

このように、独り暮らしをする息子らに対して、言いにくいことをしっかりと伝えたのである。看護師をしているwifeは、仕事柄多くの不幸な女性を見てきた。そういうこともあって、自分の息子が女性の心身を傷つけてしまうようなことをしてほしくなかったと思われる。だから、女性の親としては言いにくいことを、男の私に言わせたのだろうと思われる。娘を持てなかった私たち夫婦だからこそ、娘さんを大事に育ててきた親御さんのことを思うと、このようなことを息子に伝えざるを得なかったと言えよう。

武士道においては、惻隠の情(惻隠の心)を大事にしなさいと教えている。会津藩では、什の掟というものがあり、その中で『弱きものをいぢめてはなりませぬ』と戒めている。つまり、社会的弱者に対しては、強者たるものはいじめたり傷つけたりしてはならないということである。「強きをくじき弱きを助ける」をモットーにして生きるべきだと思っている。息子たちにも小さい頃から、惻隠の情としての弱きものに対する慈悲の心を持つことを、教えてきたつもりである。身体的には男性よりも圧倒的に弱い女性を、外敵や攻撃する者から身を挺してでも守るのが男性である。そのことをしっかりと伝えてから、独り暮らしをさせてきた。今でも、その戒めを守ってくれているものと信じている。

NPOで人材育成が出来ない訳

NPO法人は、経営としての自立は出来ないものの、人材を育てるという役割を果たしてくれていると、肯定的に見ている人は少なくない。確かに、ある意味人材育成という点ではある程度の貢献をしているように思える。県からの委託事業において、東日本震災後に緊急雇用委託事業として多大な金額が福島県を始め、宮城県、岩手県などでばらまかれた。その緊急雇用委託事業として多くの人材を雇用できて、NPO法人が人材育成に力を注いだのも事実である。

しかし、緊急雇用委託事業で育成した人材が、どれほど一般企業に厚遇で採用されただろうか。または、NPO法人で学んだことが、どれほど民間企業で生かされたのであろうか。NPO法人で、18年間に渡り実際にいろんな人材の育成に携わってきての感想であるが、満足な成長や進化を遂げた職員は残念ながら居なかった。勿論、私は非常勤の理事・役員であるし、指導専門の事務局も居たので、あまり出しゃばることを控えていたせいもあるが、満足な指導が出来なかった。それじゃ、専任の理事がしっかりと指導教育をしたのかというと、残念ながら満足の行く成長は出来なかったと言わざるを得ない。

確かに、ごく一部の人材について言えば、素晴らしい自己成長を遂げたと言えるかもしれない。しかし、それは例外中の例外であって、日々の事務的な業務に追われるのが常であり、民間企業にとっても必要不可欠な人材として成長できたケースは殆どない。何故、そんな結果になったかというと、NPO法人において人材を立派に指導育成するような常勤理事や事務局が存在しないからである。ごく稀に自己成長できたケースは、自ら学ぼうと決意し自分で勉学に励んだ人だけである。内部の人材育成によって見事に自己成長を遂げたと言える例は、殆どないと言っても過言でない。

NPO法人は人材不足である。勿論、事務員としてある程度使える人材はいる。しかし、自分で発案して企画し、デザイン思考に基づいて計画立案し、各行政機関や民間企業と調整しながら営業活動をして、事業管理をすると共に微調整しながら完遂し、すべてをマネジメントできる人材は皆無である。ましてや、リーダーシップを取りながら完璧なコーチング技法や心理学的な育成手法を駆使して、優秀な人材を育成できる常勤理事や事務局長はいない。NPOの常勤で働く人材は、残念ながら民間企業でも活躍できるような人材がいないのである。

民間企業において、それこそ将来にトップに立てるような優秀な人材は、間違ってもNPO法人に転職するようなことはあり得ない。どちらかというと、民間企業で役に立たないというか、他の役職員と良好な関係性が保てないような社員がNPO法人に転身するケースが多い。非常勤のNPO役員であれば、民間企業で活躍している人材が兼務する例もあるが、常勤の役職員ではあり得ないのである。1千万円前後の年収を棒に振って、NPO法人に年間300万円以下の年収で転職するなんて、考えられないのである。

人材が成長する為には、優秀な『師』が必要であろう。その師とは、圧倒的に優秀な能力や経験も必要であるが、関わる人すべてがリスペクトしてしまうような人間力が求められる。こういう人材が、民間企業には多く存在するが、残念ながらNPO法人の常勤役職員には居ない。NPO法人の役職員の理念は、立派であるのは間違いない。しかし、その理念は、経済的しかも精神的な自立に基づいたものでないと、所詮付け焼刃的なものでしかない。言葉だけの理念は、人々をけっして感動させないし、社会の意識改革を果たすことは出来ない。行動や実績を伴わないと、人々は信頼しないのである。

民間企業にだけ優秀な『師』が存在する理由は、次の通りである。民間の営利企業において存続と発展をし続ける為には、役職員はそれこそ一丸となって不退転の決意で努力する。民間企業は多くのステークホルダーを背負っているから、その利益を損なうようなことをしてはならないと、真剣に我が身を削ってでも精進せざるを得ない。残念ながら、NPO法人の経営にはそれほどの真剣さは感じられない。人材は切磋琢磨されないと成長しないのである。民間企業の役職員に、優秀な人材と『師』が育つのは当然である。NPO法人でも優秀な人材を育てる為には、ビジネスとしても成功するような自立経営が必要不可欠であろう。

一人でも真の味方がいれば

不登校・ひきこもりの青少年が増えている。学校も含めたこの社会があまりにも『不寛容社会』であるが故に、学校や職場などに居場所が見つからず、不登校やひきこもりという選択をするしかなかったと思われる。そんな不登校とひきこもりの状態にある青少年は、何とかこの状況から抜け出したいと、懸命にもがき苦しむ。しかし、焦れば焦るほどメンタルや肉体は傷つくし、自己否定感は益々強くなる。だから、不登校・ひきこもりの状態を抜け出せないのである。

保護者、学校関係者、職場の人たちは、何とか救い出したいと努力をするが、一度不登校やひきこもりの状態になってしまうと、どんな方法を駆使したとしても救い出せないのが実情である。メンタルの障害を何とかしなければと、医療や福祉、または精神保健の専門家に助けを求めるが、一時的な症状の緩和は認められるものの、残念ながら完全復帰は難しい。深刻なのは、本人が治療や復帰に対して消極的であるという点と、一度復帰したとしても再度不登校やひきこもりの状態に陥ってしまい、益々症状が強化されてしまうことである。

不登校とひきこもりの青少年に共通しているのは、非常に強い孤独感である。つまり、自分はひとりぼっちだという感覚に陥っているのだ。親もいるし、先生もいるし、上司や同僚もいるし、精神保健の専門家や医師も味方だと言っているものの、自分の本当の味方だとは当人が認識していないのである。ここに、実は社会復帰できない理由があると思われる。「私はあなたの味方ですよ」と温かく言葉掛けをしているのだが、その言葉が実は当人の心には響いていないことが多い。自分の真の理解者は、誰もいないんだと思い込んでいるのである。

何故、彼らはそんな孤独感を抱えてしまっているのであろうか。親も、先生も、上司や同僚も、精神保健の先生たちも、みんなが心配している。それぞれが、当人の味方になりたいと思っているのは間違いない。しかし、当の本人は味方と認識していないのである。それは、味方になり支援しようと思っている人たちが、その当事者であり利害関係者であるからである。当人を何とか完治させて、社会復帰させようという強い意思を持っていることが、ありありと本人に解ってしまっているが故に、皮肉にも『真の味方』になり得ていないのである。

悩み苦しみ、自分を否定して、自らを責め抜いてしまっている人間に、今の考え方や生き方が間違っていると、益々否定するようなことを知らず知らずのうちに言ってしまっているのである。言葉に出さずとも、あなたの生き方には同意できないという行動、つまりは不機嫌な態度や悲しい表情、無言の圧力を与え続けているのである。どんなに優しい言葉や態度であっても、本人の行動を否定するような意思が見え隠れしていたとしたら、当人はその人間を心から信頼することはないし、心を開くことはあり得ない。だから、味方とはなり得ないと言える。

まず大切なのは、悩み苦しんでいて、自分自身を情けなく思っている当人に対して、まるごと否定せずに受け止めることである。ひとつひとつの行動も、発する言葉も、考えも、性格も、人間性も、一切否定せずにすべてに共感することである。彼らの悲しみ苦しみ悩みをまるごと受け容れて、同じ感情を共有することが肝要であろう。例え、その認識や考え方が間違っていたとしても、間違いだと指摘せず、まずは共感することが必要なのである。そうすれば、彼らの心の奥底までも入り込むことが出来て、真の味方として認知してくれるのである。

そのうえで、否定していると思われないように優しく質問をしてあげるのである。それは、共に学び気付きたいという態度で、けっして相手に何かを気付かせようとする態度を取ってはならない。そうすれば、彼らは自分のこだわりや固定観念に対して、初めて疑念を抱くことが出来て、ニュートラルな考え方にシフトできるようになる。そして、新たな正しい物語を自分の心の中に築き始めることができるのである。その新たな物語を再構築するのを、そっと寄り添い支援するだけでいい。これが彼らの認知を再構築できる唯一の方法である。誰か一人でも、彼らの真の味方になりえることが出来たとしたら、苦しい生き方から抜け出せること可能になる。真の理解者が一人でもいれば、彼らは勇気を持って自立に向かって歩み始められるのである。

※「イスキアの郷しらかわ」での相談業務は、真の味方(理解者)になれる『ナラティブアプローチ』の手法を取っています。私たちは、利害関係者でもありませんし当事者ではないので、クライアントに対して支配的でもないしコントロール的でもありません。保護者に対しても、本人に対しても何も否定せずまるごと受け止めて共感をする態度で相談を受けています。相談料も研修料も頂いていませんから、あくまでもボランティアなので、相手に何も求めませんし、相手の尊厳を認めます。支援とは、本来はこのようにありたいものです。

自分を責めなくていいんだよ

不登校やひきこもりの状態にある子どもたちや若者に共通して存在するのは、自分を責める心である。自分がこのような状態に追い込まれているのは、自分が悪いせいだと責めているし、こんなにも弱い自分が許せないと思っている。そして、何よりも親に心配かけていることにも自責の念を抱いている。そして、自分でも何とか解決したいと思いながら、どうにもならない自分の勇気のなさも気にかけている。さらに、主に子育ての役割を果たしていた母親もまた、不登校やひきこもりの子どもにしてしまった自分を責めている。

★セツブンソウ(2月から3月に咲く花)

不登校やひきこもりをするようになったのは、本人と子育てをした親に責任があると思っている人は多い。何故なら、誰にとっても同じ学校の環境なのに、学校に行けないのは本人の心の弱さであり、そのように育てた親に責任があると考えてしまうからである。学校の先生も同じように考えている節がある。すべての児童生徒に対して、同じように教育と指導をしている筈なのに、どうして特定の児童生徒だけが不登校になるのか不思議だと思っている。本人とその保護者に責任があると思うのだから、口にこそ出さないが不登校の責任は学校にはまったくないと思い込んでいる。

しかしながら、不登校やひきこもりになった責任は、本人にはまったくない。ましてや、子育てをした親にも責任はない。不登校やひきこもりにさせてしまった本当の責任は、学校と社会にある。学校、職場、地域すべての社会は、不寛容社会だと言われている。他と少しばかり違っていると、仲間から排除したがる。自分達と同じ考え方や言動をしないと、仲間外れにしたり虐めたりする。他との違いを個性として認めないし受け容れないのである。不寛容社会は、多様性を認めないから生きづらいし居場所がない。だから、不登校やひきこもりがなくならないのである。

不登校児とひきこもりの青少年、そしてそのご両親に対して、自分のことを責めなくていいんだよ!と申し上げたい。そのうえで、敢えてご両親に助言したいことがいくつかある。先ずは、子どもたちは学校に行けないことで罪悪感を持っていることを認識してほしい。したがって、学校に行けないことを責めるのは止めてほしいということだ。自分で自分を否定している子どもを、さらに親が否定することは避けなくてはならないということである。学校に行けないことを、ことさら問題視しないでそっと見守ってほしい。

また、子どもを言葉で動かせると思い込むことは、よくないということも認識しなくてはならない。幼少年期までなら、言葉で子どもを動かせる。しかし、思春期に入ってある程度の自我が芽生えてくると、親の言葉で子どもを動かすことが出来なくなる。そして、やがてはお互いに言葉で主導権争いをしてしまうのである。さらに、それがお互いに不可能だと察すると、不機嫌な態度や無言の圧力をかけて、相手を支配し制御しようとする。これは、けっしてよくない結果を生み出すこということを認識したい。

さらに、親の期待が大きければ大きいほど、子どもを責めることになることを認識しておく必要がある。そして、それは本人への直接的な言葉でなくても、子どもを責めてしまうことにも繋がる。例えば、兄や弟が学業やスポーツで優秀な成績を取った場合に、不登校やひきこもりの子の前で誉めることは、無言の期待をかけることになる。また、親戚や知人の子が、優秀な成績で有名高校や著名大学に入ったこと、大企業に入社した話なども、その子の前で言う事は禁物である。優秀な子と比較されることは、自分が責められている事と同じなのである。他と比べるということは、本人を責めてしまうことになるのだ。

最後に、意外だと思うかもしれないが、励ましも本人を益々責めることになるということも認識すべきだ。やがては学校に行けるようになるよ、ひきこもりから復活できるから心配ないよ、という言葉は本人にとって実に残酷なのだということを知らない親が多い。親がこんなに励ましてくれているにも関わらず、実際にその通りに出来ない自分がもどかしく、そして期待に応えられないことに幻滅し、自分が情けなくて益々自分を責めることになる。辛い自分、苦しい自分、情けない自分、責めてしまう自分に対し、親はまるごと共感して、否定せずにそっと寄り添うことが求められる。そうすればやがて、自分を責めなくてもいいのだと自ら思えて、少しずつ自立に向かうことが出来るに違いない。